1934年(昭和9年)3/1溥儀、満州帝国皇帝に即位する。

アジア・太平洋戦争

昭和9年、日本国内では大冷害が、東北6県を襲う。急増した欠食児童と娘の身売り。
 昭和10年8/18、永田鉄山少将(陸軍省軍務局長)が軍務局長室で相沢三郎(歩兵中佐)に刺殺される事件が起きた。これは陸軍内部の「皇道派」と「統制派」の派閥争いでもあったが、この争いは翌年の2.26事件につながり、陸軍内部を揺るがした大事件の前兆だった。
●次に年表では日本国内の政治・経済・事件を、昭和9年から昭和10年までを書き出した。
(写真)凶作にあえぐ東北の農村。左:青森県新城村で行われた部落相談会。右:岩手県下の一農村。(出典)「日本の歴史(第12巻)世界と日本」読売新聞社1966年刊

目次
昭和9年~昭和10年 主要項目
昭和9年(1934年)斎藤内閣→岡田啓介内閣 ●政治面では、1月「時事新報」が「番町会を暴く」という連載を開始した。この番町会とは郷誠之助を中心とした財界の気鋭のグループで、後に台湾銀行からの「帝人株式」の斡旋で斎藤内閣が倒閣する「帝人事件」の発端となった。

下

昭和10年(1935年)岡田啓介内閣
(翌年2.26事件勃発、総辞職)
●中国大陸では、1月、ソ連から満州国に北満鉄道譲渡の関する協定が成立する。4月、満州国皇帝溥儀が来日する。溥儀はこの訪日によって自らが至高の権威をもったと錯覚するに至ったと自伝で自嘲したという。

下

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1934年(昭和9年)満州帝国誕生
(昭和9年、大冷害が東北6県を襲う。急増した欠食児童と娘の身売り)
●昭和9年は、日本各地で自然災害が起こり、農作物が大きな被害を受けた。九州・四国の干害、北陸・山陰の冷雪害、関西・中国の室戸台風による風水害と続いたが、冷害に見舞われた東北の被害は甚大で、明治38年(1905年)以来の凶作となり、多くの農山村が飢餓線上をさまよった。
●農村の窮乏(農業恐慌)は、1932年(昭和7年)以後深刻になっていった。1930年(昭和5年)豊作飢饉、1931年(昭和6年)~1932年(昭和7年)の凶作。1933年(昭和8年)豊作飢饉、そして1934年(昭和9年)のかってない大凶作と農村の状況は深刻となっていった。特にアメリカの恐慌(1929年からの世界恐慌)による生糸輸出の激減が、養蚕農家に大きな影響を与えた。(写真)凶作にあえぐ東北の農村。左:青森県新城村で行われた部落相談会。右:岩手県下の一農村。(出典)「日本の歴史(第12巻)世界と日本」読売新聞社1966年刊
●そしてこの農業恐慌の下で、米作・養蚕地域を中心に赤字農家が激増した。1戸平均約1000円(昭和6年の平均農家所得の2倍相当)という莫大な負債を抱えた農家では、その返済のため、青田売り、欠食児童、娘の身売りなど深刻な事態を生んだ。このため小作争議も増加を続け、昭和5年の2478件が昭和10年には6824件となった。
●この農村の問題と救済は陸軍にとっても深刻な問題となった。なぜなら兵士の大部分が農村出身であったからである。血盟団や5・15事件の被告たちも農村救済を叫んでいた。
1932年(昭和7年)の5・15事件後の斉藤内閣でも、農村救済(時局匡救《きょうきゅう》策)が取り上げられたが、多額の軍事費に圧迫されて農村救済予算は削られてしまった。そのかわり政府は農村の自力更生運動(経済更生運動)を推進し、その要となった産業組合の強化を行った。
●この自力更生運動は、土地利用、生産方法から生活、教育の細目にまでわたる経済更生計画に基づいて、毎年1000町村を経済更生指定町村として、各町村に100円の補助金を出すというものだった。
そして農村の中堅リーダーを養成するため、農林省は昭和9年より各地に「農民道場」を設置した。また「産業組合」というのはいわゆる「協同組合」で、信用、販売、購買を目的として設立されたものである。
1934年
昭和9年
1月1日
(東京日比谷に、東京宝塚劇場開場)
●東京宝塚、レビュー「花詩集」で開場。「花詩集」には、小夜福子、葦原邦子、草笛美子、雲野かよ子らトップスターが出演した。
(写真)前列左から、大空ひとみ、三浦時子、中列左から、草笛美子、雲野かよ子、後列左から、葦原邦子、橘薫、巽寿美子、小夜福子。葦原は宝塚のクラーク・ゲーブル、小夜は宝塚のゲーリー・クーパーと呼ばれた。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1934年
昭和9年
1月5日
(日印新通商協定成立)
●インドへの日本の綿織物輸出が急増したことに対してインドとイギリスは抗議、イギリス政府は昭和8年4月、日印通商条約の廃棄を通告。9月日印会商が開始された。
●そしてここに、幾多の困難や決裂の危機に瀕しながらも、インドの関税引下げと交換的に日本の印(インド)綿不買を解除して、新たな日印新通商協定が成立したのである。
1934年
昭和9年
1月12日
(日本沃度《ヨード》大町工場、国産初のアルミニウムの工業的生産に成功する。)
●アルミニウム工業は、1854年にフランスでおこった。日本での国産化が遅れた理由は、技術的な問題より、原料が国内で産出しないことにあった。しかし、昭和6年9月に勃発した満州事変は、航空機用資材としてアルミの需要を高め、しかも、同年12月の金輸出再禁止の影響でアルミ地金が高騰したため、軍部はアルミの国産化を急ぐように政府に要望した。
●そして昭和8年6月、日本沃度(ヨード=現昭和電工)社長の森矗昶(のぶてる)は、長野県大町に工場を建設し、翌昭和9年1月10日に操業を開始、12日に初めての製品を得たのである。(森コンツエルンである)
(写真)アルミは「粘土から得た銀」と呼ばれた。昭和9年1/12に日本沃度大町工場で製造された国産アルミニウムインゴットの第1号。記念の刻印は翌日打たれた。写真-昭和電工(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1934年
昭和9年
1月17日
(「番町会を暴く」時事新報社が連載を開始。)
●下がそのまえがきである。政治的な問題となっていったことが想像される。「帝人事件」の発端となった。

