1923年(大正12年)関東大震災発生、戦争景気が終わる。

アジア・太平洋戦争

貿易収支・物価・為替・金融など、お金のことを知らないと政治もわからない。
 日本は第1次世界大戦の戦後景気を契機に、農業国から工業国に発展していった。工業といっても軽工業(繊維工業)が主体であったが、農業においても、繊維産業の主体(生糸)であった「繭(まゆ)」の生産によって活況を呈した。また工業の発展に伴い、全国で工場の数は3倍にも増え、工場労働者の需要は増大し、農業から工業へ仕事を変える人たちも増大した。だが好景気のブームは、過剰となった資金による株式や土地の投機につながり、米の買い占め、売り惜しみなど、さらなる物価の高騰をまねき、庶民の生活を直撃した。そんななかで起きた労働者・農民などによる「米騒動(1918年7月)」は全国に波及した。これは未曾有の大騒動となり、日本における全国規模の社会運動のはじまりとされる。
●だが戦争景気は、1920年(大正9年)3月の東京株式市場での株式の暴落で終わりをむかえる。そして「関東大震災(1923年・大正12年9月1日)」が起き、日本は世界恐慌へ巻き込まれていく。
(上写真・部分)「関東大地震」駿河台から小川町を距てて丸ノ内方面を望む(出典)「アサヒグラフに見る昭和前史1(大正12年)」朝日新聞社1975年刊より

目次
主要項目 内容
★国内経済状況と社会情勢(概略)
1914年頃~1925年頃
第1次世界大戦の勃発と日本の「大戦ブーム」
最初に、日本の転換期となった第1次世界大戦頃から昭和初期の経済的時代背景を要約して概略を述べる。現在における日本の政治的・経済的基盤の成り立ちがこの時代から始まる。日本は明治以来、「富国強兵」と「産業貿易立国」が日本の国是であったに違いない。そして、大正デモクラシーといわれる労働運動、普通選挙運動などについても概略を述べる。

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★経済状況(1914年頃~1925年頃)と社会情勢(概略)。

事項・内容(経済数値とグラフなどによる概説)
最初に第1次世界大戦(1914年・大正3年~1918年・大正7年)後の経済状況を概観する。『昭和2万日の全記録』講談社(1989年刊)、『昭和財政史』(戦前編)大蔵省(財務省)、慶応義塾大学出版会発行(2011年)「日本経済史」等からの要約。社会情勢のところは、「日本の歴史(第12巻)世界と日本」読売新聞社1966年刊から要約した。
第1次世界大戦の勃発と日本の「大戦ブーム」

第1次世界大戦、1914年7月~1918年11月(大正3年~大正7年)

●日本経済は第1次世界大戦直前には、国際収支の入超による正貨流失が続き、金本位制維持のため緊縮政策への転換を余儀なくされる正貨危機にあった。しかしこの戦争により、ヨーロッパの戦争国の物資不足は、まだ工業的には後進国であった日本にも軍需品の注文が殺到するようになり1916年(大正5年)には戦争景気にわきたつことになった。表参照。
●「貿易収支」は各種商品の輸出が増大し、「貿易外収支」は運賃が暴騰して海運が活況を呈し、「対外債務」は戦前20億円の対外債務を持ちその利払いに困り抜いていたのが、戦争中に得た資金を中国その他に投資し、逆に戦後には20億円の債権を外国に対して持つまでになった。
●ブームとなった輸出商品の例を述べると次のようである。
①生糸は戦前の相場が1コオリ830円程度が、1919年(大正8年)には2000円をこし、輸出量も40%に増加した。
②造船は戦前数社しかなく造船トン数も5万トン程度であったのが、戦時中に50社60万トンに増加した。そしてこの造船ブームは関連する鉄鋼業、機械工業の盛況を引き起こした。例えば日本の銑鉄生産高は、戦前25万トンを目標としていたが、1918年(大正7年)には50万トンを優にこえた。そして化学工業、運輸事業も急速に発達し、その産業の動力として電気が利用されるようになった。表「貿易収支」「貿易外収支」「対外債権債務対照表」(出典)昭和財政史1巻総説

大戦後の経済構造の変化

●日本の農業(家族農業)は、戦前において産業部門別生産額(表)のように、農産生産額で総額の45.4%を占め工業生産額をこえていたが、1919年には工業が56.8%を占め、農業は35.1%と逆転された。それに従って国内に多数の工場が設立され、多くの工員が動員された。


●第1次世界大戦の好況を契機とする7年間において、工業部門構成(下表)のように、日本の工場数は3倍近くなり、職工数も98%の増加をみた。軽工業と重工業の割合は、工場数、生産額においても約70%が軽工業であり、なかでも生産額が多かったのは、繊維工業(生糸・紡績など)であった。
●このような日本の経済力の拡大のなかにあって、日本政府の政策は積極政策であり、対外貿易、対外投資を助長することであり、帝国蚕糸株式会社法、造船奨励法、製鉄業奨励法などによる法律による保護制度であった。大戦後の第41議会(1918年・大正7年~1919年・大正8年)原敬内閣で決定した4大政策綱領は「国防の充実、教育の振興、産業の奨励、交通機関の整備」であった。
表、「産業部門別生産額」「工業部門構成」(出典)昭和財政史1巻総説
巨額な「直接軍事費」


●戦時中の政府の1番の財政支出は巨額な「直接軍事費」であった。これは年々増加し、1914年(大正3年)~1918年(大正7年)にかけては、財政支出の40%~60%を占めるに至った。日本は第1次世界大戦によるヨーロパ各国の勢力後退をチャンスに、中国への勢力拡大を実行したのである。日本は軍事行動を基礎に中国に対して大陸政策(軍国主義・侵略)を開始したのである。これが日本の「21か条の要求(1915年)」「西原借款(1917年~1918年)」「シベリア出兵(1918年~1922年)」であった。表参照。しかしこの間、中国と朝鮮では反日・民族主義運動、民族自決・独立運動が起こってきた。中国では1919年5月の「五・四運動」、朝鮮では1919年3月の「3.1事件」であった。この時の首相は陸軍大将・元帥で、韓国統監として韓国併合を推進、初代朝鮮総督であった寺内正毅であった。
表、「軍事費の変化」(出典)昭和財政史1巻総説

