1937年(昭和12年)「日中戦争勃発」日本中国侵略を開始する

アジア・太平洋戦争

近衛内閣は盧溝橋事件の不拡大方針をくつがえし、華北派兵の政府声明を発表する。
●日本は、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争に突入した。これはまさに日本(軍部)が戦争を望んだことであった。そして昭和12年(1937年)11月17日、「勅令」をもって「戦時大本営條例」を廃止し、軍令第1号をもって「大本営令」を公布し、11月20日「大本営」を皇居内に設置した。大本営は日本軍の最高統帥機関であり最高司令部であった。ここに日本軍の戦時体制は整ったのである。

(写真)昭和12年11/24第1回大本営の御前会議が宮城で行われた。天皇から見て右側に閑院宮参謀総長ら陸軍幕僚、左側に伏見宮軍令部総長ら海軍幕僚が出席した。写真-毎日新聞社(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

大本営令(昭和12年軍令第1号)
第一条 天皇ノ大纛(たいとう=天皇の旗)下ニ最高ノ統帥部ヲ置キ之ヲ大本営ト称ス
大本営ハ戦時又ハ事変ニ際シ必要ニ応ジ之ヲ置ク
第二条 参謀総長及軍令部総長ハ各其ノ幕僚ニ長トシテ帷幄ノ機務ニ奉仕シ作戦ヲ参画シ終局ノ目的ニ稽ヘ陸海両軍ノ策応協同ヲ図ルヲ任トス
第三条 大本営ノ編制及勤務ハ別ニ之ヲ定ム

この時の大本営設置は、国務と戦略の一致を図ろうとした近衛首相の提案によるものだったが、文官の参加は軍部に拒否された。そこで政府はあらたに設立した大本営政府連絡会議(議長は内閣総理大臣)で、政府と軍との意思の疎通と統一を図ろうとしたが、日本は敗戦まで一元的な戦争指導はできなかった。内閣には陸軍、海軍を抑制・制御する力はなかったし、さらに悪いことに近衛首相は軍部に迎合し、政府をあげて戦争遂行の音頭取りを行ったともいわれるのである。

目次
昭和12年《1937年》 内容
★国内政治・社会年表
広田弘毅内閣→林銑十郎内閣(2/2)→近衛文麿内閣(6/4)(第1次)
日本はこの7/7に勃発した盧溝橋事件をきっかけに北京・天津を占領した。そして陸軍に刺激を受けた上海方面の海軍は第2次上海事変(8/13)を起こし、さらに8/15海軍は渡洋爆撃(海の荒鷲)を敢行し南京をはじめ各都市を爆撃し戦争を拡大していった。

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★国内政治と社会年表。1937年(昭和12年)頃。『昭和2万日の全記録』講談社を中心に要約引用し、朝日新聞の紙面紹介を行った。

1937年(昭和12年)~政治・社会年表
昭和12年(1937年)広田弘毅内閣→林銑十郎内閣(2/2)→近衛文麿内閣(6/4)(第1次)(概略)

●政治面では、1/21の衆議院で政友会の浜田国松議員が軍部の政治介入を厳しく批判した。そして答弁に立った寺内寿一陸相と腹切り問答となり、それがきっかけで広田弘毅内閣は総辞職(1/23)した。(経済上の問題も山積みしていた)
●そこで西園寺公望は前朝鮮総督の宇垣一成陸軍大将を推挙し、宇垣に組閣の大命が下った(1/25)。だが陸軍は宇垣を好まず、軍部大臣現役武官制を盾に陸相推薦を拒否し組閣を断念させた。次に平沼騏一郎を後継首班第1候補としたが、平沼が固辞したため、陸軍大将林銑十郎に組閣の大命が下り、2/2林銑十郎内閣が成立した。
ところが林内閣は、第70議会で予算案を通過させた直後の3/31議会を解散してしまった。だが林内閣は総選挙で負けてしまい、5/31組閣4ヶ月足らずで総辞職してしまった。「ナニモセンジュウロウ内閣」と揶揄された。

下

(昭和12年のポイント)
●近衛内閣は7/7の盧溝橋事件(軍事衝突)後、戦争を避ける道があったにもかかわらず戦争へ進んだこと。
●第2次上海事変が起きたとき、近衛内閣は次のような声明を出した。

「中国の暴戻(ぼうれい)を膺懲(ようちょう)し、国民政府の反省を促すため断固たる措置をとる」

と。これは実質の宣戦布告といわれるが、これが中国と戦争する大義名分なのだろうか。「侵略」と非難されるわけである。
●近衛内閣は9月より、「国民精神総動員」運動を起こし「国民自らが日中戦争の重大さを知り、積極的な戦争参加と国家への忠誠を誓うように、『社会風潮ノ一新、時局ニ対応スル生活ノ刷新』を宣伝の中心題目と定めた。「挙国一致」して「尽忠報国」のこころで「堅忍持久」して困難を打開し、積極的な戦争参加を国民に命じたのである。

経済的な事柄(物価や貿易など)1月~6月

(国際収支の急速な悪化と戦時統制経済の幕開け。高橋財政から馬場財政・結城財政へ)
●日本の「日銀引受」による赤字国債発行は、直ちに悪性インフレに繋がるわけではない。しかし公債の市中消化が滞れば、通貨が膨張し、物価が騰貴していくという悪性インフレに陥る危険性が常にあるということである。特にこの公債の目的が巨大な軍事費、つまり軍需品の生産のような経済的に非生産的な部門にお金が集中すれば、生産が偏り軍事費に関わる原料輸入が増加し、国際収支が悪化し貿易赤字が増加していくことになるのである。
●当時の日本の重工業は軍需物資を自給することはできず、部品の多くを欧米から輸入し、原料であるくず鉄や石油もアメリカからの輸入に依存していた。日本の軍備拡大はそのまま輸入の増加につながり貿易赤字となっていくと、日本の国際収支はますます悪化していく。すると当然ながら為替は下落し、政府による為替統制、さらには輸出入統制にまで進んでいったのである。これらは戦時統制経済の始まりであった。

下

1937年
昭和12年
1月18日
●ドイツ海軍の巡洋艦エムデン号、日独交歓のため来航し、この日横浜に入港する。これは前年11月の日独防共協定成立を祝して来日したもので、1/19東京駅を出発し靖国神社参拝へ向かう300人の行進を迎える沿道は、歓迎の市民や在日ドイツ人たちでいっぱいになった。一行は靖国神社参拝後、明治神宮や浅草など市内各地を見物して1/23まで滞在した。
(写真)靖国神社に参拝する乗組員。写真-毎日新聞社(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1937年
昭和12年
1月21日
「腹切り問答」をきっかけに広田弘毅内閣は総辞職


●1/21政友会の浜田国松、衆院本会議で寺内陸相と軍部の政治関与に関し「腹切り問答」となる。衆議院で政友会の浜田国松議員が軍部の政治介入を厳しく批判した。そして答弁に立った寺内寿一陸相はその批判は軍への侮辱だと反論した。ところがさらに浜田議員は「もし侮辱した言葉があったら腹を切る。もしなかったら腹を切れ」という腹切り問答となったのである。陸軍は「現在の政党とは到底共に庶政一新を語ることはできぬ」と議会解散を主張する。
(写真)寺内陸相(左)と浜田国松議員。写真-毎日新聞社(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊


●政府は政党と軍部をめぐる対立から、2日間の議会停止を上奏し、その旨を公表した。1/22には第70議会停会の詔書が交付され、ついに1/23広田弘毅内閣は、議会解散をめぐる閣内意見が一致せず総辞職した。(経済上の問題も山積みしていたのである)
(新聞)1/22の東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1937年
昭和12年
1月25日
宇垣一成(陸軍大将)に組閣の大命が下る

