「帝国陸軍」①(まだ終わっていない日本の戦争)帝国陸軍の組織
2023年4月25日アジア・太平洋戦争
●日本がこの戦争を決着できないのは、つまるところ戦後の日本が、自国の戦争過去を、自らの手で精算できなかったことに起因する。この戦争では、日本人は加害者でもあり被害者でもあったからである。そのため「戦争責任」「東京裁判」「憲法9条」「自衛隊」「靖国参拝」「南京虐殺」「慰安婦」「日米安全保障条約」「沖縄問題」などの問題を決着できずにいる。
●だがこの戦争は、われわれ戦後世代にとっては過去のものであり、ましてもっと若い世代にとっては、既に過ぎ去った教科書に書かれた歴史にすぎない。それでもわれわれ戦後世代は、戦争責任を負わねばならないのだろうか。この戦争は、われわれの戦争ではない。
●だが、朝鮮半島の人々の日本人に対する、むきだしの排日感情に接すると、われわれであっても、若者であっても、日本の戦争過去の重大性を認識せざるを得ない。われわれもまた、日本民族の歴史を心に刻まなければならないからである。
だが中国や朝鮮半島の戦後の世代にとって、本当の敵は日本なのだろうか。日本では民主主義と個人尊重は浸透し、日本国民にとって全体主義や国家主義はすでに克服した過去である。彼らの本当の敵は、彼ら自身に潜む国家主義と、民族主義という名の他民族に対する排斥・差別意識ではあるまいか。
上の写真は、祖父の遺品にあった「御真影=昭和天皇・皇后の公式の肖像写真」である。80年以上前のものと思われる。
軍隊は、命令者が全ての責任を負い、その実行者は責任を負わないことが軍法である。その代わり不服従、抗命の罪が戦場では死刑と定められているのである。国家に尽くした兵隊・軍人に名誉と尊敬を与えない国は、日本ぐらいだろう。
●日本軍の勇敢さと残虐さ、そして壮絶で無残な最後は、両極端であり直視できないものである。しかし、われわれにとって必要なことは、現代の価値観で歴史に幻想を持ってはならないことである。
●日本人は、戦後になると、戦争を国民の記憶の底に追いやり、死んだ兵隊に対してすら、「命令だから許されるのか」と批判する風潮すらある。だがそれは兵隊にとってはかなわぬ問いである。軍隊は、命令者が全ての責任を負い、その実行者は責任を負わないことが軍法である。その代わり不服従、抗命の罪が戦場では死刑と定められているのである。国家に尽くした兵隊・軍人に名誉と尊敬を与えない国は、日本ぐらいだろう。
一番問題なのは、責任を負うべき命令者が、自ら責任を取らなかったことにつきる。あるいは言い換えれば、国家が自らの力で戦争に決着をつけず、占領軍にその責任を委ねてしまったことが一番の問題であった。
戦争では、敵も味方も無数の人々が無残な死を体験し、かつ生き残った人々も死ぬまで消えぬ体験を背負ってきた。後を継ぐわれわれにできることは、その人々の声を聴き、あるがままを理解し、その体験を深く記憶に刻むことだけである。そして我々はわれわれの未来に挑むだけである。
ここでいう責任とは上記のことである。国家指導部が担わなければならない根本責任である。
●吉田満著「戦艦大和ノ最期」の初版あとがきに次のようにある。
この作品の中に、敵愾心とか、軍人魂とか、日本人の矜持とかを強調する表現が、少からず含まれていることは確かである。
だが、前にも書いたように、この作品に私は、戦いの中の自分の姿をそのままに描こうとした。ともかくも第一線の兵科士官であった私が、この程度の血気に燃えていたからといって、別に不思議はない。我々にとって、戦陣の生活、出撃の体験は、この世の限りのものだったのである。若者が、最後の人生に、何とか生甲斐を見出そうと苦しみ、そこに何ものかを肯定しようとあがくことこそ、むしろ自然ではなかろうか。
戦歿学生の手記などをよむと、はげしい戦争憎悪が専らとり上げられているが、このような編集方針は、一つの先入主にとらわれていると思う。戦争を一途に嫌悪し、心の中にこれを否定しつくそうとする者と、戦争に反撥しつつも、生涯の最後の体験である戦闘の中に、些かなりとも意義を見出して死のうと心を砕く者と、この両者に、その苦しみの純度において、悲惨さにおいて、根本的な違いがあるであろうか。(いうまでもなく、戦争の上にあぐらをかき、これに利己的に妥協し、便乗していた者は論外である。)
このような昂りをも戦争肯定と非難する人は、それでは我々はどのように振舞うべきであったのかを、教えていただきたい。我々は一人残らず、召集を忌避して、死刑に処せらるべきだったのか。或いは、極めて怠惰な、無為な兵士となり、自分の責任を放擲すべきであったのか。—-戦争を否定するということは、現実に、どのような行為を意味するのかを教えていただきたい。単なる戦争憎悪は無力であり、むしろ当然過ぎて無意味である。誰が、この作品に描かれたような世界を、愛好し得よう。・・・
(出典)「戦艦大和ノ最期」吉田満 著 講談社1994年第10刷発刊
●頭で考えただけの批判や理想主義では何も解決しない、現実主義であるべきである。この時代において、数多くの人々が、全身全霊をこめて命を尽くした、という事実は忘れてはならない。
●「歩兵科新兵必携・典範令」の「歩兵操典」の問答集には次のようにあります。
直(スグ)二上官ニ差出(サシダ)シマス
一、俘虜(フリョ)ハ如何ニ處置スルヤ
侮辱ヲ與(アタヘ)ルコトナク敵國ノ軍人トシテ接待(セッタイ)シマス
一、俘虜若(モ)シ抵抗或(アルヒ)ハ逃走セントスル時ハ如何ニスルヤ
殺(コロ)シマス
・・・・「歩兵操典」「出戦時ノ心得」から一部抜き出し
●陸軍刑法には次のようにあります。
第四十条 司令官其ノ尽スヘキ所ヲ尽サスシテ敵ニ降リ又ハ要塞ヲ敵ニ委シタルトキハ死刑ニ処ス
第四十一条 司令官野戦ノ時ニ在リテ隊兵ヲ率ヰ敵ニ降リタルトキハ其ノ尽スヘキ所ヲ尽シタル場合ト雖六月以下ノ禁錮ニ処ス
第四十二条 司令官敵前ニ於テ其ノ尽スヘキ所ヲ尽サスシテ隊兵ヲ率ヰ逃避シタルトキハ死刑ニ処ス
(注)司令官とは、軍隊の司令に任ぜられた以上、団体の大小、任務の軽重、将校・下士官を問わず総て司令官である。
第四章 抗命ノ罪
第五十七条 上官ノ命令ニ反抗シ又ハ之ニ服従セサル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス
一 敵前ナルトキハ死刑又ハ無期若ハ十年以上ノ禁錮ニ処ス
二 軍中又ハ戒厳地境ナルトキハ一年以上十年以下ノ禁錮ニ処ス
三 其ノ他ノ場合ナルトキハ五年以下ノ禁錮ニ処ス
第七章 逃亡ノ罪
第七十五条 故ナク職役ヲ離レ又ハ職役ニ就カサル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス
一 敵前ナルトキハ死刑、無期若ハ五年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