第1次大戦後の金融恐慌と社会運動・労働運動

●1918年(大正7年)11月ドイツは降伏し第1次世界大戦は終結した。第1次世界大戦期の日本経済は、アメリカ市場や東南アジア市場むけの輸出が伸び、空前の戦争ブームとなった。左グラフ「日本の輸出額」参照。それは生糸・綿糸・鉄などの盛況だけでなく、株式や土地の投機的値上がりも生んだ。そして戦争による好景気は物価の急騰となり、庶民の生活を直撃した。
●そして1918年(大正7年)7月、米商人らの米買い占めや売り惜しみに対する富山県魚津の主婦等から起こった「米騒動」は、全国に波及し、労働者・農民を主力とする未曾有の大騒動となった。これは日本における全国的な社会運動のはじまりであり、これを機に労働者の運動・農民の運動が日本において本格化していった。これに対して政府は軍隊を出動させ鎮圧したが、寺内正毅内閣は倒れ、代わって原敬内閣が成立したのである。グラフ「米価の推移」と下の「諸物価指数動向」を参照。
●そしてついに戦争景気の反動がはじまった。1920年(大正9年)3月の東京株式市場での株式の暴落が始まりだった。これが第1次世界大戦後の反動恐慌となった。全国の銀行(169行)で取付けとなり、休業に追い込まれた銀行も21行(七十四銀行など)に達した。会社・商店の破産は、茂木商店(横浜の大貿易商)をはじめ大きなものだけで285社に達した。この恐慌の中心となった事業は繊維で、輸出品を製造する中小工業であった。そしてそれは綿糸、砂糖、鉄等の大企業に拡大するおそれとなったため、政府と日銀は非常手段をとり救済的な資金を供給した(2億5500万円)。こうして恐慌は押さえられたが、原因が除去されたわけではなかったので、むしろ恐慌は慢性化し、経済界はひろく不景気となった。
3つのグラフ(出典)「日本経済史1600-2000」慶應義塾大学出版会2011年初版第3刷発行

(重要語)金本位制と為替
●金本位制とは、純金の分量で兌換(金と交換できる)紙幣を発行して、紙幣の価値を安定させるシステムである。金に対する紙幣の価値であるから、他国との交換レート(為替レート)も固定化できる。具体的には、日本の1917年(金輸出禁止)までのドルと円の交換レートの計算は概算で次のようである。(グレーンとはヤード‐ポンド法での重量の単位)

●日本の平価は1円=金0.75g(11.5742グレーン)とし、アメリカ・ドルでは1ドル=23.22グレーンとした。ドルでは、1グレーン当たり1÷23.22ドルとなるので、1円=11.5742×(1÷23.22)≒0.49845となり100倍すれば、100円≒49.85ドルとなる。この平価にもとづく為替相場は、49.875ドル(49ドル7/8)とされている。
●第1次世界大戦時、1917年にアメリカも日本も金輸出禁止(兌換停止)し金の流出を防止したが、アメリカは戦後1919年には金輸出を解禁し金本位制に復帰した。1922年には世界各国も会議を開き、各国が金本位制に復帰するように決議した。この金輸出禁止(兌換停止)というのは、金本位制を停止したことなので、為替相場は実質の変動相場制となった。日本でも1917年以来禁止していた金解禁が政策課題となったが、政友会の原内閣・高橋内閣はこれには消極的だった。そうしているうちに関東大地震や貿易収支の大幅な赤字により、為替相場は低落し、金本位制の復帰が困難になっていった。上の「ニューヨークあて対米為替相場」の表は、日本から見た100円あたりのドル表示なので、円の価値(ドル)が下がっていく「円安」が直感的にわかる。表(出典)昭和財政史第13巻(国際金融・貿易)
輸出の激減と物価の下落と関東大震災

●輸出総額については、左表「貨物輸出入(全国)・貿易外収支(経常的)の推移」にあるように、1919年(大正8年)に約21億5千万円で、戦時中の最高水準をこえたが、1921年(大正10年)には約13億円に低下した。そして1925年(大正14年)に23億8千万円に達したが、これはアメリカの好景気による生糸の激増と円安による輸出の伸びによる1時的なものであった。輸入については、1924年・1925年(大正13年・14年)は26億円、27億円の空前の高水準となったが、これは1923年(大正12年)9月の関東大震災による復興物資の大輸入による一時的現象であった。ここでの問題は、1919年~1926年(昭和元年)に至るまで毎年入超が続いたことである。表は(出典)昭和財政史第13巻(国際金融・貿易)。


●この状況を、左グラフ「日本の国際収支」から貿易収支をみると、1923年(大正12年)9月の関東大震災の影響が非常に大きかったことがわかる。
グラフ(出典)「日本経済史1600-2000」慶應義塾大学出版会2011年初版第3刷発行。
●関東大震災の対策として山本内閣、清浦内閣は、被害を受けた産業救済として、①約4億3千万円の震災手形の発行②数年にわたる復興事業として約13億円の支出を決定した。そして財政の不足を補うために、ロンドンとニューヨークで金利の高い約5億5千万円もの巨額な外債(屈辱公債とよばれた)を起こした。だがこの巨額な外債発行は、すでに相当行き詰っていた財政を、さらに悪化させていった。

