1938年(昭和13年)4/1国家総動員法公布。日本、総力をかけ戦争遂行に向かう。

アジア・太平洋戦争

日本は、中国の首都南京を陥落させ、国民政府が降伏することを期待した。だが中国民衆は抗日を支持、国民政府は徹底抗戦を決意する。

(上新聞)昭和13年10/27の東京朝日新聞号外「武漢陥落」(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

 日本はこの年、御前会議で支那事変(日中戦争)に対する帝国の根本方針を定めた。日本は、中国国民政府が日本に対し反省して翻意しなければ、「国民政府を相手とせず」にこれを壊滅させ、あらたな新興勢力を作りこれと手を結ぶと決めた。日本は国民政府との和平の道を自ら閉ざした。
 そして4月、大本営は「徐州作戦」の発動を下命、8月には「漢口攻略」を発令し、9月に「広東攻略作戦」実施を決定した。そして10月、日本軍は広東を占領、次いで武漢三鎮(漢口・武昌・漢陽)を占領した。
●日本のこの作戦は日中戦争最大のもので、日本は国力を傾けてこの作戦を行った。日本は「国家を総動員」して中国征服へ突き進んだのである。下の「支那事変処理根本方針」における『満州国及び中国と提携して東洋平和を作り、世界平和に貢献する』というのは独りよがりにすぎず、世界はこの戦争を中国侵略戦争とみなした。

=支那事変処理根本方針=(昭和13年1月)
『帝国不動の国是は満洲国及び支那と提携して東洋平和の枢軸を形成し、之を核心として世界の平和に貢献するにあり』これに従わない現中央政府に対しては『壊滅を図り、又は新興中央政権の傘下に収容せらるる如く施策す』

目次
昭和13年(1938年) 主要項目
★満州重工業開発(=日産)の誕生と挫折。 昭和12年(1937年)12月27日、日産コンツエルンは満州国進出を決め、持株会社である日本産業(日産)を満州重工業開発と改め、満州の鉱工業建設を独占的に行う国策会社として発足した。満州国の重工業開発は日本の生命線であった。2018年の年末に話題をさらった日産自動車は、この時代三井、三菱に次ぐ地位にまで達した日産コンツエルンの一員であった。
★国策としての満州国移民。 明治維新後の日本の移民は、ハワイから始まり→アメリカ本土→ブラジル→満州国へと変わっていく。アメリカは「合衆国」と呼ばれるように、世界から移民を受け入れて来た国家である。日本の昭和7年(1932年)から始まった武装移民団による満州入植は、昭和11年(1936年)9月の第5次をもって終了した。同年広田内閣は「20カ年100万戸移住計画」を策定した。これは昭和11年5月に関東軍が作成した「満州農業移民100万戸移住計画」などを土台に、昭和31年までに100万戸、500万人を内地から移住させることを国策として推進するというものであった。
★国家総動員法施行。戦争遂行のために総てを動員。 国家総動員法は、昭和13年(1938年)4/1に公布され、5/5外地を含めて施行された。この法律は50条と附則からなるが、ポイントはこの法律の各条文に基づき多くの勅令が公布されたことにある。その数は昭和16年12/8(太平洋戦争勃発日)までに59件(改正は除く)、それ以後敗戦までに多くの改正が行われたが、その改正勅令の数は118件にのぼった。ここではその勅令を一覧にしたが、まさに国家を総動員して戦争を行ったことがみて取れる。日本はアメリカと戦争をする前に、国力を結集し国家を総動員して、武力による中国全土の支配を国家方針としたのである。
★国内政治・社会年表
昭和13年《1938年》

近衛内閣→近衛内閣改造
昭和13年(1938年)1月、近衛内閣は「第1次近衛声明」を発表した。南京が陥落しても武漢に移って抗戦を続ける国民政府に対して、「国民政府を対手(たいしゅ=相手の意)とせず、新しい政權と手を結ぶ」といったのである。だが11月には前言を修正し、国民政府に対して「東亜新秩序」の建設に協力せよという「第2次近衛声明」を発表した。続いて12月、帝国の根本方針は、善隣友好・共同防共・経済提携の3原則を盛り込んだ東亜新秩序の建設であるとの「第3次近衛声明」を発表した。日本は国民政府壊滅をあきらめ、方針を変えた。
●そして陸軍も、屈服しない中国に対してついに進攻作戦を打ち切り、長期持久戦へと方針を転換していった。中国共産党の毛沢東は「日本の攻略戦は武漢で第3段階が終わり、これからは中国による遊撃戦(ゲリラ戦)の段階に達し中国の勝利となる」と述べた。

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★満州重工業開発(=日産)の誕生と挫折。
●鮎川義介率いる日産は、この頃までに日の出の勢いで三井・三菱に次ぐ地位に達した。
「日産コンツエッルン傘下の企業一覧・昭和12年」(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

満州産業開発5カ年計画

●この背景には、昭和10年(1935年)当時陸軍参謀本部作戦課長だった石原莞爾が立案した「満州国第2期経済計画」があった。これは満州国の国防経済建設を目的にしたものであった。
そしてこれをもとに昭和12年3月、鉄鋼、石炭、自動車および飛行機の製造などの重工業を建設し、日本や朝鮮からの移民の増加を図るという「満州産業開発5カ年計画」が最終決定されたのである。
●下記が開発5カ年計画生産目標の主な数値である。(出典:「満州国」鉱工業生産力の水準と構造 山本 有造著)

満州産業開発5ヶ年計画(主な数値目標当初案と修正案)
品目 単位 1936年末時点での能力 1941年度目標
(当初案)
1941年修正目標
(修正案)
修正生産目標対当初目標伸び率(%)
銑鉄 トン 850,000 2,530,000 4,500,000 177.9%
鉄塊 トン 580,000 1,850,000 3,160,000 170.8%
鋼材 トン 400,000 1,500,000 1,200,000 80%
石炭 トン 11,700,000 27,160,000 31,100,000 114.5%
石炭液化 トン 0 800,000 1,770,000 221.3%
頁岩油 トン 145,000 800,000 650,000 81.3%
アルミニウム トン 4,000,000 20,000,000 30,000,000 150%
自動車 0 4,000 50,000 125%
飛行機 0 340 5,000 147.1%
電力 キロワット 458,600 1,405,000 2,570,550 183%
小計 18,133,600 75,005,550 1936年能力対比
413.6%
*リンクします「満州国」鉱工業生産力の水準と構造 山本 有造
人文学報 京都大学人文科学研究所 2003年出版

●だが満鉄(南満洲鉄道株式会社)と満州重工業開発との関係はどうであったのだろうか。昭和7年~11年にかけては、満鉄とその系列会社が、対満州投資合計の70%近くを占めていた。だがその資金の多くが、対ソ連戦を想定した軍用鉄道建設にさかれていた。
そしてその資金調達は、満鉄の社債によって行われていたが、これは日本の戦費調達の赤字国債と競合したのである。そのため満鉄の資金集めは困難となり、新たな経済開発に当たっては、満鉄以外の事業主体を作ることが急務となった。
●そこで関東軍は昭和11年秋に新興財閥を率いる財界人たちを満州国視察に招き、なかでも独自の構想(外資導入による資金手当)を持ち、傘下に日本鉱業・日本炭鉱・日立製作所などの重工業部門を擁し、とりわけ日本陸軍の作戦行動に必要な自動車製造能力(日産自動車)を持った「日産コンツエッルン」に白羽の矢を立てたのである。

満州重工業開発の誕生

上左写真「撫順炭鉱」昭和12年には953万トンを出炭して、世界有数。満州の炭鉱は撫順だけを残して満業系列の満州炭鉱会社に移管された。-写真「望郷満州」
上中写真(一部分)「鞍山製鉄所」鉄鋼業は重化学工業化推進の基幹産業として重視され、満鉄の経営を離れ満業系列下の昭和製鋼所となった。-写真「最新満州写真帳」
上右写真「撫順」背後に撫順炭鉱を控え、「炭都」と呼ばれた撫順では、重化学工業が発展し、石炭輸送のための鉄道網も整備された。-写真共同通信社。
(出典3点ともに「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊)


こうして、昭和12年(1937年)12月27日、日産コンツエルンは満州国進出を決め、持株会社である日本産業(日産)を満州重工業開発と改め、満州の鉱工業建設を独占的に行う国策会社として発足したのである。満州重工業開発は発足時倍額増資(資本金4億5000万円、半額を満州国が出資)を行い、鮎川義介が総裁に就任した。
●この満州重工業開発は、満鉄の重工業部門であった鞍山製鉄所を持つ昭和鉄鋼所を始め、満州炭鉱、満州鉛鉱、日満マグネシウム、同和自動車、満州石油など満鉄系列特殊会社、準特殊会社を傘下におさめた。そして昭和13年以降は、満州鉱山、満州電気協会、満州飛行機製造、満州自動車製造、満州冶鉱、満州工業会、満州軽金属、東辺道開発などの系列会社を次々に設立し、5カ年計画を推進する国策会社として活動を開始した。(この中で世界有数の撫順炭鉱だけは、そのまま満鉄の支配下に置かれた)

満州重工業開発(満業)の挫折と撤退

だが満業とよばれた満州重工業開発の経営は挫折の連続だった。その原因は次のようである。
●外資導入(主にアメリカ資本)の失敗・・この満業が発足した12月は、日本軍が南京を陥落させた時期である。そしてこのとき日本海軍が揚子江上のアメリカのパネー号(他の3隻の商船にも損害)を撃沈したことで、アメリカの対日世論が悪化したのである。これによりアメリカからの外資と技術の導入は困難となった。
●鉱物資源の調査が予想外の結果となる・・またこの外資の導入にあたって担保となる鉱物資源の調査が、アメリカ政府の元鉱山局長のフォスター博士と日本鉱業によって行われたが、調査結果は大規模な重工業の建設を可能にするだけの鉱物資源がないという結論に終わった。
●致命的な満州国政府と関東軍による経営活動への介入・・満業傘下にあるとはいえ各種の特殊会社・準特殊会社の監督権限は満州国政府にあった。そしてそのそれぞれは同格の法人だったので「満業」の経営と絶えず衝突した。なかでも満鉄系の日満商事は、原料や資材の配給統制を一手に握っていたため、「満業」による総合経営戦略も思うようにいかなかった。
また人事面でも関東軍は「満業」と系列会社の人事にことごとく干渉し、旧日産出身者を排除し、満鉄出身者の重役登用を強要したのである。
●満州産業開発5カ年計画の改変・・こうした中で鮎川義介は経営努力を続けたが、昭和14年7月に至り、外資導入の断念を認める経過報告を発表した。そして昭和15年に入ると満州産業開発5カ年計画は、日中戦争拡大と共に軍需生産力拡充に修正されていった。「満業」は満州国に重工業を建設することよりも、日本国内に基礎資材を提供するためのものに改変されたのである。
●そして鮎川自身も「満業」の経営から撤退することを決意したのである。

★国策としての満州国移民。日本と満州の歴史
明治維新後の日本の移民と在外本邦人一覧(昭和10年10/1現在)

●明治維新後の本邦の移民は、明治元年(1868年)横浜駐在のハワイ領事と日本政府が契約して、ハワイのサトウキビ農園に153名の移民を送ったことが最初といわれる。そして明治27年(1894年)までに3万人をハワイへ送った。その後日本では移民取り扱いを移民会社が担うようになり、移民会社勃興の時代となった。移民はオーストラリア、北米、南米ペルーにも渡航するようになったが、ハワイが一番多かった。
●ところが明治31年(1898年)、ハワイがアメリカ合衆国に併合されると契約移民は禁止となった。このため移民会社は大打撃を受け解散する会社が続出した。それでも残存会社は、南洋・南米に進出先を変え、フィリピン、ペルー、メキシコへ移民を送り、明治41年(1908年)には最初のブラジル移民781名を送った。
●その後アメリカ(本土)移民は自由渡航時代を迎え、明治35年(1902年)に5000人に過ぎなかった邦人は明治43年(1910年)には9万1000人に達し、毎年1万人増加の勢いとなった。これに対して日本人排斥運動が起こり、1906年3月カリフォルニア州議会が日本人移民を制限する決議案を採択、10月にはサンフランシスコ市教育委員会が、日本人と朝鮮人学童を白人から隔離する(東洋人小学校通学させる)決議を採択した。これは日本では反発を招いたが、日本政府は妥協し、アメリカと紳士協定を結び、日本人移民を極端に減らした。
(注)中国人移民は、19世紀半ば過ぎから、ゴールドラッシュやアメリカ大陸横断鉄道の労働者として積極的に受け入れられて来た。ところが1882年カリフォルニアで中国人移民が15万人に達すると、排斥運動がおこり中国人移民は10年間禁止とされた。そして1892年にはさらに10年間延長され、1902年に中国人移民は無期限禁止となった。中国人の代わりに日本人移民が増加したのである。
●こうしてアメリカへの移民が制限されると、日本人移民は中米(メキシコ)と南米(ブラジル)へ向かった。ブラジル移民は明治41年(1908年)が最初で、サンパウロ周辺のコヒー園に158家族781人が移民した。特にブラジル移民が国策として進められたのは、国内の人口増加と農地の不足が深刻化した大正時代からであった。そして関東大地震(大正12年・1923年)が起こると政府は、被災者にブラジルへの船賃を全額補助し、翌年にはブラジル移民全体に広げた。
●そして南米拓殖会社、アマゾニア産業研究所などによるアマゾン河流域に入植する「企業移民」が本格化し、昭和8年(1933年)にブラジル移民はピークを迎えた。
●だが昭和9年(1934年)7月、ブラジル政府は新憲法を公布し、日本人移民を大幅に制限した。これはブラジル国内の失業対策と人種対策のためであった。こうして日本のブラジル移民は急速に退潮していった。
●こうして日本移民の残された唯一の天地は「満州国」だけになったのである。
(注)上の表は「朝日年鑑. 昭和13年 朝日新聞社 編 朝日新聞社昭和9-15出版」から「在外本邦人(昭和10年・1935年10月1日現在)」を一覧表にしたものである。特に注意すべき点は、満州国における朝鮮人の多さである。満州全体では朝鮮人の農民は一時200万人といわれるほど多くいたのである。

*リンクします「朝日年鑑. 昭和13年 朝日新聞社 編 朝日新聞社昭和9-15出版」→国立国会図書館デジタルコレクション

アメリカ合衆国における移民の重要性

(注)写真、数値など(出典)「アメリカ移民」野村達郎、「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊より。

(左写真)船上の移民の群れ。(右写真)ニューヨークのブロードウェー。(出典2点ともに「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊)


●アメリカへの移民流入数は、1905年~1914年の10年間で1000万人を超えた。1910年のアメリカの総人口が9200万人であることを考えると、その移民数の割合は驚くべきものであった。この移民流入の最大の要因は、ヨーロッパにおける人口爆発と旧来の農村の解体にあった。1800年に約2億人だったヨーロッパの人口は、1910年には4億5000万人にのぼった。そして1821年~1920年の100年間で海外へ向かった人々の数は5200万人にのぼった。この内訳は、9%がアルゼンチン、8%がカナダ、7%がブラジル、6%がオーストラリアへ向かい、そして全体の60%(3150万人)がアメリカへ向かったのである。
●20世紀の初頭、アメリカ国内における外国系人口は驚くべき比率に達した。1910年における外国生まれの人口比率は15%、アメリカで生まれた移民2世の比率は21%となり、両者の合計は総人口の35%を超えたのである。そして移民元もいままでの北・西ヨーロッパから南・東ヨーロッパへ変化した。1891年~1920年の30年間に、イタリア412万人、オーストラリア・ハンガリー399万人、ロシア324万がアメリカに渡った。
●彼ら新しい移民は、南部の安価な黒人労働者との競争は避け、工業の盛んな東部へ向かう傾向にあった。1910年、マサチューセッツ、ニュヨーク、ペンシルヴェニア、イリノイの4州だけで、外国生まれの人口はアメリカ全体の半数近くを占めた。そしてその移民の大部分は都市に住み産業労働者となった。この年には、移民とその子供たちの世代だけで、ニューヨーク市の人口の79%、シカゴの78%、フィラデルフィアの57%、デトロイトの74%、クリーブランドの75%に達したのである。
●当然ながら古くからのアメリカ白人および北・西ヨーロッパ系の労働者は、賃金が高く労働条件の良い熟練度の高い職に就いた。これに対して、南・東ヨーロッパ系の非熟練労働者は産業労働力の最底辺に編入されたのである。
●そして1924年5月、いわゆる「排日移民法」である新移民法にアメリカ大統領が署名した。これは国勢調査(1890年)に基づき、出身国別移民の割り当て決めたもので、国別人口で圧倒的多数を占める北欧系移民を優遇し、南欧・東欧系移民を極端に制限したものであった。そしてさらに、これまでアジア系移民で唯一移民禁止措置をうけていなかった日本人移民を全面的に禁止したのである。これはもともとアメリカでは、「帰化不能外国人」であったアジア人の移民を、ここで建て前からも全面禁止にしたのである。
●下段でアメリカの映画「ゴットファーザーPART Ⅱ」の1シーンを紹介する。「自由の女神」が移民たちへ自由と希望を与えてきたというアメリカを象徴するシーンである。移民国家であるアメリカ人の、国家に対する忠誠の誓いは、下記のように定められている。(出典:About THE USA)

