1944年(昭和19年)インパール作戦、第33師団の進軍。4-2

2024年2月19日第2次世界大戦

第33師団 南方より2方向に分かれてインパールへ進軍開始。
★1944年3/8、 第33師団各突進隊が進軍開始。9-5

第33師団は中突進隊と正面突進隊が、トンザン-シンゲル-ビシェンプール方面からインパールへ向かって進軍を開始した。同時に左突進隊は同方向をマニプール河西方山系に沿って北進した。一方右突進隊は、別方向のカボウ谷地-モーレ-テグノパール-パレルからインパールへ向かって進軍を開始した。
(上新聞)昭和19年4月1日の朝日新聞の写真。「中部緬印戦線 密林を進撃するわが精鋭=陸軍省検閲済」(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

(目次)インパール作戦、第33師団の進軍。4-2

①各突進隊(右、中、左、正面)の進軍と包囲断念。 ②第15軍司令官の督促。第33師団ビシェンプールへ攻撃開始。
③右突進隊(山本支隊)(長 歩兵団長山本募少将)の戦闘。 ④牟田口軍司令官、第33師団に重点を置き、師団長を解任。

①各突進隊(右、中、左、正面)の進軍と英印軍の包囲断念。
「インパール作戦進攻経過概見図」に第33師団の突進隊の進軍ポイント等を書き込んだイメージ図。
第33師団(弓)の各突進隊の編成。

(第33師団各突進隊)
師団長 柳田元三中将。参謀長 田中鉄次郎大佐
右突進隊(長 歩兵団長山本募少将)、歩兵第213連隊(第1大隊欠)、歩兵第215連隊第5中隊、戦車第14連隊(軽装甲車欠)、独立速射砲第1大隊(1中隊欠)、山砲兵第33連隊第2大隊、野戦重砲兵第3連隊(第2大隊、第2中隊欠)、野戦重砲兵第18連隊第2大隊。
この右突進隊は、3/23に第15軍直轄の山本支隊となり、第15師団の吉岡大隊は山本少将の指揮下に入った。
中突進隊(長 歩兵第214連隊長 作間喬宜大佐)、歩兵第214連隊(第3大隊欠)、山砲兵第33連隊第1大隊基幹。
左突進隊(長 歩兵第215連隊長 笹原政彦大佐)、歩兵第215連隊(2中隊欠)、山砲兵第33連隊第3大隊基幹。
(正面突進隊)フォートホワイト守備隊長(工兵第33連隊長八木中佐)、歩兵第215連隊の1中隊、戦車第14連隊の軽装甲車、工兵第33連隊、独立工兵第4連隊基幹。
特に第33師団の各突進隊は、同一の連隊で編成されているわけではなく、他の連隊あるいは他の師団の大隊等でも編成されていた。

元図(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「インパール作戦」より  附図第4「インパール作戦進攻経過概見図」

第33師団
月日 1944年(昭和19年)3/8~。
3/8進軍開始 第33師団はモーレイク、ヤザギョウ、フォートホワイトの線から一斉に進軍を開始した。
右突進隊はモーレイク北方地区から、一部はヤザギョウ付近より行動を開始し、ヤザギョウ-タム-パレル道に沿ってインパールへ突進した。また一部の大隊(歩兵第213連隊第2大隊)を中突進隊の戦闘に協力させるため、モンビー付近を経てヘンタム方面に突進させた。
中突進隊は主力の集結地点カレミョウから3/5前進し、3/8発進地点ヤザギョウからトンザンに向かって突進を開始した。同時に同連隊(歩兵第214連隊)の別中隊(歩兵第9中隊)をシンウからモンラン-トンザン道をトンザンへ突進させた。
左突進隊は一部でフォートホワイト守備隊と連携しムアルベン北方地区を占領した。そして突進隊主力は3/8朝までにムアルベン西方にてマニプール河を渡河し、マニプール河西方山系に沿って北進を始め、シンゲルに向かって進軍した。
(正面突進隊)フォートホワイト守備隊は、左突進隊のマニプール河渡河に協力した後、正面突進隊としてティディムからトンザン方面に北進した。だが正面突進隊は本道に設置されていた地雷の排除や道路改修工事に手間取り、3/17頃トンザン付近に到着した。
3/13 中突進隊(長 歩兵第214連隊長作間大佐)はミンビルにて2方向に分かれ、第1大隊(斎藤大尉)は北方から、第2大隊(小川少佐)は直路トンザンへ向かった。第2大隊は退却する敵を追尾して、3/13夕にはトンザン手前のパイツ占領に向かった。第1大隊も前進を続け、トイトム占領を目指し西進し、3/13夕刻ルンタック(トイトム北方)に進出した。さらに第1大隊の第4中隊は北方へ急進し、マニプール河橋梁北側の5896高地(1797m)占領に向かった。中突進隊長(歩兵第214連隊長作間大佐)は3/13カムザン(トンザン東方約6km)に到着し、第33師団長柳田中将も3/15には同地に到着した。
3/13 左突進隊(長 歩兵第215連隊長笹原大佐)は敵に遭遇することなく北進し、3/13朝シンゲル南方1km付近に進出した。笹原大佐は直ちに第3大隊(末木少佐)をもってシンゲル南方3299高地(1005m)、第1大隊(入江中佐)をもってシンゲル北方4kmの5860高地(1786m)付近を占領させた。この3299高地付近は英印軍の補給基地で、左突進隊は兵器爆薬その他多数の軍需品を押収した。こうして左突進隊は3/13夕刻にはインパール-トンザン道を遮断した。
これにより英印軍第17インド師団は、トンザン-シンゲル間に退路を遮断され日本軍に包囲された。

