(20世紀以降)中国近代史②(孫文と蔣介石そして毛沢東)
2023年4月16日日本・中国・朝鮮
●日本は、日本人としては残念なことに、中国という国家が民族主義による統一戦争と独立戦争のなかで建国に至る時、中国を抑圧し侵略する側であったことである。もし日本が、領土的野心を持たず、軍隊を統帥できる国家であったのなら、日本はこれほどの汚名をアジアに残さずにすんだことであろう。日本にも、孫文のいう西洋の覇道ではなく、古来からの東洋王道文化を選択する道は今なお残されているに違いない。
上写真(1959年第1回全国運動会)、写真前列左から、周恩来総理・朱徳副主席・毛沢東国家主席・劉少奇国家副主席(出典)「丸善エンサイクロペディア大百科」丸善1995年刊
1911年10月10日辛亥革命が始まる。袁世凱は清朝政府と革命軍とを天秤にかけ、革命軍には講和をもちかけ清朝政府には皇帝の退位をすすめた。そして1912年1月1日孫文が臨時大総統に就任し、南京に中華民国臨時政府を組織して、中華民国が誕生した。すると清朝の総理大臣でもあり清朝の軍事力を掌握している袁世凱はどちらにも組せず動こうとしなかった。
3国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア)と3国協商(イギリス・フランス・ロシア)との対立を背景として、人類初の世界的総力戦が起こる。同盟側にはトルコ、ブルガリアが参加し、協商側には、同盟側を脱退したイタリアのほかベルギー、日本、アメリカ、中国などが参加して世界大戦と発展していった。
●アメリカは1914年8月の時点では、ウイルソン大統領が中立を宣言し、建国以来の外交方針である「孤立主義」を堅持していた。(アメリカは1917年、「世界の民主主義を救え」と、ついに参戦した。)
●日本は1914年8月23日にドイツに宣戦布告を行って交戦国となった。この日本の参戦目的と中国をめぐる列強の影響は次のようである。
第1次世界大戦、日本の参戦目的と中国をめぐる列強の影響 |
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日本は、自国を欧米列強と並ぶほどの世界的地位へ高めることが目的。
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ロシアは第1次世界大戦に参戦することによって、危機をすり替えようと考えた。
●ロシアは国内の労働運動・ストライキが続く革命運動による危機を、総動員令を発し第1次世界大戦に参戦することによって、危機をすり替えようと考えた。 1917年のロシアの社会主義革命
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●アメリカ大統領ウイルソン(民主党)は世界平和のために「14か条の綱領」を発表
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日本は、袁世凱中華民国大総統に「21か条要求」を突きつけた。この日本の要求は、世界の外交史にも例の無いほど中国を侮辱するもので国際問題化した。だが中華民国政府がこの日本の要求をのんだことで、中国国民はこの日(5月9日)を「国恥記念日」とし、以後反日・排日運動を本格化させていった。
中国「国恥記念日5/9」と中国新文化運動「新青年」 |
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1915年1月18日北京「対華21か条要求」と「国恥記念日5/9」
●日本の加藤外相(大隈内閣)は、日置中華公使に指令し第1号~5号全21項目の要求(日本の権益拡大)を、袁世凱中華民国大総統に手交(提出)させた。この日本の要求は、世界の外交史にも例の無いもので国際問題化し、特にアメリカは痛烈な抗議を日本に対して行った。そこで日本は最後通牒を発し、第5号の大部分を除いて、1914年5月9日に要求を袁世凱に認めさせた。中華国民はこの屈辱により5月9日を「国恥記念日」として、以後反日・排日運動を本格化させていく。要求の簡単な概要は以下の通りであった。 ●第1号は「日本が山東省の旧ドイツ利権を受け継ぐことを認めよ」という要求。
●第2号は「『南満州および東部内蒙古における日本国の優越なる地位を承認する』条約を結べ」という要求。この中には、旅順・大連の租借期限と満鉄・安奉両線の期限を、それぞれさらに99年ヵ年づつ延長する要求が含まれており、南満と東蒙を完全に日本の事実上の植民地にする要求であった。 ●第3号は「漢陽の製鉄所や鉄山・炭鉱を経営する公司を日中の合弁とする」要求。 ●第4号は「中国の沿岸の港および島を、他国に割譲または貸与しない」ことの要求。 ●第5号は、問題になった内容で、要求ではなく希望としたが、まるで戦争で圧倒的に勝った国が、敗戦国に押しつけるようなものだった。その簡略した概要は次のようである。「政府に日本人の財政および軍事顧問を置くこと」「日本の病院・寺院・学校にその土地の所有権を認めること」「中国の警察を日中合弁とし、日本人の警察官を多数雇用すること」「中国政府の兵器の半数以上を日本が供給するか、日中合弁の兵器廠を設立する」「各地の鉄道の敷設権の要求」「港湾設備の外国資本の締め出し」「中国での日本人が布教する権利を認めること」などであった。
「・・袁は頗(すこぶ)る憤慨したる語気を以て日本国は平等の友邦として支那を遇すべき筈なるに何故に常に豚狗の如く奴隷の如く取扱はんとするか・・」
●日・支條約の内容
右の日・支條約の草案が21箇條であったので、俗に之を21箇条の條約といふ。しかし、実際に結ばれた條約は13箇条で、内容も余程草案と異ってゐる。そして右に記した(3)即ち山東省問題の解決した今日では、(1)=《99ヵ年延長要求》及び(2)=《南満州・東蒙古の日本の特別権益を認める》に関する規定が残存するに過ぎない。しかもそれがいづれも当然の規定のみである。然るに支那の無智の学生や職業的扇動家等が、この條約の結ばれた5月7日を国恥日と称して、毎年さわいでゐるのは、実に不当といはねばならぬ。 ●この「対華21か条要求」については、下記「外務省 日本外交文書デジタルアーカイブ」のリンク先から確認することができる。○「大正3年(1914年) 第3冊」「7 対中国諸問題解決ノ為ノ交渉一件」の中の、12/3「中国に対する要求提案に関し訓令の件」の附属書の中に条約案が記載されている。そして○「大正4年(1915年) 第3冊上巻」「4 対中国諸問題解決ノ為ノ交渉一件」「 1 中国トノ交渉」の「1月18日袁大総統に我提案を手交済の件」で報告されている。 *リンクします「大正3年(1914年) 第3冊」「大正4年(1915年) 第3冊上巻」
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1915年9月陳独秀らが「青年雑誌」(=のちに「新青年」と改称)を創刊する。
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陳独秀、写真の取り違い。
●「革命いまだ成らず」(下)譚璐美 著 によれば、本当は陳独秀は2人写真の左の人物で、右の人物と取り違えられたとあります。1人で写っている中央公論社1963年刊の「陳独秀」の写真は間違っているということである。 |
1918年魯迅「新青年」誌上に「狂人日記」を発表する
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*リンクします「魯迅全集」井上紅梅 訳 改造社1932年刊 より「阿Q正伝」コマ番号51
国立国会図書館デジタルコレクション
●この頃毛沢東は、李大釗のもとで北京大学の図書館に勤めていたという。毛沢東が、「中国の赤い星」の著者エドガー・スノウに、当時を語ったところを一部抜粋してみる。毛沢東は李大釗によって北京大学の図書館に勤めることができた、といっている。(出典:「中国の赤い星」p106~p111筑摩書房1952年初版・1957年10版発行より)
「北平はひどく金がかかるように思われました。私は友人から金を借りてこの古都へ到着したので、着くとすぐ職を見つけなければなりませんでした。私の師範学校時代の倫理の教師だった楊昌済が国立北京大学の教授になっていました。私が仕事の口を見つけてくれるように頼んだところかれは同大学の図書館主任に紹介してくれました。それが李大釗でした。この男はのちに中国共産党の創立者になりそのご張作霖に殺害されました。李大釗は私に図書館の助理員の仕事をくれ、私はそれで月8元の十分な俸給をもらっていました。
「私の地位が高級なものではなかったので、ひとびとは私に近よりませんでした。私の仕事のひとつは新聞を読みにくる人の名前を記録することでしたが、大多数の人は私を人間なみにはあつかいませんでした。読みにくる人たちの中に私は傅斯年、羅家倫、その他の文芸復興運動の著名な指導者たちの名前があることを知って、ひどく興味をひかれました。私はそれらの人たちと、政治や文化の問題について話をしようと試みましたが、かれらはじつに忙しい人たちでした。かれらは南方の方言をしゃべる図書館助理員に耳をかす余裕などは持っていませんでした。」
「しかし私は失望しませんでした。私は大学の講義に出席できるようになろうとして哲学会や新聞学会などに入会しました。新聞学会で私は同じような傍聴生として現在南京政府の要人になっている陳公博だとか、のちに共産主義者になってその後いわゆる『第三党』に入った譚平山、邵飄萍などに会いました。なかでも邵は私を援助してくれました。かれは新聞学会の講師でしたが、また自由主義者で、熱烈な理想主義と立派な人格の持主でした。かれは1926年に張作霖に殺されました。」
・・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・
「北京での自分の生活状態はひどくみじめなものでしたが古都の美しさは生き生きとして、活気のつぐないをしてくれました。私は『三眼井』と呼ばれる場所で。小さな部屋に七人の人たちと同宿していました。みんなで『炕』の上に寄り合っていると、ほとんど誰もが呼吸をする間隙さえないほどでした。寝がえりをうちたい時にはいつも両側の人たちに警告を発しなければならないのです。しかし公園や故宮の庭には北地の早春がうかがわれ、北海が一面にまだ氷に閉されているのに、白い梅の花の咲いているのが見られました。私は北海の上につららのさがった楊柳の垂れるのを見ながら『千樹万樹梨花開』という、冬の宝石を散りばめた北海の樹々を歌った唐の詩人岑参の描写を想い出しました。北京の無数の樹木は私の驚異と讃美を呼び起しました。」
・・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・
「長沙に帰ると私は政治において、今までより以上に直接的な役割を受持ちました。5・4(五四)運動以後、私は自分の時間の大部分を学生政治運動に向けました。そして、湖南の学生新聞『湘江評論』の編集人をやっていました。この新聞は華南の学生運動に大きな影響を与えました。私は長沙で文化書会という近代的な文化および政治方面の研究機関関の設立を援助しました。この会および特に新民学会は、当時の湖南督軍で悪者の張敬堯にたいして猛烈な反対運動をやりました。私たちは張の免職を要求する学生のゼネストを指導し、またそのころ孫逸仙が活動していた西南地方や北平に代表を送って、反張宣伝を行いました。学生の反対にたいする復讐として、張敬堯は『湘江評論』に弾圧を加えました。」
「その後、私は反軍閥運動を組織するために新民学会を代表して北京に行きました。新民学会は張敬堯反対の闘争をさらに一般的な軍閥反対運動に拡大し、私はこの工作を進 めるために新聞通訊社の社長になりました。湖南においてこの運動は若干の成功をかちえました。張敬堯は譚延闓によって打倒され、新しい政権が長沙に樹立されました。ほぼこのころに新民学会は右翼と左翼のふたつのグループに分裂し、左翼は徹底的な社会的・経済的・政治的変革の綱領を主張しました。」
「私は1919年に2度目に上海に行きました。そこで私はふたたび陳独秀(註)に会いました。最初は北平で私が国立北京大学にいた時にかれに会ったのですが、かれはおそらくほかの誰よりも私に大きな影響を与えました。当時私はまた湖南の学生運動に援助を求めようとして胡適を訪問してかれにも会いました。上海では湖南改造連盟の計画について陳独秀と論じあいました。それから私は長沙に帰って、その組織にとりかかりました。私は新民学会での活動をつづける一方、長沙で教員の地位を獲得しました。この学会は当時湖南の『独立』、じっさいは自治をもとめる綱領をもっていました。北方政府にあいそをつかしてしまった私たちのグループは、北京との関係を断てば湖南省はもっと急速に近代化すると信じて、その分離を要求して運動しました。当時の私はアメリカのモンロー主義と門戸開放の熱心な支持者でありました。」
・・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・
「1920年の冬に私ははじめて政治的に労働者を組織しこの運動において、マルクス主義理論とロシア革命史の影響によって導かれるようになりました。2度目に北平に行った時には私はロシアの諸事件についてたくさんの本を読み、また当時ごくわずかしか華文では手に入らなかった共産主義文献を熱心にさがし求めました。とくに3冊の本が私の心に深くやきつき、マルクス主義にたいする私の信念をかためました。歴史の正しい解釈としてマルクス主義を採り入れて以来、私はその後それについて逡巡したことはありませんでした。3冊の本というのは、華文で出た最初のマルクス主義文献たる陳望道翻訳の『共産党宣言』カウッキイの『階級闘争』およびカーカップの『社会主義史』であります。1920年の夏には私は理論的にもまた、あるていど実践的にもマルクス主義者になり、この時いらい私は自分をマルクス主義者だと考えてきました。おなじ年に私は楊開輝(註)と結婚しました」
4 国民革命時代
