1942年(昭和17年)②日本軍、マニラ、シンガポール、ラングーン、バンドン占領。
2023年4月17日第2次世界大戦
前年の昭和16年8月、日本は各国による石油の禁輸処置により、石油の輸入が完全に停止した。この時の日本の貯油量は940万キロリットルと推定された。そしてこの蘭印の占領により、日本は石油を確保できたかに思われた。しかし、この南方原油の輸送量は平時の需要には十分だが、戦時での広大な戦線を維持するにはまだ不十分であった。
●一方日本軍はこの勝利の陰で占領地域の数多くの一般民衆に対して、強制労働、虐待を行い、特に敵性と思われる住民に対しては、無差別な虐殺を行っていた。また捕虜に対しても強制労働、虐待を行い、即決処刑も行っていた。特にアメリカは、自国の捕虜に対する虐待、処刑について敏感で、日本に対する憎悪を募らせていった。
1945年7/26、アメリカ・イギリス・中国はポツダム宣言を発表した。その第10条には次のようにある。戦争中より捕虜虐待の情報は連合国に伝わっており、連合国は繰り返し日本に抗議していたのである。
10、吾等は日本人を民族として奴隷化せんとし又は国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものに非(あら)ざるも、吾等の俘虜(ふりょ=捕虜)を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰加えらるべし。日本国政府は日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙(しょうげ=障害)を除去すべし。言論、宗教及思想の自由並に基本的人権の尊重は確立せらるべし。
●日本軍は、1941年11/13の大本営政府連絡会議で決定した「対米英蘭蔣戦争終末促進に関する腹案」(以下に引用)に基づき、軍事行動をおこした。だが、「米英蘭の根拠を覆滅」し「蔣政権の屈服を促進」する目的だからといって、アジアの民衆に対する残虐行為が許されるわけではない。日本はアジアの民衆に対して、償いきれない程の加害責任を負ったのである。
一 速(すみやか)に極東に於ける米英蘭の根拠を覆滅して自存自衛を確立すると共に、更に積極的措置に依り蔣政権の屈服を促進し、独伊と提携して先づ英の屈伏を図り、米の継戦意志を喪失せしむるに勉む。
「要領」
一 帝国は迅速なる武力戦を遂行し東亜及南西太平洋における米英蘭の根拠を覆滅(ふくめつ=滅ぼすこと)し、戦略上優位の態勢を確立すると共に、重要資源地域竝(=並)主要交通線を確保して、長期自給自足の態勢を整う。
凡有(あらゆる)手段を盡(=尽)して適時米海軍主力を誘致し之を撃滅するに勉む。
二 日独伊三国協力して先づ英の屈伏を図る。
●また上記・ニの取るべき方策として、以下がある(一部)。
(一) 帝国は左の諸方策を執る。
(イ) 濠州印度に対し政略及通商破壊等の手段に依り、英本国との連鎖を遮断し其の離反を策す。
(ロ) 「ビルマ」の独立を促進し其の成果を利導して印度の独立を刺戟(=刺激)す。
●さらに要領・四は以下のようである。(シンガポールにおける華僑の粛清も計画されたものなのだろうか)
四 支那に対しては、対米英蘭戦争特に其の作戦の成果を活用して援蔣の禁絶、抗戦カの減殺を図り在支租界の把握、南洋華僑の利導、作戦の強化等政戦略の手段を積極化し以て重慶政権の屈伏を促進す。
(上写真)シンガポール陥落:白旗と英国旗を肩に降伏申し入れに向かうイギリス軍軍師。1942年2月15日 影山光洋(朝日新聞社)シンガポール(出典)「目撃者」朝日新聞社1999年刊
1942年(昭和17年)1/2、日本軍(第14軍司令官本間雅晴中将)は、フィリピン、マニラ市を占領した。
4月、日本軍は第2次バターン攻撃を行い、米比軍は降伏した(捕虜約7万人)。そして「バターン死の行進」を起こす。
●日本軍の南方作戦はハワイ作戦より重要で、ハワイ真珠湾攻撃は南方作戦を支援するために行われた。この作戦は全体を「あ号作戦」といい、海軍では「第1段作戦」と呼称した。戦略目標は、フィリピン、マレー、ジャワを柱として、最終目的は蘭印ジャワの石油資源を獲得することだった。
このため日本軍は、開戦と同時に比島(フィリピン諸島)各所にあるアメリカ軍航空基地(制空権)とアメリカ海軍の最大基地キャビデ軍港(制海権)を壊滅させ、その後に上陸作戦を開始することが重要だった。もしそれが失敗すれば、台湾にある日本軍の航空基地は攻撃を受け、上陸部隊も攻撃にさらされるからである。
●この航空撃滅戦は、海軍第11航空艦隊(司令長官・塚原二四三中将、台湾に基地)が中心となり、12/8から全力攻撃を中部ルソン島の航空基地(クラーク、イバ飛行場)に集中して開始した。その後攻撃を続け、12日にはルソン島全土の航空基地に対して全力攻撃を行った。反撃する敵機は減少し、航空撃滅戦は13日には完了と判断された。
●1942年(昭和17年)1/2、日本軍(第14軍司令官本間雅晴中将)は、フィリピン、マニラ市を占領した。前年12/27、マッカーサー米極東陸軍総司令官は、総司令部をコレヒドール島へ移し、マニラ市を「非武装都市」と宣言、米比軍のバターン半島への撤退を命令した。
4月、日本軍は第2次バターン攻撃を行い、米比軍は降伏した(捕虜約7万人)。そして捕虜たちを100km以上離れたサンフェルナンドまで、水も食料も与えず歩かせた。これが「バターン死の行進」で、1200人のアメリカ兵と1万6000人のフィリピン兵が死亡した。この時、大本営参謀として現地出張をしていたあの「辻政信中佐」が、大本営命令を騙り、「捕虜は射殺せよ」と命令し、実行した部隊も拒否した部隊もあったといわれる。この2年後アメリカは、この「バターン死の行進」を行った残虐な日本人に対し憎悪を募らせ、復讐を誓うのである。
月日 | 内容 |
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1/2 | 第14軍(司令官・本間雅晴中将)マニラ市を占領。アメリカ軍、マニラ市を「非武装都市」と宣言、米比軍はバターン半島へ撤退した。 |
1/9 | 第14軍第65旅団、ヘルモサ付近からバターン半島攻撃を開始する(第1次攻略作戦)。米比軍を最初に攻撃したのは第48師団だったが、この師団は予定に従って第16軍(蘭印攻略・司令官今村均中将)に編成替えになった。代わった第65旅団はもともと占領後のルソン島を警備するために上陸した部隊だった。そのため、この第1次攻撃は困難を極め、失敗に終わった。 |
