(20世紀以降)中国近代史②(孫文と蒋介石そして毛沢東)
●日本は、日本人としては残念なことに、中国という国家が民族主義による統一戦争と独立戦争のなかで建国に至る時、中国を抑圧し侵略する側であったことである。もし日本が、領土的野心を持たず、軍隊を統帥できる国家であったのなら、日本はこれほどの汚名をアジアに残さずにすんだことであろう。
上写真(1959年第1回全国運動会)、写真前列左から、周恩来総理・朱徳副主席・毛沢東国家主席・劉少奇国家副主席(出典)「丸善エンサイクロペディア大百科」丸善1995年刊
日本「対華21か条要求」と中国「国恥記念日5/9」 |
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1915年1月18日北京「対華21か条要求」と「国恥記念日5/9」 ●日本の加藤外相(大隈内閣)は、日置中華公使に指令し第1号~5号全21項目の要求(日本の権益拡大)を、袁世凱中華民国大総統に手交(提出)させた。この日本の要求は、世界の外交史にも例の無いもので国際問題化し、特にアメリカは痛烈な抗議を日本に対して行った。そこで日本は最後通牒を発し、第5号の大部分を除いて、1914年5月9日に要求を袁世凱に認めさせた。中華国民はこの屈辱により5月9日を「国恥記念日」として、以後反日・排日運動を本格化させていく。要求の簡単な概要は以下の通りであった。 ●第1号は「日本が山東省の旧ドイツ利権を受け継ぐことを認めよ」という要求。 ●第2号は「『南満州および東部内蒙古における日本国の優越なる地位を承認する』条約を結べ」という要求。この中には、旅順・大連の租借期限と満鉄・安奉両線の期限を、それぞれさらに99年ヵ年づつ延長する要求が含まれており、南満と東蒙を完全に日本の事実上の植民地にする要求であった。 ●第3号は「漢陽の製鉄所や鉄山・炭鉱を経営する公司を日中の合弁とする」要求。 ●第4号は「中国の沿岸の港および島を、他国に割譲または貸与しない」ことの要求。 ●第5号は、問題になった内容で、要求ではなく希望としたが、まるで戦争で圧倒的に勝った国が、敗戦国に押しつけるようなものだった。その簡略した概要は次のようである。「政府に日本人の財政および軍事顧問を置くこと」「日本の病院・寺院・学校にその土地の所有権を認めること」「中国の警察を日中合弁とし、日本人の警察官を多数雇用すること」「中国政府の兵器の半数以上を日本が供給するか、日中合弁の兵器廠を設立する」「各地の鉄道の敷設権の要求」「港湾設備の外国資本の締め出し」「中国での日本人が布教する権利を認めること」などであった。
「・・袁は頗(すこぶ)る憤慨したる語気を以て日本国は平等の友邦として支那を遇すべき筈なるに何故に常に豚狗の如く奴隷の如く取扱はんとするか・・」
●日・支條約の内容 右の日・支條約の草案が21箇條であったので、俗に之を21箇条の條約といふ。しかし、実際に結ばれた條約は13箇条で、内容も余程草案と異ってゐる。そして右に記した(3)即ち山東省問題の解決した今日では、(1)=《99ヵ年延長要求》及び(2)=《南満州・東蒙古の日本の特別権益を認める》に関する規定が残存するに過ぎない。しかもそれがいづれも当然の規定のみである。然るに支那の無智の学生や職業的扇動家等が、この條約の結ばれた5月7日を国恥日と称して、毎年さわいでゐるのは、実に不当といはねばならぬ。 ●この「対華21か条要求」については、下記「外務省 日本外交文書デジタルアーカイブ」のリンク先から確認することができる。○「大正3年(1914年) 第3冊」「7 対中国諸問題解決ノ為ノ交渉一件」の中の、12/3「中国に対する要求提案に関し訓令の件」の附属書の中に条約案が記載されている。そして○「大正4年(1915年) 第3冊上巻」「4 対中国諸問題解決ノ為ノ交渉一件」「 1 中国トノ交渉」の「1月18日袁大総統に我提案を手交済の件」で報告されている。 *リンクします「大正3年(1914年) 第3冊」「大正4年(1915年) 第3冊上巻」 |
1915年9月陳独秀らが「青年雑誌」(=のちに「新青年」と改称)を創刊する。
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陳独秀、写真の取り違い。 ●「革命いまだ成らず」(下)譚璐美 著 によれば、本当は陳独秀は2人写真の左の人物で、右の人物と取り違えられたとあります。1人で写っている中央公論社1963年刊の「陳独秀」の写真は間違っているということである。 |
1918年魯迅「新青年」誌上に「狂人日記」を発表する
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*リンクします「魯迅全集」井上紅梅 訳 改造社1932年刊 より「阿Q正伝」コマ番号51
国立国会図書館デジタルコレクション
●毛沢東が、「中国の赤い星」の著者エドガー・スノウに、当時を語ったところを一部抜粋してみる。毛沢東は李大釗によって北京大学の図書館に勤めることができた、といっている。(出典:「中国の赤い星」p106~p111筑摩書房1952年初版・1957年10版発行より)
北京政府(段祺瑞)、満州(張作霖)、広東軍政府(孫文) |
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1917年~段祺瑞、実権を掌握。張作霖の台頭。
1917年9月広東軍政府の樹立 ●一方政界から離れていた孫文は、広東軍政府の樹立を宣言した。これは北京政府の実権を握る段祺瑞に対抗するもので、国民党系議員や西南軍閥との連合政権であった。 |
1919年「中華革命党」を「中国国民党」へ改組 ●孫文は、1914年に結成した「中華革命党」を上海の租界に本部置く「中国国民党」に改組した。 |