●次に物価の変動を左表で見ると、卸売物価は不況の圧力のもと低落傾向となっている。だが商品別に見てみると、その低落度には差があった。それはコメの低落が最も激しく、銑鉄および銅は昭和3年・4年で価格上昇をしめしていることである。これは各電力会社の拡張設備、送電線幹線の使用増加にあるとされ、昭和3年度における消費された銅の約8割は電気事業関係であったとされる。またここでのポイントは、物価の低落の中で、大企業の結合(カルテル形成)が行われ、市場対策が良く行われた部門では、価格低落をくいとめたということである。
表は(出典)昭和財政史第9巻(通貨・物価)。
●円の為替相場をみると、さらなる外債(電気会社の2億5千万円)によって為替の元資は十分になったはずにもかかわらず、円の為替相場は却って下落をきたし、1924年(大正13年10月)には38ドル半という空前の大安値を記録した。グラフ「対米為替相場」。
グラフは(出典)「日本経済史1600-2000」慶應義塾大学出版会2011年初版第3刷発行。
●「在外正貨」の役割。左グラフ「日本の正貨保有高と日本銀行券発行高」をみると、日本は第1次世界大戦時獲得した「在外正貨=政府・日銀が保有する外貨資産」を1920年末において10億円を保有していた。それを国際収支決済の手段として利用してきたが、1924年には貿易収支は、8億5千万円をこえる大幅な赤字を記録した。1920年以降、政府・日本銀行は、為替銀行に対して在外正貨の払下げを行い対処してきたが、大幅な赤字を決済することはできず、外債の発行による外資導入をはかっていった。
●日本銀行券の発行。日銀券は大正8年(好況の絶頂期)の発行高を年々上回って増加している。しかしこの内容は、一般貸出ではなく、特別融通残高が大きな割合を占めていた。すなわち金融恐慌によって破綻に瀕している企業への特融救済であった。だから産業の要求による通貨の膨張ではないので、デフレ対策にはならなかった。
●こうして日本は昭和金融恐慌、世界恐慌(昭和恐慌)へと向かう。
グラフは(出典)「日本経済史1600-2000」慶應義塾大学出版会2011年初版第3刷発行。

*リンクします「昭和財政史(戦前編)」→財務省・財務総合政策研究所

社会情勢 (概略)
事項・内容(第1次大戦頃から大正時代全般)項目別に概略
(大資本家の発展)

●第1次世界大戦中の空前の大好況は、重工業・化学工業を発展させ、銀行資本の集中と同時に産業の大資本家も生み出した。1917年(大正6年)3月、主要産業の大資本家だけを会員とする「日本工業倶楽部(くらぶ)」が作られた。会員名は以下の通りである。財閥を中心とする「かくれた政府」とよばれるほどの力を持ち、「工業の発達をはかることを目的として」政府や政党を動かした。

理事長・団琢磨(だんたくま=三井財閥・総指揮者)。専務理事・和田豊治(わだとよじ=三井系の紡績資本家)、郷誠之助(ごうせいのすけ=三菱系電気事業資本家)その他。評議員会長・豊川良平(とよかわりょうへい=三菱財閥の総指揮者)、副会長・馬越恭平(まごしきようへい=三井系ビール王)

●また大戦の後半期は、成金(なりきん)時代とも言われ、都市も農村も好景気で浮き浮きしていた。小金をもつものが株式相場に手を出すことも大流行した。金と野心のあるものが製糸工場を建て成功したり、船大工の親方でも、田舎の金物屋でもちょっとした成金になった、という話はどこにでもあったという。しかし大資本家のもうけは夢のようで、代表的なものは、「鈴木商店」や「内田信也の内田汽船」であった。

(農村の景気)

●平均米価は左図(経済状況で引用)にあるように、1915年(大正4年)は1913年(大正2年)より4割以上下がった。政府は米価引き上げにやっきとなったが、翌1916年も安値であった。しかし一般物価高の影響は農産物にあらわれはじめ、好景気と都市の人口増による米の需要の増大によって、米価は上がりはじめ、ついに買い占めや騰貴による1918年(大正7年)7月の「米騒動」につながっていく。
●また繭(まゆ)は米につぐ重要農産物で、生糸の輸出の激増にともなって、生産も増加し値段も上がっていったので、農村景気の中心となった。
●しかしこの農村景気は農家全体のものではなく、富農に上っていく一部のものと、都会に働きに行かざるをえないもの(零細農家)とへ分化していった。なかでも、自分で農業をしないで、小作人に土地を貸し付ける寄生地主が、米の投機的な販売で大もうけをしたり、大地主や巨大地主となって繁栄していくものも増加していった。
●こうして大都会や工業地帯の近くでは、小作人や農業日雇い労働者が、鉱工業へ仕事を求めて村を出て行ったり、千葉県では農民が農業をすてる傾向が強くなったりした。例えば埼玉県では、鋳物工業で知られた川口町や鉄道工場のあった大宮町の近くでは、農業から工場労働に移るものが多かった。
上グラフ(出典)「日本経済史1600-2000」慶應義塾大学出版会2011年初版第3刷発行。

(大正デモクラシー)

「民本主義」「普通選挙運動」「労働運動」「米騒動」「部落解放運動」
●「民本主義」とは、東京帝大教授吉野作造(よしのさくぞう)が「デモクラシー」を訳した言葉である。そして衆議院が枢密院や貴族院よりも優先されるべきと主張し、衆議院中心の議会政治と政党内閣の必要を説いた。この論は、「普通選挙運動」にも理論的根拠を与え、都市の中小ブルジョアや知識人に支持され、急速に広まった。そしてこの運動の中心団体だった「普通選挙期成同盟会」(大逆事件《1910年》後にいったん解散)も各地で再興され始めた。
●「労働運動」も大逆事件以後、政府による弾圧を受けていたが、1912年(大正元年)鈴木文治による「友愛会」が組織された。この会は、人道的立場から労使協調を指導精神としていたために、官憲からの弾圧を受けることもなく、渋沢栄一らの大資本からの援助も受けていた。会は年ごとに発展し1916年(大正5年)ごろには1万人の会員を有し、全国に10余の支部を持つに至った。しかし鈴木自身によるアメリカ旅行をきっかけに、現地の労働組合運動を学び取り、日本での活動を変え、「労働者共通の利害」「団結権」「罷業権(スト権)」を強く主張するようになった。そしてこの活動は労働組合の先駆となり、1921年(大正10年)の「日本労働総同盟」に発展した。ストライキ件数(出典)「日本の歴史第12巻」読売新聞社1963年刊をもとに作成。


