1934年(昭和9年)満州帝国誕生 |
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(昭和9年、大冷害が東北6県を襲う。急増した欠食児童と娘の身売り)  ●昭和9年は、日本各地で自然災害が起こり、農作物が大きな被害を受けた。九州・四国の干害、北陸・山陰の冷雪害、関西・中国の室戸台風による風水害と続いたが、冷害に見舞われた東北の被害は甚大で、明治38年(1905年)以来の凶作となり、多くの農山村が飢餓線上をさまよった。
●農村の窮乏(農業恐慌)は、1932年(昭和7年)以後深刻になっていった。1930年(昭和5年)豊作飢饉、1931年(昭和6年)~1932年(昭和7年)の凶作。1933年(昭和8年)豊作飢饉、そして1934年(昭和9年)のかってない大凶作と農村の状況は深刻となっていった。特にアメリカの恐慌(1929年からの世界恐慌)による生糸輸出の激減が、養蚕農家に大きな影響を与えた。 (写真)凶作にあえぐ東北の農村。左:青森県新城村で行われた部落相談会。右:岩手県下の一農村。(出典)「日本の歴史(第12巻)世界と日本」読売新聞社1966年刊
●そしてこの農業恐慌の下で、米作・養蚕地域を中心に赤字農家が激増した。1戸平均約1000円(昭和6年の平均農家所得の2倍相当)という莫大な負債を抱えた農家では、その返済のため、青田売り、欠食児童、娘の身売りなど深刻な事態を生んだ。このため小作争議も増加を続け、昭和5年の2478件が昭和10年には6824件となった。
●この農村の問題と救済は陸軍にとっても深刻な問題となった。なぜなら兵士の大部分が農村出身であったからである。血盟団や5・15事件の被告たちも農村救済を叫んでいた。
1932年(昭和7年)の5・15事件後の斉藤内閣でも、農村救済(時局匡救《きょうきゅう》策)が取り上げられたが、多額の軍事費に圧迫されて農村救済予算は削られてしまった。そのかわり政府は農村の自力更生運動(経済更生運動)を推進し、その要となった産業組合の強化を行った。
●この自力更生運動は、土地利用、生産方法から生活、教育の細目にまでわたる経済更生計画に基づいて、毎年1000町村を経済更生指定町村として、各町村に100円の補助金を出すというものだった。
そして農村の中堅リーダーを養成するため、農林省は昭和9年より各地に「農民道場」を設置した。また「産業組合」というのはいわゆる「協同組合」で、信用、販売、購買を目的として設立されたものである。
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1934年 昭和9年 1月1日 | (東京日比谷に、東京宝塚劇場開場)
●東京宝塚、レビュー「花詩集」で開場。「花詩集」には、小夜福子、葦原邦子、草笛美子、雲野かよ子らトップスターが出演した。 (写真)前列左から、大空ひとみ、三浦時子、中列左から、草笛美子、雲野かよ子、後列左から、葦原邦子、橘薫、巽寿美子、小夜福子。葦原は宝塚のクラーク・ゲーブル、小夜は宝塚のゲーリー・クーパーと呼ばれた。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 |
1934年 昭和9年 1月5日 | (日印新通商協定成立)
●インドへの日本の綿織物輸出が急増したことに対してインドとイギリスは抗議、イギリス政府は昭和8年4月、日印通商条約の廃棄を通告。9月日印会商が開始された。
●そしてここに、幾多の困難や決裂の危機に瀕しながらも、インドの関税引下げと交換的に日本の印(インド)綿不買を解除して、新たな日印新通商協定が成立したのである。 |
1934年 昭和9年 1月12日 | (日本沃度《ヨード》大町工場、国産初のアルミニウムの工業的生産に成功する。)
●アルミニウム工業は、1854年にフランスでおこった。日本での国産化が遅れた理由は、技術的な問題より、原料が国内で産出しないことにあった。しかし、昭和6年9月に勃発した満州事変は、航空機用資材としてアルミの需要を高め、しかも、同年12月の金輸出再禁止の影響でアルミ地金が高騰したため、軍部はアルミの国産化を急ぐように政府に要望した。
●そして昭和8年6月、日本沃度(ヨード=現昭和電工)社長の森矗昶(のぶてる)は、長野県大町に工場を建設し、翌昭和9年1月10日に操業を開始、12日に初めての製品を得たのである。(森コンツエルンである) (写真)アルミは「粘土から得た銀」と呼ばれた。昭和9年1/12に日本沃度大町工場で製造された国産アルミニウムインゴットの第1号。記念の刻印は翌日打たれた。写真-昭和電工(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 |
1934年 昭和9年 1月17日 | (「番町会を暴く」時事新報社が連載を開始。)
●下がそのまえがきである。政治的な問題となっていったことが想像される。「帝人事件」の発端となった。
政党と政商の結托暗躍はあらゆる社会悪の源となり、遂に五・一五事件を誘発して非常時内閣の出現を見たことは汎く知るところ、然も五・一五事件の洗礼をうけた非常時内閣下に於て政党政商等はしばらくその爪牙を隱して世の指弾を避くるに汲々たる折柄、こゝにわれらはわが政界財界の蔭に奇怪な存在を聞く。曰く「番町会」の登場がそれである。
即ち彼等はいまやその伏魔殿に立籠り、嘗て政党政商が爲せるが如き行爲。紐育タマニー者流にも比すべき吸血をなしつゝ政界財界を毒しつゝあるといふ。然もこの「番町会」のメンバーとして伝へられるものに某財界巨頭を首脳とし、これを囲繞するものに現内閣の某大臣あり、新聞社の社長あり、政権を笠に、金権と筆権を擁して財界と政界の裏面に暗躍する暴状は目に餘るものがあり、既に彼等の飽くなき陰謀の一端は、さきには商工会議所乗取り、近くは帝国人絹の乗取り、紳戸製鋼所株の拂下げ或は政民聯携運動等となって、世人を戦慄せしむるに至った。我等は敢て事を好むものではない、然も非常時内閣の下、更始一新が叫ばれる今日、権力と金力を背景とする不義不正が横行するに対し、言論機関の使命の爲めに、断じて黙過すべきでない。よって本社はこの利権の伏魔殿の策諜に対し忌憚なき摘発を加へ、以て社会の批判に訴へることゝした。