1919年1月~6月パリ講和会議、ヴェルサイユ条約、5.4運動 ●第1次世界大戦の戦後処理問題を討議する会議がフランスのパリで開かれた。中国は、日本の 山東占領と 21か条問題があったため、会議に対して大きな期待を寄せていた。それは、ロシアのソヴィエト革命政権による「無併合」「無賠償」「帝国主義の否定」やアメリカのウイルソン大統領の 14か条の宣言が、中国の追い風となることを期待したためであった。そのため中国は、北京政府と広東政府合同の代表団を結成して、パリ講和会議に臨んだ。しかし1919年4月、会議は中国とアメリカによる山東返還要求を拒絶する決定を下した。これは1917年にイギリスとフランスが、日本に秘密条約で山東と旧ドイツの南洋諸島(赤道以北)の利権を保証していたからであった。アメリカの理想主義は、イギリスとフランスにより譲歩させられたわけである。(中東のアラブの独立問題も同様であった) この「5.4運動」は、北京から天津、上海、広東、漢口などの大都市から全国規模に広がっていった。この学生たちの思想運動から始まった革新運動は、この5月4日の事件で排日運動、反政府運動(反軍閥)、反帝国主義として発展し、大きな中国民衆のナショナリズム(民族主義)の高揚となっていった。そしてこの5.4運動の高まりと抗議運動は、時の政権を動かし、ヴェルサイユ条約の調印を拒否させるほどのものとなった。 ●この5.4運動は多くの影響を与え、毛沢東(長沙で活動)や周恩来(天津で活動)そして孫文にまでにも、中国の革命には民衆の団結が必要であることを教えた。 (朝鮮では、日本に対する独立運動が1919年3月1日から始まった。「3.1独立運動」) |
重要語(世界の動き1910年代) ●1914年7月、第1次世界大戦勃発。 ●1914年8月、パナマ運河開通(着工から34年)。 ●1915年5月、ドイツ潜水艦Uボートが、イギリス豪華客船ルシタニア号を撃沈(1198人犠牲)。アメリカはドイツへの反発を強める。 ●ドイツ毒ガス兵器を使用。これ以後、戦闘に毒ガス攻撃はつきものになる。 ●1917年4月、アメリカがついにドイツに参戦する。 ●1917年10月、ロシア10月革命が起こる。ソヴィエト政権樹立。 ●1918年8月シベリア出兵。シベリア方面は、アメリカ、日本(7万5000人)、イギリス、フランスが出兵し、バイカル湖以東のシベリア要地を占領した。 ●1918年3月、ソヴィエト政府ドイツと単独講和(ブレスト・リトフスク条約) ●1918年10月日本でスペイン風邪38万人死亡。全世界で2000万人以上が死亡した。 ●1918年11月、ドイツで革命がおき、皇帝ヴィルヘルム2世が退位する。ドイツ休戦協定に調印、第1次世界大戦が終結する。 |
中国共産党の成立(1920年8月)・中国共産党第1回全国代表大会(1921年7月) ●陳独秀らは上海で共産党の前身である中国社会主義青年団を結成した。そして1921年7月には、中国共産党第1回全国代表大会の開会式を行い(中国共産党の成立)、初代総書記に陳独秀を選出した。コミンテルンは、1920年から李大釗や陳独秀と接触し、共産党の結成を働きかけていた。第1回全国代表大会では、毛沢東はまだ末席の記録係だった。 |
1921年11月~1922年2月、ワシントン会議、中国の主権・独立・領土保全を9か国が保障 ●この会議の参加国は9か国で、アメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリア、中国、オランダ、ポルトガル、ベルギーであった。 |
●ここで、孫文が日本の神戸で行った「大亜細亜(=アジア)主義」と題した演説を引用する。これは孫文が、1924年11月28日に神戸商業会議所など 5団体の招きに応じて、旧制神戸高等女学校講堂で演説したものである。100年後の現代においても、東アジアの政治・文化の方向性を指し示しているのではなかろうか。
と講演を結んでいる。
(注)漢字国名はカタカナを補い、旧漢字は新漢字にした。またこの原典を引用した「国立国会図書館デジタルコレクション」にはページの入れ違いがあったので、読み替えた。文章の最後の露国は、社会主義国ソ連のことであろう。(出典)「大亜細亜主義」 孫文全集. 第3巻コマ番号112から120まで
外務省調査部 訳編 第一公論社 1939-1940刊。
(民国13年11月28日神戸高等女学校に於て神戸商業会議所他5団体に対してなしたる講演)
諸君、私は本日諸君より斯くの如き歓迎を受けまして実に感激に堪えません。本日は皆様より亜細亜(=アジア)主議と云ふことに付(つい)て、私に講演しろと云ふ御話でありました。所で此の問題に付て講演するには、我(わが)亜細亜(=アジア)とは一体どんな所あるかを先づはっきりさせて置かなければなりません。
*リンクします「大亜細亜主義」 孫文全集. 第3巻コマ番号112から120まで
外務省調査部 訳編 第一公論社 1939-1940刊
*リンクします「第7編 大亜細亜主義」コマ番号603から611まで
孫文主義. 上巻 孫文 著[他] [外務省調査部] 1935-1936刊
日本、満州事変を起こす。中国侵略の開始。 |
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1930年5月30日間島事件 ●満州の間島(延吉)で朝鮮の共産主義勢力を中心にした、地主打倒・反日の蜂起がおこる。 日本官憲は根こそぎ検挙でこれに対抗するが、蜂起は断続的に 1年余り続く。 |
1930年7月29日長沙ソヴィエト政府を樹立 ●中国共産党の紅軍第3軍が長沙ソヴィエト政府を樹立する。翌月5日、国民政府軍の反撃を受けて撤退する。 |
1930年9月 1日反蒋介石北方政府(中華民国臨時政府)を樹立 ●汪兆銘、閻錫山、馮玉祥らが北平(北京)に反蒋介石北方政府(中華民国臨時政府)を樹立し、主席には閻錫山が就任する。 |
1930年12月27日蒋介石が包囲掃討作戦を開始 ●蒋介石が広西省南部の中国共産党根拠地に対し、本格的な包囲掃討作戦を開始する(第一次掃共戦)。しかし翌年1月、毛沢東率いる紅軍に撃退される。 |
