1937年(昭和12年)①「日中戦争勃発」日本中国侵略を開始する
2023年4月26日アジア・太平洋戦争

この時の大本営設置は、国務と戦略の一致を図ろうとした近衛首相の提案によるものだったが、文官の参加は軍部に拒否された。そこで政府はあらたに設立した大本営政府連絡会議(議長は内閣総理大臣)で、政府と軍との意思の疎通と統一を図ろうとしたが、日本は敗戦まで一元的な戦争指導はできなかった。内閣には陸軍、海軍を抑制・制御する力はなかったし、さらに悪いことに近衛首相は軍部に迎合し、政府をあげて戦争遂行の音頭取りを行ったともいわれるのである。
(写真上)陸軍九七式重爆撃(昭和12年12月制式採用)。洗練されたデザインと当時世界で1・2を争う程の高性能重爆撃機だった。
(写真下)昭和12年11/24第1回大本営の御前会議が宮城で行われた。天皇から見て右側に閑院宮参謀総長ら陸軍幕僚、左側に伏見宮軍令部総長ら海軍幕僚が出席した。写真-毎日新聞社(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
国内政治では、1/21の衆議院で政友会の浜田国松議員が軍部の政治介入を厳しく批判した。そして答弁に立った寺内寿一陸相と腹切り問答となり、それがきっかけで広田弘毅内閣は総辞職(1/23)した。(経済上の問題も山積みしていた)
●そこで西園寺公望は前朝鮮総督の宇垣一成陸軍大将を推挙し、宇垣に組閣の大命が下った(1/25)。だが陸軍は宇垣を好まず、軍部大臣現役武官制を盾に陸相推薦を拒否し組閣を断念させた。次に平沼騏一郎を後継首班第1候補としたが、平沼が固辞したため、陸軍大将林銑十郎に組閣の大命が下り、2/2林銑十郎内閣が成立した。
●ところが林内閣は、第70議会で予算案を通過させた直後の3/31議会を解散してしまった。だが林内閣は総選挙で負けてしまい、5/31組閣4ヶ月足らずで総辞職してしまった。「ナニモセンジュウロウ内閣」と揶揄された。
●そして6/4、「青年貴族宰相」として国民の期待を受けた近衛文麿(このえ-ふみまろ)に大命が下り、第1次近衛文麿内閣が成立した。近衛は45歳で国民の人気も高く、ファシズムに対抗できる進歩性にも期待され、天皇からも軍部からも政党からも支持を受けていた。しかし近衛首相は、軍部の要求する軍備拡張に対する問題や、軍部が華北へと侵攻していく中での日中関係調整の課題などを解決できず、逆に軍部に迎合し日本を戦争に煽っていったのである。
●特にその政治姿勢が非難されることは、近衛内閣が成立してほぼ1カ月後に盧溝橋事件(7/7)が勃発すると、近衛内閣はすぐに事件不拡大方針を決定したが、7/11近衛内閣は現地で正式に停戦協定が成立したにもかかわらず、不拡大方針をくつがえし華北派兵の政府声明を発表してしまうのである
●近衛内閣は7/7の盧溝橋事件(軍事衝突)後、戦争を避ける道があったにもかかわらず戦争へ進んだ。
●第2次上海事変が起きたとき、近衛内閣は次のような声明を出した。
と。これは実質の宣戦布告といわれるが、これが中国と戦争する大義名分なのだろうか。「侵略」と非難されるわけである。
●日本はこの7/7に勃発した盧溝橋事件をきっかけに北京・天津を占領した。そして陸軍に刺激を受けた上海方面の海軍は第2次上海事変(8/13)を起こし、さらに8/15海軍は渡洋爆撃(海の荒鷲)を敢行し南京をはじめ各都市を爆撃し戦争を拡大していった。
そして近衛内閣は9月より、「国民精神総動員」運動を起こし「国民自らが日中戦争の重大さを知り、積極的な戦争参加と国家への忠誠を誓うように、『社会風潮ノ一新、時局ニ対応スル生活ノ刷新』を宣伝の中心題目と定めた。「挙国一致」して「尽忠報国」のこころで「堅忍持久」して困難を打開し、積極的な戦争参加を国民に命じたのである。
●だが日本軍は中国軍の抵抗により上海戦線は苦戦を強いられ膠着状態に陥ってしまった。そこで11/5杭州湾に陸海軍合同による敵前上陸を敢行し、中国軍を敗走させ、そのまま日本軍は進軍を続け南京城を陥落させた(12/13)。そして南京事件を起こすのである。
●経済面では、日本は巨額の軍事費によって財政収支が圧迫され、軍需関連の設備投資やそれを見込んだ物資価格の高騰と輸入増加を生み、急速に国際収支を悪化させていった。その結果昭和12年1月大蔵省は「輸入為替管理令」を発し、輸入の許可制へと踏み切った。しかしこのような統制的輸入制限にもかかわらず、昭和12年度前半の貿易赤字は前年同期の2倍の6億円に達し、満州事変後に備蓄していた金のほとんど全額に相当する3.4億円失うことになった。
