1931年(昭和6年)9/18「満州武力侵攻」、1932年5/15、犬養首相暗殺「5.15事件」
2023年4月16日アジア・太平洋戦争
●年表では日本国内の政治・経済・事件を、昭和6年(1931年)から昭和7年(1932年)まで書き出した。特に満州事変(1931年9/18)と満州国樹立(1932年3/1)は、「アジア・太平洋戦争」の始まりである。そして日本は、総理大臣に対するテロの続発により、陸軍が実権を持つ軍国主義の道に進んだ。
(上右写真)1931年9/21竜山駅を出動する第20師団(京城)歩兵七七連隊。(左写真)1931年11/17広島宇品港を発つ第8師団(弘前)の兵士を、広島市愛国婦人会、青年団、市民ら多数が見送った。-写真・毎日新聞社(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
濱口首相は前年(昭和5年)の11月に右翼のテロで重傷を負った。幣原外相が首相代理として内閣を運営したが、民間右翼団体と軍部若手将校らによる政府転覆行動が活発となり、三月事件(軍事政権樹立を目ざした旧日本陸軍青年将校によるクーデター計画3/20)が発覚し、未遂に終わった。そんなおり退院し無理な登院を続けていた濱口首相は、病状を悪化させ、内閣は総辞職した。元老・西園寺公望は、暗殺による政権交代があれば暗殺を奨励するようなものだとして、若槻礼次郎(民政党)への大命降下を奏請したのであった。
●そして後継として民政党・若槻礼次郎内閣(第2次)が成立した(4/14)。この内閣は前内閣の政策を踏襲すると表明し、外相は幣原喜重郎、大蔵大臣は井上準之助、陸軍大臣は南次郎陸軍大将とした。しかし関東軍の満州に対する武力侵攻の動きは、実行段階を迎え、ついに満州事変(9/18)を引き起こした。
●これに対し政府は、事態の不拡大と領土的野心のないことを声明したが、国際連盟は日本軍満州撤退勧告案を13対1で可決(10/24)し、内閣は窮地に追い込まれていった。10月にはまたも軍部独裁体制を目指すクーデター計画(10月事件)が発覚し、政党内閣制自体が危機を迎えたのである。
若槻内閣は、野党である政友会と連立内閣を組んで政党内閣の危機を回避しようとしたが、閣内不一致と、国内経済破綻によって総辞職(12/11)した。元老西園寺公望は政友会に内閣を組閣させた。そして犬養毅政友会内閣が成立(12/13)すると、犬養は大蔵大臣に積極財政の高橋是清を起用して、ただちに「金輸出再禁止」を閣議決定した。満州では、関東軍が遼西作戦を開始し、政府は満州軍増兵を閣議決定(12/27)した。そして関東軍は、錦州に進撃を開始した(12/28)。
この柳条湖事件は、関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と作戦主任参謀石原莞爾中佐が中心となって計画した謀略事件である。軍部のもくろみは、国内では軍部による内閣独裁という国家改造を行い、満州では武力行使を行い領土化するというものだった。実際「桜会」の橋本欣五郎中佐らは、柳条湖事件と同時に国内クーデターを決行する予定だったが、発覚して未遂に終わった(10月事件)。
国内では、橋本欣五郎中佐らによるクーデター計画が発覚し計画は未遂に終わった(10月事件)。この計画の規模は後の2.26事件よりはるかに大きかったといわれる。そして12月13日犬養毅(いぬかい-つよし)内閣が成立する。犬養毅は、陸軍大臣に急進派が推す荒木貞夫中将(皇道派)、内閣書記官長に大陸積極論者である森恪を登用した。荒木貞夫中将は、10月事件(クーデター計画)では、首相に目された人物であった。犬養毅はこの人事で軍部をコントロールしようとしたのだが、逆に軍部が発言力を強めていったのである。犬養首相は翌1932年「5.15事件」で暗殺される。
年・月 | 1931年(昭和6年) |
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1931年昭和6年9月20日 | ●「酒は涙か溜息か」古賀政男作曲・高橋掬太郎(きくたろう)作詞・藤山一郎歌、コロンビアレコードから発売され、大ヒットとなった。下でユーチューブにリンクしてみた。
*リンクします「酒は涙か溜息か」
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1931年昭和6年9月21日 |
英国金本位制から離脱
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ついに日本はこの9月、政治・経済・軍事面において、歴史の転換点を迎えたのである。
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1931年昭和6年9月~ |
ドル買いと為替差益と金流出