政党と政商の結托暗躍はあらゆる社会悪の源となり、遂に五・一五事件を誘発して非常時内閣の出現を見たことは汎く知るところ、然も五・一五事件の洗礼をうけた非常時内閣下に於て政党政商等はしばらくその爪牙を隱して世の指弾を避くるに汲々たる折柄、こゝにわれらはわが政界財界の蔭に奇怪な存在を聞く。曰く「番町会」の登場がそれである。
即ち彼等はいまやその伏魔殿に立籠り、嘗て政党政商が爲せるが如き行爲。紐育タマニー者流にも比すべき吸血をなしつゝ政界財界を毒しつゝあるといふ。然もこの「番町会」のメンバーとして伝へられるものに某財界巨頭を首脳とし、これを囲繞するものに現内閣の某大臣あり、新聞社の社長あり、政権を笠に、金権と筆権を擁して財界と政界の裏面に暗躍する暴状は目に餘るものがあり、既に彼等の飽くなき陰謀の一端は、さきには商工会議所乗取り、近くは帝国人絹の乗取り、紳戸製鋼所株の拂下げ或は政民聯携運動等となって、世人を戦慄せしむるに至った。我等は敢て事を好むものではない、然も非常時内閣の下、更始一新が叫ばれる今日、権力と金力を背景とする不義不正が横行するに対し、言論機関の使命の爲めに、断じて黙過すべきでない。よって本社はこの利権の伏魔殿の策諜に対し忌憚なき摘発を加へ、以て社会の批判に訴へることゝした。
 昭和九年一月         時 事 新 報 社
*リンクします「『番町会』を暴く・ 帝国人絹の巻」 時事新報社昭和9年刊→国立国会図書館デジタルコレクション
1934年
昭和9年
1月23日
病気を理由に辞任した荒木貞夫陸相の後任は、林銑十郎(教育総監)に決定。教育総監の後任に真崎甚三郎。
(新聞)1/23東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1934年
昭和9年
1月29日
「鉄の巨人」日本製鉄設立

●議会は、満州事変の勃発により鉄鋼の軍事需要が増大したことにより、国内製鉄業界の徹底的合理化を条件に、鉄鋼関税の大幅引き上げを承認し、国内生産体制の確立のため、昭和8年「日本製鉄株式会社法案」を可決した。これにより政府には日鉄への命令権・統制権が与えられたのである。そして官営八幡製鉄所を中心に、銑鉄企業の輪西製鉄、釜石鉱山、三菱製鉄、鋼材企業の富士製鉄、九州製鉄の1所5社が合同した日本鉄鋼史上初のトラストが誕生した。さらに3月には東洋製鉄が参加し、銑鉄部門における日鉄のシェアは国内生産能力の97.1%となった。
(写真)日鉄発足当時の八幡製鉄所の工場。写真・新日本製鉄(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

1934年
昭和9年
2月15日
(東海林太郎《しょうじたろう》「赤城の子守唄」ポリドールから発売。)
●この曲は松竹映画「浅太郎赤城の唄」の主題歌で、約40万枚が売れた。昭和2年に日本ビクター、昭和3年に日本コロンビアが設立されると、ヒット曲はレコード会社が作るようになった。そして同時期に蓄音機、ラジオが普及したことも、次々とヒット曲が生まれる要因の一つとなった。下でユーチューブにリンクした。

*リンクします「赤城の子守唄」
動画・出典:youtube(guregoripetuku氏)
1934年
昭和9年
3月1日
満州国帝政を実施。執政溥儀(ふぎ)皇帝に即位。

●満州国に帝政が実施され、溥儀は執政から皇帝に即位、「康徳帝」を名乗った。同日公布された満州国「組織法」によって皇帝の地位は、
第1条「満州帝国は皇帝之を統治す」
第2条「皇帝の尊厳は侵さるる事なし」
第5条「皇帝は立法院の翼賛に依り立法権を行う」
第11条「皇帝は陸海軍をを統率す」などとされたのである。
紋章は蘭の花に定められ、元号は大同から康徳に改められた。
日本の天皇制を模したのである。
(新聞)3/2朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1934年
昭和9年
3月9日
●鐘紡前社長・時事新報社社長武藤山治、狙撃される。(翌日鎌倉の病院で死亡)
犯人はその場で自殺したため動機は不明だが、武藤が帝人事件の告発や、「政・財・官」の癒着を暴いたことが関係するとみられている。
(新聞)3/10東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1934年
昭和9年
3月12日
(新鋭水雷艇「夕鶴」設計ミスで転覆、100人殉職)
●佐世保警備戦隊は、長崎県五島列島付近の海上で、昭和9年3月6日から行っていた夜間訓練を、同月10日に中止した。これは荒天と濃霧によるもので、旗艦の巡洋艦竜田から各艦艇に帰投信号が発せられたが、水雷艇夕鶴(艦長岩瀬奥一少佐)の応答はなかった。夕鶴は、同日午前4時12分、波浪を受け、すでに転覆していたのである。夕鶴は同年2月に就役したばかりの水雷艇だった。
●この事故原因の調査の結果、原因は船体が傾いた時に元の状態に戻ろうとする復元力不足にあることがわかった。設計ミスだったのである。この背景には、1930年に締結したロンドン海軍軍縮条約があった。同条約は600トン未満の艦艇の建造を制限しなかったことから、軍令部は、設計担当の艦政本部に、艦艇の能力を超えた兵装を要求したのである。基準排水量535トンの夕鶴に1000トン級駆逐艦の性能を詰み込んだのである。そのため、重心が通常の設計よりも1m以上も高くなり、転覆したのであった。
1934年
昭和9年
3月21日
函館市で大火。死者・行方不明者2716人、焼失戸数2万4186戸。

●この北海道函館市で起こった火災は、最大風速30mの強風にあおられて燃え広がった。翌朝鎮火したものの市街地の3分の1を焼失、死者・行方不明者あわせて2716人という、関東大震災と戦災を除くと、わが国の火災史上例をみない惨事となった。
(新聞)3/23朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1934年
昭和9年
3月25日
(栄養士の知識向上のための「栄養士会会誌」創刊される。)
●栄養士会は、アメリカで栄養学を学んだ佐伯矩が、栄養士育成を目的に創立(大正14年)した栄養学校の関係者が作った学会で、この年から日本医学会の第13分会として認められた。これは、栄養改善指導が軌道に乗り始めたことを示していた。
●この背景には、明治後半から昭和初期にかけて、「国民病」といわれた結核と脚気(かっけ)の問題があった。これらはともに罹病率は高く特効薬がなかったため、いったんかかると栄養をつけ、静養するしか回復の方法はなかった。このため栄養改善指導が行われるようになったが、このきっかけは1882年(明治15年)、海軍が脚気対策に白米と麦を等分に混ぜ、兵食改良を試みたことが始まりだった。
1934年
昭和9年
3月28日
石油業法公布(7/1施行)

●この石油業法とは、石油業の許認可制を骨子とした統制経済法である。軍需産業を対象とした一連の事業法の先駆けとして 3月28日に交付された。軍事資源としての石油の安定供給と国内資本による製油業発達を図った軍部及び政府は、石油値下げ競争による市場の混乱を機にこの法を制定。精製および輸入業は許可制とし、業者には常時6カ月分以上の貯油義務を課した。販売価格の決定権は商工大臣がもつことになった。

1934年
昭和9年
4月
●4/3、小学校教員3万6000余人による精神作興大会が二重橋前で開催される。「国民道徳を振作」せよ、という趣旨の勅語が出された。
●4/17、天羽(あもう)外務省情報部長、非公式声明を発する。内容は、欧米諸国の対中国援助は、財政的、技術的とを問わず日本に重大な影響を及ぼすおそれがあるから、反対する、というもの。各国からの非難を受け4/24広田外相は、天羽声明は手違いであると釈明した。
1934年
昭和9年
4月18日
帝人事件が起こる。斎藤内閣総辞職に発展

