「帝国陸軍」②(まだ終わっていない日本の戦争)軍人・軍属の死亡者
2023年4月16日アジア・太平洋戦争

「アジア・太平洋戦争」で軍人軍属は何人亡くなったのであろうか。
日中戦争から太平洋戦争で亡くなった軍人・軍属の数について、日本政府は230万人(1937~45年)という数字を公式に採用してきた。だが、彼らがどこで、どのように亡くなったかについては不明確な点が多く、「6割が餓死した」との学説もある。
「アジア・太平洋戦争」の軍人・軍属の死亡者・不明者。3-1
「戦後70年:数字は証言する データで見る太平洋戦争」毎日新聞社、厚生労働省「戦没者慰霊事業の実施」海外戦没者遺骨収容状況概見図、「別冊歴史読本第68(266)号太平洋戦争総決算」新人物往来社1994年刊掲載の厚生省援護局1964年作成「地域別兵員及び死没者概数表」などから集計。

毎日新聞社の「戦後70年:数字は証言する データで見る太平洋戦争」
この数値をまとめると次のようになる。
1、戦没者合計の表
区分 |
数 |
明細 |
軍人・軍属 |
230万人 |
国外210万人、国内20万人 |
民間人 |
80万人 |
海外30万人、国内50万人 |
戦没者 合計 |
310万人 |
|
毎日新聞社の「戦後70年:数字は証言する データで見る太平洋戦争」
毎日新聞社
そして(第1回230万人はどのように戦死したか? – 毎日新聞)のなかでは次のようにある。
日中戦争から太平洋戦争で亡くなった軍人・軍属の数について、日本政府は230万人(1937~45年)という数字を公式に採用してきた。だが、彼らがどこで、どのように亡くなったかについては不明確な点が多く、「6割が餓死した」との学説もある。・・・「厚生省(現厚生労働省)援護局は1964年に国会からの要求を受け、「地域別兵員及び死没者概数表」を発表。日中戦争が始まる37年から太平洋戦争が終わる45年までの軍人や軍属の戦没者(当時の発表では総数が212万1000人)について、地域ごとに内訳を示した。」
とあり、地域ごとの数字をあげている。
厚生労働省「戦没者慰霊事業の実施」
そして、厚生労働省「戦没者慰霊事業の実施」によれば令和4年(2022年)4月末現在「海外戦没者遺骨の収容状況」はつぎのようである。
2、海外戦没者遺骨収容状況概見図
区分 |
数 |
備考 |
海外戦没者 概数 |
240万人 |
令和4年(2022年)4月末現在 |
収容遺骨 概数 |
127.7万人 |
|
未収容遺骨 概数 |
112.3万人 |
●海没、約30万柱●収容困難(相手国の事情)約23万柱●収容可能(最大)約59万柱 |
とあり地域別に戦没者の一覧を載せている。
厚生労働省「戦没者慰霊事業の実施」「海外戦没者遺骨の収容状況」
厚生労働省
1の戦没者の合計の表と、2の「海外戦没者概数約240万人」の関係一覧
上記1の戦没者の合計の表と、2の「海外戦没者概数約240万人」の関係を一覧にすると下記のようになる。すなわち厚生労働省の「海外戦没者概数約240万人」は、民間人と軍人軍属の戦没者が含まれており、日本内地の戦没者が含まれていない。そして戦没者合計310万人から240万人を引くと、70万人が日本内地の戦没者(軍人・軍属、民間人)であるということである。この内訳が現在の公式数値とおもわれる。
3、海外・内地区分戦没者合計表
区分 |
軍人・軍属 |
民間人 |
合計 |
海外 |
210万人 |
30万人 |
240万人 |
内地 |
20万人 |
50万人 |
70万人 |
合計 |
230万人 |
80万人 |
310万人 |
●海外の民間人の戦没者の大きな割合を占めたのが、「満州」と「沖縄戦」であり、軍が民間人を見捨てたり、追い詰められて自決を強要されたり、逃避行のなかで戦闘に巻き込まれ犠牲になったといわれる。
●内地の民間人の戦没者の大きな原因は、「全国の空襲」によるもので、特に「東京大空襲」「広島・長崎の原爆被害」が特筆される。
1949年4月「太平洋戦争による我国の被害総合報告書」
