日本軍とビルマ独立運動、インド独立運動。
2023年4月16日第2次世界大戦
ビルマについては、1941年(昭和16年)2/1、陸海軍協力して大本営直轄の「南機関」というビルマ謀略機関を設置し、バンコク(タイ)に進出し同地に本拠を置き活動を開始した。
インドについては、1941年(昭和16年)7月陸軍参謀本部は、対米英開戦前の緊迫した情勢の中で、マレー方面に対する工作準備専任の1機関をバンコクへ派遣した。この機関が「F機関」である。
だが一方でビルマ早期独立を求める「南機関」とそれを拒否する南方軍との軋轢もあった。また日本軍とインド独立運動との関わりの中で、1番重要な存在だったのは、インド独立の志士チャンドラ・ボースだった。
上写真右がインド独立の志士チャンドラ・ボース。左がビルマ独立の志士オンサン(=アウンサン)。(写真出典)「世界の歴史15」中央公論社1963年8版発行。
日本の戦争目的は「大東亜の新秩序建設」から「大東亜共栄圏建設」へと変わる。そして英国の屈伏を図るために、「ビルマ」の独立を促進し、其の成果を利導して印度の独立を刺戟(=刺激)する、とした。さらに日本は、もしビルマが「大東亜共栄圏建設」の一翼として協力するなら、独立の栄誉を与える、としたのである。
●だがこの「大東亜共栄圏建設」というのは、欧米からのアジアの解放という意味で使われたが、実際には、日本が占領した南方諸地域で行ったことは苛烈な資源と労働力の収奪であり、アジアの解放などではなかった。
●ビルマの民衆が受けた最大の被害は「泰緬(たいめん)鉄道」建設工事のための強制動員だった。その数は、連合軍捕虜(約62000人)と東南アジアから20万人をこえる労務者たちだった。労務者の内訳は、ビルマ人10万6000人、タイ人3万人、マレー人・ジャワ人8万5000人だったと推計されている。そして工事期間中に捕虜約1万2000人が死亡、アジア人労働者も7万4000人(イギリス側推定、日本側推定4万2000人)が死亡したといわれる。さらに戦争末期の1945年7月、敗退する日本軍(第33師団)がモールメイン市東50kmのカラゴン村で住民虐殺事件を引き起こした(カラゴン事件)。殺害された村民らは637人で、男性174人、女性196人、子供267人だった。
●1940年(昭和15年)7/26、近衛内閣は閣議で根本方針である「基本国策要綱」を決定した。
この中で「・・皇国現下の外交は大東亜の新秩序建設を根幹とし先づ其の重心を支那事変の完遂に置き、万難を排し国防国家体制の完成に邁進する」としたのである。
●1941年(昭和16年)11/13、日本軍は大本営政府連絡会議で決定した「対米英蘭蔣戦争終末促進に関する腹案」(以下に引用)に基づき、軍事行動をおこした。太平洋戦争開戦である。ここには、「ビルマ」の独立を促進し其の成果を利導して印度の独立を刺戟(=刺激)す。と書かれている。
「方針」
一 速(すみやか)に極東に於ける米英蘭の根拠を覆滅して自存自衛を確立すると共に、更に積極的措置に依り蔣政権の屈服を促進し、独伊と提携して先づ英の屈伏を図り、米の継戦意志を喪失せしむるに勉む。
「要領」
一 帝国は迅速なる武力戦を遂行し東亜及南西太平洋における米英蘭の根拠を覆滅(ふくめつ=滅ぼすこと)し、戦略上優位の態勢を確立すると共に、重要資源地域竝(=並)主要交通線を確保して、長期自給自足の態勢を整う。
凡有(あらゆる)手段を盡(=尽)して適時米海軍主力を誘致し之を撃滅するに勉む。
二 日独伊三国協力して先づ英の屈伏を図る。
●また上記・ニの取るべき方策として、以下がある(一部)。
(一) 帝国は左の諸方策を執る。
(イ) 濠州印度に対し政略及通商破壊等の手段に依り、英本国との連鎖を遮断し其の離反を策す。
(ロ) 「ビルマ」の独立を促進し其の成果を利導して印度の独立を刺戟(=刺激)す。
●さらに要領・四は以下のようである。
四 支那に対しては、対米英蘭戦争特に其の作戦の成果を活用して援蔣の禁絶、抗戦カの減殺を図り在支租界の把握、南洋華僑の利導、作戦の強化等政戦略の手段を積極化し以て重慶政権の屈伏を促進す。
●1942年(昭和17年)1/21、東条首相は議会で包括的な占領政策を明らかにした。東条首相は施政演説「大東亜戦争指導の要諦」で以下のように述べた。
★1886年3/1ビルマ全土がイギリスに併合され、「英領インド帝国ビルマ州」となる。
※ここではビルマの歴史(イギリスによる併合前後)とイギリス植民地下のビルマについて、根本敬著「物語 ビルマの歴史」中公新社2014年刊、より要約してみた。
●「コンバウン朝」(1752年~1885年)のアラウンパヤー王(第1代・在位1752年~1760年)は、1756年にモン人の拠点ダゴンを滅ぼし、翌年にはモン人が復活させたハンターワディ王国を滅ぼした。この「コンバウン朝」が最後のビルマ王国である。そしてアラウンパヤー王は、ダゴンをヤンゴン(英語名ラングーン)と改称した。これは「敵(ヤン)が尽き果てる(コウン)」という意味で、長年宿敵だったモン人(モン族)に最終的に勝利したという意味を込めたのである。
このビルマ王国は対外膨張政策をとり、1767年にはタイのアユタヤ王国に進攻し、当時アジア有数の交易・文化都市アユタヤを攻撃し、400年わたって繁栄したアユタヤ王国を滅ぼした。
●第6代のボウドーパヤー王(在位1782年~1819年)は、1784年に内紛に乗じてアラカン(ラカイン)王国を滅ぼした。この国も15世紀半ばから約350年間ビルマ西部で交易大国として栄えていた国だった。その後、王は東北インドのアッサムとマニプールにも出兵し、現地の藩王に忠誠を誓わせた。ボウドーパヤー王はビルマにおける歴史上最大版図を有する王国を築き上げた。
※(参考)左地図はミャンマーの行政区分(2008年憲法上)のイメージ図である(星野作成)。ポイントは、地域(管区)と呼ばれる主としてビルマ族が住む7つの地域(赤字)と1つの連邦直轄領(●ネピドー)があり、その周辺を囲むように7つの州(緑字)があり、ここには少数民族が住んでいて、それぞれの州の名前がそれぞれの民族の名となっている。さらにそれらの地域や州のなかには別の少数民族の自治区がある。
●主要民族だけをみても人口順に、多数派のバマー(狭義のビルマ民族)、シャン、カレン(カイン)、アラカン(ラカイン)、モン、チン、カチン、カヤー(カレンニー)の8民族があり。このほかに127の民族がある。ミャンマーは典型的な多民族国家である。さらに多言語、多宗教国家(人口の89%は上座仏教徒)であるという。
※戦史叢書「ビルマ攻略作戦」によれば、1941年(昭和16年)の国勢調査では、ビルマ人約1000万人、アラカン人約55万人、カレン人約150万人、チン人・カチン人約50万人、シャン人約130万人、インド人約200万人、中国人約20万人、計約1605万人とある。
(注)ビルマでは10年ごとに国勢調査が行われてきたが、1941年度分は日本軍侵攻のため暫定値となったとある。1931年のイギリス領インド帝国ビルマ州総人口は1464万7756人だった。
●このビルマ王国(コンバウン朝)は上ビルマの中央平原部に中心を置いたが(1857年~85年の王都はマンダレー)、王都には常にインド系、中国系、アフガン系、ペルシャ系、アルメニア系、ポルトガル系などの人々が王権の庇護を受けて定住していた。国際都市化が進んでいたのである。
●ところが1819年ボウドーパヤー王が死去すると、イギリスとの軋轢が深まっていった。直接の原因は、ビルマ王国が1784年にアラカン(ラカイン)王国を滅ぼした後、多くの住民がインド側のチッタゴンに逃げこんだことだった。その住民をビルマ王国側が取り戻そうとインド側に進入したのである。チッタゴンは1787年以降イギリス東インド会社の支配下にあった。
(注)現代(2022年)でもこの地域では、ミャンマーからの武力弾圧(殺害等)からバングラデシュへ逃れた少数民族ロヒンギャ難民(100万人)の問題が起きている。(イスラム系少数民族)
年 | 内容 |
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第1次英緬戦争1824年~1826年 | 東インド会社は1795年以降数度にわたってビルマ王国に使節を送ったが、ビルマ王国はこれを相手にしなかった。ビルマ王国は、東インド会社からの使節はイギリスを代表する外交使節ではないと考えたからである。 こうして1824年3月、ビルマ王国はアラカン地方と英領インドを分けるナーフ河の河口にある島の領有をめぐって東インド会社と全面戦争となった。だが結果はビルマ王国の敗北(1826年)となり、バヂード王(第7代・在位1819年~1837年)はヤンダボーにおいて条約を結んだ。 その内容は、アラカンとテナセリム両地方の割譲と、アッサム、マニプールに対する宗主権の放棄、そして東インド会社に対する1000万ルピーの賠償金の支払いだった。この結果、ビルマ王国はラングーンを王国に戻すことはできたが、西側のアラカン沿岸と東南のテナセリム沿岸地帯を失ってしまった。(両地域は1834年以降はベンガル州知事の管轄下となる) |
第2次英緬戦争1852年4月 | その後バヂード王を継いだ第8代ターヤーワディー王(在位1837年~1846年)は前王が結んだヤンダボー条約を認めず、イギリス東インド会社と対立を深めていった。そうしたなか1851年ビルマ王国の官憲がイギリス人の船長を船員殺人の容疑で逮捕し罰金刑を課した事件が起きた。これに対してインド総督ダルハウジーはこれを問題化し、1852年4月東インド会社はビルマに侵攻した。ビルマ王国はこの戦いでも敗北し、ペグー(バゴー)地方を割譲させられた。 これによりビルマ王国は第1次英緬戦争のときに割譲された地域を含めて、下ビルマ全体をイギリスにとられ、海への出口を失って上ビルマだけの内陸国に転落した。東インド会社は下ビルマの領域を、アラカン、テナセリム、ペグーの3管区に分けてイギリス領ビルマ州として再編し、ラングーンに州都を置いた。 (この頃の重要事件)●中国では1840年イギリスがアヘン戦争を起こす。清朝の崩壊が始まる。●日本では1853年アメリカ・ペリーが来航し、江戸幕府崩壊が始まる。●インドでは1857年~1859年に、インド大反乱(シパーヒー《セポイ》の反乱)が起きる。これを機にイギリスは、東インド会社による植民地経営をやめ(1858年東インド会社解散)、インド直接支配を開始する。
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第3次英緬戦争1885年11月 | 1853年、王宮内部の対立はクーデターで決着がついた。和平派のミンドン王(在位1853年~1878年)が主戦論者の第9代のパガン王(在位1846年~1853年)を倒し国王の座に就いたのである。ミンドン王は下ビルマの一部を取り返すことを目的にイギリスと再交渉を試みたが失敗した。 一方でミンドン王はビルマ王国の近代化を押し進めた。1857年に遷都したマンダレーを中心に、国営の織物工場、武器製造工場、精米工場、造船所などを次々に建て、外国人技師を雇用して指導にあたらせた。さらに100名ちかい国費留学生をインドとヨーロッパに送り込んだ。 ※この近代化の動きは、中国や日本、ビルマの隣国のタイなどでも起こった。帝国主義の欧米列強に支配されるか、独立できるかは紙一重だったに違いない。 しかし1878年、この開明的で近代化を推進したミンドン王が病死すると、21歳のティーボー王(在位1878年~1885年)が後を継いだ。すると王宮内で保守派の反乱がおき(大虐殺)、ビルマ王国の近代化に向けた改革はここで終わりをつげた。そして王国は弱体を続け、ついにインドシナ(ベトナム、ラオス、カンボジア)で植民地支配を進めていたフランスと接近する道を選んだ。 イギリスはこれを許さず、1885年11月マンダレーに侵攻し王宮を占領し、28歳のティーボー王とその妻をインドのマドラスに追放した。ここにビルマ王国は滅んだ。 |
●下は現在のミャンマーのヤンゴン(ラングーン)「シュエダゴン・パゴダ」を中心においたGoogle Mapの地形図である。寺院マーカーをクリックすると、投稿された画像をみることができる。この黄金に輝く高さ100mの「シュエダゴン・パゴダ」はラングーンの象徴である。このパゴダは2500年ほど前にモン人の商人タプッサとバリカ兄弟が建立したという伝説が残っている。古くからモン人の多く住んできたこの街は、18世紀なかばまで「ダゴン」とよばれ、「聖地ダゴン」として広く知られてきた街であった。
ここでは、上座仏教について、下段でその特徴を抜粋要約してみた。要約(出典)根本敬著「物語 ビルマの歴史」中公新社2014年刊。
項目 | 内容 |
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上座仏教と日本の仏教の違い。 | 日本の仏教は一部を除いて大乗仏教の系列に連なる。僧侶たちは一般の信徒(在家信徒)と同様に結婚も、金銭を扱うことも、日常の娯楽を楽しむことも禁じられてはいない。 ところが現在のビルマ、タイ、ラオス、カンボジアに広がる上座仏教の僧侶は、文字どおりの出家者で、この世の欲望と絶縁して僧院に入り、修行に専念する生活を送る。結婚、異性との接触はいっさい禁じられ、金銭に触れることも、働くことも娯楽に関わることも禁じられている。 これは紀元1世紀頃、根本分裂といわれる仏教教団が大衆部系と上座部系にわかれたことに起因している。上座部系は原始仏教教団の伝統を強く残し、個人による出家と修行を重視する自力救済を目的とした。一方の大衆部系は、釈迦(仏陀)の慈愛による生けるものすべての救済を信じた。そこで大衆部系は自分たちは「大きな乗り物」(大乗)と考え、上座部系を少数のエリートしか救済しない「小さな乗り物」(小乗)と批判し蔑称を使ったのである。だから上座仏教では自分たちのことを小乗とは言わない。上座部系はスリランカから東南アジアの大陸部のモン人に伝わり、そこからゆっくりと広がっていった。 |
上の地図にある「パゴダ」の意味すること。 | 上座仏教の僧侶(出家者)は普通の市民がおくる日常生活ができない。そこで出家者は、かならず一般の信徒(在家信徒)からの喜捨と協力が不可欠となる。一般の信徒(在家信徒)が喜捨などを行う理由は、在家信徒は出家できない(しない)かわりに、僧侶(出家者)に食事を捧げ、僧衣(袈裟)を寄進し、僧院や仏塔を建立・維持し、僧侶の身の回りの世話を日常的に行うことによって、功徳を積むことができると考えられているからである。(たくさん功徳を積んだものは来世において出家する決心ができる強い人間になれると信じられている)。特にパゴダ(仏塔)を建立することが最大の功徳と考えられている。 パゴダとは在家信徒の日常の信仰の場であり、僧侶が修行に励む僧院とは異なる在家中心の宗教施設である。特にビルマの場合は、パゴダ(パヤー)と釈迦は同義であることから、仏塔信仰の伝統が非常に強い。 |
上座仏教の僧侶(出家者)の特徴 | 上座仏教の僧侶は正式には比丘(びく)と呼ばれ、彼らはいっさいの生産活動や経済活動を行わず、在家信徒の喜捨(きしゃ)と協力に依存し、僧院において修行生活を送る。その目的は、あらゆることがらの根源といえる根本無分別智(こんぽんむふんべつち)の獲得と、「不動の心境に至った人」を意味するアラハン(阿羅漢)を目指すことにある。そのため、律蔵に規定された227の戒を守り、とりわけ基本の10戒は厳しく遵守する。10戒は次のようである。「殺してはならない」「盗んではならない」「姦淫してはならない」「嘘をついてはならない」「酒を飲んではならない」「午後に食事をしてはならない」「歌舞観聴をしてはならない」「装身具や香水をつけてはならない」「高く大きな寝台では寝てはならない」「金銀を受け取ってはならない」からなる。 比丘は僧院で正しい方法に則った瞑想を行い、経典の学習にも力を入れる。その際、修行を尽くした長老の教えに学び、ある程度修行を積んだ比丘は在家信徒への説法も行う。こうした出家者の集団=僧団をサンガ(僧伽)と呼ぶ。 |
「ビルマの竪琴」における上座仏教への幻想 | 竹山道雄「ビルマの竪琴」は、ビルマ僧となった主人公が、竪琴を奏でながら戦友の遺骨を拾って供養するという話である。だがビルマの上座仏教文化からみると、この主人公のしていることは「破戒僧が意味不明の骨拾いをやっている」というふうに受け止められかねない、とある。なぜなら「竪琴を奏でながら」というのは「歌舞観聴をしてはならない」に反しているし、「遺骨を拾って」という行為には、違和感があるからである。上座仏教は遺骨に執着しない。人間は死ぬとその大切な魂は肉体を離れ来世にいくと考えられているからである。残された遺体に特別な意味は見出されず、遺体の焼き場でも遺骨を残していく遺族が多いのが現実である、ともある。 ※どうやら上座仏教では、日本のように墓は作らず、火葬された灰や遺骨はそのまま埋めてしまうか、散骨するのが基本で、灰や遺骨を壷に入れても、最後にはそれを野山や河や海などに埋めたり流したりして自然に返すのが普通のようである。インドのヒンドゥー教でも、火葬された灰や遺骨は聖なるガンジス川に流すことが最上の行為であるらしい。(私見) |
第3次英緬戦争(1885年11月)の結果、イギリスは翌1886年1/1全ビルマ(上下ビルマ)をイギリス領土に併合することを宣言し、1886年3/1ビルマ全土を「英領インド帝国ビルマ州」とした。州都はラングーンでビルマ政庁(植民地政庁)を設置した。
そしてイギリスはビルマ州を2つの領域に分け、平野部を中心とする核心領域を「管区ビルマ」と名付け、ビルマ州知事(インド総督が任命する)による直接統治を行った。一方「辺境地域」と呼ばれた東部のカレンニー、東北部のシャン、北部のカチン、北西部のチンを含む丘陵・山岳地帯からなる領域は、間接統治とした。これは古くからの地域の藩王に、イギリスへの忠誠を誓わせたうえで統治を任せた。このイギリスの分割統治は、多数派のビルマ民族と辺境の少数民族を分断するもので、将来にわたってビルマ国民統合の障害となった。
●(少数エリートによる統治)
