1933年(昭和8年)3/27日本、満州国を認めない国際連盟を脱退、「脱退の詔書発布」
2023年4月16日アジア・太平洋戦争
●次に年表では昭和8年の日本国内の政治・経済・事件を書き出した。この期間の特筆すべきことは、中国大陸では日本軍が満州国を足場にして熱河省、河北省へ侵攻したことである。これにより国際連盟総会は日本の満州国を認めず、反発した日本は国際連盟を脱退した。国内では「国体明徴運動」による絶対的天皇制と軍部独裁体制への思想弾圧が進んだ。そして同時に右翼によるテロ未遂事件や陸軍青年将校による政府転覆計画が連続して発覚した。
(上写真)1934年4/1菱刈駐満大使は、皇帝溥儀に信任状を捧呈、儀式後「勤民楼」で記念撮影を行った。前列中央が皇帝溥儀、その左が菱刈駐満大使。(出典「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊)
●この時代、日本の産業構造は変化し重化学工業が発展した。その大きな要因は政府による財政支出の拡大であり、なかでも軍事費の拡大であった。また政府や関東軍による満州の資源を利用した大規模な重化学工業の開発があり、朝鮮においても新興コンツェルンを中心に重化学工業の進出が続いた。当然ながら軍事費拡大を求めたのは軍部ではあったが、国家としてもそれを求めたのである。そして新興財閥といわれた「日産コンツェルン」「日窒コンツェルン」「森コンツェルン」「日曹コンツェルン」「理研コンツェルン」が生まれる。
*リンクします「昭和財政史(戦前編)」→財務省・財務総合政策研究所
*リンクします「ダイヤモンド経済統計年鑑」「本邦工業生産額」昭15年版(第6回) ダイヤモンド社 編 昭和11-15年刊→
●日産コンツェルンは、鮎川義介が義弟の久原房之介が設立した久原鉱業を任され再建し、重工業を中心に企業の吸収合併により急成長したコンツェルンである。久原鉱業は第1次世界大戦中の銅景気にのって、日立製作所、日本汽船、合同肥料などを傘下に収めたが、大戦後経営不振に陥っていた。そして昭和3年12月に鮎川は久原鉱業を日本産業と改称し持株会社として発足させたが低迷を続けていた。しかし昭和6年12月の金輸出再禁止によって、日本産業は金の価格が急騰したことにより業績が一挙に回復した。日産は「再禁成金」と呼ばれたという。下は昭和12年現在の日産コンツェルン傘下の企業の一覧である。
●昭和9年6月1日、「自動車製造」が改称して日産自動車が生まれ「ダットサン」など国産自動車の大量生産に乗り出した。「自動車製造」は昭和8年12月、日本産業(日産)と戸畑鋳物(鮎川が創設したもの)の共同出資で設立された会社である。
(注)なお、豊田自動織機製作所内に自動車部が設置され、社業として国産自動車の研究・開発を行うことを開始したのは昭和8年9/1のことである。(現在のトヨタ自動車創業のはじまりである)
また源流でもある久原鉱業の鉱山部門は日産の名を継がず、日本鉱業株式会社となったが、後に新日鉱ホールディングス、現在のJXTGホールディングスとなっている。ガソリンスタンドの看板でいえば今のところ「ENEOS」グループとみればよいだろう。
(写真)昭和10年4/12、日産自動車横浜工場で、「ダットサンセダン」第1号車がコンベアラインから離れたところ。これは、大量生産方式による、シャーシからボディまでの一貫生産の開始だった。このため、アメリカから多くの技術者が招かれた。左から4人目が、鮎川義介。-写真・日産自動車。一覧表(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
●日産コンツエルンは昭和12年(1937年)には77社(上図)を傘下におさめ、三井、三菱に次ぐ財閥に発展した。そして昭和12年12月、鮎川は日産を「満州重工業開発」に改組・改称し、本社を新京(長春)に移した。しかし日産は、日中戦争を契機とした旧財閥の重化学工業への進出などにより衰退していく。
●日本窒素肥料の創業者野口遵(したがう)が電解法によるアンモニア合成工場を世界に先駆け完成し、化学肥料(硫安)製造を軸に電力・化学部門に進出し、朝鮮にも進出して巨大化したコンツェルンである。特徴は、 電気化学を利用し、ダム建設による水力発電を行い、そしてその大量の電力を利用して電気化学工場で肥料、火薬を製造したことである。北朝鮮の鴨緑江にある電源開発のための水豊ダム建設は有名である。この企業体はチッソ(現JNC株式会社の持ち株会社)であり、あの水俣病でも有名である。戦後財閥解体で第二会社新日本窒素肥料(チッソ)、旭化成工業、積水化学工業などに解体された。
●森矗昶(もりのぶてる)が創業した日本電気工業と、森が経営に関わった昭和肥料が合併して設立した昭和電工を中心に、化学、アルミニウム製造などに事業展開したのが森コンツェルンである。昭和9年1月に日本沃度(ヨード)株式会社社長の森矗昶は、長野県大町工場にて初の国産原料と国産技術によるアルミ生産に成功した。この日本沃度は昭和9年3月に日本電気工業と改称し生産施設を強化し、純度99%の製品を生産するようになった。そして昭和10年に陸軍航空本部が製品に対して航空機用として実用に供し得ると認めたのである。
●中野友礼(とものり)が自らの技術をもとに創立した日本曹達(ソーダ)を中心に企業集団を形成したコンツェルンである。
