1930年(昭和5年)1/11濱口内閣「金解禁」断行、「緊縮財政」のなか「統帥権干犯」問題が起きる。

アジア・太平洋戦争

日本は最悪の不況時代を迎え社会不安が増大するなか、「統帥権干犯」問題で右翼による濱口首相狙撃事件が起きた。
ここでは最初に、経済的視点から大きな経済の課題であった「金解禁」について要点を述べる。この時代の日本は、政治的にも経済的にも世界のなかで重要なポジションにいたと思われる。ロンドン海軍軍縮会議、金本位制復帰、そして金輸出再禁止など、日本は世界(政治・経済)と協調しようとしていたのである。

(上新聞)11/15東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

目次
昭和5年 主要項目
★金解禁・金輸出再禁止までの世界の動きと正貨流出、ドル買いなど。 ●ここでは、濱口内閣が行った「金解禁」の意味することを、主要国の状況などや経済的な数値・表などを引用して基本的な理解を深めたい。この時代でも、現代と同じように通貨(円やドルなど)に対する投機が行われ、巨額な利益を上げた財閥、銀行が存在したのである。外国との貿易に必要な為替の仕組みや、正貨流出、ドル買いについての理解も深めたい
昭和5年(1930年)
濱口雄幸内閣(狙撃事件)
●濱口内閣は、金解禁と緊縮財政による経済立て直しを図り、その政策は総選挙によって国民に支持された。対外的にも協調政策を進め、ロンドン軍縮会議においてもアメリカと妥協し海軍の反対を抑え込んだ。金解禁自体も、世界的な金本位体制の秩序に復帰するのが目的であり、そうすることによってこそ、日本経済を立て直せると考えたわけである。しかし最悪のタイミングで世界恐慌が起こり、日本は最悪の不況時代を迎えてしまうのである。物価下落、生産縮小、賃金引き下げ、失業、労働争議、農業恐慌、小作争議が頻発し、社会不安の増大は、ついに右翼による濱口首相狙撃事件を引き起こした。

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★金解禁までの経済動向と世界の動き。
ここでは「日本経済史」慶応義塾大学出版会発行(2011年)、『昭和財政史』第13巻(国際金融・貿易)大蔵省(財務省)、「日本銀行百年史」日本銀行、などから図や表を引用して概観する。

①日本が金解禁にいたるまでの各国の金解禁の状況

●第1次世界大戦後、世界の経済面での課題は、国際金本位制と自由貿易を基礎とする世界経済の再建だった。大戦勃発後各国は金輸出を禁止し国際金本位制は停止し、各国通貨の為替相場は、事実上の変動相場制となっていた。表は各国における、金本位制の回復(金解禁)、金本位制の崩壊(再禁止)の簡易年表である。(出典「日本経済史」慶応義塾大学出版会2011年発刊より作表)
●1922年(大正11年)ジェノアの国際経済会議で国際金本位制の再建が目標として定められると、日本でも金解禁が政策上の課題となった。
日本はアメリカと同時期(1917年・大正7)に金本位制を停止した。アメリカは1919年には早くも金本位制に復帰した。イギリスが復帰したのが1925年(大正14)である。日本が金本位制に復帰したのは、1930年1月(昭和5・濱口内閣・井上蔵相)であり、列国中最後の復帰だった。
●当時の世界経済は米英が中心で、為替相場においてもロンドン(ポンド)とニューヨーク(ドル)が中心だった。日本は継続的に外債発行を必要としており、日本の為替相場(円)が低迷することは、英米の金融市場における日本外債の価格低迷と新規外債の発行条件を悪化させていた。だから日本にとっては金本位制復帰による国際信用回復は極めて重要な課題であった。
そして日本の金本位制復帰を最終的に決定づけたのは、1931年に償還期限を迎える日露戦時公債2億3000万の存在だったとされる。期限となる外債の借り換えをおこなうには、金本位制復帰による国際信用の回復が不可欠とされたのである。