●7/7以降日中戦争が始まると、第1次近衛文麿内閣(6/4)は、「輸出入品等臨時措置法」と「臨時資金調整法」を制定した。これは実物経済に対する統制法規と金融経済に対する統制法規であった。そして「軍需工業動員法」も制定し、日本は戦時統制経済へと向かうのである。
●思想・文化の面では、3月朝鮮総督府が各道会、道官庁において朝鮮語を禁止し、日本語の使用を厳命する。同じく3月文部省は、国体明徴の徹底化を図るため、中学校・高等学校および実業学校の教授項目を改正公布した。 5月、文部省発行の「国体の本義」を全国の学校・社会教化団体などへ配布を開始する。この「国体の本義」とは日本国の国体に関する公式の見解である。(年表のところで一部引用)。7月、ひとのみち教団の初代教祖ら7名を不敬罪で起訴する。
●言論統制としては、7月、新聞紙法第27条の陸軍大臣による「記事掲載禁止命令権」の発動により強化され、書籍・雑誌等出版物についても「出版法」に関する追加通牒により、また「軍機保護法」(10月)などの公布により通信・放送も検閲を受けるものとされ、ラジオも報道禁止事項の通達により厳しく統制された。7/11近衛首相は新聞・通信社および放送局の代表を首相官邸に招き、「挙国一致の戦争協力」を要請した。これに対して新聞・通信社は「政府の方針に協力する旨を述べ善処を誓った」のである。
●国民に対する統制としては9月より「国民精神総動員運動」が開始された。昭和13年以降、特に「八紘一宇(はっこういちう)」の思想が強調された。全世界(八紘)を天皇を家長とする一つの家(宇)としようとするもので、「世界征服理論」の根拠としたのである。
●10月朝鮮総督府は「皇国臣民の誓詞」を制定し、学校・官公署・職場での斉唱を強制させた。
●12月、「治安維持法」適用による反ファシズム思想に対する大弾圧が行われた。社会民主主義や自由主義もみんな共産主義として拡大適用されたのである。
(国際収支の急速な悪化と戦時統制経済の幕開け。高橋財政から馬場財政・結城財政へ)
●日本の「日銀引受」による赤字国債発行は、直ちに悪性インフレに繋がるわけではない。しかし公債の市中消化が滞れば、通貨が膨張し、物価が騰貴していくという悪性インフレに陥る危険性が常にあるということである。特にこの公債の目的が巨大な軍事費、つまり軍需品の生産のような経済的に非生産的な部門にお金が集中すれば、生産が偏り軍事費に関わる原料輸入が増加し、国際収支が悪化し貿易赤字が増加していくことになるのである。
●当時の日本の重工業は軍需物資を自給することはできず、部品の多くを欧米から輸入し、原料であるくず鉄や石油もアメリカからの輸入に依存していた。日本の軍備拡大はそのまま輸入の増加につながり貿易赤字となっていくと、日本の国際収支はますます悪化していく。すると当然ながら為替は下落し、政府による為替統制、さらには輸出入統制にまで進んでいったのである。これらは戦時統制経済の始まりであった。
●1/8大蔵省、輸入為替許可制実施の省令を公布施行。思惑輸入の増加に伴う応急処置として為替管理を強化する。
●1/11大阪三品(綿糸・綿花・人絹)取引所、為替管理強化による価格暴騰のため、清算取引の新規売買を停止。
●1/13日本糖業連合会全員協議会、国内の糖価急騰に対して、砂糖の需給を見究めて追加供給を行うと決議。
●1/15第1回日米綿業会議(両国の綿花・綿布の輸出入に関する会議)、大阪綿業クラブで開始。日本の廉価な綿織物に対してアメリカは関税引き上げで対抗したが、この会議で日本はアメリカへの輸出を制限する協定を結ぶ(2/6発効)
●1/17大蔵省、「悪性インフレ」を警戒し、通貨政策および為替政策などの防止方針を発表。
●1/18東京商工会議所、生活必需品104種の小売物価を発表。小売物価は前年同月比11.8%上昇と調査結果を発表する。
●1/18羊毛輸入統制協会、為替管理による輸入制限に対し豪州羊毛以外の買付許可を要望(商工省へ陳情)
●1/20大蔵省及び商工省、各次官会議で物価騰貴対策を協議。取り締まりのための法令発動も検討する。
●1/26米国の靴下製造組合、ワシントンの輸入関税委員会公聴会で、日本製綿靴下の関税5割方引き上げを要望。