昭和九年一月 時 事 新 報 社 *リンクします「『番町会』を暴く・ 帝国人絹の巻」 時事新報社昭和9年刊→ |
1934年 昭和9年 1月23日 | 病気を理由に辞任した荒木貞夫陸相の後任は、林銑十郎(教育総監)に決定。教育総監の後任に真崎甚三郎。 (新聞)1/23東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊 |
1934年 昭和9年 1月29日 | 「鉄の巨人」日本製鉄設立 ●議会は、満州事変の勃発により鉄鋼の軍事需要が増大したことにより、国内製鉄業界の徹底的合理化を条件に、鉄鋼関税の大幅引き上げを承認し、国内生産体制の確立のため、昭和8年「日本製鉄株式会社法案」を可決した。これにより政府には日鉄への命令権・統制権が与えられたのである。そして官営八幡製鉄所を中心に、銑鉄企業の輪西製鉄、釜石鉱山、三菱製鉄、鋼材企業の富士製鉄、九州製鉄の1所5社が合同した日本鉄鋼史上初のトラストが誕生した。さらに3月には東洋製鉄が参加し、銑鉄部門における日鉄のシェアは国内生産能力の97.1%となった。 (写真)日鉄発足当時の八幡製鉄所の工場。写真・新日本製鉄(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
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1934年 昭和9年 2月15日 | (東海林太郎《しょうじたろう》「赤城の子守唄」ポリドールから発売。)
●この曲は松竹映画「浅太郎赤城の唄」の主題歌で、約40万枚が売れた。昭和2年に日本ビクター、昭和3年に日本コロンビアが設立されると、ヒット曲はレコード会社が作るようになった。そして同時期に蓄音機、ラジオが普及したことも、次々とヒット曲が生まれる要因の一つとなった。下でユーチューブにリンクした。 |
1934年 昭和9年 3月1日 | 満州国帝政を実施。執政溥儀(ふぎ)皇帝に即位。 ●満州国に帝政が実施され、溥儀は執政から皇帝に即位、「康徳帝」を名乗った。同日公布された満州国「組織法」によって皇帝の地位は、
第1条「満州帝国は皇帝之を統治す」
第2条「皇帝の尊厳は侵さるる事なし」
第5条「皇帝は立法院の翼賛に依り立法権を行う」
第11条「皇帝は陸海軍をを統率す」などとされたのである。
紋章は蘭の花に定められ、元号は大同から康徳に改められた。
日本の天皇制を模したのである。 (新聞)3/2朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
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1934年 昭和9年 3月9日 | ●鐘紡前社長・時事新報社社長武藤山治、狙撃される。(翌日鎌倉の病院で死亡)
犯人はその場で自殺したため動機は不明だが、武藤が帝人事件の告発や、「政・財・官」の癒着を暴いたことが関係するとみられている。 (新聞)3/10東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊 |
1934年 昭和9年 3月12日 | (新鋭水雷艇「夕鶴」設計ミスで転覆、100人殉職)
●佐世保警備戦隊は、長崎県五島列島付近の海上で、昭和9年3月6日から行っていた夜間訓練を、同月10日に中止した。これは荒天と濃霧によるもので、旗艦の巡洋艦竜田から各艦艇に帰投信号が発せられたが、水雷艇夕鶴(艦長岩瀬奥一少佐)の応答はなかった。夕鶴は、同日午前4時12分、波浪を受け、すでに転覆していたのである。夕鶴は同年2月に就役したばかりの水雷艇だった。
●この事故原因の調査の結果、原因は船体が傾いた時に元の状態に戻ろうとする復元力不足にあることがわかった。設計ミスだったのである。この背景には、1930年に締結したロンドン海軍軍縮条約があった。同条約は600トン未満の艦艇の建造を制限しなかったことから、軍令部は、設計担当の艦政本部に、艦艇の能力を超えた兵装を要求したのである。基準排水量535トンの夕鶴に1000トン級駆逐艦の性能を詰み込んだのである。そのため、重心が通常の設計よりも1m以上も高くなり、転覆したのであった。 |
1934年 昭和9年 3月21日 | 函館市で大火。死者・行方不明者2716人、焼失戸数2万4186戸。 ●この北海道函館市で起こった火災は、最大風速30mの強風にあおられて燃え広がった。翌朝鎮火したものの市街地の3分の1を焼失、死者・行方不明者あわせて2716人という、関東大震災と戦災を除くと、わが国の火災史上例をみない惨事となった。 (新聞)3/23朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
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1934年 昭和9年 3月25日 | (栄養士の知識向上のための「栄養士会会誌」創刊される。)
●栄養士会は、アメリカで栄養学を学んだ佐伯矩が、栄養士育成を目的に創立(大正14年)した栄養学校の関係者が作った学会で、この年から日本医学会の第13分会として認められた。これは、栄養改善指導が軌道に乗り始めたことを示していた。
