1940年(昭和15年)ヨーロッパを席巻するドイツ、徹底抗戦するイギリス。
2023年4月16日第2次世界大戦
だがこの年のドイツ軍によるヨーロッパ大攻勢(侵略)は、3国同盟推進派を勢いづかせた。日本は、ドイツのヨーロッパ制圧によって、空白となったアジアのオランダ、フランス、イギリスの植民地を支配できると考えたのである。
●しかし3国同盟はアメリカを敵とする軍事同盟であり、海軍大臣吉田善吾は、反対派(海軍の主流)と推進派の松岡外相と陸軍との板ばさみにあって健康を害し辞任してしまう。そして9/19、御前会議は、松岡外相によって押し切られ、3国同盟締結を了承する。 下は、駐日米大使(滞日10年)ジョセフ・グルーの日記からの抜粋引用である。3国同盟が日本に何の利益をもたらすか、わからないと懸念を述べている。
(上写真)左「勝利の歓び-ヒトラーとゲーリング」右「パリ入城後シャンゼリゼーを行進するドイツ軍」(出典)「目で見る戦史・第2次世界大戦」A.J.Pテイラー著(株)新評論1881年刊
1940年(昭和15年)ドイツ軍は4月デンマーク・ノルウェーを占領、5月にベルギー・オランダを占領した。そしてフランスに侵攻、6/14ついにパリが陥落する。一方ソ連はバルト3国に侵攻、7月併合する。ドイツは、イギリスと講和を結ぼうとするが、イギリスはこれを拒否、ドイツに対して徹底抗戦を決意する。
●上はヨーロッパ地図のイラストで、「黒色」が1938年初頭のドイツの領域である。東プロイセンはポーランド(ポーランド回廊)を挟んで飛地になっている。
●1938年ドイツが併合したのはオーストリアとミュンヘン協定によるチェコスロバキアのズデーテン地方である「濃いグレー」。ドイツは翌1939年に、チェコスロバキアを解体し、スロバキアはドイツの保護下に共和国として枢軸側についた。
●ドイツが占領した地域と国は「グレー色」で、枢軸国側となった国は「濃いグレー色」とした。「白」は中立国を表しているが、ユーゴスラビアは最初にドイツ側についたが、クーデターが起き反ドイツとなったため、1941年にドイツに侵攻された。またフィンランドは、ソ連の侵略を受け国土を割譲してソ連と講和したので、それ以降枢軸側についた。「ピンクの色」はプランスのヴィシー政権のエリアを表している。
●ソ連が占領した地域は「うすちゃ色」にしたが、バルト3国は併合された。
●ドイツは、イギリス本土侵攻をあきらめ、空軍による爆撃をもってイギリスの屈服をねらった。だがイギリスはこの航空戦=「バトル・オブ・ブリテン」に不屈の闘志をもって勝利していく。だがドイツの潜水艦Uボートによる封鎖は、イギリスを経済的に大きな打撃を与えていた。もしドイツが都市部の無差別爆撃(ロンドンなど)ではなく、産業拠点(軍事、工業、港湾等)の爆撃を続けていれば、イギリスはドイツと講和したであろうといわれている。
だがヒトラーの本当の狙いは、イギリスよりソ連征服とアメリカの参戦防止だった。できるだけ早くソ連侵攻を完了させ、イギリスと講和できれば、アメリカは参戦する大義名分を失うだろうと考えた。
●だが、アメリカとの戦争の引き金を引いたのは日本だった(翌年の真珠湾攻撃)。ドイツは、3国同盟により日本がロシアに侵攻することは期待していたが、アメリカと直接戦争することは避けたかったに違いない。
1938年(昭和13年)内容 | |
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3月 | ●ドイツ、オーストリアを併合。3/14ヒトラー、ウイーンに凱旋しオーストリアのドイツ帝国編入を宣言。 |
9/30 | ●ミュンヘン協定締結(独、英、仏、伊)。チェコスロバキアのズデーテン地方(ドイツ系住民が多く居住)をドイツへ割譲をすることを認める。(英仏、ドイツに屈服) |
1939年(昭和14年)内容 | |
3/15 | ●ドイツ軍プラハに無血入城、ボヘミア・モラヴィア地方を併合し、チェコスロバキアを解体する。3/16、ドイツ保護下においてスロバキアは共和国として独立する。 |
3/23 | ドイツ軍リトアニアのメーメル港に上陸。同日リトアニアはメーメル地方の割譲に同意する。ドイツは第1次世界大戦後(1919年)、東西のプロイセン地方は分断され、西部はドイツ領、中央部にポーランド回廊、自由都市ダンツィヒ、東プロイセンは飛地となった。メーメル地方は東プロセインの北、リトアニアの海岸地帯。 |
4/7 | ●イタリア軍アルバニアに侵攻。4/12アルバニアを併合する。 |
8/23 | ●独ソ不可侵条約締結。 |
9/1 | ●第2次世界大戦勃発。ドイツ海軍がダンツィヒ沖合からポーランド要塞を攻撃、同時に内陸部では、ドイツ機甲師団と空軍の爆撃機がポーランド国境を突破、ワルシャワに向かって進軍を開始した。 |
9/3 | ●イギリスとフランスがドイツに対して宣戦を布告。 |
9/17 | ●ソ連軍は独ソ不可侵条約の秘密議定書にもとづきポーランドに侵攻。9/27、ワルシャワはドイツ軍によって陥落した。そして9/28、独ソ間にて協定が結ばれ、ポーランドは分割された。 |
11/30 | ●ソ連軍フィンランド侵攻(冬戦争)。ソ連は、レニングラード(現サンクトペテルブルク)の防衛強化と海軍基地建設のため国境線の移動をもくろみフィンランドに侵攻した。この戦争は長引き、翌年3/12休戦協定が締結されたが、フィンランドは多くの領土を失いソ連と講和した。 |
1940年(昭和15年)内容 | |
3/13 | ソ連とフィンランドが講和する。 ※国際連盟は、ソ連のフィンランド侵攻を侵略と認めソ連を除名した。フィンランドは戦いに勝ち抜いたが、国土の10%を割譲するなど過酷な条件で講和を結んだ。その後フィンランドはソ連に対抗するため、ドイツ・イタリア側(枢軸国)についた。 |