● 昭和9年4月18日、帝国人造絹糸製造株式会社(帝人)社長・前台湾銀行理事の高木復亨(なおみち)が、帝人株売買の背任・贈賄の容疑で逮捕された。高木の自供から、株を買い取った番長会の長崎英造、河合良成、小林中、水野護らも、背任・贈賄の容疑で逮捕された。
さらに5月に入ると、大蔵次官黒田英雄、同省銀行局長大久保偵次らが、株売買を仲介した際の収賄の容疑で逮捕された。閣僚の辞職で揺れていた斎藤内閣は、大蔵省高官の逮捕により、7月3日、総辞職した。しかしこの後も、中島久万吉前商工相が収賄の容疑で、三土忠造前鉄道相が偽証の容疑で逮捕されて、帝人株売買による逮捕者は17人に達した。
●この事件で17人を逮捕した検察局は、前例のないといわれた革手錠による身体拘束、南京虫責めなどを行い、拘留期間も200日以上に及んだ。このため議会でも「検察ファッショ」「司法ファッショ」の非難が相次いだ。
●公判は昭和10年6月から開始されたが、被告全員が自白を否認した。そして判決も、正当な株売買として全員に無罪が言い渡されたのである。
結局この「帝人事件」は、斉藤内閣倒閣を意図した、司法界の長老で枢密院副議長の平沼騏一郎を中心とする右翼の陰謀といわれているのである。
(新聞)5/19(第2号外)朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1934年
昭和9年
4月~5月
●4/19農村自力更生運動の一環として、全国桑園経営競技会優等賞授与。
●4/30、アメリカで生糸市場大暴落。
●5/2出版法改正公布。(8/1施行)
●5/14農林省、12県16ヵ所に農民道場を設置する。
●5/15商工省、ビール醸造業・石炭鉱業を重要産業に指定。
●5/24ブラジル議会で移民制限条項成立。
1934年
昭和9年
5月30日
●東郷平八郎元帥逝去。6/5東京日比谷斎場で国葬が行われる。鹿児島県出身(88歳)。日露戦争の日本海海戦でロシア・バルチック艦隊を破り、陸軍の乃木希典とともに日本の英雄。
(新聞)5/30(号外)朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1934年
昭和9年
6月2日
●フランス・リオンで欧州絹生産国代表による国際絹業連合会、日本品の進出阻止で団結することを決議する。
1934年
昭和9年
7月2日
●商工省、セメント統制方針を決定。重要産業統制法を発動し、1年間増産中止と建値強制引き下げを行う。
●7/2東京商工会議所(郷誠之助会頭)は、東京丸ノ内の同所内に商工相談書を開設した。中小商工業者を対象に経営相談を行った。
1934年
昭和9年
7月3日
斎藤実内閣、帝人事件の責任をとり総辞職。

●斎藤実内閣が総辞職すると、初の重臣会議(=5.15事件以後、後継首相の推薦に関わった重臣の合議形態で、首相経験者、枢密院議長、内大臣など)が開かれた。
●この重臣会議は、これまで首相推薦を行って来た元老西園寺公望が、高齢を理由に元老辞退を申し出たのをきっかけに、開設されることになったもので、今回の決定も、斎藤前首相が岡田啓介を首相として推薦し、「現状を継承できる最適者」との意見が、結局全員の支持を得たのであった。そして岡田啓介を後継首相として決定し、元老西園寺公望が天皇に奏薦したのである。
(新聞)7/4朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1934年
昭和9年
7月8日
岡田啓介(おかだ‐けいすけ)内閣成立

軍人、政治家。海軍大将。若狭(福井県)出身。田中・斎藤両内閣の海相。昭和9年(1934年)首相となったが、2.26事件のため辞職。太平洋戦争末期には重臣として終戦工作に尽力。(出典)「日本国語大辞典精選版」
●この内閣の特徴は新官僚の登場で、陸相・林銑十郎、海相・大角岑生、外相・広田弘毅は留任し、新官僚のリーダー的存在であった後藤文夫が内相となり、蔵相には大蔵次官の藤井真信、内閣書記官長には河田烈が起用されたのである。
(新聞)7/9朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1934年
昭和9年
7月26日
(近畿大防空演習開始、~28日まで。)
●大防空演習が大阪を中心とする近畿地方一帯で4個師団が参加して行われた。爆撃機による模擬空襲が昼夜にわたって行われ、大阪港も灯火管制を行った。
(写真)煙幕に包まれる大阪市外。写真-毎日新聞社(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1934年
昭和9年
8月1日
(内務省による、レコードの検閲始まる。)
●改正出版法が施行され、内務省によるレコード検閲が開始された。レコードも新聞、雑誌、書籍と同様に、発売前に内務省の検閲を受けねばならないことになった。
1934年
昭和9年
8月2日
(ドイツ、ヒンデンブルク大統領死去、ヒトラー大統領を兼務する。)
●8/19ヒトラー首相、大統領兼任を問う一般投票で賛成90%を獲得。「総統」の地位を確認される
1934年
昭和9年
8月
(純国産練習機「赤とんぼ」誕生。)
●石川島(のちの立川)飛行機製作所は、陸軍の委嘱を受け、8月純国産練習機第1号を完成させた。のち、改良を加えた3号機が採用され、制式名称は九五式一型練習機と名付けられた。通称「九五中練」、俗称「赤トンボ」の名で親しまれ、昭和18年までに一号機を含めて2398機が生産された。乗員2人。最大速度は時速240km。
写真・野沢正(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1934年
昭和9年
9月1日
●東京・横浜・川崎の3市連合の防空演習が、午後1時から翌2日午後3時まで実施される。約50万人が参加した。
1934年
昭和9年
9月5日
(東京市電従業員、整理案に対して1万1千余名始発からストを行う。)
●9/2東京市電気局、赤字解消のため従業員1万人余の解雇し、4~5割減給して再雇用するという人員整理案を発表した。これに対して東京交通労働組合は9/5から全面ストを開始し女性車掌たちも参加した。当局は組合首脳99人を懲戒解雇し対抗した。しかしその後警視総監による調停も不調に終わり10月にもストとなった。結果は10/13、2割減給で妥結した。
(新聞)9/5(号外)朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1934年
昭和9年
9月~10月
アメリカ・アリゾナ州で排日運動激化。

●9/13、排日運動激化で20数人が日本人農園を襲撃した。(8/20、アリゾナ州の排日実行委が、在留日本人農家を訪ね25日までに立ち退きを要求していた。)
●10/5にはさらに排日運動が激化し、地方官憲も暴徒に参加し日本人農民を検挙。アメリカ政府は州知事に取り締まりを厳命する。
●10/29日本人宅2軒へ爆弾が投げ込まれ、幼児負傷。