●1/27日銀総裁深井英五、東京手形交換所新年会で、物価上昇防止、生産力養成には消費節約が緊要と演説。
●2/5東京神田で鉄価暴騰に目を付け、鉄製道路標識(1ヶ月に15本)を盗んで売りさばいていた男を逮捕。
●2/6日銀調査による1月の東京卸物価指数は233.3と前年同月比21.6%上昇。
●2/16、1月中の全国工場での怠業・罷業が前年同月比約4割増、物価騰貴のため賃金引上げを要求。
●2/22くず鉄相場1トン110円の新高値を記録。英国の大量買付けなど、世界的な軍拡による鉄鋼不足が影響。
●3/15重要肥料業統制法の規定により、硫安(硫酸アンモニウム)輸出許可規制、内地と朝鮮で同時実施。
●3/27綿花・綿製品貿易に関する日印通商協定、インド・デリーでの第17次交渉でようやく成立。
●4/9日本と蘭印間の通商に関する取り決め、日蘭協定の仮調印完了。
●4/10日本羊毛工業会代表、日豪協定による豪毛買付量の不足から、制限緩和を商工省に陳情。
●4/14政府、為替政策の充実を図るため大蔵省為替管理部を拡充し為替局とする方針を閣議決定。
●5/10政府、鉄価騰貴対策として鉄の消費節約を正式発表。国防関係を除き、約37%の節約を見込む。
●5/20結城豊太郎蔵相兼企画庁総裁、地方長官会議で貯蓄の奨励と国産品愛用の趣旨徹底を訓示」。
●5/21紡績連合会、為替管理強化による原料高騰が綿布輸出不調の原因として大蔵省に管理緩和を陳情。
●5/23政府、為替水準を維持するため米国へ向け、金の第3次現送(総額5000万円)を開始する。
●6/5農林省、硫安価格抑制と農村への供給円滑化のために外国硫安の追加輸入を決定。
●6/8中国、世界的鉄価格暴騰を理由に、鉄鉱石価格引き上げを要求。日本製鉄が拒絶して紛糾状態になる。
1/23広田弘毅内閣総辞職。1/29陸軍大将宇垣一成組閣断念。2/2林銑十郎内閣成立。5/31林内閣総辞職。
(科学)3/30大阪帝大理学部、日本初のサイクロトロン装置を完成。大阪帝大では物理学者の長岡半太郎が学長をつとめ、すぐれた科学者たちが集まっていた。そして4/6東京の理化学研究所でも完成。仁科芳雄による物理学最先端装置サイクロトロンの完成である。
昭和12年2/11紀元節(神武天皇即位の日)に初の文化勲章の実施が発表された。科学、芸術など文化の発展に大きな貢献があったとして、第1回の栄に9人が選ばれた。下段に一覧と作品の一部を紹介する。
●文化勲章が設けられた理由は、日本は基本的には医学、科学、芸術などの分野で諸外国に立ち遅れ、海外の模倣の域を出ていなかったため、独創的な文化を育成しようというものだった。つまり国家としての、ひとつの文化奨励策である。
1937年(昭和12年)5/31文部省発行「国体の本義」、全国の学校・社会教化団体などへ配布開始。
「・・・こゝに我等の重大なる世界史的使命がある。乃ち「國體の本義」を編纂して、肇國(ちょうこく)の由來を詳(つまびら)かにし、その大精神を闡明(せんめい)すると共に、國體の國史に顯現(けんげん=はっきりと現れること)する姿を明示し、進んでこれを今の世に説き及ぼし、以て國民の自覺と努力とを促す所以(ゆえん=理由)である。」「国体の本義」緒言より。
★盧溝橋事件の背景とポイント。
●日本は、1932年(昭和7年)に満州国を建国させ、昭和8年3月に熱河省を占領し、5月には長城線を越え北平(北京)・天津付近まで侵攻し、「塘沽停戦協定」を結ばせ長城内部の河北省に非武装地帯を設けさせた。
●1935年(昭和10年)においても日本の目的は「華北分離政策」であり、綏遠省、チャハル省(察哈爾省)、河北省、山西省、山東省の5省を国民政府から分離させ傀儡政権を誕生させることだった。そして6月に梅津・何応欽協定、および土肥原・秦徳純協定を結び、河北省とチャハル省から中国国民党の機関と国民政府中央軍を排除することに成功した。
●そして1935年(昭和10年)11/25河北に、親日派の殷汝耕を長とする「冀東防共自治委員会(12月に冀東防共自治政府と改称)」を作り国民政府からの離脱を宣言させた。日本はさらに分離政策を強めたため、国民政府は12/18、自らの支配権の及ぶ政権として「冀察政務委員会」を作り、西北軍閥で第29軍を率いる宋哲元を委員長に任命した。(冀察の「冀」は河北省の別称で「察」はチャハル省を指す)
こういった日本の動きは中国民衆の激しい怒りを呼び、中国全土において抗日救国運動が広がっていた。