1/22 | 第14軍、バターン半島攻撃を再開するが、航空援助の欠如、兵力の転出などで損害が大きく、2/8に攻撃を中止した。 |
2/22 | アメリカ大統領、マッカーサー大将に、連合軍西南太平洋方面司令官就任のためフィリピン脱出を命令。 |
3/11 | マッカーサー大将、魚雷艇で幕僚らとフィリピンのコレヒドール島を脱出する。 |
3/17 | マッカーサー大将、ケソン大統領と共に飛行機でオーストラリアのダ―ウインに着いた。その時記者団に語った言葉が「I Shall Return」である。 |
3/24 | 陸・海軍航空部隊、共同でフィリピン、コレヒドール島要塞の爆撃を開始。 |
3/29 | フィリピン、ルソン島の森林地帯で抗日人民軍(フクバラハップ)結成。 |
抗日人民軍(フクバラハップ)
フクバラハップとは、抗日人民軍を意味するタガログ語名の略称。フィリピン共産党の指導で、3月29日ルソン島カビヤオで結成された。総司令官はルイス・タルクで、農民を中心に労働者・知識人も加わり、日本軍追放と地主制打倒を目指した。このフクバラハップは最大の抗日ゲリラ組織で中部ルソンを自力で解放した。戦後は米軍や政府軍と対決し、勢力を失った。 |
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4/3 | 第14軍、マニラ、ルソン島のバターン半島への第2次総攻撃開始。 |
4/9 | フィリピン、バターン半島の米比軍、第14軍に降伏する。 |
4/10 | 第14軍川口支隊、フィリピンのセブ島に上陸。 |
4/19 | マッカーサー陸軍大将、連合軍西南太平洋方面司令官に就任する。 |
5/7 | 第14軍第4師団、マニラ湾のコレヒドール島の一部占領。マッカーサーの後任の米軍司令官ウエンライト中将は、全米比軍の無条件降伏を受け入れ、降伏文書に調印した。 |
●ユサッフェというのはUSSAFFEといいアメリカ極東軍のことである。フィリピンでは、日本軍による占領直後から、各島で生き残ったアメリカ軍将兵を指導者に、激しいゲリラ戦が起こった。またアメリカも彼らを秘密裏に援助した。彼らは、駐留アメリカ軍とフィリピン防衛軍が合同した「ユサッフェ」を名乗り、日本軍に対する抵抗の証としたのである。戦後のマルコス大統領も、ルソン島で5~6000人を率いるゲリラのリーダーだった。
●フィリピンでは民衆の日本軍に対する反感が強く、特に米軍が上陸(1944年)してからのゲリラ活動は強力に行われた。このため日本軍は住民を敵視し、村民を皆殺しにするという暴虐が相次いだ。さらに米軍の進攻によって、日本軍は山岳地帯を敗走し、略奪や住民への残虐行為が数多く行われた。フィリピンで日本軍は50万人近い戦死者を出し、生き残ったのは10万人あまりにすぎなかったが、日本軍によるフィリピン民衆に対する残虐行為もすさまじいものだった。フィリピン人は、日本人のことを「ワランヒア」と呼んだ。「恥を知れ」という意味である。敗戦後の昭和20年(1945年)9/16朝日新聞紙面には、「比島日本兵の暴状」と題された報道記事が掲載された。
●当時第14軍の司令官・本間雅晴中将は、フィリピン攻略作戦の遅延の責任を取らされ、すでに1942年8月から予備役に編入されていた。しかし敗戦後の1946年1月、アメリカ軍(軍事委員会)によるフィリピン・マニラにおけるBC級戦犯裁判でこの行進の責任を問われた。そして1946年2月死刑判決を受け、4月3日銃殺刑に処された。(軍人として名誉を重んじられた銃殺刑だった。)(出典)「よみがえる第2次世界大戦(カラー化された白黒フィルム)第2巻日米開戦」NHKエンタープライズ2009年。
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第25軍司令官山下奉文中将は、イギリス軍総司令官パーシバル中将と会談、イギリス軍は無条件降伏した。この時連合軍(英・印・豪)捕虜は約10万人といわれ、イギリス軍は英国史上最も不名誉で、最も多数の捕虜を出した降伏となった。 そして日本軍は、もっとも激しく日本軍に抵抗した抗日結社・抗日華僑を無差別に摘発逮捕し処刑した。
1942年6月大本営は南方軍に鉄道建設(泰緬《=たいめん》鉄道)を示達し、その建設のため捕虜約6万5千人、アジア人労働者約20万人(一説では30万人)を動員し、捕虜約1万2千人、労働者7万4千人(日本側推定4万2千人)を死亡させた。これが「泰緬鉄道捕虜虐待事件」である。
第25軍司令官山下奉文中将は、投降したイギリス軍総司令官パーシバル中将と会談、イギリス軍は無条件降伏した。この時連合軍(英・印・豪)捕虜は約10万人といわれ、イギリス軍は英国史上最も不名誉で、最も多数の捕虜を出した降伏となった。
そして日本軍はシンガポール占領後、もっとも激しく日本軍に抵抗した抗日結社・抗日華僑を無差別に摘発逮捕し処刑した。この虐殺命令の立案者はあの軍参謀「辻政信中佐」であり、常軌を逸した憲兵隊に対する現地指導により、この虐殺は行われた。(シンガポール華僑粛清事件)
そして1942年6月大本営は南方軍に鉄道建設(泰緬鉄道)を示達した。日本軍は、建設のためイギリス、オーストラリアなどの捕虜約6万5千人、アジア人労働者約20万人(一説では30万人)を動員し、捕虜約1万2千人、労働者7万4千人(日本側推定4万2千人)を死亡させた。これが「泰緬鉄道捕虜虐待事件」で、24件の関連する戦犯事件を引き起こした。この労働者(労務者)は蘭印(インドネシア)からも強制動員された。
月日 | 内容 |
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1/11 | 第5師団第11連隊、マレー半島クアラルンプールに侵入。英軍が撤退していたため無血占領。 |
1/31 | 第25軍、マレー半島ジョホールバルに進出。 |
2/8 | 第25軍、シンガポール総攻撃開始(9日午前0時ジョホール水道渡江開始、0時10分上陸)。 |
2/11 | 第25軍第5・第18師団、シンガポール島中央ブキテマ高地占領。 |
2/15 | 第25軍、シンガポール占領。山下奉文司令官、英軍総司令官パーシバル中将と会談、降伏を確認。米英豪軍の捕虜約10万人。 |
2/17 | 大本営、シンガポール島を「昭南島」に改称すると発表。 |