日本(円)の対米為替相場

●左の図は「日本経済史」2011年慶応義塾大学出版会刊の「対米為替相場」(1914-1936年)の図で、赤字で金解禁などの注釈の文字を加えたものである(星野)。この図でもわかるように、金解禁により為替相場が安定に向かったようである。この間の状況を『昭和財政史』第13巻(国際金融・貿易)大蔵省(財務省)より要約すれば次のようである。
①昭和5年1月11日(金解禁)から昭和6年12月13日(金再禁止)の間の為替相場は無条件の安定相場だった。昭和5年1月11日以後は、1月14日に49ドル1/4から49ドル3/8に変更した以外は、金再禁止まで49ドル3/8のまま1回も変更することがなかった。
②しかし実際は平穏無事であったわけではなかった。内地(日本本土)の低金利のための資本の激しい海外流出、世界恐慌の突発と金解禁の2重の影響による不況の深刻化、満州事変の突発とイギリスの金本位制の停止などが次々と起こった。そして実需あるいは思惑的な資金の海外逃避から巨額の金流出がおきた。
③為替相場はともすれば暴落の危険にさらされ、その都度、為替安定を使命とする正金銀行の「統制売り」にささえられた。この統制売りの総額は、昭和5年7月31日から昭和6年12月12日までおよそ1年半ばかりの間に、実に7億6000万円に達した。
④金輸出再禁止前の昭和6年12月11日、若槻内閣の退陣に伴い為替市場は混乱に陥り、横浜正金銀行は直ちに為替の売却を停止した。そして同行は金輸出再禁止後の12月14日以降建値発表も中止した。そして市中相場は値下がりを続け、年末には34ドル1/2まで低落した。極端な円相場の下落が始まったのである。日本銀行の外国為替相場の資料を見ると、「ニューヨーク向け電信売相場」の「100円につきドル(年中平均)」は、1931年(昭和6)=48.871、1932年(昭和7)=28.120、1933年(昭和8)=25.227とある。為替レートは48%も下落したのである。


正貨(金)の海外流出とドル買い

●1929年(昭和4)11月、政府は翌年(1930年1月)の金解禁実施を発表、続いて、東京・大阪・名古屋の有力銀行団は金解禁に対する支持声明を発表した。そして東京の有力銀行が別に声明を発表したが、その内容の真意は次のようであった。(出典)「日本銀行百年史」

「貿易関係の決済資金は別として、海外投資または海外借入金返済等の金融取引によって正貨の流出を促すようなことがないようにする」

ということを表明したものといわれている。
また当時の大蔵大臣・井上準之助は次のように発言した(一部抜粋)。(出典)『昭和財政史』第13巻(国際金融・貿易)大蔵省(財務省)

「世間では解禁と同時に巨額の正貨が急激に積み出され、その結果経済界に非常な打撃を与えはしないかと心配して居る向きもあるようですが・・・政府は合計4億円の金を持っていますから、これを為替資金として利用すれば、経済界に急激な変化を与えずに、必ず済むという確信を私は持っております・・・」

そして井上蔵相は解禁後の正貨流出額についてもせいぜい2億円にとどまるだろうと発言した。
●こうして金解禁が実施されたのだが、この2年間(昭和5年から昭和6年)の正貨(金)の海外流出とドル買いの結果の数値を左一覧に抜き出してみた。(出典)『昭和財政史』第13巻と『日本銀行百年史』
特に一覧の「正金銀行の為替統制売り(ドル売り)」の内訳を列挙すれば下のようである(単位1000円)。ドル投機で利益を上げたところがわかるわけである。
ナショナル・シティー銀行273,000、
住友銀行64,000、
三井銀行56,000、三菱銀行53,000、
香港上海銀行40,000、三井物産40,000、
朝鮮銀行34,000、三井信託13,000、
その他(保険、電力などの諸会社)187,000。
総計760,000であった。

*リンクします「昭和財政史(戦前編)」→財務省・財務総合政策研究所
*リンクします「日本銀行百年史」→「日本銀行」日本銀行について

年表、1930年(昭和5年)
年・月 内容
(昭和5年のポイント)
●濱口雄幸内閣1/11、緊縮財政下において、金解禁を断行する。
●しかしながら、昭和4年(1929年)10月に起こったアメリカ・ニューヨークの株式の大暴落に始まる大恐慌は、日本の輸出産業に大打撃を与え、かつ国内の緊縮財政とデフレ政策とがさらに国内景気を縮小させ、日本は深刻な不況に陥った。労働争議、小作争議が頻発し、物価・所得は下落し失業者は増え不況は深まった。生糸・米価は惨落し、農業不況はさらに深まっていった。思想弾圧では、政府は2月に共産党壊滅第3次大検挙を開始した。また4月、濱口首相は財政圧縮と国際協調のため、海軍の反対に対して強く拒絶し、ロンドン海軍軍縮条約を締結した。しかしこれが天皇の大権である「統帥権」を政府が「干犯」したという「統帥権干犯」問題となった。
●そして11月、濱口首相は「軍部の意見を無視して条約を締結したことに憤慨した」右翼青年(23歳)にピストルで狙撃され、翌年この傷がもとで死亡した。
1930年
昭和5年
1月10日
●金解禁を前に日銀正貨準備10億7333万3000円となる。
1930年
昭和5年
1月11日
金輸出解禁の実施(金本位制復帰)