●1/24西園寺公望は、後継首班に関する天皇の下問に対し、陸軍大将宇垣一成を推挙した。陸軍は宇垣の実力を恐れ、軍部大臣現役武官制を盾に陸相の推薦を拒否し、1/29宇垣の組閣を断念させた。田中義一の後継者とされた宇垣一成大将は、1925年(大正14年)陸軍大臣として大軍縮を断行し、この軍縮により陸軍は事実上宇垣閥に統一された。また濱口雄幸内閣で再び陸軍大臣(昭和4年-6年)となるなど、東條英機に対抗できる人物であった。


(新聞)1/25の東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
(写真)1/29辞退を発表する宇垣一成(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
●次に平沼騏一郎(枢密院議長)が後継首班第1候補とされたが、平沼が固辞したため、陸軍大将林銑十郎に組閣の大命が下った。
1937年
昭和12年
2月2日
林銑十郎内閣成立

(林銑十郎・はやし‐せんじゅうろう)軍人。陸軍大将。石川県出身。陸軍大学校校長、近衛師団長、斎藤・岡田内閣の陸相を歴任、昭和12年(1937年)首相に就任。日ソ危機を強調し、臨戦体制を提唱したが、選挙で大敗し4か月で総辞職した。明治9~昭和18年(1876‐1943)(出典)「日本国語大辞典精選版」
●陸軍大臣には教育総監本部長中村孝太郎陸軍中将が就任した。石原莞爾大佐ら満州派は、陸相には関東軍参謀長板垣征四郎を推したが、陸軍次官梅津美治郎をはじめとする陸軍主流派は、序列的に早すぎると反対し中村を推薦したのである。
●大蔵大臣には、前日本興業銀行総裁で元日銀理事の結城豊太郎が就任し、膨大な増税政策をとった馬場財政を修正することが期待された。
●2/8林内閣は次の内閣5大政綱を発表したが、特に「祭政一致」という神がかり的な復古主義がめだった。この「祭政一致」というのは、祭祀と政治は一致するというもので、その精神主義と復古主義から林内閣は「神がかり内閣」と揶揄されたのである。
(新聞)上2/3、東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊


●5大政綱
祭政一致・公明な政治の運行・挙国一致の外交国策・国防軍備の充実・産業統制

●予算については、2/3前内閣が提出した予算案と全法案を一旦撤回し、修正案提出のため2/14まで議会を停会した。そして予算削減方針をとったが、陸海軍省費は14億1000万円と変化なく、総予算に占める軍事費の比率は46.4%から50.1%とかえって増大したのである。
●ところが林内閣は、第70議会で予算案を通過させた直後の3/31議会を突如解散してしまった。その理由は「最重要法案の審議を拒んだ政党の覚醒を促す」というものだった。林銑十郎の意図は、軍部の目標だった親軍的一国一党を作ることにあったといわれる。しかし総選挙では政党側が圧勝し、5/31林内閣は組閣4ヶ月足らずで総辞職した。「ナニモセンジュウロウ内閣」と揶揄された。
(新聞)下3/31号外・東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1937年
昭和12年
2月3日
(日独合作合作で日本最初の国際合作映画「新しき土」の試写会が行われる。)
●監督はドイツ側が山岳映画で有名なアーノルド・ファンク、日本側共同監督が伊丹万作(伊丹十三の父)だった。主演は18歳の少女、原節子だった。
●この映画は、ドイツ側のナチスの血と土への民族主義を前面に押し出した作品と、日本側のナチスの宣伝色を抑えて表現を和らげた伊丹版の2つが作られた。この「新しき土」とは「満州での開拓」を意味していた。ドイツでの封切りタイトルは「武士(さむらい)の娘」
(写真)3/26付け「ケルン新聞」は原節子を、「不思議な魅力をもつ少女、華奢で繊細で生気に満ち、気品にあふれる・・・」と報じた。-写真・川喜多記念映画文化財団(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1937年
昭和12年
2月15日
日本製鉄八幡製鉄所、日本最初の1000トン高炉に火入れ

●この頃日本は「鉄鋼飢饉」と呼ばれるほど、鉄鋼の需要急増、鉄鋼価格の高騰が起こっていた。日本では屑鉄法(製鋼法の一種)を採用している企業が多く、屑鉄は製鋼原料として重要であった。その屑鉄は昭和5年ごろから約30%~40%を海外の輸入に頼っていたが、昭和9年からその仕入れの70%が、世界最大の鉄鋼生産国であるアメリカからのものとなっていた。
●ところが昭和10年前後からアメリカでは景気が回復し、自動車需要の増大、軍備拡張などで、鉄鋼業界は活況を呈するようになった。そしてこれにより屑鉄の輸出枠が狭まり、日本とヨーロッパ間で屑鉄の獲得競争となり、価格は上昇した。一方銑鉄(鉄鉱石を還元して取り出した鉄)の市価をみると、昭和11年中はトン当たり57円だったものが、昭和12年1月には114%上昇し65円、7月にはさらに137%上がって89円となった。
●さらに日本では広田内閣の馬場鍈一蔵相のもと、予算の半分を占める軍需予算とインフレ政策により、鉄鋼の価格は11年9月にトン当たり90円の鉄材が200円を突破するに至った。これに対して政府は昭和12年4月、鉄鋼の輸入関税の暫定的撤廃を実施し、ついで8/13、鉄鋼一貫生産を促進し、鉄鋼業の保護育成を目的として製鉄事業法を公布した。
●これにより製鋼各社は、日本製鉄(昭和9年誕生)や日本鋼管(昭和11年6月、350トンの高炉火入れ)に続いて相次いで高炉を築き、銑綱一貫企業に脱皮していったのである。
(写真・部分)横浜造船所。戦局の拡大と軍事予算の増大により、軍艦の需要はますます高まり、それが鉄鋼の高騰と不足にさらに拍車をかけることになった。写真-共同通信社(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

1937年
昭和12年
2月17日
尾崎行雄、衆議院本会議で軍人の政治関与を批判する

●無所属で「憲政の神様」といわれた尾崎行雄が質問に立ち、1時間40分にわたって国防費激増の原因を問い、軍人の政治関与を批判し、軍部の謹慎を訴えた。(この時傍聴席はすし詰めとなったという)

1937年
昭和12年
2月19日
●兵役法施行令改正。身長基準を5センチ緩和し、それまでの1.55m以上から1.5m以上に切り下げられた。これにより徴兵検査での合格者が一挙に増加することになり、軍の動員兵力増大が可能となった。
1937年
昭和12年
3月7日
●朝鮮総督府、各道会、道官庁において朝鮮語を廃止し日本語の使用を厳命
1937年
昭和12年
3月9日
●政府、日本医師会などが反対運動展開中の国民健康保険法案を衆議院に上程する。
1937年
昭和12年
3月16日
●静岡県持越(もちこし)金山大沢坑で、有毒ガスにより58人が中毒死する。この事故は3/15正午過ぎに火災が発生したが、自然消火を待ち午後8時頃、労働者が入坑して消火活動を行っていた。すると3/16午前3時ごろ、気流が逆流して坑内に炭酸ガスが充満、58人が死亡したのである。
1937年
昭和12年
3月27日
●文部省、中等学校・高等学校および実業学校の教授要目を改正公布。国体明徴の徹底を図る。
1937年
昭和12年
3月30日
●大阪帝大理学部、日本初のサイクロトロン装置を完成。大阪帝大では物理学者の長岡半太郎が学長をつとめ、すぐれた科学者たちが集まっていたのである。4/6東京の理化学研究所でも完成。仁科芳雄による物理学最先端装置サイクロトロンの完成である。最初に完成したのは大阪帝大理学部であったが、その研究者も理研から招かれた菊池正士の研究によるものだった。そして1週間遅れで理研の仁科研究室で、サイクロトロンが完成し、日本初の実験が行われた。このサイクロトロンは荷電粒子加速器のひとつであり、原子核の構造・性質を研究する装置であった。そしてウラン濃縮と核分裂反応の研究も進めていたが、本格的な実験に入る前に敗戦となり、占領軍によって理研の2基のほか日本の保有する全てのサイクロトロンが破壊された。
(写真)昭和12年4月、完成したサイクロトロンの前で記念撮影する理化学研究所の研究員たち。-写真・大河内元冬(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1937年
昭和12年
3月31日
母子保護法公布

