「君が代」と「教育勅語」そして「軍人勅諭」「尋常小学校修身書」
2023年4月25日アジア・太平洋戦争
ここでは、最初に「君が代」の意味と教育勅語、そして「軍人勅諭」を引用する。この「軍人勅諭」のなかでは大元帥としての「天皇」の歴史と、軍人の役割について簡潔に述べられている。次に戦前の一般国民の意識や道徳を、「尋常小学校修身書」の「修身」から引用して理解してみる。戦前の一般国民にとっては、この「修身」と「教育勅語」は一体化しており、あたりまえの「常識」であり「道徳」であった。現代から見ると前近代的に思える天皇制ではあるが、国民道徳と精神的支柱(「国家の宗祀」=国家神道)として、あるいは国の成り立ちの歴史において、日本の骨格であったに違いない。
(上題字「至誠奉公」)斎藤実、第30代内閣総理大臣・海軍大将・(昭和11年2.26事件で暗殺)(出典)「満州事変・国防献品記念録」陸軍省昭和8年8月発行
最初に「君が代」の意味。次に「教育勅語」については、音声合成(中性声)で聞いてみる。
戦後世代にとって、明治以降の大日本帝国の「天皇制」について知る機会は少ない。しかし、現在でも役所などの公文書の年月表記が、「明治・大正・昭和・平成」等の年号表記のみであり、西暦を併記していないことからも、日本の「天皇制」の歴史にふれることができる。そしてもっとも「天皇制」を象徴するものは国歌である「君が代」である。
●「日本国歌」である君が代の歌詞の意味は、明治以降の大日本帝国においては、次のようである。
ただ、この歌詞の意味合いは深く、単に天皇崇拝ではなく、次のような意味が込められているという。 大正13年(1924年) 日比書院 刊「敬神尊皇通俗お話集」の「悠久な君が代」には次のようにある。箇条書きに簡単にまとめてみる。
②国民が『平和主義の国民であり、穏やかな民性の所有者である』という証拠は、わが国歌たる「君が代」にある。それは英国、フランス、アメリカ、ドイツなどの国歌と比べればよくわかる。
③『これを歌う音律からも、いかにも悠久な、いかにも平和で、自然的な非人工的な性質を示して居るところが、日本の国体の本質を表している。』とあり、次のようにまとめている。
とある。君が代は、日本の国体(国柄)と国民性を祝福するものでもある、というわけである。
国歌はその国の在り方と時代の象徴である。いくら歌詞の起源を古今和歌集にもとめても、意味するところは、明治以来の天皇制に基づいて、天皇の治世を国民が祝うものであったことに違いはない。君が代はそういう歴史を背負ってきた国歌である。第二国歌と呼ばれた「海ゆかば」を聞けば、「君が代」の意味するところがはっきりわかる。
(大意:海では水につかった屍になろうとも、山では草が生えた屍になろうとも、天皇の足下で死ねるなら、決して後悔はしない)
*リンクします「<軍歌・準国歌>海行かば」
動画・出典:YouTube(mjrkwe1945氏)
●国歌たるゆえんは、国の骨格そのものを歌うことにある。では現代において日本の国家としての骨組みは何なのだろうか。「天皇制」とは違うはずである。明治以前の日本人は別の価値観をもって生きていたはずである。若い世代が、いつまでも明治・大正・昭和という過去に縛られる必要はない。
最初に、1890年(明治23年)10月30日に発布された、「教育に關する勅語」を引用する。
なぜなら「尋常小学校修身書」の巻頭は、「教育勅語」からはじまるからである。(ふりがな=○○○は、星野による、広辞苑、漢字源等による語意引用。また「十大詔勅謹解」前島義教 [著] 科外教育叢書刊行会大正7の語釈から引用した。)