4/9 | ●ドイツ、デンマーク、ノルウェーに侵攻。デンマークは当日夕刻までに全土が占領された。ノルウェーにはドイツ海軍の、戦艦2、巡洋艦7、駆逐艦14、魚雷艇8、潜水艦(Uボート)31隻、戦闘機430機を投入し、沿岸部の主要都市と港を制圧した。だがノルウェー軍は、イギリス、フランス、ポーランドの支援を受け果敢に抵抗した。 |
5/1 | ヒトラー、西部戦線攻撃を指令。 |
5/10 | ●ドイツ軍は、北仏・オランダ・ベルギー・ルクセンブルクを奇襲攻撃する。5/15、オランダはドイツ軍の激しい爆撃と落下傘部隊の進軍によりアムステルダムを破壊され、降伏した。ドイツ軍は、ベルギーを守る連合軍(フランス軍、イギリス軍、ベルギー軍)を包囲していく。 ●5/10、英チェンバレン内閣総辞職、チャーチル連合内閣が成立。5/13ロンドンにオランダ亡命政権成立。 |
5/14 | ドイツ軍、セ(ス)ダン付近でマジノ線突破。このマジノ線は、フランスがドイツとの国境に沿って構築した軍事要塞で、全長322kmに達し難攻不落と呼ばれていた。ドイツ軍は、自然の要害(重砲や戦車が通れない)と思われていたアルデンヌの森を抜けてセダン付近のマジノ線を突破した。この作戦の成功により連合軍は海岸のダンケルクに追い詰められていく。 |
5/27 | ●英仏軍、ダンケルク撤退を開始。イギリス兵20万人とフランス兵14万人がイギリス本土へ撤退していった。 ※5/27ベルギー軍は降伏。ベルギー政府はロンドンへ逃れるが、ベルギー国王レオポルド3世は戦時捕虜となりドイツに降伏する(5/28)。だがベルギー軍の働きで、英軍のダンケルク撤退が成功したといわれる。 |
6/7 | 英仏軍、ノルウェーより撤退。ノルウェー国王と政府はイギリスに亡命。だがイギリス海軍はドイツ海軍に大きな損害を与えた。 |
6/10 | ●イタリア、英仏に宣戦布告。 |
6/12 | ノルウェー降伏。 |
6/13 | 英軍、リビアのイタリア軍攻撃。 |
6/14 | ●ドイツ軍、パリに無血入城。 ※6月、ドイツ軍のフランス侵攻の時、南フランスへ逃げる途上、両親を機銃掃射で亡くした5歳の少女の物語が「禁じられた遊び」である。下段でYouTubeにリンクしておいた。 |
6/16 | ●仏、ペタン内閣成立。 ※ペタン政権は7/2ボルドーからヴィシーに移転し、7/11第3共和政憲法を廃止したので、ヴィシー政権と呼ばれる。国名は「フランス国」である。 |
6/17 | ●ソ連バルト3国(エストニア、ラトビア、リトアニア)に侵攻。 |
6/18 | ド・ゴール、ロンドンからフランスへ向けて対独抗戦を呼びかける。英国政府は、「自由フランス」の指導者としてド・ゴールを承認。 |
6/22 | ●独仏(ペタン政権)休戦協定調印。 ※この休戦協定は、フランス北部のコンピエーニュの森の列車内で結ばれた。ここは、第1次世界大戦で敗北したドイツが、1918年11/11、連合国と休戦協定を結んだと同じ場所だった。ヒトラーは同じ場所に同じ列車を運ばせたのである。 |
6/28 | ソ連軍がルーマニアのベッサラビアと北ブコヴィナに進駐し占領を開始した。 |
7/3 | イギリス海軍はアルジェリアのオラン近郊のメルス・エル・ケビールに停泊中のフランス艦隊を攻撃した。フランス艦隊がドイツ軍にわたるのを防ぐ目的だった。7/5ペタン政権はイギリスとの国交を断絶した。 |
7/19 | ヒトラー、ドイツ議会にてイギリスに対して講和提案を行う。 ヒトラーは、イギリスと講和できれば、アメリカ参戦の場合はイギリスが緩衝地帯となり、ソ連侵攻時には西方の危険を懸念せず専念できると考えた。 |
7/20 | ●英国、ドイツの提案を拒否し、徹底抗戦を決意する。 |
7/21 | バルト3国(エストニア・ラトビア・リトアニア)の議会、ソ連邦加盟を議決する。(ソ連がバルト3国を併合) |
7/31 | アメリカ、航空機用ガソリンの西半球以外への輸出禁止を発表(8/1実施) |
8/1-10 | イタリア軍、英領ソマリランド攻略。 |
8/6-7 | ドイツ、ルクセンブルグとアルザス・ロレーヌを併合。 |
8/10 | ●ドイツ空軍、イギリス本土空爆(軍需工場や飛行場を攻撃)を開始する。(イギリスからみると、対ドイツ航空戦=バトル・オブ・ブリテンと呼ぶ。) ※7/21にドイツはイギリス侵攻作戦「シ―・ライオン計画」の大綱を決めたが、ヒトラーは英国よりもソ連侵攻作戦を重要と考えていた。またドイツ海軍はノルウェー戦で戦力を失っていて、イギリス侵攻作戦は不可能と陸軍も考えていた。そこでドイツ軍は、空軍による爆撃でイギリスを降伏させようと考えたのである(イーグル作戦)。 |
8/24 | 一機のドイツ機が方角を誤り、ロンドンに爆弾を投下。 |
8/25 | イギリスは報復のためベルリン空襲を敢行。ヒトラーはそれまで許していなかったロンドン攻撃を許可。 |
9/7 | ●ドイツ空軍、初めてロンドンを900機の大編隊で爆撃。(都市に対する無差別爆撃) |
9/9 | ドイツ空軍、ロンドン昼間爆撃。 |
9/12 | イタリア軍、エジプト侵攻。 |
9/14 | イタリア軍、イギリス中東方面軍と交戦。 |
9/15 | ●イギリス空軍は、ドイツ空軍(総力をかけたロンドン爆撃)を迎撃し、56機の戦果をあげる(イギリス26機損失)。この敗北により、ヒトラーは「シ―・ライオン計画」を延期し、またこれ以後ドイツ空軍は、イギリス空軍が苦手とする夜間攻撃に転じた。 ※「バトル・オブ・ブリテン」はイギリスの勝利となる。この日までにドイツ空軍は1733機を失い、イギリス空軍は915機を失ったが、本土制空権を守ったのである。この戦いで重要な役割を担ったのが、スピットファイヤ(戦闘機)とレーダーといわれている。 |