こうして毛沢東はマルクス主義者になったが、まだ共産党員ではなかった。というのはただほかでもない、当時は中国にはまだ共産党という組織ができていなかったからである。1919年に陳独秀がコミンテルンと連絡をつけた。1920年に第3インターナショナル━中国人の呼び方によれば第3国際━の精力的にして説得力をもつ代表マーリンが上海にやってきて、中国の党とのあいだに結ばるべき連絡を協定した。その後まもなく陳独秀は上海に会議を召集したが、それとほとんど同時に中国の留学生の一団がパリに集まり、そこで共産主義者の組織をつくる提案が出された。中国共産党がその創立いらいまだ16年の若さであるのを思えば、そのやったしごとが軽視できないものであることがわかる。それはロシアをのぞけば世界でもっとも強力な共産党であり、またロシアをのぞいて自己の強大な軍隊を誇りうるただ一つの共産党である。さてべつのある夜のこと、毛沢東はかれの物語りをつづけた。
「1921年の5月に、私は共産党の創立大会に出席しようとして上海に行きました。この組織で指導的な役割を演じた者は陳独秀と李大釗で、ふたりとも中国のもっともかがやかしい知的指導者でありました。私は国立北京大学附属図書館の助理員時代に李大釗の下に急速にマルクス主義の方向に成長し、陳独秀もまた私の関心を同じ方向に向けるのにあずかって力がありました。2度目に上海に行ったおりに、私は自分の読んだマルクス主義の書物について陳と討論しましたが、みずからの信念に関する陳の主張は、おそらく私の生涯においてもっとも決定的な時期にあたって私にふかい印象をあたえました。」
・・・・・・・・・・(後略)・・・・・・・・・
袁世凱の死後、中央政府の実権を掌握したのは、安徽派軍閥の巨頭・段祺瑞であった。満州では、東北3省(奉天・吉林・黒竜江)の実権を握っていた軍閥の張作霖が台頭してくる。一方政界から離れていた孫文は、広東軍政府の樹立を宣言した。こうして軍閥が割拠するなか段祺瑞が北京政府を握り、満州(中国東北部)では張作霖が台頭し、孫文が広東軍政府を樹立する。
北京政府(段祺瑞)、満州(張作霖)、広東軍政府(孫文) |
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1917年~段祺瑞、実権を掌握。張作霖の台頭。
●軍閥が割拠し段祺瑞が北京政府を握り、満州(中国東北部)では張作霖が台頭し、広東軍政府(孫文)が樹立された。 1917年9月広東軍政府の樹立
●一方政界から離れていた孫文は、広東軍政府の樹立を宣言した。これは北京政府の実権を握る段祺瑞に対抗するもので、国民党系議員や西南軍閥との連合政権であった。 |
1919年「中華革命党」を「中国国民党」へ改組
●孫文は、1914年に結成した「中華革命党」を上海の租界に本部置く「中国国民党」に改組した。 |
1919年1月~6月パリ講和会議、ヴェルサイユ条約、「5.4運動」
●第1次世界大戦の戦後処理問題を討議する会議がフランスのパリで開かれた。中国は、日本の 山東占領と 21か条問題があったため、会議に対して大きな期待を寄せていた。それは、ロシアのソヴィエト革命政権による「無併合」「無賠償」「帝国主義の否定」やアメリカのウイルソン大統領の 14か条の宣言が、中国の追い風となることを期待したためであった。そのため中国は、北京政府と広東政府合同の代表団を結成して、パリ講和会議に臨んだ。しかし1919年4月、会議は中国とアメリカによる山東返還要求を拒絶する決定を下した。これは1917年にイギリスとフランスが、日本に秘密条約で山東と旧ドイツの南洋諸島(赤道以北)の利権を保証していたからであった。アメリカの理想主義は、イギリスとフランスにより譲歩させられたわけである。(中東のアラブの独立問題も同様であった) この「5.4運動」は、北京から天津、上海、広東、漢口などの大都市から全国規模に広がっていった。この学生たちの思想運動から始まった革新運動は、この5月4日の事件で排日運動、反政府運動(反軍閥)、反帝国主義として発展し、大きな中国民衆のナショナリズム(民族主義)の高揚となっていった。そしてこの5.4運動の高まりと抗議運動は、時の政権を動かし、ヴェルサイユ条約の調印を拒否させるほどのものとなった。
●この5.4運動は多くの影響を与え、毛沢東(長沙で活動)や周恩来(天津で活動)そして孫文にまでにも、中国の革命には民衆の団結が必要であることを教えた。 (朝鮮では、日本に対する独立運動が1919年3月1日から始まった。「3.1独立運動」) |
重要語(世界の動き1910年代)
●1914年7月、第1次世界大戦勃発。 ●1914年8月、パナマ運河開通(着工から34年)。 ●1915年5月、ドイツ潜水艦Uボートが、イギリス豪華客船ルシタニア号を撃沈(1198人犠牲)。アメリカはドイツへの反発を強める。 ●ドイツ毒ガス兵器を使用。これ以後、戦闘に毒ガス攻撃はつきものになる。 ●1917年4月、アメリカがついにドイツに参戦する。 ●1917年10月、ロシア10月革命が起こる。ソヴィエト政権樹立。 ●1918年8月シベリア出兵。シベリア方面は、アメリカ、日本(7万5000人)、イギリス、フランスが出兵し、バイカル湖以東のシベリア要地を占領した。 ●1918年3月、ソヴィエト政府ドイツと単独講和(ブレスト・リトフスク条約) ●1918年10月日本でスペイン風邪38万人死亡。全世界で2000万人以上が死亡した。 ●1918年11月、ドイツで革命がおき、皇帝ヴィルヘルム2世が退位する。ドイツ休戦協定に調印、第1次世界大戦が終結する。 |
中国共産党の成立(1920年8月)・中国共産党第1回全国代表大会(1921年7月)
●陳独秀らは上海で共産党の前身である中国社会主義青年団を結成した。そして1921年7月には、中国共産党第1回全国代表大会の開会式を行い(中国共産党の成立)、初代総書記に陳独秀を選出した。コミンテルンは、1920年から李大釗や陳独秀と接触し、共産党の結成を働きかけていた。第1回全国代表大会では、毛沢東はまだ末席の記録係だった。 |
1921年11月~1922年2月、ワシントン会議、中国の主権・独立・領土保全を9か国が保障
●この会議の参加国は9か国で、アメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリア、中国、オランダ、ポルトガル、ベルギーであった。 |
●ここで、孫文が日本の神戸で行った「大亜細亜(=アジア)主義」と題した演説を引用する。これは孫文が、1924年11月28日に神戸商業会議所など 5団体の招きに応じて、旧制神戸高等女学校講堂で演説したものである。100年後の現代においても、東アジアの政治・文化の方向性を指し示しているのではなかろうか。
と講演を結んでいる。
(注)漢字国名はカタカナを補い、旧漢字は新漢字にした。またこの原典を引用した「国立国会図書館デジタルコレクション」にはページの入れ違いがあったので、読み替えた。文章の最後の露国は、社会主義国ソ連のことであろう。(出典)「大亜細亜主義」 孫文全集. 第3巻コマ番号112から120まで
外務省調査部 訳編 第一公論社 1939-1940刊。
(民国13年11月28日神戸高等女学校に於て神戸商業会議所他5団体に対してなしたる講演)
諸君、私は本日諸君より斯くの如き歓迎を受けまして実に感激に堪えません。本日は皆様より亜細亜(=アジア)主議と云ふことに付(つい)て、私に講演しろと云ふ御話でありました。所で此の問題に付て講演するには、我(わが)亜細亜(=アジア)とは一体どんな所あるかを先づはっきりさせて置かなければなりません。
我亜細亜(=アジア)は最も古い文化の発祥地であります。即ち数千年以前に於て既に我亜細亜(=アジア)人は非常に高い文化を持って居たのでありまして、欧州最古の国家例へば希臘(=ギリシャ)、羅馬(=ローマ)等の如き古い国の文化は、何れも我亜細亜(=アジア)より伝ったものであります。又我亜細亜(=アジア)は昔より哲学の文化、宗教の文化、倫理の文化及び工業の文化を持って居ました。之等の文化は何れも古より世界で非常に有名であつたのでありまして、現在世界の最も新しい文化は何れも我々の此古い文化より発生したのであります。
然るに最近数百年来我亜細亜(=アジア)の民族は漸次萎縮し、国家は次第に衰微して来ました。一方欧州の民族は漸次発展し、国家は次第に強大となって来たのであります。欧州の民族が発展し国家が強大となるに伴れ、彼等の勢力は次條々々に東洋に侵入し、我亜細亜(=アジア)の民族及国家を漸次滅亡せしむるに非ずんば圧制せんとする勢となったのであります。此の勢がずっと続いた為、30年以前迄は我亜細亜(=アジア)には一国として完全なる独立国家は無かったのであります。此の勢が更に続いたならば国際関係は益々面倒となったでありませう。
然し乍ら否塞(ひそく)の運命も極点達すれば泰平となり、物極まれば必ず通ずるのでありまして、亜細亜(=アジア)の衰徴が斯くの如く極点に達しました時、そこに一個の転換機が発生しました。其の転換機こそ即ち亜細亜(=アジア)復興の起点をなすものでありました。亜細亜(=アジア)は一度は衰微しましたが、30年前は再び復興し来ったのであります。然らばこの復興の起点は一体何処に在るりましたかと云ふに、夫(そ)れは即ち、日本が30年前に、外国と締結しました一切の不平等條約を撤廃しましたことであります。日本の不平等条約撤廃の其の日こそ、我亜細亜(=アジア)全民族復興の日であったのであります。
日本は不平等條約を撤廃しましたので、遂に亜細亜(=アジア)に於ける最初の独立国家となったのでありますが、当時其の他の国家、即ち中国、「印度(=インド)」、「波斯(=ペルシャ)」、「アフガニスタン」、「アラビヤ」及「土耳古(=トルコ)」等は何れも未だ独立の国家ではなく、欧州より勝手に領土を割かれ、欧州の植民地となって居たのであります。30年前に於ては日本も亦欧州の植民地と目されて居たのでありますが、日本の国民は先見の明があり、民族と国家との栄枯盛衰の関係を知って居ましたので、大いに発奮して欧州人と闘ひ、凡(あら)ゆる不平等條約を廃除し、遂に独立国と為ったのであります。日本が東亞に於ける独立国となりましてからは、亜細亜(=アジア)全体の国家及び民族は独立に対し大なる希望を抱いて来たのであります。即ち、日本でさへ不平等條約を廃棄して独立したのであるから、吾々も當然日本に倣はねばならないと云ふ考を持つやうになりました。之れより勇気を出して種々の独立運動を起し、欧州人の束縛より離脱せんとし、欧州の植民地たるを欲せず、亜細亜(=アジア)の主人公とならうと云ふ思想が生れたのであります。之は最近30年来の考で、極めて楽観的の思想でありました。
30年以前に於きましては、我亜細亜(=アジア)全体の民族は、欧州は非常に進歩した文化を有し、科学も非常に進歩し、工業も非常に発逹して居り、武器は精巧であり、兵力は強大である。然るに我亜細亜(=アジア)は欧州に長じて居るものは一つも無い、亜細亜(=アジア)は欧州に到底抵抗出来ない、欧州の圧迫より脱出することも到底出来ない、永久に欧州の奴隷とならなければならないだらう、と云ふ風に考へて居たのであります。即ち非常に悲観的の思想であったのであります。然るに30年前日本は不平等條約を廃除して独立国となりました。然し夫(そ)れは日本と非常に接近して居る民族、国家には大なる影響を与へましたものの、當時は未だ尚亜細亜(=アジア)全体には充分の反響は無かったのであります。即ち亜細亜(=アジア)民族は全体的には夫(そ)れ程大なる感動を受けなかったのであります。
然し乍ら夫(そ)れより10年を過ぎて日露戦争が起り其の結果日本が露国(=ロシア)に勝ち日本人がロシア人に勝った。之は最近数百年間に於ける亜細亜(=アジア)民族の欧州人に対する最初の勝利であったのであります。此の日本の勝利は全亜細亜(=アジア)に影響を及ぼし、亜細亜(=アジア)全体の民族は非常に歓喜し、そして極めて大なる希望を抱くに至ったのであります。
此の事に付て私が親しく見ました事を御話し申上げませう。日露戦争の開始されました年、私は丁度欧州に居りましたが、或る日東郷大将が露国(=ロシア)の海軍を敗った、ロシアが新に欧州より「ウラジオストク」に派遣した艦隊は、日本海に於て全滅されたと云ふことを聞きました。此の報道が欧州に伝はるや、全欧州の人民は恰(あたか)も父母を失った如くに悲み憂へたのであります。英国は日本と同盟国でありましたが、此の消息を知った英国の大多数は何れも眉を顰(ひそ)め日本が斯くの如き大勝利を博したことは決して白人種の幸福を意味するものではないと思ったのであります。之は正に英語でBlood is thicker than water(血は水よりも濃い) と云ふ観念であります。暫(しばら)くして私は船で亜細亜(=アジア)に帰ることになり、「スエズ」運河を通ります時に、沢山の土人が、其の土人は「アラビヤ」人でありましたが、私が黄色人種でありますのを見て、非常に喜び勇んだ様子で私に「お前は日本人か」と問ひかけました。私は「そうではない、私は中国人だ。何か有ったのか、どうしてそんなに喜んで居るのか」と問ひました所が、彼等の答は「俺逹は今度非常に喜ばしい「ニュース」を得た。何でも日本はロシアが新に欧州より派遣した海軍を全滅させたと云ふことを聞いた。此の話は本当か、俺逹は此の運河の両側に居て、ロシアの負傷兵が船毎に欧州に送還されて行くのを見た。之は必定、ロシアの大敗した証拠だと思ふ。以前は吾々東亞の有色人種は何れも西方民族の圧迫を受け苦痛を嘗めて居て、全く浮ぶ瀬が無かった。だが、此の度日本がロシアに勝ったと云ふことは東方民族が西方民族を打敗(うちやぶる《うちまかすの意》)ったことになる。日本人は戦争に勝った。吾々も同様に勝たなければならない。之れこそ歓喜しなければならないことではないか。だから吾々はこんなに喜んで居るのだ」と云ふことであった。之を見ましても日本が露国(=ロシア)を打敗ったことは、亜細亜(=アジア)民族全体に如何に大なる影響を与へたかと云ふことが解る。日本がロシアを敗ったと云ふことは、東方に居た亜細亜(=アジア)人は、或は余り重要視したかったかも知れないし、又余り感興(かんきょう=興味を感ずること)を引かなかったかも知れないが、西方に居た亜細亜(=アジア)人及欧州に近接して居た亜細亜(=アジア)人は、常に欧州人から圧迫を受けて終日苦痛を嘗め、而も彼等の受ける圧迫は、東方に居た亜細亜(=アジア)人よりも更に大であり、其の苦痛は更に深刻であった為に、彼等が此の戦勝の報道を聞いて喜んだことは、我々東方人よりも一層大きかったのであります。