朕(ちん)惟(おも)フニ我(わ)カ皇祖皇宗(こうそこうそう)國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠(こうえん=広く大きく遠く久しい)ニ徳(とく=恩恵のこと)ヲ樹(た=植えつくる意)ツルコト深厚(しんこう=深くてかつ厚きこと)ナリ我(わ)力臣民(しんみん)克(よ)ク忠(ちゅう)ニ克(よ)ク孝(こう)ニ億兆(おくちょう=万民)心(こころ)ヲ一(いつ)ニシテ世世(よよ)厥(そ)ノ美(び=美しい風習)ヲ濟(な)セルハ此レ我力國體ノ精華(せいか=内部のよい気力が、外にあらわれて美しい光彩を放つこと)ニシテ教育ノ淵源(えんげん=大本)亦(また)實(じつ)ニ此(ここ)ニ存(そん)ス
爾(なんじ)臣民父母(ふぼ)ニ孝(こう)ニ兄弟(けいてい)ニ友(ゆう)ニ夫婦(ふうふ)相和(あいわ)シ朋友(ほうゆう)相(あい)信(しん)シ恭儉(きょうけん=うやうやしくつづまやかなること=つつしみぶかいこと)己レヲ持(おのれをじ=自分の身を持つ)シ博愛(はくあい)衆(しゅう)ニ及(およ)ホシ學(がく)ヲ修(おさ)メ業(ぎょう)ヲ習(なら)ヒ以(もっ)テ智能(ちのう=知識・技能)ヲ啓發シ徳器ヲ成就(とっきをじょうじゅ=有徳なる人柄を仕上げる)シ進(すすん)テ公益(こうえき=公共の利益)ヲ廣(ひろ)メ世務(せいむ=社会上の種々のしごと)ヲ開(ひら=開いて盛んにする)キ常二國憲(こっけん=国の憲法)ヲ重(おも)ンシ國法(こくほう=国の法律命令)ニ遵(したが)ヒ一旦(いったん=一朝、ひとたび)緩急(かんきゅう=事変)アレハ義勇公ニ奉(ぎゆうこうにほう=正しき道につくすべき勇気を持って君國の為につくす)シ以テ天壌無窮(てんじょうむきゅう=天地とともにきわまりないこと)ノ皇運(こううん=皇室のご運)ヲ扶翼(ふよく=たすける)スヘシ是(かく)ノ如(ごと)キハ獨(ひと)り朕(ちん)力忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾(なんじ)祖先ノ遺風(いふう)ヲ顕彰(けんしょう)スルニ足ラン
斯(こ)ノ道ハ實二我力皇祖皇宗ノ遺訓(いくん=おのこしなされた教訓)ニシテ子孫臣民ノ倶(とも)ニ遵守(じゅんしゅ=したがい守る)スヘキ所(ところ)之(これ)ヲ古今(ここん=昔と今、いつの世というに同じ)ニ通(つう)シテ謬(あやま=間違いのないこと)ラス之ヲ中外(ちゅうがい)ニ施(ほどこ)シテ悖(もと=不適中で差し支えを生ずることはない)ラス朕(ちん)爾(なんじ)臣民卜倶(とも)ニ拳々(けんけん=捧げ持つかたち)服膺(ふくよう=胸につけるにて、つつしみて能く守ること)シテ咸(みな)其(その)徳ヲ一ニセンコト(とくをいつにせんこと=一徳ということにて、純粋なる真心より発したる至善の行い、又常に活動してやまざること)ヲ庶幾(こいねが=のぞむ)フ
明治二十三年十月三十日
御名 御璽
*リンクします「九大詔勅謹解 : 神器訓御製御歌抄」「教育勅語」など→
ここでは、「軍人勅諭」を引用する。1878年(明治11年)に起こった「竹橋事件」。近衛砲兵大隊の兵士が蜂起し、当時仮皇居だった赤坂離宮へ、天皇への直訴を試みた。天皇と政府に忠誠を誓うはずの近衛兵の反乱は政府に衝撃を与えた。山県有朋は陸軍全兵士に「軍人訓戒」を配布した。そしてそれを元に「軍人勅諭」が作られた。日本軍の根本思想である
「軍人勅諭読本」 昭和19(1944年)敗戦前年の発刊には、勅諭の前文として下記のように書かれている。
(ふりがな=○○○は、星野による、広辞苑、漢字源等による語意引用と、「軍人勅諭読本」からの引用)
軍人勅諭は、御文章が長く、そのうちに昔のよみ方の文字や、むつかしい語句も多いので、文字や語句のわけをよくおぼえ、たびたびくりかへして奉読(ほうどく=つつしんでよむこと)しなければ、大御心(おおみごころ=天皇の心を)拝することができません。・・・』
「軍人勅諭」