●生活扶助対象を「13歳以下の子どもを持つ貧困の母または祖母」の母子家庭と規定する。

1937年
昭和12年
4月5日
保健所法公布(7/1施行)

●これは、各地域の保健衛生行政機関としての保健所設置を定めた法律。保健所は、国民病といわれた結核の撲滅や国民の体位向上・体力増強を目的にX線、ツベルクリン検査、妊婦検診などを主に行った。翌年、健民健兵の旗印の下に厚生省が設けられるが、保健所も強壮な兵士づくりをめざす政策に利用された。

1937年
昭和12年
4月13日
(朝鮮の「白白教事件」記事解禁)
●この白白教は朝鮮の新興教団で1923年に創始された。後に全海竜が教主となってから、他の幹部らと共に大衆を幻惑し財物を騙取し、若い女性信徒を妾にし次々と惨殺、その数は百数十人に上った。全は2/26逮捕されたが翌日逃走、3月下旬に自殺した。「世界犯罪史上にも空前」と朝日新聞は報じた。
●6/14京城東大門署は、白白教事件で幹部87人の取り調べを終了した。判明した死者381人、行方不明者200余人。
1937年
昭和12年
4月15日
●ヘレン・ケラー初来日、日本各地で講演。4/17東京日比谷公会堂で、東京市、東京連合婦人会、東京朝日新聞社の共催でヘレン・ケラーの市民歓迎会が開かれ、彼女は3000人の聴衆を前に講演した。4/18には歓迎晩餐会が東京会館で開催された。歓迎委員会会長徳川家達、林首相ら約500人が参加した。
1937年
昭和12年
4月26日
ドイツ軍、ゲルニカ爆撃(都市無差別爆撃)


●スペイン反政府軍を支援するドイツは、フランコ将軍の要請を受けて、バスク地方の小都市ゲルニカを無差別爆撃し、市民2千数百人を殺傷した。ピカソはこの出来事に激怒し、パリでこのゲルニカを描いたのである。
(上図・部分)ピカソ「ゲルニカ」(出典)「世界の歴史9」(第2次世界大戦と戦後の世界)L.M.ロバーツ著 創元社2003年刊

1937年
昭和12年
4月28日
第1回文化勲章授与式が行われる

●科学、芸術など文化の発展に大きな貢献があったとして、第1回の栄に9人が選ばれた。下段に一覧と作品の一部を紹介する。
●昭和12年2/11紀元節(神武天皇即位の日)に初の文化勲章の実施が発表された。その理由は、日本は基本的には医学、科学、芸術などの分野で諸外国に立ち遅れ、海外の模倣の域を出ていなかったため、独創的な文化を育成しようというものだった。つまり国家としての、ひとつの文化奨励策である。

●第1回文化勲章一覧(9人)
名前 略歴(日本国語大辞典精選版)・作品など
長岡半太郎
ながおか‐はんたろう
物理学者。長崎県出身。磁気歪(ひずみ)の研究、原子模型の理論の研究で有名。東大教授、理研物理学部長、阪大初代総長、学士院院長などを歴任。昭和12年(1937)文化勲章受章。慶応元~昭和25年(1865-1950)
(イメージ図)長岡半太郎の土星型の原子模型(出典)「Newton」 2006年7月ニュートンプレス刊
本多光太郎
ほんだ‐こうたろう
物理学者。愛知県出身。ドイツ留学後、金属冶金学を研究、永久磁石鋼であるKS鋼、および新KS鋼を発明した。昭和12年文化勲章受章。著書「物理学本論」など。明治3~昭和29年(1870‐1954)
木村栄
きむら‐ひさし
天文学者。理博。金沢出身。帝国大学理科大学卒。水沢緯度観測所長、国際緯度観測事業中央局長、国際天文学連合緯度変化委員長を歴任。緯度変化の公式にZ項の必要なことを発見。恩賜賞を受賞。帝国学士院会員。文化勲章受章。明治3~昭和18年(1870‐1943)
幸田露伴
こうだ‐ろはん
小説家。文学博士。本名成行(しげゆき)。別号蝸牛庵。江戸に生まれる。はじめ雅俗折衷体による男性的・理想主義的作風で、尾崎紅葉と並び称された。のち、博学を駆使して史伝、考証、評釈にもすぐれた業績を残した。また、中国史、中国文学にも関心が深かった。学士院会員、芸術院会員。第一回文化勲章受章。小説「風流仏」「五重塔」「風流微塵蔵」「運命」、評論「一国の首都」、その他「評釈芭蕉七部集」など。慶応3~昭和22年(1867‐1947)
佐佐木信綱
ささき‐のぶつな
国文学者。歌人。東京帝大卒。三重県出身。佐々木弘綱の長男。もとは「佐々木」だったが、のち「佐佐木」と改めた。号は竹柏園。和歌の歴史的研究、万葉の基礎的研究に尽力。明治和歌革新運動を起こし竹柏会を設立。機関誌「心の花」を刊行した。門下に川田順、九条武子がいる。学士院・芸術院会員。文化勲章受章。著作「歌学論叢」「校本万葉集」、歌集「思草」「豊旗雲」。明治5~昭和38年(1872‐1963)
岡田三郎助
おかだ‐さぶろうすけ
洋画家。佐賀県生まれ。黒田清輝らの影響を受け、白馬会の創立に参加。東京美術学校教授。帝国芸術院会員。文化勲章受章。代表作「あやめの衣」など。明治2~昭和14年(1869‐1939)
「水浴の前」岡田三郎助 大正5年(1916年)油彩カンパス 石橋美術館蔵(出典)「原色明治百年美術館」朝日新聞社1967年刊
藤島武二
ふじしま‐たけじ
洋画家。鹿児島出身。日本画から転じ、松岡寿・山本芳翠らの指導を受ける。ヨーロッパ留学後、洋画界の中心的存在となり活躍。東京美術学校教授。帝室技芸員。昭和12年第一回文化勲章受章。代表作「蝶」「旭日照六合」。慶応3~昭和18年(1867‐1943)
「黒扇」藤島武二 明治42年(1909年)油彩カンパス ブリヂストン美術館蔵(出典)「原色明治百年美術館」朝日新聞社1967年刊
竹内栖鳳
たけうち‐せいほう
日本画家。京都出身。本名、恒吉。初め棲鳳と号した。学んでいた四条流に西洋画法を取り入れ、軽妙で洗練された独自の画風で、京都日本画壇を代表した。帝室技芸員。第一回文化勲章受章。代表作「雨霽」「あれ夕立に」「鯖(さば)」。元治元~昭和17年(1864‐1942)
「斑猫(はんみょう)」竹内栖鳳 大正13年(1924年)絹 着色 掛物 京都 林氏(出典)「家庭美術館」平凡社 1963年刊
横山大観
よこやま‐たいかん
日本画家。水戸出身。本名秀麿。東京美術学校第一期生。橋本雅邦・岡倉天心に師事。日本美術院結成に参加し、院展を中心に活躍。天心没後の再興日本美術院を主宰。近代日本画の一典型をつくり、墨画にも一風を開いた。代表作「無我」「生々流転」「瀟湘八景」など。明治元~昭和33年(1868‐1958)
「夜桜」横山大観 昭和4年(1929年)紙 着色 屏風 東京大倉財団(出典)「家庭美術館」平凡社 1963年刊

