1937年(昭和12年)4月30日~ |
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1937年 昭和12年 4月30日 | ●第20回総選挙、民政党179、政友会175で、民政党第1党になる。 |
1937年 昭和12年 5月1日 | ●満州国政府、日満経済の一体化確立をめざし、重要産業統制法を公布(5/10施行)。 |
1937年 昭和12年 5月6日 | ドイツの世界最大豪華飛行船ヒンデンブルグ号、着陸時、引火爆発、炎上 ●ドイツ-アメリカ間の本年度最初の定期輸送(22回目)に就いていた豪華飛行船ヒンデンブルグ号は、アメリカ・レークハースト(ニュージャージー州)の海軍飛行場に着陸するとき水素ガスに引火し、爆発炎上した(36人死亡)。この事故により公共輸送機関としての飛行船は命脈を絶たれた。(朝日新聞社「目撃者」では、乗員、乗客の1/3が死亡と書かれている) (新聞)5/8東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
(写真2枚)1937年マレー・ベッカー(AP/WWP)アメリカ・ニュージャージー(出典)「目撃者」朝日新聞社1999年刊 |
1937年 昭和12年 5月12日 | ●英国のジョージ6世戴冠式、ロンドンのウエストミンスター寺院で挙行。天皇の名代秩父宮(昭和天皇の弟宮)が出席。(前英国王ウインザー公と前シンプソン夫人の結婚式は6/3に行われた。) |
1937年 昭和12年 5月14日 | 企画庁官制公布施行 ●内閣調査局が廃止され、国策統合調整機関として企画庁が開設される。 |
1937年 昭和12年 5月29日 | 陸軍省、重要産業5ヶ年計画要綱を決定 ●特に、①兵器工業及②飛行機工業は軍部主導で行うとしているのである。 第一 方針
概ネ昭和十六年ヲ期シ計画的ニ重要産業ノ振興ヲ策シ以テ有事ノ日日満及北支ニ於テ重要資源ヲ自給シ得ルニ至ラシムルト共ニ平時国力ノ飛躍的発展ヲ計リ東亜指導ノ実力ヲ確立ス 
第二 要領
一 本計画ハ昭和十二年度以降昭和十六年度ニ至ル五年ヲ以テ第一次トシ先ズ国防上重要ナル産業ノ種類及目標ヲ厳選シ其ノ実現ヲ統制促進ス但シ五年ヲ以テ本計画ノ一般的年次ト為スト雖振興拡充ノ程度及完成ノ時期ハ各資源ノ要度ニ応シ適宜其ノ緩急ヲ規律ス
第一次ノ計画ノ進度ニ伴イ更ニ所要ノ第二次計画ヲ予定ス
二 国防重要産業ノ振興ハ帝国ヲ主体トスルモ克ク日満ヲ一環トスル適地適業ノ主義ニ則リ且ツ国防上ノ必要ヲ顧慮シ所要産業ヲ努メテ大陸ニ進出セシメ更ニ帝国将来ノ長計ヲ洞察シテ最モ必要ト認ムル資源ヲ選ヒテ巧ニ北支ノ経済開発ニ先鞭ヲ著ケ其ノ資源ヲ確保スルニ努ム
三 本計画ノ実施ニ方リテハ帝国現在ノ資本主義経済機構ニ対シ急激ナル変革ヲ作為スルハ之ヲ避クヘシト雖金融,財政,物価,貿易,対外決済,運輸,配給,労務並ニ,重要ナル国民ノ生産消費ノ統制等ニ関シ機ヲ制シテ所要ノ対策ヲ講シ以テ綜合的ニ本計画ノ順調ナル進捗ヲ計ル
四 重要産業ノ振興ハ技術,資本及原料等ノ諸元ヲ綜合シ且ツ各種産業ノ相互関聯性ヲ認識シテ其ノ間ニ撞著ナカラシムヘシト雖審カニ軽重緩急ノ程度ヲ判別シ先ツ重且ツ急ナルモノヲ選ヒテ其ノ実現ヲ促進ス之カ為第一次計画中先ツ著手スヘキ重要部門概ネ左ノ如シ
1兵器工業 2飛行機工業 3自動車工業 4工作機械工業 5鉄鋼工業 6液体燃料工業 7石炭工業 8一般機械工業 9アルミニウム工業 10マグネシウム工業 11船舶工業 12電力事業 13鉄道車輛工業
但シ兵器工業及飛行機工業ノ振興ハ別ニ軍部ノ立案スル方策ニ依ルモ之ニ必要ナル資金,機械,原料材料,労力,燃料及動力等一般重要産業ノ振興ト併行調整スべキ部門ニ関シテハ本計画中ニ包含セシム
五 以上ノ要旨ニ基キ重要産業振興ノ一般目標並日満ニ於ケル按排概ネ別表(略)ノ如シ |
1937年 昭和12年 5月21日 | ●「神風号」、飛行新記録を実現して羽田空港に到着。4/9に東京-ロンドン間の連絡飛行に成功し、日本最初の航空国際記録を作り、日本の航空技術の水準を世界に示した。(三菱重工業名古屋航空機製作所製) |
1937年 昭和12年 5月31日 | 文部省発行の「国体の本義」、全国の学校・社会教化団体などへ配布開始 ●国体明徴運動が激化するなか、文部省編纂による(国体に関する公式見解である)「国体の本義」30万部が発行され、全国の小、中、高・専、大学、図書館、官庁へ配布された。
●この「国体明徴(めいちょう)」運動とは、「天皇中心の国体観念(国の在り方)をはっきりと証拠立てる」の意で、憲法学者美濃部達吉の唱える天皇機関説を排撃するために、軍部、在郷軍人会、右翼団体などが中心となって起こした運動である。
●岡田内閣は、昭和10年(1935年)8/3と10/15「国体明徴声明」を発し「天皇機関説」を否定した。しかしそれでは収まらず、政府は文部省内に「教学刷新評議会」を設けた。そして評議会は、昭和11年10/29「教育刷新に関する答申」を決議した。その第2章が次のようなもので(一部引用)、以後敗戦までの日本の教育方針となった。 「我が国に於ては祭祀と政治と教学とは、その根本に於て一体不可分にして3者相離れざるを以て本旨とす。・・」 ●そしてこの答申に基づいて「国体の本義」が刊行されたのである。その後文部省は昭和16年、同書を基礎に「臣民の道」を編集刊行し、生活のすべてを天皇に帰一し、国家に奉仕する「臣道実践」の道を示すのである。
●下段では、「国体の本義」を解説した「講習」である「国体の本義」教学局教学官 小川義章著と、「國體の本義」 文部省編 昭和12年(1937年)刊 の一部を引用した。
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●「国体の本義」教学局教学官 小川義章著 夏期講習録. 昭和13年度(1938年)滋賀県 編 昭14至15 刊 引用
ここでは、昭和14年~15年(太平洋戦争勃発の前年《1939-1940年》)に発刊された滋賀県「夏期講習録」から「国体の本義」の講話を引用する。
ここには、明治から大正にかけての日本の思想史の流れも解説されている。概観すれば、「大正デモクラシー」と呼ばれる現代の民主主義にもつながる時代が、日本にもあったことがわかる。それがあまりにも急激であったために、その反動で国家主義、国粋主義、軍国主義の台頭となったのだろうか。すさまじきものだ。古代社会から蘇ったような「祭政教一致」と、古色蒼然な「神勅」を権威づけして、日本を追い込んだのは、一体誰の発案なのだろうか。(ふりがな=○○○は、星野による、広辞苑、漢字源等による語意引用。) 

「国体の本義」小川義章第一 緒言に就いて
現在我々として此の國體本義を解説し體得し理解するのは、何の意味を持ってゐるか。 現代は世界的にも又日本の立場よりも、一般文化の内容が大いなる轉換期であり、過渡期であるといふことを、最近の思想文明の動きで発見することが出来るのである。思想問題発生の根據は左右兩翼の思想が問題となってゐるが、此等はその方向は異れども批判態度は同じで、其に在来の文化を克服せんとする運動であり思想である。而して批判克服の標準となるべき原理は、現實的にその代表的なるものはマルキシズムと國家主義であるが、これを標準として善いか惡いかは問題である。先づマルキシズムは當然原理であり得ないことは了解するも、國家主義は日本として大いに一考の必要を認むるものである。國家主義といってもその言葉は一つなれども、其の意味内容に於ては人により異り十分一致してゐない。之れ内容に於て不十分であることを證するもので、此の缺點を救はんが爲め本書の出版を見たもの、實に本書の任務は現代文化の轉換を導く道しるべである、と了解せられたい。しかし本義は勿論完全無缺とは云へぬ爲め、國民協力して完全に育むべきであらう。
第二 大日本国に就いて
次に第二大日本國は、1肇國(ちょうこく・くにをはじむ)、2聖徳(せいとく=天子の智恵と人格)、3臣節(しんせつ=人臣の守るべき節義)、4和と「まこと」といふやうに説明してある。
如何なる文化も一方向一性質で何時までもあることは不可能であることは、歴史の示すところで明かである。文化はすべて特定の時代に特定の任務を帶びて作り出されるものであるから、其の性格は其の造る民族國家の性格によって、誕生し發展し又老衰し死滅するものである。此の意味に於て日本現代の文化は、明治以後西洋文化の輸入によって造り上げられたるもので、江戸封建時代と政治形態の異る如く文化の性格にも大いに異るものがある。 (一) 明治以後に於ける日本文化 轉(=転)換を導くには轉換しっゝある文化を知らねばならぬ。それで明治以後の文化の性質について。吟味し理解をはかるため文化の發生發展の過程を研究する必要があるのである。
明治維新は國内政治の維新であったが、西洋文化の輸入により文化的維新でもあったのである。即ち、五ヶ條の御誓文の御精神により廣く海外文化を吸収したことは事實であるが、日本精神を中心とする自主的な態度は失はなかった。維新當時知識學問といはれたものは(1)徳川中期以後發生發展し思想的原動力となった國學、(2)徳川前期の漢學の保護を受けたる儒學、(3)徳川末期オランダ語を通じて入りたる西洋の醫學、地理學、天文學、物理學、加ふるに政治學、社會學であらう。
此等の儒學殊に洋學は、大いに皇基(こうき=天皇が国家を治める事業の基礎)を振起するために頗る積極的に輸入吸収するやうにせられたのが、明治政府の対策であった。政府もこの爲には明治維新直後文化一般の最高指導機関として、明治元年九月には京都に皇學勸學所の設置を見たのである。
しかし、國學が中心にして西洋學は其の手足であったことは、勸學所規則を見ても明かな事實であって、自主的な態度は變らなかったのである。其の後明治二年東京奠都(てんと=都を定めること)により政府と共に學問の中心も東京に移され、新に大學の建設を見、學問研究の最高指導所となったわけであるが、大學の方針も御誓文をもってし、皇學(こうがく=皇国の学の意・古代の天皇中心の体制を理想として、これを明らかにするために文献や歴史・国文学を研究する学問)國學(こくがく=古事記・日本書紀・万葉集などの古典の、主として文献学的研究に基づいて、特に儒教・仏教渡来以前における日本固有の文化および精神を明らかにしようとする学問)を中心として西洋學を從屬としたことは變りはなかった。