二 戦時、軍中又ハ戒厳地境ニ在リテ三日ヲ過キタルトキハ六月以上七年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
三 其ノ他ノ場合ニ於テ六日ヲ過キタルトキハ五年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
第七十七条 敵ニ奔リタル者ハ死刑又ハ無期ノ懲役若ハ禁錮ニ処ス
第九章 掠奪及強姦の罪
第八十六条 戦地又ハ帝国軍ノ占領地ニ於テ住民ノ財物ヲ掠奪シタル者ハ一年以上ノ有期懲役ニ処ス
前項ノ罪ヲ犯スニ當リ婦女ヲ強姦シタルトキハ無期又ハ七年以上ノ懲役ニ処ス
第八十七條 戦場ユ於テ戰死者又ハ戦傷病者ノ衣服其ノ他ノ財物ヲ褫奪(ちだつ)シタル者ハ一年以上ノ有期懲役ニ処ス
第八十八條 前二條ノ罪ヲ犯ス者人ヲ傷シタルトキハ無期又ハ七年以上ノ懲役ニ処シ死ニ致シタルトキハ死刑又ハ無期懲役ニ処ス
第八十八條ノニ 戦地又ハ帝国軍ノ占領地ニ於テ婦女ヲ強姦シタル者ハ無期又ハ一年以上ノ懲役ニ処ス
前項ノ罪ヲ犯ス者人ヲ傷シタルトキハ無期又ハ三年以上ノ懲役ニ処シ死ニ致シタルトキハ死刑又ハ無期若ハ七年以上ノ懲役ニ処ス
「 陸軍刑法ヲ定ム」「明治41年4月9日法律第46号」
「国立公文書館アジア歴史資料センター」
「改正陸海空軍事法」「陸軍刑法」尾山万次郎 著 天泉社昭和18年刊
●下は小松真一著「虜人日記」の「幽霊の話」のところ。(注)昭和20年(1945年)9月1日PW(Prisoner of War=捕虜)になってから、昭和21年12月11日帰国するまでの雑感。 レイテ島(フィリピン中部)。軍旗(聯隊旗)奉焼=軍旗は死んでも守らなければならない。ニッパ=ニッパヤシで屋根を葺いた建物。
レイテは10余万の日本軍が死んだ所であり、殊に我々の居るパロの高地は、第三十三部隊が軍旗を焼いて玉砕した所なので、白骨が沢山出てくる。毎日の雨に、あたりは何となく淋しいし、幽霊が出るにはもってこいの条件なのに、出ないのは不思議だと思っていた。
すると幽霊がはたして出始めた。
1、第五中隊の第2ニッパのPWが、毎夜うなされだした。やせ衰えた友軍の兵隊に胸をおさえられるという。一晩に5人も10人もおさえつけられる。恐ろしさに不寝番を付けたり、一つの寝台に2人宛寝たりするがだめなので、炊事場の明るい所へ行って寝たりする者も続出した。
2、朝鮮人、台湾人の中隊にも出るというので、夜中に大騒ぎをして、火を焚いて悪魔払いをやったこともあった。
3、雨の夜、子供を抱いた日本の女が、炊事場へ飯をもらいにくるといいだした。
4、戦友を殺してその肉を食べた連中が、亡友になやまされ、毎夜うなされだし、発狂する者も出た。
5、血みどろの日本兵15、6人が抜刀して、銃剣を持って、米兵ガードの所へ次から次とやってくるというので、夜中に急に発砲しだした事件もあった。
毎夜出るので米兵もいやがって、1人で立つのをやめ、2人3人で立つようになった。
それでも出るので、とうとう夜中はガードが立たなくなってしまった。余り騒ぎが大きくなったので、合同慰霊祭が行なわれ、以後余り出ぬようになった。(後略)
(出典)「虜人日記」小松真一 著 筑摩書房2004年発刊
●戦後70年以上たった現在でも「アジア・太平洋戦争」は終わっていないのである。厚生労働省「戦没者慰霊事業」による「海外戦没者遺骨の収容状況」によれば、
平成29年(2017年)3月31日現在において、海外戦没者概数約240万人のうち、
収容遺骨概数 約127万柱 未収容遺骨概数 約113万柱とあり、次のようにあります。
戦没者の御遺骨の収容については、これまでも戦友の方々や現地政府等から提供された情報に基づき鋭意実施してきており、約34万柱の御遺骨を収容したところですが、戦後70年以上が経過し、遺骨情報が減少してきているなどの事情から、未だ約60万柱の御遺骨が未収容であり、特に南方地域(フィリピン、東部ニューギニア、ビスマーク・ソロモン諸島、インドネシア等)での遺骨収容が困難な状況になりつつあります。
このような状況を踏まえ、厚生労働省では、南方地域での今後の遺骨収容の促進を図っていくため、平成18年度から、民間団体等の協力を得ながら、フィリピン、東部ニューギニア、ビスマーク・ソロモン諸島、インドネシア、ミャンマー、パラオ、マリアナ諸島における未収容遺骨の集中的な情報収集を実施しています。
この事業は、民間団体に委託して実施しておりますが、現在、厚生労働省においても、フィリピン、東部ニューギニア、ビスマーク・ソロモン諸島、インドネシア、ミャンマー、パラオ、マリアナ諸島の地域における未収容遺骨の情報を広く求めていますので、それらの地域における戦没者の残存遺骨情報をお持ちの方は、御遺骨の所在・様子がわかる資料を添えて下記へ御連絡をお願いします。
(連絡先)厚生労働省社会・援護局事業課事業推進室
厚生労働省「戦没者慰霊事業」「海外戦没者遺骨の収容状況」
厚生労働省
ここでは帝国陸海軍の階級章一覧の図と「水木しげる伝」から軍隊の組織を紹介する。また忘れがちなことだが「軍馬」の写真を紹介しておく。日中戦争・太平洋戦争を通じて徴発された軍馬は50余万頭と推定されている。
●「昭和2万日の全記録・1億の新体制」講談社1989年刊から「陸海軍の階級章」一覧。
●下は「水木しげる伝(上)戦前編・講談社2004年刊」から、軍隊の組織を「ネズミ男」が解説しているところ。一番右をクリックして拡大してから、左ボタンをクリックして順にみてください。水木しげるは「ゲゲゲの鬼太郎」などが有名だが、本人の戦争体験に基づく「昭和史」「総員玉砕せよ!」など重厚な作品も多い。
●また陸軍の組織の中に「馬政課」という課がある。ここは軍馬や軍用動物に関する部署であったが、日中戦争・太平洋戦争を通じて徴発された軍馬は50余万頭と推定され、さらに日本軍による現地調達も多数にのぼった。50余万頭の馬も異国の地に倒れた。次の写真を掲載しておく。
●「戦争に倒れた軍馬たち」(出典:「昭和2万日の記録5」講談社1989年刊)
ここでは陸軍の基本的な用語を簡単に一覧にする。正式には全ての階級の上に、「陸軍」が付く。(陸軍大佐など)
(参考)「図解日本陸軍歩兵」画 中西立太、文 田中正人 2006年並木書房刊。「太平洋戦争 日本帝国陸軍」編集制作 有限会社オフ 成美堂出版2000年刊。「新陸軍読本」武田謙二 著 高山書院 昭和15年(1940年)刊。「陸軍読本」大久保弘一 著 日本評論社 昭和13年(1938年)刊。
(階級区分) | 旧名称 | 階級、正式には全て「陸軍」が頭に付く。(軍隊内職務) | |
---|---|---|---|
(将校)将官 | 大将、中将、少将。(軍司令官、師団長、旅団長) | ||
(将校)佐官 | 《上長官》 | 大佐、中佐、少佐。(連隊長、大隊長) 《上長官は明治・大正期》 |