※英印軍の誤算

英印軍第4軍団長スクーンズ中将は、この日本軍第33師団の行動を本格的な攻勢開始と判断した。そして3/13午後、第17インド師団に対して当初の予定通りインパール平地への撤退を命令した。だが第17インド師団が撤退を開始できたのは翌3/14午後になってしまった。日本軍の進撃は予想を超えた速さだったのである。
そのため第17インド師団は、トンザン-シンゲル間の絶壁にさえぎられた山腹道とマニプール河の峡谷内に縦隊のまま日本軍に退路を遮断され包囲された。第17インド師団は多数の労務者、千数百台の自動車、約2000頭の家畜と共に包囲されたのである。
※英印軍とスクーンズ中将の対応
スクーンズ中将は第17インド師団救援のため、インパールにある第23インド師団の第37旅団を、第254戦車旅団の軽戦車連隊と共にトンザンに急進させ、さらに第49旅団を救援兵力として増派した。
一方包囲された第17インド師団は、トンザン北方高地で頑強に抵抗を開始し、日本軍・中突進隊の第4中隊が占領している5896高地(1797m)と、シンゲル付近の退路を占領している左突進隊の第3大隊に対して激しい攻撃を開始した。
下参考図は現在(2023年)のトンザンからマニプール河へ向かう付近のGoogleマップの地形図。この付近での標高は800mから1400m以上ある。中央の道路(トンザン~シンゲル)の急カーブの連続からも標高差が激しいことがわかる。

3/25、3/26
※日本軍第33師団による英印軍包囲断念と退路開放。そして柳田師団長の意見具申

●トンザン付近の戦闘では、中突進隊(歩兵第214連隊)の第2大隊によるパイツ攻撃が成功せず、第2大隊は転進してトンザンの北方陣地攻撃に向かった。またトイトム占領を目的とした第1大隊も、英印軍による反撃を受けて損害続出の状況に陥ってしまった。転進した第2大隊は3/17に敵の前進陣地を奪取したが、本陣地は頑強な抵抗にあい、数度にわたる夜襲・薄暮攻撃を行ったが奪取に失敗した。さらに5896高地を占領している中突進隊の第4中隊も激しい攻撃を受け始めた。そしてトンザン付近の英印軍の退路は開放された。
●シンゲルの南北2ヶ所でインパール街道を遮断していた左突進隊(歩兵第215連隊)に対しては、3/17以降英印軍が猛攻をしかけた。左突進隊の第3大隊は南方の3299高地からさらに南方の6373高地に移って同地を確保していたが、英印軍(撤退してきた第48インド旅団)が猛攻をしかけた。またシンゲル北方の5860高地付近を占領していた第1大隊に対しては、インパールからの救援部隊である第37旅団、第49旅団が戦車と航空機をもって攻撃を開始した。
●こうしたなか左突進隊(歩兵第215連隊)の第3大隊は6373高地の戦闘で、第9、第12中隊長、第3機関銃中隊長が戦死し、大隊戦力の約半数が死傷し、3299高地に後退した。このとき第9中隊長代理も戦死した。
またシンゲル北方で陣地を構えていた左突進隊(歩兵第215連隊)の第1大隊は、猛攻を受け陣地の一部を突破され、3/20頃には敵戦車のシンゲル進出をゆるした。そして3/23には第1大隊長入江中佐が敵機銃爆撃で戦死した。
柳田師団長の意見具申。
この緊迫した戦況のなか、3/25左突進隊(歩兵第215連隊)隊長笹原大佐は、第3大隊長から再び生文で次のような報告を受けた。

「大隊は暗号書を焼き、無線機を破壊す、大隊は現在地において玉砕せんとす」
(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「インパール作戦」

笹原大佐はこの報告を聞き熟考の上、柳田第33師団長に対し「・・連隊は全員玉砕覚悟で任務に邁進す」と報告した。これを受けた柳田師団長は左突進隊に対して次のように電命した。

「左突進隊は退路を開放してシンゲル以西に撤退するように」と。
(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「インパール作戦」

●そして同日の3/25、柳田師団長はみずから電文を起案し第15軍牟田口司令官に次のような意見を具申した。

インパール平地への進入を中止し現在占領しある地域を確保して防衛態勢を強化すべき」と。
(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「インパール作戦」

※英印軍第17インド師団、インパールへ撤退。
3/26こうして退路を開放された第17インド師団は、数100両の火砲、自動車類と共にインパールへ撤退していった。その際第17師団が残置した故障自動車類は日本軍によって修理され、そのうちの約200両(ジープ・ブルドーザーを含む)をその後の作戦に利用できた。

※日本軍第15軍牟田口司令官の激怒と督促

この柳田師団長の意見具申は牟田口司令官を激怒させた。柳田師団長は3/25に第15軍司令部に対し、英印軍第17インド師団を包囲したと報告し、第17インド師団壊滅の機が到来したと、第15軍司令部を喜ばせていたからである。
●牟田口司令官は第33師団長に対し、すみやかにインパール平地へ急迫するように厳命した。さらに藤原参謀を第33師団に派遣し、師団の実情を調査させ、それ以後のインパールへの突進を督促させた。だが柳田師団長は度重なる消極的な電文で応じたため、第15軍司令部は憤激した。そして「爾後第33師団の指揮は田中鉄次郎参謀長に任す」と打電した。こうして第33師団の指揮の実態は次第に田中参謀長に移り、柳田師団長はただ参謀長の処置を黙認するだけの存在となってしまった。作戦の前から柳田師団長はインパール作戦には反対だったが、ついにここに来て師団長の慎重さは牟田口軍司令官のあせりに火をつけることになった。
※インパール東方より突進中の第15師団の本多挺進隊は、3/28コヒマ-インパール道上のミッション付近に進出して同道を遮断した。同じく第15師団の右突進隊もコヒマ-インパール道に迫りつつあった。

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②第15軍司令官の督促。第33師団ビシェンプールへ攻撃開始。
その後の第33師団、4月から5月。

第33師団は牟田口軍司令官の督促により、シンゲル付近よりインパールに向けて追撃前進を開始した。だが師団の前進目標は、インパールではなくその平地入口にあたるトルボン(チュラチャンプール北方約8km)であった。牟田口軍司令官は、第33師団は統制前進で追撃を行ったと非難した。
※この「統制前進」というのは一歩一歩慎重に前進していくやり方で、牟田口軍司令官にとっては、第33師団の前進の仕方は、期待した強気で果敢な追撃戦とはまったくかけ離れた消極的なものだと非難したのである。
そしてようやく第33師団はインパール手前のチュラチャンプールから2方向へ分かれ、インパール街道のトルボンからビシェンプールへの方向と、もう一方を街道西側山麓からビシェンプールへと進軍を開始した。だがビシェンプールとシルチァールを東西に結ぶ道は、強固な英印軍のインパール防衛ラインとなっていた。