しかし大學の内容として江戸時代から傳へられた湯島の昌平校を大學本校となし、國學と儒學を併置し、開成學校にて西洋學を、醫學校にて和漢洋の醫學を授くるも、その中心を國學にもとめて合して綜合大學となし、日本文化の建設に進んだのである。しかるに其の後國學者と漢學者との對立を生じ競を重ねるうちに、西洋學の勢力を得、研究の中心となり、遂には和漢の除外となり、之れを契機として大學のみならず一般國民先覺者の間にも西洋學が重要視せらるゝに至った。三年以降は大學の變化と共に西洋學の全盛期を爲すやうになったのである。 五年文部省の學制頒布仰出書にもその方針の上に西洋學が大いに反映して、西洋的な思想内容をもち、個人主義(こじんしゅぎ=個人を立脚点とし、社会や集団も個人の集合と考え、それらの利益に優先させて個人の意義を認める態度。ルネサンスおよび宗教改革期における個人的・人格的価値の発見により自覚され、社会の近代化の進行に伴って普及するに至った)的な功利的(こうりてき=その行為が自分の利益になるかどうかを先ず考えるさま)なところがうかゞはれるのである。勿論國民を學校に吸収する方便とし、又初歩的思想としては止むを得ざるところであるけれども、文化方面にも政治方面にも西洋の着色濃厚であったことは事寳で、此の軌道にて今日まで進み來ったものであることは、歴史的な事實として思想史や教育史を研究する人々の認むるところである。
明治初年の文化政策の進み方が大體今日迄来てをる。歴史的に考へると初年より二十年頃までは西洋文化の流行支配的勢力であって、欧米(英、米、獨)學者によりて盛に紹介輸入せられたものである。その代表的なるものは福澤論告、加藤弘行等であらう。而して之等の學者により唯理論のみならず、國民一般の生活内容、生活態度にまで欧米思想の反映を見るに至ったのである。
二十年頃より欧米心酔追随をやめ日本傳來(伝来)の思想を考へ、盲從より自覺へと轉換(転換)傾向生じ、遂に此の運動さへ起るに至ったのである。即ち 國粹主義(こくすいしゅぎ=自国の歴史・文化・政治を貫く民族性や国体の優秀性を主張し、民族固有の長所や美質と見なされるものの維持・顕揚をはかる思潮や運動)の人々が起り、新聞に雑誌に團體にその方向の轉換を唱へ、大いに運動を強調したのである。
例へば明治二十年谷干城氏が國粹新聞を出し、同年三宅雪嶺、志賀重昂氏等が正教社を結び、機關誌日本人を出版し、同年河合清丸、山岡鐵太郎氏が大日本國政大道史を編簒する等である。
斯(か)くして國民精神の確立をはかるものと、西洋文化の追随を唱ふるものとの對立となり、論爭を起し遂に大なる思想問題となった。此に於て明治二十三年畏(かしこくも=もったいなくも。おそれ多くも)くも 明治天皇は教育勅語を御下賜(かし=くだしたまわること)になり、日本教育、日本文化、日本生活態度を御示しになり、思想問題の解決を見るに至り、從って文化對策問題も解決したのである。
しかしながら西洋文化は深く國民生活に浸潤して、事實としてはそれに副(そ)はざるものがあった。即ち、西洋的なるものと國民的自覺に立ち歸り國民的發展なるものとの二元的となり、これが永く三十年代にも持續せられたのである。換言すれば西洋文化内容には少々の時代的變化はあれども、明治二十年を劃し以前は英米の經驗的思想學説が有力であり、以後は獨の理想主義的思想學説が勢力を得るに至り、尚多少の變化はあれども四十年代より大正の初期にまでも及びたることは、晢學教育等の歴史によりて明かに了解することを得るのである。
次に大正年代に及んで、遂に西洋文化の基礎ともいふべき近代精神が日本文化の全領域を西洋化されて、二元的が一元化され日本人の魂を支配するに至りたるは、晢學、教育、政治、宗教、社會等を檢するに明かに立證せられるのである。 一言にして言へば、西洋文化は明治初年に種子を下し、其後發芽成長し開花を見、遂に大正時代になって結實するに至ったとも言へる。即ち、西洋文化の圏内に日本的精神を投げ入れてしまったのである。 併(しか)し、この自主的態度の消滅が又現代文化を發生發展せしむる直接原因をなすに至ったとも言へるのである。
先程大要について御話いたしましたが、維新以後は次から次へと歐米の思想が輸入せられ、其間我が國の傳統的精神に基づいて歐米の文化の咀嚼攝取に努力せられたものであります。所が大正中期に入りますと、事情は燮って歐米の思想が著しく流行を極めるといふ有様になったのでありまして、此の西洋思想はあらゆる部門に現れて西洋文化の形をもち、日本の性格は殊更日本に見出すことが出来ない有様となり、政治議會の運用も燮化し殆ど民主的な政治の動きになり、經濟に於きましても左翼的傾向が著しくなりました。次に晢學にしましても、理想主義晢學が興隆して教育の目的方法も西洋學説に支配せられ、道徳につきましても實踐は奬勵(奨励)せられましたが、反面に倫理學そのものが西洋の近代のものである以上異った人格指導が尊重せられることになり、従って國民道徳の徹底も不十分となったのである。かくして大正中期には我が思想界は、総べて西洋的なものに支配されたのであります。
然らば此の大正中期の思想界はそのまゝでよかったかと申すと、左様ではなくあらゆる部門に破綻行きつまりをきたし、政治産業に於きましても主義と實體(実体)とに矛盾をきたし、勞資對立階級對立の矛盾を現出した。經濟に於ても教育に於ても同様の現象は兔れ得なかったのである。
マルキシズム(マルクス主義=マルクス・エンゲルスによって確立された思想体系。哲学的基礎としての弁証法的唯物論、それを社会に適用して、社会をその物質的土台から歴史的に把握する史的唯物論、階級社会の場での階級闘争の理論、資本主義社会の運動法則を解明する経済学説、国家を階級支配の道具と見る国家論、労働者階級の革命運動の戦略・戦術、植民地・従属国の被圧迫民族解放の理論、社会主義・共産主義建設の理論など。)の現れは思想學問經濟に性格的缺陷(欠陥)を生じ、そこに思想問題が起ったのであまりまして、所謂我が國としては文化の混亂對立の時代となり、之が救済策として國體明徴(めいちょう=あきらかに証明すること)、日本精神顯現(けんげん=明らかにあらわし示すこと)が叫ばれる様になり、國體の本義を文部省で編纂されたのであります。 (注)【国体明徴問題】憲法学者美濃部達吉の唱えた天皇機関説を、1935年軍部・右翼などが排撃し、これに応じて議会決議・政府声明(「国体の明徴に関する声明」)・著書発禁処分などがされた事件 (注)【国体の本義】1937年文部省が発行した国民教化のための出版物。記紀神話にもとづき国体の尊厳、天皇への絶対服従を説き、社会主義・共産主義・民主主義・個人主義・自由主義を排撃した。 今日の思想問題の母體が大正中期の思想文化であるといふことは一般の常識でありますが、我々が思想問題の思想史的意味とか、或は教學刷新を必要とするに至った在来の學問教育の缺陷を知っておく爲には、當時の思想文化の性格を理解する必要があります。
歐米に由来して我が國の大正中期を支配した思想文化は、その形態や枝葉に於ては各文化分野に依って多少相違もありますが、其の根幹をなすものは、西洋十八世紀の啓蒙思想(けいもうしそう=ヨーロッパ思想史上、17世紀末に起こり18世紀後半に至って全盛に達した旧弊打破の革新的な思想。人間的・自然的理性(悟性)を尊重し、宗教的権威に反対して人間的・合理的思惟の自律を唱え、正しい立法と教育を通じて人間生活の進歩・改善、幸福の増進を行うことが可能であると信じ、宗教・政治・社会・教育・経済・法律の各般にわたって旧慣を改め新秩序を建設しようとした。オランダ・イギリスに興り、フランス・ドイツに及び、フランス革命を思想的に準備する役割を果たした。代表者にイギリスのロック・ヒューム、フランスのモンテスキュー・ヴォルテールおよび百科全書派、ドイツのウォルフ・レッシング・カントなど)
或はそれから發展して生じた思想であります。此の啓蒙思想及びこれと一聯の脈絡ある思想が明治以降我が國に輸入せられて、それがだんだん普及發達し、大正の年代に於て花を咲かせたのであります。
西洋啓蒙思想は申す迄もなく十五六世紀に發生した近代思想に淵源(えんげん=物事の根幹になるもの)するものであり、之は人々が指摘するが如く人間本位、知性本位、自然本位の思想であり、所謂啓蒙思想はその遺鉢をついだものであります。さうして西洋近代文明の基礎をなしたものであります。近代科學の祖ベイコンが「知識は力なり」といひ、自然研究の道を拓き或は近代晢學の創始者と言はれるデカルトが、彼の哲學の出發點として人間各自の持つナチュラルライト、即ち理性を發見したのは、知性本位、人間本位同時に自然本位の文化を示したものに外ならない。かゝる點から西洋近代文明は築かれ、其の發展過程の一段階として十八世紀に啓蒙思想なるものが現れた譯であります。
この啓蒙思想の性格を申しますと理性本位であるといふ點からして歴史とか傳統を輕視する、又人間本位といふことに關連して人間各個の持つ理性に最高の権威を認め、個人を以てあらゆる價値の判定者、あらゆる價値の創造者とする考へなのであります。
かゝる點からして國家とか民族とかいふものは、個人に比して輕視され二次的存在として観念されるもので、即ち西洋近來の思想の性格は個人主義、自由主義、主知主義であります。そこに生れた政治、經濟、社曾、教育、學問などは、斯る思想の内に表現せられたものであります。次に國體の本義について申上げます。大體國體の本義の意味は讀んで下さったものと考へて御話申上げます。
(二) 國 體 の 意 義
國體の意義につきましては字引風の説明も必要と思ひますが、國體の文字は随分古くから用ひられてゐて、大體國家の本質國の在り方とも解釋すべきでありませう。國體の本義中には定義の如きのもとして色々解いてゐるが、肇国(ちょうこく)の所の最初に定義してありまして、此の意義は相當に苦心を拂つて作つたものでありまして、簡単に表現することは非常にむつかしいものであります。此の定義の仕方は帝國憲法よりしたものと、もう一つは勅語の第一段よりして國體を定義づける仕方がありますが、法制學の専攻者は前者を用ひ、文教方面では後者を用ひる樣である。所が憲法第一條によるものは文字の表面から来る感じとして政治方面は表れてゐるが、道徳、宗教等文化生活が内容が十分でない爲め教育者、道徳家などには好まれない。而し、教育勅語の第一段を以てする時は、文化精神はよく表れてゐるが政治的性格は明確でない。従つて両者を合せ考へるべきが當然であらう。又國體の精華(せいか=物事の真価とすべきすぐれたところ)といふ文字につきても、國體と精華とを内容的に考察するときは、二つではなく精華そのものは國體であるべきで、内容的には同一のものと見るべきである。此の國體は精神内容を考へて見ますと、肇國(ちょうこく)の精神、聖徳(せいとく)、臣節(しんせつ)、和(わ)、誠(まこと)となるであらう。
(三) 肇國(ちょうこく・くにをはじむ=国をはじめる。国家をおこすこと)に就いて
之を國醴の本義の節によつて先づ肇國につきまして申しますと、種々の學者によりまして肇國の事實を解いてゐて