●第1次世界大戦(1914年7月~1918年11月)(大正3年~大正7年)中の、1916年(大正5年)後半から物価の騰貴(左グラフ)が始まり、賃金の上昇をはるかに追い越して、労働者の生活は苦しさを増した。大戦中の近代工業の発展は労働者を激増させており、それにともない労働争議も激増していった。「大正前期のストライキ件数」みると上図のようで、1917年(大正6年)から激増している。上グラフ(出典)「日本経済史1600-2000」慶應義塾大学出版会2011年初版第3刷発行。


●「米騒動(1918年)」は、背景に1916年(大正5年)・1917年(大正6年)の気候不順と農業労働力不足(都市へ流出など)による米の減収があった。そして都市人口は戦前の約2倍、鉱工業人口も2倍以上に増大しており、米の需要は激増していた。そして米不足の解消のために外米の輸入を自由にさせる要望がたかまったが、時の政府は自由にはさせなかった。なぜなら米価の下落は、地主層の利益を減少させるからであった。そして外米の輸入業務は、政府と結びついた三井物産や鈴木商店などに独占させた。そしてこの不均衡は、投機商人と大地主の買い占め、売り惜しみを引き起こした。政府は、新聞各社による無能無策の非難にもかかわらず、何の対応もしなかった。米騒動が起こり始めたころ、同時に賃上げ要求の労働争議がいたるところで起こり始めた。
●1918年(大正7年)7/23富山県魚津の漁民の妻女達から始まった「米の県外移出中止」や「米の安売り」や「生活困窮者への援助」の要求運動は、県内に広がっていった。そして岡山県・香川県などで同様な騒動が起きはじめ、ついに8/10夜京都市の「未解放部落民」が蜂起して、米屋を襲った。これが全国に広がり、米屋の襲撃、悪徳富豪の家の打ちこわし、米の取引所の襲撃や、農村では地主が襲われた。
そして山口の炭鉱と、福岡の炭鉱の争議が同日に暴動となり、九州の炭鉱ではつぎつぎに争議が起こり、そのうちの10ヵ所では大暴動となり、軍隊による実弾による鎮圧と、炭坑夫によるダイナマイトの応酬というような戦いが行われたところもあった。
上写真「1918年8月12日夜、憲兵とにらみ合う名古屋市の群衆」(出典)「日本の歴史第12巻」読売新聞社1963年刊
●1918年の9月で終了したこの騒動の結果は、群衆の示威運動または暴動の起こったところ合計310カ所、1カ所も起こらなかった都道府県は4県、軍隊の出動は70市町村、騒動に参加した者は、100万人を越えたとされる。この騒動は突発的に起こったもので、計画性や組織性はなかった。しかし民衆は社会的にも政治的にも自覚をもつようになり、労働運動、農民運動、水平運動(部落解放運動)などは大きく発展していった。
これにより、寺内内閣は総辞職し原敬内閣が1918年(大正7年)9月に成立した。最初の政党内閣(政友会)である。第1次大戦は1918年11月に終結した。
原敬(はらたかし)内閣1918年(大正7年)9月29日成立、最初の政党内閣(政友会)

政治家。岩手県出身。新聞記者から官僚となり、伊藤博文に信任される。第四次伊藤内閣の逓相、第一次・第二次西園寺内閣、第一次山本内閣の内相を歴任、大正3年(1914年)立憲政友会総裁となり、同7年寺内内閣の後、平民宰相として初めて政党内閣を組織。東京駅頭で暗殺された。(出典)「日本国語大辞典精選版」
●原敬は民衆から「平民宰相」とよばれ「民衆の時代」の象徴と喝采された。原内閣の4大政策綱領は「国防の充実、交通通信機関の整備、教育の振興、産業の奨励」であり、大正9年度予算においてその実行を試みた。明治大正財政史1巻を読むと、これらの巨額の経費支弁のために政府が採用した方策は次のようである。「増税の実行・公債の発行・減債基金繰入の停止」の3つで、国防充実費の財源は、増税収入及び減債基金繰入の停止による余裕金をあて、その他は主として公債に仰ぐ、とある。
(注)この「減債基金繰入の停止」については、現在においても論議されることがある。
●このために歳出予算は急激に膨れ上がり、1918年(大正7年度、寺内内閣)の歳出は8億4千万であったが、1921年(大正10年度、原内閣)の予算は15億8千4百万円で、3年間で2倍近くになった。
●しかし1920年(大正9年)3月、第1次世界大戦後の戦後(反動)恐慌が、東京株式市場での株式の暴落から始まった。
上写真「1918年9月30日、前首相寺内正毅(左軍服)と総理大臣官邸で事務引継ぎを行う原敬(右)」(出典)「日本の歴史第12巻」読売新聞社1963年刊

(恐慌の原因)

