1943年(昭和18年)連合軍の大攻勢が始まる。日本、「絶対国防圏」を設定する。
2023年4月26日第2次世界大戦
●ガダルカナル撤収は、2/1、2/4、2/7の3次にわたり毎回駆逐艦20隻で実施された。この結果、陸軍約9,800名と海軍約830名が撤収できた。だが6ヶ月におよぶガダルカナル島の戦いでは、陸軍約20,800名、海軍約3,800名が戦没した。
●またニューギニアでは、在ギルワとブナ支隊が、撤収命令(1/13)により、大発動艇(だいはつどうてい=陸軍上陸用舟艇《通称・大発》)によりラエ方面に転進した。このブナ方面作戦参加総兵力は、陸海軍合計約15,900名であり、オーエン・スタンレー機動間で約4,500名、ブナ周辺地区の防御戦で約8,000名の将兵が戦没した。撤収した人員はわずかに約3,400名にすぎなかった。(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「南太平洋陸軍作戦3」
(上絵)「密林の死闘-ニューギニア」佐藤敬。(出典:「太平洋戦争名画集」毎日グラフ臨時増刊1967/11/3)
1943年(昭和18年)2月、日本軍はガダルカナル島から、同じソロモン諸島のブーゲンビル島へ撤退した。それ以後主戦場は、中部ソロモンのニュージョージア島周辺に移っていく。5月アリューシャン列島のアッツ島で日本軍は玉砕する。一方東部ニューギニアでは、ラエ、サラモア周辺で激戦が繰り返され、9月~10月にかけてサラワケット山脈を越えて撤退する。また中部太平洋ギルバート諸島では、マキン、タラワが攻略され、11月に両島とも玉砕する。12月連合軍は、ついにラバウルのあるニューブリテン島に上陸する。
●ニューギニアでは、日本軍の在ギルワとブナ支隊が、撤収命令(1/13)により、撤収していく。そのブナ地区撤収戦での「バサヴァ守備隊の玉砕」(昭和17年12/8~)を記録した連合国側(豪軍=オーストラリア軍)の資料の一部を下に抜粋した。日本軍の凄まじい死闘のありさまを知ることができる。
・・いよいよ断末魔が次の日にやってきた。12月9日の払暁からニの第16大隊、二の第27大隊及び第39大隊の巡羅兵は教会地区に躍り込んだ。これはまことにいやな仕事で、その大部はなぐり合い突き合いの戦闘だったが、遂にその日の午後敵陣地をことごとく制圧してしまった。豪軍はそこで若干の食糧、弾薬を見つけるとともに、捕虜16名を得たが、そのうち10名は担架で運ばなければならない重傷者であった。
ゴナの日本軍は戦死者を葬るだけの余裕がなく、友軍の屍体を依托物(いたくぶつ=支えのこと)として陣地構築に利用し、あるいは掩体(えんたい=銃撃から身を守る物)として戦った。戦闘の終期には、死臭があまりはなはだしいので、生存者はガスマスクをかけなければおられないほどであった。事実この臭気で豪軍は嘔吐を催し、ひどい目にあった。
戦闘が終わり日本軍陣地を点検しうるようになってみると、人間というものが、どうしてこんなひどい環境を耐え忍ぶことができるのか、しかも生存しうるのかと疑わざるを得なかった。
ある部隊と行動を共にした豪州の新聞記者が、当時の景況について次のように述べている。
(出典)「戦史叢書」朝雲新聞社「南太平洋陸軍作戦2」
ドイツ軍は、ソ連とのスターリングラードでの戦いで敗北し、コーカサス戦線からも撤退する。一方、北アフリカ戦線でも、ドイツ軍は連合国に敗北する。そして連合軍はシチリア島上陸作戦から、イタリア本土へ進攻する。イタリアではムソリーニが失脚し、バドリオ政権が誕生し連合国に降伏する。だがドイツ軍はイタリアに侵攻しムソリーニを救出し、イタリアは内乱状態となる。
(映像紹介)
「よみがえる第2次世界大戦(カラー化された白黒フィルム)第3巻人類の”悪夢”」NHKエンタープライズ2009年。
※mp4動画(ダウンロード)のため再生までに時間がかかります。
(mp4動画、サイズ4.07MB、1分27秒)
※上地図は、「第2次世界大戦」A.J.P.テイラー著、新評論1981年刊から、第8章「連合国の攻勢1943」から「ソ連軍の反撃(1943年)」の地図を参考にして作成したイメージ図である。
●以下の点がポイントと思われる。
①スターリングラードの攻防戦で、ソ連軍の補給線に重要な役割を担ったのが、ヴォルガ川だった。
②スターリングラードでドイツ第6軍が降伏したことで、コーカサス方面へ進軍していたクライスト部隊が退却することができた。
③1943年における最大の戦いは「クルスクの戦い」といわれる。この戦いは、7/5から7/12にかけてクルスクとその周辺部で行われたもので、「史上最大の戦車戦」といわれ、ドイツ軍とソ連軍の戦車を合わせると約6000輌の戦車が戦った。
だが今やソ連軍は、ドイツ軍よりはるかに多くの火器、より多くの兵士、より優れた戦車を保有していた。そして続々と到着するアメリカ製のトラック、軍需物資、缶詰食品などの補給を受け、機動力もドイツ軍を上回っていたのである。
④ソ連軍は1943年の8月~12月の間に、広い範囲にわたる前線で進撃を開始した。そして10月ソ連軍は、ついにドニエプル川を渡った。ベルリンに向かって進撃開始である。
●上記地図北方、モスクワの西方に「スモレンスク」がある。この近郊の「カチンの森」で数千のポーランド人将校の死体が発見された。集団虐殺の現場であった。1943年4/13、ドイツ・ベルリン放送が、『ドイツ軍がソ連の秘密警察に殺害されたとみられる数千のポーランド人将校の遺体を発見した』と報じた。ポーランド亡命政府はソ連に対し、捕虜のポーランド将校の釈放を要求していて、ソ連政府は既に釈放済みと回答していた矢先の報道だった。ソ連はナチス・ドイツの仕業と言明した。