●さらに関東軍は、内蒙古にも工作をすすめ、チャハル省の徳王に内蒙古軍政府を組織させ、中国からの分離を図った。そして昭和11年(1936年)11月、関東軍の援助で綏遠東部に侵攻したが、中国軍に大敗した(綏遠事件)。そしてこの事件はさらに抗日運動を激化させたのである。
●日本はこの抗日運動に対して武力をもって対抗しようと考え、昭和11年(1936年)5月に北支派遣軍に約4000人を増員派遣した。この駐屯軍は、北京条約(1901年)で各国(日・英・米・仏・露など)が清朝政府に動乱防止(義和団事件)のために、5000人以下の軍隊を駐屯させることを認めさせたものだった。日本は約1770人を駐屯させていたのをここで増員派遣し、北京郊外の盧溝橋付近にも軍隊を駐屯させ演習を始めたのである。衝突はおこるべくして起こったのである。この時「支那側の敵対行為は確実であり、断固攻撃してかまわない」と命令した連隊長は、あの牟田口廉也大佐(後の第15軍司令官で無謀なインパール作戦で歴史的な敗北をした司令官)であったことも知っておかねばならない。
10/20、新たに柳川平助中将を軍司令官とする第10軍(第6師団・第18師団・第114師団および第5師団の一部などにより編成)を編成し、膠州湾北岸に上陸するように命令を下した。上海の戦線は、中国軍の頑強な抵抗で膠着し、いたずらに損害を重ねる状況が続いたのである。上海派遣軍には9月下旬から10月上旬にかけて動員が続き、昭和12年中に招集された陸軍の兵員数は47万人にのぼった。そして1937年昭和12年11月5日、第10軍(司令官柳川平助)は、支那方面艦隊護衛のもとに杭州湾北岸に上陸、上海戦線の背後をついた。
●そして12/1、大本営は、中支那方面軍戦闘序列と同方面軍・支那方面艦隊に南京攻略を下命した。そして日本軍は12月13日南京を占領する。このとき日本軍は「南京事件」を引き起こした。詳細は次章にて記述。
国内では、8/24閣議で「国民精神総動員」実施要綱を決定する。ラジオでは「国民朝礼の時間」「時局生活」「出動将兵への感謝」「非常時経済」「銃後の護」「神社崇拝」「勤労報国」「心身鍛練」などの特別番組が編成された。「明治節=明治天皇の誕生日」では、全国民が一斉に明治神宮を遙拝することになった。
年月 | 1937年(昭和12年)政治・社会年表。8/20~ | ||||
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1937年昭和12年8月20日 |
閣議、軍需工業動員法の発動を決定
●これは従来からある軍需工業動員法(昭和7年4月17日法律第38号)を「戦時」の限定をはずし、平時戦時にわたる大量の軍需品生産を可能とする工業動員体制を作るために、平時から民間工業が軍需工業へ転換可能な準備をし、そのための機械、労働力、原料の確保を行い、軍需工業の総動員を実現するためのものである。そして1937(昭和12)年9月10日「軍需工業動員法ノ適用ニ関スル法律」が公布、施行され、その全面発動が決定された。これは「輸出入等臨時措置法」・「臨時資金調整法」とならんで戦時統制3法と称された。そして1938(昭和13)年4月1日の国家総動員法(同年5月5日施行)に吸収されていくのである。 |
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1937年昭和12年8月22日 | ●中国共産党指導下の紅軍約3万人、国民革命軍第8路軍に改編される(総司令朱徳)。これは国共合作に際して、華北を中心に展開していた中国共産党の紅軍が国民革命軍に編入されたものである。 ●9/25この8路軍が、平型関で日本軍の第5師団・第21旅団の後続部隊約1000人を全滅させる。日中戦争で初めて日本軍に勝った戦いと宣伝された。 |
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1937年昭和12年8月24日 |
閣議、「国民精神総動員」実施要綱を決定する。
●その趣旨と指導方針の一部は以下のようである。そして9/22には「国民精神総動員強調週間実施要綱」が閣議決定された。その内容は、国民自らが日中戦争の重大さを知り、積極的な戦争参加と国家への忠誠を誓うように、「社会風潮ノ一新、時局ニ対応スル生活ノ刷新」を宣伝の中心題目と定めたものだった。