「日本銀行百年史」第3巻(大正9年の大反動と特別融通)のところで、この恐慌についてわかりやすくまとめている箇所がある、そこの一部を引用してみる。

「日本銀行百年史」第3巻(一部引用)
「・・ともあれ、9年3月以降の財界動揺は6月には一応鎮静した。高橋蔵相は7月11日の貴族院本会議において、「打撃の峠は越した」「是から段々堅実に発展するやうに赴いて来る」と述べている。もっとも、動揺の鎮静は「一時的表面的の仮装」にすぎないという意見もあったが、9年下期に入るや、ようやく明らかになってきた世界的な戦後景気の反動と銀価暴落の影響を受けてわが国経済はさらに沈滞した。
 すなわち、第1次大戦に伴う疲弊から容易に回復することができなかったヨーロッパ諸国はしだいに不況の過程に入り、大戦景気を享受していたアメリカも大正8年11月来の引締め政策により景気後退を生じていた。また、インドは連月の輸入超過と銀価暴落に悩まされ、中国も引き続く南北の抗争、大凶作および銀価暴落の影響で輸入力を減殺されつつあった。

このため、大正9年下期のわが国輸出額は前年同期比36.3%の大幅減少を示し、年間の貿易収支赤字幅は3億8778万円と前年(7459万円)の5.2倍に上る巨額に達した。第1次大戦後の熱狂的好況の大反動に伴う国内経済の沈滞に加えて、大戦中の経済発展の原動力となった対外貿易が不振に陥ったので、各種の滞貨は倉庫にあふれ、生糸や綿糸など主要商品はことごとく不況にさらされた。さらに、豊作による米価の下落から地方の景気も衰退し、商勢は一段と鈍化した。大正9年中における主要商品の最高・最低値を見ると、熱狂的好況の波に乗りえなかった銅・洋紙・石炭を除けば、いずれも半値以下に低落しており、生糸・綿糸・羽二重・鉄は3分の1前後に落ち込んでいた。反動後の景気沈滞がいかに深刻なものであったかが知れよう(なお卸売物価の動きをみると、ピークの大正9年3月から同年末までに36%、さらに翌10年4月までには通計41%下落し、大正8年のブームの始まる直前の同年4月の水準に比べ6%、第1次大戦終了時の大正7年11月の水準に比べれば10%も下回るに至った)。」
*リンクします「日本銀行百年史」→「日本銀行」日本銀行について
(ロシア革命の影響、社会主義、共産主義)

●1917年(大正6年)のロシア革命は、日本の為政者、資本家、一般民衆に大きな影響を与えた。それは、帝政が倒され、そして資本家の権力も労働者ら一般民衆によって倒されたからであった。
また日本の為政者は、この革命の思想が日本国内および、とくに日本に併合された朝鮮の民族独立運動に影響することを恐れた。
写真(出典)「世界の歴史14」中央公論社1963年刊
●1917年3月の政友会総裁原敬の日記には次のようにある。

「ロシア革命を見て、超然論者も夢をさまさなければならない。近来のことは、皇室のため国家のために憂慮にたえない」

寺内首相は1918年(大正7年)5月に地方長官会議で次のように訓示した。

「資産家と労働者の生活のへだたりがひどくなり、民衆の生活難が深刻になるとともに、『外国』の影響で、『国体に合わない』国民思想の変化が起こりつつあるのを警戒せよ」と言った。

またこの年首相になった原敬は11月の日記にはつぎのようにある。

「人民はいつとはなく国外の空気に感染し、社会主義の伝播は、いまさら、にわかにどうしようもない形勢である」

と書いている。発言・日記類(出典)「日本の歴史第12巻」読売新聞社1963年刊

(労働運動の組織化と普通選挙要求運動)

●日本の社会運動と労働運動は、1917年のロシア革命、1919年パリ平和条約における国際労働協約(労働組合の自由、最低賃金制、8時間労働制、少年労働の禁止)などにより大きく影響を受けた。左の表は「第1次大戦後の労働争議件数と労働組合数」である。表にあるように1919年(大正8年)の争議総件数は一気に増大している、これ以外を含めて一例を列挙してみると以下のようである。東京砲兵工廠など軍工廠で2万7千人のスト、大日本鉱山労働同盟会(釜石鉱山、足尾銅山など)、神戸川崎造船所で1万7千人の争議(9月)、東京の主要新聞社の印刷工ゼネスト(7月)、印刷工組合信友会ゼネスト(10月)など。また普通選挙要求運動は、3千人の大学生による帝国議会デモ(2月)、京都と神戸で友愛会が中心となった普選要求大会開催(2月)、東京では市民と労働者を主とする5万人のデモ(3月)など、労働者と学生を主力とする普選運動が全国的に発展した。表は「日本の歴史第12巻」読売新聞社1963年刊、をもとに作成。

●これに対して原敬内閣(政友会)は、1919年(大正8年)3月、普選要求をそらすため、議会に、選挙権資格を納税額10円から3円に引き下げ、大選挙区制を小選挙区制に改める法案を提出した。野党の憲政会と国民党も法案を出そうとしたが、政府案が通った。これにより有権者は、約146万人から2倍近い287万人となったが、当時の日本の人口(5700万人)に対して5%でしかなかった。しかし都市有権者の増加は11万人にすぎず、政友会は地方の自作農民に選挙権を与えることで地盤を守ったのである。
(注)2017年10/22の衆議院総選挙の有権者数(106,091,229人)を2017年5/1現在の日本人の人口(124,758千人)で割ると、現在の日本の有権者率は約85.04%である。(数字出典:総務省)
左の写真①は「大正8年4月13日、上野公園の普選宣伝大野外演説会」その下④の写真は「大正9年2月11日、議会に押しかけた普選促進同盟会、全国学生同盟会などの人々。」写真2枚(出典)「日本の歴史第12巻」読売新聞社1963年刊。
●こののち普選運動はいっそう強力になっていった。「普選の実施・労働者団結権の承認・言論の自由」これが学生・青年と労働組合のスローガンであった。そのため憲政会総裁加藤高明や国民党の犬養毅も、民衆を革命に走らせないためには、普通選挙が必要と考えるに至った。
写真は1920年(大正9年)5月2日、日本で初めて公然と行われたメーデー(上野公園)の写真。ここでは友愛会・信友会、労働組合・学生団体、そのほか15団体が主体となり、「8時間労働制・失業反対・治安警察法17条廃止」を可決し、万国の労働者の団結を強調した。しかし解散し始めると、いたるところで警察と衝突してたちまち検束された。当時の思想は、「労働者は組合に結集して直接行動(激烈なゼネスト)で資本主義を破壊する」というものと、「労働者階級が権力をにぎるため政治闘争を行う」という2つの考えがあった。
写真(出典)「日本の歴史第12巻」読売新聞社1963年刊。
●しかし、これらの動きに対して、政友会の原首相は、野党の提出した法案に対して「社会組織をおびやかす不穏な思想があるから、この可否を問う」という理由で1920年(大正9年2月)議会を解散した。そして選挙で政友会は、「普選をやればみんなの財産はとられて貧乏人に分配される」などといって、主として地主と自作農たちの農村の有権者をおどかした。その結果政友会は、過半数を50名上回る圧倒的勝利を得た。政友会は「力は正義なり」と豪語し野党の普選法案を一蹴した。そして普選運動は勢いを失っていった。
(その後の社会運動)