ポーランドでは、この「カチンの森」は、戦後ながらく政治的タブーとされてきた(ソ連との関係上)。だがソ連のペレストロイカの新風の中で、ゴルバチョフが発足させたポーランド・ソ連両国歴史委員会が、真実を暴露した。1990年4月、ソ連政府は「カチンの森」に対する責任を認め、ポーランド政府に正式に謝罪した。(クロニック「世界全史」講談社1994年刊より)
●イギリスによるドイツ爆撃とドイツの軍事生産。
1942年末から43年初めにかけて、新たにアメリカ空軍がイギリス本土からドイツ爆撃に参加するようになった。イギリス空軍機の大部分はカナダとアメリカ合衆国で生産されるようになり、燃料不足に悩まされることも無くなった。連合軍は、3月~6月ルール地方、7月~11月ハンブルクの無差別爆撃、11月~翌年3月にかけてはベルリンの無差別爆撃を行った。だがドイツ迎撃機による爆撃機の消耗は激しく、アメリカは爆撃機に同行できる長距離戦闘機(ムスタング)の完成を急いだ。
(左写真)「空飛ぶ要塞B-17爆撃機」アメリカは夜間爆撃ではなく、白昼爆撃を行うようになった。(出典)「第2次世界大戦」A.J.P.テイラー著、新評論1981年刊
この爆撃の結果、何千というドイツ人が死亡し、何万の人々が家を失った。だがドイツの工業生産にはほとんど影響を与えなかった。ドイツの軍事生産は、激しい爆撃を受けながらも、1942年から1943年にかけて56%も向上し、全軍需生産では1944年8月にピークを迎えた。また航空機生産は1944年9月に、武器と潜水艦建造は同年12月に頂点をむかえた。
●ドイツ潜水艦(Uボート)。
Uボートは、1942年末にはレーダーを装備した航空機により、夜間に浮上するところを探知され攻撃を受けるようになった。一方ドイツ側も逆探知能力を向上させたり、潜航能力を向上させ対抗したが、劣勢となっていった。ドイツ潜水艦による撃沈トン数は、1942年770万トン、1943年361万トン、1944年142万トン、1945年4月までで46万トンと低下した。
●強力なソ連軍の奇妙な特徴。
ソ連軍の先頭には、護衛師団の名を冠した精鋭部隊が立ち、戦車、大砲、ロケット砲などを保有し、高度な戦闘能力と技術を備えた兵士で構成されていた(モスクワやスターリングラード攻防戦では、現代戦にみられるような凄まじい攻撃映像が残されている)。ところが、ひとたび敵軍突破がなされると、今度はろくな訓練もうけていない無数の歩兵が突進していく。彼らに秩序を与えるのは、その後に続く精鋭部隊(憲兵部隊)であり、逃亡しようとする兵士や不服従の兵士を射殺し、歩兵を新たな攻撃に突進させることを任務としたのである。ソ連軍の軍律は、歩兵を使い捨ての駒に使ったようである。そのため、歩兵にとって、敵兵の虐殺、占領地での略奪、女性への暴行などは普通のことであったようである。
(出典)「第2次世界大戦」A.J.P.テイラー著、新評論1981年刊
●米・英・ソは初めて対ドイツ戦で団結する(テヘラン会談11/28~)。対日戦においても、ソ連は参戦を約束する。(年譜出典)「第2次世界大戦」A.J.P.テイラー著、新評論1981年刊
1943年月 | (戦線)と内容 |
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1/4 | 〈太平洋戦争〉日本軍,ガダルカナルよりの撤退命令 |
1/14~25 | 〔連合国〕カサブランカ会談 ※ルーズベルトとチャーチルが仏領モロッコで行った第3次戦争会議。シチリア島上陸作戦などが合意。 |
1月中旬 | 〈東部戦線〉ソ軍,レニングラードで反撃開始 |
〈北アフリカ戦線〉英軍,攻勢に転ず | |
1/23 | 〈北アフリカ戦線〉英軍,トリポリ攻略 |
1/31~2/2 | 〈東部戦線〉独軍,スターリングラード戦に敗北 |
1月 | 〈太平洋戦争〉日本軍,泰緬鉄道(戦場にかける橋)建設開始 |
2/6 | 〈東部戦線〉独軍,ルジェフより撤退 |
2/7 | 〈太平洋戦争〉日本軍,ガダルカナルより全面撤退 |
2月中旬 | 〈東部戦線〉第3次ハリコフ戦,独軍敗北。ソ連軍ロストフ奪還 |
3/9 | 〈北アフリカ戦線〉ヒトラー,ロンメル召還 |
3月 | 〈大西洋戦線〉独Uボート,連合国艦船攻撃に成果 |
4/18 | 〈太平洋戦争〉山本五十六連合艦隊司令長官戦死 |
4/19 | 〈東部戦線〉ワルシャワ・ゲットーのユダヤ人蜂起,独軍により鎮圧 ※これはゲットーに押し込められていたユダヤ人住民が、ドイツ軍に対して生存をかけ蜂起した闘い。だが5週間あまりにわたった蜂起は、6000人以上の死者を出して鎮圧された。ドイツ軍は鎮圧後、ゲットーを跡形もなく破壊し、生き残った5万のユダヤ人も強制収容所に送り込んだ。クロニック「世界全史」講談社19994年刊より |
5/11 | 〈太平洋戦争〉米軍,アッツ島上陸。日本軍部隊玉砕 |
5/12 | 〈北アフリカ戦線〉チュニスの枢軸軍降伏す |
5/12~25 | 〔連合国〕トライデント会談 ※ワシントンで米・英首脳で行われた会議。シチリア島上陸作戦、イタリア侵攻など。 |
6/25 | 〔日本〕学徒動員体制 |
7/5 | 〈東部戦線〉独軍,クルスク戦開始 |
7/10 | 〈東部戦線〉独軍,クルスク戦中止。ソ軍,クルスク解放 |
7/10 | 〈イタリア戦線〉連合軍,シシリー島上陸 ※米英連合軍、アイゼンハワー総指揮でシチリア島(シシリー島)に上陸(ハスキー作戦)。 |
7/24~28 | 〈西部戦線〉連合軍,ハンブルク大空襲 ※月末までに延2765機が出撃、全市壊滅し死者3万人以上。 |
7/25 | 〔伊〕イタリアでクーデター。ファシスト党瓦解。 ムソリーニ逮捕。後任はバドリオ |
8/11~24 | 〔連合国〕ケベック会談 ※米・英首脳によるカナダで行われた会議。ドイツ本土への爆撃の強化や、アメリカ軍のイギリス本土進出、中国援蔣ルートの回復やハンプ空輸強化が決定された。 |
8/17 | 〈西部戦線〉米空軍,独本土昼間爆撃 |