日本がロシアに勝ってからは、亜細亜(=アジア)全体の民族は、欧州を打破らうと考へ、盛に独立運動を起しました。即ち「埃及(=エジプト)」、「波斯(=ペルシャ)」、「土耳古(=トルコ)」「アフガニスタン」、「アラビヤ」等が相継いて独立運動を起し、軈(やが)て「印度(=インド)」も独立運動を起す様になりました。即ち日本が露国(=ロシア)に勝った結果、亜細亜(=アジア)民族が独立に対する大なる希望を抱くに至ったのであります。此の希望が生れてから今日迄20年に過ぎませんが、「埃及(=エジプト)」、「土耳古(=トルコ)」、「波斯(=ペルシャ)」、「アフガニスタン」及「アラビヤ」等の独立が相継いで実現した許(ばか)りでなく。「印度(=インド)」の独立運動も亦漸次発展して参りました。之等の独立の事実は、亜細亜(=アジア)の民族思想が最近進歩して来たことを示すものであります。此の思想の進歩が極点に達した時、亜細亜(=アジア)全民族は容易に連合して起つことが出来、共の時こそ亜細亜(=アジア)全民族の独立運動は成功するのであります。亜細亜(=アジア)の西部に居る各民族は、近来相互に非常に親密な交際を続け、又非常に真面目な感情を持つ樣になって来ましたから、彼等は容易に連合出来るのであります。亜細亜(=アジア)東部の最大の民族は中国と日本とであります。中国と日本とは、斯(かか)る運動の原動力をなすものでありますが、此の頃では両国とも互に我不関焉(われかんせず)の熊度を採って居る為、今尚十分なる連絡が取れて居ないのであります。然し乍ら将来我々亜細亜(=アジア)の東部に居ります各民族にも、必ず連絡しようとする気運が動いて参りませう。此の東西両部の民族が、相互に提携しようとする趨勢を作らんとする所以は、実に亜細亜(=アジア)民族の独立を実現せんが為であり、吾々亜細亜(=アジア)が従来持って居た地位を回復せんが為であります。
欧米人は斯(かか)る趨勢を十分に知って居ります。だから米国の或る学者の如きは曾(かっ)て一冊の本を著はして有色人種の興起を論じたことがあります。其の本の内容は日本が露国(=ロシア)に勝ったことは、黄色人種が白色人種を打敗った事である。将来此の現象が拡大されたならば、有色人種は何れも連合して白色人種に刃向ひ来り、之が為に酷い目に遭はされるであらうから、白人は予め注意しなければならないと云ふ意味のものであります。彼は後に更に一冊の本を著し、一切の民族解放運動は、凡べて文化に背反する運動であると言って居ります。彼の主張に依れば、欧州に於ける民族解放運動は固より、亜細亜(=アジア)の民族解放運動も亦文化に背反して居ると云はねばなりません。斯る思想は欧州に於ける一切の特殊階級の人々が、何れも同じく抱いて居る所のもので、彼等は少数の人を以て欧州及び自国内の多数の人々を圧制して居り、更に其の毒牙を亜細亜(=アジア)に迄拡張子し、我9億の民族を圧迫して、彼等少数人の奴隷となさんとして居るのであります。之れ実に惨酷極まるものであり憎んでも尚余り有るものであります。而して此の米国の学者が、亜細亜(=アジア)民族の覚醒を世界の文化にに対する背反であると言ってゐる所から見ますれば、欧州人は自ら文化伝授の正統派と為し、自ら文化の主人公を気取って居り。従って欧州以外に文化が発生し、独立思想が起ることを文化の背反と為して居るのであります。故に彼等は欧州の文化は正義人道に合致するものであり、亜細亜(=アジア)の文化は正義人道に合致しないものであると考へて居るのであります。最近数百年の文化の状態に付て観ますれば、欧州の物質文明は極度に発達して居り、我東洋の文明は何等大なる進歩を示して居りません。従って之を単に表面的に比較致しますれば欧州は東洋に優って居ります。然し根本的に之を解剖しますれば、欧州に於ける最近百年来の文化は如何なるものでありませうか。彼等の文明は科学の文化であり、功利主義の文化であるのであります、此の文化を人類社会に用ひたものが即ち物質文明であります。物質文明は飛行機爆弾であり、小銃大砲であって、一種の武力文化であります。欧州人が最近専ら此の武力の文化を以て我亜細亜(=アジア)を圧迫して居る為、我亜細亜(=アジア)は進歩出来ないのであります。欧州の文化は武力を以て人を圧迫する所の文化でありまして、此の武力を以て人を圧迫することを中国の古語では覇道を行ふと言ひます。故に欧州の文化は覇道の文化であります。然るに我東洋に於きましては従来覇道文化を軽蔑し、他に覇道文化に優った所の一種の文化が存在して居るのであります。此の文化の本質は仁義道徳であります。此の仁義道徳の文化は、人を感化するものであって、人を圧迫するものではありません、又人に徳を抱かせるものであって、人に畏れを抱かせるものではありません。斯る人に徳を抱かせる文化は我中国の古語では之を王道と云って居ります。故に亜細亜(=アジア)の文化は王道の文化であるのであります。欧州に於て物質文化が発達し、覇道が盛に行はれましてからは、世界各国の道徳は日々退歩し、のみならず亜細亜(=アジア)に於ても亦、道徳の非常に退歩して来た国が可成り出来て来ました。然し近来欧米の学者の中で、東洋文化に多少なりとも注意して居る者は、東洋の物質文明は、西洋の物質文明には及ばないが、東洋の道徳は、西洋の道徳より遙かに高いと云ふ事を漸次諒解する樣になって来ました。
覇道の文化と王道の文化とは結局何れが正義人道に有益であるか、何れが民族及び国家に有益であるかと云ふことは、諸君自ら諒解されたことでありませうが、之に付て私は此処に一つの例を挙げて説明申上げませう。今より500年以前より2000年前迄1000年余りの期間がありますが、此の間中国は世界に於ける最強の国家でありまして、丁度現在の英国及米国と同様の地位に在りました。英国も米国も現在の強盛は列強でありますが、中国の昔の強盛は独強であったのであります。然し乍ら独強時代の中国は、弱小民族及弱小国家に対し如何なる態度を執ったでありませうか。又当時の弱小民族弱小國家は、中国に対し如何なる態度を執りましたでせうか。当時の弱小民族及国家は、何れも中国を宗主国となし、中国に朝貢せんとするものは中国の属藩たらんことを欲し、中国に朝貢することを以て光栄とし、朝貢出来ないことを恥辱として居た有様であったのであります当時中国に朝貢して居た国は、亜細亜(=アジア)各国のみならず、欧州西方の各国迄、遠路を厭はず朝貢して居たのであります。当時の中国は之等多数の国家、遠方の民族の朝貢に対し如何なる方法を用ひたでありませうか。陸海軍の覇道を用ひて彼等の朝貢を強制したでせうか。否!
中国は完全に王道を用ひて彼等を感化したのであります。彼等は中国に対して徳を感じ、甘んじて其の朝貢を希ったのであります。彼等は一度中国の王道の感化を受くるや、一代中国に朝貢したのみならす、子々孫々迄中国に朝貢せんとしたのであります。之等の事実は最近に至っても尚証拠が有るのであります。例へば印度(=インド)の北方に二つの小国が有ります。一つは「ブータン」であり、他は「ネパール」であります。此の二つの国は小国ではありますが、其の民族は非常に強く、又非常に精悍で勇敢に戦ひます、中でも「ネパール」の民族は殊に勇敢でありまして、現に英国は印度(=インド)を治めるに当たり、常に「ネパール」民族を兵士に採用して、印度(=インド)を服従せしめて居る位であります。又英国は印度(=インド)を滅して之を植民地とした程の力が有り乍ら「ネパール」に対しては容易に斯る態度を執り得ず、毎年多額の補助金を送り、只政治監察の官吏を駐在せしめて居るに過ぎないのであります。英国の如き現在世界に於ける最強の国家が、尚且「ネパール」に対して斯くの如く慇懃な態度を執って居るのであります。故に「ネパール」も亦亜細亜(=アジア)に於ける一の強国であると言へませう。然るに此の「ネパール」が現在英国に対して如何なる態度を執って居るか、英国に朝貢して居ない許(ばか)りでなく、却て英国から補助を取つて居るのであります。然るに「ネパール」は中国に対しては如何なる態度を執って居るか。中国の国際的地位は、現在一落千丈(いちらくせんじょう=地位や権威、価値などが一気に落ちること。)して尚英国の植民地にも及ばない有樣であり、而も「ネパール」から極めて遠く且両国の間には非常に大なる西蔵(せいぞう=チベット)を挟んで居り乍ら、「ネパール」は今以て中国を宗主国として居るのであります。即ち民国元年(=1912年)には西蔵を経由して朝貢して居ります。其の後四川の辺界(へんかい=国境)が交通不便となった為、遂に朝貢を見なくなりました。斯くの如く中国及英国に対する「ネパール」の態度は異って居ります。諸君は之を不思議に思ひませんか。単に「ネパール」の中国及英国に対する態度を以てしても、中国の東方文明と英国の西方文明とを比較することが出来ませう。中国は数百年来衰微しては居りますが、然し乍ら文化は尚存在して居るのであります。夫(そ)れ故に「ネパール」は今以て中国を宗主国として崇拝して居るのであります。然るに、英国は今非常に強大となり、且立派な物質文明を持って居るに拘らず、「ネパール」は之に対し一向頓着しないのであります。之に依りますと「ネパール」は真に中国の感化を受けたものであって、中国の文化が真の文化であり、英国の物質文明は文化ではなくて覇道であると視て居ると云ふことが解ります。
今私が大亜細亜(=アジア)主義を講演しますに当って述べました以上の話は、如何なる問題であるかと申しますに、簡単に言ひますれば、それは文化の問題であります。東方の文化と西方の文化との比較と衝突の問題であります。東方の文化は王道であり、西方の文化は覇道であります。王道は仁義道徳を主張するものであり、覇道は功利強権を主張するものであります。仁義道徳は正義公理に依って人を感化するものであり、功利強権は洋銃大砲を以て人を圧迫するものであります。感化を受けた国は、仮令(たとえ)宗主国が衰微しても、数百年の後に至る迄、尚其の徳を忘れるものではないと云ふことは、「ネパール」が今日に於ても尚且中国の感化を庶幾(こいねが)ひ、中国を宗主国として崇拝せんとして居る事実に依って明かであります。之に反して圧迫を受くれば、仮令圧迫した国が現在非常に強盛であらうとも、常に其の国家より離脱せんとするものであることは、英国に対する埃及(=エジプト)及印度(=インド)の関係が之を示して居ります。即ち英国は埃及(=エジプト)を征服し、印度(=インド)を滅し、現在非常に強盛となって居りますが、埃及(=エジプト)及印度(=インド)は常に英国より離脱しようとして居ります。之が為彼等は盛に独立運動を起して居ります。然し彼等の独立運動は、英国から大なる武力の圧制を受けて居りますから、急には成功致しますまい。然し乍ら若しも英国が一度衰微しましたなら、埃及(=エジプト)及印度(=インド)は5年も経たない中に、直に英国の勢力を駆逐して独立の地位を回復するでありませう。こう申上げれば諸君は東西文化の優劣がお解りになりませう。吾々は今こういふ世界に立って居るのでありますから、我大亜細亜(=アジア)主義を実現するには、吾々は何を以て基礎としなければならないかと云ひますと、夫(そ)れは我固有の文化を基礎としなければならないのであります。固有の文化とは即ち道徳であり、仁義であります。仁義道徳こそは我大亜細亜(=アジア)主義の好個(こうこ=ちょうどよいこと)の基礎であります。斯くの如き好個の基礎を持って居る吾々が、尚欧州の科学を学ばんとする所以は以て工業を発達せしめ、武器を改良せんと欲するが為に外なりません。欧州を学ぶのは決して他国を滅したり、他の民族を圧迫したりすることのみを学ぶのではないのであります。只吾々は学んで以て自衛を講ぜんとするのであります。
近来亜細亜(=アジア)の国家で、欧州の武力文化を学んで、之を完全にこなして居るのは日本だけであります。日本は軍艦の建造操縦に至るまで、今では必ずしも欧州人に頼るを要せず、陸軍の編制運用も亦自主的に之を行ふことが出来るのであります。それ故に日本は極東に於ける一個の完全なる独立国家であります。我亜細亜(=アジア)には欧州大戦当時同盟国の一方に加入し、敗戦するや忽ち分割され、戦後酷い目に遭ひ乍ら、現在では一個の完全なる独立国家となった国があります。此の国が即ち土耳古(=トルコ)であります。現在亜細亜(=アジア)には独立国は僅か二つしかありません。一は東の日本であり、二は西の土耳古(=トルコ)であります。日本と土耳古(=トルコ)とは亜細亜(=アジア)に於ける東西の二個の大なる障壁であるのであります。更に現在では波斯(=ペルシャ)、「アフガニスタン」、「アラビヤ」等も、欧州に学んで立派な武力を備へて居り、欧州人も敢えて之等民族を軽蔑しないのであります、「ネパール」に至っては、英国人も尚且軽視致しません。彼等は今や立涙な武力を具へて居ります。中国は只今非常に多くの軍隊を持って居りますから、一度統一さるれば非常な勢力となりませう。吾々が大亜細亜(=アジア)主義を説き、亜細亜(=アジア)民族の地位を回復しやうとするには、仁義道徳を基礎として各地の民族を連合し、亜細亜(=アジア)全体の民族が非常なる勢力を有する様にしなければならないのであります。