|
(将校)尉官 | 《士官》 | 大尉、中尉、少尉。(中隊長、小隊長) 《士官は明治・大正期》) |
|
(准士官)准士官 | 准尉。(1936年までは特務曹長) | ||
(下士官)下士官 | 《下士》 | 曹長、軍曹、伍長。(分隊長) 《下士は1931年まで》 |
|
(兵)兵 | 《兵卒》 | 兵長(1941年に伍長勤務上等兵を改称し独立の階級として新設)、上等兵、1等兵(1931年まで一等卒)、2等兵(1931年まで二等卒)。 《兵卒は1931年まで》 |
|
(注) ●元帥は階級ではなく、陸海軍大将への称号で、元帥は終身現役。 ●「大元帥」とは天皇のこと。軍人勅諭に次のようにある。 ・・子々孫々に至るまて篤(あつ)く斯(この)旨(むね)を傅(つた)へ天子は文武の大権を掌握するの義を存(ぞん)して(=正しき条理を維持する)再(ふたたび)中世以降の如き失體(しったい)なからんことを望むなり朕は汝等(なんじら)軍人の大元帥(たいげんすい=全軍を統率する総大将)なるぞされは朕は汝等を股肱(ここう=手足とも頼みにするの意)と頼み汝等は朕を頭首と仰きてそ其親(したしみ)は特に深かるへき朕か國家を保護して上天(しょうてん=神霊)の恵(めぐみ)に應(おう)し祖宗の恩に報いまゐらする事を得(う)るも得(え)さるも汝等軍人か其職を盡すと盡さゝるとに由(よ)るそかし(=意味を強めた助調)
|
●平時陸軍の編制は軍隊・官衙(かんが)・学校・特務機関とに区分された。そして中心であるのは軍隊である。軍隊は下記のように分かれる。
(注)親補(しんぽ=旧憲法のもとで、天皇がみずから官職を命じること。)、直隸(ちょくれい=直接に隷属すること。直属。)
軍隊 | 長 | 説明 |
---|---|---|
「師団」 | (師団長=陸軍中将を以て親補す) | 師団長は天皇に直隷し、部下の陸軍諸部隊を率い、軍事に関する諸件を統轄・処理する。 |
「航空兵団」 | (航空兵団司令官=陸軍大・中将を以て親補す) | 司令官は天皇に直隷し、部下飛行部隊を練成・統率する。航空兵団司令部(東京)、飛行団、飛行聯隊。 |
「台湾・朝鮮・満洲及支那駐屯軍及び守備隊など」 | 各司令官は、天皇に直隷し、朝鮮、台湾、関東州及び満州、に在る陸軍諸部隊を率ひて各地を防衛する。 | 朝鮮軍司令部(龍山)、台湾軍司令部(台北)、関東軍司令部(新京)、支那駐屯軍司令部(天津)、台湾守備隊、独立守備隊、台湾・満州に在る重砲兵聯隊。 |
「憲兵隊」 | 本部を師団司令部所在地に置く | 各隊は之を分隊に分け、各々其の管区内に置き、補助憲兵は憲兵科以外の各兵科から採用する。 |
「陸軍教化隊」 | 所在地は姫路。 | しばしば罰せられても、改悛の状なき者を此の隊に入れ、教導感化する。 |
●この中で、陸軍における軍隊の平時常設の最大単位は師団であった。そして戦時(戦闘序列)となれば師団をこえて、軍、方面軍、総軍が編成された。下は平時師団編制と歩兵聯隊の典型的な編制。師団編制は「陸軍読本」から、歩兵聯隊編制は「図解日本陸軍歩兵」より要約した。
「新陸軍読本」によれば次のようにある。
①歩兵は、日清・日露戦争では身につけた銃剣と小銃とで闘った。
②しかし機関銃現れ、第1次世界大戦では歩兵の主力火器が小銃から機関銃に替わっていった。
③そこで、中隊には軽機関銃、大隊には重機関銃を配属し、また手榴弾、擲弾筒を中隊に与え、歩兵砲、迫撃砲、高射機関銃及び毒瓦斯投射機や火炎放射機などが大隊に配属され、近代歩兵は複雑化し大きく変化した。
④このような歩兵の火力装備は、陣地の構築に大きく変化をもたらし、攻撃体形も根本的に変化した。それが戦闘群戦法といわれ、一列の散兵による攻撃から、多数の分隊程度の小集団による、縦深のある散開で波状的に攻撃を反復して敵陣を奪取するものに変化した。縦型散開、横型散開、傘型散開など。
●1940年陸軍は、歩兵、騎兵、砲兵、工兵、輜重兵、航空兵の6の兵科区分を廃止した。これは、明治12年(1879年)に制定された区分では、進歩した近代戦に対応できなくなったことが原因であった。しかし兵科の意味を知っておくことは必要であるので、「新陸軍読本」1940年刊より抜粋して、陸軍各兵科の任務を簡単に一覧にしてみる。
●「空軍」については「新陸軍読本」(1940年刊)に次のようにある。
●現在(2017年)においてはさらに空軍は進化し、ミサイル・軍事衛星等によるスペースコマンド(宇宙軍団)レベルの時代となっている。日本の再軍備を肯定するわけではないが、日本人が70年以上も前に否定した安全神話を、現代においても非現実的に信じているとすれば、日本人の国防意識は幼稚なものと言わざるを得ない。最近のマスコミの論調を聞くと、北朝鮮の脅威は日本ではなくアメリカの問題であるらしい。自国の防衛は自国で行うのが当たり前のことである。何をアメリカに期待しているのだろう。他国のために自国の血を犠牲にする国があるはずがない。
項目 | 説明 |
---|---|
軍用機の大別 |
偵察機
偵察機は空軍の眼となり、聴覚となって、遠距離を飛んで敵の上空に現れ、精巧な写真機で主要目的物の撮影や、地上軍事施設の所在を衝き止めこれを材料として爆撃効果を絶対高度に発揮させる。 戦闘機(空中戦の花形)
近代戦は先ず空中戦にはじまり、空を制するものが勝利をつかむといわれる。この制空権確保のための空中戦の主力となるものが戦闘機である。「スパーマリン・スピットファイヤー(イギリス)」、「メッサー・シュミットMe109(ドイツ)」、「カーチスP40(アメリカ)」など。 爆撃機
爆撃機は今や、戦線に束縛されることのない砲兵に替わろうとしている。爆撃機から投下される巨大な爆弾は戦線を超越して、巨大な砲弾に替わり、水平爆撃によりまた急降下爆撃によって、砲弾以上の威力を発揮し、一瞬にして築造物をまた人馬を粉砕してしまう。例「ボーイングB17(アメリカ)」 |
新しい爆弾。 |
「モトロフのパン籠」複式焼夷弾(第2次ヨーロッパ大戦時)
この爆弾はソ連で考案されフィンランド戦線の、特に木造家屋の密集した所に使われて、脅威的な威力を発揮した爆弾。木造建築物の多い日本のような国にとっては恐るべきものである。 |
列国空軍の現況 |
空軍力算定
一国の空軍力は空軍兵力、航空機生産力、航空予算の3つによって空軍力算定の基礎となる。 (注)1939年9月第二次世界大戦勃発。1940年9月、日独伊三国同盟締結。アメリカ1941年3月武器貸与法成立(イギリスへの武器輸出開始)、1941年8月大西洋憲章でイギリスと共にファシズム国家との戦争を確認。アメリカ、1941年12月日本の真珠湾攻撃により参戦。
英国