〈イタリア戦線〉連合軍,シシリー島占領 | |
8/22 | 〈東部戦線〉独軍,ハリコフ撤退 |
9/3~9 | 〈イタリア戦線〉英軍,メッシナ進撃。米軍,サレルノ上陸 |
9/8 | 〈イタリア戦線〉イタリア降伏,独軍ローマ占領 ※ドイツ軍はローマに集結しはじめており、追い詰められたパドリオ政権は突然連合軍に降伏の申し入れを行った。混乱のなかパドリオと国王は、ローマを脱出し南イタリアのバリへ向かった。ドイツ軍はローマを占拠しイタリア軍を武装解除した。 |
9/12 | 〔伊〕独軍,ムソリーニ救出 ※ドイツ軍に救出されたムソリーニは復権を果たしたが、実権はドイツ軍にあった。だがイタリアでは反ナチ・ファシストのパルチザンが決起、武装レジスタンスが大きな勢力となっていく。 |
9/13 | 〔中国〕蔣介石,国民政府主席就任 |
9/22 | 〈東部戦線〉独軍,ポルタワ撤退 |
9/24 | 〈東部戦線〉独軍,スモレンスク撤退 |
9月中旬 | 〔日本〕“絶対国防圈”策定 |
10/1 | 〈イタリア戦線〉連合軍,ナポリ進攻 |
10月 | 〈太平洋戦争〉チャンドラ・ボースの自由国民軍成立 ※チャンドラ・ボースはガンジーら国民会議派と違って、急進派のインド独立運動家であった。シンガポールで自由インド仮政府を立ち上げ、翌1944年3月の日本軍インパール作戦にインド国民軍を率いて従軍した。 |
10/5 | 〈イタリア戦線〉独軍,コルシカ島より撤退 |
10/13 | 〔伊〕バドリオ政府,対独宣戦布告 |
10月 | 〈東部戦線〉ソ軍,ドニエプル渡河 |
10月下旬 | 〈東部戦線〉クリミアの独軍孤立 |
11/6 | 〈東部戦線〉ソ軍,キエフ解放 |
11/18~ | 〈西部戦線〉連合軍,ベルリン大空襲 ※英空軍は、ベルリン夜間大空襲を、12/3までに5回にわたり実施。市民約2700人が死亡。 |
11/22~26 | 〔連合国〕第1次カイロ会談(エジプト) ※米・英・中、首脳会議。対日戦とその戦後処理に関する討議を行い、カイロ宣言を採択する。会議後米・英首脳はテヘランにむかい、初めての米・英・ソ首脳会議へ臨んだ。 ●カイロ宣言の要旨は、最下段「国内政治と社会年表」で記述。 |
11/28~12/1 |
〔連合国〕テヘラン会談(イラン)
米英ソの3巨頭(ルーズベルト、チャーチル、スターリン)の初めての会談。 ●東ヨーロッパで単独でドイツと戦うソ連のスターリンが米英に要望したことは、連合軍による「北フランス上陸作戦」(第2戦線問題)であり、アメリカは賛意を示し、チャーチルは渋々同調した。チャーチルは東地中海における軍事行動を期待していたが、この方面の戦いは2次的なものとなってしまった。
●会議の重要な案件はポーランド問題だった。だがイギリスは、ドイツ敗戦後の領土問題を、ロンドンの亡命政府とソ連との間で調整できず、ポーランド問題は先送りとなった。 ●だが会議で驚くべき進展があった。それは、スターリンがルーズベルト大統領に、ドイツが敗北したあかつきには、ソ連は対日戦に加わることを約束したことである。アメリカはこの提案に安堵し、スターリンに対する評価を高めた。 ●このテヘラン会議の画期的なことは、世界の2大強国が初めて歩み寄りを見せ、イギリスを含めた3大国が、ドイツ敗北の日まで団結することを誓ったことである。日本はそのことすら知らなかった。 |
12/1 | 〈太平洋戦争〉日本,学徒出陣 |
1943年(昭和18年)5/21午後3時の大本営発表は、衝撃となって日本列島を駆け抜けた。
ラジオは、山本が元帥の称号を与えられ、国葬が行われることも伝えた。国民的英雄で「無敵連合艦隊」の象徴だった山本が死んだ・・彼の死は当時の国民を暗澹とさせた。
(文)講談社『昭和2万日の全記録』

(上新聞)昭和18年5/22朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

●山本連合艦隊司令長官の死の発表は、遺骨が戦艦武蔵で東京湾に帰ってくる直前まで、1ヶ月以上さし控えられた。そして6/5、国葬が東京日比谷公園斎場で行われた。この日はまず水交社で柩前祭が行われ、その後日比谷までの約2kmの道のりを柩が運ばれていった。沿道は各大学、中等学校、国民学校の学生、生徒や国民で埋めつくされた。そして午前10時50分、東条英機首相の礼拝に合わせて全国民が遥拝した。
(写真)「不時着した日本軍機-山本元帥の墓碑銘」(出典)「第2次世界大戦」A.J.P.テイラー著、新評論1981年刊
(映像出典)「秘録太平洋全史」日本映画新社 1975年製作。
山本長官機撃墜に向かったp-38は18機と述べられているが、2機は故障ですぐに引き返したので、実際に攻撃したp-38は16機とされる。
※(YouTube動画、サイズ6.75MB、2分26秒)
山本の死は突然の事件だった。4月18日午前6時、山本は連合艦隊参謀長宇垣 纒(まとめ)らとともに2機の一式陸攻機に分乗、零戦6機に護衛され、ラバウル東飛行場を発った。彼は前線の兵士を激励し、士気を高揚しようと、ラバウル・ショートランド・ブインなどを回り、その日の午後には帰着する予定だった。連合艦隊は、4月7日から16日にかけガダルカナル島やニューギニア・ポートモレスビー方面の敵艦船、基地を攻撃し、輸送遮断を目的とした「イ号作戦」を実施した。その結果、米軍の5隻の駆逐艦・油槽船を撃沈、航空機25機を撃墜したが、日本側も61機の損失を出した。これは予想以上の被害だった。山本は多くの反対を押しきってこの作戦を実施したいきさつもあり、この日、第一線の兵士たちを鼓舞するために出向いたのである。
最初の目的地ブーゲンビル島南方のバラレ島に向かった山本の乗った一番機と宇垣の乗った二番機が、ブーゲンビル島上空にさしかかった時、突然16機のロッキードP-38が右前方から襲ってきた。護衛の零戦が阻止する間もなく一番機は頭上から攻撃され、黒煙と炎に包まれてジャングルへ墜落していった。宇垣の二番機もモイラー岬沖の海中へ突っこんだ。