●この背景には、明治後半から昭和初期にかけて、「国民病」といわれた結核と脚気(かっけ)の問題があった。これらはともに罹病率は高く特効薬がなかったため、いったんかかると栄養をつけ、静養するしか回復の方法はなかった。このため栄養改善指導が行われるようになったが、このきっかけは1882年(明治15年)、海軍が脚気対策に白米と麦を等分に混ぜ、兵食改良を試みたことが始まりだった。 |
1934年 昭和9年 3月28日 | 石油業法公布(7/1施行) ●この石油業法とは、石油業の許認可制を骨子とした統制経済法である。軍需産業を対象とした一連の事業法の先駆けとして 3月28日に交付された。軍事資源としての石油の安定供給と国内資本による製油業発達を図った軍部及び政府は、石油値下げ競争による市場の混乱を機にこの法を制定。精製および輸入業は許可制とし、業者には常時6カ月分以上の貯油義務を課した。販売価格の決定権は商工大臣がもつことになった。 |
1934年 昭和9年 4月 | ●4/3、小学校教員3万6000余人による精神作興大会が二重橋前で開催される。「国民道徳を振作」せよ、という趣旨の勅語が出された。
●4/17、天羽(あもう)外務省情報部長、非公式声明を発する。内容は、欧米諸国の対中国援助は、財政的、技術的とを問わず日本に重大な影響を及ぼすおそれがあるから、反対する、というもの。各国からの非難を受け4/24広田外相は、天羽声明は手違いであると釈明した。
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1934年 昭和9年 4月18日 | 帝人事件が起こる。斎藤内閣総辞職に発展 ● 昭和9年4月18日、帝国人造絹糸製造株式会社(帝人)社長・前台湾銀行理事の高木復亨(なおみち)が、帝人株売買の背任・贈賄の容疑で逮捕された。高木の自供から、株を買い取った番長会の長崎英造、河合良成、小林中、水野護らも、背任・贈賄の容疑で逮捕された。
さらに5月に入ると、大蔵次官黒田英雄、同省銀行局長大久保偵次らが、株売買を仲介した際の収賄の容疑で逮捕された。閣僚の辞職で揺れていた斎藤内閣は、大蔵省高官の逮捕により、7月3日、総辞職した。しかしこの後も、中島久万吉前商工相が収賄の容疑で、三土忠造前鉄道相が偽証の容疑で逮捕されて、帝人株売買による逮捕者は17人に達した。
●この事件で17人を逮捕した検察局は、前例のないといわれた革手錠による身体拘束、南京虫責めなどを行い、拘留期間も200日以上に及んだ。このため議会でも「検察ファッショ」「司法ファッショ」の非難が相次いだ。
●公判は昭和10年6月から開始されたが、被告全員が自白を否認した。そして判決も、正当な株売買として全員に無罪が言い渡されたのである。
結局この「帝人事件」は、斉藤内閣倒閣を意図した、司法界の長老で枢密院副議長の平沼騏一郎を中心とする右翼の陰謀といわれているのである。 (新聞)5/19(第2号外)朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
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1934年 昭和9年 4月~5月 | ●4/19農村自力更生運動の一環として、全国桑園経営競技会優等賞授与。
●4/30、アメリカで生糸市場大暴落。
●5/2出版法改正公布。(8/1施行)
●5/14農林省、12県16ヵ所に農民道場を設置する。
●5/15商工省、ビール醸造業・石炭鉱業を重要産業に指定。
●5/24ブラジル議会で移民制限条項成立。 |
1934年 昭和9年 5月30日 | ●東郷平八郎元帥逝去。6/5東京日比谷斎場で国葬が行われる。鹿児島県出身(88歳)。日露戦争の日本海海戦でロシア・バルチック艦隊を破り、陸軍の乃木希典とともに日本の英雄。 (新聞)5/30(号外)朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊 |
1934年 昭和9年 6月2日 | ●フランス・リオンで欧州絹生産国代表による国際絹業連合会、日本品の進出阻止で団結することを決議する。 |
1934年 昭和9年 7月2日 | ●商工省、セメント統制方針を決定。重要産業統制法を発動し、1年間増産中止と建値強制引き下げを行う。
●7/2東京商工会議所(郷誠之助会頭)は、東京丸ノ内の同所内に商工相談書を開設した。中小商工業者を対象に経営相談を行った。 |
1934年 昭和9年 7月3日 | 斎藤実内閣、帝人事件の責任をとり総辞職。 ●斎藤実内閣が総辞職すると、初の重臣会議(=5.15事件以後、後継首相の推薦に関わった重臣の合議形態で、首相経験者、枢密院議長、内大臣など)が開かれた。
●この重臣会議は、これまで首相推薦を行って来た元老西園寺公望が、高齢を理由に元老辞退を申し出たのをきっかけに、開設されることになったもので、今回の決定も、斎藤前首相が岡田啓介を首相として推薦し、「現状を継承できる最適者」との意見が、結局全員の支持を得たのであった。そして岡田啓介を後継首相として決定し、元老西園寺公望が天皇に奏薦したのである。 (新聞)7/4朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
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1934年 昭和9年 7月8日 | 岡田啓介(おかだ‐けいすけ)内閣成立 軍人、政治家。海軍大将。若狭(福井県)出身。田中・斎藤両内閣の海相。昭和9年(1934年)首相となったが、2.26事件のため辞職。太平洋戦争末期には重臣として終戦工作に尽力。(出典)「日本国語大辞典精選版」
●この内閣の特徴は新官僚の登場で、陸相・林銑十郎、海相・大角岑生、外相・広田弘毅は留任し、新官僚のリーダー的存在であった後藤文夫が内相となり、蔵相には大蔵次官の藤井真信、内閣書記官長には河田烈が起用されたのである。 (新聞)7/9朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊 |
1934年 昭和9年 7月26日 | (近畿大防空演習開始、~28日まで。)
●大防空演習が大阪を中心とする近畿地方一帯で4個師団が参加して行われた。爆撃機による模擬空襲が昼夜にわたって行われ、大阪港も灯火管制を行った。 (写真)煙幕に包まれる大阪市外。写真-毎日新聞社(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 |
1934年 昭和9年 8月1日 | (内務省による、レコードの検閲始まる。)
●改正出版法が施行され、内務省によるレコード検閲が開始された。レコードも新聞、雑誌、書籍と同様に、発売前に内務省の検閲を受けねばならないことになった。 |
1934年 昭和9年 8月2日 | (ドイツ、ヒンデンブルク大統領死去、ヒトラー大統領を兼務する。)
●8/19ヒトラー首相、大統領兼任を問う一般投票で賛成90%を獲得。「総統」の地位を確認される |
1934年 昭和9年 8月 | (純国産練習機「赤とんぼ」誕生。)
●石川島(のちの立川)飛行機製作所は、陸軍の委嘱を受け、8月純国産練習機第1号を完成させた。のち、改良を加えた3号機が採用され、制式名称は九五式一型練習機と名付けられた。通称「九五中練」、俗称「赤トンボ」の名で親しまれ、昭和18年までに一号機を含めて2398機が生産された。乗員2人。最大速度は時速240km。 写真・野沢正(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 |
1934年 昭和9年 9月1日 | ●東京・横浜・川崎の3市連合の防空演習が、午後1時から翌2日午後3時まで実施される。約50万人が参加した。 |
1934年 昭和9年 9月5日 | (東京市電従業員、整理案に対して1万1千余名始発からストを行う。)
●9/2東京市電気局、赤字解消のため従業員1万人余の解雇し、4~5割減給して再雇用するという人員整理案を発表した。これに対して東京交通労働組合は9/5から全面ストを開始し女性車掌たちも参加した。当局は組合首脳99人を懲戒解雇し対抗した。しかしその後警視総監による調停も不調に終わり10月にもストとなった。結果は10/13、2割減給で妥結した。 (新聞)9/5(号外)朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊 |
1934年 昭和9年 9月~10月 | アメリカ・アリゾナ州で排日運動激化。 ●9/13、排日運動激化で20数人が日本人農園を襲撃した。(8/20、アリゾナ州の排日実行委が、在留日本人農家を訪ね25日までに立ち退きを要求していた。)
●10/5にはさらに排日運動が激化し、地方官憲も暴徒に参加し日本人農民を検挙。アメリカ政府は州知事に取り締まりを厳命する。
●10/29日本人宅2軒へ爆弾が投げ込まれ、幼児負傷。 |
1934年 昭和9年 9月14日 | 政府、陸軍による在満機構改革案を承認。 ●これは8/6、陸軍省が在満政治機構改革の原案を発表したもので、関東軍の主導の下で、満州国に対する日本の支配機構を統一しようというもの。内容は、昭7年より関東軍司令官が駐満全権大使と関東庁長官を兼任していたが、これを、関東庁を廃止して関東軍監督下の関東局を現地に置き、内閣直属の対満事務局を中央に新設しようとする案。
●これに対して外務省・拓務省・関東庁そして現地警察は反対し、9/12には関東庁全職員が庁員大会を開催し総辞職を決議した。
●10/7拓務省は、陸軍省に反発し、同案再考要求の具申書を高等官全員連署で岡田首相に送付。
●10/17政府、在満機構改革の陸軍案断行を決定。「命令系統の統一であり、警察機関の憲兵化ではない」と声明。
●10/18関東軍、在満機構改革反対派への鎮撫工作のため、大連に特務機関設置(27日廃止)。
●10/19大連で全満州29警察署巡査代表大会開催。警官5000人の総辞職と在満巡査統制委員会解散を決定。
●12/22在満機構改革案、臨時枢密院本会議で可決。直ちに臨時閣議で決定(12/26公布)
●12/26対満事務局官制公布施行。林銑十郎陸相が総裁を兼任し、在満機構改革問題が収束した。 (新聞)9/15朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
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1934年 昭和9年 9月18日 | ●国際連盟総会、ソ連の国際連盟への加入を、賛成39、反対3、棄権7で可決。常任理事国の地位賦与も承認。 |
1934年 昭和9年 9月21日 | 室戸台風、関西を直撃。40府県に甚大な被害。 ●この台風は9/21午前5時頃、高知県の室戸岬付近に上陸した。最低気圧911.9ミリバール(現在ヘクトパスカル)を記録、瞬間最大風速は60mを越えた。そして室戸台風は徳島県から淡路島を北上、午前8時頃大阪湾の和田岬に再上陸した。そのため湾の海面が約3m上昇し、海水は時速10km前後で木津川、尻無川などを逆流し、大阪市内の低地へ奔流となって流れ込んだ。
●また加えて、大阪の被害は暴風によるものが1番大きく、特に天王寺地区では四天王寺の五重塔が倒壊し、また小学校の7割以上が倒壊などの被害を受け、児童676人教員ら18人が死亡した。大阪・兵庫・京都・岡山など30府県での被害状況の合計は、(死者・行方不明者数)3246人、(家屋の全半壊戸数)88,046戸、(田畑の被害・千町歩)22,427.4、(橋梁の流出)7,939件。(出典)中央気象台編「日本気象災害年表」とある。 (新聞)9/21(第3号外)朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