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1931年昭和6年9月~ | ●9/21朝鮮軍司令官林 銑十郎、奉直命令なしに軍隊を越境させる。 ●9/21中国蔣介石、正式に国際連盟に柳条湖事件解決を提訴。 ●9/24政府は満州事変に関し、事態の不拡大と領土的野心のないことを声明(第1次) ●9/26上海で抗日全市総罷業、各地で排日運動激化。 ●10/1中国、南京政府(蔣介石)と広東政府(汪兆銘)抗日で基本的に一致。 |
1931年昭和6年 10月8日 | ●対満州方針決定。![]() |
1931年昭和6年10月17日 |
10月事件《錦旗革命》発覚
●橋本欣五郎中佐以下首謀者13名、憲兵隊に保護拘束される(逮捕ではない)。これにより10/24に計画されていたクーデター計画が発覚し計画は未遂に終わった。この計画の規模は後の2.26事件よりはるかに大きかったといわれる。 |
1931年昭和6年10月24日 |
国際連盟理事会、11月16日を期限とする日本軍の満州撤退勧告案を13対1で可決する
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1931年昭和6年10月26日 | ●政府、満州事変に関する第2次声明を発表(撤兵するための前提条件)「国民的生存の権益は絶対変改を許さず」。 |
1931年昭和6年10月27日 | ●教員の給与未払は687町村と内務省発表。 |
1931年昭和6年10月31日 |
北海道・東北の農村、冷害・凶作飢饉
●全農作物平均7割減で、要保護の窮民は35万人、と新聞報道される。この年の東北地方は、4月から7月にかけて異常低温で、7月の平均気温は盛岡で18.4度という低さだった。加えて6月は多雨日照不足、稲の苗代での発育不良、移植期の遅れ、田植え後の活着障害、生育障害という状態に陥った。最もひどかった青森県では、5年の130万石(豊作貧乏といわれた)に対して6年は半分以下の60万8000石だった。北海道も稲作は平年の36%強、畑作61%強という大減収だった。作家の下村千秋は、餓死線上の農民は、岩手県下に3万人、青森県下に15万人、秋田県下に1万5000人、北海道全道で25万人と書いた(中央公論昭和7年2月号)。また全国の欠食児童は20万人を越え、東北北海道では人身売買や若い女性の「身売り」が数多く起きた。 |
1931年昭和6年11月2日 | ●社会青年同盟員100余人「ドル買い狂奔の三井財閥を粉砕せよ」と東京日本橋の三井銀行へデモ。26人検挙される。 |
1931年昭和6年11月3日 | ●宮沢賢治、9月上京後高熱を発し岩手県花巻町に帰省、病床にて11月3日付けの手帳に「雨ニモマケズ」の詩を記した。下はその最初の部分。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク 決シテ瞋(いか)ラズ イツモシヅカニワラッテヰル ・・・(後略) |
1931年昭和6年11月4日 | ●民政党、円売りドル思惑買いが正貨流失の原因と糾弾を決議。 |
1931年昭和6年 11月 |
関東軍、満州国樹立へ軍を進める
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1931年昭和6年11月29日 | ●日本放送協会、全国各放送局を動員して「在満同胞慰安の夕」を編成、満州へ向け放送を開始。 |
1931年昭和6年12月5日 | ●商工省、綿糸紡績業など19産業を、重要産業統制法による重要産業に初めて指定・告示。 |
マスコミの戦争熱強まる
●満州事変後新聞紙各社はこの事件を拡販競争に利用し、大量の記者を派遣し連日センセーショナルな報道を続け、国民の排外熱を煽った。マスコミ各社の論調の基は次のような考えであった。 ●(大阪朝日新聞社重役会議決定)
「国家重大事ニ処シ日本国民トシテ軍部ヲ支持シ国論ノ統一ヲ図ルハ当然ノ事ニシテ現在ノ軍部及軍事行動ニ対シテハ絶対批難批判ヲ下サス極力之ヲ支持スヘキコト」「憲兵情報秘第658号」 ●(東京日日新聞社)
「満蒙における我が権益に対する支那側の侵犯行為に対して国民は極度に憤慨してゐる。従ってこれに関し、支那を責め、日本自らを鞭撻することは、国民悉く異議がないのである。」「東日70年史」 ●(日本放送協会の方針)
「ラヂオの全機能を動員して、生命線満蒙の認識を徹底させ、外には正義に立つ日本の国策を明示し、内には国民の覚悟と奮起を促して、世論の方向を指示するに努める」日本放送協会編「放送50年史」 (出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊より抜粋 笑いの慰問団
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1931年昭和6年12月11日 |
若槻民政党内閣瓦解する
●内閣の柳条湖事件の不拡大方針は軍部によって無視され、関東軍は9/19奉天城占領、9/21吉林進出、10/8関東軍飛行隊による錦州爆撃と続き、11/8には天津で両軍が激突し第1次天津事件を引き起こし、11/19日にはチチハルを占領した。 |