1937年(昭和12年)4月30日~
1937年
昭和12年
4月30日
●第20回総選挙、民政党179、政友会175で、民政党第1党になる。
1937年
昭和12年
5月1日
●満州国政府、日満経済の一体化確立をめざし、重要産業統制法を公布(5/10施行)。
1937年
昭和12年
5月6日
ドイツの世界最大豪華飛行船ヒンデンブルグ号、着陸時、引火爆発、炎上

●ドイツ-アメリカ間の本年度最初の定期輸送(22回目)に就いていた豪華飛行船ヒンデンブルグ号は、アメリカ・レークハースト(ニュージャージー州)の海軍飛行場に着陸するとき水素ガスに引火し、爆発炎上した(36人死亡)。この事故により公共輸送機関としての飛行船は命脈を絶たれた。(朝日新聞社「目撃者」では、乗員、乗客の1/3が死亡と書かれている)
(新聞)5/8東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊


(写真2枚)1937年マレー・ベッカー(AP/WWP)アメリカ・ニュージャージー(出典)「目撃者」朝日新聞社1999年刊

1937年
昭和12年
5月12日
●英国のジョージ6世戴冠式、ロンドンのウエストミンスター寺院で挙行。天皇の名代秩父宮(昭和天皇の弟宮)が出席。(前英国王ウインザー公と前シンプソン夫人の結婚式は6/3に行われた。)
1937年
昭和12年
5月14日
企画庁官制公布施行

●内閣調査局が廃止され、国策統合調整機関として企画庁が開設される。

1937年
昭和12年
5月29日
陸軍省、重要産業5ヶ年計画要綱を決定

●特に、①兵器工業及②飛行機工業は軍部主導で行うとしているのである。

第一 方針
概ネ昭和十六年ヲ期シ計画的ニ重要産業ノ振興ヲ策シ以テ有事ノ日日満及北支ニ於テ重要資源ヲ自給シ得ルニ至ラシムルト共ニ平時国力ノ飛躍的発展ヲ計リ東亜指導ノ実力ヲ確立ス

下

1937年
昭和12年
5月21日
●「神風号」、飛行新記録を実現して羽田空港に到着。4/9に東京-ロンドン間の連絡飛行に成功し、日本最初の航空国際記録を作り、日本の航空技術の水準を世界に示した。(三菱重工業名古屋航空機製作所製)
1937年
昭和12年
5月31日
文部省発行の「国体の本義」、全国の学校・社会教化団体などへ配布開始

●国体明徴運動が激化するなか、文部省編纂による(国体に関する公式見解である)「国体の本義」30万部が発行され、全国の小、中、高・専、大学、図書館、官庁へ配布された。
●この「国体明徴(めいちょう)」運動とは、「天皇中心の国体観念(国の在り方)をはっきりと証拠立てる」の意で、憲法学者美濃部達吉の唱える天皇機関説を排撃するために、軍部、在郷軍人会、右翼団体などが中心となって起こした運動である。
●岡田内閣は、昭和10年(1935年)8/3と10/15「国体明徴声明」を発し「天皇機関説」を否定した。しかしそれでは収まらず、政府は文部省内に「教学刷新評議会」を設けた。そして評議会は、昭和11年10/29「教育刷新に関する答申」を決議した。その第2章が次のようなもので(一部引用)、以後敗戦までの日本の教育方針となった。

「我が国に於ては祭祀と政治と教学とは、その根本に於て一体不可分にして3者相離れざるを以て本旨とす。・・」

●そしてこの答申に基づいて「国体の本義」が刊行されたのである。その後文部省は昭和16年、同書を基礎に「臣民の道」を編集刊行し、生活のすべてを天皇に帰一し、国家に奉仕する「臣道実践」の道を示すのである。
●下段では、「国体の本義」を解説した「講習」である「国体の本義」教学局教学官 小川義章著と、「國體の本義」 文部省編 昭和12年(1937年)刊 の一部を引用した。

●「国体の本義」教学局教学官 小川義章著 夏期講習録. 昭和13年度(1938年)滋賀県 編 昭14至15 刊 引用

ここでは、昭和14年~15年(太平洋戦争勃発の前年《1939-1940年》)に発刊された滋賀県「夏期講習録」から「国体の本義」の講話を引用する。
ここには、明治から大正にかけての日本の思想史の流れも解説されている。概観すれば、「大正デモクラシー」と呼ばれる現代の民主主義にもつながる時代が、日本にもあったことがわかる。それがあまりにも急激であったために、その反動で国家主義、国粋主義、軍国主義の台頭となったのだろうか。すさまじきものだ。古代社会から蘇ったような「祭政教一致」と、古色蒼然な「神勅」を権威づけして、日本を追い込んだのは、一体誰の発案なのだろうか。(ふりがな=○○○は、星野による、広辞苑、漢字源等による語意引用。)

下

●「國體の本義」 文部省編 昭和12年(1937年)刊 より 一部引用
ここでは、文部省「國體の本義」から、最初の「緒言」だけを引用する。日本国家の、西洋思想等に対する考えが、的確に述べられている。これこそが、明治から昭和へかけての、日本思想にほかならない。(ふりがな=○○○は、星野による、広辞苑、漢字源等による語意引用)

下

*リンクします(講話)「国体の本義」小川義章(現在非公開)→国立国会図書館デジタルコレクション

*リンクします「文部省國體の本義」→国立国会図書館デジタルコレクション

*(参考)リンクします「解説國体の本義」→国立国会図書館デジタルコレクション
1937年
昭和12年
5月31日
●林銑十郎内閣総辞職する。総選挙で負け、民政党・政友会の両党(絶対多数を占めた)による退陣要求で、林銑十郎内閣は組閣以来4ヶ月足らずで総辞職した。
(新聞)6/1東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1937年
昭和12年
6月4日
第1次近衛文麿内閣成立

(近衛文麿・このえ-ふみまろ)政治家。公爵。篤麿の長男。名は「あやまろ」とも。東京出身。京都帝大法科卒。昭和8年(1933)貴族院議長。同12年組閣。同15年第二次内閣を組閣。大政翼賛会を設立し、日独伊三国同盟を締結。他方、日米衝突回避に努力したが失敗。第三次内閣総辞職後、日米開戦に至る。戦後、内大臣府御用掛として憲法改正調査に着手したが、戦犯指定を受けて服毒自殺。明治24~昭和20年(1891-1945)(出典)「日本国語大辞典精選版」
●「青年貴族宰相(47歳)」として国民の期待を受けた近衛文麿に大命が下り、第1次近衛文麿内閣が成立した。近衛は45歳で貴族院議長、公爵で藤原氏直系五摂家筆頭にあたる近衛家当主、そしてインテリ(京大卒・河上肇にも学んだ)で国民の人気も高く、ファシズムに対抗できる進歩性にも期待され、天皇からも軍部からも政党からも支持を受けていたのである。しかし近衛首相は、軍部の要求する軍備拡張に対する問題や、軍部が華北へと侵攻していく中での日中関係調整の課題などを解決できず、逆に軍部に迎合し日本を戦争に煽っていったのである。
●特にその政治姿勢が非難されることは、近衛内閣が成立してほぼ1カ月後に盧溝橋事件(7/7)が勃発すると、近衛内閣はすぐに事件不拡大方針を決定したが、7/11近衛内閣は現地で正式に停戦協定が成立したにもかかわらず、不拡大方針をくつがえし華北派兵の政府声明を発表してしまうのである。
●近衛首相は6/4の初閣議で次のように発言した。『持てる国と持たざる国』(「昭和2万日の全記録」講談社より)

「国際間にありてはいわゆる『持てる国』と『持たざる国』との対立なり。今日の世界不安はこれに基づく」と発言。領土や資源の豊富な英米仏と、乏しい日独のような国があるのは公平ではなく、日本が中国大陸に進出するのは当然である、という理屈で侵略戦争を正当化しようとした。