管区ビルマは、少数精鋭のエリート行政官(全員イギリス人で実質150人あまりのインド高等文官)によって統治された。ビルマ州知事(1937年より総督)を補佐する局長クラス(ラングーンのビルマ政庁内)、地方では管区長官や県知事クラスのポストを占めた。
そしてその下に現地で採用された中級・下級の公務員と一般事務職員が置かれた。
●(宗教中立政策)
イギリスのビルマ支配の特徴として宗教中立政策が挙げられる。これは国家と宗教の分離であり宗教への不介入であった。ところがビルマ王国時代から上座仏教が擁護されてきたビルマ民族(人口の89%は上座仏教徒)にとっては、このイギリスの姿勢は理解しがたいものだった。
●(経済開発)インド本土への食料(コメ)と燃料(石油等)の補給基地として。
イギリスがビルマに求めたものは、食料としてのコメと石油、銅、宝石(ヒスイやルビーの原石)、木材などの自然資源であった。経済開発もこれらを中心に行われた。コメの輸出もインドのプランテーション労働者の食料として急増し、1870年代に年間90万トンだった輸出量は、1900年代には240万トン台に、1930年代には600万トン台を記録する年もあらわれた。
石油については、1935年統計ではビルマ産の原油量は月間53万4000バレルだった。その量はペルシャ(イラン)産やオランダ領東インド(インドネシア)産と比べれば、その10数%に過ぎなかったが、イギリス領インド帝国内では最大規模を誇った。植民地ビルマはインド本土への補給基地(コメと石油)となったのである。
●(移民の流入と複合社会の形成)
ビルマ州には労働不足を補うため、大量のインド人移民が流入した。その数は、1892年〜1935年までの統計で平均で年25万人だった。ただほぼ同数の出国者が毎年記録されているので、彼らは短期移民と考えられた。彼らの仕事は、港湾労働や倉庫の荷役など、沖仲仕やクーリーとよばれたきつい肉体労働が多く、他には工場労働者や農村での農業労働者などであった。彼らインド人の大多数は、南インドのマドラス州と東インドのベンガル州の下層カーストに属する貧しい人々だった。
そして移民の流入はラングーンを中心に複合社会を形成するようになった。この特徴は、職業(職種)が民族別に分かれ、その中で経済的・社会的格差・対立が生まれ、かつ言語も宗教も風習も違うことから相互の交流もなく、国民としての統一意識が失われていったことである。下の表が1920年代以降の植民地ビルマ(首都ラングーン)の状況である。※下の表(出典)根本敬著「物語 ビルマの歴史」中公新社2014年刊。
階層 | 民族(職業・職種) |
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上層 | 英人・欧州人(高級官僚、大手企業幹部社員、軍人、教員。) |
中間層 | 英系ビルマ人(公務員、教員、看護師、商工業。) |
中国人(流通、商工業。) | |
インド人(金融・不在地主、流通、商工業、地主、軍人、公務員。) | |
(キリスト教徒)カレン人(公務員、教員、会社員、看護師、軍人。) | |
ビルマ人(公務員、教員、弁護士、地主、自作農。) | |
下層 | インド人(クーリー・港湾労働者等、油田労働者、農業労働者。) |
ビルマ人(工場労働者、油田労働者、小作農、農業労働者。) |
●(段階的な自治権付与)
ビルマ植民地に大きな影響を及ぼしたのは、第1次世界大戦(1914年〜1918年)だった。特に1917年11/8、ソヴィエト政権(ロシア革命政権)が第1次世界大戦の停戦を求め、全交戦国に無併合・無賠償の講和を提案した。その「平和についての布告」なかでは、「民族自決の原則」がうたわれ、従来のあらゆる秘密条約を廃棄し、秘密外交を否定したのである。
また1918年1/8、ウイルソン大統領の発した「14か条の平和原則」の中でも「民族自決」の重要性がうたわれていた。
戦後イギリスはこうした「独立」と「民族自決」の世界的潮流を受けて、イギリスの植民地の中でもナショナリズムが強かったインド本土に、段階的に自治を与えていく政策を導入した。ビルマには1923年1月、すでにインドに導入していた両頭制を施行した。
これは、イギリス国王の代理を務めるインド総督が任命したビルマ州知事の下に、土着の人々を部分的に立法府と行政府に参加させるものだった。この制限付き立法府は、立法参事会(植民地議会)として機能したが、植民地における選挙制度の導入という点で画期的なものだった。
そして1935年4月、イギリスはビルマに対する自治権付与の第2段階として、両頭制にかわる新たな基本法であるビルマ統治法を公布した。施行は1937年4月。(1935年インド本土でも同時に改正インド統治法を公布した。)
この統治法により、ビルマ州はインド帝国から分離され、イギリスの直轄植民地である英領ビルマとなった。これによりビルマ総督が下院(選挙で選ばれた議員)のなかから首相を任命し、その首相が総督の補佐機関として内閣を組織できるようになった。ただし内閣は、外交と防衛、辺境地域に関する事項、貨幣政策には権限が及ばなかった。
●(ビルマ植民地軍からビルマ民族排除)
イギリスは、国内治安維持を含めてビルマの軍事力を、イギリス領インド帝国の植民地軍であるインド軍(ビルマ駐屯軍)に委ねた。第1次世界大戦が終わると1930年ごろまでに、このビルマ駐留インド軍は縮小され、イギリス人(正規将校)とインド人、そして非ビルマ系諸民族からなる軍となり、ビルマ民族は排除される形となった(兵卒レベルで1割ほどは残った)。そしてこのインド軍は1937年3月にビルマ州が分離するまで、3万人規模でビルマに常駐した。
●(首都ラングーンの変貌)ビルマ民族が30%しかいない都市。
イギリス植民地期のビルマの中心となったのは、経済的にも行政的にもラングーンだった。1937年4月からはイギリスの直轄植民地英領ビルマの首都として栄えた。ラングーンの人口は1931年までに40万人を超えたが、短期移民を中心とするヒンドゥー教徒とイスラム教徒のインド人が過半数(53%)を占める都会となり、中国人を含めるとその割合は61%となった。ビルマの首都で最大都市であるラングーンは、ビルマ民族が30%しかいない都市となってしまった。ラングーンの中心部にはインド人が多数住みつき、ビルマ人はその外側に追いやられてしまったのである。これもビルマ・ナショナリズム台頭に影響を与えた。
●1918年1/8、アメリカ・ウイルソン大統領の発した「14か条の平和原則」のなかの第5条は次のようである。わかりにくいが、植民地における「住民の利害」と「政府の正当な請求」は同じ重さであると述べ「民族自決」の重要性をうたった。
(この影響の事例)
●朝鮮で1919年3/1に起こった「3.1独立運動」がある。これは日本に対する朝鮮独立運動で、朝鮮人のナショナリズムの原点とされる。デモは全土に波及し、労働者のストライキや商店の閉店抗議も行われた。やがて運動も非暴力のデモ行進から、暴力闘争へと変わっていった。そして国内の218の府郡のほとんどで蜂起が起こり、200万人以上が運動に参加した。
最大の原因は、日本による「武断政治」(=武力弾圧による植民地支配)に対する抵抗の激化だった。国際的にはアメリカのウイルソン大統領が民族自決主義を提唱したことや、ロシア革命が勃発したことなどの要因があった。
これに対して日本は、警察・憲兵・軍隊を投入して徹底的な弾圧を加えた。その結果「韓国独立運動之血史」によれば、朝鮮人の死者7509人、負傷者1万5961人、逮捕者4万6948人にのぼった。この3.1独立運動は、朝鮮近代史上最大の民族運動であり、朝鮮人のナショナリズムの原点の一つとされている。
●中国で1919年5/4に起こった「5.4運動」がある。これは北京の学生が日本の中国侵略に抗議して行ったデモに端を発した中国民衆の愛国運動である。この「5.4運動」は、北京から天津、上海、広東、漢口などの大都市から全国規模に広がっていった。この学生たちの思想運動から始まった革新運動は、この5月4日の事件で排日運動、反政府運動(反軍閥)、反帝国主義として発展し、大きな中国民衆のナショナリズム(民族主義)の高揚となっていった。そしてこの「5.4運動」の高まりと抗議運動は、時の政権を動かし、ヴェルサイユ条約の調印を拒否させるほどのものとなった。
そしてこの「5.4運動」は多くの影響を与え、毛沢東(長沙で活動)や周恩来(天津で活動)そして孫文にまでにも、中国の革命には民衆の団結が必要であることを教えた。
(日本の状況)
●この時期日本で特筆されるのは、1918年7月富山県魚津の漁民の妻女達から始まった「米騒動」である。この騒動は、「米の県外移出中止」や「米の安売り」や「生活困窮者への援助」の要求運動だったが、しだいに県内に広がり、さらに岡山県・香川県などで同様な騒動が起きはじめた。そしてついに8/10夜、京都市の「未解放部落民」が蜂起して、米屋を襲った。これが全国に広がり、米屋の襲撃、悪徳富豪の家の打ちこわし、米の取引所の襲撃や、農村では地主が襲われた。
そして山口の炭鉱と福岡の炭鉱では、争議が同日に暴動発生となり、九州の炭鉱ではつぎつぎに争議が起こった。そしてそのうちの10ヵ所では大暴動となり、軍隊による実弾による鎮圧と、炭坑夫によるダイナマイトの応酬というような戦いが行われたところもあった。
●1918年の9月で終了したこの騒動の結果は、群衆の示威運動または暴動の起こったところは合計310カ所、1カ所も起こらなかった都道府県は4県、軍隊の出動は70市町村、騒動に参加した者は、100万人を越えたとされる。この騒動は突発的に起こったもので、計画性や組織性はなかった。しかし民衆は社会的にも政治的にも自覚をもつようになり、労働運動、農民運動、水平運動(部落解放運動)などが大きく発展していった。これにより、寺内内閣は総辞職し原敬内閣が1918年(大正7年)9月に成立した。第1次大戦は1918年11月に終結した。
1937年4月、ビルマ統治法が施行され、ビルマ州はインド帝国から分離され、イギリスの直轄植民地である英領ビルマとなった。この統治法により、ビルマ総督が下院のなかから首相を任命し、その首相が総督の補佐機関として内閣を組織できるようになった。この時初代首相に指名され史上初めてビルマ人内閣を組閣したのがバモオ博士だった。博士は前年(1936年)に行われた総選挙で下院議員に当選していた。
一方、植民地統治において、スーパーエリート行政官であるインド高等文官(ICS)として、選抜試験に合格しビルマ人第1号となったのが1921年採用のティントゥッという人物だった。当時のビルマにおいて、学歴と職歴において双璧を成したのが、彼とバモオ博士だった。
(ビルマ州にもインド高等文官ビルマ担当が配置され、全員イギリス人でスーパーエリート官僚だった。)
20世紀に入ってイギリスによる植民地支配が安定してくると、ビルマにおいてもナショナリズムが台頭してくる。彼らが結成したグループや事件について、簡単に下に一覧にした。要約(出典)根本敬著「物語 ビルマの歴史」中公新社2014年刊。
組織・事件 | 内容 |
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カレン民族協会(KNA)の結成 | 19世紀後半から一部のカレン民族(キリスト教に改宗したスゴー・カレン)による民族運動が始まった。彼らは1881年に下ビルマ(上ビルマはビルマ王国)においてカレン民族協会を発足させた。この協会は植民地ビルマで結成された最初の政治団体であった。彼らはアメリカ人宣教師によるキリスト教を受容していたため、イギリス人行政官からも親近感を抱かれていた。協会はイギリスによるビルマ植民地支配を前提として、カレン民族の文化的・経済的・社会的・政治的権利を強化していくことを訴えた。 |
下ビルマ農民大反乱 | 20世紀に入るとビルマの農村は開拓のための余剰地が減り、コメの国際価格の下落も続き、土地を失い小作あるいは農業労働者に転落していく例が増えて行った。農村は極端に貧困化していったのである。そして1929年からの世界恐慌がさらに追い打ちをかけ、大規模な農民反乱が1930年末から32年にかけて下ビルマの複数の県を中心に発生した。これに対してイギリスは植民地軍による武力弾圧で応じ、3000名を超える死傷者、約9000名の逮捕者、そしてその内の1500名を有罪とし、128名を死刑に処し鎮圧した。 |
ビルマ人中間層(主役となっていく) | ビルマ人中間層とは、管区ビルマ各地の都市部やその周辺に住み、イギリスが19世紀後半から導入した近代教育制度のもとで育ち、英語にも親和性を持った、地主、教員、公務員、弁護士、商工業経営者とその家族で構成された階層だった。彼らビルマ人中間層(ビルマ州全体の1割程度)は植民地における重要な支柱だったが、当然ながら上層階にはイギリス人がいた。そして自分たちと競合するインド人、中国人あるいはカレン人がいて激しい競争にさらされていた。 そして第1次世界大戦後、民族自決が世界の潮流となるなかで、彼らビルマ人中間層は政治活動へ参画するようになっていった。 |
仏教青年会 (YNBA) |
イギリスは植民地ビルマの統治において宗教中立策をとった。そのためビルマ王国時代からの上座仏教は力を失い、ビルマ各地で仏教や仏教道徳、倫理に衰退がみられる現象が生じた。そしてそのことに対する危機意識から、19世紀末以降マンダレーなどの地方都市で上座仏教の復興をめざす団体が結成された。 そして1906年5月、まだ20代前半の青年だったラングーン・カレッジ卒業生のバペーら3人が、これらを統合する団体を目指そうと「仏教青年会」(YNBA)を結成した。1910年前半までのYNBAの会員は、学生、公務員、商工業経営者などが中心で、その多くは英語に堪能な高学歴なビルマ人だった。そしてイギリスとの協調をもとに活動を行い、政治的活動は行っていなかった。ところが1917年10月の第5回全国大会を境に、YNBAは急速に政治的活動を行うようになった。これに影響を与えたのは、アメリカ・ウイルソン大統領の民族自決の原理と民主主義に基づく国際秩序の再構築の主張だった。 仏教青年会の活動の一例をあげると、弁護士ティンマウンによる西欧人に対する「パゴダ内土足禁止」運動があった。これは結局ビルマ州政府が「各宗教施設の管財人らにその判断を一任する」ことで決着をつけた。州政府は、宗教問題には中立であることを守ったともいえた。この弁護士ティンマウンは1934年に立法参事会選挙に当選、英領ビルマでは下院議員に当選し、1938年には法務官に任命された。日本軍占領下ではバモオ政府の司法大臣に就任、日本軍敗退後はイギリスによって高裁判事に抜擢された。 |
ビルマ人団体総評議会 (GCBA) |
1917年をすぎると仏教青年会(YNBA)は、文化団体としての組織を存続させる保守派(年長者を中心)と政治団体としての性格を強めようとする革新派との対立が深まった。そして1920年10月、数十名の会員がYNBAを飛び出し、新たにビルマ人団体総評議会(GCBA)を設立した。このビルマのナショナリズム運動の牽引役を目指したGCBAを支持したのがビルマ人中間層であった。 このビルマ人団体総評議会は、都市部に根拠を持ちながら農村部への浸透を試み、政治に関心を持つ僧侶活動家たちと連携し、各地に運動組織を作り上げていった。またラングーン大学で起きた第1次学生ストライキの支援を通じ、学生運動との関係も築いていった。 だがこのGCBAの基本姿勢は、イギリスとの協力関係を基礎に、植民地議会の中で自分たちのナショナリズム実現を目指したことである。目標はイギリス国王を頂点に置く、イギリス連邦の一員としての自治領(ドミニオン)となることであった。このメンバーでは、仏教青年会以来の政治家バペー(下院の重鎮)、バモオ博士(初代首相)、ウー・プ(第2代首相)、チッフライン(下院議長)、ウー・ソオ(第3代首相)らが政治エリートとして台頭した。 |
タキン党 我らのビルマ協会 |
1930年6月、このイギリス植民地議会でしか戦おうとしないビルマ人団体総評議会(GCBA)に対し、ビルマ人中間層第2世代の若者が中心となって、「我らのビルマ協会」(タキン党)という政治団体が結成された。この通称「タキン党」と呼ばれるこの団体は、1930年5月後半にラングーンで反インド人暴動が発生した直後に公にその姿をあらわした。この暴動はラングーンの港湾で、インド人沖仲仕のストライキに対して経営者側が対抗してビルマ人を雇用したことが、その後のインド人とビルマ人の衝突を引き起こした。インド人の死者は250人あまり、負傷者は2500人あまりを出した。世界恐慌のなか経済は悪化し、ラングーンの中心部を短期移民のインド人に占められていたことが、このビルマ人のインド人に対する暴動につながった。 タキン党はイギリスに妥協しない団結力のある新しい団体を目指した。そして1935年を境に活動を活発化し、支部組織を充実させ、1939年までに管区ビルマ全37県中、27県に支部を開設した。さらに1936年に発生したラングーン大学第2次学生ストライキへの支援を通じ、その後学生運動出身者を継続的に入党させることに成功し、デモや大規模集会などで人々を直接動員する力を持つようになった。アウンサン(1915~47)らの入党もこの頃だった(彼は入党後すぐに書記長に抜擢された)。このタキン党からは、のちの抗日闘争などで指導的役割を担った上記アウンサン、ビルマ独立後の初代首相ウー・ヌ(1907~95)、1962年以降1988年まで政権を独占したネィウィン(1911~2002)など著名な人物を輩出した。下がタキン・ナショナリズムの特徴である。
タキン・ナショナリズムの特徴
