1936年(昭和11年)②2.26事件後の「粛軍」と「国策の基準」を決定

2022年6月27日アジア・太平洋戦争

日本の国策は、中国大陸における権益確保と南方海洋に進出発展することに決定する
●2.26事件後、皇道派あるいはそれに近いと目された将軍たちは現役を追われた。そして陸軍の「粛軍(=粛清)」が行われ「新統制派」が形成されていく。そして軍部は5月に「軍部大臣及次官の現役武官制」を復活させ、陸軍・海軍大臣就任資格を現役の大将・中将に限定させた。これは現役を追われた皇道派の復活を排除するとともに、内閣からの関与を排除し、陸軍の目指す政治改革のため、軍部の独立と政治的発言力の強化に利用していくのである。軍は「統帥権干犯」を主張して軍部独裁をはかるのである。
次に、2.26事件後の軍備大拡張による兵器の近代化と海軍の大建艦計画の一例をあげる。なかでも日本の航空技術は模倣の段階を卒業し、当時の世界トップレベルにまで進歩していく。
(写真)2.26事件で、国会議事堂付近へ出動した攻撃部隊(鎮圧)の戦車隊。(出典)河野司編「2.26事件 獄中手記・遺書」河出書房新社1989年新装初版発行。

陸軍による2.26事件後の「粛軍」と「新統制派」の形成。

陸軍は2.26事件後(昭和11年2/26)、石原莞爾大佐、梅津美治郎陸軍次官、寺内寿一陸軍大臣、杉山元教育総監らが「新統制派」の中核となった。そして「粛軍」の名において皇道派を排除するなかで、人事・機構の改編に乗り出し、国防国家の構築に着手した。参謀本部で中心となったのは石原莞爾で、6月には新設された第2課(戦争指導課)の課長に就任し、戦争指導と情勢判断の任に就いた。石原はソ連を主要敵国とする南守北進の方針をとった。一方海軍は、長谷川清海軍次官を中心に、中国とは共栄共存、ソ連に対しては積極的な侵攻策を放棄し、南方進出を図る北守南進論の方針をとった。

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航空兵力の増強と航空技術の進歩。海軍では、条約反対派(艦隊派)が主勢となり無制限建艦競争へ向かう。

1937年(昭和12年)4月9日、朝日新聞社の「神風号」が東京-ロンドン間の連絡飛行に成功、日本最初の航空国際記録をつくる。日本はそれまでの模倣の段階を卒業し、昭和11年から12年にかけて、多くの世界初、世界最優秀機の開発に成功していく。そして1939年(昭和14年)4月1日、「12試(=昭和12年度試作)艦上戦闘機」第1号が試験飛行に成功する。海軍「零式(れいしき)艦上戦闘機(零戦=ゼロ戦)」の誕生である。

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国内政治と社会年表。1936年(昭和11年)

(3/9岡田啓介内閣は(2.26事件後)総辞職し広田弘毅内閣に代わった)。
日本は昭和11年(1936年)1/15、第2次ロンドン軍縮会議で正式に軍縮会議脱退を通告し、昭和12年(1937年)1/1をもって軍備無制限時代(建艦競争再開)に入ることが確定した。
 こうしたなか、陸軍内部の皇道派はクーデター事件(2.26事件)を起こし政府要人らを襲撃・暗殺した(2/26)。翌日戒厳令が公布され2/29には事件は鎮圧されたが、陸軍は「粛軍」の名のもとに皇道派を一掃した。
そして陸軍は新たな組閣の大命を受けた広田弘毅内閣に対しても、露骨な政治介入を行い発言力を強めていった。さらに5月軍は「軍部大臣及次官の現役武官制」を復活させ、陸軍・海軍大臣の任命権を握り、内閣の命運を左右する力すら持った。
 8月、広田内閣は5相会議(首相・外務・大蔵・陸軍・海軍)で「国策の基準」を定めた。陸軍側は「南守北進論」であり、海軍は「北守南進論」であったが、5相会議はこの両方を採用し、「南北併進」という東南アジア・ソ連の双方へ進出することを国策として決定したのである。この「国策の基準」は「庶政一新」といわれ、日本が総力戦に備えた高度国防体制を確立し、戦争への道を歩み始めたことにほかならなかった。同じく8月広田内閣は「北支処理要綱」も定め、華北5省を中国から切り離し、日本の勢力下におくという前年来の陸軍の方針を、正式に政府の政策として決定した。
 そして11月、日本はドイツとの間に「日独防共協定」を結んだ。これには軍事的に衝突が起きた時に双方でソ連を挟撃するという秘密協定が隠されていた。同じく11月広田首相は、軍部による議会制度の刷新改善に関する軍部案大綱を各閣僚に配布した。これに対し政党は軍人の政治関与排撃を決議したが、皮肉にも11/7、 17年の歳月を要した「憲政の殿堂」である帝国議会新議事堂が落成したのである。(現国会議事堂である)

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