1937年(昭和12年)12/13~「南京大虐殺」

アジア・太平洋戦争

日本、南京城陥落において「南京大虐殺」を引き起こす。
アメリカをはじめ国際連盟は、日本の中国に対する軍事行動を「侵略」と呼び非難した。また国際連盟は、海軍による南京をはじめとする無差別都市爆撃に対して、その残虐性から日本に対する非難決議も行った。そしてそんななか日本軍は、南京城陥落において「南京大虐殺」まで引き起こすのである。
上写真「南京大虐殺。刑場に運ばれる中国人捕虜」(出典:「世界の歴史15」中央公論1962年刊)
●現在の日本政府の「南京事件」に対する公式見解は以下のようである。この認識は共有しなければならない。外務省の公式サイトから引用する。
外務省・アジア・歴史問題Q&A

問6 「南京事件」に対して、日本政府はどのように考えていますか。
日本政府としては、日本軍の南京入城(1937年)後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています。しかしながら、被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難であると考えています。
先の大戦における行いに対する、痛切な反省と共に、心からのお詫びの気持ちは、戦後の歴代内閣が、一貫して持ち続けてきたものです。そうした気持ちが、戦後50年に当たり、村山談話で表明され、さらに、戦後60年を機に出された小泉談話においても、そのお詫びの気持ちは、引き継がれてきました。
こうした歴代内閣が表明した気持ちを、揺るぎないものとして、引き継いでいきます。そのことを、2015年8月14日の内閣総理大臣談話の中で明確にしました。

外務省・報道官会見記録(平成24年2月24日(金曜日)16時30分~ 於:本省会見室)

河村・名古屋市長の「南京事件」に関する発言

【新華社通信 郭記者】南京大虐殺について、河村市長の発言は、日本政府の立場とは決して一致していない部分があると思いますが、日本政府はこの河村市長に対して今後どのような対応をとっていくのですか。また、傷つけられた日中関係や、日本と中国の国民の感情についてどのように修復したいと思いますか。

【横井外務報道官】河村市長のご発言について、そのような事実関係については日本国政府としても承知してございますし、日本国政府の立場は、名古屋市と南京市という地方自治体間のあいだで適切に処理・解決されていくという問題であって、可能な限り早く解決されることを期待しております。
 南京大虐殺につきましては、その事実関係を巡っていろいろな議論があるということは承知していますけれども、旧日本軍の南京入城の後、非戦闘員の殺害、もしくは略奪行為などがあったことは否定できないというように考えております。我が国としましては、過去の一時期植民地支配と侵略により多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えたことを率直に認識し、戦争は二度と繰り返さず、平和国家としての道を歩んでいくという決意であって、このような立場に一切変更はございません。
 今後の日中関係につきましては、本年が特に日中国交正常化40周年にあたるということでもございますし、日中関係が戦略的互恵関係に基づき、ますます発展していくことを切に願っておりますし、その方向に向けて日本国政府としても最大限の努力をしていきたいというように思っております。

*リンクします「問6 「南京事件」に対して、日本政府はどのように考えていますか。」→
外務省(アジア歴史問題Q&A)

*リンクします「河村・名古屋市長の「南京事件」に関する発言」→
外務省(記者会見)「報道官会見記録(要旨)(平成24年2月)」

目次
昭和12年《1937年》 主要項目
★拡大する日中戦争(第2次上海事変から南京事件へ)

南京事件において日本軍は、「捕虜を作らぬ方針」のもとで、中国兵と思われた者(投降兵・敗残兵・捕虜を含む)を、徹底的に「残敵掃蕩」(皆殺し)したと言われている。
●極東国際軍事裁判所判決. 第4 B部 
●エドガー・スノー「アジアの戦争」
●日本軍は11月、膠着した第2次上海事変打開のため杭州湾上陸作戦を敢行する。そして南京へ向かうのである。日中戦争は陸軍ばかりが暴走しているように思えるが、第2次上海事変は不拡大方針の陸軍に対して海軍が起こしたものであり、なによりも近衛文麿内閣が戦争拡大を望んだのである。
●ここでは東京裁判でのパル判決書(意見書)の「南京事件」に関する部分を引用した。パル判事も、日本軍の犯した残虐行為の証拠は『圧倒的である』と述べているのである。
(注)パル判事・・東京裁判でのインド代表判事。被告全員の無罪(日本無罪論)を判決書(意見書)で主張した。靖国神社には「パール博士顕彰碑」が建てられている。

(注)一部の写真は、クリックするとポップアップし、再度クリックすると戻ります。また一部の画像は「Wheelzoom」jsにより、マウスホールで拡大・縮小・移動ができるものがあります。jacklmoore氏のサイトを参照してください。
(注)このページでは、右下「緑・矢印ボタン」で目次に戻り、その下の「赤・矢印ボタン」でページトップへ戻ります。

★拡大する日中戦争(第2次上海事変から南京事件へ)
①「日本軍、上海制圧から南京攻略」②「南京作戦経過要図と参加部隊」③「パル判決書(意見書)における南京事件」④「極東国際軍事裁判所判決」⑤「エドガー・スノー著作集『アジアの戦争』」⑥石川達三「生きてゐる兵隊」⑦「南京城陥落に至るまで概要」⑧「南京事件に対してどのように考えるか」

