1938年(昭和13年)4/1国家総動員法公布。日本、総力をかけ戦争遂行に向かう。

2022年6月27日アジア・太平洋戦争

日本は、中国の首都南京を陥落させ、国民政府が降伏することを期待した。だが中国民衆は抗日を支持、国民政府は徹底抗戦を決意する。
1938年(昭和13年)日本はこの年、御前会議で支那事変(日中戦争)に対する帝国の根本方針を定めた。日本は、中国国民政府が日本に対し反省して翻意しなければ、「国民政府を相手とせず」にこれを壊滅させ、あらたな新興勢力を作りこれと手を結ぶと決めた。日本は国民政府との和平の道を自ら閉ざした。
 そして4月、大本営は「徐州作戦」の発動を下命、8月には「漢口攻略」を発令し、9月に「広東攻略作戦」実施を決定した。そして10月、日本軍は広東を占領、次いで武漢三鎮(漢口・武昌・漢陽)を占領した。
●日本のこの作戦は日中戦争最大のもので、日本は国力を傾けてこの作戦を行った。日本は「国家を総動員」して中国征服へ突き進んだのである。下の「支那事変処理根本方針」における『満州国及び中国と提携して東洋平和を作り、世界平和に貢献する』というのは独りよがりにすぎず、世界はこの戦争を中国侵略戦争とみなした。

=支那事変処理根本方針=(昭和13年1月)
『帝国不動の国是は満洲国及び支那と提携して東洋平和の枢軸を形成し、之を核心として世界の平和に貢献するにあり』これに従わない現中央政府に対しては『壊滅を図り、又は新興中央政権の傘下に収容せらるる如く施策す』

(上新聞)昭和13年10/27の東京朝日新聞号外「武漢陥落」(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

満州重工業開発(=日産)の誕生と挫折。

1937年(昭和12年)、鮎川義介率いる日産は、この頃までに日の出の勢いで三井・三菱に次ぐ地位に達した。そして昭和12年12月27日、日産コンツエルンは満州国進出を決め、持株会社である日本産業(日産)を満州重工業開発と改め、満州の鉱工業建設を独占的に行う国策会社として発足したのである。満州国の重工業開発は日本の生命線であった。日産自動車は、この日産コンツエルンの一員であった。満州重工業開発は発足時倍額増資(資本金4億5000万円、半額を満州国が出資)を行い、鮎川義介が総裁に就任した。

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★国策としての満州国移民。日本と満州の歴史

明治維新後の日本の移民は、ハワイから始まり→アメリカ本土→ブラジル→満州国へと変わっていく。アメリカは「合衆国」と呼ばれるように、世界から移民を受け入れて来た国家である。日本の昭和7年(1932年)から始まった武装移民団による満州入植は、昭和11年(1936年)9月の第5次をもって終了した。同年広田内閣は「20カ年100万戸移住計画」を策定した。これは昭和11年5月に関東軍が作成した「満州農業移民100万戸移住計画」などを土台に、昭和31年までに100万戸、500万人を内地から移住させることを国策として推進するというものであった。

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★アメリカ合衆国における移民の重要性

(注)写真、数値など(出典)「アメリカ移民」野村達郎、「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊より。
●アメリカへの移民流入数は、1905年~1914年の10年間で1000万人を超えた。1910年のアメリカの総人口が9200万人であることを考えると、その移民数の割合は驚くべきものであった。この移民流入の最大の要因は、ヨーロッパにおける人口爆発と旧来の農村の解体にあった。

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1938年(昭和13年)「国家総動員法」施行。戦争遂行のため国力を結集し国家の総てを動員。

国家総動員法は、1938年(昭和13年)4/1に公布され、5/5外地を含めて施行された。この法律は50条と附則からなるが、ポイントはこの法律の各条文に基づき多くの勅令が公布されたことにある。その数は昭和16年12/8(太平洋戦争勃発日)までに59件(改正は除く)、それ以後敗戦までに多くの改正が行われたが、その改正勅令の数は118件にのぼった。ここではその勅令を一覧にしたが、まさに国家を総動員して戦争を行ったことがみて取れる。日本はアメリカと戦争をする前に、国力を結集し国家を総動員して、武力による中国全土の支配を国家方針としたのである。

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1938年(昭和13年)国内政治と社会年表。9月頃まで。

1938年(昭和13年)1月、近衛内閣は「第1次近衛声明」を発表した。南京が陥落しても武漢に移って抗戦を続ける国民政府に対して、「国民政府を対手(たいしゅ=相手の意)とせず、新しい政權と手を結ぶ」といったのである。だが11月には前言を修正し、国民政府に対して「東亜新秩序」の建設に協力せよという「第2次近衛声明」を発表した。続いて12月、帝国の根本方針は、善隣友好・共同防共・経済提携の3原則を盛り込んだ東亜新秩序の建設であるとの「第3次近衛声明」を発表した。日本は国民政府壊滅をあきらめ、方針を変えた。
●そして陸軍も、屈服しない中国に対してついに進攻作戦を打ち切り、長期持久戦へと方針を転換していった。中国共産党の毛沢東は「日本の攻略戦は武漢で第3段階が終わり、これからは中国による遊撃戦(ゲリラ戦)の段階に達し中国の勝利となる」と述べた。

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1938年昭和13年7/11、張鼓峰事件発生

●1938年(昭和13年)7月、陸軍は朝鮮、満州、ソ連国境付近の張鼓峰でソ連軍と軍事衝突を起こした。陸軍はこの軍事衝突で本格的な近代戦を経験したが、ソ連軍の反撃で大きな損害を受けた。
●陸軍はこの事件により、中国と和平を結ぶことよりも、早く中国を屈服させ、対ソ連戦に備えるべきだと考えるに至った。陸軍内部では、参謀本部の「消極持久方針」(=ソ連を仮想敵国として中国には不拡大という方針)は破れ、陸軍省の「積極拡大方針」(=中国軍の主力を撃滅し日中戦争の早期解決をはかるという方針)が決定されるのである。

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1938年(昭和13年)10/21第21軍、広東を占領。10/27日本軍、武漢三鎮を占領(南京事件の轍を踏まないために)

●1938年(昭和13年)10月、日本軍は当時の兵力の7割にあたる24個師団の大軍をもって、広東と武漢三鎮を占領する。だが中国の抗日戦意は衰えず、国民政府は武漢からさらに奥地の重慶に遷都し抵抗を続けた。この時、共産党の毛沢東は日中戦争の長期持久戦の見通しを述べ、日本の攻略戦は武漢で第3段階が終わり、これからは中国による遊撃戦(ゲリラ戦)の段階に達し中国の勝利となると述べた。

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