一、趣旨
挙国一致堅忍不抜ノ精神ヲ以テ現下ノ時局ニ対処スルト共ニ今後持続スベキ時艱ヲ克服シテ愈々皇運ヲ扶翼シ奉ル為此ノ際時局ニ関スル宣伝方策及国民教化運動方策ノ実施トシテ官民一体トナリテ一大国民運動ヲ起サントス 二、名称 「国民精神総動員」 三、指導方針 (一)「挙国一致」「尽忠報国」ノ精神ヲ鞏ウシ事態ガ如何ニ展開シ如何ニ長期ニ亘ルモ「堅忍持久」総ユル困難ヲ打開シテ所期ノ目的ヲ貫徹スベキ国民ノ決意ヲ固メシメルコト・・(以下略) *リンクします「国民精神総動員実施要綱」 国立国会図書館リサーチ・ナビ→
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1937年昭和12年9月2日 | ●閣議で、「北支事変」が拡大したため、「支那事変」と改称することに決定する。「日華事変」であり「日中戦争」である。 | ||||
1937年昭和12年9月4日 |
●9/3に招集された第72臨時帝国議会での勅語は以下のようであり、事実上の宣戦の詔勅に代わるものだった。
朕(ちん)茲に帝國議會開院の式を行ひ貴族院及衆議院の各員に告く
帝國と中華民國との提携協力に依り東亞の安定を確保し以て共榮の實(実)を擧くるは 是れ朕か夙夜(しゅくや=朝早くから夜遅くまで)軫念(しんねん=天子が心を痛めること)措かさる所なり 中華民國深く帝國の眞意を解せす濫(みだり)に事を構へ遂に今次の事變を見るに至る 朕之を憾(うらみ)とす 今や朕か軍人は百艱(ひゃくかん)を排して其の忠勇を致しつつあり 是れ一(いつ)に中華民國の反省を促し速(すみやかに)に東亞の平和を確立せむとするに外(ほか)ならす 朕は帝國臣民か今日の時局に鑑み忠誠公に奉し和協心を一にし贊襄(さんじょう)以て所期の目的を達成せむことを望む 朕は國務大臣に命して特に時局に關し緊急なる追加豫算案及法律案を帝國議會に提出せしむ卿等克く朕か意を體し和衷協贊の任を竭(つく)さむことを努めよ
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千人針・慰問袋・出征
(写真などの出典は「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊から) ●「慰問袋」 ●「出征」 ●「銃後の護り」
●左から①「女子青年団の武装演習」・・10/17に撮影された青森県斗川村(現三戸町)女子青年団の武装演習。未婚女性の社会教育機関だった女子青年団も戦時色が強まると、男子の青年団同様、軍事訓練や銃後の奉仕が実施された。-写真・東奥日報社。
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1937年昭和12年9月8日 |
日赤看護婦、上海到着
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1937年昭和12年9月10日 | ●「軍需工業動員法の適用に関する法律」「臨時資金調整法」など戦時統制に関する法律を公布。 | ||||
1937年昭和12年9月11日 | ![]() ●東京小石川に後楽園球場が開場した。後楽園スタヂアム(社長早川芳太郎)が陸軍砲兵工廠跡地に4月に着工したもの。総工費89万8400円、収容人員約3万人。写真はこの日の記念式の様子。 (写真・毎日新聞社)(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 |
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1937年昭和12年9月20日 | ●英米両国政府、日本軍による南京爆撃中止を日本政府に申し入れる。海軍第2連合航空隊は9/19に2回にわたり南京の軍事施設を爆撃した(9/25までに合計11回)。 | ||||
1937年昭和12年9月23日 |
第2次国共合作成立
●蔣介石は、中国共産党の合法的地位を承認し、団結救国を指摘する談話を発表した。蔣介石は前年の12月の西安事件そしてこの年の7月の盧溝橋事件を経て、ついに国共合作による対日抗戦を決意したのである。 |
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1937年昭和12年9月25日 |
内閣情報部官制公布施行