1931年昭和6年12月13日 |
犬養毅(いぬかい-つよし)内閣成立
政治家。号は木堂。備中(岡山県)の人。初め新聞記者。明治23年(1890年)第1回選挙から衆議院議員連続当選17回。国民党、さらに革新倶楽部を結成。のち、政友会総裁。その間、文相、逓相を歴任。昭和6年(1931)首相となったが、翌年五・一五事件で暗殺された。(出典)「日本国語大辞典精選版」 |
1931年昭和6年12月13日 | ●政府、13日金輸出再禁止、14日対米為替暴落、17日金兌換停止の緊急勅令公布、諸株暴騰、全国株式市場大混乱となる。![]() グラフ(出典)「日本銀行百年史第3巻」日本銀行 |
1931年昭和6年12月25日 | ●社会民衆党の書記長以下約100名のデモ隊が、東京市麻布区今井町の三井総本家に押しかけ、ドル買い糾弾のビラをまいた。デモ隊の代表が三井合名の高井理事と会見し「東北地方の餓死を救へ失業者百万の絶望生活を保障しろ」と要求した。この抗議行動は同時に岩崎家(三菱)、住友家に対しても行われた。 |
1931年昭和6年12月27日 | ●関東軍、遼西作戦を開始、満州軍増兵を閣議決定する。陸軍省は朝鮮軍司令官に、師団司令部および1旅団の関東軍への増派を指令した。 |
1931年昭和6年12月28日 | ●関東軍、錦州に進撃を開始する。張学良、「我軍は死を誓って抵抗せん」と南京に打電する。 |
1931年(昭和6年)の出来事 政治・経済・事件・災害・文化
「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊より抜粋 ●1/22 張学良と満蒙鉄道問題の交渉開始 |
●1月、第1次上海事変(1/28)が勃発した。これは関東軍が、満州への列国の注意をそらすために起こした陽動作戦だった。上海では満州事変後、激しい日貨排斥運動が展開されており、上海はフランス租界、日米英などの共同租界が設けられ、列国にとって対中国貿易の重要な都市であったからである。戦闘は日本海軍陸戦隊と中国第19路軍の激戦となり、日本政府は増員兵力を派遣したが苦戦をしいられ、列国の勧告によって停戦した。その間関東軍は、1/3錦州、2/5ハルビンを占領し、満州の主要都市を制圧し中国東三省を独立(2/18)させ、ついに陸軍の思惑通り3/1満州国建国宣言を行ったのである。
●一方国内ではテロが続発した。2/9血盟団によって前大蔵大臣井上準之助が殺害され、3/5には同じく血盟団によって、三井財閥総帥・団琢磨が殺害された。民間の井上日召(血盟団)、橘孝三郎、大川周明、西田税、北一輝らは、陸軍青年将校と海軍青年将校と密接につながっていたのである。しかし警察は右翼や軍隊内の不法な軍人の取り締まりはしなかった。
●続いて5.15事件が起きた。5/15、海軍青年将校と陸軍士官学校生徒の一団が首相官邸を襲い犬養首相を殺害したのである。この事件は血盟団事件とつながっており、そのテロのうねりは後の2.26事件へと向かうのである。
●犬養内閣は総辞職し、政友会は鈴木喜三郎を総裁にたて政権を待ち受けていた。しかし軍部は政党内閣に反対し、元老西園寺公望と天皇側近の重臣たちも軍部の圧力に妥協し、穏健派で陸軍にも受け入れられる前朝鮮総督で予備役海軍大将の斎藤実を後継首相としたのである。そして斎藤実新内閣(挙国一致内閣)が成立(5/26)した。
●斎藤実内閣の政策は、財政面では高橋是清(前内閣から引き続き大蔵大臣を務めた)によるインフレ政策による景気回復、対外面では満州国承認・日満議定書調印(9/15)による満州の植民地化であった。国際連盟は2月より「リットン調査団」を満州に派遣し、現地で事態の真相を調査させていたが、日本はその報告書が提出される前に、先手を打って満州国を承認したのだった。日本は「焦土」となってもこの方針を貫くと内田外相は言明していたのである。
●そして10/3、第1次武装移民団の満州入植がはじまった。
●昭和7年1月10日、東京代々木練兵場で「国防献金」による陸軍機2機の命名式(愛国第1号、愛国第2号)が行われ、関係者1000人が主席し、10万余の民衆が集まった。このような献納機に軍が命名と命名式を行う方式は、国民の反響を呼んで、各地で献納を競い合うようになっていった。
●下の一覧は、陸軍省が1933年(昭和8年8月)に発行した、満州事変「国防献品記念録」のうち「主要献納兵器一覧表(其一)(飛行機ノ部)」である。昭和7年1/10から昭和8年8/8(予定)までの一覧で、下の飛行機の写真は、リストに赤丸で示した。また一覧には個人献納者もいるが、愛国名称・第三(小布施)・第四(同)・第五(同)・第三十七(同)の献納者小布施新三郎とあるのは、ネットでは明治-大正時代の長野県出身の実業家(投機家・相場師)で、莫大な財産を得た人物とある。
年・月 | 1932年(昭和7年) | |||