我国の軍隊は世々天皇の統率(とうそつ)し給(たま)ふ所にそある昔(むかし)神武天皇(じんむてんのう)躬(み)つから大伴(おおとも)物部(もののべ)の兵ともを率(ひき)ゐ中国(なかつくに=大和)のまつろはぬものとも(=服従せぬものども)を討(う)ち平(たいら)け給(たま)ひ高御座(たかみくら=皇位)に即(つ)かせられて天下(あめのした=大八州=おおやしま)しろしめし給ひ(=深く心に入れて治め給う)しより二千五百有(ゆう)餘年(よねん)を經(へ)ぬ此(この)間(あいだ)世の樣(さま)の移り換(かわ)るに隨(したが)ひて兵制の沿革(=軍隊制度のうつりかわり)も亦(また)屡(しばしば)なりき古(いにしえ)は天皇躬(み)つから軍隊を率ゐ給ふ御(おん)制(おきて)にて時ありては皇后皇太子の代(かわ)らせ給ふこともありつれと大凡(おおよそ)兵権(へいけん=軍を指揮する権能)を臣下に委(ゆだ)ね給ふことはなかりき中世に至りて文武(ぶんぶ)の制度皆(みな)唐国(からくに)風(ぶり)に傚(なら)はせ給ひ六衛府(ろくえふ=平安初期以降、左右近衛府・左右衛門府・左右兵衛府の六つの衛府)を置き左右馬寮(さうめりょう=左馬寮右馬寮で、馬の飼養、調練、馬具等馬の一切に関することを司る役所)を建て防人(さきもり=崎守の義で、九州の要塞を防禦守備する海防の兵)なと設(もう)けられしかは兵制(へいせい)は整ひたれとも打続ける昇平(しょうへい=国運が盛んで、世の中が平和に治まっていること)に狃(な)れて朝廷の政務も漸(ようやく)文弱(ぶんじゃく=文芸に流れて華美柔弱になること)に流れけれは兵農(へいのう)おのつから二に分れ古(いにしえ)の徴兵(ちょうへい=ここでは、大化の改新以後定められし壮丁((そうてい=夫役または軍役にあたる壮年の男子))を徴集したる兵士をいう)はいつとなく壯兵(そうへい=強壮にして兵士たらんことを出願したる兵)の姿に變(かわ)り遂(つい)に武士となり兵馬(へいば)の権は一向(ひたすら=ひとえ)に其武士ともの頭梁(とうりょう=首領の意で、ここでは源頼朝以下の武将をさす)たる者に歸(き)し世の亂(みだれ)と共に政治の大権も亦(また)其手に落ち凡(およそ)七百年の間武家の政治とはなりぬ。世の樣(さま)の移り換りて斯(かく)なれるは人力(ひとのちから)もて挽回(ばんかい=ひきかえ)すへきにあらすとはいひなから且(かつ=一方では)は我(わが)國體(こくたい=国柄、國の特質をいう)に戻り且は我(わが)祖宗(そそう=皇祖皇宗で、天照大神及び歴代の天皇)の御(おん)制(おきて)に背(そむ)き奉(たてまつ)り浅間(あさま=なさけない)しき次第なりき降りて弘化(こうか=仁孝・にんこう天皇の年号)嘉永(かえい=孝明・こうめい天皇の年号)の頃より徳川の幕府其(その)政(まつりごと)衰(おとろ)へ剰(あまつさえ=その上さらに)外国の事ども(=徳川幕府の末に當り、米・英・露などと外交のことがしきりに起こったこと)起りて其(その)侮(あなど=軽蔑)りをも受けぬへき勢に迫りけれは朕か皇祖(おおじのみこと=天皇の御祖父)仁孝天皇皇考(ちちのみこと=天皇の御父)孝明天皇いたく宸襟(しんきん=大御心)を悩まし給ひしこそ忝(かたじけな=面目ない)くも又(また)惶(かしこ=おそれおおい)けれ然るに朕(ちん)幼(いとけな)くして(=天皇践祚・せんそ=皇位継承の時、御年16)天津日嗣(あまつひつぎ=皇位)を受けし初(はじめ)征夷大將軍(=徳川将軍慶喜公)其政権を返上し大名小名(だいみょう、しょうみょう=領地、知行の持高一萬石以上のものを大名、それ以下を小名という)其版籍(はんせき=土地と人民)を奉還し年を經(へ)すして海内(かいだい=国内・天下)一統(いっとう)の世となり古(いにしえ)の制度(=中古天皇親政の郡県制度)に復(ふく)しぬ是(これ)文武の忠臣良弼(りょうひつ=忠良なる輔佐)ありて朕を補翼(ほよく=たすける)せる功績(いさお)なり歴世(れきせい=代々・歴代)祖宗(そそう)の専ら蒼生(そうせい=人民)を憐(あわれ)み給ひし御(ご)遺澤(ゆいたく=残された恩澤(徳))なりといへとも併(しかしながら)我(わが)臣民の其心に順逆(じゅんぎゃく=正と不正)の理(ことわり)を辨(わきま)へ大義