●従来の内閣情報委員会を内閣情報部に改組し、言論統制と思想宣伝の一元的機関として機能させた。昭和15年には情報局に昇格した。 *リンクします「愛国行進曲」内閣情報部選定
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1937年昭和12年9月27日 | ●日中戦争不拡大方針の参謀本部第1部長石原莞爾、関東軍参謀副長に転補(追放)。後任に下村定少将。 | ||||
1937年昭和12年9月28日 | ●国際連盟、日本軍の無防備都市爆撃を非難する決議案を全会一致で可決。(外務省は29日反駁声明を行う) | ||||
1937年昭和12年9月28日 |
日本婦人団体連盟設立(会長ガントレット恒子)
●この連盟に参加したのは8団体で、基督教女子青年会日本同盟(代表委員辻まつ子)、日本女医会(会長吉岡弥生)、婦人同志会(会長吉岡弥生)、婦選獲得同盟(総務理事市川房枝)、婦人平和協会(会長河井道子)、日本基督教婦人矯風会(会頭ガントレット恒子)、全国友の会(代表委員羽仁もと子)、日本消費組合婦人協会(会長押川美香)であった。 「国家総動員の秋(とき)我ら婦人団体も亦協力以て銃後の護りを真に固からしめんと希ひ、茲(ここ)に日本婦人団体連盟を結成して起たんとす」
●女性の解放、地位の向上を地道に進めてきた諸団体が、結局は時流に迎合し、時局に協力するような形で大同団結していったのである。 |
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9月~10月の軍事行動の流れ(簡略)
●日本は8/9の大山海軍中尉射殺事件に端を発した第2次上海事件勃発後、次々と兵力を上海に投入した。一方中国側も政治・経済の中枢をなす揚子江下流域を守るため中央の精鋭軍をあてた。また、上海は抗日反日の拠点であり戦意が強く、日本軍は苦戦を強いられた。 ●上海では、優秀な国民党中央の正規軍に包囲されて損害はひどくなる一方だった。上海の戦線は、中国軍の頑強な抵抗で膠着し、いたずらに損害を重ねる状況が続いたのである。9/1には上海方面増派のため第5次増員として、第101師団などに対する動員が下令された。これらの師団は9月下旬から10月上旬にかけて上海派遣軍に編入された。昭和12年中に招集された陸軍の兵員数は47万人にのぼった。 |
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1937年昭和12年10月5日 |
米大統領ルーズベルト、日独を侵略者と非難
●米大統領ルーズベルトは、国際平和のため諸国民の協力を要請し、日独を侵略者として非難する(隔離演説) |
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1937年昭和12年10月12日 |
国民精神総動員中央連盟結成式挙行
●有馬良橘海軍大将を会長に、財界など民間各界の代表者を理事や評議員とする国民精神総動員中央連盟が発足、主務官庁である内務・文部両省の指導のもとに、県知事を地方実行委員長として、全国神職会、全国市町村会、在郷軍人会など74団体を組織して運動が推進された。下にリンクした「・・事業概要」のなかの「第1回国民精神総動員強調週間(昭和12年10/13より実施)」をみると具体的な実践項目がわかる。 *リンクします「国民精神総動員中央聯盟事業概要. 昭和12年度」国民精神総動員中央聯盟 編昭和14年刊
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1937年昭和12年10月25日 | ●企画院官制公布施行。これは5月に内閣調査局が廃止され、国策統合調整機関として開設された企画庁が、内閣資源局と統合され、各種動員計画・生産力拡充計画の立案が主業務となった。 | ||||
1937年昭和12年11月2日 |
広田弘毅外相、対中和平条件を駐日独大使ディルクゼンに伝える。
(5日、トラウトマンが和平工作を開始する) |
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1937年昭和12年11月5日 |
第10軍杭州湾北岸に上陸作戦敢行
●第10軍(司令官柳川平助)、支那方面艦隊護衛のもとに杭州湾北岸に上陸、上海戦線の背後をつく。 |
