1929年(昭和4年)10月「世界恐慌始まる」昭和恐慌前夜

2022年6月27日アジア・太平洋戦争

1929年(昭和4年)10月アメリカに端を発する世界恐慌の中、日本は金本位制に復帰したが、ついに日本も昭和恐慌をむかえる。
日本の産業の花形であった生糸・絹織物産業の衰退が始まり、農村も疲弊していく。一方で電力事業の発展は、電動機の普及をうみ、「動力革命」といわれ、日本の製造業全体に大きな影響を与えた。昭和初期といっても、昔のことではない。現代の多くの企業のルーツがこの時代にあり、出版・放送・マスメディアの発達もこの時代からである。政治的にも2大政党(制度ではない)による政権交代や男子普通選挙の実施、陪審制の実施などもこの時代からである。だが一方で治安維持法や治安警察法による思想弾圧が始まったのもこの時代である。さらに中国への軍事侵略が始まった時代でもある。(上写真)航空母艦加賀1928年(昭和3年)3月31日竣工。(写真・福井静夫)上空から見た加賀。加賀は八・八艦隊計画では戦艦だったが、ワシントン海軍軍縮条約で航空母艦に改造され、航空艦隊の主力として活躍する。これにより日本海軍は、前年3月竣工の赤城と共に2隻の巨大空母を保有することになった。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

生糸・絹織物産業の衰退と電力業の発展。

日本の産業の花形であった生糸・絹織物産業が衰退した原因は複雑である。国内不況、物価下落、金解禁、世界恐慌、為替下落、レーヨンの市場参入などが衰退を招いた要因であろう。ここでは『昭和2万日の全記録』講談社、『昭和財政史』(戦前編)大蔵省(財務省)、「日本経済史」慶応義塾大学出版会発行(2011年)などから数値を引用した。

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7月田中内閣、張作霖爆殺事件で天皇の叱責を受け総辞職。

田中義一内閣(政友会)は、7月、満州某重大事件(張作霖爆殺事件《昭和3年6月》)の陸軍に対する処分問題で天皇の叱責を受け総辞職。(9/29、田中義一狭心症のため死亡)
●代わった濱口雄幸内閣(民政党)は、外交方針と経済政策を転換、「対支親善」「軍縮促進」「整理緊縮」「金解禁断行」などを施政方針とする。外務大臣に幣原喜重郎、大蔵大臣に井上準之助(前日銀総裁)を起用、徹底した緊縮財政を開始する。そして金解禁のために、国際競争力(輸出)強化の政策として、輸入削減のための節約と貯蓄を奨励し、産業合理化に取り組んだ。そして濱口雄幸内閣は昭和5年1/11、緊縮財政下において、金解禁を断行していく。(11/21、翌昭和5年1月11日に金解禁を行う大蔵省令を公布)

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濱口雄幸(はまぐち-おさち)内閣成立(民政党)

10月、アメリカ、ニューヨーク・ウォール街で株式が大暴落する。10/24は(暗黒の木曜日)、10/29は(悲劇の火曜日)といわれ、全世界を巻き込む世界大恐慌の幕が開けた。この大恐慌は、日本の輸出産業に大打撃を与え、濱口内閣の緊縮財政とデフレ政策がさらに国内景気を縮小させ、日本は深刻な不況に陥った。労働争議、小作争議が頻発し、物価・所得は下落し失業者は増え不況は深まった。また政府は、財政圧縮と国際協調のためロンドン海軍軍縮条約(昭和5年4月)を締結したが、これが天皇の大権である「統帥権」を政府が「干犯」したという「統帥権干犯」問題となっていくのである。

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