①日本軍、上海制圧から南京攻略へ向かう。日本軍は南京城へ向かう周辺地域において、略奪・放火・暴行を起こしていく。

●昭和12年(1937年)11/5第10軍が杭州湾に上陸すると、背後を衝かれた上海防衛の中国軍は動揺した。
●11/7中支那方面軍(上海派遣軍と第10軍が編合、司令官 松井石根大将)の幕僚に、参謀長として、陸軍中央である参謀本部より第3部長の塚田攻少将が赴任し、参謀副長として、参謀本部作戦課長の武藤章大佐が就任した。この2人は戦争拡大派であり、特に武藤大佐は、不拡大派の石原莞爾第1部長(作戦)を参謀本部から追い出したほどの中国一撃論者であった。
●11/13第16師団が長江・白茆口に上陸すると、中国軍の撤退と潰走が始まり、上海攻略戦は一段落し日本軍は上海全域を制圧した。作戦の本来の目的である「上海居留民保護」は達成されたのである。(新聞)昭和12年11/10の朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●しかし11/20第10軍(司令官柳川平助中将)は南京追撃を独断専行で開始した。そして11/24には中支那方面軍からも南京攻略の意見書が参謀本部に届いた。しかし参謀本部は南京進撃を許可しなかった。11/24に開かれた第1回大本営の御前会議においても、参謀本部・下村第一部長(南京追撃派)は、南京攻略は無理であると述べながらも、中支那方面軍の航空兵力と海軍航空兵力とが協力して南京その他の要地を爆撃することで敵の戦意を消耗させ、南京その他を攻撃することも考慮していると述べ、多田参謀次長(不拡大派)から叱責を受けたという。第10軍の独断専行は、中支那方面軍の参謀副長・武藤章大佐が中心であったとされる。
●こうして上海派遣軍と第10軍は南京攻略戦に先陣争いをしながら突入していった。反対していた参謀本部も国民の戦意高揚をはかる連日の報道合戦によって、11月末にはこの進軍を認めたのであった。しかしこの上海派遣軍と第10軍は上海周辺の限定作戦に適する編組となっていたため、後方部隊の増強が必要だった。そこで参謀本部は増強案を提示したが、中支那方面軍の参謀副長・武藤章大佐は、「内地からの新たな増員の部隊を待っていては戦機を逸してしまう」として方面軍だけで南京攻略はできるとしたのである。
●日本軍が南京に進軍を開始した頃、南京においては国民政府軍事委員会(委員長蒋介石)が最高国防会議(11/15~18)を開き、国民政府の重慶への遷都を決定し、南京防衛作戦の方針を決定した。蒋介石は多くの幕僚の反対を押し切って、首都である南京固守作戦を決定したのである。その司令官には「南京を死守し、南京城と生死を共にする覚悟」である唐生智が任命されたのであった。(新聞)昭和12年11/17の朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●一方日本では12/1、大本営は「中支那方面軍司令官は、海軍と協同して敵国首都南京を攻略すべし」(大陸命第8号)との南京攻略を下命し、ここに中支那方面軍の独断専行を正式に追認したのであった。そして中支那方面軍の戦闘序列が正式に下命され、松井石根大将が兼任を解かれ中支那方面軍司令官に、皇族の朝香宮鳩彦王中将が上海派遣軍司令官に任命された(12/7着任)。
●しかしこの後方部隊を持たない中支那方面軍の「兵馬の給養は現地物資で充たす方針(現地食糧徴発=略奪)」により、南京城へ向かう周辺地域において、多くの部隊によって一般民衆への略奪・放火・暴行が行われたのである。
●そして日本軍は南京事件へと向かうのである。

「杭州湾北岸11/5敵前上陸」
●これは海軍省支那事変「海軍作戦記録」の一部分で、日映(社団法人日本映画社)が1939年(昭和14年)製作したもので、国内では映画館で上映された。撮影は海軍省特設写真班とある。

(この動画はYouTubeにアップ(up)したものなので、音量は動画のボタンで調節できる。)星野。

②南京作戦経過要図と参加部隊

下は「陸軍叢書 大本営陸軍部(1)上海、南京作戦経過要図」を色分けして師団名を強調したイラストである。このイラストでは「山田支隊」を図示したが元図にはなかった。下段では参加部隊の一覧を載せた。(このイラストはマウスホールで拡大・縮小・移動ができる。)

南京作戦図

*リンクします「陸軍叢書 大本営陸軍部(1)」上海、南京作戦経過要図→
「防衛庁防衛研究所 戦史室著 朝雲新聞社」

●南京攻略戦の参加部隊(方面軍・軍・師団の編制)
方面軍・派遣軍・軍 司令官・参謀長・師団 師団長(最終階級、陸士卒期、陸大卒期、最終軍職)備考 旅団、旅団長 連隊、連隊長
中支那方面軍。1937年(昭和12年)11/7上海派遣軍と第10軍との統一指揮のため中支那方面軍を編成。
◎中支那方面軍

