1939年(昭和14年)9/1ドイツ軍ポーランド侵攻「第2次世界大戦勃発」。日本は欧州戦争には介入せずと表明。
2023年4月16日第2次世界大戦
●だが1939年8月「ノモンハン事件(ソ連軍との大規模紛争)」で日本軍は大敗する。それから日本はドイツに翻弄され続ける。 同年8/23ドイツは突然「独ソ不可侵条約」を結ぶ。この日本とドイツとの防共協定違反は、平沼騏一郎内閣を、「欧州の天地は、複雑怪奇」と声明させるほどの衝撃を与え、総辞職(8/28)させた。一番驚いたのは陸軍かもしれない。
続いて、9/1「ドイツ軍ポーランド侵攻」、9/15「ノモンハン事件停戦協定調印」、9/17「ソ連ポーランド侵攻」など、ドイツとソ連との秘密協定にからんだ一連の出来事に、日本はドイツの外交政策に不信を抱いた。そして日本は3国同盟締結に消極的になった。
●だが陸軍は、ドイツの圧倒的な軍事力によるポーランド進撃と、イギリス、フランスのドイツへの対応を見て、アジアにおいて英米仏蘭を排除し、日本による「大東亜新秩序建設」の実現の可能性を見た。そして陸軍は国をあげての反英運動を主導し、3国同盟締結に邁進していく。
●昭和14年、依然として海軍は強く3国同盟に反対していた。だが平沼騏一郎内閣は総辞職(8/28)して、米内光政は軍事参議官となり、海軍大臣には吉田善吾前連合艦隊司令長官がなった。山本五十六次官は連合艦隊司令長官に任命された。人が替わり時代が戦争へと傾いていく。(上写真)ノロ高地「進撃(一)の写真」(=ノモンハンへ進撃する部隊)(出典)ノロ高地 草葉榮著 昭和16年原本発行 昭和53年発行
1939年(昭和14年)3/15、内務省令第12号によって、「招魂社は護国神社と改称」されることとなった。この意味することは、日清・日露戦争以後全国各地につくられた戦没者をまつる招魂社を、東京九段の靖国神社を頂点とする国家による地方分社(末社)の体系がつくられることを意味したのである。また4/8には宗教団体法を公布し、宗教団体を統制し国策に奉仕させ戦争協力を徹底させた。
●2/3内務省は、各地に戦没者を祀る「招魂社」の乱立を規制するため、この招魂社設立を1道府県に1社と制限した。そして3/15招魂社を護国神社と改称し、道府県および市町村が護国神社の維持に努めるように義務付けた。
4/1内務大臣指定として、北海道護国神社(旭川市)、栃木県護国神社(宇都宮市)、佐賀県護国神社(佐賀市)など34の護国神社が生まれた。その後指定は追加され、昭和20年敗戦まで計52社となった。
東京九段の靖国神社は、それら護国神社の頂点をなす神社であった。
●そして4/8、強力な宗教統制法規である宗教団体法を公布した(昭和15年4/1施行)。平沼騏一郎首相はこの法案の提出理由を次のように貴族院で説明した。
これにより政府は、教派、宗派の合同をうながし、仏教は50あった宗派が半数に統合され、キリスト教はギリシャ正教のハリスト正教会を別にして、新教・旧教の2大教団にまとめられた。そしてカトリックは「日本天主公教」を設立し、プロテスタントは28教派が合同して「日本基督教団」を設立した。
●そして日本は、天皇崇拝と神社を「国家の宗祀」(天照大神を祀る伊勢神宮を全国の神社の頂点)とする「国家神道」を国民教化の基盤とする全体主義国家へと突き進むのである。神道は一般宗教の上にあり、かつ宗教ではないものとされた。
●ここで日本の「靖国神社(やすくにじんじゃ)」について基本的なことを書いておきたい。下段「靖國神社の由来」には次のようにある。
「靖国神社」とは
ための国家施設であり、(現在は国家施設ではない)
という神社であった。
●この靖国神社は、日本軍国主義と天皇を崇敬し絶対化する国家神道の核心神社ではあったが、この「国家に尽くし戦死した人々を祀る」ということは、どんな国家においても認められた権利であり義務であることは知っておいたほうが良い。
この靖国神社に関しては、1978年のA級戦犯合祀(ごうし)による、それ以降の昭和天皇靖国神社不参拝や、内閣総理大臣等による靖国神社公式参拝に対する中国政府の非難など、「靖国神社問題」は現在までも続いている。
あえて言えば、この問題には日本人特有の精神文化が関係している。日本人は「死者」に対しては、生前の行いに関わらず全てを許す精神文化があるからである。さらに言えば、過去に執着しない国民性があるのかもしれない。
●『精神訓話 : 初年兵教育参考資料』佐々木保次郎 編述 兵事雑誌社大正1年刊より引用。
●靖國神社に就ての講話(一月二十三日)
一 靖國神社の由来
靖國神社は東京市(とうきょうし)の中央麹町区九段坂上(さかうへ)に祀(まつ)ってある、國家の爲めに名誉の戦死を遂げ一身を抛(なげう)って吾等同胞の為に盡(つく)した陸海軍の勇士の心霊を祭る神社で、毎年(まいねん)五月と十一月の兩度(りょうど)に大祭典(だいさいてん)を行はれ、同時に戦死者の遺族の人々を厚く待遇されて死者の勳功(くんこう)に酬いられるのである。
同神社は明治二年に招魂社(せうこんしゃ)として國家の難(なん)に殉(じゅん)したる戦士の靈(れい)を慰むる爲めに祭典を行はれたのが始(はじ)めにて、當時(たうじ)は仁和寺宮(じんわじのみや)、小松宮(こまつのみや)、有栖川宮(ありすがはのみや)、などの皇族方が御自身で御祭典をなされ、いかにも嚴肅(げんしゅく)壯嚴(さうげん)なものであったさうだ、正月、五月、七月、十一月の四回に伏見、鳥羽、上野、函館の役に戦死した人々の記念として祭典を營まれたのであった、是等(これら)の戰は何れも明治維新の當時に起ったので伏見鳥羽と云ふは慶應三年に徳川十五代の將軍慶喜(けいき)公が大政を朝廷に還(かへ)し奉り天下の政治は朝廷から出ることとなったのであるが、當時慶喜公は京都を守護して居る薩摩藩を快(こころよ)からず思ふことがあり、之を討(うた)うと云ふので、明治元年正月に會津(あひづ)桑名(くわな)の二藩の兵を京都に上らせた、其時慶喜公は大坂(おおさか)に居たのであつたが、京都の官軍は徳川氏の軍を伏見鳥羽に邀(むか)へ撃って之を走らせ進んで大阪に入たので慶喜(けいき)公は海上から江戸に逃れ、官軍(くわんぐん)は大挙して江戸を討(う)つことになったのである、そこで慶喜公は退隱(たいゐん)謹慎(きんしん)して罪を請(こ)ひ江戸城を明け渡した、然(しか)るに徳川氏の臣下(しんか)に不服の者共(ものども)があり彰義隊(しゃうぎたい)と稱して上野(うえの)東叡山(とうえいざん)に據(よ)り官軍の命に抗(こう)したから官軍攻めて之を平(たひら)げた、之れが即ち上野の役(えき)で明治元年五月であつた、上野を逃(のが)れ出た賊は宇都宮日光などに據(よ)ったが皆平げられ唯この先に榎本武揚(えのもとぶやう)等(ら)が軍艦を率(ひき)ゐて江戸彎から逃(のが)れ北海道に走つて函舘に據つたが官軍は進んで乙れを攻め榎本等を降参させたこれを函舘の役と云ふのである。
