日本軍とビルマ独立運動、インド独立運動。

2023年4月16日第2次世界大戦

日本軍はビルマ独立は認めず、インド独立には支援と協力を行った。
ここではイギリス植民地下のビルマと、同じくイギリス植民地下のインドについて、それぞれの歴史とイギリスに対する独立運動について概略を記述した。ビルマではバモオ博士とアウンサン、インドではガンディーとチャンドラ・ボースについて主に記述した。ここで注目されるのは、日本軍の特務機関(謀略・宣伝・工作など)の存在である。日本軍による対英戦争は、戦闘だけではなく、ビルマ、インドの独立運動を支援するという形で謀略工作も行っていたのである。
 ビルマについては、1941年(昭和16年)2/1、陸海軍協力して大本営直轄の「南機関」というビルマ謀略機関を設置し、バンコク(タイ)に進出し同地に本拠を置き活動を開始した。
 インドについては、1941年(昭和16年)7月陸軍参謀本部は、対米英開戦前の緊迫した情勢の中で、マレー方面に対する工作準備専任の1機関をバンコクへ派遣した。この機関が「F機関」である。
 だが一方でビルマ早期独立を求める「南機関」とそれを拒否する南方軍との軋轢もあった。また日本軍とインド独立運動との関わりの中で、1番重要な存在だったのは、インド独立の志士チャンドラ・ボースだった。
上写真右がインド独立の志士チャンドラ・ボース。左がビルマ独立の志士オンサン(=アウンサン)。(写真出典)「世界の歴史15」中央公論社1963年8版発行。

★大東亜共栄圏とビルマ。イギリスによるビルマ併合と植民地下のビルマの歴史 5-1

日本の戦争目的は「大東亜の新秩序建設」から「大東亜共栄圏建設」へと変わる。そして英国の屈伏を図るために、「ビルマ」の独立を促進し、其の成果を利導して印度の独立を刺戟(=刺激)する、とした。さらに日本は、もしビルマが「大東亜共栄圏建設」の一翼として協力するなら、独立の栄誉を与える、としたのである。
●だがこの「大東亜共栄圏建設」というのは、欧米からのアジアの解放という意味で使われたが、実際には、日本が占領した南方諸地域で行ったことは苛烈な資源と労働力の収奪であり、アジアの解放などではなかった。

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★ビルマ・ナショナリズムの台頭。ビルマ独立運動(バモオ博士とアウンサン)と日本軍。5-2

1937年4月、ビルマ統治法が施行され、ビルマ州はインド帝国から分離され、イギリスの直轄植民地である英領ビルマとなった。この統治法により、ビルマ総督が下院のなかから首相を任命し、その首相が総督の補佐機関として内閣を組織できるようになった。この時初代首相に指名され史上初めてビルマ人内閣を組閣したのがバモオ博士だった。博士は前年(1936年)に行われた総選挙で下院議員に当選していた。

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★イギリスによるインド植民地支配。カースト制。インド大反乱とその後。5-3

イギリスによるインド植民地支配の始まりは、今から250年以上も前のことである。18世紀(1765年)イギリスの東インド会社が、ムガル帝国のベンガル州とその北西のビハール州両州を植民地化したことから始まった。その後東インド会社は、直轄領土をベンガル管区、マドラス管区、ボンベイ管区と広げた。そして1784年には、ベンガル知事がベンガル総督に格上げされ、マドラス管区、ボンベイ管区を統括した。ここでは「新版世界各国史・南アジア史」山川出版社2004年刊などから概略や要点を書きだした。

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★インド国民会議(派)とガンディーによる非暴力・不服従運動。5-4

1915年ガンディーは22年に及ぶ南アフリカでの活動を終え、インド国民会議派の要請を受けインドに帰国した。彼の南アフリカでの功績は、インド人の権利を守るため「サッティヤーグラハ(satyagraha)」運動を創造したことである。この運動は、真理(satya)と非暴力(syanti)によって生まれる力を主張(agraha)・堅持するというような意味であり、「非暴力によるイギリスに対する不服従を行う抵抗運動」であるといえる。非暴力というと消極的な抵抗運動に感ずるが、ガンディーが行った行動は、積極的な非暴力による徹底的不服従といえるものだった。インドでガンディーが1917~1918年に行ったこの運動で有名なものは、ビハール州で行った農民運動やグジャラート州の労働運動などがあった。ガンディーはこれらの運動で成功をおさめ、インドの貧しい民衆にとって新たな指導者として登場したのである。

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★日本軍の対インド工作。インド独立運動とチャンドラ・ボース。5-5

日本軍によるマレー作戦(1941年12月8日~)において、F機関(藤原岩市機関長)は、英印軍のなかのインド兵に対して反英宣伝工作を行った。このF機関は陸軍参謀本部による対インド工作を目的とした情報工作機関だった。そしてF機関は1942年1月末頃には約3000人からなるインド独立のためのインド国民軍の母体を作り上げた。そしてシンガポール陥落(1942年2月15日)において降伏した4万5千人にも及ぶインド兵を収容し、インド国民軍の誕生に貢献した。ここでは戦史叢書「マレー進攻作戦」、「ビルマ攻略作戦」、「インパール作戦」朝雲新聞社から、要約抜粋した。

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第2次世界大戦

Posted by hoshino