9/23 | ●日本軍、北部仏印に進駐を開始、第5師団フランス軍を攻撃。 ※「援蔣ルート」遮断を目的に平和的進駐を行う協定を、陸軍は大本営の命令を無視して破り、フランス軍を攻撃、武力進駐した。 |
9/26 | これに対抗してアメリカ政府は、屑鉄・鉄鋼の対日全面禁輸を発表(10/16実施) |
9/27 | ●日独伊3国同盟締結。 ※これは軍事同盟で、端的に言えば、もしアメリカが日独伊のうちいずれかの国を攻撃したときは、他の国は自動的にアメリカに参戦するというのが条文の解釈である。日本はこの参戦義務は3国で協議するとしたが、ドイツは条文どおりと解釈していた。ドイツとしては、日本が極東でアメリカと戦争を起こせば、アメリカのヨーロッパへの軍事力行使は手薄になると期待したのである。 |
10/5 | ドイツ軍、油田確保のためルーマニアに進駐し、12日までにプロイエシュティなどを掌握する。 |
10/18 | ●イギリス政府、日独伊3国同盟への対抗策として援蔣ルート「ビルマ-雲南」を再開する。 |
12/24 | ヒトラーがフランス・ヴィシー政権に対英戦線に加わるように迫るがペタンは拒否した。またスペインのフランコ将軍も対英参戦を拒否した。 |
10/28 | イタリア軍、ギリシャ侵攻。ギリシャはイギリスに救援を要請、10/29イギリス軍クレタ島に上陸する。 |
10月下旬 | ●ハンガリー、ルーマニア、スロヴァキア、日独伊3国同盟に参加。 |
11/14 | ドイツ軍、イギリス、コベントリーを空爆。 |
11/16 | ●ドイツ、ワルシャワにゲットー(ユダヤ人強制居住区)を設立する。 ※ナチス・ドイツ、人類史上かってない悪魔のホロコースト実行へとむかう。 |
12/18 | ●ヒトラー、バルバロッサ作戦準備指令。(ソ連攻撃作戦) |
12/29 | ロンドン空襲で大被害。 |
※下段でYouTubeから、「Black Saturday; the bombing of London’s docks in WWII.」と「The Battle of Britain」にリンクした。イギリスの「バトル・オブ・ブリテン」に関するドキュメンタリー映画は数多くある。
※mp4動画(ダウンロード)のため再生までに時間がかかります。
(mp4動画、サイズ0.65MB、14秒)
*リンクします「Black Saturday; the bombing of London’s docks in WWII.」
動画・出典:YouTube(Yoho Media氏)
*リンクします「Battlefield S1/E2 – The Battle of Britain」
動画・出典:YouTube(Vasile Iuga氏)
*リンクします「禁じられた遊び(1952)Jeux interdits 」
動画・出典:YouTube(werden240 berg氏)
民政党代議士斎藤隆夫は、2/2の衆議院で戦争政策を批判する反軍演説を行った。斎藤は米内光政内閣の施政方針演説に対する代表質問で、1時半にわたって政府と軍部に対する批判を行った。だが帝国議会は、演説の後半部分をすべて速記録より削除し、民政党は斎藤の離党・謹慎を勧告し、2/3斎藤は党籍を離脱した。
●斎藤の演説要旨は下記の4点だった。
②いわゆる東亜新秩序建設の具体的内容はいかなるものか。
③汪兆銘援助と蔣介石政権打倒を同時に遂行できるのか。
④「事変」勃発以来すでに戦死者10万、国民にさらに犠牲を要求する十分な根拠を示せ。
●そして続けて、下記の内容で政府と軍部の戦争政策の欺瞞性を批判したのである。
事変以来今日二至ルマデ吾々ハ言ハネバナラヌコト、論ゼネバナラヌコトハ沢山アルノデアリマスルガ、是(これ)ハ言ハナイ、是ハ論ジナイノデアリマス、吾々ハ今日二及ンデ一切ノ過去ヲ語ラナイ、又過去ヲ語ル余裕モナイノデアリマス、一切ノ過去ヲ葬り去ツテ、成(なる)ベク速(すみやか)二、成ベク有利有効二事変ヲ処理シ解決シタイ、是が全国民ノ偽リナキ希望デアルト同時二、政府トシテ執(と)ラネバナラヌ所ノ重大ナル責任デアル(中略)
然ルニ歴代ノ政府ハ何ヲ為(な)シタカ、事変以来歴代ノ政府ハ何ヲ為シタカ 二年有半ノ間二於テ三タビ内閣が辞職ヲスル、政局ノ安定スラ得ラレナイ、斯(こ)ウ云フコトデドウシテ此ノ国難二当ルコトガ出来ルノデアルカ、畢竟(ひっきょう)スルニ政府ノ首脳部二責任観念ガ欠ケテ居ル(中略)国民的支持ヲ欠イテ居ルカラ、何事二付(つけ)テモ自己ノ所信ヲ断行スル所ノ決心モナケレバ勇気モナイ、姑息偸安(こそくゆあん)一日ヲ弥縫(びほう)スル所ノ政治ヲヤル、失敗スルノハ当り前デアリマス
(斎藤隆夫先生顕彰会『斎藤隆夫政治論集』から)(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
●斎藤の演説終了後、議場は「拍手がなりやまない光景」で終わったといわれる。米内首相の答弁は形式的に簡単におわり、畑陸相は答弁に立たず、議長は数分後に散開を宣言した。
●ところが散会後、陸軍は武藤章軍務局長を中心に、斎藤の演説を「聖戦目的の侮辱」「10万英霊への冒涜」として攻撃を開始した。議会内でも、時局同志会、政友会革新派、社会大衆党が斎藤を非難した。こうした情勢から衆院議長は職権で、演説後半部分すべてを速記録から削除し、民政党幹部も問題の拡大を恐れ、斎藤を離党させた(2/2)。
●だが陸軍は、この民政党の処理に満足しなかった。畑陸相は、2/3午後の衆院本会議で反駁演説を行い、反民政党諸会派も、斎藤の議員除名を要求し、衆院議長は3日夜、斎藤議員を懲罰委員会にかけることを決定した。