只欧州人に対しては、単に仁義のみを以て彼等の感化を謀ったり、亜細亜(=アジア)在住の欧州人に対して平和裡に権利の返還を求めたりすることは、恰(あたか)も虎に食物を与へて共の皮を取らうとする様なもので、到底出来ない相談であります。故に吾々が我々の権利を完全に回収しやうとするには之を武力に訴へなければならないのであります。さて武力と云へば、日本は早くより非常に完全なる武力を有して居り、土耳古(=トルコ)も最近は立派な武力を持って来ました。又波斯(=ペルシャ)、「アフガニスタン」、「アラビヤ」等の各民族は従来から何れも戦争に強い民族であります。中国4億の民族は平和を愛する民族ではありますが、生死の堺に立っては当然奮闘して大なる武力を発揮するのであります。若し全亜細亜(=アジア)民族が連合し、固有の武力を以て欧州人と戦ったならば、必ず勝ち決して敗けることは無いのであります。更に欧州と亜細亜(=アジア)との人口を比較しますれば、中国は4億、印度(=インド)は3億5000万、緬甸(=ビルマ)、安南(=ベトナム)等は合計数千万、日本は一国で数千万あり、其他各弱少民族も数千万ありますから、我亜細亜(=アジア)の人口は、全世界の人口の二分の一以上を占めて居るのでありまして、欧州の人口は僅に4億に過ぎないのに、我亜細亜(=アジア)全体の人口は実に9億であります。四億の人間が9億の人間を圧迫すると云ふことは、正義人道と相容れない所でありまして、正義人道に反したる行為は結局失敗するものであります。而も彼等4億の人間中には、最近に至って吾々に感化された者すら有るのであります。現在世界文化の趨勢を見ますと、英国、米国辺には少数ではありますが、仁義道徳を提唱する者が出て参りました。共他の野蛮国に於ても亦こうした主張をなすものがあります。之は即ち西洋の功利強権の文化が、東洋の仁義道徳の文化に服従せんとして居ることを物語るものであり、覇道が王道に服従せんとして居ることの証拠でありまして、即ち世界文化が日日光明に趨(おもむ)く所以のものであります。
現在欧州には、欧州全部の白人から排斥され、毒蛇猛獣であって人類ではない様に思はれ、少しも接近されない国があります。我亜細亜(=アジア)にも同様の考へを以て居るものが可成り有ります。然らば其の国は何処であるかと云ひますと、夫(そ)れは露国(=ロシア)であります。露西亜(=ロシア)は只今では欧州白人の分家たらんとして居るのであります。露国(=ロシア)が何故にそう謂ふ状態に在るか。夫(そ)れは彼が王道を主張して覇道を主張せず、仁義道徳を説いて功利強権を説かうとせず、極力公道を主持し、少数を以て多数を圧迫することに賛成しないからであります。露国(=ロシア)の新文化は我東洋古来の文化に合致するものであって、彼等は東洋と手を握り、西洋より分家しやうとして居るのであります。欧州人は露国(=ロシア)の新しい主義が、彼等の主張と合致せず、且露国(=ロシア)の主張が成功するときは、彼等の覇道が打破せられるだらうことを恐れ、露国(=ロシア)が仁義正道を説く国であることには目もくれず、却(かえっ)て露国(=ロシア)は世界の反逆者であると誣(しゆる=事実を曲げて言う)ゆるのであります。
さて最後に、然らば吾々は結局如何なる問題を解決しやうとして居るのかと言ひますのに、圧迫を受けて居る我亜細亜(=アジア)の民族が、如何にせば欧州の強盛民族に対抗し得られるかと言ふことでありまして、簡単に言へば、被圧迫民族の為に其の不平等を撤廃しようとして居るのであります。被圧迫民族は亜細亜(=アジア)に有る許(ば)かりでなく、欧州にも居るのであります。覇道を行ふ国は只に他州と外国との民族を圧迫するのみならず、自州及自国内の民族をも、同様に圧迫して居るのであります。私大亜細亜(=アジア)主義は王道を基礎としなければならないと申上げたのは、之等の不平等を撤廃せんが為であります。米国の学者は、民衆解放に関する一切の運動を、文化に反逆するものであると言って居りますから、吾々の主張する不平等廃除の文化は、覇道に背叛する文化であり、又民衆の平等と解放とを求むる文化であると言ひ得るのであります。日本民族は既に一面欧米の覇道の文化を取入れると共に、他面亜細亜(=アジア)の王道文化の本質を持って居るのであります。今後日本が世界の文化に対し、西洋覇道の犬となるか、或は東洋王道の干城(かんじょう=国家を守る武士・軍人)となるか、夫(そ)れは日本国民の慎重に考慮すべきことであります。
*リンクします「大亜細亜主義」 孫文全集. 第3巻コマ番号112から120まで
外務省調査部 訳編 第一公論社 1939-1940刊
*リンクします「第7編 大亜細亜主義」コマ番号603から611まで
孫文主義. 上巻 孫文 著[他] [外務省調査部] 1935-1936刊
当時の中国を巡る日本とアメリカなどの関係 |
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1900年頃、アメリカの中国人移民禁止と日本人移民禁止。日米対立へ。
●アメリカは1905年、中国人移民を永久に禁止した(中国国内では、激烈なアメリカ商品の排斥運動とボイコットが起きた)。それに続いてアメリカは、ハワイやカリフォルニアでの日本人移民に対する排斥運動の高まりから、1921年移民割当法、1922年日本人のアメリカ帰化権を否定、そして1924年5月の移民法で、アメリカ帰化権のないもののいっさいの入国を禁止した。 |
1911年前後、辛亥革命の頃、日本とアメリカの対立とロシアとの協約
●アメリカは中国の門戸開放を要求し、満州の鉄道全部を中立化することで、イギリスと共同で鉄道を建設しようと試みた。また1910年には、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツで合同の借款団をつくり、満州の工業開発を行おうと試みた。それに対して日本は、その借款団に加わり自国の特殊権益を各国に認めさせることができた。 |
第1次世界大戦(1914年~1918年)・パリ講和会議(1919年)・ワシントン会議(1921年~1922年)頃
●日本は1914年には、工業生産額が農業生産額を上回り、さらに1920年世界大戦後には、さらに規模を拡大し工業国の仲間入りを果たした。そして日本はアジアの小国から、イギリス、アメリカに次ぐ世界第3位の海軍国となり、イギリス・アメリカ・フランス・イタリアと並んで、世界の5大帝国主義強国となり、国際連盟の常任理事国となった。日本は連合国からの軍需品の注文と、交戦諸国のアジア市場からの撤退もあり、1919年~1920年頃に戦時中を上回る空前の繁栄を誇った(株式投資も加熱した)。 |
日本はワシントン会議(1921年~1922年)で山東の権益を失う
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1921年の原内閣の基本方針(中国に対する基本方針)、外相・幣原喜重郎に引き継がれる
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●「満蒙に対する政策・閣議決定」(要点)
満蒙は、国防上並びに国民の経済的生存上、緊密の関係にあり、満蒙に日本の勢力を扶植することは日本の満蒙対策の根幹である。
●具体的政策 世界の大勢である国際的傾向と民族自決主義は、日本の満蒙対策を、侵略的傾向と誤解するかもしれないので、満蒙対策の実行に際しては細心の用意とこまかな熟慮が必要である。
(注)関東州とは、遼東半島先端部(大連・旅順など)と南満州鉄道付属地を併せた租借地であった。この鉄道付属地というのが多くの権益を含んでいて、線路の両側の66mの土地や主要駅周辺に市街地を作るための土地なども含まれた。そして日本は鉄道守備隊の駐留権を認めさせたので、鉄道の総距離に応じて多くの兵力を駐屯させることができた(1km当たり15人以内)。また鉄道沿線にある炭鉱(例えば撫順炭鉱など)等の経営権も含まれた。 |
この宣言はソヴィエト政府が、旧ロシアが中国に対して持っていた権益を否定したもので、中国との不平等条約の無効、義和団事件の賠償金の停止など権益の返還を宣言したものであった。このことは中国全体に大きな波紋をよびおこした。そしてこのことが、コミンテルンと中国国民党、中国共産党を結びつける1924年1月の国共合作成立につながる。
●そして孫文は、悲願であった真の革命軍養成のために、蔣介石を校長に「黄埔軍官学校(広州の郊外)」を設立した。そして同校には共産党を代表して周恩来が派遣され、やがて農民運動の指導者を養成するために設立された農民運動講習所の所長には毛沢東がなった。
●だが1925年3月12日、孫文は北京で死んだ(59歳)。『現在、革命なお未だ成功するに至らず・・』と国民党員へ遺囑した。
コミンテルンと中国国民党、中国共産党 |
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1919年と1920年カラハン宣言
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1921年コミンテルン、孫文と接触する。中国国民党と中国共産党
①プロレタリアート革命の援軍として各国に共産党を作る。(1920年インドネシア共産党創設。イラン共産党創設。1921年中国共産党創設。1922年日本共産党創設。1924年朝鮮共産党成立など)
②アジア植民地における民主化運動は、先進的であり民族ブルジョアジーによって行われる革命的ナショナリズムであるとした。だからコミンテルンは、ブルジョアジーが革命的である場合に限り、支援することを決定した。 ③そしてコミンテルンとは別にソヴィエト政府は、革命勢力と敵対する北京政府や他の軍閥を支援し、外国干渉国(日本やイギリス)に対抗させた。 ④こうしてコミンテルンは、孫文のひきいる中国国民党を革命的ブルジョア政党として支援することを決定した。 ●1922年コミンテルンを代表するマリングは、中国共産党員が1人1人中国国民党に加入して、国民党内で合作していくことを決定した(陳独秀は、共産党員は国民党外にあって協力すべしとして反対した)。 |
1922年4月第1次奉直戦争
●呉佩孚らの直隷派と張作霖らの奉天派とが対立し武力衝突となる。 |
1923年2月孫文、広東政府大元帥に就任
●孫文は再び広東政府に迎えられて、大元帥に就任した。そしてこの新広東政府とソ連との関係は緊密となっていった。8月には蔣介石と張太雷が、ソ連式軍事組識と政治委員制度をソ連に数ヶ月逗留して学びに行った。そして11月頃から政治顧問(ボロディン)や軍事顧問(ガレン)ら数十名のコミンテルン顧問が広東政府に到着し、同時に援助武器も次々と到着した。 |
1923年6月中国共産党国共合作を決定
●中国共産党が第3回全国代表大会を開催し、中国国民党との合作を決定する。 |
1924年1月国共合作が成立
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![]() 下写真「周恩来」(出典:「近代史日本とアジア上」古川万太郎著 婦人之友社2002年刊) |
●「周恩来」「広辞苑」より引用。
周恩来・・中国の政治家。江蘇の人。初め日本に留学、5・4運動に際し天津で活動。のちフランスに留学、中国共産党フランス支部を組織。西安事件以来、国共合作に努力。人民共和国成立と共に政務院(のちの国務院)総理兼外交部長、以後死ぬまで首相。(1898~1976)
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1924年9月第2次奉直戦争
●張作霖率いる奉天軍が、直隷軍に宣戦布告、15日、北京政権をめぐる第2次奉直戦争が勃発する。 |
1925年3月12日孫文59歳北京に死す。国民党員への遺囑(いしょく)
●ここで、中国の「国父」であり「近代革命先行者」である孫文の遺嘱(いしょく=遺託)を引用する。
余致力國民革命,凡四十年,其目的在求中國之自由平等。
(余、力を国民革命にいたすこと、すでに凡そ40年、その目的は中国の自由平等を求むるにあり。) 積四十年之經驗,深知欲達到此目的,必須喚起民眾及聯合世界上以平等待我之民族,共同奮鬥。 (しかして40年の経験により、この目的を達せんとほっせば、必ずことごとく民衆を喚起し、かつ世界において平等をもって我が民族を待つものを連合し、これと共同奮闘するの要あるを知れり。) 現在革命尚未成功,凡我同志,務須依照余所著《建國方略》、《建國大綱》、《三民主義》及《第一次全國代表大會宣言》,繼續努力,以求貫徹。 (現在、革命なお未だ成功するに至らず。およそ我が同士はすべからく余の著すところの建国方略、建国大綱、三民主義および第1次全国代表大会の宣言により継続努力し、もってこれが貫徹を期すべし。) 最近主張開國民會議及廢除不平等條約,尤須於最短期間,促其實現。是所至囑! (最近の主張たる国民会議の開催および不平等条約の排除は、ことに最短期間においてこれを実現するを要す。これ遺囑するところなり!) 孫文 3月11日補簽 中華民國14年2月24日 筆記者 汪精衛 (訳文・出典)「革命いまだ成らず」譚璐美(たん・ろみ)新潮社2012年刊 |
1926年7月、蔣介石を総司令とする国民革命軍(国民政府)北伐を開始する。だが国家統一の戦乱の中で、国民政府と共産党は対立していく。そして1927年4月12日、蔣介石が反共クーデターを起こす。第1次国共合作は崩壊した。この時上海では共産系の指導者のほとんどが逮捕処刑され、その犠牲者は数千人とされる。そして1928年10月、蔣介石が南京の国民政府主席に就任し、12月には張作霖の後を継いだ長男の張学良が、国民政府に忠誠を誓い、国民政府はここに全国統一を実現した。だが国共内戦が始まったのである。
1925年~ | ||
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1925年5月30日5・30事件発生
●上海の共同租界で、中国人労働者らが、日本人経営の紡績工場へデモを行い、結果このデモ隊にイギリス人警官隊が発砲し、流血事件となる。この紡績工場では2月に、旧正月を間近に迎え日本人には月給を支払ったが、中国人職工には給料の支払いを延期したことからストライキが始まった。このストライキも指導したのは共産党だった。中国共産党は創設以来、党員は率先して大衆の中に入って大衆の組織化に力を尽くしていた。この5・30事件により、6月1日から上海全市がゼネストに突入、反帝国主義運動が全国の主要都市に広がった。(香港ストライキ、広州市デモ隊10万人へイギリス・フランス陸戦隊発砲など) |
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1925年7月1日中華民国の成立