(1939年4月には)第1線機1750機+予備機1750機=合計3500機を整備し、(1939年12月には)推定で4370機になると思われる。そして英独の戦争激化のため(1940年4月末までには)8000機になると考えられる。しかし生産能力は月産1000機を確保する努力をしているが、ドイツの連続爆撃による工場の被害によりこの数字を達成するのは困難であると思われる。 ドイツ
(1939年7月には)第1線機4000機、予備機8000機を有し、(1940年4月までには)第1線機8000機+予備機6000機=合計14000機になると推定されている。生産能力も月産1200台以上といわれ、さらに増加するものといわれている。 米国
(1939年4月には)第1線機1800機を持ち、(1940年4月までには)第1線機を5563機にすると発表している。生産能力は(1938年には)月産500台であったものを、(1939年末には)月産1000台になるとおもわれる。そしてこの欧州大戦での英国の危機は米国を刺激しており、(1940年には)年産50000台を目標とし着々と準備を進めている。アメリカの発達した工業力は、この数字の実現を不可能とはしていない。 ソ連
現在(1939年)第1線機3500機、予備機2000機及び極東に1500機を持ち、合計7000機を持つ。そして(1940年には)10000機に到達すると思われる。 |
民間航空 |
空軍の母胎である
各国のすべての空軍は、民間航空を母とし基礎として成長してきた。英国は世界各地に散在する植民地と自治領との交通を全て航空機によって行い、アフリカに、豪州(オーストラリア)に、シンガポールに、民間航空路の網の目を構成している。米国は米本土の航空網を蜘蛛の巣のように張り巡らし、夜間飛行の設備は完備し、空中の交通整理を行うほどの状態である。中南米を傘下に収め、極東の地域との連絡の「クリッパー」機は太平洋を越え、マニラ、香港と南太平洋を快翔している状況である。支那事変前までは、支那全土は全て英、米、独の民間航空機の傘下にあった。 |
爆撃と防空戦 |
悲惨な都市爆撃
ロンドンはドイツ機の報復爆撃を受け危殆に瀕している。しかしこれは遠いヨーロッパの出来事ではない。日本もいつかかる危険にさらされるかもしれない。日本海はクリークであり、太平洋は敵航空母艦の侵入を許せば、日本全土は空爆に曝されてしまうのである。またわが帝国は地理的に欠陥を持っている。①軍事上また経済上の生命的機関が全て海岸に偏在して、海上からの空爆に対して容易に危険にさらされる。②4面を海に囲まれ細長い領土であるため、防空兵力を分散させねばならぬ不利がある。③建造物がほとんど木造で可燃性であるため、焼夷弾に対して絶対の弱点を持つ。④地形の特徴が目標を容易に発見させる。つまり日本海を渡って東京を目標にすれば、佐渡→信濃川→利根川を発見すれば簡単である。また太平洋からすれば、富士山を掴めば至極簡単に東京は標定できる。 |
ここでは「新陸軍読本」1940年刊より抜粋して、陸軍全体の組織を一覧にしてみる。
●第1に挙げられるのは陸軍の3長官である。これは「所謂(いわゆる)陸軍の3長官と称するのは、参謀総長 陸軍大臣及び 教育総監の3名であって、この機関を中央統轄機関と云います。」とあります。
名称 | 内容 |
---|---|
参謀総長 | 帝国陸軍の統帥に関する中央統轄機関は参謀本部であり、その長官は参謀総長であります。参謀本部條令には「参謀総長は天皇に直隸(ちょくれい=直接に隷属すること。直属。)して帷幕(いばく=陣営、本陣のこと。)の軍務に参画し国防及用兵に関する計画を掌り参謀本部を統括す」とありますやうに、戦時には現在の如く天皇の大纛下(だいとうか=天皇のいる陣営の意)に大本営が設けられ、参謀総長は海軍々令部長と共に幕僚長として、用兵作戦の重大責務を負うものであります。 |
陸軍大臣 | 陸軍々政の中央統轄機関が陸軍省であり、此の長官が陸軍大臣であります。陸軍大臣は国務大臣として内閣に列しますが、平時編制、動員計画、要塞兵備、軍人統督等の統帥及び編制事項に関する軍政事務は、自ら天皇に対して責に任ずるものであります。 |
教育総監 | 軍事教育の中央統轄機関は教育総監部であり、此の長を教育総監と云います。教育総監は天皇に直隷し、全軍隊の教育と学校教育とを掌るものであります。 |
名称 | 内容 |
---|---|
元帥府 | 元帥府は天皇の軍事上の最高顧問であり、軍事諮詢機関としての任務を果すものであって、之に列せられる陸海軍大將には特に元帥の称号を賜はるのであります。 |
軍事参議院 | 軍事参議院は帷幄(いあく=本陣。本営。)の下にあって重要軍務の諮詢(しじゅん=問いはかること。相談。)に応ずるものであります。軍事参議官は元帥、陸軍大臣、海軍大臣、参謀総長、海軍軍令部総長及び特に軍事参議官に親補(しんぽ=旧憲法のもとで、天皇がみずから官職を命じること。)せられた陸海軍将官を以て充て、其の高級先任者が軍事参議院議長となることになっています。 |
名称 | 内容 |
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①陸軍省(8局)
陸軍省は陸軍に関する軍政を掌る処で、陸軍大臣は現役の陸軍大・中将をもって親補せられ、内閣の閣員に列します。
陸軍大臣は陸軍の軍政を管理し、陸軍の軍人や軍属を統督し、所轄の諸部を監督します。文官である政務官は、一般の行政に関しては陸軍大臣を補佐しますが、軍の機密や軍令に関する事項には触れない。 陸軍省には大臣官房(機密に属する事項、文書の記録、共の他の庶務及び各局に属していない事項を掌る)以外に次の樣に8局がおかれてあります。 | |
1、人事局 | イ、(補任課)は陸軍の武官や文官の進退、任免、分限、補職、命課等、其の他一切人事にする事項を掌る所です。 ロ、(恩賞課)は、恩給、賜金、叙位叙勲、記章、褒章等に関する事や、休暇、結婚、軍事扶助に関する事項を掌る処です。 |
2、軍務局 | (軍事課)・・国防の大綱、陸軍軍備軍政、建制、平時戦時の編制等に関する事項、陸軍予算の一般統制、演習検閲に関する事項、等を掌る所です。 (軍務課)・・国防政策一般、国際的規約、外国事務、国家総動員一般等に関する事項、満州国及支那の軍事に関する事項、国防思想の普及及び思想対策、軍に関係ある諸団体の指導統制に関する事項等を掌る所です。 |
3、兵務局 | イ、(兵務課)は、各兵の本務に関する事項、軍紀、風紀、懲罰、儀式、礼式、服制等に関する事項、内務、兵要施設に関する事項等を掌る処です。 ロ、(兵備課)は、兵役、補充、動員、召集、徴発等に関する事項、在郷軍人会に関する事項等を掌る処です。 ハ、(防衛課)は、憲兵の本務、軍事警察、軍機の保護に関する事項、防諜、防空、戒厳、警備等に関する事項、衛戍(えいじゅ=軍隊が永く1つの土地に駐屯すること)勤務其の他要塞等に関する事項等を掌る所です。 ニ、(馬政課)は、軍馬の供給、飼養、管理、検査、衛生、地方馬の調査、検査、徴発等に関する事項、獣医部の動務及教育に関する事項、軍犬其の他軍用動物に関する事項等を掌る処です。 |