こうして各政党は斎藤議員除名問題をめぐって紛糾し、2/7午後1時衆院本会議が開かれ、懲罰委員会の決定(満場一致で除名決定)が議決にかけられた。そして記名投票の結果、除名賛成296票、反対7票、棄権144人で、斎藤の除名が可決された。内務省・警察は新聞社に対して、斎藤を英雄視するような感情を与える記事の掲載は不可等の通達を行った。
●だがこの結果、各政党は反対者・欠席者の処分をめぐって内部の動揺と対立が続き、分裂状態に陥った。そして斎藤除名の急先鋒だった政友会革新派、時局同志会は、政友会正統派、社会大衆党麻生派、第一議員俱楽部および民政党の一部を加え、3/25、「聖戦貫徹議員連盟」を結成し、翼賛体制づくりの旗振り役となっていった。
(上写真)第75議会衆議院本会議において、代表質問を行う民政党の斎藤隆夫。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1940年(昭和15年)7月、海軍大将米内光政内閣が、陸軍によって総辞職に追い込まれると、第2次近衛文麿内閣が成立した。その背景には、ナチスドイツの強力な1党独裁にならい、日本においても既成政党を解消し、強力な新党を結成しようとする「新体制運動」があった。そして近衛内閣は、「基本国策要綱」を決定し、「大東亜新秩序建設」を基本方針と定め、速やかな支那事変解決と南進武力方針を決定した。そして9/27英米と決定的な対立となる「3国同盟」を締結する。
ここでは『昭和2万日の全記録』講談社を中心に要約引用し、朝日新聞の紙面紹介を行った。
年・月 | 1940年(昭和15年) |
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1940年昭和15年3/3 |
橿原神宮(かしはらじんぐう)正月三が日の参拝者125万人を記録
●この橿原神宮は、「古事記」「日本書紀」において初代天皇とされる神武天皇をまつる神社で、1889年(明治22年)に創建されたもの。昭和15年(1940年)は、神武天皇の即位(紀元前660年)から数えて2600年にあたるので、11/10には宮城前広場にて「紀元二千六百年記念式典」が挙行された。 |
1940年昭和15年1/11 |
津田左右吉、右翼からの攻撃で早大教授を辞任
●下は、国家主義者蓑田胸喜、雑誌「原理日本」の臨時増刊(昭和14年12/24・第15巻第11号)の「津田左右吉氏の大逆思想」の一部抜粋。
「かくの如き津田氏の神代上代史捏造論、即ち抹殺論は、その所論の正否に拘わらず、掛けまくも畏き極みであるが、記紀の『作者』と申しまつりて『皇室』に対し奉りて極悪の不敬行為を敢えてしたものなるは勿論、(中略)皇祖皇宗を始め奉り14代の天皇の御存在を、それ故にまた神宮皇陵の御義をも併せて抹殺しまつらむとするものであるから、これ国史上全く類例なき思想的大逆行為である」
(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 ●そして2/10、津田の著書である「古事記及日本書紀の研究」、2/12「神代史の研究」「日本上代史研究」「上代日本の社会及び思想」が発売禁止とされ、さらに3/8、東京地方検事局は、津田左右吉とこれらを出版した岩波茂雄(岩波書店)を出版法違反で起訴した。 |
1940年昭和15年1/14 |
阿部信行内閣、陸海軍の支持を失い総辞職
●この日、「東京朝日新聞」は号外で「畑大将(前陸軍大臣)に大命降下せん」と報じた。後継首班として、陸軍も畑本人も、大命が降下するものと信じていた。だが1/14夜7時半、組閣の大命は、米内光政元海軍大臣に下った。 |
1940年昭和15年1/15 |
静岡市大火
●午後0時8分出火、折からの強風(西北の風、風速10数メートル)にあおられ、4170戸焼失、2万8156人が被災した。鎮火までに15時間かかった。 |
1940年昭和15年1/16 |
米内光政内閣成立
(米内光政・よない‐みつまさ) 戦時経済対策を確立し、低物価政策の下に物資の増産並びに配給の適正をはかり、戦時国民生活を確保する」
国民生活は、日中戦争の長期化で米、木炭などが不足するようになり、インフレが始まった。 (米、木炭など不足する記事1月)
1/3、3万5280石の外米を積んだ山下汽船武庫丸、1/1芝浦に入港し陸揚げの荷役作業始まる。 1/5、広島県吉名村、米の自主的消費規制を決め、1人1日3合の通帳制を実施(高知市4/29実施)。 1/12、逓信省、石炭不足から関西2府12県で、さらに1割8分の電力制限を決定。通算3割強の制限となる。 1/18、木炭不足で東京府が計画した東京市内中学生と師範学校生の炭焼き動員、山の作業に無理と中止を決定。 1/21、石炭不足により九条・安治川東・毛馬・名古屋東の4火力発電所が操業停止。関西の工場に臨休・操短続出する。 1/24、東京地方逓信局、渇水と石炭不足により日本発送電・東電などに無警告送電停止の緊急指令を通牒。 1/30、旱天(かんてん=日照り)と石炭不足で電力飢饉深刻化。関西方面では、軍需・特殊産業を除き、14時間の一斉停電を実施。 1/31、政府、電力飢饉克服のため、北海道・東北北部を除く全国に電力調整令発動を閣議決定(2/10実施)。 1/31、電力難で調布ポンプ場の揚水能力が減退し、東京市は節水徹底を呼びかける。 |
1940年昭和15年1/21 |
英国軍艦浅間丸を臨検、ドイツ人船客21人を引致(強制連行)する。
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1940年昭和15年2/1 |
陸運統制令(2/25施行)、海運統制令公布施行(外地2/15施行)。