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1932年昭和7年1月18日 |
第1次上海事変、関東軍の謀略
(これは関東軍が、満州への列国の注意をそらせ、そのすきに満州国を独立させるための陽動作戦だった。しかし日中両軍は全面衝突する)
(左写真)3/1午後0時30分、呉淞(ウースン)の鉄道桟橋に上陸した上海派遣軍司令官白川義則大将。(中写真)北四川路付近を急ぐ避難民たち。(右写真)北四川路西側の閘北を守る中国第19路軍。「鉄軍」と呼ばれた精鋭部隊。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
*リンクします「爆弾三勇士の歌 (歌詞改訂前)」
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1932年昭和7年2月2日 |
国際連盟主催・第1回世界軍縮会議開催
●第1回は1932年2月から7月まで開催。米ソなど61カ国が参加しジュネーブで開催される。日本の首席全権は松平恆雄駐英大使(元会津藩主・京都守護職の松平容保の六男で、長女・節子(成婚後「勢津子」と改名)は秩父宮雍仁親王の妃)。 |
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1932年昭和7年2月4日 | ●第3回冬季オリンピック、アメリカのレークプラシッドで開催。日本はスキーおよびスケート選手20人が参加する。 | |||
1932年昭和7年2月5日 | ●関東軍、錦州占領後日本人居留民保護を名目にハルビン方面の反吉林軍を攻撃、2/5ハルビンを占領した。 | |||
1932年昭和7年2月9日 |
血盟団・小沼正が前蔵相・井上準之助を射殺する
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1932年昭和7年2月11日 | ●大川周明を中心として国家主義団体「神武会」を結成する。「既成政党の糾弾、財閥打倒、満蒙権益の国民化」などをスローガンに掲げた。昭和10年に解散した。 | |||
1932年昭和7年2月20日 | ●第18回総選挙、政友会が圧勝する。政友304、民政147、社会民衆3、労農大衆2。民政党は解散時の247議席から一挙に147議席と大敗した。 | |||
1932年昭和7年2月21日 | ●中国国民政府外交部、満州新国家否認の声明を発表。東北3省は中国領土の一部と声明。 | |||
1932年昭和7年2月24日 | (アメリカ、上海事件条約違反と非難)![]() (新聞)2/26東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊 |
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1932年昭和7年2月29日 |
リットン調査団一行来日
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1932年昭和7年3月1日 |
満州国建国宣言・首都は新京(長春)・元号は大同
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1932年昭和7年3月5日 |
血盟団・菱沼五郎が三井財閥総帥・團琢磨を射殺する
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1932年昭和7年3月18日 | (大阪で国防婦人会発会・会長三谷英子、副会長安田せい) ●最初は地域の婦人会の仲間で会員40人程度が、「白いかっぽう着」姿で大阪港・大阪駅を通過する軍隊を接待した。この頃の大阪港は、上海事変の増援部隊が送り出されており、在郷軍人会、愛国婦人会など送迎を行っていたが、安田らは「暖かい見送りしようと考え」湯茶の接待を始めたのである。その後「白いかっぽう着」を制服とした国防婦人会は陸軍省の支持も受け、「大日本国防婦人会」に改められた。そして街頭活動を中心とする団体から、「日本婦徳」を掲げる修養団体へと方向を転換し、「1家に1人」をスローガンにし、昭和17年に「大日本婦人会」へ統合されたときは、公称会員数1000万人といわれた。 ●昭和17年2/2、愛国婦人会、国防婦人会、大日本連合婦人会は「大日本婦人会」へ統合された。満20歳未満の未婚者を除く女性は同会の加入を義務づけられた。会員数1900万余の婦人組織の誕生だった。 |
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1932年昭和7年3月24日 | ●貴族院本会議、婦人公民権案を否決。賛成62票、反対184票 | |||
1932年昭和7年4月26日 | ●瑞金の中華ソビエト共和国(中国共産党)臨時政府、対日宣戦を布告する。 | |||
1932年昭和7年4月29日 |