扨(さ)て是等の戦役(せんえき)に討死した官軍の將士(しゃうし)のために招魂社(せうこんしゃ)を建てて祭典(さいてん)を行はるることに就いては今靖國神社の御前に高く全都(ぜんと)を瞰下(みおろ)してゐる銅像を建てられれてある、故兵部大輔(ひょうぶたいふ)大村益次郎(おほむらますじらう)と云ふ人が非常に盡力(じんりょく)せられたので靖國神社の始まったのは全く大村氏の力に依ると云ってもよい程である。又 明治天皇陛下は畏(かしこ)くも是等の戰役に忠勇なる將士が身命を棄てて國家の難に殉(じゅん)したる功績を御思召し給ひ、明治七年一月二十七日には御(ご)親拝(しんぱい)あらせられて赤地(あかぢ)青地(あおじ)の大和錦(やまとにしき)を御藏めになり。
と云ふ御製(ぎょせい)の宸翰(しんかん=天子の直筆の文書)をも賜はせられた、先帝陛下は其後も六回程も御参拝あらせられた、ことに優渥(いうあく=ねんごろに手厚いこと)なる 聖旨(せいし=天子のおぼしめし)には地下の英魂(えいこん)も感泣(かんきゅう)し奉(たてまつ)ることと思はれる、其後明治十二年八月に靖國神社の名を賜り別格官幣社(かんぺいしゃ)とし五月、十一月の兩度に祭典を行ふ事となされ、度毎(たびごと)に勅使を立てられて祭文(さいもん)を御納めになり殊に或年の如きは只一名の兵卒を祀ったのに猶ほ同じく勅使を立てられ立派なる祭典を行はれた、靖國と云ふ名は功勞者を賞するは國を靖(やすん)する基といふ意味で御定めになったのだと承(うけたま)はって居る、尚ほ神社の本殿(ほんでん)は明治五年、祭殿(さいでん)は明治三十四年の建立である。
リンクします「靖國神社に就ての講話」『 初年兵教育参考資料』佐々木保次郎 編述 兵事雑誌社大正1年刊
●次に、『靖国神社誌』賀茂百樹 編 靖国神社 明44.12(1911年)より「名称」のところを引用。
本神社は初め招魂社と稱せしが草創に際して招魂祠、或は招魂場などとも呼びしことあり。招魂場とは神靈を招ぐ齋場の名にして、招魂社又は招魂祠とは、其招ぎたる神靈を祭祀する祠社の謂なれば自ら区別あるなり。されば本神社には別に招魂場の設ありて神靈を合祀せんとする時は、必ず先づ其神靈を招魂場に招ぎ奉り、而して後、神殿に遷して鎭祭するを例とす。然れども元来招魂社の稱號は、國家多端の際に起りし名にして、在天の神靈を一時招齋するのみなるやに聞えて、萬世不易神靈嚴在の社號としては妥當を失するかの嫌なきにあらず。茲に於てか明治十二年六月四日別格官幣社に列せらるる共に、靖国神社と改稱せられにき。靖國の字は春秋左氏傳に見えたりと雖も其意義は、祭神の偉勳に據りて國家を平和に統治し給ふの義なること、御祭文に「汝命等(いましみことたち)の赤き直き眞心を以て家を忘れ身を擲(なげうつ)て各も各も身死りにし其大き高き勳功に依りて大皇國をば安國と知食すことぞと思ほし召すが故に靖國神社と改め稱へ別格官幣社ご定め奉りて御幣帛奉り齋ひ奉らせ給ひ今より後彌遠永に怠事なく祭給はむとす」と宜らせ給へるが如し。それ我が帝國は古来平和を以て國是とすれば皇祖列聖安國と平らけく天の下を知食さむ事を軫念(しんねん)し給ひ、下民も亦聖旨を奉戴して、平和の爲めに一身を犠牲に供し、死しても猶ほ護國の神となりて、平和を格護せむことを期しつるなり。靖國の稱實に宜なりけり。
リンクします『靖国神社誌』 賀茂百樹 編 靖国神社 明44.12

ここで用語の簡単な意味を書いておく。日本語は漢字を基礎にしているので、無数の概念を作り出すことができる。荘厳で伝統的で儀式的な装いをもった言葉だからといって、それが真実を示すものかどうかは慎重に考えなければならない。
●英霊(えいれい)・・①すぐれた人の霊魂。②死者の霊の尊称。特に、戦死者の霊にいう。
(星野注:英霊の文字は、藤田東湖の『和文天祥正気歌(ぶんてんしょう・せいきのうたに・わす)』に由来するという。)
(注)凜然(りんぜん)=②勇ましいさま。りりしいさま。彝倫(いりん)=人として常に守るべき道。
●靖国神社の祭神・・英霊(「祖国を守るために死んだ方々の神霊」をいう。)
●神道における人間の死後・・人間は死後、霊魂は死後の世界へ行き、神となって子孫を見守り、守り神となって永遠にとどまる。そしてさらにお祀りをすることによって、災いを防ぎご加護を得ることができる、とあります。
●祀(まつ)る・・①供物・奏楽などをして神霊を慰め、祈願する。「死者の霊を祀る」②神としてあがめ、一定の場所に鎮め奉(まつ)る。奉祀する。「祖先を祀る」。等
●合祀(ごうし)・・二柱以上の神・霊を一社に合せまつること。また、ある神社の祭神を他の神社に合せまつること。
●分祀(ぶんし)・・分けて祀(まつ)ること。本社と同じ祭神を別の新しい神社に祀ること。
●柱(はしら)・・神・霊または高貴の人を数えるのに用いる語。
●顕彰(けんしょう)・・明らかにあらわれること。明らかにあらわすこと。功績などを世間に知らせ、表彰すること。
●追悼(ついとう)・・死者をしのんで、いたみ悲しむこと。
●慰霊(いれい)・・死者の霊魂をなぐさめること。
●社(やしろ)・・『屋代(やしろ)の意。すなわち神籬(ひもろぎ)を神霊の来臨する屋の代わりとする意。』①神の降下する所。・・等
●神籬(ひもろぎ)・・(前略)後には、室内・庭上に常磐木(ときわぎ=常緑樹、マツ・杉類)を立て、これを神の宿るところとして神籬(ひもろぎ)とよんだ。またツバキ科の常緑小高木を榊(さかき)として神木とした。
●依代・憑代(よりしろ)・・神霊が招き寄せられて乗り移るもの。樹木・岩石・人形などの有体物で、これを神霊の代わりとして祭る。かたしろ
リンクします藤田東湖『和文天祥正気歌』「愛国詩文二千六百年」高須芳次郎 著
非凡閣1942年刊
1939年(昭和14年)国家主義者の蓑田胸喜は、雑誌「原理日本」の臨時増刊号(第15巻第11号。昭和14年12/24付)で、津田左右吉の「古事記及日本書紀の研究」などを「大逆思想」として攻撃した。「天皇機関説事件」と同じく、「天皇と国体」について疑義をはさむことは、許されざるものとしたのである。
●津田左右吉は、「古事記」「日本書紀」などを、現代では当たり前な、科学的史料批判の考えで研究を行い、天皇の系譜の一部の実在に疑義を提出していたのである。