●次に、過去に国が行った戦争被害調査について、書いておく。1947年社会党の片山内閣が成立し、1949年4月に「太平洋戦争による我国の被害総合報告書」が公表された。これは経済安定本部総裁官房企画部調査課編によるもので、戦没者、陸軍軍人1,435,676人、海軍軍人429,034人、とあるものがこの出典である。例えば、講談社「昭和2万日の全記録」7巻1989年刊「総括・太平洋戦争」にある数値がこれである。
経済安定本部総裁官房企画部調査課編「太平洋戦争による我国の被害総合報告書」
国立公文書館デジタルアーカイブ
1964年「大東亜戦争における地域別兵員及び死没者概数表」
●そして厚生省援護局は、1964年に「大東亜戦争における地域別兵員及び死没者概数表」を作成し、軍人や軍属の戦没者総数を212万1000人とし、地域別に内訳を発表した。これが現在に至るまでの基礎データとなっているようである。
下に「別冊歴史読本第68(266)号太平洋戦争総決算」新人物往来社1994年刊よりぬきだしてみた。
1964年「大東亜戦争における地域別兵員及び死没者概数表」と2022年度版厚生労働省「海外戦没者遺骨の収容状況」との比較
●ここで厚生省援護局が1964年作成した「大東亜戦争における地域別兵員及び死没者概数表=戦没者総数を212万1000人」と2022年度版厚生労働省の「海外戦没者遺骨の収容状況」の戦没者数を、地域別に対比させ、下表を作成してみた。この「海外戦没者遺骨の収容状況」は「海外戦没者」であり軍人・軍属に民間人を含んだ数と考えられる。そのため本土の戦没者数は書かれてはいない。「海外戦没者遺骨の収容状況」の日本本土欄に、70万人(赤字)の数値を追加して合計を集計した。この内訳は軍人軍属20万人+民間人50万人であるらしい。
4、地域別、1964年と2022年対比表
1964年「地域別兵員及び死没者概数表」 (軍人・軍属のみ)地域・死没者数 |
2022年度「海外戦没者遺骨の収容状況」 (軍人・軍属と民間人)地域・死没者 |
1964年地域 |
1964年死没者数 |
2022年地域 |
2022年死没者数 |
1964年日本本土(含周辺) |
1964年103,900 |
2022年日本本土(含周辺) |
2022年700,000 (追加したもの) |
1964年小笠原諸島 |
1964年15,200 |
2022年硫黄島(小笠原諸島と対比した) |
2022年21,900 |
1964年沖縄諸島計 |
1964年89,400 |
2022年沖縄諸島計 |
2022年188,140 |
1964年台湾 |
1964年39,100 |
2022年台湾 |
2022年41,900 |
1964年朝鮮(南部) |
1964年15,900 |
2022年韓国 |
2022年18,900 |
1964年朝鮮(北部) |
1964年10,600 |
2022年北朝鮮 |
2022年34,600 |
1964年樺太・千島(含アリューシャン) |
1964年11,400 |
2022年アリューシャン |
2022年24,400 |
1964年満州 |
1964年46,700 |
2022年中国東北地方(ノモンハンを含む) |
2022年245,400 |
1964年中国本土(含香港) |
1964年455,700 |
2022年中国本土 |
2022年465,700 |
1964年シベリア |
1964年52,700 |
2022年旧ソ連邦(モンゴルを含む) |
2022年54,400 |
1964年中部太平洋諸島 |
1964年247,200 |
2022年中部太平洋諸島 |
2022年247000 |
1964年フィリピン |
1964年498,600 |
2022年フィリピン |
2022年518,000 |
1964年仏領印度支那 |
1964年12,400 |
2022年ベトナム・カンボジア・ラオス |
2022年12,400 |
1964年①ビルマ(含印度) |
1964年164,500 |
2022年⑩ミャンマー |
2022年137,000 |
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2022年⑪インド |