1934年
昭和9年
9月14日
政府、陸軍による在満機構改革案を承認。

●これは8/6、陸軍省が在満政治機構改革の原案を発表したもので、関東軍の主導の下で、満州国に対する日本の支配機構を統一しようというもの。内容は、昭7年より関東軍司令官が駐満全権大使と関東庁長官を兼任していたが、これを、関東庁を廃止して関東軍監督下の関東局を現地に置き、内閣直属の対満事務局を中央に新設しようとする案。
●これに対して外務省・拓務省・関東庁そして現地警察は反対し、9/12には関東庁全職員が庁員大会を開催し総辞職を決議した。
●10/7拓務省は、陸軍省に反発し、同案再考要求の具申書を高等官全員連署で岡田首相に送付。
●10/17政府、在満機構改革の陸軍案断行を決定。「命令系統の統一であり、警察機関の憲兵化ではない」と声明。
●10/18関東軍、在満機構改革反対派への鎮撫工作のため、大連に特務機関設置(27日廃止)。
●10/19大連で全満州29警察署巡査代表大会開催。警官5000人の総辞職と在満巡査統制委員会解散を決定。
●12/22在満機構改革案、臨時枢密院本会議で可決。直ちに臨時閣議で決定(12/26公布)
●12/26対満事務局官制公布施行。林銑十郎陸相が総裁を兼任し、在満機構改革問題が収束した。
(新聞)9/15朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1934年
昭和9年
9月18日
●国際連盟総会、ソ連の国際連盟への加入を、賛成39、反対3、棄権7で可決。常任理事国の地位賦与も承認。
1934年
昭和9年
9月21日
室戸台風、関西を直撃。40府県に甚大な被害。

●この台風は9/21午前5時頃、高知県の室戸岬付近に上陸した。最低気圧911.9ミリバール(現在ヘクトパスカル)を記録、瞬間最大風速は60mを越えた。そして室戸台風は徳島県から淡路島を北上、午前8時頃大阪湾の和田岬に再上陸した。そのため湾の海面が約3m上昇し、海水は時速10km前後で木津川、尻無川などを逆流し、大阪市内の低地へ奔流となって流れ込んだ。
●また加えて、大阪の被害は暴風によるものが1番大きく、特に天王寺地区では四天王寺の五重塔が倒壊し、また小学校の7割以上が倒壊などの被害を受け、児童676人教員ら18人が死亡した。大阪・兵庫・京都・岡山など30府県での被害状況の合計は、(死者・行方不明者数)3246人、(家屋の全半壊戸数)88,046戸、(田畑の被害・千町歩)22,427.4、(橋梁の流出)7,939件。(出典)中央気象台編「日本気象災害年表」とある。
(新聞)9/21(第3号外)朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
(写真一部分)暴風のため吹き寄せられた船。大阪港付近の岩崎橋下流で撮影。大阪市の流出・沈没船舶は2112隻。写真・「アサヒグラフ」10/3号(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

1934年
昭和9年
10月1日
陸軍パンフレット問題起こる。「国防の本義と其強化の提唱」

●いままで陸軍省のパンフレットは調査班が発行しており、その内容も資料的なもので発行部数も少なかった。ところが昭和9年になると、パンフレットの発行は新聞班によって行われるようになり、10/1に発行された「国防の本義と其強化の提唱」は約16万部発行された。
この内容は、国防力の強化、資本主義経済の否定(統制経済の提唱)、総力戦体制の確立を主張したものだった。
●このパンフレットは、陸軍省軍務局軍事課の池田純久少佐が、国策研究会の矢吹一夫らの協力を得て作成し、軍務局長永田鉄山少将の承認、陸軍大臣林銑十郎の決裁を経て発行されたものであった。永田は統制派の中心人物で池田も統制派に属していた。この統制派は陸軍が直接行動によらず主導権を握ることによって総力戦体制を確立しようとするグループであり、直接行動による独裁政権を樹立しようとする皇道派とは別であった。
●しかしこのパンフレットは議会でも問題となり、政友・民政両党は内閣を無視した軍の政治干与であると強く反発した。林陸相も12/1の衆議院本会議で、「研究のために公にしたまでで只今直ちに実行するといふ如き考へはない」と弁明した。美濃部達吉も中央公論でこれを批判したが、一方で賛意を表明する団体もあった。
(新聞)10/6朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

*リンクします「国防の本義と其強化の提唱」軍事叢書. 第1輯 軍事思想普及会 昭和13年刊→国立国会図書館デジタルコレクション
1934年
昭和9年
10月
東北地方、明治38年(1905年)以来の大凶作

●特に東北の冷害による凶作の被害は甚大であった。9年の米の全国平均収穫高が、対平年比82.8%であったのに対し、東北6県では60.9%しか収穫できなかった。なかでも冷害のひどかった岩手県では45.5%、青森県では53.6%と最悪を記録した。
●このため衆議院は12/6、農林省の提出した「政府所有米穀の臨時交付に関する法律案」を可決し、政府所有米のうち50万石を東北6県の町村に交付した。
●だが飢饉となった岩手県では農家の77%が緊急の救済を必要とし、欠食児童が急増し、間引きや母子心中が相次いだ。特に大きな問題となったのは、娘の身売りだった。東北6県で、芸・娼妓、女給、女子工員などとして人身売買され離村した娘の数は、9年10月までの1年間で5万人余にのぼった。下は、昭和9年12/1の朝日新聞の記事「14娘を売った金、40円の家と化す。 冬籠りの窮農を訪ふ」の一部。

・・・『スミエあ売られて難儀してす、吾(われ)あ死んでもいいはで、孫達あ楽にさせてやりてい』と赤く瀾れた眼から涙をボロボロこぼした、 この佐藤一家は、家は借金のカタに取られて近所の家に同居してゐたが、スミエといふ14の娘を名古屋市賑(にぎはひ)町の娼妓屋に売った金で、此の家を買ったのだ、 身代金は5ヵ年の契約で450円だったが、そのうち100円は1本になってから渡すとのことで、娘の着物代にといって50円、周旋料だといってブローカーに22円50銭、親爺と周旋屋とで娘を名古屋まで送って行った汽車賃、宿料、自動車代その他雑費だといって127円50銭とられ、結局手に渡ったのは僅(わつか)150円だった、 そのうちから70円の借金を支払ひ、40円で家を買ふと残る40円もなんといふことなしに消えてしまった・・・・

写真は12/1東京朝日新聞の記事のもの(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1934年
昭和9年
10月24日
日米海軍予備第1次会談開催

●新聞は、10/24に開かれた日米海軍予備第1次会談を報じたものである。(写真1段目、山本五十六代表・海軍少将、写真2段目右、松平恒雄代表・駐英大使)、10/23から日英予備会談開始。
●この予備交渉は、イギリスがロンドン海軍条約(有効期限1936年12/31)に定められた(第23条)「1935年に開かれる予定の軍縮会議」前に、日英米3国の了解を得るために提議したものであった。ところが日本の軍縮方針(ワシントン条約破棄など)が、英米と根本的に異なるため、10月まで予備交渉を休止していた。そして日本は方針を確定し予備交渉を再開したのであった。
●日本の根本主張は、①ワシントン条約破棄(有効期限1936年12/31)、②軍備平等確保、③現行艦種別比率主義を廃棄し、共通最高限保有量設定により全保有量を縮減する、などであった。これらは英米の主張とは相容れず、イギリスは斡旋を試みたが、交渉は危機に瀕していった。
(新聞)10/25朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●下段で、1922年のワシントン海軍軍縮条約と1930年のロンドン海軍条約の概略を書いておく。海軍軍縮の流れをつかんでおきたい。

「海軍軍備制限に関する條約」(ワシントン海軍軍縮条約)(1922年2月)

