1941年(昭和16年)②海軍、対米英戦反対。10月東条英機内閣成立。

2022年6月27日第2次世界大戦

海軍は、太平洋戦争開戦後の12/16、世界最大の戦艦大和を竣工させた。
 アメリカ相手の戦争では、陸軍ではなく海軍によってその勝敗が決まる。海軍が最後まで対米英戦に反対したのは、自国の海軍力ではアメリカに勝てる見込みがなかったからである。このページ②では、最初にヨーロッパの概況と独ソ戦の戦況を述べ、国内では東条英機内閣が成立した頃(11月頃)までを記述した。
 海軍は最後まで対米英戦に反対したが、最後にはついに開戦の決定に従う。陸軍を中心とする開戦論の前提は、ドイツ軍の勝利であり不敗であることにあった。だが、その神話はモスクワ攻防戦で崩れた。12/5無敗のドイツ軍はソ連軍の大反撃によって、モスクワを目前に敗退した。その同じ時、極東の日本はハワイ真珠湾攻撃を行い、世界大戦の幕を開いた。
 前年の昭和15年9月、近衛首相は、3国同盟に反対していた海軍が急に賛成に変わったことに不信を感じ、山本五十六連合艦隊司令長官を荻窪の荻外荘に呼んだ。そして日米戦が起こった場合の海軍の軍事的な見通しを聞いた。山本は次のように答えた。

「それは、是非やれと言われれば、初め半年や1年は、ずいぶん暴れて御覧に入れます。しかし2年、3年となっては、全く確信は持てません。3国同盟が出来たのは致し方ないが、かくなった上は、日米戦争の回避に極力御努力を願いたいと思います」

(上写真)昭和16年10月30日、宿毛湾沖標柱間で全力公試運転中の大和。(出典)「ハンディ版日本海軍艦艇写真集①」戦艦大和・武蔵・長門・陸奥。編者・雑誌「丸」編集部。光人社1996年刊

★1941年(昭和16年)ヨーロッパの概況と、ドイツ軍によるモスクワ進軍と撤退。

1941年(昭和16年)12月、ソ連軍の大反攻が開始され、ドイツ軍の撤退が始まる。6月のドイツ軍のソ連侵攻(バルバロッサ作戦)に呼応して7月、日本は満州で「関東軍特殊演習」を行った。もしこの時、関東軍がソ連に侵攻すれば(ドイツから要請されていた)、モスクワは陥落していただろう。だが日本は、南方進出を選択した。ソ連のスパイ・ゾルゲらの工作が功を奏したのかもしれない。あるいは、陸軍が、1939年のノモンハン事件(大規模な日ソ国境紛争)でソ連陸軍の機動力に衝撃を受け、ソ連軍との戦闘を躊躇したのが理由かもしれない。

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国内政治と社会年表。1941年(昭和16年)7/28、日本陸・海軍部隊、南部仏印に進駐を開始。

●7月18日成立した第3次近衛内閣は、対ソ参戦強硬論を主張する松岡洋右外相を排除する目的で組閣した。そして対米交渉の成立に強い期待を持ったが、7月末の日本軍の南部仏印進駐によって、アメリカに強硬な報復措置をうけた。近衛首相は事態を好転させるため、ルーズベルト大統領との直接会談を望んだが、かなわなかった。
そして9月6日、御前会議は外交交渉が成立しない場合、10月上旬、対米英蘭との開戦と決定した。「帝国国策遂行要領」
ここでは『昭和2万日の全記録』講談社を中心に要約引用し、朝日新聞の紙面紹介を行った。

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★海軍と山本五十六連合艦隊司令長官

海軍の山本五十六連合艦隊司令長官は、開戦の劈頭にアメリカ太平洋艦隊の基地であるハワイ真珠湾をたたくという奇襲作戦を考え出した。しかも誰も考えつかなかった航空兵力の集団使用(空母群)によって先制攻撃をしかけるというものだった。
この航空機による戦艦撃沈は、1940年11/11に先例があった。これはイギリ海軍が空母イラストリアスから、ターラント港(イタリア南端)に停泊中のイタリア艦隊を攻撃したもので、戦艦3隻が撃沈され、艦隊の半数が航行不能となった。これによりイギリスは東地中海の制海権を回復した。しかしイギリスはこの勝利が航空戦力によるものだとは気づかなかった。
山本は、早くから航空戦力の優位性に気づき、このハワイ真珠湾攻撃(12/8)、つづいてマレー沖海戦(12/10)で、実戦航行中の最新鋭イギリス戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパレスを航空機によって撃沈して実証した。

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★1941年(昭和16年)10/18、東条英機内閣成立。

10月18日に成立した東条英機は、9/6の「帝国国策遂行要領」を「白紙還元」して再検討せよ、との天皇の御諚(言葉)を木戸内大臣より伝えられた。東条首相は国策の再検討を行い、11/5の御前会議は正式に新たな「帝国国策遂行要領」を決定した。だがその内容は、「開戦を12月初頭とし、外交交渉は12/1午前0時まで継続する」という、武力発動の時期をさらに明確に定めたものになった。

(1)武力発動の時機を12月初頭と定め陸海軍は作戦準備を完整す

開戦が決まったのである。

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第2次世界大戦

Posted by hoshino