2022年30,000 |
1964年②アンダマン・ニコバル |
1964年2,400 |
2022年(インドに含まれる) |
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★1964年ミャンマー・インド計(①+②) |
1964年166,900 |
★2022年ミャンマー・インド計(⑩+⑪) |
2022年167,000 |
1964年タイ・マライ・シンガポール |
1964年18,400 |
2022年タイ・マレーシア・シンガポール |
2022年21,000 |
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1964年③スマトラ |
1964年3,200 |
2022年⑫インドネシア |
2022年31,400 |
1964年⑨ジャワ |
1964年6,500 |
2022年⑬北ボルネオ |
2022年12,000 |
1964年④小スンダ |
1964年53,000 |
2022年⑭西イリアン(西部ニューギニア)
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2022年53,000 |
1964年⑤ボルネオ |
1964年18,000 |
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1964年⑥セレベス |
1964年5,500 |
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1964年⑦モルッカ |
1964年4,400 |
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★1964年インドネシア計(③+④+・・+⑦) |
1964年90,600 |
★2022年インドネシア計(⑫+⑬+⑭) |
2022年96,400 |
1964年ニューギニア |
1964年127,600 |
2022年東部ニューギニア |
2022年127,600 |
1964年⑧ビスマルク諸島 |
1964年30,500 |
2022年ビスマーク・ソロモン諸島 |
2022年118,700 |
1964⑨ソロモン諸島 |
1964年88,200 |
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★1964年ビスマーク・ソロモン諸島計(⑧+⑨) |
1964年118,700 |
★2022年ビスマーク・ソロモン諸島計 |
2022年118,700 |
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1964年陸軍・海軍合計 |
1964年2,121,000 |
2022年海外戦没者合計 |
2022年2,403,400 |
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日本本土に70万人を加えた場合の合計数値 |
+70万=3,103,400 |
(注)
●2022年⑭西イリアン(西部ニューギニア)は1964年のニューギニアのくくりではなく、2022年インドネシア計のくくりに入れた。その理由は1964年のニューギニアと2022年東部ニューギニアの死没者数が127,600で同じなので、西イリアンはニューギニア以外のくくりにあると考えた。
●2022年⑬北ボルネオは本来なら1964年タイ・マライ・シンガポールの区分に入ると思われたが、1964年のボルネオのあるインドネシア計に入れた。
NHK[証言記録 兵士たちの戦争]3-2
ここでは、NHKの「戦争証言アーカイブ」のサイトを紹介する。このNHKのサイトでは、兵士たちの証言記録をもとに製作された番組が公開されている。上段のリンクが、番組全体のサイト、下段のリンクが「硫黄島」の戦い」である。日本では戦争過去についてあまり議論されることはない。しかしだからといって、この戦争で死んでいった兵隊たち(国民)を無視したり批判したりするのはおかしなことである。靖国神社に英霊として祀られるとかではなく、鎮魂でもなく、個々人に敬意と名誉を与えることができる社会が必要だと思うだけである。