2/21 | マレー縦貫鉄道のバンコクー昭南(シンガポール)間約3000km全線の復旧がなり、この日開通式。 |
3/3 | 昭南島(シンガポール)の抗日結社・抗日華僑摘発(2/27~)で、この日までに7万699人検挙される。 |
●下は、山下奉文第25軍司令官とイギリス軍総司令官パーシバル中将との降伏会談の映像と、山下司令官が自動車で降伏した10万人のイギリス軍兵士を閲兵する映像である。降伏会談での有名な「イエスかノーか?」は、山下司令官が下手な通訳に対して確認した発言だった、とも言われる(講談社「昭和ニッポン」第1巻)。(映像出典)「秘録太平洋全史」日本映画新社 1975年製作。
※(YouTube動画、サイズ13.6MB、2分05秒)
●この事件(イギリス軍によるBC級戦犯裁判)の概要は以下の通りである。(「BC級戦犯裁判」林 博史著 2005年岩波書店刊より要約)
●そこで山下第25軍司令官は、シンガポール占領後、河村少将をシンガポール警備司令官に任命し、2/18朝、「抗日分子を一掃すべし」との華僑「掃討作戦命令」を下した。この内容は、市内の華僑青年男子を集め、抗日分子を摘出し即時処刑せよという命令だった。この命令を企画立案し粛清を現場で指導したのが、第25軍参謀辻政信中佐だった。そしてこれを実際に担当したのが、第2野戦憲兵隊(隊長大石中佐)と歩兵部隊から駆り出された補助憲兵たちだった。
●2/21から2/23までの間、華僑男子を市内5ヵ所に集め、義勇軍に入っていたもの、銀行員、政府の仕事をしていたもの、シンガポールにきて5年未満の者らに手を挙げさせ、彼らを抗日分子として選別した。また警官などを使って抗日的だとみなした者を摘発した。そして彼らをトラックに載せ、海岸や郊外のジャングルに連行し、機関銃で一斉に処刑した。
●1947年3/10からイギリス軍によるBC級戦犯裁判がシンガポールで始まった。起訴されたのは、西村中将(近衛師団長)、河村少将(警備隊司令官)、大石中佐(第2野戦憲兵隊長)、横田憲兵中佐、城憲兵少佐、大西憲兵中尉、久松憲兵中尉の7人だった。この裁判で日本軍が認めた人数が約5000人、地元では4,5万人が虐殺されたといわれている。そして4/2の判決で、河村少将と大石中佐が絞首刑、他は終身刑だった。2人の処刑は6/26に執行された。死刑が2人だったことに地元市民からは「軽すぎる」という強い不満の声が上がった。粛清命令者の山下軍司令官は既にアメリカ軍マニラ戦犯裁判で1946年2月に処刑されていた。真の首謀者といわれている軍参謀の辻政信中佐らは訴追をまぬがれたのである。
●この時の軍参謀の憲兵隊に対する常軌を逸した指導は、「BC級裁判を読む」半藤一利・秦郁彦・保坂正康・井上 亮著 2010年日本経済新聞社 刊、には次のよう書かれている。「華僑粛清事件」の後半の一部分を引用してみる。
・・・裁判で最も責任が重いとされ、死刑となった河村参郎警備司令官の弁護資料には苦渋の反論が記されている。粛清について「抗日華僑は敵にして一般市民にあらず。而してシンガポールにおけるこれが弾圧処分は純作戦行動にして正当行為なり」
しかし、戦闘を重ねるうち、抗日華僑の敵対行為で日本軍に多数の死傷者が出るに及んで、山下司令官はシンガポール攻略前に徹底弾圧を決意していたという。
河村警備司令官は「国家百年の大計に非ずして将来禍根を遺すべく適当ならずと思惟せる」と内心は粛清に反対だったとしている。命令を受けた河村が側近に対して「実に嫌な仕事なるも軍命令によるものなるをもっていかんともしがたし」と嘆息したことも記されている。
そして、司令官の命令とされていたが、その立案は軍参謀である辻政信中佐と林忠彦少佐らによるもので、自分は「ロボット的存在に過ぎなかった」と河村はいう。真に責任を負うべきなのは軍司令官である山下と参謀たちであるとしている。
「シンガポールの人口を半分にする」
近衛師団の通信隊無線小隊長だった総山孝雄の手記『南海のあけぼの』によると、近衛師団の歩兵小隊が補助憲兵として検証を行っていたところ、軍参謀から「五師団はすでに三百人殺した。十八師団は五百人殺した。近衛師団は何をぐずぐずしているんだ。足らん足らん。全然足らん」とどやしつけられたという。
そこで師団から小隊長に「とにかく軍への申し開きができるよう、何でもよいから数だけ殺してくれ」と命令があった。やむなく人相によって振り分けた。そして人数が百人になるとトラックに積んでチャンギ要塞の近くの海岸に運び、機銃掃射で殺害、死体は海に捨て、人数は水増しして軍に報告した。この小隊長はやらされたことが辛くて夜は宿舎で泣いていたという。
先に登場した大西覚憲兵中尉は一九七七年に出版した『秘録昭南華僑粛清事件』で、粛清は作戦上必要だったとしながらも、「強硬参謀の意見に引廻され、十分な取調べもせず、即時厳重処分に付したところに問題があり、汚点を残した」と書いている。
大西憲兵中尉はこの本で「辻参謀、朝枝(繁春)参謀の現地指導は常軌を逸したものがあった」として、その暴走を物語る逸話を紹介している。
大西が担当する検問所を視察した辻参謀が「容疑者を何名選別したか」と聞くので、「只今のところ七十名であります」と答えたところ、辻は大声で「何をぐずぐずしているのか。俺はシンガポールの人口を半分にしようと思っているのだ」といったという。大西は本気ではなく冗談だと思ったと書いているが、その暴論に驚く。
また、憲兵隊本部に乗り込んだ朝枝参謀が軍刀を引き抜き「起きろ! 起きろ! 憲兵は居ないか。軍の方針に従わぬ奴は憲兵といえどもぶった切ってやる」と大騷ぎし、強引に粛清を指導したと書いている。・・・・
●戦後、この大規模な捕虜虐待・強制労働に対して、イギリス・オーストラリアがシンガポールで戦犯裁判を開いた。動員された捕虜が、主にシンガポールで捕らえられたイギリス連邦軍兵士だったからである。日本側の資料で、120人が起訴され、111人が有罪判決を受け、32人が死刑となった。この中には、朝鮮人軍属の有罪33人、死刑9人が含まれている。
●特に「泰緬鉄道捕虜虐待事件」の24件の関連する裁判のなかで「F軍団(フォース)」と呼ばれた捕虜部隊が最も多くの死者を出した。この部隊はシンガポールのチャンギ捕虜収容所から、鉄道第5連隊の下でもっとも奥地のタイ・ビルマ国境付近のソンクライ・キャンプ(馬来俘虜収容所第4分所)へ送られ鉄路建設にあたった。「BC級裁判を読む」半藤一利・秦郁彦・保坂正康・井上 亮著 2010年日本経済新聞社 刊、から、この「F軍団(フォース)」捕虜部隊の凄惨な部分を引用してみる。捕虜約7000人のうち3000人以上が死亡したのである。