意見の相違はある様だが、國體の本義編纂につきましては、天孫降臨(てんそんこうりん)の事實を肇國の中心としたのであります。それは古事記、日本書紀、古語拾遺等によつたものである。古事記には天孫降臨以來の出来事、天御中主命(あめのみなかぬしのかみ)、高産靈(たかみむすびのかみ)、神産靈(かみむすびのかみ)の造化三神(ぞうかさんしん)の天地開明、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)の國土建設、出雲朝廷と國土獻上等記せられてゐます爲天孫降臨を中心に置き、共の背景として造化(ぞうか=天地の万物を創造し、化育《かいく=自分の徳に化して育て上げること》)を言つてゐるのであつて、問題は頗るデリゲートの點があるので、此の心遣ひに依つて天孫降臨から説明をすゝめてゐる。天照大神について日本書紀によれば、日神(ひのかみ)又は大日?貴(おおひるめのむち)とも申し上げ、「光華明彩(ひかりうるわ)しくして六合(あめつち)の内(うち)に照(てり)徹(とお)らせり」とある如く、その御稜威(りょうい=きわだった神霊の威光のこと。天皇の権威をあがめていったことば)は宏大無邊(こうだいむへん=広くて果てのないこと)であつて萬物を化育(かいく)せられる。即(すなわ)ち、天照大神は高天原(たかまのはら・たかまがはら)の神々を始め、二尊(にそん=二柱の尊《みこと》)の生ませられた國土を愛護し、蒼生(そうせい=多くの人民のこと)を撫育(ぶいく=いつくしみ育てること)し、生々發展(せいせいはってん=絶えずいきおいよく発展すること)せしめ給ふのである。天照大神はこの大御心(おおみごころ=天皇の心)、大御業(おおみわざ=天皇の御事業)を天壞(てんじょう=あめつち。天地)と共に窮(きわまる)りなく彌榮えに發展せしめられるために、皇孫を降臨せしめられ神勅(しんちょく=神のみことのり)を下し給うて君臣の大義を定め、我が國の祭祀と政治と教育との根本を確立し給うたのであつて、こゝに肇國の大業が成つたのである。
我が國はかゝる悠久深遠な肇國の事實に始つて、天壞(てんじょう)と共に窮(きわま)りなく生々發展(せいせいはってん)するのであつて、まことに萬邦に類を見ない一大盛事(せいじ=仕事を完成すること)を現前(げんぜん=目前に現れ出ること)してゐる。
又御神勅にも肇國の精神と事實が数々伺はれますが、それには五大神勅があります。それは天壞無窮(てんじょうむきゅう)の神勅、神鏡奉齊(しんきょうほうさい)の神勅、齊庭の稻穗(ゆにわのいなほ)の神勅、大津神籬(あまつひもろき)の神勅、大物主(おおものぬし)の神勅で國家の根義が示されてゐる。
(一) 天壞無窮(てんじょうむきゅう)の神勅は最も尊い大詔で、我が國體の根本も憲法並びに皇室典範の淵源も之に基づいてゐるので、又臣節として皇運扶翼し奉るべき國民道徳の在する所である。
(二)神鏡奉齊(しんきょうほうさい)の神勅は此の鏡は専ら御魂とし、我が前に拜くが如く齊(いつ)き奉れと仰せられたので、鏡が大神の姿であつて御歴代が大神の御精神をうけ継ぎ御政治遊ばされることで、大神と現人神(あらひとがみ)の天皇との御精神の一致であり、敬神崇祖の基礎であります。
(三)齋庭の稻穗(ゆにわのいなほ)の神勅は臣民の生活につき御軫念(しんねん=天子がきめ細かく心配されること)遊ばされたので、稻穗を御下しになつたものである。
(四)天津神籬(あまつひもろき)の神勅は、即ち神社を設けて降孫の爲に天業の發展と玉體の安穏とを祈り奉るべく懇に勅せられたものである。
(五)大物主(おおものぬし)の神勅は皇室を奉戴擁護し奉り國運興隆を期すべしとの勅であります。
兎角五大神勅に根元的のもの及びその後の進み方を示されてゐるので、國家の發展、愛民の精神が伺れるが、肇國の精神につきましては三種の神器にも伺れ、皇祖は皇孫の降臨に際して特にこれを授け給ひ、爾来神器は連綿として代々相傳へ給ふ皇位の御しるしとなつた。従つて歴代の天皇は皇位継承の際これを承けさせ給ひ、天照大神の大御心をそのまゝに傳へさせられ、就中(なかんずく)神鏡を以て皇祖の御靈代(れいだい=死者の霊のしるしとしてまつるもの。たましろ)として奉齋(ほうさい)し給ふのである。而してこの三種の神器(さんしゅのじんぎ=①八咫鏡《やたのかがみ》②天叢雲剣《あまのむらくものつるぎ》③八尺瓊勾玉《やさかにのまがたま》)については、或は政治の要諦を示されたものと解するものもあり、或は道徳の基本を示されたものと拜するものもあるが、かゝることは國民が神器の尊厳をいやが上にも仰ぎ奉る心がら自ら流れ出たものと見るべきであらう。
(四) 聖徳(せいとく=天子の徳)に就いて
次に聖徳について申上げます。聖徳について特に申上げておきたいのは、我が國をしろし召す天皇は萬世一系であることは申す迄もありませんが、萬世一系には二つの意義がありますが、その一つは血の一系であり、もう一つは心の一系であります。血の一系とは天孫の御子系が皇位に即れることで、支那辺りの禪譲(ぜんじょう=帝王がその位を世襲せずに有徳者に譲ること)の樣なものとは根元的の相違があるのであります。つまり支那では高徳、高知、人望、権力が標準として王政が起つてゐる。西洋も大略右の如き標準として君主がうちたてられてゐるが、我が國では血の一系が統治権を定めてゐるので、その思想に根本的の相違があるのである。次に心の一系でありますが之は御歴代が皇祖の御遺訓を継承せられてゆかれることで、神鏡奉齋の神勅にも現れ三種の神器を継承遊ばされて上皇室が下人民に御仁政を垂れさせられ、臣民は臣節を全うしてゆく點が之であります。此の點は歴代天皇の詔勅にも見られますが、例へば 明治天帝の憲法御告文に於ても 明治天皇が欽定(きんてい=君主の命による選定)遊ばされたものであるが、祖宗(そそう=現代以前の代々の君主の総称)の御精神をうげ継がれたる様仰せられたもので、心の一系を示されたものである。我等は此の二方面からして天皇が現人神であらせられることも明白となるのである。又我が國に於ては祭政教(=祭祀・政治・教育)の一致がある。之は天皇が祖宗の御遺訓を承継せられて御政治遊ばされるので祭致一致であり、又此の皇運を扶翼(ふよく=扶助)し奉り臣節を全うする臣民を教養する教育も亦祭政と一致するのは當然のことである。又愛民の御聖徳につきましては、御歴代の御事蹟に数々明瞭であります故こゝでは説明申上げません。
(五) 臣 節(しんせつ=人臣《=臣下》の守るべき節義)
次に臣節でありますが、臣節につきましては我が國民の和でありますが、個人の對他関係は和の精神で支配せられてゐまして、又此の和の精神で生々發展して来たのであります。
先づ人と神との関係でありますが、日本民族なるものは他民族とは異る神人関係で、和の精神で一貫してゐるのであります。西洋にも神はありましたが神人関係は敵對的抗爭でありました。例へば、ギリシヤのゼウスの神とクロメテウスの神話に於ても明かであります。クロメテウスがゼウスの神に進言して、人間に火を與へて戴きたいと願ひますとゼウスの神は、人間に火を與へたら人智が發達するから與へてはならぬと申されたので、クロメテウスは火をぬすんで人に與へたので神の怒の爲山中の巌にしばられたとのことです。つまり神人敵對の関係であります。ユダヤに於ても神人関係は愛とが服従ではなく、神は人間を放追するものとされてゐる。
日本に於ては神代の神々は親子の関係であり、神は人を愛護幸福に導き人は神を尊敬し服從したものです。此の和の精神は日本の民族精神であって、従って日本の歴史を創造する上に働いて来た尊い精神であります。君臣関係も同様和の一體のものであることは、御歴代の天皇は臣民を赤子の如く愛撫せられ、その幸福の爲に自己の運命をかけての御仁政を遊ばされたのであり、臣民は随順し奉り、自己の小さい生命を捨てゝ天きな生命の中に生くべきものとの信念のないものはありません。現代支那事變に於ても又史中人物も皆小我を捨てゝ大我に生きしは、國史に又現代に正しく顯現せられてゐる所であります。
次に國土と人間との関係でありますが、人と自然との間の最も親しい和の関係に見られます我が國は、海に圍(かこ)まれ、山秀で、水清く、春夏秋冬の季節の變化もあって、他國には見られない美しい自然をなしてゐる。此の美しい自然は神々と共に天神の生み給うた所のものであって、親しむべきものこそあれ恐るべきものではない。そこに自然を愛する國民性が生れ人と自然との和が成り立つ。印度の如きは自然に威壓せられてをり、西洋に於ては人が自然を征服してゐる観があって、我が国の如き人と自然との深い和は見られない。之に對して我が國民は常に自然と相和してゐる。
文藝にもこの自然との和の心を謳った歌が多く、自然への深い愛は我が詩歌の最も主なる題材である。それは獨り文藝の世界に限らず、日常生活に於てもよく自然と人生とが調和してゐる。公事、根源等に見える季節々々による年中行事を見ても、古くから人生と自然との微妙な調和が現はれてゐる。年の始の行事はいふに及ばす、三月の雛の節句は最自然の春にふさはしい行事であり、重陽の菊の節句も秋を迎へるにふさはしいものである。季節推移の著しい我が國に於ては、此の自然と人生との和は殊に美しく生きてゐる。その外家紋には多く自然の動植物が用ひられてをり、服装共他建築庭園等もよく自然の美を生かしてゐる。かゝる自然と人との親しい一體の関係も亦、人と自然とが同胞として相親しむ我が國本來の思想から生れたのである。 日本兵がなぜ強いが、その原因は自然と人との関係が一體的であることに見出される。つまり自然により日本人の勇気、勤勉、節制の美點が生み出されたと見ることが出來る。
次に人と人との関係の和につきましても、史中には個人と個人との爭、集團と集團との爭はありましたが、それは長い日本歴史中の例外であると考へられます。西洋人の人生観、世界觀はヘラクライストのいへる如く人間関係は戰である。この考へは西洋史上にも数々見える所で、十七世紀頃ホップスは人は人に對して狼であるといひ、又近くマルクスが従來の歴史は階級の世界とみてゐる。つまり人間の根源を爭闘とみる、之が政治産業組識にも見出されるけれども、日本では人と人との関係は同胞関係と考へられ、單に前に申しました神人関係だけでなく、人と人との和が基となっていろいろの思想を發生したので、之が時間的に發展したものであります。之が結局日本精神の基となり和の精神、産靈(むすび)の精神となったのである。
所が明治以來西洋文化の輸入と共に前述の如く理性中心の個人的色彩が濃厚となり、こゝに思想的又政治、産業、社會の上にゆきつまりを生じたのである。
目下支那事變を契機として日本獨自の精神に還元せられつゝある所はよろこぶべきことであるが、社會萬般に瓦つて刷新の聲高きの由つて來る所を自覺すると共に、日本獨自の性格を根柢として其の刷新に向ふべきである。現在の生活態度、精神内容、教育事實につき嚴密なる檢討と自省とをなし、日本のもつ文化を再認識して教育道に精進していたゞきたいものであります。本講義は國體の本義研究のため申し上げましたのですが、甚だ断片的でありましたが御靜聽を感謝します。(文責在記者)