●そして、昭和15年2月、津田の著書である「古事記及日本書紀の研究」「神代史の研究」「日本上代史研究」「上代日本の社会及び思想」が発売禁止とされ、津田は早稲田大学教授からも追われた(1月)。またこれらを出版した岩波茂雄(岩波書店)も出版法違反で起訴された。
リンクします「古事記及日本書紀の研究」津田左右吉 著 岩波書店1924年刊
2019年7月6日朝日新聞デジタルに「伝仁徳天皇陵」世界遺産登録に関する記事があった。この記事には内在する問題点についても書かれている(赤字部分)。記事を抜粋すると以下のようである。
●この赤字部分の何が問題なのかといえば、日本の古代史研究は、「古事記」「日本書紀」の記述を前提としてきたということである。そしてそこに書かれた天皇の古墳は国家によって比定され、明治以来の絶対的「天皇制」によって不可侵性を与えられ、今もそれが続いているということにある。具体的には以下のことである。
②この古墳も、歴代天皇や皇后、皇族の墓として宮内庁が管理している陵墓(りょうぼ)であること。
③この古墳も、非公開で本格的な発掘調査を宮内庁が認めていないこと。天皇の墓もまた「天皇は神聖にして侵すべからず(帝国憲法第3条)」なのである。
④考古学・歴史学的に、誰が被葬者なのか、いつ作られたのか、などがわからない古墳であること、などである。
●現代日本人は、その科学的な思考を好む性向からすれば、「非公開で本格的な発掘調査が認められていない」不確定な古墳を「世界遺産」に登録することよりも、より学術的な方法で発掘調査研究を行い、古代日本にとって重要な古墳時代の歴史を明らかにすることの方が、より重要であると考えるに違いない。 なぜなら、現在「天皇陵」といわれる古墳の主要部には、まったく考古学的な発掘調査は入っておらず、その調査の必要性は、日本の古代史解明に大きな道筋を与えるほど重要と考えられているからである。
このままでは日本の歴史考古学は、宮内庁の管轄という政治的・宗教的な障害によって停滞し、日本国家成立に向かうダイナミックな古墳時代を解き明かすことが不可能となってしまうかもしれない。これは言い換えれば日本人の知性の衰退を招いているのである。日本が文化国家・民主国家であるためには、明治以来の「天皇制」の呪縛から自由になるべきである。学問にイデオロギーが入るとき、それを人は「宗教」というのである。
(※誰が見ても感じることとおもうが、少なくても雑木林は取り払って、堂々たる構造物である前方後円墳を現出させたほうが良いと思われる。横から見たらただの森にしか見えないのだから)
●また最近の風潮で感じることは、「世界遺産」に対する過剰なマスコミ報道による、異様な盛り上がり方(世界に認められたい感)である。ユネスコの「世界遺産」の登録を、商業主義的な価値観(観光客の呼び込み)を含め、無批判にありがたがるのは、日本人の欧米人崇拝に原因があるのだろうか。
●下は日本帝国憲法を解説した伊藤博文の「憲法義解」の第1章「天皇」と第1条の条文についての部分である。「天皇制」という明治新政府によって作られた日本国家の骨組み(国体)は、この憲法の条文の公式な解説でより鮮明に理解することができる。この「天皇制」は今も日本社会の奥底に残っているのである。
恭(つつしみ)て按(あん)ずるに、天皇の宝祚(ほうそ=天皇の位)はこれを祖宗(そそう)に承(う)け、これを子孫に伝ふ。国家統治権の存する所なり。而(しこう)して憲法に殊(こと)に大権を掲げてこれを条章に明記するは、憲法に依(より)て新設の義を表するに非ずして、固有の国体は憲法に由(より)てますます鞏固(きょうこ)なることを示すなり。
【国体】
恭(つつしみ)て按(あん)ずるに、神祖(しんそ=神武天皇のこと)開国以来、時に盛衰ありといへども、世に治乱(ちらん=治まった世と乱れた世)ありといへども、皇統一系宝祚(ほうそ・あまつひつぎ)の隆(さかえ=栄えること)は天地(あめつち)と与(とも)に窮(きわまり)なし。本条首(はじ)めに立国の大義を掲げ、我が日本帝国は一系の皇統と相依(あいより)て終始し、古今永遠に亘(わた)り、一ありて二なく、常ありて変なきことを示し、以(もっ)て君民の関係を万世(ばんせい)に昭(あきら)かにす。
統治は大位(=大御位《おおみくらい》の意味で、天皇の位)に居り、大権を統(す)べて国土および臣民を治むるなり。古典に天祖の勅(ちょく)を挙げて「瑞穂(みずほ)の国は、是(こ)れ吾(あ)が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり、宜(よろ)しく爾(いまし)皇孫(すめみま)就(ゆ)いて治(しら)せ」と云へり。また神祖を称(とな)へたてまつりて「始御国(はつくにしらす)天皇(すめらみこと)」と謂(い)へり。
日本武尊(やまとたける)の言に、「吾(あ)は纏向(まきむく)の日代宮(ひしろのみや)に坐(おわ)して大八島(おおやしま)国(くに)知(し)ろしめす大帯日子(おおたらしひこ)淤斯呂和気(おしろわけの)天皇(すめらみこと)の御子(みこ)」とあり。文武(もんむ)天皇即位の詔(みことのり)に、「天皇が御子のあれまさむ弥(いや)継継(つぎつぎ)に大八島国知らさむ次(つぎて)」とのたまひ、また「天下を調(ととの)へたまひ平げたまひ公民(おおみたから)を恵みたまひ撫(な)でたまはむ」とのたまへり。世々の天皇皆この義を以て伝国(でんこく=国を伝える)の大訓(おおみさとし)としたまはざるはなく、その後「御大八洲天皇(=おおやしま《大八洲》・しろしめ《御》す・すめらみこと《天皇》)」と謂(い)ふを以て詔書の例式とはなされたり。いはゆる「しらす」とは即ち統治の義にほかならず。
けだし祖宗(そそう)その天職を重んじ、君主の徳は八洲(はっしゅう)臣民を統治するに在(あり)て一人一家に享奉(=ご愛顧を享け奉仕するの意)するの私事に非(あら)ざることを示されたり。これ乃(すなわ)ち憲法の拠(より)て以てその基礎と為す所なり。
我が帝国の版図(はんと=領土)、古(いにしえ)に大八島(おおやしま)と謂へるは淡路島(即ち今の淡路)・秋津島(即ち本島)・伊予の二名(ふたな)島(即ち四国)・筑紫(つくし)島(即ち九州)・壱岐島・津島(津島即ち対馬)・隠岐島・佐渡島を謂へること古典に載せたり。景行(けいこう)天皇東蝦夷(えみし)を征し、西熊襲(くまそ)を平げ、疆土(きょうど=領土内)大(おおい)に定まる。推古天皇の時、百八十余の国造(くにのみやっこ)あり。『延喜式(えんぎしき)』に至り六十六国および二島の区画を載せたり。明治元年陸奥出羽の二国を分ち七国とす。