●戦犯裁判で起訴されたのは計7人。捕虜収容所では分所長の坂野博暉中佐、軍医の谷尾誠大尉、収容所分遣所長の福田恒夫大尉。鉄道部隊では技師の丸山一大尉、同阿部宏中尉。加えて監視員の豊山起聖、石本栄信ら朝鮮人軍属だった。
・・ F軍団はどのような運命をたどったのか。裁判資料をもとにその経過を見ていく。
一九四三年四月八日、シンガポール・チャンギの捕虜収容所に収容されていた連合軍捕虜約七千人(イギリス軍約三千四百人、オーストラリア軍約三千六百人)に行き先が告げられないまま移動命令が出された。イギリス軍捕虜将校の証言によると、「快い環境の中で軽い仕事をする。食事はチャンギより良い」といわれたという。このため、病人や栄養不足に苦しんでいた虚弱な者が多数含まれてしまった。福田恒夫大尉は戦後の聞き取り調査で、「馬来俘虜収容所長の有村恒道少将は俘虜に作業に行くのだとはいわず、療養に行くのだといってピアノまで準備させた」と話している。
福田大尉によると、捕虜輸送は四月十六から開始された。七千人を十三の班(一班六百人)に分け、毎日一班ずつ貨車に乗せて十三日間にわたって送り出した。鉄道の旅は約十日間で、タイのノンプラドック駅(バンポン)が到着点だった。
輸送は家畜並みの扱いだった。ある捕虜の大尉は「列車の床は約五・九×約二・五メートルの有蓋貨車で、二十七人が詰め込まれた。便所も洗面施設もなかった」と話している。別の捕虜は「多くの人々が赤痢を患っていたので、貨車の状態はすさまじいものがあった。小便をする唯一の方法はドアからぶら下がってすることだった」という。
しかし、捕虜たちはまだ地獄の入り口に着いたばかりだった。F軍団はバンポンから彼らが作業する予定のタイ奥地ソンクライまで徒歩での移動を強いられる。その距離約三百キロ。猛烈なスコールが降る雨期のジャングルの泥土の中の行軍である。一緒に移動しているアジア人労働者の苦力の間にコレラが流行し、またたく間に捕虜にも感染した。泥と疫病の中を進む死の行進だった。
福田大尉の証言によると、行軍は猛暑の昼を避けて夜行われた。しかし、昼間は熟睡できないため捕虜の疲労は倍加したという。行軍は1日二十~二十五キロで、ほぼ二十日間続いた。「米飯は白人捕虜の体質に合わなかった。彼らにはバターやチーズを与えなければならないが、これがなくて彼らの体力が急に消耗していった」という。
ある捕虜は行軍の模様をこう語る。中間キャンプには雨露をしのぐ何の施設もなかった。日光の極度の暑さと数百万の蠅のため十分な休息をとることが不可能であった。毎日二回の食事を受けたが、約一杯の煮た米と水っぽいタマネギのシチュー、たまには乾魚からなっていた。下ソンクライに到着したとき、皆疲労困ぱいで、わたしを含む多くの者は脚気に苦しみ、他の者はマラリアと赤痢にかかっていた。
F軍団は五月中旬ごろに最初の現場である下ソンクライに着く。捕虜の四割が病気だったという。
到着時、収容所は完成しておらず骨組みだけで、どの小屋も屋根がなかった。
「日本の歩哨用宿舎は全部竹床であったが、捕虜用は破れて水が漏れるテントで、濡れた土間だった」という証言もある。また、これらの施設の一部はコレラに感染した苦力が使用したものだったという。小屋の屋根は二週間後に完成したが、「材料がケチケチされたため、ひどく雨が漏った」(捕虜証言)。そして小屋の中は南京虫、シラミの巣だった。「間もなくかさぶたができ、将兵の別なく蔓延した」(同)という。
過酷な行軍と劣悪な収容環境で衰弱した捕虜たちは容赦なく労働に駆り立てられた。従事させられた作業について、ある捕虜は次のように証言している。
あるイギリス軍大尉は
当初、工期は一九四三年末とされていたが、大本営は工事が始まって三ヵ月後に「五月末」に繰り上げるよう指示してきた。これは現場の猛反発にあい、折衝の結果「八月末完成」とされた。このため、完成を焦る鉄道部隊は夏場にさしかかったころからさらに長時間の労働を強いるようになる。
ある捕虜は
八月はさらに労働時間が長くなり、十九時間近い日もあった。健常者でも耐えられない長時間の重労働が栄養失調や伝染病で疲弊した捕虜に課せられた。「午前八時から夜の十一、十二時まで不健康者に続けさせる作業は、どう考えても不合理であった。あるときは午前四時ごろに帰ってきた」(捕虜大尉)という状況だった。
長時間労働だけではなく、危険な作業も捕虜に要求された。証言によると、山の中腹に坑道を掘る作業をしていたが、「日本軍はトンネル作業の良法を知らなかった。ほとんど安全警戒をしなかった。これは難作業で突発事件が起こった。落盤で捕虜一人が死んだ」という。
また、オーストラリア軍捕虜の指揮官だったカッペ中佐によると、病院宿舎から九十メートルしか離れていないところに石切場があり、爆破作業で岩石の破片が小屋の屋根を突き破って病人の捕虜にけがを負わせることがあったという。「ある者はほとんど恐怖で発狂し、ある者はあり合わせのもので頭を隠して起き上がっていた」。
弱った捕虜に伝染病が容赦なく襲いかかる。最も猛威をふるったのがコレラだった。ある捕虜は日記に次のように書いている。
捕虜軍医の医事報告によると、コレラ流行には二つの波があったという。第一次の波は四三年五月中旬で、現地の労働者から感染した。この軍医のいた班では二十人の患者が出て、五月下旬までに五人が死んだ。
第二波は同月下旬から収容所内で始まった。収容所のすぐ上が便所になっていて、雨が降ると汚染された雨水が収容所の小屋の中まで流れこんできた。「雨はまったくやまなかった。小屋を覆っていた布はほとんど防水できなかった。絶えず濡れて汚れていて、いつも大便小便からの感染の危険にさらされていた」という。医事報告には、すさまじい感染の推移が次のように記されている。
●5月25日 感染者11 死亡4、 ●5月29日 感染者26 死亡10、
●5月26日 感染者35 死亡4、 ●5月30日 感染者120 死亡4、
●5月27日 感染者19 死亡10、 ●5月31日 感染者17 死亡8、
重症の患者は隔離病院に入れられたが、二百九人の患者のうち百一人が死亡したという。病気はコレラのほか、マラリア、脚気、赤痢などがあった。とくにマラリアの発症率が高く、六、七月には四回の発症の波があり、一日で五百人以上の患者が出ることもあった。食事にビタミンB1が不足していたため、多くの捕虜が脚気に苦しんだ。