●濱口雄幸内閣は、1917年(大正6年)9月以来の金輸出禁止を解禁した。濱口首相は「官民一致の緊張を将来も持続せよ」と言明する。特に問題であったのは、結果的に「新平価」ではなく「旧平価」で復帰したことであろう。この金輸出解禁については、下に、大蔵大臣井上準之助著1929年(昭和4年)9/17出版の、ベストセラーになった「金解禁━全日本に叫ぶ」の最初のところを引用してみた。国民に金解禁の必要性を分かりやすく説いたものであり。井上準之助と濱口雄幸内閣の覚悟を表している。
「第一章 死を覚悟しての難局打開」

 明るき日本へ
 安閑としていられない日本の現実を前にして、私は全日本の国民諸君に衷心より叫びかけたい。濱口内閣の組閣にあたり、私はその使命の重大さを泌々(しみじみ)と感じながら一大覚悟を懐(いだ)いて當面(とうめん)せる難局打開の大事業に、みづからの馬を進めた。

下

*リンクします 「金解禁:全日本に叫ぶ」井上準之助 著 先進社 昭和4年刊 →国立国会図書館デジタルコレクション

(新聞)1/11東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行

1930年
昭和5年
1月16日
●京城(ソウル)で学生が示威行動。万歳(マンセイ)を高唱し、赤旗や太極旗を振って市中を練り歩く。検挙者468人
1930年
昭和5年
1月21日
●ロンドン海軍軍縮会議開会。若槻元首相、財部彪海相ら出席。
1930年
昭和5年
2月7日
●富山ラミー紡績争議団員50人余が同志奪還で富山署を襲撃。署長以下20数人負傷、検束者20人余。
1930年
昭和5年
2月14日
●練習船海王丸進水
文部省航海練習所公立商船学校用練習船、海王丸が進水。1/27に進水した姉妹船、日本丸とともに、昭和4年4月から神戸の川崎造船所建造が進められていた。(写真)海王丸(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1930年
昭和5年
2月15日
●日銀の正貨準備高、金解禁以来、正貨流失で減少を続け、1920年(大正9年)以来10億円台を割る。
1930年
昭和5年
2月20日
●総選挙-緊縮財政・金解禁の濱口民政党勝利
●総選挙で民政党(濱口雄幸内閣)は、野党政友会に圧勝し(議員総数466人中、民-273、政-174、他19)信任を得た。濱口首相は「国民の共鳴を得た以上、思ふ存分に政策を行ふ」と声明を発した。
1930年
昭和5年
2月24日
●共産党員の全国的な検挙が開始される。1月に組織の再建を図る共産党は、拡大中央委員会を開き、正式に党を再建したが、警察は第3次大検挙を行った。7月までに約1500人を検挙し、うち461人を起訴した。
1930年
昭和5年
2月26日
(東洋モスリン争議団乱闘)
●東洋モスリン(東京亀戸)争議団、会社側警護団と乱闘。女子工員約52人が寄宿舎から日本大衆党支部へ脱出。2/28、この争議は組合同盟・総同盟が別々に交渉し、別々の条件で解決した。しかし9月に会社側は第2次合理化案として第3工場の縮小と、450人の解雇を発表し、組合側は9/25から一斉ストに入った。10月には争議団と支援グループ約2000人がデモを行い警官隊と衝突し、亀戸は住民も加わって大混乱となった。この結果、争議団側は179人が騒乱罪で逮捕され、以後活動家の検挙も続き、ついに11月19日争議団は警視庁の調停に応じたのであった。こうして組合側は、規定の退職金のほか同情金を加えること、就業規則の厳守すること、上長の命に服すこと、組合に加入しないことなどの条件をのんで、争議は幕を閉じた。こうして1000人の女子工員らは会社を去り、労働組合は解体した。
●表は小作争議と労働争議の件数などを年別に抜き出したものだが、特に労働争議が昭和5年から急増している。昭和5年1月の金解禁実施以来、日本の経済不況は深刻化し、企業はこの危機を労働者の解雇と賃下げで切り抜けようとし、労働者側はこれに激しく抵抗したのであった。
1930年
昭和5年
3月3日
横浜生糸相場、最安値を記録

