1936年(昭和11年)2.26事件後の「粛軍」と「国策の基準」を決定

アジア・太平洋戦争

日本の国策は、中国大陸における権益確保と南方海洋に進出発展することに決定する
●2.26事件後、皇道派あるいはそれに近いと目された将軍たちは現役を追われた。そして陸軍の「粛軍(=粛清)」が行われ「新統制派」が形成されていく。そして軍部は5月に「軍部大臣及次官の現役武官制」を復活させ、陸軍・海軍大臣就任資格を現役の大将・中将に限定させた。これは現役を追われた皇道派の復活を排除するとともに、内閣からの関与を排除し、陸軍の目指す政治改革のため、軍部の独立と政治的発言力の強化に利用していくのである。軍は「統帥権干犯」を主張して軍部独裁をはかるのである。
次に、2.26事件後の軍備大拡張による兵器の近代化と海軍の大建艦計画の一例をあげる。なかでも日本の航空技術は模倣の段階を卒業し、当時の世界トップレベルにまで進歩していく。
(写真)2.26事件で、国会議事堂付近へ出動した攻撃部隊(鎮圧)の戦車隊。(出典)河野司編「2.26事件 獄中手記・遺書」河出書房新社1989年新装初版発行。

目次
昭和11年《1936年》 主要項目
★陸軍による2.26事件後の「粛軍」と「新統制派」の形成。
「陸軍士官学校(旧制11期を含む)卒業者名 37期までの一部」
●2.26事件後(昭和11年2/26)、石原莞爾大佐、梅津美治郎陸軍次官、寺内寿一陸軍大臣、杉山元教育総監らが「新統制派」の中核となって、皇道派の粛軍人事を推進した。
またここでは「陸軍士官学校(旧制11期を含む)卒業者名(37期までの一部)」を略歴を含めて一覧にしてみた。陸軍士官学校を卒業しかつ陸軍大学校を卒業した者たちが、将官クラスと参謀本部を形成し陸軍のトップエリートとなっていくのである。
★航空兵力の増強と航空技術の進歩
「神風号」の衝撃。
●1937年(昭和12年)4月9日、朝日新聞社の「神風号」が東京-ロンドン間の連絡飛行に成功、日本最初の航空国際記録をつくる。日本はそれまでの模倣の段階を卒業し、昭和11年から12年にかけて、多くの世界初、世界最優秀機の開発に成功していく。そして1939年(昭和14年)4月1日、「12試(=昭和12年度試作)艦上戦闘機」第1号が試験飛行に成功する。海軍「零式(れいしき)艦上戦闘機(零戦=ゼロ戦)」の誕生である。
★海軍では、条約反対派(艦隊派)が主勢となり無制限建艦競争へ向かう。 ●海軍は昭和12年度(1937年)の第3次補充計画(マルサン計画)によって、艦艇66隻、基地航空隊14隊などの増強を図った。その中には世界最大の戦艦大和・武蔵、航空母艦では翔鶴・瑞鶴や伊号第16潜水艦などの建造が含まれていた。
★国内政治・社会年表
昭和11年《1936年》
岡田啓介内閣(2.26事件後総辞職)→広田弘毅内閣(3/9)
●日本は昭和11年(1936年)1/15、第2次ロンドン軍縮会議で正式に軍縮会議脱退を通告し、昭和12年(1937年)1/1をもって軍備無制限時代(建艦競争再開)に入ることが確定した。
●こうしたなか、陸軍内部の皇道派はクーデター事件(2.26事件)を起こし政府要人らを襲撃・暗殺した(2/26)。翌日戒厳令が公布され2/29には事件は鎮圧されたが、陸軍は「粛軍」の名のもとに皇道派を一掃した。

下

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★陸軍による2.26事件後の「粛軍」と陸軍士官学校(旧制11期を含む)卒業者名 一部

2.26事件後の皇道派の粛軍と「新統制派」の形成

●2.26事件後(昭和11年2/26)、石原莞爾大佐(戒厳参謀兼務参謀本部第2課長)、梅津美治郎中将(仙台第2師団長から陸軍次官)、寺内寿一陸軍大臣、杉山元(教育総監になった)らが「新統制派」の中核となって、皇道派の粛軍人事を推進した。これにより林銑十郎大将、真崎甚三郎大将、阿部信行大将、荒木貞夫大将の4軍事参議官は待命、予備役編入となった。そして南次郎関東軍司令官は引責辞職、侍従武官長本庄繁、戒厳司令官香椎浩平、第1師団長堀丈夫、近衛師団長橋本虎之助、憲兵司令官岩佐禄郎らも予備役となった。さらに8/1の3000人の大異動で、第4師団長建川美次、陸軍大学校長小畑敏四郎らは退役となった。また「3月事件」「10月事件」を計画した橋本欣五郎大佐も予備役に編入された。
(新聞)昭和11年4/9東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊


●そして軍部は5/18「軍部大臣及次官の現役武官制」を復活させ、予備役になった皇道派系の大将の政界進出(陸軍大臣)の道を断ち、軍部大臣を自らの統制下に置くことに成功したのである。またこれにより、陸軍が陸軍大臣を出さないことによって、内閣の死命さえ制することができるようになったのである。
(新聞)昭和11年5/18東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●下段の一覧は、37期までの「陸軍士官学校」(旧制11期を含む)の期別の卒業年月・人数や主な卒業者名である。また氏名の下に、「陸軍大学校」卒業期を記入した。陸軍士官学校を卒業しかつ陸軍大学校を卒業した者たちが、将官クラスと参謀本部を形成し、陸軍のトップエリートとなっていくのである。さらに陸大卒業同期のなかでも、「優等」とか「首席」とあるのは、陸大卒業席次上位者で、天皇より恩賜の軍刀が授けられたことから「恩賜組」「軍刀組」と呼ばれたさらなるトップエリートだった。


陸軍士官学校(旧制11期を含む)卒業者名 一部

●ここでは、主な士官学校同期の卒業者名、その人物の陸軍大学校卒業期、そしてその人物の簡単な履歴のポイントを一覧にした。ただここにあげたのは最終階級が将官(大将、中将、少将)クラスばかりである。実際の戦闘・作戦のなかで将官クラスがどのくらい影響力を持ったかは不明である。リストの主要卒業者名は、「図解日本陸軍歩兵」画・中西立太、文・田中正人、並木書房2006年第2版発行から抜粋した。

下

★航空兵力の増強と航空技術の進歩

「神風号」の衝撃

●1937年(昭和12年)4月9日、朝日新聞社の「神風号」が東京-ロンドン間の連絡飛行に成功、日本最初の航空国際記録をつくり、世界を驚嘆させた。この神風号は、陸軍が三菱重工業にひそかに作らせた低翼単葉単発の2人乗り司令部偵察機「キ-15」試作2号機であった。この機を朝日新聞社が民間用高速連絡機として譲り受けたのである。そして陸軍は、この神風号の成功により1937年(昭和12年)5月、「キ-15」を「九七式司令部偵察機」として制式採用し量産に入った。
日本は昭和11年から12年にかけて、海軍「九六式艦上戦闘機」「九六式陸上攻撃機」、陸軍「九七式戦闘機」「九七式重爆撃機」など、多くの世界初、世界最優秀機の開発に成功していく。
(新聞)昭和12年4/10東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

*リンクします「1937年 朝日新聞社機 東京-ロンドン間新記録飛行」
動画・出典:youtube(ReinaJapan氏)

海軍「九六式艦上戦闘機」と「九六式陸上攻撃機」の出現

海軍「九六式艦上戦闘機」

海軍「九六式陸上攻撃機」

陸軍「九七式戦闘機」
●海軍の「九六式艦上戦闘機」は世界初の単葉式艦上戦闘機である。1936年(昭和11年)11月に制式採用され約982機製作され、日中戦争の初期から太平洋戦争初期まで海軍の主力戦闘機として活躍した。後の零戦を設計した堀越二郎技師を主務者として三菱が開発し、当時の世界水準を超える高性能を達成した傑作機であった。
また海軍の「九六式陸上攻撃機」は1936年(昭和11年)6月に制式採用され、昭和12年8月中国に対して渡洋爆撃を行った。この2機の開発により日本は外国の模倣からついに脱し、かつ世界のトップレベルに躍り出ることができたのである。
●また陸軍も海軍の「九六式艦上戦闘機」を凌駕するほどの運動性能を持つ中島キ27試作機を、「九七式戦闘機」として1937年(昭和12年)12月制式採用した。この機は運動性能が群を抜いており、軽戦闘機の最高傑作といわれた。
(写真)「九六式艦上戦闘機」「九六式陸上攻撃機」「九七式戦闘機」写真・野沢正(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

海軍「零式(れいしき)艦上戦闘機(零戦=ゼロ戦)」の誕生

海軍「零式艦上戦闘機」
●1939年(昭和14年)4月1日、「12試(=昭和12年度試作)艦上戦闘機」第1号が試験飛行に成功する。「零式(れいしき)艦上戦闘機(零戦=ゼロ戦)」の誕生である。「神武天皇即位紀元」は紀元前660年を元年とするので、翌年の昭和15年(1940年)は皇紀2600年にあたり、末尾の零(れい=ゼロ)をとって「零式艦上戦闘機」と命名された。
●零戦は、総合的にみて当時の戦闘機として航空史に残る世界的な傑作機であり、日本で1番多く生産された(10098機)。2位は隼(はやぶさ)、3位疾風(はやて)、4位九七式戦闘機だった。
(写真)中国上空を行く零戦11型。翼幅12m、全長8.79m。最大時速533.4km、航続距離3502km。上昇力6000m/7分27秒。操縦席、燃料タンクの防弾・消火装置は無い。写真・『丸』(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊


★海軍では、条約反対派(艦隊派)が主勢となり無制限建艦競争へ向かう。
海軍、戦艦大和・武蔵の建造にむかう。

●1921年(大正11年)11月~1922年2月に開かれたワシントン海軍軍縮会議において、日、英、米、仏、伊の5カ国は、第1次世界大戦後の各国の無益な建艦競争を制限し、軍費の軽減を目的として海軍軍縮条約を結んだ。日本は、主力艦(戦艦)建造及び航空母艦の総排水量の比率を、対米6割で承諾した。この条約は1936年(昭和11年)12月31日まで効力を有し、主力艦は、1921年11月12日より10年間(1931年11月)まで起工できないという内容であった。また、その有効期間より2年前に本条約を廃止する意思を通告するときは、その通告より2ヶ年経過するまで条約は有効とし、またもし廃止通告がされた場合は、全締結国は1ヶ年以内に会議を開かねばならないということも定められた。
(写真)日米決戦を目前にひかえた昭和16年、戦闘射撃訓練中の長門。-続航するのは標的曳航艦として訓練に参加した第1潜水戦隊旗艦の特設潜水母艦靖国丸で、後方に同艦が曳航している標的がみえる。洋上はるか彼方をにらむ主砲群、巨大な前檣楼(しょうろう)の威容、みよし(艦首)にかがやく御紋章など、長門型は戦艦の王者にふさわしいたたずまいを示し、日本国民にとってこれほど力強い存在はなかった。(出典)「ハンディ版日本海軍艦艇写真集①」戦艦大和・武蔵・長門・陸奥。編者・雑誌「丸」編集部。光人社1996年刊


陸奥-昭和16年頃
●このワシントン軍縮会議では、主力艦(戦艦)は、日本315,000トン(総排水量)9隻、米国と英国525,000トン(総排水量)15隻、そして各艦とも35,000トンを超えることができず、備砲も16インチ(=40センチ6)と制限された。比率は315/525(千トン)=0.6(6割)であった。航空母艦についても、日本81,000トン(総排水量)、米国と英国135,000(総排水量)で、81/135(千トン)=0.6であった。
●しかしその後各国は、ワシントン海軍軍縮会議で制限外であった補助艦艇(巡洋艦以下)について建造競争が激化したことや、ワシントン条約の主力艦建造停止期間が満期を迎えるにあたって、1930年(昭和5年)4月、ロンドン海軍条約を結んだのである。
このロンドン海軍条約の内容は、日本の補助艦総保有量対米比率を6.97割などと備砲の制限を定め、またワシントン条約の主力艦建造停止期間を1931年(昭和6年)から1936年(昭和11年)までに延長し(第1篇 第1条)、このロンドン海軍条約の有効期限も1936年(昭和11年)12月31日までと定めた。そして新たな軍縮条約締結のために、1935年(昭和10年)に全締約国による会議(第2次ロンドン海軍軍縮会議)を開くことを決めたのである(第5編 第23条)。
(写真)艦首部からのぞんだ陸奥の主砲と前檣楼-昭和16年ごろの姿と思われ、前檣楼の測距儀フラットの部分には防空指揮所が設けられている。40センチ砲塔の甲鈑の厚さは、前楯500ミリ、側楯280ミリ、後楯190ミリ、天蓋250ミリに達し、砲塔旋回部の重量は1、024トンで、これが砲術長の命令一下、自由自在に旋回俯仰する機構は、造兵技術の粋をあらわしたものである。巨大な砲口が迫力をもってせまってくる写真である。(出典)「ハンディ版日本海軍艦艇写真集①」戦艦大和・武蔵・長門・陸奥。編者・雑誌「丸」編集部。光人社1996年刊


「帝国艦艇一覧表」の戦艦と航空母艦(昭和12年6月1日調べ)

●下の一覧は昭和12年6月1日調べの「帝国艦艇一覧表」の戦艦・航空母艦のみを抜き出したものである。なかでも長門(連合艦隊旗艦)は世界における16インチ主力艦の第一艦であり、陸奥もまた最新鋭主力艦であった。
数値は公称であり、主砲の口径も、軍縮条約で16インチ砲(40.6センチ砲)までの制限があった。速力も機密事項であった。「帝国艦艇一覧表」の一部(出典)「海軍読本」阿部信夫 著 昭和12年刊

下

昭和12年度第3次補充計画(マルサン計画)戦艦大和・武蔵

●日本は、1934年(昭和9年)12/22ワシントン条約破棄を正式に通告し、1936年(昭和11年)1/15、第2次ロンドン海軍軍縮会議において、日本全権永野修身はロンドン海軍軍縮会議を正式に脱退した。日本は1937年(昭和12年)1/1以降軍縮無制限時代を選んだのである。
●こうして日本は米海軍への対応のため、昭和12年度第3次補充計画(マルサン計画)によって、艦艇66隻、基地航空隊14隊などの増強を図ったのである。この中には戦艦大和(やまと)・武蔵(むさし)、航空母艦の翔鶴(しょうかく)・瑞鶴(ずいかく)などがあった。


(上写真)昭和16年10月30日、宿毛湾沖標柱間で全力公試運転中の大和。–ワシントン海軍軍縮条約による海軍休日の期限終了を迎えて、日本海軍が建造した戦艦大和型のネーム・シッブである。史上最大の艦砲である45口径46センチ砲を9門搭載、同砲弾に対する十分な防御を備え、速力27ノットを発揮、基準排水量は64,000トンに達し、人類がつくりあげた最大、最強の戦艦であった。なお、この時の状態は69.304トン、151,700軸馬力、27.3ノットである。(出典)「ハンディ版日本海軍艦艇写真集①」戦艦大和・武蔵・長門・陸奥。編者・雑誌「丸」編集部。光人社1996年刊

(注)主砲は前に3連砲が2基、後ろに1基で計3基9門とあり砲身の長さは45口径46センチ砲とあるので、45×46センチ=2070センチ=20.7mとなる。主砲の砲身の長さが20m以上あるわけだから、その大きさは桁違いである。

*リンクします「海軍読本」阿部信夫 著 昭和12年刊→国立国会図書館デジタルコレクション

*リンクします「一九三六年の危機と米露の脅威」佐藤鉄城 著 「知識と修養会」昭和8年刊→国立国会図書館デジタルコレクション

★国内政治と社会年表。1936年(昭和11年)から1937年(昭和12年)頃。『昭和2万日の全記録』講談社を中心に要約引用し、朝日新聞の紙面紹介を行った。

1936年(昭和11年)~政治・社会年表
(昭和11年のポイント)
●陸軍は2.26事件を機に、「粛軍」の名において皇道派を排除するなかで、人事・機構の改編に乗り出し、国防国家の構築に着手した。参謀本部で中心となったのは石原莞爾で、6月には新設された第2課(戦争指導課)の課長に就任し、戦争指導と情勢判断の任に就いた。石原はソ連を主要敵国とする南守北進の方針をとった。一方海軍は、長谷川清海軍次官を中心に、中国とは共栄共存、ソ連に対しては積極的な侵攻策を放棄し、南方進出を図る北守南進論の方針をとった。
●こうして8/7、広田首相、有田八郎外相、馬場鍈一蔵相、寺内寿一陸相、永野修身海相による五相会議が開かれ、「国策の基準」が決定された。その中で「・・東亜大陸ニ於ケル帝国ノ地歩ヲ確保スルト共ニ南方海洋ニ進出発展スルニ在リ・・」とし東南アジア進出を決め、後の太平洋戦争に至る重大な戦略を決定したのである。
●続いて8/25政府は、7大国策14項目を発表し、広田内閣として「庶政一新」の名の下に政府の国策を決定した。第1に「国防の充実」をあげ、12年度の軍事費予算を総歳出の46.3%で計上した。また産業の振興及び貿易の伸張をあげ、電力の統制強化も打ち出した。
1936年
昭和11年
1月13日
政府、第1次北支処理要綱を決定

●これは陸軍省軍事課が作成したもので、陸軍・海軍・外務の三省が決定した中国の華北分治案である。内容は、河北とチャハルを勢力圏とする冀察(きさつ)政務委員会(昭和10年12/11成立)を国民政府から引き離し、傀儡(かいらい)化していくことにより、華北5省(河北、山東、山西、チャハル、綏遠)の自治を達成するというもの。つまり華北分離政策である。

1936年
昭和11年
1月15日
第2次ロンドン海軍軍縮会議から脱退

●日本全権永野修身(おさみ)は正式に脱退を通告した。日本はすでにワシントン軍縮条約も単独破棄通告をしていた。両条約共に1936年末には無効となるので、1937年1月1日以降、世界の軍縮体制は崩壊し、軍備無制限競争再開の時代となっていった。
(新聞)1/16東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1936年
昭和11年
1月15日
全日本労働総同盟結成

●日本労働総同盟(総同盟)と全国労働組合同盟(全労)の合同大会が開かれ、「全日本労働総同盟(全総)」が誕生した。会長に松岡駒吉(総同盟)、副会長に河野密(全労)と西尾末広(総同盟)、顧問に社会大衆党委員長安部磯雄、総同盟顧問鈴木文治、全労顧問高野岩三郎が就任した。この全総の結成は、労働運動における右派、中間派の大同団結となった。日本労働総同盟(総同盟)は友愛会以来の伝統を持つ労働組合右派で組合員は約4万9千人、全国労働組合同盟(全労)は日本労農党系を中心に昭和5年6月に創立された中間派で組合員は4万5千人だった。左派は日本労働組合全国評議会(全評)だったが組合員数は少なかった。