高温多湿の環境で皮膚の病気も多発した。熱帯性潰瘍のほか、多くの捕虜が靴を履かずに作業していたため、足の伝染性裂傷を患った。中には足を切断しなければならない捕虜もいた。ダニによる疥癬も多かった。
捕虜部隊の将校らは病人を作業に駆り出さないよう再三抗議したが聞き入れられなかった。カッペ中佐は「シンガポール出発のときに健康であった千九百人のうち千二百人が入院した。そしてこの原因は毎日わずか百八十グラムほどの米が支給されるだけで、ほかに何もなかったからだ。捕虜が入院を許可されるや、ただちにその者の食事を三分の一か二分の一にまで減らすのが〔ソンクライ捕虜分遣所長の〕福田(恒夫大尉)の常にとった政策であった」という。このため、作業をしている捕虜のほとんどが半病人という状態になった。
五、六月の状況について、あるイギリス軍大尉は
七月五日、ソンクライ捕虜分遣所長の福田恒夫大尉は抗議する捕虜将校にこういったという。
捕虜たちがこのような悲惨な状況にある中、アジア人労働者、苦力たちも同様かそれ以上に過酷な状態にあったはずだが、彼らへの虐待は戦犯裁判で問われなかったため、詳細は明らかになっていない。裁判で判事が元捕虜に対して苦力について尋問している場面があるので引用する。
元捕虜「いや、病気になると寝かされて死ぬか良くなるまで放置されていた。苦力たちに関する限り何もすることを許されなかった。日本人たちは苦力たちに何もしてやらなかった。
裁判資料にはF軍団の死者の病気別、月別の詳細な表がある。この表では死者総数は三千八十二人とされており、病気別では最も多いのが赤痢と他の病気を併発するケースで四五%を占めている。次いでコレラがニ一%。このほかマラリア、脚気、潰瘍、ジフテリア、天然痘、肺炎などありとあらゆる病気で死者が出ている。月別で死者が多いのは四三年八、九月で、五百人を超えている。当初八月末の完成を予定していた工事が延び、急ピッチの作業を強いた結果とみられる。
病気とともに捕虜を苦しめたのが監視員による虐待だった。中でも戦犯被告の朝鮮人軍属、豊山起聖は各捕虜の怨嗟の的であり、裁判でも豊山の暴虐について次々と証言が出された。
「トヨヤマは何ら明白な理由なしにゴルフ棒で我々を殴った。収容所内を小さな神のごとく歩き回り杖を持って殴打を実行していた。あらゆる命令を出し、配給を左右する権利を委任されていた」
「つまらない口実で捕虜に対し金切り声をあげて叫び、持っている鉄のゴルフクラブで多くの者を殴った」
ある証言によると、豊山は病院から捕虜を引き出して作業に駆り出すことを四三年八月から十一月の間に約ニ十回繰り返したという。病気の捕虜は朝六時半から夜十一時半まで作業をさせられた。その結果、百人以上が死んだと推定されている。
イギリス軍捕虜二人が日本軍宿舎よりも川上で洗濯をしていたのを見て怒り、罰としてこの二人に汚物の混ざった泥水を飲ませたこともあった。
また、トラブルの懲罰として竹の棒の上にひざまずく拷問を加えたという。
「頭を真っすぐにして全体重が竹に対してひざにかかるようにした。この格好で帽子もシャツもなく、二日間太陽の中にいることを命じられた。この中にひどい赤痢にかかっていた捕虜が二人いた。彼らは二日以内に死んだ」(捕虜証言)
豊山に対しては「悪魔」「狂人」「サディスト」「動物」などありとあらゆる悪罵が投げつけられているが、捕虜を過酷に扱うのは日本軍の「意志」でもあり、豊山だけが虐待者だったわけではない。
鉄道部隊の阿部宏中尉については次のような証言がある。
「阿部中尉は収容所における作業能力者をはるかに超えた人数を要求した。要求人員が出なければ病院小屋に武装守衛を連れてきて、実力をもって最初の二百人を駆り出すといった」
同じく鉄道部隊の丸山一大尉は、捕虜が入院している病人のために音楽会を催して歌をうたっている場面に遭遇した。これを快く思わず捕虜の上官に「歌をうたった五人を連れてこい」と命じたという。上官が罰しないように懇願したが、丸山大尉は五人を並んで立たせ、次々と頬を殴ったといわれている。
証言によると、部下が殴られたことに対して抗議した捕虜の少佐に対して、分遣所長の福田大尉はこういったという。
福田大尉は裁判の尋問でジュネーブ条約を適用しないと発言したことを認めている。
F軍団事件の戦犯裁判は一九四六年九月二十三日から十月二十三日の間に行われた。判決は福田恒夫大尉、丸山一大尉、阿部宏中尉、豊山起聖軍属が死刑。F軍団管轄の馬来俘虜収容所第四分所長の坂野博暉中佐は懲役三年、谷尾誠軍医大尉は五年、石本栄信軍属は十八ヵ月だった。のちに再審が行われ、死刑判決はすべて終身刑か十五年に減刑され、結果的に一人も死刑にならなかった。
とくに被告中、最も高い地位にあった坂野中佐の刑の軽さが目立つ。これは同中佐が六十近い「老人」であり、事件当時はほとんど指揮能力を欠いていたという事情があった。坂野中佐について次のような捕虜の証言がある。
戦犯裁判では、これらの好意的な証言が坂野を救った。坂野は釈放後の一九五八年十一月二十七日の聞き取り調査で、「死刑を予感していたが軽かったので意外であった」「私の公判の特異性は他のケースと比較して過酷に取り扱われなかったことである」と話している。
一方、収容所の上官では厳しく追及された福田恒夫大尉は六〇年五月十一日の調査で
谷尾誠軍医大尉は
谷尾軍医大尉は、日本人は作業を命じられるとすぐに着手するが、出来上がりは捕虜のものと比較して非常に拙かったという。「捕虜はすぐに取りかからず、じっくりと計画してから作業に入り、出来上がりも立派だった」と日本人と西洋人の効率に関しての考え方の違いを感じたと話している。
そして「戦中の外国語が『敵性語』とか呼ばれ、学ぶことも禁止されていたのに、戦後の外国語の盛大さを思うと滑稽だ。なんだかこの辺に日本の民族性に一つの大きな欠陥を感ぜずにはいられない」ともいう。
F軍団が泰緬鉄道で最も多くの死者を出しながら一人も死刑にならなかったのは、裁判の被告の中に本当の責任者がいなかったためだろう。現場の鉄道部隊、捕虜収容所も大本営の無理な鉄道建設計画のために使役された「道具」にすぎなかった。
真の責任者は、強いていえば首相と陸相を兼ねた東条英機が捕虜問題の責任を取ったといえるが、計画を立案した大木営の参謀らは訴追されなかった。
命令を発した上層部より実行した下部層が重く罰せられる傾向のあったBC級裁判だが、あまりに無謀な鉄道計画ゆえか、結果の重大さと比較すると被告らの責任は驚くほど軽く認定された裁判であった。