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1937年昭和12年11月6日 |
日独伊三国議定書、ローマで調印
●これは前年11月の「日独防共協定」にイタリアが参加したもので、後の日独伊3国を中心とした軍事同盟、いわゆる枢軸国形成の先駆けとなる。この「枢軸」というのは、スペイン内乱以来、独伊の協力関係は「ベルリン・ローマ枢軸」と呼ばれていたが、この時から日独伊の3国およびその同盟国の友好関係を「枢軸」と呼ぶようになった。元々は政治機構の中心という意味。 |
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1937年昭和12年11月18日 |
大本営令公布
●戦時大本営条例を廃止し、事変の時も大本営を設置できるようにした。宣戦布告をしていない「日華事変」には適用できなかったからである。そして11/20宮中に大本営を設置した。これにより、東京の三宅坂の参謀本部が「大本営陸軍部」、霞ヶ関の軍令部が「大本営海軍部」と改称された。
大本営令(昭和12年軍令第1号)
第一条 天皇ノ大纛(たいとう=天皇の旗)下ニ最高ノ統帥部ヲ置キ之ヲ大本営ト称ス 大本営ハ戦時又ハ事変ニ際シ必要ニ応ジ之ヲ置ク 第二条 参謀総長及軍令部総長ハ各其ノ幕僚ニ長トシテ帷幄ノ機務ニ奉仕シ作戦ヲ参画シ終局ノ目的ニ稽ヘ陸海両軍ノ策応協同ヲ図ルヲ任トス 第三条 大本営ノ編制及勤務ハ別ニ之ヲ定ム |
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1937年昭和12年12月1日 | ●大本営、中支那方面軍戦闘序列と同方面軍・支那方面艦隊に南京攻略を下命する。 | ||||
1937年昭和12年12月1日 | ●東大経済学部教授矢内原忠雄、反戦的筆禍事件で辞表提出(矢内原事件)。これは、かねてより日本の植民地政策批判を行っていた矢内原教授が、中央公論に発表した「国家の理想」が反戦的であるとして弾圧された事件である。 | ||||
1937年昭和12年12月12日 |
日本海軍機、米国砲艦パネー号を撃沈(パネー号事件)
●これは、日本海軍機が、米国の砲艦パネー号を揚子江南京付近で誤爆により撃沈した事件。パネー号にはアメリカ大使館の臨時事務所がもうけられており、このことは誤爆回避の要請とともに日本軍には通知されていた。そのため軍部の意図的な攻撃との意見もあったが、日本政府は即座に陳謝、アメリカも了承し、翌年の賠償金支払いで解決した。だがこの事件でアメリカの対日世論が悪化したことは、あとあと影響をあたえた。 |
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1937年昭和12年12月13日 |
日本軍、南京を占領
●日本軍、南京事件を起こす。(詳細は次の章で記述) |
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1937年昭和12年12月15日 |
第1次人民戦線事件
●この日の早朝、日本無産党、日本労働組合全国評議会(全評)の幹部とこれを支持していた労農派マルクス主義の学者、評論家446人が検挙された。無産党は合法的な政党だったが、治安維持法1条の「国体を変革すること・・私有財産制度を否認すること」を目的とした政治結社として弾圧された。反ファシズム思想は徹底して弾圧されたのである。 |
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1937年昭和12年12月27日 |
日本産業、満州重工業開発に改組
●昭和12年頃までに三井・三菱に次ぐ地位に達した鮎川義介の日産コンツエルンは、企業グループ挙げての満州国進出を決定し、昭和12年12/27、持株会社である日本産業(日産)を満州重工業開発と改め、満州の鉱工業建設を独占的に行う国策会社として発足した。 |
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1937年(昭和12年)の出来事 政治・経済・事件・災害・文化
「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊より抜粋 1. 15 日米綿業会談はじまる(25日,対米綿布輸出協定成立) |