司令官 松井石根大将 (大将、陸士9期、陸大18期、台湾軍司令官)
東京裁判絞首刑
参謀長 塚田攻少将 (大将、陸士19期、陸大26期、第11軍司令官 )
中支那方面軍参謀長として松井石根大将を補佐。1941年南方軍総参謀長となり太平洋戦争序盤の南方作戦と軍政を担当、1942年第11軍司令官の時、飛行機事故で殉職。
参謀副長 武藤章大佐 (中将、陸士25期、陸大32期、第14方面軍参謀長)
東京裁判にて、フィリピンでの捕虜虐待により絞首刑。
上海派遣軍。1937年8/13上海事変勃発により、陸軍は第3師団、第11師団で上海派遣軍を編成(軍司令官松井石根大将)上海に上陸したが海岸に釘付けにされる。9月~10月に、第9、第13、第101師団を派遣し上海派遣軍に編入。11月北支那方面軍から第16師団が転用され上海派遣軍に編入される。
○上海派遣軍 司令官 朝香宮鳩彦王中将 (大将、陸士20期、陸大26期、上海派遣軍司令官)
東京裁判や南京裁判などで、南京事件関与の疑い。皇族のため免除。
参謀長 飯沼守少将 (中将、陸士21期、陸大31期、第110師団長)
第9師団(金沢) 師団長 吉住良輔中将(中将、陸士17期、陸大28期)
参謀長 中川広大佐(中将、陸士22期、陸大29期、第48師団長・台湾)
●歩兵第6旅団(秋山義兌少将)
-歩兵第7連隊(伊佐一男大佐)
-歩兵第35連隊(富士井末吉大佐)
●歩兵第18旅団(井出宣時少将)
-歩兵第19連隊(人見秀三大佐)
-歩兵第36連隊(脇坂次郎大佐)
●騎兵第9連隊・山砲兵第9連隊・工兵第9連隊・輜重兵第9連隊
第16師団(京都) 師団長 中島今朝吾(なかしま-けさご)中将(砲兵科)(中将、陸士15期、陸大25期、第4軍司令官)
参謀長 中沢三夫大佐(中将、陸士24期、陸大32期、第40軍司令官)
●歩兵第19旅団(草場辰巳少将)
-歩兵第9連隊(片桐護郎大佐)
-歩兵第20連隊(大野宣明大佐)
●歩兵第30旅団(佐々木到一少将)
-歩兵第33連隊(野田謙吾大佐)
-歩兵第38連隊(助川静二大佐)
●騎兵第20連隊・野砲兵第22連隊・工兵第16連隊・輜重兵第16連隊
山田支隊
(第13師団の一部)
支隊長 山田栴二少将
第13師団主力は揚子江北岸
●歩兵第103旅団
-歩兵第65連隊(両角業作大佐)
第3師団先遣隊 第3師団主力は後方警備 -歩兵第68連隊(鷹森孝大佐)
第11師団と第101師団 後方警備
第10軍。1937年(昭和12年)10/20第10軍を新たに編成し、杭州湾北岸より上陸開始。
○第10軍 司令官 柳川平助中将 (中将、陸士12期、陸大24期、第10軍司令官)
オランダ軍軍事裁判で死刑
参謀長 田辺盛武少将 陸士22期(中将、陸大30期、第25軍司令官)
第6師団(熊本) 師団長 谷寿夫(たに-ひさお)中将(中将、陸士15期、陸大24期、中部軍司令官)
南京軍事法廷で南京事件の責任者として銃殺刑。
参謀長 下野一霍砲兵大佐(中将、陸士23期、陸大31期、南方軍兵站監)
●歩兵第11旅団(坂井徳太郎少将)
-歩兵第13連隊(岡本保之大佐)
-歩兵第47連隊(長谷川正憲大佐)
●歩兵第36旅団(牛島満少将)
-歩兵第23連隊(岡本鎮臣大佐)
-歩兵第45連隊(竹下義晴大佐)
●騎兵第6連隊・野砲兵第6連隊・工兵第6連隊・輜重兵第6連隊
第114師団(宇都宮) 師団長 末松茂治中将(中将、陸士14期、陸大23期、第14師団長)
参謀長 磯田三郎砲兵大佐(中将、陸士25期、陸大33期、南方軍司令部附)
●歩兵第127旅団(秋山充三郎少将)
-歩兵第66連隊(山田常太中佐)
-歩兵第102連隊(千葉小太郎大佐)
●歩兵第128旅団(奥保夫少将)
-歩兵第115連隊(矢ケ崎節三中佐)
-歩兵第150連隊(山本重省中佐)
●騎兵第18大隊・野砲兵第120連隊・工兵第114連隊・輜重兵第114連隊
国崎支隊
(第5師団の一部)
支隊長 国崎登少将
(中将、陸士19期、陸大32期、第7師団長)
●歩兵第9旅団
-歩兵第41連隊(山田鐵二郎大佐)
第18師団(久留米) 師団長 牛島貞雄中将
(中将、陸士12期、陸大24期、第19師団長)
蕪湖方面

③パル判決書(意見書)における南京事件に関係する部分

●ここでは、東京裁判でのパル判事(インド代表判事)の判決書(意見書)の南京事件に関係する部分を引用する。被告全員の無罪(日本無罪論)を判決書(意見書)で主張したパル判事ではあったが、南京事件そのものは否定しなかったのである。パル判事はこの南京残虐事件発生に対して、「松井大将(中支那方面軍司令官)の刑事上の責任を問うべき不作為があった証拠は無い」として無罪と言っているのである。以下に数カ所引用してみる。
(出典)共同研究「パル判決書(上・下)」東京裁判研究会編 講談社学術文庫2005年第19刷発行。

下

④極東国際軍事裁判所判決. 第4 B部 第8章 通例の戰爭犯罪(一部引用)

●ここでは東京裁判「極東国際軍事裁判」の判決を引用しておく。戦後日本人は初めて「東京裁判」で日本軍のおこした「南京事件」を知ったのである。「戦争法規」すら眼中になかった日本軍の実態が証言されたのである。下に「東京裁判・判決文」から一部を引用してみる。「平頂山事件」「秋田花岡事件」と「南京虐殺」が述べられている。(なるべく旧漢字は新漢字にし、振り仮名と意味も記入した)

通 例 の 戦争 犯 罪
●(残虐行為)
 すべての証拠を慎重に検討し。考量した後、われわれは、提出された多量の口頭と書面による証拠をこのような判決の中で詳細に述べることは、実際的でないと認定する。残虐行為の規模と性質の完全な記述については、裁判記録を参照しなければならない。
 本裁判所に提出された残虐行為及びその他の通例の戦争犯罪に関する証拠は、中国における戦争開始から1945年8月の日本の降伏まで、拷問、殺人、強姦及びその他の最も非人道的な野蛮な性質の残忍行為が、日本の陸海軍によって思うままに行われたことを立証している。数ヵ月の期間にわたって、本裁判所は証人から口頭や宣誓口述書による証言を聴いた。これらの証人は、すべての戦争地域で行われた残虐行為について、詳細に証言した。それは非常に大きな規模で行われたが、すべての戦争地域でまったく共通の方法で行われたから、結論はただ一つしかあり得ない。すなわち、残虐行為は、日本政府またはその個々の官吏及び軍隊の指導者によって、秘密に命令されたか、故意に許されたかということである。