●「國體の本義」 文部省編 昭和12年(1937年)刊 より 一部引用
ここでは、文部省「國體の本義」から、最初の「緒言」だけを引用する。日本国家の、西洋思想等に対する考えが、的確に述べられている。これこそが、明治から昭和へかけての、日本思想にほかならない。(ふりがな=○○○は、星野による、広辞苑、漢字源等による語意引用)


「國體の本義」(緒言)文部省編
緒 言
我が國は、今や國運頗る盛んに、海外發展のいきほひ著しく、前途彌々(いよいよ)多望な時に際會(さいかい=良いめぐり合わせ)してゐる。産業は降盛に、國防は威力を加へ、生活は豐富となり、文化の發展は諸方面に著しいものがある。夙(つと=以前から)に支那・印度に由来する東洋文化は、我が國に輪入せられて、惟神(かむながら=神でおありになるまま)の國體に醇化(じゅんか=純化)せられ、更に明治・大正以来、欧米近代文化の輪入によって諸種の文物(ぶんぶつ=文化の所産)は顯著な發逹を遂げた。文物・制度の整備せる、學術の一大進歩をなせる、思想・文化の多彩を極むる、萬葉歌人をして今日にあらしめば、再び「御民(みたみ)吾(われ)生ける驗(しるし)あり天地(あめつち)の榮ゆる時にあへらく念(おも)へば」と謳(うた)ふであらう。明治維新の鴻業(こうぎょう=大きな事業)により、舊来(きゅうらい)の陋習(ろうしゅう=わるい習慣)を破り、封建的束縛を去って、國民はよくその志を遂げ、その分を竭(つ)くし、爾來(じらい=その時以来)七十年、以て今日の盛事を見るに至った。
併(しか)しながらこの盛事(せいじ=盛んな事業)は、靜かにこれを省みるに、實に安穏(あんのん=やすらかにおだやかなこと)平静のそれに非ずして、内に外に波瀾萬丈、發展の前途に幾多の困難を藏(かく)し、隆盛の内面に混亂をつつんでゐる。即ち國體の本義は、動(どう=ややもすれば)もすれば透徹(とうてつ=澄んでにごりのないこと)せず、學問・教育・政治・經濟その他國民生活の各方面に幾多の缺陷(けっかん=欠陥)を存し、伸びんとする力と混亂の因(いん=原因)とは錯綜表裏し、燦然(さんぜん=あざやかに輝くさま)たる文化は内に薫蕕(くんゆう=良いにおいと悪いにおい)を併せつゝみ、こゝに種々の困難な問題を生してゐる。今や我が國は、一大躍進をなさんとするに際して、生彩と陰影相共に現れた感がある。併(しか)しながら、これ飽くまで發展の機であり、進歩の時である。我等は、よく現下(げんか=現今)内外の眞相を把握し、據(よ)って進むべき道を明らかにすると共に、奮起して難局の打開に任し、彌々(いよいよ)國運の伸展に貢献するところがなければならぬ。
現今我が國の思想上・社會上の諸弊(へい=弊害)は、明治以降餘りにも急激に多種多様な歐米の文物・制度・學術を輸入したために、動(どう)もすれば、本を忘れて末に趨(はし)り、厳正な批判を缺(か)き、徹底した醇化(じゅんか)をなし得なかった結果てある。抑(そもそも)我が國に輸入せられた西洋思想は、主として十八世紀以來の啓蒙思想であり、或はその延長としての思想である。これらの思想の根柢をなす世界観・人生観は、歴史的考察を缺(か)いた合理主義であり、實證主義であり、一面に於て個人に至高の價値を認め、個人の自由と平等とを主張すると共に、他面に於て國家や民族を超越した抽象的な世界性を尊重するものである。從ってそこには歴史的全體より孤立して、抽象化せられた個々獨立の人間とその集合とが重視せられる。かゝる世界観・人生観を基とする政治學説・社會學説・道徳學説・教育學説等が、一方に於て我が國の諸種の改革に貢獻すると共に、他方に於て深く廣くその影響を我が國本來の思想・文化に與(あた)へた。
我が國の啓蒙運動に於ては、先づ佛蘭西啓蒙期の政治哲學たる自由民権思想を始め、英米の議曾政治思想や實利主義・功利主義、獨逸の國權思想等が輪入せられ、固陋(ころう=かたくななこと)な慣習や制度の改廢(かいはい)にその力を發揮した。かゝる運動は、文明開化の名の下に廣く時代の風潮をなし、政治・経済・思想・風習等を動かし、所謂(いわゆる)歐化主義(おうかしゅぎ=明治20年前後、ヨーロッパ文化の移植を目的とした外交政策および社会風潮)時代を現出した。然るにこれに封して傳統復歸の運動が起った。それは國粹(こくすい=その国家・国民に固有の、精神上・物質上の長所や美点)保存の名によって行はれたもので、澎湃(ほうはい=水がぼんぼんとぶつかりあう音)たる西洋文化の輸入の潮流に抗(こう=さからう)した國民的自覺の現れであった。蓋(けだ=まさしく)し極端な歐化は、我が國の傳統を傷つけ、歴史の内面を流れる國民的精神を萎靡(いび=しおれてちぢむ)せしめる惧(おそ)れがあったからである。かくて歐化主義と國粹保存主義との對立を來し、思想は昏迷に陷り、國民は、内、傳統に從ふべきか、外、新思想に就くべきかに惱んだ。然るに、明治二十三年「教育二關スル勅語」の渙發(かんぱつ=詔勅を発令すること)せられるに至って、國民は皇祖皇宗の肇國樹徳の聖業とその履践(りせん=実践)すべき大道(たいどう=根本の道徳)とを覺り、こゝに進むべき確たる方向を見出した。然るに歐米文化輪入のいきほひの依然として盛んなために、この國體に基づく大道の明示せられたにも拘らず、未だ消化せられない西洋思想は、その後も依然として流行を極めた。即ち西洋個人本位の思想は、更に新しい旗幟(きし=旗じるしのこと)の下に實證主義及び自然主義として入り來り、それと前後して理想主義的思想・學説も迎へられ、又續いて民主主義・社會主義・無政府主義・共産主義等の侵入となり、最近に至ってはファッシズム等の輸入を見、遂に今日我等の當面する如き思想上・社會上の混亂を惹起(じゃっき=事件・問題などをひきおこすこと)し、國體に關する根本的自覺を喚起(かんき=よび起こすこと)するに至った。
抑(そもそも)社會主義・無政府主義・共産主義等の詭激(きげき=言行が度をこえて激しいこと)なる思想は、究極に於てはすべて西洋近代思想の根柢をなす個人主義に基づくものであって、その發現の種々相たるに過ぎない。個人主義を本とする歐米に於ても、共産主義に對しては、さすがにこれを容れ得ずして、今やその本來の個人主義を棄てんとして、全體主義・國民主義の勃興を見、ファッショ・ナチスの擡頭(たいとう)ともなった。即ち個人主義の行詰りは、歐米に於ても我が國に於ても、等しく思想上・社會上の混亂と轉換(てんかん=転換)との時期を将來(しょうらい=招来)してゐるといふことが出来る。久しく個人主義の下にその社會・國家を發逹せしめた歐米が、今日の行詰りを如何に打開するかの問題は暫(しばらく)く措(お)き、我が國に關する限り、眞に我が國獨自の立場に還り、萬古不易(ばんこふえき=いつまでもかわらないこと)の國體を闡明(せんめい=わかりにくいものをはっきりと明らかにする)し、一切の追随を排して、よく本来の姿を現前(げんぜん=目の前にあること)せしめ、而(しか)も固陋(ころう)を棄てて益々歐米文化の摂取醇化(じゅんか=純化)に努め、本を立てて末を生かし、聡明にして宏量(こうりょう=度量の広いこと)なる新日本を建設すべきである。即ち今日我が國民の思想の相剋(そうこく=両者が互いに勝とうとして相争うこと)、生活の動搖、文化の混亂は、我等國民がよく西洋思想の本質を徹見(てつけん=見通すこと)すると共に、眞に我が國體の本義を體得することによってのみ解決せられる。而(しこう=そうして)してこのことは、獨り我が國のためのみならず、今や個人主義の行詰りに於てその打開に苦しむ世界人類のためでなければならぬ。こゝに我等の重大なる世界史的使命がある。乃ち「國體の本義」を編纂して、肇國(ちょうこく)の由來を詳(つまびら)かにし、その大精神を闡明(せんめい)すると共に、國體の國史に顯現(けんげん=はっきりと現れること)する姿を明示し、進んでこれを今の世に説き及ぼし、以て國民の白覺と努力とを促す所以(ゆえん=理由)である。 
*リンクします(講話)「国体の本義」小川義章(現在非公開)→
*リンクします「文部省國體の本義」→
*(参考)リンクします「解説國体の本義」→ |
1937年 昭和12年 5月31日 | ●林銑十郎内閣総辞職する。総選挙で負け、民政党・政友会の両党(絶対多数を占めた)による退陣要求で、林銑十郎内閣は組閣以来4ヶ月足らずで総辞職した。 (新聞)6/1東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊 |
1937年 昭和12年 6月4日 | 第1次近衛文麿内閣成立 (近衛文麿・このえ-ふみまろ)政治家。公爵。篤麿の長男。名は「あやまろ」とも。東京出身。京都帝大法科卒。昭和8年(1933)貴族院議長。同12年組閣。同15年第二次内閣を組閣。大政翼賛会を設立し、日独伊三国同盟を締結。他方、日米衝突回避に努力したが失敗。第三次内閣総辞職後、日米開戦に至る。戦後、内大臣府御用掛として憲法改正調査に着手したが、戦犯指定を受けて服毒自殺。明治24~昭和20年(1891-1945)(出典)「日本国語大辞典精選版」
●「青年貴族宰相(47歳)」として国民の期待を受けた近衛文麿に大命が下り、第1次近衛文麿内閣が成立した。近衛は45歳で貴族院議長、公爵で藤原氏直系五摂家筆頭にあたる近衛家当主、そしてインテリ(京大卒・河上肇にも学んだ)で国民の人気も高く、ファシズムに対抗できる進歩性にも期待され、天皇からも軍部からも政党からも支持を受けていたのである。しかし近衛首相は、軍部の要求する軍備拡張に対する問題や、軍部が華北へと侵攻していく中での日中関係調整の課題などを解決できず、逆に軍部に迎合し日本を戦争に煽っていったのである。
●特にその政治姿勢が非難されることは、近衛内閣が成立してほぼ1カ月後に盧溝橋事件(7/7)が勃発すると、近衛内閣はすぐに事件不拡大方針を決定したが、7/11近衛内閣は現地で正式に停戦協定が成立したにもかかわらず、不拡大方針をくつがえし華北派兵の政府声明を発表してしまうのである。
●近衛首相は6/4の初閣議で次のように発言した。『持てる国と持たざる国』(「昭和2万日の全記録」講談社より) 「国際間にありてはいわゆる『持てる国』と『持たざる国』との対立なり。今日の世界不安はこれに基づく」と発言。領土や資源の豊富な英米仏と、乏しい日独のような国があるのは公平ではなく、日本が中国大陸に進出するのは当然である、という理屈で侵略戦争を正当化しようとした。 とある。 (新聞)6/4東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊 |
1937年 昭和12年 6月9日 | ●大阪国技館が開館(東洋一の屋内催し場である)。この年の5月に竣工したばかりの大阪国技館で6/9、13日間の大阪場所が始まった。鉄筋コンクリート4階建て、2万5000人収容の場内は連日満員だった。 (写真)「アサヒグラフ」6月30日号(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 |
1937年 昭和12年 6月11日 | ソ連、スターリンによる粛正 ●6/11、トハチェフスキー元帥らソ連赤軍の最高幹部8名が、非公開の軍事裁判にかけられた。6/12全員が銃殺刑を宣告され、ただちに執行された。1936年から1938年にかけて、98人の新旧中央委員を含む多数の高官が「人民の敵」という名目で粛正された。 (新聞)6/13東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
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1937年 昭和12年 6月日12 | (川端康成「雪国」刊行)
●この日創元社から川端康成の小説「雪国」が刊行された。これは「文藝春秋」昭和10年1月号から「改造」昭和12年5月号まで、さまざまな雑誌に発表された連作をまとめたものである。7月に第3回文芸懇話会賞を受賞した。 |
1937年 昭和12年 6月19日 | カンチャーズ島(乾岔子島)事件発生 ●満ソ国境の黒竜江に浮かぶカンチャーズ島にソ連兵が上陸した。20日、満州国軍国境監視隊とソ連軍の小部隊が交戦、ソ連軍が同島とキンアムカ島を占拠した。日本側は、駐ソ大使重光葵を通して再三抗議を申し入れ、29日ソ連は撤退に同意した。
●そしてソ連軍は7/4撤退を完了した。
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1937年 昭和12年 7月7日 | 盧溝橋事件勃発(日中戦争の始まり) ●昭和12年(1937年)7/7、北平(ペイピン=北京)西南約6kmの永定河にかかる盧溝橋で日中両軍が軍事衝突を起こした(盧溝橋事件)。(新聞)昭和12年7/9東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●この盧溝橋事件が起きた時、日本政府(近衛文麿首相ら)、参謀本部、陸軍大臣らの間では方針の対立があった。陸軍大臣杉山元(はじめ)は強硬派であり7/9の閣議では華北へ3個師団派遣を提案した。しかし政府はこの提案を退け、事件不拡大・現地解決の方針を決定する。そして参謀本部の第1部長(作戦)の石原莞爾少将も、満州国に対するソ連の攻撃を想定しており中国に侵攻することには反対だった。しかし杉山陸相による
「日本に盾をつく生意気な支那に対して、断固として一撃を加えるべきだ」 とする強硬派は勢力を増していった。2日後の7/11近衛文麿首相は閣議で、現地でまとまっていた停戦交渉を反故にし、3個師団派兵を決定し、派兵を内外に声明してしまうのである。
●一方蒋介石はこれまで共産党掃討を最優先していたが、前年の1936年12/12張学良が内戦停止と抗日民族統一戦線を訴え蒋介石を監禁する事件(西安事件)が起こると、蒋介石と周恩来(共産党)は歴史的会見を行い、内戦停止、一致抗日、救国会議招集に合意したのである。そして盧溝橋事件が起こると、共産党は全民族的抗戦を唱え、蒋介石は7/17廬山での各界指導者会議で、激しく中国の領土主権の保持と内政干渉を許さないという下記の「最期の関頭」を声明した。そして9/23蒋介石はついに共産党との合作を承認したのである。 「弱小国家とはいへ不幸にもその犠牲の最期の関頭に至った場合、我等に残された道は唯々抗戦の一路あるのみ」 と徹底的抗戦により全民族の生命を賭して国家の存続を求むべきことを表明したのである。
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盧溝橋事件の背景とポイント ●日本は、昭和7年(1932年)に満州国を建国させ、昭和8年3月に熱河省を占領し、5月には長城線を越え北平(北京)・天津付近まで侵攻し、「塘沽停戦協定」を結ばせ長城内部の河北省に非武装地帯を設けさせた。
●昭和10年においても日本の目的は「華北分離政策」であり、綏遠省、チャハル省(察哈爾省)、河北省、山西省、山東省の5省を国民政府から分離させ傀儡政権を誕生させることだった。そして6月に梅津・何応欽協定、および土肥原・秦徳純協定を結び、河北省とチャハル省から中国国民党の機関と国民政府中央軍を排除することに成功した。 
●そして11/25河北に、親日派の殷汝耕を長とする「冀東防共自治委員会(12月に冀東防共自治政府と改称)」を作り国民政府からの離脱を宣言させた。日本はさらに分離政策を強めたため、国民政府は12/18、自らの支配権の及ぶ政権として「冀察政務委員会」を作り、西北軍閥で第29軍を率いる宋哲元を委員長に任命した。(冀察の「冀」は河北省の別称で「察」はチャハル省を指す)
こういった日本の動きは中国民衆の激しい怒りを呼び、中国全土において抗日救国運動が広がっていた。
●さらに関東軍は、内蒙古にも工作をすすめ、チャハル省の徳王に内蒙古軍政府を組織させ、中国からの分離を図った。そして昭和11年(1936年)11月、関東軍の援助で綏遠東部に侵攻したが、中国軍に大敗した(綏遠事件)。そしてこの事件はさらに抗日運動を激化させたのである。
●日本はこの抗日運動に対して武力をもって対抗しようと考え、昭和11年(1936年)5月に北支派遣軍に約4000人を増員派遣した。この駐屯軍は、北京条約(1901年)で各国(日・英・米・仏・露など)が清朝政府に動乱防止(義和団事件)のために、5000人以下の軍隊を駐屯させることを認めさせたものだった。日本は約1770人を駐屯させていたのをここで増員派遣し、北京郊外の盧溝橋付近にも軍隊を駐屯させ演習を始めたのである。衝突はおこるべくして起こったのである。この時「支那側の敵対行為は確実であり、断固攻撃してかまわない」と命令した連隊長は、あの牟田口廉也大佐(後の第15軍司令官で無謀なインパール作戦で歴史的な敗北をした司令官)であったことも知っておかねばならない。
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7月~8月の軍事行動の流れ(簡略) ●7/7中国北平郊外の盧溝橋で日中両軍衝突(盧溝橋事件勃発)。
●7/9近衛内閣臨時閣議で事件の不拡大方針を決定する。
●7/11支那駐屯軍と冀察政務委員会(宋哲元)との間に盧溝橋事件の現地停戦協定成立。
●7/11近衛内閣、華北の治安維持のため派兵を行うことを内外に声明。
●7/13陸軍省「北支事変処理方針」を決定、局面の不拡大・現地解決、現地協定の承認を決定、現地軍に通知する。
●7/17蒋介石、廬山にて「最後の関頭」で徹底抗戦を声明。 
●7/25北平東方、郎坊駅付近で日中両軍衝突。7/26北平広安門で日中両軍衝突。
●7/27閣議で、内地3個師団の動員・派兵を決定。政府、華北での武力衝突は自衛行動との談話を発表。
●7/28支那派遣軍、第29軍に対して総攻撃を開始、7/30までに日本軍、平津地区を制圧。
●7/29日本の航空隊、冀東自治政府(殷汝耕)の保安隊を誤爆。
●7/29冀東自治政府保安隊、日本人約200人を殺害(通州事件)
●8/9上海陸戦隊西部派遣隊長大山勇夫中尉、中国保安隊に射殺される(大山事件)。
●8/9参謀総長、支那駐屯軍・関東軍にチャハル省南部作戦実施を命令。(陸軍)
●8/12軍令部総長、第3艦隊司令官長谷川清に上海確保を命令。(海軍)
●8/13閣議、上海方面の居留日本人保護のため、陸軍部隊の派遣を決定。
●8/13上海の中国軍、日本の陸戦隊陣地を攻撃交戦状態となる。(第2次上海事変勃発)
●8/14海軍航空隊中国渡洋爆撃、広徳・杭州、8/15南京(大村基地発進)・南昌(台北基地発進)を行う。
●8/23上海派遣軍の第3師団(名古屋)、第11師団(善通寺)、上海に強行上陸し、全面攻撃開始。
●8/25第3艦隊司令長官長谷川清、中国沿岸約680マイルにわたり中国公私船舶の海上交通を遮断したと宣言。
●8/31支那駐屯軍を北支那方面軍に改編し(司令官寺内寿一陸軍大将)、第1軍、第2軍を編成する。
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1937年 昭和12年 7月28日 | 支那派遣軍、第29軍に対して総攻撃開始 ●この第29軍とは「冀察政務委員会」の宋哲元の指揮する4個師約10万の兵力である。日本軍は7/30までに平津地区(北平《北京》・天津)を制圧する。 (新聞)7/29東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
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1937年 昭和12年 8月13日 | 第2次上海事変勃発 ●盧溝橋事件後、日中両軍は華北・華中にて一触即発の状態となり、7/25北平東方の朗坊駅付近、7/26北平広安門付近で両軍は衝突した。そして7/29関東軍の航空隊が冀東自治政府長官殷汝耕隷下の保安隊を誤爆したことから、通州事件(日本人約200人殺害)が起こった。そして戦闘は拡大し8/9上海で海軍陸戦隊員射殺事件(大山事件)が起こると、8/13両軍は交戦し第2次上海事変勃発となった。 (新聞)昭和12年8/14と8/15東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●そして8/15日本政府は中国との全面戦争を声明、実質の宣戦布告にも等しい宣言を行ったのである。
その意味するところは「暴虐な支那(中国)を懲らしめよ」であり、陸軍大臣の「日本に盾をつく生意気な支那に対して、断固として一撃を加えるべきだ」の意味でもある。のちに「鬼畜米英、暴支膺懲」となっていく。
「中国の暴戻(ぼうれい)を膺懲(ようちょう)し、国民政府の反省を促すため断固たる措置をとる」 ●だが中国側も日本の増兵に刺激されて最新鋭の6個師団を上海周辺に配備して日本軍をむかえた。そしてさらに中国側は華北での戦いに見切りをつけ、上海を死守するとして中央軍の精鋭を投入、蒋介石みずから指揮をとった。圧倒的に優勢な中国軍に包囲された陸戦隊は、海軍の航空部隊と艦船による支援で辛うじてもちこたえていた。8/23陸軍の第3師団先遣隊と第11師団が揚子江から上陸したが、海岸に釘付けとなり上海市内に入ることができなかった。こうして戦線は膠着していった。