とある。
(新聞)6/4東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1937年
昭和12年
6月9日
●大阪国技館が開館(東洋一の屋内催し場である)。この年の5月に竣工したばかりの大阪国技館で6/9、13日間の大阪場所が始まった。鉄筋コンクリート4階建て、2万5000人収容の場内は連日満員だった。
(写真)「アサヒグラフ」6月30日号(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1937年
昭和12年
6月11日
ソ連、スターリンによる粛正

●6/11、トハチェフスキー元帥らソ連赤軍の最高幹部8名が、非公開の軍事裁判にかけられた。6/12全員が銃殺刑を宣告され、ただちに執行された。1936年から1938年にかけて、98人の新旧中央委員を含む多数の高官が「人民の敵」という名目で粛正された。
(新聞)6/13東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1937年
昭和12年
6月日12
(川端康成「雪国」刊行)
●この日創元社から川端康成の小説「雪国」が刊行された。これは「文藝春秋」昭和10年1月号から「改造」昭和12年5月号まで、さまざまな雑誌に発表された連作をまとめたものである。7月に第3回文芸懇話会賞を受賞した。
1937年
昭和12年
6月19日
カンチャーズ島(乾岔子島)事件発生

●満ソ国境の黒竜江に浮かぶカンチャーズ島にソ連兵が上陸した。20日、満州国軍国境監視隊とソ連軍の小部隊が交戦、ソ連軍が同島とキンアムカ島を占拠した。日本側は、駐ソ大使重光葵を通して再三抗議を申し入れ、29日ソ連は撤退に同意した。
●そしてソ連軍は7/4撤退を完了した。

1937年
昭和12年
7月7日
盧溝橋事件勃発(日中戦争の始まり)

●昭和12年(1937年)7/7、北平(ペイピン=北京)西南約6kmの永定河にかかる盧溝橋で日中両軍が軍事衝突を起こした(盧溝橋事件)。(新聞)昭和12年7/9東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●この盧溝橋事件が起きた時、日本政府(近衛文麿首相ら)、参謀本部、陸軍大臣らの間では方針の対立があった。陸軍大臣杉山元(はじめ)は強硬派であり7/9の閣議では華北へ3個師団派遣を提案した。しかし政府はこの提案を退け、事件不拡大・現地解決の方針を決定する。そして参謀本部の第1部長(作戦)の石原莞爾少将も、満州国に対するソ連の攻撃を想定しており中国に侵攻することには反対だった。しかし杉山陸相による

「日本に盾をつく生意気な支那に対して、断固として一撃を加えるべきだ」

とする強硬派は勢力を増していった。2日後の7/11近衛文麿首相は閣議で、現地でまとまっていた停戦交渉を反故にし、3個師団派兵を決定し、派兵を内外に声明してしまうのである。
●一方蒋介石はこれまで共産党掃討を最優先していたが、前年の1936年12/12張学良が内戦停止と抗日民族統一戦線を訴え蒋介石を監禁する事件(西安事件)が起こると、蒋介石と周恩来(共産党)は歴史的会見を行い、内戦停止、一致抗日、救国会議招集に合意したのである。そして盧溝橋事件が起こると、共産党は全民族的抗戦を唱え、蒋介石は7/17廬山での各界指導者会議で、激しく中国の領土主権の保持と内政干渉を許さないという下記の「最期の関頭」を声明した。そして9/23蒋介石はついに共産党との合作を承認したのである。

「弱小国家とはいへ不幸にもその犠牲の最期の関頭に至った場合、我等に残された道は唯々抗戦の一路あるのみ」

と徹底的抗戦により全民族の生命を賭して国家の存続を求むべきことを表明したのである。

盧溝橋事件の背景とポイント

●日本は、昭和7年(1932年)に満州国を建国させ、昭和8年3月に熱河省を占領し、5月には長城線を越え北平(北京)・天津付近まで侵攻し、「塘沽停戦協定」を結ばせ長城内部の河北省に非武装地帯を設けさせた。
●昭和10年においても日本の目的は「華北分離政策」であり、綏遠省、チャハル省(察哈爾省)、河北省、山西省、山東省の5省を国民政府から分離させ傀儡政権を誕生させることだった。そして6月に梅津・何応欽協定、および土肥原・秦徳純協定を結び、河北省とチャハル省から中国国民党の機関と国民政府中央軍を排除することに成功した。

下

7月~8月の軍事行動の流れ(簡略)

●7/7中国北平郊外の盧溝橋で日中両軍衝突(盧溝橋事件勃発)。
●7/9近衛内閣臨時閣議で事件の不拡大方針を決定する。
●7/11支那駐屯軍と冀察政務委員会(宋哲元)との間に盧溝橋事件の現地停戦協定成立。
●7/11近衛内閣、華北の治安維持のため派兵を行うことを内外に声明。
●7/13陸軍省「北支事変処理方針」を決定、局面の不拡大・現地解決、現地協定の承認を決定、現地軍に通知する。
●7/17蒋介石、廬山にて「最後の関頭」で徹底抗戦を声明。

下

1937年
昭和12年
7月28日
支那派遣軍、第29軍に対して総攻撃開始

●この第29軍とは「冀察政務委員会」の宋哲元の指揮する4個師約10万の兵力である。日本軍は7/30までに平津地区(北平《北京》・天津)を制圧する。
(新聞)7/29東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1937年
昭和12年
8月13日
第2次上海事変勃発

●盧溝橋事件後、日中両軍は華北・華中にて一触即発の状態となり、7/25北平東方の朗坊駅付近、7/26北平広安門付近で両軍は衝突した。そして7/29関東軍の航空隊が冀東自治政府長官殷汝耕隷下の保安隊を誤爆したことから、通州事件(日本人約200人殺害)が起こった。そして戦闘は拡大し8/9上海で海軍陸戦隊員射殺事件(大山事件)が起こると、8/13両軍は交戦し第2次上海事変勃発となった。
(新聞)昭和12年8/14と8/15東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊


●そして8/15日本政府は中国との全面戦争を声明、実質の宣戦布告にも等しい宣言を行ったのである。
その意味するところは「暴虐な支那(中国)を懲らしめよ」であり、陸軍大臣の「日本に盾をつく生意気な支那に対して、断固として一撃を加えるべきだ」の意味でもある。のちに「鬼畜米英、暴支膺懲」となっていく。


「中国の暴戻(ぼうれい)を膺懲(ようちょう)し、国民政府の反省を促すため断固たる措置をとる」

●だが中国側も日本の増兵に刺激されて最新鋭の6個師団を上海周辺に配備して日本軍をむかえた。そしてさらに中国側は華北での戦いに見切りをつけ、上海を死守するとして中央軍の精鋭を投入、蒋介石みずから指揮をとった。圧倒的に優勢な中国軍に包囲された陸戦隊は、海軍の航空部隊と艦船による支援で辛うじてもちこたえていた。8/23陸軍の第3師団先遣隊と第11師団が揚子江から上陸したが、海岸に釘付けとなり上海市内に入ることができなかった。こうして戦線は膠着していった。

「当時の上海と大山事件(昭和12年8/9)、第2次上海事変(8/13)」
●下は海軍省支那事変「海軍作戦記録」の数カ所を切り取った映像である。本編は日映(社団法人日本映画社)が1939年(昭和14年)製作したもので、国内では映画館で上映された。撮影は海軍省特設写真班とある。8/9の大山勇夫中尉殺害事件など当時の上海と海軍陸戦隊による上海市街戦の様子が映っている。陸戦隊とはアメリカ軍の海兵隊のような部隊のことである。この映像は日本側から撮影したものであるから、国内向け戦意高揚の意味もあったと考えられる。「中国が先に発砲、やむなく自衛のため応戦」とあるのも割り引いて聞かねばならないだろう。
(新聞)8/10東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