下

極東国際軍事裁判所判決. 第4 B部 第8章 通例の戰爭犯罪 極東国際軍事裁判所 編 1948年刊  
国立国会図書館デジタルコレクション
「東京裁判判決 : 極東国際軍事裁判所判決文」極東国際軍事裁判所 編 毎日新聞社1949年刊
国立国会図書館デジタルコレクション

⑤エドガー・スノー著作集「アジアの戦争」

ここではエドガー・スノー著作集「アジアの戦争」筑摩書房1973年刊より、1937年(昭和12年)8月の第2次上海事変後の南京戦のルポタージュである「4・神より偉大な」の章を引用する。
訳者(森谷巌)によるあとがきには、この「アジアの戦争」は1943年(昭和18年)9月に大東亜省総務局総務課より、「亜細亜の烽火」なる邦題で軍部関係者に「極秘」の2文字を表紙に掲げた「大東亜資料第5号」として配られたとある。

「4 神よりも偉大な」
私には、神よりも偉大なある力がわが兵を鼓舞したとしか思えない。(杉山大将)

 火力の点では敵と互角の立ち合いはできそうもない最初の陣地戦に、中国軍は乏しい予備軍を多数くり出した。しかしこれは重大な戦術的誤謬のように思える。こんな戦術を採用しなければ、当時自信満々の敵軍を、兵力が強化されぬ前に内部へ引きずり込むことができたであろう。更に上海の西部の有利な高地に兵力を集中させて側面急襲を加え、重要な勝利を獲得するのも不可能ではなかった筈だ。

下

⑥1938年(昭和13年)2/18内務省、石川達三「生きてゐる兵隊」掲載の「中央公論」3月号を発売禁止

●内務省警保局図書課は「中央公論」3月号を発売禁止と命令。同誌の特派員として南京攻略戦に従軍した石川達三の「生きてゐる兵隊」の非戦闘員に対する略奪・暴行などの描写が、反戦気運をあおるという理由であった。そして石川は起訴され、禁錮4ヶ月判決を受けた。


石川達三(いしかわ‐たつぞう)
小説家。秋田県生まれ。早大中退。ブラジル移民を描いた「蒼氓」で第一回芥川賞を受賞。日本文芸家協会理事長や日本ペンクラブ会長などを歴任。作品「生きてゐる兵隊」「風にそよぐ葦」「人間の壁」「青春の蹉跌」など。明治38~昭和60年(1905-85)(出典)日本国語大辞典精選版


●また「南京事件論争史」笠原十九司、平凡社2007年刊によれば、次のようにある。
1938年に発禁処分を受けたこの「生きてゐる兵隊」は戦後の1945年12月に初版5万部で河出書房から出版された。そして東京裁判で南京事件が裁かれることがわかると、1946年5/9読売新聞社は、石川達三のインタビュー記事を「裁かれる残虐『南京事件』」との見出しで掲載した。この中で石川は南京事件について見聞した虐殺現場の様子を語り、

「・・このような虐殺事件の根絶のためにこんどの裁判(東京裁判)を意義あらしめたいと思う」と語ったという。

●巣鴨の獄中に居た松井石根大将(南京事件の責任者として極東国際軍事裁判で絞首刑)は、この読売新聞の記事をみて次のように日記(1946年5/10)に書いた。

「9日、読売新聞に石川達三なる者談話記事あり。南京当時の暴行事件を暴露せる者なり、小説家の由、困った男なり。わざわざ問題の種を邦人中より蒔くの愚、蔑(さげす)むべきなり」

●そしてこの記事が掲載された直後の1946年5/11、石川達三は国際検察局(連合国軍最高司令官総司令部)の尋問を受けた。その中で石川は次のように述べた。

1938年1/5に南京に入って兵士から聞いた話をもとに『生きてゐる兵隊』を書いたと語るとともに「南京で起こったある事件を、私の本ではそれを他の戦線で起こったこととして書きました。このようにして小説にしました。」

●石川達三の昭和13年3月判決を受けた頃の心境を、「生きている兵隊」伏字復元版の「解説」で半藤一利は次のように書いている。石川は、新聞紙法違犯で起訴され公判で次のように堂々と自己の意見を開陳したという。

 「国民は出征兵士を神様の様に思い、我が軍が占領した土地にはたちまちにして楽土が建設され、支那民衆もこれに協力しているが如く考えているが、戦争とは左様な長閑なものではなく、戦争というものの真実を国民に知らせることが、真に国民をして非常時を認識せしめ、この時局に対して確乎たる態度を採らしむる為に本当に必要だと信じておりました。殊に南京陥落の際は提灯行列をやりお祭り騒ぎをしていたので、憤慨に堪えませんでした」
「生きている兵隊」伏字復元版 石川達三 中央公論新社 2015年14刷発行

●冒頭の部分を引用する。この部分では「日本刀」が伏字とある。

「生きている兵隊」伏字復元版 石川達三

(前記)日支事変については軍略その他未だ発表を許されないものが多くある。従ってこの稿は実戦の忠実な記録ではなく、作者はかなり自由な創作を試みたものである。部隊名、将兵の姓名などもすべて仮想のものと承知されたい。
1
 高島本部隊が太沽(タークー)に上陸したのは北京陥落の直後、大陸は恰度残暑の頃であった。
汗と埃にまみれた兵の行軍に従っておびただしい蠅の群が輪を描きながら進んで行った。
 それから子牙河の両岸に沿うて敵を追いながら南下すること二ヶ月、石家荘が友軍の手に落ちたと聞いたのはもう秋ふかい霜が哨兵の肩に白くなる時分であった。