第33師団のインパール攻撃部署とビシェンプール外郭陣地に対する攻撃。
●「第33師団インパール攻撃部署要図」に地名を強調しポイントを記入したイメージ図。 ●「ビシェンプール外郭陣地に対する攻撃要図」に地名を強調しポイントを記入したイメージ図。

元図(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「インパール作戦」より(左図)挿図73「第33師団インパール攻撃部署要図」と(右図)挿図74「ビシェンプール外郭陣地に対する攻撃要図」に、地名強調とポイントを記入したイメージ図。

第33師団
1944年(昭和19年)4月から5月の第33師団
4/6〜 左突進隊(笹原部隊・歩兵第215連隊主力基幹)は4/6チュラチャンプール南方に進出し、トルボンの敵陣地攻撃に向かった。4/8には柳田第33師団長もチュラチャンプール付近に進出した。
笹原連隊長はトルボン攻撃にあたって、インパール街道の東方より歩兵第213連隊第2大隊(砂子田大隊)で攻撃させた。(※この大隊はインパール作戦開始時、右突進隊としてヘンタムへ迂回した部隊。)そして歩兵第215連隊第2大隊(中谷大隊)を西方山地寄りから攻撃させた。そして4/10からトルボンの敵が撤退を始めたので、インパール街道上のビシェンプールへ向かう途上のモイラン地区(4/14)からニンソウコン(4/19)へと進出した。
だがこの部隊は、敵砲兵と戦車による反撃にあい、ニンソウコン以北への進出が困難となってしまった。
4/10〜 笹原連隊主力はチュラチャンプール北方からインパール街道西側山麓寄りに北進し、4/10ライマナイに進出、4/13夜コカダン付近の敵を排除し、4/15朝までにガランジャール前面に進出した。(※このガランジャールはインパール街道上のビシェンプールから西へ伸びる道路上にあり、この道路(シルチァールに至る)は重要な英印軍の防御ラインだった。
笹原連隊主力は4/15〜4/24にわたりガランジャールの敵に対して、連日連夜・夜襲を強行したがことごとく失敗した。
そこで笹原連隊長は、インパール街道方面を歩兵第213連隊第2大隊(砂子田大隊)に委せ、歩兵第215連隊第2大隊(中谷大隊)をニンソウコンから主力方面に抜いて戦力の補強を図った。
第33師団柳田師団長はインパール街道方面に、フォートホワイトから正面突進隊として北進した独立工兵第4連隊(連隊長・田口音吉中佐)と歩兵第215連隊第11中隊を推進させ、田口音吉中佐に歩兵第213連隊第2大隊(砂子田大隊)を併せ指揮させ、師団長の直轄としてビシェンプール方面を攻撃させた。
4/8〜4/24 作間連隊主力(歩兵第214連隊長作間大佐、中突進隊)は笹原連隊より遅れて4/8にチュラチャンプールに進出した。そして同夜師団命令に基づき、第1大隊(長-斎藤満大尉)-連隊本部-第2大隊(長-小川忠蔵少佐)の順で西方山地内に入り北進した。そして4/13笹原連隊に遅れること2日、ライマナイに進出した。そして作間大佐は第2大隊(長-小川忠蔵少佐)を先発させ、ビシェンプール北西高地進出のためタイレンポクピを経てヌンガンに向かわせた。(4/16頃小川大隊はヌンガンに進出し、ビシェンプール及び周辺の敵陣地を射撃した。)そして歩兵第214連隊主力は4/14夜シルチァール道遮断のため北進した。またこの頃作間連隊はシルチァール道上のレイマタク河の橋梁も爆破した。
※このレイマタク河の橋梁は深さ25mの谷にかけられた90mの吊橋で、日本兵3名による特攻攻撃による爆破だった。
●4/16、5846高地南西1.5kmの「森の高地」を、第1大隊(長-斎藤満大尉)の先頭中隊(第2中隊)が突入を試みたが戦車に阻止された。
後続の第1大隊第1中隊は、「森の高地」の東方の「アンテナ高地」に突入してその一角だけは攻略できた。だがこの両隊はビシェンプール方面からの集中砲火を受け、上空からは敵機の攻撃を受けて、前進も後進もできない状態に追い込まれてしまった。
●4/16夜第1大隊長斎藤満大尉は、上記第1中隊と第2中隊を残したまま、大隊主力で5846高地北側へ前進し攻撃を加えた。(注)だが第1大隊長斎藤大尉は偵察中に戦傷を受け戦列を離れたが、後に復帰したが戦死した。
●「森の高地」の敵陣地が急速に強化されるなか、4/18配属山砲2門が到着した(弾数50発のみ)。そこで第1大隊第2中隊と第6中隊が「森の高地」に夜襲をかけ突入したが、死傷者が続出し失敗した。第2中隊は突入前の60名が、伍長以下6名に減った。
●そして4/24作間連隊長は手元にある第1中隊、第2中隊、第9中隊の残兵190名で、15センチ榴弾砲1門と山砲5門の支援のもとに森の高地を力攻した。だがこの攻撃も頓挫し、大きな損害を受けて失敗した。
第33師団 第33師団柳田師団長は、歩兵第214連隊(作間連隊)と歩兵第215連隊(笹原連隊)の連日の戦闘による戦力の急速な低下に対して、歩兵第214連隊第3大隊(長-田中稔少佐)を前線に送った。この第3大隊はハカ・ファラムの守備に任じられていた部隊である。
●そして第33師団柳田師団長は、第15軍司令官から天長節(4/29)までにインパールを攻略せよとの強い要求により、4/26以降ガランジャールに対する総攻撃を開始した。作間連隊の第1大隊(斎藤大隊)を笹原連隊に配属しガランジャールの背後から攻撃させ、笹原連隊の第1大隊と第3大隊で南方から攻撃させた(第2大隊は予備)。また同時に作間連隊には「森の高地」の攻略を命じた。だが笹原連隊と作間連隊の攻撃はともに失敗した。笹原連隊はさらに4/30に予備隊を投入して、5/1まで反復攻撃を行ったがこれも失敗した。これらの結果、笹原連隊の総員は500名を割り、戦闘に堪えられるものはさらにその3分の2となってしまった。
一方インパール街道上のビシェンプールへ向かう田口音吉中佐の部隊(独立工兵第4連隊、砂子田大隊、笹原連隊第11中隊)は途上のニンソウコンから攻撃前進し、ポッサンパム(ビシェンプールの手前)を占領した。
だが5/7以降英印軍の反撃が開始され、5/14と5/15には戦闘機と爆撃機約80機による絨毯爆撃をうけた。そして地上では同時に戦車による攻撃を受け、部隊はポッサンパムを放棄しニンソウコンに後退した(5/15)。