(写真一部分)暴風のため吹き寄せられた船。大阪港付近の岩崎橋下流で撮影。大阪市の流出・沈没船舶は2112隻。写真・「アサヒグラフ」10/3号(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
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1934年 昭和9年 10月1日 | 陸軍パンフレット問題起こる。「国防の本義と其強化の提唱」 ●いままで陸軍省のパンフレットは調査班が発行しており、その内容も資料的なもので発行部数も少なかった。ところが昭和9年になると、パンフレットの発行は新聞班によって行われるようになり、10/1に発行された「国防の本義と其強化の提唱」は約16万部発行された。
この内容は、国防力の強化、資本主義経済の否定(統制経済の提唱)、総力戦体制の確立を主張したものだった。
●このパンフレットは、陸軍省軍務局軍事課の池田純久少佐が、国策研究会の矢吹一夫らの協力を得て作成し、軍務局長永田鉄山少将の承認、陸軍大臣林銑十郎の決裁を経て発行されたものであった。永田は統制派の中心人物で池田も統制派に属していた。この統制派は陸軍が直接行動によらず主導権を握ることによって総力戦体制を確立しようとするグループであり、直接行動による独裁政権を樹立しようとする皇道派とは別であった。
●しかしこのパンフレットは議会でも問題となり、政友・民政両党は内閣を無視した軍の政治干与であると強く反発した。林陸相も12/1の衆議院本会議で、「研究のために公にしたまでで只今直ちに実行するといふ如き考へはない」と弁明した。美濃部達吉も中央公論でこれを批判したが、一方で賛意を表明する団体もあった。 (新聞)10/6朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
*リンクします「国防の本義と其強化の提唱」軍事叢書. 第1輯 軍事思想普及会 昭和13年刊→ |
1934年 昭和9年 10月 | 東北地方、明治38年(1905年)以来の大凶作 ●特に東北の冷害による凶作の被害は甚大であった。9年の米の全国平均収穫高が、対平年比82.8%であったのに対し、東北6県では60.9%しか収穫できなかった。なかでも冷害のひどかった岩手県では45.5%、青森県では53.6%と最悪を記録した。
●このため衆議院は12/6、農林省の提出した「政府所有米穀の臨時交付に関する法律案」を可決し、政府所有米のうち50万石を東北6県の町村に交付した。
●だが飢饉となった岩手県では農家の77%が緊急の救済を必要とし、欠食児童が急増し、間引きや母子心中が相次いだ。特に大きな問題となったのは、娘の身売りだった。東北6県で、芸・娼妓、女給、女子工員などとして人身売買され離村した娘の数は、9年10月までの1年間で5万人余にのぼった。下は、昭和9年12/1の朝日新聞の記事「14娘を売った金、40円の家と化す。 冬籠りの窮農を訪ふ」の一部。
・・・『スミエあ売られて難儀してす、吾(われ)あ死んでもいいはで、孫達あ楽にさせてやりてい』と赤く瀾れた眼から涙をボロボロこぼした、 この佐藤一家は、家は借金のカタに取られて近所の家に同居してゐたが、スミエといふ14の娘を名古屋市賑(にぎはひ)町の娼妓屋に売った金で、此の家を買ったのだ、 身代金は5ヵ年の契約で450円だったが、そのうち100円は1本になってから渡すとのことで、娘の着物代にといって50円、周旋料だといってブローカーに22円50銭、親爺と周旋屋とで娘を名古屋まで送って行った汽車賃、宿料、自動車代その他雑費だといって127円50銭とられ、結局手に渡ったのは僅(わつか)150円だった、 そのうちから70円の借金を支払ひ、40円で家を買ふと残る40円もなんといふことなしに消えてしまった・・・・ 写真は12/1東京朝日新聞の記事のもの(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊 |
1934年 昭和9年 10月24日 | 日米海軍予備第1次会談開催 ●新聞は、10/24に開かれた日米海軍予備第1次会談を報じたものである。(写真1段目、山本五十六代表・海軍少将、写真2段目右、松平恒雄代表・駐英大使)、10/23から日英予備会談開始。
●この予備交渉は、イギリスがロンドン海軍条約(有効期限1936年12/31)に定められた(第23条)「1935年に開かれる予定の軍縮会議」前に、日英米3国の了解を得るために提議したものであった。ところが日本の軍縮方針(ワシントン条約破棄など)が、英米と根本的に異なるため、10月まで予備交渉を休止していた。そして日本は方針を確定し予備交渉を再開したのであった。
●日本の根本主張は、①ワシントン条約破棄(有効期限1936年12/31)、②軍備平等確保、③現行艦種別比率主義を廃棄し、共通最高限保有量設定により全保有量を縮減する、などであった。これらは英米の主張とは相容れず、イギリスは斡旋を試みたが、交渉は危機に瀕していった。 (新聞)10/25朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●下段で、1922年のワシントン海軍軍縮条約と1930年のロンドン海軍条約の概略を書いておく。海軍軍縮の流れをつかんでおきたい。
「海軍軍備制限に関する條約」(ワシントン海軍軍縮条約)(1922年2月) (文は「日本の歴史」読売新聞社1963年より引用・要約)
●ワシントン海軍軍縮会議は、第1次世界大戦後の1921年(大正10年)7月、アメリカ国務長官ヒューズがアメリカ駐在全権大使幣原喜重郎に軍縮会議の提案をしたことから始まった。