NHK戦争証言アーカイブ[証言記録 兵士たちの戦争]
下段でリンクした「硫黄島 地下壕に倒れた精鋭部隊」を見てみたい。このサイトでは、音声調整や全画面表示もできるし、全体で43分になる番組なので、それぞれのチャプター(シーン)を選択して再生もできる。
『激戦地に赴いた陸軍歩兵第百四十五連隊。現役兵を中心に、鹿児島で編成された精鋭部隊でした。最後の戦いの場となった硫黄島では、太平洋戦争終盤、アメリカ軍6万人、日本軍2万1千人がこの島で激突しました。』・・
輸送船、海難、海没 3-3
ここでは春風亭柳昇「落語与太郎戦記」、山本七平「一下級将校の見た帝国陸軍」から「地獄の輸送船生活」、小松真一「虜人日記」から「海難」、水木しげる「水木しげる伝(上)戦前編」の「野戦ゆき」のところなどを紹介する。それぞれ海でのシーンである。戦没者で「海没」が約30万柱とある理由がわかるようである。

春風亭柳昇「落語与太郎戦記」
春風亭柳昇1920年生まれ、1940年7月 徴兵検査で甲種合格。1944年船舶警護分隊長として輸送船「暁雲丸」に乗船とウイキにはある。この時の経験を新作落語として演じて好評をはくした。30分ちかくある落語である、動画でもなく、文章でもないが臨場感あふれるものである。
春風亭柳昇「落語与太郎戦記」(6.55MB)
YouTube「Enshoh 100」より「落語与太郎戦記」
作者名・作品名、簡単な内容と抜粋、引用 |
山本七平著「一下級将校の見た帝国陸軍」文芸春秋1987年第1刷、2012年第20刷
「地獄の輸送船生活」のところ。
山本七平は1921年生まれ。入営後、幹部候補生試験で「甲種幹部候補生」に思いもよらず合格した。
そして1943年2月に豊橋第一陸軍予備士官学校砲兵生徒隊十榴(105ミリ榴弾砲)中隊へ入校し、1943年12月卒業予定を2か月繰り上げて卒業し、原隊復帰して見習士官となった。
そして1944年5月門司からフィリピンへ本部要員として向かった時の話しである。
(左地図、山本七平著「一下級将校の見た帝国陸軍」より。)
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「地獄の輸送船生活」(一部抜粋)
・・・・・だがその日から二週間近くたった今日、六月十一日の夕刻、魔のバシー海峡の真ん中で、西の水平線に落ちて行く真っ赤な太陽を眺めていると、この二週間の悪夢のような体験のすべては、一切が、恐ろしい勢いで破滅に突き進んでいることを、否応なしに突きつけ、見せつけているように思えてくるのであった。
船尾に近い、立入禁止区画の、高さニメートルほどのサイコロのような鉄の収納庫らしきものの上によじのぼり、粕谷軍曹と私は、並んで落日を見ていた。彼は音楽学校のピアノ科の出身、丸い温顔に部厚い近眼鏡をかけ、無意識のうちにピアノを弾くように指を動かす、およそ”軍曹”というイメージからかけ離れた存在だった。二人は同じ日に軍隊にとられ、同じ内務班で同じように扱われ、ともに整列ビンタもくった。いま一方が見習士官で一方が軍曹だというのは、幹部候補生試験というペーパーテストの、一方が甲種で一方が乙種だったという差だけだが、原因はおそらく彼の「音楽学校出身」にあったのだろう。そして二人きりになれば、双方からすぐ、一年半前の学生時代にもどってしまうのだった。

だが、二人きりになるということは、この船内では奇蹟に等しいことである。船艙にぎっしりと人間がつまり、入りきらずに甲板にあふれ、文字通り立錐の余地もない。どこもここも、国鉄ストのときの車内とプラットホームのような状態。その状態ですでに二週間の海上生活がすぎている。従ってこのニメートル四方もない鉄の収納庫の上は、特等席とも別天地とも電車の屋根の上ともいえる場所であった。
