1927年(昭和2年)頃まで。大正が終わり昭和となる。昭和金融恐慌。
2023年4月16日アジア・太平洋戦争
日本の経済面で象徴的なことは、戦争成金といわれた「鈴木商店」の台湾銀行がからむ不正融資(癒着)による経営破綻である。この鈴木商店は当時三井物産を凌駕する日本一の総合商社となった会社であり、現在においてもその流れを継ぐ有名企業は多くある。
●政治的には、1927年(昭和2年)田中義一(陸軍大将)内閣(政友会)の成立が大きい出来事である。その考えは「対外的には軍事力を行使しても中国における権益は守ること」(山東出兵・済南事件)であり、「国体(天皇制)を変革しようとする思想は徹底的に弾圧」(共産党弾圧・緊急勅令による治安維持法改正・全国道府県に特高課を配置)することであった。
(上絵)これは中村大三郎の「ピアノ」と題された「絹本着色屏風4曲半双」に描かれた作品である。美しい振り袖姿の京都の女性が、グランドピアノを弾いている。これを「モダン」と呼ぶのであろう。まさに時代が昭和となる。制作は大正15年(1926年)であるが、12月25日が改元日にあたり昭和元年は7日間だけで、翌年は昭和2年である。
第1次世界大戦でヨーロッパは疲弊したが、アメリカは戦前の債務国から約100億ドルの債権国になった。そしてそのうちの90%以上が、イギリスとフランスに対するものだった。
●第1次世界大戦でヨーロッパは疲弊したが、アメリカは戦前の債務国から約100億ドルの債権国になった。そしてそのうちの90%以上が、イギリスとフランスに対するものだった。アメリカは世界の経済を支配することになったわけである。そしてそれがために、アメリカは伝統的な「孤立主義」に回帰していった。アメリカはウイルソン大統領が心血を注いだ国際連盟への加入も、上院がヴェルサイユ条約の批准を拒否したため、不参加が決定した。次のハーディング大統領も「平常への復帰」をスローガンに当選し、国際協調主義は後退していった。
●またアメリカは、政策として共和党伝統の大企業保護政策に戻り、企業の隆盛のもと景気は上昇を続け、1923年末には世界の金保有高の約1/2がアメリカに集中したといわれる。ハーディングの急死(1923年)の後大統領になったクーリッジは、高官の公金着服や汚職の中でも現状維持を続け、アメリカは経済繁栄の道を歩んだ。1928年の大統領選挙では、ハーディングの時代から商務長官だったフーヴァーが大統領になった。彼は選挙演説で次のように言った。
(出典)「世界の歴史15」中央公論社1963年刊
●1920年代のアメリカの繁栄(狂騒)のキーワードを列挙すれば次のようである。
●上の①「自動車」について、日本でのモータリーゼーションの状況は次のようである。
●1923年(大正12年)の関東大震災はそれまでの東京市民の足だった市電を壊滅させた。その対応として東京市電気局は、急遽市営バスによる路線建設を採用した。そこで電気局はアメリカ・フォード社の「T型フォード」のトラック、シャーシ800両を輸入し、これを11人乗りバスに改造し、1924年1月から運行させた。これは貴重な市民の足となり「円太郎」の愛称で呼ばれた(左写真)。
しかし最初の「円太郎」バスは、トラックに粗末な木造の屋根を付けたようなもので、不人気のため半年で営業危機をむかえたが、それを新装車を導入し女子車掌を採用したことで一躍人気者となった。
●ヘンリー・フォードは、このバスの注文に日本でのモータリゼーションのあけぼのを見た。そして1925年(大正14年)日本フォード社を設立し、横浜市に工場を建設し翌年からT型フォードの組み立て・販売を開始した。
