1923年(大正12年)関東大震災発生、戦争景気が終わる。
2023年4月25日アジア・太平洋戦争
●だが戦争景気は、1920年(大正9年)3月の東京株式市場での株式の暴落で終わりをむかえる。そして「関東大震災(1923年・大正12年9月1日)」が起き、日本は世界恐慌へ巻き込まれていく。
(上写真・部分)「関東大地震」駿河台から小川町を距てて丸ノ内方面を望む(出典)「アサヒグラフに見る昭和前史1(大正12年)」朝日新聞社1975年刊より
ここでは、日本の転換期となった第1次世界大戦頃から昭和初期の経済的時代背景を要約して概略を述べる。現在における日本の政治的・経済的基盤の成り立ちがこの時代から始まる。日本は明治以来、「富国強兵」と「産業貿易立国」が日本の国是であったに違いない。そして、大正デモクラシーといわれる労働運動、普通選挙運動などについても概略を述べる。
最初に第1次世界大戦(1914年・大正3年~1918年・大正7年)後の経済状況を概観する。『昭和2万日の全記録』講談社(1989年刊)、『昭和財政史』(戦前編)大蔵省(財務省)、慶応義塾大学出版会発行(2011年)「日本経済史」等からの要約。社会情勢のところは、「日本の歴史(第12巻)世界と日本」読売新聞社1966年刊から要約した。
*リンクします「昭和財政史(戦前編)」→財務省・財務総合政策研究所
第1次世界大戦中の空前の大好況は、重工業・化学工業を発展させ、銀行資本の集中と同時に産業の大資本家も生み出した。また大戦の後半期は、成金(なりきん)時代とも言われた。代表的なものは、「鈴木商店」や「内田信也の内田汽船」であった。
事項・内容(項目別に概略) |
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(大資本家の発展)
●第1次世界大戦中の空前の大好況は、重工業・化学工業を発展させ、銀行資本の集中と同時に産業の大資本家も生み出した。1917年(大正6年)3月、主要産業の大資本家だけを会員とする「日本工業倶楽部(くらぶ)」が作られた。会員名は以下の通りである。財閥を中心とする「かくれた政府」とよばれるほどの力を持ち、「工業の発達をはかることを目的として」政府や政党を動かした。 理事長・団琢磨(だんたくま=三井財閥・総指揮者)。専務理事・和田豊治(わだとよじ=三井系の紡績資本家)、郷誠之助(ごうせいのすけ=三菱系電気事業資本家)その他。評議員会長・豊川良平(とよかわりょうへい=三菱財閥の総指揮者)、副会長・馬越恭平(まごしきようへい=三井系ビール王)
●また大戦の後半期は、成金(なりきん)時代とも言われ、都市も農村も好景気で浮き浮きしていた。小金をもつものが株式相場に手を出すことも大流行した。金と野心のあるものが製糸工場を建て成功したり、船大工の親方でも、田舎の金物屋でもちょっとした成金になった、という話はどこにでもあったという。しかし大資本家のもうけは夢のようで、代表的なものは、「鈴木商店」や「内田信也の内田汽船」であった。 |
(農村の景気)
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(大正デモクラシー)
「民本主義」「普通選挙運動」「労働運動」「米騒動」「部落解放運動」
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原敬(はらたかし)内閣1918年(大正7年)9月29日成立、最初の政党内閣(政友会)
政治家。岩手県出身。新聞記者から官僚となり、伊藤博文に信任される。第四次伊藤内閣の逓相、第一次・第二次西園寺内閣、第一次山本内閣の内相を歴任、大正3年(1914年)立憲政友会総裁となり、同7年寺内内閣の後、平民宰相として初めて政党内閣を組織。東京駅頭で暗殺された。(出典)「日本国語大辞典精選版」 |
(恐慌の原因)
「日本銀行百年史」第3巻(大正9年の大反動と特別融通)のところで、この恐慌についてわかりやすくまとめている箇所がある、そこの一部を引用してみる。 「日本銀行百年史」第3巻(一部引用)