1936年
昭和11年
1月20日
英国皇帝ジョージ5世崩御


●下の写真は1921年5月、昭和天皇が皇太子(20歳)の時、イギリス訪問で英国皇帝ジョージ5世の出迎えでバッキンガム宮殿へむかう時のもの。昭和天皇はこの時の半年間に及ぶ訪欧で、大きな影響を受けたと言われる。
昭和天皇は、ジョージ5世の後を継いだエドワード8世(シンプソン夫人と結婚問題のため退位したウインザー公)が皇太子の時にも交流があり、50年後の1971年(昭和46年)のヨーロッパ訪問の旅の時、フランスに住むウインザー公夫妻を訪れたほどである。
(新聞)1/21東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
下写真(出典)アサヒグラフ「天皇陛下崩御」1989年1月刊

1936年
昭和11年
2月5日
(7チームによる日本職業野球連盟が結成)
●昭和6年の第1回日米野球を実現させた読売新聞社社長・正力松太郎や読売新聞運動部長・市岡忠男や、鈴木惣太郎らは、日本の野球技術向上のためにはプロ球団は不可欠との認識を持った。そこで昭和9年12月に「大日本東京野球俱楽部(球団名・東京巨人)」が、その年の11月に行われた第2回日米野球の全日本チームを母体に設立された。さらに正力松太郎は各方面にプロ球団の設立を呼びかけ、昭和10年12月・大阪野球俱楽部(・大阪タイガース)、昭和11年1月大日本野球連盟名古屋協会(・名古屋)、東京野球協会(・東京セネタース)、大阪阪急野球協会(・阪急)、昭和11年2月大日本野球連盟東京協会(・大東京)、名古屋野球俱楽部(・名古屋金鯱)の6チームが設立され、4月からリーグ戦が開始された。当初「大日本東京野球俱楽部」はアメリカ遠征中で不参加、7/1から「東京巨人」と改称してリーグ戦に参加した。
1936年
昭和11年
2月
●野坂参三・山本縣蔵、モスクワで「日本共産主義者への手紙」を発表。「反ファシズム統一戦線」を次のように呼びかけた。

わが国民をファシズムと戦争の戦慄から救ふ道は、労働階級の統一行動と反ファッショ人民戦線を基礎とする偉大な国民運動のみである。されば日本共産党の当面する任務は、軍部、反動、戦争に反対して全勤労民を統一することである」と

●2月16日スペイン総選挙では、人民戦線派が過半数の議席を得て勝利し、2/19日アサーニャ内閣が成立した。
●この「反ファシズム統一戦線」とは、1935年7月~8月にかけてモスクワで開催されたコミンテルン第7回大会で採択された方針で、労働者、農民、その他広範な人民を結集してファシズム勢力に対抗しようとするものであった。そしてこの方針により、各国の共産主義勢力と社会民主主義勢力との連携が進んだ。1936年2月のスペイン・アサーニャ内閣の成立、6月にはフランス人民戦線内閣(レオン・ブルム内閣)が成立し、また中国でも1937年9月に第2次国共合作による一致抗日となった。
●日本でも1937年(昭和12年)3月に結成された日本無産党が、党の綱領に「反ファッショ統一戦線」を掲げたが、1937年12月と翌年2月に治安維持法の容疑で同党メンバーや労農派学者グループら500人近くが一斉検挙された(人民戦事件)。日本では共産党も既に1935年3月に壊滅しており、反戦、反ファシズム運動は存在を許されなかったのである。

(重要語)
●「コミンテルン」とは正式名称「共産主義インターナショナル」で第1、第2があった。
第3インターナショナルは1919年レーニンを中心にモスクワに創設された国際共産主義運動の指導組織。中央集権主義をとり、各国共産党を直接指導した。20年末までは世界革命をめざす急進的政策、21~28年は穏和政策、28年(第6回大会)以降は極左戦術に転換したが失敗し、35年(第7回大会)からは反ファシズム人民戦線戦術をとった。第二次世界大戦中、43年6月、ソ連の政策転換で解散。共産主義インターナショナル。国際共産党。コミンテルン。
(出典)「日本国語大辞典精選版」
1936年
昭和11年
2月20日
第19回総選挙がおこなわれる。

●岡田啓介内閣は、多数野党である政友会が内閣不信任案を提出したのを受けて、その上程に先立ち議会を解散したものであった。過去4年間で、血盟団事件、5・15事件、国際連盟脱退など内外で大事件が起こり、国民の間でも解散・総選挙を望む声が高まっていた。選挙の結果は政友会が惨敗し(解散時より-71の171人)、民政党(解散時より+78で205人)がついに第1党になった。岡田首相は政府支持派が絶対多数を得たことで、2/23「挙国一致で邁進する」と声明を出した。特にこの選挙では無産政党である社会大衆党(解散時3人が18人)、その他の無産団体4人の計22人が当選して大躍進した。(2.26事件3日前である)
(新聞)2/23東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●普通選挙法による第16回総選挙(1928年)から第18回総選挙(1932年)と総選挙は行われてきたが、政友会、民政党の2大政党による干渉や買収が横行し、政界は腐敗をきわめていた。そんななかで、官僚グループ(新官僚)は、政党政治の党利党略を批判し、軍部と結合して国家の革新を図ろうとした。そして彼らは、政党人による買収・干渉などの腐敗選挙をなくすために選挙粛清運動を積極的に展開した。

1936年
昭和11年
2月26日
2・26事件勃発

●(詳しくは前ページ「アジア・太平洋戦争」⑤2.26事件勃発を参照してください)

●2月26日の早朝(午前5時)、各連隊の行動派の青年将校らは、蹶起と同時に目標とした政府首脳や重臣をその官邸や私邸に襲い、斎藤実内大臣、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎教育総監を射殺し、鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせた。そして陸軍省、参謀本部、国会、首相官邸などを占拠し、陸軍首脳に国家改造の断行を要請した。しかし陸軍首脳は天皇の強い意志により翌日2月27日東京市に戒厳令を公布し、決起将校らを反乱軍として鎮圧することに決定した。そして兵士らは原隊復帰し将校らは投降し(2名自決)2月29日に鎮圧された。
(新聞)2/28大阪朝日新聞と3/1東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●昭和天皇は『朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ、真綿ニテ、朕ガ首ヲ締ムルニ等シキ行為ナリ』また『朕自ラ近衛師団ヲ率ヒ、此ガ鎮定ニ当ラン』と言ったとされる。(出典)「本庄日記・帝都大不祥事事件」から

1936年
昭和11年
2月29日
(貨物用蒸気機関車D51形「デゴイチ」誕生)
●国産3番目の貨物用蒸気機関車であるD51形が、今までの9600形・D50形の後をついで誕生した。D51形はそれまでの主力だったD50形よりわずかに小型で、牽引力は900トンに対して1100トンと大きく、昭和期にはいって飛躍した機関車製造技術を全面的に取り入れたため、走行性能や信頼性は格段に進歩した。D51形は第1号が昭和11年に誕生し、昭和20年までに1115両が量産された。
(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1936年
昭和11年
3月9日
広田弘毅内閣成立

(広田弘毅・ひろた-こうき)外交官、政治家。福岡県出身。東京帝大卒。外務省にはいり駐ソ全権大使、斎藤・岡田両内閣の外相を歴任。昭和11年(1936年)2.26事件収拾のため、挙国一致内閣を組閣。翌年の第1次近衛内閣の外相となる。昭和20年(1945年)終戦直前、和平交渉に当たったが失敗。戦後、極東軍事裁判でA級戦犯として処刑された。(出典)「日本国語大辞典精選版」



●2.26事件で岡田啓介内閣が総辞職すると、天皇は元老の西園寺公望の推薦によって貴族院議長・近衛文麿に組閣を下命した。しかし近衛は健康上の理由により固辞したため、岡田内閣で外相を務めた広田弘毅に内閣組閣の下命が下った。その理由は、広田なら国際情勢に明るく、ソ連大使の経験もあって対ソ政策に期待ができるというものだった。だがこの内閣は軍部追随内閣といわれ、太平洋戦争につながる軍部独裁の基本路線を作ったいわれる。この時の軍部の人事に対する介入は露骨で、吉田茂の外相拒否、下村宏(朝日新聞社)入閣拒否、川崎卓吉、中島知久平、小原直などの入閣拒否、留任拒否であった。そして広田内閣は、蔵相・馬場鍈一、陸相・寺内寿一(陸軍大将)、海相・永野修身(海軍大将)などで3/9成立した。
●特に広田首相は「内外の時局が重大、軍部と緊密協力」の決意を述べ、馬場蔵相は、「公債漸減方針の放棄」「増税断行」「低金利政策」など高橋財政を修正し、巨大化する軍事費を認めたのである。
(新聞)3/5と3/7東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1936年
昭和11年
3月7日
(ドイツ、ロカルノ条約破棄、ドイツ軍ラインラント非武装地帯に進駐)
●イギリス、フランスは、このナチス・ドイツによるヴェルサイユ条約を破って行ったラインラント進駐に対してなんら干渉することができなかった。
(ロカルノ条約)第一次世界大戦後の主要条約の一つ。イギリス・フランス・ドイツとイタリア・ベルギー・ポーランド・チェコスロバキアの7か国が1925年10月スイスのロカルノで仮調印し、12月ロンドンで正式調印した欧州相互安全保障条約。この条約によってドイツと戦勝国との和解が成り、ヨーロッパの平和が確立したが、1936年ヒトラーにより破棄された。(出典)「日本国語大辞典精選版」
(新聞)3/8東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1936年
昭和11年
3月13日
内務省、大本教に結社禁止および主要建物の破壊を命令