(この動画はYouTubeにアップ(up)したものなので、音量は動画のボタンで調節できる。)星野。

「日本、南京渡洋爆撃(東シナ海渡洋)を行う。1937年(昭和12年)8/15」
●下の動画は前段と同じ海軍省支那事変「海軍作戦記録」の一部分である。中国軍は上海に精鋭を投入し、陸軍は第3師団先遣隊と第11師団を派遣し8/23上海近郊に上陸させたが、大苦戦となり戦線は膠着した。日本は8/14(広徳、杭州)、8/15(南京、南昌)と海軍の新鋭機「九六式陸上攻撃機」で渡洋爆撃を行った。軍事目標を掲げていても、その実は残虐な都市無差別爆撃となるので、各国は日本のこの軍事行動を非難した。(新聞)8/16東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

(この動画はYouTubeにアップ(up)したものなので、音量は動画のボタンで調節できる。)星野。

1937年
昭和12年
8月20日
閣議、軍需工業動員法の発動を決定

●これは従来からある軍需工業動員法(昭和7年4月17日法律第38号)を「戦時」の限定をはずし、平時戦時にわたる大量の軍需品生産を可能とする工業動員体制を作るために、平時から民間工業が軍需工業へ転換可能な準備をし、そのための機械、労働力、原料の確保を行い、軍需工業の総動員を実現するためのものである。そして1937(昭和12)年9月10日「軍需工業動員法ノ適用ニ関スル法律」が公布、施行され、その全面発動が決定された。これは「輸出入等臨時措置法」・「臨時資金調整法」とならんで戦時統制3法と称された。そして1938(昭和13)年4月1日の国家総動員法(同年5月5日施行)に吸収されていくのである。

1937年
昭和12年
8月22日
●中国共産党指導下の紅軍約3万人、国民革命軍第8路軍に改編される(総司令朱徳)。これは国共合作に際して、華北を中心に展開していた中国共産党の紅軍が国民革命軍に編入されたものである。
●9/25この8路軍が、平型関で日本軍の第5師団・第21旅団の後続部隊約1000人を全滅させる。日中戦争で初めて日本軍に勝った戦いと宣伝された。
1937年
昭和12年
8月24日
閣議、「国民精神総動員」実施要綱を決定する。

●その趣旨と指導方針の一部は以下のようである。そして9/22には「国民精神総動員強調週間実施要綱」が閣議決定された。その内容は、国民自らが日中戦争の重大さを知り、積極的な戦争参加と国家への忠誠を誓うように、「社会風潮ノ一新、時局ニ対応スル生活ノ刷新」を宣伝の中心題目と定めたものだった。
●具体例として、特にラジオ放送では、「国民朝礼の時間」「時局生活」「出動将兵への感謝」「非常時経済」「銃後の護」「神社崇拝」「勤労報国」「心身鍛練」などの特別番組が編成された。また11/3の「明治節=明治天皇の誕生日」には、全国民が一斉に明治神宮を遙拝することになった。また軍の動員によって働き手を失った農村に対する勤労奉仕で、この年には全国9割の町村で、約493万人が田植え、稲刈りなどの農作業に動員された。

一、趣旨
挙国一致堅忍不抜ノ精神ヲ以テ現下ノ時局ニ対処スルト共ニ今後持続スベキ時艱ヲ克服シテ愈々皇運ヲ扶翼シ奉ル為此ノ際時局ニ関スル宣伝方策及国民教化運動方策ノ実施トシテ官民一体トナリテ一大国民運動ヲ起サントス
二、名称
「国民精神総動員」
三、指導方針
(一)「挙国一致」「尽忠報国」ノ精神ヲ鞏ウシ事態ガ如何ニ展開シ如何ニ長期ニ亘ルモ「堅忍持久」総ユル困難ヲ打開シテ所期ノ目的ヲ貫徹スベキ国民ノ決意ヲ固メシメルコト・・(以下略)
*リンクします「国民精神総動員実施要綱」 国立国会図書館リサーチ・ナビ→ 国立国会図書館リサーチ・ナビ
1937年
昭和12年
9月2日
●閣議で、「北支事変」が拡大したため、「支那事変」と改称することに決定する。「日華事変」であり「日中戦争」である。
1937年
昭和12年
9月4日
●9/3に招集された第72臨時帝国議会での勅語は以下のようであり、事実上の宣戦の詔勅に代わるものだった。

朕(ちん)茲に帝國議會開院の式を行ひ貴族院及衆議院の各員に告く
 帝國と中華民國との提携協力に依り東亞の安定を確保し以て共榮の實(実)を擧くるは 是れ朕か夙夜(しゅくや=朝早くから夜遅くまで)軫念(しんねん=天子が心を痛めること)措かさる所なり 中華民國深く帝國の眞意を解せす濫(みだり)に事を構へ遂に今次の事變を見るに至る 朕之を憾(うらみ)とす 今や朕か軍人は百艱(ひゃくかん)を排して其の忠勇を致しつつあり 是れ一(いつ)に中華民國の反省を促し速(すみやかに)に東亞の平和を確立せむとするに外(ほか)ならす 朕は帝國臣民か今日の時局に鑑み忠誠公に奉し和協心を一にし贊襄(さんじょう)以て所期の目的を達成せむことを望む
 朕は國務大臣に命して特に時局に關し緊急なる追加豫算案及法律案を帝國議會に提出せしむ卿等克く朕か意を體し和衷協贊の任を竭(つく)さむことを努めよ

●こうして衆議院本会議は9/7、20億2200万円の臨時軍事費その他の「支那事変関係追加予算」を決定し、法律として「臨時軍事費特別会計法」、「支那事変に関する臨時軍事費支弁の為公債発行に関する法律」を通したのである。こうして前回第71議会(7/25~8/7)での約5億1600万円と合わせて、約25億3800万円もの臨時軍事費を成立させ、「陸海軍に対する感謝の件」の決議案を満場一致で採択したのであった。
(新聞)9/5東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

千人針・慰問袋・出征

(写真などの出典は「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊から)
●「千人針」
「千人針は日露戦争の頃から始まったといわれる。1000個の丸い判を捺したさらしの綿布に赤糸で1000人の女性に一針ずつ縫ってもらい「弾丸よけ」として出征兵士に贈った。「死線(四銭)をこえ、苦戦(九銭)をくぐって、生きながらえる」という思いを込めて、五銭や十銭を縫いつけたものもあった。出征兵士を送る銃後の女性たちは「名誉の戦死」よりも「武運長久」の祈りを千人針にこめたのである。
召集令状が(赤紙)がきてから入営までの数日間(長くても1週間)に1枚の千人針を完成するのは、女性たちにとってたいへんな苦労だった。(後略)」

(写真・部分)「小学校の同級生から出征兵士に贈られた千人針」出典(所蔵・靖国神社遊就館)(資料提供・柏木勝)(詳細・略)


●「慰問袋」
千人針とともに、戦場の兵士たちの大きな慰めとなったのが、慰問袋だった。下の左写真は慰安袋の中身で、手紙の入った慰問袋は兵士たちの奪い合いになった。右の写真は、慰問袋を送る伊万里市の婦人団体。

(出典)(写真左)「ホームライフ」昭和12年10月号。(写真右)佐賀新聞社


●「出征」
下左写真は、「銀座の泰明小学校で行われた出征兵士の壮行会1937年11月」。下右写真は、「応召兵となった東京神田小川町の出版社社員。集まった会社の同僚、愛国婦人会会員、町内会の人々の激励を受ける。召集は「名誉」なこととされ、家族も嘆くことは許されなかった。戦局の拡大につれて、服装も男たちは国防服ににゲートル、女たちは白い割烹着にもんぺと変わっていったが、このころはまだ普通の洋服や着物姿が目立つ。」

