1933年(昭和8年)3/27日本、満州国を認めない国際連盟を脱退、「脱退の詔書発布」

2023年4月16日アジア・太平洋戦争

日本は大蔵大臣が高橋是清に代わり、財政・金融政策を変え不況を克服していった。
 ここでは最初に経済の数字をあげる。日本は大蔵大臣が井上準之助から高橋是清に代わり、財政・金融政策を変えた。そして世界恐慌のなか日本はいち早く不況を克服したといわれている。この時代を理解するためにも、ある程度経済の意味するところを知っておきたい。
●次に年表では昭和8年の日本国内の政治・経済・事件を書き出した。この期間の特筆すべきことは、中国大陸では日本軍が満州国を足場にして熱河省、河北省へ侵攻したことである。これにより国際連盟総会は日本の満州国を認めず、反発した日本は国際連盟を脱退した。国内では「国体明徴運動」による絶対的天皇制と軍部独裁体制への思想弾圧が進んだ。そして同時に右翼によるテロ未遂事件や陸軍青年将校による政府転覆計画が連続して発覚した。
(上写真)1934年4/1菱刈駐満大使は、皇帝溥儀に信任状を捧呈、儀式後「勤民楼」で記念撮影を行った。前列中央が皇帝溥儀、その左が菱刈駐満大使。(出典「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊)

1933年(昭和8年)財政支出の変化、軍事費の増大と「国債の日銀引き受け」。それによる重工業の発展、そして新興コンツエルンの出現。2-1

●この時代、日本の産業構造は変化し重化学工業が発展した。その大きな要因は政府による財政支出の拡大であり、なかでも軍事費の拡大であった。また政府や関東軍による満州の資源を利用した大規模な重化学工業の開発があり、朝鮮においても新興コンツェルンを中心に重化学工業の進出が続いた。当然ながら軍事費拡大を求めたのは軍部ではあったが、国家としてもそれを求めたのである。そして新興財閥といわれた「日産コンツェルン」「日窒コンツェルン」「森コンツェルン」「日曹コンツェルン」「理研コンツェルン」が生まれる。

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1933年(昭和8年)国際連盟脱退。満州国と国内政治・社会年表 2-2

満州では、1/3関東軍が山海関を占領し、熱河作戦を開始した。満州国は熱河省もその領土であると宣言して侵攻したのである。前年の12月、日本の満州国問題を討議する国連の臨時総会が開かれ、日本はリットン報告書を激しく非難し、国内においても反発や国際連盟脱退の動きが強まっていた。そんななかでの熱河作戦の開始は、連盟の対日感情を悪化させ、2/24国際連盟総会は満州国不承認などの対日勧告案を採択した。そこで3/27、日本は正式に国際連盟を脱退したのである。
●自然災害では、3/3午前2時半ごろM8.3の大地震が起き、三陸地方に大津波が襲来し甚大な被害をもたらした。
●疲弊した農村に対して、米価の下落対策として米穀統制法が公布(昭和8年3/29)、施行(昭和8年11/1)された。
●思想の弾圧では、2/20プロレタリア作家の小林多喜二が、築地署の特高課員による拷問によって殺された。特高(特別高等警察)による拷問は常態化していく。また4月には文部省による京大法学部教授罷免事件、「滝川事件」が起きた。滝川教授の刑法学説を危険思想としたのである。これは「赤化事件」といわれ、共産党シンパ判事の「司法官赤化事件」、長野県の「教員赤化事件」など左翼思想の元凶として帝国大学教授がやりだまに上がったのである。
●経済・産業面では、政府は4月に「日本製鉄株式会社法」を公布し、官営八幡製鉄所と5製鉄会社の合同(翌9年)を産業政策として行った。また6月には着工以来15年2カ月目にして、丹那トンネル(東海道本線熱海駅と函南駅との間にある鉄道トンネル)が貫通した。(開通は翌年12/1)

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