第1次世界大戦は非常に進歩した軍事科学が軍備の革新をもたらした。そのため各国は、飛行機、戦車、毒ガスなどの新兵器そして重火器(大砲)の大型化や、軍艦の近代化のためほとんどの兵器を一新する必要がおこった。 

これは戦後の戦勝列強の政府にとって大変な財政負担であった。その上に悲惨な大戦の経験の直後、全世界に起こった平和風潮は、いっそうこのような巨大な軍事費の財政負担に対する批判を強めた。どの国でも、軍からの膨大な軍事費の要求を、議会や政府が削るのに大わらわという状態であった。ことに、海軍の建艦費が問題であった。何しろ、ちっぽけな排水量1000トンぐらいの駆逐艦でも、総製作費は東京の国会議事堂の建築費総額ぐらいかかるのであった。しかも大戦前の軍艦はもはやすっかり旧式化してしまった。早急に最新型の軍艦を建造しなければならないということで、戦勝列強つまりイギリス、アメリカ、日本、フランス、イタリアは、いずれも大規模な建艦計画を抱えていたのである。
●日本海軍は仮想敵国をアメリカとし、アメリカ海軍と対抗するため海軍充実計画(八八艦隊)を練っていた。内容は、主力を、艦齢8年未満の戦艦と巡洋艦おのおの8隻とし、これに見合う補助艦艇をもつものであった。第1次世界大戦後、日米の建艦競争は露骨になり、日本は1920年から 8年間にわたる、総額約10億円に達する継続支出を決定した。これは、戦艦4、巡洋戦艦4、巡洋艦12、駆逐艦32などの建造にあてられる予定で、八八艦隊の完成を図らんとしたのである。
●かくて、戦争直後の 1920年の決算では、軍事費は維新以来最大の規模に達した。すなわち、陸軍省関係2億4000余万円、海軍省関係4億余万円、計6億5000万円弱で、これは政府の歳出総額の 4割8分をしめた。1921年度はこれを上回り陸軍省関係2億4000余万円、海軍省関係4億8000余万円、計7億3000余万円となり、歳出総額の4割9分をしめた。
●この上もし軍備増強が計画通り継続支出を続けるとすれば、それは政府にとって大変な負担となる。そこで、対抗上膨大な軍事費を支出せざるを得ない状態に陥っている列強政府は、国際的協定によってこの重荷を鳴らそうと望んだのであった。米国議会も、1921年度の海軍予算可決の際に際して、アメリカ、イギリス、日本で軍縮会議を開けと付帯決議をしたほどであった。
●このワシントン会議は、アメリカ国務長官ヒューズによる爆弾宣言で流れが決まった。ポイントは次の3点で
①主力艦は(戦艦と巡洋戦艦)建造計画は、目下建造中のものを含めてすべて放棄する。
②老築艦の一部を廃艦にする。
③今後の海軍力制限は、だいたい現在の保有海軍力で決定する。というものであった。
●主力艦の保有比率の提案はアメリカ、イギリス、日本で10.10.6だった。しかし日本は10.10.7を主張した。日本海軍は当然10.10.7の比率を強硬に主張したが、当時の新聞などの論調は、10.10.6の比率をとっても軍縮の実現をはかれというものが多かった。国内では海軍は孤立する情勢にあった。そして日本は、1922年2月、主力艦5.5.3(=10.10.6)の比率を受諾したのである。
●この「海軍軍備制限に関する條約」(ワシントン条約)は1936年12月31日まで効力を有し、主力艦は、1921年11月12日より10年間(1931年11月)まで起工できないという内容であった。また、その有効期間より2年前に本条約を廃止する意思を通告するときは、その通告より2ヶ年経過するまで条約は有効とし、またもし廃止通告がされた場合は、全締結国は1ヶ年以内に会議を開かねばならないということも定められていた。
「1930年ロンドン海軍条約」(1930年4月) ●1922年のワシントン海軍軍縮会議は、主力艦と航空母艦を制限したものだったので、各国の補助艦艇(巡洋艦以下)についての建造競争は激化していた。そこで1927年(昭和2年)、ジュネーブで補助艦を制限する会議が開かれたが、これは各国の主張が対立してまとまらなかった。
●しかし1929年に端を発する世界恐慌は、各国を経済不況と社会不安で襲い、各国政府にとっても財政負担軽減である海軍軍縮を強く望む機運がうまれた。また主力艦の建造停止期間も1931年に迫っていたこともあり、1930年1月より日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリア5ヶ国がロンドンに集まり軍縮会議開催となったのである。 
●この会議の主な目的は、①補助艦艇の建造に新たな制限を設けること。②主力艦の建造停止期間を延長すること、であった。
●日本においては、濱口内閣は緊縮財政・金解禁による財政立て直しと協調外交が政治目標であったため、軍縮を強く望んでいた。
一方海軍は、今度こそ対米7割を主張し、①補助艦総トン数対米7割、②大型巡洋艦対米7割、③潜水艦保有量現状維持、を3原則として会議に臨んだ。
●しかしアメリカ・イギリスは5.5.3の比率を主張して会議は難航したが、妥協案が成立し(補助艦艇総保有量対米比率は6.97割など)、1930年4/22調印された。
そして、①ワシントン条約の主力艦建造停止期間を1931年から1936年まで延長し(第1篇 第1条)、②このロンドン海軍条約の有効期限を1936年12月31日までとし、かつ新条約を作成するために1935年に全締約国による会議を開くことを決めたのである。(第5編 第23条)
●だが日本国内では、政友会がこの軍縮条約の締結を「統帥権干犯」と問題視し、その後大きな政治・思想問題に発展していくのである。
下は政友会鳩山一郎の議会発言の一部。
「・・しかして国防に関しては国務大臣に天皇輔ひつの責任があるが、軍事に関する輔ひつの責任は参謀総長あるひは軍令部長にある、政府が軍縮問題に関して軍令部といふ統帥権に関する直接の機関の意向を無視したことはまことに政治上の大冒険といはねばならない・・」