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③右突進隊(山本支隊)(長 歩兵団長山本募少将)の戦闘。
右突進隊(長 歩兵団長山本募少将)の戦闘3月〜5月。

右突進隊は第15軍内の各突進隊中、戦車や重砲装備を備えた唯一の突進隊だった。第33師団は、英印軍の有力な装甲部隊や火力装備部隊と最初に戦う場所はカボウ谷地付近と考え、右突進隊に戦車や重砲装備を備えさせたのである。そしてタム以南の平地で敵を撃滅後一気にタム-パレル道からインパール方面に突進しようと考えたのである。
※右突進隊装備は、中・軽戦車30数両、速射砲8門、山砲12門、15榴8門、10加8門を増加され、弾薬補充も地形上からも十分補給できた。
3/23右突進隊は軍直轄の山本支隊となりパレル攻略に向かった。
だが英印軍はパレル手前のテグノパールに強固な外郭陣地を築いていた。山本支隊はこの強固に作られた防衛陣地群に対して繰り返し攻撃を行い、死闘を繰り返した。
インド国民軍、山本支隊両翼へ展開開始。
4/5チャンドラ・ボースは、第15軍司令部のメイミョーに進出して、自ら第1線のインド国民軍を指揮する態勢を整えた。そして4/20インド国民軍を山本支隊の両翼に展開してインパール作戦参加を命じた。キャニー中佐の指揮するガンジー連隊を山本支隊の南翼へ、グズ・ザラ・シン中佐のアザード連隊を北翼へ展開させた。
※下記で、ちょうどこの時この場所で従軍した丸山静雄著「インパール作戦従軍記」2017第11刷(1984第1刷)からも引用した。この著作ではインド国民軍とのエピソードも書かれている。

右突進隊(山本支隊)のインパール進軍と軍隊区分。
●「山本支隊行動概見図」に地名を強調しポイントを記入したイメージ図。
右突進隊(山本支隊)の軍隊区分。

山本支隊(長 歩兵団長山本募少将)
旅団司令部
歩兵第213連隊本部。歩兵第215連隊第5中隊。
伊藤部隊
(長 歩兵第213連隊第3大隊長 伊藤新作少佐)
歩兵第213連隊第3大隊。山砲兵第2大隊。工兵1小隊。
伊藤新作少佐は、第1次アキャブ作戦時ドンベイク方面の戦闘で勇戦し、第15軍司令官飯田祥二郎中将から感状を授与された。伊藤新作少佐は、歩兵第213連隊長宮脇大佐が2月に入院したため連隊長代理を勤めた。
光井支隊
(長 野戦重砲兵第3連隊長 光井一雄中佐)
歩兵第213連隊第7中隊、第8中隊。戦車第14連隊。独立速射砲第1大隊(1中隊欠)。野戦重砲兵第3連隊(第2大隊、第2中隊欠)。野戦重砲兵第18連隊第2大隊。工兵1中隊(2小隊欠)。
吉岡大隊
(長 歩兵第60連隊第1大隊長 吉岡忠典少佐)
歩兵第60連隊第1大隊(第3中隊欠)。山砲1門。工兵の1部。
右突進隊は、3/23に第15軍直轄の山本支隊となり、この第15師団の吉岡大隊は山本少将の指揮下に入った。

元図(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「インパール作戦」(ビルマの防衛)挿図第62「山本支隊行動概見図」

山本支隊
1944年(昭和19年)3月から5月までの山本支隊。
3/11-3/19 右突進隊はカボウ谷地を北上し、タム南方約30kmにあるウイトック前面に進出した。この一帯(西4kmモウも含め)は英印軍が占領していたが、右突進隊は3/13モウを占領し、3/19早朝までにはウイトックを完全に占領した。
3/15 伊藤部隊(長 歩兵213連隊第3大隊長伊藤新作少佐) ここで山本少将は、当面の敵がウイトックから近く退却するものと判断し、3/15伊藤部隊を、タム、モーレへ向かう本道の西側の山道を、タム-パレル道遮断のため挺進させた。
3/20 光井支隊(長 野戦重砲兵第3連隊長光井一雄中佐)を山本少将はタムに向かって前進させた。
そして山本少将は自ら旅団司令部、歩兵第213連隊本部、歩兵第215連隊第5中隊を率いて伊藤部隊の進路を前進した。
3/21 吉岡大隊(歩兵第60連隊第1大隊《第3中隊欠》、工兵《1部属》)は第15師団の左側支隊であり、ミンタ付近で第15師団の左側背を掩護する任務でカボウ谷地を北東より進出中だった。そこで第15軍司令官はモーレ付近の敵をその背後から攻撃するように第15師団に命令した。
3/23右突進隊は軍直轄の山本支隊となる。第15師団の吉岡大隊は山本少将の指揮下に入った。
3/21~ 伊藤部隊は山中を挺進し、3/21アンブレッシュに到着した。伊藤部隊はシボン橋梁を攻撃してパレル街道を遮断する計画だったが、偵察の結果チャモルへ向かって転進した。一方山本少将(3/23より第15軍直轄の山本支隊長)は光井支隊に3/25モーレ陣地攻撃を命じた。また同時に吉岡大隊(3/23山本支隊の指揮下に入る)をモーレ北方からの攻撃を中止させ、モーレ北北西約20kmのシタチンジャオ方面へ転進を命じた。これにより吉岡大隊は敵陣地の側背に進出するため遠く独立して行動した。
3/26~ モーレの英印軍第20インド師団の第33旅団は、3/26よりパレル方面に撤退を開始した。英印軍は、日本軍による退路遮断攻撃にもかかわらず、4/1の夕刻までにほとんど無傷でパレルに後退集結した。これにより山本支隊はタム-パレル道を前進し、伊藤部隊をも掌握して4/5テグノパール前方に進出した。この一帯はパレルの外郭陣地として堅固に編成されており、見渡す限りの高地は全て英印軍の陣地だった。
4/8 山本支隊長は4/8テグノパール陣地に対する攻撃命令を下達した。