(出典)(写真左)朝日新聞社「目撃者」写真-土門拳(東京銀座)。(写真右)「昭和2万日の全記録」講談社


●「銃後の護り」
下写真は「出征軍人家族慰安会」。12/5、北海道江部乙町(現滝川市)で出征軍人の家族のための慰安会が開かれた。写真は同町の写真館主人が撮影したもの。左端には、かっぽう着にたすきをかけた大日本国防婦人会の姿が見える。-撮影・岩佐職司(出典)「昭和2万日の全記録」講談社


●左から①「女子青年団の武装演習」・・10/17に撮影された青森県斗川村(現三戸町)女子青年団の武装演習。未婚女性の社会教育機関だった女子青年団も戦時色が強まると、男子の青年団同様、軍事訓練や銃後の奉仕が実施された。-写真・東奥日報社。
②「学校工場」・・このころは、軍需産業への本格的な動員はまだだったが、学業の合い間に奉仕が実施され、女学生たちは学校で慰問袋をはじめ、白衣、赤十字の記章などの製作に取り組んだ。写真は、教室で白衣を縫う女学生。10月撮影。-撮影・影山光洋。
③「もんぺ式婦人国防服」・・「ホームライフ」11月号掲載の女学生向け国防服。セーラー服の上から着られるもんぺ式で、戦時にふさわしい国民服として、現大妻女子大学の創設者大妻コタカが考案した。
④「ダンサーたち愛国婦人会へ強制的に入会」・・愛国婦人会赤坂葵分区に組織されたダンスホール・フロリダのダンサーたち。東京赤坂で11月撮影。12年に入り、国防婦人会と愛国婦人会の対立が表面化し、都会の職業婦人たちも、次々と強制的に、これらの婦人会に取り込まれていった。-撮影・影山光洋。


●「静岡連隊の満州出発(昭和10年)と帰還(昭和12年)」
「出発」・・下左写真は昭和10年(1935年)12/13、満州派遣のため歩兵第34連隊(静岡)の営門を出る初年兵たち。同連隊出入りの従軍カメラマン柳田芙美緒が撮影した。この中の多くが日中戦争の上海の激戦で戦死し、2年後の12/18午後2時、遺骨となって同隊に帰還する。-写真・読売新聞社。
「帰還」・・下右写真は、2年前に満州に出征した静岡の歩兵第34連隊が12/18帰還した。柳田芙美緒が出征のときと同じ時間、同じ場所、同じアングルで撮影した写真だが、ほとんどが遺骨となっていた。静岡連隊は上海派遣軍に組み入れられ、この年の8月の奇襲上陸以来、激戦の上海戦線で多くの戦死者を出した。-写真・読売新聞社。

写真(出典)読売新聞社

1937年
昭和12年
9月8日
日赤看護婦、上海到着

●日本赤十字社は、日中戦争が始まると同時に、救護班を組織し、前線に送り出していた。写真は、9/8上海に到着、すぐに野戦病院入りした救護看護婦(通称、従軍看護婦)たち。日赤の看護婦は、資格取得後20年間は応召の義務があった。
●また11/30、日本赤十字本社は、全国の同社33病院中17病院を日中戦争傷病者収容に当て、一般の入院を中止と決定した。
(写真・毎日新聞社)(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

1937年
昭和12年
9月10日
●「軍需工業動員法の適用に関する法律」「臨時資金調整法」など戦時統制に関する法律を公布。
1937年
昭和12年
9月11日
●東京小石川に後楽園球場が開場した。後楽園スタヂアム(社長早川芳太郎)が陸軍砲兵工廠跡地に4月に着工したもの。総工費89万8400円、収容人員約3万人。写真はこの日の記念式の様子。
(写真・毎日新聞社)(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1937年
昭和12年
9月20日
●英米両国政府、日本軍による南京爆撃中止を日本政府に申し入れる。海軍第2連合航空隊は9/19に2回にわたり南京の軍事施設を爆撃した(9/25までに合計11回)。
1937年
昭和12年
9月23日
第2次国共合作成立

●蒋介石は、中国共産党の合法的地位を承認し、団結救国を指摘する談話を発表した。蒋介石は前年の12月の西安事件そしてこの年の7月の盧溝橋事件を経て、ついに国共合作による対日抗戦を決意したのである。

1937年
昭和12年
9月25日
内閣情報部官制公布施行

●従来の内閣情報委員会を内閣情報部に改組し、言論統制と思想宣伝の一元的機関として機能させた。昭和15年には情報局に昇格した。
●9/25内閣情報部は、国民歌「愛国行進曲」の募集規定を発表した。内閣情報部は流行している歌謡曲の軟弱な歌詞が気に入らず、「・躍進日本を象徴し、全国民の精神作興の一助になり、鉄のような結束の下に全国民が永遠に唱和する『国民行進曲』を作りたい」と考えていたのである。「愛国行進曲」の歌詞の募集は、10/20の締め切りで、応募作5万7578編のなかから、鳥取県の23歳印刷業森川幸雄の作品が1位に選ばれた。作曲は「軍隊行進曲」の作曲者である瀬戸口藤吉の曲が1等として発表された。
12/26夜、発表会が東京日比谷公会堂で行われ全国にラジオ中継放送がされ、昭和13年レコードが6社から発売され100万枚を超える大ヒットとなった。「愛国行進曲」は昭和12年12/27~12/31の間、歌唱・東京リーダー・ターフェル・フェラインで「国民歌謡」(日本放送協会)で放送された
●また「露営の歌」は昭和12年7/7日中戦争勃発に際し、『東京日日・大阪毎日新聞』が戦意高揚のため「進軍の歌」の歌詞を公募し、第2位に選ばれ「進軍の歌」のB面に吹き込まれたものである。この曲は「愛国行進曲」とは対照的に哀調のあるメロディーで、レコード発売6ヶ月で60万枚を超えるヒットとなった。
●また「海ゆかば」は昭和12年、日本放送協会の委嘱により、「万葉集」の大伴家持の長歌の一節に、要人が講演する際のテーマ曲として信時潔が曲をつけたものである。10/13、国民唱歌放送が始まり、第1回がこの「海ゆかば」で10/19まで放送された。「国民歌謡」でも昭和12年11/22~11/27に歌唱・松山芳野里で放送された。太平洋戦争中には、玉砕を報ずるときのテーマ曲に用いられた。

*リンクします「愛国行進曲」内閣情報部選定
動画・出典:YouTube(slhs0083氏)
*リンクします軍歌「露営の歌」作詞-薮内喜一郎、作曲-古関裕而
動画・出典:YouTube(gurufabbes1氏)
*リンクします「海ゆかば」大伴家持・作曲-信時潔
動画・出典:YouTube(mjrkwe1945氏)
1937年
昭和12年
9月27日
●日中戦争不拡大方針の参謀本部第1部長石原莞爾、関東軍参謀副長に転補(追放)。後任に下村定少将。
1937年
昭和12年
9月28日
●国際連盟、日本軍の無防備都市爆撃を非難する決議案を全会一致で可決。(外務省は29日反駁声明を行う)
1937年
昭和12年
9月28日
日本婦人団体連盟設立(会長ガントレット恒子)

●この連盟に参加したのは8団体で、基督教女子青年会日本同盟(代表委員辻まつ子)、日本女医会(会長吉岡弥生)、婦人同志会(会長吉岡弥生)、婦選獲得同盟(総務理事市川房枝)、婦人平和協会(会長河井道子)、日本基督教婦人矯風会(会頭ガントレット恒子)、全国友の会(代表委員羽仁もと子)、日本消費組合婦人協会(会長押川美香)であった。
●官庁系の婦人会には明治以来の「愛国婦人会」があり、戦死者の遺族を援護したり、出征する兵士を送るなどの活動をしていた。昭和12年には会員数330万人に近づく全国組織に成長していた(会長は皇族から選ばれていた)。また「愛国婦人会」に対抗して昭和9年に結成された庶民的な「大日本国防婦人会」は、幹部は現役将校の夫人で、「愛国婦人会」の紋付羽織に対して、白いエプロンに会名入りのたすきがけで「銃後の護りは私たちの手で」と教えられていた。会員数は昭和11年末には360万人にもなっていた。
●この新たに設立された「日本婦人団体連盟設立」は上の官庁系の婦人団体とは違っていた。その多くが長い歴史を持ち、女性の権利獲得に自主的に取り組み、国際的なつながりもあった。だがこの設立の宣言には次のようにあった。