4、整備局 | イ、(戦備課)は軍需、物資等の動員一般に関する事項、労務及陸軍共済組合に関する事項等を掌る処です。 ロ、(工政課)は軍需品(燃料を除く)工業の指導及補助、製造の設備の計画統制等に、対する一切の業務を掌る処です。 ハ、(資源課)は、軍需品の原料及材料の調査、研究の統制、需給調査、規格統制等に関する事項を掌る処です。 ニ、(交通課)は、国防交通一般、運輸、通信、軍用鳩に関する事項、戦時交通の統制、海運資材、水路交通路等に関する事項等を掌る処です。 |
5、兵器局 | イ、(銃砲課)は、兵器及び一般器材の制式、支給、交換、調達、整備、検査及び之に関する一切の経理事項或は兵器の調査研究及び審議や、技術将校以下の教育に関する事項等を掌る処です。 ロ、(機械課)は航空兵器及一般兵器以外の機械化器、化学兵器、自動車燃料等に関する事項を掌る処です。 |
6、経理局 | イ、(主計課)は、経理部の動務教育、予算、決算、軍資運用の研究、動員予算、審議、或は金銭経理に関する事項を掌る処です。 ロ、(監査課)は、会計の監査、民間工業に対する経理及原価調査の監督等に関する事項を掌る処です。 ハ、(衣糧課)は、被服、糧秣、衣糧器具に関する事項、陸軍製絨廠に関する事項等を掌る処です。 ニ、(建築課)は、陸軍用地及建築に関する事項、国有財産に関する事項等を掌る処です。 |
7、医務局 | イ、(衛生課)は、衛生部の動務教育に関する事項や、衡生一般に関する事項等を掌る処です。 口、(医事課)は、治病、療養、身体検査、其他病院及医務室に関する医事一切を掌る処です。 |
8、法務局 | 法務局には課の区分はなく、軍事司法に関する一切の事項を掌る処です。 |
②参謀本部
参謀本都は、国防及び用兵の事を掌る処で、其の長官は参謀総長で、陸軍・中将をもって親補せられ、天皇に直隷して帷幄の軍務に参画し、陸軍大学校、陸軍測量部を管轄しています。 |
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③教育総監部
教育総監部は、陸軍軍隊教育(航空兵専門の教育は除く)の斉一(せいいつ=ととのいそろっていること。みな一様であること)進歩の為、所轄学校の教育を掌る所で、其の長官を教育総監といい、陸軍の大将又中将をもって親補せられ、天皇に直隷して数育総監部を統轄します。又所轄の諸学校及陸軍将校生徒の試験委員を監督します。 |
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④航空総監部
航空総監部は、陸軍航空兵科軍隊の教育に関係する事項を司る所で、其の長官を航空総監といい、陸軍の大将又は中将をもって親補せられ、天皇に直隷して航空総監部を統轄します。又所轄の航空関係諸学校を統轄します。航空総監部には総務部と教育部とがあって、総務部は庶務会計事務を行い、教育部で航室兵科軍隊の一切の教育に関する事項の業務を行います。 |
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⑤軍司令部
陸軍では今回国土防衛特に防空の強化を図り、併せて外地兵備の基地として強力ならしめる為に、国内の兵備の体系を大改造して不敗の国防態勢を整へる事になり、昭和15年8月1日より新軍令が実施される事となりました。これによりますと昭和11年に創設され、空の国土防衛に多大の機能を発揮して来た東部・中部・西部の3防衛司令部は廃止されて、全本土に4つの軍管区司令部が創設される事になりました。 | |
1、東部軍管区 東部軍管区は従来の東部防衛司令部の管轄範囲内をもって軍管区とし軍司令部の所在地は東京市であります。 |
(イ)東京師管区(麻布連隊区、甲府連隊区、横浜連隊区、本郷連隊区、千葉連隊区を含む)、(口)宇都宮師管区(水戸聯隊区、宇都宮聯隊区、前橋聯隊区を含む)、(ハ)仙台師管区(仙台聯隊区、福島聯隊区、新潟聯隊区を含む)、(ニ)金澤師管区(金澤聯隊区、富山聯隊区、長野聯隊区を含む) |
2、中部軍管区 中部軍管区は従来の中部防衛司令部の管轄範囲内をもって軍管区とし軍司令部の所在地は大阪市であります。 |
(イ)名古屋師管区(名古屋聯隊区、岐阜聯隊区、豊橋聯隊区、静岡聯隊区を含む)、(ロ)京都師管区(京都聯隊区、福知山聯隊区、津聯隊区、大津聯隊区、敦賀聯隊区、福井聯隊区を含む)、(ハ)大阪師管区(大阪聯隊区、堺聯隊区、奈良聯隊区、和歌山聯隊区を含む)、(ニ)姫路師管区(神戸聯隊区、姫路聯隊区、鳥取聯隊区、岡山聯隊区を含む) |
3、西部軍管区 西部軍管区は従来の西部防衛司令部の管轄範囲内をもって軍管区とし軍司令部の所在地は旧防衛司令部所在地であった小倉市を廃止して福岡市に置く事になりました。 |
(イ)広島師管区(広島聯隊区、福山聯隊区、松江聯隊区、浜田聯隊区、山口聯隊区を含む)、(口)善通寺師管区(高松聯隊区、松山聯隊区、徳島聯隊区、高知聯隊区を含む)、(ハ)熊本師管区(熊木聯隊区、大分聯隊区、宮崎聯隊区、鹿児島聯隊区、沖縄聯隊区を含む)、(ニ)久留米師管区(小倉聯隊区、福岡聯隊区、佐賀聯隊区、長崎聯隊区を含む) |
4、北部軍管区(新設) 北部軍管区は北海道及東北の旧八師管区以北の地をもって新軍管区とし軍司令部の所在地は目下銓衡中であります。 |
(イ)旭川師管区(札幌聯隊区、函館聯隊区、釧路聯隊区、旭川聯隊区、豊京聯隊区を含む)、(ロ)弘前師管区(青森聯隊区、盛岡聯隊区、秋田聯隊区、山形聯隊区を含む) |
⑥軍司令官に隷属する官衙
師団司令部、聯隊区司令部、要塞司令部、陸軍病院、陸軍監獄、陸軍倉庫。 |
名称 | 内容 |
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陸軍航空本部(陸軍航空廠、陸軍航空工廠、陸軍航空技術研究所、陸軍飛行実験部)、陸軍技術本部、陸軍兵器本部、陸軍軍需審議会、陸軍築城部、陸軍運輸部、軍馬補充部、陸軍気象部、陸軍衛生材料廠、陸軍獣医資材廠、陸軍被服廠、陸軍製絨所、陸軍糧秣廠、陸軍燃料廠。
(下は一例) | |
陸軍航空本部 | 陸軍航空本部は航空に関する事項の謌査研究、航空通信、兵要気象及民間航空に関する事項、航空兵の本務、典令範に関する事項、航空兵器及び其の燃料の制式、支給、交換、調達、整備、検査、払下げから、其の調査研究審議に関する事項、其の他航空に関する極めて広範囲にわたる一切の事項を掌ります。尚ほ航空本都長の隷下に陸軍航空廠、陸軍航空工廠、陸軍航空技術研究所、陸軍飛行実験部がある。 |