●②の「赤狩り」サッコ・ヴァンゼッティ事件は、1920年に起きた米国裁判史上に残る最大の冤罪事件と言われるもので、当時の日本の新聞でも死刑執行の報道がなされた。そしてのちに映画化もされた「死刑台のメロディ」(1971年イタリア・フランス合作)。左は1927年(昭和2年)8月24日の東京朝日新聞の紙面。(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●③の「禁酒法」1920年~1933年廃止(アル・カポネ)について、驚くべきことは「禁酒」を修正憲法で制定したことである。そして14年間それを維持したことである。「禁酒法」は1846年から州法として制定され始め、1914年前には26州になったことが憲法修正につながっていった。われわれ日本人が考えねばならないことは、「憲法」も「法律」も国民が決めるということである。時代も社会も変化していくのだから、法律の手続きに従って憲法を修正することも、普通のことである。「憲法」は「アンタッチャブル」ではないのである。
●ここで1987年製作のアメリカ映画で、禁酒法時代のアメリカ・シカゴを舞台にした「アンタッチャブル」を紹介しよう。
●この映画は1987年に製作・公開されて大ヒットしたリメイク映画である(ブライアン・デ・パルマ監督作品。《主演》ケビン・コスナー、ショーン・コネリー、アンディー・ガルシア、《カポネ》ロバート・デニーロなど)。これは歴史映画でもドキュメンタリー映画でもないが、そこには禁酒法時代の末頃(1920年代末)のアメリカが見えるようである。そしてカポネを追及逮捕を始めていく年代が、「アメリカを神の加護による繁栄」といったフーヴァー大統領が大統領に就任し、皮肉にも繁栄時代がまさに終わろうとするとき(1929年ニューヨーク株式市場大暴落)でもあった。その罪名が脱税であったことも、世界恐慌の中にあるアメリカ政府としては当然であったかもしれない。イタリア系、アイルランド系移民、暴力、殺人、暗殺、悪徳警官、賄賂、汚職、陪審員買収などが渦巻く狂騒のなか、それでも正義を貫くというアメリカを象徴する映画であろうか。
ここでは最初に、政党の経済政策の違いを述べる。日本はこの時期(1924年~1932年)、「憲政の常道」とよばれるほどに2大政党が交互に政権を担当した。政党には綱領があり基本理念があり、基本政策がある。当然ながら経済政策にも違いがあった。
●1926年12月25日大正天皇が崩御し、昭和天皇が践祚し、昭和となる。
●とくに経済・社会の大激動である昭和金融恐慌そして昭和恐慌(世界恐慌)に対する経済対策は、日本において最も重要であったに違いない。だがその激動のなかで、2人の金融財政の専門家である高橋是清(2.26事件)と井上準之助(血盟団事件)が、共にテロによって殺害された。この事件はその後の日本経済・社会にとって、大きな痛手となったに違いない。
●高橋是清は政友会、井上準之助は憲政会(民政党)であるが、2人は共に日銀総裁、大蔵大臣を歴任している金融財政の専門家であった。
●憲政会(民政党)・・1924年の選挙で第1党、加藤高明内閣成立まで苦節10年の野党。財政の均衡を重視する緊縮政策。非募債主義。社会政策(小作調停法、労働争議調停法など)に積極的。金本位制復帰を政策目標とした。引き締め政策による国際収支の均衡による経済の安定を重視。1927年政友本党と合同して立憲民政党となる。
年・月 | 事項・内容 |
---|---|
1925年大正14年 |
普通選挙法(5月5日公布)・治安維持法(4月23日公布)加藤高明内閣
●この国民の自由な思想を弾圧する治安維持法については知っておかなければならない。この法律は、1925年に普通選挙法(男子のみ25歳以上に選挙権を与えた)と抱き合わせに制定された。政治的にも思想的にも国体を護ることが目的だった。最初は7条にすぎなかった。若槻礼次郎内相は「国体を変革する者のみ取り締まる」と説明した。治安警察法は「労働運動・政治結社を取り締まる法律」として、治安維持法は「共産主義者・国体変革者を取り締まる法律」として運用された。だが治安維持法は1928年に、緊急勅令で法改正を行い、「国体の変革」の罪に対しては最高刑を死刑とし、特別高等警察(特高)を全国に設置した。これは政治・思想警察であり、国家組織の根本を危うくする行為を取り締まるものであった。治安維持法は1941年(昭和16年)にも改正され65条に拡大した。1928年の緊急勅令による改正・治安維持法の第1条は以下のとおりである。 勅令百二十九號 治安維持法中左ノ通改正ス