「私はアメリカ合衆国の国旗と、その国旗が象徴する共和国、神の下に一つとなって分かたれず、全ての人に自由と正義が約束された国に忠誠を誓います」

「ゴットファーザーPART Ⅱ」ニューヨーク・エリス島に上陸する1シーン
この映画は、1972年に公開された「ゴッドファーザー」の続編である。「ゴッドファーザー」は同年度アカデミー賞(作品賞・主演男優賞・脚色賞)を受賞したが、この「ゴットファーザーPART Ⅱ」も1974年度のアカデミー賞(作品賞・監督賞・助演男優賞・脚色賞・作曲賞・美術賞)を受賞した。ここでは、若きコルレオーネがシチリアからイタリア移民として1901年頃ニューヨーク・エリス島に移民として上陸するシーンを紹介する。「自由の女神」に希望の眼差しを注ぐ数多くの移民たちが印象的である。

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満州移民略年表

昭和11年(1936年)広田内閣は満州農業移民「20カ年100万戸移住計画」を策定した。これは昭和31年までに100万戸、500万人を内地から移住させることを国策として推進するというものであった。最初に満州移民に関する略年表を引用する。また表には大きな出来事・事件などを追加記入し、ポイントも記入した。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊。(注)ただし満州軍総参謀長・児玉源太郎と満鉄総裁・後藤新平の記事の年月が1876年と1878年とあり誤謬とおもわれるので、両記事を「満鉄」の設立時期《1906年》に挿入した。

満州移民と日本と満州の歴史
年月 内容
1894年(明治27年)
8月
●日清戦争始まる。日本軍、遼東半島の主要地を占領、翌1895年山東半島の威海衛を占領。1895年4月17日、日清講和条約に調印。だが3国干渉(ロシア、フランス、ドイツ)により遼東半島を清国に返還する。
1899年(明治32年) ●義和団が山東省内で蜂起、勢力を拡大。翌1900年、義和団は天津郊外で諸国軍と交戦し、北京の諸国外交団居留地を包囲する。清国政府ここで8カ国に対して宣戦布告。だが8カ国連合軍は北京攻撃を開始し、義和団と清国政府を屈服させる。この時ロシアは、義和団に東清鉄道を破壊されたことを口実に東北3省(満州)を占領(10月までに)した。
1904年(明治37年)
2月
●日露戦争が始まる。日本、韓国(大韓帝国)仁川に陸軍先遣部隊を上陸させ、首都漢城を占領する。海軍連合艦隊は旅順港外でロシア艦隊を攻撃し、日露戦争が始まる。
1905年(明治38年)
9月5日
地図
●日露両国、アメリカの斡旋で講和条約(ポーツマス条約)調印。
日本は中国関係では、基本的には遼東半島南部(旅順・大連を含む)の租借権、東清鉄道の南部支線のうち長春-大連間の租借権をロシアから譲り受けたことにすぎない。なぜならこの地は中国の領土であるから、あとは日本と清国との交渉次第のことであった。そして日本が清国から交渉して獲得したものは以下の内容である。

①遼東半島(関東州)の租借権(=期間を定めて借りる権利)
②東清鉄道南部支線(長春から大連704km)の敷設・経営の権利
③鉄道付属地の権利。これはロシアが、各国が都市部にもっていた占有権である「租界」からヒントを得て、鉄道経営に必要として清国に認めさせたものである。それは、線路の両側合計66m幅の土地。主要駅周辺に市街地を作るための土地。撫順など鉄道沿線にある炭鉱の経営権などである。
④鉄道守備隊(軍隊)の駐留権。これは鉄道1kmあたり15人以内と定めたものである。しかしこれは日本とロシアが決めたものであって、清とロシアの合弁会社の時は、ロシアは警察権だけを得ていた。当然清国は外国軍隊の駐屯を拒否したが、日本とロシアにより妥協させられた。
⑤さらに地図上の安東から奉天(現瀋陽)に至る261kmの安奉鉄道と吉長鉄道(吉林-長春)の敷設権と経営権であった
1906年(明治39年)
6月8日
●南満州鉄道株式会社(満鉄)の設立を勅令によって公布。参謀総長・児玉源太郎を委員長とする同社設立委員会を設置。この満鉄は鉄道だけではなく港湾の整備、船舶輸送、炭坑の経営、鉄道付属地での都市の建設と管理、農地開発までも行う国策会社であった。清朝政府は日本による一方的な「満鉄」設立は日清満州条約に違反すると抗議する。また英米も満州の門戸開放の公約履行を求めて抗議する。
(注)1876年満州軍総参謀長・児玉源太郎、「満州経営策梗概」に「移民の奨励を必須事項」と記す。
(注)1878年満鉄総裁・後藤新平、満州への「50万人移民案」を提唱。
1910年(明治43年)
8月22日
●「日韓併合に関する条約」に調印。日本政府、韓国の国号を朝鮮に改称し、朝鮮総督府を設置。日本は大韓帝国を併合する。
1911年(明治44年)
10月
●清朝打倒を目指す辛亥革命が起こる(武昌)。そして翌1912年1月、中華民国(孫文が臨時大総統)が誕生した。だが清朝政府側の袁世凱(北洋軍)は野望を抱き、革命勢力に妥協させ、自ら中華民国の臨時大総統に就任し独裁を強めていく。そして清朝皇帝溥儀を退位させ清朝を滅ぼした。中国は各地の軍閥が争う動乱の時代を迎える。
1914年(大正3年)
7月
●ヨーロッパで第1次世界大戦勃発。日本は中国大陸への勢力拡大の足場作りと満州問題に決着をつけるために参戦、ドイツに宣戦布告し山東半島に出兵、ドイツ膠州湾租借地(青島)を占領する。そして1915年には袁世凱政権に対して「21ヵ条要求」を突きつけ、旅順・大連の租借期限、南満州鉄道・安奉鉄道の期限を、いずれも99カ年延長する事などを認めさせ、南満州と内蒙古での権益をさらに拡大させた。
1915年(大正4年)
3月27日
山口県愛宕村、下川村の16戸、関東州大魏家屯に入植。「愛川村」と命名。
1917年(大正6年)
11月
●ロシア10月革命でソビエト政権が樹立され、1922年12月に「ソビエト社会主義共和国連邦」が成立する。1918年社会主義国家の誕生に反対する各国(日・米・英・仏・伊)は、共同でシベリア出兵(ウラジオストク)を行った。だが日本は満州周辺の不穏に備えるためとの理由で、さらに満州西部の満州里へも出兵を強行した。そして日本は、各国がシベリア撤退後(1920年4月米軍撤退)も残り、ハルビン地方や沿海州に勢力拡大をもくろんだ。日本軍が撤退したのは1922年10月。
1919年(大正8年)
5月4日
●反日「五四運動」が北京で起こる。この反日運動は、6月に入ると学生だけでなく、商店主、中小企業主、民衆、労働者も運動に加わり、上海をはじめ長江流域の主要都市に広がって行った。この民衆による「五四運動」は、排日運動、反政府運動(反軍閥)、反帝国主義として発展し、大きな中国民衆のナショナリズム(民族主義)となっていった。そしてこの運動は、毛沢東や周恩来そして孫文にすら、中国を改革するためには民衆による団結が必要であるとの認識を新たにさせたのである。
●また日本に併合された朝鮮においても、同じ年(1919年)の3月1日、京城において日本に対する独立運動である「3.1運動」が起き、全土に広がって行った。これらの運動を後押ししたのは、ソビエト政権(レーニン主導)による「平和に関する布告」(=「無賠償」「無併合」「民族自決」に基づく即時講和)であり、その平和原則に賛同したアメリカ・ウイルソン大統領の「14カ条の平和原則」にあったと思われる。中国に対しては具体的にはその後のソビエトの外交官によるカラハン宣言(1919年と1920年)があった。

(中国に対するカラハン宣言)ソ連は、ロシア帝政時代に行ったすべての侵略行為を否認し、鉄道・鉱山・森林などの利権を無償で放棄・返却し、さらに義和団事件の賠償金も受け取らない、と宣言した。またパリ講和会議で提唱したウイルソン大統領の原則の一つにも「民族自決による独立」があったが、東アジア世界は対象にはされなかった。

●2019年3月1日、韓国では「日本に対する独立運動」100周年を迎える。韓国の日本に対する攻撃はさらに続くだろう。韓国の論理は、不当・不正な政権によって結ばれた不当・不正な取り決めは、子孫がそれを正すのが正義であるというのであろう。

1930年(昭和5年)
5月~
●満州・間島(かんとう)地域で暴動が多発する。この間島という場所(左地図参照)は、中国と朝鮮半島の境界に位置する中国領で、清朝時代から中国人と朝鮮人の雑居地域だった。また満州全体でも朝鮮人の農民は一時200万人といわれたが、これは1910年(明治43年)の日韓併合以降の「土地調査事業」によって土地を奪われて流入してきた農民たちも多くいたと思われる。だが一方で日韓併合によって「日本人」となった朝鮮人農民たちは、中国に対して日本人と同等の「治外法権」持つようになった。そこで日本は朝鮮人農民たちを満州への勢力拡大の先兵として利用もしたのである。こうして中国側と朝鮮人側(日本)との紛争が頻発するようになっていった。
●またこの地域には朝鮮独立運動家達が朝鮮半島から弾圧を逃れて流入してきた。そして同時に、中国と朝鮮の革命勢力(共産党による)の根拠地にもなっていった。こうしてこの地域は、日本の侵略に対する抗日運動、朝鮮独立運動、共産党による革命運動、東北政権による弾圧など暴動や紛争が多発するのである。
(地図)「満州での重要事件関連地図」(出典)「近代史日本とアジア 下」古川万太郎婦人之友社2002年刊
1931年(昭和6年)
7月~
●満州長春郊外で万宝山事件発生。
朝鮮人農民たちは暴動や紛争で間島やその周辺地域で農地を失い各地に移動していった。そして一部が長春郊外の万宝山周辺の荒れ地に入植しようとして、4月中国人地主と10年間の借地契約を結んだ。5月上旬43戸210人が現地に移住し水路を引く工事を始めたところ、入植に反対する中国農民が工事を阻止しようとして紛争になった。この事件は吉林省長春当局と日本領事館との対立となり解決はされなかった。だが7月ついに中国人農民、数100人が水路を破壊するという実力行使にでた。この時点で双方に死傷者は出ていなかった。
●ところがこの事件を報じた仁川の「朝鮮日報」は、「中国人が朝鮮人農民を襲撃し、多数の死傷者が出た」と、うその報道を行った。これに激高した朝鮮の民衆が、朝鮮に住む中国人を襲撃した結果、7/4~7/5にかけて仁川、京城、元山、平壌、新義州など各地で、死者127人負傷者約400人という大惨事をおこした。
●こうしたなか、関東軍は満州の利権と安定確保のため満州全域の支配を企み、柳条湖事件をおこした。
1931年(昭和6年)
9月18日
満州事変勃発(柳条湖事件)。関東軍翌年2月までに満州主要地を占領、1932年(昭和7年)3月1日「満州国建国」を宣言する。

「武装移民団」満州へ入植

●1932年6月、農村の疲弊を解決しようとした農本主義者の加藤完治と吉林軍顧問となっていた関東軍の東宮鉄男大佐(張作霖爆殺事件に加担)が関東軍参謀石原莞爾の仲介で会見した。東宮は満州の反満抗日ゲリラ対策と対ソ戦に備えた兵力養成から、武装農民による入植を構想した。そして在郷軍人による満州移民を計画し、関東軍統治部と拓務省がこの計画に加わり国策となるのである。
●移民団員は、満州と似た気候を持つといわれた、青森、岩手、秋田、山形、福島、宮城、新潟、長野、群馬、栃木、茨城の11県の出身者で構成された。そして応募の条件は、「農村出身者、在郷軍人で身体強壮、家庭上繋累少き者、30歳以下の者」などとされた。
●こうして1932年10/3「拓務省第1次武装移民団」423人が東京を出発した。一行は4ヶ月間永豊鎮近くのチャムスで警備活動に従事した後入植した。

1933年(昭和8年)
●4月1日、第1次武装移民団423人、吉林省永豊鎮に入植完了。後、「弥栄村(いやさかむら)」と命名。
(左写真)第1次武装移民団の家族30人が、1933年(昭和8年)10月13日、新京(長春)駅に到着した。写真はその際のもので、同日、一行は永豊鎮へ向かった。移民団は翌年5月、30人の花嫁を迎え、1935年3月には入植地を、「いよいよ栄える」の意の「弥栄村(いやさかむら)」と名付けた。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊)
●7月25日、第2次武装移民団455人、三江省チーフリー地区に入植。のち、「千振村」と命名。
1934年(昭和9年)
3月9日
●土竜山事件(依蘭事変)
第2次武装移民団が三江省チーフリー地区に入植した翌年、現地農民による大規模な武装蜂起と開拓団への襲撃事件が起こった。現地では日本人の入植によって、強制的な土地買収、未墾地への強制移住が行われ、かつ武力を背景に現地農民に対する略奪や女性に対する暴行などが続発していた。そして関東軍は、この年の初頭から吉林省東北一帯で大規模な土地収用に着手し、同時に治安維持の目的で現地農民から武器の押収を始めた。
●これに反発した現地農民は、「東北民衆自衛軍」と称して土竜山に総司令部を置き、その数約7000人に達して移民団への襲撃を繰り返したのである。
同上
10月21日
第3次武装移民団298戸、浜江省王栄廟に入植。
同上
12月24日
関東軍、「満州農業移民実施基礎要綱」を発表。
1935年(昭和10年)
9月
第4次武装移民団、浜江省密山に入植。
1936年(昭和11年)
1月4日
満州拓殖会社設立。
同上
9月
第5次武装移民団950人、浜江省密山に入植。
1938年(昭和13年)
4月8日
満蒙開拓青少年義勇軍の内原訓練所で、5000人の壮行会が開かれる。
「満蒙開拓青少年義勇軍」満州へ入植開始

●この青少年義勇軍は、昭和12年(1937年)11月、加藤完治ら6名が「青少年義勇軍編成に関する建白書」を政府に提出した事により始まった。これは日本内地の農村問題と、満蒙における国策移民の完成を助ける役割とを結びつけたものである。
●この農村問題とは、農村では就職年齢に達し離農せざるを得ない者が毎年20万人にも達したことにあった。そしてそれらの一部を満州に移住させることは「希望に充ちたる生活の門戸を開く」ものとしたのである。
●この募集は、昭和13年1月早々から始まった。応募資格は数え年で16歳から19歳で、内地訓練2ヶ月以内、現地訓練3年、父兄の仕送りは不必要などであった。だが実際には、道府県ごとに人員が割り当てられて、小学校の高等科卒業予定者の中から、教員の指導によって応募者が決められていく場合が多かったといわれる。
●茨城県の内原にあった満蒙開拓青少年義勇軍の内原訓練所(所長は加藤完治)の送出名簿によれば、昭和13年から20年までに8万6530人が満州に渡った。そして約2万人が満州で死亡、あるいは行方不明となった。下段で「内原訓練所」の映像を紹介しておく。

「内原訓練所の満蒙開拓青少年義勇軍」

(出典)講談社DVDBOOK「昭和ニッポン」1億2千万人の映像。第1巻「世界恐慌と太平洋戦争」講談社2005年7/15第1刷発行。
※動画を見るときは、写真を左クリックしてください。別ページで再生されます。
また右クリックで別の方法も選択できます(mp4動画、サイズ7.0MB)

年月 内容
1939年(昭和14年)
2月2日
満州国政府、「移民」を「開拓者」と名称変更。
同上
12月22日
日本・満州両国政府、満州開拓政策基本要綱を発表。
1941年(昭和16年)
5月2日
拓務省、全国7カ所に女子開拓訓練所設置を決定。
1944年(昭和19年)
8月
開拓団員の応召開始。
1945年(昭和20年)
8月15日
日本敗戦までに約30万人が満州に入植。

●下に、写真集をリンクしておいた。「満洲開拓写真集満洲農業開拓民篇」満洲移住協会 編満洲移住協会 昭和17年出版。また次段では、「満州国開拓民入植図」を記載した。敗戦までに約30万人が入植した。