陸軍兵器本部 | 陸軍兵器本部は従来の陸軍兵器廠及び陸軍造兵廠で行っていた仕事を統合して兵器本部長の隷下に收めたもので、陸軍兵器の考案及び設計、兵器其の他の軍需品の製造、修理、軍用火薬の製造、修理、兵器用金属材料の調査研究、兵器の貯蔵、兵器、兵器材料、自動車燃料の購買、検査修理、補給及び廃品の処分等を行う所です。(後略) |
名称 | 内容 |
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●(参謀本部に属するもの)陸軍大学校。
●(教育総監部に属するもの)陸軍幼年学校、陸軍予科士官学校、陸軍士官学校、陸軍砲兵学校、陸軍教導学校、陸軍歩兵学校、陸軍騎兵学校、陸軍野砲兵学校、陸軍重砲兵学校、陸軍工兵学校、陸軍戸山学校、陸軍通信学校、陸軍自動車学校、陸軍習志野学校、陸軍戦車学校、陸軍防空学校、陸軍予備士官学校。 ●(航空総監部に属するもの)東京陸軍航空学校、熊谷陸軍飛行学校、水戸陸軍飛行学校、陸軍航空整備学校、陸軍航空士官学校、下志津陸軍飛行学校、明野陸軍飛行学校、浜松陸軍飛行学校、陸軍航空技術学校。 ●(陸軍大臣の管轄に属するもの)陸軍兵器学校、陸軍経理学校、陸軍軍医学校、陸軍獣医学校、陸軍憲兵学校。 (下は一例) |
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陸軍大学校 | (参謀本部に属するもの) 陸軍大学校は将校に高等用兵に関する学術を修得して、軍事研究に必要な学識を増進せしめ、高等用兵に関する学術の研究を行う所で、学生の修業期間は大体3ヶ年です。 |
陸軍予科士官学校 | (教育総監部に属するもの)陸軍予科士官学校は兵科の士官候補生となるべき生徒及び兵科(憲兵科及び兵科中航空関係を除く)将校となるべき学生を教育する所で、生従は陸軍幼年学校を卒業した者、又は陸軍将校となるべく志願し召募試験に合格した者をもって之に充てる。修業期間は2ヶ年。 学徒は陸軍兵科(憲兵科及び兵科中航空関係を除く)少尉候補生たる准尉、曹長をもって之に充てる。修業期間は1ヶ年。 |
陸軍士官学校 | (教育総監部に属するもの) 陸軍士官学校は陸軍兵科(憲兵科及び兵科中航空関係を除く)の将校為すべき生徒を教育するで生徒は陸軍予科士官学校を卒業した士官候補生で所定の隊附勤務を修得した者をもって之に充てる。修業期間1年8ヶ月。 |
陸軍教導学校 | (教育総監部に属するもの)陸軍教導学校は兵科の現役下士官と為すべき学生を教育する所で、昔の教導団制度の一部復活と見ることができます。修業期間は1か年。 |
陸軍野砲兵学校 | (教育総監部に属するもの)陸軍野砲兵学校は兵科の将校及び下士官を学生とし、之に射撃、戦術、観測通信術並に馭法等を修得せしめ、之を各隊に普及し、且つ常に此等諸学術の調査研究を行い、野戦砲及高射砲兵の教育の進歩を図り、野戦砲兵及高射砲兵用兵器、情報用兵器、器具、材料等の研究試験を行う所です。 |
陸軍戦車学校 | (教育総監部に属するもの)陸軍戦車学校は将校及び下士官を学生とし、之に戦車隊又は軽装甲車隊に必要なる諸学術を修得せしめ、之を各隊に普及し、之等種学校の調査及び研究を行い、以て戦車隊軽装甲車隊の教育の進歩を図り、且つ之等に必要なる兵器其の他の資材の研究及び試験並に機械化部隊に関する綜合研究を行う所です。 以上の外に各隊より派遣された下士官や兵に軽装甲車に関する教育を行い、且つ下士官候補者に戦車隊下士官に必要なる教育を行います。 |
ここでは、(1)兵役制度、(2)徴兵検査、(3)徴集延期と入営延期、(4)幹部候補生、(5)召集・点呼、(6)現役士官の出身と現役下士官の出身、(7)進級、を「図解日本陸軍歩兵」「陸軍読本」「新陸軍読本」などから抜粋してみる。大前提は、日本には明治以来徴兵制度があったことである。
大日本帝国憲法には次のようにある。
すなわち、日本国民は誰でも兵隊にならねばならなかったことである。そして帝国陸軍の組織としてのヒエラルキー(上下階層関係に整序されたピラミッド型の秩序ないし組織)は、訓練と教育を受けた「正規将校(職業軍人)」が中枢であり上層階であった。従って徴集・召集された兵隊達は最下層(底辺)にいて消耗品となった。だから軍人といっても、将校と兵隊では、その体験・環境・意識など全く違っていた。そして平時でも、徴集・召集された兵隊達の兵役義務は、現役2年間だけの兵役期間ではなく、現役を退き予備役になってからも15年4ヶ月は召集などの義務を負った。そして戦時では、満期除隊となってもそのまま即日召集となり、戦地へ向かった。一例として、手記・著作などから、作者達の徴集・召集のシーンを抜粋しながら一覧にしてみる。
名称 | 内容 |
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●徴兵検査は、徴兵年齢(満20歳)に達した日本男子の兵役に関する処分を決定するための検査で、体格検査の結果、その体格の良否により次の5種に区分される。
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甲種(こうしゅ) 合格 |
身長1.52メートル以上の身体強健なる者。現役(補充兵)に徴集し得べき者。この内、その体格の優劣に従い徴集予定者及び徴集順序を定め、各徴集区分の配賦人員に応じ現役兵、第1補充兵の順序に徴集し、それ以外の者は第2補充兵に徴集する。 |
乙種(おつしゅ) 合格 |
身長1.50メートル以上の身体甲種につぐ者。此の間その体格が比較的良好なる者を、第1乙種、第2乙種、第3乙種とする。現役(補充兵)に徴集し得べき者。この内、その体格の優劣に従い徴集予定者及び徴集順序を定め、各徴集区分の配賦人員に応じ現役兵、第1補充兵の順序に徴集し、それ以外の者は第2補充兵に徴集する。 |
丙種(へいしゅ) 合格 |
身長1.50メートル以上であって、身体乙種につぐ者及び身長1.50メートル未満の者で、1.45メートル以上あって丁種又は戊種に該当せざる者。徴集を免除し第2国民兵役に入る者とする。 |
丁種(ていしゅ) 不合格・兵役免除 |
身長1.45メートルに満たない者、戊種及び疾病や身体又は精神に異常あるため服役に堪えない者。 |
戊種(ぼしゅ) 翌年更に検査を受ける者 |
疾病其他体格の関係上、次の年に於て徴集し得べき見込みある者。 |
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●中等学校以上の学校に在学する者は本人の願いにより、それぞれ徴集を延期された。また徴兵検査で戊種と判定された者は毎年徴兵検査を受けることや、刑法の適用を受ける者や、現役兵として徴集されたが家族が生活できない時などは徴集を延期された。
●しかし1943年10月1日、理工系と教員養成系を除く文科系の高等教育諸学校の20歳以上の在学生の徴兵延期を撤廃した。学徒出陣である。そして1943年10月と11月に徴兵検査を実施し12月に入隊させることとした。(これに先立つ1941年からは修業年限が短縮されて卒業が繰り上がっていった。) |