●この理研コンツェルンは異色の存在で、1917年渋沢栄一を設立者総代として財団法人として創設された理化学研究所を中心に形成されたコンツェルンである。もともと科学技術に関する試験研究を総合的に行ない、その成果の応用・普及を目的とする財団法人であったが、大河内正敏が所長になると(大正10年《1921年》就任時の肩書は、子爵・貴族院議員・工学博士・東大工学部教授)、経営危機に陥っていた理研を国際研究機関にまで発展させ、かつ昭和2年(1927年)には研究成果の応用・工業化を進めるため、理化学興業を創立したのである。そして昭和12年(1937年)には、傘下企業33社を数え、製品もビタミンA(この発明により理研は経営危機を脱した)、アドゾール(吸湿剤)、マグネシウム、ピストリングなど多岐にわたった。また各種発明特許権を保有し、科学主義、高賃金・低コスト、良品廉価を経営のスローガンとした。
●この理化学研究所の歴史の中で、特に有名なことは、昭和12年(1937年)4月の仁科芳雄による物理学最先端装置サイクロトロンの完成である。最初に完成したのは大阪帝大理学部であったが、その研究者も理研から招かれた菊池正士の研究によるものだった。そして1週間遅れで理研の仁科研究室で、サイクロトロンが完成し、日本初の実験が行われた。このサイクロトロンは荷電粒子加速器のひとつであり、原子核の構造・性質を研究する装置であった。そしてウラン濃縮と核分裂反応の研究も進めていたが、本格的な実験に入る前に敗戦となり、占領軍によって理研の2基のほか日本の保有する全てのサイクロトロンが破壊された。
(写真)昭和12年4月、完成したサイクロトロンの前で記念撮影する理化学研究所の研究員たち。-写真・大河内元冬(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
満州では、1/3関東軍が山海関を占領し、熱河作戦を開始した。満州国は熱河省もその領土であると宣言して侵攻したのである。前年の12月、日本の満州国問題を討議する国連の臨時総会が開かれ、日本はリットン報告書を激しく非難し、国内においても反発や国際連盟脱退の動きが強まっていた。そんななかでの熱河作戦の開始は、連盟の対日感情を悪化させ、2/24国際連盟総会は満州国不承認などの対日勧告案を採択した。そこで3/27、日本は正式に国際連盟を脱退したのである。
●自然災害では、3/3午前2時半ごろM8.3の大地震が起き、三陸地方に大津波が襲来し甚大な被害をもたらした。
●疲弊した農村に対して、米価の下落対策として米穀統制法が公布(昭和8年3/29)、施行(昭和8年11/1)された。
●思想の弾圧では、2/20プロレタリア作家の小林多喜二が、築地署の特高課員による拷問によって殺された。特高(特別高等警察)による拷問は常態化していく。また4月には文部省による京大法学部教授罷免事件、「滝川事件」が起きた。滝川教授の刑法学説を危険思想としたのである。これは「赤化事件」といわれ、共産党シンパ判事の「司法官赤化事件」、長野県の「教員赤化事件」など左翼思想の元凶として帝国大学教授がやりだまに上がったのである。
●経済・産業面では、政府は4月に「日本製鉄株式会社法」を公布し、官営八幡製鉄所と5製鉄会社の合同(翌9年)を産業政策として行った。また6月には着工以来15年2カ月目にして、丹那トンネル(東海道本線熱海駅と函南駅との間にある鉄道トンネル)が貫通した。(開通は翌年12/1)
●軍事面では、8月に第1回「関東地方防空大演習」を軍民一体となって行った。仮想敵国はアメリカとソ連だった。また軍部の主張する1935・36年危機に対応するため、「5相会議」(首相・蔵相・陸相・海相・外相)が開催された。だが一方で右翼による全閣僚・政党総裁殺害計画未遂事件「神兵隊事件(7/11)」が発覚し、11月には「救国埼玉青年挺身隊事件」とその背後に潜む「栗原中尉クーデター計画」の発覚があった。この事件は昭和11年2月の2.26事件へつながるのである。
●海外で特筆すべきことは、ドイツ・ナチス・ヒトラーによる独裁政権確立である。ドイツは10月には国際連盟とジュネーブ軍縮会議から脱退を声明した。アメリカでは「ニューディール政策」が始まる。
●2/24国際連盟総会は、「リットン報告書採択、満州国不承認を内容とする」19人委員会の報告書を、42(賛成)対1(反対・日本)棄権1(シャム)で可決・採択した。
日本の松岡洋右(ようすけ)代表は短く総会の決議は遺憾であると反対を表明し、「さようなら」と日本語で挨拶し議場を去った。
左の写真は、4/27横浜港に帰り特別列車で東京駅に着き、熱狂的な群衆の歓迎を受ける松岡代表である(中央)。
(写真)「・・松岡は熱狂的な群衆に迎えられ、駅のホームは「全権歓迎」と書かれた白布や日章旗を持った歓迎の人々で埋まった」(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊より抜粋
●手元に、昭和8年3月の小学校(6年生)卒業記念綴方文集がある。ここから「国際連盟を思う」と題された文章を引用してみる。当時の普通の小学生が思っていたことがわかる。これは大正9年生まれの私の父親世代のものである。世論は国際連盟脱退を支持していたのだろう。