上海の天長節《=天皇誕生日》祝賀会場で爆弾テロ事件発生。
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1932年昭和7年5月1日 | ●第13回メーデー開催。東京では75団体が参加し市内を行進したが、1200人超が検挙された。新聞には「当局徹底的の弾圧」「4500名の大警戒、警官のメーデー」とある。 |
●ついに5.15事件が起きた。5/15、海軍青年将校と陸軍士官学校生徒の一団が首相官邸を襲い犬養首相を殺害したのである。この事件は血盟団事件とつながっており、そのテロのうねりは後の2.26事件へと向かうのである。
●犬養内閣は総辞職し、政友会は鈴木喜三郎を総裁にたて政権を待ち受けていた。しかし軍部は政党内閣に反対し、元老西園寺公望と天皇側近の重臣たちも軍部の圧力に妥協し、穏健派で陸軍にも受け入れられる前朝鮮総督で予備役海軍大将の斎藤実を後継首相としたのである。そして斎藤実新内閣(挙国一致内閣)が成立(5/26)した。
●斎藤実内閣の政策は、財政面では高橋是清(前内閣から引き続き大蔵大臣を務めた)によるインフレ政策による景気回復、対外面では満州国承認・日満議定書調印(9/15)による満州の植民地化であった。国際連盟は2月より「リットン調査団」を満州に派遣し、現地で事態の真相を調査させていたが、日本はその報告書が提出される前に、先手を打って満州国を承認したのだった。日本は「焦土」となってもこの方針を貫くと内田外相は言明していたのである。
●そして10/3、第1次武装移民団の満州入植がはじまった。
年・月 | 1932年(昭和7年) | ||
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1932年昭和7年5月15日 |
5.15事件起こる・犬養毅首相暗殺される
●5/15の夕方5時ごろ、三上卓中尉ら海軍将校4名と後藤映範ら陸軍士官候補生5名からなる一団は、2台の自動車に分乗して首相官邸を襲った。犬養首相は頭部に2発の銃弾を受け死亡し、官邸警備の巡査2名も撃たれ、1人が死亡し1人は重傷を負った。第1組(計9名)。 5.15事件、事件後の動き
●この事件の社会に与えた衝撃は大きく、当初は新聞にも軍部批判の論調が見られたが、軍部の圧迫などによりしだいに沈黙させられていった。 「これら純真な青年が、かくのごとき行動に出たその心情について考えれば、涙なきをえない。名誉のためとか、または売名的行為ではない。真に皇国のためになると信じてやったことである・・」
また大角海相も次のように語った。(出典)「日本の歴史12巻」読売新聞社1963年第12刷 「なにが、かれら純情の青年にこの誤りをさせるようになったかを考えるとき、つつしんで三思(=熟慮)すべきものがある・・」
●事件後70余の新聞が一時的に発禁処分を受け、軍部を批判できなくなった。しかしそんな中でも「福岡日日新聞(現西日本新聞)」は、5/15の夕刊から菊竹六鼓(ろっこ)の社説「敢えて国民の覚悟を促す」を掲載し軍部を批判した。その書き出しは次のように始まる。 頻々(ひんぴん=同じような事が引き続いて起こるさま)たる暗殺の連続として、犬養首相がついに陸海軍人の一団のために兇手に斃れたことは、われわれが国民とともに悲憤痛恨に堪えざるところである。・・・
●これに対して陸軍の反応はすさまじく、福岡連隊区司令部は「軍隊に対する侮辱である」との手紙を送りつけ、社屋の上空を大刀洗航空隊(福岡)の軽爆撃機を旋回させ攻撃の脅しすらかけたのである。
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1932年昭和7年5月26日 |
斎藤実(さいとう-まこと)内閣成立
海軍大将、政治家。子爵。陸奥水沢藩(岩手県)出身。海軍大臣、朝鮮総督、枢密顧問官を歴任。五・一五事件の後、首相となり、挙国一致内閣を組織したが帝人事件で辞任。のち内相。二・二六事件で暗殺された。(出典)「日本国語大辞典精選版」 |
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1932年昭和7年6月3日 | (全国初の煤煙防止規則制定) ●大阪府は全国に先がけて煤煙防止規則を制定し、10月1日から施行した(大阪、堺、岸和田の3市に適用)。大阪は視界の悪さでは「霧の都」ロンドンをしのぐといわれ、「煙の都」大阪といわれた。原因は工場に使われる石炭の質の悪さと、煤煙防止装置の未設置によるものだった。大阪の工業は、明治中期からの紡績業の発展、大正期の染色業、金属工業の発展、そして軍需関連産業や輸出関連産業が活況となるなかで工場が続々と増設されていったのである。昭和7年頃の大阪には、約1万本の煙突が立っていたとされる。 |