(たいぎ=天子又は国家に対する臣民の義理)の重きを知れるか故にこそあれされは此時(このとき)に於(おい)て兵制を更(あらた)め我國の光を耀(かがや)さんと思ひ此(この)十五年か程に陸海軍の制をは今の樣(さま)に建(たて)定(さだ)めぬ夫(それ)兵馬(へいば)の大権は朕か統(す)ふる所なれは其(その)司々(つかさゞ=ここでは軍事の職務)をこそ臣下には任(まか)すなれ其大綱(たいこう=根本的な事柄・大要)は朕(ちん)親(みずから)之を攪(と)り肯(あえ)て臣下に委(ゆだ)ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤(あつ)く斯(この)旨(むね)を傅(つた)へ天子は文武の大権を掌握するの義を存(ぞん)して(=正しき条理を維持する)再(ふたたび)中世以降の如き失體(しったい)なからんことを望むなり朕は汝等(なんじら)軍人の大元帥(たいげんすい=全軍を統率する天皇の地位)なるぞされは朕は汝等を股肱(ここう=手足とも頼みにするの意)と頼み汝等は朕を頭首と仰きてそ其親(したしみ)は特に深かるへき朕か國家を保護して上天(しょうてん=神霊)の恵(めぐみ)に應(おう)し祖宗の恩に報いまゐらする事を得(う)るも得(え)さるも汝等軍人か其職を盡すと盡さゝるとに由(よ)るそかし(=意味を強めた助調)我國の稜威(みいづ=尊厳なる威光)振(ふる)はさることあらは汝等(なんじら)能(よ)く朕と其(その)憂(うれい)を共にせよ我(わが)武(ぶ)維(これ)揚(あが)りて(わがぶこれあがりて=わが国の武名四方に発揚して)其(その)榮(えい)を耀(かがやか)さは朕汝等と其(その)誉(ほまれ)を偕(とも)にすへし汝等皆其職を守り朕と一心になり力を國家の保護に盡さは我國の蒼生(そうせい)は永く太平の福(さいわい)を受け我國の威烈(いれつ=威勢)は大に世界の光華(こうか=ひかりかがやき)ともなりぬへし朕斯(かく)も深く汝等軍人に望むなれは猶(なお)訓(おしえ)諭(さと)すへき事こそあれいてや之を左に述へむ
一、軍人は忠節(ちゅうせつ=忠義の心を変ぜず君の為に心力をつくす)を盡すを本分(ほんぶん=当然なすべき職分)とすへし凡(およそ)生(せい)を我國に禀(う)くるもの誰(たれ)かは國に報(むく)ゆる の心なかるへき况(ま)して軍人たらん者は此心の固(かた)からては物の用(よう)に立ち得(う)へしとも思はれす軍人にして報國の心(こころ)堅固ならさるは如何(いか)程(ほど)技(ぎ)藝(げい)に熟(じゅく)し學術に長(ちょう)するも猶(なお)偶人(ぐうじん=人形)にひとしかるへし其隊伍(たいご=隊列の組)も整ひ節制も正く(せっせいもただしく=ここでは、指揮命令進退懸引等統御の法厳正にして)とも忠節を存せさる軍隊は事に臨みて烏合(うごう)の衆に同(おなじ)かるへし抑(そもそも)國家を保護し国権を維持するは兵力に在れは兵力の消長(しょうちょう=盛衰)は是國運の盛衰なることを辨(わきま)へ世論(せいろん=世間一般の議論)に惑はす政治に拘(かかわ)らす只〃(ただただ)一途(いちず)に己か本分の忠節を守り義(ぎ=ここでは忠義)は山嶽(さんがく)よりも重く死は鴻毛(こうもう=おおとりの毛で、極めて軽きにたとえていう)よりも輕しと覺悟せよ其(その)操(みさお)を破りて不覺を取り(ふかくをとる=油断して失敗すること)汚名を受くるなかれ
一、軍人は禮儀(れいぎ)を正(ただしく)くすへし凡(およそ)軍人には上(かみ)元帥(げんすい)より下(しも)一卒(いつそつ)に至るまて共間(そのあいだ)に官職