●1916年(大正5年)以来の最安値を記録した。銀行担保価格も下回った。

1930年
昭和5年
3月24日
●帝都復興祭始まる

●天皇、震災記念堂をはじめ市内を巡幸する。この復興事業の主なものは次のとおりで、東京の基礎を作った。
①(土地区画整理)対象地域は震災による焼失区域の44%相当で30平方キロに達した。
②(道路)1号と2号の幹線道路を重点として整備された。1号はいわゆる「昭和通り」、2号はいわゆる「大正通り→戦後靖国通りに改名」。この整備によって、総面積に対する道路面積の比率は、震災前の12%から18%になり、大阪の5%に比べても飛躍的に向上した。
③(橋梁)震災前東京市が管理していた約600のうち、大部分が木製であったため366が被害を受けた。そのためこれらの橋全てを耐火耐震構造に変えた。特に隅田川にかかる永代橋、相生橋、駒形橋、清洲橋、蔵前橋、言問橋の6大橋と、お茶の水の聖橋が東京の新名所となった。④(公園)河岸公園として、隅田公園、浜町公園、錦糸公園が新設されたほか、大小55の公園が誕生した。
⑤(小学校)震災で焼失した小学校は117校でほとんどが木造だったが、すべて鉄筋コンクリート造りに変わった。
(写真は昭和4年6/15の銀座泰明小学校落成式の写真)
⑥(中央卸売市場・その他)震災により日本橋の魚市場が壊滅し、新しい卸売市場が築地の海軍省用地に建設された。このほか市立病院、職業紹介所、託児所、公衆食堂、公設浴場なども建設された。
(新聞)3/27東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行。(写真)泰明小学校(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1930年
昭和5年
4月9日
●国産タイヤ1号、ブリヂストンタイヤ誕生
●地下足袋、ゴム長、運動靴などを製造する日本足袋(株)の社長・石橋正二郎は、これからの自動車産業の興隆を予想し、国産タイヤの研究開発を続け、4/9純国産タイヤ第1号の試作に成功した。商品名は「ブリヂ(橋)ストン(石)」とし、昭和6年にブリヂストンタイヤ(株)を設立した。ちなみに旧民主党、内閣総理大臣(第93代)鳩山由紀夫の母は、この石橋正二郎の長女であり、鳩山由紀夫の父は鳩山一郎(日本民主党総裁で第52・53・54代首相)の長男鳩山威一郎である。鳩山・石橋一族の財力は、鳩山由紀夫による旧民主党結党・創設に大きな力を与えたのである。
(写真)西日本新聞社(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1930年
昭和5年
4月9日
●鐘淵紡績(のちのカネボウ)-賃下げ撤回スト開始
●鐘淵紡績は4/5に創業以来初めての23%減給を発表した。鐘淵紡績(は、1889年創業で三井財閥系の超優良企業といわれたが、不況には耐えきれず操業短縮と減給を決めたのであった。この賃下げ撤回ストは、モデル工場といわれた大阪淀川工場から始まり、兵庫、京都、東京、熊本などの各工場に拡大していった。
(新聞)4/10東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行。
1930年
昭和5年
4月13日
●板橋「岩の坂もらい子殺し事件」

●東京板橋で養育費目当ての地域ぐるみの「もらい子殺し」事件が発覚した。以後41人殺害が判明する。新聞には「殺人鬼部落」2千人とあり、浮浪者・こじきの子供の救護が必要とあり、社会事業関係者に大波紋を巻き起こすとある。
●写真は「岩の坂もらい子殺し事件」の起こった東京板橋の「岩の坂」。『警視庁史』昭和前編によれば、ここには簡易旅館と長屋が 20数軒あり、約70世帯 2000人が住んでいた。板橋署の調べでは養育費と衣料目当てのもらい子は100余人。うまく成長して 4、5歳になるともらい乞食や遊芸乞食に、14、5歳になると女は娼妓、男は炭鉱の雑役夫に売りとばしたという。

(新聞)4/15東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行。(写真)アサヒグラフ(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

1930年
昭和5年
4月20日
●東京市電1万500人の従業員が全面スト
●罷業(スト)の原因は、新聞には7項目の要求のうち、①賞与1割減絶対反対②震災時特別給与金即時支給⑤退職一時金と退職年金の自由選択の要求が、その骨子であると書かれている。しかしこのストは、当局が「スト破り」募集や在郷軍人などの動員(2765人)によって、平常の半数の電車を動かしストは敗北した。
(新聞)4/21東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行
1930年
昭和5年
4月22日
●ロンドン軍縮会議-アメリカ妥協案承認し調印

●政府は、アメリカ妥協案を承認し調印した。この締結に至った背景には、世界各国を襲った経済恐慌と、労働運動の激化などによる社会不安の強まりがあった。各国にとって、軍縮による財政負担軽減が共通の問題となっていたのである。日本においても濱口雄幸内閣(民政党)は、田中内閣(政友会)の政策を転換し、財政の緊縮・金解禁(金本位制復帰)による経済立て直しと協調外交を目指し、軍縮を強く望んだ。
(新聞)4/23東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行