第一條 國體ヲ變革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務二従事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ五年(1941年の改正で7年)以上ノ懲役若ハ禁錮二處シ情ヲ知リテ結社二加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ爲ニスル行爲ヲ爲シタル者ハ二年(1941年の改正で三年)以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮二處ス |
1925年大正14年3月 | ●護憲三派内閣である加藤内閣は、公約に従い第50議会で普通選挙法案を成立させた(1925年3月29日)。これに対して、枢密院・貴族院および政友本党はさまざまな抵抗をこころみ、選挙権の制限などをつけた。また一方の治安維持法(3/19貴族院で可決)について政府は次のように説明した。「この法律はふつうの社会活動や民主運動を圧迫するものではなく、共産主義運動だけを取りしまるものである」と。しかしこれは政府が弾圧しようと思う結社や運動に、「赤」のレッテルさえはりさえすれば弾圧できるものだった。 ●この治安維持法の制定には次のような背景があったとされる。それは、枢密院が①普選法を認める代わりに治安維持法を要求したこと。②ソ連との国交回復前に、共産主義弾圧の体制を固めるために要求したこと、などである。 |
1925年大正14年4月13日 | (陸軍現役将校学校配属令公布)これにより、中等学校以上の学校に現役将校を配属して学生に軍事教練を課した。また市町村には青年訓練所をもうけ、学生以外のすべての青年にも、軍事訓練を事実上強制した。これは軍縮による兵力減少を補うためでもあるが、この意味するところについて宇垣陸相は次のように日記(大正14年12月30日・31日)に記したという。
20余万人の現役軍人、300余万の在郷軍人、5~60万の中・上級学生、80余万の青少年、これを陸軍がにぎり、この力で、平戦両時を通じて天皇をたすける中枢として、働く。天皇の軍隊を統帥する大権は、国家異常時の場合には、たんに軍隊を指揮するにとどまらず、国民を支配する権力であることがある」「いまの世相に照らし、この大権の発動に思いをいたす」と。
(出典)「日本の歴史第12巻」読売新聞社1963年刊 |
1925年(大正14年)の出来事 政治・経済・事件・災害・文化
「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊より抜粋 ●3/1東京放送局、芝浦で試験放送を開始する。(3/22仮放送、7/12愛宕山から本放送) |
|
1926年大正15年1月30日 |
第1次若槻礼次郎(わかつき-れいじろう)内閣成立(憲政会)
(政治家。大蔵省に入り要職を歴任ののち、第3次桂内閣の蔵相、加藤内閣の内相などをつとめた。加藤高明の死後憲政会総裁となり、第1次若槻内閣を組閣。昭和2年(1927年)金融恐慌の措置をめぐって枢密院と対立し総辞職。)(出典)「日本国語大辞典精選版」 |
1926年昭和元年12月25日 |
大正天皇崩御・昭和天皇践祚(せんそ)
|
1926年(大正15年)の出来事 政治・経済・事件・災害・文化