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1934年 昭和9年 10月25日 | (高山本線、悲願の全通)
●高山線飛騨小坂(おさか)と富山から延びる飛越線の坂上(さかかみ)間が開通した。15年かかった高山本線の開通である。 (写真)は祝賀の花電車。写真-中日新聞社。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 |
1934年 昭和9年 11月2日 | (ベーブ・ルースら大リーグ選抜チーム17名来日)
●これは読売新聞社・社長正力松太郎の招待によるもので、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリック、ジミー・フォックスらも参加した。この時の全日本チームは、沢村栄治、スタルヒン、三原脩、水原茂、中島治康ら30選手で編制された。
●12/26読売新聞社は野球人気を背景に、全日本チームを母体に、日本初の職業野球団「大日本東京野球俱楽部」(現読売ジャイアンツ)を結成した。 (写真)ファンに手を振る初来日のルース。-写真・朝日新聞社(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
●第10戦で好投した沢村栄治投手は、久慈次郎捕手とバッテリーを組み、速球と大きく落ちるカーブで、ルース、ゲーリック、フォックスのホームランバッターを三振させた。 (写真)第10戦で好投した沢村栄治投手(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
(注)沢村栄治、プロ野球投手。三重県出身。京都商業在学中から速球投手として知られ、東京巨人軍に入団後、エースとして活躍し初の最高殊勲選手となる。第2次世界大戦に応召し台湾沖で戦死。昭和22年(1947)その功績をたたえて「沢村賞」が制定された。大正6~昭和19年(1917-1944)(出典)「日本国語大辞典精選版」
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1934年 昭和9年 11月20日 | 士官学校事件。青年将校らクーデター計画容疑で逮捕 ●逮捕された将校は、陸軍歩兵太尉・村中孝次(のちの2.26事件で死刑)と、陸軍一等主計(大尉)磯部浅一(のちの2.26事件で死刑)、そして士官学校区隊長片岡太郎中尉であった。そしてその他に陸軍士官学校士官候補生5人が容疑で士官学校に軟禁された。
●容疑は5.15事件のようなクーデターを計画しているとの疑いであったが、軍法会議での取り調べに対して村中、磯部はそのような計画はでっちあげで、皇道派弾圧のための陰謀であると主張した。
その結果、翌昭和10年3/29事件は嫌疑不十分として不起訴が決定した。しかし4/1行政処分が行われ、将校3人は停職処分、5人の士官候補生は退学処分となった。この停職処分はもっとも重い行政処分で、6ヶ月は復職できず、また1年以内に復職できないときは自然休職となるものだった。
●しかし事件はこれで終わらなかった。
①昭和10年2/7、軍法会議取調中、村中大尉は誣告(ぶこく=虚偽告訴)の訴えを起こした。相手は陸軍省軍務局員・片倉衷少佐と士官学校第一中隊長・辻政信大尉であった(2人共に統制派側)。
(4/2には磯部も同様の訴えを起こす)しかしこの訴えは黙殺された。
②昭和10年7/11、停職中の2人は連名で「粛軍に関する意見書」を発表した。この内容は昭和6年に起きた「3月事件」や陸軍内部の皇道派と統制派の対立を暴露したものであった。
●8/2これに驚いた軍当局は、停職中の2人を陸軍内部の統制を乱すものとして免官処分としたのである。2.26事件の判決の中で2人が元将校とも書かれず「常人=民間人」とされている理由はこのためである。 |
1934年 昭和9年 12月19日 | ワシントン海軍軍縮条約破棄 ●枢密院本会議、ワシントン海軍軍縮条約破棄を全会一致で可決する。
12/21閣議、ワシントン条約破棄通告を正式に決定、22日斎藤博駐米大使に通告。新聞は、斎藤大使今夜(ワシントン時間29日正午)がハル国務長官に手交する記事。 (新聞)12/29朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
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1934年(昭和9年)の出来事 政治・経済・事件・災害・文化 「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊より抜粋
1. 5 日印シムラ会商,日本の譲歩で成立
1. 8 京都駅構内で海兵団入団者の見送り人が階段をなだれ落ち77人圧死
1. 15 共産党内の裏切り・スパイの疑惑にからむリンチ事件が発覚
1. 16 内外硫安販売協定成立 

1. 19 エチオピア皇太子妃候補に黒田雅子決定
1. 22 陸相荒木貞夫辞任(23日に林銑十郎を任命)
1. 29 国営八幡製鉄所を中心に三井・三菱・安田・渋沢各財閥の製鉄会社合併し日本製鉄株式会社成立(2月1日開業)
1. 31 米国,ドル価切り下げを実施
1. 31 陸軍省,軍需工業監督制を実施
1.~ 時事新報所載「番町会を発く」,帝人事件問題化の端緒となる
2. 3 5 ・15事件民間側被告に判決,橘孝三郎無期懲役・大川周明懲役15年
2. 8 足利尊氏問題で商相中島久万吉辞職
2. 10 米ソ通商条約調印
2. 11 恩赦・減刑令・復権令公布,佐郷屋留雄は死刑から無期懲役に減刑
2. 14 日英綿業協議会第1回会議をロンドンで開催(3月14日打ち切りとなる)
2. 16 英ソ通商条約調印
2. 24 作家直木三十五死去