①ビルマ人こそビルマの主人(タキン)。 タキンはビルマ語で主人を意味し、党員各自の名前の前につけ、自らそれを名乗ることを義務付けた。創設者のタキン・バタワン。「独立の父」と崇められることになるタキン・アウンサン、など。 ②ミャンマーではなく、バマー(ビルマ)。 ビルマ語の「バマー」は口語形で「ミャンマー」は文語形で、どちらもビルマに住む多数派のビルマ民族と彼らの住む国をさす呼称である。政党に自国名をつけるときは文語系の「ミャンマー」を使用するのが常であるが、あえて党名に「バマー」をつけたのは、ビルマ民族以外のカレンやカチン、シャンなど全ての英領ビルマに住む土着民族を、ひとつにまとめるために使用したといわれる。 ③我らのビルマ対、彼らのビルマ。 同じビルマ人であっても植民地支配体制に協力している人々を、「彼らのビルマ」とよび、いっさい植民地支配体制に協力しない本物のビルマ人を「我らのビルマ」と呼んで峻別した。 ④団結の誇示。 政党名に「協会」を意味する造語を使用し、新しさを強調した。 ⑤社会主義思想のとりこみ。 タキン党はビルマ民族・ビルマ文化中心主義であるが、その思想の中に社会主義思想も取り入れたという。 |
年 | 内容 |
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ビルマ歴1300年の叛乱。1938年7月~1939年2月 | 1938年7月の終わりからビルマ国内の治安は急速に悪化した。仏教を批判したイスラム教徒の本がきっかけとなって、ビルマ人仏教徒による、ヒンデゥー教徒も含むインド系移民全般に対する集団暴行が起こった。インド人側による抵抗も激しく、警官の実弾による鎮圧もあり、9月末までに死者240人、負傷者900以上が出た。さらに1938年11月末には、タキン党が組織した、上ビルマの油田地帯で働く労働者のストライキが激化し、ラングーンに向かう長距離デモを各地で学生や青年活動家たちが支援したため、治安はさらに悪化した。いたるところで反英デモが起こり、1938年12月から翌1939年2月にかけてその動きは拡大した。タキン党はこれを「ビルマ歴1300年の叛乱」と呼び人々を扇動した。1939年2月にはマンダレーでデモ隊の鎮圧に植民地軍まで動員され、僧侶を含む14人を射殺、19人を負傷させる事件も起こった。 |
バモオ内閣不信任。 | このような状況の中、1939年2/16バモオ内閣は統治能力に問題があるとして、不信任決議案が70対37の大差で可決された。これまでも不信任決議案はなんとか僅差で否決されてきたが、今回はヨーロッパ系議員9人全員が不信任案賛成にまわったこともあり可決された。 バモオ博士は首相の座から引き下され、1野党の党首となったが、このヨーロッパ系議員9人全員が不信任に回ったことに怒りを持ち、「反英の闘志」をむき出しにするようになった。 |
「自由ブロック」を結成。 | 1939年9月、バモオ博士はタキン党からの誘いに応じ、新たな大衆反英組織「自由ブロック」を結成し、その議長に就任した。タキン党はバモオ博士を政権の座から引き下ろした張本人だったが、いくらタキン党が反乱を扇動しても植民地体制に打撃を与えることができなかった。このことがタキン党の方向転換につながり、新たな組織を作りバモオ博士をリーダーに誘ったのである。議長となったバモオ博士は、公の場で過激な反英演説を繰り返すようになった。 一方アウンサンは「自由ブロック」の書記長に就任し、1939年9月に始まった第2次世界大戦を重大な歴史の転機と認識し、反英闘争の進展とビルマにおける植民地体制に打撃を与えるため、イギリスの植民地支配体制の不当性と、イギリスへの戦争協力拒否を強く訴えた。「自由ブロック」は武装闘争を模索し始めていた。 |
イギリス、ビルマ防衛法(緊急治安法)を制定。 | ビルマ政府ウー・プ(第2代首相)内閣は、コックレインビルマ総督と組んでビルマ防衛法を適用し、「自由ブロック」関係者2000人以上を逮捕投獄した。自由ブロック運動は挫折し、アウンサンにも逮捕状が出た。タキン党メンバー達は武装闘争を模索するなかで、海外からの武器支援を探っていた。アウンサンは幹部らの同意を得て、中国共産党とあらためて接触すべく中国アモイへ1940年8月ビルマから密出国した。 だがアウンサンは中国共産党との接触に失敗し、逆にアモイの日本租界で日本軍憲兵に逮捕され、強制的に東京に連行された。 一方のバモオ博士は、1940年8月煽動的な反英演説を行った罪で逮捕・投獄された(僻地モウゴウッ監獄)。 |
1940年(昭和15年)5月、イギリス軍がヨーロッパで追い詰められ、フランス北部ダンケルクからイギリス本土へ撤退し、6月にはドイツ軍がパリに無血入城して、フランスはドイツと休戦する(降伏したようなもの)。
中国大陸では、日本は屈服しない重慶国民政府に対して、長距離無差別爆撃(百一号作戦)や汪兆銘傀儡政権(南京)樹立などにより、日中戦争停戦を模索していた。だが日本は重慶政府が屈服しない原因は、連合国が援助物資を送っている援蔣ルートの存在にあると考え、特にビルマルートを遮断する方法に苦慮していた。このビルマルートはビルマから中国奥地の山岳地帯を通るため、日本軍は武力行使による遮断は困難と考えていた(当時はビルマに侵攻することなど夢想もしていなかった)。
(注)上はビルマルートと仏印ルート示すイメージ図。背景として使用した地図は、平凡社1984年発行「世界大地図帳」なので当時の地名を示すものではない。(星野)
●そこで陸軍参謀本部は、1940年3月謀略担当の鈴木敬司大佐にビルマルート遮断の研究を命じた。大佐はビルマにおけるタキン党に着目し、もしこの民族独立運動が武装蜂起に発展すれば、ビルマルート遮断はおのずから達成できると考えた。そして1940年7月、鈴木大佐は読売新聞記者南益世を名乗りビルマに潜入し、「自由ブロック」関係者と接触し情報収集と関係強化に努めた。こうして鈴木大佐はアウンサン、ラミヤンらがアモイに潜伏している情報をつかみ、アモイの日本租界の憲兵隊に連絡し東京に連行するように指示を出した。
●そして1940年11月、鈴木大佐は2人を羽田飛行場に迎え、その後1カ月以上かけて日本軍に協力をするように説得した。当初アウンサンは日本軍と組むことに躊躇したが、最後は鈴木大佐の提案に同意した。それは日本軍がアウンサンらの反英闘争を支援して親日政権を樹立させるかわりに、援蔣ルート遮断に協力することだった。
●こうして1941年2/1、鈴木敬司大佐は陸海軍協力して大本営直轄の「南機関」というビルマ謀略機関設置に成功し、自ら機関長に就任した。そして2月には鈴木大佐らはバンコク(タイ)に進出し同地に本拠を置き活動を開始した。その後8月には陸海軍協議の上、南機関から海軍人員の引き上げが行われ、陸軍を中心に工作活動が進められた。その後南機関は一度アウンサンをビルマに送り返し、彼の取り計らいでビルマ人青年を3月から4か月間にわたって密出国させた。彼等はすべてタキン党と親タキン党の全ビルマ学生同盟出身者だった。そして彼らは海南島の三亜で非常に厳しい軍事訓練を受け、進軍の時を待った。後に彼らは「30人の志士」と呼ばれた。下がその「30人の志士」の一部(南機関外史による)。※下のシュモン(ネ・ウイン)は1962年軍事クーデター起こし、革命評議会議長として首相と大統領を兼ね強大な力を持った。
氏名・その後の状況、地位。()内は1967年時の氏名。 |
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●オンサン=アウンサン、国防大臣。●オンタン(ボ・セッチャ)、国防次官。●ラペ(ボ・レア)、国防省軍事課長。●ソールイン、国防大臣秘書。●シュモン(ネ・ウイン=ネィウィン)、国防軍司令官。●ラミヤン、国防軍参謀長。●ラモン、士官学校長。等 (出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「ビルマ攻略作戦」から引用 |
●ところが1941年(昭和16年)11月になると、日本政府は日米英開戦は必至とみて「帝国国策遂行要領」を決定し、武力発動の時機を12月初頭と明確に定めた(12/8太平洋戦争開戦)。そのためタイのバンコクにあった南機関はいったんサイゴン(=現ホーチミン市)に引き揚げた。南機関はビルマ独立党員と共にサイゴンで発進の機を待った。
●1941年12/8太平洋戦争開戦。日本はマレー半島や真珠湾など多くの地点に同時奇襲攻撃をしかけた。
この太平洋戦争勃発の前後、南機関は1941年(昭和16年)11/24、大陸令第556号で南方軍総司令官の指揮下に入った。そして12/11、南機関は日・タイ同盟が成立すると再びサイゴンからバンコクに進出した(タイは日本軍の国内通過を認めた)。次いで12/23、南機関は南方軍命令により第15軍司令官の指揮下に入った。
12/12バンコクに入った鈴木敬司大佐は、12/26から新兵の募集を始めた。北部タイに住むビルマ人(約300人)やバンコクで南機関に応募してきた者たちを選抜して、12月28日に「30人の志士」たちを中心にビルマ独立義勇軍を結成した。彼等には小火器と軍服が日本軍から支給された。軍司令部の幹部は以下の通りで、南機関の日本人幹部たちがビルマ人メンバーを指導する形をとった。
氏名・階級は義勇軍独自のもの。()内は本来の氏名と階級など。 |
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●軍司令官ボ・モウ・ジョウ大将(鈴木敬司大佐)。●参謀長村上少将(野田毅大尉)。●高級参謀オンサン(=アウンサン)少将。●参謀ラミヤン中佐。●参謀飯島大佐(木俣豊次嘱託)。●参謀新免中佐(水谷伊那雄嘱託)。●高級副官木村中佐(樋口猛嘱託)。●経理部長吉岡大佐(杉井満嘱託)。軍医部長鈴木少将(ドクター・スズキ)。 |
(編成当初の人員)合計約300名。●南機関員計74名。将校14名(召集将校を含む)、下士官17名、其の他嘱託、軍属。●ビルマ独立党員27名。●新募のビルマ兵約200名。 (出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「ビルマ攻略作戦」から引用 |
※ビルマ独立義勇軍の軍司令官鈴木敬司大佐をボ・モウ・ジョウ(=ボウ・モウヂョウ)と呼んだのは、ビルマ語で「稲妻(いなずま)」をモウヂョウといい、義勇軍の司令官に「稲妻将軍」のイメージを与えようとしたからである。これはビルマの人々が親しんでいた予言(ダバウン)のなかにある、「傘棒(=英国を意味する)」が「稲妻(=ビルマ独立義勇軍の将軍を意味する)」に砕かれる、という一節を民衆に対する情報宣伝として利用したのである。この効果はてきめんだったといわれ、ビルマ独立義勇軍はカレン民族やイスラム教徒が住む地域を除き、多くの人々から歓迎された。・・「物語 ビルマの歴史」より
南機関のビルマ工作計画における、「ビルマ独立」は第15軍と南方軍に拒否された。
だが日本政府(東条首相)の方針は、すみやかな独立だった。
1942年(昭和17年)1月、鈴木大佐は第15軍司令部付き中田大佐(第15軍の占領地行政の主任)にビルマ工作計画を示し意見を求めた。その方針と実施要領は以下の通りである(一部)。
第1 方針
軍の「ビルマ」侵入作戦に呼応し「ビルマ」内全般に亘り擾乱(じょうらん)を激発せしめ敵の作戦指導を不可能ならしむる共に、「ビルマ」人をして全面的に我に協力せしむるに在り。
第2 実施要領
南機関は「ビルマ」独立党員を指揮して擾乱軍を組織し、国内政治組織を破壊し騒擾(そうじょう)を蜂起せしむると共に義勇軍を編成し、独立政権実力の核心を構成し、両者相呼応して先ず「テナセリウム」地区を戡定(かんてい=武力で平定する)したる後臨時政府を樹立す。
爾後なるべく速やかに「ラングーン」地区を攻略して、「ビルマ」における英政府の中枢を駆逐し独立政権の基礎を確立したる後、逐次上部「ビルマ」を戡定し独立を完成す。本工作は日本軍の「ビルマ」侵入作戦と緊密に連携してこれを行う。・・・・(中略)
(実施要領)其の5 占領地処理要領
1 我が勢力範囲に帰したる地域の行政は、南機関の主宰とする軍政によりこれを行う。(中略)
3 別に定むるところにより、満15才以上35才未満の男子に徴兵又は公役に応ずるの義務を賦課す。
4 ・・・・一般住民に納税の義務を賦課す。
5 「ビルマ」国有財産及国営事業は「ビルマ」独立軍においてこれを継承し独立政権樹立後これに移管す。(後略)
(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「ビルマ攻略作戦」から引用
●しかしこのビルマ工作計画には多くの重大な問題(赤字部分)が含まれていた。そこでこの計画案の検討は第15軍参謀長・諫山春樹少将のもとに移された。そして諫山参謀長は鈴木敬司大佐を招き、幕僚とともに計画の検討に入った。その結果15軍は、「臨時政権の樹立」「義勇軍自らによる軍政の実施」「国有財産の収領」など一連の行為は、到底承認できないとしたのである。
また南方軍(1/5頃計画案提出済み)においても、特に第3課高級参謀石井秋穂大佐はこの計画案には強硬に反対した。そして今後のビルマ謀略と軍によるビルマ進攻作戦との調整を行い、以下のように指示した(2/5)。
1謀略を支援して「ビルマ」を英本国より背反独立せしむるに努む。
2(謀略実施要領)
②逐次義勇軍を編成して之を将来の「ビルマ」独立軍の基礎たらしむ。
③日本軍の占領区域内において局地的自治委員会を結成し、治安の維持、日本軍の後方掩護、補給の援助に任ぜしむ。義勇軍は右に協力する。
④前諸項の成果を拡大し「ビルマ」大部に波及せしめ得るの機に至らば一挙に強力なる新政権を樹立す。
4(新政権の機構等)
①新政権は表面独立の形態を整うるも、内容においては帝国の意図を容易かつ忠実に実行し得るものたらしむ。
②新政権の指導は占領軍司令官之に当るものとす。新政権の承認は戦争終末後に譲るものとす。而して軍政の実行機関(軍政部)は之を設置せず軍内の幕僚組織に就いては別途研究す。(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「ビルマ攻略作戦」
●しかし南機関の鈴木大佐にとってこの南方軍・15軍の考えは承服しかねるものであった。独立義勇軍のアウンサンらは、ビルマの地に入ればビルマ独立の悲願は間もなく達成できると信じていたのである。
1942年(昭和17年)1月、第15軍がビルマ進攻作戦を開始すると、義勇軍も行動を開始し各方面から続々とビルマに進入していった。それと共に各地の独立運動はすさまじい勢いで進展していった。ビルマの知識人特に青壮年は独立を願い、どしどしビルマ独立軍に身を投じて日本軍に協力した。ところが現実は独立ではなく、日本軍による軍政を布くことになっており、それを知るやアウンサン以下の独立義勇軍らは、ことごとく日本軍の行為を不信視し不満の念を高めていった。同時に南機関長鈴木大佐も上層部に反発を強めて行った。
●要するに南方軍第3課高級参謀石井秋穂大佐は、ビルマの独立は早すぎると強硬に反対し、独立政権ではなく単なる行政府を作らせ、それを軍司令官の命令下に管理するのが順序だと主張したのである。3/23杉山参謀総長らが南方巡視に来た時にもこの意見を主張し、結局南方軍は中央を動かし、この方針で第15軍を指導していったのである。
●一方東京においては、1942年(昭和17年)1/21、東条首相が議会で包括的な占領政策を明らかにした。東条首相は施政演説「大東亜戦争指導の要諦」で以下のように述べた。
さらに現地においても、第15軍司令官が翌1/22にビルマ1600万民衆に呼びかけた。下段の布告である(要旨)。この布告は、ただちにビルマ語、インド語に翻訳され、またラジオを通じて放送された。
これを聞いたビルマ人は、独立の時機については明言されてはいなかったが、いよいよ独立の日が近いと歓喜してこの声明を迎えた。
さらに2/10には東京から南方軍に対して「ビルマの独立をラングーン攻略の前後において行なうように指導せよ」と電報もあった。
次いで2/15シンガポール陥落を機に、翌2/16東条首相は貴衆両院本会議において次のように演説した。
●このビルマ独立問題は、中央、南方軍、第15軍、南機関それぞれが異なった思わくを持っていたため種々の問題が生じた。結局南方軍だけが早期独立反対であったが、特に第3課高級参謀石井秋穂大佐による強硬な反対論が、全体を押し切ったといえる。
ビルマ独立義勇軍の兵員は、義勇軍が編成された1941年(昭和16年)12月の時点で、概ね300人だった。それがラングーン占領前(1942年2月末頃)になると、義勇軍の兵力は約4860人に増加した。
●さらに日本軍のビルマ攻略作戦が終わる頃(1942年5月末)には、ビルマ独立義勇軍各部隊の兵力は概数約27,000人とさらに増加した。その内訳は中、北部ビルマ独立義勇軍約10,000、南部ビルマ独立義勇軍約2,000、護郷軍約15,000であった。
特にこの護郷軍の増加が著しかった。この護郷軍は、日本軍や義勇軍の通過後の占領地域が無警察状態に陥る危険を防止するため、義勇軍の別動隊として随所で編成された。彼らは、敵敗残兵の掃討や治安の維持を任務とした部隊であった。
●だがこのような急激な膨張は、不純分子の混入や幹部の逸脱行為を生んだ。さらにラングーン攻略後もビルマ独立を与えられなかったことに対する不満から、日本軍に対するレジスタンス(通信線切断など)なども行われるようになった。
●そこで15軍は、ビルマ独立義勇軍を一旦解散し、その中から3000から〜5000人の正規軍を作り、同時に幹部養成機関を設置して軍紀厳正な軍隊を作ることとした。そしてもし今後それ以上の軍隊が必要とされる場合には、これを基幹として拡充強化するといった結論に達した。
そして同時に南方軍の方針に従わない「南機関」の解消を断行し(6/10)、鈴木敬司大佐を更迭(?)(6/18)した。鈴木大佐は近衛師団司令部付に異動が発令された(さらに8/1第7師団参謀長に転出)。鈴木大佐は、職を辞する覚悟でビルマ早期独立の意見を変えなかったのである。またビルマ義勇軍の不満も高まっており、もし義勇軍を解散すれば、不測の事態がおきる可能性もあったという。
南機関の解消に伴い、その要員の大部分は、第15軍司令部付きとなり、新しく誕生するビルマ防衛軍の指導要員として残留することになった。
●7/5鈴木大佐は内地帰還に先立ち、ビルマ義勇軍の総指揮をタキン・オンサン(=アウンサン)に委譲した。新たにビルマ独立義勇軍の最高指揮官になったアウンサン中将は、正規軍の集結、不正規軍の解散、警察機関への移管などについて7/8命令を下した。下にその一部でアウンサンらしい細やかな命令文を紹介する。