「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊より抜粋 ●2/7資本家団体寄りの労働組合法案に反対し、労働団体が各地で示威運動を展開する。 |
日本では昭和に入るとすぐに金融恐慌が始まり、全世界を覆う世界恐慌と続くなか、テロの続発をみる。大正から昭和の時代が、現在の日本の政治経済の骨組みを作ったことに間違いないだろう。若槻礼次郎内閣(憲政会)は、昭和2年(1927年)4月、台湾銀行救済のための緊急勅令案を枢密院によって否決され総辞職する。(昭和金融恐慌処理)
年・月 | 事項・内容 |
---|---|
1927年昭和2年1月5日 | ![]() ●そこを帝都復興計画(後藤新平)で穴のあいていた住宅問題を、「同潤会」(半官半民の財団法人)が住宅政策を担当し、「同潤会文化アパートメント」と「同潤会共同住宅」を建てようとしたのである。共に鉄筋中層のコンクリート建築であったが、猿江裏町は「共同住宅」であった。写真を見ると近代都市を思わせるものである。また最初期の「青山アパート」(1925年入居開始)の場所は、現在再開発されて「表参道ヒルズ」となっている。
|
1927年昭和2年2月7日 |
大正天皇大喪儀
●大葬儀の中心である「葬場殿の儀」が新宿御苑で行われた。翌日2月8日の東京朝日新聞には「哀痛國を覆ひ萬民悲みの中に 永への行幸を送り奉る」とある。 |
1927年昭和2年3月14日 |
昭和金融恐慌発生
直接的には、3/14衆議院予算委員会での片岡直温(なおはる)蔵相の、「本日、昼頃渡辺銀行が破綻いたしました」というの失言から端を発した。これは1923年に発生した関東大震災に関わる「震災手形」の処理に関する政府案「震災手形損失補償公債法案」等について、衆議院予算委員会での審議中に起こったことであった。 「震災手形」問題。
●これは1923年9月1日に発生した関東大震災によって、甚大な被害を受けた被災地の銀行や企業を救済するために、政府が行った救済策の後処理の問題であった。1923年9月、政府は被災地で発生した債務の決済期間を30日間延長する支払い猶予令を発し、また「震災手形割引損失補償令」を発布した。これは日本銀行が、震災手形(被災地に関連する手形)を保有する銀行に対して、再割引(手形を担保に資金を融資)をするなどの救済策であった。 ●しかし1924年末で日本銀行が再割引した総額約4億3000万円の震災手形のうち、2億680万円の債権が1926年末の段階で未回収となってしまった。これは震災とは関係のない不良債権が大量に含まれていたことが原因だった。そしてその未決済手形の半分を保有していたのが台湾銀行(発券銀行)であった。そしてその大部分が「鈴木商店」に関係する手形であった。これは大問題となった。 ●だが台湾銀行以外でも、第1次世界大戦期に放漫な融資をおこない、不良債権を多くかかえた銀行も多かった。銀行に対する救済策が必要な状況であった。 下の新聞は昭和2年(1927年)3月15日の東京朝日新聞(市内版)(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」昭和49年朝日新聞社発行 |
1927年昭和2年4月1日 | ●「徴兵令」全面改正され「兵役法」へ。これは、長い不況の中で、働き手を長期にわたって兵役にとられる国民の不満と、世界的な軍縮の圧力を解消する意図もあった。しかし本当の軍部のねらいは、第1次世界大戦をみて、これからの戦争は「国家総動員体制」が必要であること、そのために国内の生産能力を高め、国民の戦争遂行能力を高めることを意図したという。 |
1927年昭和2年4月 |
金融恐慌第2波