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1932年昭和7年6月8日 | (ブラジル移民船ラプラタ丸、762人を乗せ神戸港出港) ●この年のブラジル移民は1万5072人となりピークを迎えていく。政府は9月、農村救済策として、ブラジル移民に対する船賃全額補助(1923年より実施)に加え、支度金補助を決定した。こうして翌8年ブラジル移民は2万3389人と戦前のピークを迎えた。これは8年の海外移民総数の85%にあたった。 ●しかしブラジルは昭和9年(1934年)7月、新憲法を交付し移民を大幅に制限した。ブラジル国内の失業者対策、人種対策などが主な理由だった。その後日本は満州への移民政策を重視したため、ブラジル移民は急速に減っていった。 ●昭和7年における海外在留邦人数を列挙すると以下の通りである。ブラジル(13万2699)、中国(5万3374)、満州国・関東州(26万332)、アメリカ合衆国(24万9659)、カナダ(1万9625)、計(その他の国含む)(82万5100)。 「我国民の海外発展」日本統計年鑑より(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 |
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1932年昭和7年6月14日 | ●満州新国家承認決議案を、衆議院本会議、満場一致で可決。 | ||
1932年昭和7年6月23日 | (三島徳七、MK磁石鋼の特許を取得) ●東大教授三島徳七が発明した(昭和6年7月)強力な磁石鋼が、世界最高の評価を受け日本および欧米8カ国で特許を得た。1917年に発明された(本多・高木による)KS鋼の保磁力を倍増させたものだった。 |
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1932年昭和7年7月30日 | (第10回オリンピック、ロサンゼルスで開幕)
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1932年昭和7年7月31日 |
ドイツ・ナチ党230議席を獲得、第一党となる
●深刻な経済恐慌と560万人の失業者であふれるドイツで総選挙が行われ、ナチ党(=ナチス、ナチス党、国民社会主義ドイツ労働者党)は、37.4%の得票率で230議席を獲得、第一党となる。これまでワイマール共和国(ドイツ共和国)を擁護し、常に第一党だった社会民主党は133議席に後退した。共産は89議席。ヒトラーの政権担当を期待する広範な国民の声が広がっていく。 |
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1932年昭和7年8月14日 | (麻生鉱業争議おこる) ●福岡の麻生鉱業の朝鮮人労働者約80名が、酷使廃絶、賃上げなどを要求してストに突入した。争議団はハングル文字で「差別しないで互いに手をつなぎ、早く組合に覚悟をもって結集しよう」とビラを作って呼びかけた。それに応えて425人が参加したが263人が解雇された。日本人労働者は参加しなかった。ビラの最後には漢字で「打倒 暴力搾取之巨傀 麻生財閥 民族的差別待遇 絶対反対」とある。(1872年、石炭採掘事業に着手した麻生太吉は、第92代内閣総理大臣・麻生太郎の曾祖父である) |
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1932年昭和7年8月22日 |
時局匡救(きょうきゅう)議会招集
●農産物価格指数は、昭和元年(1926年)を100とすると、昭和6年(1931年)は54.5まで下落し、農家の負債総額は、昭和4年40億円から昭和6年60億円と膨れあがった。1戸あたりの借金額は1000円となり平均年収を超えた。 農村漁村及中小商工業の窮状に対し、之が匡救策を講ずることは、今期議会の使命であります
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(匡救対策)
![]() この米穀統制法は公布(昭和8年3/29)、施行(昭和8年11/1)されたもので、内容は米価の最低・最高価格を公定し、それを維持するために政府が最低価格で米を買い入れ、最高価格で売り渡しを行うもので、申し込みがある限り無制限で政府が買い入れる義務を負うものだった。しかし輸入米(内地米より2,3割安い)の流入を制限しなかったために、米価は下落する傾向にあり、買い上げ予算の破綻も予測され始めたのである。 ●負債整理対策・・農村負債整理組合法を昭和8年3/29に公布し、各町村に負債整理組合を設置した。これは国の仲介による、負債条件の緩和、利子の減免などを図ろうとしたものだったが、対象を中農以上としたため実効をあげることができなかった。 ●時局匡救予算・・この予算は昭和7年度から9年度かけて、約8億6000万円が認められた。 この多くが河川改修、道路工事などの土木事業費で、農民に現金収入の機会を作ることを目的にした。しかし昭和10年度からは、軍事費の増大によって打ち切られた。(左写真)長野県の上高地登山道のひとつである薮原高山県道の工事。地元の小木曾の住民300人が工事に従事した。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 ●農村経済更生運動・・これは政府が最も力を入れたもので、農民自身による「自力更生」を目的としたもので、これは土地利用・生産の合理化、販売統制、生活改善と農村生活の全てに及んだ。また農林省経済更生部は農民に産業組合(農協の母体)への加入を指導した。この産業組合は、農村を対象に金融、購買、販売などの事業を行う協同組合で、この頃最も規模の大きい農民組織だった。 |
