1941年(昭和16年)12/8、日米英開戦、太平洋戦争勃発①「戦陣訓」全軍に示達

第2次世界大戦

6/22ドイツ、ソ連に侵攻する。日本はその2ヶ月前、日ソ中立条約を結ぶ。
日本は3国同盟にソ連を加えた4カ国で、アメリカに対抗しようと夢想した。だがドイツのソ連侵攻でその目論見は崩れ去った。ついに日本はアメリカ・イギリスと戦争する道を選択する。世界大戦のはじまりである。
●このページ①では、6/22の独ソ戦開始までの半年間を記述した。
(上写真 部分)真珠湾奇襲攻撃で燃え上がる米艦船 1941年12月7日 撮影者不明 ハワイ・真珠湾(出典)「目撃者」朝日新聞社1999年刊

目次
昭和16年主要項目
★「戦陣訓」全軍に示達。国民道徳「臣民の道」刊行。日本軍は、日中戦争の長期化によって、兵士の士気の低下と、軍紀、風紀の乱れを正すため「戦陣訓」を作成した。兵士が準拠すべき道徳訓である。
また「臣民の道」は、文部省教学局が戦時下の国民道徳を示したもので、国民学校・中等学校・高等専門学校に配布した。ここでは、「戦陣訓」は全文を、「臣民の道」は序言だけを引用した。この「臣民の道」は、天皇を頂点に置く全体主義国家が、今までの欧米による秩序ではなく「新秩序建設」の名のもとに、「個人主義」「自由主義」「民主主義」を圧殺しようとした大日本帝国の論理である。
★窮乏化する国民生活と封殺される言論・思想統制。生活必需品も配給制(切符制)となった。そして国民には、国家が求める情報のみが与えられ、報道・出版には徹底した弾圧が加えられた。
★国内政治・社会年表
昭和16年《1941年》

第2次近衛内閣→第3次近衛内閣→東条英機内閣
第2次近衛内閣の松岡外相は、日ソ中立条約の締結に奔走した。だが独ソ戦が始まると対ソ参戦を強硬に主張して近衛らと対立した。また松岡外相は日米交渉に反対し、その強硬意見のため、ハル国務長官は松岡外相を非難するほどであった。近衛内閣としては、日米交渉の妥結に期待もかけていたのである。そして7/16近衛内閣は総辞職し、第3次近衛内閣が成立した。松岡外相を排除し日米交渉を進展させようとしたのである。
★ドイツ軍、ソ連侵攻。
6/22ドイツ軍「バルバロッサ作戦」開始。松岡外相は即時対ソ参戦を主張。7/7大本営、関東軍特別演習「関特演」のための第1次動員下命。(対ソ戦を目的とした陸軍始まって以来の大動員)

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★「戦陣訓」全軍に示達。国民道徳「臣民の道」刊行。

●この「戦陣訓」の作成には、陸軍省軍務課と教育総監部があたった。原案を幼年学校、士官学校、陸軍大学校の教官、前線の部隊長や幹部たちに示し、彼らの意見を集約して昭和15年秋にはほぼ完成した。軍報道部はこれを、国体観については井上哲次郎、和辻哲郎らの学者に、文章表現については島崎藤村、佐藤惣之助らの作家・詩人に検討、加筆を依頼した。こうして「戦陣訓」は昭和16年1/8、陸軍大臣東条英機によって全軍に示達された。
この中で「軍人として死に臨む覚悟」を強調したのが、下段のところである。

第七 死生観(しせいかん)
死生(しせい=死ぬにしても生きるにしても)を貫くものは崇高なる献身奉公の精神なり。
生死を超越し一意(いちい=ひたすら)任務の完遂に邁進すべし。身心(しんしん)一切の力を尽くし、従容(しょうよう=ゆったりと落ち付いて)として悠久の大義に生くることを悦びとすべし。
第八 名を惜しむ
恥を知る者は強し。常に郷党(きょうとう=郷里の仲間)家門(かもん=一家一門)の面目を思ひ、愈々(いよいよ)奮励して其(そ)の期待に答ふべし。
生きて虜囚(りょしゅう=捕虜)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍(ざいか)の汚名を残すこと勿(なか)れ。

「戦陣訓」全文
戦陣訓(せんじんくん) 序

夫(そ)れ戦陣は、大命に基き、皇軍の神髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち、遍(あまね)く皇道を宣布(せんぷ)し、敵をして仰いで御稜威(みいづ=御威光)の尊厳を感銘せしむる処なり。されば戦陣に臨む者は、深く皇国の使命を体(たい)し、堅く皇軍の道義を持し、皇国の威徳を四海(しかい)に宣揚せんことを期せざるべからず。
惟(おも)ふに軍人精神の根本義は、畏(かしこ)くも軍人に賜はりたる勅諭(ちょくゆ)に炳乎(へいこ=光り輝くさま)として明かなり。而(しか)して戦闘並に訓練等に関し準拠すべき要綱は、又典礼の綱領に教示(きょうし)せられたり。然るに戦陣の環境たる、兎(と)もすれば眼前の事象に捉はれて大本を逸し、時に其の行動軍人の本分に戻(もと)るが如きことなしとせず。深く慎まざるべけんや。乃(すなわ)ち既往(きおう)の経験に鑑み、常に戦陣に於て勅論を仰ぎて之が服行(ふくこう=服従して実行する)の完璧を期せむが為、具体的行動の憑拠(ひょうきょ=よりどころ)を示し、以て皇軍道義の昂揚を図らんとす。是(これ)戦陣訓の本旨とする所なり。