二年北海道に十一国を置く。ここに於て全国合せて八十四国とす。現在の疆土は実に古のいはゆる大八島・『延喜式』六十六国および各島ならびに北海道・沖縄諸島および小笠原諸島とす。けだし土地と人民とは国の以て成立する所の元質(げんしつ=元素)にして、一定の疆土は以て一定の邦国を為し、而(しこう)して一定の憲章その間に行はる。
故に一国は一個人の如く、一国の疆土は一個人の体躯(たいく)の如く、以て統一完全の版図を成す。
●一方、日本国憲法の第1章も「天皇」から始まる。「国民」を代表する「国会=議会(立法)」、あるいは「国民」から憲法が始まらないことも、民主主義国家としては不思議なことである。憲法改正というのは「憲法9条」だけが問題ではない。
〔天皇の地位と主権在民〕
第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
リンクします「帝国憲法義解」伊藤博文 著 国家学会 明治22年刊
6-3
1939年(昭和14年)11/10、日本は、朝鮮に対して「朝鮮民事令改正」を公布した(昭和15年2/11施行)。これは「創氏改名」であり、朝鮮民族は、内鮮一体・皇民化政策によって、名前、言葉を奪われていく。
三、我共は 忍苦鍛錬して 立派な強い国民となります
●朝鮮総督府がこの日公布したのは、政令第19号「朝鮮民事令中改正ノ件」(氏制度と婿養子制度の創設など)と第20号「朝鮮人ノ氏名ニ関スル件」(氏名の制限など)だった。
●朝鮮民族の伝統的同族集団「同本同姓」(同本=同じ本貫)を簡単に説明すれば以下のようである。
父方の祖先(始祖)を同じくする人々の集団を同本同姓と称して、広い意味での同族と考える。例えば、朝鮮王室の一族である全州李氏といえば、全州を始祖の出身地(本貫)とし、李を姓とする同族ということになる。全州李氏の始祖李翰は新羅の地方官僚だったとされるように、同本同姓集団の始祖はおおむね新羅から高麗初期にまでさかのぼる長い歴史をもっている。同本同姓は『族譜』をつくって結束を固めた。
そしてその「姓」(例えば金、李、朴等)は、近親結婚を避けるため「同姓不婚」「同姓不娶」の標識ともなった。朝鮮では生涯にわたって父祖の姓を名乗り、女性は結婚しても姓を変えることはせず、男性が養子縁組で他家に入る場合は、同本同姓でなければならなかった。これらは中国古来からの原則であったが、日本では定着しなかった。
●この朝鮮の古来からの制度を、日本式(1870年に制定)の戸主による家父長制による「氏」を創設させ、「夫婦同氏」となる制度に強制的に変えた。そして名前も日本式の名に改めさせようとした。この改名は任意とされたが、朝鮮民族を「皇民化」させるための指標であったので、当然ながら有形無形の圧力が加えられた。
●創氏改名は、締め切りが1940年8/10までだったが、総戸数の約8割である322万戸が届け出をすませ、受理された。一例をあげると、朴正煕(パクチョンヒ)大韓民国大統領(1963年~1979年)の「創氏改名」による日本名は、高木 正雄(たかぎ まさお)であった。
●下は「朝鮮総督府編・施政30年史1940年刊」からの「氏制度の創設」の部分の抜粋である。全文は下段でリンクした。「第七期 南總督時代/405」を参照してください。
(一) 氏制度の創設
(イ)氏制度施行の精紳
朝鮮民事令の改正は、幾多の重要なる事項を含んで居るが、其の中でも氏制度の施行は其の眼目をなすものであって、半島統治史に一時代を画する重要なる制度である。往古皇室に於かせられては渡航帰化人に対し氏を賜ひ、一視同仁の大御心を現はし給ふたのであるが、之等帰化人は今日形容共に大和民族に薫化融合して其の後裔たる跡を留めて居ない状態である。歴史的考証に依れば、今日の大和民族を形成する祖先は、必ずしも純一なる大和民族のみではない。然るに今日渡航帰化人の悉くが大和民族に大和し同化したる所以のものは、前述の如き偉大なる包容力を以て万民を愛撫し給ふた皇謨によるものであって、換言すれば肇國の大精神たる八紘一宇の理念を顕現させ給ふた賜であると拜察し奉る次第である。半島に氏制度の施行せられた所以は、実に叙上の大和大愛の発露であって、之に依り半島人の要望を容れ、以て肇國の皇猷に酬いんとする重要なる制度に外ならない。
(ロ)制定の概要
民法に於ては、第746條に依り戸主及び家族は其の家の氏(家を表彰する為の法律上の名称)を称することと定められ、他家より入りたる家族は総て従前の氏を改めて現在の家の氏を称することになっているが、朝鮮に於ては、従前男系血族の団体たる宗族制度が存在して居って、其の血族の名称である「姓」のみがあり、家の称号たる氏はなかったのであるが、近代的家族制度が確立し、家の観念が明確になった現代に於ても、家に其の称号たる氏がなく、各人は皆男系血族の称号たる姓を称して居り、婚姻等に依って他家に入っても其の姓を変えることがなかったから、一家族中に数姓存在することは通常の事例である。 斯かる一族一姓・家族異姓の制度は家族制度の本質に鑑み適当でないのみならず、後記婿養子及び異姓養子の制度を創設する上にも、家の称号を定めることは、相続の本質上當然要請される処であるので、改正令に於ては此の制度を改め、戸主及び家族は皆其の家の「氏」を称することとし、以て近代的家族制度の要求に合致せしむることとした。 氏を称するには先づ氏を定むることが前提となるが、氏の設定権は戸主権に属するから、戸主又は戸主権を代行する者(法定代理人)が之を定め、改正令施行の日(昭和15年2月11日から6月以内)に、府尹・邑面長に届出でることに因って効力を生ずるものと定めた。又氏設定に関して、制限の外自由に氏を選定し得るものとし、若し6月以内に氏の届出がなかったときは、改正令施行当時の戸主の姓を以て氏とし、而してその戸主が女戸主(一家創立者を除く)であるか、又は戸主相続人が明かでないときは、前の男戸主の姓を以て氏とすることと定めた。尚お右の外、同年12月26日府令第221号を以て、氏の設定に伴う届出及び戸籍の記載手続きに関し細則を定めた。
●これに抗議して下の遺書を残して自殺した朝鮮・全羅南道の柳健永がいた(ひとつの例)。日本は朝鮮民族に深い苦痛を与え、様々な悲劇が生まれた。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
リンクします「朝鮮総督府編・施政30年史1940年刊」