米太平洋艦隊司令部(ハワイ)は、暗号解読により4日前には山本の行動計画を知っており、海軍長官ノックスの判断によって山本搭乗機撃墜を決意していた。16機のP38は山本を待ちぶせしていたのだが、暗号が筒抜けになっていることを知らぬ連合艦隊司令部は、結果的に長官機を敵の火中にやることになった。重傷を負いながらも助かった宇垣は、その時の心境を「ジャングル中より黒煙の天に冲するを認むるのみ、噫万事休す!」(宇垣 纒『戦藻録』)と、記している。
公式発表によれば、山本は機上で被弾し「顔面貫通機銃創、背部盲管機銃創を被り貴要臓器を損傷して即死」とされている。しかし、19日夕方遺体を発見し収容した陸海軍の将兵たちは、山本の遺体は他の同行者の遺体よりきれいだったと証言しており、即死ではなかったという見方もある(蜷川親正『山本五十六検死ノート』)。
●この暗号解読については、阿川弘之著「山本五十六」新潮社昭和48年刊に、次のように書かれている。
〇六〇〇中攻(戦闘機六機ヲ附ス)ニテ『ラバウル』発、〇八〇〇『バラレ』着、 直チニ駆潜艇ニテ〇八四〇『ショートランド』着(中略)、一四〇〇中攻ニテ『ブイン』発、一五四〇『ラバウル』着。(中略)天候不良ノ際「一日延期」
という電報が出された。そして戦後出版された、デーヴィッド・カーンの「The Codebreakers」(出版1967年)によって、アメリカ太平洋艦隊司令部の無線諜報班は、上記電報「NTF(南東方面艦隊)機密第131755番電(13日17時55分発信)」を解読したことが判明した。 カーンは、艦隊無線班がIBMカードにパンチされていた乱数表を用いて、4月1日に変ったばかりの新乱数の大部分を解明したと記している。
(日本側でも ショートランドにいた第十一航空戦隊司令官の城島高次少将は、この4月13日の電報を見ると、自分の幕僚たちに、「こんな前線に、長官の行動を、長文でこんなに詳しく打つ奴があるもんか。君たちに参考のために言っとくが、こんな馬鹿なことをしちゃいかんぞ」と怒ったとも書かれている。)
(出典)阿川弘之著「山本五十六」新潮社昭和48年刊
(※)この「バラレ」「ショートランド」「ブイン」は、日本軍が奪回をあきらめた「ガダルカナル飛行場」から約500kmのアメリカ軍との最前線にあり、ロッキードP-38もガダルカナル飛行場(ヘンダーソン飛行場)から発進していた。
●またR.W.クラーク著「暗号の天才」新潮社1981年刊によれば、暗号を解読したことを、”陽動通信”で秘匿したと書かれている。
コードやサイファーの解読を公表しない必要性はしばしば、入手情報に基づいて行動をとるべきかどうかという問題に疑問を投げかける。最も有名な例は、1943年4月、連合艦隊司令長官の山本五十六提督が、太平洋の基地を5日間にわたって巡察する決定を下したときに訪れた。日程は山本が立ち寄る基地に通報されたが、それは詳細をきわめ、しかもアメリカの暗号機関がすでに解読したコードで送られたのである。おかげで、巡察が行なわれる数日前から、アメリカ側は山本が訪ねる先々の発着時間までつかんでいた。同じく重要な点だが、山本の巡察コースはアメリカ軍機の航続距離の範囲内にあり、しかも彼は時間のことになると、病的なほどやかましいことが分っていた。
アメリカ軍の司令官たちは、いまや厳しい決断を迫られた。もし山本を首尾よく撃墜できるなら、彼以上の有能な提督がその後を継ぐ可能性はきわめて少い。しかし一方、計画的な迎撃がただの遭遇とは考えられないだろうし、それで日本のコードが解読されたことをまさしく裏づける羽目になってしまうにちがいない。だが結局、このチャンスに賭けることに決定し、日本が疑惑を抱いた場合に備えて、″陽動通信″が用意されたのである。つまり、提督が訪れる地域の一部には、いまなお友好的な原住民が工作員として活動しており、相変らず情報が無線でオーストラリアの沿岸監視員に送られ、アメリカ軍当局ヘリレーされていた。必要とあれば、これを迎撃作戦の拠りどころとした情報源として、日本側にわざと洩れるように工作すればよかった。
4月18日の朝、18機のP-38が400余マイルの迎撃に超低空飛行で飛びたつ。2時間あまりで、編隊はブーゲンヴィルの沖合に到着した━ちょうどそのとき、山本の搭乗機と護衛機の小さな黒点が、はるか彼方に現われた。数分後、提督機はブーゲンヴィルの密林内に火を吹いて突っこんだ。アメリカの未帰還機はたったの一機だった。・・(略)
日本の敗戦時までに動員された学徒数は、340万人を超え、女子挺身隊の動員数は、約47万人だった。一方アメリカもまた、今まで就労が禁止されていた既婚女性を含め、人手不足を補うため、軍需工場等に600万人の女性を動員した。
(映像出典)講談社DVDBOOK「昭和ニッポン-一億ニ千万人の映像」(第1巻)講談社2005年刊
※(YouTube動画、サイズ5.23MB、47秒)
●ここでは、講談社『昭和2万日の全記録』から「学徒動員と女子挺身隊」の部分を抜粋した。基本的な事実を知っておかなければならない。「慰安婦」「徴用工」等とは別の話である。
(出典)『昭和2万日の全記録』講談社1990年刊
●残された労働力供給源
昭和18年6月25日、政府は「学徒戦時動員体制確立要綱」を閣議決定した。学徒出陣に先立つこの決定は、産業労働力の有力な供給源として学生生徒を位置づけ、食糧増産・国防施設・緊急物資増産・輸送力増強の重点四事業に中等学校3年生以上の学徒を学校単位で、勤労動員に送り込むものだった。同時に、年間30日以内とされていた勤労動員期間は60日以内に延長された。動員期間は翌19年1月には4ヵ月に、さらに同年3月の決戦非常措置によって1年間の通年動員にかわり、学徒はもはや「学生服の労務者」(『学制八十年史』)となり、勉学は名ばかりという状況になった。