●これを機に広州で国民党が汪兆銘を主席に、中華民国・国民政府(広東政府)の成立を宣言した。 |
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1926年3月18日、3・18事件。北京の天安門広場で軍警察が発砲
●軍閥政府に反対して北京の天安門広場で学生民衆が国民大会を開く。それに対して軍・警察がデモ隊に発砲し死者50人余り、負傷者160人余が出る。 |
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1926年3月20日中山艦事件
●蔣介石(国民革命軍第1軍軍長)が広州に戒厳令を敷き、沿岸警備艦中山艦の艦長以下共産党員の乗組員を逮捕する。この真相はわからず、蔣介石側はクーデターの情報があったいい、共産党側は弾圧のためのでっち上げだとした。 |
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1926年7月、国民革命軍北伐を開始する
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1927年1月イギリス兵と民衆とが衝突
●漢口と九口のイギリス租界でイギリス兵と民衆とが衝突し、流血の事態となる。 |
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1927年3月南京事件
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1927年4月12日、蔣介石が反共クーデターを起こす、第1次国共合作崩壊
●上海において蔣介石が反共クーデターを起こす。蔣介石の命を受けた軍隊が、労働組合の関連機関や施設を一斉捜査、共産党員をことごとく逮捕し、労働者の軍隊組織を武装解除した。これに抵抗するものは容赦なく射殺された。この時共産系の指導者のほとんどが逮捕処刑され、その犠牲者は数千人とされる。このとき周恩来はかろうじて脱出した。つづいて15日には広東で反共クーデターが行われ、上海・南京地区と広州地区の共産系組織は壊滅した。 |
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1927 4月18日南京政府の樹立
●蔣介石の国民党右派が、武漢政府(国民党政府は、1927年2月北伐が長江流域を制圧していき、武漢に移動していた)に対抗し、南京にもう一つの国民政府を樹立し、共産党員の徹底粛清を宣言した。一方、武漢政府も右派が台頭し、7月には共産党が武漢政府を離脱し、9月に武漢政府は南京政府に合流した。 |
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1927年5月28日日本第1次山東出兵
●田中義一(陸軍大将)政友会内閣(前月4月20日に成立)は、中国での権益の保護・拡大を図る「積極外交」に方針を転換した。山東省は多くの紡績・製紙工場が進出し、満蒙に次ぐ日本権益の中心地であり、この出兵の真意も、北伐軍を阻止し、既得権益を守ることにあった。田中義一首相は5/28日次の政府声明を発表した。 「支那の内政には不干渉。日本人居留民に戦乱の患がおよぶ恐れがないとわかれば、ただちに派遣軍を撤退させる」と強調した。
しかしこの時北伐軍(蔣介石)は、山東省手前江蘇省で北方軍閥軍と武漢政府軍の南京進撃を受け、窮地に立たされ進軍を中止した。蔣介石は総司令を辞任。これにより日中軍事衝突は起きず、9月までに日本軍は撤兵した。 |
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1927年8月共産党南昌蜂起
●中国共産党(蔣介石によって粛正された)は武漢政府を退き、南昌で初の武装蜂起を行った。この蜂起は、中国共産党が党の崩壊危機に直面し、武漢で開いた臨時中央会議などで、国共合作の打ち切り、共産党員の国民政府からの離脱を宣言、共産党の武装による国民党との対抗、などの方針を決定したことによる。この蜂起は国民党の反撃にあい失敗したが、湖南・広西両省で秋收蜂起軍を率いた毛沢東は、井崗山で革命根拠地を築き、そして華南の各地には革命根拠地が作られていった。ここに国民党と共産党の内戦が始まる。 |
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1928年4月第2次北伐を再開
●南京の国民政府は北伐再開の方針を決め、蔣介石を北伐全軍総司令に任命した。4/7蔣介石は全軍に北伐宣言を発し、第1目標である済南の占領へ向かった。 |
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1928年5月3日済南事件勃発と第2次山東出兵(日中武力衝突)
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1928年6月4日関東軍、張作霖を爆殺する
●奉天軍閥の張作霖を乗せた特別列車が、奉天(現瀋陽)駅に到着する直前の南満州鉄道との立体交差を通過しようとした瞬間、すさまじい爆発音が起こった。車両もろとも暴破された張作霖は重傷を負い、ただちに奉天城に運び込まれたが、午前10時ごろに死亡した。 |
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『満州某重大事件』日本国内の対応
●「昭和2万日の全記録1巻」講談社1989年刊によれば以下のようである。 日本国内の対応
①関東軍はこの事件を極秘にした。日本の陸軍省はこの事件の犯人を中国革命軍の仕業と言明しつづけた。 ②しかし外交ルートや中国の英字新聞から真相が漏れ外務省に伝わった。それは河本大佐が偽装工作(中国人のアヘン中毒者を3人雇い、そのうち2人を線路横で刺殺し犯人に見せかけて遺棄)に関わり前日に逃れた残りの一人が、張作霖の子の張学良に詳細を伝えたことが始まりとある。 ③日本政府は陸軍大臣に真相を調べさせたが、陸軍大臣は関東軍は関与しないと報告した。しかし田中義一首相は、憲兵隊司令官を現地に派遣し、その結果河本大佐らの謀略の報告を受け事件の真相を知った。 ④田中首相は天皇に「この爆死事件に帝国陸軍の関与が事実なら厳然たる処断を行う」と上奏(天皇に申し上げること)した。日本の議会や新聞などは、この事件を『満州某重大事件』とあいまいにして真相を隠した。 ⑤田中首相は、議会で真相の公表を激しく追及され、また陸軍は河本大佐らの処罰に反対したため、窮地に追い込まれた。そしてついに天皇に「真相は不明」との公表の許可を請うたが、天皇に叱責され田中内閣は総辞職した。 |
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1928年6月8日国民革命軍北京入城、北伐完了を宣言する
●上写真は北伐報告祭のものとおもわれる。「生きている中国史」高木健夫著・河出書房1957年刊によれば、次のようにある。『・・・1928年7月6日、4人一緒になって北平郊外西山碧雲寺の孫文の霊柩に詣で、北伐完成の報告祭を挙行した。この日の式は蔣介石が司会し、国民党関係者5百余人が列席した。蔣介石は北伐の経過を報告し涙ながらに革命完成に精進すべきことを誓った。式が終ってから国民革命軍各総司令は孫文のガラスの柩の外から遺体を拝んだけれども、蔣介石は感極まってガラスの柩に抱きついて大声をあげて泣くという劇的光景がみられた。』とある。 |
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張学良(張作霖の長男)後を継ぐ
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1928年10月蔣介石、南京の国民政府主席に就任。
●12月には張作霖の後を継いだ長男の張学良が、国民政府に忠誠を誓い、国民政府はここに全国統一を実現した。 |
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重要語(世界の動き1920年代)
●1923年9月1日、日本、関東大震災が発生した。最大の被害を受けた東京では、火災により全市街の2/3が消失し、死者9万9331人、罹災者総数は340万人に及んだ。また混乱の中でデマなどによる自警団による朝鮮人虐殺が起きる。被害者は3000人以上といわれる。 ●1924年5月アメリカ、日本人移民全面禁止へ。クーリッジ大統領、新「排日」移民法に署名する。 ●1925年1月ソ連、ロシア革命の指導者の1人レオン・トロッキーが軍事人民委員会を解任される。レーニンが病気で倒れた後のスターリンとの対立の結果だった。後にトロッキーは共産党を除名されて追放され、1940年亡命先のメキシコで暗殺された。 ●1925年4月日本、治安維持法が公布。社会主義運動、労農運動の拡大を抑え、言論・思想・社会運動を弾圧するものであった。「国体を変じ又は私有財産制度を否認することを目的」とする結社や謀議・扇動行為を取り締まった。後に最高刑を死刑と定めた。 ●1926年3月アメリカ、クラーク大学の物理学教授ゴダードが、世界初の液体燃料で推進するロケットの打ち上げに成功した。 ●1927年5月21日フランス・パリ、アメリカ人飛行士リンドバーグが、33時間半に及ぶ大西洋横断無着陸単独飛行に成功した。飛行場には10万人の群衆が押し寄せた。 ●1927年7月インドネシア、スカルノ国民同盟を結成、オランダに対する民族運動大同団結へ。 ●1927年ロンドン、ハイゼンベルク「不確定性原理」を発表する。1929年ハイゼンベルクが世界1周講演旅行で日本にたちより、日本の若手物理学者(のちにノーベル物理学賞受賞)の湯川秀樹や朝永振一郎に大きな刺激を与えたといわれる。 ●1928年9月イギリス・ロンドン、フレミング、ペニシリンを発見。のちに再研究され、医療的有用性と伝染病の治療に革命的な効果が明らかにされた。そして抗菌性物質は「抗生物質」と名づけられ、その研究は医学に飛躍的な進歩をもたらした。1944年には結核の治療に画期的な「ストレプトマイシン」が発見された。 ●1928年アメリカ、ウォルト・ディズニーがトーキーアニメ映画「蒸気船のウィリー」を完成し、「ミッキー・マウス」をデビューさせた。 ●1929年アメリカ・シカゴ、禁酒法時代のイタリア系ギャング、アル・カポネが、敵対するアイルランド系ギャングを、マシンガンで惨殺する事件(2/14セント・ヴァレンタインの虐殺)を起こす。 ●1929年8月エルサレム、ユダヤ人とアラブ人の衝突による流血の惨事「嘆きの壁事件」が起きる。 ●1929年10月アメリカ・ニューヨーク・ウオール街、「暗黒の木曜日」空前の株価が大暴落。全世界に及ぶ金融パニックで「大恐慌」の始まりとなる。 ●1929年11月3日、朝鮮半島、光州で日本人学生と朝鮮人学生が乱闘事件を起こす。これにより全土に反日運動が波及し、1919年の3・1独立運動以来最大の独立闘争に発展する。 |
関東軍は、満州全体(中国東北部)の軍事的制圧のきっかけを狙って、この柳条湖満鉄爆破(謀略事件)を起こした。日本政府は当初、不拡大方針を決定するが、関東軍はこれを無視して戦線を拡大し、わずか5ヶ月で満州全域を占領した。日本の満州侵略は、日清戦争(1894~1895年)での遼東半島を3国干渉によって失ったことに始まり、日露戦争(1904~1905年)で「日本軍10万の将兵を失って獲得した遼東半島(先端部は関東州)は、絶対に手放すことはできない」という関東軍と陸軍の強い意志が背景にあった。
中国東北部の日本の軍事介入、国民政府軍と共産党軍の戦い。 |
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1930年5月30日間島事件
●満州の間島(延吉)で朝鮮の共産主義勢力を中心にした、地主打倒・反日の蜂起がおこる。 日本官憲は根こそぎ検挙でこれに対抗するが、蜂起は断続的に 1年余り続く。 |
1930年7月29日長沙ソヴィエト政府を樹立
●中国共産党の紅軍第3軍が長沙ソヴィエト政府を樹立する。翌月5日、国民政府軍の反撃を受けて撤退する。 |
1930年9月 1日反蔣介石北方政府(中華民国臨時政府)を樹立
●汪兆銘、閻錫山、馮玉祥らが北平(北京)に反蔣介石北方政府(中華民国臨時政府)を樹立し、主席には閻錫山が就任する。 |
1930年12月27日蔣介石が包囲掃討作戦を開始
●蔣介石が広西省南部の中国共産党根拠地に対し、本格的な包囲掃討作戦を開始する(第一次掃共戦)。しかし翌年1月、毛沢東率いる紅軍に撃退される。 |
1931年6月中村大尉射殺事件、東北地方で日本軍の将校が中国人に射殺される。
●6月下旬参謀本部員中村大尉らが、満州の状況を調査していたところ、東北軍に逮捕された。これは関東軍が北部満洲で、軍事作戦を展開するのに備える行動であったと思われる。中村大尉らは中国人になりすまして偵察行動(スパイ活動)をしていたが、発覚を恐れて逃亡して射殺された事件である。 |
1931年7月2日万宝山事件
●長春郊外の万宝山で日本政府が移住させた朝鮮人と、中国人農民が水利をめぐって衝突する。日本の軍部は「満蒙問題武力解決」を唱えて介入を図り、満州事変の一因となる(万宝山事件)。 |
1931年9月18日日本軍柳条湖満鉄爆破。満州事変勃発、日本の中国侵略の始まり。
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![]() 下写真は盧溝橋事件(1937年)頃の「石原莞爾」(出典:「世界の歴史15」中央公論1962年刊) ●日本の満州侵略は、日清戦争(1894~1895年)での遼東半島を3国干渉によって失ったことに始まり、日露戦争(1904~1905年)で「日本軍10万の将兵を失って獲得した遼東半島(先端部は関東州)は、絶対に手放すことはできない」という関東軍と陸軍の強い意志が背景にあった。また軍部の暴走とはいうが、国民の支持があったから実行できたともいえる。そして根底において日本は、大日本帝国憲法で「統帥権(=軍隊の最高指揮権)」は天皇の「侵(おか)すべからざる」大権と定められている国家である。日本帝国政府の上部に軍部が位置するわけだから、軍部の暴走が起きる危険性は充分にあったし、必然だったかもしれない。 |