●(小作争議)
恐慌における小作争議は激増し、農民思想の変化と農民運動の広まりを基礎に1922年(大正11年)4月「日本農民組合」がつくられた。その創立宣言は、「われら農民は互助と友愛の精神をもって解放の途上に立つ」とし主張も「耕地の社会化」という穏やかのものであったが、ぞくぞくと先進的な農民の加入により、1923年(大正12年)には戦闘的小作人組合(支部300、組合員1万人超)となっていった。
●(全国水平社)
1922年(大正11年)3月、部落解放運動は奈良県の西光万吉・阪本清一郎らの努力によって「全国水平社」が作られた。創立大会の宣言は、部落民自身の闘争だけをたよりに、自力によって真の解放をかちとろうというものであった。そして1926年(大正15年)の第5回大会では、差別は民衆の責任にあるのではなく、「皇族・華族・平民」という身分制度がある社会の仕組みにあるとし、労働運動・農民運動などと手を組んでいこうと方向性を決めた。
●(婦人運動)
1919年(大正8年)末から、女性に対する封建的な差別・圧迫から解放されようとする婦人運動・男女同権運動が起こってきた。「平塚らいてう・奥むねお・市川房枝」らは、治安警察法第5条の修正運動を起こし、さらに女子の高等教育の拡充・男女共学・母性保護・婦人参政権のために、翌1920年「大正9年」3月「新婦人協会」を作った。そして東京・大阪・名古屋・広島・奈良などに支部がつくられ、機関紙「女性同盟」を発行した。これらの運動は1922年(大正11年)に成果を生み、治安警察法の一部が修正されたが、女子の政党加入はなお禁止された。しかし「新婦人協会」はこのあと突然解散してしまった。思想的な対立が底流にはあったとされる。

「公文書にみる日本のあゆみ」の「治安警察法」解説
「明治33年(1900)3月9日治安警察法が公布され、3月30日に施行されました。同法は、集会・結社の届け出を義務とし、軍人・警察官・宗教家・教員・学生・女子・未成年者の政治結社加入と女子・未成年者の政談集会参加を禁止したほか、集会に対する警察官の禁止・解散権、結社に対する内務大臣の禁止権を規定しました。また、労働者・小作人の団結・争議を禁止し、日清戦争後盛んになりつつあった労働運動・農民運動の取締りを盛り込みました。掲載資料は、同法公布時の閣議書です。」とある。

*リンクします「国立公文書館」「公文書にみる日本のあゆみ」→「治安警察法ヲ定ム」

●(共産党の結成)
1922年(大正11年)1月、モスクにて「コミンテルン」主催の「極東民族大会」が開かれ、ソ連にいた片山潜や徳田球一らが参加し、日本共産党を作ることを決定した。コミンテルンとはロシア共産党を中心として、各国共産党を支部とし世界革命をめざす国際組織のことである。そして1922年7月15日、秘密裏に日本共産党が作られた。創立メンバーは、堺利彦・山川均・高津正道・荒畑寒村・徳田球一・高瀬清らであった。しかし翌1923年(大正12年)6月、堺利彦ら80余名が一斉検挙された。(第1次共産党事件)
そして1923年(大正13年)、警視庁にしか設置されていなかった特別高等課を、北海道・神奈川・大阪・京都・兵庫・愛知・山口・福岡・長崎・長野の、各府県の警察部に設けた。特高課は、幸徳事件(=大逆事件1910年)を契機に作られた社会運動や社会主義を取り締まる特別の警察であった。

(原首相暗殺)1921年(大正10年)11月4日東京駅頭で刺殺される

原内閣の政友会は、地方の地主・資産家や財閥の支持を受け、国内では「産業立国」をスローガンに積極的な財政運用を行った。外交的には対英米協調路線を基本とした。そして国際連盟(1920年発足)では日本は常任理事国となり世界において「一等国」となった。しかし1920年(大正9年)3月、株式相場の暴落から戦後(反動)恐慌が起こった。この時、原内閣は銀行・会社を救済したが、これは一時的なものであった。恐慌は押さえられたが、むしろ恐慌は慢性化し、経済界はひろく不景気となった。そして小作争議、労働運動、普選運動の社会運動は激化し、共産党の結成もあった。また同時に中国・朝鮮の日本に対する民族自決の運動や、シベリア出兵の失敗など、日本は対英米協調路線を取らざるを得ず、また海軍軍縮についても財政上からも承認せざるを得なかった。この困難な時代にあって原首相は、鋭利な頭脳、強固な意志、決断力、統率力など類のない政治家であった。暗殺犯は、政友会内閣の強引な施策に不満を抱いて凶行におよんだと供述したとされるが、本人が3度の大赦で釈放されていることから、事件の背後関係など謎が多い。