下

⑦南京城陥落に至るまで概要。

●ここでは「南京事件」笠原十九司著 岩波書店1998年第4刷から、南京城陥落に至るまでのポイントを簡単に書き出してみる。下の地図「南京城要図」(出典)「南京事件」笠原十九司著 岩波書店1998年第4刷

●国民政府軍は3ヶ月間にわたった上海防衛戦で、全兵力の1/3にあたる約70万人の兵力を投入し、戦死者を25万人前後を出したといわれる。そのため蒋介石は南京防衛をあきらめ臨時首都を重慶に移し漢口、長沙に各部を分散することを決定した(11/16)。しかし南京は中国の首都であり、南京には国父孫文の陵墓・中山陵があることから簡単に首都を明け渡すわけにはいかなかった。
●蒋介石は、「トラウトマン和平工作」とベルギーで開催中の「ブリュッセル会議=9ヵ国条約会議」(11/3-11/24)での日本に対する制裁決議に期待し、短期的にでも南京を固守することを決定した。1、2カ月でも持ちこたえれば国際情勢は変化し危機は回避できると考えたのである。そして軍事委員会常務委員の唐生智を南京防衛司令官に任命し、11/20南京防衛軍司令部編制と防衛軍の配備を行い、南京城複郭陣地(周辺に2重3重の陣地)構築を開始した。12月4~5日かけて日本軍が南京近郊県に突入した段階で、南京防衛軍の総数は前線部隊、後方部隊ならびに雑兵、軍夫を合わせると約15万人に達した。この段階で南京近郊区(=日本の東京・埼玉・神奈川の大きさ)には100万人以上の住民と難民、南京城区には40万~50万人の市民および難民が居住したり避難していたと「南京事件」笠原十九司著 には書かれている。
●こうして日本軍は陸からは陸軍が総数20万近い規模で波状進軍し、空からは海軍支那方面艦隊航空部隊が空爆し、長江からは海軍遡江部隊が南京に向かって両岸の要塞・砲台を攻撃しながら進軍をはじめた。南京城包囲殲滅戦が始まったのである。そして12/6までには城内も砲撃の射程に入るようになり、海軍の第2連合航空隊も12/3常州に前進基地を開き、同基地から連日出撃し南京城に激しい爆撃を加えた。
●そして12/6ついに蒋介石夫婦は南京脱出を決意し、南京防衛軍の師長以上の高級指揮官を一堂に集め、「南京を死守すれば、みずから新鋭部隊で日本軍の包囲を撃滅する」と鼓舞激励した。唐生智南京防衛司令官も「私は南京と運命をともにすることを誓う」と南京死守の決意を表明した。こうして12/7夜明け前、蒋介石夫婦は側近らと共にアメリカ人パイロットが操縦する2機の大型単葉機で南京を脱出した。そしてドイツ軍事顧問団もひそかに漢口へ脱出し、国民政府の要人、南京市長や南京市政府要人もすべて1両日中には南京を脱出したのであった。
●12/8日本軍は、南京城を覆うように布陣されていた烏龍山-幕府山-紫金山-雨花台の複郭陣地に迫り南京城包囲網を完成させた。そして翌12/9夕方、陸軍は司令官松井石根の名において、南京防衛軍に対して「投降勧告文」を日本軍機から南京城内8カ所に投下し投降を呼びかけた。そして翌12/10の午後1時まで、中支那方面軍参謀副長 武藤章大佐らが通訳官を伴い中山門-句容街道で回答を待った。しかし中国側からの軍使は来なかった。
●この時投降拒否した唐生智南京防衛軍司令官は12/10午後7時、「本軍は最後の南京固守の戦闘に入った。各部隊は陣地を死守せよ」と下命し、「指令なく陣地を放棄・撤退したものは厳罰に処する」と伝え、また長江沿岸を厳重に警備させ、許可なくいかなる部隊の渡江を厳禁した。この挹江門(下関門)付近とその外側の長江下関・中山埠頭は南京防衛軍や撤退しようとした軍・避難民らの最後の逃げ道であった。
●こうして12/10午後1時、松井中支那方面軍司令官は「上海派遣軍ならびに第10軍は南京城の攻略を続行し城内を掃蕩すべし」(中方作命第34号)と南京城総攻撃を下令した。同時に海軍航空隊の爆撃も激しさを加え12/10午後から12/12にかけて昼夜をわかたず壮絶な南京城攻防戦が開始されたのである。
●12/12夜明けとともに激烈な日本軍の攻撃が開始され、中華門外の雨花台陣地には第6師団と第114師団が猛攻を加え正午までにここを占領し、第6師団は中華門へ集中砲火を浴びせた。
●南京城東の紫金山の西南山麓は太平門-中山門間の城壁につながっており、第16師団の佐々木支隊は北山麓陣地、南山麓は同師団主力が南京防衛軍の最精鋭部隊と3日にわたる死闘をつづけた。そして紫金山第2峰陣地を落とした第16師団は中山門とその南の城壁に重砲によって集中攻撃を加え数メートルにわたり城壁を決壊させた。
●長江南岸にそった南京城東の鵜龍山砲台には、第13師団の山田支隊が猛攻をかけた。また南京城西の長江南岸(長江上流)の上新河鎮から江東門、下関に広大に広がる湿地帯では、雨花台を占領した第6師団が城内突入をめざして中華門から水西門にかけて攻撃を集中した。水西門外では砲列の援護をうけて戦車を先頭に激烈な戦闘が繰り広げられた。
●長江の北岸では国崎支隊がターミナル駅浦口の占領をめざして進撃し、12/12午後に江浦県城を占領し長江を渡河して撤退しようとする中国軍の殲滅作戦を準備した。
●そしてこの日(12/12)、海軍の第12航空隊および第13航空隊が、中国軍が汽船で南京を脱出中との報をえて、アメリカ砲艦パネー号とアメリカのタンカーを、中国兵を護送中と誤認して撃沈した(パネー号事件)。パネー号にはアメリカ大使館臨時事務所が開設されており、誤爆回避の要請が日本軍に通知されており、当日は視界良好であったため、この事件は日本軍の意図的な攻撃とする意見も強かったが、日本は即座に陳謝し翌年3月221万ドルの賠償金を支払うことで解決した。ただこの事件と南京事件はアメリカで大きな抗議と対日感情悪化をまねき、太平洋戦争への序曲ともなったといわれる。またこの日の早朝、陸軍は蕪湖付近を航行中のイギリスの砲艦レディーバード号を砲撃した。(上の新聞)12/17東京朝日新聞第2夕刊(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●一方、唐生智南京防衛司令官は前日に蒋介石より撤退指令を受けていたが、「急な撤退命令は混乱を招くだけ」として、翌12/13の日の出前に各部隊がいっせいに日本軍の包囲を正面突破し撤退する計画をたてた。しかし唐生智司令官は12/12夜明けとともに始まった激烈な日本軍の攻撃に動揺し、午前11時南京難民区国際委員長ラーベ(日本と同盟国のドイツ人でナチス党員)に、日本軍との間で3日間の休戦協定を結ぶ仲介を依頼した。休戦協定の間に中国軍が撤退し、南京城を日本軍に引き渡そうとしたのであった。
●しかし戦況は悪化し、まさに南京城陥落寸前の激闘と混乱の極致に達しており、すでに休戦協定を結ぶ状況ではなくなったのである。南京防衛軍の崩壊は徐々に進行しており、この時南京城内の南の中華門から北の挹江門(下関門)まで縦断する中山北路に立っていたアメリカ人記者A・T・スティールは、この時の様子を次のように記した。