●天皇の統帥権(大日本帝国憲法の一部)
第3条天皇ハ神聖(しんせい)ニシテ侵(おか)スヘカラス 第4条天皇ハ国ノ元首(げんしゅ)ニシテ統治権(とうちけん=国家を統治する大権。国土・人民を支配する権利。主権)ヲ総攬(そうらん=政事・人心などを、一手に掌握すること)シ此ノ憲法ノ条規(じょうき)ニ依リ之ヲ行フ 第11条天皇ハ陸海軍ヲ統帥(とうすい)ス 第12条天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額(じょうびへいがく)ヲ定ム 第13条天皇ハ戦(たたかい)ヲ宣(せん)シ和ヲ講(こう)シ及諸般ノ条約ヲ締結ス |
1931年11月7日中国共産党、ソヴィエト政府を瑞金にて樹立
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1932年 1月28日第1次上海事変
●上海で日本人僧侶が中国人に殺されたのをきっかけに、この日、日本軍と中国軍が衝突する。5月5日に停戦協定を結ぶ。(この事件も国際世論の目を、満州からそれせるために日本軍により仕組まれた謀略事件であったといわれる。) |
1932年3月1日満州国の建国宣言
(重要事項)
●1932年5月15日、(日本)5・15事件起こる。海軍青年将校ら犬養首相を射殺。政党内閣終わる。 ●1932年7月、(ドイツ)ヒトラーのナチ党が、総選挙で230議席を獲得し第1党となる。共和国が終焉を迎えていく。 ●1932年11月(アメリカ)、フランクリン・ローズベルト(民主党)、大統領に当選。 ●1932年10月(ソ連)、スターリン政敵を排除、独裁体制を強める。 |
1932年4月29日対日戦争宣言
●毛沢東主席(39)とする瑞金の中華ソヴィエト政府が、対日戦争宣言を発表する。 |
1932年4月29日上海テロ事件
●上海での天長節祝賀式典に、朝鮮人独立運動家の尹奉吉が爆弾を投げ、上海派遣軍司令官白川義則、重光葵らが負傷する。白川はのちに死亡する。(1945年ミズリー号上の日本降伏文書の調印式で、ステッキをもち足を引きずっていたのが日本政府代表 重光葵外務大臣である。この時の事件で重傷を負い足を切断したためである) |
1932年 9月15日日満議定書を調印
●日本が満洲国との間に 日満議定書を調印し、正式に満洲国を承認する。 |
1932年 9月16日平頂山事件
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1932年10月1日リットン報告書、日中両国に交付
●満州での日本の軍事行動を侵略とみなした、国際連盟調査委員会のリットン報告書が日中両国に交付される。 |
1933年1月1日山海関謀略事件
●満州国と中国の境界地区、山海関で日本軍敷地内に手榴弾が投げ込まれる。これも日本軍の謀略によるものだが、日中両軍が衝突、3日に日本軍は山海関を占領する。 |
1933年2月24日、ジュネーブ国際連盟臨時総会がリットン報告を承認。満州国不承認を可決
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●日本代表松岡洋右が反対演説をして退場するNHKニュース映像。
*リンクします「国際連盟脱退へ」NHKアーカイブス |
1933年2月日本軍が熱河省侵攻を開始する。
●満州国樹立の際、関東軍は、奉天省・吉林省・黒竜江省の東3省だけでなく、熱河省もその領土に含めると宣言した。熱河省は、関東軍にとって満州の安定支配に欠かせない地域であり、また特産品のアヘンは財源上の大きな魅力だった。 (重要事項)
●1933年1月、(ドイツ)ヒトラー政権誕生。 ●1933年10月(ドイツ)、ドイツが国際連盟を脱退。ヒトラー再軍備を主張。 |
1933年5月31日塘沽停戦協定
●国民政府と日本との間で塘沽停戦協定が結ばれる。実際上、国民政府が満州国を黙認する形となる。これにより関東軍は、河北省東部を非武装化し、満州支配を安定させ、関内侵攻の足場を築いた。 |
1934年3月1日満州帝国皇帝溥儀
●満州国に帝政がしかれ、国号が満州帝国となる。執政溥儀が皇帝に即位する。 |
中国共産党の紅軍が、蔣介石率いる国民政府軍の攻撃により、瑞金を出発し西方への脱出を開始した。これが「長征」の始まりである。
●1936年12月12日西安事件が起こった。これは張学良らが内戦停止・一致抗日を求めて、西安で蔣介石を監禁した事件である。この時毛沢東は即座に周恩来を西安に派遣した。周恩来は身を挺して、両軍内強硬派《すぐに蔣介石を処刑》の説得にあたった。そして周恩来は、民族の危機を打開するために党派を越えた一致抗日を説き、国共合作を成立させたのである。
革命への長い旅「長征」 |
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1934年10月15日中国共産党、革命への長い旅「長征」を開始する
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●毛沢東は「長征」について次のように述べたという。
「・・長征は宣言書であり、宣伝隊であり、種まき機であった。・・・11の省にたくさんの種をまいた。やがて芽を出し、葉を伸ばし、花を咲かせ、実を結び、将来かならず収穫されるだろう」
長征は共産党の基盤拡大に大きな役割を果たした。 |
1935年1月13日共産党軍、貴州省の遵義を占領
●長征途上の共産党軍が、貴州省の遵義を占領する。同地で共産党政治局拡大会議を開き、毛沢東の主導権が確立する。 |
1935年8月1日中国共産党8・1宣言を発表。抗日救国
●中国共産党が8・1宣言を発表して、内戦の停止と、抗日への一致団結を呼びかける。 |
1935年10月20日長征の終結
●毛沢東らの紅軍第1方面軍が、陝西省 呉起鎮で第15軍団と合流する。(長征の終結)(1935年8月党創設者の1人張国燾が四川省西部をめざし紅軍は軍を二分し、毛沢東軍は陝西省をめざし合流した。張国燾軍は四川省に根拠地を築けず、1936年10月に毛沢東軍に合流した。) |
毛沢東、周恩来、朱徳(1935年頃の写真)
下は「目撃者」朝日新聞1999年刊の「若き日の毛沢東(中央)と周恩来(左)」1935年3月撮影 撮影者不明 中国、とある写真だが、上の写真の2枚と背景が同じである。これは同じ時期に同じ場所で撮られたものだろう。ただ、上の左の写真の「ソヴィエト中国の4巨頭」とあるが、一番左の人物は、下の右の人物と同一である。誰なのだろうか。上のその右に並ぶ3人は、周恩来・朱徳・毛沢東であろう。 |
1935年12月9日「12・9運動」
●日本軍による華北分離工作に危機感を持った北京の学生 5000人が華北自治反対を叫んでデモ行進を行う。(12・9運動) 1935年11月に国民政府が、イギリスの財政支援のもとに貨幣制度の改革に踏み切り、財政と金融を立て直し、経済を発展させようとしたことから始まる。日本はこの政策を失敗させるために妨害工作を行っていく。①華北分離工作は、綏遠省(現内モンゴル自治区の中部)、察哈尓省、河北省、山西省、山東省の5省を、国民政府の統治から分離させようというものである。そして華北諸省の自治を認めさせようとし、非武装地帯(塘沽停戦協定1933年)として指定された河北省東部に、殷汝耕を委員長とする傀儡政権である冀東防共自治委員会を成立させ、国民政府からの独立を宣言させた。満州国に続く第2の傀儡政権であった。これに対して国民政府は日本軍の圧力をかわすため、12月に日本軍の支持する宋哲元を委員長とする、河北省・察哈尓省の両省と北京・天津両市の行政を管轄する冀察政務委員会を設置した。このような国民政府の日本に対する妥協行動は、自国政府である国民政府への抗議行動を生み出していった。
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重要語(世界の動き1930年代前期)
●1934年アメリカ、ディーゼル機関車が誕生。時速160kmを記録する。これにより鉄道は、蒸気機関車からディーゼル機関車に代わっていく。 ●1934年11月1日満州鉄道、大連-新京間で、特急列車「あじあ号」が運転を開始する。 ●1934年12月29日、日本はワシントン海軍軍縮条約の破棄を、アメリカに通告する。 ●1935年8月3日日本、岡田啓介内閣が、「天皇機関説」を否認する声明を出す(第一次国体明徴宣言)。9月18日、美濃部達吉は貴族院議員を辞職する。 ●1935年 8月12日日本、陸軍統制派の中心人物、永田鉄山軍務局長が、対立する皇道派の相沢三郎中佐に斬殺される。 ●1935年9月ドイツ、ニュルンベルク法を制定する。「純血保護法」と「ドイツ国公民法」を公布した。これにより、ナチスドイツは法律によってユダヤ人を「劣等人種」として迫害を始めた。 ●1935年10月アメリカ、ギャラップの世論研究所が調査結果を公表する。世論調査の有効性と無作為抽出による調査法を開発した。 ●1935年10月、イタリアがエチオピア侵略を開始する。 ●1935年11月フィリピン、フィリピン独立に向けコモンウエルス政府が発足する。しかし日本の侵略によって挫折する。 |
1936年 12月12日西安事件
●張学良らが内戦停止・一致抗日を求めて、西安で蔣介石を監禁する。 ●この時毛沢東は即座に、張学良が信頼している周恩来を西安に派遣した。周恩来は身を挺して、血気にはやる両軍内強硬派《すぐに蔣介石を処刑》の説得にあたった。10年近く国民党軍との戦争を行ってきた中国共産党が、恨み骨髄の蔣介石を処刑しようとはせず、民族の危機を打開するため抗日の重要性を訴え、蔣介石の生命の保障を説く周恩来の姿勢は、両軍強硬派に大きな影響を与えた。そしてこの結果、国共合作がなり党派を越えた一致抗日がここに成立した。
●この時の張学良の東北軍の心情を歌った歌が「松花江上」である。東北軍は満州事変で日本軍に故郷を奪われ、紅軍と戦うよりむしろ日本軍と戦うことを望み、また蔣介石の南京中央政府に対する反感も鬱積していた。この歌は、まず東北軍のなかで愛唱され、やがて盛り上がる抗日風潮のなかで全中国の知識人のなかにひろまり、一世を風靡したとある。 「松花江上」の大意。『我が家は満州松花江のほとり、森あり林あり炭鉱あり。大豆、高粱も山野見渡すかぎり。我が家は満州松花江のほとり、わが故郷はそこにあり。老いたる父母もそこにいます。9・18、9・18、(満州事変勃発の日)かの惨めたる時より、9・18、9・18、かの惨めたる時より、我が故郷をのがれ出でたり。愛する父母を見捨てたり。・・流浪・流浪・・いつの日か故郷に帰らん、父よ母よ、いつの日かともに集わん・・』
●YouTubeに「《松花江上》王宏偉, 抗戰歌曲」yliang1688氏の投稿があった。リンクしてみた。 *リンクします「《松花江上》王宏偉, 抗戰歌曲」YouTube 「yliang1688氏」の投稿 |
1937年1月9日15万人の抗日デモ
●西安で共産党主導の抗日デモが行われる。15万人が参加して抗日軍事運動の開始を決定する。 |
1930年代の中国の財政の安定と経済発展
●蔣介石の国民政府は、関税の引き上げや統一地方税を創設して、中華民国始まって以来の最も豊かな中央政府税収を獲得し、権力基盤の確立に成功した。そして主力産業であった軽工業も発展し、また鉄道道路などの産業基盤整備も進んだ。そしてアメリカからの資金援助やイギリスからの援助、そして国際連盟からの技術援助なども実施された。また財政経済政策の一つの柱として通貨政策があった。1935年11月、イギリス・アメリカの支援も受けながら全般的な幣制改革を実施した。この結果、中国の通貨は政府系銀行の発行する「法幣」に統一され、外国為替レートも安定化した。これにより銀貨流出にともなう金融難で深刻な恐慌に苦しんでいた中国経済は、この幣制改革以降急速に景気が回復した。
●この経済の発展は沿海の大都市を膨張させ、そこに近代的な都市文化を生み出した。特に上海の人口は、1910年に129万人、1930年に314万人、1937年には385万人に達した。そして新聞雑誌、ラジオなどのマスメディアが発達し、上海の2大紙「申報」「新聞報」などが上海の地方紙から、華中一帯を地盤とするほどの全国紙に発展した。またラジオ放送も1934年には30局以上が放送を行い、ニュース・音楽・演劇等を終日放送していた。また映画館も数多く設立され、その頃の流行歌「何日君再來」も当時の上海映画界のスターの周璇が歌ったものであった。また中華人民共和国の国歌に採用された「義勇軍行進曲」(聶耳作曲)も、30年代の上海映画の挿入歌であった。 下に、YouTubeに数多くある内の一つにリンクしてみた。抗日救国、民族解放の象徴的な歌で、敵は侵略してきた日本である(現代の日本人は知らないかもしれないが)。 *リンクします「中華人民共和国 国歌(義勇軍進行曲)」
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日本軍は北京市内盧溝橋にて中国軍に攻撃を仕掛ける。日本軍は中国と全面戦争を開始する。近衛内閣は当初事件の不拡大を求めたが、陸軍は戦闘拡大に向かった。その近衛内閣はすぐに戦闘拡大を追認し強硬姿勢に転じた。
1937年 9月23日第2次国共合作が成立。中国は徹底抗戦を表明する。
●1939年9月1日、第2次世界大戦勃発。ドイツ軍ポーランドに武力侵攻し、全土を席巻する。
日中全面戦争1937年~ | ||
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1937年7月7日、盧溝橋事件・日本、中国侵攻を開始。日中全面戦争勃発
●蔣介石は、日本の全面侵略の意図を認め、7月17日国民に対して、 「・・戦争が開始されればいかなる犠牲を払ってでも、最後まで戦い抜く」
と不退転の決意を表明した。こうして日中は全面戦争となる。 |
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1937年8月13日第2次上海事変