(かんしょく=将官、上長官、士官、下士、兵卒の五種を官といい、参謀総長、元帥、司令官、団長、隊長以下を職という)の階級ありて統屬(とうぞく=上のものが能く統・す・べをさめ、下のものが能くつき従うこと)するのみならす同列同級とても停年(ていねん=同一官職にとどまる年月)に新舊(しんきゅう)あれは新任の者は舊任の者に服從すへきものそ下級のものは上官の命(めい)を承(うけたまわ)ること實(じつ)は直(ただち)に朕か命を承る義なりと心得よ己か隸屬(れいぞく=上官に従属する)する所にあらすとも上級の者は勿論(もちろん)停年の己(おのれ)より舊(ふる)きものに對(たい)しては總(す)へて敬禮(けいれい=敬意を表して礼をすること)を盡すへし又上級の者は下級のものに向ひ聊(いささか)も軽侮驕傲(けいぶきょうごう=下を賤しめ、下に高ぶること)の振舞あるへからす公務の爲に威嚴を主(しゅ)とする時は格別なれとも其(その)外(ほか)は務めて懇(ねんごろ)に取扱(とりあつか)ひ慈愛を專一(せんいち)と心掛け上下(しょうか)一致して王事に勤勞せよ若(もし)軍人たるものにして禮儀(れいぎ)を紊(みだ)り上(かみ)を敬(うやま)はす下(しも)を恵(めぐ)ますして一致(いっち)の和諧(わかい=仲よくして乱れざること)を失ひたらんには啻(ただ=たんに・・だけではなく)に軍隊の蠹毒(とどく=実毒)たるのみかは國家の爲にもゆるし難き罪人なるへし
一、軍人は武勇(ぶゆう)を尚(とうと)ふへし夫(それ)武勇は我國にては古よりいとも貴(とうと)へる所なれは我國の臣民たらんもの武勇なくては叶(かな)ふまし況(ま)して軍人は戦に臨(のぞ)み敵に當(あた)るの職なれは片時(かたとき)も武勇を忘れてよかるへきかさはあれ武勇には大勇(だいゆう)あり小勇(しょうゆう)ありて同(おなじ)からす血気にはやり粗暴の振舞なとせんは武勇とは謂(い)ひ難(がた)し軍人たらむものは常に能く義理を辨(わきま)へ能く膽力(たんりょく)を練(ね)り思慮を殫(つく)して事を謀るへし小敵たりとも侮(あなど)らす大敵たりとも懼(おそ)れす己か武職を盡さむこそ誠の大勇にはあれされは武勇を尚(とうと)ふものは常々人に接(まじわ)るには温和を第一とし諸人(しょにん=多くの人・衆人)の愛敬(あいけい)を得(え)むと心掛けよ由なき勇(よしなきゆう=理由のない勇気)を好みて猛威を振ひたらは果(はて)は世人(よのひと)も忌嫌(いみきら)ひて豺狼なとの如く思ひなむ(さいろうなどのごとく、おもいなむ=山犬や狼のように賤しいものに思うであろう)心すへきことにこそ
一、軍人は信義を重(おも)んすへし凡(およそ)信義を守ること常の道にはあれとわきて軍人は信義なくては一日(いちじつ)も隊伍の中に交りてあらんこと難(かた)かるへし信とは己(おのれ)か言(こと)を踐(ふみ)行(おこな)ひ義とは己か分(ぶん)を盡すをいふなりされは信義を盡さむと思はゝ始(はじめ)より其事の成し得(う)へきか得(う)へからさるかを審(つまびらか)に思考すへし朧気(おぼろげ=はっきりせぬこと)なる事を假初(かりそめ=一時の出来心で、その場限りで)に諾(うべな=承諾し)ひてよしなき(=理由なき)關係を結ひ後(のち)に至りて信義を立てんとすれは進退(しんたい)谷(きわま)りて(=進むにも退くにも、どうにも出来ず困ること)身の措(お)き所(どころ)に苦むことあり侮(く)ゆとも其(その)詮(せん)なし始(はじめ)に能々(よくよく)事の順逆を辨(わきま)へ理非を考へ其(その)言(こと)は所詮(しょせん=つまる所)踐(ふ)むへからすと知り其義はとても守るへからすと悟りなは速(すみやか)に止(とどま)るこそよけれ古(いにしえ)より或(ある)は小節の信義(しょうせつのしんぎ=一時の約束など、小さな信義)を立てんとて大綱の順逆(たいこうのじゅんぎゃく=忠孝などの大道と、不忠不孝などの大逆道)を誤り或(ある)は公道(こうどう=忠孝などの徳義)の理非に踏(ふみ)迷(まよ)ひて私情の信義(しじょうのしんぎ=私上の恩愛)を守りあたら英雄豪傑ともか禍(わざわい)に遭(あ)ひ身を滅(ほろぼ)し屍(かばね)の上の汚名を後世(のちのよ)まて遺(のこ)せること其(その)例(ためし)尠(すくな)からぬものを(=「を」は歎息の情を発する助詞)深く警(いまし)めてやはあるへき(=戒めないでよかろうか、いましめなければならぬ)
