1942年(昭和17年)ビルマ戦線とインパール作戦計画。
2023年5月9日第2次世界大戦
こうして1943年になると日本軍は、連合軍の4方向からの反攻(雲南方面、フーコン方面、インパール方面、及びビルマ南西沿岸方面)に対応するため、緬甸(ビルマ)方面軍を新設(3/27)し防衛力強化を図ろうとした。こうしたなか新たに第15軍司令官(前第18師団長)に親補された牟田口廉也(むたぐちれんや)中将は、インパール作戦計画の実現を決意した。
(陸軍飛行第64戦隊長加藤建夫中佐ビルマにて戦死)ビルマにおいて陸軍新鋭戦闘機「隼」にて、敵機2百数10機を撃墜し活躍した加藤建夫中佐に対し、陸軍は将校として初の2階級特進をおこない少将として武勲を讃えた。「空の軍神」である。写真は『昭和2万日の全記録6』講談社1990年刊によれば、昭和13年当時の中国戦線の加藤とある。(新聞)昭和17年7/23の朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
日本軍(第15軍司令官飯田祥二郎中将)の最大目的は、英米が中華民国政府(蔣介石)に支援物資を送る「援蔣ルート」の遮断だった。第15軍の第33師団と第55師団は、1942年(昭和17年)1月タイから国境を越え、3/3シッタン河を渡河しビルマの首都ラングーンに向かった。そして南方軍は3/8のラングーン占領を機に、第15軍の戦力を強化し、別の2コ師団編入に加え戦車、重砲、工兵部隊をラングーンに上陸させ、第5飛行師団を含め、その総兵力を約10万とし、全ビルマの攻略を目指した。
1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争開戦時の南方総軍の戦闘序列は下記の通りで、タイ・ビルマ方面の攻略は第15軍が担当した。当初第15軍の戦闘序列は、第33師団(師団長桜井省三中将)と第55師団(師団長竹内寛中将)だけで、1942年(昭和17年)1月タイから国境を越え、3/3両軍ともにタイからシッタン河を渡河しビルマの首都ラングーンに向かった。そして3/7第55師団がペグーを攻略し、3/8第33師団がラングーンを占領した。
●そして南方軍はラングーン占領を機に、第15軍の戦力を強化し、第18師団(師団長牟田口廉也中将)と第56師団(師団長渡辺正夫中将)を第15軍に編入し、全ビルマの攻略を目指した。
※左地図、戦史叢書「ビルマ攻略作戦」の付図第3「ビルマ攻略作戦経過概見図」朝雲新聞社。この地図に色分けして師団の進攻矢印を追加したもの(星野)
●そして4/29第56師団がラシオを占領、5/1第18師団がマンダレーを占領した。次いで第56師団はバーモを占領し、5/5には怒江の線に進出し、5/7にはミイトキーナを占領した。一方第33師団の1コ中隊は、アキャブを占領し、第33師団は5/20にカマイン、5/30にタマンテイを占領した。
連合軍は上記5/1のマンダレー失陥を契機として指揮機能は逐次崩壊し始め、日本軍の掃蕩作戦によりついに瓦解することになった。連合軍各部隊は中国及びインドに敗走していった。
軍(方面) | 軍司令官 |
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★南方軍(総軍) (「軍」を束ねた。総司令部はベトナムのサイゴン=現ホーチミン市) |
総司令官・寺内寿一(てらうち-ひさいち)陸軍大将 |
第14軍(フィリピン攻略) | 本間雅晴(ほんま-まさはる)中将 |
第15軍(タイ・ビルマ方面) | 飯田祥二郎(いいだ-しょうじろう)中将 |
第16軍(蘭印攻略) | 今村均(いまむら-ひとし)中将 |
第25軍(マレー半島・シンガポール攻略) | 山下奉文(やました-ともゆき)中将 |
第23軍(支那派遣軍)(香港と九龍半島) | 酒井隆(さかい-たかし)中将 |
南海支隊(グアム島攻略) | 支隊長・堀井富太郎(ほりい-とみたろう)少将 |
●第15軍はビルマにおける連合軍を国境外へ撃退したのち、各兵団を逐次警備体制に移行させた。下の表の師団の横に警備管区等を記した。
要点は次のようになる。
①第33師団は、緬印国境方面の警備、敵の侵入企図を破砕と西管区の残敵掃蕩、管内の治安粛清。
②第55師団は、北部緬支、緬印国境方面を警戒、敵の侵入企図を破砕、中管区の残敵掃蕩、管内の治安粛清。
③第18師団は、東管区の残敵掃蕩、管内の治安粛清。
④第56師団は、雲南方面の中国軍に対し怒江の線を確保し、敵の侵入を破砕、北管区の残敵掃蕩、管内の治安粛清。
⑤野戦重砲兵第3連隊は南管区、第73兵站地区隊はラングーン管区、それぞれの治安・警備。
師団名と各師団の警備管区・司令部位置 | 師団長名・参謀長名 |
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◎第15軍(戦闘指令所・メイミョーからラングーン7/16) | 第15軍司令官・飯田祥二郎中将、第15軍参謀長・諫山春樹少将。 |
●第33師団(西管区・エナンジョン) | ●師団長・桜井省三中将、参謀長・村田孝生少将(昭和17年8/1進級)。 |
●第55師団(中管区・マンダレー) | ●師団長・竹内寛中将、(後任)(昭和17年12/1)古閑健中将。参謀長・加藤源之助大佐、(後任)(昭和17年3/28)久保宗治大佐。 |
●第18師団(東管区・タウンギー) | ●師団長・牟田口廉也中将、参謀長・武田壽少将(昭和17年8/1進級)。 |
●第56師団(北管区・芒市) | ●師団長・渡辺正夫中将、参謀長・藤原武大佐。 |
(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「ビルマ攻略作戦」と「インパール作戦」
部隊 | 内容 |
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スティルウェル中将・アメリカ陸軍司令官 中国遠征軍(第5軍・第6軍・第66軍) |
第6軍と第66軍の主力は、スティルウェル司令官の指揮下から独断で離れ、サルウィン河(怒江)を越えて中国に敗退した。第5軍の主力と第66軍の第38師は、マンダレー以北のイワラジ河西方地区を北上し、一般方向(全体の方向性のこと)をミイトキーナにとって敗走を続けた。 |
スリム中将・イギリス陸軍第1軍団長 第1ビルマ軍団(第1ビルマ師団・第17インド師団・第7装甲旅団) |
第1ビルマ軍団はイワラジ河畔の戦闘に敗れたのち、主力はチンドウィン河を渡り、インパール方向に退却中。だが5月中旬からビルマは雨季に入り、連合軍の退却は困難をきわめた。 ●そして5/14第1ビルマ軍団はタムへたどり着いた。英印軍の退却路に当たるイエウ-カレワ-タム道及びその沿道には多数の避難民が詰めかけ、部隊の行動は妨害され、退却行動は倍加した。第1ビルマ軍団は火砲装備の大半を捨て、1.2万人の疲労とマラリアに苦しむ兵員を伴ってようやくインパール帰り着いた。 |
中国遠征軍(第22師・第38師・第28師・第96師・第200師)の一部 | ミイトキーナ方向へ退却した中国遠征軍(重慶軍)の一部はレド(インド・アッサム州北東端)を経てインドに脱出しようと敗走を続けていた。このうち第22師は7月ないし8月の間にフーコン(ビルマの北端からレドに通ずる谷地)道を経て逐次レドに進出した。 ●この部隊に混じってフーコン谷地に殺到した難民は約3万人にのぼったが、そのうち約7000人は疲労と疾病と心労のため途中で死亡した。 |
中国遠征軍(第38師) | また第38師は、当初第22師に続いてフーコン谷地に向かっていたが、途中進路をインパール方向に変え、同地を経てインドに退却した。 ●第5軍の残りの師団である第96師は、一度は第22師に続いてフーコン谷地に入りかけたが、その後、急に方向を変えて北部ビルマの重畳した山岳地帯を突破し雲南方面への大転進を行い、途中米空軍の空中補給に助けられながらようやく雲南に辿り着いた。 |
スティルウェル中将と幕僚(少数) | スティルウェル中将は少数の幕僚その他を引き連れ、部隊と離れてアラカン山中をさまよい、あらゆる苦難に耐えながらインドへの逃避行を続け、5/15かろうじてインドに辿り着いた。 |
(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「インパール作戦」(ビルマの防衛)から引用
*リンクします「戦史資料・戦史叢書検索画面」
NIDS防衛研究所「戦史叢書・朝雲新聞社」
●「21号作戦」とは、南方軍総司令部が東部インドに進撃しようという8/5の「インド東北部に対する防衛地域拡張に関する意見」を正式に大本営に提出したことから始まった。
その内容(8/5)は、今後予想されるカルカッタ方面における敵航空勢力の台頭を押さえ、援蔣空路の遮断、対インド工作の進展を期するためにインド・ビルマ国境方面に航空基地を推進する必要がある。そのために地上作戦を併用して東部アッサム州とチタゴン方面を攻略するというものである。
●これに対して大本営は、対インド積極施策はかねてより希望に沿うものであったので、8/22東部インド進攻作戦準備指示を南方軍に示達した。これを「21号作戦」と呼称した。南方軍は9/1、「21号作戦」に関する準備命令を第15軍に伝えた。そして第15軍司令官飯田中将は、9/3タウンギーに第18師団師団長牟田口廉也中将、9/4にはエナンジョンに第33師団長桜井省三中将を訪ね忌憚のない意見交換を行った。2人共インドに攻め込むというような作戦は実行困難であるという意見であった。この「21号作戦」が保留延期となった要因は、第18師団師団長牟田口中将と第15軍参謀片倉衷( ただし)大佐の反対といわれる。
●この時点では牟田口中将は「インパール作戦」などを推進するつもりなどなかったのである。
こうして大本営は10/3「21号作戦」実施の決定は当分保留する旨を指令した。だがこの作戦は中止ではなく昭和18年2月以降に延期されただけであった。第15軍としては作戦準備指令は生きていたのである。