山本支隊のテグノパール防衛陣地群に対する攻撃と軍隊区分。
●「テグノパール陣地攻撃要領図」に地名を強調しポイントを記入したイメージ図。
「山本支隊軍隊区分」

山本支隊長は4/8テグノパール陣地に対する攻撃命令を下達した。攻撃のための軍隊区分は次の通りである。
伊藤部隊
(長 歩兵第213連隊第3大隊長 伊藤新作少佐)
歩兵第213連隊(第1大隊欠、第2大隊欠)。山砲兵第2大隊(第6中隊欠)。
歩兵第213連隊第3大隊長伊藤新作少佐は、連隊長代理を勤めていた。だが山本支隊長は伊藤新作少佐の攻撃ぶりが不満で後に解任した。後任は温井大佐で6/12に着任した。
戦車隊
(長 戦車第14連隊長 上田信夫中佐)
戦車第14連隊。独立速射砲第1大隊(第3中隊欠)。
砲兵隊
(長 野戦重砲兵第3連隊長 光井一雄中佐)
野戦重砲兵第3連隊(第2大隊、第2中隊欠)。野戦重砲兵第18連隊第2大隊。
工兵隊
工兵1中隊(1小隊欠)。
予備隊
歩兵第215連隊第5中隊。
吉岡大隊
(長 歩兵第60連隊第1大隊長 吉岡忠典少佐)
歩兵第60連隊第1大隊(第3中隊欠)。山砲1門。工兵の1部。

元図(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「インパール作戦」(ビルマの防衛)挿図第75「テグノパール陣地攻撃要領図」と挿図82「山本支隊戦闘概見図」

1944年(昭和19年)3月から5月までの山本支隊。
4/8~ 伊藤部隊は4/8夕刻よりテグノパール陣地に対する攻撃を開始し、砲兵隊による20分間にわたる攻撃準備射撃に引き続いて突入したが失敗した。だがさらに執拗に夜襲を反復した結果、4/11に石切山、4/12に三角山を占領し、4/14には後方の摺鉢山と掩蓋山を攻略できた。
4/11 第11中隊(前島中隊)玉砕。前島中隊は3月末に伊藤部隊がチャモルへ転進したとき、伊藤少佐の命令によってテグノパール南東方高地に派遣され、3/26にこの高地(前島山)を占領した中隊だった。そして中隊は孤立無援の戦闘を続け、前島山を死守し激戦の中で4/11玉砕した。英印軍は同中隊の勇戦ををたたえてこの高地を日本山と名付け、日本軍は中隊長の名から前島山と呼んだ。
※丸山静雄著「インパール作戦従軍記」には、この玉砕の部隊には6名の生き残りがいて、支隊本部で彼らから話を聞かせてもらったとある。「玉砕」とあっても必ず生き残りがいる。

「・・・6名の顔は生気を失い土色だった。「玉砕」の真相を話してくれたが、声は低く、ポツリポツリと途絶えがちで地獄の底から伝わってくる亡者のささやきのようだった。・・・・」
丸山静雄著「インパール作戦従軍記」

●4/16伊藤部隊は砲撃開始と共に果敢な攻撃を行い再度前島山を占領した。

4/21 伊藤部隊は戦車連隊主力の協力のもとに後方陣地の一軒家高地を攻撃し、4/21夜半同高地を占領した。だがこの時の攻撃では、戦車連隊はその能力を発揮できず、山本支隊長は戦車隊に戦意なしと怒った。これに対して戦車隊も山本支隊長がよく地形も知らずに、いたずらに戦車隊を死地に投入すると不満を訴えた。伊藤部隊の戦力は激減しており、4月中旬には山本支隊の突撃戦力はわずか80名となっていた。
4/28 吉岡大隊はシタチンジャオから遠くクデクノーを経てパレル北東高地のランゴールに進出し、4/28同地を占領した。だがこれに呼応して本道方面から攻撃をすべき伊藤部隊は戦力低下のため突撃できずに終わった。
山本支隊長は伊藤少佐を督励して更に攻撃再行を命じた。だがこの頃、伊藤連隊長代理は山本支隊長の強引な戦闘指導(歩兵のみによる正面からの力攻め)に反発しており、その旨を支隊長に進言したこともあり両者の関係は冷却していた。丸山静雄著「インパール作戦従軍記」では、この頃の様子が描かれている。