軍の輸送船はひどい、まるで地獄船だという話は前にも聞いていた。しかしその実情は聞きしにまさるもので、いかなる奴隷船もどのような強制収容所も、これに比べれば格段に上等である。前に週刊朝日でも触れたが、人類が作り出した最低最悪の収容所といわれるラーベンスブリュック強制収容所の狂人房も、収容人員一人あたりのスペースでは、陸軍の輸送船よりはるかに”人道的”といえるのである。前述の石塚中尉の日記をもう一度ここで引用させていただこう。「……船中は予想外の混乱なり。船艙も三段設備にて、中隊一七六名は三間と二間の狭隘なる場所に入れられ、かつ換気悪いため、上層の奥など呼吸停止するほどの蒸れ方なり。
何故かくまで船舶事情逼迫(ひっぱく)せるや。われわれとしては初めて輸送能力の低下している事情を知り大いに考えざるべからず。銃後人にもこの実情を見せ、生産力増強の一助にすべきものなるにかかわらず、国民に実情を秘し、盲目的指導をつづけていることは疑問なり」。
これ以上の説明は不要であろう。二間に三間は六坪、これを三層のカイコ棚にすると、人間がしゃがんで入れるスペースは十八坪、言いかえれば、ひざをかかえた姿勢の人間を、畳二枚に十名ずつ押し込み、その状態がすでに二週間つづいているということ、窒息して不思議ではない。それは一種異様な、名状しがたい状態であり、ひとたびそこへ入ると、すべてが、この世の情景とは思えなくなるほどであった。その中の空気は浮遊する塵埃と湿度で一種異様な濃密さをもち、真暗な船艙の通路の、所々に下がっている裸電球までが、霧にかすんだようにボーツと見え、む━つとする人いきれで、一瞬にして、衣服も体もべ夕べ夕してくる。簡単にいえば、天井が低くて立てないという点で、また窓もなく光も殆どない鉄の箱だという点で、ラッシュアワーの電車以上のひどさで家畜輸送以下なのである。だが、このような場所に二週間も押し込められたままなら、人間は、窒息か発狂かである。従って耐えられなくなった者は、甲板へ甲板へと出ていく。しかし甲板には、トラックや機材が足の踏み場もないほど積まれ、通路のようなその間隙には、これまた人間がぎっしりつまり、腰を下ろす余地さえなくなる。
一言でいえば、前述したプラットホームである。
そのくねくねした迷路に一列に並んでいる人の先端が、仮設便所であった。便所にたどりつくのが、文字通り「一日仕事」。人間は貨物ではない。貨物なら船艙いっぱいにつめこめればそれですむ。しかし、人間には排泄がある。貨物船の便所は、当然、その乗組員の数に応ずる数しかない。三千人をつめこめば、三千人用の便所がいる。そのため舷側に木箱のような仮設便所が並び、糞尿は船腹をつたって海に流れ落ちる。だがその数も十分でないから、便所への長蛇の列が切れ目なくつづき、その結果、糞尿の流れが二十四時間つづくから、船自体が糞尿まみれで走っている。天気ならまだよい。しかし門司を出てから殆ど雨。順番が来るまで雨でぐっしょり濡れる。その兵士が、寒さにふるえながら船艙におりてくる。濡れた衣服と垢だらけの体と便臭から発散する異様な臭気とむっとする湿気。それはますます船艙内を耐えがたくし、そのため人びとは、呼吸を求めて甲板へと出て行き、一寸の余地でも見つければそこを占領して動かない。「組織の自転」も不可能、軍紀も何もあったものではない。それでも甲板に出られる人数は、せいぜい三分の一の、干人であろう。・・・・・・・
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小松真一著「虜人日記」筑摩書房1975年刊行、2004年第1刷刊
「海難」のところ。小松真一は1911年生まれ、1932年東京農業大学農芸化学科卒。科学者として大蔵省醸造試験場、農林省米穀利用研究所を経て、台湾でブタノール工場を創設。1944年比島(フィリピン)に「軍属」としてブタノール生産のため派遣される。小松氏は1943年7月その依頼(陸軍省整備局長から)を、台北の台湾軍兵器部今井大尉から要請された。
明糖と合併
昭和十八年(1943年)九月一日、明糖に合併され全社員もそのまま明糖に引き継がれた。