*リンクします「満洲開拓写真集満洲農業開拓民篇」満洲移住協会 編→ 国立国会図書館デジタルコレクション

満州国開拓民入植図

●一般開拓団入植地を緑色、義勇隊開拓団入植地を赤色、義勇隊訓練所を紫で強調した。「昭和2万日の全記録・1億の新体制」講談社1989年刊から「満州国開拓民入植図」。この図はマウスホールで拡大・縮小・移動ができる。
入植地

★国家総動員法施行。昭和13年(1938年)4/1公布、5/5施行。戦争遂行のために総てを動員。
国家総動員法の条文

●この国家総動員法は、日本の総力を戦争遂行に向け、そのために強力かつ広範囲な統制権限を政府に与えたものである。
ここでは第1条から第5条までを引用する。(全部で50条ある)ポイントはこの法律の各条文に基づき多くの勅令が公布されたことにある。次段でそれらの勅令を書き出した。一番問題なのはこの「勅令」であり、意味を辞書から引くと次のようにある。
(勅令)② 旧憲法下の法形式の一つ。一般の国務に関し、天皇の発した命令で、帝国議会の協賛を経ないもの。緊急勅令など。(出典)日本国語大辞典精選版
形としては天皇の命令だが、実際は政府が国会を通さずに無制限に定めることができたことが問題であった。

 國家総動員法
第一條 本法二於テ國家総動員卜ハ戦時(戦争二準ズベキ事變ノ場合ヲ含ム以下之二同ジ)ニ際シ國防目的達成ノ爲國ノ全カヲ最モ有效二發揮セシムル様人的及物的資源ヲ統制運用スルヲ謂フ

第二條 本法二於テ総動員物資卜ハ左二掲グルモノヲ謂フ
一 兵器、艦艇、弾薬其ノ他ノ軍用物資
二 國家総動員上必要ナル被服、食糧、飲料及飼料
三 國家総動員上必要ナル醫薬品、醫療機械器具其ノ他ノ衛生用物資及家畜衛生用物資
四 國家総動員上必要ナル船舶、航空機、車輛、馬其ノ他ノ輪迭用物資
五 國家総動員上必要ナル通信用物資
六 國家総動員上必要ナル土木建築用物資及照明用物資
七 國家総動員上必要ナル燃料及電力
八 前各號二掲グルモノノ生産、修理、配給又ハ保存二要スル原料、材料、機械器具、装置其ノ他ノ物資
九 前各號二掲グルモノヲ除クノ外勅令ヲ以テ指定スル國家総動員上必要ナル物資

第三條 本法二於テ総動員業務卜ハ左二掲グルモノヲ謂フ
一 総動員物資ノ生産、修理、配給、輸出、輸入又ハ保管二關スル業務
二 國家総動員上必要ナル運輸又ハ通信二關スル業務
三 國家総動員上必要ナル金融二關スル業務
四 國家総動員上必要ナル衛生、家畜衛生又ハ救護二關スル業務
五 國家総動員上必要ナル教育訓練二關スル業務
六 國家総動員上必要ナル試驗研究二關スル業務
七 國家総動員上必要ナル情報又ハ啓發宣傳二關スル業務
八 國家総動員上必要ナル警備二關スル業務
九 前各號二掲グルモノヲ除クノ外勅令ヲ以テ指定スル國家総動員上必要ナル業務

第四條 政府ハ戦時二際シ國家総動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所二依り帝國臣民ヲ徴用シテ総動員業務二従事セシムルコトヲ得但シ兵役法ノ適用ヲ妨ゲズ

第五條 政府ハ戦時二際シ國家総動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所二依り帝國臣民及帝國法人其ノ他ノ國體ヲシテ國又ハ地方公共團體ノ行フ総動員業務二付協カセシムルコトヲ得

以下は下段のリンク先から確認してください。

*リンクします「国家総動員法」→国立公文書館アジア歴史資料センター
分野別の勅令一覧

下記勅令は「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊より引用したもので、意味は以下のようである。
(凡例)●勅令名+No(=勅令が基づく国家総動員法の条文)・・○○・○○・○○(=初めて公布された昭和年月日)・・解説(=勅令の目的・内容など)+(No=勅令番号)


文化と情報を統制する勅令

●新聞紙等掲載制限令20・・16・1・11・・軍事・官庁などの秘密事項の掲載の全面的禁止。国策遂行に障害となる事項の制限・禁止。出版物の発売禁止・差押え処分など。(37)
●新聞事業令18・・16・12・13・・新聞の国策的機能発揚のため新聞事業の規制と統制団体の設置を規定。17年7月から1県1紙への統合が進む。(1107)
●出版事業令16・・18・2・18・・出版企業の整理統合と統制団体の設置を規定。3395社が書籍203社、雑誌966社と約3分の1に激減。(82)

事業の統制と運用に関する勅令

●工場事業場管理令13・・13・5・4・・軍需工業動員法第二条によって管理されている工場・事業場を国家総動員法に継続。(318)
●総動員業務事業設備令16・・14・7・1・・主務大臣に重要事業設備の新設拡充または改良を命じる権限を付与。(427)

下

★国内政治と社会年表。1938年(昭和13年)頃。『昭和2万日の全記録』講談社を中心に要約引用し、朝日新聞の紙面紹介を行った。
年・月 1938年(昭和13年)
昭和13年(1938年)の概略

●日本は3月~5月、当時日本の現有兵力の大半である20個師団で「徐州作戦」(5/19徐州占領)を開始した。だがこの中国軍40万に対する殲滅作戦は肩すかしに終わり失敗した。(日本は広大な中国大陸において、泥沼の戦争に踏み込んだのである。)
日本は、大規模な軍事行動により兵力は不足し、また膨大な戦費と軍備物資の莫大な消費により経済は危機的状況となっていた。そこで政府は、日中戦争完遂のため、「国家総動員法」を公布(4/1)した。これは国民の生命、財産、自由を政府に「白紙委任」するものであった。だが同時に近衛内閣は内閣改造(5/26)を行い、国民政府との和平交渉開始と、日本経済の立て直しを図ろうとした。
●ところが7月、陸軍は朝鮮、満州、ソ連国境付近の張鼓峰でソ連軍と軍事衝突を起こした。陸軍はこの軍事衝突で本格的な近代戦を経験したが、ソ連軍の反撃で大きな損害を受けた。
●陸軍はこの事件により、中国と和平を結ぶことよりも、早く中国を屈服させ、対ソ連戦に備えるべきだと考えるに至った。陸軍内部では、参謀本部の「消極持久方針」(=ソ連を仮想敵国として中国には不拡大という方針)は破れ、陸軍省の「積極拡大方針」(=中国軍の主力を撃滅し日中戦争の早期解決をはかるという方針)が決定されるのである。
●こうして10月、日本軍は当時の兵力の7割にあたる24個師団の大軍をもって、広東と武漢三鎮を占領する。だが中国の抗日戦意は衰えず、国民政府は武漢からさらに奥地の重慶に遷都し抵抗を続けた。この時、共産党の毛沢東は日中戦争の長期持久戦の見通しを述べ、日本の攻略戦は武漢で第3段階が終わり、これからは中国による遊撃戦(ゲリラ戦)の段階に達し中国の勝利となると述べた。
●11月、近衛内閣は国民政府に対して、「東亜新秩序」の建設に協力せよという第2次近衛声明を発表した。続いて12月、「善隣友好・共同防共・経済提携」の3原則を盛り込んだ第3次近衛声明を発表した。そしてこれに呼応したのが国民政府の重鎮である汪兆銘らだった。(12月18日、汪兆銘ら重慶脱出を決行)
●国内では、近衛内閣は国民の思想・精神の統制と弾圧を行い、昭和12年9月から始めた「国民精神総動員運動」の徹底を図った。そして昭和14年からは毎月1日を「興亜奉公日」と定め、国旗掲揚・宮城遥拝・神社参拝・勤労奉仕などの実践や、「八紘一宇(はっこういちう)」という天皇による世界征服思想を国民に強調した。また労働組合・社会運動は弾圧され、労働組合の代わりに「産業報国会」が作られていった。自由主義・民主主義思想も共産主義の温床になるとの理由から弾圧された。
★日本経済は非常時体制から準戦時体制へ向かう。莫大な臨時軍事費によって、国民経済の全てを軍需品の生産目的に振り向け、日本経済はさらなる戦時体制に向かった。だがそのために生じた膨大な赤字財政の財源は、これまた膨大な公債でまかなわれたのである。インフレと国民生活の窮乏が始まる。

1938年
昭和13年1/1
●東京市は「木炭バス」の試行運転を開始する。7/16には「東京乗合バス」は東京市内5営業所の554台全てを、ガソリン車から木炭自動車に順次切り換え、年末までに木炭車改造を終了させることを計画した。この会社は、東京で8社あったバス会社のなかでも最大で、東京市のバス総車両の2/3を所有していた。
●石油は日中戦争の拡大で軍備最優先となり、5/1より「ガソリンの1滴は血の1滴」のスローガンとともに切符制となった。そして月を追うごとに石油の規制は強化されていった。
(写真)木炭バス、撮影-川上今朝太郎(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1938年
昭和13年1/10
●海軍陸戦隊、独力で青島上陸を決行、占領する。1/2に支那方面艦隊、第4艦隊による山東省の青島占領作戦部隊が編成されていた。
1938年
昭和13年1/11
御前会議「支那事変処理根本方針」を決定

●左朝日新聞紙面には、「御前会議聖断厳かに降る。対支最高方針全く確立」とあるが、内容は一切書かれていない。この天皇の「聖断」を仰ぐために参列したのは、大本営側(閑院参謀総長宮殿下、伏見軍令部総長宮殿下、多田参謀次長、古賀軍令部次長)、政府側(近衛首相、広田外相、杉山陸相、米内海相、末次内相、賀屋蔵相)そして平沼枢密院議長である。
●そして「・・閣議で決定した対支根本方針を議題とし重大審議が進められた結果、帝国不動の最高方針は茲に確立を見て同3時歴史的御前会議は終了した。」とあります。
また1/16近衛内閣が「爾後国民政府を対手(たいしゅ=相手の意)とせず」との対中国重大声明を発表したが、これまた国民には何のことだがチンプンカンプンだったといわれる。この「支那事変処理根本方針」は下段で「国立公文書館 アジア歴史資料センター」にリンクしたので確認してください。根本方針の最初は以下のようである。

帝国不動の国是は満洲国及び支那と提携して東洋平和の枢軸を形成し、之を核心として世界の平和に貢献するにあり・・

そしてこの方針に基づく実行施策内容に、1/16の近衛声明に関することが決められている。
それは、もし支那現中央政府が反省、翻意して和を求めた場合とそうでない場合についての施策である。和を求めてこない場合は、「・・事変解決に爾後現中央政府を相手にして期待をかけず・・」とある。

*リンクします「4.支那事変処理根本方針」→「国立公文書館 アジア歴史資料センター」
1938年
昭和13年1/11
「健兵健民」のもとに厚生省誕生

●この日厚生省が発足した。拓務省(昭和4年6月)以来の13番目の新省である。この「厚生」の名の由来は、中国の古典「書経・左伝」にある「正徳利用厚生」から、「衣食を十分にし、空腹や寒さに困らないようにして民の生活を豊かにする」という意味である。
●だがこの誕生のきっかけは、下に寺内寿一陸相の発言を引用したが、陸軍の強い要望から生まれたのである。この厚生省は、日中戦争下にあって国内における総力戦体制を推進していくのである。
●保健所は4/1愛知県一宮保健所をはじめとして、敗戦までに770設置された。
(写真-部分「保健所30年史」)昭和13年9/1に開設された岡山保健所。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

寺内寿一陸相の発言
「壮丁の健康に関する立場より最近三箇年間に於ける徴兵の成績に徴するに壮丁の健康は逐年非常に悪くなって居り特に眼の悪い壮丁が激増して居る(中略)これは軍団の根本組成の上に於て実に寒心すべき事柄であって・・」と述べた。(陸軍軍医団『軍医団雑誌』279号)
1938年
昭和13年1/13
●「皇軍慰問演芸班」、中国に向かって東京駅を出発。1/5大阪朝日新聞社と東京朝日新聞社は、中国戦線に映写班と演芸班を送ると発表した。慰問演芸班は、吉本興業の柳家金語楼、横山エンタツ、ミス・ワカナ、玉松一郎、石田一松などで「北支」組と「中支」組にわかれ日本を出発していった。この慰問団は「わらわし隊」と呼ばれ、各地で大歓迎を受けた。
●また東京日日・大阪毎日の両新聞社も3/2「皇軍慰問芸術団」結成壮行会を開いた。歌手を中心とした顔ぶれは、勝太郎、市丸、徳山たまき、松原操、渡辺はま子、赤坂小梅、伊東久男らであった。
(写真-部分、「週刊朝日」2/13号)1/19天津陸軍病院を慰問する柳家金語楼。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1938年
昭和13年1/16
第1次近衛声明「爾後国民政府を対手(たいしゅ=相手の意)とせず」と声明。

●その意味するところは、日本は国民政府が和を求めて来るなら交渉に応じるが、そうでなければ国民政府を壊滅させ、新しい政権の誕生を助けるという声明であった。その全文は以下のようである。

「帝國政府聲明」
帝國政府は南京攻略後尚ほ支那國民政府の反省に最後の機會を與ふるため今日に及べり、然るに國民政府は帝國の真意を解せず漫(みだ)りに抗戦を策し内民人塗炭の苦みを察せず外東亜全局の和平を顧みる所なし仍(よっ)て帝國政府は爾後国民政府を對手とせず帝國と眞に提携するに足る新興支那政權の成立發展を期待し是と兩國國交を調整して更生新支那の建設に協力せんとす、元より帝國が支那の領土及主權並に在支列國の権益を尊重するの方針には豪もかはる所なし、今や東亜和平に對する帝國の責任愈々(いよいよ)重し、政府は國民が此の重大なる任務遂行のため一層の發奮を冀望(きぼう)して止まず
1938年
昭和13年1/16
閣議、昭和13年の「物資動員計画」を承認し決定

●これは軍需優先の物資動員計画であり、軍が配分の実権を握った。略して「物動」と呼ばれたこの計画は戦争経済を運営していく基本となった。日中戦争が長期化することがほぼ確定的となった昭和12年9月、近衛内閣は軍需品の大規模な補給を課題としなければならなくなった。
●戦争で最も損耗する鉄を例にとると、原料の鉄鉱石は52.3%を輸入に依存していたのである。近衛内閣は12年10月資源局と企画庁を統合して企画院を設置、これに総合的な物資需給計画を策定させた。できあがったのが物動計画である。
対象品目は大きく8つに分けられた。それは①鉄鋼、②非鉄金属類、③繊維・木材・皮革。ゴム類、④石炭・製油等類、⑤工業塩・化学薬品・化学肥料⑥機械類⑦食料・飼料、⑧輸入雑貨、の8つである。そして配当計画は、軍需(陸軍A、海軍 B) と民需(C、陸海軍以外の官需)に分けられ、民需の中では「生産力拡充用資材」に重点が置かれた。 実際の配分は軍需が優先され、民需については「強度の節約を断行する」とされ、国民生活に代用品時代をもたらしていく。

1938年
昭和13年2/1
●第2次人民戦線事件発生。この日治安維持法違反容疑で東大教授の大内兵衛(おおうち ひょうえ)、法政大教授の美濃部亮吉、東北大助教授宇野弘蔵ら38名が検挙された。マルクス経済学系の教授グループが中心であった。 この人民戦線とは、1935年のコミンテルン第7回大会で採用された世界共産主義運動の方針であったが、今までは日本共産党に限定されていた検挙が、共産党以外の労農派や社会主義者一般にも及ぶようになった事件である。
1938年
昭和13年2/11
●株式会社中国連合準備銀行(略称連銀)が設立。この銀行は、中華民国「臨時」政府(王克敏行政委員長、北京)が2月5日に公布した中国連合準備銀行条例に基づいた「臨時」政府の発券銀行(中央銀行)である。
日本によるこの銀行設立の目的は、国民政府の法定貨幣である「法幣」を駆逐し、連銀券による華北占領地域の通貨支配をめざしたものである。この法幣とは1935年国民政府が、孫文以来の悲願である全国的な通貨統一を目指して制定した法定貨幣である 。そして このための財政支援をしたのがイギリス・アメリカ両政府であった。
●当初日本軍の現地での軍費支払いは「朝鮮銀行券」で行われていた。しかし「朝鮮銀行券」はポンドやドルとは交換できず、また租界内での取引は全て「法幣」建てで行われていたので、「法幣」がなければ軍の必需物資を購入できなかった。
そこで日本は新たな通貨「連銀券」を発行したのである。そして華中では当初「軍票」を発行し、1940年汪兆銘政権発足後は「中央儲備銀行」を設立させ「儲備券」を発行した。これらの通貨は無制限に発行されることになるが、日本国内の「円」とは「預け合いシステム」により分離され、日本国内でのインフレの高進は防止された。
1938年
昭和13年2/15
●警視庁東京銀座新宿などで「不良学生狩り」を行う。17日までの3日間で7373人が検挙される。
警視庁はこの日夜8時、銀座・浅草・新宿・上野・神田などの盛り場で「一斉不良取締り」を行った。この「学生狩り」は国民精神総動員週間を期して行われた。戦争という時局に際し相対的に自由な生活を送っていた学生に対する見せしめとして行われたのである。
1938年
昭和13年2/16
●内閣情報部は「週報」のグラフ版「写真週報」を創刊した。週刊国策グラフ雑誌である。
内閣情報部は前年に内閣情報委員会から改組された。この内閣情報委員会とは、満州事変(昭和6年)以降、情報宣伝の統一と強化を図るため、昭和7年9月、外務・陸軍・海軍・文部・内務・逓信6省による非公式の情報委員会が発足し、昭和11年7月に官制による内閣情報委員会に昇格したものである。そして同年10月に法令・省令などを告知する「官報」とは異なる「週報」を創刊した。
●この「週報」は法令の必要性や運用、政府が目的などを分かりやすく解説したもので、「週報」の読者は隣組組長など国民の一部指導者層であった。それに対して「写真週報」は直接国民大衆に向けたものだった。
内閣情報部の役割は、自らが情報源となって積極的に国民を誘導することと、さらに民間の新聞社、出版社、映画企業などを国策に沿って統制することであった。
1938年
昭和13年2/18
内務省、石川達三「生きてゐる兵隊」掲載の「中央公論」3月号を発売禁止