「・・その頃、一つの瘤をとるのに一回の突撃で成功したことはなく、二回、三回と反復して辛うじて瘤の一角にとりつく有様だった。支隊長の命令は峻烈で、一度、攻撃を命ずると、目標陣地を奪取するまでは同じ部隊に突撃を命じた。攻撃に失敗すると、指揮官は支隊本部に呼びつけられ、『反省のテント』のなかで謹慎を命じられた。このテントは、わたしのテントから30メートルほど先に張られた小さなもので、次々に指揮官がいれられるところから、わたしは『反省のテント』と呼んでいた。薄暗いテントのなかで、指揮官は幾日も一人黙然と静座し、やがて『最後の突撃』をいい含められ、悄然と前線にもどってゆくのであった。・・・・・」
丸山静雄著「インパール作戦従軍記」
5/7~ 山本支隊長、伊藤大隊長を解任。山本支隊長は伊藤少佐に不満で、歩兵第213連隊本部を副官の谷津大治郎大尉に指揮させた。伊藤少佐は4562高地を攻撃、谷津部隊は川道山を攻撃したが両方とも失敗した。谷津副官は負傷し、伊藤少佐は4562高地攻撃失敗の後に解任され、古参の中隊長井上大尉が伊藤部隊の指揮を執った。
5/7 吉岡大隊、ランゴール放棄。吉岡大隊は5月に入るとインパール方面からの敵の猛攻を受けるようになった。そして5/7には優勢な爆撃機、重砲などの支援下に約3000~4000の攻撃を受けてランゴールを放棄した。山本支隊長は吉岡大隊をクデクノーに後退させたが、さらにテグノパールまで後退させた。
5/10~5/15 山本支隊長は伊藤部隊(第3大隊・井上大尉)に5/10を期して4562高地の奪取を命令した。井上大尉は谷津部隊に川道山を攻撃させ、自身は第3大隊を指揮し4562高地に突入し、同高地を占領した。だがこの攻撃は奇襲突撃であったために、背後に残された敵の掃討に5/15までかかった。第3大隊の戦力はついに35名となってしまった。
5/11 第15軍司令官は軍の重点をビシェンプール方面に指向するため、5/11の軍命令によって山本支隊から野戦重砲兵第18連隊第2大隊と戦車第14連隊を抽出した。山本支隊の戦力は激減したが、支隊長は残存兵力をもってなお攻撃続行に勤めた。
5/19〜5/24 山本支隊長は4562高地より前方の二子山と5185高地(ライマトルヒル)の攻撃を命じた。ライマトルヒルはテグノパールへ後退中の吉岡大隊に攻撃させ、二子山へは新たに山本支隊に増強された武村大隊(第15師団の歩兵第51連隊第2大隊)に攻略させた。この攻撃は成功し、5/19未明武村大隊は井上部隊及び砲兵、工兵支援のもと二子山陣地へ突入しこれを占領した(だが大隊長武村大尉は戦死した)。一方の吉岡大隊は5/19にライマトルヒル北側に前進し、5/24未明、同高地に突入しこれを占領した。
武村大隊は、前に歩兵第67連隊主力と共にタイ国から第15師団を追及中に、ウインゲート空挺兵団攻撃のために第15軍直轄となっていた部隊。
だが、天明(夜明け)を迎えると英印軍は優勢な砲火を集中して反撃を開始した。やがて英印軍は突入を開始し白兵戦となり激戦が夕刻まで続いた。この戦闘の結果吉岡大隊は、大隊長以下218名が死傷し、わずか50名だけが残った。ライマトルヒルは奪回されてしまった。山本支隊は、その先のパレル本陣地を攻略できず、戦力を尽き果たしてしまった。

※丸山静雄著「インパール作戦従軍記」では、山本支隊長についての話も書かれている。師団長クラスの将軍の日常である。

・・・そのころ、支隊長は尾根かげの、そのあたりではもっとも安全といわれた地点に横穴式の壕を掘り、周囲を幾重にも石で囲み、その前にテントを張って司令部としていた。ピンと、はね上ったヒゲが自慢らしく、いつも先を指でひねっていた。副官の報告を受けているときでも、英印軍の砲撃を聞くと、支隊長は報告をそのままにしてすばやく壕に飛びこんだという。
 将軍はめったに、この安全な「司令部」から外に出なかった。わたしが前線にあった2、3か月の間に将軍が外に出たのは、1回だけだったように記憶している。しかも、それは将軍より上級の将軍が「前線」視察に来たのを案内するためであり、第1線のよく見える山頂にまで足を運んだにすぎなかった。
 将軍は「司令部」から外に出ない理由を「将軍は危険をおかしてはならない」「将軍は血を目にすべきではない。それによって憐憫の情をおこし、指導統率にためらいが出るようなことがあってはならない」からだといった。・・・・
丸山静雄著「インパール作戦従軍記」

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④牟田口軍司令官、第33師団に重点を置き、師団長を解任。
第15軍牟田口司令官、ビシェンプール方面へ重点を指向する。4月末~

第15軍牟田口司令官、ビシェンプール方面からインパール突入断行を決意。
牟田口第15軍司令官は、天長節(4/29)までにインパール攻略をめざし、4/21を期してインパール総攻撃を決行しようとした。だが各師団の前線の状況は厳しく、いくら督戦を行ってもインパール突入は至難であると考えた。
そこで牟田口司令官は、唯一ののぞみである第33師団が担当するビシェンプール方面に重点を形成し、インパール突入を断行しようと決めた。その手段は下記の通りであった。

1、山本支隊から戦車、重砲を抽出。
(戦車第14連隊。野戦重砲兵第18連隊第2大隊)
2、ビルマ方面軍から新たに軍に増強された兵力の全てを、ビシェンプール方面に転用して第33師団に配属する。
3、第15軍戦闘司令所をビシェンプール方面に推進し、軍司令官自ら督戦にあたる。
4、(重要)第33師団長柳田元三中将の更迭を決意。

ビルマ方面軍河辺司令官と第15軍牟田口司令官の戦局打開の方策の相違。
ビルマ方面軍河辺司令官の方策はビシェンプール方面ではなく、山本支隊のパレル方面からインパールを突破することだった。その大きな理由は、万一インパール作戦が失敗し戦線整理を余儀なくされた場合、その軸心は山本支隊方面にあると考えたからであった。もしこの方面が英印軍に突破されてしまうと、全線が崩壊してしまう危険があったからである。
だがビルマ方面軍河辺司令官は軍の指揮系統錯乱をおそれ、第15軍牟田口司令官の方針(ビシェンプール)を認めた。

月日 方面軍から第15軍に兵力増強
4/30第28軍に抽出転用を命じる。 第28軍(アキャブ方面)の第54師団・歩兵第154連隊第2大隊(長-岩崎勝治大尉)(=ダンガップ地区防衛)と野砲兵第54連隊第1中隊(=チェドバ島)をインパール方面に転用。5月下旬ビシェンプール方面に進出し、第33師団長の指揮下で戦闘。
5/14第33軍に転用を命じる。 第33軍(フーコン・ミイトキーナ・怒江方面)の第53師団・歩兵第151連隊(第1大隊欠。連隊長-橋本熊五郎大佐)を転用。5月下旬チュラチャンプールに到着後、第33師団長の指揮下にはいり、ビシェンプール付近の戦闘に参加。
5/5第15軍に復帰を命じる。 第15師団・歩兵第67連隊第1大隊(第1、第3中隊欠。長-大隊長瀬古三郎大尉)を第33軍司令官の指揮下から第15軍に復帰させた。この部隊もビシェンプール付近の戦闘に参加。
山本支隊に復帰させる。 アキャブ方面で第2次アキャブ作戦に参加した第33師団・歩兵第213連隊第1大隊(長-久保正雄少佐)を作戦終了後に山本支隊に復帰させた。この大隊は7月下旬に復帰した。
南方軍・5月中旬ビルマに増強。 スマトラにある第4師団・歩兵第61連隊(1大隊欠。連隊長-佐藤源八大佐)をビルマに増強。7月下旬山本支隊に到着。