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1937年国民革命軍第八路軍
●国民政府軍と共産党軍は、その軍隊の編制を改め、労農紅軍を、朱徳を総司令官、彭徳懐を副司令に「国民革命軍第八路軍」へ改編した。また華南8省で活動していた紅軍各部隊は統合され「国民革命軍新編第4軍」に改編された。1937年9月、八路軍は平型関の戦いで初めて日本軍に勝ち、中国国民に大きな希望を与えたといわれる。(1947年八路軍は人民解放軍と改称した。) |
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1937年 9月23日第2次国共合作の成立
●国民政府が、4月15日に中国共産党から示されていた国共合作宣言を受諾する。第2次国共合作の成立。 |
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1937年11月20日重慶に移動
●国民政府が、政府機関を重慶などの奥地へ移す。 |
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1937年12月13日南京大虐殺
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(引用:東京裁判判決文)
『この戦争は膺懲(ようちょう=征伐して懲らしめること)戦であり、中国の人民が日本民族の優越性と指導的地位を認めること、日本と協力することを拒否したから、これを懲らしめるために戦われているものであると日本の軍首脳者は考えた。』 |
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重要語(世界の動き1930年代中期)
●1936年1月15日日本、日本全権が、ロンドン海軍軍縮会議からの脱退を通告する。 ●1936年2月26日、日本で2・26事件起こる。陸軍の皇道派青年将校らが首相官邸などを襲撃し、内大臣・大蔵大臣・教育総監などを殺害したクーデター。 ●1936年7月スペイン、軍部が反革命クーデターを決行、スペイン内乱が始まる。フランコ将軍クーデター失敗に終わる。 ●1937年スペイン、バスク地方の古都ゲルニカをドイツ空軍(イタリア軍も参加)が爆撃した。世界中からこの破壊と殺戮に対して、非難の声があがった。(ピカソはゲルニカを描いた) ●1937年6月ソヴィエト、スターリンが大粛正を行い、8人の赤軍最高首脳を処刑する。その罪状は、軍律違反・反逆罪・スパイ行為などであった。 ●1938年3月ドイツがオーストリアを併合する。ヒトラー「大ドイツ」を実現する。 |
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1938年1月国民政府を相手とせず
●日本、近衛文麿内閣が南京占領後「爾後(じご)国民政府を相手とせず。帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立を期待する」と第一次近衛声明を発表し、対中国戦争に本格的に乗り出した。 |
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1938年3月28中華民国維新政府が成立
●日本占領下の南京に、日本の傀儡政権である中華民国維新政府が成立する。 |
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1938年 5月26日毛沢東・持久戦論
●毛沢東が延安の抗日戦争研究会で、抗日戦争は持久戦であり、最後の勝利は中国のものであるという講演(持久戦論)を行う。 |
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1938年11月3日、日本・第2次近衛声明を発表
●近衛文麿首相が中国政策に関する声明(第2次近衛声明)を発表した。そのなかで「国民政府といえども新秩序の建設に来たり参ずるにおいては、あえてこれを拒否するものに非ず」と述べ、前回の「爾後(じご)国民政府を相手とせず」の発言を修正した。(これは国民政府を分断させる工作《汪兆銘を利用する》のためだった。)その声明を肉付けした『日支新関係調整方針』の骨子は以下のようである。(出典:古川万太郎著「近代史 日本とアジア」婦人之友社2002年刊)
1・帝国の冀(き=希)求する所は、東亜永遠の安定を確保すべき新秩序建設に存り、今次征戦究極の目的亦(また)此に存す。
2・新秩序の建設は日満支3国相携え、政治、経済、文化等各般にわたり互助連環の関係を樹立するを以て根幹とし、東亜に於ける国際正義の確立・・・・経済結合の実現を期するに存り。 3・帝国が支那に望むところは、この東亜新秩序建設の任務を分担せんことに存り。帝国は支那国民が我真意を理解し、帝国の協力に応えんことを期待す。 ●この近衛文麿首相は、日本にとって1番重要な1930年代に、戦争を黙認した名門公家政治家の代表であろう。ともあれ日本は、中国との全面戦争のなかで、戦争の長期化の恐れとアメリカからの輸入(石油・鉄は40%以上を依存)禁止処置の恐れなどから、中国との早期な和平を模索していた。参謀本部によるドイツ駐中国大使を仲介とする「トラウトマン工作」などである。また後に国民党の有力者である汪兆銘を離反させ、日本と和平を結ばせようとしたことなどである。しかし日本の和平の条件は、中国が絶対認めない「満州国」の承認や、華北と華南の中間に非武装地帯を設ける要求など、中国を侮蔑するもので交渉が成功するはずもなかった。 |
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1938年12月「援蔣ルート」が完成
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1939年5月~8月、国境紛争「ノモンハン」事件へ発展
●いままで満州国とソ連国境付近では国境紛争が、1937年に113回、1938年には166回起きていた。それまでは決着は外交交渉で終結していた。ところが1937年4月に新たに関東軍辻政信参謀により 「満ソ国境紛争処理要綱」が示され、その内容は次のようであった。 ソ連軍(外蒙古軍含む)の不法行為に対しては、徹底的に膺懲(ようちょう=征伐してこらしめる)し、初動において封殺破摧(はさい=粉々に打ちくだくこと)せよ
●1939年5月11日、ついに関東軍・満州国軍とソ連軍・モンゴル軍の衝突が起こった。関東軍は15日、ソ連・モンゴル軍に総攻撃を仕掛けたが、圧倒的な火力の前に第23師団捜索隊は全滅。31日、第1次戦闘は終了した。 日本側の戦死者は1万8千人に達した。その敗北の原因はソ連軍との圧倒的な戦力の差にあったが、それ以前に関東軍の情勢判断の甘さがあった。また近代的な装備火力を持つソ連軍に対して、関東軍は白兵突入主義を続行し兵の犠牲をさらに大きくした。そして大敗を喫したノモンハン事件では、多くの将校が戦線離脱などの責任を追及されて、自決させられたり、また予備役に編入させられたりした。さらに、大敗の真相は国民の耳目からは隠された。=出典:昭和2万日の全記録講談社1989年刊=)
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重要語(世界の動き1930年代後半)
●1939年3月ドイツ軍が首都プラハに無血入城する。チェコスロバキア共和国解体する。 ●1939年4月、スペイン内乱が終結し、フランコ反乱軍司令官が終結を宣言する。スペインはドイツ・イタリアの援助を受け軍事独裁政権となっていく。 ●1939年8月、ドイツとソ連が独ソ不可侵条約を締結する。(日本平沼騏一郎内閣はこれに衝撃を受け「欧州の天地は複雑怪奇」と声明し総辞職した。) ●1939年9月1日、第2次世界大戦勃発。ドイツ軍ポーランドに武力侵攻し、全土を席巻する。9月27日にはワルシャワが陥落する。そしてソ連もポーランドに侵攻し(独ソ不可侵条約の秘密議定書にもとづく)、ポーランドはまたも分割され国家が消失した。 ●1939年9月3日、イギリス・フランスはドイツに宣戦布告を行ったが、アメリカルーズベルト大統領は、9月4日、欧州戦争不介入を宣言した。 ●1939年11月アメリカは、ドイツと交戦するイギリス・フランスに武器の供給をできるように中立法を改正した。それまでアメリカは孤立主義のため、交戦国に対する武器・戦略物質の輸出を中立法によって禁止していた。 |
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1940年 1月19日毛沢東が新民主主義論を発表、中国革命の方向を示す。
●延安にいた毛沢東はこの日、雑誌「中国文化」に「新民主主義論」を発表した。毛沢東はこの論文で、中国は半植民地・反封建社会の状態にあり、民主主義と社会主義の2つの段階の革命が必要とされるが、当面の民主主義革命(ブルジョワ革命)を担うべきブルジョワが不在であるため、プロレタリアートが指導して民主主義革命を遂行しなければならないと定式化した。これが「新民主主義革命」であり、中国は欧米型ともソ連型とも異なる新しいタイプの国家をめざすことになる。 |
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1940年 3月30日中華民国国民政府樹立
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1940年5月18日日本軍、中国の戦時首都重慶・成都など無差別爆撃を開始
●作戦が終了する 9月5日まで 72回に及ぶ長期連続の空襲が行われ、重慶の市街地・工場地帯のへの爆撃は、5月26日以来攻撃日数32日に達した。とりわけ、6月24日から29日までの6日間は、陸海軍合同で昼夜わたる記録的な連続爆撃が行われた。この日本軍の爆撃は、1937年4月、ドイツ軍がスペインのゲルニカを爆撃した以上の被害をもたらした。しかし中国の交戦意志は、逆に強まった。 |
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1940年8月20日百団大戦
●共産党指導下の八路軍が、華北駐屯の日本軍に 115個連隊で総攻撃を開始する(百団大戦)。国民革命軍の八路軍(共産党)が、初めて行った日本軍に対する大規模な攻勢であった。 |
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重要語(世界の動き1940年)
●1940年4月、ドイツ軍北へ侵略開始。デンマーク、ノルウェーを占領。 ●1940年5月、ドイツ軍ベルギー、オランダ、ルクセンブルクへ侵攻、オランダ、ベルギーが降伏する。6月22日にフランスはドイツと休戦協定を結ぶ。 ●1940年5月イギリス、ウィンストン・チャーチル挙国一致内閣を組織する。ドイツとの総力戦に向かう。 ●1940年6月イタリア、ムッソリーニが、イギリス・フランスに対して宣戦を布告する。 ●1940年6月、ソ連がバルト3国(エストニア、ラトビア、リトアニア)に侵攻、ソ連邦に組み入れる。 ●1940年7月、フランス第3共和政が終わりヴィシー政権が成立(ペタン元帥)。ドイツ軍は 6月14日にパリに入城した。 ●1940年9月、日本軍北部仏印(フランス領インドシナ)へ侵攻する。 ●1940年9月27日ベルリン、日本・ドイツ・イタリアが三国同盟を締結する |
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1941年1月7日皖南事件
●国民党軍が、突如共産党指導下の新四軍を攻撃する。この真相は不明で、共産党側1万人に対して、国民党軍第3戦区の部隊約8万人が突如攻撃を開始したものである。この戦闘は7日間続き、激闘の末新四軍は全滅した。 |
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1941年7月1日中華民国国民政府を承認
●ドイツ、イタリアなど枢軸国8か国がこの国民政府(汪兆銘が主席)を承認した。 |
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1941年8月「大西洋憲章」を発表
●イギリス・チャーチル首相とアメリカのルーズヴェルト大統領が、世界平和確立のために「大西洋憲章」を発表した。「領土不拡大」「民族自決」「貿易の自由と拡大」であり反ファシズムであった。しかし後にチャーチルは、民族自決はインド、ビルマには通用しないと言明した。 |
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12月7日、日本軍ハワイ真珠湾を先制攻撃、日米開戦となる
●1941年10月東条内閣が成立して戦争準備がすすむ。そして12月1日の御前会議でアメリカ、イギリス、オランダとの開戦を決定する。
左写真「真珠湾奇襲攻撃で燃え上がる米艦船」1941年12月7日 撮影者不明 ハワイ・真珠湾
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1941年12月25日日本軍、香港占領
●日本軍が、イギリス軍の拠点である香港を占領した。 |
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重要語(世界の動き1941年代)