日本軍(第15軍司令官飯田祥二郎中将)の最大目的は、英米が中華民国政府(蔣介石)に支援物資を送る「援蔣ルート」を遮断することだった。日本軍は3月にラングーンを占領、5月末にはビルマ全土を占領した。
この日本軍には、ビルマ独立義勇軍(リーダー格アウンサン将軍=アウンサンスーチーの父親)が同行した。日本軍は、ビルマの独立運動、加えてインドの独立も支援しようとした。最初は日本軍も解放軍と見なされたのである。
日本軍(第16軍司令官今村均中将)は、蘭印占領時に最大目的である製油施設が破壊されることを防ぐため、陸軍落下傘部隊によるバレンバン奇襲攻撃(2/14)を行い成功した。
今村司令官は、蘭印占領後インドネシア独立運動家スカルノ(初代大統領)らを監獄から釈放し、「温情を基調とした開放的軍政」を行った。
だが一方この日本軍の蘭印(インドネシア)占領により、オランダ人計約13万人が日本軍の収容所に抑留された。さらに現地日本軍は1944年2月、「スマラン慰安所事件」を起こす。
さらに日本軍は、インドネシアでも現地民衆に対して油田、道路工事、飛行場建設、鉱山での強制徴用を行った。日本は占領した地域を食い物にしたのである。
日本軍(第16軍司令官今村均中将)は、オランダ領東インド(蘭印)各地に分散上陸し、要所を占領した。そしてそのあとオランダ軍約8万(そのうち米豪軍約1万5千)のいるジャワ島を攻略した。だがオランダ軍はバンドン要塞であっけなく降伏した。この大きな要因となったのは、日本軍が解放軍とみなされ、インドネシア人が独立運動家を中心に日本軍に協力したことにあったといわれる。
日本軍は、蘭印占領時に最大目的である製油施設が破壊されることを防ぐため、陸軍落下傘部隊によるバレンバン奇襲攻撃(2/14)を行い成功した。この落下傘部隊による奇襲降下作戦は、1/11セレベス島(スラウェシ島)のメナドで海軍も成功していた。
今村司令官は、蘭印占領後インドネシア独立運動家スカルノ(初代大統領)らを監獄から釈放し、「温情を基調とした開放的軍政」を行った。だがその軍政方針は、大本営方針と対立したため、今村司令官は、1942年11月第8軍司令官としてラバウルへ転任していった。
だが一方この日本軍の蘭印(インドネシア)占領により、オランダ人の捕虜約4万人、女性や高齢者、子供たち民間人約9万人、計約13万人が日本軍の収容所に抑留された(オランダ政府が日本政府に示した数字)。そしてそのうち約2万2千人が死亡したといわれる。さらに1944年2月、収容されていた女性35人(裁判で25人が認定)が強制連行され慰安所で売春行為をさせられた。これが「スマラン慰安所事件」であり、日本軍は「飢えと屈辱の収容所生活」を占領地でオランダ人に強いた。
●さらにインドネシアでは現地民衆に対して油田、道路工事、飛行場建設、鉱山での強制徴用が行われた。「ロームシャ(徴用される労務者)」「ケンペイ(威嚇する憲兵)」「バカヤロー(監視兵の怒鳴り声)」の言葉が戦後も長く彼らの脳裏に残されたといわれる。徴用された「ロームシャ」は日本側資料によっても300万人(インドネシア側資料400万人)にのぼり、日本は占領した地域を食い物にして、かってのイギリス人やオランダ人より現地民衆に嫌われたのである。アジアを欧米の植民地支配から解放し、「大東亜共栄圏=共に栄える東アジア」の建設するというのは、ただのお題目にすぎなかったのである。
上地図は、1984年の地図に蘭印攻略作戦の主要地点を記入したイメージ図である。(地図出典)「世界大地図帳」平凡社1984年刊。星野作成
月日 | 内容 |
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1/11 | 海軍第1特別陸戦隊スラウェシ島(セレベス島)メナドに落下傘降下し、飛行場を占領(日本軍初の空挺作戦)。 |
1/12 | 政府は、オランダ軍の米英への基地提供などの「敵対行為を破砕する」として、対蘭印戦闘開始を声明。 |
1/12 | 蘭領ボルネオ・タラカン島守備のオランダ軍、11日に上陸した第16軍坂口支隊に降伏する。 |
1/20 | 寺内寿一南方軍総司令官、第16軍(司令官今村均中将)にジャワ攻略命令を下達。 |
1/24 | 海軍東方部隊の陸戦隊、スラウェシ島(セレベス島)ケンダリーに上陸、占領(27日、第21航空戦隊、同地進出)。 |
1/25 | 坂口支隊、ボルネオ島のバリクパパンを占領。第16軍、同隊に同島のパンジェ(ヤ)ルマシン攻略を下命。 |
2/4 | 海軍基地航空部隊、マドゥラ島東方海域で米英蘭連合艦隊を攻撃(ジャワ沖海戦) |
2/9 | 海軍東方攻略部隊、セレベス島南端部マカッサルを完全占領。マカッサル海峡南部要衝を制圧する。 |
2/14 | 第16軍第1挺進団(落下傘部隊)、スマトラ島のパレンバン飛行場などに第1次降下、占領。 |
2/19 | 第16軍の金村支隊、バリ島に上陸・占領。第8駆逐隊、米蘭連合艦隊と交戦(バリ島沖海戦~20日) |
2/20 | 横須賀鎮守府第3特別陸戦隊、チモール島クーパンに落下傘降下(21日第2次降下、同地飛行場占領)。 |
2/23 | ボルネオ島セリア油田の原油を内地へ輸送する第1船橘丸(旭石油所属5150トン)、ボルネオを出航する。 |
2/27 | 第5艦隊などスラバヤ沖でドルーマン指揮の米英豪蘭連合艦隊と交戦(~28日未明)。スラバヤ沖海戦。 |
2/28 | 第5水雷戦隊など、連合軍残存艦隊と交戦(~3/1)駆逐艦4隻残しすべて撃沈。バタビア沖海戦。 |
3/1 | 第16軍第48師団・坂口支隊クラガン付近に、東海林支隊バンドン北方に、第2師団バンタム湾に上陸。 |
3/5 | 第16軍第2師団バタビア占領(7日東海林支隊バンドンの一部占領、同地蘭印軍、降伏を申し出る)。 |
3/8 | 第16軍、坂口支隊チラチャップを、第48師団スラバヤを占領。 |
3/9 | 第16軍東海林支隊、ジャワ島のバンドン占領。蘭印軍、降伏文書に署名。 |
3/11 | 南方軍、第16軍(司令官今村均中将)に、占領地の軍政実施・航空基地建設協力などを指示。 |
3/12 | 近衛師団、T作戦(=スマトラ攻略作戦)を開始し北部スマトラを占領。ジャワ島の英豪軍約8000人が降伏する。 |
●日本国内では、昭和16年9月から「石油部隊」として採掘・製油技術者たちが徴用された。彼等は陸海軍の指揮下に入れられ、戦闘部隊と行動を共にして、上陸後すぐに油田の維持と復旧にあたった。
この南方油田の復旧に徴用された技術者は、陸軍が4919人、海軍1800人とされ、この数は日本における石油関係技術者の約70%にあたった。