下

*リンクします「戦陣訓に関する件 通牒」→国立公文書館アジア歴史資料センター

「臣民の道」序言のみ引用

●「臣民の道」は下段でリンクしておいたので、全文はそちらを読んでください。この「臣民の道」は、日本の古代の歴史から話を解いて臣民(国民)がどうあるべきかを説いている。神話で日本を建国した天皇が、神として世界までも統一するという論理は、まるで中世社会の宗教論のようである。この天皇制による支配を「国体」として、「世界新秩序建設」「大東亜共栄圏建設」に広げていくという思想は、以前より帝国陸軍の思想であったように思われる。(石原莞爾の「世界最終戦論」にも同じような一節がある)

「臣民の道」序言

 序   言
 皇国臣民の道は、国体に淵源し、天壌無窮の皇運を扶翼し奉るにある。それは抽象的規範にあらずして、歴史的なる日常実践の道であり。国民のあらゆる生活・活動は、すべてこれひとへに皇基を振起し奉ることに帰するのである。
 顧みれば明治維新以来、後が国は広く知識を世界に求め、よく国運進展の根基に培って来たのであるが、欧米文化の流入に伴なひ、個人主義・自由主義・功利主義・唯物主義等の影響を受け、ややもすれば我が古来の国風に悖り、父祖伝来の美風を損ふの弊を免れ得なかった。満州事変発生し、更に支那事変起るに及んで、国民精神は次第に昂揚し来つたが、なほ未だ国民生活の全般に亙って、国体の本義、皇国臣民としての自覚が徹底してゐるとはいひ難きものがある。ともすれば、国体の尊厳を知りながらそれが単なる観念に止まり、生活の実際に具現せられざるものあるは深く憂ふべきである。
かくては、或が国民生活の各般において根強く浸潤せる欧米思想の弊を芟除し、真に皇運扶翼の挙国体制を確立して、曠古の大業の完遂を期することは困難である。ここにおいて、自我功利の思想を排し、国家奉仕を第一義とする皇国臣民の道を高揚実践することこそ、当面の急務であるといはねばならぬ。

(石原莞爾 「世界最終戦論」昭和15年刊の一節)
「・・・悠久の古より東方道義の道統を伝持遊ばされた天皇が、間もなく東亜連盟の盟主、次いで世界の天皇と仰がるるは吾等の堅い信仰であります。・・・・」
リンクします「臣民の道」、「国民防空書」国民新聞社出版部1941年刊国立国会図書館デジタルコレクション

★窮乏化する国民生活と封殺される言論・思想統制。

4/1米穀配給通帳制・外食券制を実施

●4/1国家総動員法に基づく「生活必需物資統制令」が公布施行された。これにより、生活必需物資の生産・配給・消費・価格などを統制できるようになった。そして本令によって、切符制による配給統制に法的根拠が与えられ一般化していった。
 こうして4/1、食料品では初の割当通帳制による米の配給が、東京・大阪・名古屋・京都・神戸・横浜の6大都市で実施され、12月には全国の99%の地域で実施されるようになった。ただし切符による配給制度は、不足する必需品を無料でもらえるのではなく、割り当てられた切符などに応じて購入ができるというものだった。
●日中戦争の長期化は、生活必需物資の不足と物価の高騰をもたらした。この原因は、すべての資源(人・モノ・カネ)を軍需物資生産と関連する産業にまわしたからである。そして外貨を稼げるものは国内での消費を抑え輸出にまわした。昭和13年に原材料に初の切符制を導入し、国内市場から綿製品(輸出品の主力)が姿を消した。昭和14年には政府は物価抑制のため、国内の全ての価格(物価・賃金等)を凍結した「9.18停止令」。
ただ軍需産業を含め、金回りの良い人々や、富裕層もいたわけで、彼らに対する締め付けと庶民の不満をそらすために、昭和15年7/7「贅沢品の製造販売制限規則」(7.7禁令)が施行された。だがこのような法律による統制は、闇取引(闇価格の高騰)・買いだめ・売り惜しみ、横流しなどの横行を許した。物資の不足は、配給の質と量の低下を生み、国民生活はさらに窮乏化していった。特に17年2月からの衣料切符は、1年間の有効期間内に必要なものが購入できる建前だったが、衣料原料不足により17年7月から有効期限を19年1月までに延長した。購入できる現物が無くなってしまったのである。
●下の一覧は、「主な切符と配給制度」(出典:『昭和2万日の全記録』講談社1990年刊)