●3月に始まった金融恐慌は、日銀による4億余円の非常貸し出しと、震災手形法案の成立により鎮静化した。しかし台湾銀行の巨額震災手形の保有問題と、その原因である鈴木商店への融資問題が発覚し、台湾銀行は経営危機をむかえた。大蔵省は台湾銀行に対して、鈴木商店への新規貸し出しの打ち切りを命じた。これにより鈴木商店は事実上倒産した。これにより台湾銀行への信用不安(鈴木商店への融資の回収不能)が高まり、かつ三井銀行など大手銀行がコール資金(銀行間の短期融資)を引き上げたため、台湾銀行は4/18日より休業に追い込まれた。そして全国的な銀行取り付けとなり、36の銀行が休業へと追い込まれた。 「鈴木商店」
●鈴木商店は第1次世界大戦による「戦争成金(なりきん)」の代表とされる。明治の初め「カネ辰」の屋号で洋糖商としてスタートし、女社長鈴木ヨネに番頭として仕えた金子直吉が、一代にして日本最大の総合商社「鈴木商店」を築いた。日清戦争後に台湾の民政長官後藤新平に食い込み、樟脳(セルロイド・無煙火薬などの製造原料とするほか、防虫剤・防臭剤・医薬品などに用いる)の一手販売権を握る。第1次世界大戦を機に、鉄、造船にめをつけ、全盛期には年商が16億円にのぼり、三井物産をしのいで日本最大の総合商社となった。直系会社は、神戸製鋼所、播磨造船所、帝国人造絹糸、日本製粉、豊年製油など、傍系会社には第65銀行、日本セメント、東京毛織、東洋精糖、帝国麦酒、朝鮮鉄道、日本樟脳、信越電力、国際汽船、大日本セルロイドなど、合計で65社、全従業員数2万人余であった。現在においてもその流れを継ぐ企業は、日商(後の日商岩井、現双日)、神戸製鋼所、帝人、日本製粉、J-オイルミルズ、ダイセル、昭和シェル石油、サッポロビールなどがある。 |
1927年昭和2年4月17日 |
若槻内閣総辞職
●若槻内閣は、この危機的状況を打開するため台湾銀行救済を決め、下記緊急勅令案を決定し4/14枢密院に諮問の手続きをとった。
第1条 日本銀行ハ昭和3年5月末日マデ台湾銀行ニ対シ無担保ニテ特別融通ヲナスコトヲ得(憲法第8条ニヨル)
第2条 政府ハ第1条ノ規定ニ従ヒ日本銀行ガ台湾銀行ニ融通ヲナシタルタメ損失ヲ生ジタル場合ニオイテハ2億円ヲ限度トシテ補償ヲナスコトヲ得(憲法第70条ニヨル) (附則 略) ●しかし枢密院は4/17開かれた本会議で19対11で勅令案を否決した。枢密院始まって以来の政府と枢密院の正面衝突となったが、結局、つねづね若槻内閣の幣原外交を軟弱と非難していた枢密院によって否決された。これにより同日若槻内閣は総辞職した。そして台湾銀行は翌4月18日休業した。 |
1927年昭和2年4月1日 | ![]() |
●(東京周辺部の郊外電車網の発展)特に私鉄企業の発展は、大阪の阪神急行電鉄(現阪急電鉄)の経営方法を各社が競って取り入れたことが大きい。この阪神急行電鉄の経営とは、のちに社長となる小林一三(いちぞう)専務が、都市の乗客輸送には期待できなかった箕面(みのお)有馬電気軌道(現阪急宝塚線)を、沿線で宅地分譲と遊園地(行楽地)経営で見事に成功し、私鉄経営の原型とした方法であった。(宝塚の温泉浴場、少女歌劇団は有名)
東京周辺では、1922年(大正11年)池上電気鉄道(現東急池上線)、大正12年目黒鎌田電鉄(現東急目蒲線)、大正15年東京横浜電鉄《丸子多摩川-神奈川間》昭和2年《渋谷-神奈川間》(現東急東横線)などが開通した。そして路面電車網は明治時代よりあり、渋谷-三軒茶屋間(玉川電気鉄道)や、長距離の京成電気軌道(上野-成田間、大正元年)、京王電気軌道もあった。住宅地開発では、渋沢栄一が設立を主導した田園都市株式会社による「田園調布」が有名である。写真は大正12,13年頃の田園調布駅で、車に乗る渋沢栄一とある。まだ開発初期で駅周辺も閑散としている。旧駅舎はシンボルとして2000年に復元された。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊 ●また私鉄が沿線開発で行ったものに学園都市の開発があった。例を挙げると、目黒鎌田電鉄は1923年大岡山に東京高等学校(現東京工業大学)、東京横浜電鉄は1929年日吉に慶應義塾大学予科、1931年に新丸子に日本医科大学予科を誘致した。 下にYouTubeから「佐藤千夜子 東京行進曲 」をリンクした。当時の風景の映像もあるので参考になる。「東京行進曲」の主題歌は大ヒットしたという。 *リンクします「佐藤千夜子 東京行進曲」