数人の青年将校(中国軍)が、退却する大群の進路に立ちはだかって、食い止めようとしていた。激しい言葉が交わされ、ピストルが鳴った。兵士たちはいやいや向きを変え、前線に向かってのろのろと戻りはじめた。だが盛り返したのは束の間であった。30分以内に中国軍の士気は瓦解し、全軍が潰走することになった。
もはや、彼らを押しとどめるすべもなかった。何万という兵士が下関門(挹江門)に向かって群をなして街路を通り抜けていった。(中略)
午後4時半頃、崩壊がやってきた。はじめは比較的秩序だった退却であったものが、日暮れ時(当時の日没は午後5時ごろ)には潰走と化した。逃走する軍隊は、日本軍が急追撃をしていると考え、余計な装備を投げ捨てだした。まもなく街路には捨てられた背嚢、弾薬ベルト、手榴弾や軍服が散乱した。
(『シカゴ・デイリー・ニューズ』1938年2月3日、『アメリカ関係資料編』)

●唐生智南京防衛司令官は撤退命令を正式に決定するため高級指揮官会議を招集しようとした。しかしすでに中山北路に面した鉄道部地下室(防衛軍司令長官部)付近は混乱しており、12/12午後5時ごろ、場所を百子亭の唐生智の官邸に変更し会議を開いた。しかし時はすでに軍の崩壊は始まっており、撤退計画を実行できるはずはなかった。鉄道部地下室の司令長官部は5時以前に撤退を開始していたのである。
この時撤退する司令長官部の者が、この4階建ての交通部の建物を日本軍に使用させないために放火したときの模様を、近くのアメリカ大使館にいたスティール記者はこう目撃している。

兵士らが、退却の主要幹線道路である中山路からわずか数ヤードしか離れていない交通部の百万ドルの庁舎に放火したとき、地獄は激しく解き放たれた。そこは弾薬庫として使用されてきており、火が砲弾・爆弾倉庫にたっしたとき、恐ろしい爆音が夜空を貫いた。
銃弾と砲弾の破片が高くあらゆる方向に甲高い音を出して散り、河岸にいたる道路をうろうろする群集のパニックと混乱をいっそう高めた。燃えさかる庁舎は高々と巨大な炎を上げ、恐ろしい熱を放った。パニックに陥った群集の行列はためらって足をとめ、交通は渋滞した。トラック、大砲、オートバイと馬の引く荷車がぶっかりあってもつれ絡まり、いっぽう、後ろからは前へ前へと押してくるのであった。
兵士たちは行路を切り開こうと望みなき努力をしたが、むだであった。路上の集積物に火が燃え移り、公路を横切る炎の障壁をつくった。退却する軍隊に残っていたわずかばかりの秩序は、完全に崩壊した。いまや各人がばらばらとなった。燃える障害を迂回して何とか下関門(挹江門)に達することができたものは、ただ門が残骸や死体で塞がれているのを見いだすのだった。
それからは、この巨大な城壁を越えようとする野蛮な突撃だった。脱いだ衣類を結んで口-プが作られた。恐怖に駆られた兵士らは胸壁から小銃や機関銃を投げ捨て、続いて這い降りた。だが、彼らはもう一つの袋小路に陥ったことを見いだすのだった。
(『シカゴーデイリー・ニュース』1938年2月3日、『アメリカ関係資料編』)