●下段は日本の朝鮮支配の略年表である。朝鮮民族は日本によって、名前と言葉を奪われていく。特に1936年(昭和11年)8月5朝鮮総督に南次郎が就任すると、それまでの「内鮮融和」から「内鮮一体」へと支配を強力に進めていく。
●(左写真-李淑子)高々とひるがえる日の丸。ハングル文字での説明は、「私たちの国旗は、白地に赤をまるく染めたものです」と記されている。(『初等朝鮮語読本』卷2)朝鮮総督府編集教科書から。
(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
年 | 内容 |
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1936年昭和11年 | 8/5朝鮮総督宇垣一成辞任、後任に南次郎(~1942・5・29)。 ●朝鮮総督南次郎は、陸軍大将、朝鮮軍司令官、陸相、関東軍司令官を歴任した。そして宇垣一成の後任となるや、「内鮮一体」をスローガンに朝鮮人皇民化政策を押し進めた。 |
8/5府令第76号「神社規則」改正、一邑面一神社を定める。 ●一邑面一神社(=一町村に一神社)を目標に神社建設を行い、翌年の日中戦争勃発後は、毎月一日を「愛国日」として神社参拝を強制した。 |
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12/12制令第16号で、朝鮮思想犯保護観察令及び付則を公布(1928~35年の治安維持法違反検挙者が1万6000人を超え、思想犯の転向を促すため)。 | |
1937年 | 3/17総督府文書課長談の形で、日本語使用の徹底に関し各道に通牒(行政機関等での日本語使用を強制)。 |
10/2「皇国臣民の誓詞」を制定。 ●この誓詞(ちかい)の斉唱を、学校・官公庁をはじめ、すべての職場で義務づけた。 下は、1937年10月定められた「皇国臣民の誓詞(ちかい)」一般用(上)と小学校用(下)。カタカナはひらがなに、旧漢字は新漢字に変えた。
(皇国臣民の誓詞)
一、我等は皇国臣民なり 忠誠を以て 君国に報ぜん 一、我等皇国臣民は 互に信愛協力し 以て団結を固くせん 一、我等皇国臣民は 忍苦鍛錬力を養い 以て皇道を宣揚せん
(皇国臣民の誓詞・小学校用)
一、私共は 大日本帝国の臣民であります ニ、我共は 心を合わせて 天皇陛下に忠義を尽くします 三、我共は 忍苦鍛錬して 立派な強い国民となります |
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12/23天皇の写真(御真影)を全朝鮮の初等学校・中等学校59校に下賜、その伝達式行われる。 | |
1938年 | 2/23勅令第95号で、陸軍特別志願兵令公布(訓練所人所者は1938年度406人、1939年度613人、1940年度3060人)。 |
3/4改正朝鮮教育令公布。普通学校・高等普通学校・女子高等普通学校を廃止、内地同様の学院体系とする。 ●これにより学制・教科書を日本と近似の形にし、朝鮮語を学校の正課からはずした。 |
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9/10朝鮮のキリスト教長老教会派、神社参拝を承認(1938年末の信徒数は神道9万5991、内地仏教30万9740、朝鮮仏教19万4876、キリスト教50万842。━総督府発表) | |
1939年 | 11/10朝鮮民事令改正、朝鮮人の氏名に関する件公布。 |
12/26氏の設定、氏名の変更に関する細則を定め、翌年2月11日施行と決定。 | |
1940年 | 8/10民族紙『東亜日報』『朝鮮日報』、強制廃刊させられる。 |
1941年 | 8/31朝鮮総督府、国民学院規程を公布。朝鮮語の学習を廃止。 |
1943年 | 3/1兵役法改正公布。朝鮮に徴兵制を施行(同年8月1日施行) |
リンクします「前進する朝鮮」朝鮮総督府情報課 昭和17年刊
●昭和14年(1939年)になると、近衛内閣は日本・ドイツ・イタリアによる3国同盟締結の問題で閣内不一致となり総辞職した。後を継いだのは枢密院議長の平沼騏一郎であったが、近衛文麿も無任所大臣として入閣した。この3国同盟の意見の対立とは、海軍と外務省が敵の対象をソ連だけとしたのに対して、陸軍は英米をも含めて敵とすべきと主張したことにあった。
●陸軍は、中国戦線の苦戦と長期化の要因は、イギリスによる国民政府に対する支援(援蔣ルートなど)によるものだとして、特にイギリスに対して敵対と挑発を繰り返すようになった(国内では陸軍主導による反英キャンペーンなど)。そして6月陸軍は、親日派の暗殺事件を理由に中国天津の英仏租界を軍事力をもって封鎖した。これには国民政府の法定貨幣である「法幣」のバックボーンであるイギリスに対する圧力も主たる目的の一つだった。これに対してイギリスはドイツと同様な宥和政策で日本に対応した。
これをみたアメリカは、イギリス(チェンバレン内閣)に対してその弱気な姿勢(ドイツと同様な宥和政策)をけん制し、かつ日本に対する制裁目的で、翌年満期となる日米通商航海条約廃棄を通告した。
だが平沼内閣は、突然ドイツが「独ソ不可侵条約(8/23)」を締結したことに衝撃をうけ、「欧州の天地は、複雑怪奇」と声明し総辞職(昭和14年8/28)した。その4日後ドイツ軍はポーランド侵攻を開始した。
●陸軍は、ソ連との国境紛争処理に対する方針をさらに強硬なものに変えた。「・・ソ連の野望を初動において封殺・破砕す」という強硬姿勢である。そして5月ハルハ河付近の国境紛争が大規模な軍事衝突に発展した。ノモンハン事件(=ハルハ河戦争)の勃発である。
ソ連のスターリンは3月の党大会で「・・ソ連国境に対する打撃に対しては2倍の反撃をもって応ずる」と表明していた。陸軍は、この初の本格的な近代戦において、建軍以来の大敗北をこうむったといわれる。(国民には隠された。)
●こうしたなか8/23、突如としてドイツはソ連と不可侵条約を結んだ。日本はドイツと防共協定を結んでおり、ドイツのこの行動は協定違反と断定し、今後ドイツとの同盟強化は打ち切りと決定した。日本政府と陸軍は、ドイツが仮想敵国であったソ連と不可侵条約を結んだことに大衝撃を受けたのである。そして8/28、平沼騏一郎内閣は、「欧州の天地は、複雑怪奇」と声明し総辞職した。後継は阿部信行(陸軍大将)が組閣した。
*リンクします「陸軍叢書 大本営陸軍部(1)」支那事変の拡大と長期化→
「防衛庁防衛研究所 戦史室著 朝雲新聞社」
下の動画は、ノモンハン事件の現地映像で、講談社DVDBOOK「昭和ニッポン」から紹介する。