主な切符と配給制度
開始年月物資名切符の発行形態割当量
昭和15年6月砂糖家庭用砂糖回数購入券(家庭用品購入通帳/年2回)0.6斤(1人)/日(家族14人以下、15人以上は0.35斤/1人を追加)
昭和15年6月マッチマッチ回数購入券(家庭用品購入通帳/年2回)小型1個/2カ月(家族1~3人、家族4~6人)
大型1個/2カ月(家族7人以上)
昭和16年4月米穀家庭用米穀通帳/年1回 120g/日(1~5歳)
200g/日(6~10歳)
330g/日(11~60歳・普通人)
300g/日(61歳以上・普通人)
昭和16年4月米穀(外食者)外食券/月1回(1日分3枚)110g/日(普通人)
130g/日(普通増量の労働者)
190g/日(特別増量の労働者)
昭和16年4月小麦粉家庭用小麦粉購入券(家庭用品購入通帳/年2回)50匁/日(家族1人)
100匁/日(家族2~3人)
150匁/日(家族4~7人)
200匁/日(家族8~15人)
昭和16年4月酒類家庭用酒類通帳(家庭用品購入通帳/年2回)酒4合/6ヶ月(1世帯)
ビール2~4本/6ヶ月(1世帯)
昭和16年5月木炭家庭用燃料通帳/年1回8俵/年(ガス設備の有る世帯)
14俵/年(ガス設備の無い世帯)
昭和16年6月食用油家庭用食用油購入券(家庭用品購入通帳/年2回)2合/3ヶ月(家族1人)
3合/3ヶ月(家族2~3人)
5合/3ヶ月(家族4~7人)
7合/3ヶ月(家族8~15人)
昭和16年11月魚類家庭用魚類購入票/年2回丸30匁・切り身20匁/日(1人)が標準(入荷量により増減)
昭和17年1月家庭用塩購入券(家庭用品購入通帳/年2回)200g/月(家族19人以下、20人以上は150g/人を追加)
昭和17年2月衣料品乙種普通衣料切符(点数制総合切符/年1回)100点/人(背広の仕立て・31点)
昭和17年2月みそ・しょう油家庭用味噌醤油通帳(家庭用品購入通帳/年2回)味噌183匁/月(1人)
しょうゆ3合7匁/月(1人)
昭和17年5月パンパン類購入券(単票)/月1回1食(菓子パン3個)/月
昭和17年11月青果物家庭用蔬菜購入票/年2回60~70匁/月(1人)が標準(入荷量により増減)
昭和18年6月洋傘商工省指定洋傘購入券(単票)/随時1本(1人)
昭和18年6月病人用氷購入券(単票)/申請1貫匁(1人、2貫匁まで追加可)

(出典)東京市役所『東京市切符制沿革史』、東京空襲を記録する会『東京大空襲・戦災史』第5巻、『市政週報』昭和16年6月7日号。(注)開始年月は東京市を例にとった。

封殺される言論・思想統制。

●昭和16年10月、情報局は各新聞社幹部との懇談の席上次のような注意指導を行った。「・・日米交渉の結果、万一の場合に(戦争)突入するやも知れぬ。この場合に国民に最後のハラを決めて置かねばならない」という記事を掲載願いたい。「・・英米にこびるような記事は絶対不可、厳重に取り締まる」。(朝日新聞の90年より)
●昭和16年1/11、「新聞紙等掲載制限令」によって、国家にとって都合の悪いことは全て掲載禁止とされた。16年2月、情報局第2課は、「中央公論」「改造」などの総合雑誌社に対して、自由主義的な学者、評論家の執筆禁止者リストを内示した。3月、内務省検閲課は、岩波書店や改造社の刊行物の中から、階級闘争や私有財産にかかわる459点を発禁処分とした。同じく3月、情報局は軍に協力的でない中央公論社、改造社、日本評論社に対して、発行する図書と雑誌の購読者カードの提出を通達した(購読者にも弾圧の手が伸びる)。さらに5月、情報局は総合雑誌出版社に対し、毎月10日までに編集プランと執筆予定者の事前提出を命じた。
●12月の日米英開戦の前に、政府と軍部は言論統制(弾圧)の体制を固めていったのである。

★国内政治と社会年表。1941年(昭和16年)頃。『昭和2万日の全記録』講談社を中心に要約引用し、朝日新聞の紙面紹介を行った。

年・月1941年(昭和16年)
1941年
昭和16年1/1
午前9時「国民奉祝の時刻」

●翼賛会国民生活指導部決定。サイレンなどを合図に宮城遥拝等を行う。
●全国の映画館で、国策の浸透、戦意高揚のため、ニュース映画の強制上映が実施される。
前年の10/1から6大都市で実施されていた日本ニュース映画社の「日本ニュース」の強制上映が、1月1日から全国に拡大された。「社団法人日本ニュース映画社」の新年の挨拶から始まる。