「当時の上海と大山事件(昭和12年8/9)、第2次上海事変(8/13)」  ●下は海軍省支那事変「海軍作戦記録」の数カ所を切り取った映像である。本編は日映(社団法人日本映画社)が1939年(昭和14年)製作したもので、国内では映画館で上映された。撮影は海軍省特設写真班とある。8/9の大山勇夫中尉殺害事件など当時の上海と海軍陸戦隊による上海市街戦の様子が映っている。陸戦隊とはアメリカ軍の海兵隊のような部隊のことである。この映像は日本側から撮影したものであるから、国内向け戦意高揚の意味もあったと考えられる。「中国が先に発砲、やむなく自衛のため応戦」とあるのも割り引いて聞かねばならないだろう。 (新聞)8/10東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊※(YouTube動画、サイズ59.3MB、6分43秒)
「日本、南京渡洋爆撃(東シナ海渡洋)を行う。1937年(昭和12年)8/15」  ●下の動画は前段と同じ海軍省支那事変「海軍作戦記録」の一部分である。中国軍は上海に精鋭を投入し、陸軍は第3師団先遣隊と第11師団を派遣し8/23上海近郊に上陸させたが、大苦戦となり戦線は膠着した。日本は8/14(広徳、杭州)、8/15(南京、南昌)と海軍の新鋭機「九六式陸上攻撃機」で渡洋爆撃を行った。軍事目標を掲げていても、その実は残虐な都市無差別爆撃となるので、各国は日本のこの軍事行動を非難した。 (新聞)8/16東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊※(YouTube動画、サイズ52MB、6分44秒)
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1937年 昭和12年 8月20日 | 閣議、軍需工業動員法の発動を決定 ●これは従来からある軍需工業動員法(昭和7年4月17日法律第38号)を「戦時」の限定をはずし、平時戦時にわたる大量の軍需品生産を可能とする工業動員体制を作るために、平時から民間工業が軍需工業へ転換可能な準備をし、そのための機械、労働力、原料の確保を行い、軍需工業の総動員を実現するためのものである。そして1937(昭和12)年9月10日「軍需工業動員法ノ適用ニ関スル法律」が公布、施行され、その全面発動が決定された。これは「輸出入等臨時措置法」・「臨時資金調整法」とならんで戦時統制3法と称された。そして1938(昭和13)年4月1日の国家総動員法(同年5月5日施行)に吸収されていくのである。 |
1937年 昭和12年 8月22日 | ●中国共産党指導下の紅軍約3万人、国民革命軍第8路軍に改編される(総司令朱徳)。これは国共合作に際して、華北を中心に展開していた中国共産党の紅軍が国民革命軍に編入されたものである。
●9/25この8路軍が、平型関で日本軍の第5師団・第21旅団の後続部隊約1000人を全滅させる。日中戦争で初めて日本軍に勝った戦いと宣伝された。 |
1937年 昭和12年 8月24日 | 閣議、「国民精神総動員」実施要綱を決定する。 ●その趣旨と指導方針の一部は以下のようである。そして9/22には「国民精神総動員強調週間実施要綱」が閣議決定された。その内容は、国民自らが日中戦争の重大さを知り、積極的な戦争参加と国家への忠誠を誓うように、「社会風潮ノ一新、時局ニ対応スル生活ノ刷新」を宣伝の中心題目と定めたものだった。
●具体例として、特にラジオ放送では、「国民朝礼の時間」「時局生活」「出動将兵への感謝」「非常時経済」「銃後の護」「神社崇拝」「勤労報国」「心身鍛練」などの特別番組が編成された。また11/3の「明治節=明治天皇の誕生日」には、全国民が一斉に明治神宮を遙拝することになった。また軍の動員によって働き手を失った農村に対する勤労奉仕で、この年には全国9割の町村で、約493万人が田植え、稲刈りなどの農作業に動員された。
一、趣旨
挙国一致堅忍不抜ノ精神ヲ以テ現下ノ時局ニ対処スルト共ニ今後持続スベキ時艱ヲ克服シテ愈々皇運ヲ扶翼シ奉ル為此ノ際時局ニ関スル宣伝方策及国民教化運動方策ノ実施トシテ官民一体トナリテ一大国民運動ヲ起サントス
二、名称
「国民精神総動員」
三、指導方針
(一)「挙国一致」「尽忠報国」ノ精神ヲ鞏ウシ事態ガ如何ニ展開シ如何ニ長期ニ亘ルモ「堅忍持久」総ユル困難ヲ打開シテ所期ノ目的ヲ貫徹スベキ国民ノ決意ヲ固メシメルコト・・(以下略)
*リンクします「国民精神総動員実施要綱」 国立国会図書館リサーチ・ナビ→ |
1937年 昭和12年 9月2日 | ●閣議で、「北支事変」が拡大したため、「支那事変」と改称することに決定する。「日華事変」であり「日中戦争」である。 |
1937年 昭和12年 9月4日 |
●9/3に招集された第72臨時帝国議会での勅語は以下のようであり、事実上の宣戦の詔勅に代わるものだった。
朕(ちん)茲に帝國議會開院の式を行ひ貴族院及衆議院の各員に告く
帝國と中華民國との提携協力に依り東亞の安定を確保し以て共榮の實(実)を擧くるは 是れ朕か夙夜(しゅくや=朝早くから夜遅くまで)軫念(しんねん=天子が心を痛めること)措かさる所なり 中華民國深く帝國の眞意を解せす濫(みだり)に事を構へ遂に今次の事變を見るに至る 朕之を憾(うらみ)とす 今や朕か軍人は百艱(ひゃくかん)を排して其の忠勇を致しつつあり 是れ一(いつ)に中華民國の反省を促し速(すみやかに)に東亞の平和を確立せむとするに外(ほか)ならす 朕は帝國臣民か今日の時局に鑑み忠誠公に奉し和協心を一にし贊襄(さんじょう)以て所期の目的を達成せむことを望む
朕は國務大臣に命して特に時局に關し緊急なる追加豫算案及法律案を帝國議會に提出せしむ卿等克く朕か意を體し和衷協贊の任を竭(つく)さむことを努めよ ●こうして衆議院本会議は9/7、20億2200万円の臨時軍事費その他の「支那事変関係追加予算」を決定し、法律として「臨時軍事費特別会計法」、「支那事変に関する臨時軍事費支弁の為公債発行に関する法律」を通したのである。こうして前回第71議会(7/25~8/7)での約5億1600万円と合わせて、約25億3800万円もの臨時軍事費を成立させ、「陸海軍に対する感謝の件」の決議案を満場一致で採択したのであった。 (新聞)9/5東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
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千人針・慰問袋・出征 (写真などの出典は「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊から)
●「千人針」
「千人針は日露戦争の頃から始まったといわれる。1000個の丸い判を捺したさらしの綿布に赤糸で1000人の女性に一針ずつ縫ってもらい「弾丸よけ」として出征兵士に贈った。「死線(四銭)をこえ、苦戦(九銭)をくぐって、生きながらえる」という思いを込めて、五銭や十銭を縫いつけたものもあった。出征兵士を送る銃後の女性たちは「名誉の戦死」よりも「武運長久」の祈りを千人針にこめたのである。
召集令状が(赤紙)がきてから入営までの数日間(長くても1週間)に1枚の千人針を完成するのは、女性たちにとってたいへんな苦労だった。(後略)」
 (写真・部分)「小学校の同級生から出征兵士に贈られた千人針」出典(所蔵・靖国神社遊就館)(資料提供・柏木勝)(詳細・略)
●「慰問袋」
千人針とともに、戦場の兵士たちの大きな慰めとなったのが、慰問袋だった。下の左写真は慰安袋の中身で、手紙の入った慰問袋は兵士たちの奪い合いになった。右の写真は、慰問袋を送る伊万里市の婦人団体。 (出典)(写真左)「ホームライフ」昭和12年10月号。(写真右)佐賀新聞社
●「出征」
下左写真は、「銀座の泰明小学校で行われた出征兵士の壮行会1937年11月」。下右写真は、「応召兵となった東京神田小川町の出版社社員。集まった会社の同僚、愛国婦人会会員、町内会の人々の激励を受ける。召集は「名誉」なこととされ、家族も嘆くことは許されなかった。戦局の拡大につれて、服装も男たちは国防服ににゲートル、女たちは白い割烹着にもんぺと変わっていったが、このころはまだ普通の洋服や着物姿が目立つ。」
(出典)(写真左)朝日新聞社「目撃者」写真-土門拳(東京銀座)。(写真右)「昭和2万日の全記録」講談社
●「銃後の護り」
下写真は「出征軍人家族慰安会」。12/5、北海道江部乙町(現滝川市)で出征軍人の家族のための慰安会が開かれた。写真は同町の写真館主人が撮影したもの。左端には、かっぽう着にたすきをかけた大日本国防婦人会の姿が見える。-撮影・岩佐職司(出典)「昭和2万日の全記録」講談社

●左から①「女子青年団の武装演習」・・10/17に撮影された青森県斗川村(現三戸町)女子青年団の武装演習。未婚女性の社会教育機関だった女子青年団も戦時色が強まると、男子の青年団同様、軍事訓練や銃後の奉仕が実施された。-写真・東奥日報社。
②「学校工場」・・このころは、軍需産業への本格的な動員はまだだったが、学業の合い間に奉仕が実施され、女学生たちは学校で慰問袋をはじめ、白衣、赤十字の記章などの製作に取り組んだ。写真は、教室で白衣を縫う女学生。10月撮影。-撮影・影山光洋。
③「もんぺ式婦人国防服」・・「ホームライフ」11月号掲載の女学生向け国防服。セーラー服の上から着られるもんぺ式で、戦時にふさわしい国民服として、現大妻女子大学の創設者大妻コタカが考案した。
④「ダンサーたち愛国婦人会へ強制的に入会」・・愛国婦人会赤坂葵分区に組織されたダンスホール・フロリダのダンサーたち。東京赤坂で11月撮影。12年に入り、国防婦人会と愛国婦人会の対立が表面化し、都会の職業婦人たちも、次々と強制的に、これらの婦人会に取り込まれていった。-撮影・影山光洋。
●「静岡連隊の満州出発(昭和10年)と帰還(昭和12年)」
「出発」・・下左写真は昭和10年(1935年)12/13、満州派遣のため歩兵第34連隊(静岡)の営門を出る初年兵たち。同連隊出入りの従軍カメラマン柳田芙美緒が撮影した。この中の多くが日中戦争の上海の激戦で戦死し、2年後の12/18午後2時、遺骨となって同隊に帰還する。-写真・読売新聞社。
「帰還」・・下右写真は、2年前に満州に出征した静岡の歩兵第34連隊が12/18帰還した。柳田芙美緒が出征のときと同じ時間、同じ場所、同じアングルで撮影した写真だが、ほとんどが遺骨となっていた。静岡連隊は上海派遣軍に組み入れられ、この年の8月の奇襲上陸以来、激戦の上海戦線で多くの戦死者を出した。-写真・読売新聞社。
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1937年 昭和12年 9月8日 | 日赤看護婦、上海到着 ●日本赤十字社は、日中戦争が始まると同時に、救護班を組織し、前線に送り出していた。写真は、9/8上海に到着、すぐに野戦病院入りした救護看護婦(通称、従軍看護婦)たち。日赤の看護婦は、資格取得後20年間は応召の義務があった。
