1937年(昭和12年)①「日中戦争勃発」日本中国侵略を開始する

2022年6月27日アジア・太平洋戦争

近衛内閣は盧溝橋事件の不拡大方針をくつがえし、華北派兵の政府声明を発表する。
●日本は、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争に突入した。これはまさに日本(軍部)が戦争を望んだことであった。そして1937年(昭和12年)11月17日、「勅令」をもって「戦時大本営條例」を廃止し、軍令第1号をもって「大本営令」を公布し、11月20日「大本営」を皇居内に設置した。大本営は日本軍の最高統帥機関であり最高司令部であった。ここに日本軍の戦時体制は整ったのである。

この時の大本営設置は、国務と戦略の一致を図ろうとした近衛首相の提案によるものだったが、文官の参加は軍部に拒否された。そこで政府はあらたに設立した大本営政府連絡会議(議長は内閣総理大臣)で、政府と軍との意思の疎通と統一を図ろうとしたが、日本は敗戦まで一元的な戦争指導はできなかった。内閣には陸軍、海軍を抑制・制御する力はなかったし、さらに悪いことに近衛首相は軍部に迎合し、政府をあげて戦争遂行の音頭取りを行ったともいわれるのである。
(写真上)陸軍九七式重爆撃(昭和12年12月制式採用)。洗練されたデザインと当時世界で1・2を争う程の高性能重爆撃機だった。
(写真下)昭和12年11/24第1回大本営の御前会議が宮城で行われた。天皇から見て右側に閑院宮参謀総長ら陸軍幕僚、左側に伏見宮軍令部総長ら海軍幕僚が出席した。写真-毎日新聞社(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

昭和12年(1937年)の概略。広田弘毅内閣から林銑十郎内閣(2/2)、そして近衛文麿内閣(6/4)(第1次)へ。

国内政治では、1/21の衆議院で政友会の浜田国松議員が軍部の政治介入を厳しく批判した。そして答弁に立った寺内寿一陸相と腹切り問答となり、それがきっかけで広田弘毅内閣は総辞職(1/23)した。(経済上の問題も山積みしていた)
●そこで西園寺公望は前朝鮮総督の宇垣一成陸軍大将を推挙し、宇垣に組閣の大命が下った(1/25)。だが陸軍は宇垣を好まず、軍部大臣現役武官制を盾に陸相推薦を拒否し組閣を断念させた。次に平沼騏一郎を後継首班第1候補としたが、平沼が固辞したため、陸軍大将林銑十郎に組閣の大命が下り、2/2林銑十郎内閣が成立した。

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1937年(昭和12年)政治・社会年表。4月頃まで

1/23広田弘毅内閣総辞職。1/29陸軍大将宇垣一成組閣断念。2/2林銑十郎内閣成立。5/31林内閣総辞職。
(科学)3/30大阪帝大理学部、日本初のサイクロトロン装置を完成。大阪帝大では物理学者の長岡半太郎が学長をつとめ、すぐれた科学者たちが集まっていた。そして4/6東京の理化学研究所でも完成。仁科芳雄による物理学最先端装置サイクロトロンの完成である。

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1937年(昭和12年)4月28日、第1回文化勲章授与式が行われる

昭和12年2/11紀元節(神武天皇即位の日)に初の文化勲章の実施が発表された。科学、芸術など文化の発展に大きな貢献があったとして、第1回の栄に9人が選ばれた。下段に一覧と作品の一部を紹介する。
●文化勲章が設けられた理由は、日本は基本的には医学、科学、芸術などの分野で諸外国に立ち遅れ、海外の模倣の域を出ていなかったため、独創的な文化を育成しようというものだった。つまり国家としての、ひとつの文化奨励策である。

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1937年(昭和12年)政治・社会年表(5/30~6月頃)。5/31文部省「国体の本義」発行。

1937年(昭和12年)5/31文部省発行「国体の本義」、全国の学校・社会教化団体などへ配布開始。
「・・・こゝに我等の重大なる世界史的使命がある。乃ち「國體の本義」を編纂して、肇國(ちょうこく)の由來を詳(つまびら)かにし、その大精神を闡明(せんめい)すると共に、國體の國史に顯現(けんげん=はっきりと現れること)する姿を明示し、進んでこれを今の世に説き及ぼし、以て國民の自覺と努力とを促す所以(ゆえん=理由)である。」「国体の本義」緒言より。

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1937年(昭和12年)7/7盧溝橋事件勃発(日中戦争の始まり)「上海共同租界の様子」「海軍による中国大陸渡洋爆撃」

★盧溝橋事件の背景とポイント。
●日本は、1932年(昭和7年)に満州国を建国させ、昭和8年3月に熱河省を占領し、5月には長城線を越え北平(北京)・天津付近まで侵攻し、「塘沽停戦協定」を結ばせ長城内部の河北省に非武装地帯を設けさせた。
●1935年(昭和10年)においても日本の目的は「華北分離政策」であり、綏遠省、チャハル省(察哈爾省)、河北省、山西省、山東省の5省を国民政府から分離させ傀儡政権を誕生させることだった。そして6月に梅津・何応欽協定、および土肥原・秦徳純協定を結び、河北省とチャハル省から中国国民党の機関と国民政府中央軍を排除することに成功した。

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1937年(昭和12年)政治・社会年表8/20~。12/1大本営は南京攻略を下命。「南京事件」「千人針・慰問袋・出征」

10/20、新たに柳川平助中将を軍司令官とする第10軍(第6師団・第18師団・第114師団および第5師団の一部などにより編成)を編成し、膠州湾北岸に上陸するように命令を下した。上海の戦線は、中国軍の頑強な抵抗で膠着し、いたずらに損害を重ねる状況が続いたのである。上海派遣軍には9月下旬から10月上旬にかけて動員が続き、昭和12年中に招集された陸軍の兵員数は47万人にのぼった。そして1937年昭和12年11月5日、第10軍(司令官柳川平助)は、支那方面艦隊護衛のもとに杭州湾北岸に上陸、上海戦線の背後をついた。
●そして12/1、大本営は、中支那方面軍戦闘序列と同方面軍・支那方面艦隊に南京攻略を下命した。そして日本軍は12月13日南京を占領する。このとき日本軍は「南京事件」を引き起こした。詳細は次章にて記述。

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