●前年(昭和10年)12月8日に近世史上最大といわれる宗教弾圧(第2次大本教事件)が行われた。これが大本(おおもと)教弾圧で、警察は、聖師出口王仁三郎(でぐち-おにさぶろう)を松江市の大本教島根別院で検挙、京都府綾部町と亀岡町の大本教本部2カ所で幹部30余名を検挙した。そして全国各地の大本教とその関連団体の地方機関の一斉捜索を行い、全国109カ所で各地の幹部44人を検挙した。同時に警察は大本教の「国体変革の企図と不敬罪の立証」のため経典をはじめとして約5万点以上の書類を押収した。(12/17に警察は天理教本部にも手入れを断行している)
●そして昭和11年3月13日、当局は王仁三郎以下教団幹部61名を治安維持法第1条と刑法74条違反で起訴し、大本教および関連団体の結社禁止と建造物の破却を命じた。こうして京都府綾部町と亀岡町の大本教本部の建造物はダイナマイトなどで破壊、開祖出口ナオの墓も共同墓地に移され、膨大な数の書籍類もすべて焼却された。
●この宗教弾圧は、国体護持のため、国家神道を否定するいわゆる「類似宗教」は認めないというものであった。そして昭和11年9月には三木徳一(みき-とくはる)を教祖とする「ひとのみち教団」(信者約60万人)も不敬罪が適用され、教祖教団幹部が逮捕され教団の解散が命じられた。この「ひとのみち教団」は昭和21年9月「PL教団」と改称して立教した。
●宗教関連の弾圧の動きをみると、昭和11年2月、内務省は宗教警察を特高課に移管し取り締まりを強化し、6月~8月、全国警察部長会議・特高会議で「邪教」弾圧を訓令している。
●また宗教以外の思想、言論、出版などの弾圧は、次のようである。

3/24内務省が治安対策を理由にメーデー等各種集会を禁止する旨を全国に通達。
4/10警視庁は2.26事件の経験をもとに、特高課第2係(右翼係)18人を増員。
5/1第17回メーデー全国的に禁止。
5/29「思想犯保護観察法」公布。これは治安維持法違反の罪を犯したもので、執行猶予や刑期終了の者を保護司の監視下に置くというもの。
6/15「不穏文書臨時取締法」公布施行。これは軍部・財界批判等の事項を掲載した文書図面を出した者に最高3年の懲役を定めた言論出版弾圧法であった。
7/1情報委員会官制公布。これは言論・出版の統制を行うため、各省の情報宣伝業務の調整・連絡を図る情報委員会を内閣に設置した。
7/10警視庁特高課が講座派の学者山田盛太郎、平野義太郎、小林良正ら32名を一斉検挙した。これは「コム・アカデミー事件」といわれ、当局が治安維持法を拡大適用して検挙したものだった。合法の出版物および刊行計画中の執筆者までも、治安維持法第1条の「国体の変革」の協議罪、第2条「国体変革」の扇動罪として、拡大適用したのである。この事件は昭和12年3月全員が起訴猶予となったが、特高警察の弾圧方式の先駆けとなった。
1936年
昭和11年
3月25日
満ソ国境・長嶺子で日ソ両軍が戦闘(国境紛争の規模が拡大していく)。

●昭和6年(1931年)9月の満州事変以降、ソ連・満州と、モンゴル・満州の国境線は不確定な地域が多く、小さな紛糾が多発していた。昭和7年(1932年)~昭和9年(1934年)の3年間で152件だったのが、昭和10年・11年には2年間で328件に達した。モンゴルは、ソ連と1934年に相互援助の紳士協定を結び、1936年には相互援助軍事条約を締結したことから、これらの満州国における国境紛争の実態は日・ソ間の軍事衝突であったのである。昭和10年・11年の東部国境紛争で著名なものは、楊木林子事件(1935年6月)、金廠溝事件(1936年1月)、長嶺子事件(1936年3月)、などがあった。また西部国境紛争では、ハルハ廟事件(1935年1月)、ホルステン川事件《ハイラステンゴール事件》(1935年6月)が起こった。そしてオラホドガ事件が1935年12月から始まり、1936年2月には大規模な戦闘となった。またタウラン事件(1936年3月)が発生した。
これらの紛争地域を地図上で大まかに示せば以下のようである。そして昭和12年(1937年)以降になると紛争は第3段階に進展し、東部地域では昭和13年(1938年)の「張鼓峰事件」、そして西部地域では、昭和14年(1939年)の「ノモンハン事件=ハルハ河戦争」に発展していくのである。(地図は拓殖大学の満州国関連地図から作成のイラスト)


●左新聞は1936年(昭和11年)2月にボイル湖北端にモンゴル兵が侵入して大規模な戦闘を報じる新聞。(新聞)2/16大阪朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●日本の関東軍は対ソ戦準備を主要戦略とし、ソ連は第2次5カ年計画で極東の経済建設を重視していたため、両国は満州国建国以来不分明な国境線をめぐって衝突を続けていた。紛争解決のための第1回日ソ会談が開かれたのは昭和11年7/16であったが、調整はできなかった。
1936年
昭和11年
5月5日
●イタリア軍、エチオピアの首都アジスアベバを占領し、5/9にムッソリーニが領有を宣言した。前月の4/18にエチオピアはイタリア軍の猛攻と国際連盟による和協工作失敗で、アジスアベバ放棄を決定していた。7/6の朝日新聞の記事には次のようにある。7/4伊エ紛争の清算のための国際連盟臨時総会が「完全にエ国見殺し、制裁撤廃を可決」として閉幕したと。(新聞)5/6東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1936年
昭和11年
5月5日
●「祖国光復会」、金日成を会長として朝鮮人民の抗日民族統一戦線として満州で創立される。金日成(キムイルソン)は1932年中国吉林省で抗日遊撃隊を結成、1934年各地のパルチザンを結集して人民革命軍を編成した。1936年東北人民革命軍は朝鮮人の抗日民族統一戦線として在満韓人祖国光復会を結成し、改編された東北抗日連軍の師長(師団長)の金日成(キムイルソン)は名を轟かせた。後にソ連の朝鮮工作団の責任者に選ばれ、日本降伏後ソ連軍とともに元山(ウォンサン)に上陸する。抗日パルチザンとして活動してきた金日成は、朝鮮統一における指導者としての歴史的「正当性」を誇っているのである。写真をみると金正恩(キム・ジョンウン)は祖父の金日成の若い頃とよく似ている。
(写真)「人民革命軍の同志と語り合う金日成」(出典:「写真記録日中戦争6・敗戦と解放」ほるぷ出版1995年刊
1936年
昭和11年
5月7日
●第1師団軍法会議、永田鉄山軍務局長殺害事件の犯人、相沢三郎元中佐に死刑判決が下る。相沢中佐は5/8陸軍高等軍法会議に上告したが、6/30高等軍法会議で死刑が確定し、7/3死刑が執行された。
(新聞)5/10東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1936年
昭和11年
5月11日
(浜松第1中学校の運動会で食中毒発生、死者44人)
●同校運動会の数年来の慣行で、大福もち6千余個が全校生徒1千余名と職員全員に配られた(1人6個づつ)。だがその大福もちで食中毒が発生し、患者数2千余、死者44名という大惨事となった。当初毒物による事件性が疑われたが、工場内での製造工程で大福もちがネズミによるゲルトネル氏菌(サルモネラ菌)に汚染されたことが原因と解明された。
(新聞)5/14東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1936年
昭和11年
5月15日
陸軍省、北支駐屯軍強化を発表

●陸軍省は「今般支那駐屯軍はその定期交代期において若干の兵力増加を実施せられることとなれり」と公表した。目的は、北平(北京)-天津における共産党および抗日団体策動等に対する在留邦人の保護であり、北支の平和を招来することであるとした。
(新聞)5/16東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●日本が中国の北平(北京)-天津を結ぶ線上に軍隊を駐屯できたのは、北京条約(1901年)で各国(日・英・米・仏・露など)が清朝政府に動乱防止(義和団事件)のために、5000人以下の軍隊を駐屯させることを認めさせたからであった。しかしここで日本が、今まで駐屯軍が2000人程度であったものを、めいっぱい増員して派遣したことは、中国に警戒心と抗日感情を生み出したことに間違いない。そしてさらにこの駐屯軍の北京郊外での軍事演習が、翌年7月の蘆溝橋事件に直接つながるのである。

1936年
昭和11年
5月18日
「陸、海軍省官制改正」により軍部大臣現役武官制が復活

●陸・海軍の「大臣及次官に任ぜらるる者は現役将官とす」との勅令が公布され即日施行された。
●この「現役武官制」復活の意図は、①皇道派に対する粛正(粛軍)により予備役等にされた皇道派の非現役武官を、制度上で軍部大臣になることができた道を閉ざしたこと。②政府による非現役武官の軍部大臣任命をできなくさせることにあった。このことは逆に軍部が現役武官の軍部大臣の就任を拒むことで、内閣に対してその命運すら握ったのである。
●陸軍統制派は、2.26事件を起こしたことに対する世論の非難に対して、「粛軍」を実行することで皇道派を排除しながら内部統制を強め、かつ陸軍のめざす政治改革を推進しようとしたのである。軍部は行政・立法府の改革を画策し、軍部独裁国家の確立を目指したのである。
(新聞)5/18東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1936年
昭和11年
5月18日
(阿部定・あべ-さだ、情夫を殺害。猟奇殺人事件の発生)
(注)現代の日本で俳優として活躍中の「阿部サダヲ」さんは、この事件の阿部定をヒントに「阿部サダヲ」を芸名とした。
●この事件は世間では好感をもたれたといわれる。判決も懲役6年と刑が軽かったのも、心身耗弱(心神耗弱)の状態にあるときの衝動的殺人であり、なによりも強烈な愛恋の独占欲にあり命を懸けた恋情によるものだったとされたのである。この事件を報道した各新聞は内容の表現に苦慮し、「下腹部を刃物で切りとって・・・」と表現したことでこの「下腹部」という言葉がたちまち世間に広がったといわれる。(新聞)5/21東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1936年
昭和11年
3月~6月
(経済・貿易関連は以下のようである)

