1944年(昭和19年6月まで)①米軍、ニューギニアと中部太平洋、両方面から日本本土へ向かう。

2022年6月27日第2次世界大戦

1944年、連合軍は南西太平洋では、ニューギニアからフィリピンへ向かい、同時に中部太平洋では、ラバウル、トラックを孤立させ、サイパンへ向かう。
●国内では1月、初の強制「建物疎開命令」が出された。政府は米軍による空襲を必至とみて、軍需工場や人の疎開を優先しようとした。これはドイツ・ハンブルクの大空襲やベルリン市の100万人疎開を教訓としたのである。そして大本営はその対策として、中国における連合軍航空基地破壊のための「大陸打通作戦」を1/24下令した。
●太平洋方面では2月、連合艦隊の拠点であるトラック島が大空襲を受け、その機能を失う。陸軍は3月、ビルマに進攻してくるインドにある英軍基地占領のため「インパール作戦」を開始するが、敗退する。これは無謀な作戦と言われ、死の撤退「白骨街道」の悲劇を生んだ。(作戦全体で約10万人のうち死傷7万2000人、残りの兵士も栄養失調や病気であった)
 そして6月、連合艦隊は米軍によるサイパン・グアム上陸作戦を阻止するため、米大艦隊とマリアナ沖海戦(6/19~20)を戦う。だがこの海戦で日本の航空部隊は壊滅的損害をこうむった。そして7/7サイパン島守備隊は全滅(4万人以上)。見捨てられた民間人も集団自決、断崖からの投身自決(約5000人)など玉砕の道を歩んだ。生き残った非戦闘員は、約1万5000人(先住民含む)だった。米軍進攻直前の日本人の定住者は約2万5000人(このうちの8割は沖縄県人の入植者)といわれる。
昭和19年7/18大本営発表「サイパンのわが部隊全員壮烈な戦死」の2項目めは、次の内容であった。

「2 『サイパン島』の在留邦人は終始軍に協力し、凡そ戦い得るものは敢然戦闘に参加し、概ね将兵と運命を共にせるものの如し。」

●ヨーロッパでは6/6、連合軍による「ノルマンディー上陸作戦」が成功する。東部戦線で独ソ戦を単独で戦うソ連支援のため、第2戦線の構築が必要だった。これは「史上最大の作戦」とよばれた。
(上写真)昭和19年3/7に竣工した最新鋭空母「大鳳」。日本海軍初の装甲空母。右手奥は翔鶴型空母。フィリピン「タウイタウイ」泊地での写真(昭和19年5月~6月)(写真出典)「写真・太平洋戦争」雑誌「丸」編集部 編。潮書房光人社1989年刊

★1944年(昭和19年)米軍の大攻勢(太平洋戦線)2路並進。

連合軍は、太平洋線で「中部太平洋進行路」(ギルバート諸島→マーシャル諸島→マリアナ諸島)と「南西太平洋進行路」(ニューギニア北岸沿→フィリピン)の2路並進を決定し日本本土へ向かった。

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★1942年~1943年連合軍「南西太平洋方面の作戦」概要

ここでは、①「ウオッチタワー作戦」(1942年7月~)、次に②「カートホイル(カートホイール)作戦」(1943年4月~)について述べる。連合軍の目的は、日本の一大拠点ラバウルを占領することだった。だが連合軍は、上陸作戦から生じる多大なる損害と果てしない人的消耗戦を危惧し、日本軍の拠点(ラバウルやトラックなど)を孤立・分断化させることで無力化させ、先に進む作戦に変更した(飛び石作戦)。

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★1944年(昭和19年)太平洋戦線全域の年譜。太平洋方面(南西・南東・中部)・ビルマ・中国戦線。