「・・ともあれ、9年3月以降の財界動揺は6月には一応鎮静した。高橋蔵相は7月11日の貴族院本会議において、「打撃の峠は越した」「是から段々堅実に発展するやうに赴いて来る」と述べている。もっとも、動揺の鎮静は「一時的表面的の仮装」にすぎないという意見もあったが、9年下期に入るや、ようやく明らかになってきた世界的な戦後景気の反動と銀価暴落の影響を受けてわが国経済はさらに沈滞した。 すなわち、第1次大戦に伴う疲弊から容易に回復することができなかったヨーロッパ諸国はしだいに不況の過程に入り、大戦景気を享受していたアメリカも大正8年11月来の引締め政策により景気後退を生じていた。また、インドは連月の輸入超過と銀価暴落に悩まされ、中国も引き続く南北の抗争、大凶作および銀価暴落の影響で輸入力を減殺されつつあった。 このため、大正9年下期のわが国輸出額は前年同期比36.3%の大幅減少を示し、年間の貿易収支赤字幅は3億8778万円と前年(7459万円)の5.2倍に上る巨額に達した。第1次大戦後の熱狂的好況の大反動に伴う国内経済の沈滞に加えて、大戦中の経済発展の原動力となった対外貿易が不振に陥ったので、各種の滞貨は倉庫にあふれ、生糸や綿糸など主要商品はことごとく不況にさらされた。さらに、豊作による米価の下落から地方の景気も衰退し、商勢は一段と鈍化した。大正9年中における主要商品の最高・最低値を見ると、熱狂的好況の波に乗りえなかった銅・洋紙・石炭を除けば、いずれも半値以下に低落しており、生糸・綿糸・羽二重・鉄は3分の1前後に落ち込んでいた。反動後の景気沈滞がいかに深刻なものであったかが知れよう(なお卸売物価の動きをみると、ピークの大正9年3月から同年末までに36%、さらに翌10年4月までには通計41%下落し、大正8年のブームの始まる直前の同年4月の水準に比べ6%、第1次大戦終了時の大正7年11月の水準に比べれば10%も下回るに至った)。」
*リンクします「日本銀行百年史」→「日本銀行」日本銀行について |
(ロシア革命の影響、社会主義、共産主義)
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●1917年3月の政友会総裁原敬の日記には次のようにある。
「ロシア革命を見て、超然論者も夢をさまさなければならない。近来のことは、皇室のため国家のために憂慮にたえない」
寺内首相は1918年(大正7年)5月に地方長官会議で次のように訓示した。 「資産家と労働者の生活のへだたりがひどくなり、民衆の生活難が深刻になるとともに、『外国』の影響で、『国体に合わない』国民思想の変化が起こりつつあるのを警戒せよ」と言った。
またこの年首相になった原敬は11月の日記にはつぎのようにある。 「人民はいつとはなく国外の空気に感染し、社会主義の伝播は、いまさら、にわかにどうしようもない形勢である」
と書いている。発言・日記類(出典)「日本の歴史第12巻」読売新聞社1963年刊 |
(労働運動の組織化と普通選挙要求運動)
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![]() (注)2017年10/22の衆議院総選挙の有権者数(106,091,229人)を2017年5/1現在の日本人の人口(124,758千人)で割ると、現在の日本の有権者率は約85.04%である。(数字出典:総務省) |
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![]() 写真は1920年(大正9年)5月2日、日本で初めて公然と行われたメーデー(上野公園)の写真。ここでは友愛会・信友会、労働組合・学生団体、そのほか15団体が主体となり、「8時間労働制・失業反対・治安警察法17条廃止」を可決し、万国の労働者の団結を強調した。しかし解散し始めると、いたるところで警察と衝突してたちまち検束された。当時の思想は、「労働者は組合に結集して直接行動(激烈なゼネスト)で資本主義を破壊する」というものと、「労働者階級が権力をにぎるため政治闘争を行う」という2つの考えがあった。 写真(出典)「日本の歴史第12巻」読売新聞社1963年刊。 ●しかし、これらの動きに対して、政友会の原首相は、野党の提出した法案に対して「社会組織をおびやかす不穏な思想があるから、この可否を問う」という理由で1920年(大正9年2月)議会を解散した。そして選挙で政友会は、「普選をやればみんなの財産はとられて貧乏人に分配される」などといって、主として地主と自作農たちの農村の有権者をおどかした。その結果政友会は、過半数を50名上回る圧倒的勝利を得た。政友会は「力は正義なり」と豪語し野党の普選法案を一蹴した。そして普選運動は勢いを失っていった。 |