●これは戦時下における輸送力を確保するために、国家総動員法に基づき公布されたもの。 |
1940年昭和15年2/5 |
マッチの製造及び配給に関する件公布(2/10施行)
●これは業者への生産命令などを規定したもの。3/4には満州国政府は、日本のマッチ用材不足解消のため、満州林業用材の供給を前年比5割増しを計画するとある(新京発)。 |
1940年昭和15年2/6 |
生活綴方関係者を検挙
●これは、山形県で村山俊太郎ら3人を検挙したもので、これ以降、生活綴方・北方教育関係教員約300名を検挙した。 |
1940年昭和15年2/10 |
逓信省、電力調整令を発動、電力大幅制限を断行する
●政府は1/31の臨時閣議で、電力飢饉対策として電力の消費と供給の両面にて強権を発動することを決定した。この電力調整令で制限を受ける地域は、北海道・東北北部を除いて、関東、関西、中国、四国、九州の全地域で、10日~20日までは関東で30%、関西で35%の制限とし、20日からは20%に緩和するとの目標だった。 |
1940年昭和15年2/16 |
労働組合の解散を期待と答弁
●藤原厚生省労働局長、衆院厚生予算分科会で、産業報国運動の徹底を期すため、労働組合の解散を期待と答弁。 |
1940年昭和15年2/21 |
「桐工作」実行を指示
●閑院宮参謀総長は、香港での対重慶国民政府和平工作を「桐工作」と呼称し、支那派遣軍に実行を指示。 |
1940年昭和15年2/21 |
少年工員の災害事故が急増
●厚生省調査で、昭和14年度の負傷者のうち37%が21歳以下と新聞に。 |
1940年昭和15年3/6 |
横浜-サイパン-パラオ間定期航空路開設
●このルートは日本航空会社が横浜と南洋諸島を結んだもので、従来の船便で往復20日のところを、画期的に短縮させたもの(サイパン、パラオに1泊ずつしても4泊6日)。この南洋諸島は第1次世界大戦後、赤道以北の旧ドイツ領を、国際連盟から委任統治領として正式に統治下においてきたもの。南洋諸島は、マリアナ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島、パラオ諸島があり、日本は1922年4月から、パラオ諸島コロール島に南洋庁を設置した。そしてサイパン島、パラオ諸島(コロール島)、ヤップ島、トラック諸島のDublon島(ダブロン島=旧夏島)、ポナペ島(=ポンペイ島)、ヤルート環礁(ジャルート環礁=Jaluit Atoll)のJabor(ジャボール)の6カ所に支庁を置いた。コロール島にはパラオ支庁も置かれた。下段でこの6ヵ所の位置をGoogleマップに示した。下で「写真週報」143号にリンクした。コロール島で「南洋神社鎮座祭」が行われた写真などが掲載されている。 |
※それぞれのマーカーをクリックするとGoogle Map上の写真などを閲覧できる。
*リンクします「写真週報」143号 昭和15年11月20日号「南洋神社鎮座祭」
南洋群島・パラオ・コロール島→国立公文書館アジア歴史資料センター
年・月 | 1940年(昭和15年) |
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1940年昭和15年3/7 |
斎藤隆夫、議員除名される。
●この除名決議に反対した、社会大衆党の片山哲(戦後日本社会党委員長で首相)ら8人は社会大衆党より離党勧告を受け、3/9除名処分される。これ以降「聖戦」に公然と批判することは許されなくなった。3/21には社会大衆党の阿部磯雄党首も、片山哲ら8人と行動を共にすると表明し、離党を発表した。「聖戦」=皇道に基づいた正義の戦いという意味。 |
1940年昭和15年3/25 |
聖戦貫徹議員連盟の発会式挙行
●斎藤議員條名問題で各政党は紛糾し、内部の動揺と対立が続き、分裂状態に陥った。そして斎藤除名の急先鋒だった政友会革新派、時局同志会は、政友会正統派、社会大衆党麻生派、第一議員俱楽部および民政党の一部を加え「聖戦貫徹議員連盟」を結成したのである。 |
1940年昭和15年3/28 |
内務省・警保局、俳優たちの改名を指示する。
●内務省の方針は、時局柄風紀上おもしろからぬもの、不敬にわたるもの、偉人の尊厳を傷つけるもの、外国かぶれのもの、を改名させることだった。漫才のミス・ワカナを玉松ワカナ、ディック・ミネを三根耕一、俳優(東宝)の藤原釜足は、藤原鎌足(近衛家の祖)を揶揄するものとして藤原鶏太と改名させられた。また不敬としては、熱田みや子は熱田神宮、吉野みゆきは吉野御幸を連想させるとして改名させられた。 |
1940年昭和15年3/29 |
所得税法改正・源泉徴収始まる
●現在にも続く「源泉徴収制度(当時は源泉課税といった)」(=給与から天引き)の始まりである。 |
1940年昭和15年3/30 |
汪兆銘ら南京で「中華民国政府還都典礼」を挙行。南京国民政府が成立。
●新政権の首席は空位として汪兆銘が代理主席となり、10大政綱(日本との善隣友好・反共和平を柱)を発表した。この中央政府の発足で、北平(北京)の中華民国「臨時」政府(1937年12月樹立)は華北政務委員会に改組され、新政権委任の範囲内で華北を統治することになった。また南京の中華民国「維新」政府(1938年3月樹立)は、新政権に吸収された。日本は即日「全幅の協力と支援を与えん」との声明を発表し、4/1阿部信行前首相を特命全権大使に任命した。 |
1940年昭和15年4/8 |
国民体力法公布
●17歳から19歳男子の体力検査を義務化し、体力手帳を交付。 |
1940年昭和15年4/15 |
文部・内務両省「日本ニュース映画社」を認可する。