「謹みて皆様と共に 紀元二千六百一年の 輝く新春を壽(ことほ)ぎます」
1941年
昭和16年1/2
日蘭第1回会商会談、バタビアで開催。

●芳沢蘭印(オランダ領東インド=蘭領東印度)特派大使は、バタビア(=インドネシア首都ジャカルタの旧名)で、蘭印総督チャルダと対蘭印交渉を開始する。
日本はオランダ領東インドに対して、石油やスズなど重要物資15品目の対日供給確保を要求して交渉を開始した。オランダ本国はドイツに占領されていたが、蘭印はイギリスの亡命政府の支配下にあり植民地軍が駐在していた。
●オランダ政府は、日本を通してドイツへの物資流出を警戒し、また蘭印資源を重視する米英もオランダを支援して、日本の進出を牽制した。2/13芳沢特派大使は「蘭印石油輸入交渉は実力的解決以外に方法がない」と報告した。結局、交渉は不調に終わり、6/17日本側代表部は引き上げた。

1941年
昭和16年1/3
中国昆明と滇緬(てんめん)公路(=ビルマ公路)を爆撃

●戦略連合の海軍航空部隊、仏印から出撃、2隊に分かれて、中国の援蒋ルートを爆撃する。

1941年
昭和16年1/4
ルーズベルト大統領、「4つの自由」を提唱

●ルーズベルト大統領は、恒例の一般教書演説で、民主義国家を援助することを発表し、最後に「4つの自由」を提唱した。内容は下に引用したが、下段で「About THE USA」「米国の歴史と民主主義の基本文書大統領演説」の「四つの自由(1941 年)」へリンクした。アメリカ合衆国政府の公式な解説がある。

「われわれが安泰たらしめんと願う、きたるべき日々において、われわれ人間にとって欠くべからざる4つの自由の上に打ちたてられた世界を望むのである。
第1に、全世界にあまねき、言論および表現の自由である。
第2に、全世界にあまねき、すべての人間に対しての、みずからのしかたで神を敬う自由である。
第3に、全世界にあまねき、欠乏からの自由ーすなわち現実の世界にあてはめれば、すべての国家に対しその住民に健全な平和生活を送ることを保証する、経済上の相互理解ということである。
第4に、全世界にあまねき、恐怖からの自由ーすなわち現実の世界にあてはめれば、世界的規模における徹底的な軍縮をおこない、いかなる国もその近隣に対して実力行使による侵略をおこないえないようにすることである。
これは遠い来世の幻影ではない。それはわれわれ自身の時代に達成可能な世界の、明確な基礎なのである。このような世界は、独裁者たちが爆弾の炸裂によって創造しようともくろむ、専制的ないわゆる新秩序とはまったく反対のものである・・・」
(出典:「世界の歴史」中央公論社1962刊)
*リンクします「四つの自由(1941 年)」「About THE USA」
1941年
昭和16年1/7
中国・皖南(かんなん)事件発生

●国民党軍が、突然、新四軍(共産党)を包囲攻撃し、7日間にわたった戦闘の末、新四軍は壊滅させられる。国民党側は相手側を反乱軍とすれば、共産党側は国民党によるクーデターと非難した。真相は謎のままだが、国民党軍と共産党軍は国共合作とはいえ軋轢があったに違いない。

1941年
昭和16年1/8
東条陸相「戦陣訓」を全軍に示達

●この章の最初で「戦陣訓」の全文を引用した。また7/21に文部省教学局の刊行した「臣民の道」は序言だけを引用した。アメリカのわかりやすい「4つの自由」と比べて、当時の日本人は、何と専制的で絶対主義的な宗教観念を強制されていたことか、愕然とするものがある。残念ながら日本人は、恐るべき専制と厳しく思想統制された暗黒社会を望んでいたのだろうか? 大東亜共栄圏(アジアの多様な民族が共に栄える世界)を本当に望んだのなら、違う結果があったはずである。

1941年
昭和16年1/15
ハル米国務長官、対日批判演説を行う。

●ハル国務長官は、下院外交委員会で、「日本の新秩序なるものは一国による支配」と対日批判を行う。

1941年
昭和16年1/16
4つの青・少年団が統合され、「大日本青少年団」を結成。

●この4つの団体とは、大日本連合青年団、大日本連合女子青年団、大日本少年団連盟、帝国少年団連盟である。統合された大日本青少年団は、国家の強力な指導の下に置かれ、男女青少年の学校外における全生活を統制した。団長は文部大臣、地方団の団長には地方長官が就任し、尋常小学校3年生から、25歳までの男女勤労青年の全員を団員とした。

1941年
昭和16年1/21
松岡外相、大東亜共栄圏に関して演説。

●外相、蘭印・仏印・タイを大東亜共栄圏に含むと演説、これに対して1/30オランダ公使は抗議文を手交する。

1941年
昭和16年1/22
閣議、人口政策確立要項を決定。

●結婚の早期化や出産を奨励し、「1家庭に平均5児を」と呼びかける。

1941年
昭和16年2/1
職業紹介所が国民職業指導所と名称を変更

●全国378ヵ所の職業紹介所が名称を変更した。前年の「7.7禁令」による贅沢品の製造販売の禁止は、全国の中小企業に大きな打撃を与えた。そのため、職業紹介所は中商工業者の転業指導を中心となったのである。