●3月、馬場財政による増税。(法人所得税約8割、個人所得税約3割、相続税約10割の引き上げ。株式所得の4割控除廃止、財産税の新設、酒・たばこなどの間接税増徴など)
●4/7、日銀、公定歩合を1厘引き下げ9厘とする。(馬場財政化の低金利政策の徹底)
●5/21、アメリカ大統領ルーズベルト、綿布関税引き上げを発令。引き上げ対象のうち約9割が日本製品。
●5/22、オーストラリア、英国製品優遇のため綿布および人絹の対日関税引き上げを発表。
●5/28重要産業統制法改正公布(7/5施行)。
●5/28米穀自治管理法公布(9/20施行)。(内地・朝鮮・台湾の過剰米を米穀統制組合が自治的に管理するというもの)
●5/29自動車製造事業法公布。(国防の整備と産業の発展のために自動車製造業を許可制とし保護育成を行う)
●6/9政府、電力国家管理案を公表。(発電・送電事業の国営化、電気庁の設置などの国家統制案)
1936年
昭和11年
5月24日
関脇・双葉山全勝優勝、「双葉山時代」始まる

●夏場所千秋楽で立浪部屋の関脇双葉山が11勝全勝で初優勝し、鏡岩とともに大関昇進を決めた。そして双葉山はこの場所から昭和13年の夏場所まで連続優勝を果たした。双葉山はこの間の12年5月には横綱になり、甘いマスクと圧倒的な強さで人気を博した。
(写真)双葉山初優勝(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

1936年
昭和11年
5月29日
思想犯保護観察法公布

●この思想犯保護観察法は、1925年に制定された治安維持法を全面的に改正しようとする過程で成立したものだった。この頃、治安維持法で検挙・起訴された思想犯の数がピークに達しており、かつ一連の共産党弾圧による被告たちが刑期満了で釈放される時期に達していたことが法律制定の要因としてあった。
●そこで政府は昭和9年2月、出獄者に対する「保護観察制度」と「予防拘禁制度」を盛り込んだ治安維持法の全面改正案を第65帝国議会に提出した。この改正案は衆議院では修正可決されたが、貴族院では「予防拘禁制度」に異論が続出し、審議未了で廃案となった。この「予防拘禁制度」とは、「再犯のおそれのある者は刑期満了後も身柄を拘束できる」という、とんでもないものであったからである。そこで政府は治安維持法の全面改正をあきらめ、「思想犯保護観察法」だけを第69帝国議会に提出し、抵抗もなく単独立法させたのである。
●だがこの「保護観察制度」の保護観察も、保護観察所(全国22カ所に設置された国家機関で、大半の所長は思想係検事経験者)の保護司に任されることで、保護ではなく監視取り締まりに重点が置かれたものであった。保護観察に付せられた者は、住居や交友関係、通信などを制限され、伊勢神宮での禊(みそ)ぎや国民精神文化研究所で「色直し」とよばれた講習を受けさせられたのである。

1936年
昭和11年
5月29日
自動車製造事業法公布・7/11施行

●この法律の目的は、攻防上の見地から政府援助のもとに軍用車の国産化・量産化を図り、同時に日本に進出している外国メーカーの生産を抑制して、日本の自動車産業の自立を推進しようというものであった。対象となった外国メーカーとはアメリカのGM(ブランド名シボレー)とフォードのことで、フォードは昭和2年当時でも横浜に組み立て工場を建設し、年間2万台の生産能力を誇っていた。さらにフォードは月賦販売とディーラー網の展開という独自の販売方式で日本市場を席巻しつつあったのである。そしてGM(ゼネラル・モーターズ社)も昭和2年の大阪市の工場誘致から日本進出となった。こうして日本では大正12年(1923年)に自動車保有台数が1万4737両だったのが、フォードとGMが日本市場を席巻した昭和3年(1928年)には6万533両にもなったのである。
●これに対して国産自動車は、大正7年(1918年)の軍用自動車補助法公布以来10社近くが製造に挑戦してきたが、昭和5年になってもその販売台数の合計は500台未満だった。
●こうしたなか政府・軍部が自動車産業の育成・保護を重要視するきっかけとなったのが、昭和8年(1933年)の中国熱河省侵攻作戦だった。熱河省には鉄道網がなく、そのため陸軍は史上初めて自動車部隊による兵站線確保を行い成功をおさめた。この時の主力がフォードとシボレー(GM)の数百台のトラックであり、この作戦により陸軍省整備局は軍用トラック製造の必要性を痛感したのである。
●昭和9年の時点で、きわめて技術水準は低いながらも国産大衆車工業助成計画に参加できたのは自動車工業(日産自動車に6月改称)だけだった。その日産は、GMとの提携で技術導入を図ろうとしたが、陸軍の強硬な反対で提携交渉は打ち切られた。また昭和10年7月にフォードは横浜に一貫工場を建設する方針で用地を11万坪を買収したが、これに対しても陸軍省は猛反発した。
商工省(岸信介工務局長の指導下)は自動車国産化を早計と考えていたが、陸軍に同調し自動車製造事業法公布へ方針を転換していった。(日産は昭和10年4/12、日産自動車横浜工場で大量生産・一貫生産による「ダットサンセダン」第1号を完成。日産はアメリカから多くの技術者を招いた。)
(写真)昭和10年11月25日発行の海外向け雑誌「NIPPON」に掲載された日産自動車の小型乗用車ダットサンの広告(中央の写真は名取洋之助撮影、JPS提供)(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊


●一方大衆自動車の製造を悲願としてきた豊田自動織機製作所は、昭和10年代に乗用車(昭和10年5月試作A1型)とトラックの第1号車(G1型)を相次いで完成させ、昭和11年7月自動車製造事業法の施行直後に、日産自動車とともに許可を申請し、9/19両者は同法の指定会社の決定を受けた。そして日本フォードと日本GMは9/19をもって生産台数制限を受け、日本フォードは年間1万2360台、日本GMは年間9470台以内とされたのである。ただし国産車の技術水準はきわめて低く、戦線に国産トラックを送っても、「本当は国産トラックには乗りたくない中古車でもよいからシボレーやフォードに乗りたい」と兵士はいったと加藤誠之(のちのトヨタ自販社長)は語ったほどであった。
(写真)昭和10年11月22日発表の豊田自動織機製作所自動車部G1型トラック。全長5.95m、最大積載量1.5トン。-写真トヨタ自動車。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1936年
昭和11年
6月1日
日本放送協会大阪中央放送局のラジオ番組に「国民歌謡」が登場

●国民歌謡は月曜から土曜日まで6日間同じ曲が流され、2回目からは全国に中継する方針がたてられ、大阪と東京で交互に放送されることになった。この国民歌謡の生まれた理由について大阪中央局文芸課長奥屋熊朗は「当時のレコード企業のもたらした流行歌はんらん時代に対し、ラジオみずからの立場から、退廃調をぬぐい去った清新・明朗な歌曲を創造しよう」というものだった。(写真)「国民歌謡のテキスト」10月から発売された。-写真・NHK放送博物館(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
●だが戦争が進展するにつれ歌の内容は軍国調のものになっていき、昭和16年2月には「国民歌謡」は「われらのうた」に変わり、さらに翌17年2月には「国民合唱」に変わり戦意高揚を目的とするものになっていった。下に「椰子の実」例をあげる。初放送リストでは、昭和11年7/13~7/18「椰子の実」歌唱-東海林太郎・作詞-島崎藤村・作曲-大中寅二とある。歌は参考としてYouTubeにリンクした。

*リンクします「椰子の実」
動画・出典:YouTube(akiraplastic5氏)
1936年
昭和11年
6月26日
渡辺はま子のヒット曲「忘れちゃいやよ」発禁処分

●昭和9年8/1から施行された出版法の改正によりレコードも出版物と見なされ、言論統制の対象となった。発禁処分となった歌謡ヒット曲のなかで、とくに代表的なものがこの警視庁から処分を受けた「忘れちゃいやよ」だった。この曲は、昭和11年3/20の発売時は検閲を通ったが、3か月後に内務省図書課より「あたかも娼婦の嬌態を目前に見るごとき官能的な歌唱である」として、発売頒布と店頭等での公開を禁止されたのである。
●昭和初期は歌謡曲の黄金時代で、昭和2年ビクター、3年コロムビア、4年ポリドール、5年キング、9年テイチクと大レコード会社の創立が相次ぎ、レコードの大量生産が始まった。レコードの生産枚数は年々飛躍的に伸び、4年に1000万枚だったものが10年には2892万枚、そして11年には2968万枚とピークを迎えるのである。だが暗い時代を反映して民衆の心が享楽的な風潮を生み、政府はそういった「退廃的」歌謡曲の氾濫を統制しようとしたのである。
●さらに昭和12年7月から日中戦争がはじまり戦時体制が敷かれていくと検閲はさらに厳格なものになっていった。そして12年8月には内務大臣が、映画とレコード各社の代表を招き次のように要請した。

「・・挙国振張堅忍不抜の精神を伸張する様に留意してもらひたい」と国策遂行の手段として、文化統制下に入るように要請したのである。

これに対して各社は賛意を示し、国策に協力して国民の士気を高めるレコードを重点的に発売するようになっていくのである。下に例をあげてみるが、「東京ラプソディ」は藤山一郎6/20発売、淡谷のり子の「別れのブルース」は官製の軍歌・軍国歌謡が続々と生み出される中で、哀調をおびたブルースは強い支持を受けた(昭和2万日の全記録講談社)。