国際連盟とは、世界大戦後、平和のためにつくられたのではないのか。それで東洋平和をかく乱させようとするのは何故か、僕は思う、連盟のリットン卿の報告書を見よ、皆な支那にかたを以ってゐるのだ。そして日本の力をあはよくば弱めようとするのだ。そして日本の力が弱くなれば全亜細亜の有色人種は、又もや昔のやうに欧米諸国におさえられるのだ。それをたすけるのは、すなわち日本の使命ではないか。その発端として満州国は成立し、日本はそれを承認したのだ。が、国際連盟は、いまだそれを承認せず、それを承認するか否かは、連盟の注目となってゐるのだ。もしそれを承認すれば日本満州国はますます仲よくなります、ますます日本は強くなるのだ。連盟は日本の強くなるのを恐れそれを承認しえず、それで日本は、それを説明すべく、松岡全権をはじめ種大使をジュネーブにおくったのだ。が、連盟はなを、それをきき入れず、不利の方に、みちびこうとするのだ。連盟は不義なり、日本はただちに連盟を脱退せよ。 をはり
●上イラストは、次段の拓殖大学のサイトから、満州帝国地図のうち「満州帝国新行政区画図」(康徳元年《1934年》当時の満州国の省や旗の区分が記載されている地図)をイラストにしたもので、都市名、省名、鉄道などを強調して大きく記入して作成してみた。
●遼東半島にあったのが、日本の租借地だった「関東州」である。関東州は満州帝国の一部ではない。「関東」という名も日本の地名ではなく、その西にある「山海関」の東にあることに由来する。「山海関」より西は「関内」といった。万里の長城の内側である。
●吉林の南に第2松花江とある先には、松花江の源流としてあの「白頭山」がある。白頭山は鴨緑江と豆満江の源流でもあり、北朝鮮の革命の聖地である。
●モンゴル(人民共和国)と満州国との国境付近に流れているのが「ハルハ川(河)」である。この付近で起こったのが「ノモンハン事件=ハルハ川戦争」であり、ソヴィエト・モンゴル軍と関東軍・満州国軍との国境紛争(規模からすれば戦争)である。ソヴィエト共産党の指導者(独裁者)はスターリンであり、モンゴルに対するスターリンの共産主義確立のための粛清は、政府指導者から宗教指導者である僧侶にまで徹底して行われたといわれる。「ノモンハン事件」は単に国境紛争ではなく、その後の日本の軍事戦略に大きな影響を与えた。
1933年(昭和8年)1/1~ | |
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1933年昭和8年1月1日~5月 |
関東軍、熱河作戦を開始する
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![]() ●日本政府は、もし国際連盟総会が満州国不承認を内容とするリットン報告書を採択した場合、連盟を脱退することを2/20の閣議で決定していた。そして2/24の国際連盟総会は特別委員会の報告書を採択したのである。 ●2/17各部隊に進軍命令が下り、2/23関東軍は熱河作戦を開始し、3方面から「熱河省」に侵攻を開始した。満州国樹立の際、関東軍は「奉天省・吉林省・黒竜江省」の東3省だけではなく、「熱河省」も満州帝国の領土に含むと宣言し予定通り侵攻を開始したのである。熱河省は、満州国の安定支配に欠かせない地域であり、特産のアヘンも財源上魅力的であった。 ●こうして関東軍は、3/2熱河省北部の赤峰を占領し、3/4南部の省都承徳を、戦車隊、自動車隊からなる機甲部隊により占領した。続いて3/10前後に万里の長城の重要関門である古北口、喜峰口、界嶺口等に達し、熱河省を制圧した。兵士達の軍装は、2月下旬の気温が氷点下25度に達する極寒のため、防寒頭巾・外套・フェルト製長靴で身を固めた。この戦闘の中で赤峰に侵攻した第6師団では521人の凍傷患者を出した。 ●左写真は3/9長山峪の攻略に続いて万里の長城にせまる、第八師団歩兵第十六旅団の第三十二連隊。同連隊は第十七連隊とともに、翌10日に万里の長城への攻撃を開始し、12日には野砲兵第八連隊も加わり古北口を占領した。-写真・毎日新聞社(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 |
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![]() ●上のイラストは、下にリンクした「満州国関連地図」の「經濟上より觀たる滿蒙の道路」という、昭和4(1929)年に南満洲鉄道株式会社より発行された図書の付録の一部を切り取って、関東軍の熱河作戦の行動を簡略してイラストにしたイメージである。茶色は万里の長城で、その上の緑のラインは熱河省の境界を示している。空色の河は「灤河(らんが)」で、4/18国際的に孤立することを憂えた天皇が、関東軍真崎甚三郎参謀次長に「関東軍はまだ灤河の線より撤退せざるや」と詰問して事実上の撤退を命じた河である。 |
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![]() ●4/18天皇は関東軍に対して関内からの事実上の撤退を命じたため、関東軍は万里の長城まで撤退した。しかし5月になると再度日本軍は関内へ侵攻を開始し、5月末には中国軍を追って北平(ペーピン=北京)まで30km~50km地点まで迫った。 ●5/31日本軍の猛攻に中国側は停戦を余儀なくされ「塘沽(タンクー)停戦協定」を結んで停戦した。塘沽は天津の東。 (停戦協定を報じる新聞)6/1東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊 |
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*リンクします「高精細な満州国の関連地図」拓殖大学→
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1933年昭和8年1月 | ●1/15アメリカ、満州国不承認を列国に通告する。 ●1/23国際連盟19カ国委員会、対日勧告案起草のため委員会(英仏など9カ国)を設置。 ●1/26「連盟脱退大アジア団結」を主張する近衛文麿ら、東京会館で大アジア協会第1回創立委員会を開催する。 |
1933年昭和8年1月30日~3月24日 |
ナチス党ヒトラー、ドイツ首相に就任する
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1933年昭和8年2月04日 |
長野県で「教員赤化事件」「2.4事件」起こる
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1933年昭和8年2月20日 |
プロレタリア作家小林多喜二、築地署で虐殺される。
●この事件については下記に朝日新聞の記事と講談社の記事を順に引用してみる。どちらが真実だったかわかるであろう。
『小林多喜二氏 築地署で急逝 「不在地主」「蟹工船」等の階級闘争的小説を発表して一躍プロ文壇に打って出た作家同盟の闘将小林多喜二氏(31)は二十日正午頃党員一名と共に赤坂福吉町の芸妓屋街で街頭連絡中を築地署小林特高課員に追跡され約20分にわたって街から街へ白昼逃げ回ったが遂に溜池(ためいけ)の電車通りで格闘の上取押へられそのまま築地署に連行された。最初は小林多喜二といふ事を頑強に否認してゐたが同署水谷特高主任が取調べの結果自白、更に取調続行中午後5時頃突如さう白となり苦悶し始めたので同署裏にある築地病院の前田博士を招じ手當(てあて)を加へた上午後7時頃同病院に収容したが既に心臓まひで絶命してゐた、21日午後東京地方検事局から吉井検事が築地署に出張検視する一方取調べを進めてゐるが、捕縛された當時大格闘を演じ殴り合った点が彼の死期を早めたものと見られている。 (ー後略ー多喜二氏の略歴 )』
●「2月20日 小林多喜二、拷問で殺される」。(出典:「昭和 2万日の全記録 第3巻 非常時日本 昭和7年-9年」講談社1989年刊 )
『小林多喜二、築地署で虐殺される。(常態化する特高の拷問)
昭和8年二月二〇日正午ごろ、東京赤坂の路上で、作家の小林多喜二が、築地署の特高課員によって逮捕された。築地署に連行された小林は、三時間に及ぶ拷問を受け、この日の午後七時四五分に死亡した。三一歳だった。二十一日夜、小林の遺体は、千田是也、鹿地亘、壺井栄、宮本百合子らの待つ杉並区の自宅へ戻った。拷問の跡は歴然としていた。 「内出血で紫褐色に膨れあがった両方の股、これも靴で蹴上げられた痣のある睾丸、焼火箸を突き刺したらしい二の腕とこめかみの赤茶けた凹み。― 警察は心臓麻痺だといいはり、あらゆる手をつかって屍体解剖を妨害した」(千田是也『もうひとつの新劇史―千田是也自伝』) ●「治安維持法」は昭和3年(1928年)6月の改正で、最高刑を死刑に定めたが、死刑が適用された例はなかった。しかし昭和7年10月逮捕された共産党中央委員の岩田義道も、小林と同様に逮捕後拷問によって死亡した。裁判による刑の執行ではなく、警察署内の取り調べの拷問による「死刑」である。拷問によって殺された人は100人を越えると言われている。 |
1933年昭和8年2月20日 | (政府、連盟脱退を閣議決定する)![]() (新聞)2/21東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊 |
1933年昭和8年2月24日 |
国際連盟総会、満州国不承認などの対日勧告案を採択する
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*リンクします「国際連盟脱退へ」NHKアーカイブス |
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1933年昭和8年3月3日 午前2時30分ごろ |
三陸地方にM8.3の地震発生・大津波襲来
●宮城県金華山沖約250kmの海底でM8.3の地震が発生し、約30分後に大津波が三陸海岸の町や村を襲った。津波は、幅120km、長さ300kmにわたる巨大なもので、波の高さは岩手県陵里湾で23mを記録し、くりかえし押し寄せた。津波の被害は、岩手県が最も大きく、青森県、宮城県、福島県、北海道などを合わせると、死者・行方不明者3064人、流出・破損船舶8078隻を数えた。 |
1933年昭和8年3月4日 |
(フランクリン・ルーズベルト、アメリカ第32代大統領に就任し、金融恐慌の非常対策を発表する。
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1933年昭和8年 |