1941年
昭和16年2/7
閣議、「大政翼賛会」は政治結社ではない、と規定。

●昭和15年10月に発足した「大政翼賛会」は、近衛文麿が目指した下からの国民運動体ではなく、官僚主導のものに変質していた。総裁は首相、下部の支部長は知事が兼任するという、上意下達の官製運動機関となってしまっていた。
●だが、大政翼賛会の事務局が近衛側近によって占められていたことから、陸軍、観念右翼、官僚、貴族院、財界から「赤」(共産主義)攻撃が加えられた。近衛のブレーンとなったのは「昭和研究会」で、そうそうたるメンバーで構成され、多彩な人士が出入りして知識人の大きな研究・活動拠点となっていた。
●昭和15年12月21日、近衛は批判をかわすため、法相と内相を更迭し、皇道派の柳川平助陸軍中将を法相に、観念右翼の平沼騏一郎を内相に起用した。平沼は第76議会(昭和15年12月)で、「翼賛会は政治結社に非ず、公事結社であります。例えば衛生組合の如きものです」と答弁していた。
●だが大政翼賛会に対する執拗な「赤」攻撃が続いていたのである。

1941年
昭和16年2/8
衆議院本会議、国防保安法案を可決(3/7公布、5/10施行)

●これは、国家機密保護を目的とし、外国への機密漏洩を防ぐことを目的とした法律。御前会議・枢密院会議・閣議などに付された外交・財政・経済上の議事などの漏洩や探知、治安・経済活動の妨害などを処罰対象とし、最高刑を死刑とした。また検事に広範な強制捜査権が与えられた。

1941年
昭和16年2/11
満映スター李香蘭、東京日劇に出演。

●この日、東京丸ノ内の日本劇場では紀元節の奉祝記念・日満親善と銘打った「歌う李香蘭」ショーが開催された。9時半開演を前に、早朝6時ごろから観客が並び始め、8時には数千人の行列が劇場を3重に取り囲んで、大騒動となった。
(写真-朝日新聞社)「日劇7回り半事件」切符を買えない人々が騒ぎ出したため、丸の内署の署長は。「忠勇なる将兵は大陸の広野に戦っているのであります・それを思えば諸君、今日のこの有様は・・・」と制した。しかし、野次馬も加わり、付近は終日混乱した。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
●「李香蘭」数奇な運命を駆け抜けた日本人。(昭和13年に、あこがれの祖国日本の地を踏んだときの印象語る山口淑子・参議院議員当時)

「まだ見たことのない祖国日本は、憧れの的でした。日満親善女優使節として初めて日本に行けることになった時は、とてもうれしくて、興奮してね。体中喜びいっぱいにして下関に着いたのね。でも上陸しようとしたら官憲に『オイッ』と呼び止められた。『なんだお前、日本人か! 日本人は一等国民だぞ! 三等国民のチャンコロの服着て、支那語をしゃべって恥かしくないのか!』と怒鳴られたんですよ。
もう頭の中が白くなって・・・・憧れの日本がこれか、日本人は差別をもっているのか。一緒にきた同僚の女優孟虹(モンホン)にも、とても恥かしくて事情が説明できない。それまで五族協和といわれれば、とてもいいことだと信じていたのね。でも日本人は本当はそう思っていない。とてもショックでした」
(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1941年
昭和16年2/12
「砂漠の狐」ロンメル将軍、リビア戦線に到着

●リビア戦線で苦戦を続けるイタリア軍を救援のため、ドイツの国民的英雄のロンメル将軍がトリポリに到着した。
前年イタリアは、ドイツの大攻勢をみてギリシャ(1940年10/28)や、北アフリカに派兵していた。ギリシャはイギリスに救援を求め、翌日イギリス軍はクレタ島に上陸した。そして1940年12月、イギリス軍はエジプトから進軍を開始し、1941年1月初めにはリビア国境を突破し、つぎつぎと攻略をつづけトリポリを目前にした。
●2月にトリポリに到着したロンメルは、翌月に到着した戦車部隊によって反撃を開始し、わずか2週間のうちにイギリス軍をエジプト国境まで押し返した。以後1年半以上にわたってロンメルは、兵力で圧倒的に勝るイギリス軍に対し優勢を保ち「砂漠の狐」とよばれた。

1941年
昭和16年2/21
第20回貯蓄債券・第6回報国債券の売り出し開始。

●日本政府は、莫大な軍事費を賄うため、膨大な公債を発行していった。これは「日銀引受による公債発行」といわれ、この制度の問題は、通貨がそのまま発行されることにあった。もし日銀が引受けた国債の民間への売却がうまくいかなかったり、政府が過度に運用を続ければ、通貨の膨張を生み、悪性インフレに進む危険性があるということである。
●それを防ぐために、政府は国債の民間での消化を促すため、庶民に小口の債券を販売した。それが貯蓄債券、報国債券の売り出しだった。そして国債の売り出し機関を、デパートやたばこ屋にまで拡張し、町内会や隣組を通じて強制的に割り当てるようにした。
図は「昭和財政史6巻・国債」より「第1表国債増減一覧」より年度別の、(年度首現在額)と(発行額+償還額の差引発行額)と(年度末現在額)を抜き出して作図したものである。国債の新規発行額は、昭和12年度の22億円から、昭和16年度には102億円と激増していった。