●そして翌1943年(昭和18年)3月、ビルマ方面軍が新設された時、牟田口中将は第15軍司令官になり「インパール作戦」を強引に押し進め、一方第15軍参謀片倉大佐はビルマ方面軍参謀となり、「インパール作戦」に大反対したといわれる。
●一方インド軍総司令官ウェーベル大将は、連合軍のビルマ反攻作戦の動きの中で、1942年9/17に東部軍に対しアキャブ奪回を命令した。そして第17インド師団は9月下旬にはその主力の駐留地(チタゴン)を出発してアキャブに向かう作戦行動を起こした。
1942年(昭和17年)における日本軍のビルマ全土制圧は、中国重慶政府に多大な打撃を与えた。それは連合軍による援助物資の途絶である。それまで連合軍は、ビルマのラングーンに陸揚げされた物資を鉄道(ビルマ鉄道)でラシオまで運び、そこから陸路(ビルマ公路)で昆明へ運んでいた。連合国は、もし輸送路が途絶すれば、中国がこの戦争から脱落してしまうことを恐れた。(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「ビルマ攻略作戦」と「インパール作戦」(ビルマの防衛)から引用
(米・英・インド軍の指揮官)
●スティルウェル中将・・1942年2月、中国・ビルマ・インド戦域米陸軍司令官に就任。中国雲南、北ビルマ戦線でマウントバッテンの下、対日作戦の指揮を執り援蔣ルートの確保に当たった。マウントバッテンは1943年8月に創設された東南アジア地域連合軍(SEAC)の総司令官に就任。
●ウエーベル大将・・1941年7/11~1942年1/16、インド駐留軍司令官。1942年1月~ABDA(米英蘭豪)司令部司令官。1942年3/6~1943年6/20、インド駐留軍司令官。
●スリム中将・・1942年3月以降、ビルマ軍総司令官アレキサンダー大将のもとで軍団長として、第1ビルマ師団、第17インド師団および第7装甲旅団を統括指揮した。
蔣介石は早くも1942年(昭和17年)1月末にはこの援蔣ルート途絶を予想し、米大統領にこれまでの地上ルートに代わりに新たな空路(インド・チンスキア→昆明)開設を申し入れた。これに対して米大統領は、3/21インド・アッサム地方からビルマ、中国空輸の輸送部隊の創設を命じた。これが「ハンプ空輸」である。
「ハンプ」とは瘤(こぶ)のことで、これは高度5000mを越えてビルマに突き出したヒマラヤ山塊を飛び越え、飛行距離880kmという危険で困難な飛行空路だった。
さらにこの空路は、雨季(5月~10月頃)の困難さに加え、1942年には連合軍の敗走兵や避難民への補給品の投下に追われ、中国に送られた援助物資は僅かなものだった。スティルウェル中将は、1943年2月の目標として、月5000トンの輸送を考えていた。これに対して蔣介石総統は、ハンプ輸送量を月1万トンに増加するように強く米大統領に求めた。大統領は1943年の初夏までに月6000トンを輸送できるように努力すると答えた。
これにより米英連合軍は、アッサム地方の飛行場建設を第1の優先順位におき、月1万トン輸送量達成に努力を続けていた。
●地図は、1984年の地図にビルマ攻略作戦の主要地点を記入したイメージ図である。星野作成(地図出典)「世界大地図帳」平凡社1984年刊
上段の「ハンプ空輸」は非常時の対応であり、終局の解決策は、陸路あるいは海上の日本軍の封鎖を突破して補給路を作ることであった。そこで連合軍は、「レド公路」を建設することで一致し、1943年(昭和18年)1月のカサブランカ会議で確認したのである。そしてこの建設のため、早くも1942年(昭和17年)12月には米軍から工兵連隊と航空技術大隊がレドに派遣され、英国側から建設を引き継いだ。英国側はインド陸軍の工兵部隊、アッサムの茶栽培者が組織したインド茶協会部隊、インド諸州からのインド国家労働部隊と地方茶園労務者並びに契約労務者などを供給した。 こうしてこのレド公路は、24時間体制で(1943年1/20まで)建設が行われ、1943年2月末までにレドから約70kmのビルマ国境までを完成させた。このレド公路は、レド→モガウン→ミイトキーナ→バーモ→ナンカン→龍陵→保山→昆明とつなぐ道路で、石油のパイプラインも併設された。だがこの地域には当然ながら日本軍守備隊がいるわけで、戦闘のなかで建設を進めたのである。
下は「WORLD WARⅡ」第2次世界大戦全史「マンダレーの道エピソード24」からレド公路の映像の一部を紹介する。このアメリカTVドキュメンタリー「WORLD WARⅡ」シリーズはYouTubeに公開されており、原題を「Victory At Sea」という。 中国へ向かうレド公路と石油パイプラインは「The Road To Mandalay – Episode 24」に収録されている。この「WORLD WARⅡ」シリーズは1952年~1953年にかけて、アメリカで製作された戦史TVドキュメンタリーで、世界各国から集められた膨大な記録映像フィルムから編集されたもので史料価値は高いものである。ただ映像の中には、映画の1シーンもあり、全てがドキュメンタリー映像ではないことにも注意が必要である。(出典)「WORLD WARⅡ第2次世界大戦全史」「ビルマ戦役」アメリカTVドキュメンタリー(1952~1953)。輸入販売元「キープ株式会社」。動画・出典:YouTube 「Victory At Sea」より(mp4動画、サイズ2.37MB、51秒)
*リンクします「Victory At Sea」
YouTube「Victory At Sea」
●1942年(昭和17年)6月スティルウェル中将は重慶に飛び、蔣介石総統に敗走した中国軍を立て直すための進言を行った。この結果蒋介石総統は、インドに敗走した中国軍(第22師、第38師基幹)をスティルウェル中将の指揮下に置き、インドで再訓練を行う許可を与えた。英国側もスティルウェル中将の要請を受け入れ、インド・ビハール州のランガール(カルカッタ北西約300km)付近の適地を中国軍の訓練地とすることを認めた。
さらに蒋介石総統は、中将の要請を受け、ランガールで訓練を行うため新たに2~3万人以上の兵員を空輸によりインドに送ることに同意した。(この兵員の空輸はハンプ空輸を使い、援助物資を送った帰りに中国兵を乗せて運んだ。)
●こうしてスティルウェル中将は、1943年(昭和18年)3月までに完全師団2、砲兵連隊3、工兵連隊1、砲兵大隊1及び教官団要員(中国人1500人)からなる1隊を作り上げた。この教官団は30個師団の再訓練をするための要員だった。このようにして訓練を行い再建された中国軍(第22師、第38師基幹)はレドに推進され、レドは北部ビルマ奪回作戦のための反攻基地となった。
●さらにスティルウェル中将は、全中国軍の再建にも乗り出し、蔣介石総統を説得し1943年4/1に昆明にも訓練所を設置した。訓練はランガール、昆明とも歩兵、砲兵、通信に重点を置き、歩兵はジャングル戦の訓練を重視した。こうして中国軍は米式訓練を受け米式装備によって再建されたのである。こうして新中国軍の戦力は日本軍を圧倒するまでになり、1943年末には北部ビルマで初めて日本軍に勝ったのである。
(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「ビルマ攻略作戦」「インパール作戦」(ビルマの防衛)から引用
●1942年(昭和17年)6月上旬、日本海軍がミッドウエー海戦で敗北したことで、イギリス・チャーチル首相はウエーベル大将に今後の構想について打電した(1942年6月)。その構想は、イギリスはラングーンとモールメンを奪回し、続いてバンコク方向に前進する、というものだった。
これに対してウエーベル大将は、チタゴンからアキャブ方面へ逐次海岸沿いに南下し、その後北部ベンガル湾を越えて4~5万の兵力を南部に進め、これにより戦局の主導権を握り、さらにマレー方向に進出するよう計画すべきと勧告した。ウエーベル大将も日本軍が空母4隻とその航空兵力の多数を失ったことで、今後のセイロン島やインド沿岸に対する進入作戦は行わないだろうと考えたのである。だがウエーベル大将としては、目下のところ、敗退した英印軍の整備再建に努め、なるべく早期に(1943年5月までの乾季中)にマンダレー以北の北部ビルマの一部を奪回する計画を立てるべきと考えた。
●一方でウエーベル大将は、チャーチル首相の勧告もあり、南部ビルマ作戦と北部ビルマ限定作戦の双方について検討を加えることにした。だがアフリカ戦線とソ連戦線でドイツ軍が急進撃したことにより、インド軍自体が制約を受け、南部ビルマ作戦は1年間延期となってしまった。
そこでウエーベル大将はさしあたりアキャブ奪回作戦を考え始めたのである。そして1942年9月、東部軍に対し第14師団をすみやかにアキャブ当面の地区に移動させるように命令した。これが第1次アキャブ会戦となっていく。
●ウエーベル大将は敗退してきた部隊の立て直しと給養に努め、防衛体制の立て直しを行った。そして第23師団をチンドウィン河畔に進めて広く日本軍の侵入を阻止させ、第17インド師団を予備として主力をインパールに控置し一部をコヒマに配置し、残りの部隊はインドへ退け、改編と再建を行った。また北部フーコン谷地警戒のため、北アッサム旅団を新編してレド付近に配置した。
●1942年(昭和17年)3月、日本軍によってラングーンが陥落した直後、ウィンゲート准将がウエーベル大将の司令部に着任した。准将はパレスチナやアビシニア(エチオピア)でゲリラ作戦を実行して大きな成功をおさめ、英陸軍省の推薦によってビルマ戦線に着任したのである。ウエーベル大将はただちに准将を北ビルマ偵察のため派遣した。そして准将は偵察終了後、遠距離挺進作戦計画を提出した。それにより下記第77インド旅団(秘称)の新設となった。
●その計画の内容は、挺進部隊を空中補給と無線誘導とによって指揮すれば、敵の占領地域内で、ある期間作戦ができるというものであった。
項目 | 内容 |