(軽演劇など) ●4/1東京浅草で古川ロッパ、徳川夢声を中心とした「笑いの王国」を旗揚げした。前年11月には浅草の公園劇場では松竹爆笑隊が旗揚げしていた。 ●軽演劇では昭和8年~9年にかけて劇団「ムーラン・ルージュ」が興隆期を迎えた。前年12月の心中事件が世間の注目をあび、ムーラン・ルージュは有名になった。 ![]() (写真)6/4名古屋の広小路通りを行進する動物たち-写真カール・ハーゲンベック動物園(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 ●下で「サーカスの唄」松平晃(西條八十作詞・古賀政男作曲)をユーチューブから紹介する。この歌はサーカス団の来日前からヒットしていたもので、ハーゲンベック大サーカスの芝浦での興行では、ラジオで実況中継され、淡谷のり子が「サーカスの唄」を歌った。ちなみに冒頭の歌詞で「・・つばくら・ろ」とあるのは「ツバメ」のことだそうです。 |
*リンクします「サーカスの唄」
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1933年昭和8年3月27日 |
日本、正式に国際連盟脱退を通告、詔書も発布される
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今上天皇陛下 国際聯盟脱退ニ関スル詔書 昭和八年三月二十七日
朕(ちん)惟(おも)フニ、曩(さき=以前)ニ世界ノ平和克復(こくふく)シテ、國際聯盟ノ成立スルヤ、皇考(=大正天皇)之ヲ懌(よろこ)ヒテ、帝國ノ参加ヲ命シタマヒ、朕亦遺緒(いしょ=先人の遺しておいた事業)ヲ継承シテ苟(いやしく)モ懈(おこた)ラス。前後十有三年、其ノ協力ニ終始セリ。 今次満洲國ノ新興二當リ、帝國ハ其ノ独立ヲ尊重し、健全ナル発達ヲ促スヲ以テ、東亜ノ禍根ヲ除キ、世界ノ平和ヲ保ツノ基(もとい)ナリト為ス。然ルニ不幸ニシテ、聯盟ノ所見之卜背馳(はいち=反対の方向に向かう)スルモノアリ。朕乃(すなわ)チ政府ヲシテ慎重審議、遂二聯盟ヲ離脱スルノ措置ヲ採ラシムルニ至レリ。 然(しか)リト雖(いえども)国際平和ノ確立ハ、朕常二之ヲ冀求(ききゅう=はげしく願いもとめること)シテ止マス。是ヲ以テ平和各般(かくはん=もろもろ)ノ企図(=種々の平和維持のためのもくろみ)ハ、向後(こうご=今後)亦協力シテ渝(かわ)ルナシ。今ヤ聯盟卜手ヲ分チ、帝国ノ所信ニ是レ從フト雖、固(もと)ヨリ東亜二偏シテ、友邦ノ誼(よしみ)ヲ疎(おろそ)カニスルモノニアラス。愈(いよいよ) 信ヲ國際二篤(あつく)クシ、大義ヲ宇内(うだい=天下、世界)二顯揚(けんよう=たたえて世の中にあきらかにする)スルハ、夙夜(しゅくや=朝はやくから夜おそくまで)朕カ念トスル所ナリ。 *リンクします 「国際連盟脱退に関する詔書」→
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1933年昭和8年3月29日 |
米穀統制法公布(11/1施行)
●この日、「農村負債整理組合法」(8/1施行)、農業動産信用法(12/1施行)が公布され、「米穀法」が廃止され「米穀統制法」(11/1施行)が公布された。また「資本逃避防止法」が廃止され「外国為替管理法」が公布(5/1施行)された。
①昭和8年は内地米が大豊作になり、米価下落が予想され公定最低価格での買入申し込みが殺到したこと。(政府の買上予算の破綻)
②朝鮮米(内地向けに生産され品質が良く価格が安い)と台湾米が「米穀統制法」の対象外であり流入を制限できなかったために、米価下落の圧力となっていたこと。 ③買入と売渡申し込みに数量規定があり、貧農では不可能であり共同申し込みも時間がかかり、また換金までに1カ月以上かかったことである。(同一銘柄100俵以上で同一等級と同一粒種で20俵以上が条件など) ④利ざやに貪欲な米穀商人達は、借金や肥料代のために換金を急ぐ農民に対して、公定価格より安く買いたたき、それを政府に売って多大な利益を上げたこと。(農民救済処置とはならなかった) ⑤厖大な政府買上が発生したことで米の供給量が減少し、米価上昇による売り惜しみも発生した。また「豊作飢饉」による米価下落を恐れて農民の米の売り急ぎもあって、自家用の飯米までも売ってしまう「飯米飢饉」も起きた。などである。 次段では農業年鑑から、この頃の「米需給累年比較」などの数値をあげてみる。農業の基本語句(単位)なども知っておきたい。 |
1933年(昭和8年)4/1~ | |
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1933年昭和8年 4月1日 | ●小学校1年生用の国語教科書「サクラ読本」=『小学国語読本』卷1、の使用が始まる。初の色刷り教科書で、「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」で始まる。また「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」や「ヒノマル ノ ハタ バンザイ バンザイ」などもあった。この読本の「ヒノマルノハタ」の解説教授書には主眼として次のようにある。
日の丸の旗は日本の国旗だ。日の丸を賛美する心は、日本を賛美する心だ。
君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりてこけのむすまで 空にひらめく日の丸に対する情景を味わせること。その感激を深めること、そして国旗に対する愛敬の念を涵養する(=徐々に養い育てること)することは、愛国の精神を鼓吹する所以である。 とあります。 |