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中学校・実業学校 年齢21年まで。 |
(中学校)旧学制下の男子の中等教育機関。小学校6年卒業以上の学力ある男子を収容し、修業年限は5年で義務教育ではなかった。現在の高等学校と同じく高等普通教育を授けることを目的としていた。中学。 (実業学校)旧制中等学校の一つ。実業に従事する者に必要な教育を施すのを目的とした学校。工業学校、農業学校、商業学校、商船学校、実業補習学校の5種類があった。〔実業学校令(明治32年)(1899)〕 |
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師範学校・大学予科 年齢23年まで。(4月1日より1月1日までの間に出生したる者) |
(師範学校)教員養成専門の学校。明治5年(1872)東京に設置され、翌年から各府県に官立・公立のものが置かれた。同19年の師範学校令で高等、尋常の二種となり、同30年の師範教育令で女子高等師範が独立するとともに、中等学校教員を養成するための高等師範学校と区別して、小学校教員養成のための尋常師範学校を単に師範学校と称することとした。第二次大戦後、昭和22年(1947)の学校教育法により廃止、各都道府県に置かれた国立大学の教員養成を目的とする学部がこれにかわった。師範。 (大学予科)高等教育機関で、教育内容は現在の大学教養課程に相当した。特定の旧制大学に附属し、専門教育を行う大学本科、すなわち学部に進学する前段階としての予備教育を行う機関。 |
高等学校専攻科・専門学校 年齢24年まで。(4月1日より1月1日までの間に出生したる者) |
(高等学校専攻科)学校の本科課程の上位に付設し、さらに高度の学術・技芸を専攻させる課程 (専門学校)旧制で、専門学校令に基づき、専門的な学問、技術を教育した学校。旧制中等学校の卒業後に専門教育を受けさせた学校。 |
大学学部(除医学部) | 年齢25年まで。(4月1日より1月1日までの間に出生したる者) |
大学医学部 | 年齢26年まで。(4月1日より1月1日までの間に出生したる者) |
●召集とは戦時または事変に際し、また平時において所要に応じ、在郷の兵(現役帰休兵、予備役・後備役兵、国民兵)を、軍隊で勤務させる目的で呼び寄せることをいい、次の6種があった。
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充員召集 | 動員に際し諸部隊の人員を規定の人数に充たすために在郷軍人を召集するをいう。(これは勅令である動員令を必要とした。平時編制と戦時編制のあいだを埋める欠員を補充する) |
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臨時召集 | 戦時又は事変に際し、臨時に在郷軍人を召集することで、平時でも警備その他の必要により帰休兵や予備兵を召集することがある。(この臨時招集と上記充員召集が、その令状の色から「赤紙」と呼ばれた。この臨時召集は、充員召集に比べて手続きが簡便なため乱発された) |
国民兵召集 | 戦時又は事変のとき、国民兵を召集するをいう。 |
演習召集 | 勤務演習の為平時在郷軍人を召集するをいう。充員召集の演習の目的のため、充員召集の手続に準じて実施する演習召集を特に臨時演習召集という。 |
教育召集 | 教育のため補充兵を召集するをいう。 |
帰休兵召集 | 在営兵の欠員、その他必要あるとき、臨時に帰休兵を召集するをいう。 |
簡閲点呼 | 簡閲点呼は予備役後備役の下士官・兵・及び第一補充兵を一定の場所に集めて之を検査し之を教導するのが目的である。要は国家有事の際其の覚悟と用意が十分出来ているか否かを点検するのである。その他参集の状態・心身の健否・軍事能力の保持・軍事の思想普及の程度・服役に於ける義務履行の確否等を検査し、勅諭勅語の御趣旨を奉じ軍人の本文を全うするよう指導教育するのである。 |
●現役士官(正規将校)は下記の3系統より充当されたが、その中心は「陸軍士官学校卒業者」である。陸軍士官学校は、1887年その制度の変更により、陸士旧制〇期(士官生徒〇期)という11期続いた士官生徒制度から、士官候補生制度へと変わった。この制度は1期1890年7月卒から、1945年8月第59・60・61期生(敗戦時修業中)まで続いた。
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①陸軍士官学校卒業者 |
陸軍士官学校
陸軍士官学校に入るためには予科陸軍士官学校に入学しなければならない。予科陸軍士官学校に入学出来るのは |
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予科陸軍士官学校
予科陸軍士官学校で二年間教育を受け卒業すると、兵科士官候補生(兵科撤廃により一率に兵科と云うが之は従来の歩・騎・砲・エ・航・輜重の各兵科を含む)を命ぜられ各専門の聯隊に入隊し、ここで六ヶ月間の聯隊附実地練習を経たのち、続いて次に本科である陸軍士官学校に進み (航空関係に進むものは航空士官学校へ入学し二年四ヶ月の教育を受ける)一年十ヶ月間の教育を受け、卒業後原所属隊に帰って見習士官を命ぜられ、約二ヶ月間士官の実務を修得してのち、少尉に任官されるのである。 |
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②少尉候補出身者 | 少尉候補生出身というのは、 イ、従来の歩・騎・砲・エ・輜重の各兵科即ち兵科の准尉・曹長より選抜されて、予科陸軍士官学校に入学卒業したる者。 口、航空兵科の准尉・曹長・軍曹より選抜されて、陸軍航空士官学校に入学卒業した者。 ハ、砲工兵技術准士官・下士官で選抜されて陸軍兵器学校に入学卒業した者。 ニ、憲兵科准尉・曹長より選抜され、陸軍憲兵学校に入学卒業した者。 以上いづれも卒業後各々兵科の少尉に任ぜられるものである。(修業年限はいづれも一箇年宛) |
技術部将校 | 技術部将校は理・エ学士及び農芸化学を修めたる者並に理工学専門学校の出身者から採用し、二ヶ月見習士官として士官の勤務を修得し、のち各々その専門に応じ兵技及び航技の中尉少尉に任用される。又新に技術部の依託学生及び依託生徒を採用する事となった。 従来の航空技術関係の文官(技師・技手)となる陸軍依託生はそのまま存置されるばかりでなくその範囲が陸軍技術一般に拡張されて最近の改正中に移された。この依託学生、依託生徒の採用条件は年齢廿七(27)歳未満で身体検査に合格したものの中で銓衡試験が行はれる。 (イ)技術部依託学生・・大学令による大学の工学部若くは理学部の学生または農学部において農芸化学を修めたる学生。 (ロ)技術部依託生徒・・主として工業に関する学科を教授する専門学校(研究科、選科等の別科を除く)の生徒。 |