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チンディット部隊の編成 | 司令部、英大隊、グルカ大隊各1、破壊隊、偵察隊からなり、駄馬編成の8つ混成縦隊に区分して敵中に挺進できるようにした。そして各縦隊には予定推進地区の住民でつくった1小隊を配属した。 この縦隊には連絡用の無線を装備し、これによって英空軍にその所在を連絡させ空中補給を実施しようとするものであった。編成後この旅団は中央州に移され、激しいジャングル戦の訓練を行った。 |
名前の由来 | ウィンゲート准将は、この部隊の記章にチンス(CHINTH)・・神話中の獣で、からだの半分はライオン、残りの半分は鷲・・を選んだ。後にチンディット部隊の名で勇名をとどろかすようになったのは、この記章によったのである。 |
●さらにウエーベル大将は、第50落下傘旅団の訓練を推進することとし、1942年初頭には兵員の募集を終え、第215飛行隊により降下訓練をはじめ、さらに後日空挺旅団を編成するための準備として、グライダーの整備もはじめた。
(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「ビルマ攻略作戦」「インパール作戦」(ビルマの防衛)から引用
●この会談にはルーズベルト大統領、チャーチル英首相及び両国の幕僚長が参集した。そしてビルマ奪回作戦は、1943年(昭和18年)11/15の作戦開始を目標とした。そしてこの会談の後、米英作戦関係者で検討された作戦構想は次の通りであった。
①中国は11コ師団をもって雲南から、また2コ師団もってレドからそれぞれ進軍する。
②英国は3コ師団をもってカレワからマンダレーに向かって攻勢をとる。そして英国は12月にビルマ南西海岸(タンガップ、サンドウエイ及びパイソン)に上陸作戦を敢行し、1944年1月には最終作戦としてラングーン対して直接上陸作戦をおこなうというものだった。
●そしてそのために事前に実施すべき作戦として次の5項目が挙げられた。①ラングーンを潜水艦で封鎖する。②中国軍は怒江の西岸にあらかじめ攻勢拠点を占領する。③インドにある中国軍は、レド公路に沿う攻勢を順調にするため、レドを基地とする限定作戦を実施する。④英印軍は2コ師団でインパールから進撃し、チンドウィン河東岸に橋頭堡を作る。⑤アキャブ及びラムレ島(アキャブ南東)を攻略する。
ビルマの日本軍は、連合軍より4方向から反攻を受けようとしていた。その連合軍の主要反攻路は、雲南方面、フーコン方面、インパール方面、及びビルマ南西沿岸方面の4つと考えられた。そのために日本軍はあらたにビルマ方面軍を新設し防衛力強化を図ろうとした。
1942年(昭和17年末)第15軍は、連合軍の反攻に対抗する目的で、各師団の配備変更をおこなった。連合軍の4方向からくる主要反攻路それぞれの方面に、4個師団を配備して対抗しようとしたのである。また各部隊の疲労・消耗は激しく、その再建も必要とされていた。
(地図は「戦史叢書」朝雲新聞社「インパール作戦」「各兵団新防衛管区概見図」に、連合軍の反攻路は赤で強調し、対抗する日本軍の師団(56D、18D、33D、55D)を青〇でマークしたもの。
●この発令は1942年12/1で、下段がその師団の移動内容である。
この配備転換は第56師団を除き、他の3個師団にとっては極めて移動距離の大きいものだった。なかでも第55師団は北ビルマから南部ビルマへの転換となり、さらにアキャブへと転用になったので、師団にとって多大の日数と労力が必要になった。
その理由は、第33師団がビルマから中国戦線へ転用される予定が、第55師団に急遽変更されたことにあった。そこで第15軍司令官は第55師団を南部ビルマに配置して随時の抽出に備えたのである。ところがアキャブ方面の情勢緊迫により、第55師団をアキャブ方面に転用することになったのである。
◎第15軍師団名と各師団の警備管区・司令部位置 | 新防衛任務 |
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●第33師団(西管区・エナンジョン)→カロー 師団長・桜井省三中将 |
シッタン付近から下流のチンドウィン河正面及びアキャブの防衛を担任する。訓練のため、カロー、タウンギー付近の高原地帯(北部シャン州の一部及び南部シャン州の大部)を配当する。 |
●第55師団(中管区・マンダレー)→ペグー (昭和17年12/1)師団長・古閑健中将 |
南西沿岸方面(アキャブ地区を除く)の防衛を担任する。訓練のためトングー南東方の高原地帯(南部シャン州の一部及びカレニ州)を配当する。 |
●第18師団(東管区・タウンギー)→メイミョー 師団長・牟田口廉也中将 |
フーコン方面及びパウンビン付近から上流のチンドウィン河方面の防衛を担任する。部隊訓練のためメイミョー付近ラシオ鉄道沿線一帯の高原地帯(北部シャン州の大部)を配当する。 |
●第56師団(北管区・芒市) (昭和17年12/1)師団長・松山祐三中将 |
これまでどおり、主として雲南地区にあって怒江正面の防衛を担任する。 |
独立守備歩兵第42大隊 | テナセリゥム地区の防衛を担任する。 |
ラングーン地区 | 従前どおり第15軍直轄管区とする。 |
(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「インパール作戦」
●1942年(昭和17年)9/17、ウエーベル大将(インド軍総司令官)は、1943年1月のカサブランカ会談での決定に先立ち、東部軍にアキャブ奪回を命令していた。第14インド師団は、9月下旬早くもその主力の駐留地(チタゴン)を出発して、アキャブに向かう作戦行動を起こしていた。そして第14インド師団は、豪雨のため破壊された道路を補修しながら10月23日にプチドン、モンドウの前面に進出した。この地点は日本軍アキャブ守備隊の最前線であった。
●日本軍の第33師団は、アキャブ地区の防衛を強化するため宮脇支隊を担任させた(10/15~11/21アキャブ着)。緊迫する情勢の中、昭和18年1/2第15軍参謀片倉衷(ただし)大佐は宮脇大佐と情勢の検討を行い、現在進出中の英印軍を徹底的に撃破してビルマに対する総反攻の初動を粉砕する必要があるとした。そのために第55師団から歩兵1個大隊を抽出して宮脇支隊に増援させた。そして1/3、第15軍はアキャブ方面を第33師団の担任から除いて第15軍直轄とし、さらに第55師団の主力をアキャブ地区に推進し、1/10第55師団をアキャブ地区の担任とした(宮脇支隊の指揮も行う)。
●こうして英印軍とのアキャブ会戦が始まり、日本軍は1943年(昭和18年)5月、死闘のすえ英印軍を撃退することができた。だがアキャブ地方(長延な海岸線を含む)の広大な防衛線を維持するには、兵力が不足していた。
地図(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「インパール作戦」付図第2。
(注)下の年譜のプチドン、モンドウは、アキャブ北方のアキャブ-チタゴン線のインド・ビルマ国境付近(ビルマ側)の日本軍アキャブ守備隊の最前線拠点。ドンベイクはさらに下がったアキャブより約30km北西の地点。
年月・大本営・軍・師団別 | 内容 |
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昭和17年11月~12月 (方面軍、各軍、師団) |
11/2~15宮脇支隊逐次アキャブに進出。 11/23プチドン守備隊英印軍小部隊の攻撃を受ける。 12/1第15軍新防衛管区へ配備変更を発令。 12/16宮脇支隊はプチドン、モンドウの守備隊を撤退させる。 |
昭和18年1月~2月 (方面軍、各軍、師団) |
1/24第55師団戦闘指令所アキャブに進出。 2/10第15軍は第55師団に攻撃命令を下達す。 2月下旬第15軍は第55師団に攻勢移転を命ず。 |
(英印軍) | 1/11英印軍ドンベイクに対して第1次攻勢開始。 1/18英印軍ドンベイクに対して第2次攻勢開始。 1/29英印軍ドンベイクに対して第3次攻勢開始。 2/29英印軍ドンベイクに対して第4次攻勢開始。 |
(方面軍、各軍、師団) | 3月上旬カラダン河谷の戦闘。 3/16第55師団チズエ付近で123インド旅団主力を撃滅す。 |
(英印軍) | 3/14英印軍ドンベイクに対して第5次攻勢開始。 |
昭和18年4月 (方面軍、各軍、師団) |
4/6第55師団インデンで第6英旅団主力を殲滅する。 |
昭和18年5月 (方面軍、各軍、師団) |
5/8第55師団プチドン占領。 |
年譜(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「インパール作戦」「インパール作戦関係暦日表」から抜粋
●アキャブ方面で日本軍ドンベイク守備隊が英印軍に第4次攻撃をうけている頃、北部ビルマでは兵力不詳の有力な英印軍が、タウンダット北方でチンドウィン河を渡り、第18師団の防衛管区へ深く侵入してきた。これが第77インド旅団(ウィンゲート旅団)である。
この旅団は東進を続け、ミイトキーナ鉄道を破壊し、イワラジ河を突破し、引き続き雲南方面に突進を続けた。第15軍の各部隊はこの旅団の兵力も目的もわからず、自在に行動する敵を追って、その後の2カ月の間に疲弊してしまうのである。
●だがイワラジ河東岸に進出してからのウィンゲート旅団は、日本軍の激しい討伐を受けた。ウィンゲート准将は、3/30北群主力が最後の補給投下を受けたのち、各縦隊ごとに分散し、その後は各個にチンドウィン河まで撤退するように命令した。
北群のビルマ連隊は北方に脱出した(ミイトキーナ北方約250km)。第7縦隊は東進して雲南の保山に辿り着き、その後米軍によってインドに空輸された。南群の第1縦隊もシュエリー渓谷まで進出したのち反転してチンドウィン河に向かった。
こうして2月中旬チンドウィン河を渡河挺進したウィンゲート旅団は、約3000名の兵員中2182名が約4ヶ月後インドへ帰り着いた。彼らは少なくとも1600km(ある部隊は2400km)を行軍したのである。