(文は「日本の歴史」読売新聞社1963年より引用・要約)
●ワシントン海軍軍縮会議は、第1次世界大戦後の1921年(大正10年)7月、アメリカ国務長官ヒューズがアメリカ駐在全権大使幣原喜重郎に軍縮会議の提案をしたことから始まった。
第1次世界大戦は非常に進歩した軍事科学が軍備の革新をもたらした。そのため各国は、飛行機、戦車、毒ガスなどの新兵器そして重火器(大砲)の大型化や、軍艦の近代化のためほとんどの兵器を一新する必要がおこった。

下

「1930年ロンドン海軍条約」(1930年4月)

●1922年のワシントン海軍軍縮会議は、主力艦と航空母艦を制限したものだったので、各国の補助艦艇(巡洋艦以下)についての建造競争は激化していた。そこで1927年(昭和2年)、ジュネーブで補助艦を制限する会議が開かれたが、これは各国の主張が対立してまとまらなかった。
●しかし1929年に端を発する世界恐慌は、各国を経済不況と社会不安で襲い、各国政府にとっても財政負担軽減である海軍軍縮を強く望む機運がうまれた。また主力艦の建造停止期間も1931年に迫っていたこともあり、1930年1月より日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリア5ヶ国がロンドンに集まり軍縮会議開催となったのである。

下

*リンクします「海軍軍備制限ニ關スル條約」1922年「ワシントン会議」→
国立公文書館「アジア歴史資料センター」

*リンクします1930年「ロンドン」海軍条約→
国立公文書館「アジア歴史資料センター」
1934年
昭和9年
10月25日
(高山本線、悲願の全通)
●高山線飛騨小坂(おさか)と富山から延びる飛越線の坂上(さかかみ)間が開通した。15年かかった高山本線の開通である。
(写真)は祝賀の花電車。写真-中日新聞社。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1934年
昭和9年
11月2日
(ベーブ・ルースら大リーグ選抜チーム17名来日)
●これは読売新聞社・社長正力松太郎の招待によるもので、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリック、ジミー・フォックスらも参加した。この時の全日本チームは、沢村栄治、スタルヒン、三原脩、水原茂、中島治康ら30選手で編制された。
●12/26読売新聞社は野球人気を背景に、全日本チームを母体に、日本初の職業野球団「大日本東京野球俱楽部」(現読売ジャイアンツ)を結成した。
(写真)ファンに手を振る初来日のルース。-写真・朝日新聞社(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊


●第10戦で好投した沢村栄治投手は、久慈次郎捕手とバッテリーを組み、速球と大きく落ちるカーブで、ルース、ゲーリック、フォックスのホームランバッターを三振させた。
(写真)第10戦で好投した沢村栄治投手(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
(注)沢村栄治、プロ野球投手。三重県出身。京都商業在学中から速球投手として知られ、東京巨人軍に入団後、エースとして活躍し初の最高殊勲選手となる。第2次世界大戦に応召し台湾沖で戦死。昭和22年(1947)その功績をたたえて「沢村賞」が制定された。大正6~昭和19年(1917-1944)(出典)「日本国語大辞典精選版」
1934年
昭和9年
11月20日
士官学校事件。青年将校らクーデター計画容疑で逮捕

●逮捕された将校は、陸軍歩兵太尉・村中孝次(のちの2.26事件で死刑)と、陸軍一等主計(大尉)磯部浅一(のちの2.26事件で死刑)、そして士官学校区隊長片岡太郎中尉であった。そしてその他に陸軍士官学校士官候補生5人が容疑で士官学校に軟禁された。
●容疑は5.15事件のようなクーデターを計画しているとの疑いであったが、軍法会議での取り調べに対して村中、磯部はそのような計画はでっちあげで、皇道派弾圧のための陰謀であると主張した。
その結果、翌昭和10年3/29事件は嫌疑不十分として不起訴が決定した。しかし4/1行政処分が行われ、将校3人は停職処分、5人の士官候補生は退学処分となった。この停職処分はもっとも重い行政処分で、6ヶ月は復職できず、また1年以内に復職できないときは自然休職となるものだった。
●しかし事件はこれで終わらなかった。
①昭和10年2/7、軍法会議取調中、村中大尉は誣告(ぶこく=虚偽告訴)の訴えを起こした。相手は陸軍省軍務局員・片倉衷少佐と士官学校第一中隊長・辻政信大尉であった(2人共に統制派側)。
(4/2には磯部も同様の訴えを起こす)しかしこの訴えは黙殺された。
②昭和10年7/11、停職中の2人は連名で「粛軍に関する意見書」を発表した。この内容は昭和6年に起きた「3月事件」や陸軍内部の皇道派と統制派の対立を暴露したものであった。
●8/2これに驚いた軍当局は、停職中の2人を陸軍内部の統制を乱すものとして免官処分としたのである。2.26事件の判決の中で2人が元将校とも書かれず「常人=民間人」とされている理由はこのためである。

1934年
昭和9年
12月19日
ワシントン海軍軍縮条約破棄

●枢密院本会議、ワシントン海軍軍縮条約破棄を全会一致で可決する。
12/21閣議、ワシントン条約破棄通告を正式に決定、22日斎藤博駐米大使に通告。新聞は、斎藤大使今夜(ワシントン時間29日正午)がハル国務長官に手交する記事。
(新聞)12/29朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1934年(昭和9年)の出来事 政治・経済・事件・災害・文化

「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊より抜粋
1. 5 日印シムラ会商,日本の譲歩で成立
1. 8 京都駅構内で海兵団入団者の見送り人が階段をなだれ落ち77人圧死
1. 15 共産党内の裏切り・スパイの疑惑にからむリンチ事件が発覚
1. 16 内外硫安販売協定成立