1941年
昭和16年3/3
国家総動員法改正公布(5/20施行)

●統制強化・罰則規定強化など政府の権限が大幅に拡張される。

1941年
昭和16年3/10
治安維持法改正公布(5/15施行)

●適用範囲を拡大し、罰則強化や予防拘禁制などを追加する。

1941年
昭和16年3/11
米国で武器貸与法が成立

●アメリカは連合国向けの武器援助を定めた「武器貸与法」を成立させた。これは大統領が必要と認めた場合に武器を貸与できるものとした。対象国は最初にイギリス、6月に中国、11月にはソ連と次第に拡大し、多くの連合国に武器貸与を認めた。
●第2次大戦中の貸与総額は500億ドルを超え、連合国の勝利の一因となった。アメリカは「民主主義国の兵器廠」となったのである。

1941年
昭和16年4/1
国民学校が発足

●明治以来70年にわたって親しまれた「小学校」が「国民学校」に変わった。教育体制を「皇国民の鍛錬のため」の新しい教育体制へと変えたのである。

1941年
昭和16年4/6
ドイツ、バルカン半島を攻略を開始

●ドイツは、宣戦布告なしにユーゴスラビアの首都ベオグラードを空爆。またユーゴスラビアからギリシャへ侵攻を開始した。ユーゴスラビアは前月、3国同盟加入予定だったが、加入反対派がクーデターを起こし新政府を樹立していた。そこでヒトラーは報復行動に出たのである。
●4/17ユーゴスラビア降伏。ギリシャも4/27アテネが陥落し、5月には全土が占領された。
(新聞)昭和16年4/7の朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1941年
昭和16年4/6
エチオピア、首都アジス・アベバをイタリアから解放

●イギリス軍の支援を受け進撃を続けていたゲリラ軍が、首都アジス・アベバを解放した。これによりエチオピアは5年ぶりに独立を回復した。エチオピアは1936年5月、首都アジス・アベバが陥落し、イタリアによって併合された。その時皇帝はなんとか脱出しイギリスに亡命していた。

1941年
昭和16年4/7
食肉不足のため、代用食肉の販売申請が続く

●犬、カエルなどの代用食肉の申請が続く警視庁衛生課に、アザラシの肉が申請される。

1941年
昭和16年4/8
企画院事件

●農林省農政課長和田博雄、治安維持法違反で検挙される。これは企画院事件といわれ、総力戦体制整備のため戦時経済政策を立案した企画院に対して、平沼騏一郎ら新体制運動に反発する勢力が「赤」攻撃を行ったもので、まったくのデッチ上げ事件だった。企画院関係者ら17名が検挙されたが、敗戦後昭和20年9月に一審判決が下り、1人を除いて全員無罪となった。

1941年
昭和16年4/13
日ソ中立条約調印(4/25批准発効)

●日ソ中立条約の調印式は、モスクワのクレムリンで、日本側代表が松岡洋右外相・建川美次駐ソ大使、ソ連側代表はモロトフ人民委員会議・議長兼外務人民委員によって行われた。
(写真)4/13午後2時から、クレムリンでの調印する松岡外相。右端スターリン書記長、その横がモロトフ人民委員会議議長。調印後スターリンは異例にも松岡一行を見送りにモスクワのヤロスヴラリ駅に現れて、外交団、記者団を驚かせた。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
●この松岡外相による日ソ中立条約締結の意図したことは、日・独・伊・ソ連の4国が連携し、力によって米国の参戦を防ぐことであった。日本の当面の目標は、第1に日中戦争終結、第2に米国参戦防止であったと思われる。
●ところがドイツは、2カ月先の6/22に独ソ不可侵条約(1939年8/23締結)を一方的に破りソ連に侵攻を開始した。この時点(4/13)でドイツのソ連侵攻準備はあらかた完了しつつあったはずである。松岡外相を含め日本はその情報を掴んでいなかったのだろうか。またドイツは英米がソ連を援助しないものと考えていたのだろうか。少なくとも日本は綱渡りをしていたことはまちがいない。
(新聞)昭和16年4/14の朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●下は、「週報」情報局編輯(昭和16年4月23日号刊第237号)から引用した日ソ中立条約である。そこには各国の反響として、国民政府(重慶政府)がソ連からの援助を失うかもしれないという危惧や、この新条約によって日本は、ただちに南進政策を展開し太平洋戦争を引きおこすだろう、という評もあった。英国は、後顧の憂い(満州へのソ連の脅威)を絶った日本が、太平洋上に勢力を展開してくるということを最も懸念しているともある。