地図(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「インパール作戦」付図第3。
●英軍側はこの成果を検討した結果、制空権が保持され、十分な航空輸送が利用できれば、将来のビルマ進行は、構築に多大な日数を要し、かつ大きな困難を伴う道路に依存する必要はない、と教訓を得たのである。
●ウエーベル大将はこの2月のウィンゲート旅団の進攻について、連合軍の総反攻に先立ち、貴重な情報と経験とを得ることは、将来の作戦にきわめて重要な価値をもたらすと考えていたのである。
年月・大本営・軍・師団別 | 内容 |
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1943年(昭和18年)2月 (英印軍) |
2/14ウィンゲート旅団チンドウィン河を渡河し北部ビルマに挺進開始。 |
3月 | 3/24ウィンゲート旅団イラワジ河東岸にて反撃退却開始。 |
5月 | 5月上旬ウィンゲート旅団チンドウィン河西岸に撤退を終わる。 |
(出典)年譜「戦史叢書」朝雲新聞社「インパール作戦」「インパール作戦関係暦日表」から抜粋
●下でリンクした「British Pathé TV 」の「The Forgotten Army (1944)」では「チンディット部隊」(ウィンゲート旅団)の映像が記録されている。
*リンクします「British Pathé TV 」
YouTube「The Forgotten Army (1944)」
●今回の改編でビルマ方面軍が新設され、方面軍司令官は、中、北部ビルマの作戦指導を第15軍に任せ、自らはアキャブ方面の第55師団を直轄するとともに、ビルマの独立やインド国民軍のビルマ進出問題など全般の政戦略指導を担任することになった。
●第15軍司令官は、ビルマ将来の防衛兵力として、1方面軍、3コ軍、1コ師団(方面軍直轄)、合計で9ないし10コ師団態勢の必要を具申していた。そのため今回の改編は第1段階とするのである。
(注)他の軍の新設は、第28軍が1944年(昭和19年)1月、第33軍が1944年(昭和19年)4月に編成された。
●下段の15軍の師団のうち赤色でマークした3師団が、翌年1944年(昭和19年)3月に開始されたインパール作戦での主力師団である。だが第31師団と第15師団が15軍に編入されてビルマに集結できたのは、昭和18年の9月と10月であった。
軍(方面) | 軍司令官(前職務) |
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★ビルマ方面軍 (4/3編成を完結。方面軍司令部はラングーン) |
司令官・河辺正三中将(支那派遣軍総参謀長)。参謀長・中永太郎中将(第15軍参謀長)。参謀副長・磯村武亮少将(第15軍参謀副長)。参謀片倉衷大佐(第15軍参謀) |
◎第15軍 | 司令官・牟田口廉也中将(第18師団長)。 |
●第55師団 (ビルマ方面軍直轄アキャブ方面) |
師団長・古閑健中将。参謀長・久保宗治大佐。 (昭和18年10/23師団長・花谷正中将《古閑健中将の後任》) |
●ビルマ方面軍直轄部隊 | 独立守備歩兵第42大隊、野戦高射砲第33大隊、ビルマ方面軍直属兵站部隊など。 |
軍(方面) | 軍司令官(前職務) |
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◎第15軍 4/3編成を完結。15軍司令部メイミョー |
司令官・牟田口廉也中将(第18師団長)。参謀長・小畑信良少将(近衛師団参謀長)。 |
●第18師団 (フーコン方面) |
師団長・田中新一中将。参謀長・横山明大佐(昭和18年6/28ラングーンでの方面軍主催の兵棋演習後の帰路飛行機事故で死亡)。 (昭和18年3/18、牟田口廉也中将から田中中将) |
●第31師団 3/22第15軍に編入。編成完結をもって第15軍戦闘序列に編入(5月下旬)。 |
師団長・佐藤幸徳中将・参謀長・加藤国治大佐 この師団は、在マレー歩兵第26旅団、ガダルカナル島から転用された川口支隊の歩兵第124連隊、南支及び北支で編成された山砲兵、工兵両連隊などで編合された。師団司令部は5月バンコクで編成を完結、7月上旬ペグーに進出。師団主力は6月から8月の雨季の最盛期に、タイ・ビルマ国境を、当時建設中の泰緬(たいめん)鉄道鉄道の工事路線に沿い徒歩行軍で踏破し、9月になって北部ビルマに集結した。 |
●第33師団 (シッタン付近からインパール正面) |
師団長・柳田元三中将。参謀長・村田孝生少将。 (昭和18年3/11桜井省三中将から柳田中将) |
●第56師団 (雲南地区にあって怒江正面の防衛を担任) |
師団長・松山祐三中将。参謀長・黒川邦輔大佐(昭和18年6/28ラングーンでの方面軍主催の兵棋演習後の帰路飛行機事故で死亡)。 |
●第15師団 6/17中支(南京)にあった第15師団が第15軍隷下に編入された。 |
師団長・山内正文中将。参謀長・岡田菊三郎大佐。間瀬参謀(昭和18年6/28ラングーンでの方面軍主催の兵棋演習後の帰路飛行機事故で死亡) 第15師団の主力は9月にタイにてその大部の集結を終わったが、南方軍は15軍の強い要請にもかかわらず、この師団を北部ビルマに進出させなかった。この師団は長くタイに控置させられ、10月末までチェンマイ-トングー道の改修工事に使われた。 |
(注)この第15師団のチェンマイ-トングー道の改修工事というのは、あの泰緬連接鉄道(昭和18年10/25全面開通)と関係があった。この泰緬連接鉄道以外にはタイとビルマをつなぐ交通路はなく、新たな交通路が必要とされていたのである。そこで管轄する南方軍は、中支からタイへ転進中だった第15師団の先頭部隊を、自動車道改修工事のため駐屯軍司令官の指揮下に入れたのである。
●下の「Burma Death Railway (1945)」では「泰緬鉄道」の映像が記録されている。「死の鉄道」である。
*リンクします「British Pathé TV 」
YouTube「Burma Death Railway (1945)」
月・大本営・軍師団別 | 内容 |
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(昭和18年)3月 (大本営、南方軍) |
3/6、牟田口中将は第15軍司令官に、田中新一中将は第18師団長にそれぞれ親補せらる。 3/18、河邊正三(かわべまさかず)中将緬甸(ビルマ)方面軍司令官に親補せらる。 3/22第31師団を第15軍戦闘序列に編入す。 3/27緬甸(ビルマ)方面軍、第15軍戦闘序列発令。 |
月・大本営・軍師団別 | 内容 |
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(方面軍、各軍、師団) | 3月上旬カラダン河谷の戦闘。 3/16第55師団チズエ付近で123インド旅団主力を撃滅す。 |
(英印軍) | 3/14英印軍ドンベイクに対して第5次攻勢開始。 3/24ウィンゲート旅団イラワジ河東岸にて反撃退却開始。 |
昭和18年4月 (方面軍、各軍、師団) |
4/3緬甸(ビルマ)方面軍司令部、第15軍司令部編成完結。 4/6第55師団インデンで第6英旅団主力を殲滅する。 4/12第15軍戦闘指令所メイミョーよりインダンギーに進出す。 |
昭和18年5月 (方面軍、各軍、師団) |
5/8第55師団プチドン占領。 5月上旬第31師団編成完結。 5/26第15軍参謀長小畑信良少将更迭発令(後任久野村桃代少将) |
(その他) | 5/6チャンドラ・ボース北スマトラのサバン島に上陸。 5月上旬ウィンゲート旅団チンドウィン河西岸に撤退を終わる。 5/12~25第3次ワシントン会議。 |
昭和18年6月 (大本営、南方軍) |
6/17第15師団を第15軍戦闘序列に編入す。 6/17南海支隊の編成を解き第55師団の編合に復帰を発令す。 |
(方面軍、各軍、師団) | 6/24~27ラングーンで方面軍主催の兵棋演習開催。 |
昭和18年8月 (大本営、南方軍) |
8月初頭 大本営はインパール作戦準備に関して指示す。 8/7南方軍はインパール作戦準備命令を下達する。 |
(方面軍、各軍、師団) | 8/12方面軍はインパール作戦準備命令を下達する。 8/25~26第15軍はメイミョーで兵団長会同を行いインパール作戦準備命令下達す。 |
(その他) | 8/1ビルマ国独立す。 8/19~24第1次ケベック会談。 8/25東南アジア連合軍司令部新設。 |
昭和18年10月 (大本営、南方軍) |
10/11~12シンガポールで南方軍主催の各軍参謀長会同開催。 10/23花谷正中将第55師団長に親補(古閑健中将の後任) |
(方面軍、各軍、師団) | 10月中旬第56師団怒西地区掃滅戦展開。 10/30フーコン谷地の北端で戦闘開始(第18師団のフーコン作戦の発端) |
(その他) | 10/21自由インド仮政府成立。 10/23日本国自由インド仮政府を承認す。 |
昭和18年11月 (大本営、南方軍) |
11/5大東亜会議開催。 11/16独立混成第24旅団をビルマ方面軍戦闘序列に編入す。 |
(方面軍、各軍、師団) | 11/8第33師団ファラム占領。 11/9第33師団ハカ占領。 11/11第33師団フォートホワイト占領。 |
昭和18年12月 (大本営、南方軍) |
12/22~26南方軍総参謀副長綾部橘樹中将メイミョーの第15軍兵棋演習に出席。 12/22~26第15軍主宰の兵棋演習。 |
(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「インパール作戦」(ビルマの防衛)「インパール作戦関係暦日表」から引用