4 BIA集結の際各指揮官は必要なる給与並に交通に関する援助を近在の日本軍並に地方行政機関に受くべし。
もしその何れの援助をも得られざる場合といえども、現在駐屯せる地域よりは必ず撤退し歩行にても集結を完了すべし。
然していかなる理由ありとも、人民よりいかなる形の乗物も徴発すべからず。持主の同意を得たる場合はこの限りに非ず。必要なる食料を得るため、もし料金を所持せざる場合地方人より借入ないし寄附を受けることを得。但し借入金は予が必ず返却することを約す。・・・・
一部分(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「ビルマ攻略作戦」
●以上の命令により、北伐のため前進したビルマ独立義勇軍は、マンダレー、ペグー等に集結を始め、その他の不正規軍は逐次解散し、集結した兵力は7000〜8000名と推定された。そしてこの中から約3000名の精鋭を選抜して、新しい軍を編成した。これは大変困難な事業で、兵士の選抜は日本の徴兵検査を参考にして行われた、という。
●こうして1942年(昭和17年)7/28、ビルマ防衛軍は行政府の成立(8/1)に先立って編成された。
職位・階級・氏名など |
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●軍司令官・ビルマ防衛軍大佐・オンサン●参謀長・中佐・オンタン●高級副官・中佐・ラペー●歩兵第1大隊長・中佐・シュモン●歩兵第2大隊長・少佐・ヤンナイン●歩兵第3大隊長・少佐・ララモン。 (出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「ビルマ攻略作戦」 |
1942年(昭和17年)6/3、第15軍飯田軍司令官は全ビルマ民衆に対し、軍政の施行および中央行政機関設立のための準備委員会を結成する旨を布告し、民衆の協力を要望した。軍政の施行にあたっては、なるべくこれまでの行政機関を活用するのが中央の方針であった。だがイギリスの植民地総督下の政治思想を払拭する必要があった。
8/1の行政機関開庁に対する軍命令には下のようにある。(一部抜粋)
1 凡(あら)ゆる施策の目標を大東亜戦争の完勝に置くべし。戦争の勝利のため日本軍の要求は絶対優先に扱うべし。
2 日本を中心とする大東亜共栄圏の一環として大東亜共栄圏の建設に努むべし。
3 凡(あら)ゆる部面に亘(わた)り英国の羈絆(きはん)を脱し英国色を払拭し真に亜細亜の緬甸(ビルマ)たるの面目に復帰すべし。旧来の陋習(ろうしゅう)は之を打破すべし。
6 教育に於ては拝英米思想を絶滅し大東亜共栄圏理念を徹底せしむると共に速かに 日本語の普及を図り英語の使用を避くるに至らしむべし。
(・・中略)
さらに「行政庁組織要領」の権限のなかには次のようにある。
第4 行政府長官は軍司令官の指揮命令を受け、各部及直轄局の事務を指揮統括す。
第6 行政府長官官房長は官房業務(政務一般に関する長官の幕僚業務)を指揮し、特に軍政目的の達成に遺憾なからしむる如く行政長官の政務執行を補佐す。
第10 行政府長官及各部長官は、所管事項に関し軍政監の承認を受け、軍司令官に意見具申することを得。
一部抜粋(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「ビルマ攻略作戦」
行政府・長官・氏名 |
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●行政府長官兼内務部長官ドクター・バー・モウ、●財務部長官ドクター・テイ・モン、●農務部長官タキン・タントン、●林務部長官タキン・トンオク。●商工部長官ウ・ラ・ペ。●交通灌漑部長官タキン・バセイン、●教育衛生部長官ウ・バ・ウイン、●司法部長官ウ・トン・オン、●土木復興部長官バンドラ・ウセイン、●行政府附を命じ部長待遇とし長官会議に列せしむ、タキン・ミヤ。 |
●行政府長官官房長・(陸軍司政長官高野源進) (出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「ビルマ攻略作戦」 |
●ドクター・バー・モウ(バモオ博士)は1940年8月以来投獄されていたが、1942年4月に脱獄して日本軍にみいだされた。日本軍は新生ビルマの首長としてふさわしい人物を探していた。そこでビルマ人に精通している人々や有力者に意見を聞いたところ、ドクター・バー・モウを第1人者として推したのである。当時第15軍首脳部は、バー・モウの堂々たる風貌と、滔々(とうとう)たる弁舌に接し、かつ、これまでオンサンもビルマ将来の指導者としてバー・モウを推称していた関係もあって、なんらの異論なくバー・モウ支持に固まっていった。
バモオは1893年2月に生まれた。父親は1885年に英国に滅ぼされたビルマ王国(コンバウン朝)の高官で、彼は裕福な家庭で育った。バモオはラングーンに出ると、カトリック系ミッションが経営する高校を卒業し、当時ビルマ州で唯一の高等教育機関だったラングーン・カレッジ(2年制)に進みそこを卒業した。その後インド本土のカルカッタ大学(4年制)に編入し、さらに英国に留学してケンブリッジ大学およびグレイズ・イン法学院をそれぞれ卒業、英国の法廷弁護士の資格をとった。続いてフランスのボルドー大学に進み、1924年、哲学博士号を取得、ビルマ人で最初の博士となった。このとき31歳である。こうした輝かしい学歴は植民地ビルマではきわだっていたので、敬意をこめて彼をバモオ博士と呼ぶ人が多かった。一方で、あまりの高学歴ゆえに一般の人々とのあいだに溝ができる要因にもなった。
抜粋(出典)根本敬著「物語 ビルマの歴史」中公新社2014年刊。
また行政府設立に関連する第15軍司令官飯田中将の回想の中にバモオ博士についての記述がある。
(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「ビルマ攻略作戦」
ビルマ独立については、その後も南方軍の第3課高級参謀石井秋穂大佐による強硬な反対論により、インド工作などの関係から早期にビルマ独立の実現を求める動きはあったが保留にされていた。
●ところが翌1943年(昭和18年)1/28、東条首相は議会で次の演説を行った。これにより南方軍のビルマ独立・時期尚早論にかかわらず、中央の意向が明確に示され、ビルマ独立は決定的となった。ビルマ民衆はこの演説を聞いて沸きかえった。
(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「ビルマ攻略作戦」
(注)「シャン」諸州と「カレンニ」州は行政府の管轄外地域だった。
年 | 内容 |
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1943年(昭和18年)2/5 | ビルマでは「ビルマ建国声明慶祝記念行事」が行政府が支援して大々的に行われた。 |
3月バー・モウ一行来日 | 東条首相がバー・モウ一行を日本に招き、ビルマ独立に関する日本政府の意向を伝えた。一行の顔ぶれは、行政府長官ドクター・バー・モウ。内務部長官タキン・ミヤ。財務部長官ドクター・テイ・モン。防衛軍司令官オン・サン。第15軍からの同行者は、櫻井顧問。高野司政長官。磯村少将だった。 ●一行は3/18東京着、3/29東京発で帰国したが、この間東条首相はじめ各省大臣に会い種々懇談した。東条首相からは独立に関する日本国の明確な意思表示を受けた(下段で引用)。そして帝国議会の傍聴、宮中参内、明治神宮、靖国神社参拝などの諸行事を行った後、3/29に離京、関西方面を旅行しながら4/14ビルマに帰った。 |
3/27新設されたビルマ方面軍司令官河辺正三中将 | 河辺中将は3/18宮中で親補式を終え、3/20には陸軍省にて軍務局長と会談、東条首相からはバー・モウに示達する内容について説明を受けた。これは「ビルマ国独立指導要領」と「東条内閣総理大臣よりビルマ行政府長官一行に対する示達」で、大本営政府連絡会議で決定をみたものである。上の「・・ビルマ行政府長官一行に対する示達」は、「ビルマ国独立指導要領」を要約したものである。 翌3/21河辺中将は陸軍大臣官邸でバー・モウ一行と会談し、3/22首相官邸における首相とバー・モウ一行の会見に立会した。 |
第2 指導要領
3 3月中旬頃「バー・モウ」及所要のビルマ要人を招致し政府より独立許容を正式に示達す。
4 現地軍司令官は中央と密に連絡し其の指導の下に「バー・モウ」を中心とし所要の人員を以て独立準備委員会を編成せしめ、先ず建国の精神を確立し次て独立後に於ける新ビルマ国の形態、組織及独立への転移に伴う諸般の施策等を立案審議せしむ。日本人は本編成に入ることなく之を指導するものとす。
5 独立準備間より現行政府長官「バー・モウ」を以て新ビルマ国の指導者たらしむる如く諸般の施策を進むるものとす。
6 独立の時期は昭和18年8月1日と予定し、其の準備完了は概ね6月下旬を目途とす。
7 独立に際し米、英に対し宣戦せしむ。(後略)
(別冊)ビルマ国及日緬関係の基本形態。
第3 日緬関係の大綱
8 帝国はビルマ国政府内に少数精鋭なる日本人を配置し之が指導に任ぜしむ。 右日本人はビルマ国官吏とせず。
第5 軍事
13 帝国との間に軍事上完全協力を約し帝国軍隊の為一切の便宜を供与す。所要に応じ帝国軍隊の為の施設等を担任す。
14 ビルマ防衛に必要なる陸海軍を保有す。但し兵力量及編制の決定は実質的に帝国之を指導す。 ビルマ国軍は戦時の用兵作戦に関し夫々在緬帝国陸海軍最高指揮官の指揮を承く。 (後略)
(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「ビルマ攻略作戦」
年 | 内容 |
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1943年(昭和18年)5/8 | ビルマ方面軍は、ビルマ側の準備業務のため、ビルマ独立準備委員会設置に関する方面軍命令を下し、5/8委員の任命を行い、バー・モウを長とする独立準備委員会が成立した。 日本側は、ビルマ独立に関する直接の輔導を、軍政監部総務部長磯村武亮少将および高野源進、大迫元繁両司政長官が行った。 |
1943年(昭和18年)8/1 ビルマ独立 |
7/20前後には独立準備も整い、7/25には独立宣言案文もでき、7/28には日緬軍事協定に対するバー・モウの調印も終わった。この間日本政府は次の条約案等が大本営政府連絡会議において了解決定された。それは、 「日本国ビルマ国間同盟条約案」、「ビルマ国独立に関する帝国声明案」、「マレー及シャン地方に於けるタイ国の領土に関する日本国・タイ国間条約案」であった。 ●こうして独立式典が旧総督官邸における建国議会の召集によって開幕した。この式典にはインド独立連盟会長スバス・チャンドラ・ボースが参列した。そして独立宣言書が読み上げられ、ビルマは永久に独立主権国家として英国から完全に離脱したことを内外に宣言した。そして暫定憲法ともいうべき国家構成の基本法が審議可決され、満場一致で前行政府長官バー・モウ博士が国家代表に選ばれた。最後に日緬同盟条約が沢田特命全権大使とバー・モウ国家代表との間で調印され、条約は成立した。 |
ビルマ国内閣閣僚 | ●首相 バー・モウ、●副首相 タキン・ミヤ、●内相 ウ・バ・ウイン、●外相 タキン・ヌウ、●財務相 テイン・モン、●国防相 オン・サン少将、●収税相 ウ・エ、●法相 ウ・テイン・モン、●教育保健相 ウ・ラ・ミン、●農相 タキン・タン・トン、商工相 ウ・ミヤ、●交通灌漑相 タキン・レイ・モン、●林務相 ウ・ラ・ペ、●厚生宣伝相 バンドラ・ウ・セイン、●協力相 ウ・トン・アウン、●土木復興相(内定)タキン・ルン・バウ。 (出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「ビルマ攻略作戦」 |
だが日本国とビルマ国との間には、バ・モウ政府の一部の閣僚しか知らされなかった「軍事秘密協定」が締結されていた。「緬甸(ビルマ)国独立指導要領」にもあった内容でもある。ビルマ国駐屯日本国陸軍最高司令官河辺正三、ビルマ国駐屯日本国海軍最高司令官大河内伝七、ビルマ国国家代表バー・モウが調印した。下でその一部を抜粋した。
第1条 日本国陸海軍軍隊は大東亜戦争遂行間緬甸(ビルマ)国内に於いて現に有する軍事行動上に一切の自由を保有す。ビルマ国政府は前項の事項を承認すると共に日本国陸海軍軍隊に対し軍事行動上必要なる一切の便宜を供与することを約す。
第2条 緬甸(ビルマ)国政府は大東亜戦争遂行間共同防衛を全うする為、ビルマ国陸海軍を用兵作戦に関し夫々ビルマ国駐屯日本陸海軍 最高指揮官の指揮に入らしむことを約す。
(この条文に関する細部の協定には)
第1 緬甸(ビルマ)国政府は大東亜戦争遂行間ビルマ国に駐屯する日本国陸海軍軍隊の交通、通信、航空、宿営、給養、演習、訓練、徴発及労務者の供出其他諸般の要求に応じ且日本国陸海軍軍隊に対する一切の便宜を供与するものとす。(後略)
(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「ビルマ攻略作戦」
●イギリス軍は、1942年(昭和17年)5月以降ビルマ全土を占領した日本軍に対して、早くも1942年雨季明けの10月から、空軍力を強化し主要都市や日本軍基地の爆撃を強化した。このイギリス軍による空襲がビルマ民衆を苦しめた。一方の日本軍の航空戦力は、陸軍の第5飛行師団がビルマ作戦に投入されたが、ビルマ各地での激烈な航空戦で戦力を消耗していった(日本軍は制空権を失っていく)。(有名な加藤建夫隼戦闘隊長《飛行第64戦隊》が戦死したのは1942年5月、ビルマの第64戦隊の駐屯するアキャブ飛行場付近の空中戦だった。)
●日本軍の占領各地で見られた憲兵による地元民に対する拷問も、ビルマの人々を恐怖に陥れた。戦後長らくビルマ語で「キンペイタイン」という言葉で残され、日本軍の「残虐」「無慈悲」の代名詞として使われた。また平手打ち(ビンタ)もビルマの人々には大変屈辱的な行為で、日本軍は憎しみと軽蔑の対象となった。さらに日本兵によるレイプもビルマ社会に大きな不安と嫌悪感を与えた(「慰安婦」もビルマ戦線には存在した)。
また、はだしで入るべきパゴダの境内に軍靴のままあがったり、人前で裸を見せることを極端に嫌うビルマ人の価値観を無視して、平気で彼らの前で全裸になって水浴びしたことも、日本軍に対する反感につながった。ビルマ人の文化を恥辱する行為であった。
●また日本軍の占領期において日ごとに悪化した経済もビルマ民衆の生活を圧迫した。コメの輸出は戦前の10分の1以下に激減し、作付面積と生産量も大幅に減った。さらに加えて日本軍による家畜の徴発、労働者の徴用、労働力不足、空襲による交通・流通網の崩壊が人々を苦しめた。物不足によるインフレは天井知らずに進行し、1942年前半期と1944年後半期の卸売物価指数は87倍にまで跳ね上がった(特に衣料品の不足は深刻だった)。
(出典)根本敬著「物語 ビルマの歴史」中公新社2014年刊
※ここでは根本敬著「物語 ビルマの歴史」中公新社2014年刊から、コラム「ビルマ人の名前」ついて少し紹介しておく。
●アウンサンスーチーは「アウンサン家のスーチーさんではない」。「アウンサンスーチー」でワンセットである。ビルマには一部の少数民族を除いて、姓にあたるものがない。
かっては男女とも1音節ないし2音節の名前が多かった。例えば「ウー・ヌ」(独立後の初代首相)や「ウー・タン=ウ・タント」(第3代国連事務総長)の「ウーやウ」は成人男性につける敬称なので、名前は1音節の「ヌ」「タン」である。でも1音節とはいえ「ヌ」はやわらかいを意味し、「タン」は清いを意味する。女性の敬称は「ドオ」である。
●一方で1970年代あたりから3音節の名前が増えてきて、1990年代以降は4音節ないしそれ以上の名前も目立つようになってきた。これには父や母、あるいは祖父や祖母の名前の一部ないしは全部をつけて、姓にあたるものを示したいという心理があるという。「アウンサンスーチー」はこれの典型で、父から「アウンサン」、祖母から「スー」、母から「チー」をそれぞれとって名前とした。それぞれの意味は「アウン」=勝利、「サン」=特別、「スー」=集める、「チー」=澄む、とある。
イギリスによるインド植民地支配の始まりは、今から250年以上も前のことである。18世紀(1765年)イギリスの東インド会社が、ムガル帝国のベンガル州とその北西のビハール州両州を植民地化したことから始まった。その後東インド会社は、直轄領土をベンガル管区、マドラス管区、ボンベイ管区と広げた。そして1784年には、ベンガル知事がベンガル総督に格上げされ、マドラス管区、ボンベイ管区を統括した。ここでは「新版世界各国史・南アジア史」山川出版社2004年刊などから概略や要点を書きだした。
一方、イギリス議会は各種の「インド統治法」によって、東インド会社への統制を強化していった。これによりイギリス東インド会社はインド植民地統治機関としての性格を強めていった。
そして1833年に改定された東インド会社特許法により、ベンガル総督は「インド総督」となり、東インド会社は貿易会社から植民地統治機関へと変わっていったのである。
19世紀に入りイギリス東インド会社は、次々と藩王国を攻撃し、それぞれの管区を拡大していった。こうして1849年には第2次シク戦争でシク王国を滅ぼし、広大なパンジャーブ地方を獲得した。これにより東インド会社によるインド征服は完了したともいえる。
藩王国とはイギリスによってある程度旧支配者による自治を認められていた国・地域をいうが、保護国のようなもの。藩王がヒンドゥー教であればマハーラージャ、イスラム教であればナワーブなどと呼ばれた。
●だが東インド会社がインド全土を直接統治したわけではない。そこには藩王国領が複雑に入り組んでいた。左図参照。1947年(第2次世界大戦後)のインド独立時点でも、藩王国数は約560、面積はインド全体の1/3(=3分の1)、人口は1/4(=4分の1)が藩王国に属していたのである。