*リンクします「忘れちゃいやよ」歌-渡辺はま子、作詞-最上洋、作曲-細田義勝
動画・出典:YouTube(uchukyoku1氏)
*リンクします「東京ラプソディ」歌-藤山一郎、作詞-門田ゆたか、作曲-古賀政男
動画・出典:YouTube(uchukyoku1氏)
*リンクします「別れのブルース」歌-淡路のり子、作詞-藤浦洸、作曲-服部良一
動画・出典:YouTube(李平郎氏)
1936年
昭和11年
6月9日
●政府、電力国家管理案を公表する。これは発電・送電事業の国有化であり、国家による電力統制を公表したのである。
1936年
昭和11年
6月15日
不穏文書臨時取締法公布施行

●これは軍部・財界批判等の事項を掲載した文書図画を出した者に最高3年の懲役を定めた言論出版弾圧法である。衆議院で言論弾圧として猛反対されたが、「臨時立法」であることと「言論自由人権尊重」の付帯決議を付けることで公布された。だがこれにより治安当局の恣意的判断で取り締まりが可能となってしまったのである。

1936年
昭和11年
7月5日
2.26事件に判決


●東京陸軍軍法会議は、2.26事件に判決を下し、起訴された123人中、元将校13人と民間人4人に死刑判決を下した。
●そして7/12、幸田清貞ら15名は代々木陸軍衛戍刑務所で死刑執行された。民間人のうち2名(村中孝次と磯部浅一)は、北一輝と西田税の裁判の証人として執行が延期された。
(新聞)7/7の東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1936年
昭和11年
7月17日
●東京市に施行されていた戒厳令と同司令部を解除する緊急勅令を公布(18日施行)
1936年
昭和11年
7月27日
南洋拓殖株式会社令公布施行

●これは南洋諸島の資源開発と融資を目的とする国策会社で、パラオ諸島のコロール島に本社を置いた。初代社長は深尾隆太郎(日清汽船社長、朝鮮郵船取締役、貴族院議員)で、理事に杉田芳朗(拓務省)、下田文一(三井物産)、北岡春雄(海軍少将)が就任した。

1936年
昭和11年
7月31日
●IOC、第12回オリンピック大会の開催地を東京に決定。12/24日本オリンピック組織委結成。新聞で「芬蘭」とあるのがフィンランドで、1位が東京36票、2位はヘルシンキ27票だった。
東京では祝賀会が開かれ、隅田川では花火が上げられ、市電・市バスは五輪旗を掲げて運航した。だが日本は日中戦争激化のため、昭和13年、次回東京オリンピック開催を返上した。
(新聞)8/1の東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1936年
昭和11年
8月1日
第11回オリンピック大会、ドイツ-ベルリンで開会

(新聞)左から8/7、8/10、8/12の東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊


●開幕したベルリンオリンピックはメイン・スタジアムに12万人の観衆を集め、ヒトラーを前に参加49カ国3980人による選手入場式が行われた。ナチス・ドイツ式敬礼が随所にみられる。日本選手団はズックの靴、灰色のズボンに紺のブレザー、灰色の戦闘帽で行進した。下にリンクしたYouTubeの動画からその様子がうかがえる。日本はこの大会で6種目で金メダルを獲得し、4種目で銀、10種目で銅を獲得した。
●政治的な話題としては、朝鮮出身の孫基禎(ソン・ギジョン)選手がマラソンで優勝したが、それを報じたソウルの東亜日報が、胸の日の丸を削った写真を掲載し、半年間の発行禁止処分を受けた。(左写真)「東亜日報に対する発行停止命令書」(出典:「写真記録日中戦争6・敗戦と解放」ほるぷ出版1995年刊
●下に当時33歳のドイツ女流監督レニ・リーフェンシュタールの映画「オリンピア」{「民族の祭典」/「美の祭典」の2部構成}の一部をYouTubeから紹介してみる。この映画は世界中で上映され、ナチスの宣伝的色彩も強かったが多彩なカメラワークと巧みな編集で評判を呼び、日本でも封切り日には数千人が行列を作ったといわれる。マラソンで金メダルを獲得した「孫基禎」の実際の動画は「Olympia Part 1」の最後の部分に写っている。
●また200m平泳ぎで金メダルを獲得した「前畑秀子」の実況生中継の映像と音声はNHKアーカイブスにリンクした。スタートからゴールまでの間に「がんばれを38回」「勝った!を19回」叫んだ「名放送」の誕生である。NHKの字幕では「ガンバレ!」を23回、「勝った!」を12回連呼とある。

*リンクします映画「民族の祭典」 “Olympia” 開会式
動画・出典:YouTube(A. Taka氏)
*リンクします「Olympia Part 1 Fest der Völker 1938 with English Subs」動画・出典:YouTube(cityguy2129氏)
*リンクします第11回ベルリンオリンピックNHKアーカイブス
1936年
昭和11年
8月
●政府「国策の基準」「第2次北支処理要綱」「7大国策14項目」を決定する。

「国策の基準」1936年(昭和11年)8月7日、五相会議 で決定
「国策ノ基準」 昭和11年8月11日 閣議決定
一、国家経倫ノ基本ハ大義名分ニ即シテ内国礎ヲ強固ニシ外国運ノ発展ヲ遂ゲ帝国ガ名実共ニ東亜ノ安定勢力トナリテ東洋ノ平和ヲ確保シ世界人類ノ安寧福祉ニ貢献シテ茲ニ肇国ノ理想ヲ顕現スルニアリ
帝国内外ノ情勢ニ鑑ミ当ニ帝国トシテ確立スベキ根本国策ハ外交国防相俟ツテ東亜大陸ニ於ケル帝国ノ地歩ヲ確保スルト共ニ南方海洋ニ進出発展スルニ在リテ其ノ基準大綱ハ左記ニ拠ル

下

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「第2次北支処理要綱」1936年(昭和11年)8月11日、政府決定

●この第2次処理要綱も第1次と同様に華北5省の分治を確立させ、防共親日満地帯の建設を企図し、日本の統制下に華北経済圏を樹立させようとしたものである。陸軍は対ソ戦準備を重要視しており、満州で調達できる軍需資源が不十分のため、華北の資源(鉄鋼、液体燃料、綿花など)を手中に収めるねらいがあった。

「7大国策14項目」1936年(昭和11年)8月25日、政府発表

(新聞)8/26東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

国策ニ関スル閣議決定
昭和11年8月25日 閣議決定
[内閣発表]昭和十二年度以降ニオイテ重点ヲ置キ施設スベキ事項概ネ左ノ如シ
一、国防ノ充実
一、教育ノ刷新改善
一、中央地方ヲ通ズル税制ノ整備
一、国民生活ノ安定 (イ)災害防除対策 (ロ)保健施設ノ拡張(ハ)農山漁村経済ノ更生振興及ビ中小商工業ノ振興等
一、産業ノ振興及貿易ノ伸長 (イ)電力ノ統制強化 (ロ)液体燃料及鉄鋼ノ自給 (ハ)繊維資源ノ確保 (ニ)貿易ノ助長及統制 (ホ)航空及海運事業ノ振興 (ヘ)邦人ノ海外発展助長等
一、対満重要策ノ確立 (イ)移民政策及投資ノ助長策等
一、行政機構ノ整備改善
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1936年
昭和11年
8月-10月
中国と満州における事件《8月~10月》と国民政府と日本の対応

●8/21関東軍、興安北省三河地方でスパイ行為などを行ったとして、同地のロシア人9人をハイラルで処刑。
●8/24「成都事件勃発」・・中国四川省の成都で、「大阪毎日新聞」特派員渡辺洸三郎ら4人の日本人が、同地の領事館再開に反対する中国民衆に襲われ、2人が死亡2人が負傷(重傷)する事件が起きた。(抗日集団による凶行)

8/26外務省は成都事件に関し、中国国民党に対して厳重抗議する。9/1海軍は成都事件の成り行き監視のため、及川第3艦隊司令長官に、揚子江沿岸警備配置のまま待機を発令

●9/3「北海事件」・・広東省北海で、日本人薬種商が中国人によって殺害された。北海は国民政府と対立し、反日感情の強い再建後の第19路軍勢力下にあった。

9/9日本政府は調査と称して砲艦嵯峨を派遣するなどして威圧した。

9/11中国国民政府は、対日テロ事件続発に対して、外国人保護に関する行政院命令を発令する。

9/15、軍令部は北海事件処理方針を決定する。事件解決に海軍兵力の行使を準備する。陸軍側は非協力の方針。

●9/17国民政府、租界を除く上海に戒厳令を宣布(9/20まで)。満州事変記念日前後の抗日集団の動きを警戒。
●9/12満鉄浜綏線代馬溝東方で軍用列車が2百余人の抗日集団に襲撃される。(死傷者90人)
●9/19「漢口事件」・・中国湖北省の漢口で、日本租界の総領事館警察派出所の巡査が中国人に後頭部を狙撃され即死した。

上海の日本大使館、抗日運動の取り締まりを中国政府に強く要求。海軍はただちに第3艦隊を漢口に集中させ、居留民保護のため第11陸戦隊を上陸させた。

●9/23上海租界日本人街で、第3艦隊乗組員水兵を中国人が狙撃、1人即死、2人重傷。

9/24海軍の上海陸戦隊、非常警備布告を公布。「在留帝国臣民」の生命財産に自衛権を発動。9/26海軍中央部、「対支時局処理方針」を策定する。上海の確保と作戦の不拡大。陸軍に同一歩調を要求するなど。

●9/29満州国安東省錯草溝付近で、食糧輸送中の日本軍が約300人の抗日集団と交戦する。
●10/11満ソ国境付近2カ所で、満州国国境監視隊とソ連軍部隊武力衝突する。
●10/26ソ連兵約50人、満州当壁鎮西北方高地に越境、国境監視員を威嚇射撃する。