●内務省警保局図書課は「中央公論」3月号を発売禁止と命令。同誌の特派員として南京攻略戦に従軍した石川達三の「生きてゐる兵隊」の非戦闘員に対する略奪・暴行などの描写が、反戦気運をあおるという理由であった。そして石川は起訴され、禁錮4ヶ月判決を受けた。
(注)前ページ「南京大虐殺」のなかで「生きてゐる兵隊」の最初の部分を引用した。(星野)


石川達三(いしかわ‐たつぞう)
小説家。秋田県生まれ。早大中退。ブラジル移民を描いた「蒼氓」で第一回芥川賞を受賞。日本文芸家協会理事長や日本ペンクラブ会長などを歴任。作品「生きてゐる兵隊」「風にそよぐ葦」「人間の壁」「青春の蹉跌」など。明治38~昭和60年(1905-85)(出典)日本国語大辞典精選版


●また「南京事件論争史」笠原十九司、平凡社2007年刊によれば、次のようにある。
1938年に発禁処分を受けたこの「生きてゐる兵隊」は戦後の1945年12月に初版5万部で河出書房から出版された。そして東京裁判で南京事件が裁かれることがわかると、1946年5/9読売新聞社は、石川達三のインタビュー記事を「裁かれる残虐『南京事件』」との見出しで掲載した。この中で石川は南京事件について、

「入城式におくれて正月私が南京へ着いたとき、街上は死体累々大変なものだった。大きな建物へ一般の中国人数千人をおしこめて床へ手榴弾をおき、油を流して火をつけ灼熱地獄のなかで悶死させた。また武装解除した捕虜を練兵場に集めて実弾の一斉射撃で葬った。しまいには弾丸を使うのはもったいないとあって、揚子江へ長い桟橋を作り、河中へ行くほど低くなるようにしておいて、この上へ中国人を行列させ、先頭から順々に日本刀で首を切って河中へつきおとしたり、逃げ口をふさがれた黒山のような捕虜が戸板や机へつかまって川を流れて行くのを下流で待ちかまえた駆逐艦が機銃の一斉射撃で片ッぱしから殺害した」

と見聞した南京虐殺現場の様子を語り、

「・・私たちの同胞によって行われた、このような虐殺事件の根絶のためにこんどの裁判(東京裁判)を意義あらしめたいと思う」と語ったという。

●巣鴨の獄中に居た松井石根大将(南京事件の責任者として極東国際軍事裁判で絞首刑)は、この読売新聞の記事をみて次のように日記(1946年5/10)に書いた。

「9日、読売新聞に石川達三なる者談話記事あり。南京当時の暴行事件を暴露せる者なり、小説家の由、困った男なり。わざわざ問題の種を邦人中より蒔くの愚、蔑(さげす)むべきなり」

●そしてこの記事が掲載された直後の1946年5/11、石川達三は国際検察局(連合国軍最高司令官総司令部)の尋問を受けた。その中で石川は次のように述べた。

1938年1/5に南京に入って兵士から聞いた話をもとに『生きてゐる兵隊』を書いたと語るとともに「南京で起こったある事件を、私の本ではそれを他の戦線で起こったこととして書きました。このようにして小説にしました。」

●石川達三の昭和13年3月判決を受けた頃の心境を、「生きている兵隊」伏字復元版の「解説」で半藤一利は次のように書いている。石川は、新聞紙法違犯で起訴され公判で次のように堂々と自己の意見を開陳したという。

 「国民は出征兵士を神様の様に思い、我が軍が占領した土地にはたちまちにして楽土が建設され、支那民衆もこれに協力しているが如く考えているが、戦争とは左様な長閑なものではなく、戦争というものの真実を国民に知らせることが、真に国民をして非常時を認識せしめ、この時局に対して確乎たる態度を採らしむる為に本当に必要だと信じておりました。殊に南京陥落の際は提灯行列をやりお祭り騒ぎをしていたので、憤慨に堪えませんでした」
1938年
昭和13年2/24
政府、国家総動員法を衆院本会議に上程

●この国家総動員法は、全てを戦争に動員するために、国民の生命、財産、自由を政府に白紙委任するというものであった。そのため議会でも強い反対意見がだされ、その急先鋒となったのが、政友会の牧野良三と民政党の斉藤隆夫だった。
●だが軍は高圧的に法案を通そうとし、結局議会は軍の圧力によって満場一致で可決したのである。3/3この軍の姿勢を象徴する事件が起きた。政府説明員の陸軍省軍務局課員佐藤賢了陸軍中佐による「だまれ!事件」である。
(写真部分-読売新聞社)この時の写真が上である。3/3午後、衆議院国家総動員法案委員会で、説明員の佐藤賢了中佐が議員に向かって「黙れ!」と一喝した。小川郷太郎委員長の要求で発言を取り消したが、委員会は紛糾した。写真は散会後退場する佐藤中佐(後列左端)と塩野季彦法相(前列左)、滝正雄企画院総裁(前列右)(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

1938年
昭和13年3月
●3/1商工省、「錦糸配給統制規則公布施行」。錦糸の割当票による日本初の配給切符制度が採用される。
●3/7商工省、「揮発油・重油販売取締規則公布」(一部施行)、5/1から配給切符制度実施。
1938年
昭和13年3/7
電力関係4法案修正可決

●衆議院本会議(第73議会)は、電力管理法案、日本発送電株式会社法案など電力関係4法案を修正可決した。この法案は第70議会(昭和11年12月)の広田弘毅内閣の時に上程されたが、電力業界と財界の強い反対で、撤回されたいわくつきの法案だった。
今回近衛内閣は、この法案を若干修正を加えて上程し、会期を延長して成立させた。この法案は、国が運用権を握り電力を統制する内容のものだった。

1938年
昭和13年3/12
48億5000万円の臨時軍事費追加予算、貴族院本会議通過し成立。

●ここで下段で、一般会計軍事費、臨時軍事費、特別会計軍事費についてもう一度グラフを引用しておく。財源がなく戦争を遂行するためには、国家と国民の資産総てを必要としたのである。
●そして敗戦後、借金財政の最後のつけを払ったのは国民一人一人であった。現代でも借金財政の後始末は、国民がつけることを忘れてはならない。既に国民の資産は借金分失われているのである。

財政支出の変化、軍事費の増大
政府の一般会計の歳出(昭和1年・1926~昭和20年・1945)

●最初に政府の一般会計の歳出(昭和1年・1926~昭和20年・1945)をみてみよう。軍事費その他の項目の歳出状況がわかる。
●表1・左表(昭和1年~昭和11年)と下の表2は「昭和財政史3巻・歳計」より「資料Ⅱ統計」「4表一般会計歳出 事項別調」より作成したものである。(単位1000円)

●表2(昭和12年~昭和20年)。この2枚の表のポイントは1番上のオレンジ色の「軍事費」である。この軍事費の内訳は、別資料の「省別でみた一般会計(経常部と臨時部)」の陸軍省と海軍省を合計したもので狭義の軍事費とされている。そしてこの表の軍事費には、昭和12年度より設置された特別会計(ここでは「臨時軍事費特別会計」)に繰り入れた額が合算されている、とある。
●この額は別項の「一般会計の軍事費」と「臨時軍事費特別会計」の合計からは2重計上となるので差し引いてある。
●左のグラフ(単位は1000円)は上の表の昭和1年から昭和13年までをグラフ化したもので、歳出全体が増大していることと、一般会計に占める軍事費(赤色)の構成比が伸びていることがわかる。歳出全体では昭和6年が最低であったが、この年は濱口内閣と若槻礼次郎内閣での井上準之助・大蔵大臣の財政政策が終わった年である。そして6年末に登場したのが大蔵大臣・高橋是清である。政策の違いがはっきりと数値に出ている。
●また左のグラフ(単位は1000円)は昭和20年までのものであるが、一般会計における軍事費(赤色)の割合は昭和16年をピークに低下している。しかしこの軍事費の割合の減少と金額の増減は、次項で述べる「臨時軍事費特別会計」をみなければわからない。
●つまり軍事費の大きさは一般会計における軍事費だけではわからないのである。「一般会計における軍事費」と「臨時軍事費特別会計」を足さないと、その大きさはわからない。その大きさは桁違いである。
なお昭和20年の一般会計の軍事費の支出は、陸海軍復員局の610,367(千円)のみである。アジア太平洋全域から日本へ戻ってくる兵士らの復員費用である。
「一般会計の軍事費」と「臨時軍事費特別会計」の合計(狭義の軍事費)

●昭和12年度(日華事変・日中戦争開始)からは、一般会計とは別に特別会計が設置された。(注)一般会計は毎年度決済を行うが、特別会計ここでは「臨時軍事費特別会計」では事変終結までを1会計年度とした。そしてこの臨時軍事費特別会計の決算整理が行われたのは戦後だった。ただし特別会計はこの臨時軍事費特別会計だけではなく、現代と同じように数多くあった。そして明治期からも4つの大きな臨時軍事費特別会計があった。それは「日清戦争」「日露戦争」「欧州戦争・シベリア出兵」そして「日華事変・太平洋戦争」である。

●左の表(2枚に分けた)は、一般会計軍事費と臨時軍事費特別会計の合計(狭義の軍事費)である。
上が昭和1年~昭和11年、下が昭和12年~昭和20年である。出典は 「昭和財政史4巻・臨時軍事費」である。
●特に昭和20年(敗戦の年)の臨時軍事費特別会計支出額が低いのは月数が少ないことと、外貨金庫による肩代わりその他経理上の操作で決算額が減らされた、と財政史にはある。
●そして左グラフが、この「臨時軍事費特別会計」と「一般会計の軍事費」の合計をグラフ化したものである。下部の赤の部分が「一般会計の軍事費」であり、積みあがった「臨時軍事費特別会計」は、これまた桁違いの大きさである。なおグラフの黄色は、マイナス部分で、一般会計から特別会計に繰り入れられた額で2重計上のため引いたものである。
●折れ線グラフは、「臨時軍事費特別会計」と「一般会計歳出総計」の合計に対する、軍事費合計(狭義)の構成比である。70%以上が連続する昭和13年以降は、「戦争に勝った、負けた」の問題では無く、国家が破綻するかしないかの国家存亡の重大危機にあったはずである。
「国債の日銀引受け」による通貨供給

●ではこのような財政支出がどうして可能であったのであろうか。それは「日銀引受け」による新規公債を発行するという方式を、犬養内閣の高橋是清蔵相が案出したことによるのである。前任の井上準之助蔵相による緊縮財政は、さらなる不況の深刻化をもたらし、政府の租税収入の激減をもたらした。そして政権の眼目だった非募債方針は変更されていったのである。
こうして政権がかわり高橋是清蔵相が就任すると、「金解禁以来極度に沈滞した産業界に景気の呼ぶ水として通貨を補充し、一般購買力を増加させて、生産力の活動を促すこと(昭和財政史6巻国債)」を目的として、政府の財源を公債増発に求めたのである。
●そしてその方法を、金融市場での国債売買による公開市場操作ではなく、新規発行の国債を「日銀引受け」による発行としたのである。これは具体的には、

「公債が日銀引受けで発行されると、同時にその額に応じて政府の国庫預金勘定が増額するが、政府の予算執行とともに、日銀を支払人とする小切手振出しによって、この預金は次々と引き出されて民間に撒布されてゆく・・(昭和財政史6巻国債)」

とある。
上図は「昭和財政史6巻・国債」より「第1表国債増減一覧」より年度別の、(年度首現在額)と(発行額+償還額の差引発行額)と(年度末現在額)を抜き出して作図したものである。井上財政当時(昭和5-6年頃)「公債60億円」と言われていた国債総額は、毎年10億円近くを加えて、昭和10年末には98億円となっていき、その後国債の発行は桁違いに増加していくのである。
●この制度の問題は、通貨がそのまま発行されることにあった。もし日銀が引受けた国債の民間への売却がうまくいかなかったり、政府が過度に運用を続ければ、通貨の膨張を生み、悪性インフレに進む危険性があるということである。だから高橋蔵相は時期が来ればただちにこの制度を中止することを念頭に置いていたという。そして高橋蔵相が2.26事件で殺害された理由も、公債漸減政策のなかで軍事費(軍事公債)を削減しようとしたからともいわれる。
●しかしその後跡を継いだ広田弘毅内閣の馬場蔵相は赤字国債を容認し、軍部の要求する巨額な軍事費を認めたのである。

*リンクします「昭和財政史(戦前編)」→財務省・財務総合政策研究所

年・月 1938年(昭和13年)
1938年
昭和13年3/14
ドイツ、オーストリア併合を宣言

●この日の午後、アドルフ・ヒトラー総統は、ウイーンの英雄広場で「わが故郷のドイツ帝国への編入」を高らかに宣言した。
(写真)英雄広場でウイーン市民の歓呼に答えるヒトラー。ナチスの動員、演出はあったにせよ、ミュンヘンからウイーンへ、故郷に錦を飾った彼を出迎えた市民の熱狂ぶりはすさまじかった。(出典)「クロニック世界全史」講談社1994年刊
●4/10両国民参加の国民投票を実施。

1938年
昭和13年3/15
IOC会議、第12回オリンピック大会(1940年)、東京開催を決定

●翌16日、冬季オリンピックも札幌開催を決定した。そして東京オリンピックの日程は、開会式が昭和15年10月6日(日)と決定した。
(注)1964年の東京オリンピックの開会式は10/10だった。なぜ2020年開催予定の東京オリンピックが、暑い7/24の開会式になったのだろうか。すべて金(かね)の都合である。1番巨額な放映権料を支払う国の放送局が、オリンピック開催時期と主要競技開催時間を決定するのである。
●だが日中戦争下での資材の不足は逼迫しており、7/15閣議は東京オリンピックの返上中止を決定した。そして同時開催予定だった東京万国博覧会も無期延期で中止し、冬季オリンピックも中止が決まった。
●5/4このオリンピック招致に奔走し尽力した嘉納治五郎が、船上にて急性肺炎で死亡した。カイロで開かれたIOC総会に出席した後、氷川丸で帰国する途中のことだった。嘉納治五郎は、講道館柔道の創始者であり、日本人最初のIOC委員に就任しスポーツの振興に尽力した人物であった。
(ポスター写真)仁王像を配した海外向けポスター(和田三郎画)。実際には発送されなかった。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

1938年
昭和13年4/1
国家総動員法公布(5/5施行)

●これにより軍需工業動員法は廃止になったが、次から次へと法律が公布された。4/1「改正職業紹介法公布(7/1施行)」、4/1「国民健康保険法公布(7/1施行)」、4/2「農地調整法公布(8/1施行)」、4/4「灯火管制規則公布(4/10施行)」
●4/6「電力管理法公布」「日本発送電株式会社法公布」「電力管理に伴う社債処理に関する法律公布」