東インド会社によるインド領土は、知事州(管区)、準知事州、地方長官州などが入り混じり、その独立性も異なり、きわめて複雑な体制となっていた。こうしたことから、イギリス本国においても、1企業(株式会社)が植民地を支配する事自体が問題となっていった。
●そして1857年「インド大反乱」が起きた。東インド会社は、この責任を問われる形で解散し、1858年イギリスはインドを直轄植民地とした。
左地図は「英領インド全図(1858年)」をもとに、3管区ごとに色分けしたイメージ図。(出典)新版世界各国史・南アジア史、山川出版社2004年刊
このインド大反乱が起きる前のインドには次のような問題があった。
①インド財政の根幹をなしたイギリス地租制度が農村を荒廃させた。
左図はイギリス東インド会社の1793年からの地租収入と同じ期間の全歳入の一覧である。この表では全歳入に対する地租の割合と年計も追加記入した。(出典)新版世界各国史・南アジア史、山川出版社2004年刊
●左表にあるように、1836年までの各年の合計をみても、歳入合計に占める地租収入合計は、58.8%にのぼる。イギリスが導入した地租制度はインド農村に決定的な影響を与えた。特に大きな影響を与えた地租制度は、ザミーンダリー制度とライーヤトワーリー制度だった。
●このザミーンダリー制度とは、ザミーンダール(地主、領主的大地主、徴税請負人)に土地所有権を認め、かわりに徴税義務を負わせたものである。東インド会社はザミーンダールと毎年の納税額を取り決め徴税を任せ、本来のベンガル管区とマドラス管区の北サルカールに導入した。またライーヤトワーリー制度は、ライーヤトと呼ばれる富裕農民を地主と認定し、彼らから直接地税を徴収する制度で、マドラス管区の大部分とボンベイ管区で実施された。
(注)このザミーンダールとは、16世紀からのムガル帝国時代に、地税の徴収を一定の権益を許されて行っていた豪農(あるいは領主的大地主)がそう呼ばれていた。
●1793年に永代ザミーンダリー制度がベンガル管区に導入された。この永代とは、その年の地租取り決め額をこれ以降永久に固定し、増額しないという制度だった。だが地租は高額で、ザミーンダールの全収入の約9割を占める程高額であったため、多くのザミーンダールが破綻に追い込まれた。また同時に永代ザミーンダリー制度により、従来から農民の持っていた土地に対する権益が、ザミーンダールに土地所有権が法的に移ったため、農民は一夜にして単なる借地人(小作人)に落ちてしまった。さらに破綻したザミーンダールの権利(ザミーンダーリ)が売買され、それを購入した商人や高利貸しなどが農民にたいして過酷な取り立てを行い、さらに没落する農民もでた。彼らは借金のかたに土地を取り上げられ、農業労働者や流民と化し、農村は荒廃していったのである。東インド会社はザーミンダールを利用して、莫大な地税の徴収に成功した。
②司法制度とカースト制度
イギリス東インド会社は、民事・刑事裁判所を、東インド会社が制定した法によって運用した(最高法院のみイギリスの法律)。だが民法とくに家族法の分野では、全てのインド人に適用できる法は制定困難のため、ヒンドゥーには「シャーストラの法」を原則として適用し、カースト集団内部の諸問題は「カースト問題」とし、民事裁判所の管轄外とした。
●この「シャーストラの法」というのは、「マヌ法典(=紀元前後成立)」や「ヤージュニャヴァルキア法典(=マヌ法典の少し後に成立)」などをヒンドゥー民法の法源とすることであった。つまりこの19世紀のインド社会を、これらの古典にのっとって判断することを意味したのである。インドにおいては、宗教や地域あるいはカーストの違いによってさまざまな慣習法がみられ、それらを画一的に適用できるような民法典を制定すること不可能だった。イスラム教徒に対してはコーランの法を適用した。(カーストについては下段で基本的な概略を述べる。)
●だが統治者であるイギリス人が、この「マヌ法典」をある意味重要視したことによりさまざまな問題を引き起こした。一例をあげると、「マヌ法典」によれば、ヴァルナ(種姓)としてインド社会は、「バラモン」「クシャトリヤ」「ヴァイシャ」「シュードラ」からなり、第5のヴアルナは存在しないとされた。つまりイギリスは現実に存在する「不可触民」を隠蔽し、その差別を放置したのである。
●またその人の属するカーストがどの「ヴアルナ」に帰属しているかによっても判決に差異がでた。このことは逆に、古典的な「ヴアルナ」帰属が重要な意味をもつようになり、カースト同士の結集や差別の拡大にもつながっていった。イギリスは1871年からの国勢調査においてもカーストの項目を入れ、ある意味でカースト差別を助長したともいえる。
●またイギリスがカースト内部の問題を「カースト問題」として関与することをやめ、「カースト自治」にまかせたことにより、さらにカーストがその成員に対して規制力を強める結果となった。カーストは一種の法人として認められ、そこで制定された規則は法に準ずる効力を持つとみなされた。
③問題のある慣習に対する立法処置とインド人の反発
●1829年サティー禁止法・・これは残された寡婦が亡夫の荼毘の火に身を投じて殉死することを禁止したもの。『これは亡夫の親族の強制によっておこなわれることも多く、アヘンを無理やり飲ませるなど多くの問題があった』(サティー挿絵の文より(出典)新版世界各国史・南アジア史、山川出版社2004年刊)この慣習は一般の階層ではみられず、主としてクシャトリヤを誇るラージプートなど高位の階層で見られた。このサティーについてはキリスト教宣教師のあいだから厳しい批判が出され、イギリス本国にも知られるようになった。だがこのサティー禁止法が施行された後、ベンガル地方で一時的にしろサティーがかなり増大したということは、インド人側が強く反発したことを示していた。
●寡婦再婚禁止と女子の幼児結婚問題・・・この寡婦再婚禁止は高位のカースト、とくにバラモンの諸カーストで見られた。寡婦は実家に帰るか、婚家にとどまり強い抑圧をうけて家内労働に従事するかの、いずれかしか選択肢はなかった。またインドでは女子の幼児結婚の風習があり、実際の結婚生活に入る前に夫に死なれ、少女寡婦になってしまうこともあり、寡婦の問題は社会問題となっていた。その解決策は寡婦の再婚を認めることだった。
そして1856年ヒンドゥー寡婦再婚法が制定された。これにより寡婦の再婚に法的障害はなくなったが、実際に再婚することは困難であった。インド社会の反発は強かったのである。
また幼児結婚に関しても、女子の「同意年齢」を10歳から12歳にひきあげるインド刑法の改正が1891年に行われたが、インド各地では激しい反発と抗議行動が起こった。
そんな中から後のヒンドゥー主義(ヒンドゥー至上主義)につながる動きがあらわれた。その概念が「サナータナ・ダルマ」といわれ、「古代以来永遠につづく教え」「変わることなく継承されてきた正統の宗教」という意味で、西洋近代思想に対してインド伝統を主張するものであった。そしてこれが民族主義的な政治的覚醒と結びついて、ヒンドゥー至上主義的な運動となっていくのである。
ここでは、基本的と思われる次の項目について述べる。「インド憲法におけるカースト差別の禁止」、「カーストとダリト差別」、「ヴァルナの始まり」など。
●インド憲法におけるカースト差別の禁止
最初にインド憲法(1949年11/26成立)の第3編(基本権)第12条~第35条からカーストに関わる条文を引用する。インドは憲法において、宗教、人種、カースト、性、血統、階級、言語、出生地、住所、不可触民などに対する差別を無くすことを宣言した。そして「不可触賤民制」を廃止し、こういった慣行はいかなる形式においても禁止したのである。(出典)「人権宣言集」岩波書店1957年発行、1984年第32刷発行。
(総則)第12条~第13条(略)。
(平等権)
●第14条 国は、インド領内においては、何人に対しても、法の前の平等または法律による平等な保護を否定しない。
●第15条(1)国は、市民に対して、単に宗教、人種、カースト、性、出生地(の全部)またはその一つのみを根拠として、差別待遇をしてはならない。
(2)市民は、単に宗教、人種、カースト、性、出生地(の全部)またはその一つのみを根拠として、つぎの点(=以下のa,b)について、無能力とされ、責任を負わされ、制限をうけ、または条件を課せられることはない。
(a)商店、一般の用に供されている食堂、旅館、公共の娯楽場への立入り、または、
(b)井戸、水槽、沐浴場(bathing ghat)、道路および公共の保養地で、全部または一部、国の資金で維持されているもの、または一般公衆の用に供されているものの使用。
(3)本条の規定は、国が婦人および少年に対して特別の規定をなすことをさまたげるものではない。
●第16条 (1)国の下にある官職への雇用または就任に関する事項については、すべての市民に平等の機会が存在すべきものとする。
(2)市民は、単に、宗教、人種、カースト、性、血統、出生地、住所(の全部)または一つのみを根拠として、国の下にある官職への雇用もしくは在職の能力なきものとされ、またはそれに関して差別待遇をうけることはない。(3)~(5)(略)
●第17条 「不可触賤民制」は廃止され、そのような慣行はいかなる形式においても禁止される。「不可触賤民制」に起因する無能力を強制することは、法律によって刑罰を科しうる犯罪とする。
第18条(略)。(自由権)第19条~第22条(略)。
(搾取されない権利)
●第23条(1)人身売買、賦役(begar)、その他同様の形の強制労働は禁止される。この規定の違反は、法律によって刑罰を科しうる犯罪とする。
(2)本条の規定は、国が公共の目的のために強制奉仕を課することをさまたげるものではない。このような強制奉仕を課するにあたっては、国は、単に、宗教、人種、カースト、階級(の全部)または一つのみを根拠として、差別待遇をしてはならない。
●第24条 14歳以下の児童は、工場もしくは鉱山における作業のために雇用され、または、他の危険な業務に従事せしめられてはならない。
(宗教の自由の権利)第25条~第28条(略)。
(文化および教育に関する諸権利)
●第29条(1)インド領内またはその一部に居住する一部の市民が、それ自身の独自の言語、文字、または文化をもっている場合には、かれらはこれら《独自の言語、文字、文化》を維持する権利を持つ。
(2)市民は、何人も、単に宗教、人種、カースト、言語(の全部)または一つのみを根拠として、国によって維持されている教育機関または国の資金から援助をうけている教育機関への入学を拒まれることはない。
●第30条(1)宗教にもとづくものであると、言語にもとづくものであるとを問わず、すべての少数者は、その選択する教育機関を設立し運営する権利を有する。
(2)国は、教育機関に援助を与えるにあたっては、ある教育機関が、宗教にもとづくものであると、言語にもとづくものであるとを問わず、少数者によって運営されているものであるということを根拠として、これに対して差別待遇をしてはならない。
(財産権)第31条(略)。(憲法上の救済をうける権利)第32条~第35条(略)。
●カーストとダリト差別
「カースト」という語は、16世紀インドに進出してきたポルトガル人が、インドにある4つの「ヴァルナ(色)」と3,000の「ジャーティ(生まれ・職業集団)」のことをそう名づけたことに由来する(カスタ=血統・血族)。また「ダリト・ダリット」とは古代から使われてきた「差別される者」を意味し、「不可触民=触れてはいけない者」あるいは「アウトカースト=カースト外の者」のことをいったが、自らをダリトと名乗ることも多い。
●ここでは「インド残酷物語」(世界一たくましい民)池亀彩著、2021年発行より、「解説:カーストとダリト差別」などから用語の意味などを簡単に書きだした。「カースト」という語はもともとインドにはなく、概念で対応するのは「ヴァルナ」と「ジャーティー」の2つ、とある。
用語 | 意味 |
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ヴァルナの4種姓 | ヴァルナとは元々は「色」を意味する。この4種姓と呼ばれるのは、上からバラモン(司祭階級)、クシャトリヤ(王族・武士階級)、ヴァイシャ(商人階級)、シュードラ(農民・サービス階級)である。かっての不可触民であるダリトや山岳地域の部族民(アーディヴァーシー)はこの枠組みの外におかれる。だがこのヴァルナというものは、カーストの本質ではなく、バラモンによるインド古典における理想社会の大枠を示したものに過ぎない、とある。 |
ジャーティー(集団概念) | インド人やインド研究者がカーストという場合、多くはジャーティーを意味する、とある。ジャーティーは世襲的な職業(生業)に結びつけられ、その内部でのみ婚姻関係が結ばれる(内婚制)。この生業と内婚規則で維持されるカースト(ジャーティー)には、大工、石工、洗濯屋、金貸し、床屋、羊飼いなど、さまざまな集団がある。その数は2,000とも3,000ともいわれる。またこのジャーティーは副次的なサブ・カーストに分かれていたり、あるいはさらに複雑な入れ子状態にもなっている。 |
ヴァルナとジャーティーの関係 | この関係は簡単ではない。あるカースト(ジャーティー)が特定のヴァルナに固定されているわけではない。またあるヴァルナの集団が特定のカースト(ジャーティー)になることを決められているわけではない。一例として、ある土地持ちの農民カースト(支配カースト)は、他のカーストからはシュードラと思われているが、しばしばクシャトリヤ階級に属すると主張する、と述べられている。自分のカーストがどのヴァルナに属しているかは、カーストにとって大きな問題となる。 (注)だがあるジャーティーに身分としてのヴァルナ(色)が付けられ、生まれながらにして不平等を正義とする社会となっている現実の方が問題であろう。 |
カースト別の人口比 | 国勢調査におけるカースト別人口は1931年以降公表されてはいない。1931年の国勢調査では、バラモンは人口比4.32%(南インドではもっと低く3%程度)、ダリトの人口は2011年の調査で明らかにされており、それによれば16.6%と、実に2億人の人々がいまだに過酷な差別を受けている、とある。 (注)現代インド(2022年)においても殺人や陰惨な女性(子供も含む)に対する強姦殺人事件がニュースとなっている。これらの被害者はダリトであることが多い。差別どころではなく虐殺である。(私見) |
●古代インドのヴァルナ
ここでは「不可触民とカースト制度の歴史」小谷 汪之著、明石書店1996年発行より「古代インドのヴァルナ制」からカースト制の始まりの部分を抜粋・要約してみる。
●その起源は紀元前1500年〜紀元前1200年にかけて、アーリヤ人たちがインド亜大陸に進出した時代から始まるという。ヴァルナの意味することがいくぶんか理解できそうである。
項目 | 意味 |
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アーリヤ人 | インド亜大陸に進出した彼らは、自らを「アーリヤ」(=神則を守る・高貴な、という意味)と称し、その地で自分たちより肌の黒い先住の人々を見いだし、彼らを「ダーサ」あるいは「ダスユ」と呼んだ。 |
インド最古の文献「リグ・ヴェーダ」によるヴァルナ | この文献(紀元前1000年頃)によれば、これらの2つの集団を「アーリヤ・ヴァルナ」、「ダーサ・ヴァルナ」という言葉で表現した。ヴァルナという言葉は、もともとはアーリヤ人が他集団と区別するための言葉だった。 |
「リグ・ヴェーダ」時代のアーリヤ人社会 | この時代にもある程度の社会階層の分化がみられるという。それは「リグ・ヴェーダ」の中に、「ブラーフマナ」(=バラモン)、「クシャトラ」(=クシャトリヤ)、「ヴィシュ」(=ヴァイシャ)という3つの社会階層について言及がみられるからである。ただ「ヴァルナ」という言葉はこれら3つの社会階層を示す言葉ではなかった。 |
紀元前8世紀頃までのアーリヤ人社会 | アーリヤ人たちは最初にパンジャーブ地方に定着し、その後ガンジス河の上流・中流へと進出していった。その過程の中でアリーヤ人とダーサは融合し、一つの混合社会を形成するようになっていった。そうした中で階層の分化が明確化していった。まず祭式を司る知識人階層としての「バラモン」、ついで統治を職務とするクシャトリヤの階層が形成されていった。この過程で「ヴァルナ」は、社会内部の諸階層を表現する言葉になっていった。 |
「プルシャ(原人)の歌。 | 「リグ・ヴェーダ」本体へ後世に付加された代表的なもので、さまざまな社会階層の存在を、神の創造の業に起因するものとして説明しようとするもの。(一部)
12 彼の口はブラーフマナ(バラモン、祭官階級)なりき、両腕はラージャニア(王族、武人階級)となされたり。彼の両腿(もも)はすなわちヴァイシャ(庶民階級)なり、両足よりシュードラ(奴婢階級)生じたり。(辻直四郎訳、岩波文庫)
このようにして、紀元前8世紀頃までには、ヴァルナという言葉はバラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラという4つの社会階層を表現する言葉になっていった。だが古代インド社会はこの4つのヴァルナ(身分階層)によって明確に区分された固定社会だったわけではない。この4つのヴァルナは、バラモンが描き出した理想的社会像を示すものであったと考えるべきであるという。紀元前2〜1世紀の社会状況を反映していると考えられる「マヌ法典」などの古典的なヒンドゥー法典では、ヴァイシャは農民を中心とする生産者諸階層、シュードラは上位3つのヴァルナに奉仕する人々の階層とされているからである。そして「マヌ法典」では「第5番目(の身分)は存在しない」としている。 |