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1932年昭和7年9月15日 |
日本政府、満州国を正式承認
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條約第九號 議定書
日本國ハ満洲國が其ノ住民ノ意思ニ基キテ自由ニ成立シ獨立ノ一國家ヲ成スニ至リタル事實ヲ確認シタルニ因リ 満洲國ハ中華民國ノ有スル國際約定ハ満洲國ニ適用シ得ベキ限り之ヲ尊重スベキコトヲ宣言セルニ因リ 日本國政府及満洲國政府ハ日満兩國間ノ善隣ノ關係ヲ永遠ニ鞏固ニシ互ニ其ノ領土權ヲ尊重シ東 一 満洲國ハ將来日満兩國間ニ別段ノ約定ヲ締結セザル限り満洲國領域内ニ於テ日本國又ハ日本國臣民ガ従来ノ日支間ノ條約、協定其ノ他ノ取極及公私ノ契約ニ依リ有スル一切ノ権利利益ヲ確認尊重スベシ *リンクします 「日満議定書」→国立公文書館アジア歴史資料センター |
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平頂山事件
●日満議定書が調印された昭和7年(1932年)9/15の夜から9/16にかけて撫順炭鉱(遼寧省)4km南の平頂山部落で、日本軍による虐殺事件「平頂山事件」が起きた。 |
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極東国際軍事裁判所判決から「匪賊」
●この事件については、極東国際軍事裁判所判決から「匪賊」の部分を引用してみる。日本軍は、満州における日本の支配に抵抗する反日反満武装勢力に対し「匪賊(ひぞく)」《盗匪(=盗賊・匪賊)など》として取扱ったことが記されている。 ●中国戦争で捕虜となった者は匪賊(ひぞく=徒党を組んで殺人・略奪を行う盗賊)として取扱われた 国際連盟は1931年12月10日の決議でリットン委員会を設け、事実上の停戦を命じたが、この決議を受諾するにあたって、ジュネーヴの日本代表は、日本軍が満州で『匪賊』に対して必要な行動をとることを、この決議は妨げるものでないという了解のもとに、これを受諾すると言明した。 決議に対するこの留保のもとに、満州の中国軍に対して、日本の軍部は敵対行為を続けたのである。日本と中国の間には戦争状態が存在しないこと、紛議は単なる『事変』であって、これには戦争法規が適用されないこと、日本軍に抵抗していた中国軍隊は、合法的な戦闘員ではなくて、単なる匪賊であることを日本の軍部は主張した。満州における匪賊を絶滅させるために、冷酷な作戦が始められた。
1932年9月16日に、敗退中の中国義勇軍部隊を追撃していた日本軍は、撫順近在の平頂山、千金堡及び李家溝に達した。これらの村落の住民は、義勇兵を、すなわち日本側のいわゆる『匪賊』をかくまったととがめられた。日本軍は各村落で村民を溝渠(こうきょ=みぞ・ほり・下水道)に沿って集合させ、強制的にひざまずかせ、それから非戦闘員であるこれらの男女子供を機関銃で射殺した。機関銃掃射から生きのびた者は、直ちに銃剣によって刺殺された。この虐殺で非戦闘員2700人が命を失った。日本の関東軍は、その匪賊絶滅計画によって、これを正当なものであると主張した。
それから間もなく、小磯は陸軍次官に対して『満州国指導要綱』を送り、その中で、『日支両国間の民族闘争は亦之を予期せざるべからず。之が為其の止むなきに方(あた)りては武力の発動固(もと)より之を辞せず』と述べた。中国軍に実際に援助を与えたり、または与えたと想像されると、その報復として、右の趣旨で、都市や村落の住民を虐殺する慣行、すなわち、日本側のいわゆる『膺懲(ようちょう=征伐してこらしめる)』する慣行が用いられた。 極東国際軍事裁判所判決. 第4 B部 第8章 通例の戰爭犯罪 極東国際軍事裁判所 編 1948年刊
満州国の法律「暫行懲治盜匪法」の意味すること
●ここで満州国の法律「暫行懲治盜匪法」を下段に引用してみる。満州国政府(日本)は、満州における日本の支配に抵抗する反日反満武装勢力を「匪賊(ひぞく)」「盗匪=盗賊・匪賊」とした。そしてその匪賊を掃討粛清するときは、「臨陣格殺」ができるほかに、その軍隊の司令官とその警察の高級警察官は、裁判を経ずに、その裁量で死刑の措置をすることができるとしたのである(7条と8条)。この「臨陣格殺」とは、正しい意味はよくわからないが、「陣を組んで殴り殺す」ような意味であろうか(私見)。