とりわけ戦局の逼迫による航空機増産の要請は、学徒動員の徹底化をもたらし、条件も苛酷となっていった。19年7月には、①動員対象を中等学校低学年生、国民学校高等科にまで拡大されて、②1週6時間の教育訓練時間の撤廃、③1日10時間労働、④中等学校3年生以上の男女の深夜業断行などが決められた。学徒動員を「教育錬成内容の一環」と説明してきた文部省も、ついに「勤労即教育」と言い換えざるを得なかった。
●未婚女性も動員
学徒と並んで残された労働力供給源とされたのは未婚の女性だった。18年9月23日、政府は「国内必勝勤労対策」を決め、事務補助・販売店員・出改札係・車掌・理髪業など17業種に男子の就業を禁止し、代わりに女性を就業させるとした。同年9月からは女子勤労挺身隊の編成を決め、従来の勤労報国隊と異なり、1年ないし2年の長期にわたる動員を義務づけた。新規女学校卒業生は同窓会単位に、14歳以上の未婚女性は部落会、婦人会などを単位に軍需工場や政府作業庁などに出動させられた。約1年後の19年9月には「女子挺身勤労令」を公布、動員に法的根拠を与えるとともに、家庭にとどまっていた女性、企業整備や「高級享楽停止」などで職を奪われていた女性なども、労働力として駆りたてられることになった。
※「女子挺身隊」は当初自主的な組織との建前をとったが、昭和19年「女子挺身勤労令」を公布、一年間の動員を義務化した。
●多くの犠牲者を出した学徒・女子挺身隊
19年、軍需工場はどこも熟練工が不足し、徴用工であふれていた。技術や生産の低下に加えて厭戦気分が高まり、欠勤、遅刻、怠業なども増えていた。
学徒は「純真で規律があり、比較的短期間内に、相当程度の熟練と能率に達しうる」(『前出』)と評され、軍需工場で歓迎された。学徒は率先して作業にあたり、過労や病気を隠して作業に従事する場合もあった。彼らは日本の軍需産業の支柱的存在とみなされ、一般工員の嫉視や反感を被る場合も多かった。しかし、いつまで続くのかも分からない動員は、学徒のあいだに「遊興・喫煙・怠惰・学校間のあつれき・風紀頽廃・待遇に対する不満」(『前出』)などを生じさせた。
山形中学から群馬県の中島飛行機に動員され、寮から工場に出勤していた無着成恭(教育評論家)は、「サツマイモ飯」「ソーメン飯」などのまずい食事に、毎晩のように「食べる夢」を見た。そして、工場からの帰りに畑からさつまいもを盗んだり、夜勤の途中ぬけだして居眠りすることなども覚えた。将来に対する不安も大きかった。同級生たちが半ば義務感から兵学校などを受験してまわる姿を横目に、彼自身は進学するか農業をやるかで悩んだという(無着成恭「動員日記」『実録太平洋戦争』)。
軍需工場に対する米軍の空爆が本格化した20年には、動員学徒や女子挺身隊に多くの犠牲者がでた。動員学徒の死亡者は1万966人とされており、そのうち8953人が、広島・長崎に落とされた原爆によって死亡した。なかでも8月6日の広島では、建物強制疎開に動員されて太田河畔に集合していた広島市内の中学生が一瞬のうちに全滅した。翌7日には愛知県の豊川海軍工廠が猛爆をうけ、2477人の動員学徒、女子挺身隊員などが犠牲となった。
敗戦時までに動員された学徒数は、340万人を超え、女子挺身隊の動員数は、約47万人だった。
●アメリカもまた、今まで就労が禁止されていた既婚女性を含め、人手不足を補うため、軍需工場等に600万人の女性を動員した。「自由のため」「勝利のため」に労働に参加しようが合言葉になったという。
この映像は、アメリカTVドキュメンタリー「WORLD WARⅡ」もので、このシリーズはYouTubeに公開されており、原題を「Victory At Sea」という。このシーンは「Guadalcanal – Episode 6」に収録されている。
(出典)「WORLD WARⅡ第2次世界大戦全史」アメリカTVドキュメンタリー(1952~1953)輸入販売元「キープ株式会社」
※(YouTube動画、サイズ3.22MB、1分10秒)
日本はついに戦争継続に必要な、労働力、戦闘力(兵隊)、食糧生産力を失っていく。労働力不足は、学徒動員(6月~)、女子挺身隊編成(9月~)、なかでも8月からは「第3次国民徴用令改正」で、強制徴用「白紙召集」をできるようにした。兵隊不足は、4月「兵役施行令一部改正施行」により中等学校生徒の徴兵延期制を廃止、陸軍・海軍の少年兵の志願年齢を引き下げ(5月)、朝鮮にも徴兵制を適用(8/1施行)、そしてついに10月、「在学徴集延期臨時特例」を公布施行し、理工系など一部を除き、学生・生徒の徴兵猶予を停止した。学徒出陣である。そして、11月には兵役法を改正公布施行して、兵役服務年限を5年間延長して45歳までとした。
『昭和2万日の全記録』講談社を中心に要約引用し、朝日新聞の紙面紹介を行った。
年・月 | 1942年(昭和17年)12月頃~ |
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1942年昭和17年12/24 |
ドイツ、新兵器「V1号」の発射実験に成功
●この名の「V」というのは英語の勝利( victory)ではなく、ドイツ語の報復(Vergeltung)の意味である。ドイツ軍によるロンドンなどの爆撃を堪えてきたイギリスは、ドイツのベルリンなどの爆撃を本格化させ対抗した。この「V1号」は、そのイギリスに対する報復を意味し、ドイツ空軍が開発した世界初の無人飛行機型ミサイルで、巡航ミサイルなどの戦略ミサイルの祖型となったものである。パルスジェットを動力とし、頭部に1トンの爆薬を搭載し、ジャイロコンパスで目標まで誘導された後、動力を停止し落下させ爆発させた。 *リンクします「WW2 – V1 “Flying Bomb"」