●唐生智司令官は、撤退計画以外の部隊の下関からの渡江を厳禁し、第36師に他部隊が挹江門から撤退、退却するのを実力阻止するように命じた。そして官邸に火をつけた後唐生智一行は撤退を開始し、中山北路に充満した退却兵や潰兵の大群の中を夜8時ごろ海軍艦艇専用の埠頭にたどりつき最後の小汽船で浦口埠頭へ脱出していった。
●こうして南京を脱出しようとした膨大な数の退却・潰走兵と避難民らは挹江門へ向かって押し寄せたが、門を守る第36師と退却軍との間で同志撃ちが始まり銃撃戦で多くの死者がでた。そしてそこに撤退を決めた戦車隊が強行突破をはかったため、兵士・避難民の大群も挹江門から脱出することができた。
●午後10時過ぎ、脱出した敗走兵と避難民の大群で下関埠頭中心に周辺数キロが埋めつくされた。渡江できる船舶はなかったのである。そして長江沿岸を逃走しようとした部隊が日本軍と遭遇して戦闘になった。そしてついに何万という群衆が長江の流れに身を乗り入れていった。
●また脱出を断念した兵士や、長江岸まで行って渡江手段がないために再度城内にもどってきた兵士たちは、みずからを武装解除して一般民衆に紛れて逃走しようとした。この時、南京攻略戦を取材するために 南京に留まっていたF・T・ダーディン記者は、こう報じている。

 日曜日(12日)夜、中国兵は安全区内に散らばり、大勢の兵隊が軍服を脱ぎはじめた。民間人の服が盗まれたり、通りがかりの市民に、服を所望したりした。また、「平服」が見つからない場合には、兵隊は軍服を脱ぎ捨てて下着だけになった。
 軍服といっしょに武器も捨てられたので、通りは、小銃・手榴弾・剣・背嚢・上着・軍靴・軍帽などで埋まった。下関門(挹江門)近くで放棄された軍装品はおびただしい量であった。交通部の前から2ブロック先まで。トラック、大砲、バス、司令官の自動車、ワゴン車、機関銃、携帯武器などが積み重なり、ごみ捨て場のようになっていた。
(『ニューヨーク・タイムズ』1938年1月9日、『アメリカ関係資料編』)

●そして深夜の0時半をすぎると、砲声や銃声は途絶え、ついに中国軍すべての抵抗は瓦解した。最後に残った中山門も第16師団の歩兵第20連隊が無血占領した。下段の映像にもその文字が映し出されている。「昭和13年12月13日午前3時10分 大野部隊占領」と。南京城はついに陥落した。
(新聞)「南京完全占領」昭和12年12/14東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊




南京城の攻略後の映像と、12/17の「南京入城式」の映像の一部と当時の新聞。
●これは「戦線後方記録・南京」東宝文化映画部作品の数カ所を切り取ったものである。中国軍の防衛軍と撤退する軍が衝突し、そして避難民も殺到して大パニックとなった挹江門付近と城壁、そしてその外の長江下関埠頭が映像にある。また南京城陥落後すぐに「南京入城式」を挙行したことが、早急で無差別な敗残兵狩り「残敵掃蕩」を行った原因ともいわれている。入城式の先頭が松井石根大将である。入城式の映像は最後の方にあるので、スライドバーを動かして先に進ませることができる。

(この動画はYouTubeにアップ(up)したものなので、音量は動画のボタンで調節できる。)星野。

●またこの南京入城式の様子は、国内では大々的に報道され「南京陥落」の報に日本中がわいた。
(新聞)12/18東京朝日新聞第2夕刊(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

⑧南京事件に対してどのように考えるか。(個人的な意見)

●大事なことは、加害国である日本が被害国の立場に立てるかどうかである。加害国が被害国に対してその被害の規模の大小を論ずべきではない。数の問題ではないのである。加害国の擁護より、被害国民の無視され無慈悲にも殺害された数多くの生命の方が尊いのである。
●もうひとつ大事なことは、現代人の意識・常識とは時代が異なることを前提にしなければならないことである。同じ日本人がそんな残虐な事ができるはずがない、と考えるのは幻想である。狂暴で残虐で死すら恐れぬ日本軍であったからこそ、アメリカは徹底して日本壊滅を図ったのである。日本軍は絶対降伏しない軍隊であったのである。ある意味「恐怖の軍隊」と思われていたのであろう。
●感情論はやめて、あえてこの南京事件についていえば、この事件は以下の4つのシーンに分かれているように思える。しかし一番強調されているのは④であるようだ。だが南京虐殺事件の中心となったのは②と③のように思える。

①南京城攻略へ進軍する際の住民に対する略奪・放火・暴行と捕虜の殺害。
②南京城陥落時における、砲撃・爆撃などによる一般市民を巻き込んだ無差別の攻撃や戦闘。長江に逃れようとした敗残兵・避難民を艦船からの銃撃によって無差別に殺害。戦闘時における投降兵・敗残兵・捕虜の殺害。
③南京城陥落(12/12深夜)以後の「残敵掃蕩」命令による市民を巻き込んだ、敗残兵・便衣兵(=平服に着替えて遁走した兵隊の意味)の捜索・逮捕・監禁とその後の集団処刑。
④入城後の日本軍による南京城区および周辺地区の絶えざる虐殺、大規模な計画的掠奪、家宅侵入、婦女陵辱・暴行・殺人。


●特に③の「残敵掃蕩」時における「集団処刑」が南京虐殺の中心であるように思われる。この「残敵掃蕩」と「集団処刑」は、下段の師団長らの日記をみると、軍の上層部による「捕虜は作らぬ方針」による集団処刑命令であったと思われる。このような日本軍の敵国兵士らに対する容赦の無い殺戮は、1910年の韓国併合後の「武断政治」による反日・独立運動に対するもの、満州国における抗日武装勢力(匪賊)にたいするもの、またその後中国側が非難した日本軍による「三光作戦(殺しつくす、奪いつくす、焼きつくす)」などからみても、恐るべき現実であったと推測できる。まして日本刀による斬首は、日本軍にとっては普通であっても、諸外国人からは見ればその行為は残虐の極みであったことは間違いない。大日本帝国陸軍は絶対命令と暴力による支配を組織力の源泉とした軍隊であり、この「残敵掃蕩」命令は絶対であり捕虜の命が顧みられることはなかったのであろう。
上写真「南京大虐殺。刑場に運ばれる中国人捕虜」(出典:「世界の歴史15」中央公論1962年刊)
最後の段でリンクした「MBSナウスペシャル・フィルムは見ていた-検証南京大虐殺」中の「マギー牧師のフィルム」には、狩りたてられた「敗残兵・便衣兵」と思われた数多くの男たちが刑場に向かう様子が隠し撮りされている。
●下は、上海派遣軍第9師団・歩兵第6旅団長秋山義兌少将による「南京城内掃蕩要領」および「掃蕩実施に関する注意」である。