1931年6月中村大尉射殺事件、東北地方で日本軍の将校が中国人に射殺される。 ●6月下旬参謀本部員中村大尉らが、満州の状況を調査していたところ、東北軍に逮捕された。これは関東軍が北部満洲で、軍事作戦を展開するのに備える行動であったと思われる。中村大尉らは中国人になりすまして偵察行動(スパイ活動)をしていたが、発覚を恐れて逃亡して射殺された事件である。 |
1931年7月2日万宝山事件 ●長春郊外の万宝山で日本政府が移住させた朝鮮人と、中国人農民が水利をめぐって衝突する。日本の軍部は「満蒙問題武力解決」を唱えて介入を図り、満州事変の一因となる(万宝山事件)。 |
1931年9月18日日本軍柳条湖満鉄爆破。満州事変勃発、日本の中国侵略の始まり。
(大日本帝国憲法の一部) 第3条天皇ハ神聖(しんせい)ニシテ侵(おか)スヘカラス 第4条天皇ハ国ノ元首(げんしゅ)ニシテ統治権(とうちけん=国家を統治する大権。国土・人民を支配する権利。主権)ヲ総攬(そうらん=政事・人心などを、一手に掌握すること)シ此ノ憲法ノ条規(じょうき)ニ依リ之ヲ行フ 第11条天皇ハ陸海軍ヲ統帥(とうすい)ス 第12条天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額(じょうびへいがく)ヲ定ム 第13条天皇ハ戦(たたかい)ヲ宣(せん)シ和ヲ講(こう)シ及諸般ノ条約ヲ締結ス |
1931年11月7日中国共産党、ソヴィエト政府を瑞金にて樹立
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1932年 1月28日第1次上海事変 ●上海で日本人僧侶が中国人に殺されたのをきっかけに、この日、日本軍と中国軍が衝突する。5月5日に停戦協定を結ぶ。(この事件も国際世論の目を、満州からそれせるために日本軍により仕組まれた謀略事件であったといわれる。) |
1932年3月1日満州国の建国宣言
(重要事項) ●1932年5月15日、(日本)5・15事件起こる。海軍青年将校ら犬養首相を射殺。政党内閣終わる。 ●1932年7月、(ドイツ)ヒトラーのナチ党が、総選挙で230議席を獲得し第1党となる。共和国が終焉を迎えていく。 ●1932年11月(アメリカ)、フランクリン・ローズベルト(民主党)、大統領に当選。 ●1932年10月(ソ連)、スターリン政敵を排除、独裁体制を強める。 |
1932年4月29日対日戦争宣言 ●毛沢東主席(39)とする瑞金の中華ソヴィエト政府が、対日戦争宣言を発表する。 |
1932年4月29日上海テロ事件 ●上海での天長節祝賀式典に、朝鮮人独立運動家の尹奉吉が爆弾を投げ、上海派遣軍司令官白川義則、重光葵らが負傷する。白川はのちに死亡する。(1945年ミズリー号上の日本降伏文書の調印式で、ステッキをもち足を引きずっていたのが日本政府代表 重光葵外務大臣である。この時の事件で重傷を負い足を切断したためである) |
1932年 9月15日日満議定書を調印 ●日本が満洲国との間に 日満議定書を調印し、正式に満洲国を承認する。 |
1932年 9月16日平頂山事件
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1932年10月1日リットン報告書、日中両国に交付 ●満州での日本の軍事行動を侵略とみなした、国際連盟調査委員会のリットン報告書が日中両国に交付される。 |
1933年1月1日山海関謀略事件 ●満州国と中国の境界地区、山海関で日本軍敷地内に手榴弾が投げ込まれる。これも日本軍の謀略によるものだが、日中両軍が衝突、3日に日本軍は山海関を占領する。 |
1933年2月24日、ジュネーブ国際連盟臨時総会がリットン報告を承認。満州国不承認を可決
*リンクします「国際連盟脱退へ」NHKアーカイブス(重要事項) ●1933年1月、(ドイツ)ヒトラー政権誕生。 ●1933年10月(ドイツ)、ドイツが国際連盟を脱退。ヒトラー再軍備を主張。 |
1933年2月日本軍が熱河省侵攻を開始する。 ●満州国樹立の際、関東軍は、奉天省・吉林省・黒竜江省の東3省だけでなく、熱河省もその領土に含めると宣言した。熱河省は、関東軍にとって満州の安定支配に欠かせない地域であり、また特産品のアヘンは財源上の大きな魅力だった。 |
1933年5月31日塘沽停戦協定 ●国民政府と日本との間で塘沽停戦協定が結ばれる。実際上、国民政府が満州国を黙認する形となる。これにより関東軍は、河北省東部を非武装化し、満州支配を安定させ、関内侵攻の足場を築いた。 |
1934年3月1日満州帝国皇帝溥儀 ●満州国に帝政がしかれ、国号が満州帝国となる。執政溥儀が皇帝に即位する。 |
1934年10月15日中国共産党、革命への長い旅「長征」を開始する
「・・長征は宣言書であり、宣伝隊であり、種まき機であった。・・・11の省にたくさんの種をまいた。やがて芽を出し、葉を伸ばし、花を咲かせ、実を結び、将来かならず収穫されるだろう」 長征は共産党の基盤拡大に大きな役割を果たした。 |
1935年1月13日共産党軍、貴州省の遵義を占領 ●長征途上の共産党軍が、貴州省の遵義を占領する。同地で共産党政治局拡大会議を開き、毛沢東の主導権が確立する。 |
1935年8月1日中国共産党8・1宣言を発表。抗日救国 ●中国共産党が8・1宣言を発表して、内戦の停止と、抗日への一致団結を呼びかける。 |
1935年10月20日長征の終結 ●毛沢東らの紅軍第1方面軍が、陝西省 呉起鎮で第15軍団と合流する。(長征の終結)(1935年8月党創設者の1人張国燾が四川省西部をめざし紅軍は軍を二分し、毛沢東軍は陝西省をめざし合流した。張国燾軍は四川省に根拠地を築けず、1936年10月に毛沢東軍に合流した。) | 毛沢東、周恩来、朱徳(1935年頃の写真) 下は「目撃者」朝日新聞1999年刊の「若き日の毛沢東(中央)と周恩来(左)」1935年3月撮影 撮影者不明 中国、とある写真だが、上の写真の2枚と背景が同じである。これは同じ時期に同じ場所で撮られたものだろう。ただ、上の左の写真の「ソヴィエト中国の4巨頭」とあるが、一番左の人物は、下の右の人物と同一である。誰なのだろうか。上のその右に並ぶ3人は、周恩来・朱徳・毛沢東であろう。 |