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1942年昭和17年12/31 |
大本営、御前会議でガダルカナル島の全兵力撤退を決定
●この命令は、昭和18年1/4、下命された。 |
1943年昭和18年1/1 |
朝日新聞掲載の中野正剛「政治宰相論」、東条首相の逆鱗に触れる
●情報局は、朝日新聞を東条首相を批判するものとして発売禁止を命令。下はその朝日新聞の記事の最後の結語「天下の人材を活用」の部分である。中野正剛は、東条首相を今までの非常時の宰相と比較し、暗に批判した。
(天下の人材を活用)
日露戦争において,桂公はむしろ貫禄なき首相であつた。彼は孔明のやうに謹慎には見えなかつたが,陛下の御為に天下の人材を活用して,専ら実質上の責任者を以て任じた。山県公に頭が上らず,井上侯に叱られ,伊藤公を奉り,それで外交には天下の賢才小村を用ひ,出征軍に大山を頂き,聯合艦隊に東郷を推し,鬼才児玉源太郎をして文武の聯絡たらしめ,倣岸なる山本権兵衛をも懼れずして閣内の重鎮とした。而して民衆の敵愾心勃発して, 日比谷の焼討となつた時,窃かに国民に感謝して会心の笑みを漏らした。桂公は横着なるかに見えて,心の奥底に誠忠と謹慎とを蔵し,それがあの大幅にして剰す所なき人材動員となつて現はれたのでないか。難局日本の名宰相は絶対に強くなければならぬ。強からんが為には,誠忠に謹慎に廉潔に,而して気宇広大でなければならぬ。 |
1943年昭和18年1/1 |
社名と題号を「毎日新聞」に統一
●「大阪毎日新聞社」と「東京日日新聞社」は、社名を「毎日新聞社」、題号を「毎日新聞」に統一。 |
1943年昭和18年1/11 |
三井銀行と第1銀行が合併調印、「帝国銀行」となる。
●第1銀行は、1873年に渋沢栄一によって創設された日本最古の第1国立銀行をそのルーツとする銀行。合併した新銀行名は、「帝国銀行」とし、3/27発足し4/1開業した。略称は「帝銀」である。三井銀行は業界首位の銀行であり、同日(3/27)には三菱銀行が第百銀行を合併するなど、銀行の統合が進んだ。これらの合併が行われた理由は、国家の要請によるもので、預金を吸収し資金需要にこたえるためであった。 |
内務省と情報局はジャズなど英米楽曲約1000曲の演奏を(レコードを含む)禁止した。情報局は、米英音楽は「軽佻浮薄、物質至上、末梢感覚万能」に毒されており、「国民の士気の昂揚と、健全娯楽の発展を促進する」
陸軍は、3/10の第38回陸軍記念日を期して、「撃ちてし止(や)まむ=(敵を撃たずにおくものか)」国民運動を展開した。
年・月 | 1943年(昭和18年) |
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1943年昭和18年2/23 |
陸軍省、陸軍記念日の決戦標語「撃ちてし止(や)まむ」を定める
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![]() 左ビルの日本劇場の壁面には、「撃ちてし止まむ」の陸軍省ポスターが張り出され、その百畳敷大写真の下で陸軍軍楽隊が「愛国行進曲」を演奏し、群衆が斉唱した。 (出典)『昭和2万日の全記録』講談社1990年刊 *リンクします「愛国行進曲」内閣情報部選定
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「撃ちてし止(や)まむ」
●この言葉の出典は「古事記」の神武東征(九州から大和への征服戦争)の時、土雲(つちぐも)八十建(やそたける)らを撃ち殺すときの歌にくりかえし使われているフレーズ。「敵を撃たずにおくものか!」という強い決意を表している。 (登美毘古を撃とうとした時)「みつみつし 久米の子等(=久米部の人たち)が 垣下(かきもと)に 植ゑし椒(はじかみ=山椒) 口ひひく(=口がヒリヒリする) 吾(われ)は忘れじ 撃ちてし止(や)まむ」
●このフレーズは当然ながら「日本書紀」の神武天皇の巻の歌に使われている。下のリンク先の「国立国会図書館デジタルコレクション」のコマ番号12を選んでください。下はそのフレーズが使われている歌の一例。 「・・先づ八十梟帥(やそたける)を国見丘(くにみのをか)に撃ちて破りて斬りたまひつ。是の役(えたち)に、天皇志(みこころざし)必ず克ちなんといふことを存(たもち)たまへり。乃(すなわ)ち御(み)謠(うたよみ)して曰(のたまは)く、
カムカゼ(神風)ノ、イセノウミ(伊勢海)ノ、オホイシ(大石)ニヤ、 イハヒモトヘル、シタダミ(細螺)ノ、シタダミノ、アゴ(吾子)ヨ 、アゴヨ、シタダミノ、イハヒモトヘリ、ウ(撃)チテシヤ(止)マム、ウ(撃)チテシヤ(止)マム。
謠(みうた)の意(こころ)は大石を以て其の国見丘に喩(たと)へたまふなり。・・・ など複数の歌で使われている。 「訓讀日本書紀. 中巻」→
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1943年昭和18年3/2 |
朝鮮にも徴兵制を適用する(8/1施行)
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(「兵役法中改正法律」の一部)
第五十三條ノニ 左二掲グル者ノ徴集二關シテ(第二十六條、第二十七條又ハ第二十九條ノ規定ニ對シ勅令ヲ以テ別段ノ定ヲ爲スコトヲ得 一 戸籍法ノ適用ヲ受クル者ニシテ朝鮮、臺灣又ハ帝國外ノ地二在留スルモノ ニ 朝鮮民事令中戸籍二關スル規定ノ適用ヲ受クル者 (出典)国立公文書館アジア歴史資料センター「兵役法中改正法律・御署名原本・昭和十八年・法律第四号(昭和18年3/1)」 |
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1943年昭和18年3/13 |
戦時刑事特別法改正公布(3/28施行)
