1942年(昭和17年)③海軍、ミッドウェー海戦(6/5)で大敗。太平洋戦争の分岐点となる。

2023年4月16日第2次世界大戦

アメリカによる初の日本本土爆撃(4/18)は、陸海軍に一大衝撃を与えた。それによりミッドウェー作戦は陸海軍あげての重要作戦となった。
●1942年に入ると、アメリカ空母部隊による航空機攻撃が頻発するようになった。2/1、ギルバート諸島のマキン島、マーシャル諸島のウォッゼ、クェゼリン、マロエラップ、ミレ、ヤルートなどの要地が、米空母艦載機による爆撃と巡洋艦などによる艦砲射撃をうけた。つづいて、2/20ラバウル、2/24ウェーキ、3/4には日本本土に近い南鳥島が攻撃を受けた。(左写真)ミッドウェー島の航空写真。(写真出典)「写真・太平洋戦争」雑誌「丸」編集部 編。潮書房光人社2015年刊
●海軍には、これらアメリカ空母部隊による奇襲攻撃には有効な対応策がなかった。そこで連合艦隊は、積極的にミッドウェー島を攻略することによって、ハワイから空母部隊を誘い出し、一挙に撃滅しようと考えた。このミッドウェー作戦計画は大本営海軍部の強い反対にあったが、山本五十六連合艦隊司令長官の「職を賭した」強い意向により、海軍部はこの作戦計画を認めた。
●さらに4/18、米軍機による東京空襲(ドーリットル空襲)に衝撃を受けた大本営は、海軍の主張してきた東方海上からの攻撃を現実的な脅威であることを認め、このミッドウェー作戦を陸海軍あげての重要作戦として位置づけた。
(上左写真)空母ヨークタウン。1942年6/5、ミッドウェー海戦で「飛龍」による第1次攻撃後の消火・応急修理作業。(上右写真)6/5空母ヨークタウンから発進直前のドーントレス艦爆。アメリカ軍のこの急降下爆撃機ドーントレスが、ミッドウェー海戦の勝敗を決めた。(写真出典)「写真・太平洋戦争」雑誌「丸」編集部 編。潮書房光人社2015年刊

1942年(昭和17年)6月、ミッドウェー作戦の目的とミッドウェー海戦の概要(1942年6月)3-1

6/5~のミッドウェー海戦の結果、米軍は、空母1隻、駆逐艦1隻、飛行機約150機を失い、戦死者は307名だった。これに対して日本軍は、空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)、重巡1隻が沈没し、飛行機322機を失った。戦死者は約3500名の多数に達したが、このなかには熟練の搭乗員約100名が含まれていた。
前月5/8の珊瑚礁海戦で、海軍は米空母1隻撃沈と空母1隻撃破の戦果を挙げたが、このとき空母「翔鶴」は修理3ヶ月を要する損傷を受け、飛行機計約100機(前日撃沈された小型空母「祥鳳」を含む)を失った。さらに搭乗員は「瑞鶴」の約40%、「翔鶴」の約30%を喪失した。
●ミッドウェー海戦の敗北の結果、日本軍の進攻計画は頓挫し、海軍は空母部隊の再建が終わらない限り、対米攻勢作戦実施は不可能との結論に達した。本当のアメリカとの戦いが始まった。

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ミッドウェー作戦とアリューシャン作戦時の海軍の編成 3-2

なぜこのような大艦隊が負けたのだろうか。「主力部隊」は下記一覧にある通り、本隊は第1戦隊(旗艦)大和、陸奥、長門であり、これらの戦艦群はまったく戦闘には参加できなかった。つまり艦隊決戦による大艦巨砲主義はすでに過去の遺物と化してしまっていたのである。
一覧(出典)「太平洋戦争第2巻」編者 雑誌「丸」編集部 潮書房光文社2015年刊、などから作成。

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アリューシャン作戦 3-3

ミッドウェー作戦と同時に行われたアリューシャン作戦は成功した。アッツ島は陸軍北海支隊が占領し、キスカ島は海軍陸戦隊が占領した。6/4・5、第2機動部隊の空母龍驤(りゅうじょう)と隼鷹(じゅんよう)の艦載機は、ダッチハーバーの米軍基地を空襲し戦果を挙げた。この時米軍の反撃は激しく、護衛の零戦がアクタン島(ダッチハーバーの隣の島)に不時着してしまった。パイロットは戦死したが、零戦の機体は無傷で米軍偵察機に発見され、回収された。中国戦線以来無敵を誇った零戦の神秘のベールが、アメリカ軍によって暴かれてしまうのである。

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第2次世界大戦

Posted by hoshino