(日ソ中立条約)
大日本帝国およびソヴィエト連邦は、両国間の平和および友好の関係を鞏固ならしむるの希望に促され中立條約を締結することに決し左の如く協定せり。

第一條 両締約国は両国間に平和及び友好の関係を維持し且つ相互に他方締約国の領土の保全及び不可侵を尊重すべきことを約す

第二條 締約国の一方が一または二以上の第三国よりの軍事行動の対象となる場合には他方締約国は該紛争の全期間中、中立を守るべし
 
第三條 本條約は両締約国においてその批准を了したる日より実施せらるべく且つ五年の期間效力を有すべし、両締約国の何れの一方も右期間満了の一年前に本條約の廃棄を通告せざるときは本條約は次の五年間自動的に延長せられたるものと、認めらるべし

第四條 本條約は成るべく速かに批准せらるべし、批准書の交換は東京において成るべく速やかに行はるべし

なお、右條約の調印と同時に、両国政府は次の要旨の声明を行った、とある。

「大日本帝国政府およびソヴィエ卜連邦政府は両国間に締結せられたる中立條約の精神に基づき両国間の平和及び友好関係を保障するため、大日本帝国は蒙古人民共和国の領土の保全及び不可侵を尊重し、ソヴィエト連邦は滿洲帝国の領土の保全及び不可侵を尊重す」
1941年
昭和16年4/15
「昭和の国民礼法」を文部省が地方長官に通牒

●中等学校の終身の資料として、文部省が作成した「礼法要項」で、皇室に対する言動から、衣食住全般の日常生活の立ち振舞まで、細かく定められた。下にリンクしたが、絵入りで大変細かに書かれている。現代人としても読んでおいて損はないかもしれない。

リンクします「昭和の国民礼法 : 文部省制定」国民礼法研究会 編著 昭和16年刊国立国会図書館デジタルコレクション
1941年
昭和16年4/16
ハル米国務長官、「日米諒解案」を提示する。

●これはハル国務長官が野村駐米大使に提示したもので、ウォルシュ司祭やドラウト神父、井川忠雄らによる民間の働きかけから、野村大使の随員岩畔豪雄大佐が国務省と直接話し合い、非公式な折衝のすえに作り上げられたものといわれる。内容は、アメリカが日本に対して、満州国承認を含む大幅な譲歩を示したものであった。(交渉のたたき台として)
●近衛内閣はこの諒解案を歓迎し、松岡外務大臣の帰国を待っていた。そして、大本営政府連絡会議はこの諒解案にわずかな修正を加えたのみで採択を決定したのである。
●ところが帰国した松岡外相は、この交渉が自分抜きで行われたことに不満を抱き、この諒解案に反対した。そして松岡が作成した対案は強硬なもので、アメリカは到底受け入れられないものとなった。
5/11政府は野村吉三郎駐米大使を通じて、ハル国務長官に日米諒解案の修正案を提示する。(新聞)昭和16年4/23の朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1941年
昭和16年4/30
ヒトラー総統、対ソ侵攻作戦実施を決意する。

●ヒトラー総統は、バルバロッサ作戦開始日を、5/25から6/22に変更した。

1941年
昭和16年5/2
イギリスが親ドイツ政権のイラクを攻撃

●イラクではラシード・アリーが反英派の将校と協力してクーデターを決行し、親英派の内閣をつぶした。政権の座に就いたラシード・アリは、アラブ民族主義者を中心に国民の熱狂的な支持を受け、イギリス軍基地を包囲した。これに対抗してイギリス軍が武力行使したのである。
(新聞)昭和16年5/4の朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1941年
昭和16年5/9
フランスとタイ、平和条約調印する

●日本の調停により東京で調印。フランスはタイにバッタンバン地方を割譲する。

1941年
昭和16年5/14
予防拘禁所官制公布

●これは、治安維持法違反者が刑期を終えても、検事の請求に基づいて裁判所が非転向と認めた場合は、再犯防止の名目で拘禁を継続させる制度。目的は、非転向を貫く3.15事件(1928年、共産主義者らを逮捕した事件)関係者などの釈放を阻止するためだった。

1941年
昭和16年5/19
インドシナ共産党、「ベトミン」を結成する

●この日、グエン・アイ・クオック(のちのホー・チ・ミン、51)を盟主に、ベトナム独立同盟(ベトミン)が結成された。これはインドネシア共産党が、第8回中央委員会総会で当面の目標を「民族解放革命」と規定した決定にもとづいたものだった。
●ベトミンは、フランスと日本の植民地支配に対する民族解放の戦いに、さまざまな階層、党派の人々を広範に結集させ、多民族からなる国民国家としての独立をめざす統一戦線である。出典:「クロニック世界全史」講談社1994年刊

19世紀末のフランス領インドシナの概略

●地図は、19世紀のフランス領インドシナ連邦の地図。「クロニック世界全史」には次のようにある。
●1887年10/17。アジアでの勢力拡大を図るフランスは、カンボジアとベトナムのトンキン、アンナン、コーチシナの3地域の植民地官僚機構を統合し、フランス領インドシナ連邦を成立せた。
●フランスは、これに先立つ1883年、84年の2次にわたるフエ条約により、ベトナム南部のコーチシナを直轄植民地、北部のトンキンを保護領、中部のアンナンを保護国にしていた。
(地図)出典:「クロニック世界全史」講談社1994年刊