●これにより、治安維持の罰則強化、社会秩序紊乱目的の宣伝に宣伝罪を規定した。
法律第五十八號
戦時刑事特別法中左ノ通改正ス 第七條第六項ヲ削ル 第七條ノニ 戦時二際シ國政ヲ變亂(=変乱)スルコトヲ目的トシテ人ヲ傷害シ、逮捕シ又ハ監禁シタル者ハ一年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮二處ス因テ人ヲ死二致シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ十年以上ノ懲役若ハ禁錮二處ス 戦時二際シ國政ヲ變亂スルコトヲ目的トシテ人二對シ暴行又ハ脅迫ヲ加ヘタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮二處ス 刑法第二百八條第二項ノ規定ハ前項ノ暴行ノ罪二付テハ之ヲ適用セズ 第七條ノ三 戦時二際シ國政ヲ變亂スルコトヲ目的トシテ騒擾ノ罪其ノ他治安ヲ害スベキ罪ノ實行二關シ協議ヲ爲シ又ハ其ノ實行ヲ煽動シタル者ハ七年以下ノ懲役又ハ禁錮二處ス 第七條ノ四 戦時二際シ國政ヲ變亂シ其ノ他安寧秩序ヲ紊亂スルコトヲ目的トシテ著シク治安ヲ害スベキ事項ヲ宣傳(=宣伝)シタル者ノ罰亦前條二同ジ 第七篠ノ五 第七條第三項乃至第五項又ハ前二篠ノ罪ヲ犯シタル者自首シタルトキハ其ノ刑ヲ減軽又ハ免除ス 附 則 本法施行ノ期日ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム (出典)国立公文書館アジア歴史資料センター「昭和十八年・法律第五八号・戦時刑事特別法中改正法律(昭和18年3/12)」 |
1943年昭和18年3/18 |
戦時行政特例法・戦時行政職権特例・許可認可等臨時措置法、公布施行
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1943年昭和18年3/18 |
内閣顧問臨時設置制公布施行
●これにより、藤原銀次郎・鈴木忠治ら民間人7名を顧問に任命した。 |
1943年昭和18年3/24 |
金属回収本部官制公布施行
●商工省に本部を設置し、第1次非常回収を行う。国家による金属回収を強化。 |
1943年昭和18年4/1 |
樺太が内地に編入される。
●樺太庁官制(3/27公布)の施行により、樺太庁が地方庁となり、樺太が内地に編入される。 |
強まる東条独裁、政治力強化のため翼賛会や翼政会の人物を人閣させる。
政府は、軍需産業の生産力向上が急務となり、一方で兵力動員のため労働力確保が困難になってくると、昭和15年10月、16年12月と矢継ぎばやに国民徴用令を改正、そして今回の第三次改正となった。これにより、国民皆働体制は強化され、この国民徴用は、兵役に次ぐ国民の義務となったのである。
東京の「出陣学徒壮行会」(学徒出陣)が明治神宮外苑で挙行された。この壮行会は、文部省主催で、東京とその近県77校(東京帝大・早大など)から集まった学徒が、スタンドを埋めた6万5千人のなかを東条英機首相らの閲兵を受け・行進した。
年・月 | 1943年(昭和18年) |
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1943年昭和18年10/21 |
「出陣学徒壮行会」
*リンクします「出陣学徒壮行会」NHKアーカイブス |
1943年昭和18年10/31 |
軍需会社法成立(12/17施行)
●これは航空機を中心とする軍需生産増強のため、軍需会社に指定された企業に優遇措置をとる一方、その生産から人事にわたる全面的な命令権を政府に与えた法律。10月31日公布。敗戦までに688社が軍需会社に指定されたが、労働力や資材の不足と陸・海軍の対立のため所期の成果は上げられなかった。 |
1943年昭和18年10/31 | ●強制疎開や重要都市の入市制限をなどを含む、防空法中改正法公布(19年1/9施行)。 |
1943年昭和18年11/1 |
軍需省・運輸通信省・農商省を設置
●陸・海軍の対立
航空戦力の増強は、ミッドウェーの敗北後の最大の課題だった。陸・海軍ともに「航空第一主義」で認識は一致していたが、資材不足、大量生産技術の立ち遅れ、陸・海軍の競合・確執からくる生産のロスなどの障害があった。 軍需省設置の最大の目的は、この陸・海軍の対立による資材、生産工場、労力の奪い合いを解消し、航空戦力を増強することだった。 ●航空機生産の隘路 航空機生産機数は、軍需省設置後の19年6月には、2,857機(目標月産4,000機以上)と過去最高を記録したが、実際には、航空機戦力を増強するという企図は下降線をたどっていた。 生産の急激な拡大要求は、熟練工と工作機械の不足をもたらした。労働者数は19年126万人と開戦時の4倍に達していたが、その30~40%は学生(女子を含む)で占められていた。また、粗雑な加工技術と代用品利用などによる航空機の質的低下も著しかった。 航空資材の供給面でも、中心となるアルミニウムの生産は18年をピークに急激に低下していた。17年7月以来、海外からの物資運搬の輸送船は、その多くが沈められる状況下では、船舶量増大、原料輸入の促進のいずれもが厚い壁にはばまれ、原料のボーキサイトをはじめ国内貯蔵物資は底をついた。 ●増産か、工場疎開か 日本の航空機生産は、三菱重工業・中島飛行機・川崎航空機・立川飛行機・愛知飛行機の主要5社で全生産高の約75%を占めていた。しかも、うち72%は東京・名古屋・大阪とその周辺に多数の下請け工場とともに集中していた。19年11月、マリアナ基地からB29が飛来すると、これらの工場群は空爆の第1目標とされた。生産施設の分散・疎開は開戦時から問題とされてきたが、航空機の緊急増産要求の前に手がつけられず、19年5月、55の飛行機部品工場が疎開したにとどまっていた。 ●こうして、軍需省設置にもかかわらず、19年度陸・海軍の飛行機分配をめぐっては、陸・海軍首脳部が2ヵ月もかかってやっと妥協が成立する一幕もあった。このように陸・海軍の対立は依然解消せず、軍需省はその調整に回るという状態で、戦局の窮迫はそれに追いうちをかけた。 |
