1942年(昭和17年)②日本軍、マニラ、シンガポール、ラングーン、バンドン占領。

2023年4月17日第2次世界大戦

帝国陸軍、勝利に隠された捕虜虐待と処刑、華僑虐殺。フィリピン、シンガポール、インドネシア。
●この②では、1942年(昭和17年)の5月頃までを記述した。開戦以来わずか半年で日本軍は広大な地域を占領した。特に日本は、蘭印と英領ボルネオを占領したことで、蘭印で産出される南方原油(スマトラ・ジャワ・ボルネオ)の40%に当たる167万キロリットル(昭和17年度)を確保し、本土に輸送することができた。
 前年の昭和16年8月、日本は各国による石油の禁輸処置により、石油の輸入が完全に停止した。この時の日本の貯油量は940万キロリットルと推定された。そしてこの蘭印の占領により、日本は石油を確保できたかに思われた。しかし、この南方原油の輸送量は平時の需要には十分だが、戦時での広大な戦線を維持するにはまだ不十分であった。
●一方日本軍はこの勝利の陰で占領地域の数多くの一般民衆に対して、強制労働、虐待を行い、特に敵性と思われる住民に対しては、無差別な虐殺を行っていた。また捕虜に対しても強制労働、虐待を行い、即決処刑も行っていた。特にアメリカは、自国の捕虜に対する虐待、処刑について敏感で、日本に対する憎悪を募らせていった。
 1945年7/26、アメリカ・イギリス・中国はポツダム宣言を発表した。その第10条には次のようにある。戦争中より捕虜虐待の情報は連合国に伝わっており、連合国は繰り返し日本に抗議していたのである。

(ポツダム宣言の第10条)
10、吾等は日本人を民族として奴隷化せんとし又は国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものに非(あら)ざるも、吾等の俘虜(ふりょ=捕虜)を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰加えらるべし。日本国政府は日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙(しょうげ=障害)を除去すべし。言論、宗教及思想の自由並に基本的人権の尊重は確立せらるべし。

●日本軍は、1941年11/13の大本営政府連絡会議で決定した「対米英蘭蔣戦争終末促進に関する腹案」(以下に引用)に基づき、軍事行動をおこした。だが、「米英蘭の根拠を覆滅」し「蔣政権の屈服を促進」する目的だからといって、アジアの民衆に対する残虐行為が許されるわけではない。日本はアジアの民衆に対して、償いきれない程の加害責任を負ったのである。

「方針」
一 速(すみやか)に極東に於ける米英蘭の根拠を覆滅して自存自衛を確立すると共に、更に積極的措置に依り蔣政権の屈服を促進し、独伊と提携して先づ英の屈伏を図り、米の継戦意志を喪失せしむるに勉む。
「要領」

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(上写真)シンガポール陥落:白旗と英国旗を肩に降伏申し入れに向かうイギリス軍軍師。1942年2月15日 影山光洋(朝日新聞社)シンガポール(出典)「目撃者」朝日新聞社1999年刊

1942年(昭和17年)1月~5月フィリピンの戦い 6-1

1942年(昭和17年)1/2、日本軍(第14軍司令官本間雅晴中将)は、フィリピン、マニラ市を占領した。
4月、日本軍は第2次バターン攻撃を行い、米比軍は降伏した(捕虜約7万人)。そして「バターン死の行進」を起こす。

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1942年(昭和17年)2/15、日本軍、英領マレー・シンガポール占領 6-2

第25軍司令官山下奉文中将は、イギリス軍総司令官パーシバル中将と会談、イギリス軍は無条件降伏した。この時連合軍(英・印・豪)捕虜は約10万人といわれ、イギリス軍は英国史上最も不名誉で、最も多数の捕虜を出した降伏となった。 そして日本軍は、もっとも激しく日本軍に抵抗した抗日結社・抗日華僑を無差別に摘発逮捕し処刑した。
 1942年6月大本営は南方軍に鉄道建設(泰緬《=たいめん》鉄道)を示達し、その建設のため捕虜約6万5千人、アジア人労働者約20万人(一説では30万人)を動員し、捕虜約1万2千人、労働者7万4千人(日本側推定4万2千人)を死亡させた。これが「泰緬鉄道捕虜虐待事件」である。

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1942年(昭和17年)3/8、日本軍、ビルマ・ラングーンを占領 6-3

日本軍(第15軍司令官飯田祥二郎中将)の最大目的は、英米が中華民国政府(蔣介石)に支援物資を送る「援蔣ルート」を遮断することだった。日本軍は3月にラングーンを占領、5月末にはビルマ全土を占領した。
 この日本軍には、ビルマ独立義勇軍(リーダー格アウンサン将軍=アウンサンスーチーの父親)が同行した。日本軍は、ビルマの独立運動、加えてインドの独立も支援しようとした。最初は日本軍も解放軍と見なされたのである。

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1942年(昭和17年)3/9、オランダ領ジャワ島バンドン占領 6-4

日本軍(第16軍司令官今村均中将)は、蘭印占領時に最大目的である製油施設が破壊されることを防ぐため、陸軍落下傘部隊によるバレンバン奇襲攻撃(2/14)を行い成功した。
 今村司令官は、蘭印占領後インドネシア独立運動家スカルノ(初代大統領)らを監獄から釈放し、「温情を基調とした開放的軍政」を行った。
 だが一方この日本軍の蘭印(インドネシア)占領により、オランダ人計約13万人が日本軍の収容所に抑留された。さらに現地日本軍は1944年2月、「スマラン慰安所事件」を起こす。
 さらに日本軍は、インドネシアでも現地民衆に対して油田、道路工事、飛行場建設、鉱山での強制徴用を行った。日本は占領した地域を食い物にしたのである。

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国内政治と社会年表。1942年(昭和17年)1月~5月頃まで。6-5

アメリカは、1942年2/19、大統領令9066号を発令した。これによりアメリカ西海岸を中心に、居住する日系アメリカ人と日本人移民約12万人が、強制収容所に収容された。「ジャップ」に対する差別と追放である。
ここでは『昭和2万日の全記録』講談社を中心に要約引用し、朝日新聞の紙面紹介を行った。

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1942年(昭和17年)4/18日本本土初空襲を受ける(ドーリットル空襲) 6-6

 アメリカは、4/18、太平洋上の空母から陸軍爆撃機を飛ばし、東京・名古屋・神戸を爆撃した。この東京初空襲は、政府・陸・海軍当局に衝撃を与えた。そして日本軍は、この爆撃機の搭乗員で、中国で捕らえられたアメリカ人8人の内3名を処刑した。この捕虜に対する処刑によって、アメリカ一般市民は日本人に対する憎悪をさらに募らせた。

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第2次世界大戦

Posted by hoshino