2. 27 国際石油カルテルと松方ソ連石油間の妥協成立
2.~ フランスで右翼系の騒動,共産系も示威運動
2.~ オーストリア政府,社会主義者取り締まり,ウィーンなどに暴動発生
3. 1 満州国帝政実施,執政溥儀の皇帝即位式を挙行,「康徳」と改元
3. 3 文相鳩山一郎,綱紀問題で辞任
3. 9 武藤山治,北鎌倉でピストルで撃たれ,翌10日死去
3. 9 日本団体生命保険株式会社設立
3. 12 水雷艇「友鶴」佐世保港外で転覆,艇長以下100人殉職
3. 16 輸出入禁止制限撤廃条約の義務脱退に関し宣言
3. 21 函館市大火,全焼2万3600余戸,死者約2000人,推定損害1億3000万円
3. 27 不正競争防止法公布(10年1月1日施行)
3. 28 石油業法公布(7月1日施行)
3. 29 臨時米穀移入調節法公布(5月20日施行)
4. 3 皇居前で全国小学校教員精神作興大会挙行
4. 4 米穀統制法による売り渡し米,申し込み開始以来初めて1000万石突破
4. 5 デ杯戦出場予定の佐藤次郎選手,マラッカ海峡で箱根丸から投身自殺
4. 7 日本銀行金買入規制法公布(即日施行)
4. 11 三菱重工業株式会社設立
4. 17 外務省が対華声明(天羽声明)を発表,満州問題善後処置で中国政府と協調
4. 18 帝国人絹の高木社長ら5人逮捕,5月19日黒田大蔵次官ら検挙(帝人事件)
4. 25 思想検事を設置
4. 25 吉本興業,新橋演舞場で初めて上方漫才大会を開く
4. 29 米国が天羽声明を反論
4. 30 貿易調印及び通商擁護法公布(5月1日施行)
5. 1 第15回メーデー
5. 2 出版法改正公布,皇室の尊厳の冒とく・安寧秩序妨害などの取り締まり強化
5. 3 枢密院議長倉富勇三郎辞任,後任に一木喜徳郎を任命
5. 8 社会大衆党が飯米要求闘争を展開
5. 14 農林省,12県に農民道場設置
5. 15 帝人事件で番町会解散
5. 21 国民精神文化研究所を設置
5. 24 ブラジル排日移民法成立
5. 24 日華無電協定成立(6月1口から東京・上海間直接無線連絡開始)
5. 30 元帥東郷平八郎死去(6月5日国葬)
6. 1 文部省に思想局設置
6. 8 バタビアで日蘭会商開始
6. 14 ヒトラー・ムソリーニ会談
6. 20 内地・台湾間無線電話開通
6. 30 ヒトラー独首相,レーム・シュライヘルらを粛清(レーム事件)
7. 1 関東軍と華北当局との通車協定成立による北京・奉天間の直通列車運転開始
7. 1 輸出生糸取締法施行
7. 3 斎藤内閣,帝人事件で総辞職
7. 8 岡田啓介内閣成立
7. 12 日印通商条約及び議定書,ロンドンで正式調印(9月15日公布実施)
7. 20 政府,10大政綱を発表
7. 25 機船底曳網漁業・母船式漁業取締規則制定(8月1日施行)
7. 25 ドルフース・オーストリア首相暗殺される
7. 25 全国の官吏に官紀振粛を厳達
8. 1 日満無線電話開通式(2日東京・新京間業務開始)
8. 2 独大統領ヒンデンブルク元帥死去,ヒトラー首相が大統領兼任
8. 6 熊本県藤富村ほか3ヵ村農民600人騒動,県庁を襲撃
8. 19 独ヒトラー,総統に就任
8. 20 第20回全国中等野球に呉港中学優勝
8. 29 松田文相,パパ,ママの呼び方を非難
9. 5 東京市電の更新給料にもとづく整理案に反対して1万1000人スト,15日強制調停委員会設置,17日スト中止
9. 13 全国米穀取引所大会で国家賠償陳情要請
9. 18 ソ連,国際連盟に加入
9. 20 宮内省,土方与志の伯爵位返上を命令
9. 21 室戸台風で関西一帯大暴風,死者約2500人,負傷者8000余人,行方不明500余人,全壊家屋3万4500余戸,流失家屋2300余戸,小学校倒壊289校、被害総額10億円
10. 1 陸軍省が「国防ノ本義卜其強化ノ提唱」配布(パンフレ ット事件)
10. 6 警視庁,学生・未成年者のカフェー・バーヘの出入禁止
10. 9 ユーゴスラビア国王アレキサンドル1世・バルツー仏外相,マルセイユで暗殺される
10. 12 災害救済のため臨時議会召集を決定
10. 17 政府,在満機構改革案原案断行に決定(軍の満州経営発足)
10. 19 閣議,東北冷害調査機関の設置を承認
10.~ 中国共産軍,瑞金を脱出し大西遷(長征)を開始
11. 1 若槻礼次郎,民政党総裁を辞任
11. 1 釜山・新京間満鮮直通列車の運転を開始
11. 2 ベーブ・ルースら米プロ野球団来日
11. 8 6世尾上梅幸死去
11. 13 満州国石油専売法公布(29日同施行令公布)、米・英・オランダが抗議
11. 17 湯川秀樹,中間子仮説を提出
11. 18 日本労働組合全国評議会結成,12団体58組合1万3000人加入(委員長加藤勘十)
11. 20 陸軍青年将校クーデタ一計画暴露(11月事件,翌年4月記事解禁)
11. 20 内務省,身売り防止策を各機関に通達
11. 22 東京地裁,血盟団に判決,井上日召ら3人無期懲役
11. 27 蔵相藤井真信,病気で辞任,後任に高橋是清任命
11. 28 第66臨時帝国議会開会
11.~ 国民政府軍,瑞金を占領
11.~ イタリア・エチオピア間に紛争おこる
12. 1 ソ連共産党政治局員・レニングラード支部長キーロフ暗殺される(粛清事件の端緒)
12. 1 丹那トンネル(7804 m)開通式
12. 8 日米国際無線電話開通(翌9日業務開始)
12. 26 第67帝国議会開会
12. 26 東北振興調査会設置
12. 26 対満事務局発足,総裁は林銑十郎陸相兼任
12. 26 日本初のプロ野球「東京倶楽部」誕生
12. 29 ワシントン海軍軍縮条約廃棄を米国政府あて通告,日本は国際的に孤立
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