1943年昭和18年11/1 |
兵役法改正公布施行
●兵役服務年限を5年間延長して45歳までとする。 |
1943年昭和18年11/5 |
大東亜会議、東京で開催
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「大東亜共栄圏」の理想と現実。支配者の交代に終わった東南アジア
大東亜会議は、「大東亜を米英の桎梏(しっこく)より解放して、其の自存自衛を全うし、左の綱領に基き大東亜を建設し、以て世界平和の確立に寄与せんことを期す」との「大東亜共同宣言」を採択して終わった。綱領は、「共存共栄の秩序を建設」など5つであるが、いずれも抽象的な美辞麗句で具体策はなく、ただ「人種的差別を撤廃」を入れたのが新味といえた。しかし、タイのピブン首相が国内の反日的空気から病気を理由として代理を送ったように、「共栄圈」内にきしみが表れつつあった。 ●日本のための「共栄圏」、「聖戦」を強調した「美称」 |
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1943年昭和18年11/9 |
連合国難民救済機関(UNRRA)を設立
●連合国44カ国は、ドイツ軍撤退後の占領地域の難民救済のため、ワシントンで連合国難民救済機関(UNRRA)を設立した。第2次世界大戦後も難民・亡命者の保護にあたった。1947年解散し、翌年国際避難民機関がこれを引き継いだ。 |
1943年昭和18年 |
東京都、「帝都重要地帯疎開計画」を発表。
●東京都は、重要工場と主要駅付近の建物疎開や防火地帯の造成などを決めた「帝都重要地帯疎開計画」を発表した。 |
1943年昭和18年11/17 | ●東条首相、内閣強化のため藤原銀次郎を国務大臣に、鈴木貞一、五島慶太、鮎川義介を内閣顧問に指名。 |
1943年 昭和18年 |
1943年11月27日、カイロ宣言を採択、12/1発表(米・英・中)
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(宣言の要旨)
①三国の戦争目的はいかなる領土的野心ももたず、日本の侵略を防止することにある。 ②第一次大戦以降、日本が奪取・占領した地域を剥奪する。 ③満州(中国東北地方)、台湾、澎湖島など日本が中国から奪取した領土を返還する。 ④朝鮮を自由かつ独立のものとする。 ⑤以上の目的のため、日本の無条件降伏まで戦う。 写真「カイロ会談」(出典:「世界の歴史15」中央公論社1963年刊) |
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1943年昭和18年11/28~12/1 |
テヘラン会談(イラン)
●米英ソの3巨頭(ルーズベルト、チャーチル、スターリン)の初めての会談。単独でドイツと戦うソ連スターリンは、連合軍による「北フランス上陸作戦」を米英に要望。その見返りに、ドイツ敗北後、ソ連が対日戦に加わることを約束。この会議で初めて世界の2大強国が歩み寄りを見せ、イギリスを含めた3大国が、ドイツ敗北の日まで団結することを誓った。 |
1943年昭和18年11/29 | ●軍需省、設備機械動員実施要綱を発表。遊休・不急の機械転用で航空機増産に対処。 |
1943年昭和18年12/10 |
文部省、学童の縁故疎開促進を発表
●閣議は、12/21都市疎開実施要綱を決定する。 |
1943年昭和18年12/21 |
閣議、都市疎開実施要綱決定
●疎開区域は京浜、阪神、名古屋と北九州地方の主要12都市。 |
1943年昭和18年12/21 |
厚生年金保険法(19年2/16公布)
●政府、労働者年金保険法改正案を決定。名称を厚生年金保険法として女子や事務職にも適用した。この厚生年金保険法は、労働者とその家族の生活安定のため、老齢・廃疾・死亡などについて年金や一時金の給付を行う社会保険法である。労働者年金保険法改正と同時に名称も改まり、19年2月16日に公布された。この改正で、強制適用の範囲が職員、女子および5人以上の事務所の従業員にまで拡張された。被保険者数は2倍以上になり、保険料も引き上げられ、戦争遂行の財源となった。 |
1943年昭和18年12/23 |
大日本母子愛育会が発足
●愛育会・日本母性保護会・日本小児保健報国会が統合し、大日本母子愛育会(厚生省外郭団体)が発足。 |
1943年昭和18年12/28 |
閣議、食糧自給態勢強化対策要綱を決定。
●閣議は、農業労働力確保のため、「戦時農業要員」を指定し、徴用除外とする「食糧自給態勢強化対策要綱」を決定した。 |
1943年 昭和18年12/26 |
第84帝国議会開院式における「勅語」
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第84回帝国議会 1943年(昭和18年)12月26日「勅語」
朕茲に帝国議会開院の式を行い貴族院及衆議院の各員に告ぐ (新聞)と(勅語)昭和18年12/27の朝日新聞より。(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊 |
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1943年(昭和18年)の出来事 政治・経済・事件・災害・文化
「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊より抜粋 1.17 たばこ値上げ,ひかり18銭が30銭・金鵄10銭が15銭に |