(出典)講談社DVDBOOK「昭和ニッポン」1億2千万人の映像。第1巻「世界恐慌と太平洋戦争」講談社2005年7/15第1刷発行。
※(YouTube動画、サイズ3.70MB、32秒)
年・月 | 1939年(昭和14年) |
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1939年昭和14年5/12 |
朝鮮人労働者賃上げなどを要求、ストライキを実施する
●山口県石田村道路工事現場で働く朝鮮人労働者116人が賃上げなどを要求、うち45人がストライキを実施。 |
1939年昭和14年5/15 |
各帝大医学部・官立医大に臨時付属医学専門部を設置
●これは日中戦争における軍医の需要増加が要因の一つだった。 |
1939年昭和14年5/18 |
拓務省は女子拓殖講習会を開くことを決める
●これは、移民の花嫁を養成するために、全国各府県で開くものであった。 |
1939年昭和14年5/22 |
戦時体制下の教育と少年産業戦士
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「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」
「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」(読みやすいように段を分けた-星野)
國本(こくほん)ニ培(つちか)ヒ國カ(こくりょく)ヲ養ヒ、以(もっ)テ國家隆昌(りゅうしょう)ノ気運ヲ永世ニ維持セムトスル、任(にん)タル極メテ重ク、道(みち)タル甚(はなは)ダ遠シ。 而(しか)シテ其ノ任(にん)實(じつ)ニ繋(かか)リテ汝等(なんじら)青少年学徒ノ雙肩(そうけん)ニ在リ。 汝等、其(そ)レ気節ヲ尚(たっと)ビ、廉恥(れんち)ヲ重ンジ、古今ノ史實ニ稽(かんが)ヘ、中外ノ事勢ニ鑒(かんが)ミ、其ノ思索ヲ精(せい)ニシ、其ノ識見ヲ長ジ、執(と)ル所(ところ)中(ちゅう)ヲ失ハズ、嚮(むか)フ所(ところ)正(せい)ヲ謬(あやま)ラズ、各(おのおの)其ノ本分ヲ格守(かくしゅ)シ、文(ぶん)ヲ修(おさ)メ武(ぶ)ヲ練(ね)リ、質實剛健ノ気風ヲ振勵(しんれい)シ、以テ負荷ノ大任ヲ全(まった)クセムコトヲ期セヨ。 |
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「小学校卒業者の職業指導に関する件」
●これは厚生・文部両大臣が昭和13年10/26に訓令でだしたもので、『学校卒業後に於ける児童の職業をして国家の要望に適合せしむることを期すべし』と明示した。昭和13年3月において、全国の小学校卒業者(尋常科・高等科卒業・高等科中退を含む)248万余人のうち41万余人が就職した。 |
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1939年昭和14年5/22 |
独伊軍事同盟成る
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1939年昭和14年5/29 |
武道(柔道・剣道)を準正課と訓令
●文部省は、小学校尋常科(5年・6年)と高等科の男子生徒に武道を準正課として課すことを訓令した。 |
1939年昭和14年5/31 |
汪兆銘、上海から海軍機で横須賀に到着
●昭和13年12/18汪兆銘(中国国民党副総裁)が重慶を脱出し、12/19ハノイ着。 |
1939年昭和14年6/1 |
昭和電工(株)設立
●森矗昶(もりのぶてる)が創業した日本電気工業と、森が経営に関わった昭和肥料が合併して昭和電工が設立された。この昭和電工を中心に、化学、アルミニウム製造などに事業展開したのが森コンツェルンである。 |
1939年昭和14年6/1 |
空母翔鶴(しょうかく)進水
●同艦は、日本海軍で初めて球状艦首(バルバス・バウ=波の抵抗を小さくする)を採用した。 |
1939年昭和14年6/6 |
日本、中国に新中央政府樹立(汪兆銘政権)を決定
●5相会議は、中国に新中央政府樹立する方針を決定した。これは汪兆銘工作を推進していくということであった。 |
1939年昭和14年6/14 |
日本軍、天津英仏租界を封鎖する
(陸軍の意図したこと)
①日本は、全中国における外国租界の排撃を意図した。②特に英国は、3月に中国と1000万ポンドの「法幣」安定借款協定に調印し、国民政府と交易をやめず排撃すべきとした。③反英運動をさらに高め、アジアから英国を排斥して「東亜新秩序」を打ち立てようと意図した。④反英運動の高まりにより、3国同盟に消極的な海軍を親英派として攻撃しようとした。などである |
1939年昭和14年6/16 |
学生の長髪・パーマネント・ネオン禁止
●国民精神総動員委員会は上記運動方針などを決定。 |
1939年昭和14年6/21 |
灯台社事件発生(キリスト教団体)
●灯台社は、昭和2年(1927年)明石順三を中心として結成されたキリスト教団体である。本部はアメリカニューヨークに本部にあり、灯台社は日本支部となっていた。現在灯台社はないが、関係があった団体は、「エホバの証人」である。 |
1939年昭和14年7/1 |
総動員業務事業設備令公布
●軍需産業における生産力拡充を強化する。 |
1939年昭和14年7/1 |
東京芝浦電気が設立される
●東京電気と芝浦製作所が合併し、東京芝浦電気が設立される。戦時下にあって、家電製品の生産禁止にともない、電機業界では合同・集中化が進んだ。発電機をはじめとする重電機の代表メーカーである芝浦製作所と、電球や真空管など軽電機で知られる東京電気が合併したのである。 |
1939年昭和14年7/4 |
国民精神総動員委員会第6回総会で基本方策を決める
●これは、「公私生活を刷新し戦時態勢化するの基本方策」という題目で、目的は「・・個人主義的、自由主義的生活態度の弊風を粛清して、益々国民的、奉公的生活態度を強化すべき時である・・」とし、「具体的な実行項目を定め、官民相協力して徹底的に実践に向かって邁進する」としたのである。内容は下記のようであった。
「全国民戦場の労苦を偲び、強力日本建設に向かってまい進し、厳粛闊達なる気分を以て、国民生活綱要に副い日本精神を如実に顕現して、自粛自省、之を実際生活の上に具現し、恒久実践の源泉となす日たらしめること」
2,国民生活綱要の提唱
①早起励行 ②報恩感謝 ③大和協力 ④勤労奉公 ⑤時間厳守 ⑥節約貯蓄 ⑦心身鍛錬