一、軍人は質素(しっそ=まじめで、じみなこと)を旨(むね)とすへし凡(およそ)質素を旨とせされは文弱(ぶんじゃく=文事=学問・芸術などに関する事柄=ばかりにふけって弱々しいこと)に流れ軽薄に趨(はし)り驕奢華靡(きょうしゃかび=贅沢をし、はででみだらのこと)の風(ふう)を好み遂には貪汚(たんお=欲深く心きたなきこと)に陷(おちいり)りて志(こころざし)も無下(むげ=非常に、甚だ)に賤(いやし)くなり節操も武勇も其(その)甲斐(かい)なく世人(よのひと)に爪(つま)はしきせらるゝ迄に至りぬへし其(その)身(み)生涯の不幸なりといふも中々(なかなか)愚(おろか)なり此風(このふう)一(ひと)たひ軍人の間に起りては彼(か)の傅染病(でんせんびょう)の如く蔓延(まんえん)し士風(しふう=軍人たるものの気風)も兵氣(へいき=兵士の気象(気性))も頓(とみに=急に)に衰へぬへきこと明(あきらか)なり朕深く之を懼(おそれ)れて曩(さき=以前)に兔黜(めんちゅつ=官職をやめさせ地位を下すこと)條例(=明治九年発布)を施行(しこう)し略(ほぼ)此(この)事を誡(いまし)め置きつれと猶(なお)も其悪習の出(いで)んことを憂ひて心安からねは故(ことさら=わざわざと)に又之を訓(おし)ふるそかし汝等軍人ゆめ此(この)訓誡(おしえ)を等閑(なおざり)にな思ひそ(=思うな)
右の五ケ條は軍人たらんもの暫(しばし)も忽(ゆるがせ=おろそかに)にすへからすさて之を行(おこな)はんには一つの誠心(まごころ)こそ大切なれ抑(そもそも)此(この)五ヶ條は我軍人の精神にして一の誠心は又五ヶ條の精神なり心誠(こころまこと)ならされは如何(いか)なる嘉言(かげん=ためになる善き言葉)も善行も皆(みな)うはへの装飾(うわべのかざり=表面の体裁)にて何の用にかは立つへき心(こころ)たに誠(まこと)あらは何事も成るものそかし况(ま)してや此五ケ條は天地の公道(てんちのこうどう=天地間何処にも通ずる公明正大の道)人倫の常經(じんりんのじょうけい=人の平生守り行うべき道)なり行(おこな)ひ易(やす)く守(まも)り易(やす)し汝等軍人能(よ)く朕か訓(おしえ)に遵(したが)ひて此道(このみち)を守り行ひ國に報(むく)ゆるの務(つとめ)を盡(つく)さは日本國の蒼生擧(こぞ)りて之を悦(よろこ)ひなん朕一人の懌(よろこび)のみならんや
明治十五年一月四日
*リンクします「軍人勅諭」→
*リンクします「軍人勅諭読本」→
*リンクします「軍人勅諭解義」→
*リンクします「幹部候補生案内 : 志願より除隊まで」→
ここでは「尋常小学校修身書卷六児童用」昭和12年(1937年)10月文部省発行を引用する。この「修身書」では、アメリカ人のベンジャミン・フランクリン(アメリカ合衆国建国の父の一人として讃えられる)も登場しているし、護憲、兵役、納税の義務、投票権の行使義務などが書かれている。戦前の天皇制・道徳教育だからといって全否定してしまえばよい、というものでもない。下の目録(目次)をクリックして、それぞれの課(章)にいくことができる。脱税、投票放棄についても、きっちり小学校生に教えている。現代の社会人も、このことをきっちり教わってきたのであろうか。
●19課(国民の務)では次のようにある。
●また20課の(国民の務)でも次のようにある。
また帝國議會の議員に選ばれた者は、その職責の重大なことを思ひ、常に國事を以て念とし、かりそめにも私情に動かされず、忠實に職責を果さなければなりません。」
とある。現代においても、個人や企業の脱税事件はもとより、市議会議員や国会議員らの不祥事を見ると、彼らが『忠實に職責を果している』とは言い難い。政治家を選ぶ尺度は、学歴や出自ではなく、国家と国民に対する忠誠度で量らねばならない。
●「尋常小学校修身書卷六児童用」昭和12年(1937年)10月文部省発行