下

1935年(昭和10年)天皇機関説排撃
(昭和10年のポイント)
●昭和10年7月、陸軍内部の将官人事をめぐる2つの派閥の争いがおこった。統制派によって皇道派の真崎甚三郎が教育総監を罷免させられ、同時に真崎直系の皇道派将官はほとんど中央から排除された。それに怒り覚えた皇道派の相沢中佐が、8月陸軍省内で軍務局長永田鉄山少将を刺殺したのである。憲兵隊に連行された相沢中佐の第1回軍法会議は昭和11年1月に開かれたが、公判においても皇道派と統制派の対立は続いた。そうしたなか皇道派による2.26事件が勃発したのである。
●青年将校らは自らを「昭和維新」のための正義の決起と信じ、事件後は軍部上層部と天皇の庇護を信じたのである。しかし陸軍内部は、彼らのように観念的で精神主義的で直接行動によって国内改造をめざす「皇道派」(荒木貞夫・真崎甚三郎らが中心)だけでなかった。新官僚(軍部を背景に国家改造を意図した高級官僚の一派)とも連携し総合的国策をとり合法的手段により覇権確立をめざした「統制派」(永田鉄山を中心)があった。
1935年
昭和10年
1月1日
●東京市、初の公設保健所である市特別衛生地区保健館を京橋に開設する。
1935年
昭和10年
1月10日
(国際連盟、連盟脱退後の日本の南洋委任統治継続を認める。)
●第1次世界大戦後、日本は旧ドイツ領南洋諸島を国際連盟からの委任を受け統治を行って来たが、国際連盟を脱退したことによりその委任を失う恐れがあった。日本は以前よりパラオ、トラック等に対アメリカ戦略拠点である軍事基地を設置していた。
1935年
昭和10年
1月21日
●ソ連から満州国への、北満鉄道譲渡に関する協定が、譲渡価格1億4000万円などの条件で成立する。1/22満州国鉄路総局、北満鉄道のソ連人従業員約6000人を解雇するなどの人事方針を決定する。
(新聞)1/22東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1935年
昭和10年
1月
●1/23、近衛歩兵軍旗祭(62回)式典が行われる。「近衛歩兵」は明治7年1月に編成され、主に宮城の警備を担う師団として、1/23明治天皇から「軍旗」を授けられた日である。
●1/31、日本・満州国連合部隊ハルハ廟を占領する。2/1関東軍司令部は、日満連合軍はハルハ河以北を占領したモンゴル軍を攻略、失地を回復したと発表。
1935年
昭和10年
2月4日
(海軍、九六式艦上戦闘機試験飛行に成功)
●三菱重工業は、海軍九試単座戦闘機(九六式艦上戦闘機)の試験飛行に成功する。初の実用低翼単葉戦闘機である。
(写真)九六式艦上戦闘機 写真-野沢正。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1935年
昭和10年
2月
●2/5、日本人の農耕禁止・農園居住禁止を目的とする「排日土地法案」、米アリゾナ州議会に提出される。3/18上院で15対5で可決、しかし21日下院では未上程のまま閉会。
●2/11、東京築地の東京中央卸売市場開場する。
●2/20、日本共産党の機関紙『赤旗(せっき)』この日187号を最後に休刊する。昭和20年(1945年)10/20復刊。
1935年
昭和10年
2月18日
2月25日
貴族院議員・菊池武夫、天皇機関説を攻撃

●2/18貴族院本会議で、菊池武夫議員が同じく貴族院議員美濃部達吉・東大名誉教授の著書を取り上げ「天皇機関説」を攻撃した。内容は「憲法学者の中に、日本の国体を破壊するような憲法の解釈をする者がいる、社会の木鐸(ぼくたく)をもって任ずべき帝国の大学の教授や学者が、このような著述をすることに自分は耐えられない・・」と攻撃を始めたのである。新聞は、2/25これに対して美濃部達吉が反論と説明を行った時のもの。
(新聞)2/26東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●この天皇機関説事件とは学説論争ではなく、「天皇」の権力の行使を「国家の機関」の行使とみなすこと自体天皇に対する不敬であり、そういうことを論ずるリベラルな知識人や学者は許さないという国家主義者の狂信的攻撃事件であろう。しかし2/25美濃部達吉の弁明を聞いた菊池武夫は、午後の本会議で「・・只今承る如き内容のものであれば何も私がとりあげて問題とするに当たらないやうに思う」と述べ、この時はあっさり矛をおさめた。
●2/28江藤代議士が、東京地検に美濃部達吉を不敬罪で告発した。

写真は、左から美濃部達吉(当時63歳)、貴族院議員菊池武夫(当時81歳)、機関説排撃の理論的指導者蓑田胸喜(みのだ-むねき-きょうき)当時42歳。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

 ●「憲法講話」 より「第二講(下)天皇(其の一)」美濃部達吉著 有斐閣1912年刊 引用
ここで「憲法講話」美濃部達吉より「天皇」の最初の部分を引用してみる。「機関」という意味が分かりやすく説かれている。また発禁になった「憲法憲法撮要」にもリンクしてみた。まず広辞苑より「天皇機関説」について引用すると、「明治憲法の解釈として、国家の統治権は天皇にあるとする説に対して、統治権は法人である国家に属し、天皇はその最高機関であるとする学説。一木喜徳郎・美濃部達吉らが唱えたが、1935年国体明徴問題がおこり、国体に反する学説とされた。」とある。

下

*リンクします「憲法講話」美濃部達吉 著→国立国会図書館デジタルコレクション
*リンクします「憲法憲法撮要」美濃部達吉 著→国立国会図書館デジタルコレクション
1935年
昭和10年
3月
●3/4、岡田啓介首相、貴族院予算総会で美濃部達吉の「天皇機関説」に反対を表明する。
●3/4共産党リンチ事件で逃走中の袴田里見、東京本郷で警視庁特高課員に逮捕される。最後の共産党中央委員が逮捕され、日本共産党は壊滅した。
●3/8、頭山満・菊池武夫ら、機関説撲滅同盟を結成、国民運動を起こすための方針を決定。
1935年
昭和10年
3月8日
忠犬ハチ公、渋谷区内の路上で死亡。13歳だった。

●ハチ公は、渋谷に住む東京帝国大学教授上野栄三郎博士のもとへもらわれてから、毎日渋谷駅まで博士を送り迎えしていた。ところが上野邸で飼われてから約1年半後に博士は急逝してしまった。それを知らないハチ公は、日課のように渋谷駅に博士を迎えに通ったのである。ハチ公は7年前に死んだ主人の恩を忘れない忠犬であった。忠犬ハチ公は終身の教科書にも登場するようになったのである。

(上左写真から)昭和9年4/21東京渋谷駅前に完成したハチ公銅像の除幕式 写真-渋谷区郷土文化館。
(上左次の写真)昭和11年3/8、渋谷駅駅頭の銅像の前で、ハチ公1周忌の法要が行われた。 写真-毎日新聞社
(上右次の写真)生前のハチ公。うしろは吉川渋谷駅長と上野未亡人。
(上右端写真)昭和11年の国定教科書「尋常小学終身巻ニ」に登場したハチ公。さし絵は石井伯亭。
(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

1935年
昭和10年
3月9日
●大蔵省、軍事費の割合が46.62%で欧米列強で1番高いと発表した。これは10年度総予算に対する割合である。
1935年
昭和10年
3月16日
ドイツ、ヴェルサイユ条約破棄、再軍備を宣言