第15軍司令官・牟田口廉也中将(前第18師団長)は、連合軍による反攻が緊迫するなか、インパール作戦計画の実現を決意した。その決定を後押ししたのは、新設されたビルマ方面軍司令官に親補された河辺正三(かわべまさかず)中将(前支那派遣軍総参謀長)だった。河辺中将と牟田口中将の間には、盧溝橋事件以来の信頼関係があった。そして牟田口中将にとって、「大きな戦果を挙げたい」という大本営及び東条英機首相の意向に沿うためにもインパール作戦の実現が必要だった。さらにこのインパール作戦構想には、東条首相の押し進めるチャンドラボースによるインド独立運動を支援するという大きな目的もあった。
ここでは牟田口司令官がインパール作戦を実行するまでの経緯について、「戦史叢書」朝雲新聞社「インパール作戦」(発動の経緯)から抜粋要約してみた。また「昭和史の天皇9」読売新聞社1969年(昭和44年)刊からも関係参謀の発言なども抜粋した。牟田口第15軍司令官が何を考えていたのか理解できそうである。
●特にこの作戦では、インド・ビルマの地形と気候(雨季)が重要な要素となった。これについて簡単に要約しておく。
①この地方は6月頃から11月頃までは雨季で、総雨量が5000mmといわれる世界最多雨地帯であり、険しい山獄と狭い河谷とが複雑に交錯したジャングル地帯で、マラリア、アミーバ赤痢のはびこる地帯でもある。
さらに雨季となれば山系内の各河谷は大奔流と化し、そのジャングルを切り開いて進軍しなければならないという困難な地帯であった。
②ビルマのミイトキーナ鉄道からチンドウィン河畔に至る約140km~150kmの間にはジビュー山系(幅約50km、南北約160km、標高1000数100m)が直線に南北に走っている。
③チンドウィン河の西方インドとの国境一帯には、アラカン山系(幅約200kmないし250km、標高2000mないし3000m)がそびえ、ヒマラヤ山系の支脈としてビルマ全西域に沿ってベンガル湾まで延びている。
④チンドウィン河の上流(タナイ河)はフーコン谷地として一大盆地を形成している。これを北上してインドの国境を越えると、レド及びチンスキヤ方面に出る。
⑤チンドウィン河は河床約1000mを越える大河で(乾季は水幅200m~300mになる所もある)、雨季になると濁流はたちま河床に溢れ、その河勢はまさに壮絶な景観を呈する。
(出典)山系図「戦史叢書」朝雲新聞社「ビルマ攻略作戦付図6」これに地名部分をマークアップした(星野)
★「21号作戦(東部インド進攻作戦)」は延期。第15軍は、インド進攻の代わりにビルマの防衛強化を方針とする。
昭和17年当時牟田口中将は、第15軍司令官飯田祥二郎中将配下の第18師団長だった。この「21号作戦」は第15軍の作戦参謀が検討を始め、この作戦参謀が南方総軍へ移ってから具体化したものである。連合軍が敗退を続けている今こそ混乱に乗じて一挙に東インドまで進攻しようとするものであった。そして計画の提出を受けた大本営は、8/22東部インド進攻作戦準備指示を南方軍に示達した。そして南方総軍は作戦準備を第15軍司令官飯田祥二郎中将へ命じた。
●ところが牟田口第18師団長の反対でこの21号作戦準備は頓挫した。その理由は、第18師団は実際問題としてマレー作戦を行った後で、戦力は相当落ちていて、そこで新たにインドに攻め込むなどできるわけがないという理由だった。ところが「昭和史の天皇9」読売新聞社1969年(昭和44年)刊によれば、当時第15軍高級参謀片倉衷( ただし)大佐は、第15軍参謀として赴任する際、南方総軍の司令官寺内寿一大将や黒田総参謀長から『どうも15軍と第18師団がうまくいっていないから、よろしくやってくれよ』といわれたという。
第15軍司令官飯田祥二郎中将と第18師団長牟田口中将との間には、作戦上の理由だけでなく感情的な対立があったのである。
●だが第15軍参謀片倉大佐としても、インド進攻がわずか2~3個師団の兵力で出来るはずもなく、現状を分析した結果、「21号作戦」は中止として総軍本部を動かし、作戦自体を正式に無期延期とさせたのである。そして第15軍は、インド進攻の代わりにビルマの防衛強化を方針としたのである。
牟田口中将の考えに転機が訪れたのは、昭和18年2月から5月にかけてのウィンゲート旅団のビルマへの侵入行動だった。その頃第18師団長だった牟田口中将はこのウィンゲート旅団の掃討に手こずった。ウィンゲート旅団は、第18師団の守備範囲正面のインパール方面からチンドウィン河を渡河して攻めてきたのである。このことから牟田口中将は、チンドウィン河に防衛線を敷くのではなく、攻勢に転じインパールそのものを攻撃するのが最良であると考えるようになった。そして牟田口中将は前年の「21号作戦」構想は大本営の意図するものであったことを知り、次のように手記「ビルマ作戦に関する回想録」に書いた。
(出典)「ビルマ作戦に関する回想録」元第15軍司令官牟田口廉也中将の手記「戦史叢書」「インパール作戦」
このことが牟田口中将の信念となったのであろう。さらに中将は手記に次のように書いた。
(出典)「ビルマ作戦に関する回想録」元第15軍司令官牟田口廉也中将の手記「戦史叢書」「インパール作戦」
(注)盧溝橋事件は、1937年(昭和12年)7/7、日中戦争の発端となった事件。この時「支那側の敵対行為は確実であり、断固攻撃してかまわない」と攻撃命令を出した連隊長が、牟田口廉也大佐(当時)だった。
そしてこの時牟田口大佐が所属した支那駐屯歩兵旅団の旅団長が河辺正三少将だった。日本軍は中国軍と軍事衝突を起こすべく盧溝橋付近で軍事演習を行っていたのである。
●こうして牟田口第15軍司令官は、その後機会があるごとにアッサム進攻論を方面軍司令官及びその他関係上司に具申すると同時にその信念を披瀝し、その実現によって職務獲得の光明を与えられたいと要請したのである。
当初の牟田口中将のインド進攻作戦の腹案は、まだ具体的な方策は確定していなかったが、第15軍の主力をもってインパール方面から、また有力な一部でフーコンを経てレド方面に進出し、東部アッサム州で敵と決戦を交え破砕するというものだった。
「地形偵察方面図第17」(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「インパール作戦」これに地名部分をマークアップした(星野)
昭和18年・月/日 | 内容 |
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3/18、河辺正三中将、ビルマ方面軍司令官に親補され、南京から上京、3/22東条首相(陸軍大臣)に申告。この時上京中のビルマ行政府長官バー・モウ博士にも紹介される。 | 東条首相は河辺ビルマ方面軍司令官に「日本のビルマ政策は対インド政策の先駆に過ぎず、重点目標はインドにあることを銘記されたい」と語り、河辺中将も首相の意見に同意を表明した。河辺ビルマ方面軍司令官もインド施策に対する強い意欲を胸中に秘めてビルマに赴任したのである。 |
4/3牟田口司令官、第15軍司令部の編成を完結して、4/12メイミョーに司令部を置く。 | 第15軍の緊急の課題は、ウィンゲート旅団の掃討と旅団をチンドウィン河以西に駆逐することであった。そして掃討戦のなか牟田口司令官としては、なんとかして第1線をまずチンドウィン河畔に推進し、さらに防衛線をチンドウィン河の西岸に置くことで、今後のインド進攻の足がかりとしたかったのである。だがチンドウィン河は広大であり、調査検討を加えた結果、ホマリン西方とシッタン西方、そしてモーレイク西方地点をそれぞれ占領し防衛線を推進する作戦を考えた。これを「武号作戦」と呼称した。上「地形偵察方面図第17」参照 |
参謀本部第1部長綾部橘樹少将ビルマ視察。綾部少将は田中新一中将(ガダルカナル撤退問題で左遷)の後任。田中新一中将は第18師団長となる。 | 参謀本部第1部長綾部少将がメイミョーを訪ね牟田口中将と会談した。その2~3日後第15軍司令部は小畑参謀長以下で幕僚会議を開き、「武号作戦はこの際実施せざるを可とする」という結論を出した。それに対して牟田口司令官は次のように訓示した。
『今や全般戦局は全く行き詰っている。この難局を打開できるのはビルマ方面のみである。ビルマでこの難局を打開し、前途に光明を見出す作戦は可能である。ビルマで難局打開の端緒を開かねばならぬ。これがためには、いたずらに防勢に立っていてはいけない。第一にこの広大なジャングル地帯では防御はなり立たぬ。
綾部部長に聞けば、さらに2コ師団ぐらいの増強は可能だという。また田中中将(第18師団長)は第18師団の主力でチンドウィン河西岸に進攻することはできると言っている。 わたしは、この際攻勢に出てインパール付近を攻略するのはもちろん、できればアッサム州に進攻するつもりで作戦を指導したい。 従って今後は防勢的な研究を中止し、攻勢的な研究に切り換えよ。』 元第15軍参謀長小畑信良少将の回想談(引用)戦史叢書「インパール作戦」 |
4/20頃、第15軍兵団長会同開催(メイミョー第15軍司令部) 第18師団長田中新一中将。第33師団長柳田元三中将。第56師団長松山祐三中将。第31師団長佐藤幸徳中将(師団主力に先行して参加)。それぞれが幕僚を伴って参加した。 |
この会同で初めて牟田口軍司令官はインパール進攻作戦案を披露した。内容は第15軍主力でインパールを中心とする正面からまずベンガル、アッサム鉄道の戦略要線に向かって殺到し、別の兵団でフーコン峡谷からインドビルマ国境を突破し、さらに北方のブラマプトラ河畔方面に進出し、第15軍主力に対し支作戦を行わせるというものであった。そして第33師団長に対し、対インド進攻作戦の準備として、すみやかにカレワ付近チンドウィン河右岸の占領とその付近の要域を拡大確保するように内示した。 この牟田口司令官のインド進攻論を聞いた各師団長はいずれも唖然たる面持ちだったという。 |
4/27ビルマ方面軍河辺正三司令官、高級参謀片倉衷大佐を伴い初度巡視のため第15軍司令部(メイミョー)訪問。 「戦史叢書」「インパール作戦」では、河辺中将と牟田口中将は水入らずの対談のなかで、インパール進攻論に移り、「ぜひ牟田口にこの作戦をやらせていただきたい」と懇請したとある。 |