●野党、統帥権干犯問題で政府を攻撃
●野党政友会総裁の犬養毅は、4月25日の議会で国防問題、軍縮剰余金、失業問題、綱紀粛正について政府を追及し大論戦になった。そしてなかでも政友会の鳩山一郎の「国防無視の責任」として追及した「統帥権」問題が、その後の海軍強硬派や右翼の「統帥権干犯」問題と発展していく。
(新聞)4/26東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行


この鳩山一郎の「国防無視の責任」の追及の一部は以下の通りである。「統帥権干犯」の意味がわかる。ちなみに鳩山一郎は、旧民主党第93代内閣総理大臣鳩山由紀夫の祖父である。

鳩山一郎君(政友)登壇
「まづ軍縮問題について伺ひいたい 政府は軍令部長の意見に反して国防計画を決定したことについて政治上の責任を速かにとるべきである、世界の平和を維持する軍備には程度があるが、この程度を決するのは軍事専門家に任すべきであって第三者の容かいすべきものではない、これがために参謀本部條令があり軍令部條令が厳として存してゐるのである、即ち用兵あるひは国防についてはこれら軍事専門家に任せねばならない、しかして国防に関しては国務大臣に天皇輔ひつの責任があるが、軍事に関する輔ひつの責任は参謀総長あるひは軍令部長にある、政府が軍縮問題に関して軍令部といふ統帥権に関する直接の機関の意向を無視したことはまことに政治上の大冒険といはねばならない・・・」
4/46東京朝日新聞紙面より(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行
1930年
昭和5年
5月10日
婦人公民権法案、衆議院本会議で初めて可決。しかし貴族院で審議未了

●婦人参政権運動は1924年(大正13年)、久布白落実(くぶしろおちみ)を総務理事、市川房枝を会務理事とする婦人参政権獲得期成同盟会が結成されたことに始まり、大正14年に男子普通選挙が承認されると、名称を「婦選獲得同盟」に変え、デモ、講演会、署名活動などを盛んに行ってきた。そしてこの婦選要求の高まりと、婦人団体に消費節約の協力を求める政府の思惑もあり、政友・民政両党による法案提出となったのである。
●しかし貴族院はこの法案に対し、「女性に参政権を与えることは日本の家族制度になじまない」として審議未了とした。これはつまり法案の可否もとらず、ただ無視したのであった。下段で婦人参政権運動関連の年表を記載した。
(写真)昭和4年1/21作製の婦選を求めるビラ。-写真・毎日新聞社(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

(婦人参政権運動関連の年表)(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
●明治6年 (1873年)1/22…女子が戸主になることが許可される
●明治11年 (1878年)4/16…第2回地万官会議で女戸主の選挙権について論議される
●明治22年 (1889年)2/11…衆議院議員選挙法公布。 選挙権は男子のみ
●明治23年 (1890年)7/25…集会及政治結社法公布。女子の政治活動は全面禁止される

下

1930年
昭和5年
5月
●東京6大学野球黄金時代をむかえて過熱する。
●東京6大学野球、春の「早慶戦」は5/17・18に神宮球場で行われた。前年の早慶戦は、徹夜で行列するファンで球場周辺が混雑し、また偽の切符が出回ったりして混乱した。そこで本年度は、入場券の前売りをやめ、はがき申し込みによる抽選に切り替えたが、7倍の競争率となり多数のダフ屋が現れるほどの人気となった。慶応大学-水原茂投手、早稲田大学-小川正太郎投手などスター選手が続々登場した。
(写真)昭和6年5月10日、松坂屋上野店の屋上。6大学野球早明1回戦の速報板。これは各地に設置され、ボールの動き、走者の位置などを速報板の裏側から人形などを使って示した。一高・三高定期戦、中等野球にも使われ球場に行けない人には、大人気だった。-写真・松坂屋(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1930年
昭和5年
5月26日
●中国政府、日本政府に対して「支那」の呼称はやめ「大中華民国」と記載するように要求せよと、同外交部に訓令。
1930年
昭和5年
5月30日
●満州間島(カントウ)で朝鮮人反日武装蜂起
●この間島という場所(地図参照)は、中国と朝鮮半島の境界に位置する中国領で、清朝時代から中国人と朝鮮人の雑居地域だった。しかし日本は満州の権益を主張していく中で、この地域の朝鮮人(日韓併合後)も、日本人として治外法権を得ると主張した。これに対して中国側の反発は大きく、間島とその周辺で紛争が続発することになったのである。こうした中、中朝の共産党は、周辺地域で土地や農地を失った朝鮮人や、朝鮮での独立運動や共産党に対する弾圧から逃れた朝鮮人集団に、間島での反日暴動を計画し蜂起させたのだった。この暴動は日中間で重大な事態と発展するおそれとなったが、幣原外相の努力で(陸軍首脳の反対を押し切る)、一応の解決を見た。
(地図)「満州での重要事件関連地図」(出典)「近代史日本とアジア 下」古川万太郎婦人之友社2002年刊
1930年
昭和5年
5月31日
●大阪道頓堀のカフェー「美人座」が東京銀座に進出、オープンした。客1人に女給1人がつき、濃厚なサービスを売り物にした。不況のなかエロ・グロ・ナンセンス時代が始まる。そして「性・猟奇」雑誌も氾濫した。しかし当局による取り締まりは徐々に強化され、昭和5年11月レビュー・ダンスでズロース規制などや、昭和9年の学生未成年者のカフェー、バーの立ち入り禁止などにより衰退していった。
1930年
昭和5年
6月11日
内務省発表-大卒の就職率10%割る