※5/2南方軍はパレンバン(スマトラ島)の防空戦闘隊1コ戦隊(飛行第87戦隊)のビルマ転用(第5飛行師団への増強)を発令した。だが5/19パレンバンが敵機動部隊の空襲を受けたため、ただちにビルマから引き揚げられた。

第33師団長柳田元三中将更迭。

在タイ国独立混成第29旅団長・田中信男少将を後任の「第33師団長心得」として任命
牟田口司令官の第33師団長柳田元三中将に対する不信の念は、トンデン-シンゲル戦以来深まる一方だったのである。
5/9、牟田口司令官は方面軍司令官、南方軍総司令官、陸軍大臣にあて柳田元三中将更迭に関する電報上申を行った。
(方面軍司令官も同意する旨各上司に打電した。)
5/10、この緊急上申に対して中央の措置は迅速に行われ、田中信男少将に対して上記内命が発せられた。
5/13、バンコクにいた田中信男少将は、ラングーンに飛行機で飛び、河辺方面軍司令官に申告、各参謀から戦況の説明を受けた。
5/15夕、インダンギーの第15軍戦闘司令所に到着(牟田口司令官は既にモローに前進していた。)
5/18夜明け前、軍参謀らとチュラチャンプールに到着。戦闘指導を行った。
5/22、軍参謀、師団参謀らとモローの第15軍戦闘司令所に到着、牟田口司令官に申告を行い、日没時に出発。
5/22夜半、サドの第33師団司令部に到着した。
5/23、柳田中将より申し送りを受ける。その説明はすべて悲観的で柳田中将は次のように語った。

「戦況は刻々不利で今や全滅は時間の問題」と
「戦史叢書」朝雲新聞社「インパール作戦」(ビルマの防衛)

英印軍の反撃開始と第33師団5/17以降

この頃から新たに第33師団に増強された諸部隊が、続々とチュラチャンプールに向かって前進してきた。5/18夜半、その先頭の瀬古大隊(歩兵第67連隊第1大隊主力)がチュラチャンプールに到着した。
その5/18夜明け前には新師団長田中信男少将も同地に到着していた。だが英印軍の反撃が始まった。

月日 1944年(昭和19年)5月17日~トルボン隘路口の戦闘。
5/17正午ごろ、英印軍(約2000~3000名)がトルボン本道付近を占領。 5/18田中師団長は輜重兵第33連隊長松木熊吉中佐からトルボン付近の敵情についての報告を受けた。その内容は、5/17夜、輜重兵第33連隊長は配属された兵器勤務隊(約50名)で本道沿いに攻撃を行い、その掩護下に自動車輜重1小隊をモイラン(トルボンとニンソウコンの中間)までの強行補給を試みたが、強固な英印軍陣地(蜂ノ巣陣地)によって全滅ちかい損害を受けた、というものだった。
5/19瀬古大隊攻撃開始。 田中師団長は、直ちに到着した瀬古大隊を輜重兵第33連隊長の指揮下に入れ、攻撃を命じた。5/19未明、大隊は敵陣地に突入したが、まず大隊長が戦死、その他中隊長以下多数の死傷者を出して攻撃は失敗した。攻撃兵力約150名中戦死52名、負傷20名、将校では中隊長の金子中尉がただ1人残った。
さらに5/20払暁(明け方)、金子中尉は残存兵力をもって再攻撃を行ったが失敗した。この結果戦闘に堪え得る人員は金子中尉以下19名に減った。
5/21~5/24岩崎大隊の攻撃 その後岩崎大隊(歩兵第154連隊第2大隊)と戦車第14連隊が到着した。5/23に岩崎大隊は戦車(4両)等の支援を受けて敵陣地の一部に突入したが、集中火を浴び後退した。そして5/24払暁を期して戦車第14連隊全力(約20両)の支援を得て再攻撃を準備した。
ところがその日の夜半、トルボン付近の英印軍は北方に退却した。岩崎大隊は直ちに敵陣地に突入して、8日目にしてその後方連絡線を打通することができた。
だがこの間の戦闘で、瀬古大隊は大隊長以下死傷して約40名となり、岩崎大隊は大隊長負傷して約100名となった。
5/31戦車第14連隊の攻撃。 その後戦車第14連隊長(連隊長は上田信夫中佐から井瀬清助大佐に代わった)は、戦闘で大損害を被った瀬古大隊と岩崎大隊の両大隊を指揮し、インパール街道上を北進し、5/31夕、敵の包囲網を突破し、ニンソウコンの田口部隊(独立工兵第4連隊)を救援した。それ以後、井瀬大佐は田口部隊も併せ指揮して井瀬支隊となり、ビシェンプール攻撃を準備した。

英印軍反撃開始、第33師団を分断する三つ瘤高地を占領。
●「ビシェンプール外郭陣地に対する攻撃要図」に地名等を強調したイメージ図。 ●「三つ瘤高地攻撃概見図」に地名等を強調したイメージ図。

元図(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「インパール作戦」より(左図)挿図74「ビシェンプール外郭陣地に対する攻撃要図」と(右図)挿図81「三つ瘤高地攻撃概見図」

作間連隊、ビシェンプール北方からの攻撃5/19~。

4/16、作間連隊第2大隊(小川大隊)はビシェンプール北方のヌンガンに進出していた。作間連隊の任務は、英印軍の補給を遮断し、ビシェンプールを背後から攻撃し、笹原連隊のガランジャール東方高地への攻撃を支援することだった。
作間連隊長は師団命令に基づき、第1大隊を北方からビシェンプールに突入させ、第2大隊を2926高地(約892m、ビシェンプール北東方約10km)の攻略に向かわせた。
師団長は既に第3大隊(長-田中稔少佐)に対して主力方面に追及を命じていたが、大隊長に問題があった。第3大隊が前戦に到着したのは6月にはいってからであった。