3,第1期刷新項目
①料理店、飲食店、「カフェー」、待合、遊技場等の営業時間の短縮。 ②「ネオンサイン」の抑制 。 ③一定の階層の禁酒、一定の場所の禁酒。 ④冠婚葬祭に伴う弊風打破就中(なかんずく=とりわけ)奢侈なる結婚披露宴等の廃止。 ⑤中元、歳暮の贈答廃止。⑥服装の簡易化。「フロックコート」「モーニングコート」の着用は公式の儀礼に限り、其の他は平常服を以て之に代えること。男子学生生徒の長髪禁止。婦女子の「パーマネントウエーヴ」その他浮華なる化粧服装の廃止。
4,徹底方法 (略) リンクします「興亜奉公日設定に関する件」国立公文書館アジア歴史資料センター |
1939年昭和14年7/5 |
米内光政海軍大臣暗殺計画発覚
●陸軍に同調する右翼は、3国同盟に反対する者を親英派として攻撃し、要人の暗殺を計画した。狙ったのは、湯浅倉平内大臣、米内光政海軍大臣、山本五十六海軍次官、松平恒雄宮内大臣、財界の池田成彬らであった。
(昭和14年7月14日、海軍次官山本五十六閣下 「聖戦貫徹同盟」)
「今次戦争が日英戦争を通じてなさるべき、皇道的世界新秩序建設の聖戦たることの真義よりして、対英国交断絶と日独伊軍事同盟締結は、現前日本必須緊急の国策に拘(かかわら)ず、英国に依存する現代幕府的支配勢力は、彼らに利益なる現状の維持のために之を頑強に阻止しつつあり。 貴官はその親英派勢力の前衛として米内海軍大臣と相結び、事毎(ことごと)に皇国体のままなる維新的国策の遂行を阻害し、赫々(かっかく=輝かしい)たる皇国海軍をして、重臣財閥の私兵たらしむるの危険に導きつつあり。 貴官が去る5月17日英国大使館の晩餐会に於いて、日英親善の酒杯を挙げたる翌日、鼓浪嶼(ころうしょ・ころんす)に於いて英米仏三国干渉の侮蔑を受けたる事実の如きは、即(すなわ)ち幾万の戦死者の英霊と前線の将兵の労苦を遺忘(いぼう=忘却)せる海軍次官の頭上に降(くだ)されたる天警なりしが、貴官頑迷なお悟る処なきが如し矣。 我等は皇民たるの任務に基き、皇国日本防護の為(た)め、貴官の即時辞職を厳粛に勧告す。」 (注)鼓浪嶼(ころんす)=厦門島の西の共同租界の激戦とテロの事件を指すか?(星野) |
1939年昭和14年7/8 |
国民徴用令公布
●これは「国家総動員法」第4条によるもので、4条は以下の内容である。
「国家総動員法」第四條
政府ハ戦時二際シ國家総動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所二依り帝國臣民ヲ徴用シテ総動員業務二従事セシムルコトヲ得但シ兵役法ノ適用ヲ妨ゲズ ●この「国民徴用令」によって、政府は必要と認めた時に、国民を軍需産業などに強制的に従事させることができた。この徴用令書には罰則があり、交付を受けて無断で出頭しないと、1年以下の懲役または1000円以下の罰金が科せられた。兵役の召集令状は「赤紙」と呼ばれ、徴用令書は白い用紙から「白紙」召集といわれた。 |
1939年昭和14年7/12 |
対支同志会主催、英国排撃市民大会が開かれる
●日比谷公会堂で開かれたこの大会では、「英国の援蒋政策放棄を要求せしめる」ことなどを満場一致で決議した。そのあと対支同志会の寺田稲次郎ら8名が「いまや永年老獪英国の欺瞞外交にあやつられていた神州日本の義憤の爆発する時が来たのだ」と演説した。その後7/14には東京府・市会議員有志が発起人となった反英市民同盟の市民大会、7/31には中野正剛の東方会が反英東亜民族大会を開催した。 |
1939年昭和14年7/24 |
7/15、日英で会談始まる、7/24、日英円卓会議開催される
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1939年 昭和14年7/27 |
アメリカ、日米通商航海条約破棄を通告
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![]() ●「日米通商航海条約破棄」がどのような打撃を日本に与えたかを、大蔵省昭和財政史編集室編 「昭和財政史」 第13巻(国際金融・貿易)の「日華事変期における国際金融と貿易」から下に一部を引用した。上表は「重要輸入品中対米貿易の比重(昭和13年)の表」である。 |
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「・・これによって、それから6ヶ月後の15年2月から日米通商航海条約は失効し、両国間の最恵国約款は停止されることになった。海運業にとっては、従来享受していた通商航海の自由、船舶の係留および貨物の積卸に関する内国待遇、船舶のトン税、港税、その他の課税に関する最恵国待遇がすべて停止されるのである。わが国貿易の輸出において第2位、輸入においては第1位をしめていたアメリカ(第16表参照)との通商条約の失効は日本に脅威的な打撃を意味していた。そしてその破棄通告のあと、日本はヨーロッパにおける戦争の突発に際会したのであった。」
●こうして日本は、天津問題と反英運動によって、日米無条約時代を招いたのである。 |
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1939年昭和14年7/28 |
朝鮮人強制連行始まる
●内務・厚生両次官、「朝鮮人労務者内地移住に関する件」を通牒。これにより朝鮮人強制連行が始まる。
「朝鮮人労務者活用ニ関スル方策」 昭和17年2月13日 閣議決定
第一 趣旨 軍要員の拡大に伴い、内地に於ては基礎産業に於ける重労務者の不足特に著しく、従来此の種労務者の給源たりし農業労力亦逼迫し来りたる結果、応召者の補充すら困難なる実情に在り。茲(ここ)に於て此の種労務者の需給に未だ弾力を有する朝鮮に給源を求め、以て現下喫緊(きっきん)の生産確保を期するは焦眉の急務たり。而して従前より朝鮮人労務者に依存せること少からざりし土建、運輸等の事業に於ても最近之に期待すること益々大なり。 然るに朝鮮人労務者の内地送出並に之が使用に関しては複雑なる事情交錯し、内鮮の指導必ずしも一致せず、之が為生じたる弊害亦少からず。今や内地労務者の資質に鑑み、所要の朝鮮人労務者を内地に於て活用するは不可決の要請なるを以て、此の機会に於て既往の経験を省察し、其の施策に統一と刷新とを加へ、内鮮共に真の指導性万全方策を確立して、速に之を実行すること最も必要なり。 而して其の要は労務の活用と同時に教化を重んじ、以て朝鮮統治の大方針を推進すると共に、此等育成せられたる労務者は、之を朝鮮に還元し、朝鮮の我が大陸前進基地たる地位の強化に資せしむるに在り。 *リンクします「朝鮮人労務者活用ニ関スル方策」 国立国会図書館リサーチ・ナビ→