高橋是清(たかはし-これきよ)内閣成立(政友会)

政治家。財政家。江戸の人。仙台藩士高橋是忠の養子。米国留学後森有礼の書生となる。開成学校卒業。文部省、農商務省、日本銀行に勤め、明治44年(1911年)日銀総裁。また蔵相、政友会総裁、首相などの要職を歴任。昭和11年(1936年)の二・二六事件で暗殺された。(出典)「日本国語大辞典精選版」
●1921年11月13日高橋是清内閣が成立。高橋是清は蔵相を兼務し、他の前閣僚が留任して成立した。内閣は積極方針を修正して、軍縮(ワシントン体制)と緊縮政策を実行したが、この緊縮政策が内紛となり内閣は7カ月で終わった。1922年(大正11年)6月総辞職。

ワシントン会議

1921年(大正10年)~1922年(大正11年)開催。
●条約内容は、①「海軍軍縮」(海軍軍備制限条約)、②「中国の主権・独立・領土保全を保障する9か国条約」によって山東(旧ドイツ租借地の権益)を中国に返還、③日英同盟の破棄(4ヵ国条約)、また日本だけが撤兵していなかった「シベリア撤兵」などである。ポイントは原内閣は外交政策として、国際的孤立を避け、現実主義による対英米協調路線を基本方針としたことである。そしてその協調路線は、原敬暗殺(1921年11月)後も、幣原喜重郎(外務大臣1924年~)によって引き継がれていった。そしてこの対英米協調路線が政界、経済界、軍部の反発を生んでいったのである。(ワシントン条約体制)

10万人の軍縮

●ワシントン会議の結果、海軍は軍縮を行い、建造計画中の主力艦7隻のうち「陸奥(むつ)」を除く6隻の建造を中止し、旧式戦艦10隻を廃棄した。一方陸軍は、1922年(大正11年)から1923年(大正12年)にかけて、師団の定員をへらし、全国で総計将兵6万3200人、ウマ2万3400頭をへらした。そして1925年(大正14年)には、陸相宇垣一成のもと、4個師団を廃止し、将兵3万6900人とウマ5600頭をへらした。これらは、世界的な軍国主義否定の潮流や、国内でのシーメンス事件(海軍収賄事件)や米騒動で軍が民衆を弾圧したことなど、また国民の反対をふみ切って強行したシベリア出兵を失敗したことなどにより、軍の威信が地に落ちたことも原因であった。

加藤友三郎(かとう-ともさぶろう)内閣成立。(海軍大将)

1922年(大正11年)6月12日
海軍大将元帥。政治家。広島県に生まれる。日露戦争で連合艦隊参謀長。第二次大隈内閣以降四内閣の海相。ワシントン会議首席全権。大正11年(1922年)政友会の支持で組閣。山東問題の処理、シベリア撤兵、軍縮にあたるが在任中に死去。(出典)「日本国語大辞典精選版」

年・月 1923年(大正12年)事項・内容
関東大震災の発生、1923年(大正12年)9月1日、午前11時58分

●9月1日、午前11時58分に発生した地震による被害は、死者9万9千人、行方不明者4万3千人、負傷者10万人をこえ、被害世帯も69万に及び、京浜地帯は壊滅的打撃をうけた。政府は翌日から戒厳令を布(し)いた(9/3東京府・神奈川県、9/4埼玉・千葉県)。そして社会主義者・無政府主義者・労働組合の活動家をかたっぱしから検挙した。そしてこの混乱中で、朝鮮人虐殺事件・亀戸事件・甘粕事件が発生した。
●この朝鮮人虐殺事件は、在郷軍人や青年団が自警団を組織し、流言・デマによって朝鮮人(あるいは似た人)を虐殺した事件で、被害者は3000人に達したといわれる。
●下の写真は太平洋戦争による爆撃の写真ではない。
写真は関東大震災の写真で上が横浜、下が東京で、「駿河台から小川町を距てて丸ノ内方面を望む」とある。(出典)「アサヒグラフに見る昭和前史1(大正12年)」朝日新聞社1975年刊より

1923年
大正12年
9月2日
第2次山本権兵衛(やまもと・ごんのひょうえ)内閣

●1923年(大正12年)8月24日の加藤友三郎首相の急逝後、退役海軍大将の山本権兵衛が、9月1日の関東大地震のさなか組閣した。(外相:山本権兵衛《兼任》・伊集院彦吉、内務大臣:後藤新平、蔵相:井上準之助、、陸相:田中義一、海相:財部彪、文相:犬養毅《兼任》、など)

1923年
大正12年
12月27日
虎の門事件発生(摂政裕仁親王、狙撃事件)

●この事件は、無政府主義者難波大助が「震災時の恐怖政治の元凶は天皇制にある」として、摂政裕仁親王(のちの昭和天皇)を狙撃した事件である。12月27日摂政裕仁親王が、第48議会開院式に出席のため東京の虎の門通過の際、ステッキに仕込んだ銃で狙撃された(銃弾はそれた)。難波大助はその場で逮捕され翌大正13年11月13日大審院で死刑を宣告され、2日後に執行された。山本権兵衛内閣は翌年責任をとって総辞職する。

1923年(大正12年)の出来事 政治・経済・事件・災害・文化

「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊より抜粋
●1/1菊池寛ら文藝春秋社創設、「文藝春秋」創刊。
●2/2婦人参政権同盟が東京で結成。(婦人連盟・新真婦人会・婦人禁酒会・革新倶楽部などが参加)
●2/20日本最大のオフィスビル「丸ノ内ビルヂング」が完成。設計三菱地所部、施工米国フラー建築社。
●5/9北一輝「日本改造法案大綱」が改造社から刊行される。
●6/5日本共産党員(堺利彦ら80余名)が一斉検挙される。(第1次共産党事件)。この事件は、創立されたばかりの日本共産党に対する最初の弾圧事件であった。