1935年12月9日「12・9運動」 ●日本軍による華北分離工作に危機感を持った北京の学生 5000人が華北自治反対を叫んでデモ行進を行う。(12・9運動) 1935年11月に国民政府が、イギリスの財政支援のもとに貨幣制度の改革に踏み切り、財政と金融を立て直し、経済を発展させようとしたことから始まる。日本はこの政策を失敗させるために妨害工作を行っていく。①華北分離工作は、綏遠省(現内モンゴル自治区の中部)、察哈尓省、河北省、山西省、山東省の5省を、国民政府の統治から分離させようというものである。そして華北諸省の自治を認めさせようとし、非武装地帯(塘沽停戦協定1933年)として指定された河北省東部に、殷汝耕を委員長とする傀儡政権である冀東防共自治委員会を成立させ、国民政府からの独立を宣言させた。満州国に続く第2の傀儡政権であった。これに対して国民政府は日本軍の圧力をかわすため、12月に日本軍の支持する宋哲元を委員長とする、河北省・察哈尓省の両省と北京・天津両市の行政を管轄する冀察政務委員会を設置した。このような国民政府の日本に対する妥協行動は、自国政府である国民政府への抗議行動を生み出していった。 |
重要語(世界の動き1930年代前期) ●1934年アメリカ、ディーゼル機関車が誕生。時速160kmを記録する。これにより鉄道は、蒸気機関車からディーゼル機関車に代わっていく。 ●1934年11月1日満州鉄道、大連-新京間で、特急列車「あじあ号」が運転を開始する。 ●1934年12月29日、日本はワシントン海軍軍縮条約の破棄を、アメリカに通告する。 ●1935年8月3日日本、岡田啓介内閣が、「天皇機関説」を否認する声明を出す(第一次国体明徴宣言)。9月18日、美濃部達吉は貴族院議員を辞職する。 ●1935年 8月12日日本、陸軍統制派の中心人物、永田鉄山軍務局長が、対立する皇道派の相沢三郎中佐に斬殺される。 ●1935年9月ドイツ、ニュルンベルク法を制定する。「純血保護法」と「ドイツ国公民法」を公布した。これにより、ナチスドイツは法律によってユダヤ人を「劣等人種」として迫害を始めた。 ●1935年10月アメリカ、ギャラップの世論研究所が調査結果を公表する。世論調査の有効性と無作為抽出による調査法を開発した。 ●1935年10月、イタリアがエチオピア侵略を開始する。 ●1935年11月フィリピン、フィリピン独立に向けコモンウエルス政府が発足する。しかし日本の侵略によって挫折する。 |
1936年 12月12日西安事件 ●張学良らが内戦停止・一致抗日を求めて、西安で蒋介石を監禁する。 ●この時毛沢東は即座に、張学良が信頼している周恩来を西安に派遣した。周恩来は身を挺して、血気にはやる両軍内強硬派《すぐに蒋介石を処刑》の説得にあたった。10年近く国民党軍との戦争を行ってきた中国共産党が、恨み骨髄の蒋介石を処刑しようとはせず、民族の危機を打開するため抗日の重要性を訴え、蒋介石の生命の保障を説く周恩来の姿勢は、両軍強硬派に大きな影響を与えた。そしてこの結果、国共合作がなり党派を越えた一致抗日がここに成立した。 ●この時の張学良の東北軍の心情を歌った歌が「松花江上」である。東北軍は満州事変で日本軍に故郷を奪われ、紅軍と戦うよりむしろ日本軍と戦うことを望み、また蒋介石の南京中央政府に対する反感も鬱積していた。この歌は、まず東北軍のなかで愛唱され、やがて盛り上がる抗日風潮のなかで全中国の知識人のなかにひろまり、一世を風靡したとある。 「松花江上」の大意。『我が家は満州松花江のほとり、森あり林あり炭鉱あり。大豆、高粱も山野見渡すかぎり。我が家は満州松花江のほとり、わが故郷はそこにあり。老いたる父母もそこにいます。9・18、9・18、(満州事変勃発の日)かの惨めたる時より、9・18、9・18、かの惨めたる時より、我が故郷をのがれ出でたり。愛する父母を見捨てたり。・・流浪・流浪・・いつの日か故郷に帰らん、父よ母よ、いつの日かともに集わん・・』 ●YouTubeに「《松花江上》王宏偉, 抗戰歌曲」yliang1688氏の投稿があった。リンクしてみた。 *リンクします「《松花江上》王宏偉, 抗戰歌曲」YouTube 「yliang1688氏」の投稿 |
1937年1月9日15万人の抗日デモ ●西安で共産党主導の抗日デモが行われる。15万人が参加して抗日軍事運動の開始を決定する。 |
1930年代の中国の財政の安定と経済発展
●蒋介石の国民政府は、関税の引き上げや統一地方税を創設して、中華民国始まって以来の最も豊かな中央政府税収を獲得し、権力基盤の確立に成功した。そして主力産業であった軽工業も発展し、また鉄道道路などの産業基盤整備も進んだ。そしてアメリカからの資金援助やイギリスからの援助、そして国際連盟からの技術援助なども実施された。また財政経済政策の一つの柱として通貨政策があった。1935年11月、イギリス・アメリカの支援も受けながら全般的な幣制改革を実施した。この結果、中国の通貨は政府系銀行の発行する「法幣」に統一され、外国為替レートも安定化した。これにより銀貨流出にともなう金融難で深刻な恐慌に苦しんでいた中国経済は、この幣制改革以降急速に景気が回復した。 ●この経済の発展は沿海の大都市を膨張させ、そこに近代的な都市文化を生み出した。特に上海の人口は、1910年に129万人、1930年に314万人、1937年には385万人に達した。そして新聞雑誌、ラジオなどのマスメディアが発達し、上海の2大紙「申報」「新聞報」などが上海の地方紙から、華中一帯を地盤とするほどの全国紙に発展した。またラジオ放送も1934年には30局以上が放送を行い、ニュース・音楽・演劇等を終日放送していた。また映画館も数多く設立され、その頃の流行歌「何日君再來」も当時の上海映画界のスターの周璇が歌ったものであった。また中華人民共和国の国歌に採用された「義勇軍行進曲」(聶耳作曲)も、30年代の上海映画の挿入歌であった。 下に、YouTubeに数多くある内の一つにリンクしてみた。 *リンクします「周璇 – 何日君再來(1937年)」YouTube「oldindrub氏」の投稿 |