★一方「昭和史の天皇9」読売新聞社1969年刊の中では高級参謀片倉衷大佐の話として次のようにある。片倉大佐が司令官室に呼ばれていくと、牟田口中将が涙を流しながら、河辺方面軍司令官に何やら意見具申しておられる。すると河辺さんが
『いや、さきのウィンゲート旅団の進入のこともあり、牟田口君としては座して防衛は出来ないから、このさい、攻勢をとらせてくれといっているんだが、きみはどう思うか』という。
片倉大佐は第1次アキャブ作戦の話をして人跡未踏の山を越える作戦がいかに困難であるかを説明し、牟田口さんへは次のようにいった。 『閣下はシンガポールで赫々たる戦果をあげられた。しかしあのときは、わが方に飛行機もあり、こっちが断然優勢で、敵は不意をつかれたのでしたが、いまは違う。向こうは陣容を立て直し中で、こっちは延び切っている。この状態でインド進攻なんかとても出来るものではない。こんなことを申し上げてはなんだが、閣下自身、ついこの間まで、インド進攻には反対しておられたのではないのですか。ともかく、いまは兵も消耗し、士気も落ち、兵器弾薬の補充も、思うにまかせぬという点をよく考えてください』といい、
『この返事は今晩、会食のとき、河辺司令官からご返事いたします』 といって、その場は別れたわけです。ところが雲南をまわっている間、河辺さんは毎晩のようにこういうのです。 『東京を出るとき、東条さんに、インド独立運動の援助のことと合わせて、このへんで一つ大きな戦果をあげてくれといわれた。だから、おれとしても、出来ることならインド進攻作戦をやりたいんだよ。それにきみも知っている通り、牟田口はあの蘆溝橋のときのおれの下の連隊長だった。いまではおれの下のたった一人の軍司令官だ。ああいって涙を流して意見具申をしている。なんとか牟田口をもり立てるようにしてやってくれないか』
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5/3牟田口司令官はシンガポールにおける南方軍兵団長会同への出席の途次、ラングーンに河辺ビルマ方面軍司令官を訪ね、第15軍小畑参謀長更迭の承認を求めた。 | 4月の第15軍兵団長会同の時、小畑参謀長は第18師団長田中新一中将に「インド進攻作戦は無理である」ことを牟田口司令官に進言するように依頼していた。田中新一中将もこの小畑参謀長の態度を、直接軍司令官に直言しなかったことに統率上問題ありとしていたのである。 小畑信良少将5/26付で第15軍参謀長更迭、関東軍情報部支部長に転出。後任は陸軍士官学校幹事であった久野村桃代(ももよ)少将がなった。 |
5/6、5/7南方軍軍司令官会同開催。 ビルマ方面軍河辺中将を始め、第25軍司令官田辺盛武中将(スマトラ)、第16軍司令官原田熊吉中将(ジャワ)、泰国(タイ)駐屯軍司令官中村明人中将、印度支那駐屯軍司令官町尻量基中将、ボルネオ守備軍司令官山脇正隆中将、第15軍司令官牟田口廉也中将、第3航空軍司令官小畑英良中将が参集した。 |
この会同に先立ち、ビルマ方面軍河辺中将は、南方軍総参謀長黒田重徳中将及び同総参謀副長稲田正純少将に対し、「チンドウィン河西岸アラカン山系内への防衛線の推進』に関する方面軍としての考えを述べた。南方軍としてもビルマ防衛のためには局部的攻勢を採る以外に方法のないことを認めたが、稲田副長はこの問題を更に具体的に検討するため、6月中旬ごろ方面軍で第15軍を加えての兵棋研究を実施されたいと申し入れた。河辺中将は了承して帰緬(ビルマ)した。当時方面軍の考えていた作戦構想は、武号作戦のように雨季前に進攻するような性急なものではなく、機をみて防衛の第一線をチンドウィン河右岸高地線に推進するといった程度のものだった。 |
5/13南方軍総参謀副長稲田正純少将、ビルマ視察のためラングーン(ビルマ方面軍)訪問及びビルマ各地を視察。 5/17、メイミョーで第15軍司令部を訪ね牟田口司令官と対談。 |
ビルマ方面軍では片倉高級参謀が次のように漏らした。「第15軍はインパール作戦を主張しているが、全く無謀な計画で、その頑迷さにも困ったものだ」 第15軍司令部での牟田口司令官は、インパール及びアッサム州進攻の必要を強調し、雨期明け後直ちに実行したいと訴えた。これに対して稲田副長は「アラカン山中の要線を占領するだけなら可能かもしれないが、アラカンを下ってアッサム州に突進するなどとは全く話にならぬ」と応酬した。そして稲田副長は内心次のように考えたという。 「牟田口中将の考えは危険だ。よほど手綱を締めてかからねば大変なことになりそうだ」
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「昭南日記」元南方軍総参謀副長稲田正純中将の手記によるビルマ視察時の感想(要点抜粋)
1 予想以上にビルマ平地一円が敵の制空下にあること。 すなわち、ラングーン、マンダレーといった2大都市が常時空襲の脅威下にあって、都市本来の機能は著しく減退している。鉄道能力も半減しており、第一線に近い方面では、自動車の運行も夜間に移ろうとしている。従って作戦、ことに補給はラングーンにおける揚搭(=揚げて積み込む)をはじめ相当強い拘束を感じ始めている。 2 飛行師団は時々対インド空襲を実施しているが、損害が多くて功罪相償わぬ様子である。 3 敵の反攻態勢は、アキャブ方面を始め、インパール、レド、雲南と4方面で相当の進展をみせている。 4 インパール作戦を強硬に主張しているのは、牟田口中将一人であろう。その真意は単なる限定攻撃ではなく、できればアッサム平地への突進を考えているようだ。インパール作戦そのものも、地形を無視した方法を強行しようとしている。 牟田口中将の考えを阻止しようとしているのは現在のところ方面軍では片倉参謀だけであるから、南方軍としてはこの際強力に統制し、無謀な作戦はあくまで拘制せねばならぬ。 5 泰緬鉄道以外にもタイ国との間に数本の陸路連絡線を新設する必要がある。 |
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6/5ビルマ方面軍河辺司令官は、第15軍の新旧参謀長を官邸に招いて会食をした。 | 小畑少将は会食の席上、牟田口司令官の今後の行動には十分注意していただきたいと繰り返し河辺司令官に訴えた。そして再び河辺司令官を訪ね次のように極言した。
『いまや牟田口司令官の暴走を阻止し得るものは方面軍司令官たる貴下以外にはないと信ずる。くれぐれもお願いする』と。
ビルマ日記抄 元ビルマ方面軍河辺正三大将の日記から抜粋(引用)戦史叢書「インパール作戦」 |
★ビルマ方面軍は、牟田口中将の「ディマプールを経て、インドのアッサム州になだれ込む」という構想は却下する。
●河辺方面軍司令官は稲田副長との約束により、ラングーンの方面軍司令部で、6月24日から27日にわたる4日間に兵棋研究を行ない、チンドウィン河西方地区への防衛線推進に関する具体的検討を行なった。
この研究には、方面軍では軍司令官以下参謀全員が、また第15軍からは牟田口軍司令官、久野村参謀長以下主任参謀全員、第15軍隷下各師団(第15師団はまだ中支にあり、間瀬参謀のみ参加)の参謀長、作戦主任参謀が参集し、そのほか第54師団、第56師団の各参謀長、作戦主任参謀、第5飛行師団参謀長らが参加した。
(注)第54師団はまだビルマ方面軍に編入されていないが近く編入される内示により参加した。
なお、大本営から竹田宮、近藤伝八両参謀が、また南方軍から稲田総参謀副長が参列した。第3航空軍からも所要の参謀が列席した。
●この兵棋研究は、南方軍、方面軍、第15軍3者の作戦思想を完全に一致させるため、きわめて重大な意味をもつものだった。この研究はビルマ方面参謀長中(なか)永太郎中将の統裁(=全体を統率し、裁断を下すこと。)で行われたが、「インパール付近の要線を占領し、雨季入りまでに防衛体制を固める」といった簡単な一般想定のもとに行われた。
●ところが第15軍司令官牟田口中将は、方面軍の主催の兵棋演習にもかかわらず、自身が信念とする作戦構想(第15軍の情勢判断)を文書にして事前に配ったのである。このことは「戦史叢書」でも方面軍の片倉大佐とひと悶着があったとかかれている。牟田口中将のその構想とは、「軍はインパールからコヒマの線をまず押さえ、さらに進んでディマプールを経て、インドのアッサム州になだれ込み、ブラマプトラ川に達する」というインド進攻計画だったのである。
「昭和史の天皇9」読売新聞社1969年(昭和44年)刊によれば片倉大佐は、15軍久野村参謀長や木下高級参謀に次のようにいったという。『いまここで、方面軍が兵棋演習やっているのに、その演習とは違うものを、軍司令官が配るということは何事か。そんなバカなことをあなたは参謀長として許しているのは、どうかしているんじゃないか』
これで牟田口中将は黙り、座が白け切ったが、方面軍の中(なか)参謀長がとりなして、演習は続行されたという。こうして牟田口中将の「ディマプールを経て、インドのアッサム州になだれ込む」という構想は却下され、あくまでビルマ防衛線をインパール正面に置くという作戦構想として演習は続けられた。
●第15軍の作戦構想は、地図のように、第15軍の主力(第15師団、第31師団、第33師団)をもってチンドウィン河西岸に対して攻勢作戦を実施するもので、第15師団及び第33師団で主作戦を担任させる。第33師団はインパール-パレル-タム道以西から、北西方及び北方に攻撃前進してインパール方向に突進する。この間第15師団主力はホマリン(含まず)から下流シッタンにわたる間でチンドウィン河を渡河し、その後すみやかにインパール北方に突進する。第31師団はホマリン以北の地区から渡河してコヒマに突進し、コヒマ-インパール道によるインパール増援部隊を阻止するというものだった。
地図(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「インパール作戦」「第15軍インパール作戦構想図」