●総統アドルフ・ヒトラーが徴兵制による再軍備を宣言する。国際連盟はヴェルサイユ条約軍備制限条項違反として、翌月17日、反対決議案を可決する。
●4/27にはベルサイユ条約の海軍条項を破棄、潜水艦12隻の建造など海軍再建を声明。
●9月には、ニュルンベルクで開催のナチス党大会で「ドイツ人の血と名誉保護のための法(純血保護法)」と「ドイツ国公民法」を公布した。これはユダヤ人迫害のための法律である。
(新聞)3/17東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1935年
昭和10年
3月23日
(北満鉄道譲渡協定調印、広田外相官邸で調印式)
●北満鉄道をソ連から満州国へ譲渡する協定が、日満ソ3国間で調印された。1700kmの線路とその付属財産一切が、総額1億7000万円で、満州国のものとなった。買収金のうち、現金支払い分4670万円は小切手・国庫証書で手交。
1935年
昭和10年
4月06日
●満州国皇帝溥儀(ふぎ)が日満友好のため来日した。東京駅では、天皇および皇族、全閣僚がそろい、最大級の歓迎につつまれた。そして皇帝一行は日本各地で大歓迎された。溥儀の自伝には次のようにある。(一部引用)「・・私がついに最大の錯覚を起こし、みずから至高の権威を持ったと思うようになったのは、この日本訪問だった。・・」と。
だがこの訪問自体も関東軍(日本)による「日満友好」の演出と、満州国が日本の傀儡ではなく独立国であることを世界に知らしめるための演出であった。
(新聞)4/7東京朝日新聞夕刊(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1935年
昭和10年
4月09日
●内務省、美濃部達吉の著書「逐条憲法精義」「日本憲法の基本主義」「憲法撮要」を発禁、他の2著に改定命令をだす。(4/7美濃部は地検の召喚により出頭した。)
●この発禁処分は美濃部以外の機関説論者の著書にもおよび、三十数種が絶版にされた。同時に文部大臣訓令によって、機関説は教育の場でも事実上禁止された。美濃部学説を継承する教授は講座を廃止・交替させられたが、現実に機関説に反対する憲法学者は少数だったため、全国の大学で混乱が起こった。美濃部自身も、東京商科大学、早稲田大学、中央大学の講師を辞任する。大学におけるこの機関説『抹殺』は、学問の自由を失ったことを意味した。(文は講談社2万日の記録より)
(新聞)4/10東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1935年
昭和10年
4月21日
●台湾中北部で地震発生(午前6時2分、同27分)。被害甚大、死者3185人、全壊家屋1万5292戸。
(新聞)4/22東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1935年
昭和10年
4月23日
●帝国在郷軍人会、天皇機関説排撃パンフレット「大日本帝国憲法の解釈に関する見解」15万部を全国に配布する。
日本軍(関東軍)華北へ侵攻の準備を始める。

●5/29、支那駐屯軍(北支派遣軍・天津)参謀長酒井隆、軍事委員会北平分会長何応欽に対し抗日テロなど停戦協定違反と警告。
●5/31、関東軍、中国国民政府の停戦協定違反に対し、軍の出動を含む強硬方針を通告する。
●6/5、チャハル(察哈尓)事件起きる。この事件は、関東軍特務機関員4人が、チャハル省張北で宋哲元軍に連行・監禁された事件である。これに対して関東軍側は「日本軍人に対する侮辱」とし責任者の処罰等を要求。6/27宋哲元軍のチャハル省撤退、排日機関の解散などの協定を成立させた。(土肥原・秦徳純協定)
●6/10、梅津・何応欽協定。これは軍事委員会北平分会長何応欽が、日本軍側の要求を全面的に承認したものである。内容は①河北省内国民党機関の撤退や駐屯している第51軍や中央軍(第2、第25師団など)の移駐要求。③平津地方(北平《北京》・天津地方)の諸団体による反満抗日策動の禁止、などであった。
●日本は、塘沽協定による非武装地帯をさらに南下させ、華北5省(河北省・山東省・山西省・チャハル省・綏遠省)を国民政府から分離させようとするのである。
(新聞)6/11東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●そして11/25、日本軍の指導(傀儡政権)で、中国河北省東部地域に冀東(きとう)防共自治委員会が成立。委員長殷汝耕。11/26冀東防共自治政府と改称した。
●これに対して国民政府は、12/18冀察政務委員会を宋哲元を委員長として成立させ、河北(冀)・チャハル(察)察省を支配した。親日を装ったものであった。
●このように日本と妥協を重ねる蒋介石(国民政府)の考えは「先安内後攘外」といわれている。つまり先に国内を安定させることを優先させたのであった。そして蒋介石が特に力を注いだのが、共産党勢力の殲滅であった。そんな蒋介石に不満を持つ張学良(東北軍・日本に満州を奪われた)は、1936年「西安事件」をおこし共産党と国民党の抗日民族統一戦線の合作に貢献するのである。

1935年
昭和10年
07月16日
●陸軍省真崎甚三郎教育総監を更迭する。この頃の陸軍の内部は、皇道(こうどう)派と統制(とうせい)派に分かれて激しく派閥争いを行っていた。皇道派は荒木大将、真崎(まさき)大将を中心とする一派で、さかんに天皇中心主義を強調したので皇道派といわれた。一方の統制派は、かって桜会(さくらかい)に属し三月事件などを計画した参謀本部や陸軍省の中堅幹部達が中心であった。彼等は十月事件失敗後は、クーデターによらずとも、戦争体制を強化することで軍部が実権を得られると考えていた。中心人物は軍務局長永田鉄山少将らであった。
●この真崎教育総監の罷免は、統制派の策謀であるとして皇道派を怒らせ、永田鉄山少将刺殺事件(相沢事件)に発展していった。
(新聞)7/17東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
国体明徴運動と陸軍皇道派と統制派

●天皇機関説排撃の中で、1935年4/6陸軍教育総監真崎甚三郎は、天皇機関説は国体に反するという内容の国体明徴の訓示を全陸軍に通達した。しかしこのことは、宮廷と政財界の上層部を強く刺激した。これは天皇崇拝がより強調されることで真崎をリーダーとする皇道派がさらに勢いをもつことを恐れたからであった。真崎が陸軍士官学校校長の時代に、彼が並外れた皇道教育によって国家改造をめざす青年将校を続出させ、過激な青年将校グループを束ねているのが真崎とされたからである。皇族である参謀総長閑院宮載仁親王や、天皇も真崎を嫌ったと言われる。
●そして7月、林銑十郎陸相は、今井人事局長、橋本次官そして永田軍務局長、杉山参謀次長らによる、皇道派一掃の人事を強行した。真崎は反発して抵抗したが、参謀総長閑院宮載仁親王によって強引に上奏され裁可された。「"でかしたぞ、林銑十郎!" 荒木・真崎に不気味な威圧感をおぼえていた宮中の側近、元老、重臣ブロック以下各界は、双手を挙げてバンザイを唱えた・・」と当時の陸軍記者石橋は書いたとある。(「昭和の反乱」より)(出典)「別冊歴史読本永久保存版」「2.26事件と昭和維新」新人物往来社1997年2月刊

1935年
昭和10年
7月28日
(巡洋艦「最上」竣工)
●呉海軍工廠で、15センチ砲15門搭載の巡洋艦最上が竣工した。ロンドン軍縮条約失効後、短期間で20センチ10門に改装できるよう、重武装を前提にした大型の艦体として設計されていた。
(写真)巡洋艦「最上」 写真-福井静夫。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1935年
昭和10年
7月31日
●満鉄総裁林博太郎上京し辞表を提出した。後任に軍部の推薦を受けて松岡洋右が就任した。満州国建設のため軍部や財閥と協調できる人物ということで、関東軍司令官南次郎が推薦した。
1935年
昭和10年
08月01日
(抗日救国統一戦線)
●中国共産党は中国民衆に対して「抗日救国統一戦線」を提唱した(8.1宣言)。この宣言は、中国共産党の方針を転換し、中国民族を救うために、国民党を含めた全階級・全民族を結集して抗日民族統一戦線の結集を呼びかけたものであった。

「過去の意見の対立と利害の相違を捨て、国家・民族の危機が迫っているいまは、すべてのものは内戦を停止し、あらゆる国力を集中して抗日救国の神聖なる事業に奮闘すべきである」と。
1935年
昭和10年
08月03日
「国体明徴の声明」(第一次)発表