下

1924年
大正13年
1月7日
清浦奎吾(きようら-けいご)内閣成立(超然内閣)

山県有朋直系の官僚として、第二次松方、第二次山県、第一次桂各内閣の法相、農商務相、内相をつとめる。大正13年(1924年)内閣を組織したが、護憲三派の攻撃をうけて総辞職。貴族院議員、枢密顧問官、枢密院議長を歴任。(出典)「日本国語大辞典精選版」
●この内閣は、山本権兵衛内閣総辞職後に、貴族院を基礎に官僚の大首領といわれる清浦奎吾が組織した。「超然内閣」といわれる。(陸軍大臣:宇垣 一成など)

1924年
大正13年
1月
(政友会分裂)憲政会と革新倶楽部は、この内閣に対して「特権階級内閣」と呼び攻撃した。政友会は高橋是清総裁はこの内閣に反対したが、床次(とこなみ)竹次郎らは清浦内閣を支持し、政友会は分裂し「政友本党」を作った。
「革新倶楽部」とは1922年に立憲国民党を中心に創立した政党で、事実上の党首は犬養毅。島田三郎、尾崎行雄、中野正剛らを有力党員とした。1925年に大部分が政友会に吸収された。
1924年
大正13年
6月11日
加藤高明(かとう-たかあき)内閣成立(護憲三派内閣)(憲政会)

政治家。本姓、服部。愛知県出身。東京帝国大学法科卒。岩崎彌太郎の女婿。三菱会社から官界に入り、伊藤、西園寺、桂内閣の外相を歴任。日英同盟に尽力、対露強硬論を唱え、第一次世界大戦では参戦と対華21か条を主張、指導した。大正13年(1924年)憲政会総裁として護憲三派内閣の首相となり、普通選挙法、治安維持法を制定。続いて単独内閣を組織したが在任中に死去。(出典)「日本国語大辞典精選版」
●全国的に民衆や新聞による超然内閣(清浦内閣)反対運動が起こった。これを第2次護憲運動といい、憲政党・政友会・革新倶楽部の3派(護憲3派)は、普通選挙(25歳以上の男子で納税額の制限なし)、貴族院改革、行政・財政の整理、などを公約に掲げ選挙に勝った。清浦内閣は1月末に衆議院を解散して選挙に臨んだが、3派が圧倒的に勝利した。(外相:幣原喜重郎、内務大臣:若槻礼次郎、蔵相:濱口雄幸、陸相:宇垣一成、海相:財部彪、農商務大臣:高橋是清、逓信大臣:犬養毅、など)
●この内閣の外交政策は、協調政策である「幣原(しではら)外交」といわれた。

幣原外交と国際情勢

(幣原喜重郎)外交官、政治家。大阪府堺出身。東京帝国大学卒業後外務省にはいり、大正13年(1924)以降加藤・若槻・浜口の各内閣で外務大臣をつとめ、幣原外交と称される親英米政策をとったため、軍部・右翼から軟弱外交と非難された。第二次世界大戦後東久邇内閣の後をうけて組閣、新憲法草案の作成に当たる。進歩党総裁、衆議院議長を歴任。(出典)「日本国語大辞典精選版」
(第1次世界大戦後の日本の外交政策と国際情勢を簡単に書けば以下のようであろう)

①日本が領有した地域は、台湾(植民地)・朝鮮半島(植民地)・南樺太・南洋諸島(マーシャル諸島やマリアナ諸島など)であった。
②そして日本が今後勢力を拡大しようとした地域は、遼東半島の大連・旅順の租借権を基礎(関東州・関東軍)に、南満州鉄道を軸に、鉄道付属地、主要駅周辺、炭坑、港湾などの開発拡大による満州(内モンゴルは蒙古という)とさらに両者を合わせる「満蒙」であった。また中国本土への勢力拡大のための山東半島(ドイツの権益・膠州湾租借地など周辺)だった。地図「満州権益関連地図」(出典:「近代史 日本とアジア上」吉川万太郎著 婦人之友社2002年刊
③しかし原内閣(1918年~)の時代になると国際情勢が変化していく。それは満州における「英米」との軋轢、「ロシア革命」の影響、中国における「反日民族運動」、朝鮮における「独立運動」などがあった。従来のやり方では日本の孤立を招くおそれがあった。
④そこで原内閣はアメリカを中心とする欧米諸国と協調する路線に変更したのである。そして日本の権益の中心である満蒙についても、中心部は日本の「特殊権益」としたが、周辺部は諸外国に譲ることによって、満蒙の独占や侵略的意図の非難をかわそうとしたのである。この協調路線は、1924年外相として登場する幣原喜重郎へ引き継がれていった。
●中国の帝国主義反対闘争は、1925年5月に発生したイギリスによるデモ隊に対する発砲事件(5.30事件)が発端であった。1927年頃(山東出兵)までは帝国主義反対闘争の相手はイギリスに集中していたのであった。幣原喜重郎外交は、中国に対して積極的な圧力はかけなかったのである。
1924年(大正13年)の出来事 政治・経済・事件・災害・文化

「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊より抜粋
●1/1・1/2「大阪毎日新聞社」発行部数が100万部を突破と発表。翌日「大阪朝日新聞社」も100万部突破を発表。
●1/7清浦奎吾(前枢密院議長)内閣成立。貴族院に基礎を置き、議会・政党に関わらない「超然内閣」といわれる。
●1/26摂政裕仁(ひろひと)親王、久邇宮良子(ながこ)女王と成婚式を挙行。
●2/21東京で治安維持法反対労働団体大会が開かれる。

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