「尋常小学校修身書卷六児童用」昭和12年(1937年)10月文部省発行 |
---|
「教育に關する勅語」
朕惟フニ我力皇祖皇宗國ヲ肇ムルコ卜宏遠二徳ヲ樹ツルコ卜深厚ナリ我力臣民克ク忠二克ク孝二億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ濟セル此レ我力國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實二此二存ス爾臣民父母ニ孝二兄弟二友二夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆二及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常二國憲ヲ重シ國法二遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨り朕力忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン斯ノ道ハ實ニ我力皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶二遵守スヘキ所之ヲ古今二通シテ謬ラス之ヲ中外二施シテ悖ラス朕爾臣民卜倶二拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日 御名 御璽 |
第一課 皇大神宮(こうたいじんぐう)
|
第二課 國運の發展
明治の初にあたって、明治天皇は、世界の文明をとり入れて我が國の發逹をはかり公論によって政治を行ふといふ大方針をお立てになりました。それから僅か六十年餘りの間に我が國運は非常な進歩發逹をとげました。 |
第三課 國運の發展(つゞき)
我が國の人口は、六十年前には三千餘萬でしたが、今日では九千萬にも及んでゐます。これらの國民があまねく教育を受け、國の内外で仕事に勵むのですから、將来の發展は一層めざましいに違ありません。 |
第四課 國交
隣近所同志互に親しくして助け合ふことが、共同の幸福を増す上に必要なことは、いふまでもありません。それと同様に、國と國とが親しく交り互に助け合って行くことは、世界の平和、人類の幸福をはかるのに必要なことです。今日各國互に條約を結び、大使・公使を派遣して交際につとめてゐるのも、これがためであります。 |
第五課 忠君愛國
民のため心のやすむ時ぞなき
身は九重(ここのへ)の内にありても これは明治天皇の御製でありますが、この有難い思召は、すなはち御代々の天皇が我等國民の幸福をお思ひになる大御心です。我等國民は祖先以來、かやうに御仁慈(じんじ)であらせられる天皇をいただいて、君のため國のために盡(尽)すのを第一の務としてゐます。 |
第六課 忠孝
格言 忠臣ハ孝子ノ門二出ヅ。
|
第七課 祖先と家
我等の家では、父は職業に勵(励)み、一家の長として我等を保護し、母は父を助け、一家の主婦として家事にあたり、共に一家の繁榮(栄)と子孫の幸福をはかってゐます。父母の前は祖父母、祖父母の前は曾祖父母と、我が家は祖先が代々維持して來たものです。代々の祖先が家の繁榮と子孫の幸福をはかった心持に於ては、いづれも父母とかはりがありません。我等はかやうに深い祖先の恩を受けて生活してゐるのです。この恩を感謝し、祖先を尊ぶのは、自然の人情であり、また人の道であります。 |
第八課 沈勇
|
格言 人事ヲ盡シテ天命ヲ待ツ。
|
第九課 進取の氣象
高田屋嘉兵衛は淡路の人で、子供の時から船乗となって人に雇はれてゐましたが、後兵庫に出て回漕業を始めました。さうしてまだあまり人の行かなかった北海道へまでも出かけて家業につとめたので、家もだんだん豊になりました。 |
第十課 工夫
|
第十一課 自立自營
|
格言 天ハ自ラ助クル者ヲ助ク。
|
第十二課 公益
|
第十三課 共同