|
|
1927年昭和2年4月18日 | (中国)蔣介石南京に国民政府樹立 ●蔣介石の国民党右派が、武漢政府(国民党政府は、1927年2月北伐が長江流域を制圧していき、武漢に移動していた)に対抗し、南京にもう一つの国民政府を樹立し、共産党員の徹底粛清を宣言した。一方、武漢政府も右派が台頭し、7月には共産党が武漢政府を離脱し、9月に武漢政府は南京政府に合流した。 ●1月から漢口のイギリス租界では衝突が起きており、イギリス政府は、反帝国主義運動の鎮圧に派遣部隊を上海に向けて2万3000人を出動させていた。しかしこれは成功せず、ついに3月には正式に漢口と九江の両租界を中国に返還することになった。 ●また3月24日には、北伐途上の蔣介石の国民党軍が南京占領時に、日本を含む外国領事館と居留民に対する南京事件(襲撃事件)をおこした。 |
1927年昭和2年4月20日 |
田中義一(たなか-ぎいち)内閣成立(政友会)
軍人、政治家。長州藩出身。陸士・陸大卒。日露戦争に満州軍参謀。軍務局長、第2旅団長、参謀次長、原内閣・第2次山本内閣の陸相を歴任。ついで政友会総裁となり、昭和2年(1927年)若槻内閣の後をうけて組閣。不況に対し支払猶予緊急勅令(モラトリアム)を出して金融恐慌の鎮静に一応成功を収めた。張作霖爆死事件の処置をめぐり、同4年総辞職。(出典)「日本国語大辞典精選版」 |
(昭和2年成立の田中内閣の政治基調)
●田中義一(陸軍大将)内閣(政友会)は、昭和2年の4月より若槻礼次郎内閣(憲政会)の後を継いで成立した。この時の大きな問題は、若槻内閣が「枢密院」によって総辞職に追い込まれたという事実である。「枢密院」は、若槻内閣の金融恐慌対策の台湾銀行救済法案ではなく、内閣の軟弱な対支外交政策(幣原外交)に対して、反対したのだった。 ●従って田中内閣は、「枢密院」、元老(西園寺公望)そして陸軍の意向をくんだ内閣といえるのである。その考えは「対外的には軍事力を行使しても中国における権益は守ること」(山東出兵・済南事件)であり、「国体(天皇制)を変革しようとする思想は徹底的に弾圧」(共産党弾圧・緊急勅令による治安維持法改正・全国道府県に特高課を配置)することであった。 ●この天皇の諮詢に応える「枢密院」は、政治の中枢において、議会よりも、そして内閣よりも権力を持つことができたのである。大日本帝国憲法(下にその部分を引用)では、日本が議院内閣制を基本的に認めず、また行政権は天皇が自ら行う「大権」であり、内閣は天皇を補弼するだけのものでしかなかったのである。これに対して議会も枢密院弾劾決議案を第53議会に提出し可決したが、枢密院は無視したのである。この時代に「憲政の常道」といわれた政党政治・議院内閣制は、憲法に明記された制度ではなく、「慣例」であったにすぎなかった。
(大日本帝国憲法)
第4章 国務大臣及枢密顧問 第55条国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼(ほひつ)シ其ノ責ニ任ス 2 凡(すべ)テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅(しょうちょく)ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス 第56条枢密顧問(すうみつこもん)ハ枢密院官制ノ定ムル所ニ依リ天皇ノ諮詢(しじゅん)ニ応(こた)ヘ重要ノ国務ヲ審議ス (内閣官制・明治22年勅令第135号) 第1条 内閣ハ国務各大臣ヲ以テ組織ス 第2条 内閣総理大臣ハ各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承ケテ行政各部ノ統一ヲ保持ス |