(その後の社会運動)
●(小作争議) 「公文書にみる日本のあゆみ」の「治安警察法」解説
「明治33年(1900)3月9日治安警察法が公布され、3月30日に施行されました。同法は、集会・結社の届け出を義務とし、軍人・警察官・宗教家・教員・学生・女子・未成年者の政治結社加入と女子・未成年者の政談集会参加を禁止したほか、集会に対する警察官の禁止・解散権、結社に対する内務大臣の禁止権を規定しました。また、労働者・小作人の団結・争議を禁止し、日清戦争後盛んになりつつあった労働運動・農民運動の取締りを盛り込みました。掲載資料は、同法公布時の閣議書です。」とある。 *リンクします「国立公文書館」「公文書にみる日本のあゆみ」→「治安警察法ヲ定ム」●(共産党の結成) |
(原首相暗殺)1921年(大正10年)11月4日東京駅頭で刺殺される
原内閣の政友会は、地方の地主・資産家や財閥の支持を受け、国内では「産業立国」をスローガンに積極的な財政運用を行った。外交的には対英米協調路線を基本とした。そして国際連盟(1920年発足)では日本は常任理事国となり世界において「一等国」となった。しかし1920年(大正9年)3月、株式相場の暴落から戦後(反動)恐慌が起こった。この時、原内閣は銀行・会社を救済したが、これは一時的なものであった。恐慌は押さえられたが、むしろ恐慌は慢性化し、経済界はひろく不景気となった。そして小作争議、労働運動、普選運動の社会運動は激化し、共産党の結成もあった。また同時に中国・朝鮮の日本に対する民族自決の運動や、シベリア出兵の失敗など、日本は対英米協調路線を取らざるを得ず、また海軍軍縮についても財政上からも承認せざるを得なかった。この困難な時代にあって原首相は、鋭利な頭脳、強固な意志、決断力、統率力など類のない政治家であった。暗殺犯は、政友会内閣の強引な施策に不満を抱いて凶行におよんだと供述したとされるが、本人が3度の大赦で釈放されていることから、事件の背後関係など謎が多い。 |
高橋是清(たかはし-これきよ)内閣成立(政友会)
政治家。財政家。江戸の人。仙台藩士高橋是忠の養子。米国留学後森有礼の書生となる。開成学校卒業。文部省、農商務省、日本銀行に勤め、明治44年(1911年)日銀総裁。また蔵相、政友会総裁、首相などの要職を歴任。昭和11年(1936年)の二・二六事件で暗殺された。(出典)「日本国語大辞典精選版」 |
ワシントン会議
1921年(大正10年)~1922年(大正11年)開催。 |
10万人の軍縮
●ワシントン会議の結果、海軍は軍縮を行い、建造計画中の主力艦7隻のうち「陸奥(むつ)」を除く6隻の建造を中止し、旧式戦艦10隻を廃棄した。一方陸軍は、1922年(大正11年)から1923年(大正12年)にかけて、師団の定員をへらし、全国で総計将兵6万3200人、ウマ2万3400頭をへらした。そして1925年(大正14年)には、陸相宇垣一成のもと、4個師団を廃止し、将兵3万6900人とウマ5600頭をへらした。これらは、世界的な軍国主義否定の潮流や、国内でのシーメンス事件(海軍収賄事件)や米騒動で軍が民衆を弾圧したことなど、また国民の反対をふみ切って強行したシベリア出兵を失敗したことなどにより、軍の威信が地に落ちたことも原因であった。 |
加藤友三郎(かとう-ともさぶろう)内閣成立。(海軍大将)
1922年(大正11年)6月12日 |
9月1日、午前11時58分に発生した地震による被害は、死者9万9千人、行方不明者4万3千人、負傷者10万人をこえ、被害世帯も69万に及び、京浜地帯は壊滅的打撃をうけた。