日中全面戦争1937年~ |
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1937年7月7日、盧溝橋事件・日本、中国侵攻を開始。日中全面戦争勃発 ●蒋介石は、日本の全面侵略の意図を認め、7月17日国民に対して、 「・・戦争が開始されればいかなる犠牲を払ってでも、最後まで戦い抜く」 と不退転の決意を表明した。こうして日中は全面戦争となる。 |
1937年8月13日第2次上海事変
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1937年国民革命軍第八路軍 ●国民政府軍と共産党軍は、その軍隊の編制を改め、労農紅軍を、朱徳を総司令官、彭徳懐を副司令に「国民革命軍第八路軍」へ改編した。また華南8省で活動していた紅軍各部隊は統合され「国民革命軍新編第4軍」に改編された。1937年9月、八路軍は平型関の戦いで初めて日本軍に勝ち、中国国民に大きな希望を与えたといわれる。(1947年八路軍は人民解放軍と改称した。) |
1937年 9月23日第2次国共合作の成立 ●国民政府が、4月15日に中国共産党から示されていた国共合作宣言を受諾する。第2次国共合作の成立。 |
1937年11月20日重慶に移動 ●国民政府が、政府機関を重慶などの奥地へ移す。 |
1937年12月13日南京大虐殺
『この戦争は膺懲(ようちょう=征伐して懲らしめること)戦であり、中国の人民が日本民族の優越性と指導的地位を認めること、日本と協力することを拒否したから、これを懲らしめるために戦われているものであると日本の軍首脳者は考えた。』(引用:東京裁判判決文) これでは、何の正当性も正義も無いだろう。 |
重要語(世界の動き1930年代中期) ●1936年1月15日日本、日本全権が、ロンドン海軍軍縮会議からの脱退を通告する。 ●1936年2月26日、日本で2・26事件起こる。陸軍の皇道派青年将校らが首相官邸などを襲撃し、内大臣・大蔵大臣・教育総監などを殺害したクーデター。 ●1936年7月スペイン、軍部が反革命クーデターを決行、スペイン内乱が始まる。フランコ将軍クーデター失敗に終わる。 ●1937年スペイン、バスク地方の古都ゲルニカをドイツ空軍(イタリア軍も参加)が爆撃した。世界中からこの破壊と殺戮に対して、非難の声があがった。(ピカソはゲルニカを描いた) ●1937年6月ソヴィエト、スターリンが大粛正を行い、8人の赤軍最高首脳を処刑する。その罪状は、軍律違反・反逆罪・スパイ行為などであった。 ●1938年3月ドイツがオーストリアを併合する。ヒトラー「大ドイツ」を実現する。 |
1938年1月国民政府を相手とせず ●日本、近衛文麿内閣が南京占領後「爾後(じご)国民政府を相手とせず。帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立を期待する」と第一次近衛声明を発表し、対中国戦争に本格的に乗り出した。 |
1938年3月28中華民国維新政府が成立 ●日本占領下の南京に、日本の傀儡政権である中華民国維新政府が成立する。 |
1938年 5月26日毛沢東・持久戦論 ●毛沢東が延安の抗日戦争研究会で、抗日戦争は持久戦であり、最後の勝利は中国のものであるという講演(持久戦論)を行う。 |
1938年11月3日、日本・第2次近衛声明を発表 ●近衛文麿首相が中国政策に関する声明(第2次近衛声明)を発表した。そのなかで「国民政府といえども新秩序の建設に来たり参ずるにおいては、あえてこれを拒否するものに非ず」と述べ、前回の「爾後(じご)国民政府を相手とせず」の発言を修正した。(これは国民政府を分断させる工作《汪兆銘を利用する》のためだった。)その声明を肉付けした『日支新関係調整方針』の骨子は以下のようである。(出典:古川万太郎著「近代史 日本とアジア」婦人之友社2002年刊)
1・帝国の冀(き=希)求する所は、東亜永遠の安定を確保すべき新秩序建設に存り、今次征戦究極の目的亦(また)此に存す。 2・新秩序の建設は日満支3国相携え、政治、経済、文化等各般にわたり互助連環の関係を樹立するを以て根幹とし、東亜に於ける国際正義の確立・・・・経済結合の実現を期するに存り。 3・帝国が支那に望むところは、この東亜新秩序建設の任務を分担せんことに存り。帝国は支那国民が我真意を理解し、帝国の協力に応えんことを期待す。 ●この近衛文麿首相は、日本にとって1番重要な1930年代に、戦争を黙認した名門公家政治家の代表であろう。ともあれ日本は、中国との全面戦争のなかで、戦争の長期化の恐れとアメリカからの輸入(石油・鉄は40%以上を依存)禁止処置の恐れなどから、中国との早期な和平を模索していた。参謀本部によるドイツ駐中国大使を仲介とする「トラウトマン工作」などである。また後に国民党の有力者である汪兆銘を離反させ、日本と和平を結ばせようとしたことなどである。しかし日本の和平の条件は、中国が絶対認めない「満州国」の承認や、華北と華南の中間に非武装地帯を設ける要求など、中国を侮蔑するもので交渉が成功するはずもなかった。 |
1938年12月「援蒋ルート」が完成