●ビルマ方面軍中参謀長は演習終了後次の所見を述べて第15軍の再考を求めた(一部引用)。
こうすれば、どの地線で敵と遭遇しても後方補給に心配はなく、且つ、第二線兵団の運用によって堅実な作戦が指導できる。この作戦はあくまで防衛線推進のためのものであるから、万一の場合たとえインパール攻略できなくとも随所の要域に戦線を整理して防衛線を構成することが可能である。以上の趣旨によって再検討されたい。
元ビルマ方面軍参謀長中永太郎中将の回想談
●この演習に参加していた南方軍総参謀副長稲田正純少将は、牟田口中将の作戦構想について次のように述べた(一部引用)。
(中略) とにかく、第15軍の作戦構想は弾力性がない。今回の攻勢もビルマ防衛の一手段であって、本格的なインド進攻作戦ではない。その辺の心づもりが根底から欠除している。しかし時局の要請から、またビルマ防衛自体のためにも、この作戦はできたらやらせる方がいいに違いないが、ただ実行者が牟田口将軍であり、これを指導するのが河辺将軍である。そこが心配であった。
元南方軍総参謀副長稲田正純中将の回想録「昭南日記」(引用)戦史叢書「インパール作戦」
※6/28東亜号墜落事故発生。ラングーンでの兵棋演習後参集者はそれぞれ帰路についたが、次の5名の参謀がペグー山系内の搭乗機墜落事故で死亡した。第18師団参謀長横山明大佐、同参謀大井四郎中佐。第56師団参謀長黒川邦輔大佐、同参謀袴田金作中佐。第15師団参謀間瀬惇二少佐。
第15軍、方面軍、南方軍は、ラングーンでの方面軍主催の兵棋演習開催(6月)以後、それぞれインパール作戦に関する研究に没頭した。牟田口中将はその後の研究で、ますますインド進攻を伴うインパール作戦の必要性を痛感するようになった。だが上級司令部では、インパール作戦そのものに慎重論が強くなってきた。そこで牟田口司令官は、これ以上インド・アッサム進攻論を申し立てることをやめ、もしインパール作戦が順調に進展したのなら、そこでインド進攻作戦を具申すればよいと考えるに至った。
●そして1943年(昭和18年)8月、大本営によるインパール作戦「ウ号作戦」準備の実施指示が出された(下で最初の部分を引用)。
その指示を受けて南方軍、ビルマ方面軍は準備命令を下達した。その内容は、南方軍、ビルマ方面軍とも『・・重点を「チンドウィン」河西方地区に保持しつつ、一般方向を「インパール」に向け攻勢をとり・・』と指示した。
この意味するところは、南方軍も方面軍も、牟田口中将の構想(鵯越え戦法《ひよどりごえ戦法》=源義経が平家を討つため坂を一気に駈け下り,平家の背後をついて勝利を得たという奇襲戦法)を危険視し、補給を確保しながら重点を南方から北方へ向かってインパール方向に進攻することを求めたのである。
だが牟田口司令官はチンドウィン河は広大であり、どの地点で渡河しようがそこはすべて西方地区に該当すると自分都合で考えた。そして従来通りの作戦構想で作戦準備に全力を傾注したのである。場所を詳細に指定した正式命令でなければ、従う必要はないと考えていたのであろう。牟田口中将にとっては、上級司令部の参謀がいろいろ反対しても聞く耳など持ってはいなかった。
昭和18年 | 内容 |
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8/7南方軍は、大本営の指示に基づきビルマ方面軍に命令を打電。 |
●「ウ」号作戦指導要綱(南方軍→方面軍)(下がその一部、ひらがなに書き換えた)
①方面軍は敵の反攻に対し、努めて兵備を整頓したる後、重点を「チンドウィン」河西方地区に保持しつつ、一般方向を「インパール」に向け攻勢をとり、国境附近所在の敵を撃破したる後、「インパール」附近策源を衝き爾後該地附近に在りて持久態勢に入る・・・
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8/12方面軍、15軍にインパール作戦準備命令を下達。 |
●ビルマ方面軍「ウ」号作戦指導要綱(方面軍→第15軍)
1主戦方面 ①第15軍は英軍の反攻に対し、努めて主作戦方面の兵備を整頓したる後、重点を「チンドウィン」河西方地区に保持しつつ、一般方向を「インパール」に向け攻勢を執り、成るべく我に近き地帯に於て一挙に英軍の補足撃滅を図り、爾後国境附近所在の英軍を撃破したる後「インパール」附近の策源を覆滅す・・・
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★第15軍、インパール作戦計画案を決定。
第15軍はここでインパール作戦の構想を統一決定し、作戦準備を命令した。メイミョーでは各兵団長及び幕僚を合同し兵棋演習を行い、方面軍からは中参謀長が代表として関係参謀を連れ参加した(方面軍参謀片倉衷大佐は参加せず)。
だがインパール作戦計画案は修正されず、牟田口司令官が従来から主張する内容で決まった。作戦の中心はインパールではなく、第31師団の進攻するコヒマ方面に中心を移し、敵を包囲するというものであった。
●これは方面軍の決定とは異なるものであり、それを認めた方面軍中参謀長に対し方面軍参謀片倉衷大佐は怒って辞任を申し出たという(河辺司令官が慰留)。6月の兵棋演習では「第31師団は、インパールへ向かう主力の第15師団、第33師団の後方に待機させ、一部だけコヒマ方向に使う」という考えで決まっていたはずであった。
●このメイミョーでの兵棋演習では、第18師団長田中新一中将が、第15軍の後方主任参謀が補給関係について「とても責任は持てない」と発言したことに対してこの参謀を強くなじった。
元第31歩兵団長宮崎繁三郎中将の回想録(引用)戦史叢書「インパール作戦」
するとそのとたん牟田口中将がたちあがり強い口調で次のように言った。
元第31歩兵団長宮崎繁三郎中将の回想録(引用)戦史叢書「インパール作戦」
と冗談ともつかぬ調子でいった。 列席の各兵団長は内心軍司令官の本心を疑ったとある。(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「インパール作戦」から引用
原文から抜粋し、地域別に作戦案を区分けして、ひらがなにして意訳した。(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「インパール作戦」から引用
第15軍のインパール作戦計画案
(第1方針)インパール作戦の発動を1944年(昭和19年)初頭とし、作戦の所要日数を約1ヶ月とする。
概要 | 内容 |
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(軍の一部)第33師団 ※上図左「第15軍インパール作戦構想図(全体図)」参照。 |
「カボー」谷地及び「チン」高地正面より、一般方向を「インパール」に採り攻勢前進する。 |
(軍の主力)第31師団及び第15師団 | 「パウンビン」「ホマリン」の正面にて「チンドウィン」河を渡河し、それぞれ「コヒマ」と「インパール」に突進する。第31師団は「アッサム」正面より來る敵の増援を阻止し、第15師団と第33師団で、北方及び南方から「インパール」を挟撃覆滅する。 |
●敵が先に反攻に出た場合、随時攻撃して敵を撃破追撃し一挙に「インパール」要域に突進してこれを占領する。 ●「インパール」要域を占領したなら、「コヒマ」附近より「インパール」西方山系、「マニプール」河西岸高地より「ファラム」「ハカ」にわたる要線を確保し敵の反撃を阻止しつつ次の作戦を準備する。 |
師団別 | 内容 |
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第33師団 ※上図左「第15軍インパール作戦構想図(全体図)」参照。 |
10月下旬より11月中旬にわたり「チン」高地の要衝「フォートホワイト」「ファラム」「ハカ」を攻略し、一部で「モーレイク」周辺、主力を「カレミョウ」周辺地域に集中し、「モーレイク」「ヤザギョウ」「フォートホワイト」の線にて攻撃を準備する。 |
第33師団(攻撃部署主力) | 「ティディム」ー「トンザン」ー「チッカ」ー「ビシェンプール」道を「インパール」方向へ進軍。 |
第33師団(攻撃部署有力な一部) | 「カボー」谷地より「タム」方向へ作戦し、状況が許せば「タム」ー「パレル」ー「インパール」道に沿う地区を「インパール」方向に作戦し師団主力の作戦に策応する。 |
第31師団(主力) ※上図右「地形偵察方面概見図(インパール正面)」参照。 |
先づ「インドウ」「ウントウ」「ピンボン」「ピンレブ」の地区に集中し、一部を「タマンティ」「ホマリン」「パウンビン」等「チンドウィン」河の東岸に配備し、作戦準備を行い、作戦開始直前主力を「チンドウィン」河に推進する。 |
第31師団(攻撃部署主力) ※上図左「第15軍インパール作戦構想図(全体図)」参照。 |
「ホマリン」及び同上流地区において「チンドウィン」河を渡河し、「レイシ」「フォートケアリ」を経て「コヒマ」に進軍する。 |
第31師団(攻撃部署有力な一部) ※上図左「第15軍インパール作戦構想図(全体図)」参照。 |
「ホマリン」附近において「チンドウィン」河を渡河し、「ウクルル」ー「マラン」道に沿う地区を「コヒマ」に突進し同地の要域を占領して、「アッサム」方面より予想される英印軍の増援を阻止する。 状況に依り一部を「インパール」に転進させ「インパール」会戦に参加させる。 |
第15師団 ※上図右「地形偵察方面概見図(インパール正面)」参照。 |
「ビルマ」進出に伴い速やかに「ウントウ」「ピンレブ」地区に前進し、第31師団と交代して同地区に集結する。一部を「タウンダット」対岸「パウンビン」附近に配置して作戦準備を行い、作戦開始直前に「チンドウィン」河に推進する。 |
第15師団(攻撃部署主力) ※上図左「第15軍インパール作戦構想図(全体図)」参照。 |
「ホマリン」「タウンダット」間において「チンドウィン」河を渡河し、「フミネ」ー「ウクルル」ー「カングラトンビ」道に沿う地区を「インパール」北側地区に突進し、第33師団と相呼応して「インパール」を攻撃する。 |