●この「日本ニュース映画社」は、4/9、大毎、東日、朝日、読売、同盟各社のニュース映画部門が、「映画法」の趣旨に沿って統合、設立した国策会社である。そして6/13、日本ニュース第1号を公開した。日本ニュースは10/1から6大都市映画館で強制上映となった。 |
『かしこくも天皇陛下には、肇国(ちょうこく)の皇謨(こうぼ)、連綿として白光に輝く、紀元2600年にあたり、伊勢神宮および各山陵(さんりょう)に、親しく紀元2600年の皇謨を御報告、・・・』と始まる。下でリンクした映像の1シーン。
※(YouTube動画、サイズ2.04MB、40秒)
*リンクします「日本ニュース 第1号」
動画・出典:「NHKアーカイブス」ニュース映像
●1940年(昭和15年)7/26、近衛内閣は閣議で根本方針である「基本国策要綱」を決定した。翌7/27には大本営政府連絡会議でより具体的な「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定した。
●下に全文を引用したが、これは読んでおかねばならないものである。単純に日本はアメリカの制裁により戦争に突き進んだわけではない。
●初めて政府の公式文書に神がかり的な表現が使われた。「皇国(こうこく)ノ国是(こくぜ)ハ八紘(はっこう)ヲ一宇(いちう)トスル肇国(ちょうこく)ノ大精神ニ基キ世界平和ノ確立ヲ招来スルコトヲ以テ根本トシ・・」この意味は、日本の根本方針は「天皇のもとにひとつの家となるような世界平和」を招来することだ、と宣言しているのである。
●また「皇国現下ノ外交ハ大東亞ノ新秩序建設ヲ根幹トシ先ツ其ノ重心ヲ支那事変ノ完遂ニ置キ・・」とし、「大東亞ノ新秩序建設」を根幹、「支那事変ノ完遂」を重心とし、万難を排し、「国防国家体制」の完成に邁進するとしたのである。
「基本国策要綱」
一、 根本方針
皇国ノ国是ハ八紘ヲ一宇トスル肇国ノ大精神ニ基キ世界平和ノ確立ヲ招来スルコトヲ以テ根本トシ先ツ皇国ヲ核心トシ日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スルニ在リ
之カ為皇国自ラ速ニ新事態ニ即応スル不抜ノ国家態勢ヲ確立シ国家ノ総力ヲ挙ケテ右国是ノ具現ニ邁進ス
ニ、国防及外交
皇国内外ノ新情勢ニ鑑ミ国家総力発揮ノ国防国家体制ヲ基底トシ国是遂行ニ遺憾ナキ軍備ヲ充実ス
皇国現下ノ外交ハ大東亞ノ新秩序建設ヲ根幹トシ先ツ其ノ重心ヲ支那事変ノ完遂ニ置キ国際的大変局ヲ達観シ建設的ニシテ且ツ弾力性二富ム施策ヲ講シ以テ皇国国運ノ進展ヲ期ス
三、国内態勢ノ刷新
我国内政ノ急務ハ国体ノ本義ニ基キ諸政ヲ一新シ国防国家体制ノ基礎ヲ確立スルニ在リ之カ為左記諸件ノ実現ヲ期ス
―、国体ノ本義二透徹スル教学ノ刷新卜相俟テ自我功利ノ思想ヲ排シ国家奉仕ノ観念ヲ第一義トスル国民道徳ヲ確立ス尚科学的精神ノ振興ヲ期ス
2、強カナル新政治体制ヲ確立シ国政ノ綜合的統一ヲ図ル
イ、官民協力一致各々其ノ職域ニ応シ国家ニ奉公スルコトヲ基調トスル新国民組織ノ確立
口、新政治体制ニ即応シ得ヘキ議会制度ノ改革
ハ、行政ノ運用二根本的刷新ヲ加ヘ其ノ統一卜敏活卜ヲ目標トスル官場新態勢ノ確立
3、皇国ヲ中心トスル日満支三国経済ノ自主的建設ヲ基調トシ国防経済ノ根基ヲ確立ス
イ、日満支ヲ一環トシ大東亞ヲ包容スル皇国ノ自給自足経済政策ノ確立
口、官民協力ニヨル計画経済ノ遂行特ニ主要物資ノ生産、配給、消費ヲ貫ク一元的統制機搆ノ整備
ハ、綜合経済カノ発展ヲ目標トスル財政計画ノ確立竝ニ金融統制ノ強化
二、世界新情勢二対応スル貿易政策ノ刷新
ホ、国民生活必需物資特ニ主要食糧ノ自給方策ノ確立
ヘ、重要産業特ニ重化学工業及機械工業ノ画期的発展卜、科学ノ画期的振興竝ニ生産ノ合理化
チ、内外ノ新情勢ニ対応スル交通運輸施設ノ整備拡充
リ、日満支ヲ通スル綜合国カノ発展ヲ目標トスル国土開発計画ノ確立
4、国是遂行ノ原動カタル国民ノ資質、体力ノ向上竝ニ人口増加ニ関スル恒久的方策特ニ農業及農家ノ安定発展二関スル根本方策ヲ樹立ス
5、国策ノ遂行二伴フ国民犠牲ノ不均衡ノ是正ヲ断行シ厚生的諸施策ノ徹底ヲ期スル卜共二国民生活ヲ刷新シ真二忍苦十年時艱克服ニ適応スル質実剛健ナル国民生活ノ水準ヲ確保ス
●注目すべき方針は、第1に援蒋行為を絶滅させ、重慶政権を屈伏させることであり、南方問題解決には武力行使を行うと決めていることである。(武力行使において相手はイギリスに限定するが、アメリカとの開戦についても準備しておく、と決めている。)
●対外施策では、速やかに3国同盟(日独伊)を結び、ソ連とも飛躍的関係強化を図るとしている。(日本はソ連を含めた同盟を望んでいた。この時点では、ドイツがソ連に侵攻するとは思ってもいなかった。)
●アメリカとは、関係が自然と悪化することはやむを得ないが、動向を注意し日本から進んで摩擦を増やすことは避ける、と決めている。
昭和一五年七月二七日大本営政府連絡会議決定
方 針
帝国ハ世界情勢ノ変局二対処シ内外ノ情勢ヲ改善シ速力二支那事変ノ解決ヲ促進スルト共二好機ヲ捕捉シ対南方問題ヲ解決ス
支那事変ノ処理未夕終ラサル場合二於テ対南方施策ヲ重点トスル態勢転換二関シテハ内外諸般ノ情勢ヲ考慮シテ之ヲ定ム
右二項二対処スル各般ノ準備ハ極力之ヲ促進ス
要 領
第一条 支那事変処理二関シテハ政戦両略ノ総合カヲ之二集中シ特二第三国ノ援蒋行為ヲ絶滅スル等凡ユル手段ヲ尽シテ速カニ重慶政権ノ屈伏ヲ策ス
対南方施策二関シテハ情勢ノ変転ヲ利用シ好機ヲ捕捉シ之力推進二努ム
第二条 対外施策二関シテハ支那事変処理ヲ推進スルト共二対南方問題ノ解決ヲ目途トシ概ネ左記二依ル
一、先ツ対独伊ソ施策ヲ重点トシ特二速力二独伊トノ政治的結束ヲ強化シ対ソ国交ノ飛躍的調整ヲ図ル
ニ、米国二対シテハ公正ナル主張卜儼然タル態度ヲ持シ帝国ノ必要トスル施策遂行二伴フ已ムヲ得サル自然的悪化ハ敢テ之ヲ辞セサルモ常二其ノ動向二留意シ我ヨリ求メテ摩擦ヲ多カラシムルハ之ヲ避クル如ク施策ス