3月ビルマにて「インパール作戦」開始。この頃ビルマ西北部(フーコン谷地)では、米中軍(インドで米式訓練を受けた新編中国軍と米軍)が、インドから中国への補給路「レド公路(スティルウエル公路)」を建設をしながら進軍し、日本軍守備隊は激戦を続けていた。
 一方太平洋戦線では、2月に米機動部隊がトラック島を空襲し、連合艦隊の一大根拠地はその機能を喪失した。さらに3月末、パラオ・ヤップ両島が空襲を受けた。翌日連合艦隊司令長官は、パラオから連合艦隊司令部を移すべく、ダバオ(フィリピン南部のミンダナオ島)へ飛行艇で向かう途上、遭難し行方不明となった。4月、大本営は中国大陸での「大陸打通作戦」を開始。6月15日、ついに米軍がサイパン島に上陸を開始した。その翌日6月16日、成都方面の中国基地から発進したB29重爆撃機が、北九州を初めて空襲(八幡製鉄所などを爆撃)した。そして6/19~6/20、連合艦隊は米機動部隊(サイパン島上陸作戦を支援)を壊滅すべく「マリアナ沖海戦」を戦った。「あ」号作戦の最大決戦であった。

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★1944年(昭和19年)5月「あ」号作戦と連合艦隊主要艦隊の戦時編制。

「あ」号作戦とは、連合軍の攻勢に対して、海軍が第1航空艦隊(基地航空隊)と新たに編制した第1機動艦隊(第2艦隊《戦艦・重巡洋艦等》+第3艦隊《空母艦隊》)とで大反撃を加え、戦局の転換を図ろうとした作戦である。ここでは、その連合艦隊の主要艦隊の戦時編制を一覧にした。だが海軍が必要とした航空機は、定数の1/3にも満たなかった。海軍はこの「あ」号作戦の敗退で、空母機動部隊と航空艦隊(基地航空隊)を失った。

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★1944年(昭和19年)6月、マリアナ沖海戦と日米の航空母艦と新鋭航空機。

マリアナ沖海戦は史上最大の艦隊決戦といわれたが、実質は航空戦だった。日本海軍は、進攻してくる米機動部隊撃滅のため、マリアナ沖で戦った。
 だが日本海軍航空隊の現状は、その戦力、乗員の練度、技術力、情報力などで、大きく米軍に劣っていた。このマリアナ沖海戦の結果、海軍機動部隊は最新鋭空母「大鳳」、大型空母「翔鶴」、中型空母「飛鷹」、そして多くの航空機と熟練パイロットを失い壊滅状態となってしまった。
 ここでは、マリアナ沖海戦時の、両軍の最新鋭機の紹介や、航空母艦や搭載機の対比を行った。

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★1943年(昭和18年)以降。ラバウルの孤立と、日本軍の玉砕(ズンゲン守備隊)

ここでは孤立したラバウルで起きた「ズンゲン守備隊玉砕」について述べる。漫画家の「水木しげる」の「総員玉砕せよ!」が、この「ズンゲン守備隊玉砕」を題材とした作品である。水木しげるは、ラバウルの南方ズンゲン守備隊に所属していた。この時の体験が、水木しげるの戦後一貫した価値観となったといわれている。

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★1944年(昭和19年)以降。ズンゲン守備隊玉砕とその後。戦史叢書「南太平洋陸軍作戦5」

ここではズンゲン守備隊玉砕について、戦史叢書「南太平洋陸軍作戦5」から、「第38師団のワイド湾方面の作戦」の章を転載した。このなかでは「堀 亀二軍曹回想録」等が抜粋されており、ズンゲン守備隊玉砕の後、玉砕せず命令によって転進した先任将校らが、玉砕をしなかったことの責任を取って自決したことが書かれている。またリンクした「NHK戦争証言アーカイブス」の中では、多くの当事者の証言を聞くことができる。

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★国内政治と社会年表。1944年(昭和19年)1月~6月。

2月、急激な連合軍の攻勢に対抗するため、東条英機首相は、陸軍大臣と参謀総長を兼任、嶋田海相は海軍大臣と軍令部総長を兼任した。これは軍政と統帥を同時に握り、また海軍とも関係を密にし、強力な指導力を発揮しようとしたのである。同じく2月「決戦非常処置要綱」を決定し、内政の面でも強力に政策をすすめようとした。
『昭和2万日の全記録』講談社を中心に要約引用し、朝日新聞の紙面紹介を行った。

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Posted by hoshino