10/28満州里で第1回満蒙会議開催。国境紛争処理・国境確定の両委員会設置問題を中心に討議を行う。

●10/30満州国浜江省インガ付近に駐留の日本軍、反満抗日集団と戦闘。日本軍の戦死2人、重軽傷者6人。

1936年
昭和11年
9月10日
●満州移民第1期5ヵ年計画(約13万戸、予算1億円)、大蔵・拓務両省方針が一致し具体化する。
1936年
昭和11年
9月10日
●陸軍省の陸軍工廠労働者の組合加入禁止により、各工廠で脱会の手続き終了。
(9/14社大党代議士ら7人が陸軍省を訪問し、労組参加禁止について再考を陳情する。)
1936年
昭和11年
9月12日
●電力国策に関する第3回4相会議(大蔵・逓信・商工・鉄道)、民有国営案を承認する。
1936年
昭和11年
9月25日
(帝国在郷軍人会令公布)
●帝国在郷軍人会は明治43年(1910年)に結成された退役軍人の団体で、この9/25の公布(10/11施行)により陸海軍大臣所管の公的機関となった。全国で1万5千団体、約300万人が会員となり、徴募や招集など軍の公務に協力した。
1936年
昭和11年
9月28日
●「ひとのみち教団=(昭和21年9月PL教団として改称・立教)」初代教祖御木徳一、特高に検挙される。検挙理由は信者の少女への暴行容疑であったが、一連の宗教弾圧である。翌昭和12年4/28には、「天照大神は太陽である」というのが不敬罪に当たるとして、教団は解散させられた。
1936年
昭和11年
10月20日
第1回結核予防国民運動振興週間開始(亡国病)

●公衆衛生の監督官庁である内務省は、ポスターやパンフレットなどや予防講習会の開催などを実施して、感染や発病について国民を啓発し結核予防に努めた。結核は昭和10年(1935年)に死因の1位となり、特に農村での結核患者の急増は、兵士の供給を農村に依存していた軍部にとって深刻な問題だった。
●明治から大正期に至るまで、結核は都会の工場労働者やスラム居住者たちに多い病気であり「貧民病」と呼ばれるほどだった。人口1万人当たりの結核死亡者も、東京が圧倒的に高く全国平均の3倍以上にも上がっていた。ところが昭和期に入ると、結核は都市部から農村へと広がり「亡国病」と呼ばれるまでになった。農村の不況が都市周辺部への出稼ぎを生み、工場での過酷な労働で結核に感染して帰郷して農村で死亡するというような図式がうまれたのである。
●こうしたなかやっと政府も本腰を入れて結核予防対策に取り組むようになり、昭和12年4/5には「結核予防法」が改正された。政府も対策を次々と打ち出したがなかなか好転せず、年々死亡者数は増加し、昭和14年には人口10万人に対して216.3人、昭和18年には235.3人まで達した。結核は昭和10年~昭和25年(1950年)までの16年間、死因第1位を独占したのである。

1936年
昭和11年
11月3日
●アメリカ大統領選挙でルーズヴェルトが次期大統領に再選される。新聞ではニューディールに凱歌、圧倒的大勝とある。また善隣政策を継続すると見られ、日本の外務省も歓迎とある。
(新聞)11/5東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1936年
昭和11年
11月4日
軍部による行政改革・議会制度の刷新改善案

●行政改革は中央・地方の行政機構刷新に関するもので、軍部は8月に政府が発表した「7大国策・14項目」のうち「行政機構の整備改善」に関して、各省の大廃合を断行し国策統合機関(無任所大臣の設置)の新設を提案した。これは国策を実施するためには行政機構の集中と結合が必要であるとしたのである。議会制度の刷新については、「国運の進展に伴い議会の現状に鑑み、議員法選挙法を改正し議会を刷新す」というものであった。
●11/5社会大衆党は、軍部の議会制度改正案に反対を表明。民政党有志代議士会、軍人の政治関与排撃を決議する。
(新聞)11/17東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●この軍部の「議会制度の刷新」に関する改革案は大きな問題となった。その重要な部分の一部を抜粋すると以下のようである。

1、日本の今日の議会は所謂英国流の議院内閣制をとり来ったので議会は立法、予算に関する協賛権の行使よりも、むしろ政府の行政監督権の行政に主力を注ぎ、ために議会は政権争奪場と化し肝腎の立法、予算の協賛が軽視されている。よってこの際米国流の如く議会と政府とを各々独立の機関とし以て立法行政、司法3権分立主義を確立し議会に多数を占むる政党が政府を組織するが如きことを禁止し政党内閣制を完全に否定する。
*リンクします「議会制度刷新をめぐる軍部と政党の対立」
政治外交研究会 著 昭和12→国立国会図書館デジタルコレクション

●11/6寺内寿一陸相は「陸軍は憲法を遵守する」旨の談話を発表した。

1936年
昭和11年
11月6日
●スペイン内乱、フランコ将軍が10月末にマドリードを包囲し、この日総攻撃を開始した。マドリード市街戦では政府側(人民戦線)にファシズムに反対する外国人も加わり、世界中の注視の下で戦闘が行われた。
(新聞)11/8東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1936年
昭和11年
11月6日
●近代日本画の秀作である上村松園の「序の舞」が、東京府美術館で開催された文展招待展(帝国美術院主催の無鑑査展)に出品された。上村松園はこの作品を機に次々と傑作をものした。
(絵)上村松園「序の舞」 1936年(昭和11年)絹本彩色 文展招待展出品 東京藝術資料館蔵 (出典)「昭和の日本画100選」展 別冊三彩15号株式会社三彩社、1989年11月刊
1936年
昭和11年
11月7日
帝国議会、新議事堂落成式挙行

●この日、貴衆両院および政府関係者、官界代表者など2800人が参集して盛大な竣工式と祝賀会が挙行された。式は午前11時から行われ、近衛文麿貴族院議長と富田孝次郎衆議院議長が、それぞれ議会政治の進展に向けての決意を式辞で披露した。
●日本の議会は、第1回帝国議会招集(明治23年=1890年)から第69回帝国議会(昭和11年=1936年)まで46年もの間「仮議事堂」を使用してきた。理由は、明治24年(1891年)2月、当時の貴族院書記官・金子堅太郎が提出した次の意見書に基づき、政府は壮大な議事堂にする予定で、日清・日露戦争で疲弊した国力が回復するまで本建築を見送って来たからである。
「経費節倹の点を以て粗悪なる建物を築くべからず。万世不朽に伝わる堅固荘厳なる議院を建築すべし。宇内の粋を抜き美を集め一の壮麗優美なる建物なることを海内に示さんことを希望す」という意見書だった。
●大正7年(1917年)官報によって設計の一般公募が行われ、1年後宮内省技手の渡辺福三の案が選ばれた。大蔵省臨時建築局技師だった大熊喜邦が渡辺案をもとに改めて設計した議事堂は、大正9年(1919年)1月に地鎮祭を行い、6月に建築工事に着手し、それから17年余の歳月をかけてようやく完成したのである。
●議事堂は、本建築のための資材はすべて国産品と定められ、八幡製鉄所生産の鉄骨・鉄筋、全国から集められた杉・檜、けやき、ナラ材など24種類の木材、20カ所をを超える産地から取り寄せた37種類の大理石など、資材も技術もすべて国産で建てられたのである。こうして当代1流の石工、大工、左官、建具師、金工、漆工、織物師などが全国から集められ、完成までに要した人員は延べ254万2877人にのぼった。
●だが議事堂は完成を目前にして昭和11年2月、2.26事件で軍靴で蹂躙されたのである。(この章の最初の写真は、2.26事件の時、国会議事堂付近へ出動した戦車隊。)
●11月7日の落成祝賀会に出席した「憲政の神様」といわれた尾崎咢堂(がくどう)(行雄)は次のように議会政治の行く末を嘆いたという。

実に恥づかしい。(中略)こんな立派な議事堂が出来ても、さてそこに入る議員たちはどうでせう(読売新聞昭和11年11/8)

(議事堂の建築着工からまもなく100年である。現代の議員たちをみて尾崎咢堂なら何というのだろうか?)

(写真)正面中央玄関前で行われた竣工式で「君が代」を斉唱する参列者(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊。

1936年
昭和11年
11月14日
内蒙古軍、中国綏遠省に進撃開始(綏遠事件)

●日本は抗日運動の発展に伴い共産党と紅軍が華北に進出してきたことに危機感を抱き、関東軍参謀田中隆吉中佐が内蒙古軍の徳王をそそのかし、独立運動のため中国綏遠省に進撃を開始させたが24日敗退した。(綏遠事件)。
●11/21外務省は、綏遠事件について「日本は関知せず」と内外に言明した。

1936年
昭和11年
11月20日
秋田県尾去沢(おさりざわ)町で貯水池の堤防が決壊(死者336人)


●三菱鉱業尾去沢鉱山で、鉱滓の溜池である中ノ沢ダムが数日来の雨により決壊した。硫化銅などの有害物質を含む泥水が流出し、死者336人、行方不明44人、205棟が流出した「昭和2万日の全記録」講談社。11/21の東京朝日新聞では「330戸を流出、死傷者約700名に達す」とある。
●事故はこれだけで終わらず、翌12/22に再び三菱鉱業尾去沢鉱山の貯水池の堤防が決壊し、死者8人、行方不明3人を出した。
(新聞)11/21東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
写真-毎日新聞社(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
●翌年の昭和12年2/12、商工省鉱山局は、この堤防決壊事故に関し責任は鉱山側との調査結果を発表した。

1936年
昭和11年
11月25日
日独防共協定に正式調印(共産インターナショナル対する日独協定)

●11/13、日独両国は秘密協定に仮調印しており、この日、日独防共協定の正式調印となった。実は第2次大戦終結まで公表されなかったこの秘密協定の方が重要であった。内容は、ソ連と日本(あるいはドイツ)との間で軍事衝突が起きた場合に、他の締結国はなるべくソ連を牽制し、ソ連を敵国として東西から挟み撃ちにするという主旨のものだったからである。(下に協定を「ひらがな書き」にして句読点を追加して引用した)