師団 | 内容 |
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第31師団 | 「コヒマ」周辺の要域を占領する。 |
第15師団(主力) | 「インパール」平地西側山系を占領し、「アッサム」及び「シルチァール」方面の敵に対して「マニプール」要域を防衛する。 |
第33師団 | 一部は「チン」高地の要衝を占領し、主力は「カレワ」「カレミョウ」地区に集結し、雨季対策を確立するとともに次期作戦の準備を行う。 |
インパール作戦の補給 | 攻略作戦進攻の間の補給は、各師団毎に自力で携行する。「インパール」攻略後は、機を失せず「カレワ」ー「タム」ー「インパール」ー「コヒマ」道の突破補給を敢行し、爾後これを主兵站線とする。 |
陸軍(方面軍・軍)・海軍 | 内容 |
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★ビルマ方面軍 | ◎第15軍。●第54師団(新)。●第55師団(アキャブ)。●ビルマ方面軍直轄部隊(独立守備歩兵第42大隊)。 |
◎第15軍 | ●第18師団(フーコン)。●第33師団(シッタン付近から下流のチンドウィン河正面)。●第56師団(怒江)。 ●第15師団(新)。●第31師団(新)。 |
南海支隊 開戦当初から大本営直属で、南東方面の作戦に従事していた。 |
昭和18年6/17、編制解除と共に第55師団の編合に復帰命令。 |
第31師団 | 3/22第15軍に編入。編成完結をもって第15軍戦闘序列に編入(5月下旬)。師団司令部は5月バンコクで編成を完結、7月上旬ペグーに進出。師団主力は6月から8月の雨季の最盛期に、タイ・ビルマ国境を、当時建設中の泰緬(たいめん)鉄道の工事路線に沿い徒歩行軍で踏破し、9月になって北部ビルマに集結した。 |
第15師団 | 南方軍直轄として10月末までチェンマイ-トングー道の改修工事従事。 |
第54師団 | 8月末にジャワに増加したばかりだったがビルマに転用となった。そのため第54師団の3分の1は、ジャワの東部防衛隊として12月まで残された。そして第2師団を残された第54師団の替わりとして配置し、第54師団をビルマに向かわせた。 |
第2師団 フィリピンで再建中。ガダルカナルの戦闘で大きな損害を受け、昭和18年5月頃以降ルソン島で再建中。 |
昭和18年9/13さしあたり南方軍の戦闘序列編入して部隊の再建を続行させる。だがベンガル湾方面の情勢ひっ迫に伴い、昭和18年12月末ビルマに急進することになった。 |
第53師団(内地) | 昭和18年11/19南方軍戦闘序列に編入。 |
第5飛行師団 | 雨季間主力でマレー地区に後退、教育訓練、機種改変などを行っており、雨期明け後の作戦を準備中。 |
海軍 | ビルマには第13根拠地隊が配置され、司令部はラングーン、第12警備隊はタンガップ付近、第13警備隊はアキャブ付近、第17警備隊はメルグイ付近にあって、それぞれ沿岸警備、海上、水路の掩護にあたる。 |
★南方軍、インパール作戦計画案を認めず。
この南方軍主催の各軍参謀長会同には、ビルマから方面軍中(なか)参謀長、第15軍からは久野村参謀長が出席した。ビルマ方面軍中参謀長は南方軍総参謀副長稲田正純少将に対してインパール作戦準備について具体的な説明を行った。そして第15軍の久野村参謀長は携行してきた「インパール作戦構想」を稲田副長に示して承認を要請した。だが内容は以前から牟田口中将の主張する「鵯越え構想」であり、ビルマ方面軍司令官もそれに同調しているように推測された。
そのため稲田副長は「この構想では認可できない。修正して出し直してもらいたい」と強く拒否した。
★インパール作戦に反対する南方軍総参謀副長稲田少将を更迭か?
後任は参謀本部第1部長綾部橘樹少将が南方軍総参謀副長に補された。綾部少将は東京を出発する時、東条陸相から「インパール作戦決行の可否については着任後十分研究するように」といわれた。これまで参謀本部の作戦部長の職にあった綾部少将は、インパール作戦はできることなら実行したい、と考えつつシンガポールに赴任し、11/3稲田少将から申し送りを受けた。
●11月初め、大本営は近藤伝八参謀を再びビルマに派遣、インパール作戦について南方軍、ビルマ方面軍、第15軍に意見聴取を行った。各軍ともインパール作戦はぜひ認可されたいとの希望が強かった。だが大本営としては牟田口中将の主張する「鵯越え戦法」には依然として懸念を抱いていた。
★南方軍総参謀副長綾部少将インパール作戦を認める。
メイミョーの兵棋研究は18年12月22日から同26日の間、メイミョーの第15軍司令部で行なわれた。この研究演習は、インパール作戦決行の可否を南方軍に決意させる重大な性格をもっていた。南方軍はインパール作戦決行の最終決断をしなくてはならなかった。
演習は全て第15軍がこれまで主張してきた作戦構想(いわゆる鵯越え戦法)に基づき進められた。
演習終了後、牟田口中将は各師団参謀長を激励して、
元南方軍参謀山田成利の回想談(引用)戦史叢書「インパール作戦」
また英印軍の戦力を評して、
元南方軍参謀山田成利の回想談(引用)戦史叢書「インパール作戦」
方面軍参謀長中中将は、牟田口中将に面談して「軍の作戦構想はいかにも危険性が多いと思われる。再考の余地はないか」と質したが、牟田口中将は、
元ビルマ方面軍参謀長中永太郎中将回想談(引用)戦史叢書「インパール作戦」
中参謀長にそれ以上言葉を返す余地を与えなかった。
●各師団の参加者、意見等は下の一覧のようであった。
(軍・師団) | 参加者、意見など |
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(南方軍) | 綾部橘樹総参謀副長、今岡豊(後方主任)、山田成利(作戦主任)の両参謀。 |
(ビルマ方面軍) | 参謀長中永太郎中将、作戦主任参謀不破博中佐、後方主任参謀上村泰藏少佐。 ※この戦史叢書「インパール作戦」の執筆者は作戦主任参謀不破博中佐である。 |
(第五飛行師団) | 参謀 |
(第15軍) | 南方軍山田参謀は第15軍の平井(文)参謀(作戦主任)に聞くと「わたしはインパールまで出ていかなくとも、チンドウィン河畔で十分防衛は成り立つと思っている。しかしこの問題については軍参謀としては一切意見は言わないことになっているから」と言外の意味を匂わせながら言葉を濁した。 |
(第15師団) | 師団長山内正文中将、参謀長岡田菊三郎少将、タイ国から駆けつけて参加。 これより先、南方軍綾部副長は、第15師団長山内正文中将に対し、インパール作戦の見通しについて意見を求めたが、山内中将は「わたしはタイ国から駆けつけて来たばかりで、いま急に意見を聞かれても答え得る状熊ではない}と答え、なんの意思表示もしなかった。 南方軍山田作戦主任参謀は、第15師団参謀長岡田菊三郎少将をその宿舎に訪ね、今回の作戦に関する成否の見通しを聞いた。岡田参謀長は「まだよくはわからぬが、今回の演習で受けた感じでは、この作戦は無理なように思われる」と答えた。
(参考) 第15師団長山内正文中将日記の一節
本演習によりインパール作戦(ウ号作戦)の全般を丁解し得たるが、本作戦の最大の難関は後方補給にあり。即ち道路の整備未だ十分ならず、輸送力不十分にして集積予定の如く出来得るや否や大なる疑問あり。而も準備のため時日を費すときは次期雨期迄に作戦終末後の整備出来ず。軍においては出来るとの自信を有し、軍司令官も大成功を収め得べしとの信念を固められ「必ず勝てる」と口癖のやうに云はれあり。 |
(第31師団) | 師団長佐藤幸徳中将は不参加のため綾部副長は意見を聞けず。 |
(第33師団) | 師団長柳田元三中将不参加のため綾部副長は意見を聞けず。南方軍山田参謀は第33師団の堀場(庫三)参謀(作戦主任)に意見を求めたところ、同参謀は「無茶な作戦だ。しかし自分が今更とやかく言ったところでどうなるものでもなかろう。まあやれるだけやるさ」と述べた。 |
(第56師団) | 師団長松山祐三中将、見学の形で出席。 |
★綾部総参謀副長は寺内元帥に委細報告のうえ「作戦決行」の決裁を受けた。
(あとは大本営の認可を待つだけとなる)
綾部副長は最後に今岡、山田両参謀に忌憚のない意見を述べさせた。まず山田参謀は作戦主在の立場から、次のとおり述べた。
わたし自身もこの作戦は危険だと考える。補給問題一つを取りあげてみても、随分無理なところが多い。要するにこの作戦は中止すべきだと思う。(引用)戦史叢書「インパール作戦」
次いで今岡豊高級参謀は、兵站の見地から次のように述べた。
要するに問題は補給計画の適否というよりも、軍司令官の言われるように、迂回、突進戦法で敵が崩壊するかどうかの作戦上の見通しにかかっていると考える。(引用)戦史叢書「インパール作戦」
以上両参謀の意見を聞いて、綾部副長は熟考した。山田参謀は中止を主張するが、今岡参謀は突進戦法が成り立つならば補給はなんとか追随できるという。綾部副長自身もかねてから「できることならやらせたい」考えであった。
(引用)戦史叢書「インパール作戦」
ところが山田参謀は今岡参謀の意見を聞き、更に副長の意向も推測して、改めて再考を申し出た。そして翌朝「昨日の反対意見を撤回し、作戦決行に同意する」答えた。
こうして綾部副長は2人の参謀が作戦決行に同意したので、「インパール作戦決行」を総司令官に答申することに決定し、最後に河辺方面軍司令官の意見を聞くことにした。 帰途ラングーンに立ち寄り、河辺中将に対し
河辺中将はこれに対し、
「ぜひ実行するよう具申されたい」と言った。
(引用)戦史叢書「インパール作戦」
こうして 綾部副長一行は12月28日シンガポールに帰着し、寺内元帥に委細報告を行い「作戦決行」の決裁を受けた。
ところが今回綾部副長の報告により、南方軍は初めて前記の攻勢要領を是認し、インパール作戦を全面的に認可するに至った。
こうして大本営もインパール作戦を認可した。
(引用)戦史叢書「インパール作戦」