●また11/30、日本赤十字本社は、全国の同社33病院中17病院を日中戦争傷病者収容に当て、一般の入院を中止と決定した。 (写真・毎日新聞社)(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
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1937年 昭和12年 9月10日 | ●「軍需工業動員法の適用に関する法律」「臨時資金調整法」など戦時統制に関する法律を公布。 |
1937年 昭和12年 9月11日 | ●東京小石川に後楽園球場が開場した。後楽園スタヂアム(社長早川芳太郎)が陸軍砲兵工廠跡地に4月に着工したもの。総工費89万8400円、収容人員約3万人。写真はこの日の記念式の様子。 (写真・毎日新聞社)(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 |
1937年 昭和12年 9月20日 | ●英米両国政府、日本軍による南京爆撃中止を日本政府に申し入れる。海軍第2連合航空隊は9/19に2回にわたり南京の軍事施設を爆撃した(9/25までに合計11回)。 |
1937年 昭和12年 9月23日 | 第2次国共合作成立 ●蒋介石は、中国共産党の合法的地位を承認し、団結救国を指摘する談話を発表した。蒋介石は前年の12月の西安事件そしてこの年の7月の盧溝橋事件を経て、ついに国共合作による対日抗戦を決意したのである。 |
1937年 昭和12年 9月25日 | 内閣情報部官制公布施行 ●従来の内閣情報委員会を内閣情報部に改組し、言論統制と思想宣伝の一元的機関として機能させた。昭和15年には情報局に昇格した。
●9/25内閣情報部は、国民歌「愛国行進曲」の募集規定を発表した。内閣情報部は流行している歌謡曲の軟弱な歌詞が気に入らず、「・躍進日本を象徴し、全国民の精神作興の一助になり、鉄のような結束の下に全国民が永遠に唱和する『国民行進曲』を作りたい」と考えていたのである。「愛国行進曲」の歌詞の募集は、10/20の締め切りで、応募作5万7578編のなかから、鳥取県の23歳印刷業森川幸雄の作品が1位に選ばれた。作曲は「軍隊行進曲」の作曲者である瀬戸口藤吉の曲が1等として発表された。
12/26夜、発表会が東京日比谷公会堂で行われ全国にラジオ中継放送がされ、昭和13年レコードが6社から発売され100万枚を超える大ヒットとなった。「愛国行進曲」は昭和12年12/27~12/31の間、歌唱・東京リーダー・ターフェル・フェラインで「国民歌謡」(日本放送協会)で放送された
●また「露営の歌」は昭和12年7/7日中戦争勃発に際し、『東京日日・大阪毎日新聞』が戦意高揚のため「進軍の歌」の歌詞を公募し、第2位に選ばれ「進軍の歌」のB面に吹き込まれたものである。この曲は「愛国行進曲」とは対照的に哀調のあるメロディーで、レコード発売6ヶ月で60万枚を超えるヒットとなった。
●また「海ゆかば」は昭和12年、日本放送協会の委嘱により、「万葉集」の大伴家持の長歌の一節に、要人が講演する際のテーマ曲として信時潔が曲をつけたものである。10/13、国民唱歌放送が始まり、第1回がこの「海ゆかば」で10/19まで放送された。「国民歌謡」でも昭和12年11/22~11/27に歌唱・松山芳野里で放送された。太平洋戦争中には、玉砕を報ずるときのテーマ曲に用いられた。 |
1937年 昭和12年 9月27日 | ●日中戦争不拡大方針の参謀本部第1部長石原莞爾、関東軍参謀副長に転補(追放)。後任に下村定少将。 |
1937年 昭和12年 9月28日 | ●国際連盟、日本軍の無防備都市爆撃を非難する決議案を全会一致で可決。(外務省は29日反駁声明を行う) |
1937年 昭和12年 9月28日 | 日本婦人団体連盟設立(会長ガントレット恒子) ●この連盟に参加したのは8団体で、基督教女子青年会日本同盟(代表委員辻まつ子)、日本女医会(会長吉岡弥生)、婦人同志会(会長吉岡弥生)、婦選獲得同盟(総務理事市川房枝)、婦人平和協会(会長河井道子)、日本基督教婦人矯風会(会頭ガントレット恒子)、全国友の会(代表委員羽仁もと子)、日本消費組合婦人協会(会長押川美香)であった。
●官庁系の婦人会には明治以来の「愛国婦人会」があり、戦死者の遺族を援護したり、出征する兵士を送るなどの活動をしていた。昭和12年には会員数330万人に近づく全国組織に成長していた(会長は皇族から選ばれていた)。また「愛国婦人会」に対抗して昭和9年に結成された庶民的な「大日本国防婦人会」は、幹部は現役将校の夫人で、「愛国婦人会」の紋付羽織に対して、白いエプロンに会名入りのたすきがけで「銃後の護りは私たちの手で」と教えられていた。会員数は昭和11年末には360万人にもなっていた。
●この新たに設立された「日本婦人団体連盟設立」は上の官庁系の婦人団体とは違っていた。その多くが長い歴史を持ち、女性の権利獲得に自主的に取り組み、国際的なつながりもあった。だがこの設立の宣言には次のようにあった。 「国家総動員の秋(とき)我ら婦人団体も亦協力以て銃後の護りを真に固からしめんと希ひ、茲(ここ)に日本婦人団体連盟を結成して起たんとす」 ●女性の解放、地位の向上を地道に進めてきた諸団体が、結局は時流に迎合し、時局に協力するような形で大同団結していったのである。 |
9月~10月の軍事行動の流れ(簡略) ●日本は8/9の大山海軍中尉射殺事件に端を発した第2次上海事件勃発後、次々と兵力を上海に投入した。一方中国側も政治・経済の中枢をなす揚子江下流域を守るため中央の精鋭軍をあてた。また、上海は抗日反日の拠点であり戦意が強く、日本軍は苦戦を強いられた。
●華北戦線は拡大し、8/24には支那駐屯軍がチャハル省に侵攻した。8/31に新たに編成された北支那方面軍(司令官寺内寿一大将)は、9/14には南下前進を開始し、9/24には第1軍(司令官香月清司)が保定を占領し、さらに軍の進出限界である保定-独流鎮を越えて石家荘への進撃にうつった。 
●上海では、優秀な国民党中央の正規軍に包囲されて損害はひどくなる一方だった。上海の戦線は、中国軍の頑強な抵抗で膠着し、いたずらに損害を重ねる状況が続いたのである。9/1には上海方面増派のため第5次増員として、第101師団などに対する動員が下令された。これらの師団は9月下旬から10月上旬にかけて上海派遣軍に編入された。昭和12年中に招集された陸軍の兵員数は47万人にのぼった。
●参謀本部は10/20、新たに柳川平助中将を軍司令官とする第10軍(第6師団・第18師団・第114師団および第5師団の一部などにより編成)を編成し、膠州湾北岸に上陸するように命令を下した。さらに、北支那方面軍から第16師団等を転用し、上海より少し上流の白茆口から上陸するように命じた。
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1937年 昭和12年 10月5日 | 米大統領ルーズベルト、日独を侵略者と非難 ●米大統領ルーズベルトは、国際平和のため諸国民の協力を要請し、日独を侵略者として非難する(隔離演説)
●10/6国際連盟総会は、日中戦争に関して、日本の行動は9カ国条約とパリ不戦条約に違反するとの決議を採択する。
●10/9外務省は、日中戦争を条約違反とする国際連盟および米国務省に対し、やむを得ない自衛処置と反論声明を出す。 |
1937年 昭和12年 10月12日 | 国民精神総動員中央連盟結成式挙行 ●有馬良橘海軍大将を会長に、財界など民間各界の代表者を理事や評議員とする国民精神総動員中央連盟が発足、主務官庁である内務・文部両省の指導のもとに、県知事を地方実行委員長として、全国神職会、全国市町村会、在郷軍人会など74団体を組織して運動が推進された。下にリンクした「・・事業概要」のなかの「第1回国民精神総動員強調週間(昭和12年10/13より実施)」をみると具体的な実践項目がわかる。 *リンクします「国民精神総動員中央聯盟事業概要. 昭和12年度」国民精神総動員中央聯盟 編昭和14年刊 → |
1937年 昭和12年 10月25日 | ●企画院官制公布施行。これは5月に内閣調査局が廃止され、国策統合調整機関として開設された企画庁が、内閣資源局と統合され、各種動員計画・生産力拡充計画の立案が主業務となった。 |
1937年 昭和12年 11月2日 | 広田弘毅外相、対中和平条件を駐日独大使ディルクゼンに伝える。 (5日、トラウトマンが和平工作を開始する)
●陸軍中央は、2,3ヶ月で中国との戦争を終結させるつもりが、中国の頑強な抵抗により戦争は長引き、国内の弾薬庫が空になるほどの事態に困惑した。中国側も華北を取られ、華中でも日本軍の勢力が強まるにつれ国民政府内部でも和平の動きが出始めた。そこで、日本政府は和平斡旋をドイツに依頼し、中華ドイツ大使トラウトマンが日中間に立ったのである。
●12月に入ると蒋介石は日本に屈服するつもりでトラウトマンと会談し、領土保全を条件に、日本の要求を受け入れる形で、日本側にその和平条件の提示を求めた。駐日ドイツ大使ディルクゼンはその旨を、広田弘毅外相に伝えた。
●ところが広田は即答を避けた。近衛首相や杉山元陸相らは、もっと中国に対する条件を加重するように強硬だったからである。
●しかし参謀本部(陸軍)だけは早期解決を望んでいた。不拡大方針の石原莞爾が去っても、参謀本部はソ連に対する防衛上の関係で中国に戦線を拡大することには反対であったからである。 |
1937年 昭和12年 11月5日 | 第10軍杭州湾北岸に上陸作戦敢行 ●第10軍(司令官柳川平助)、支那方面艦隊護衛のもとに杭州湾北岸に上陸、上海戦線の背後をつく。 |
1937年 昭和12年 11月6日 | 日独伊三国議定書、ローマで調印 ●これは前年11月の「日独防共協定」にイタリアが参加したもので、後の日独伊3国を中心とした軍事同盟、いわゆる枢軸国形成の先駆けとなる。この「枢軸」というのは、スペイン内乱以来、独伊の協力関係は「ベルリン・ローマ枢軸」と呼ばれていたが、この時から日独伊の3国およびその同盟国の友好関係を「枢軸」と呼ぶようになった。元々は政治機構の中心という意味。 |
1937年 昭和12年 11月18日 | 大本営令公布 ●戦時大本営条例を廃止し、事変の時も大本営を設置できるようにした。宣戦布告をしていない「日華事変」には適用できなかったからである。そして11/20宮中に大本営を設置した。これにより、東京の三宅坂の参謀本部が「大本営陸軍部」、霞ヶ関の軍令部が「大本営海軍部」と改称された。 |