③特別志願士官 | 特別志願士官といふのは、満洲事変後新に設けられた制度で、昭和八年以来従来の各兵科の予備役士官から採用されている。各部現役士官の出身は下の如くである。 |
(一)経理部 イ、経理部士官候補生で陸軍経理学校を卒業した者。 その入学試験や経路は、陸軍士官学校の予科本科生徒と概ね同一である。 ロ、現役兵科(憲兵隊を除く)の士官で、経理部士官を志願し選抜されて陸軍経理学校を卒業した者。 ハ、少尉候補者と同様の制度で兵科の准尉・曹長・及び経理部准尉・曹長で経理士官を志願し選抜されて陸軍経理学校を卒業した者。 ニ、法学・経済学及び商業の学士と称し得るもの、及び陸軍経理部依託学生となり、学士と称し得る者は、共に見習主計として二ヶ月間実務の後主計中尉に任用される。 |
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(二) 衛生部 イ、大学及専門学校の学生生徒で、陸軍衛生部の依託学生生徒となり、その学校の課程を卒業した者、及び衛生幹部候補生、医師又は薬剤師たる者のうちから銓衡の上軍医中少尉並に薬剤中少尉に任用される。 ロ、現役の衛生准尉、曹長から選抜され、陸軍軍医学校を卒業したる者は、衛生少尉に任用される。これは元は看護官と称したものである。 ハ、軍医候補生は、医師免許証所有者の中から志願により採用される。 |
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(三)獣医部 イ、陸軍獣医部依託学生生徒、獣医部幹部候補生及び獣医のうちから銓衡の上之を任用する。 ロ、獣医准尉及曹長で、獣医免許証を持っている者を、陸軍獣医学校で特別に教育して任用する。 以上各部士官にも、特別志願士官採用の制度が行はれている。 |
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●現役下士官の出身
憲兵下士官は、憲兵科上等兵のうち、憲兵下士官を志願し、概ね二年憲兵の職務に服し、品行方生志操確実なる者から選抜して任用される。其の他各兵科下士官・予後備役憲兵上等兵・予後備役各兵科軍曹・伍長からも任用される。 兵科(兵技及び航技下士官を除く)の下士官は、徴兵又は志願により入隊し、概ね三月以上在営した者のうち、志願により下士官候補として之を採用し、下の如き学校又は課程を修めた者から任用される。 |
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1 陸軍教導学校を卒業した者。 2 陸軍諸校に設けられている下士官候補者隊の課程を修了した者。 3其の他、陸軍大臣の定むる所により、所属隊に於て下士官となるに必要な課程を修了した者。 |
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以上の外、兵科の下士官適任証書を有つ上等兵で、退営後二年以内に現役下士官を志願する者及予備軍曹・伍長で、現役満期後二年以内に現役を志願した者からも任用される。 兵技及び航技下士官は、陸軍兵器学校生徒及び陸軍航空整備学校の課程を卒業した者を任用する。 各部下士官のうち、経理部下士官は其の候補者から、縫・裝工下士官はその候補者から、衛生部下士官は、衛生・療工下士官候補者から、獣医部下士官は其の候補者から、軍樂部の下士官は軍楽上等兵から、いづれも志願により之を任用する。 |
●現役将校は、尉官の階級に於て三年以上隊附勤務に服しない者でなければ大尉から少佐に進級させられない。又佐官の階級に於て二年以上隊附に服した者でなければ大佐から少将に進級させられないのを例とする。
中将より大将に進級させるには、歴戦者又は、枢要なる軍務の経歴を有するものにして、功績特に顕著なる者の中より、特旨をもって親任されることになっている。 |
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現役将校の進級 | 現役将校の各官の進級に必要たる実施停年は下の如くである。 (注)停年とは、軍人がある階級で勤務した年数。 中将から大将に進むには 四 年 少将(各部少将を含む)から中将に進むには 三 年 大佐(同 上)から少将に進むには 二 年 中佐(同 上)から大佐に進むには 二 年 少佐(同 上)から中佐に進むには 二 年 大尉(同 上)から少佐に進むには 四 年 中尉(同 上)から大尉に進むには 二 年 少尉(同 上)から中尉に進むには 一 年 休職又は停職の期間は実役停年に算入しない。 |
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現役下士官の進級 | 現役下士官の各官に進級に必要なる実役停年は下の如くである。 曹長(各部曹長を含む)から准士官に進むには 二年 軍曹 (各部軍曹を含む)から曹長(各部曹長)に進むには 一 年 伍長(各部伍長を含む)から軍曹(各部軍曹)に進むには 六ヶ月 戦時又は事変に際しての進級は前記の実役停年を半減することが出来る。 |
現役兵の進級 | 現役二等兵で、入営後概ね六ヶ月を経て成績優秀なる者は、一等兵に進級せしめられる。中隊長は前記該当者を選抜し、順序を経て聯隊長の認可を受け、之に一等兵を命ずるのである。 現役一等兵で、入営概ね一年を経て成績優秀なる者は同様の手続きを経て上等兵に進級せしめられる。 現役上等兵で六ヶ月以上、上等兵勤務に属し、成績優秀なるものは兵長(従来に伍長勤務上等兵の事)となる。 此の場合中隊長は前記該当者の候補者名簿を調整し、順序を経て聯隊長に上申すれば、聯隊長は中隊に欠員ある毎に之に兵長(従来の伍長勤務上等兵の事)を命ずるのである。 陸軍下士官適任証書を付与さるべき上等兵または一等兵はこの証書の付与と共に兵長に進級せしめられる。 現役上等兵又は一・二等兵在営中抜群の功績があって、其の行為軍人の亀鑑として、師団長又は之と同等以上の権能ある長官之を一般に布達した者、及公務に因る傷痍疾病のため危篤に陥った者に対しては.前記の規定及定員にかかはらず其の際特に一等兵を兵長に、二等兵を上等兵に進級せしめることが出来る。 現役一等兵成績優秀なる者は、退営の際特に之を進級せしむることが出来る。 戦時又は事変に際し編成したる部隊の一・二等兵で、下の各号に該当する者は、特に之を上等兵に進級せしむることが出来る。 一、殊勲を奏したる者 二、勲功顕著なる者で、傷痍疾病の為危篤に陥った者 戦時又は事変に際し、編成したる部隊の一・二等兵の進級年限は、之を半減することが出来る。 |