古代インドの賤民層 | だが古代インド社会には、4つのヴァルナの枠外に置かれた賤民諸集団が存在した。彼らはさまざまな名称で呼ばれたが、その代表的なものは、「チャンダラー」であるが、その他にもニシャーダ、パウルカサなど多様な賤民集団がいた。この名称の多くは先住民族の部族名に由来するといわれる。 彼らは定住農耕社会の周辺に住み、しだいに彼らの一部は定住農耕社会の最低辺に組み込まれていった。そして死んだ家畜の解体、皮はぎや清掃、汚物処理の仕事をするようになった。仏典の「ジャータカ」には、「チャンダラー」は「もっとも下劣なもの」、「すべてのカースト(ジャーティー)から除外された者」、「穢れた(=マラ)」存在として、厳しい賤視を受けていた、と記されている。 |
「不可触民」身分概念の成立 | 古代インドにおいては、諸種の賤民層を「第5のヴァルナ」とする考えはなかったが、紀元後100年~300年頃成立の「ヴィシュヌ法典」において、初めて「不可触民」という言葉が出現した。
「不可触民」が「可触民」に故意に触れた時は体刑
山崎元一「古代インドの差別」 「カーティヤーヤナ法典」(「ヴィシュヌ法典」より後の、400年~600年成立)ではより規定が詳細になっていった。
●不可触民、低賤者、奴隷、異民族、逆毛関係から生れた者、が悪行をなした時、王はその判決を(前記の神裁によって)行なってはならない。疑いのある時には、(王は)彼らの間でよく知られた神裁を行なわしむべきである。
●不可触民、賭博師、奴隷、異民族、逆毛関係から生れた者、が悪行(暴力行為)をなした時、その罰は鞭打ちであり、罰金ではない。 山崎元一「古代インドの差別」 (注)(順毛)・・上位ヴァルナの男が下位ヴァルナの女と結婚する。(逆毛)・・上位ヴァルナの女が下位ヴァルナの男と結婚する。(逆毛)は許されない。 |
中国僧・玄奘の「大唐西域記」 |
ハルシャ王の時代(7世紀)に北インドに滞在した中国僧・玄奘(日本でも西遊記で知られる「三蔵法師」)の「大唐西域記」に、「ヴァルナ」と賤民層について次のような記述がある。「ヴァルナ」についての考えが変化してきたのである。そしてヴァルナ=ジャーティ制としてのカースト制度の形成に向かっていく。
●族姓(ヴァルナ)には4つの異なったものがある。第1はバラモン、すなわち浄行であり、道を守って貞潔な生活をしている。第2はクシャトリヤ、すなわち王種であり、仁愛の心をもって代々君臨している。第3はヴァイシャ、すなわち商人であり、商品を取引しつつ、利を求めて遠近に活動している。第4はシュードラすなわち農民であり、農作業に精を出している。
(また賤民層については) ●町や村の周囲には壁が広く高く回らされており、大小の道路が曲がりくねって通じている。道の正面には市門がそびえ、街路の両側には料理屋が立ち並んでいる。屠殺人、漁夫、役者、刑吏、除糞業者の住家は、町や村の外にあり、各家には標識がつけられている。また彼らが町や村を往来するときには、道路の左端を通らせる。 山崎元一「古代インドの差別」 |
この日ムガル帝国の首都デリーの近くのメーラト基地で、東インド会社の傭兵達(シパーヒー《セポイ》=インド人兵士のこと)が反乱を起こし、駐屯していたインド人兵士らはほとんど全員が反乱に加わり、イギリス人指揮官らを殺害しデリーに進軍を開始した。その後反乱軍はデリーに残存していたムガル帝国最後の皇帝バハードゥル・シャー2世を擁立し、大英帝国に宣戦を布告した。イギリスはこの反乱を鎮圧しようとしたが、反乱は収まらず、各地のイギリス軍事基地で次々と蜂起が起こった。最終的にベンガル管区軍の74の連隊のうち84%の62連隊が反乱を起こした。
さらにこの反乱は傭兵だけではなく、イギリスに併合されたばかりの旧アワド王国では、王妃がイスラム教徒の貴族や大地主層を従え反乱を起こした。またビハール州ではヒンドゥー教徒の大領主がゲリラ戦を展開しイギリス軍と戦った。さらに衝撃的なことは、マラーター同盟の盟主の嗣子とその武将たちが蜂起したことであった。
この大反乱は単に傭兵たちがイギリス対して反乱を起こしただけではなく、イギリスの併合政策に抗議した旧支配層はじめ都市部、農村部も含めた民衆全体の反乱となったのである。この反乱はインド人にとって、大英帝国に対する初めての独立戦争となった。そしてこの大反乱のシンボルとなり、インドのジャンヌ・ダルクと称えられたのが、マラーター同盟に属するジャーンシー王家の王妃ラクシュミー・バーイーだった。
(注)このマラーター同盟とは、18世紀になって衰退していくムガル帝国に代わって、インドを代表する勢力となり、イギリス東インド会社と3回の戦争(1775年~82、1802年~05、1817年~18)を戦った。当時、イギリスに対して最後まで抵抗したのは、シーク教徒、マラーター同盟、マイソール王国だった。
●だが9月になるとイギリス軍が反乱軍を圧倒するようになり、デリーが陥落するとムガル皇帝は戦列から離れたところを捕らえられ、裁判の結果ビルマの地で流刑死した。戦闘はその後アワドから地方へ移り、1年以上も続いたが鎮圧された。その中心となったのはマラーター同盟の残党ともいうべき人々だった。
大反乱のきっかけ。
反乱のきっかけは、新しく軍隊に装備されたライフル銃の弾薬包を、兵士が口で噛みちぎる必要があった。その紙製薬莢に塗られた豚や牛の脂が、インド人兵士(ヒンドゥー教徒、イスラム教徒)らの宗教的な拒否行動を生み、反乱につながった。この銃はエンフィールド銃といい、後のアメリカ南北戦争(1961年〜65年)でも大量に使われた。その後日本の戊辰戦争(1968年〜69年)では、南北戦争の終結にともない余ったこの銃が大量に輸入された。
(エンフィールド銃の簡単な説明)
この頃インド軍に新たに装備されたエンフィールド銃というのは、従来の小銃(マスケット銃)に比べて有効射程距離が90mから450mに伸び、命中精度、殺傷能力ともに革新的な進化をとげた小銃だった。
従来の小銃というのは、戦国時代の火縄銃のようなイメージである。ただ着火方式は、火縄→フリントロック(火打石)→パーカッションロック(雷管式)と進化し、雨や風の影響を受けずに、安定して迅速に着火・発射させることができるようになった。
だが新エンフィールド銃も旧マスケット銃も弾薬の装填方法は、前装式といわれる先端の銃口から火薬と弾丸を入れ、鉄の棒(さく杖《じょう》)で突っついて押し込む方法だった。
そしてこの弾薬を装填する時に使用したのが紙製弾薬包つまり紙製薬莢だった。これをペーパーカートリッジ(1発分の弾丸と火薬を一緒にしたもの)といい、エンフィールド銃でもマスケット銃でも使われた。銃口から弾丸を装填する際、ペーパーカートリッジを口や手で切り取り、なかの火薬を銃口から入れ、残った弾丸入りの包を銃口から鉄の棒(さく杖)で押し込んだ。このときの紙には、弾薬を押し込む時と弾丸発射時の潤滑やファウリング防止などのために油が塗られていた。銃弾が発射されると摩擦熱や火薬の爆発などにより、銃身内部に発射残滓(鉛や火薬の残滓)の汚れがこびり付いた。これをファウリングといい、これがひどいと銃自体が使い物にならなくなった。そこで銃弾を油が塗られた紙で包んで、これを防止することも大きな目的だった。そしてこの紙にしみこませていた油が牛脂や豚のラードだった。ヒンドゥー教徒が神聖視する牛、イスラム教徒がタブーとみなす豚、これらを口にすることは宗教的禁忌とされたのである。
重要な点 | ライフリングと銃弾 |
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ライフル銃 | エンフィールド銃は砲身の中にライフル(螺旋状の溝)を刻んだ。このことで弾丸がドリルのように回転しながら飛び出し、飛距離と命中精度を飛躍的に向上させた。一方のマスケット銃の砲身はただの鉄の筒で、火縄銃と同様のものだった。火縄銃やマスケット銃の弾丸は、丸いパチンコ玉のようで、小さければ装填は楽だが、弾丸はまるく無回転で飛び出すので、射程距離、貫通力、命中精度は低かった(複数の小玉を入れ散弾としても使った)。 |
銃弾の進化(構造の進化) | マスケット銃の丸い銃弾から、椎の実型に進化する。銃弾を小さくし装填を楽にすると爆発圧力が弾丸と砲身のライフリングのすきまから抜けてしまい、弾丸の威力は低下する。逆に銃弾を大きくすると銃口から押し込む際にきつくて装填が困難になってしまう。そこで銃弾を小さくし装填を楽にし、同時に銃身と密着させることができる銃弾が開発された。この銃弾は、発射されると弾丸の下部に埋め込まれた鉄製キャップが拡張してスカート状に広がり銃身のライフル部分と密着する弾丸である(ミニエー弾)。エンフィールド銃の弾丸(椎の実形)はこれとは構造が少し違って、発射されると弾丸の下部の浅い空洞が膨張し、弾丸の円筒形部分全体を拡張させ、ライフリング部分と密着させることで火薬の爆発圧力を高め、弾丸の威力を高めた(プリチェット弾)。後に弾丸下部に木製プラグを装着させたエンフィールド弾が開発された。 |
下の動画の銃は、イギリスのパーカー・ヘイル社が1970 年代に複製したエンフィールド 1853 ライフル マスケット銃で、1853年当時の銃ではないが、紙製弾薬包の装填方法がわかりやすいのでリンクしておいた。着火方式はパーカッションロック(雷管式)のようである。
*リンクします「britishmuzzleloaders」
YouTube「Loading and Firing the Parker Hale P53 Enfield Rifle Musket」
英印軍(インド植民地軍)の特徴。
イギリス東インド会社は、その軍隊の大部分をインド人傭兵が占めていた。その割合と人数は以下のとおりである。インド大反乱の前、インド人傭兵の数とその構成比は最大となっていた。少数のイギリス人が、大多数のインド人傭兵を指揮統括していたのである。そしてこのインド人傭兵こそが、イギリス東インド会社によるインド征服に貢献したといえるのである。
ところが19世紀半ばになり国内が安定してくると、インド人傭兵はビルマやアフガンなどインド国外への遠征にかり出されるようになった。そして1856年には海外勤務を受け入れなければ解雇するという通知も出された。この不満も大反乱の原因となった。下は「インドに駐屯するイギリス軍の構成」の表に%を加えたもの。(出典)新版世界各国史・南アジア史、山川出版社2004年刊
年 | イギリス人部隊 | インド人部隊 | インド人部隊の構成比 |
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1805年 | イギリス人部隊24,500人 | インド人部隊130,000人 | 84.1% |
1855年 | イギリス人部隊38,502人 | インド人部隊226,352人 | 85.5% |
1895年 | イギリス人部隊72,573人 | インド人部隊133,663人 | 64.8% |
(注)日本陸軍参謀本部が太平洋戦争前にアジアにおける英国陸軍を分析した結果は次のようであった。英国師団は100%イギリス人だが、インド師団は約30%がイギリス人で、約70%がインド人及びグルカ人(ネパール人傭兵)である。そこでインド人に対して英軍離反の工作を行えば、英軍内に動揺を与え、さらにはインド本国における一般民衆の反英暴動・独立運動にも発展できると考えたのである。実際にマレー戦線で降伏した4万人をこえるインド人兵士らは、インド国民軍として再編されチャンドラ・ボースに指揮され、日本軍と共にインドへ進軍した。(戦史叢書マレー進攻作戦)
このインド大反乱はイギリスの植民地支配に大きな影響を与えた。1858年のインド統治改善法によって、インドはイギリスの公式の植民地となった。イギリス本国には内閣の一員としてインド担当大臣とインド省がおかれた。そして現地では、その下部組織として5年任期のインド総督と参事会がインド政庁を統括した。そして1877年にヴィクトリア女王がインド皇帝を兼任して即位し、インド総督が副王を兼任した。
イギリスはインド大反乱を契機にその統治方法を変えていった。その一つは、イギリスによる直接統治をやめ、藩王国(大小約560)や領主的大地主を温存し、彼らに統治をまかせるという間接統治に切り替えていったことである。これはもし、また反乱がおきても、忠誠を誓わせた藩王国がイギリスを守る防御壁となることを期待したのである。また宗教(ヒンドゥー、イスラム等)に対しても非介入政策をとった。
反乱の中心となった軍隊に対しては、インド軍におけるインド兵の割合を減らし、インド軍は国内治安用にするべきとの勧告も出た。だがイギリス人だけで軍隊を組織するには費用がかかりすぎた。そこで採用するインド兵士の基準を大きく変えた。
下でイギリス植民地統治のポイントであった軍隊と官僚制について、またインド独立に重要な役割を担った「インド国民会議(派)」と「全インド・ムスリム連盟」の成立について簡単に書いておく。
項目 | 内容 |
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インド軍再編 | イギリスは従来採用してきた北インド地方の、高カースト・ヒンドゥーの傭兵と上層イスラム教徒の傭兵の採用をやめた。代わりにシク王国滅亡後のパンジャーブ地方出身の傭兵たちを採用した。彼らシク教徒は、ヒンドゥー教の改革宗教であるため、カースト制やタブーもあまりなく、ムガル帝国とも戦ってきた歴史もあり従順で剛勇な「尚武の民」といわれた。 彼らとネパールのグルカ兵は大反乱の鎮圧に使われ、特にパンジャーブ出身兵(シク教徒、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒を含む)がインド軍のなかで圧倒的な割合を占めるようになった(軍のパンジャーブ化といわれた)。インド軍では将校はイギリス人、兵士はインド人とほぼ決まっていたが、この地方の出身兵に対する報酬、年金は豊かに支給された。また同時にイギリスによるパンジャーブ地方に対する経済的配慮が、この地方の農村の豊かさにつながった。 だが一方で、インド軍には海外派兵という役割が与えられた。インド軍は大英帝国の権益と通商ルートの安全を守るための軍隊へと変わったのである。第2次アフガン戦争(1878年~80年)出兵、スエズ運河の防衛のためのエジプト出兵(1882年)、中国義和団の乱(1900年)の鎮圧など、イラン、中東、東アフリカ、南アフリカなどにも出兵した。だがこれらの費用はインド政庁が負担した。インドは大英帝国のための安価な兵隊貯蔵庫とみなされたのである。 |
インド政庁を支えた官僚制 | これはビルマのところで述べた内容と同じ官僚採用試験のことである。それは、「インド高等文官制(ICS)」といわれ、縁故採用を廃止し、1853年からロンドンでの公開試験によって高級官僚を採用する制度だった。この対象はオクスフォード大学、ケンブリッジ大学の卒業生を想定していた。彼らが高級文官となり、その下に現地で採用された中級・下級の公務員と一般事務職員が置かれた。彼ら高級文官は当然ながらイギリス人で占められていた。 |
「インド国民会議(派)」の誕生(1885年) | イギリス人A.O.ヒュームは、1882年にインド政府の役人を退職後、民主主義とインドの自治を提唱して、インド国民会議の創設に尽力した。このインド国民会議は、1885年ボンベイに72人の代表を集めて開催されたことから始まった。彼らの初期の要求は、選挙で選ばれたインド人が立法参事会や行政に参加すること。そして高等文官職にインド人を開放することだった。イギリスによる植民地支配を認めた上での要求だった(穏健派)。 国民会議を組織したのは、高等教育(英語)を受け、さらにイギリスに留学経験もある弁護士、高級官僚予備軍、ジャーナリスト、教師など、カルカッタやボンベイの都市部にすむエリート層だった。 だが19世紀末になってくると、そんな中から、若い世代による「自治・独立」を運動の目標とする過激派が登場してくる。その中心となったのがB.G.ティラクだった。彼は「自治・独立は私の自然権」だと主張し、穏健派と分裂することもいとわなかった。 |
「全インド・ムスリム連盟」の成立 | ムガル帝国(1526年~1858年)はイスラム教国ではあったが、ヒンドゥー教徒が多数を占めるインドを支配するにあたって、イスラム教とヒンドゥー教の融和策をとっていた。だが17世紀後半になるとムガル帝国は、ヒンドゥー教に対する寛容策をやめ弾圧をはじめた。これに反発したヒンドゥー勢力が自立分離するようになりムガル帝国は衰退していく。 そしてインド大反乱後、ヒンドゥーのエリート層がイギリスの植民地体制に適応していくなかで、イスラム教徒側は追い込まれていった。またヒンドゥーを中心とする国民会議(派)が「インド国民(ネイション)」であることを標榜したことに対し、イスラム側はそれは「ヒンドゥーネイション」にすぎないとして、国民会議(派)には積極的に協力はしなかった。 そして1904年カーゾン総督がベンガル分割案を発表した。これに対して国民会議(派)はベンガルを東と西に分断し、カルカッタを中心とする反英勢力を分断させるものと強く反対した。東ベンガルはイスラム教徒の多く住む地域で、後のバングラデシュである。イスラム教徒にとっては、少数派であるイスラムがヒンドゥー勢力に飲み込まれないためにも、単純に分割反対運動に協力するわけにはいかなかった。 こうして1906年、国民会議(派)に対抗する「全インド・ムスリム連盟」が成立した。そして1909年参事会法改定により、イスラム教徒は分離選挙制を得た。これはイスラム教徒だけの特別選挙区で、イスラム教徒のみが選挙権を持ち、議員定員数はイスラム教徒の人口比より多くするというものであった。イギリスはイスラム教徒を味方につけようとしたのである。 |