久留米の東、筑後川に沿うた地方では、水が近くにありながら、川底が深く流が急なために、灌漑の便利が悪くて作物が出來ず、人々が大そう困ってゐました。 |
第十四課 慈善
|
第十五課 清廉
|
第十六課 良心
我等は何かよい事をすると、人にほめられないでも自分で心嬉しく感じ、また何か悪い事をすると、人に知れないでも自分で気がとがめます。これは誰にも良心があるからです。この良心は、幼少の時にはまだ餘り発逹してゐないのですが、親や先生の教を受けて次第に発達し、善い事と悪い事との見わけがはっきりつくやうになります。さうなると、人の指図を受けないでも、善い事はせずには居られないやうに感じ、悪い事はすることが出來ないやうに感じます。
目に見えぬ神にむかひてはぢざるは
人の心のまことなりけり とあります。 |
第十七課 憲法
|
第十八課 國民の務(其の一)
|
第十九課 國民の務(其の二)
我が國を防衛して其の存立を全うするには、陸海軍の備がなくてはなりません。國民の教育を進め國運発展の基を固くするには、學校を設けなければなりません。 |
第二十課 國民の務(其の三)
|
第二十一課 男子の務と女子の務
男子も女子も人として國民として行ふべき道に違はありません。男子が世の繁栄をはからねばならぬと同じ様に、女子もそれをはからねばなりません。また女子が身もちを慎まねばならぬと同じ様に、男子もそれを慎まねばなりません。 |
第二十二課 勤勉
格言 精神一到何事力成ラザラン。
|
第二十三課 師弟
忠敬の先生の至時は幕府の天文方でした。四十歳の時オランダの新しい暦法の書物を得たので、僅か半年の間に、不十分な語學の力でそれを讀終った上に、その書物について著述までもしました。もとから病身であった至時はこのはげしい勉強のために大そう健康を損して、翌年なくなりました。 |
第二十四課 教育
我等が學校にはいってから、もう六年になります。入學した頃は、まだ幼くて、ものの道理もわかりませんでした。それが今では、日常必要な知識や技能も進み、また人の行ふべき道も一通りわかるやうになりました。我等がこれまでになることが出來たのは、教育を受けたおかげです。 |
第二十五課 教育に關する勅語
教育に關する勅語は明治二十三年十月三十日、明治天皇が我等臣民のしたがひ守るべき道徳の大綱をお示しになるために下し賜はったものであります。
朕惟フニ我力皇祖皇宗國ヲ肇ムルコ卜宏遠二徳ヲ 樹ツルコ卜深厚ナリ我力臣民克ク忠二克ク孝二億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我力國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實二此二存ス
と仰せられてあります。 |
第二十六課 教育に關する勅語(つづき)
勅語の第二段には
爾臣民父母二孝二兄弟二友二夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆二及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法二遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨り朕力忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
と仰せられてあります。 |
第二十七課 教育に關する勅語(つづき)
勅語の第三段には
斯ノ道ハ實二我力皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶二遵守スヘキ所之ヲ古今二通シテ謬ラス之ヲ中外二施シテ悖ラス朕爾臣民卜倶二拳々服膺シテ威其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
と仰せられてあります。 尋常小學修身書巻六兒童用終 |