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1939年5月~8月、国境紛争「ノモンハン」事件へ発展 ●いままで満州国とソ連国境付近では国境紛争が、1937年に113回、1938年には166回起きていた。それまでは決着は外交交渉で終結していた。ところが1937年4月に新たに関東軍辻政信参謀により 「満ソ国境紛争処理要綱」が示され、その内容は次のようであった。 ソ連軍(外蒙古軍含む)の不法行為に対しては、徹底的に膺懲(ようちょう=征伐してこらしめる)し、初動において封殺破摧(はさい=粉々に打ちくだくこと)せよ ●1939年5月11日、ついに関東軍・満州国軍とソ連軍・モンゴル軍の衝突が起こった。関東軍は15日、ソ連・モンゴル軍に総攻撃を仕掛けたが、圧倒的な火力の前に第23師団捜索隊は全滅。31日、第1次戦闘は終了した。 日本側の戦死者は1万8千人に達した。その敗北の原因はソ連軍との圧倒的な戦力の差にあったが、それ以前に関東軍の情勢判断の甘さがあった。また近代的な装備火力を持つソ連軍に対して、関東軍は白兵突入主義を続行し兵の犠牲をさらに大きくした。そして大敗を喫したノモンハン事件では、多くの将校が戦線離脱などの責任を追及されて、自決させられたり、また予備役に編入させられたりした。さらに、大敗の真相は国民の耳目からは隠された。=出典:昭和2万日の全記録講談社1989年刊=) |
重要語(世界の動き1930年代後半) ●1939年3月ドイツ軍が首都プラハに無血入城する。チェコスロバキア共和国解体する。 ●1939年4月、スペイン内乱が終結し、フランコ反乱軍司令官が終結を宣言する。スペインはドイツ・イタリアの援助を受け軍事独裁政権となっていく。 ●1939年8月、ドイツとソ連が独ソ不可侵条約を締結する。(日本平沼騏一郎内閣はこれに衝撃を受け「欧州の天地は複雑怪奇」と声明し総辞職した。) ●1939年9月1日、第2次世界大戦勃発。ドイツ軍ポーランドに武力侵攻し、全土を席巻する。9月27日にはワルシャワが陥落する。そしてソ連もポーランドに侵攻し(独ソ不可侵条約の秘密議定書にもとづく)、ポーランドはまたも分割され国家が消失した。 ●1939年9月3日、イギリス・フランスはドイツに宣戦布告を行ったが、アメリカルーズベルト大統領は、9月4日、欧州戦争不介入を宣言した。 ●1939年11月アメリカは、ドイツと交戦するイギリス・フランスに武器の供給をできるように中立法を改正した。それまでアメリカは孤立主義のため、交戦国に対する武器・戦略物質の輸出を中立法によって禁止していた。 |
1940年 1月19日毛沢東が新民主主義論を発表、中国革命の方向を示す。 ●延安にいた毛沢東はこの日、雑誌「中国文化」に「新民主主義論」を発表した。毛沢東はこの論文で、中国は半植民地・反封建社会の状態にあり、民主主義と社会主義の2つの段階の革命が必要とされるが、当面の民主主義革命(ブルジョワ革命)を担うべきブルジョワが不在であるため、プロレタリアートが指導して民主主義革命を遂行しなければならないと定式化した。これが「新民主主義革命」であり、中国は欧米型ともソ連型とも異なる新しいタイプの国家をめざすことになる。 |
1940年 3月30日中華民国国民政府樹立
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1940年5月18日日本軍、中国の戦時首都重慶・成都など無差別爆撃を開始 ●作戦が終了する 9月5日まで 72回に及ぶ長期連続の空襲が行われ、重慶の市街地・工場地帯のへの爆撃は、5月26日以来攻撃日数32日に達した。とりわけ、6月24日から29日までの6日間は、陸海軍合同で昼夜わたる記録的な連続爆撃が行われた。この日本軍の爆撃は、1937年4月、ドイツ軍がスペインのゲルニカを爆撃した以上の被害をもたらした。しかし中国の交戦意志は、逆に強まった。 |
1940年8月20日百団大戦 ●共産党指導下の八路軍が、華北駐屯の日本軍に 115個連隊で総攻撃を開始する(百団大戦)。国民革命軍の八路軍(共産党)が、初めて行った日本軍に対する大規模な攻勢であった。 |
重要語(世界の動き1940年) ●1940年4月、ドイツ軍北へ侵略開始。デンマーク、ノルウェーを占領。 ●1940年5月、ドイツ軍ベルギー、オランダ、ルクセンブルクへ侵攻、オランダ、ベルギーが降伏する。6月22日にフランスはドイツと休戦協定を結ぶ。 ●1940年5月イギリス、ウィンストン・チャーチル挙国一致内閣を組織する。ドイツとの総力戦に向かう。 ●1940年6月イタリア、ムッソリーニが、イギリス・フランスに対して宣戦を布告する。 ●1940年6月、ソ連がバルト3国(エストニア、ラトビア、リトアニア)に侵攻、ソ連邦に組み入れる。 ●1940年7月、フランス第3共和政が終わりヴィシー政権が成立(ペタン元帥)。ドイツ軍は 6月14日にパリに入城した。 ●1940年9月、日本軍北部仏印(フランス領インドシナ)へ侵攻する。 ●1940年9月27日ベルリン、日本・ドイツ・イタリアが三国同盟を締結する |
1941年1月7日皖南事件 ●国民党軍が、突如共産党指導下の新四軍を攻撃する。この真相は不明で、共産党側1万人に対して、国民党軍第3戦区の部隊約8万人が突如攻撃を開始したものである。この戦闘は7日間続き、激闘の末新四軍は全滅した。 |
1941年7月1日中華民国国民政府を承認 ●ドイツ、イタリアなど枢軸国8か国がこの国民政府(汪兆銘が主席)を承認した。 |
1941年8月「大西洋憲章」を発表 ●イギリス・チャーチル首相とアメリカのルーズヴェルト大統領が、世界平和確立のために「大西洋憲章」を発表した。「領土不拡大」「民族自決」「貿易の自由と拡大」であり反ファシズムであった。しかし後にチャーチルは、民族自決はインド、ビルマには通用しないと言明した。 |
12月7日、日本軍ハワイ真珠湾を先制攻撃、日米開戦となる ●1941年10月東条内閣が成立して戦争準備がすすむ。そして12月1日の御前会議でアメリカ、イギリス、オランダとの開戦を決定する。 |
1941年12月25日日本軍、香港占領 ●日本軍が、イギリス軍の拠点である香港を占領した。 |