1933年昭和8年4月8日 | ●ドイツ政府、「新文官服務条例」を発布する。これはユダヤ人官吏を違法とするもので、官界から一切のユダヤ人を放逐した。また昭和9年6月には、日独混血の学者夫妻が「純ドイツ人種にあらざる者の官公職就任制限」により職を追われ日本に逃れた。 |
1933年昭和8年4月13日 | ![]() (写真)靖国神社で組み立て作業が進められる大鳥居-写真共同通信社(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 |
1933年昭和8年4月19日 | (アメリカ、金本位制から離脱する。) ●アメリカ大統領ルーズベルト、金輸出禁止・ドル相場放任を声明。アメリカは金本位制から離脱した。 |
1933年昭和8年4月22日 |
滝川事件起こる
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1933年昭和8年4月28日 | (陸軍の少年航空兵制度始まる。) ●これは陸軍が航空兵力拡充のために創設した制度により編制され、海軍の予科練に相当した。15歳から19歳の少年を対象にし(二期からは14歳から16歳)所沢飛行学校で3年間の軍事教育がなされた。 |
1933年昭和8年5月3日 | (日本で2番目の地下鉄《御堂筋線》開通)![]() ●大阪市営高速鉄道、梅田-心斎橋間で開通した(5/20日開業)。写真は4/19地下鉄車両の地下入れが行われた時のもので、2台のトラクターと牛にひかれて大阪駅から南北筋に運ばれ、御堂筋前につくられた開口部から吊り降ろされた。 写真は新町橋を通過中の車両。-写真毎日新聞社(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 |
1933年昭和8年5月7日 | (関東軍、関内作戦を開始する。) ●関東軍は一度長城線まで撤退したが、再び長城線を越えて、撫寧・水平など灤東一帯へ向けて侵攻を開始した。 |
1933年昭和8年5月10日 | (ナチス焚書) ●ナチス学生団、非ドイツ的著作や性書などをベルリン、フランクフルトの広場で焼く。 |
1933年昭和8年5月18日 | (3大製紙の合同による大製紙トラスト成立) ●王子製紙が富士製紙・樺太工業を合併し大製紙トラストが成立した。 |
1933年昭和8年5月18日 | (アメリカ、ニューディール政策のひとつである「テネシー渓谷開発公社法(TVA)」成立。) ●アメリカ大統領ルーズベルトは、大統領就任後100日間で、民間資源保存団の成立、農民救済、テネシー渓谷開発公社の設立、全国産業復興法、住宅所有者再融資法、連邦緊急救済法、通貨インフレの権限付与法などニューディールを特徴づける重要法案をつぎつぎに成立させた。資本家も労働者も農民も拍手をもって歓迎したのである。 |
1933年昭和8年5月23日 | (娼妓の廓外外出が自由となる) ●内務省、娼妓取締規則改正公布(6/12施行)。所轄警察署への届け出不要で外出が自由となる。 |
1933年昭和8年5月31日 |
塘沽(タンクー)停戦協定成立
●関東軍代表岡村寧次少将と中国軍代表熊斌が、河北省塘沽で停戦協定に調印する。この協定の重要な点は、中国軍を、河北省北東部の万里の長城と北京周辺の間にある地域より撤退させたことである。日本側はこれを非武装地帯と呼んだが、これは満州から華北への侵攻拡大を目的とするものだった。 |
1933年昭和8年6月3日 | (高松地裁差別判決事件おこる) ●この事件は、高松地裁が高松市近郊の被差別部落に住む青年兄弟に、誘拐罪で懲役1年と懲役10カ月の判決を言い渡したことから始まった。2人は、岡山県へ行商に行った帰りに、船中で17歳の女性と知り合い、弟が同居を始めた。ところが、女性の父親が「娘が誘拐され」と警察に訴え、裁判になった事件である。検事は論告のなかで「特殊部落民でありながら自己の身分をことさらに隠し、甘言詐謀を用いて誘惑したるものなり」と述べ、裁判長もこの差別的な論告を支持しこの判決となったのである。 ●これに対して、「水平社」(=差別からの解放を目指した)は全国的な規模で運動を展開し、各地で宣伝活動を行いながら、東京で内務省社会局長官、大審院次席検事や検事総長と面会し判決の取り消しを要求した。 ●この結果、判決の取り消しにはならなかったが、司法省は2人を仮釈放し、担当検事を左遷するなど関係検事・判事の人事異動を行い決着をつけた。5カ月に及ぶ水平社の運動は勝利を得たのである。 |
1933年昭和8年6月7日 |
共産党幹部、獄中で「転向」を表明
*リンクします 佐野学及鍋山貞親「共同被告同志に告ぐる書」「思想警察通論」日本警察社 編 昭和15年刊→
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1933年昭和8年6月16日 | (松竹少女歌劇部員・レビューガール、ストライキに入る)![]() ●しかし東京では争議が長引き、会社側は強硬な姿勢を崩さず争議団の切り崩しを図った。そして少女歌劇部を解散し、あらたに松竹少女歌劇団設立を発表した。これに屈せず水の江滝子らレビューガール(がんばりガール)達は7/1から湯河原の貸別荘に立てこもったのである。 ●その後7/12浅草に集まった水の江滝子ら46人は、浅草の警察署の特高係によって検挙された(水の江滝子ら38名は同夜釈放)。しかし7/13から争議団は経営側と3昼夜におよぶ団交を行い7/16深夜妥結したのである。 (新聞)6/14東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊 |
1933年昭和8年6月17日 | (ゴー・ストップ事件起こる)![]() ●これを聞いた歩兵第4師団長と第4師団参謀長は激怒し、「皇軍の威信に関する重大問題」と発言して警察側に陳謝を要求した。これに対して大阪府警察部長は、兵隊が街頭で私人の資格で通行している時は、1市民として交通信号に従うのは当然であるとして、「軍人が陛下の軍人であるなら、警察官も陛下の警察官である」と声明を発表した。 ●さらに7月に入ると、陸軍大臣荒木貞夫が第4師団を激励し、内務大臣は警察の支持を表明し、ついに争いは陸軍省と内務省の争いに発展して解決のめどが立たなくなった。 ●この間、最初の目撃者の通行人(大阪府吹田町の会計係)は、警察と軍とに挟まれノイローゼとなり電車に飛び込んで自殺し、曽根崎警察署長は心労のため入院してしまった。 ●そして11月ようやく後任の曽根崎警察署長が巡査に非があったことを認め陳謝し、第八連隊長は1等兵の不注意に遺憾の意を表して、ここに和解がなった。 (写真)「11/18、歩兵第八連隊を訪ねた増田曽根崎警察署長(右)と松田連隊長の握手。増田は陳謝、松田は遺憾の意を表した。」-写真朝日新聞社(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 |
1933年昭和8年6月19日 | (丹那トンネルついに貫通《水抜抗》。)![]() ![]() ●この丹那(たんな)トンネルは、東海道本線熱海駅と函南(かんなみ)駅との間にある鉄道トンネル(7804m)で、着工以来15年2カ月目で貫通した。(本坑貫通は8/25。鉄道開通は昭和9年12/1)。もろい地質と大量の湧水、破砕帯の掘削など世界的な難工事といわれ、開通までに16年の工期と、労働者延べ250万人、たび重なる事故で殉職者67人の犠牲を払い、工費2673万円でついに開通したのである。 ●1925年12/13に電化された区間は、東海道本線の(東京-国府津)間と横須賀線(大船-横須賀間)だった。東海道本線の難所は、国府津(こうづ)-御殿場(ごてんば)-沼津間の「箱根越え」が最も厳しかった。急勾配やいくつものトンネルと橋梁があり、上り列車も下り列車も補助機関車を必要とした。国府津は電気機関車と蒸気機関車を付け替える役割の駅で、昭和3年(1928年)完成の国産新型電気機関車7両全てもここに配属されていた。そして東海道本線は1928年ごろまでに熱海(熱海線)までが電化され、そしてこの丹那トンネルが開業したことにより、国府津駅ー沼津駅間は現在のルートになった。今までの旧ルートは御殿場線と名称が変更され、これにより電化区間も東京駅ー沼津駅間となった。 (新聞)6/20東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊 下の地図は、「カシミール3D」(国土地理院の数値地図などを使える)というソフトをもとに作成したもので、このフリーソフト(基本部分)は個人が趣味で作成しているとは思えぬ程のものである。最近は道案内もグーグルマップばかりで、もう少し手を加えてもらいたいものである。 |
1933年昭和8年7月10日 |
神兵隊事件起こる
(ここでは「2.26事件と昭和維新」新人物往来社1997年刊から事件の内容を要約してみる)
(当初計画)
●決行日時:7月4日午前11時 (閣議開催中) ●名称: 「神兵隊」 司令部 前田虎雄 鈴木善一 ●動員方法:明治神宮への祈願団体を装って集合する。 ●襲撃目標人物:斉藤首相以下全閣僚・牧野内大臣・鈴木政友会総裁・若槻民政党総裁・山本権兵衛・藤沼警視総監。 ●役割分担(略)
「被告らに対し、いずれも其の刑を免除す」
であった。 |
1933年昭和8年7月 | ●7/20陸軍省、満州事変勃発以降の戦死傷者数と負傷者数の現況を発表。戦死2530人、負傷6896人。 ●7/31海軍省、9年度から4年間に艦艇36隻建造・航空隊8隊増の第2次補充計画予算額を大蔵省に提示する。 |
1933年昭和8年8月1日 | ●帝都電鉄(現、京王・井の頭線)開通。渋谷-井の頭公園間が開通した。翌昭和9年4月、吉祥寺まで延長した。 |
1933年昭和8年8月1日 | (時事新報社、芝公園で「東京音頭」盆踊り大会を開催。後援東京市)![]() ●歌詞の「君(=天皇)が御稜威(みいつ=御威光)は天照らす」や「君と臣(たみ)との、千歳の契り」など天皇賛美が織り込まれていたが、大衆はそうは思わなかったようである。下にユーチューブから「東京音頭」にリンクした。(歌詞が載っているので参考になる。「みいづ」と歌われている) (写真一部分)9年7月、東京の帝都舞踏場で開かれた「盆踊舞踏大会」。ダンサー全員が浴衣姿で「東京音頭」を踊って客を呼び寄せた。-撮影・影山光洋(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 |
*リンクします「小唄勝太郎・三島一聲:東京音頭 A/B」
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1933年昭和8年8月9日 |
関東地方防空大演習始まる(~11日まで)