●8月3日、ついに政府は一応の措置として「国体明徴の声明」(第一次)を発表した。
 「恭シク惟ミルニ我ガ国体ハ天孫降臨ノ際下シ賜ヘル御神勅二依り昭示セラルル所ニシテ万世一系ノ天皇国ヲ統治シ給ヒ(中略)即チ大日本帝国統治ノ大権ハ嚴トシテ天皇二属スルコト明ナリ、若シ夫レ統治権ガ天皇二存セズシテ天皇ハ之ヲ行使スル為ノ機関ナリト為スガゴトキハ是レ全ク万邦無比ナル我が国体ノ本義ヲ愆ルモノナリ……」
 岡田首相は、これでことを収めようとしたが、軍部や右翼の反発は収まらず、声明は「第一次」ではすまなかったのである。(新聞)8/4東京朝日新聞市内版(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1935年
昭和10年
08月12日
永田鉄山少将、軍務局長室で刺殺される(相沢事件)


●永田鉄山少将(陸軍省軍務局長)が軍務局長室で相沢三郎(歩兵中佐)に刺殺される。
●永田少将は長野県出身で陸軍士官学校(16期)首席卒業、陸軍省きっての逸材で「永田の前に永田なく、永田のあとに永田なし」といわれた。そして統制派の中心人物でもあり軍政の要である軍務局長という役職にいたので、皇道派から見ると、林銑十郎陸相の行う人事その他軍政すべてが永田少将によるものだと思われた。皇道派にとって永田は軍の革新を阻害する元凶のように写っていた。
(新聞)8/13東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1935年
昭和10年
8月22日
●吉川英治の『宮本武蔵』、「東京朝日新聞」「大阪朝日新聞」の夕刊小説として始まった。この『宮本武蔵』は大衆文学の歴史において画期的な意味を持ち、国民文学として人気を博した。連載中から刊行された単行本は、以後2000万冊以上も出版される大ベストセラーとなった。
1935年
昭和10年
8月24日
(満州鉱業開発会社、新京で設立)
●この会社は満鉄と満州国政府の共同出資で設立された特殊法人のひとつ。満鉄がマグネサイト鉱区を満州国が現金を出資した。特殊法人は、満州国の軍需資源の開発を日本政府の統制下に置く役割を担い、同社は石油、鉄鉱石などの鉱業権を一手に握った。
1935年
昭和10年
8月27日
●帝国在郷軍人会、東京九段の軍人会館で対時局全国大会を開き、天皇機関説排撃を宣言する。この帝国在郷軍人会の軍人会館(現九段会館)は、昭和9年3/25に完成し落成式が行われた。洋風建築に和風屋根を載せた「帝冠様式建築」の代表的な例で、川元良一の設計。「容姿は国の気品を備え荘厳雄大」とされる。
1935年
昭和10年
9月4日
●林銑十郎陸相、永田鉄山軍務局長刺殺事件の責任をとり辞職。後任は川島義之大将。
1935年
昭和10年
9月18日
美濃部達吉、貴族院に辞表を提出

●美濃部達吉の機関説問題での司法処分は、正式に起訴猶予処分となり完了した。しかし美濃部博士は、貴族院議員の辞表を提出したのち声明を発表し、「・・辞表を提出したのは、学説を翻すとか、著書が間違っていたことを認めるとかではなく、私が議員として職分を尽くすことが甚だ困難になった事を深く感じたことに他ならない・・」と述べた。だが閣議でこの声明を問題視する声が続出すると、9/21美濃部は「世上の誤解を生んだ」とこの声明を取り消したのである。

1935年
昭和10年
9月26日
(第四艦隊事件発生)
●台風下の三陸沖で演習中の第四艦隊艦船が遭難し、駆逐艦初雪、夕霧が大破、他の3隻も破損し、54人が殉職した。これは台風による予想もできなかった強大な三角波が次々と艦隊を襲ったことで起こった。駆逐艦夕霧の艦首は切断され、同じく駆逐艦初雪の艦首も切断された。そして駆逐艦睦月、菊月、三日月、朝潮は艦橋倒壊、空母竜驤は艦橋前部破壊、空母鳳翔は飛行甲板前端圧潰、重巡洋艦妙高は船体中央部外板鋲接弛緩の被害を受け、54名が殉職する大惨事となった。
●この船体切断事故は、日本海軍を根底から揺さぶる大事件となった。日本海軍が誇る最新鋭の駆逐艦が切断された原因は、「船体強度不十分」であった。最新駆逐艦の船体に欠陥があったのである。
(新聞)9/28東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

写真は駆逐艦夕霧と艦首が切断された夕霧。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

1935年
昭和10年
10月3日
(イタリアがエチオピアを侵略)

●イタリア軍は、1896年にエチオピアに大敗した「アドワ」へ再度の進撃を開始した。これは第2次イタリア・エチオピア戦争である。近代兵器を装備したイタリア軍は、国際連盟の経済制裁を無視し、翌年5/5首都アジス・アベバを落とし、エチオピアを併合した。
(新聞)10/4東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1935年
昭和10年
10月15日
(国体明徴第2次声明)
●岡田啓介内閣は、国体明徴第1次声明(8/3)の中で、天皇機関説は攻撃はしたが排除はしなかったために、軍部や在郷軍人会、右翼団体から激しい反発を買っていた。そこでこの第2次声明では『統治権の主体は天皇 機関説・厳に芟除(さんじょ=刈り除くこと)の要』と閣議で満場一致で承認して声明を発表したものであった。そして11/18、政府は国体明徴を具体化するため「教学刷新評議会」を文部省内に設置し、そして昭和12年5月に「国体の本義」を刊行した。さらに1941年、実践的な「臣民の道」を刊行した。
●第2次声明前月の9/18日、司法省は美濃部に起訴猶予の決定をしたが、美濃部は貴族院議員を辞職した。
1935年
昭和10年
10月28日
●第1回芥川賞(石川達三「蒼氓」)、直木賞(川口松太郎「鶴八鶴次郎」その他)の贈呈式が東京日比谷公会堂で行われた。(文藝春秋社・菊池寛)
1935年
昭和10年
11月
国民政府、貨幣制度の改革断行

●銀本位制だった中国は、銀の暴落などで破綻した財政・金融を立て直すために、イギリスのバックアップで貨幣制度改革を断行した。概略は、銀貨・銀塊の使用は禁止し、政府系の指定した銀行のみが紙幣を発行し、それのみを法定通貨とした。そしてその紙幣はポンドと兌換でき、為替レートは1元=1シリング2ペンス半とした、などである。つまり国民政府はイギリスと関係を強化することで、財政・金融の建て直しを行おうとしたのである。
(新聞)11/4朝日新聞「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊より抜粋

1935年
昭和10年
12月9日
第2次ロンドン海軍軍縮会議に参加

●日英米仏伊5ヶ国によるロンドン海軍軍縮会議始まる。水野全権、不脅威、不侵略体制の確立などを提案。

1935年(昭和10年)の出来事 政治・経済・事件・災害・文化

「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊より抜粋
1.7 中国,満州向け郵便物取り扱い開始
1.7 フランス・イタリア新平和協約調印,仏領ソマリランドの一部割譲
1. 13 ザール地方帰属人民投票,ドイツ帰属に決定
1. 20 民政党,町田忠治を総裁に推戴

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