1938年
昭和13年4/7
大本営陸軍部、徐州作戦の発動を下命

●陸軍の基本方針は、2月の大本営の御前会議で、参謀本部の主張する「最終目的は対ソ戦でありそれまでは積極的な作戦を行わない」という消極持久方針が承認されていた。下段でリンクした「陸軍叢書」によれば、当時の陸軍省、参謀本部ともに支那事変における軍事行動は一段落であるとの意識が強かったとあり、2/16御前会議では『一般方針としては、しばらく戦面不拡大の方針をとり、情勢によっては所要の作戦を一部実施することがある』と決定されたとある。
●だがこの方針は、現地軍の各所で強い反発を受け、陸軍省が推す積極拡大論が優位となり、陸軍の方針は転換していった。陸軍省から参謀本部作戦課長に就任した稲田正純中佐は、「徐州・漢口・広東作戦を発動して中国軍主力を撃滅し日中戦争の早期解決をはかる」という戦争指導要綱を作成したのである。こうして日本は戦線を拡大し泥沼の長期戦へと踏み込んでいった。下に徐州作戦のポイントを書き出した。
(上写真-毎日新聞社)第10師団瀬谷支隊を援護する、支那駐屯戦車隊。4月下旬蘭陵鎮付近。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

(ポイント)
●徐州作戦のきっかけとなったのは、3月末に日本軍が「台児荘」で敗退したことにあった。この戦闘は、上写真の第10師団瀬谷支隊が「台児荘」に突入したが、中国軍に包囲され敗退したというものだった。これを中国軍は「台児荘の勝利」と宣伝し、戦意と志気向上を図った。だがこの戦闘により、大本営は徐州に展開する中国軍総計約50コ師(40万)との一大会戦を決断し、徐州作戦発動となったのである。
●日本の北支那方面軍と中支那派遣軍は、4月5月と作戦行動を開始し南北から中国軍の退路を遮断するように進撃した。だが中国軍は5月中旬、包囲網が完成する間隙を突破して西南方面に退却した。5/19、日本軍は徐州を占領した。
●その後、日本軍は中国軍を追って西進し、5月末には開封、中牟まで進出した。
そして6月、中国軍は中牟の北の黄河の堤防を爆破し、日本軍阻止を試みた。このため6/12未明からの大雨で黄河が増水し、6/13には決壊した。これにより黄河の水は、幅約24km、長さ約80kmに渡って流れた。中国側調査によれば、この結果水没部落約3500、罹災民約60万人、行方不明約12万人の被害が出たという。(出典:「昭和2万日の全記録」講談社)
●陸軍は、この徐州作戦では中国軍に肩すかしをくらったことにより、殲滅作戦は失敗し、戦線を広げた形となってしまった。だがこの作戦は、実質の中国の首都機能を持つ武漢三鎮(漢口・漢陽・武昌)攻略作戦へつながるのである。
*リンクします「陸軍叢書」「第4章支那事変の拡大と長期化」→
「防衛庁防衛研究所 戦史室著 朝雲新聞社」

●下の地図上のポイントは、現在の「徐州市」の位置と上写真(戦車)の「蘭陵鎮」、日本軍が撤退した「台児荘」、黄河を決壊させた付近より南に位置する「中牟」付近。+-ボタンでズームイン・アウトができます。

兵隊文学

昭和13年2/18、石川達三の「生きてゐる兵隊」が発売禁止となり彼は起訴された。石川達三は昭和10年(1935年)に第1回芥川賞を受賞したが、ここで紹介する火野葦平は、昭和12年(1937年)第6回芥川賞を中国戦線で受賞した。この戦地での芥川賞受賞は話題となり、従軍記である「麦と兵隊」「土と兵隊」「花と兵隊」は兵隊三部作として好評を博した。「麦と兵隊」は13年8月雑誌「改造」に発表され、改造社から刊行された単行本はベストセラーとなった。
●火野葦平は日中戦争が始まると31歳で召集され、杭州湾上陸、南京と従軍し、徐州会戦の従軍記を「麦と兵隊」に書いた。戦後「戦犯作家」として非難されたが、この「麦と兵隊」はルポタージュ(事実に基づく現地報告)として海外でも高い評価を得た。火野葦平はこの徐州作戦の時、中支那派遣軍報道部員として従軍した。陸軍は火野葦平らをその人気のため優遇しつつ陸軍のために利用したと言えるだろう。ちなみに火野葦平は、南京へ向かう途上の捕虜虐殺について、小説には書かなかったが、手紙にその様子を記したといわれる。

麦と兵隊
 五月四日
 晴れわたったよい天気である。
 出発の武装をして馬淵中佐の部屋に行く。班長は、私が入って行くと、高橋少佐宛の書面と、任務に関する訓令書とを書いてくれ、蚌埠(バンプ)報道部の状態、前線に出ている報道部区署など丁寧に指示してくれた上、給仕辻嬢に命じて麦酒(ビール)を取り寄せ、元気でひとつやって来てくれたまえ、と麦酒を抜いて注いでくれた。

下

年・月 1938年(昭和13年)
1938年
昭和13年4/15
●科学審議会官制公布。これは軍需品の需要に応じて、不足する資源の調査、代用品の研究を行う総理大臣の査問機関。人造石油製造、屑紙の再生、代用皮革など30件の研究が具体化した。
1938年
昭和13年4/18
●傷兵保護院官制公布施行。これは傷痍軍人の療養・社会復帰などを司る保護院で、後に軍事保護院に改組。
1938年
昭和13年4/19
●閣議で物価抑制・公債消化のため、増加所得分の全額貯蓄などの貯蓄奨励方針を決定した。そしてその年間目標を80億円とした。国債は「日銀引受け」によって発行していたので、国債を市中で消化しなければ、通貨の膨張を生み、悪性インフレに進む危険性があるということである。
●現代日本においても、2019年度末の国債の発行残高が897兆円となる見込みである。ここで一番問題なのは、国債の残高が増加し続けていることにある。つまり改善しようとしないことが一番の問題である。
1938年
昭和13年4/30
●北支那開発株式会社法・中支那振興株式会社法公布施行(11/7設立)
これらの会社は、中国の華北と華中の占領地で経済支配の中心となった国策投資会社。満鉄の出資によって設立された興中公司を吸収し、電力・運輸・鉱産・製塩」などの事業に投融資を行った。設立には政府の他、三菱・三井・住友の3財閥などが出資した。
1938年
昭和13年5/1
ガソリン切符制が始まる

●これは「揮発油(ガソリン)および重油販売取締規則」の1部が施行され、切符制によるガソリン消費規制が実施された。これにより円タク(1円タクシー)は流しが困難となり、バス会社各社は減車を強いられた。たとえば東京地下鉄道(株)乗合課(青バス)では運転手43人が解雇され、会社との斡旋を警視庁に陳情するということも起きた。

1938年
昭和13年5/11
●海軍第5艦隊所属の第2連合特別陸戦隊、海上封鎖徹底のため福建省厦門(アモイ)島全島を占領。
1938年
昭和13年5/14
●ジュネーブの国際連盟理事会、日本の中国山東省での毒ガス使用に関して非難決議を採択する。
1938年
昭和13年5/15
●東大航空研究所設計の長距離機が、航続距離と平均速度の世界記録を樹立する。航続距離が1万1651km、1万km飛行の平均時速が186.775kmを記録した。藤田雄蔵陸軍少佐ら3名が搭乗した。
(写真-野沢正)羽田飛行場にてテスト中の同機(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1938年
昭和13年5/17
●戦車第5大隊小隊長西住小次郎中尉、徐州作戦(徐州南方の宿県を攻撃中に)戦死する。12/17陸軍は、日中戦争で初の軍神と発表する。彼を題材とした映画「西住戦車長伝」も作られた。死後大尉に進級、25歳だった。
●5/19中支那派遣軍所属の第3師団宿県占領。第13師団所属の第65連隊、徐州に突入し、第13師団は徐州を占領した。
(写真-クロマート)同年南京城内での西住中尉(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1938年
昭和13年5/20
綿糸販売価格取締規則公布(5/22施行)

●これは錦糸価格を公定制とし、販売を規制するものであった。この商工省令はわが国最初の公定価格制を定めたものとして重要である。第1条は次のようである。「第1条・・綿糸は何等の名義を以てするを問はず最高価格を超ゆる対価を以て之を販売することを得ず」

1938年
昭和13年5/20
●中国機九州来襲。午前4時頃、国籍不明機1機が熊本、宮崎両県上空より「日本労働者諸君に告ぐ」という反戦ビラをまいて、太平洋上に消えた。この飛行機は中国機で、飛行士は漢口で、日本本土を空襲した英雄として歓呼に迎えられた。
1938年
昭和13年5/21
●「津山の30人殺し」事件発生。この事件は、現代でも度々映画化される横溝正史の「八つ墓村」のモデルとなった凄惨な事件である。
●5/21未明、岡山県西加茂村で、祖母ら村民30人を猟銃と日本刀で殺害する事件が起きた。犯人は22歳の青年で、詰襟の服に脚絆を巻き、白鉢巻きの左右に棒状の懐中電灯を角のようにさし、胸から角形の懐中電灯をぶら下げていた。原因は結核を病む絶望感、村民への怨恨ともいわれる。犯人は山中で猟銃で自殺。
(写真-毎日新聞社)山狩りに疲れた消防団員(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1938年
昭和13年5/26
近衛内閣改造、外相に宇垣一成大将を起用する

●文相には荒木貞夫大将、蔵相兼商相には池田成彬(事実上の三井財閥総帥)が任命された。
●宇垣一成大将は1925年に陸軍大臣となり大軍縮を行い、その後も再び陸軍大臣となり、陸軍は宇垣閥によって統一されるほどの実力者であった。だが前年1937年(昭和12年)に宇垣に組閣の大命が下るが、陸軍の反対で頓挫する。宇垣大将は、陸軍の主流派にとっては反発の対象であった。宇垣外相は、難航する中国との和平交渉のために任命されたのである。
●荒木貞夫大将は皇道派の中心人物で、2.26事件後に予備役編入となった。だがここで文部大臣に就任したことで、皇道派の主張である天皇を中心とする軍国主義教育を推進することとなった。
●池田成彬蔵相の就任時の朝日新聞の記事をみると、次のようにある。「池田蔵相は従来より内閣参議として、結城日銀総裁と共に賀屋財政支援の立場をとってきたので、方針に変更を加えることはないと予想される。また池田蔵相の財界での声望によって、従来のごとき財界の不平不満はある程度緩和されるものと期待される」とある。

1938年
昭和13年5/27
●大日本青少年ドイツ派遣団の30人、靖国丸で鹿児島を出発。
彼らは7月にドイツ入りをして、9/10にニュルンベルクで開かれたナチス党大会に参加し、ヒトラーと会見した。
●ドイツからは、8/16ナチス党公認のドイツ青少年組織ヒトラー・ユーゲント一行30人が来日し、11/12までの90日間滞在し各地を巡遊し交歓会を開いた。この一行は、軍隊式の規律と統制された行動やスマートな制服で強い印象を与え、各新聞は日本各地をまわるヒトラー・ユーゲントの動静を報じた。
1938年
昭和13年6~7月
(英米各国の動きと日本の対応)
●6/1ハルアメリカ国務長官、駐日大使を通じて、中国の日本軍占領地の米国人財産の早期返還を日本政府に要求。
●6/3イギリス政府、日本軍の広東爆撃は無差別爆撃であるとして日本政府に抗議するよう、駐日大使に訓令。
●6/5国民政府は、漢口市民20万人に、日本軍爆撃のため、3週間以内に市内から避難するように布告(上海発)。
●6/7野村直邦上海駐在海軍武官、広東空襲に対する各国の抗議に、武装都市を理由に爆撃は中止せずと言明。
●6/17宇垣外相、官邸で外国記者団と会見。日中戦争の長期化と犠牲は列国の中国援助が原因、と談話を発表。
●6/25ソ連外相リトビノフ、最高委員会代議員立候補演説の中で、日本とドイツの「侵略政策」を非難する。
●7/5国際ペンクラブ-プラハ大会、中国・スペイン問題で日独伊を非難。次回予定の東京大会をストックホルムに変更。
1938年
昭和13年6/9
学生・生徒の勤労動員始まる

●文部省、集団的勤労作業運動実施に関する件を通牒。

1938年
昭和13年6/10
「5相会議」正式に成立

●この会議は、首相が閣議に開催の承認を求めたものであり、徐州会戦(5/19徐州占領)後という重要な時期に、内外政策を協議し政略・戦略の一致を期するためのものであった。メンバーは、首相・陸相・海相・外相・蔵相の5人で、翌週から随時に開催と正式に決まった。6/3に陸軍大臣杉山元大将が病気のため辞任、後任には板垣征四郎中将がなっていたが、外相、蔵相も内閣改造で代わったことも5相会議設置の要因だった。

1938年
昭和13年6/11
●中国大使館閉鎖が閉鎖され、大使館員は中国へ引き揚げる。
1938年
昭和13年6/13
朝鮮にて、第1回特別陸軍兵志願者入所

●特別陸軍兵志願者の訓練所入所式が、京城帝大で開催され202人が入所した。

●地図上のマーク(上)は日本語で「鄭州市」、中国語で「郑州市」、マーク(下)は日本語で「武漢市」、中国語では「武汉市」を示している。武漢三鎮は漢口・武昌・漢陽のこと。さらに西の奥にあるのが中国語で「重庆」で、日本語の「重慶」である。

年・月 1938年(昭和13年)
1938年
昭和13年6/15
大本営御前会議で、広東作戦と漢口作戦の実施を決定。

●「6/18作戦準備を命令」、と「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊にはあるが、6/11と612の朝日新聞紙面からは、すでに進攻作戦が始まっていることが読み取れる。日本語と中国語表記の違いは前段のGoogle地図で確認してください。

●日本語で「鄭州」とあるのが中国語では「郑州」、日本語で「武漢」は中国語では「武汉」のこと。また河の名で日本語の「長江」は中国語で「长江」であり、日本語で「揚子江」と呼ばれてきた河は「長江」のことである。同様に「広東省」は「广东省」で、その省都は「広州市」で、中国語では「广州市」である。また「重慶」は「重庆」である。

(朝日新聞昭和13年6/11と6/12の「見出し」と記事一部抜粋)
●6/11「漢口に震撼・鄭州孤立、今暁・京漢線を遮断す、糧道断たれ敵大動揺」(開封にて大谷特派員10日発)・・我快速○○部隊は10日未明鄭州南方において京漢線を爆破遮断した、茲に漢口へのルートは完全に断たれた。
●6/11「鄭州の敵を爆撃」(北京10日発同盟)・・我が陸の荒鷲は地上部隊の壮挙に呼応して昨日に引続き今日も早朝より活躍。潰走の敵に爆撃を加え大打撃を与えつつあり・・。
●6/11「南支に猛爆敢行、広東、白雲・・」(上海特電10日発)・・艦隊報道部午前11時発表=昨9日海軍航空隊は引続き南支方面において左の攻撃を続行せり。1、広東市攻撃隊・・被害を更に拡大せり・・(略)
●6/12「揚子江上漢口目指し、海軍進攻作戦を開始、第3国艦船に避難警告」(上海特電11日発)・・海軍特務部は漢口攻撃作戦に関し11日当局談として左の如く発表した「帝国海軍は本日をもって漢口への進攻作戦を開始する、湖口附近より蕪湖附近迄直に作戦区域となるを以て第3国艦船立退き要望を艦隊長官より谷公使を通じて各国に通告した」
●6/12「続々奥地へ、漢口の引揚げ準備成る」(漢口特電11日発)(ルーター特約)・・漢口政府当局は11日に至り非戦闘員の漢口引揚げ準備を完了。今後毎日1万5千の婦女子を奥地各方面へ避難せしめることとなった。また中国戦時救済婦人会では毎日数百名づつ同会へ委託される罹災児童を重慶、成都、桂林及び昆明へ送っている。
●(上海11日発同盟)・・漢口市民の奥地避難は連日連夜続けられ、前線から流入する避難民と入り乱れて混雑の極みに達しているが、漢口在住の外人もこの無政府状態に頗る危険を感じ、避難委員会を組織して汽車数輌借り切って香港に向け避難せしめつつあり。また義勇隊を組織して支那暴民に備えるなど極度の緊張を呈している。なお外人居住者は昨年12月既に1千余名撤退し現在なお1千2百名が残っているが、その主たる内訳は◇英国人300◇米国人200◇ドイツ人180◇その他は仏人及びソ連人である。

「WORLD WARⅡ」第2次世界大戦全史「ビルマ戦役」
これは1952年~1953年にかけて、アメリカで製作された戦史TVドキュメンタリーである。世界各国から集められた膨大な記録映像フィルムから編集されたもので史料価値は高いものである。紹介した映像では、1938年(昭和13年)以降、重慶へと向かう中国の無数の避難民の様子が記録されている。最初のシーンでは、避難民達が山間部の河で、人力で船を上流に引っ張り上げている。日本人は、日本軍から逃げている中国の民衆の姿を知ることは無かった。

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年・月 1938年(昭和13年)
1938年
昭和13年6/23
支那事変に関する政府声明