|
昭和金融恐慌の結果と影響
●1927年3月以来休業した銀行は、台湾銀行を含めて37行。恐慌の前日(3/14)における日銀券は約10億円であった。それに対して、恐慌の一応収まった日(4/25)の日銀券は約26億円に達した。株式市場も動揺を重ね、取引所は休業し、株価も時々相当下落した。為替も下落して、恐慌前は平価に近い相場(100円=49.85ドル)を維持していたが、恐慌が過ぎた後、為替相場は46.7ドルまで下落して固定化する形勢だった。(*緊急の日本銀行券発行であったため、裏面が白紙の日銀券が発行された。)
|
日本は、蔣介石の率いる国民党革命軍の北伐を阻止し、張作霖政権を援助するため、日本人の居留民保護を名目に出兵した。5/28第1次山東出兵声明、関東軍に出動命令。
国内では8/30長野県諏訪郡の製糸工場で「女たちの最大の争議」が起きる(山一林組で1357人スト突入)。12/20千葉県野田町で野田醤油争議(戦前最長ストライキ)が起きる。
年・月 | 事項・内容 |
---|---|
1927年昭和2年5月1日 |
鉄鋼生産カルテル結成
●日本の鉄鋼業界は初めて本格的な生産カルテルを結んだ。これは、製鋼作業の分野を協定した「条鋼分野協定」だった。条鋼とは形鋼、棒鋼、線材などをいい、生産を特定分野に絞ることで、多品種少量生産をやめ、生産コストを引き下げることが可能となり合理化することができるものだった。協定には官業の八幡製作所を中心に、日本鋼管、釜石鉱山、神戸製鋼、大阪製鉄、富士製鋼、川崎造船など民間10社が参加した。こうして持続的な物価下落(不況)のなかでも、カルテルを結ぶことで、生産調整と価格維持を行い企業の安定を図っていった。このカルテルは多くの産業で結成が助長された。後に次のステップである一大トラスト(企業合同)へ移行していく。 |
1927年昭和2年5月28日 |
第1次山東出兵を声明、関東軍に出動命令下る。
|
1927年昭和2年6月14日 | ●(伏石小作争議、大審院判決下る。小作農側が敗訴。)これは1924年(大正13年)香川県伏石(現高松市)で起きた事件である。小作争議のなかで地主側が、大正13年秋に強硬派の27人の稲(晩稲=普通の稲より遅く実る稲)を仮差し押さえて、稲を自由に刈り取りできなくした。それに対して小作農側は、時期(稲を刈り取りそのあとに麦を蒔く)が迫っていたたため、顧問弁護士の助言(民法の規定により刈り取りは保証されている)に従い刈り取りを強行した。ところが脱穀作業が終わると同時に、数十名の小作農が窃盗で、弁護士は窃盗教唆で検挙された。その後の取り調べは、人権蹂躙事件として取り上げられたほど過酷なもので、自殺者や自殺未遂者も出した。一方小作争議のもととなった小作料軽減要求については、多発する小作争議に手を焼いた政府が、1924年(大正13年)7月小作調停法を制定して対応していた。 |
1927年昭和2年6月27日から7月7日 |
「東方会議」の開催、「対支政策綱領」発表
|
「東方会議1927年」における「対支政策綱領」
●下は外務本省 日本外交文書デジタルアーカイブ 昭和期I第1部 第1巻、昭和2年(1927年)対中国関係 「1東方会議」18ページから20ページ部分であり、「東方会議ノ最終日タル七月七日(木曜)ノ会議」の「田中外務大臣ノ訓示」である。 *リンクします「東方会議1927年」における「対支政策綱領」
|
|
1927年昭和2年7月10日 |
岩波文庫文庫創刊
|
●岩波書店は、それに対して真に古典的価値ある書を厳選し、100ページを基礎単位にして分売できる(全集セットではない)廉価普及版である文庫を創刊したのである。下は1927年7/9「岩波文庫」刊行の広告『古今東西の典籍。自由選択の普及版・岩波文庫』に書かれた「読書子に寄す」の部分引用。