月日 1944年(昭和19年)5/19~作間連隊
5/19 第1大隊(長-森谷勘十大尉-軽機関銃5、重機関銃2、兵力約380)は5/19にヌンガン付近を出発、20日0200ごろビシェンプール市街北端に突入した。そして壮烈な白兵戦の中で市内三叉路を固守して奮戦したが、戦車を含む英印軍の反撃が始まり、多くの将兵が死傷し玉砕した。
5/24 第1大隊の追及兵約70名が連隊本部に到着した。そこで作間連隊長は連隊本部附・山守恭大尉にこれを指揮させ、再度ビシェンプール突撃を命じた。5/26山守大尉はビシェンプールに突撃し奮戦したが、部下と共に壮烈な玉砕を遂げた。
~5/21 第2大隊(長-末田光大尉-軽機関銃6、重機関銃3、連隊砲1、山砲3、兵力約500名)は英印軍の第1線を突破し、2926高地の頂上を目指して突進したが、激しい銃砲火をうけて高地の中腹で攻撃は頓挫した。そのうちに敵戦車の攻撃も始まり、第2大隊は山頂と山麓から挟撃をうけ5/21に山裾に追い落とされた。だが第2大隊はその後9日間にわたり孤軍奮闘したが玉砕した。
敗戦状況 その後ビシェンプール方面と2926高地方面からは、生き残った兵隊たちがヌンガンに戻ってきた。結局、第1大隊は380名中360名を失い、第2大隊は500名中460名を失ったといわれる。

笹原連隊、三つ瘤(こぶ)高地への攻撃。
月日 1944年(昭和19年)5月19日~
5/19英印軍の出撃 笹原連隊(歩兵215連隊)は5/19を期して、主力をもってガランジャール東方高地に重点を指向して、敵陣地を攻撃する計画だった。
ところが英印軍は突如笹原連隊の背後、カアイモール北方の稜線とトッパクール西方鞍部(三つ瘤高地)に出撃し陣地を構築した。
5/20〜笹原連隊の対応 当初は1000名前後の英印軍兵士が三つ瘤高地に進出していたが、その兵力は逐次増加され陣地も鉄条網が張りめぐらされ強化されていった。
そこで笹原連隊長は5/20「森の高地」を攻撃中の第2大隊を反転攻撃させ、また第1大隊にカアイモールの敵を北方から攻撃させた。だが攻撃は失敗した。そのため連隊長はやむなくガランジャール攻撃中の第3大隊を反転させ、第2大隊の右に増加させた。
5/22新師団長田中少将着任(師団司令部) 田中師団長は1拠点ごとに諸戦力を結集して攻撃する方針をたて、ニンソウコンから砂子田大隊を転進させ、カアイモールの敵に対する攻撃を準備させた。
カアイモールへの攻撃 笹原連隊第1大隊は北方よりカアイモールの敵に第4回目の夜襲を決行したが失敗した。5/25砂子田大隊が南方より夜襲をかけ敵陣地深く突入したが、中隊長2名を含む38名の死傷者出し、やむなく後退した。
三つ瘤高地への攻撃 笹原連隊主力による攻撃は5/28まで続けられたが、ことごとく失敗した。このころの笹原連隊の戦力は、中隊の人員が2名~7名のものもあり、1コ大隊で40名内外となっていた。

5月末の第33師団の状況と田中師団長の日記

作間連隊の両大隊はビシェンプールと2926高地に突入してほとんど全滅状態にあった。さらに笹原連隊の戦力も尽きようとしていた。師団司令部と笹原連隊の連絡は敵の出撃によって遮断され、師団司令部の前方600mの三つ瘤高地は敵に占領され、司令部付近には間断なく銃砲弾が落下していた。

田中信男師団長5/29の日記
「木下軍参謀と協議し2926高地既に玉砕せる現況にありては根本的に建て直しの必要を認め師団は玉砕か持久健在かの岐路につき色々研究す。玉砕 素(もと)より辞せざるも師団が全滅せば軍は如何になるや。軽々に決しかねる重大事なり。各部隊の戦力頓(とみ)に低下し唯(ただ)気力のみを以て現状を維持す。森谷大隊はビシェンプールにて玉砕し、末田大隊また2926高地を9日間死守したるも既に潰滅(かいめつ)の悲運迫る。今や作間連隊は本部を残すのみ。一方笹原連隊は入江大隊(第1大隊)の100名を唯一の戦力とし他は全く戦力なし。之に漸く田中大隊(200名)の追及と岩崎、瀬古両大隊到着せるも150名に足らず。之を以て攻撃を持続せば師団は玉砕あるのみ。依(よっ)て一時持久を策し適時随所に敵の砲迫(砲兵、迫撃砲)を奇襲して爾後の攻勢を準備する以外手なし。作間、笹原両連隊は之を後退せしむることなく現位置を確保しサド高地の拠点を強化し、平地方面では岩崎大隊をしてニンソウコンを死守せしむることとせり。木下参謀に遺言を託す」と誌した。
(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「インパール作戦」

●6/2牟田口第15軍司令官は田中師団長と会見し、ビシェンプール方面の作戦指導を田中師団長に託し、モローの第15軍戦闘司令所を撤退してインダンギーに転進した。軍の攻勢が失敗したため改めてパレル方面近くに戦闘司令所を移すためだった。だが軍の増援部隊は既にビシェンプール方面に注ぎ込んでおり、もはや山本支隊方面に重点を形成する余力は無かった。

5/31調査、第33師団の戦死・戦傷・戦病の結果。

(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「インパール作戦」

項目 人数(名)
第33師団主力方面
戦死 (将校)103。(准士官以下)1,207。
戦傷 (将校)155。(准士官以下)2,407。
戦病  3,544。(入院)2,500。
 7,416。
山本支隊方面
戦死・戦傷  2,036。(内 将校104)
戦病  1,390。
 3,426。
(総計) 10,842。 

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第2次世界大戦

Posted by hoshino