(日独防共協定)-第3条は(略)
●第1条 締結国は共産「インターナショナル」の活動に付相互に通報し、必要なる防衛処置に付協議し且緊密なる協力に依り右の処置を達成することを約す。
●第2条 締結国は共産「インターナショナル」の破壊工作に依りて国内の安寧を脅かさるる第3国に対し、本協定の主旨に依る防衛処置を執り又は本協定に参加せんことを協同に勧誘すべし。

●日本ではすでに「治安維持法」等で共産党は壊滅しており、共産主義も禁止されていた。ドイツでも1933年には共産党は非合法化されており、両国の意図したことは、共産「インターナショナル」の活動対策ではなく、ソ連に対する軍事同盟であったのである。

(秘密付属協定)
●第1条 締結国の一方が「ソヴイエト」社会主義共和国連邦より挑発によらざる攻撃を受け又は挑発に因らざる攻撃の脅威を受くる場合には、他の締結国は「ソヴイエト」社会主義共和国連邦の地位に付負担を軽からしむるが如き効果を生ずる一切の処置を講ぜざることを約す。
●第2条 締結国は本協定の存続中相互の同意なくして「ソヴイエト」社会主義共和国連邦との間に本協定の精神と両立せざる一切の政治的条約を締結することなかるべし。

●ドイツは、1935年ベルサイユ条約の軍備制限条項を一方的に破棄し、公然と再軍備を宣言した。ドイツはオーストリア、チェコスロバキアを侵略の目標に定め、そのため後方のフランスを叩くため、1936年のスペイン内乱では反政府側を支持した。スペインに親ドイツ政権ができればフランスを挟撃できるからである。また同時にソ連の参戦を防ぐため極東の日本にソ連への牽制をさせようとしたのである。
●一方東北アジアでは、ソ連が国力を回復して満州事変を契機に東シベリア方面で軍事力の急速な増強をはかってきた。これにより関東軍・朝鮮軍との軍事バランスがソ連優位に傾いてきた。こうして日本にとっても、ソ連牽制の意味でドイツとの連携は有意義なことになったのである。

1936年
昭和11年
11月27日
閣議、12年度予算案を決定

●歳出総額30億4100万円、軍事費14億900万円。

1936年
昭和11年
11~12月
(軍事関連と対中国)
●11/3上海で、中国人紡績会社の抗日スト始まる(4万人が賃上げを要求、抗日統一戦線の契機となる)。
●11/10川越中華大使・張国民政府外交部長、南京で第7次会談。中国は華北防共問題につき冀東政府解消等を要求。
●11/20冀東保安隊が開平付近で列車を襲撃。山海関守備隊長古田竜三少佐らを拉致する。
●11/24満ソ東部国境付近で、日本軍約40人とソ連軍約40人が衝突、日本側死者10、行方不明8、重軽傷7。
●12/3川越中華大使・張国民政府外交部長、9/15から行われた成都事件処理など日中関係調整のための会談、事項確認のみで交渉打ち切り。

●12/3青島(チンタオ)の日本人紡績会社争議悪化のため、第3艦隊の陸戦隊が同地へ上陸、警備を開始する。
●12/5外・陸・海3相会議で、中国在留日本人危機の場合は兵力行使による予防措置も行うなどの対中国策を決定。

●12/30成都・北海両事件、中国側の陳謝、犯人の処罰、弔慰金」の支払いなど川越中華大使・張国民政府外交部長の公文交換にて解決する。

1936年
昭和11年
12月1日
●大日本雄弁会講談社、「講談社の絵本」を発売開始。「絵本」の原点。
漫画家の手塚治虫が、昭和46年12/1発行の「日本児童文学」臨時増刊「絵本」に、「私と絵本」と題して次の一文を載せた。

「ぼくらの年代にとって幼児期の絵本の象徴は、『講談社の絵本』であった。国定教科書と立川文庫とをミックスさせたようなこの古色蒼然たるシリーズは、今から考えるとB5判子どもマガジン雑誌の草分けであり、つい最近までぼくらの絵本の観念の中に執念深くこびりついていた」

昭和11年12/1に創刊された「講談社の絵本」は子供たちにとってセンセーショナルな出版物だった(「昭和2万日の全記録」講談社より)。
●国立国会図書館の国際子ども図書館には「講談社の絵本」について以下のように書かれている。

「講談社の絵本」・・大日本雄弁会講談社が「幼年倶楽部」の前段階の読者層に向けて1936年12月に創刊。<読む雑誌から見る雑誌>として豪華な絵本をめざし、当時の一流の日本画、洋画の挿絵画家に依頼。1942年4月に終刊となり、その後「コドモヱバナシ」と改題し1944年3月まで続いた。戦後まもなく、1945年10月には「講談社の絵本 イッポンノワラ」を発刊するが4号で終刊となり、1946年2月に再び「コドモヱバナシ」と改題し、1958年9月まで刊行された。毎月4冊の同時発売を基本とし、戦後の復刊も含め総数7千万部という販売数を誇った。
1936年
昭和11年
12月2日
●大日本傷痍軍人会、東京九段の軍人会館で発会式を挙行する。この頃の傷痍軍人は全国で43万人以上。
1936年
昭和11年
12月10日
英国国王エドワード8世、退位を発表


●12/4の朝日新聞によれば、「シンプソン夫人はアメリカ・メリーランド州バルチモア出身の平民の娘で、1895年生まれで今年41歳、2度の離婚歴を持つ(10/27に2度目の離婚が成立)。婦人の実家の先祖は、11世紀の昔ヘイスチングスの戦争でウイリアム征服王に功を立てた騎士で、由緒ある家柄の子孫だけに米国式なフラッパーじみた所がなく、生まれついての愛嬌と家庭向きに親切気のある点が人々に好かれているとのことだ」とある。
●このエドワード8世の結婚問題は大きな問題となった。エドワード8世の性格の問題であったことに違いないが、シンプソン夫人と結婚するためには、王位を捨てなければならなかったのである(王冠を賭けた恋)
●ここで重要なことは、上の新聞の下段にある写真(11歳のお姫様)の人物(現在のエリザベス女王)が次の王位継承者となったことである。エドワード8世が退位したことにより弟のヨーク公がジョージ6世として王位を継いだことで、11歳のエリザベスが次の王位継承者となったのである。
(新聞)12/11東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊。(イギリス王室系図)(赤字で注釈星野)(出典)「クロニック世界全史」講談社1994年刊


(昭和天皇とエドワード8世との関わりのある写真の紹介)


●写真「来日された英国皇太子(後のエドワード8世、ウインザー公)を新宿御苑に案内される陛下。中央は貞明皇后大正11年(1922年)4月16日」(出典)アサヒグラフ「天皇陛下崩御」朝日新聞社1989年1月緊急増刊

●左写真「1971年10/5ビクトリア駅でのエリザベス女王と昭和天皇」(部分)(出典)毎日グラフ「天皇 皇后ヨーロッパご旅行」毎日新聞社1971年10/27増刊
●右写真「1971年10月フランス・ベルサイユ宮殿からの帰り道、ブローニューの森にすむウインザー公とシンプソン夫人を訪ねた時の写真。50年ぶりの再会とある」(部分)(出典)毎日グラフ 同上

1936年
昭和11年
12月12日
張学良、蒋介石を西安で監禁、クーデター発生(西安事件)

●この時蒋介石は、延安の中国共産党の根拠地に攻撃を加えようとして、国防会議を開くため西安郊外に滞在していた。そして12/4蒋介石は西安にて張学良らに掃共戦継続を命令した。張学良は日本軍に故郷を追われた東北軍を率いていた。
この頃、日本軍による華北への侵略が激化し、東北軍や西北軍の将校の中には抗日救国のの思想に目覚めるものが多く、彼らは共産軍との内戦に消極的になっていた。張学良も反乱を起こす前洛陽で蒋介石と会い、内戦停止と抗日民族統一戦線への参加を訴えていた。しかし蒋介石は依然として民族の敵は共産党であり、共産党掃蕩を最優先とする「安内攘外」政策を変えようとはしなかった。
●12/12、そこでついに張学良らは内戦停止と抗日民族統一戦線参加を要求するため、蒋介石を監禁する事件を起こしたのである(西安事件)。
(新聞)12/13の東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊


●この事件に対して国民政府内部では、反乱軍(張学良)討伐を方針とする何応欽らの武力討伐派と、蒋介石の無事救出を願う蒋夫人の宗美麗らの和平談判派に分かれた。だがすでに何応欽は洛陽方面の中央軍に反乱軍討伐のための前進命令を出していた。
●一方この報を聞いた中国共産党は、スターリンからの指示もあり、蒋介石を殺さず抗日統一戦線の先頭に立てる方針を決め、周恩来らを西安に派遣した(12/17)。そしてここに蒋介石と周恩来の歴史的会談(12/24)が開かれ事態は急速に解決し、張学良は蒋介石を釈放した。会談の内容は、内戦停止、一致抗日、救国会議招集など信義に基づく約束であったとされる。
(新聞)12/26の東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1936年
昭和11年
12月15日
●電気協会、臨時総会で、電力民有国営化案(国家管理)反対を決議する。
1936年
昭和11年
12月17日
●商工省、貿易統制法・貿易組合法両法案の要綱を決定。
1936年
昭和11年
12月31日
●ワシントン海軍軍縮失効。無条約時代に突入する。
1936年(昭和11年)の出来事 政治・経済・事件・災害・文化

「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊より抜粋
1.15 政府,ロンドン軍縮会議脱退を通告,無制限建艦競争始まる
1.15 日本労働総同盟と全国労働組合同盟が合併し全日本労働総同盟を結成(会長松岡駒吉)
1.20 英皇帝ジョージ5世死去

下

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