1、遁走する敵は、大部分便衣に化せるものと判断せらるるをもって、その疑いある者はことごとくこれを検挙し適宜の位置に監禁す
2、青壮年はすべて敗残兵または便衣兵と見なし、すべてこれを逮捕監禁すべし
『南京戦史資料集』

●下は、上海派遣軍第16師団長中島今朝吾(なかしま-けさご)中将の日記(12/13)の「捕虜掃蕩」の項目のところである。

 だいたい捕虜はせぬ方針なれば、片端よりこれを片づくることとなしたる(れ)ども、千、5千、1万の群集となればこれが武装を解除することすらできず、ただ彼らがまったく戦意を失い、ぞろぞろ付いてくるから安全なるものの、これがいったん掻擾(騒擾)せば、始末にこまるので、部隊をトラックにて増派して監視と誘導に任じ、13日夕はトラックの大活動を要したり。(中略)
 後にいたりて知るところによりて、佐々木部隊だけにて処理せしもの1万5千、大平門(太平門)における守備の1中隊長が処理せしもの約1300、その仙鶴門(せんかくもん)付近に集結したるもの約7,8千人あり、なお続々投降しきたる。
 この7,8千人、これを片づくるには相当大なる壕を要し、なかなか見当たらず、一案としては百、2百に分割したる後、適当のケ処(箇処)に誘きて処理する予定なり。
『南京戦史資料集』

●下は、上海派遣軍第13師団・山田支隊長山田栴二少将の日記の捕獲した捕虜の数についてのところである。

(12/14)他師団に砲台をとらるるを恐れ、午前4時半出発、幕府山砲台に向かう、明けて砲台の付近に到れば投降兵莫大にして仕末に困る。
 捕虜の仕末に困り、あたかも発見せし上元門外の学校に収容せしところ、14777名を得たり、かく多くては殺すも生かすも困ったものなり、上元門外三軒屋に泊す。
(12/15)捕虜の仕末その他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す。皆殺せとのことなり。各隊食糧無く困却す。
『南京戦史資料集Ⅱ』

●しかしこのような軍紀軍律にも反した捕虜の殺戮命令は、個人レベルから部隊レベルによるさらなる無差別な民間人への暴虐行為へと発展していったと思われる。それが南京事件の残虐さを印象付ける婦女暴行・強姦・略奪・殺人の④であったと思われる。日本において④に含まれる民間人の虐殺数が20万~30万といわれると違和感をもってしまうが、被害者が①+②+③+④の中国軍人・民間人合わせての総数であるといわれれば受け入れやすいかもしれない。
●次に南京軍事裁判における第10軍・第16師団長 谷寿夫(たに-ひさお)中将に対する1947年3月10日判決を引用しておく。 谷寿夫中将は被害者30万人の首謀者の一人とされたのである。

「第一点について言えば、犯罪行為を共同で実行した者は、共同意志の範囲内で各自が犯罪行為の一部を分担し、互いに他人の行為を利用しもってその犯罪目的を達成しようとしたのであるから、発生したすべての結果に対して共同で責任を負わなければならない 。被告は南京を共同で攻撃した高級将校であった。南京陥落後、中島・牛島・末松などの部隊と合流して各地区に分かれて侵入、大虐殺および強姦略奪、放火などの暴行をおこない、捕らわれた中国の軍人・民間人で殺害された者、30万余りの多きに達した。

下

●この時の民間人の虐殺数については、ナチスの南京支部副支部長で、民間人の保護活動に尽力した南京安全区国際委員会委員長であったラーベの「ヒトラーへの上申書」(南京事件・ラーベ報告書)には次のようにある、一部を引用しておこう。

「中国側の申し立てによりますと、10万人の民間人が殺されたとのことですが、これはいくらか多すぎるのではないでしょうか。我々外国人はおよそ5万から6万人とみています」

●また同じく南京安全区国際委員会委員であったマギー牧師が密かに撮影した当時のフィルムは、アメリカ人宣教師ジョージ・A・フィッチが上海に持ち出すことに成功し、「LIFE(ライフ)」にも掲載され世界に衝撃を与えた。マギー牧師は東京裁判でも証言し、そのフィルムはユネスコの「世界の記憶」に2015年登録された。日本政府は登録資料の開示と検証を求めた。
●日本のマスコミは、他国からのよい評価であるユネスコの「世界遺産」などは、無批判に尊重して盛り上げているが、同じユネスコの「世界の記憶」は都合が悪いせいか報道することをためらっているようである。
●毎日放送はそのフィルムをもとに1991年10/6「MBSナウスペシャル・フィルムは見ていた-検証南京大虐殺」を放映した。それはYouTubeでみることができるが、一部紹介しておこう。

「(動画)広場に集められ、処刑場所に連行されていく捕虜たちを隠し撮りした一部分」
(mp4動画、サイズ6.4MB)

*リンクします「MBSナウスペシャル・フィルムは見ていた-検証南京大虐殺」
動画・出典:YouTube(osugi takiji氏)

上矢印