「暫行懲治盜匪法」
大同元年九月十日教令第八十一號 茲ニ参議府ノ諮詢ヲ経テ暫行懲治盜匪法ヲ制定シ之ヲ公布セシム 暫行懲治盜匪法 第一條 強暴又ハ脅迫ノ手段ニ依り他人ノ財物ヲ強取スル目的ヲ以テ聚衆(しゅうしゅう=たくさんの人を集める)又ハ結夥(jié huǒ=徒党を組む)シタル者ハ之ヲ盜匪トス 盜匪ハ左ノ區別ニ依リ之ヲ處斷ス *リンクします 「暫行懲治盜匪法・満州国六法全書 : 満日対訳」→
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1932年昭和7年9月25日 | (右派・中間派労働組合の大合同) ●日本労働史上例のなかった大規模な連合組織である「日本労働組合会議」が結成された。全組織労働者の75%にあたる28万人を擁することになった。「皇道日本の興隆」を掲げた組合の誕生だった。 |
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1932年昭和7年10月1日 |
東京市、世界第2位の都市となる
●東京市は隣接する5郡82町村を合併し人口551万3482人となり、ニューヨークに次ぐ世界第2の大都市となった。国内ではそれまで1位だった「大大阪市」の240万人を超え「大東京市」が誕生した。それまでの東京市の区部15区に、東京府の5郡部から20区を新設し、合わせて35区としたのである。この15区のうち、麹町区・芝区・麻布区・赤坂区・四谷区・牛込区・小石川区・本郷区を「山手(やまのて)」と呼んだようである。参考に下に区分けを書いておく。
●東京市15区
麹町区、神田区、日本橋区、京橋区、芝区、麻布区、赤坂区、四谷区、牛込区、小石川区、本郷区、下谷区、浅草区、本所区、深川区。 ●新設20区 ①(南葛飾郡)・・江戸川区、葛飾区、城東区、向島区。 ②(南足立郡)・・足立区。 ③(北豊島郡)・・荒川区、滝野川区、王子区、豊島区、板橋区。 ④(豊多摩郡=南豊島郡+東多摩郡)・・淀橋区、中野区、杉並区、渋谷区。 ⑤(荏原郡《えばらぐん》)・・世田谷区、目黒区、荏原区、大森区、鎌田区、品川区。 |
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1932年昭和7年10月1日 |
リットン調査団、報告書を日本政府に通達
(写真左)溥儀を訪問した調査団一行。写真中央が溥儀、リットンは左。
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1932年昭和7年10月3日 |
第1回満州武装移民団、東京駅を出発
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1932年昭和7年10月6日 |
新生共産党大検挙
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1932年昭和7年11月8日 |
アメリカ大統領選で民主党ルーズベルトが勝利する
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1932年昭和7年11月 | (日本始まって以来の大予算案)![]() (新聞)11/20東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊 |
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1932年昭和7年11月21日 | (国際連盟理事会、連盟本部で開催)![]() (新聞)11/22東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊 ●12/6国際連盟は、日中紛争に関する討議のために臨時総会をジュネーブで開催する。 |
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1932年昭和7年12月16日 |
日本橋白木屋百貨店で初の高層ビル火災が起こる
(左写真)「周辺の警備にあたる近衛歩兵第1連隊、東京憲兵隊」-朝日新聞。(右写真)「降下の際、和服のスソの乱れを気にして墜死した女性もいた」-毎日新聞。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
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1932年(昭和7年)の出来事 政治・経済・事件・災害・文化
「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊より抜粋 ●1/8 桜田門外で一朝鮮人,天皇に手投げ弾を投げ暗殺未遂(桜田門事件) |