●政府は、長期持久の戦時体制確立をめざして次のように声明した。
「防衛庁防衛研究所 戦史室著 朝雲新聞社」と昭和13年6/24の東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊より引用し、句読点を追加し、カタカナをひらがなに直した。

 支那事変は徐州陥落により戦局の一大進展を見たるも、その前途は尚遼遠なり。第三国の支援を頼み、長期抵抗を標榜する国民政府の徹底的壊滅のため、兵力は逐次増強せられ、今や我国有史以来の大軍は、陸海空に奮戦を重ねつつあり。この時に當り銃後施設により作戦行動に支障なからしめ、以て帝国所期の目的を達成せしめ、東洋永遠の平和を確立せんがためには、刻下凡百の施設を戦争目的貫徹に集中し、官民一体長期持久の戦時体制を確立し、以て時局に対処せざる可(べか)らず。之が為、當面の急務は物資の調整運用を最も有効適切ならしむるにあり。
即ち万難を排し輸出の振興、生産の増加、配給、消費の統制に関する政策の徹底強化をはかるの要益々緊要なりとす。茲(ここ)において政府は新事態に即応し、軍需品及輸出原料充足を優先とする物資需給の計画を樹て、之が遂行上緊要と認むる(左記の)諸方策の徹底的実行を期し、以て国防の安固、国民経済の維持を計ることに決せり。

物資総動員計画発表(戦争目的に一切集中、長期持久の体制確立)

●続いて具体策を発表した。それは軍需品調達を第1とし、消費節約を徹底し、輸出振興、貯蓄励行をはかる、というもので、具体的な項目は次のようである。

1、為替相場の堅持し、軍需物資の供給を確保し、輸出の振興をはかる。同時に物価騰貴を抑制するため、基準価格・公定価格を設定し、さらに消費節約と配給統制を強化することにより物価の引き下げを行う。
2、一般物資の極力消費節約をはかるため、輸入物資については使用制限か禁止にする。そのため代用品使用の強制するなど物資の消費節約を徹底強化する。
3、輸出を増進する。そのために、輸出用製品に関わる原材料の輸入は、国内消費転用を徹底的に防止し、輸入を確保する。(輸出入リンク制度)
4、主要物資の輸入と配給を適正円滑にするため、配給制度等を完備する。
5、貯蓄の普及徹底を図る。
6、官民一体簡素なる非常時国民生活様式の確立に努める。
(・・以下略)
●一般国内需要につき使用制限を強化すべき主なる資源は以下の通り。
(使用制限33品目)・・鋼材・銑鉄・金・白金・銅・黄銅(=しんちゅうとも呼ばれる)・亜鉛・鉛・錫・ニッケル・アンチモン・水銀・アルミニユーム・石綿・綿花・羊毛・パルプ・紙・麻類・皮革・木材・重油・揮発油・生ゴム・タンニン材料・工業塩・ベンゾール・トリオール・石炭酸・硝酸・ソーダ・苛里・燐鉱石。
1938年
昭和13年6/24
第2回五相会議、今後の支那事変指導方針決定
1、支那事変の直接解決に国力を集中指向し、概ね本年中に戦争目的を達成することを前提とし、内外諸般の施策をして総て之に即応せしむ。
2、第三国の友好的橋渡しは、条件次第にて之を受諾するを妨げず。
(出典)「陸軍叢書」防衛庁防衛研究所 戦史室著 朝雲新聞社

●上記の意味することは、「陸軍叢書」によれば、本年中に戦争目的を達成することは共通するが、陸軍は直接解決に集中し、総理および宇垣外相は第三国の橋渡しによっても和平を導こうとした、とある。
●だが、「世界の歴史」中央公論社1962年刊によれば、積極的に和平路線の設定をはかったのは宇垣外相であり、軍は外務省から中国問題を切り離そうと「興亜院設置」で圧力をかけたとき、近衛首相は宇垣外相の肩を持とうとはせず冷然と見捨てた、とある。

1938年
昭和13年6/29
職業紹介所官制公布

●7/1施行で、同日全国196ヵ所の職業紹介所を市町村営から国営に移管した。これは、学校卒業技術者や熟練工の就職など、就労・雇用を国家が統制を加えることを主眼とした。

1938年
昭和13年6月~7月
●昭和13年6月~7月の、各種民需向け製品の主な統制に関連する国民生活レベルの出来事を下記に抜き出した。正に戦時体制である。

●6/1臨時通貨法公布施行。五銭、十銭をアルミ銅貨とし一銭を黄銅貨とし、銀・銅・ニッケルなどを節約。
●6/10商工省で、消費節約・貯蓄奨励など国策遂行の一環として「昼食を手弁当に」の運動が起こる。
●6/21目標80億円の貯蓄報国強調週間始まる。「貯蓄は身の為、国の為」のポスター20万枚全国に配られる。
●6/26「貯蓄報国」のため、全国の各種銀行・郵便局では日曜日返上で預金取扱い業務を行う。
●6/27国民精神総動員中央連盟では、国民生活の簡易化をめざし禁酒節酒・簡素な婚礼葬儀などの具体案を提示。


6/29内地民需向け綿製品供給を禁止

商工省は、綿製品の製造・加工・販売制限に関する4省令を公布施行した。
●これは物資動員計画実行の先駆となるもので、この民需向け綿製品供給禁止は、綿糸生産を軍需と外貨を得る輸出にのみ振り分けることを意味したのである。ついに戦争が直接国民の日常生活に影響をおよぼし始めたのである。


●7/1商工省、皮革使用制限規則及び皮革製品販売価格取締規則を公布施行。牛革は禁止同然となる。
●7/2木綿・皮革製造販売制限令による買いだめ続出に、商工省は一人一品厳守を地方長官に訓令。
●7/7国民精神総動員中央連盟は、「日支事変一周年記念日」で一戸一品金属廃品献納運動を実施。
●7/8経済警察係、警視庁保安課に配給統制を取り締まるために新設。政府が物価の上昇を抑えるために配給や消費を統制したが、違反者が続出したため取締の強化が必要になった。


7/9物品販売価格取締規則を公布施行

商工省は、公定価格制度の確立のため上記規則を公布施行した。麻・ゴム製品など14品目を指定。


●7/10商工省、羊毛を軍需向けに確保するために一般内需向けのスフ混用率強化をこの日から実施する。
●7/13内務省警保局、全国警察官・消防士の服装は古物を修理して使用するように各府県知事に通牒。
●7/13東条英機陸軍次官、資源節約のため陸軍は営内靴を下駄で代用する旨全陸軍に通牒。
●7/15商工省中央物価委員会、食料品価格抑制方針として、牛・豚の代用にうさぎ・羊・鯨の食用化を奨励。
●7/16池田商工相、アルミニウム製品・アルマイト製品・ひまし油・カゼインの4品目の価格引き上げ禁止を告示。
●7/16ガソリン節減強化で東京乗合(青バス)は、市内554台の全車両を木炭自動車化すると警視庁に報告。
●7/18商工省、暴利取締令改正により販売価格表示強制を施行。すべての商品に価格を表示することが義務づけられた。
●7/21「経済戦強調週間始」まる。貯蓄奨励・物資節約・資源保護など経済協力の実践を目的とする。
●7/22大阪四天王寺、世界一といわれる釣鐘(全高約7.8m、重さ約157.5トン)の献納を大阪府に報告。
●7/23中央物価委員会、氷・石炭の最高販売価格、綿ゆかた地などの最高標準価格をそれぞれ決定。
●7/26大阪府衛生課と米穀商代表は白米廃止協議会を開き、8月から8分搗き以上の米の販売禁止を決定。
●7/28新聞によれば、9月からガソリンの配給量を8月分より1割削減し、前年度より約4割節約。


7/29経済警察創設・内務省警補局に経済保安課を設置

8/4各府県に経済保安課(係)設置。


1938年
昭和13年
物不足と代用品時代の始まり

●民需品で最も早く物不足の影響が表れたのは、鉄をはじめとした金属製品だった。昭和13年4/25公布の「銑鉄鋳物製造制限に関する件」によって下記の製造が禁止された。それらは、文鎮・鉛筆削り・花器・灰皿・火鉢・鋏・置物など47品目で、ついで7/8「鋼製品の製造制限に関する件」では、フォーク・スプーン・皿などの食器類、活動写真機・楽器・蓄音機など娯楽機器類、スパイクシューズ・円盤・スケート用具などの運動具類など133品目が製造禁止とされた。さらに7月このほかに、銀製品、鉛、亜鉛、錫、皮革、ゴム、ゴム靴などについて、販売または使用制限が出された。
●こうした製造禁止や使用制限は、多くの代用品を生み出したが、その中で脚光を浴びたのは繊維ではスフ(ステープル・ファイバー)と金属に代わる陶磁器だった。例を挙げると以下のようなものであった。ガス七輪バーナー・焼き網・すき焼き鍋・釜・戸車・戸すべり・洗面器・十能・霧吹き・煙管・湯たんぽ・ストーブ・痰壺・表札・飯蒸器・陶製のボタンなどで、さらには陶製の手榴弾なども作られた。

1938年
昭和13年7/5
梅雨前線による集中豪雨、阪神沿線に大水害をもたらす。神戸・芦屋・西宮

●被害の範囲は、芦屋の宮川方面から、西は妙法寺川付近にまでに到った。死者は阪神間で616人、神戸市のみで被災地面積約5140ヘクタール、被災者69万5985人、被災家屋15万973戸にのぼった。原因のひとつは、六甲山系の傾斜地は崩れやすい花崗岩でできており、さらに明治以降の無秩序な山地開発が大規模な山津波(山崩れ)を引き起こしたと考えられている。

1938年
昭和13年7/11
張鼓峰事件発生

●朝鮮・満州・ソ連の国境付近の張鼓峰にソ連兵が進出。それをきっかけに日本軍との国境紛争に発展、軍事衝突となった。8/11モスクワで日ソ停戦協定が結ばれるまで激戦が続いた。
(写真-毎日新聞社)8/6空爆された張鼓峰(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
ソ連との紛争地域を地図上で大まかに示せば下図のようになる。この「張鼓峰事件」の後、翌昭和14年(1939年)、西部地域で「ノモンハン事件=ハルハ河戦争」が起こるのである。(地図は拓殖大学の満州国関連地図から作成のイラスト)

1938年
昭和13年7/15
閣議、昭和15年(1940年)開催予定のオリンピック東京大会中止を決定

●7/15政府は閣議でオリンピック東京大会の「開催を取止むるを適当と認め」(内閣書記官長発表)、東京市オリンピック委員会は翌16日、「政府に於て既に之が中止を決定せられたる以上」国策に順応していくとの声明を発表した。これによって東京大会の返上中止が決まった。
●同じく「二千六百年記念日本万国博覧会」も時局が安定するまで延期と決定。また冬季オリンピック札幌大会も中止となった。

1938年
昭和13年7/24
●大洋捕鯨の第二日新丸、鯨油製出後の鯨肉・内蔵も食用に持ち帰る。
これまで、鯨油を製出した後は海中投棄していた鯨肉・内蔵を、食用に持ち帰るようになった。
●日本の南氷洋捕鯨は、昭和13年から14年の漁期に6船団が出漁して絶頂期を迎えた。3/16までの捕獲数は世界第3位の7550頭で、鯨油生産高は8万トンだった。1位はノルウエー、2位はイギリスだった。捕鯨漁の目的は鯨油生産が中心だった。
(写真-アサヒグラフ1939年5/10号)写真は捕鯨母船に繋がれシロナガス鯨(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1938年
昭和13年7/30
産業報国連盟創設

●産業報国運動というのは、労働争議をなくし生産力を向上させ、戦争遂行に協力しようというものである。この運動を提案したのは、1919年に政府と財界の渋沢栄一らが労働運動を抑えるために発足させた財団法人協調会だった。
●そして4月、協調会は「労使関係調整法策」を政府に建議し、各事業所ごとに労使一体の産業報国会を設立することを提唱した。そしてその中央連絡機関として産業報国連盟の設置を提議したのである。
●政府はこの協調会の建議を国家総動員体制のなかに組み込み、戦時労働行政の中心とした。内務省と厚生省はこの産業報国運動によって労働紛争を絶滅させ、労働運動そのものを消滅させようと期待したのである。だが昭和13年中に産業報国会を設立した団体は、従業員1000人以上の事業所の1割余の1158にすぎなかった。
●昭和14年4月内務・厚生両省は、指導に各県警察部特高課をあたらせて、各県単位で知事を会長とする「産報連合会」の設立に乗り出した。これにより昭和15年9月末には、産報団体はほとんど全事業所におよび、数は7万を超え、会員は418万人を突破した。
●こうして昭和15年11月、大政翼賛会に連動する形で「大日本産業報国会」が新設され、産業報国連盟は解散した。
(写真-朝日新聞社)昭和15年11月23日、東京九段の軍人会館で開かれた大日本産業報国会の創立大会。初代総裁に厚生大臣の金光庸夫、会長に平生釟三郎が就任した。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

1938年
昭和13年8/1
●庶民金庫開業。
国民生活の安定を図るため、大蔵省銀行局が設立した庶民金庫が全国一斉に開業した。中小商工業者やサラリーマンに、1世帯1000円までを年8分無担保で貸し出し、返済は3年以内で日掛、月賦、年賦も可だった。
1938年
昭和13年8/1
農地調整法施行(4/2公布)

●この法律は、農業生産力の維持・増進と農地所有者や耕作者の地位の安定を図るため、農地関係の調整を行うことを目的とした法律。これは戦後の農地改革の基本となった地主の土地所有の絶対性に対して、小作権を保護する内容のものだった。

1938年
昭和13年8/10
拓務省、全国に「大陸の花嫁」の募集を行う。

●国は、10代の少年達の「満蒙開拓青少年義勇軍」の結婚相手を「大陸の花嫁」として募集した。初めて国が着手した募集だった。

1938年
昭和13年8/12
新聞紙供給制限令を発令

●商工省は、パルプの輸入制限に伴い新聞紙供給制限令を発令した。9/1以降12%の使用節約を求めた。
同じく8/12警視庁は、出版物検閲の統一・強化のため、関東・中部・北陸13府県ブロックの出版物統制連絡会議を開く。

1938年
昭和13年8/22
大本営、漢口攻略を発令

●大陸命第188号にて「中支那派遣軍ハ海軍ト協同シテ漢口附近ノ要地ヲ攻略占拠スベシ」と陸海軍協同での武漢攻略命令を下した。

1938年
昭和13年8/23
内閣情報部、文壇人を戦意高揚のため戦地へ送る

●内閣情報部は、軍部と文壇人との懇談会開き、戦意高揚のため戦地へ「ペン部隊」派遣を決定する。
昭和13年9/11陸軍部隊が出発、上海から杭州、蘇州をまわり、南京を経て前線に向かった。久米正雄、片岡鉄平、川口松太郎、尾崎史郎、丹羽文雄、浅野晃、岸田国士、滝井孝作、中谷孝雄、深田久弥、佐藤惣之助、富沢有為男、林芙美子、白井喬二の一行だった。
海軍部隊は9/14に出発し、上海から船で揚子江(長江)をさかのぼった。菊池、佐藤春夫、吉川英治、小島政二朗、北村小松、浜本浩、杉山平助、吉屋信子の一行であった。
(写真)昭和13年9月、揚子江沿いの陸軍部隊を訪れた一行(出典)毎日グラフ臨時増刊「太平洋戦争名画集」毎日新聞社1967年11月刊


政府・軍による出版に対する検閲の強化

●山本有三の「路傍の石」(昭和12年1月から東京・大阪「朝日新聞」に連載、昭和13年11月から「新編路傍の石」を主婦之友社で連載中)は、主人公の少年が成長し社会主義に関心を寄せるあたりで、検閲当局の干渉を受けたために、山本有三は「ペンを折る」として執筆を中止した。
「路傍の石」は日活が映画化し、昭和13年8/31封切られた。
●谷崎潤一郎の「細雪」(昭和18年1月から中央公論に連載開始)は、陸軍報道部が

「緊迫した戦局下、われわれのもっとも自戒すべき軟弱かつはなはだしく個人主義的な女人の生活をめんめんと書きつらねた、この小説は(中略)徹底した戦争傍観の態度というほかない」

と非難し、「細雪」は2回で中止となった。

昭和13年8/21東宝映画「綴方(つづりかた)教室」が封切られる。

●この映画は、東京葛飾の荒川放水路近くに住むブリキ職人の娘、豊田正子が、貧しい生活を率直に綴った作文を映画化したものである。少女役に高峰秀子、父親役は徳川夢声が演じた。この正子が6年生のときに書いた作文が「赤い鳥」に掲載され評判になった。それがまとめられ、12年7月に中央公論社から出版されていたのである。映画化される5ヶ月前、新劇で「綴方教室」が上演され、新劇史上5万人の驚異的な観客を動員した。
(写真-ホーム・ライフ13年8月号)豊田正子。大正11年生まれ。戦後「人民文学」に参加、編集委員になる。作品に「芽生え」「傷ついた鳩」(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊


昭和13年9/15「愛染(あいぜん)かつら」松竹より封切られる。

●松竹は第1回直木賞受賞の新進作家川口松太郎の「愛染かつら」を、主演をトップスターの田中絹代と上原謙で映画化し記録的な大ヒットをとばした。この映画は前後編、続編、完結編の3編を製作し、観客動員数は3編合わせて1000万人を記録した。(ちなみに加山雄三は上原謙の息子である。)
下でリンクしたYouTubeの背景の写真は、東京上野の寛永寺坂にある泳法寺、別名「愛染堂」にある桂の木のそばでの、津村浩三(上原謙)と高石かつ枝(田中絹代)のラブシーンと思われる。
●「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」が、霧島昇と松原操(ミス・コロムビア)のデュエットでヒットした。レコードは120万枚を売った。

*リンクします「旅の夜風」
動画・出典:YouTube(kazu079himezi氏)

「小市民映画」の禁止から「戦争映画」への変貌

●松竹は、昭和11年1月に撮影所を神奈川県大船に移した後も、東京蒲田撮影所以来の「喜劇と女性中心路線」をとっていた。そして「愛染かつら」の大ヒットを生んだ。
城戸四郎所長は、「愛染かつら」製作中の昭和13年7月、「恋愛中心の映画を廃して健全な国策に沿う指導的社会教化と娯楽性、芸術性、愛国心を強調する作品を提供する」と声明を出したが、実際はその後も女性映画の製作を続けた。
●そしてついに昭和15年8月、松竹は内務省警保局図書課から「大船映画は依然娯楽本位に走る」と以下のような禁止事項を列記した通達を受けた。その1項には、

小市民映画、個人の幸福のみを描くもの、富豪の生活を扱ったもの、女性の喫煙、カフェ-に於ける飲食場面、外国かぶれの言語、軽佻浮薄(けいちょうふはく)な動作等は一切禁止する

とあった。
●一方この頃東宝は「燃ゆる大空」など戦争映画のヒットで業界の王座を占めていた。松竹は観客が女性映画から離れて低調となり、ついに方針を転換してしまう。松竹は昭和15年11月国策映画「西住戦車長伝」(菊池寛原作、上原謙主演)を製作した。この映画は陸軍機械化部隊の出演が評判となり、この年最高の興行収益をあげるに到ったのである。

年・月 1938年(昭和13年)
1938年
昭和13年8/24
●国家総動員法に基づく「学校卒業者使用制限令」公布。
これは工業・技術系学生の雇用を統制するためのものだった。
1938年
昭和13年8/29
●荒木貞夫文相、全国に残存する差別的陋習打破のため、各府県知事、各学校長らに「融和教育の徹底」を訓令。
1938年
昭和13年9/7
大本営の御前会議、広東攻略作戦実施を決定
1938年
昭和13年9/10
●外交政策統一のため、外交顧問制設置を公布。
宇垣外相は、設置理由を日中戦争に対する外交方策の万全を期するためとした。佐藤尚武・有田八郎を任命。外国の事情に精通しており、外交問題に参画できる相談役で、官職名は外務省外交顧問で親任官の待遇。
1938年
昭和13年9/19
●商工省、石炭配給統制規則を公布。
軍需・製鉄用を除き10/1より切符制実施。
1938年
昭和13年9/19
国際連盟理事会、日本政府に招請状を発する。

●これは日中戦争に関して連盟規約17条に基づき、日本政府に招請状を発したものである。だが日本政府は、9/21閣議でこの招請状に応じない方針を決定した(9/22正式回答)。国際連盟理事会は、規約の16条を適用するかどうかを判断するために日本を招請しようとしたのである。
●そして10月になると、政府は国際連盟との協力関係を終止させることを決定した。日本は1933年に国際連盟から脱退したが(正式には1935年)、それ以後も国際警察活動や国際会議へのオブザーバー派遣など、ある程度の協力関係を維持していた。1938年11/2政府は国際連盟事務総長に、正式に連盟諸機関への協力終結を通告した。
ここでは、下に国際連盟規約16条の一部を引用しておく。国際連盟は、中国に戦争を仕掛けている日本に対して制裁を加えようとしたのである。(出典)「国際連盟規約」国際聯盟協会大正9年刊。(カタカナをひらがなに変えた)

(国際連盟規約16条の一部)
第12条、第13条又は第15条に依る約束を無視して戦争に訴えたる連盟国は、当然他の総ての連盟国に対し戦争行為を為したるものと看做(みな)す。他の総ての連盟国は之に対し直ちに一切の通商上又は金融上の関係を断絶し、自国民と違約国国民との一切の交通を禁止し、かつ連盟国たると否とを問わず、他の総ての国の国民と違約国国民との間の一切の金融上通商上又は個人的交通を防遏(ぼうあつ=防止すること)すべきことを約す。
連盟理事会は前項の場合に於いて連盟の約束擁護の為使用すべき兵力に対する連盟各国の陸海又は空軍の分担程度を関係各国政府に提案するの義務あるものとす。(以下略)
1938年
昭和13年9/22
「中華民国政府連合委員会」設立

●中華民国「臨時」政府(1937年12月北平に成立)と中華民国「維新」政府(1938年3月南京に成立)は、北平(北京)中南海湖畔にて「中華民国政府連合委員会」を設立した。
●日本は、国民政府に代わる統一新政府の樹立を意図したのである。

1938年
昭和13年9/29~30
ミュンヘン会談で、ズデーテン地方のドイツへの割譲を決定

●ドイツ(ヒトラー)、イギリス(チェンバレン)、イタリア(ムッソリーニ)、フランス(ダラディエ)の4巨頭会談によって、チェコ西部(ドイツ国境)のズデーテン地方のドイツ割譲が決定した。ドイツは3月にオーストリアを併合し、次にドイツ系住民の多いズデーテン地方を狙ったのである。
●この協定は、戦争を回避したいイギリスとフランスの、ドイツに対する非難すべき宥和政策(小国を犠牲にした)といわれる。

1938年
昭和13年9/30
宇垣一成外相(兼拓務相)、興亜院設置に反対し辞任

●この興亜院とは、対中政策、中国占領政策を担当し関係各省庁を調整する機関として考えられたもの。宇垣外相辞任の新聞記事の中では、この機関は、占領地区だけでなく全中国問題に関しての「対支中央機関」とされたため、宇垣外相はこの設置に全面的に反対し、辞職したとある。軍部は、対中国問題を外務省から切り離そうとしたのである。

1938年
昭和13年10/5
内務省、河合栄治郎東大教授の『ファッシズム批判』など4著書を発禁

●東京帝大経済学部、河合栄治郎教授は、昭和6年(1931年)に学生の左翼化を防止する文部省の思想善導の委員を務めた。その後河合教授は、昭和7年の5.15事件、昭和8年の滝川事件以降、マルキシズム批判からファッシズム批判に重点を移し始めていた。そして昭和10年の天皇機関説事件のときは、権力による思想弾圧は容認できないと美濃部達吉を擁護した。そして翌昭和11年の2.26事件では、軍部の武力による政治介入を痛烈に批判した。また昭和13年2月の第2次人民戦線事件では、検挙された大内兵衛教授らの即時処分に対して反対を主張した。
●こうした河合教授に対して、国家主義者蓑田胸喜による、統帥権干犯思想であるという攻撃や、貴族院本会議での井田磐楠による河合教授の著書『ファッシズム批判』などに対する本格的攻撃が始まった。そして10/5内務省は、『ファッシズム批判』『時局と自由主義』『第二学生生活』『社会政策原理』を発売禁止としたのである。

*リンクします「ファッシズム批判」河合栄治郎著 日本評論社1934年刊→国立国会図書館デジタルコレクション
1938年
昭和13年10月
10/21第21軍、広東を占領。10/27日本軍、武漢三鎮を占領

●広東攻略戦と武漢攻略作戦の目的。
日本の武漢攻略は、昭和13年6月の徐州作戦終了後に決定された。その目的は国民政府との戦争を本年度中に終わらせるためで、武漢攻略はその要となる作戦だった。また同時進行した広東攻略作戦は、元来海軍が熱心に主張したもので、海軍は同時に海南島も攻略するつもりだった。
●日本軍はこうして武漢地区の占領を果たしたが、中国軍の主力は退却した後だった。軍部はこれまでの経験と分析から、中国軍の捕捉撃滅は無理と考え、主目的は要地の攻略占拠になってしまう。日本軍の戦線は伸びきって限界に達したのである。
(写真-毎日新聞社)大別山系越えの第13、第16師団の補給は乏しかった。収穫期の現地調達を見込んで、作戦は行われた。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

昭和13年7月末陸軍地上兵力の配置

●下図のように、この時点で陸軍の配備は、対ソ戦備で朝鮮と満州に計9コ師団、北支と中支の対支戦場に23コ師団で、日本内地には2コ師団しか残っていなかった。
日本は総力をかけて武漢・広東作戦を行ったのである。下表が陸軍地上兵力の配置一覧で、下段の備考は、武漢作戦の主体となった中支那派遣軍の編制である。
(出典)「陸軍叢書」防衛庁防衛研究所 戦史室著 朝雲新聞社

地域別、軍司令部、方面軍、派遣軍、軍、師団、配置一覧
地域 軍司令部、方面軍、派遣軍、軍、師団
内地 近衛師団、第11師団
朝鮮 朝鮮軍司令部、第19師団
台湾 台湾軍司令部
満州 関東軍・第3軍・第4軍各司令部。
第1、第2、第4、第7、第8、第12、第23、第104(大本営直轄)の計8コ師団。
独立混成第1旅団、第1ないし第3独立守備隊。
北支 北支那方面軍・第1軍・駐蒙軍各司令部。
第5、第14、第20、第21、第26、第108、第109、第110、第114の計9コ師団。
第2ないし第5独立混成旅団。
中支 中支那派遣軍・△第2軍・〇第11軍各司令部。
△第3、〇第6、〇第9、△第10、△第13、第15、△第16、第17、第18、第22、〇第27、〇第101、〇第106、第116の計14コ師団。
武漢攻略作戦と広東攻略作戦
中支那派遣軍(司令官・畑俊六大将)は、武漢攻略を、第2軍と第11軍に分けて進撃、総兵力は30万を越えた。
第2軍 第2軍(司令官・東久邇宮稔彦王中将)は、北方より大別山系を迂回する部隊と横断する部隊の2コースに分かれて進撃した。
第3、第10、第13、第16、各師団。
第11軍 第11軍(司令官・岡村寧次中将)は、長江(揚子江)の両岸を海軍の協力を得てさかのぼって進撃した。
第6、第9、第27、第101、第106、各師団と、波田支隊。
9/19、第21軍(軍司令官・台湾軍司令官の古荘幹郎中将)の動員が下令され、広東攻略が命じられた。
第5師団(徐州付近の警備)、第18師団(上海に集結)、第104師団(南満州で待機)、第4飛行団。

南京事件の轍を踏まないために(武漢攻略時の陸軍の対応)

●陸軍は、この武漢(国民政府の実質の首都)攻略戦の時、南京事件の轍を踏まないために、「不法行為」とくに掠奪、放火、強姦などの絶滅を期し、皇軍の名誉のためにこれら不法行為に対しては、厳罰に処すことを下達し、対応した(下段で引用)。
(南京事件後、陸軍がどう対応したかを知れば、南京事件についてきちんと理解が深まるだろう。)
●下は、教育総監・畑俊六大将(この時の中支那派遣軍司令官)の日誌や、第11軍司令官・岡村寧次中将「陣中感想録」などからの引用である、軽々しく軍司令官の言葉の真偽をあげつらうことはできないだろう。
(出典)「南京事件論争史」笠原十九司 平凡社2007年刊
●南京事件の実相が軍部中央に明らかになるにともない、中支那方面軍の軍紀粛正について、教育総監・畑俊六大将が杉山元陸相に進言した内容(1938年1/29日誌)。

 支那派遣軍も作戦一段落と共に軍紀風紀ようやく頽廃、掠奪、強姦類のまことに忌わしき行為も少なからざる様ならば、この際召集予后備役者を内地に帰らしめ現役兵と交代せしめ、また上海方面にある松井大将も現役者をもって代わらしめ、また軍司令官、師団長等の召集者も逐次現役者をもって交代せしむるの必要あり。この意見を大臣に進言いたしおきたる。(『続・現代史資料(4)陸軍 畑俊六日誌』みすず書房、1983年)

●大本営は、1938年2/1南京に到着した本間雅晴参謀本部第2部長の調査結果を受けて、2/14松井石根中支那方面軍司令官を解任し日本に召還し、新たに編制された中支那派遣軍司令官に畑俊六大将を任命した。
●1938年7/13、第11軍司令官岡村寧次中将は、次のように記している。

 中支戦場到着後先遣の宮崎参謀、中支那派遣軍特務部長原田少将、杭州特務機関長萩原中佐などより聴取するところによれば、従来派遣軍第一線は給養困難を名として俘虜の多くはこれを殺すの悪弊あり。南京攻略時において約4、5万に上る大殺戮、市民に対する掠奪強姦多数ありしことは事実なるがごとし。最近湖口付近において捕獲せる中国将校は、われらは日軍に捕えらるれば殺され、後方に退却すれば督戦者に殺さるるにより、ただ頑強に抵抗するあるのみと言えりという・・・
(『岡村寧次大将陣中感想録』厚生省引揚援護局、戦史史料其の三、1954年)


●さらに『岡村寧次大将 戦場回想編』には、「南京事件の轍を履まないための配慮」と題したつぎのような回想がある。

 10月11、12の両日、私は幕僚をともない、北岸の広済に第6師団を訪問した。(中略)もう一つの重大な目的は、近く漢口に進入するに際し、南京で前科のある第6師団をしていかにして正々堂々と漢口に入城せしむるかを師、旅団長と相談するにあった。ところが、稲葉師団長と第一線を承わる牛島旅団長(後の沖縄の軍司令官)は、すでにこのことに関し成案を立てていた。両氏が言うには『わが師団の兵はまだまだ強姦罪などが止まないから、漢囗市街に進入せしむるのは、師団中もっとも軍、風紀の正しい都城連隊(宮崎県)の2大隊にかぎり、他の全部は漢口北部を前進せしむる計画で、前衛の連隊を逐次交代し、漢口前面に到達するときには必ず都城連隊を前衛とするようにする』と。
 稲葉正夫編『岡村寧次大将資料 上巻-戦場回想編』(原書房、1970年)


●中支那派遣軍は1938年10月下旬、武漢占領にさいして「武漢進入に際し軍参謀長の注意事項」【昭和13年10月24日発】を下達した。

一、第三国権益を尊重し絶対に被害をおよぼさざるを要す。(下略)
二、無益の破壊、放火を厳に戒むるとともに不注意あるいは敵の謀略による火災の予防に深く注意を要す。(下略)
三、各種不法行為、とくに掠奪、放火、強姦などの絶無を期するを要す。
 皇軍の武漢進入にあたりては、その一挙一動に世界人士の耳目集中すべし、まさに皇威を宣揚し皇軍の真姿を理解せしむべき絶好の時期なり。しかれどもいっぽう、一人の過誤失態は全軍の名において宣伝せらるべきをもってその進止はとくに一段の戒慎を加うべし。
 もしそれ前述の非違を敢えてするものあらば皇軍の名誉のため寸毫も仮借なく臨むに厳罰をもってすべし。
 しかして既往の経験に徴するに各種非違は軍隊の緊張せる進入直後の時期よりもむしろ若干日経過したる後において発生の機会多かるべきをもって、時日の経過とともに監督をゆるめざるを要す
防衛庁(当時)防衛研修所戦史室『戦史叢書 支那事変陸軍作戦(2)」朝雲新聞社、1976年

●そして中支那派遣軍司令官・畑俊六大将は、武漢陥落後の日記に次のように「慶賀すべきことなり」と書いた。

 11月2日 午后2時頃漢口到着。諸報告を綜合すれば漢口武昌侵入は能く上司の意図徹底し、軍紀風紀事項及渉外事項も極めて少なく先づ余の希望する処に近く行はれしは慶賀すべきことなり。
 11月3日 今日の明治節は天気晴朗にしてよき日なりき。午前9時洛東丸船上にて全員東向遥拝式を行ひ、前10時参謀長以下を従へ洛東丸より上陸、漢口市内にある戦闘司令所に入る。第2軍司令官東久邇宮殿下にも本日午后2時頃飛行機にて光州より御到着、午后3時半より戦闘司令所屋上にて海軍と合同、将官以上及幕僚に会し戦勝祝賀会を催ほす。光栄感激極りなし。中には感涙を催ほせるものすらありき。
 『続・現代史資料(4)陸軍 畑俊六日誌』みすず書房、1983年。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