三、仏印及香港等二対シテハ左記二依ル
イ 仏印(広州湾ヲ含ム)二対シテハ援蒋行為遮断ノ徹底ヲ期スルト共二速力二我軍ノ補給担任軍隊通過及飛行場使用等ヲ容認セシメ且帝国ノ必要ナル資源ノ獲得二努ム
状況ニヨリ武カヲ行使スルコトアリ
ロ 香港二対シテハ「ビルマ」ニ於ケル援蒋「ルート」ノ徹底的遮断卜相俟チ先ツ速力二敵性ヲ芟除スル如ク強力二諸工作ヲ推進ス
ハ 租界ニ対シテハ先ツ敵性ノ芟除及交戦国軍隊ノ撤退ヲ図ル卜共二逐次支那側ヲシテ之ヲ回収セシムル如ク誘導ス
ニ 前二項ノ施策二当リ武カヲ行使スルハ第三条二拠ル
四、蘭印二対シテハ暫ク外交的措置二依リ其ノ重要資源確保二努ム
五、南太平洋上二於ケル旧独領及仏領島嶼ハ国防上ノ重大性二鑑ミ為シ得レハ外交的措置二依リ我領有二帰スル如ク処理ス
六、南方二於ケル其ノ他ノ諸邦二対シテハ努メテ友好的措置ニヨリ我力工作二同調セシムル如ク施策ス
第三条 対南方武力行使二関シテハ左記二準拠ス
一、支那事変処理概ネ終了セル場合二於テハ対南方問題解決ノ為 内外諸般ノ情勢之ヲ許ス限リ好機ヲ捕捉シ武カヲ行使ス
ニ、支那事変ノ処理未夕終ラサル場合二於テハ第三国卜開戦二至ラサル限度二於テ施策スルモ内外諸般ノ情勢特二有利二進展スルニ至ラハ対南方問題解決ノ為武カヲ行使スルコトアリ
三、前二項武力行使ノ時期範囲方法等二関シテハ情勢二応シ之ヲ決定ス
四、武力行使二当リテハ戦争対手ヲ極力英国ノミニ極限スルニ努ム但シ此ノ場合二於テモ対米開戦ハ之ヲ避ケ得サルコトアルヘキヲ以テ之力準備二遺憾ナキヲ期ス
第四条 国内指導二関シテハ以上ノ諸施策ヲ実行スルニ必要ナル 如ク諸般ノ態勢ヲ誘導整備シツツ新世界情勢二基ク国防国家ノ完成ヲ促進ス
之力為特二左ノ諸件ノ実現ヲ期ス
一、強力政治ノ実行
二、総動員法ノ広汎ナル発動
三、戦時経済態勢ノ確立
四、戦争資材ノ集積及船腹ノ拡充
(繰上輸入及特別輸入最大限実施並二消費規正)
五、生産拡充及軍備充実ノ調整
六、国民精神ノ昂揚及国内輿論ノ統一
*リンクします第2次近衛内閣「基本国策要綱」→
国立公文書館アジア歴史資料センター
*リンクします大本営連絡会議「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」→
国立公文書館アジア歴史資料センター
●1940年(昭和15年)9/19御前会議は、日独伊3国同盟案を承認した。
年・月 | 1940年(昭和15年) |
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1940年昭和15年9/19 |
御前会議、日独伊3国同盟案を承認
●松岡外相は就任直後より3国同盟締結の打診をドイツ側におこなっていた。当初、ドイツ側の反応は冷たかったが、英国屈服の見通しがつかなくなったことや、アメリカの参戦が危ぶまれるようになると、ドイツ側も同盟に積極的になった。 ●及川が海軍大臣に就任した後、東京で海軍首脳会議を開いた。これは海軍として、3国同盟に対する最終的態度を決定するためのものだった。会議の席上、及川海軍大臣は、ここでもし海軍が反対すれば、第2次近衛内閣は総辞職のほかなく、海軍として内閣崩壊の責任をとることは到底できないから、条約締結に賛成ねがいたい、ということを述べた。列席の伏見軍令部総長以下、各軍事参議官、艦隊及び各鎮守府長官の中から、1人も発言する者が無かった。
●そこで山本連合艦隊司令長官が、私は大臣に対しては、絶対に服従するものですが、もし3国同盟を結べば、今まで英米圏内から得てきた8割の資材を失うことになってしまうが、どう物動計画を切り替えたのかを質した。ところが、及川大臣はこの問いに答えず、「いろいろご意見もありましょうが、先に申し上げた通りの次第ですから、この際は3国同盟にご賛成願いたい」と、同じことを繰り返した。 ●すると、選任軍事参議官の大角 岑生大将が、まず、「私は賛成します」と口火を切ると、ばたばたと一同賛成ということになってしまった。 ●この及川海軍大臣についての評価はあまり高くはないが、この時の海軍は、軍事的な意見ではなく、政治的な意見で賛成したといわれている。近衛首相は、この海軍の態度に不信を感じ、山本五十六連合艦隊司令長官を荻窪の荻外荘に呼び、日米戦が起こった場合の海軍の軍事的な見通しを聞いた。山本は次のように答えたという。 「それは、是非やれと言われれば、初め半年や1年は、ずいぶん暴れて御覧に入れます。しかし2年、3年となっては、全く確信は持てません。3国同盟が出来たのは致し方ないが、かくなった上は、日米戦争の回避に極力御努力を願いたいと思います」
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1940年9/27、日独伊3国同盟ベルリンで調印
「日独伊三国条約締結ノ詔」 |
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![]() ●この3国同盟は正式名を「日本国、獨逸国及伊太利国間三国條約」という。上は「日独伊三国条約締結ノ詔」で、下は条約の内容である。それぞれ「国立公文書館アジア歴史資料センター」にリンクしたので、原文を確認してください。条約の中で第3条が、アメリカの参戦があった時の相互軍事援助を決めたもの。第5条は、松岡外相が持論とする、ソ連を含めた4ヵ国同盟を念頭に置いて、ソ連との戦争を避ける意味合いがあったと思われる。 (新聞)昭和15年9/28の東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊 |
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條約第9号