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1939年昭和14年8/1 |
国民徴用令に基づく初の出頭要求書、発送される。
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1939年昭和14年8/8 |
板垣陸相、留保なしの日独伊3国同盟締結を主張する
●欧州対策に関する5相会議で、板垣陸相は主張するが、結論が出ず散会となる。 |
1939年昭和14年8/10 |
上海日本総領事館、ユダヤ人流入禁止を申し入れる。
●日本は、外資導入と対米関係の配慮から、ユダヤ人の保護政策をとっていた。だが日本海軍が警備する共同租界には、約1万5000人のユダヤ人難民が流入し、難民収容所が溢れてしまった。そのためユダヤ人救済委員会に申し入れ、8月から難民の流入は禁止となった。 |
1939年昭和14年8/15 | (東京市、「隣組」に10万枚の回覧板を配布) ●「東京市隣組海回報」第1号が発効された。 |
1939年昭和14年8/23 |
モスクワで独ソ不可侵条約調印される
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1939年昭和14年8/25 |
閣議、独ソ不可侵条約は日独防共協定に違反と断定
●日本はこれにより、日独防共枢軸強化の打ち切りを決定した。 |
1939年昭和14年8/30 |
平沼内閣総辞職(8/28)、阿部信行(陸軍大将)内閣成立(8/30)
(阿部信行・あべ‐のぶゆき) 「適当な陸軍大臣を出して、陸軍を粛清をしなければ内政も外交も駄目だ」
と感じていた。天皇は28日、宮中に参内した阿部に、 「英米に対しては協調しなければならぬ」「陸軍大臣は自分が指名する、《陸軍》三長官の決定は何とあろうとも、梅津《美治郎中将》か畑《俊六大将》のうちどちらかを選任せよ」「内務、司法は治安の関係があるから、選任に注意せよ」(近衛『前掲書』)
と異例の注意を与えている。 |
●1939年(昭和14年)9/1早朝、ドイツ軍がポーランドに侵攻した。ドイツ機甲師団が首都ワルシャワに向かってなだれこんだのである。
●9/3午前3時、ポーランドと相互援助条約を結んでいたイギリスは、ドイツに対して宣戦布告した。フランスも9/3午後5時ドイツに宣戦布告した。第2次世界大戦の勃発である。だが両国は交渉による解決を探っていたため行動を起こさなかった。
●9/4日本政府は欧州戦争に対する方針を決定、「日本は戦争に介入せず支那事変の解決に邁進する」と声明を出した。
●同じく9/4アメリカ、ルーズベルト大統領はラジオ番組「炉辺談話」で、「私は戦争を憎む」と欧州戦争不介入を宣言した。だがアメリカは11月、孤立主義を守るために制定した「中立法」の武器禁輸条項を撤廃し、ドイツと交戦中のイギリス、フランスに対し武器供給を可能にさせ、介入の度合いを強めていった。(4/11の記者会見では、大統領は、ヨーロッパでもし戦争が起きればアメリカは英仏側に参加と表明していた。)
●9/17ソ連軍がポーランドに侵攻し東部を占拠する。これは8/23ドイツとの不可侵条約の付属秘密議定書でポーランド分割占領を決めていたのである。またこの時ドイツ外相はスターリンに、ノモンハン事件での日本との停戦斡旋を示唆したといわれる。ソ連がポーランド侵攻できるように日本との停戦を斡旋したのであろう。(9/15ノモンハン事件の日ソ間停戦協定成立)
●国内での経済は、長期化する日中戦争や生活必需品の不足、輸入品(原材料等)の高騰、世界的な恐慌などにより、物価は上昇しインフレは進行していった。そこで阿部内閣は9/18、「9.18停止令」を発した。これは9/18の価格を上まわることができないというもので、対象は商品価格、運送費、保管料、保険料、加工賃、さらに地代、家賃、賃金、給料にまでおよんだ。これはあらゆる財貨とサービスの価格を対象としたもので、この応急処置は10/18、「価格統制令」「地代家賃統制令」「賃金臨時措置令」「会社職員給与臨時措置令」として法制化された。
(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
年 | 内容 |
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1938年昭和13年 | 2/4独、陸軍省廃止。ヒトラー、統帥権を掌握。 |
3/1独、オーストリアを併合。 | |
9/29ミュンヘン会談。英仏独伊間で、ズデーテン地方の独への割譲決定。(9/30調印)。 | |
11/9独、ユダヤ人に組織的迫害開始。 | |
11/26ソ連・ポーランド不可侵条約更新。 | |
1939年昭和14年 | 3/15ヒトラー、プラハ入城。ボヘミア・モラビアの保護領化宣言。 |
3/21独、ポーランドにダンチヒ割譲を要求(3/26ポーランド拒否)。 | |
3/23独、リトアニアのメーメルを併合。 | |
4/3ヒトラー、ポーランド進撃を9月1日とすることを極秘命令。 | |
4/28ヒトラー、独・ポーランド不可侵条約と英独海軍協定廃棄を声明、仏のアルザス・ロレーヌ領有を否認。 | |
5/22独伊軍事同盟(鋼鉄協約)調印。 | |
8/23独ソ不可侵条約調印。 | |
8/24英仏、対ポーランド援助条約調印。 | |
8/29ヒトラー、対英回答でダンチヒ回廊への割譲要求を繰り返す。 | |
9/1独軍、ポーランド進撃を開始。第2次世界大戦始まる。 | |
9/3英仏、ドイツに宣戦布告。 | |
9/17ソ連、ポーランド侵攻、東部を占領。 | |
9/27ドイツ軍、ワルシャワ占領。 | |
9/28独ソ友好条約調印。ポーランドの分割占領を決定。 | |
1940年昭和15年 | 4/9ドイツ、デンマーク・ノルウェーに侵攻、占領する。(追記) |
1940年 | 5/1ヒトラー、西部戦線攻撃を指令。 |
5/10独軍、北仏・オランダ・ベルギー・ルクセンブルクを奇襲攻撃。英チェンバレン内閣総辞職、チャーチル連合内閣成立。 | |
5/14独軍、セダン付近でマジノ線突破。 | |
5/27英仏軍、ダンケルク撤退を開始。 | |
6/10イタリア、英仏に宣戦布告。 | |
6/14独軍、パリに無血入城。 |