重要語(世界の動き1941年代) ●1941年2月、リビア戦線に、「砂漠のキツネ」ロンメルが到着、イタリア軍を救援する。 ●1941年 4月3日、ドイツがバルカン半島のユーゴスラビアの首都ベオグラードを空爆する。4月17日にユーゴスラビアは降伏する。 ●1941年5月ベトナム、インドシナ共産党はホーチミンを盟主にベトナム独立同盟(ベトミン)を結成する。 ●1941年8月、アメリカは日本に対する石油輸出を全面的に禁止する。1940年の日本軍による、フランス領インドシナ侵攻以来、対日経済制裁の声が高まっていた。 ●1941年6月22日、ヒトラーがバルバロッサ作戦を発動する。ソ連に 550万の大軍で侵攻する ●1941年8月、イラン国王レザー・シャーが退位に追い込まれる。イギリスとソ連軍は、イラン南部と北部から進行し圧倒的な軍事力で軍事占領を行った。 ●1941年11月、アメリカは日本に最後通牒を行う。アメリカが「ハル・ノート」を提示した。内容は中国および仏印(フランス領インドシナ)からの日本軍の全面撤退。日・独・伊三国同盟の否認。日本はアメリカとの開戦をここに決意した。 ●1941年12月、モスクワを前に敗退、ドイツ最大の敗北を期す。 |
1942年4月3日中国共産党、整風運動を大々的に展開する。 ●「クロニック世界全史」には次のようにある。 ●この日,延安の中国共産党指導部は22種類の必読文献を指定し,党内教育の徹底をめざす,いわゆる整風運動を開始した。これは学習を通じて,党員ひとりひとりが,「学風」=主観主義,「党風」=セクト主義,「文風」=党八股(内容がなく形式的な文章)的な作風を克服しようというもの。 すでに前年5月,毛沢東は幹部会で,「われわれの学習を改革しよう」と題する報告を行っていた。さらに7月には,毛沢東同志の旗のもと,前進しよう」という論文が出され、毛沢東がマルクス主義を創造的に発展させた,「天才的指導者」であることが指摘されていた。 この整風運動は毛沢東の指導のもとに展開され,運動のなかで毛沢東思想が,唯一の正統な党の指導理論として確立されていく。毛沢東の党内における地位も確固たるものとなり,翌1943年,毛沢東は正式に党主席に就任する。 |
重要語(世界の動き1942年) ●1942年1月20日ドイツ、ナチスドイツ、ヴァンゼー会議でユダヤ人大量虐殺の「最終解決」を決定。 ●1942年2月アメリカ、西海岸で「ジャップ追放」、日系人に強制退去命令、収容所へ。 ●1942年3月インドネシア、日本軍が、最後の拠点ジャワ島バンドンに入城した。開戦3ヶ月で東南アジアを占領。 ●1942年6月中部太平洋、日本海軍はミッドウエー海戦で大敗北。 ●1942年10月エジプト、ロンメル敗れる。連合国軍北アフリカ戦線で猛反撃を開始する。 |
1943年1月9日汪兆銘の政府、アメリカ、イギリスに宣戦布告する。 ●汪兆銘の南京政府が日本と協定を結んでアメリカ、イギリスに宣戦布告する。 |
1943年9月13日蒋介石が国民政府の主席に就任 ●国民党の蒋介石が、国民政府の主席に就任する。 |
1943年11月22日、カイロ宣言を発表。
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①3か国の戦争目的は、日本の侵略制止にあり、領土拡張の意図はない。 ②日本が第1次大戦以後に奪取・占領した太平洋のすべての島を剥奪する。 ③日本が占領した満州・台湾・澎湖諸島を中国に返還させる。 ④日本が奪取した他のすべての地域から日本を駆逐する。 ⑤朝鮮をやがて独立させる。 ⑥以上の目的のため、日本が無条件降伏するまで戦闘を継続する。などである。 |
重要語(世界の動き1943年) ●1943年1月、ドイツ軍ソ連スターリングラード攻防戦で敗北する。 ●1943年2月南太平洋、日本軍ガダルカナル島守備隊が撤退する。 ●1943年4月、カチンの森に数千の死体が発見される。ソ連が虐殺したポーランド人将校か? ●1943年4月、ワルシャワ・ゲットーでユダヤ人たちがドイツ軍に決起する。しかし5月に鎮圧される。 ●1943年7月、英米連合軍シチリア島に上陸する。イタリア崩壊へ。 |
1944年6月6日連合国軍フランス・ノルマンディー上陸作戦を決行 ●「史上最大の作戦」といわれた連合国軍によるノルマンディー上陸作戦が午前1時30分に開始された。第1波兵力は15万6000人、投入された艦船約4400隻、航空機は延べ2万5000機にのぼった。総司令官はアメリカのドワイト・アイゼンハワー(54)であった。 |
1944年7月18日、日本東條英機内閣総辞職する ●7月7日のサイパン島の陥落により、東条内閣倒閣の動きは強まり、2年9か月で東条内閣は総辞職した。そして、戦争継続を建前に、総理大臣に小磯国昭(前朝鮮総督)海軍大臣米内光正(元総理大臣)の連立内閣が発足した。 |
1945年5月7日ナチス・ドイツ無条件降伏する ●ドイツは、5月7日に西側連合国軍の司令部で無条件降伏文書に調印した。そして5月9日にソ連軍司令部で2度目の降伏文書に調印した。これは、米ソの対立と、東西ドイツ分割を暗示するできごとであった。 |
1945年8月8日ソ連は日本に宣戦布告し、満州などに侵攻する ●この侵攻は、アメリカ・イギリス・ソ連の1945年2月のヤルタ会談の時の秘密協定の約束ごとであった。ソ連極東軍130万人は、満州、朝鮮、南樺太に侵攻した。日本は、ソ連による和平交渉の仲介を、最後まで期待していたといわれる。 |
1945年8月14日日本ポツダム宣言受諾を表明 ●8月15日正午、日本国天皇が国民に受諾を放送した。 |
重要語(世界の動き1945年) ●1945年2月、アメリカ・イギリス・ソ連の最高指導者であるルーズベルト・チャーチル・スターリンがヤルタで会談を行った。ドイツ敗北が決定的となり、降伏後のドイツ管理、国際連合の開設などが話し合われた。 ●1945年7月17日~8月2日、ドイツのポツダムで、アメリカ大統領トルーマン(ルーズベルト死去のため)、イギリス首相チャーチル(7/24からアトリ―首相)、ソ連首相スターリンが、ドイツ戦後処理と日本戦後処理について会談し、日本に無条件降伏を促すポツダム宣言を発表した。 |
1945年8月14日中ソ友好同盟条約 ●中国国民政府は、モスクワでソ連と中ソ友好同盟条約を締結する |