●この南方作戦の成功により日本は莫大な資源を手に入れた。南方原油の日本への輸送は、昭和17年度で産油量の40%にあたる167万キロリットル、18年度は産油量の29%にあたる230万キロリットルが日本に輸送された。だが日本は、開戦時より輸送する手段にこと欠き、日本の保有するタンカーは113隻、総トン数で54万6100トンでしかなかった(現在のタンカーは1隻で20万トン~30万トン級が中心)。そのため、5/20、大本営政府連絡会議は、不足する油槽船の増強のため、既存貨物船・建造中の貨物船の油槽船への改造を行う応急処置を決めた。
だが、昭和18年度後半から連合軍の潜水艦と航空機による攻撃により油槽船の喪失は急増し、日本本土への輸送は激減した。このため現地では、製油所のタンクが飽和状態となり、貴重なガソリンを海中に投棄する有様だったという。
(上写真)昭和17年2月15日、空から見た炎上中のパレンバン。石油タンクの破壊は、連合軍が日本側にわたすまいと計画的に行った。写真は空母龍驤の搭載機が撮影したもの。(出典)「決定版・写真太平洋戦争(第1巻)」「丸」編集部 編 潮書房光人社2015年 発行
●1942年(昭和17年)3/9、ジャワ島バンドンで蘭印総督と蘭印軍司令官が降伏し、蘭印攻略作戦は終了した。そこで連合艦隊司令長官は、南方部隊指揮官近藤信竹中将に、セイロン島奇襲作戦を命じた。この目的はセイロン島方面に健在である英艦隊を撃滅することであった。これにより開戦以来の「第1段作戦」が終了することになる。
●イギリス首相チャーチルは、その著「第2次大戦回顧録」で、この日本の連合艦隊との戦いに関して、次のように述べた。
●映像で、固定脚の飛行機は、九九式艦上爆撃機で、急降下爆撃機である。映像ではイギリス空母ハーミス(ハーミーズ)がこの艦爆などによって撃沈されるシーンが映っている。(映像出典)「秘録太平洋全史」日本映画新社 1975年製作。
※(YouTube動画、サイズ2.30MB、50秒)
アメリカは、1942年2/19、大統領令9066号を発令した。これによりアメリカ西海岸を中心に、居住する日系アメリカ人と日本人移民約12万人が、強制収容所に収容された。「ジャップ」に対する差別と追放である。
ここでは『昭和2万日の全記録』講談社を中心に要約引用し、朝日新聞の紙面紹介を行った。
2/19、ルーズベルト大統領は大統領令9066号に署名した。これにより強制退去を命じられた日系人は、8月までに11万2000人にのぼった。彼らはアメリカ西海岸から砂漠地帯や荒れ地に作られた有刺鉄線に囲まれた「再居住センター=強制収容所」に収容され、財産の大半を失った。この日系人に対する強制処置は、差別意識と、真珠湾攻撃に対する復讐心から行われた。そしてこの日系人達が開放されたのは、1945年の日本敗戦後から1ヶ月後のことだった。
●また日系アメリカ人はこぞって軍に志願した。そしてアメリカ人としての名誉と誇りのために、勇猛な「日系人部隊」となってヨーロッパ戦線で活躍した。
※1988年、アメリカ大統領はこの日系人強制収容に関して謝罪し、アメリカ政府は彼らに対する補償支払いを決定した。
(映像出典)「秘録太平洋全史」日本映画新社 1975年製作
※(YouTube動画、サイズ2.5MB、52秒)
年・月 | 1942年(昭和17年)1月~1942年5月頃 |
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1942年昭和17年1/1 |
連合国、「大西洋憲章」を確認
●連合国26国は、日本、ドイツとの単独不講和を宣言し、「大西洋憲章」を確認した。(ワシントン) |
1942年昭和17年1/5 |
ソ連、対日宣戦布告要請を拒否
●ソ連は、米英からの対日宣戦布告要請を、「まだその時期ではない」と拒否。米英はソ連の態度に失望と(上海発)。 |
1942年昭和17年1/8 |
初の「大詔奉戴日(たいしょう・ほうたいび)」
●従来の興亜奉公日に代え、大詔奉戴日を毎月8日に設けることを、年頭の初閣議で決定した。戦意高揚を図るため、対米英開戦記念日(1941年12月8日)に「宣戦の詔勅」(開戦の詔書)が公布されたことにちなんで決められた。 |
1942年昭和17年1/14 |
陸軍、捕虜収容所を設置する
●陸軍は、香川県善通寺と中国上海・香港に俘虜(=捕虜)収容所を開設した。1/15グアム島(アメリカ領)のマクミラン総督以下の米軍捕虜421人を善通寺俘虜収容所に収容する。 |
1942年昭和17年1/16 |
大日本翼賛壮年団の成立式挙行される
●陸軍省軍務局長武藤章らが中心となり、大政翼賛運動の実践部隊として1/16結成された。21歳以上の男子の自発的加盟による同志的組織を謳い、農村部を中心に国策遂行運動を展開した。 *リンクします「進め1億火の玉だ」
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1942年昭和17年1/16 |
大蔵省、戦時増税法案要綱発表
●大蔵省、増税総額11億5千余万円、基礎控除は月給60円から50円に引き下げるなどの戦時増税法案要綱を発表 |
1942年昭和17年1/20 |
ドイツ「ヴァンゼー会議」で、具体的なユダヤ人大量虐殺を決定
●1942年ナチス・ドイツは、最重要政策であるユダヤ人の排斥・迫害に関する「最終解決」を「ヴァンゼー会議」で決定した。これは具体的な実務レベルの最終決定であり、これによりナチス・ドイツは、組織的ユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)を決定し実行に移した。 |
1942年昭和17年1/20 |
繊維製品配給消費統制規則公布施行
●商工省は2/1から点数式総合切符制を実施する。その準備のため、1月いっぱい衣料品の販売が禁止された。 |
1942年昭和17年1/25 |
オーストラリア陸相、国民の決意を要望
●フォード豪陸相は、「日本の豪州侵攻に備え動員計画を進めており、国民の決意を要望」と布告する。 |
1942年昭和17年1/25 |
タイ、米英に宣戦布告する
●タイは直ちにビルマに侵攻する。 |
1942年昭和17年2/2 |
大日本婦人会発足
●愛国婦人会・大日本国防婦人会・大日本連合婦人会の婦人3団体が統合された。会員資格は20歳未満の未婚者を除く日本人女子全員で、会長は山内禎子。5月に大政翼賛会に加盟し、国家・社会・家族への奉仕を綱領として、軍部・官庁の監督のもと防空訓練、貯蓄増強、廃品回収などの活動を行った。 |