1915年ガンディーは22年に及ぶ南アフリカでの活動を終え、インド国民会議派の要請を受けインドに帰国した。彼の南アフリカでの功績は、インド人の権利を守るため「サッティヤーグラハ(satyagraha)」運動を創造したことである。この運動は、真理(satya)と非暴力(syanti)によって生まれる力を主張(agraha)・堅持するというような意味であり、「非暴力によるイギリスに対する不服従を行う抵抗運動」であるといえる。非暴力というと消極的な抵抗運動に感ずるが、ガンディーが行った行動は、積極的な非暴力による徹底的不服従といえるものだった。インドでガンディーが1917~1918年に行ったこの運動で有名なものは、ビハール州で行った農民運動やグジャラート州の労働運動などがあった。ガンディーはこれらの運動で成功をおさめ、インドの貧しい民衆にとって新たな指導者として登場したのである。
ここでは「ガンディー平和を紡ぐ人」竹中千春著、岩波新書2018年刊を中心に概略や要点を書きだした。
「ローラット法」
イギリスは第1次世界大戦が終わっても、インド民衆に対して戦時中よりも厳しい統制を続けた。それが1919年3月に施行された「ローラット法」である。これは民衆に対して令状なしの逮捕や裁判なしの禁錮を認めるものだった。この治安強化法は、第1次世界大戦でイギリスに協力したインド民衆にとっては裏切りと思えるほどの弾圧法だった。これに対してガンディーは、サッティヤーグラハ(非暴力・不服従)運動によるハルタル(ボイコット・ストライキ)で対抗した。だがイギリスはこの不服従運動に対して武力弾圧で応じ、軍隊による無差別の発砲事件をおこした。
(注)この虐殺事件は1919年4/13にパンジャーブ州アムリッツァー市で起こり、ジャリアンワーラー広場事件と呼ばれる。死者1200人(375人という説もある)、負傷者3600人といわれる。
「カーディー運動(手織り布地運動)」
ガンディーはその後「ヒラーファト運動(1919年~1924年)」「イスラム教徒によるカリフ制擁護運動」、「イギリス製品不買運動」、「公立学校のボイコット」、「一斉休業」、「税の不払い」、「カーディー運動」などさまざまな形態での運動を行った。1921年から国民会議(派)は、組織を挙げてイギリスに対する非協力運動を行った。ガンディーはスワラージ(インド人による自治)実現を政治目標とした。
特にこの「カーディー運動(手織り布地運動)」が運動の大きな原動力となり、ガンディーのサッティヤーグラハ(非暴力・不服従)運動を象徴するものとなった。上左写真にもあるように、ガンディーは上半身は裸で、下半身はドーティーという白い布を巻くだけのスタイルで生涯を通した。『自分の着物は全てを自分で作った布で作る』というもので糸紡ぎ車(チャルカー)をシンボルとした。これはイギリス製綿製品を拒否し、イギリス製の服を焼き、自国製(インド)の綿で織った服を着るという「スワデーシ運動1905年~」の復活でもあった。(上左写真)ガンディーとネルー。インド独立に大きな貢献をはたした2人が、1946年にボンベイで開かれたインド国民会議派の会議で話をしているところ。(出典)「世界の歴史9」J.M.ロバーツ著創元社2003年刊
「プールナ・スワラージ(完全独立)」
こうしてガンディーは1930年1月の国民会議派の運営委員会で、1/26をインド「独立の日」と定め、インド民衆を搾取し全てを破壊してきたイギリスに対して、「プールナ・スワラージ(完全独立)」のために戦うことを決めた。そして1/30ガンディーはインド政府に対して「11か条の要求」を宣言した。そして第2次サッティヤーグラハ運動を開始した。
「塩の行進」
これが「塩の行進(3/12出発)」であり、イギリスがインド民衆が使う「塩」に課税してきたことに対する抵抗運動であった。この行進は、イギリスからの完全独立を目指す社会改革も意図していた。それは「政府関係の仕事から職を辞すること」、「カーディー運動を実践すること」、「カースト差別を撤廃すること」、「ヒンドゥーとイスラムの友好的な共存を実現すること」等である。この「塩の行進」により全国で反英活動が高まり、自家製塩の売買が急速に全国に広がった。
これに対してイギリスは指導者と運動員を逮捕することで応じ、そのかず数万人といわれるが、5/5にはガンディーらも逮捕した。その前後にガンディーは近隣のダーラサーナ製塩所に対して非暴力による襲撃を実行した。この時、警察が工場入り口に向かって行進してくる無抵抗の男女を次々と殴打し、彼らが血を流して倒れる様子が世界に報道され、「塩の行進」とガンディーの名が世界に知られることになった。
こうしてガンディーは、イギリスからの完全独立を目指し、非暴力によるイギリスに対する不服従・非協力運動による独立運動を続け、国民会議派の指導者でもあり、ヒンドゥー教徒、イスラム教徒など宗教の壁を越えるインド民衆のマハートマ(大いなる魂)、バブー(父親)と尊敬と愛情を受ける指導者となっていった。
イギリス、ロンドンで円卓会議を開く。
1929年から始まった世界恐慌はイギリスにおいても深刻さを増し、インドの擾乱を早く収め大英帝国に協力させることが急務となっていた。そこでイギリスは、インド亜大陸の政治指導者たちをロンドンに集め、円卓会議を開くことを決めた。この会議には藩王国(500以上ある)を代表する藩王たち、イスラム教徒の代表、シーク教徒やキリスト教徒の代表、イギリス系インド人、その他のさまざまな社会集団の代表が招かれた。だが国民会議派はこの第1回円卓会議(1930年11月~翌1931年1月)をボイコットし、不服従運動を継続した。イギリスとしては国民会議派を円卓会議から除外することで、ガンディーら指導部に不服従運動停止の圧力をかけようとしたのかもしれない。
分断する国民会議派とガンディーの孤立。
1931年1月アーウィン総督は、ガンディーら会議派運営委員会のメンバー達の釈放を決定した。それに応えてガンディーは総督と協定を結び、ある程度の譲歩を受ける代わりに、不服従運動を停止し第2回円卓会議(1931年9月)に参加することを決めた。さらにガンディーはこの円卓会議出席を、会議派の多様性からネルー、パテールやイスラムを代表するアンサーリらと共に参加すべきという意見を拒絶し、国民会議派と国民を代表して、自分一人が出席することを主張し譲らなかった。
●ガンディーによるこの不服従運動の停止決定は、会議派の多くの指導者たちから非難を浴びた。そして円卓会議出席についても、その決定が独裁的だと厳しく批判された。このことが会議派と民衆のなかにガンディーに対する懐疑を生み、彼の信頼性をそこなうものになっていった。
●そしてロンドンの第2回円卓会議でガンディーは孤立した。それは会議に同席したインド側代表たちに対して、「自分だけがインドを代表する」という態度で臨んだからであった。
会議の同席者は、藩王国を代表した藩王たち、イスラムを代表した全インド・ムスリム連盟のジンナー、パンジャーブのシーク教徒の代表、クリスチャンの代表、ダリット(不可触民)の代表アンベードカルなどさまざまな代表たちがいたのである。ガンディーは、会議派のみがインドの国民を代表し、自分こそがその代表であり、「非暴力・不服従」運動でイギリスからの完全独立を勝ち取ると主張し続けたのである。
円卓会議が終わるとインドでは弾圧が再開された。新しい総督ウィリントン(ダン)は反政府運動は断固として取り締まるという考えだった。1932年1月にはガンディーらは逮捕され、国民会議派は非合法とされ、各地の拠点にも捜索の手が及んだ。1932年に7万5千人以上が逮捕されたという。イギリスは運動の鎮圧に成功したのである。
新インド統治法1935年
これは「イギリス植民地下のビルマ」の章で述べた「イギリスによる段階的な自治権付与」と同じ意味を持つものである。ビルマは直轄植民地になったとはいえ、1州レベルの大きさにすぎないが、インド本土では11州にも及ぶ選挙による州議会が生まれた(1937年)。そのうち9州において国民会議派が議会の過半数か第1党を獲得した。会議派は州政治に復活したのである。
だがこの州議会はビルマと同様にインド総督に任命された州知事(イギリス人)が自由裁量権と拒否権をもつものだった。州議会は重要案件には政治的権限は及ばなかった。イギリスは段階的な自治権を付与するという、ある意味でガス抜きを狙った新しいインド植民地支配のための制度だったのであろう。
ヒンドゥーとイスラムの対立とカースト差別。ついに分断するインド。
●ガンディーの求めたものは・・「インドは一つ」、「ヒンドゥーとイスラムの宥和・共存」、「不可触民への差別撤廃(カースト制)」、「イギリスからの完全独立」、「非暴力・不服従運動」、「戦争反対」などである。
●ジンナー(インド・ムスリム連盟指導者)は・・「イスラムとヒンドゥーは別国民」、「イスラム自決・イスラム分離独立」であり、「アッラーの前では平等」を説くイスラム教に対して、カースト差別を容認するヒンドゥー教の下では、1/3(=3分の1)しかいないイスラム教徒は差別・冷遇される。だから戦争に協力して分離独立を果たす、という考えである。
(注)戦後分離独立した「パキスタン」(=Pakistan)の意味は、「パンジャーブ」「アフガン」「カシミール」「シンド」「バローチスタン」のアルファベットをつなげたものである。前章の地図参照
●アンベードカル(不可触民の指導者)は・・高い教育を受け高い身分の人々が指導する国民会議派を批判し、ダリット(不可触民)はヒンドゥー教徒でいる限り差別・不平等は免れないとし、「ダリットの国」を追求すべしとし、平等を唱える仏教への改宗もすすめた(新仏教運動)。
●民族義勇団(RSS)は・・ヒンドゥー至上主義を掲げ、ガンディーの「非暴力・不服従運動」がヒンドゥー教徒を苦しめたとした。そしてイスラム教、キリスト教(イギリス)を敵視した。
(注)1948年1/30、ガンディーはこの団体の元メンバーであるゴードセーに暗殺された。また2022年現在のナレンドラ・モディ第18代インド首相はこのRSS出身である。
●チャンドラ・ボース・・1937年の州議会選挙で国民会議派は多くの州で勝利し政権を担った。だが国民会議派はその無能さと腐敗が露呈されてしまい、急速に信用を失墜してしまった。そこでチャンドラ・ボースが改革の旗手として登場した。ボースは国民会議派の議長職に就き、翌年の議長就任についても初めて選挙を実施し、多数の支持を得た。ボースはインドの武装解放を目指していたのである。だがこうした過激思想を危険視した党幹部は、ボースを退任に追い込み、会議派から追放した(1939年)。その後チャンドラ・ボースは危険人物として投獄されたが、脱走してアフガニスタンを経由して1941年春にベルリンに現れた。
1942年8月イギリス、ガンディーらを逮捕。反イギリス不服従運動開始。
●1942年2月シンガポールは陥落し、イギリスは史上最大の連合軍捕虜(約10万人)を出し日本軍に降伏した。つづいて日本軍はビルマに侵攻し、5月にはビルマ全土を占領した。英印軍はインド本土に敗走し部隊の再建に努めていた。
このような緊迫した情勢の中、イギリスは国民会議派との譲歩もやむなしと考え、クリップス使節をインドに派遣し、将来の自治を約束することを条件に戦争協力を要請した。
だが国民会議派はこの妥協案を蹴って、ガンディーに全権をゆだね、「国民政府の樹立」と「イギリスのインド撤退」を要求し、イギリスが拒否すれば非暴力・不服従運動を開始すると発表した。こうして1942年8/7・8、ボンベイで会議派全国委員会が開かれ、350対30の圧倒的多数で、イギリスに対するガンディー指導による「インドを出ていけ」決議を採択した。ガンディーはこれまでにないほど強硬姿勢に変わったのである。
だが8/10イギリスは、ガンディーをはじめ会議派指導者たちを一斉に逮捕投獄し、続いてインド全国における大弾圧を開始した。
だがガンディーらの逮捕は、民衆の怒りを爆発させ、放火、暴動、騒乱が各地で起こった。
(左新聞)昭和17年8/10の朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
下段は1942年8/6~18までの朝日新聞の記事である。(出典)戦史叢書「インパール作戦」より。
1942年月日 | 記事。()内は注 |
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1942年8/6 | 英(=イギリス)、印(=インド)全面的衝突の趨勢。 |
1942年8/7 | 会議派運用委員会新決議採択。インド英軍続々集結。今日より世界注視のボンベイ(=ムンバイ)会議。 |
1942年8/8 | ボンベイ会議新決議採択へ。一触即発のボンベイ会議。米英軍の即時撤退を要求せん。 |
1942年8/9 | 餓死を賭して独立を獲得、ガンディー毅然と決意表明。 |
1942年8/10 | ガンディーら20名逮捕され、全印(=全インド)ついに反英大運動開始。 |
1942年8/11 | インド各地に衝突続発、警官隊に憤激の民衆蜂起する。 |
1942年8/12 | 回教徒(=イスラム教徒)も同情、会議派の流血相つぐ、ガンディー断食決行。抗争全印に拡大、主要都市に戒厳令。 |
1942年8/13 | 軍需工業危殆(きたい)に瀕し、大弾圧の挙に出でん、全印全く騒擾化す。 |
1942年8/14 | 印度騒乱に拡大に英の不安、連合国の戦力に影響甚大、全印の工場大半閉鎖。 |
1942年8/15 | インド首都形勢重大、ボンベイの死傷3,500。 |
1942年8/17 | カルカッタ(=コルタカ)全市交通機関杜絶(とぜつ)す。全印の死傷4,600。 |
1942年8/18 | 英の対印暴虐募る。全将校に暴徒射殺の権限付与。 |
軍隊による鎮圧
インド駐留軍司令官ウエーベル大将は、これらの反乱に対処するため、歩兵約57大隊と飛行隊(示威目的)を使って、この暴動を約2週間で鎮圧し、約6週間でおおむね平静にもどした。
※下でリンクした「British Pathé TV 」には「1931年イギリスに到着したガンディー」の映像が残っている。1931年9月、ガンディーはイギリスがロンドンで開いた第2回円卓会議に国民会議代表として一人出席した。
*リンクします「British Pathé TV 」
YouTube「Mahatma Gandhi Arrives in the U.K. (1931) 」
日本軍によるマレー作戦(1941年12月8日~)において、F機関(藤原岩市機関長)は、英印軍のなかのインド兵に対して反英宣伝工作を行った。このF機関は陸軍参謀本部による対インド工作を目的とした情報工作機関だった。そしてF機関は1942年1月末頃には約3000人からなるインド独立のためのインド国民軍の母体を作り上げた。そしてシンガポール陥落(1942年2月15日)において降伏した4万5千人にも及ぶインド兵を収容し、インド国民軍の誕生に貢献した。ここでは戦史叢書「マレー進攻作戦」、「ビルマ攻略作戦」、「インパール作戦」朝雲新聞社から、要約抜粋した。
日本とインド独立運動家との関わりは、大正初期(1912年以降)にさかのぼる。そしてその関係が密接となったのは、第1次世界大戦(1914年〜1918年)の突発からであった。インド独立運動家たちはイギリスとドイツの戦争を好機ととらえ、インド独立を達成しようと考えたからである。下が重要人物の名と略歴など。(出典)戦史叢書「マレー進攻作戦」朝雲新聞社
重要人物等 | 略歴等 |
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ラス・ビハリ・ボース | この人物は、スバス・チャンドラ・ボースとは別人である。ビハリ・ボースは1915年インドから逃れて日本に亡命してインド独立運動を進めた人物である。当時日本でビハリ・ボースを支援したのが、頭山 満、内田良平、葛生能久(くずうよしひさ)らで、また新宿中村屋創業家の庇護も受けた。ビハリ・ボースは創業者夫婦(相馬愛蔵・黒光《そうまあいぞう、こっこう》)の娘婿となった。このエピソードについては新宿中村屋のHPに詳しい。 |
アマールシン プリタムシン インド独立連盟(IIL) |
1940年(昭和15年)12月、イギリス香港監獄から脱出して日本に亡命してきた3名のインド人がいた。日本側はこの3名をタイのバンコクへ送り届けた。彼らはこの日本側の好意に感激して、バンコクに本部を持つインド独立連盟(IIL)というシーク族の秘密結社について明かした。このインド独立連盟は、インドの解放と独立を目指して、アマールシンという老同志を指導者として、プリタムシンがその補佐をしているという。そしてこの組織は弱体ながら東京、上海、南タイ、マレー、インド、ベルリンなどに同志の網を張っていることがわかった。そこで日本側はこの組織を通じて、インドの政情やマレーの軍情などの入手を期待した。この頃インドではチャンドラ・ボースの国外脱出事件が起きていた。彼は1941年春にベルリンに現れた。(注)このシーク族というのはシーク教徒(シク教徒)のことで、○○シンという名前からもそれがわかる。 |
F機関の誕生。 藤原岩市少佐 |
陸軍参謀本部は、駐タイ武官田村大佐によるインド独立連盟(IIL)に関する報告により、1941年(昭和16年)7月、部員をバンコクへ派遣した。そして一方でベルリンでのチャンドラ・ボースならびに彼をめぐるインド人の動向の情報収集に努めていた。 そして参謀本部は対米英開戦の緊迫した情勢の中、マレー方面に対する工作準備専任の一機関をバンコクへ派遣し、田村武官の補佐として行動させた。この機関が、参謀本部部員藤原岩市少佐を長とし部員6~7名の青年将校がつけられたF機関だった。このF機関の任務は、田村武官のもとで、主としてマレー方面の工作を行うことで、特にインド独立連盟(IIL)及びマレー人、中国人の反英団体との連絡と彼らに対する支援を行うことだった。 (注)この頃のタイ国は日英の勢力に囲まれた微妙な政情にあって、特に首都バンコクには、日、英、米、中国の各種機関が入り込み情報戦の真っただ中にあった。 F機関は当初よりインド独立連盟(IIL)との接触を求め、1941年10/10頃藤原少佐とIIL代表プリタムシンとの秘密会合に成功、ついで11月初めにはアマールシンとの接触にも成功した。 太平洋戦争開戦(12/8マレー作戦等)を直近に控えた情勢のなかで、F機関の工作活動は、開戦と同時にインド独立連盟(IIL)の同志を支援して、直接英印軍内のインド兵の中に同志を獲得すること、つまりインド兵を寝返りさせることであった。そして速やかに、タイ、マレー在住の全インド人民衆の間に、インド独立連盟(IIL)の政治活動を拡大し組織化することであった。 |