家族は内地へ引揚ぐべきか、生活の楽な台湾に置くべきか、色々迷ってみたが、目下の戦況では台湾危しと直感し、内台航路の危険をおかして内地に引揚げる事に決心し、明糖小塚常務に交渉、明糖川崎研究所勤務と一応発令してもらった。内地転勤というかたちで台東を九月七日に出発した。昭和十四年台東に着任以来酒精工場の建設に運営に精根を打ち込んできただけに、育てあげた工場員と別れるのは感無量のものがあった。

内地帰還
当時の内台航路は、高千穂丸を始め、次々と雷撃を受けて沈んでいき、残るは富士丸、欧緑丸、鴎丸だけとなっていたので、なかなか乗船は困難だった。自分一人分だけは、軍の人間として優先的に富士丸に席が取れたが、家族の分はなかなか取れず閉口した。やっとの事で欧緑丸の船室が取れたが、海上危険の時、夫婦子供が別の船に乗る手はない。死なば諸共と心臓的交渉をした。当時、富士丸は最優秀船で速力があるので一番安全の船とされ、この船の切符には「プレミアム」がつく位だったので、欧緑丸に席を持っていた陸軍少将の人に交渉して交換してもらい、家族一同どうやら同じ船で内地へ行くことになった。引越し荷物は当時一般には取り扱わなかったが、兵器部の威力で無理に積んでもらった。(乗船船待の間、北投の専売局養気倶楽部に宿す)
海難
十月二十五日、富士丸、欧緑丸、鴎丸の三艘は駆逐艦一と飛行機二に護衛されながら堂々と基隆港を出港、十三ノットの優秀船団で二十五、二十六日を無事航海した。
二十七日の夜半突然の砲声に一同飛び起きる。船は全速でジグザグに逃げまどう。急カーブのたびごとに船体は撓り、メリメリと気色の悪い音をたてる。そして爆雷の音がしきりに響いてくる。生きた心地なく子供等の身仕度をしているうち、どうやら危機を脱したようだ。 夜明、船が止まったので甲板に出てみれば前方に鴎丸が沈没しかかっていた。遭難者が、ボート、筏で流れて来るのを、富士丸と共に救助した。救助といっても潮流の下手で、これら遭難者の、しかもちょうど二艘の船の処へ運よく流れついたボートや筏を救助するだけで、少し離れたところを流れて行くボートや筏は、「オーイ」「オーイ」というだけで遠くへ流されて行ってしまう。ボートの水兵が腰にロープをつけて我々の船まで泳いできて、ボートをたぐり寄せる等、元気者もいた。血だらけの者もあり、女子供は狂気した様だった。
それでも八時頃までかかってやっと救助作業を終った。この間、護衛の駆逐艦は敵潜の上とおぼしきあたりに止まっていた。突然、すぐ目の前にいた富士丸の胴体から水煙があがった。やられたと船室に飛び込み子供等に用意をさせる。窓から見れば富士丸はもう四十五度に傾き、次いで棒立となって沈んでしまった。雷撃後三分三十秒であっけなく姿を消した。我々の船は全速で逃げ、四時間後に再び富士丸遭難地点に戻り、救助にかかる。
又、やられはせぬかと気が気でない。
沖縄からきた飛行機が二機、潜水艦を探している。富士丸の遭難者の大半を救助した頃、我々の船めがけて三本の雷跡。あわてて室に帰る。船は急旋回。そのとき、ドスンと大きな音がした。もうだめだ。が、幸い魚雷は不発で助かった。船からは大砲を乱射する、爆雷は落す、全速で逃げまわる。生きた心地はない。門司までの一昼夜は実に長い、嫌な、命の縮まるような思いをした。歩き始めた紘行(次男)も、この船旅にすっかり弱って歩けなくなってしまった。
三十日無事神戸港に入港した。港には米人捕虜が働いていた。二コニコしながら、「今に見ろ、お前達を使ってやるから」と豪語しながら。
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水木しげる「水木しげる伝(上)戦前編」講談社2004年第1刷刊、2005年第4刷刊
「野戦ゆき=戦地へ行くこと」のシーン。「水木しげる伝(下)」の詳細年譜によれば、水木しげるは1922年生まれ、1942年徴兵検査で乙種合格(近眼のため)、1943年激戦地ニューブリテン島(ラバウル)へ送られる。この時輸送船はほとんどが沈没し、水木しげるの輸送船は奇跡的に到着できたと書かれている。そしてその後も無事に到着した輸送船はなく、水木らはラバウルに派遣された最後の兵隊団であったとある。門司から輸送船に乗って戦地へ向かうシーンである。
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