1937年 昭和12年 12月1日 | ●大本営、中支那方面軍戦闘序列と同方面軍・支那方面艦隊に南京攻略を下命する。 |
1937年 昭和12年 12月1日 | ●東大経済学部教授矢内原忠雄、反戦的筆禍事件で辞表提出(矢内原事件)。これは、かねてより日本の植民地政策批判を行っていた矢内原教授が、中央公論に発表した「国家の理想」が反戦的であるとして弾圧された事件である。 |
1937年 昭和12年 12月12日 | 日本海軍機、米国砲艦パネー号を撃沈(パネー号事件) ●これは、日本海軍機が、米国の砲艦パネー号を揚子江南京付近で誤爆により撃沈した事件。パネー号にはアメリカ大使館の臨時事務所がもうけられており、このことは誤爆回避の要請とともに日本軍には通知されていた。そのため軍部の意図的な攻撃との意見もあったが、日本政府は即座に陳謝、アメリカも了承し、翌年の賠償金支払いで解決した。だがこの事件でアメリカの対日世論が悪化したことは、あとあと影響をあたえた。
●同じ日、日本陸軍が揚子江蕪湖付近を航行中の英国の砲艦レディーバード号を砲撃した(レディーバード号事件)。日本政府はすぐに陳謝した。
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1937年 昭和12年 12月13日 | 日本軍、南京を占領 ●日本軍、南京事件を起こす。(詳細は次の章で記述) |
1937年 昭和12年 12月15日 | 第1次人民戦線事件 ●この日の早朝、日本無産党、日本労働組合全国評議会(全評)の幹部とこれを支持していた労農派マルクス主義の学者、評論家446人が検挙された。無産党は合法的な政党だったが、治安維持法1条の「国体を変革すること・・私有財産制度を否認すること」を目的とした政治結社として弾圧された。反ファシズム思想は徹底して弾圧されたのである。 |
1937年 昭和12年 12月27日 | 日本産業、満州重工業開発に改組 ●昭和12年頃までに三井・三菱に次ぐ地位に達した鮎川義介の日産コンツエルンは、企業グループ挙げての満州国進出を決定し、昭和12年12/27、持株会社である日本産業(日産)を満州重工業開発と改め、満州の鉱工業建設を独占的に行う国策会社として発足した。 |
1937年(昭和12年)の出来事 政治・経済・事件・災害・文化 「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊より抜粋
1. 1 退職積立金および退職手当法実施
1. 4 名古屋城金鯱のうろこ盗難事件起こる
1. 8 輸入為替許可制実施,為替管理を強化 

1. 15 日米綿業会談はじまる(25日,対米綿布輸出協定成立)
1. 16 鮮満共同による鴨緑江水力発電会社大綱決定,発電能力180万kw
1. 21 軍部攻撃問題で寺内・浜田の腹切り問答,2日間議会停会
1. 23 広田内閣総辞職,軍部と政党対立
1. 25 宇垣一成に組閣下命,陸軍の反対で29日組閣辞退
2. 2 林銑十郎内閣成立(軍官僚内閣)
2. 5 日本興業銀行,軍需工業へ積極的融資方針を決定
2. 10 中共,国民党に国共合作を提議
2. 11 文化勲章令制定公布
2. 15 中国国民党三中全会開会
2. 17 「死のう団」皇居前・議事堂前などで切腹未遂
2. 22 軍需景気で東京株式市場取引高142万株(創業以来最高記録)
2. 28 鳩山一郎・中島知久平ら政友会総裁代行委員に就任
3. 9 対米金現送を再開
3. 18 日本無産党を結成,委員長加藤勘十
3. 30 文部省編「国体の本義」出版
3. 31 軍の圧力で議会最終日に衆議院突如解散(食い逃げ解散)
3. 31 アルコール専売法公布(4月1日施行)
4. 1 葉書2銭,封書4銭に(39年ぶりの値上げ)
4. 1 ビルマのインドよりの分離発効
4. 1 東京・札幌間定期航空開始
4. 5 保健所法公布(7月15日施行)
4. 6 朝日新聞社渡欧機「神風」出発,9日ロンドン着,1万5357kmを94時間17分56秒でとぶ
4. 9 日蘭通商協定成立
4. 12 日印通商新協定成立
4. 14 内務省,メーデー禁止を通達
4. 15 3重苦のヘレン・ケラー女史来日,日本各地で講演
4. 28 長岡半太郎・本多光太郎・佐佐木信綱・横山大観ら9人,初の文化勲章受章
4. 30 第20回総選挙,民政179,政友175,昭和会19,社会大衆党37,日本無産党1で無産派当選最高記録
5. 6 独飛行船ヒンデンブルグ号爆発
5. 12 英国皇帝ジョージ6世戴冠式
5. 14 企画庁官制公布施行
5. 25 航空研究所試作の長距離機試験飛行成功
5. 25 双葉山定次,横綱となる
5. 28 民政・政友両党,林内閣の即時退陣要求(31日,突如内閣総辞職)
5. 31 防空法施行令公布(6月1日施行)
6. 1 献金つき愛国切手・葉書発売
6. 4 第1次近衛文麿内閣成立「国内相剋・軍官民対立の一掃」を強調,人気わく
6. 12 ソ連,トハチェフスキーら赤軍首脳を処刑
6. 15 日満一体・生産力拡充・国際収支の適合・物資需給調整の総合的産業5ヵ年計画樹立を閣議決定
6. 19 ソ連,ソ満国境乾岔子島を占領(7月2日解決,5日撤退完了)
6. 23 国立結核療養所官制公布施行
6. 24 帝国芸術院創設
7. 3 東京・浅草に国際劇場開場
7. 7 北京西南郊外蘆溝橋で日華兵衝突(日華事変の発端)
7. 11 政府,華北出兵を声明
7. 12 国民政府,廬山会議で抗日決戦を決定
7. 17 中国に事件不拡大方針の覚書手交
7. 17 廬山で蒋介石・周恩来会談
7. 19 華北駐屯日本軍,独自行動の声明
7. 25 第71特別帝国議会開会
7. 26 日華両軍が郎坊で交戦,華北駐屯軍は宋哲元に期限付最後通告
7. 27 政府,華北事件に関し自衛行動を声明
7. 28 華北駐屯軍,総攻撃開始,冀察政権は事実上消滅
7. 29 華北通州で多数の日本人殺害事件発生
8. 3 暴利取締令改正強化公布実施
8. 8 日本車が北平入城
8. 9 上海で国民軍正規兵が大山海軍中尉・斎藤一等水兵を射殺, 13日日華両軍戦闘を開始(第2次上海事変)
8. 10 人造石油製造事業法公布(13年1月25日施行)
8. 11 金準備再評価法,金資金特別会計法,産金法公布(25日施行)
8. 13 製鉄事業法公布(9月22日施行)
8. 14 百貨店法公布(10月1日施行)
8. 14 2 ・26事件背後関係者,北一輝・西田税に死刑判決(19日執行)
8. 15 緊急閣議で日華事変の現地解決不拡大方針を放棄,全面戦争に突入
8. 15 海軍機,南京と南昌へ最初の渡洋爆撃
8. 15 速達郵便制,全国に拡大
8. 20 全国中等野球に中京商業優勝
8. 21 中国,ソ連と不可侵条約を締結(29日発表)
8. 22 国民政府,赤軍で第8路軍を編成
8. 24 閣議,国民精神総動員要綱を決定(9月9日内閣訓令を出す)
8. 27 トヨタ自動車工業会社設立
8.~ 映画の初めに「挙国一致」「銃後を護れ」などのタイトルそう入
9. 4 第72臨時帝国議会開会
9. 5 日本海軍,全中国沿岸封鎖を宣言
9. 10 輸出入品等に関する臨時措置法・臨時資金調整法・臨時船舶管理法の3法と軍需工業動員法の適用に関する法律等の戦時統制法公布
9. 10 臨時軍事費特別会計法公布施行
9. 15 初の日華事変国庫債券1億円発行
9. 24 日本陸軍,保定を占拠
9. 25 中国,国共合作成る
9. 25 工場事業場管理令公布施行
9. 25 内閣情報部設置
9. 28 日本婦人団体連盟結成
9.~ 警視庁,東京市内の円タクの深夜の流しを禁止
10. 1 政府,「我々は何をなすべきか」というパンフレットを全国各戸に配布
10. 1 防空法実施,臨時船舶管理法施行
10. 5 米ルーズベルト大統領が日独を侵略国として非難
10. 10 京・阪・神間省線電車開通
10. 11 ステープルファイバー等混用規則公布
10. 12 国民精神総動員中央連盟創立大会
10. 12 北平地方治安維持会,北平を北京と改称
10. 15 臨時内閣参議官制公布施行
10. 18 全日本労働総同盟が,事変中のスト絶滅を期すと戦争支持を決議
10. 25 企画庁と資源局統合,企画院を設置
10. 27 蒙古連盟自治政府樹立(主席雲王・副主席徳王)
11. 2 「愛国行進曲」の当選歌詞発表
11. 3 ブリュッセルで日華事変に関する9カ国会議を開催(15日,日本糾弾宣言)
11. 4 戦艦「大和」呉工廠で起工(16年12月完成)
11. 5 陸軍部隊が杭州湾敵前上陸
11. 5 在南京トラウトマン独大使の日華和平工作始まる
11. 6 日独伊防共協定,ローマで調印
11. 9 太原陥落,大上海包囲完成(11日陥落)
11. 9 閣議で国家総動員法制定に決定
11. 10 ブラジル大統領バルガス,独裁制確立のクーデターに成功
11. 11 群馬県小串鉱山で山津波,死亡・行方不明163人
11. 15 社会大衆党,図民意識の高揚を基調とする改正綱領を決定
11. 16 愛国債券,郵便局窓口で売り出し
11. 16 関東・東北防空演習(23日終了)
11. 18 大本営令制定(戦時大本営条例を廃止)
11. 20 宮中に大本営を設置
11.~ 国民政府,重慶遷都を宣言
12. 1 東大経済学部教授矢内原忠雄,反戦的筆禍事件で辞表提出,4日辞任
12. 1 政府,スペイン国フランコ政権を承認
12. 2 スペイン新政府成立,フランコ将軍,統領に就任
12. 7 内務省,映画の上映時間を3時間以内に制限
12. 10 南京総攻撃始まる
12. 10 教育審議会官制公布施行(文教審議会廃止)
12. 11 イタリア,国際連盟を脱退
12. 11 南京陥落の祝賀行事を挙行
12. 12 海軍機,アメリカ砲艦パネー号撃沈
12. 13 南京城完全占領,大虐殺事件起こる,蒋介石が抗日戦徹底を宣言
12. 14 北京に王克敏らを中心に中華民国臨時政府を樹立
12. 15 山川均・猪俣津南雄・大森義太郎・加藤勘十ら400人を検挙(人民戦線第1次検挙)
12. 16 東京地裁,帝人疑獄事件に判決,全被告無罪となる
12. 22 日本無産党・日本労働組合全国評議会に解散命令
12. 23 外相,ディルクセン駐日独大使に対華和平条件提示(翌年1月,交渉打ち切り)
12. 26 第73帝国議会開会
12. 27 満州重工業開発株式会社設立,総裁鮎川義介
12. 27 綿製品・スフ等混用規則公布・実施
12.~ 大日本関西相撲協会解散
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