1945年8月18日満州国消滅 ●満州皇帝溥儀が退位し、満州国が消滅した。溥儀は日本亡命に失敗しソ連軍に捕らえられ収容所に収監された。そして東京裁判に証人として出廷したあと、ソ連から中華人民共和国へ引き渡され、政治犯収容所に収監された。そして1959年12月に周恩来の働きかけもあって特赦で釈放され、一般市民にもどったといわれる。 |
1945年10月10日「双十協定」を発表
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1946年1月10日国共内戦停止 ●アメリカのマーシャル特使の斡旋で、国民党と共産党は内戦停止に合意した。しかし3月に東北で戦闘が始まる。 |
1946年7月12日全面内戦に突入 ●国民党軍(50万人)が、共産党の支配する蘇晥(江蘇省と安徽省)解放区へむけて本格的な攻撃を開始し、国共両党は全面的な内戦に突入した。クロニック世界全史には次のようにある。 一致抗日を掲げてきた国共両軍だったが、日本の降伏直後から各地で衝突が発生。今年1月に停戦協定が結ばれたものの、国民党は共産党勢力の強い東北地区に大軍を送り込むなど対決姿勢を示し、両軍の衝突は時間の問題となっていた。 国民党軍約430万人に対し共産党軍約120万人、装備の上からも圧倒的優位にあった国民党軍は、共産党側の拠点を次々に攻略、翌年3月には本拠地延安も占領する。 しかし、共産党軍は5月に東北で反攻を開始、9月には「総反攻宣言」を発表し、1948年4月に延安を奪回。次々と主要地域を開放して国民党軍を追い詰めていく。 |
中国周辺部と共産党 ①チベットのラサ政権は1949年、中国国民党が崩壊した直後から、独立への道を歩もうとした。しかし中国人民共和国の対応は早く、1950年にラサに進駐し、独立の動きを封じた。 |
1947年1月1日新憲法公布 ●国民政府が中華民国の新憲法を公布し、12月からの実施を決定する |
1947年 2月28日台湾で反国民政府暴動が発生 ●台湾では反国民政府暴動が起き、5000人が死亡する。(2・28事件) |
1948年11月7日国民政府軍が徐州南部で人民解放軍に敗れる ●国民政府軍が、南京防衛の拠点である徐州南部で人民解放軍に敗れる。翌月1日には人民解放軍が徐州を占領し、国民政府は南京追われて広東へ移る。 |
1949年 1月14日和平8条件を提示 ●蒋介石の1月1日の和平提案を受けて、共産党の毛沢東主席が和平8条件を提示する。 |
1949年 1月21日国民政府総統を引退 ●蒋介石が国民政府総統を引退し、総統代理に李宗仁が就任する。 |
1949年 4月21日国共和平会議が決裂 ●国共和平会議が決裂し、この日、人民解放軍全軍が進撃を開始する。 |
1949年 10月1日中華人民共和国の成立
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「中華人民共和国・建国宣言」毛沢東 ●1949年 10月1日中国、毛沢東、天安門広場で建国宣言を行う。ユーチューブの「Mao declares the Peoples’ Republic of China」から最初の部分を紹介する。(下段でリンク)(自分のような一般の日本人からみると、動画の中でわかるのは、毛沢東、横を歩く朱徳、劉少奇、宋 慶齢《孫文の未亡人》、周恩来ぐらいか。調べると、李 済深《国民党革命委員会主席》、張瀾《民主同盟主席》、高 崗《東北人民政府主席》も壇上並ぶとある。) *リンクしますYouTubeから「Mao declares the Peoples’ Republic of China」 |
1949年12月 7日国民政府台湾へ ●中国国民政府が首都を台湾の台北に移す。 |
共産党は何故権力を掌握できたのか ●ここで最後に、「新版世界各国史3 中国史」山川出版社2008年1版6刷刊より、「共産党は何故権力を掌握できたのか」の部分を引用してみる。
49年革命でなぜ共産党は権力を掌握できたのか。その疑問にたいするひとつの回答は、国民政府の統治が崩壊したため、ということであり、もうひとつの回答は共産党が権力を掌握する力を獲得したつぎのような事情に求められねばならない。 まず第一に、農村で土地革命を推進したことである。日本軍に協力していた大地主の土地を没収し貧農層に配分する政策は、土地をえた農民の共産党にたいする支持を強め、兵士の確保を容易にした。ただし中小地主の土地まで没収するなどの急進的な改革で農民の支持を失った時期もあり、農業生産を増加させるためのきめ細かな政策が展開されていたわけでもない。この時期の土地革命の意義をあまり過大に評価することはできない。 第二に、戦後の早い時期から東北地区で軍事的優位を獲得することに的をしぼり、ソ連側のさまざまな援助も受けながら、強大な正規軍部隊を編成したことである。その結果、従来のような貧弱な装備でゲリラ戦中心に闘うだけでは歯が立たなかった国民政府軍とのあいだでも、正面から陣地戦を挑み勝利することが可能になった。 そして第三のもっとも重要な要因は、「連合政府」の呼びかけが端的に示すとおり、共産党単独で社会主義政権樹立をめざす道を避け、国民政府への批判を強めていたさまざまな政治勢力を総結集するのに成功したことである。共産党が提起した内戦反対の運動、米軍兵士の女子学生暴行事件を契機とした反米運動、「反飢餓運動」と呼ばれた生活難打開のための運動などには、都市の多くの学生・知識人たちが呼応した。国民政府の経済運営に失望した商工業者のなかにも、当分のあいだは資本主義の枠内での経済復興をめざすという共産党が掲げる政策に期待をよせる人々がふえていた。国民党でも共産党でもない良識派を結集していた政治団体、中国民主同盟のなかでも共産党に共感をいだく部分が増大しつつあった。こうした政治情勢の展開を受け、国民政府軍のなかには共産党側に内応する動きが広がった。 49年革命によって権力の座に就いた共産党は、朝鮮戦争の勃発と冷戦の激化という厳しい客観情勢に直面しながら、以上に述べたような都市と農村の民衆のさまざまな期待に応えなければならなかった。それがどの程度まではたされたのかが、今、改めて問われ始めている。 |