「国家総動員の秋(とき)我ら婦人団体も亦協力以て銃後の護りを真に固からしめんと希ひ、茲(ここ)に日本婦人団体連盟を結成して起たんとす」

●女性の解放、地位の向上を地道に進めてきた諸団体が、結局は時流に迎合し、時局に協力するような形で大同団結していったのである。

9月~10月の軍事行動の流れ(簡略)

●日本は8/9の大山海軍中尉射殺事件に端を発した第2次上海事件勃発後、次々と兵力を上海に投入した。一方中国側も政治・経済の中枢をなす揚子江下流域を守るため中央の精鋭軍をあてた。また、上海は抗日反日の拠点であり戦意が強く、日本軍は苦戦を強いられた。
●華北戦線は拡大し、8/24には支那駐屯軍がチャハル省に侵攻した。8/31に新たに編成された北支那方面軍(司令官寺内寿一大将)は、9/14には南下前進を開始し、9/24には第1軍(司令官香月清司)が保定を占領し、さらに軍の進出限界である保定-独流鎮を越えて石家荘への進撃にうつった。

下

1937年
昭和12年
10月5日
米大統領ルーズベルト、日独を侵略者と非難

●米大統領ルーズベルトは、国際平和のため諸国民の協力を要請し、日独を侵略者として非難する(隔離演説)
●10/6国際連盟総会は、日中戦争に関して、日本の行動は9カ国条約とパリ不戦条約に違反するとの決議を採択する。
●10/9外務省は、日中戦争を条約違反とする国際連盟および米国務省に対し、やむを得ない自衛処置と反論声明を出す。

1937年
昭和12年
10月12日
国民精神総動員中央連盟結成式挙行

●有馬良橘海軍大将を会長に、財界など民間各界の代表者を理事や評議員とする国民精神総動員中央連盟が発足、主務官庁である内務・文部両省の指導のもとに、県知事を地方実行委員長として、全国神職会、全国市町村会、在郷軍人会など74団体を組織して運動が推進された。下にリンクした「・・事業概要」のなかの「第1回国民精神総動員強調週間(昭和12年10/13より実施)」をみると具体的な実践項目がわかる。

*リンクします「国民精神総動員中央聯盟事業概要. 昭和12年度」国民精神総動員中央聯盟 編昭和14年刊
国立国会図書館デジタルコレクション
1937年
昭和12年
10月25日
●企画院官制公布施行。これは5月に内閣調査局が廃止され、国策統合調整機関として開設された企画庁が、内閣資源局と統合され、各種動員計画・生産力拡充計画の立案が主業務となった。
1937年
昭和12年
11月2日
広田弘毅外相、対中和平条件を駐日独大使ディルクゼンに伝える。

(5日、トラウトマンが和平工作を開始する)
●陸軍中央は、2,3ヶ月で中国との戦争を終結させるつもりが、中国の頑強な抵抗により戦争は長引き、国内の弾薬庫が空になるほどの事態に困惑した。中国側も華北を取られ、華中でも日本軍の勢力が強まるにつれ国民政府内部でも和平の動きが出始めた。そこで、日本政府は和平斡旋をドイツに依頼し、中華ドイツ大使トラウトマンが日中間に立ったのである。
●12月に入ると蒋介石は日本に屈服するつもりでトラウトマンと会談し、領土保全を条件に、日本の要求を受け入れる形で、日本側にその和平条件の提示を求めた。駐日ドイツ大使ディルクゼンはその旨を、広田弘毅外相に伝えた。
●ところが広田は即答を避けた。近衛首相や杉山元陸相らは、もっと中国に対する条件を加重するように強硬だったからである。
●しかし参謀本部(陸軍)だけは早期解決を望んでいた。不拡大方針の石原莞爾が去っても、参謀本部はソ連に対する防衛上の関係で中国に戦線を拡大することには反対であったからである。

1937年
昭和12年
11月5日
第10軍杭州湾北岸に上陸作戦敢行

●第10軍(司令官柳川平助)、支那方面艦隊護衛のもとに杭州湾北岸に上陸、上海戦線の背後をつく。

1937年
昭和12年
11月6日
日独伊三国議定書、ローマで調印

●これは前年11月の「日独防共協定」にイタリアが参加したもので、後の日独伊3国を中心とした軍事同盟、いわゆる枢軸国形成の先駆けとなる。この「枢軸」というのは、スペイン内乱以来、独伊の協力関係は「ベルリン・ローマ枢軸」と呼ばれていたが、この時から日独伊の3国およびその同盟国の友好関係を「枢軸」と呼ぶようになった。元々は政治機構の中心という意味。

1937年
昭和12年
11月18日
大本営令公布

●戦時大本営条例を廃止し、事変の時も大本営を設置できるようにした。宣戦布告をしていない「日華事変」には適用できなかったからである。そして11/20宮中に大本営を設置した。これにより、東京の三宅坂の参謀本部が「大本営陸軍部」、霞ヶ関の軍令部が「大本営海軍部」と改称された。

1937年
昭和12年
12月1日
●大本営、中支那方面軍戦闘序列と同方面軍・支那方面艦隊に南京攻略を下命する。
1937年
昭和12年
12月1日
●東大経済学部教授矢内原忠雄、反戦的筆禍事件で辞表提出(矢内原事件)。これは、かねてより日本の植民地政策批判を行っていた矢内原教授が、中央公論に発表した「国家の理想」が反戦的であるとして弾圧された事件である。
1937年
昭和12年
12月12日
日本海軍機、米国砲艦パネー号を撃沈(パネー号事件)

●これは、日本海軍機が、米国の砲艦パネー号を揚子江南京付近で誤爆により撃沈した事件。パネー号にはアメリカ大使館の臨時事務所がもうけられており、このことは誤爆回避の要請とともに日本軍には通知されていた。そのため軍部の意図的な攻撃との意見もあったが、日本政府は即座に陳謝、アメリカも了承し、翌年の賠償金支払いで解決した。だがこの事件でアメリカの対日世論が悪化したことは、あとあと影響をあたえた。
●同じ日、日本陸軍が揚子江蕪湖付近を航行中の英国の砲艦レディーバード号を砲撃した(レディーバード号事件)。日本政府はすぐに陳謝した。

1937年
昭和12年
12月13日
日本軍、南京を占領

●日本軍、南京事件を起こす。(詳細は次の章で記述)

1937年
昭和12年
12月15日
第1次人民戦線事件

●この日の早朝、日本無産党、日本労働組合全国評議会(全評)の幹部とこれを支持していた労農派マルクス主義の学者、評論家446人が検挙された。無産党は合法的な政党だったが、治安維持法1条の「国体を変革すること・・私有財産制度を否認すること」を目的とした政治結社として弾圧された。反ファシズム思想は徹底して弾圧されたのである。

1937年
昭和12年
12月27日
日本産業、満州重工業開発に改組

●昭和12年頃までに三井・三菱に次ぐ地位に達した鮎川義介の日産コンツエルンは、企業グループ挙げての満州国進出を決定し、昭和12年12/27、持株会社である日本産業(日産)を満州重工業開発と改め、満州の鉱工業建設を独占的に行う国策会社として発足した。

1937年(昭和12年)の出来事 政治・経済・事件・災害・文化

「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊より抜粋
1. 1 退職積立金および退職手当法実施
1. 4 名古屋城金鯱のうろこ盗難事件起こる
1. 8 輸入為替許可制実施,為替管理を強化

下

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