日本国、獨逸国及伊太利国間三国條約 大日本帝国政府、獨逸国政府及伊太利国政府は萬邦をして各其の所を得しむるを以て恒久平和の先決要件なりと認めたるに依り大東亜及欧州の地域に於て各其の地域に於ける当該民族の共存共栄の実を挙ぐるに足るべき新秩序を建設し且之を維持せんことを根本義と為し右地域に於て此の趣旨に拠(よ)れる努力に付相互に提携し且協カすることに決意せり而して三国政府は更に世界到る所に於て同様の努カを為さんとする諸国に対し協力を吝(おし)まざるものにして斯くして世界平和に対する三国終局の抱負を実現せんことを欲す依(よっ)て日本国政府、獨逸国政府及伊太利国政府は左の通協定せり 昭和15年9月27日即ち1940年、「ファシスト」歴18年9月27日
*リンクします「日独伊三国条約締結ノ詔」→国立公文書館アジア歴史資料センター*リンクします「日本国、独逸国及伊太利国間三国條約」→
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9/27、ベルリンにおいて3国同盟条約が来栖(くるす)三郎駐独大使、リッベントロップ・ドイツ外相、チアノ・イタリア外相によって調印された。(出典)講談社DVDBOOK「昭和ニッポン」1億2千万人の映像の1シーン。第1巻「世界恐慌と太平洋戦争」講談社2005年7/15第1刷発行。
※(YouTube動画、サイズ2.70MB、1分)
●10/21東京代々木練兵場で記念観兵式が挙行された時のニュース映像。天皇、約5万の将兵を親閲する。
(出典)講談社DVDBOOK「昭和ニッポン」1億2千万人の映像の1シーン。第1巻「世界恐慌と太平洋戦争」講談社2005年7/15第1刷発行。
※(YouTube動画、サイズ6.98MB、1分9秒)
年・月 | 1940年(昭和15年) |
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1940年昭和15年11/13 |
御前会議、日華基本条約案・支那事変処理要綱を決定
●11/30に日華基本条約が汪兆銘政権との間で締結された。内容は日本軍の駐屯、艦船の駐留を認めさせることや、資源を日本に供給させること、租界は返還する代わりに、日本人に中華民国の領域を居住・営業のために解放させること等、日本の要求を並べたものにすぎなかった。 *リンクします「日華基本条約」→国立公文書館アジア歴史資料センター |
1940年昭和15年11/23 |
大日本産業報国会創立
●これは労働組合に代わる労使一体の官制労働者組織で、新体制に即応するために作られた。「臣道実践」「産業報国」を掲げて生産増強を推進した。昭和16年には労働者の約7割を組織した。 |
1940年昭和15年11/24 |
最後の元老・西園寺公望(さいおんじ-きんもち)死去(享年92歳)
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1940年昭和15年11/30 |
アメリカ・ルーズベルト大統領、国民政府(重慶)への新借款発表
●1億ドルの新借款と6000ドルの諸物資購入の追加契約を発表。 |
1940年昭和15年12/6 |
情報局官制公布施行
●内閣情報部を拡大強化し、情報・宣伝・文化の統制を強化した。 |
1940年昭和15年12/7 |
閣議、経済新体制確立要綱を決定・発表
●この「経済新体制確立要綱」の第1の基本方針の要点を箇条書きに述べれば次のようである。
●自給自足の共栄圏を確立するため、官民協力して重要産業を中心に総合的計画経済を遂行して、国防国家体制を完成し、軍備の充実、国民生活の安定、国民経済の恒久的繁栄を図る。
①そのために、企業体制を確立し、資本、経営、労務を有機的に一体化して、国家総合計画の下に、自主的経営のもと最高能率を発揮し、生産力を増強させる。 ②公益優先、職分奉公の趣旨に従い国民経済を指導し、経済団体を編成することによって国家の総力を発揮し高度国防の国家目的を達成する。この要綱の実施にあたっては、緊急なものに重点を置き、必要に応じ逐次実施し、生産力の低下、配給の不円滑を避け、民心の不安を起こさせないようにする。この体制の整備に即応して、関係行政機構とその事務の再編成を行う。 *リンクします「経済新体制確立要綱」→
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1940年昭和15年12/19 |
日本出版文化協会創立
●この日本出版文化協会とは、出版報国(日本文化建設と国防国家確立のため)を掲げて、全出版業者を傘下に創設された出版統制団体である。情報局の指導を受け、出版物の事前届出制を採用し、用紙割当権を掌握して、政府の出版統制政策に、業界団体として積極的に協力した。 |
1940年昭和15年12/21 |
近衛内閣、内閣改造
●内務大臣に平沼騏一郎国務大臣。司法大臣に柳川平助興亜院総務長官を任命。 |
1940年昭和15年12/26 |
日本赤十字社、救護看護婦の養成規則を改正
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1940年昭和15年12/30 |
ルーズベルト大統領、英国援助強化を揚言
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1940年(昭和15年)の出来事 政治・経済・事件・災害・文化
「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊より抜粋 1. 21 英艦,千葉県野島崎沖で浅間丸臨検,独人客21人引致 |