・・・・近時大量生産予約出版の流行を見る。その広告宣伝の狂態はしばらくおくも、後代にのこすと誇称する全集がその編集に万全の用意をなしたるか。・・・この文庫は予約出版の方法を排したるがゆえに、読者は自己の欲する時に自己の欲する書物を各個に自由に選択することができる。携帯に便にして価格の低きを最主とするがゆえに、外観を顧みざるも内容に至っては厳選最も力を尽くし、従来の岩波出版物の特色をますます発揮せしめようとする。この計画たるや世間の一時の投機的なるものと異なり、永遠の事業として吾人は微力を傾倒し、あらゆる犠牲を忍んで今後永久に継続発展せしめ、もって文庫の使命を遺憾なく果たさしめることを期する。・・・
|
|
1927年昭和2年7月24日 | ![]() 小説家。東京生まれ。別号澄江堂主人、我鬼。第三次、第四次の「新思潮」同人。「鼻」が夏目漱石に認められ、文壇出世作となる。歴史に材を取った理知的・技巧的作品で、抜群の才能を開花させた。致死量の睡眠薬を飲み自殺。著作「羅生門」「地獄変」「歯車」「或阿呆の一生」「西方の人」など。明治25~昭和2年(出典)「日本国語大辞典精選版」 ●新聞は昭和2年(1927年)7月25日の東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」昭和49年朝日新聞社発行 |
1927年昭和2年8月13日 |
新しいマスメディア・ラジオ放送出現
●8月13日に開幕した甲子園の第13回全国中等学校優勝野球大会で、ラジオが初めて実況放送を行った。全国を結ぶ放送網は未完成だったので、大阪地方だけの放送だった。しかし昭和6年の満州事変以降、時局関係の臨時ニュースが人々の関心を呼び聴取者は急速に増加した。昭和7年2月には聴取契約数は100万を突破した。 NHKアーカイブスより「第13回全国中等学校優勝野球大会」 |
1927年昭和2年8月30日 |
「女たちの最大の争議」山一林組で1357人スト突入
*リンクします 「女工哀史」 細井和喜蔵 著 改造社 大正14刊→
|
1928年昭和2年9月1日 |
宝塚少女歌劇団・日本初のレビュー『モン・パリ』を上演
|
1927年昭和2年10月16日~ |
![]() ●院賞受賞は日本画・鏑木清方「築地明石町」、洋画・田辺至「裸体」、彫刻・横江嘉純「大乗」。 (左の日本画)鏑木清方「築地明石町」1927年(出典)「原色明治百年美術館」朝日新聞社1967年年刊 |
1927年昭和2年11月1日 | (講談社「キング」11月号、140万部を完売) ●この「キング」は初の100万部越えの雑誌となる。11月号は、キングに付録「明治大帝」をつけたもので、この付録は出版界始まって以来の大付録で、箱入り828ページ、定価がキングと2冊で一円だった。この「明治大帝」はのちに単行本として発売されベストセラーとなったという。こうして講談社は、『雄弁(明治43年)』『講談倶楽部(明治44年)』『少年倶楽部(大正3年)』『面白倶楽部(大正5年)』『現代(大正9年)』『婦人倶楽部(大正9年)』『少女倶楽部(大正12年)』『キング(大正14年)』、そして翌年には『幼年倶楽部(大正15年)』を創刊し「9大雑誌」を刊行した。この9大雑誌で国内発行の雑誌の6割以上を占め、講談社は「雑誌王国」と呼ばれるようになった。 |
1927年昭和2年11月3日 | ●初めての明治節。この日は旧制の4大節のひとつで、明治天皇の誕生日。明治神宮に参拝者が昼間約50万人、夜約30万人。 |
1927年昭和2年12月20日 |
野田醤油争議(戦前最長ストライキ)
|
1927年昭和2年12月30日 | ![]() 左絵は「上野-浅草間開通のポスター」昭和2年。杉浦非水作(出典)『昭和2万日の全記録』講談社1989年刊 |