●1941年2月、リビア戦線に、「砂漠のキツネ」ロンメルが到着、イタリア軍を救援する。 ●1941年 4月3日、ドイツがバルカン半島のユーゴスラビアの首都ベオグラードを空爆する。4月17日にユーゴスラビアは降伏する。 ●1941年5月ベトナム、インドシナ共産党はホーチミンを盟主にベトナム独立同盟(ベトミン)を結成する。 ●1941年8月、アメリカは日本に対する石油輸出を全面的に禁止する。1940年の日本軍による、フランス領インドシナ侵攻以来、対日経済制裁の声が高まっていた。 ●1941年6月22日、ヒトラーがバルバロッサ作戦を発動する。ソ連に 550万の大軍で侵攻する ●1941年8月、イラン国王レザー・シャーが退位に追い込まれる。イギリスとソ連軍は、イラン南部と北部から進行し圧倒的な軍事力で軍事占領を行った。 ●1941年11月、アメリカは日本に最後通牒を行う。アメリカが「ハル・ノート」を提示した。内容は中国および仏印(フランス領インドシナ)からの日本軍の全面撤退。日・独・伊三国同盟の否認。日本はアメリカとの開戦をここに決意した。 ●1941年12月、モスクワを前に敗退、ドイツ最大の敗北を期す。 |
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1942年4月3日中国共産党、整風運動を大々的に展開する。
●「クロニック世界全史」には次のようにある。 ●この日,延安の中国共産党指導部は22種類の必読文献を指定し,党内教育の徹底をめざす,いわゆる整風運動を開始した。これは学習を通じて,党員ひとりひとりが,「学風」=主観主義,「党風」=セクト主義,「文風」=党八股(内容がなく形式的な文章)的な作風を克服しようというもの。
すでに前年5月,毛沢東は幹部会で,「われわれの学習を改革しよう」と題する報告を行っていた。さらに7月には,毛沢東同志の旗のもと,前進しよう」という論文が出され、毛沢東がマルクス主義を創造的に発展させた,「天才的指導者」であることが指摘されていた。 この整風運動は毛沢東の指導のもとに展開され,運動のなかで毛沢東思想が,唯一の正統な党の指導理論として確立されていく。毛沢東の党内における地位も確固たるものとなり,翌1943年,毛沢東は正式に党主席に就任する。 |
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重要語(世界の動き1942年)
●1942年1月20日ドイツ、ナチスドイツ、ヴァンゼー会議でユダヤ人大量虐殺の「最終解決」を決定。 ●1942年2月アメリカ、西海岸で「ジャップ追放」、日系人に強制退去命令、収容所へ。 ●1942年3月インドネシア、日本軍が、最後の拠点ジャワ島バンドンに入城した。開戦3ヶ月で東南アジアを占領。 ●1942年6月中部太平洋、日本海軍はミッドウエー海戦で大敗北。 ●1942年10月エジプト、ロンメル敗れる。連合国軍北アフリカ戦線で猛反撃を開始する。 |
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1943年1月9日汪兆銘の政府、アメリカ、イギリスに宣戦布告する。
●汪兆銘の南京政府が日本と協定を結んでアメリカ、イギリスに宣戦布告する。 |
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1943年9月13日蔣介石が国民政府の主席に就任
●国民党の蔣介石が、国民政府の主席に就任する。 |
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1943年11月22日、カイロ宣言を発表。
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①3か国の戦争目的は、日本の侵略制止にあり、領土拡張の意図はない。
②日本が第1次大戦以後に奪取・占領した太平洋のすべての島を剥奪する。 ③日本が占領した満州・台湾・澎湖諸島を中国に返還させる。 ④日本が奪取した他のすべての地域から日本を駆逐する。 ⑤朝鮮をやがて独立させる。 ⑥以上の目的のため、日本が無条件降伏するまで戦闘を継続する。などである。 |
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重要語(世界の動き1943年)
●1943年1月、ドイツ軍ソ連スターリングラード攻防戦で敗北する。 ●1943年2月南太平洋、日本軍ガダルカナル島守備隊が撤退する。 ●1943年4月、カチンの森に数千の死体が発見される。ソ連が虐殺したポーランド人将校か? ●1943年4月、ワルシャワ・ゲットーでユダヤ人たちがドイツ軍に決起する。しかし5月に鎮圧される。 ●1943年7月、英米連合軍シチリア島に上陸する。イタリア崩壊へ。 |
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1944年6月6日連合国軍フランス・ノルマンディー上陸作戦を決行
●「史上最大の作戦」といわれた連合国軍によるノルマンディー上陸作戦が午前1時30分に開始された。第1波兵力は15万6000人、投入された艦船約4400隻、航空機は延べ2万5000機にのぼった。総司令官はアメリカのドワイト・アイゼンハワー(54)であった。 |
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1944年7月18日、日本東条英機内閣総辞職する
●7月7日のサイパン島の陥落により、東条内閣倒閣の動きは強まり、2年9か月で東条内閣は総辞職した。そして、戦争継続を建前に、総理大臣に小磯国昭(前朝鮮総督)海軍大臣米内光正(元総理大臣)の連立内閣が発足した。 |
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1945年5月7日ナチス・ドイツ無条件降伏する
●ドイツは、5月7日に西側連合国軍の司令部で無条件降伏文書に調印した。そして5月9日にソ連軍司令部で2度目の降伏文書に調印した。これは、米ソの対立と、東西ドイツ分割を暗示するできごとであった。 |
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1945年8月8日ソ連は日本に宣戦布告し、満州などに侵攻する
●この侵攻は、アメリカ・イギリス・ソ連の1945年2月のヤルタ会談の時の秘密協定の約束ごとであった。ソ連極東軍130万人は、満州、朝鮮、南樺太に侵攻した。日本は、ソ連による和平交渉の仲介を、最後まで期待していたといわれる。 |
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1945年8月14日日本ポツダム宣言受諾を表明
●8月15日正午、日本国天皇が国民に受諾を放送した。 |
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重要語(世界の動き1945年)
●1945年2月、アメリカ・イギリス・ソ連の最高指導者であるルーズベルト・チャーチル・スターリンがヤルタで会談を行った。ドイツ敗北が決定的となり、降伏後のドイツ管理、国際連合の開設などが話し合われた。 ●1945年7月17日~8月2日、ドイツのポツダムで、アメリカ大統領トルーマン(ルーズベルト死去のため)、イギリス首相チャーチル(7/24からアトリ―首相)、ソ連首相スターリンが、ドイツ戦後処理と日本戦後処理について会談し、日本に無条件降伏を促すポツダム宣言を発表した。 |
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1945年8月14日中ソ友好同盟条約
●中国国民政府は、モスクワでソ連と中ソ友好同盟条約を締結する |
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1945年8月18日満州国消滅
●満州皇帝溥儀が退位し、満州国が消滅した。溥儀は日本亡命に失敗しソ連軍に捕らえられ収容所に収監された。そして東京裁判に証人として出廷したあと、ソ連から中華人民共和国へ引き渡され、政治犯収容所に収監された。そして1959年12月に周恩来の働きかけもあって特赦で釈放され、一般市民にもどったといわれる。 |
1945年8月14日、日本はポツダム宣言受諾を表明し連合国に降伏した。アメリカ政府は、国民政府下の安定した統一中国を期待し、懸命な調停を続けたが、1946年7月12日国民党と共産党は内戦に突入した。アメリカはこれ以上中国の内戦に関わることをやめたのだろう。
中華人民共和国成立 |
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1945年10月10日「双十協定」を発表
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1946年1月10日国共内戦停止
●アメリカのマーシャル特使の斡旋で、国民党と共産党は内戦停止に合意した。しかし3月に東北で戦闘が始まる。 |
1946年7月12日全面内戦に突入
●国民党軍(50万人)が、共産党の支配する蘇晥(江蘇省と安徽省)解放区へむけて本格的な攻撃を開始し、国共両党は全面的な内戦に突入した。クロニック世界全史には次のようにある。 一致抗日を掲げてきた国共両軍だったが、日本の降伏直後から各地で衝突が発生。今年1月に停戦協定が結ばれたものの、国民党は共産党勢力の強い東北地区に大軍を送り込むなど対決姿勢を示し、両軍の衝突は時間の問題となっていた。
国民党軍約430万人に対し共産党軍約120万人、装備の上からも圧倒的優位にあった国民党軍は、共産党側の拠点を次々に攻略、翌年3月には本拠地延安も占領する。 しかし、共産党軍は5月に東北で反攻を開始、9月には「総反攻宣言」を発表し、1948年4月に延安を奪回。次々と主要地域を開放して国民党軍を追い詰めていく。 |
中国周辺部と共産党
①チベットのラサ政権は1949年、中国国民党が崩壊した直後から、独立への道を歩もうとした。しかし中国人民共和国の対応は早く、1950年にラサに進駐し、独立の動きを封じた。 |
1947年1月1日新憲法公布
●国民政府が中華民国の新憲法を公布し、12月からの実施を決定する |
1947年 2月28日台湾で反国民政府暴動が発生
●台湾では反国民政府暴動が起き、5000人が死亡する。(2・28事件) |
1948年11月7日国民政府軍が徐州南部で人民解放軍に敗れる
●国民政府軍が、南京防衛の拠点である徐州南部で人民解放軍に敗れる。翌月1日には人民解放軍が徐州を占領し、国民政府は南京追われて広東へ移る。 |
1949年 1月14日和平8条件を提示
●蔣介石の1月1日の和平提案を受けて、共産党の毛沢東主席が和平8条件を提示する。 |
1949年 1月21日国民政府総統を引退
●蔣介石が国民政府総統を引退し、総統代理に李宗仁が就任する。 |
1949年 4月21日国共和平会議が決裂
●国共和平会議が決裂し、この日、人民解放軍全軍が進撃を開始する。 |
1949年 10月1日中華人民共和国の成立
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「中華人民共和国・建国宣言」毛沢東
1949年 10月1日中国、毛沢東、天安門広場で建国宣言を行う。ユーチューブの「Mao declares the Peoples’ Republic of China」から最初の部分を紹介する。(下段でリンク)(自分のような一般の日本人からみると、動画の中でわかるのは、毛沢東、横を歩く朱徳、劉少奇、宋 慶齢《孫文の未亡人》、周恩来ぐらいか。調べると、李 済深《国民党革命委員会主席》、張瀾《民主同盟主席》、高 崗《東北人民政府主席》も壇上並ぶとある。) *リンクしますYouTubeから「Mao declares the Peoples’ Republic of China」
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1949年12月 7日国民政府台湾へ
●中国国民政府が首都を台湾の台北に移す。 |
共産党は何故権力を掌握できたのか
●ここで最後に、「新版世界各国史3 中国史」山川出版社2008年1版6刷刊より、「共産党は何故権力を掌握できたのか」の部分を抜粋してみる。
49年革命でなぜ共産党は権力を掌握できたのか。その疑問にたいするひとつの回答は、国民政府の統治が崩壊したため、ということであり、もうひとつの回答は共産党が権力を掌握する力を獲得したつぎのような事情に求められねばならない。
まず第一に、農村で土地革命を推進したことである。日本軍に協力していた大地主の土地を没収し貧農層に配分する政策は、土地をえた農民の共産党にたいする支持を強め、兵士の確保を容易にした。ただし中小地主の土地まで没収するなどの急進的な改革で農民の支持を失った時期もあり、農業生産を増加させるためのきめ細かな政策が展開されていたわけでもない。この時期の土地革命の意義をあまり過大に評価することはできない。 第二に、戦後の早い時期から東北地区で軍事的優位を獲得することに的をしぼり、ソ連側のさまざまな援助も受けながら、強大な正規軍部隊を編成したことである。その結果、従来のような貧弱な装備でゲリラ戦中心に闘うだけでは歯が立たなかった国民政府軍とのあいだでも、正面から陣地戦を挑み勝利することが可能になった。 そして第三のもっとも重要な要因は、「連合政府」の呼びかけが端的に示すとおり、共産党単独で社会主義政権樹立をめざす道を避け、国民政府への批判を強めていたさまざまな政治勢力を総結集するのに成功したことである。共産党が提起した内戦反対の運動、米軍兵士の女子学生暴行事件を契機とした反米運動、「反飢餓運動」と呼ばれた生活難打開のための運動などには、都市の多くの学生・知識人たちが呼応した。国民政府の経済運営に失望した商工業者のなかにも、当分のあいだは資本主義の枠内での経済復興をめざすという共産党が掲げる政策に期待をよせる人々がふえていた。国民党でも共産党でもない良識派を結集していた政治団体、中国民主同盟のなかでも共産党に共感をいだく部分が増大しつつあった。こうした政治情勢の展開を受け、国民政府軍のなかには共産党側に内応する動きが広がった。 49年革命によって権力の座に就いた共産党は、朝鮮戦争の勃発と冷戦の激化という厳しい客観情勢に直面しながら、以上に述べたような都市と農村の民衆のさまざまな期待に応えなければならなかった。それがどの程度まではたされたのかが、今、改めて問われ始めている。 |