武漢攻略戦の一部の映像
「支那事変海軍作戦記録」海軍省作成から、武漢攻略戦の一部の映像を抜き出した。海軍は陸軍を側面から援助するために長江(揚子江)をさかのぼった。この時海軍の掃海艇は機雷2372個を処理した。

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年・月 1938年(昭和13年)
1938年
昭和13年10/28
●政府、フランスに対し、対蒋(蒋介石)武器援助を続けるなら、自衛上必要な手段をとらざるを得ないと通告する。
1938年
昭和13年10/31
蒋介石、「全国軍官民に告ぐるの書」を発表

●蒋介石は国民に対し、日本への持久抗戦を呼びかける。

1938年
昭和13年10月末
●満映女優(李香蘭)初来日。
(2019年7月に朝日新聞で、李香蘭(山口淑子)と川島芳子の特集記事があった。川島芳子は清朝の皇族・第10代粛親王善耆の王女で日本人の養女となったが、日本の敗戦後「漢奸」(中国語で売国奴)として銃殺された。一方日本人であった李香蘭も「漢奸」として軍事裁判にかけられたが、日本人であることが証明され銃殺を免れたという。互いに親交のあったため、李香蘭は終生、川島芳子のことを気に懸けていたという。-星野)
(写真-クロマート)「エノケンと李香蘭」満州建国博覧会の親善使節として、満映女優の李香蘭こと山口淑子が初来日。日劇の榎本健一の舞台にも特別出演した。10月末日、同劇場での記念撮影。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1938年
昭和13年11/2
●帝国農会など8団体、「農業報国連盟」を結成。
会長は有馬頼寧農相。大日本農民組合など37団体が賛助。
1938年
昭和13年11/3
近衛首相、「東亜の新秩序建設を冀求する」という第2次近衛声明を発表する。

●日本政府は、この声明の中で「国民政府は地方の一政権に過ぎない」としながらも、国民政府が指導政策を変え、日本を盟主とする「新秩序建設」に参入すれば、日本は敢えて拒否しないと、言明した。
●これは、日本政府が国民政府内で汪兆銘が政権を取れるように援護したものである。汪兆銘は和平のためには国民政府を2分してもよいと考えていた。下で、「第2次近衛声明」を引用した。(カタカナはひらがなに変え、難しい読みは意味を補足した-星野)

=昭和13年(1938年)11/3政府声明=
今や、陛下の御稜威(みいつ=ご威光)に依り、帝国陸海軍は、克(よ)く広東、武漢三鎮を攻略して、支那の要域を戡定(かんてい=平定)したり。国民政府は既に地方の一政権に過ぎず。然(しか)れども、同政府にして抗日容共政策を固執する限り、これが潰滅(かいめつ)を見るまでは、帝国は断じて矛を収むることなし。帝国の冀求(ききゅう=望み欲する)する所は、東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り。今次征戦究極の目的亦(また)此に存す。
この新秩序の建設は日満支三国相携へ、政治、経済、文化等各般に亘(わた)り互助連環の関係を樹立するを以て根幹とし、東亜に於ける国際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、経済結合の実現を期するにあり。是(こ)れ実に東亜を安定し、世界の進展に寄与する所以(ゆえん=わけ・根拠)なり。
帝国が支那に望む所は、この東亜新秩序建設の任務を分担せんことに在り。帝国は支那国民が能(よ)く我が真意を理解し、以て帝国の協力に応(こた)へむことを期待す。固(もと)より国民政府と雖(いえど)も従来の指導政策を一擲(いってき=一度に全部なげうつこと)し、その人的構成を改替(かいたい)して更生(こうせい=生き返ること)の実を挙げ、新秩序の建設に来り参ずるに於ては敢て之を拒否するものにあらず。
帝国は列国も亦帝国の意図を正確に認識し、東亜の新情勢に適応すべきを信じて疑はず。就中(なかんずく=とりわけ)盟邦諸国従来の厚誼(こうぎ=厚い親しみの心)に対しては深くこれを多とするものなり。 
惟(おも)ふに東亜に於ける新秩序の建設は、我が肇国(ちょうこく=建国)の精神に淵源し、これを完成するは、現代日本国民に課せられたる光栄ある責務なり。帝国は必要なる国内諸般の改新を断行して、愈々(いよいよ=ついに・とうとう・ますます)国家総力の拡充を図り、万難を排して斯業(しぎょう=この事業)の達成に邁進せざるべからず。茲(ここ)に政府は帝国不動の方針と決意とを声明す。
(注)「・・我が肇国(ちょうこく=建国)の精神に淵源し・・」の意味は、以下のようである。一部抜粋。(出典)「国体の本義」教学局教学官 小川義章著 夏期講習録. 昭和13年度(1938年)滋賀県 編 昭14至15 刊 より。
『・・即(すなわ)ち、天照大神は高天原(たかまのはら・たかまがはら)の神々を始め、二尊(にそん=二柱の尊《みこと》)の生ませられた國土を愛護し、蒼生(そうせい=多くの人民のこと)を撫育(ぶいく=いつくしみ育てること)し、生々發展(せいせいはってん=絶えずいきおいよく発展すること)せしめ給ふのである。天照大神はこの大御心(おおみごころ=天皇の心)、大御業(おおみわざ=天皇の御事業)を天壞(てんじょう=あめつち。天地)と共に窮(きわまる)りなく彌榮(いやさか)えに發展せしめられるために、皇孫を降臨せしめられ神勅(しんちょく=神のみことのり)を下し給うて君臣の大義を定め、我が國の祭祀と政治と教育との根本を確立し給うたのであつて、こゝに肇國の大業が成つたのである。
我が國はかゝる悠久深遠な肇國の事實に始つて、天壞(てんじょう)と共に窮(きわま)りなく生々發展(せいせいはってん)するのであつて、まことに萬邦に類を見ない一大盛事(せいじ=仕事を完成すること)を現前(げんぜん=目前に現れ出ること)してゐる。 』
1938年
昭和13年11/4
●ハル米国務長官、3日の日本政府声明に関して、アメリカは9カ国条約尊重の立場をとる旨を記者団に言明。(注)この9カ国条約とは、1922年、ワシントン会議で成立した中国に関する国際条約で、中国の主権尊重、領土保全、門戸開放、機会均等を定めた条約である。

(英米各国の動きと日本の対応11月~)
●11/7米英仏の各駐日大使、武漢陥落に伴う自国権益確保のため、揚子江航行権の回復を日本政府に申し入れる。
●11/14有田外相(10/29外相に起用)米英仏3国の揚子江航行回復の申し入れに対し、3国駐日大使に危険として拒否回答。
●11/18政府、10/6付米政府の通告に対し、中国の門戸開放・機会均等主義などの要求を排除すると回答。
●11/19外務省、東郷駐ソ大使に、12/31満了の「日ソ漁業条約」改定再交渉をソ連政府に督促するように訓電。
●12/2中国援助のビルマ・ルートが完成する(北部ビルマから雲南省西部を経て四川に通じる物資輸送路)
●12/6独仏不可侵共同宣言、リッベントロップ独外相とボネ仏外相によりパリで調印される。
●12/31米国務省、条約の門戸開放原則に反してつくられた中国の現状は不承認との対日通牒を発する。
1938年
昭和13年11/5
●福島県東方沖を震源地とする地震(M7.7)発生。
東日本各地で地盤沈下などの被害。福島県で死亡1。
1938年
昭和13年11/7
国民精神作興週間始まる

●「肇国精神強調」「堅忍奉公」「克己精励」「持久建設」などの行事が開催される。

1938年
昭和13年11/8
池田蔵相、国家総動員法第11条の発動に反対を表明

●池田蔵相は、この第11条は、金融統制・配当制限であり、この発動は生産力拡充を阻害すると反対した。そして11/10の株式市場は、発動が不可避の情勢に一斉に崩落した。下は国家総動員法第11条(カタカナはひらながに変えた)。

(第十一條)
政府は戦時に際し国家総動員上必要あるときは、勅令の定むる所に依り、会社の設立、資本の増加、合併、目的変更、社債の募集若しくは第2回以後の株金の払込に付、制限若は禁止を為し、会社の利益金の処分、償却其の他経理に関し必要なる命令を為し、又は銀行、信託会社、保険会社其の他勅令を以て指定する者に対し資金の運用に関し必要なる命令を為すことを得。
1938年
昭和13年11/11
●各省の国民精神総動員部会、経済戦強調週間を前に、年賀状の廃止、年末売り出しの自粛などを決定。
1938年
昭和13年11/20
「岩波新書」の刊行を開始

●岩波書店、創業25年を記念して「岩波新書」を刊行した、岩波茂雄(岩波書店・創業者)は刊行にあたり、『現代人の現代的教養を目的として』と宣言した。

1938年
昭和13年11/21
(第2次ほんみち事件)
●大西愛治郞ほか天理ほんみち関係者380人、治安維持法で一斉に検挙。
1938年
昭和13年11/25
日独文化協定正式調印

●日独両国間の文化交流の促進を目的として、日独文化協定が外相官邸にて正式調印される。

1938年
昭和13年11/28
(株)大日本航空、設立される

●これは、逓信省航空局指導で、日本航空輸送と満州の国際航空が合併して設立された会社である。
その理由は、日中戦争の拡大に伴い日満中間の航空輸送力の強化が必要となったことや、航空輸送事業を一元化する必要があったためである。

1938年
昭和13年11/29
(旧唯物論研究会の関係者の検挙が始まる)
●昭和7年10/23創立の旧唯物論研究会の関係者で、岡邦雄・戸坂潤・三枝博音ら、35名の検挙が始まる
1938年
昭和13年12/2
国民政府が建設を進めていたビルマ・ルートが完成する

●これは雲南省の昆明とビルマ国境を結ぶ道路で、翌1月に正式に開通する。侵略する側の日本国民は知りもしなかったが、蒋介石を援助した国は、イギリス、フランス、アメリカであった。
●すでにこの時点でイギリス領ビルマのラーショウから中国国境までは道路が開通しており、昆明から重慶までの道路も数年前から整備されていた。ビルマのラングーン港で陸揚げされた物資は、マンダレイを経てラーショウまで鉄道で運ばれ、そこからこの完成した道路を使ってトラックで重慶まで運ばれるのである。
●この完成したビルマ・ルート(援蒋ルートの一つ)の最初の援助物資は、すでにラングーン港にイギリス船で陸揚げされていた武器・弾薬6000トンだった。

1938年
昭和13年12/6
陸軍省部、「昭和13年秋以降の対支処理方策」を決定

●陸軍はついに進攻作戦を打ち切り、長期持久戦へと方針を転換していった。下ではこの「対支処理方策」の要点を項目ごとに抜き出してみた。
(出典)「支那事変の拡大と長期化p573~p574」「陸軍叢書」防衛庁防衛研究所 戦史室著 朝雲新聞社

「昭和13年秋以降の対支処理方策」の要点。
●(方針)・・当分の内、その基礎作業である治安の回復を第一義とする。残存する抗日勢力の潰滅工作は続行するが、軍としての謀略及び政略の運営に期待する。
●1,重大でない限り占領地域拡大を企図しない。そして占領地域を、治安地域と作戦地域(抗日勢力を潰滅させる地域)とに分ける。
●2,この治安地域には速やかに治安回復の目的を達する為、十分な兵力を固定配置しかつ長期持久態勢をとれるように努める。そのために領域外の主要交通線を確保する。
●3,作戦地域においては、武漢及広東地方にそれぞれ一軍を配置し、抗日勢力制圧の根拠たらしめる。大軍による集中攻撃を受けたときは、適時反撃を加えるが、不用意に戦面を拡大することは禁ずる。このため配置する兵力は必要最小限とする。
●4,前2条の趣旨に合致させるため、在支兵力は逐次整理改編し、逐次長期持久態勢に転移させる。翌昭和14年中には基礎態勢を作る。これからの国際的転機に備えて駐屯兵力と現地消耗は節減に努める。
●5,航空作戦は、戦略殊に政略上の要点に対しては執拗に継続する。同時に海上封鎖等により対外連絡線殊に武器輸入路の遮断に努める。
●6,謀略的諸施策を強化して、新興政権の助成、緩衝地帯の設定、抗日勢力の圧縮を図る。
●7,親日政権の育成し、統一政権に発展を遂げるようにすることを主眼とする。
●8,対支経済はとりあえず応急対策で軍の急需充足に対応し、治安に関連する局地民生の回復、交通の改善を主とする。永久的産業建設は主として治安地域にて実行し、作戦地域では商取引とその付帯事業程度に止める。
●9,以上の外は既定方針で行う。
1938年
昭和13年12/15
●内務省神社制度調査会は、「招魂社」を「護国神社」と改称する件などを特別委員会の原案通りに決定する。
これは昭和14年3月に内務省令第12号として出されたが、これが意味するところは、東京九段の靖国神社を頂点に招魂社が護国神社として体系づけられたことである。そして昭和14年4月には宗教界を整理統合する「宗教団体法」が公布された。宗教界も、戦争協力と国策に奉仕させられていくのである。
1938年
昭和13年12/16
(興亜院官制公布施行)
●外交を除く中国占領地関係の業務を統括するために、興亜院が設置された。総裁は近衛文麿首相、副総裁は外務、大蔵、陸、海の4相。
1938年
昭和13年12/18
国民党副総裁汪兆銘、重慶を脱出する

●参謀本部は昭和13年初頭より、トラウトマン(ドイツ)による和平の調停を期待していた。だが陸軍省と政府側は強硬な姿勢を崩さず和平交渉を打ち切ってしまう。(「国民政府を相手とせず。第1次声明」)
●5月内閣改造によって登場した宇垣外相は、積極的に和平交渉を進めたが、近衛首相は支持しなかった。(9/30宇垣外相辞任)
●だが泥沼化した日中戦争に陸軍は汪兆銘と和平交渉を進めた。(「新秩序建設」に参入すれば、日本は敢えて拒否しない。第2次声明)
●こうして汪兆銘は党を割ってでも和平を断行すれば、国民政府を転向させることができるとして重慶を脱出した(ハノイに滞在)。だが重慶の国民政府は、汪兆銘一派を強く恨み、暗殺者を放った。汪兆銘は暗殺を免れたが、腹心の曽仲鳴は殺された。

1938年
昭和13年12/22
近衛文麿首相、第3次声明を発表

●「帝国の根本方針は、東亜新秩序の建設である」と発表。この声明の一部は次のようである。

「・・日満支3国は東亜新秩序を共同の目的として結合し、相互に善隣友好、共同防共、経済提携の実を挙げんとするものである・・・」

●この「東亜新秩序の建設」というのは当初からの戦争目的ではない。勝てない戦争に行き詰まったあげくの、後付の理由であって、ここのところを間違えるとトンチンカンな認識を持つことになってしまうだろう。

1938年
昭和13年12/23
閣議、新南群島(南沙諸島)の日本領土編入を決定

●このインドシナ半島とフィリピン群島の中間にある南シナ海の珊瑚礁群(南沙諸島=スプラトリー諸島)は、現在(2019年)において、最も緊迫した地域である。特に中国の軍事的進出が日本を含め周辺国の緊張を高めている。現在においても、この地域では日本の戦争が決着していないのである。
●この1938年に領土編入を行ったのは、この群島中唯一の島である、「太平島」と思われる。日本はフランスと占有をめぐって争っていた。下はこの島の各国の呼び名である。イツアバ島というのは、マレー語で「あれは何だ」という意味である。

Itu Aba Island
U.S. Board of Geographic Names: Itu Aba Island
China: Taiping Dao, 太平岛
Philippines: Ligao Island
Taiwan: Taiping Island, 太平島
Vietnam: Đảo Ba Bình

●下段のGoogleマップで表示した珊瑚礁は、「Fiery Cross Reef」と呼ばれているが、中国が実効支配していて、まるで「不沈空母」のようである。上記の「太平島」は、地図のマイナスボタンでズームアウトすれば、北東方向のマーカーの位置にある。

●下は「Fiery Cross Reef」。Googleマップ下のリンクは、アメリカの「戦略国際問題研究所」CSISのサイトである。南沙諸島=スプラトリー諸島の航空写真が各国別に時系列に公開されている。


*リンクします「戦略国際問題研究所」CSIS→「island-tracker」

年・月 1938年(昭和13年)
1938年(昭和13年)の出来事 政治・経済・事件・災害・文化

「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊より抜粋
1.1 母子保護法施行
1.1 新潟県十日町で映画館の屋根が積雪のため落下,下敷きの69人死亡
1.3 新劇女優岡田嘉子,演出家杉本良吉と樺太国境を越えてソ連に亡命
1. 10 海軍陸戦隊,青島を占領

下

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