日本軍のマレー進攻作戦と共に | F機関は南方軍に属していたが、12/8の開戦と同時に、第25軍(マレー半島・シンガポール攻略)山下奉文中将の指揮下に入った。直ちに藤原機関長はバンコクを発ち、すでにシンゴラに上陸していた第25軍参謀長鈴木宗作中将と会談し、今後の工作活動について具体的な指示を受けた。その内容は、F機関の任務の重点は、IILの運動を支援すること。そのために各作戦軍の縦隊にF機関の連絡班を派遣し、作戦部隊からインド兵の捕虜を接収してこれを保護し、IILの工作を容易にすることなどであった。さらに鈴木中将からは、マレー人に対する宣伝や、華僑に対する宣撫、そして各州のサルタン(スルタン)の救出・保護についても要望された。 |
●こうしてF機関は、開戦後直ちに第5師団主力の進路に沿ってハジャイに前進した。ここで藤原少佐とプリタムシンは協議を行い、IILは第5師団進路上に宣伝班(プリタムシンの腹心2名とF機関3名同行)を派遣することになり、アロルスターの戦線に向かわせた。そして12/10プリタムシンはこのハジャイに、インド独立連盟(IIL)として第1歩となる本部を設置した。
左地図は「第25軍マレー進攻作戦経過概見図(附図3)」に、F機関、インド独立連盟(IIL)、インド国民軍(INA)に関する重要地点を赤でマークアップしたもの。(出典)戦史叢書「マレー進攻作戦」朝雲新聞社
●F機関とIILは日本軍の進攻と共に、英印軍内のインド兵に対してインド独立運動の意義と賛同を求め、投降した多くのインド兵を確保していった。
そしてこの投降したインド兵の中に、特に優秀なモハンシンという大尉がいた。かれは投降したインド兵の指揮をまかされ、その後インド国民軍(INA)の創設者となった。
こうしたなか、藤原少佐とプリタムシン、モハンシンらはインド独立の方法について協議を重ねていった。そのなかでインド人の敬慕の念が強く、偉大な革命家であるチャンドラ・ボースをこの東亜の地に迎えることができれば、全インド人は蹶起するだろうとの意見が交わされた。
●1941年12/16、第25軍は戦闘司令所をアロルスターに推進した。そこに藤原少佐はプリタムシン及びモハンシンを伴い、司令官山下奉文中将と面会した。山下中将は2人を喜んで迎え、日本軍のインド独立支援に関する熱意を強調した。
項目 | 内容 |
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インド国民軍(INA)の創設 モハンシン大尉 |
IILの活動は日本軍の進撃に伴い着実に進展し、ペナン及びタイピン地区にまでおよんだ。 そして1941年(昭和16年)12/31、モハンシン大尉はF機関を訪ね、インド将兵全員一致の決定として、祖国解放、自由獲得のためインド国民軍(INA)の編成に着手するという重大決意を告げた。 モハンシン大尉は、従来プリタムシンらが使っていた「インド独立義勇軍」という名称を「インド国民軍」に変えた。この意味は、革命軍は国民の全面的支援の上に立つ組織でなければ大成しない、という彼の信念に基づいていたからである。 このモハンシン大尉がインド国民軍編成において提言したことは、次のような内容だった。 ●INAは日本軍から全幅の支援を受ける。●INAとIILは協力関係とする。●日本軍はインド兵捕虜の指導をモハンシン大尉に委任する。●日本軍はインド兵捕虜を友情をもって待遇し、INA参加希望するものは解放する。●INAと日本軍は友軍とみなす、などであった。 この内容は、山下軍司令官の承認を受け、インド国民軍は、IIL支援のもとインド兵捕虜を主体として編成することに決まった。こうしてINAはタイピンの地で創設された。 |
クアラルンプールからシンガポールへ | 1942年(昭和17年)1月、F機関はタイピンからイポウへ進んだ。イポウにはF機関、IIL、INA、YMA(マレー青年団)、スマトラ青年団の5つの本部が併置された。このうちスマトラ青年団というのは、スマトラ工作にかかわるもので、1/16、1/26には、かねてより教育中だったYMAの青年を工作員としてスマトラに潜入させ、その後もスマトラ工作は行われた。 こうしてF機関、IIL、INAは日本軍の南下に伴いクアランプールに進出していった。直近のスリム会戦後各地で投降し、クアラルンプールのキャンプに集まってきたインド兵はたちまち1000人を突破した。そしてその他のマレー各地で投降したインド兵は、2500人を突破したと概算された。そこでモハンシン大尉は訓練、給養、衛生の見地から、アロルスター、スンゲイパタニ、イポウ、ペナンなどの各地に散在する全兵力をクアラルンプールに集結させた。そして戦線はムアルへ向かい、INA宣伝班はF機関と一体となってムアル方面の英印軍に対する宣伝工作に全力を挙げていった。 |
2/5藤原機関の一部をビルマに派遣する命令が出る。 | 1942年1/31、第5師団及び近衛の両師団はジョホーバルを占領した。第25軍はついにシンガポール島攻略へむかう。 ●F機関は1942年1月末頃には約3000人からなるインド独立のためのインド国民軍の母体を作り上げた。 そして2/5南方軍は第25軍に対し「藤原機関の一部をビルマに派遣し第15軍司令官の指揮下に入らしめ、同方面に対するIIL及びINAの運動を支援せしむべし」との命令を下した。この命令はF機関の強い意見具申に応えたもので、その構想は次のようなものであった。大本営もようやく現地の意見をいれて対インド人工作の方向転換を決意するに至った。その内容を要約・抜粋すれば以下のようである。 ●日本の主唱する「大東亜新秩序建設」の理想は、インド3億5千万人の協力を得て初めて実現する。
●このためにはイギリスを脱落させることが第1条件となる。だが日本の実力は恐らくビルマをもってその限度とし、実力をもってインドに進攻しイギリスを屈伏させることはできないだろう。 ●したがって、インド国民自体の力でイギリスからの独立を勝ち取らせ、日本はこのインド国民の運動に心からの協力を寄せることが第1である。 ●そしてこの方針を世界的規模に発展させるために、すみやかにベルリンにあるチャンドラ・ボースを東亜に招致する必要がある。 ●そのための第1段階としてIILを強化し、東亜在外数百万のインド人をこの運動に結集させ、かつインド兵捕虜及びインド人志願者をもってさらにINAを強化する。そしてこの両者の力をインド国内に反映させ、強力な民族運動を誘発させる。 (出典)戦史叢書「マレー進攻作戦」朝雲新聞社 そして2/9藤原機関は、IILからプリタムシンを長とする宣伝班、INAから60名の宣伝員、F機関からは土持大尉以下4名の連絡員をビルマに派遣した。 |
1942年(昭和17年)2/17全インド兵接収式典開催。 | 1942年2/16、イギリス軍パーシバル中将は降伏した。捕虜約10万人うちインド兵約4万5000人は2/17にF機関に接収され、インド独立連盟、インド国民軍として組織されていく。この全インド兵接収式典(シンガポール・ファラパーク)では、F機関長藤原少佐、IILプリタムシン、INAモハンシン大尉が順に壇上に立ち、全インド兵は祖国の解放と独立に向け忠誠を誓った。そして翌2/18インド人商工会議所で招宴が行われた。 |
1942年3/20東京山王ホテルにて会議開催 | この会議は大本営の肝いりで、東京のラス・ビハリ・ボースが東亜各地のインド人代表(約10名)を招請して、祖国解放に関する会同を行うために開かれたものである。だが3/10出発した親善使節団のうち、IILのプリタムシン、スワミイ、アイヤル、INAのアグナム大尉ら4名は飛行機事故で死亡した。特にプリタムシンを失ったことは、大きな衝撃となった。この会議には岩畔豪雄(いわくらひでお)大佐、藤原岩市少佐も上京し傍聴した。 |
藤原機関の解消。 | この時上京し大本営に出頭した藤原少佐は、岩畔大佐を長として、新たな本格的なインド工作が開始されることを知らされた(4月末岩畔機関編成に着手)。岩畔大佐は近衛歩兵第5連隊長としてマレー作戦に参加、ジョーホール州で負傷入院中だったが、昭和17年2/18南方軍総司令部付きとなり、岩畔機関長として選ばれた。一方藤原少佐は南方軍参謀部に復帰となった。そして5月中旬バンコクに行われる予定のIIL大会で、藤原機関はその役割を終え岩畔機関が本格的活動を開始することとなった。 |
1942年5/15バンコクにて全極東インド代表者大会開催 | この会議開催は3月の東京会議での決議事項の一つだった。このバンコクでの会議には、日本の駐タイ大使、独伊両国公使らが来賓として参列し、東京、上海、マレー、シンガポール、ボルネオ、ジャワ、フィリピン各地から代表者百数十名が参加した。そして大会の最後にインド独立運動実行委員会の委員選挙が行われ、日本地区代表ビハリ・ボース、インド国民軍代表モハンシン大尉、ギラニー中佐、マレー地区代表ラカバン及びメノンの5名が選出され、ビハリ・ボースが委員長に推挙された。 |
ビルマ独立問題とのからみ | こうして岩畔機関は新たなインド工作活動を行っていったが、問題が2つあった。その一つがビルマ問題であった。それはビルマ独立はインド独立の足場となるはずだったが、日本軍はビルマ独立を許さず軍政をしいた。これに対し岩畔大佐は南方軍総司令部石井大佐(ビルマ早期独立反対論者)に、ビルマの早期独立を求めたが、ビルマが独立した1943年(昭和18年)8/1まで合意は得られなかった。このため岩畔機関としては、ビルマの独立を押さえ込みながらインドの独立工作を支援する、というわけにはいかなくなった。ただ南方軍からはインド軍の武装強化と関連する支援については了解を得た。 |
1942年11月末、モハンシンの逮捕・軟禁 | 第2の問題は、モハンシンを中心とする反日サボタージュの発生だった。この動きは1942年5/15のバンコク全極東インド代表者大会を機ににわかに高まった。これは日本に帰化し日本国籍を持っているビハリ・ボースは日本の傀儡であり、日本はインド人を利用しているにすぎないという反感が起こったことによる。モハンシン大尉はINAの生みの親であり、日本軍に対する協力とその功績は偉大なものであった。だが日本軍は彼のインド人連盟内での派閥抗争、増長、不穏の態度は許すことはできず、ついに彼を捕らえてタボイの離島に軟禁し、インド軍の解散を命じた。 そして約2ヶ月後、新たなインド軍がボンスレー中佐を司令官として新編された。 |
1943年(昭和18年)2月チャンドラ・ボースは秘書1名を連れベルリンを後にした。ドイツ潜水艦と日本潜水艦による、インド洋マダガスカル南東洋上での移乗という密航方法だった。そして1943年5/16チャンドラ・ボースは東京に到着した。
(参考) チャンドラ・ボースはベルリン到着後、インド脱出後の経過について、日本大使館で次のように語った。(山本敏少将回想)(出典)戦史叢書「ビルマ攻略作戦」朝雲新聞社
わたしのこの主張に対し、幸いにコングレス(会議派)中の青年層に多数の同志を得た。ところが、こんど独、英の争覇を中心とする欧州戦争がふたたび始まった。わたしは、インドの独立達成のため、今後数十年間に二度と来ない天与の好機と考えた。そこで、さっそく、投獄を覚悟のうえで、反英実力闘争を扇動する公開演説をはじめ、間もなく監獄に入れられた。
いつまでも監禁されていては、折角の好機を逃がす恐れがある。そこで国外に脱出して外国の力をかりて、独立の目的を達成しようと決心し、さっそく断食をはじめた。その結果身体が非常に衰弱してきたので、自宅で療養することを許された。こうして、自宅で英気の回復をはかる一方、ひそかに国外亡命を準備した。そして、明日はふたたび監獄に入れられるという日の前夜、賤民に変装して最下等の汽車に乗ってアフガン国境に向かった。
国境はカブール行きの隊商のラクダひきに混じって越えた。国境の峠カイパル・パスはなお雪が深く、隊商宿の土間で、賎民に混って寝たが、寒さが骨の髄までしみるので、それまでやめていた酒をまた呑んでやっと凍死をまぬがれた。
カブールでは、すでにイギリス官憲の通知がきていたので、アフガン官憲がわたしを捜索している様子であった。しばらく隊商を転々とかくれ歩いた。しかし、いつまでも果てしがないので、外国の援助を借りようと、まず日本公使館を訪ねたが、ていよく門前払いを食わされた。そこで、次にドイツ公使館へ行ったが、ここでもらちがあかないので、イタリア公使館へ行ったところ、ようやく話がわかり、さっそく保護の手配をとってもらった。
その後、独、伊の公使が協力してソ連通過の査証をもらえるよう努力してくれたが、なかなかこない。
そのうち、自分のいることがイギリスにわかったらしいので、明日はいよいよソ連国内へ不正越境で入ろうと考えていた矢先、モスコーのドイツ大使から、査証をとったとの電報を受け取った。その後はソ連国内は通過しただけでベルリンへきた。
年月 | 内容 |
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1939年9月から1941年春頃 | イギリスは対ドイツ宣戦布告(1939年9/3)を行った。これによりインドは自動的に第2次世界大戦の渦中に投ぜられた。これまでインドにおける反英民族運動は、国民会議派を中核として大同団結のもとにあった。ところが内部では、チャンドラ・ボースの急進派が、ガンディーの穏健派、ネルーの中間派に拮抗する形で勢いを得つつあった。1939年5月にはチャンドラ・ボースは、前衛派を結成して、戦闘的な急進分子をそろえて独自の行動に出ようとしていた。 イギリスは大戦勃発の翌日、治安維持を目的として、直ちにインドにおいて「インド保安令」を発布し民族運動の抑え込みを図った。これに対して国民会議派は曖昧な態度をとっていたが、1940年3月の大会で不服従運動を開始する用意があるとの声明を発した。一方チャンドラ・ボースの前衛派は、4月、率先して国民闘争週間を開始した。 こうしたなかイギリスは、各党代表者の行政参加などを表明して、インド国民の懐柔を図る一方、前衛派、社会主義者、共産主義者の一斉検挙を行った。この頃(1940年7月)にチャンドラ・ボースは逮捕された。そして1940年12月チャンドラ・ボースはインドを脱出し、1941年4月ベルリンに到着した。(この間の事情は前段参照) |
1941年春以降 | ベルリンでチャンドラ・ボースはヒットラー総統と面談し、インド独立について意見を交わした。その結果ドイツがアフリカ戦線で得たインド兵捕虜の中から志願兵を募り、将来のインド解放軍の中核部隊としてのインド軍部隊を編成することができた。 |
日本との接触と渡日、1943年(昭和18年)5/16東京着。 | だがドイツからの厚い好意を受けても、直接行動を行うにはインド本土は遠かった。そこでチャンドラ・ボースはアジアにおける日本の行動に注目を寄せ、日本の駐独大使大島浩中将との接触を始めた。そしてチャンドラ・ボースは1941年12/8の日本による米英等に対する宣戦布告の後、大島駐独大使を訪れ次のように申し出た。
「私は、インド脱出の際、もし日本が英国との戦争をはじめていたら、万難を排して日本行を強行していたであろう。今や日本のマレー占領は必然であり、日本軍はやがてビルマに入り、インド国境に迫るであろう。私はこれまで独立運動の次善策としてドイツで運動してきた。
しかし今や日本が私の戦う好適の場所を東亜で開いてくれた。この千載一遇の時機に欧州に留まっていることは不本意の至りである。私は一兵卒としてでも英国人と直接戦いたい。私の切望がかなうよう日本政府へ取り次いで貰いたい」と語った。 (出典)戦史叢書「ビルマ攻略作戦」朝雲新聞社 大島大使はチャンドラ・ボースの意向を大本営に報告したが、大本営の態度は簡単には決まらなかった。そのための折衝が数ヶ月にわたってベルリン・東京間で行われたが、ようやく大本営が原則的にチャンドラ・ボースの渡日を認めたのが1942年8月頃であった。 |
岩畔機関を改編整理。 | 大本営はチャンドラ・ボース日本招致決定を機に、岩畔機関を改編整理することにした。新機関長には、チャンドラ・ボースに存分の手腕を発揮させるため、ベルリン時代に親密な関係を築いた山本敏大佐を起用し、機関の名称も「光機関」と改称した。岩畔少将(昭和18年3/1少将に進級)はスマトラの軍政監部に転出した。そして山本新機関長は機関の内容を逐次改めていった。第1は政務班を撤廃し、インド側(後の自由インド仮政府)に全部を任せたこと、次に宣伝班を廃止しボースの意図通りの計画に任せたことなどである。日本側はただ所要の施設、資材の提供などの側面的協力にとどめたのである。そして「光機関」の性格は政務指導より軍事面を重視するものに変わっていった。「光機関」は主として軍人によって構成されることとなった。 |
1943年7/4インド独立連盟大会開催。チャンドラ・ボース新総裁 | チャンドラ・ボース日本到着後の6/16、東条首相の議会における「大東亜結集」に関する発言と共に、チャンドラ・ボースの名は脚光を浴びた。そして6/19の記者会見でボースは、インド独立のため挺身すべき断固とした決意を表明した。こうしてラス・ビハリ・ボースとスバス・チャンドラ・ボース両名は、このとき以来相携えて強力なインド独立実践運動に乗り出すことになった。 そして1943年7/4、シンガポールで開かれたインド独立連盟大会に両名共に臨み、日本の全面支援を伝え、インド独立運動は新たな躍進を迎えたことを説いた。そしてこの大会で、ビハリ・ボースは自ら連盟会長の職を辞し、チャンドラ・ボースを新総裁に推薦し、全参加者の万雷の拍手で承認された。(ビハリ・ボースは最高顧問に推された。) 正式に新総裁となったチャンドラ・ボースは最初の演説を行い、「自由インド仮政府」樹立の宣言も行った。 翌7/5チャンドラ・ボースはシンガポール市庁舎前の大広場でボンスレー司令官以下のインド国民軍を閲兵した。このとき日本の東条首相もこの閲兵式に参列した。 |
こうしてインド国民軍は、日本軍と共にインパール作戦に参加し、インドへ進軍していった。