●内務省が5月1日現在の卒業生の就職概要を発表した。大卒9.2%、専門学校卒14%、中卒23.4%であった。
(新聞)「教員の受難時代来る」3/10東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行


(新聞)「失業地獄を何と見る」3/17東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行
不況をあらわす事例(昭和5年中6月頃までの半年間)

解雇・賃下げなどによる争議発生事例は除いた。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
(1月)
●東京市、増加する貧困児童に教科書や食物を支給するために、9万7000円予算案。
(2月)
●「糸価暴落で全国8割の製糸工場が女工への賃金不払い」と、内務省社会局が調査結果に警告。
●東京で全国初の失業保険制度実施。
●春の東京市内の小学校卒業生の約6割が就職未定。
●北海道標茶(しべちゃ)飢饉調査で、入地者205戸中、即刻救済の要あるもの85戸333人。

下

1930年
昭和5年
6月18日
●銀塊価格大暴落-中国経済大打撃
●昭和5年2月から、インドなどの銀本位制離脱もあり銀塊の国際相場が急落していたが、6月大暴落した。そしてこの暴落によって銀本位制の中国は大打撃を受けた。そして日本も、繊維、雑貨などの対中国輸出が半減し打撃を受けたのである。
1930年
昭和5年
7月18・19
●北九州大暴風雨
●これは台風で、死者82人、負傷者多数、住居家屋全壊7272戸、汽船の沈没や難破数百とある。
(新聞)7/19東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1930年
昭和5年
8月27日
●日本銀行の正貨準備8億6000万円,大正8年以来の最低記録
1930年
昭和5年
9月
大量失業時代、都市で失業し無一文で徒歩帰郷する人が増える、と新聞報道

(6/11内務省発表-大卒の就職率10%割る5/1現在)
●横浜の戸塚警察署によれば、夏以来このような失業者の数は日に日にふえ、多い日は60人くらいになったという。このような増加し続ける失業者に対して、政府は救済よりも都市の治安保持から「ともかく故郷へ」と呼び掛けていた。しかし郷里にたどり着いた失業者たちを迎えたのは、より深刻な農業不況だった。都市から帰京した失業者を扶養する力は、すでになかった。彼らの多くは、再び都市へと逆流するほかなかったのである。都市における流民化現象は、こうして一層その度合いを深めていった。8/25には、道府県農会長会議実行委員会は「農村には都市失業者を引き受ける余地なし」と農相に陳情していた。
●このような都市に流入あるいは逆流した失業者は「細民(貧民)」として最底辺の生活を余儀なくされていた。昭和4年に早大教授今和次郎ら編纂した「新版大東京案内」では、「細民」世帯数3万685、「細民」人口12万3030人と報告した。また一方当時約20万人といわれた朝鮮人労働者は、さらに劣悪な条件から、その多くが流民化していった。
●一方政府の対応は、失業対策として全国の道路改修工事の実施や、職業紹介にも力を入れた。また神戸市、東京市は失業保険制度を小規模ながら開始した。だが政府自体の考えは、失業者に金銭的な援助を与えるというような発想はなかった。井上準之助大蔵大臣は次のように発言した。(「改造」昭和5年7月号座談会)