1942年昭和17年2/11 |
グラフ雑誌「FRONT」創刊
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1942年昭和17年2/12 |
民法改正公布
●差別撤廃のため「庶子」「私生児」の名称を戸籍から抹消する。 |
1942年昭和17年2/18 |
閣議、強力な翼賛議会確立をめざす
●閣議、大東亜戦争」完遂、翼賛選挙貫徹などの基本綱領を決定。 |
1942年昭和17年2/21 |
食糧管理法公布
●これは主要食糧の国家管理を目的とする法律で、7/1一部施行、9/15その他施行。戦争の長期化で食糧不足が深刻化したため、従来の米穀統制に関する諸法規を統合して制定された。これにより国家による食料の生産・流通管理体制が完成した。 |
1942年昭和17年 |
戦時刑事特別法・戦時民事特別法公布(3/21各施行)
●「戦時刑事特別法」は戦時下の犯罪をより厳しく罰するための治安立法。2月24日公布。灯火管制中などの放火・強盗・姦淫・騒擾などに対しては刑法よりも刑を加重し、戦時における「国家変乱」を目的とする殺人・傷害・暴行脅迫・騒擾罪、防空・通信・電気・生産事業などに対する妨害罪、生活必需品の買占め・売惜み罪などを新設した。また弁護人の数の制限など被疑者および被告人の権利を大幅に制限した。 |
1942年昭和17年3/10 |
中小商工業の再編成、職業転換促進
●閣議は、労務供出、企業整備を目的として、中小商工業の再編成と職業転換促進に関する基本方針を決定した。 |
1942年昭和17年3/27 |
関門海底トンネル開通
●本州と九州を結ぶ国鉄の関門海底トンネルの全区間が開通した。モーターカーが初試走する。 |
1942年昭和17年4/1 |
各配電会社が開業
●配電統制令に基づき、配電60事業を統合して、全国9地区に各配電会社が開業した。 |
1942年昭和17年4/3 |
マレーの虎(ハリマオ)伝説生まれる
●4/3の各紙は、マレー半島でハリマオ(虎)と呼ばれた盗賊団の頭目、谷豊が日本軍のマレー作戦に協力してあげた「武勲」とその死を報じた。軍は宣伝のため谷を殉国の英雄に仕立て上げ、のち映画などで偶像化された。 *リンクします『怪傑ハリマオの歌』三橋美智也
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アメリカは、4/18、太平洋上の空母から陸軍爆撃機を飛ばし、東京・名古屋・神戸を爆撃した。この東京初空襲は、政府・陸・海軍当局に衝撃を与えた。そして日本軍は、この爆撃機の搭乗員で、中国で捕らえられたアメリカ人8人の内3名を処刑した。この捕虜に対する処刑によって、アメリカ一般市民は日本人に対する憎悪をさらに募らせた。
●飛行機から目隠しをされて降ろされる飛行士の写真は、アメリカの新聞にも大きく掲載され、日本人に対する憎しみをさらに増幅させたといわれる。
(映像出典)「秘録太平洋全史」日本映画新社 1975年製作
※(YouTube動画、サイズ8.16MB、1分18秒)
●この時期、東条内閣が当面する最大の政治課題は、第2次近衛文麿内閣が先送りしていた衆議院議員選挙だった。開戦後日本軍は進撃を続け、マニラ占領、シンガポール陥落などにより国民は戦勝気分にわき上がっていた。東条内閣は、ここで総選挙を行えば、国家総力戦体制を強化するうえで絶好のチャンスと考えたのである。
東条首相は、大政翼賛会(昭和15年10月に結成)に不満を持ち、陸軍省の武藤章軍務局長らを中心に、昭和17年1月16日、大日本翼賛壮年団(翼壮・団長安藤紀三郎大政翼賛会副総裁)を創設させた。これを実践部隊として、議会を政府に協力させる体制づくりのための選挙を行ったのである。
東条内閣は、翼賛政治体制協議会(翼協・会長阿部信行陸軍大将)という「政治結社」を設立し、政府に代わり国務遂行に都合のいい人物を推薦することにした(推薦候補制度の導入)。推薦候補は4月9日までに決まったが、このとき活用されたのが「衆議院議員調査表」だった。
これは、選挙に向けて警察が現職議員を調査し、内務省がまとめたもので、現職議員は甲(率先して国策を遂行)、乙(積極活動はしないが国策を支持)、丙(反国策的、反政府的言動を続け思想的に不適格)に3分類に評価されたものである。
4月4日に選挙が公示され、466議席に対して推薦候補466人、非推薦候補613人が立候補し普通選挙始まっていらいの激戦となった。政府は翼賛会・翼壮・在郷軍人会・大日本婦人会・町内会・隣組などのあらゆる組織を通じ推薦候補を後押した。
選挙期間中、非推薦候補は政府や軍部、警察の指導する、あらゆる組織を動員した選挙妨害をうけた。非推薦候補者とその支持者に対しては「非国民」呼ばわりや「配給を停止する」など露骨な選挙干渉が行われた。
選挙運動は全体に低調だった。しかし、有権者が組織的にかり出されたため、投票率は全国平均83.1%と高かった。開票の結果、推薦候補は381人、当選率81.8%に達し、新人の当選者は195人となった。また、翼壮は40余人の団員を当選させ、一大政治勢力となった。
非推薦候補は激しい選挙干渉にもかかわらず85人が当選した。主な当選者には旧民政党総裁の町田忠治、同交会の安藤正純、鳩山一郎、尾崎行雄、旧社会大衆党の浅沼稲次郎、西尾末広らがいた。
翼協は総選挙後の5月5日に解散し、20日、総力戦体制を推進する翼賛政治会(翼政会・会長阿部信行)が発足した。議会からは尾崎行雄ら刑事訴追者8人を除くほぼ全員が参加し、ここに東条内閣にたいして「イエス」と言うだけの「翼賛議会」が成立した。
※この「憲政の神様」といわれた尾崎行雄(当時82歳)が訴追された事件とは、非薦候補だった尾崎がおこなった盟友の応援演説(4/12)で、その内容が、不敬罪に当たるとして起訴された事件のことである。昭和17年12月、尾崎は懲役8ヶ月、執行猶予2年の判決を受けたが上告、昭和19年6月無罪となった。
1942年(昭和17年)の出来事 | |
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1942年(昭和17年)の出来事 政治・経済・事件・災害・文化
「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊より抜粋 |