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1933年昭和8年9月1日 |
豊田自動織機製作所、自動車製作部門を設置する
●豊田自動織機製作所は社内にのちに自動車部となる自動車製作部門を設置し、社業として国産自動車の研究・開発を行うことを開始した。トヨタ自動車創業のはじまりである。 |
1933年昭和8年9月9日 |
荒木貞夫陸相、陸軍の国策案大綱を高橋蔵相に提示
●満州問題・・過去2年間にわたる満州の実情は、非常なる勢いをもって改革せられ、産業開発も所期の計画通り行っている。この機を逸せず力を一層産業開発に致せば、その成果期して待つべきものがある。
●支那問題・・日本としてはあくまで根本方針としては日支両国の善隣関係を良好ならしむることが望ましい。さりとて下手な手を打っては却って支那側に乗ぜられることになるから、十分なる戒心を以て注視しなければならない。 ●対外問題・・連盟脱退通告後、世界の情勢は日本にとり必ずしも良好であるとはいえない。日本としては未曾有な困難に直面しなければならない。東洋の平和を確保してゆくには国防力の拡充が必要である。海軍が第2次補充計画を急ぐのは当然のことであり、又陸軍としても対支対露関係に顧みても強力な軍備を準備していることが現在としてはもっとも有効なる平和維持策である。区々たる財政技術の問題などに拘泥していては、この最大の困難を切り抜けることはできない。 ●教育問題・・今やその教育も動(やや)もすれば教育のための教育に堕して、真に国家国民のための必要なる教育が忘れがちになっているのではないかと思われる。共産党員中には、純然たる無産無識階級から出たものもあるが、高等教育を受けた者の内に多数輩出していることは、我が教育のどこかに重大な欠陥あるのではないかと思われる。万国に比類無きわが国体の精華を徹底せしめ、日本人たるの教育に立ち返らねばならない。 ●9/11高橋蔵相は「国策として定めた国防計画は公債が増えても充実させねばならぬ」と国防費先議を言明した。 |
1933年昭和8年9月14日 | ●広田弘毅前駐ソ大使、内田外相の後任として就任。 |
1933年昭和8年9月27 | ●軍令部令が制定され、海軍軍令部条例は廃止された。海軍軍令部を軍令部、海軍軍令部部長を軍令部総長と改称した。 この意味するところは、参謀本部(かって陸軍を中心に全軍を統括していた)に対して、海軍軍令部が独立性と対等性をもとめ、軍令部としたもので、これにより「軍令部総長は参謀総長と共に、皇軍統帥の最も重大且つ神聖なる任務を負う」ことになることができたのである。 |
1933年昭和8年10月1日 |
児童虐待防止法施行
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1933年昭和8年10月14日 |
ドイツ・ヒトラー政府、国際連盟とジュネーブ軍縮会議から脱退を声明
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1933年昭和8年11月8日 | (東京競馬場が東京府下・府中町にオープンした。)![]() ●日本における競馬は明治41年(1908年)に馬券の発売が禁止されて以来衰退していた。しかし大正12年(1923年)に競馬法が公布され、馬券の発売が復活すると人気は高まってきた。それに加えて、競馬倶楽部、農林省、陸軍省は、競馬が盛んになると国産馬の品種改良、軍馬の育成につながると考えていた。 (上写真)府中に移転した「東京競馬場」-写真・毎日新聞社(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
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1933年昭和8年11月13日 |
救国埼玉青年挺身隊事件発覚(栗原中尉クーデター計画)
この事件の経緯の概略は次のようである。(「2.26事件と昭和維新」新人物往来社1997年刊から事件の内容を概略) |
1933年昭和8年11月16日 | ![]() (写真)式典準備中の大鯨。-写真・福井静夫(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 |
1933年昭和8年12月8日 | ●松岡洋祐、政友会を脱党し衆議院議員を辞職。「1国1体」を目指す政党解消運動開始の声明書を発表。 |
1933年昭和8年12月9日 | (陸・海軍省、軍部批判に対する声明を発表する。軍民離間声明といわれた。) ●軍部の政党を無視した国策決定、軍拡予算計上に対して、政友会や民政党は軍部批判の声を上げていた。それに対して陸軍当局が、「最近予算問題その他に関連して軍民分離の言動をなすものが少なくない」と反論し、さらに政党の主張は「国防の根本をなす人心の和合結束を破壊する企図」であると非難した。 |
1933年昭和8年12月23日 |
皇太子誕生、サイレン、ラジオ、新聞などで速報される。
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1933年(昭和8年)の出来事 政治・経済・事件・災害・文化
「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊より抜粋 1.23 堺利彦死去 |