「不景気のもとで失業者の出るのは当然」といい「人間の力で失業者を防ぐことは出来やしません」

また内務大臣安達謙蔵は同じく(前出)次のように発言した。

「失業手当などやると、遊民惰民を生ずるから、さういふ弊害を極力防(ふせ)がうと考えて居る」

(新聞)9/3東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1930年
昭和5年
9月19日
●蟹工船エトロフ丸函館に入港、直ちに幹部10数人を検挙。8/27の朝日新聞には、「カニ工船の漁夫虐待、死者18名を出す」とあり「奇怪の虐殺説伝ふ」、とある。
1930年
昭和5年
9月26日
●生糸暴落,明治29年来の安値,農業恐慌深刻化。横浜生糸市場で10斤(約600グラム)当たり60円を割り開設以来の安値を記録した。
1930年
昭和5年
9月
●陸軍青年将校が「桜会」を結成。
(注)「桜会」旧陸軍将校の秘密結社。昭和5年(1930年)橋本欣五郎、長勇ら昭和の軍閥を構成する参謀本部や陸軍省の佐官級中堅将校が結成。満州侵略とそのための国家改造を目的に、北一輝、大川周明らと結んで、翌6年の三月事件、十月事件(錦旗革命事件)などをくわだて、満州事変の発生にも暗躍した。十月事件後に自然消滅。(出典)「日本国語大辞典精選版」
1930年
昭和5年
10月1日
昭和初の国勢調査実施

●内閣統計局による第3回国勢調査が10/1午前零時を期して全国一斉に行われた。
●昭和5年の確定総人口(90,396,043)の内訳は次のようである。内地(64,450,005)朝鮮(21,058,305)台湾(4,592,537)樺太(295,196)帝国全版図計(90,396,043)、そして関東州(1,328,011)南洋群島(56,294)であった。
●しかし12/10に発表された失業者数32万2527人は、おなじく世界恐慌に苦しむイギリスの150万人、ドイツの250万人と比べるとはるかに少なかった。これは失業の規定が緩やかなため、実態とはかけはなれた数字であったいわれる。

1930年
昭和5年
10月1日
●特急「つばめ」東京・神戸間を9時間で走る。

●それまでの特急「富士」「桜」に比べて2時間20分速く、最高時速95キロ、平均時速67.5キロだった。この「つばめ」の成功は、不況による収入の落ち込みを打破する国鉄にとって起死回生の快挙となった。この発案者は、大阪鉄道局から運輸局運転課長に転任してきた結城弘毅で、彼は記者会見で「東京-大阪間をノンストップで走って、今より3時間早く、8時間強で結んでみせる」と公言し実現させた。
(写真)10/1大阪駅を出発する「つばめ」写真-朝日新聞社(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1930年
昭和5年
10月3日
米価惨落農業経済崩壊

●3月から生糸・繭価格の惨落が始まっていた。そしてこの10/3は豊作予想のために米価が大暴落したのである。
この米価の大暴落で農業恐慌は決定的で深刻なものとなった。地主は収入を維持するため、小作料の引き上げや上級米の納入などを要求した。これは小作人にとって大きな負担となり、小作料未払いが続出した。さらに中小地主は小作人から農地の返還を求め、土地を自ら耕すことでこの危機を切り抜けようとしたのである。また3月からの生糸・繭価格の惨落は、農家にとって貴重な現金収入だった養蚕による収入を断ち切った。こうして追い詰められた農家は、公課金の滞納、借入金の不払い、小作料不納などの猶予を求めて闘争を始めたのである。だが根本的な解決策のないまま農村は「婦女子の身売り」など、とめどもなく疲弊していき、昭和の重い課題となったのである。

不況をあらわす事例(昭和5年中7月からの半年間)

解雇・賃下げなどによる争議発生事例は除いた。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
(7月)
●東京府1109万余円の大型失業救済事業費を決定。糸価暴落で、長野県下諏訪町の製糸工場69が、無期限の一斉休業を申し合わせる。
●農村の疲弊を救済する全国的運動をおこすため、全国町村長会長協議会を開催。
●東京市、財政難で新規採用予定1人のところ、185人の応募があったため1人の採用では厳しすぎると採用自体を中止する。
●秋田県、財政悪化のため県下小学校100校で教員の俸給未払いになると発表。