「ヴェトナム民主共和国独立宣言

●ここでベトナムの独立宣言を引用する。日本が欧米の植民地支配から解放する戦争だとスローガンは立派だったが、実際はそうではなかった。独立宣言を読めば、最初からこの独立戦争は、対フランス、対日本への民族独立運動であることがわかる。(出典)「人権宣言集」岩波書店1957年刊 より一部引用

下

年・月1941年(昭和16年)
1941年
昭和16年5/22
松岡外相、武力南進を主張

●大本営政府連絡懇談会、日蘭会商問題を討議。松岡外相は武力南進を主張し、芳沢謙吉特派大使の引き上げを主張した。日本はオランダ植民地(インドネシア)からの石油輸入交渉を続けてきたが、拒否され武力侵攻を計画する。
6/4蘭印は、石油などの資源に関する日本側の要求の大部分を拒否し、対日供給に無条件保証を与えずと回答。

1941年
昭和16年5/29
ユダヤ人、神戸出港

●ポーランドから亡命していたユダヤ人53人は神戸市のユダヤ教会の世話で3週間滞在していたが、5/29、大阪商船「まにら丸」でケープタウンへ向け神戸港を出港した。同地からは陸路パレスチナを目指した。(写真・毎日新聞社)(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

1941年
昭和16年6/3
ヒトラー総統、独ソ戦不可避を通告

●ヒトラー総統は大島駐独大使に通告し、6/4大島大使は松岡外相に極秘報告を行う。

1941年
昭和16年6/6
大本営陸・海軍部、対南方施策要綱を決定

●米・英・蘭などが対日全面禁輸に出た場合に、対南方武力行使に踏み切る方針を定めた要綱。日本の経済力は対英米長期戦を維持できないとの判断から、好機に応じて開戦するのではなく、早く開戦することに定められた。また陸軍は6/14、独ソ開戦の場合の日本の対ソ方針を「情勢の推移に伴う国防国策の大綱」において、独ソ戦の状況をにより好機を待って対ソ連参戦を行うことを決定した。

1941年
昭和16年6/14
国民労務手帳法施行令公布(10/1施行)

●これにより労務者は身分経歴を記入した手帳を持つことになった

★6/22独ソ戦始まる。ドイツ、ソビエトに侵攻開始(宣戦布告なし)
ドイツ、バルバロッサ作戦開始

●ドイツ軍は、バルト海から黒海に至る広大な戦線で、ソ連の国境を侵犯、攻撃を開始する。
一体、独ソ不可侵条約とは何だったのだろう。そして日本が日ソ中立条約を結んだ意味は何であったのだろうか。
(新聞)昭和16年6/23の朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●6/27松岡外相は、大本営政府連絡懇談会で即時対ソ戦を主張したのである。
●日本の敗戦時、日ソ中立条約を無視してソ連が侵攻してきたことに対して、道義的責任を非難する論も多い。だが日本も日ソ中立条約を締結したばかりにもかかわらず、独ソ戦の状況によってソ連侵攻を決定していたのである。それが7/7の「関東軍特別演習」の動員下命だった。ソ連極東軍が対ドイツ戦のためヨーロッパ方面に移動すれば、そのすきを狙って一挙に攻め込もうとしたのである。
●ソ連はドイツの侵攻で国家存続の危機に陥った。その時援助したのは英米であり、ソ連は連合国側となったのである。敵となったソ連との条約に、日本の安全を担保させてはならないことはこの「独ソ戦」が示すとおりである。  

(出典)「よみがえる第2次世界大戦(カラー化された白黒フィルム)第2巻日米開戦」NHKエンタープライズ2009年。
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年・月1941年(昭和16年)
1941年
昭和16年6/23
鉄鋼回収のため、東京府庁の鉄門撤去

●明治時代の代表的建築物だった東京府庁の鉄の正門と周囲の鉄冊約100mが、6/23に撤去された。4/1に官庁、公共団体に鉄鋼回収の布告が出されて以来、各庁で撤去作業が行われており、府庁は最後の方だった。
(写真・朝日新聞社)(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

1941年
昭和16年7/2
御前会議「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」を決定

●ついに日本は、南方進出に対する態勢を強化し、その目的達成のため「対英米戦」を辞せず、と決定した。
そして独ソ戦には介入せずに、密かに対ソ戦の武力的準備を整えることも決定したのである。
●日本は、英米、そしてソ連とも戦争を行うことを決めたのである。

1941年(昭和16年)の出来事 政治・経済・事件・災害・文化

「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊より抜粋
1.1  全国の映画館でニュース・文化映画の強制上映実施
1.6  ルーズベルト米大統領,年頭教書で4つの自由を強調
1.7  国民党軍,中共新4軍を包囲攻撃
1.8  陸軍,「戦陣訓」を示達
1.11 新聞紙等掲載制限令公布実施
1.16 大日本青少年団結成式

下

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