下

1930年
昭和5年
10月27日
●台湾霧社事件勃発。
●これは、台湾台中州霧社(むしゃ=地名)の山岳民族が反日暴動を起こし、日本人134人を殺害した事件である。日本は当時、台湾の高地族を高砂族(たかさごぞく)とよんで、「首狩り、争闘を常習とする部族」として、警察権力による抑圧と馴致(じゅんち=なれさせること)の両面支配の体制をとっていた。そして台湾全島の約45%を占める高地族の主要居住地を「蕃地(ばんち=未開の土地)」とよび、その居住部落を「蕃社(ばんしゃ)」とよんだ。そしてこの地域を特殊行政地として隔離し、警察官による専制支配のもとに、教育、水田耕作の授産(じゅさん=暮らしを立てさせること)等の行政を行い、これを「理蕃」とよんだ。この「霧社」地区は「理蕃」のなかでも有数の「開化」地区とされていた。
●この事件は、日本の民族差別政策ゃ強制労役などに対する反抗と考えられた。指導者のモーナ・ルーダオは、山岳戦など執拗な抵抗を行い、最後には捕虜の屈辱を受けるより死を選び、親族18人とともに集団自決をした。
(新聞)10/29東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1930年
昭和5年
10月31日
●閣議、中国の正式呼称を「支那」から「中華民国」に変更することを決める。
1930年
昭和5年
11月14日
濱口首相東京駅頭で狙撃される


●濱口雄幸首相は岡山で開かれる陸軍大演習を陪観するため、東京駅で駅長の先導で特急乗車に向かう途上、右翼青年佐郷谷留雄(23歳)にピストルで狙撃された。その動機は、裁判の判決文を要約すると次のようである。「・・濱口内閣が軍部の意見を無視してアメリカの主張に屈し、軍艦縮小条約(ロンドン会議)を締結したのは、外交の一大恥辱であり、兵力量決定に関する大権を干犯するもので、国防の安全を脅かし、国家の存立を危うくするものと痛く憤慨し、濱口首相殺害を決意した」とある。
軍部は、軍の統帥権は天皇にあり、それは兵力量の決定にも及ぶとし「政府はその統帥権を干犯した」と攻撃し、右翼団体もそれを政府攻撃の武器にした。濱口首相は翌1931年この傷がもとで死亡した。
(新聞)11/15東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1930年
昭和5年
11月16日
(争議中の富士紡川崎工場に「煙突男」現れ、高さ約40mの煙突の上で争議団を激励する。)
●昭和5年6月、富士瓦斯紡績は突如、不況を理由に川崎を守従業員2894人のうち 378人の解雇を通告してきた、組合執行部は解雇を受け入れたが、会社は3カ月後さらに1割の賃下げを通告した。これに対して数10人の組合員が反発し、ストを決行したのである。
会社側は直ちにスト参加者をロックアウトすると同時に、主要メンバー30人を解雇した。そしてそのまま40日以上が過ぎて、労働者側の惨敗は必至かと思われた時、「煙突男」が現れたのである。
●この事件の結末は、11月21日、中国地方での陸軍特別大演習を統監した天皇がお召し列車で帰京する予定があったことである。このままいけば、「煙突男」が多摩川にかかるお召列車を見下ろすことになる。このような「不敬な事態」を恐れた内務省が、神奈川県警本部長に、列車通過前に「煙突男」を必ず引き下ろすように命じたのである。こうしてしぶる会社側を警察が説得して、争議団の勝利で終わらせたのであった。
1930年
昭和5年
11月19日
●海軍工廠の従業員1万人の解雇を決定。海軍軍縮会議により事業費2割5分削減のため。
(新聞)11/20東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1930年
昭和5年
11月20日
●長島愛生園が開設される。わが国初の国立癩病(らいびょう=ハンセン病)療養所である。当時は「不治の病」として過度に恐れられていた伝染病だったが、大戦後昭和22年(1947年)、画期的な特効薬プロミンができて、ハンセン病は「不治の病」ではなくなった。
1930年
昭和5年
11月26日
●伊豆地方に大地震(M7.0)
この地震は、死者272人、負傷者572人、家屋全半壊7681戸という大惨事となった。(北伊豆地震)(新聞)11/27東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1930年
昭和5年
12月15日
●「国旗」の制式(=定められた様式。きまり)と掲揚の方法を閣議決定する
●国旗は門内から見て右に掲揚し、日の出から日没まで、雨天には掲揚しない。
(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1930年
昭和5年
12月23日
●文部省「家庭教育振興ニ関スル件」を訓令。家庭は「心身育成人格涵養(かんよう=徐々に養い育てること)の苗圃(びょうほ=草木の苗を育てるための畑)」であり、子供の教育は家庭教育が基礎で、母親の責任は重いと注意を促した。翌年3月には家庭教育振興の名目で婦人を動員、大日本連合婦人会を設立した。
1930年(昭和5年)その他の事件・災害・文化など

「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊より抜粋
●1/1鉄道省,全線でメートル法実施
●1/11 金輸出解禁(1月10日現在,日銀正貨準備10億7333万円)
●1/15 全国民衆党・大阪無産大衆党結党
●1 /21 衆議院解散

下

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