2023年4月16日日本・中国・朝鮮
※①のマーカの所に清の太祖ヌルハチの陵墓がある。中華人民共和国瀋陽市(=沈阳市)の東陵公園。②は太和殿。③は円明園。マーカーをクリックするとGoogle Map上の写真などを閲覧できる。
19世紀清国は、アヘン戦争、アロー号事件、清仏戦争、日清戦争、義和団事件で次々と敗北する。
1616年ヌルハチは中国東北地方の女真族(満州族)を統一して「後金」を建国した。明にとってこの勢力は脅威となり、明は1619年に討伐軍を送ったが、サルフ(撫順の東)の戦いで大敗する。1636年ヌルハチの第8子のホンタイジが新たに皇帝に即位し国号を「清」と改称した(首都は瀋陽)。ホンタイジは1634年内モンゴルに侵攻して、チャハル部全域を支配し、元朝の玉璽を手に入れていた。清国の誕生である。
1644年明朝が滅びる 6-1
●1644年、明朝最後の皇帝崇禎帝は、李自成(農民軍)によって北京城が侵攻されると、紫禁城北の景山で自害し、明朝は滅びた。その後李自成軍を追って北京に入城した清軍は、ホンタイジの子の順治帝(5歳)を皇帝とし、執政ドルゴンのもとで中国の支配を開始した。李自成は紫禁城に火を放って西安に逃れ、その後殺されたといわれる。その後清国は18世紀にかけて繁栄の絶頂を迎える。

清朝時代 |
初期の清朝時代の地図
●最初に日本の教科書の清朝時代の中国の地図をみてみる。この地図は初期の清朝時代の地図で1937年の日本の教科書の地図である。
●特に満州(現中国東北部)の松花江や万里の長城が入り組んだ部分は見ておかねばならない地域である。
●漢字の記入は右書きで、赤字は各省名を示している。この地図で表示されていないのが「蘇州」「南京=江寧」「江蘇・省」である。「蘇州」は上海の西にあり、「江寧」とあるのが「南京」のことである。江蘇省は「江寧」の「江」と「蘇州」の「蘇」を取って「江蘇」省となった。
●地図の西方の赤枠はズンガル部(ジュンガル)で、最後の遊牧民帝国といわれ、18世紀に清の乾隆帝によって滅ぼされた。)
●「清初アジア図」(出典:1932年三省堂発行の「実業教科 東洋歴史」)
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清王朝の象徴「北京・紫禁城・太和殿」

●次に、中国の歴史の最後の王朝となった清の象徴である紫禁城の写真から見てみよう。
●左の写真は、中国「紫禁城の太和殿」。ここは大典(皇帝の即位など重要な儀式)の中心となったところで、宮中最大の建築である。殿高は35.05メートル、殿内面積は2377平方メートルで、およそ3万平方メートルあまりの敷地の中、彫刻で飾られた高さ8メートルの3層の大理石基壇のうえに建てられている。
「紫禁城の太和殿」(出典:「故宮博物院展 紫禁城の宮廷藝術」図録 西武美術館/朝日新聞社1985年 刊
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●左図は光緒大婚図冊の「冊立奉迎図」の一部で、「奉迎礼の式典挙行」、「双喜の飾り文字をはじめ数々の飾りつけがされた太和殿前における、奉迎礼の式典挙行の場面」
(出典:「故宮博物院展 紫禁城の宮廷藝術」図録 西武美術館/朝日新聞社1985年 刊 |
写真は、「太和殿内景」と「太和殿内宝座」(出典:「故宮博物院展 紫禁城の宮廷藝術」図録 西武美術館/朝日新聞社1985年 刊
●「殿内には7層の壇上透し彫り金漆塗りの宝座と衝立てがおかれ、宝座の前には香卓、宝象、ろく獣、香筒、香炉などの荘厳用調度が設置されている。宝座をとりまく6本の巨柱は、金柱とよばれる雲龍文の柱で、殿内を飾る彩画はすべて龍と幾何文である。整然とした大殿は金色もまばゆく堂堂とそびえたち、皇帝の至高の権力と威厳を示している。・・・」とある。
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18~19世紀中華の誇りと繁栄
●中国(清朝)は当時においても、最高の文明とそれを支える物資と技術があると、自負していた。従ってヨーロッパとの貿易は、広州で限定的に行うことで充分であった。ヨーロッパから買いたいものなどなかったからである。中国としては望まれれば朝貢という形で、恩恵を授ければそれで充分であった。中国の当時の考えは次のようであった。
「天朝の産物は豊富であって、これといってないものはなく、時計、羅紗、毛織物など外夷の産物は、中国の必需品ではない。ただ天朝の産する茶、陶磁器、糸などは、西洋各国の必需品であるから、広東において貿易をゆるし、必需品を与えて、天朝の余沢にうるおわしめているのである。貿易は、万国に君臨する中国皇帝が四夷(しい=東夷《とうい》・西戎《せいじゅう》・南蛮《なんばん》・北狄《ほくてき》)を撫育し、一視同仁(いっしどうじん=親疎の差別をせず、すべての人を平等に見て仁愛を施すこと)の恩恵に出るものである」
(出典:『世界の歴史13』中央公論社1961年刊)
●そして中国の皇帝に謁見するときの作法は、屈辱的な「三跪九叩(さんきくこう=3回ひざまずいて、それぞれ3回頭を床にたたきつけること)」を求められた。1816年にイギリス国王に派遣(貿易改善の目的)されたアマーストはこれを拒絶したが、謁見はできなかった。19世紀後半になると清朝の権威は衰え、1873年日本の外務卿副島種臣は、これを拒絶し、3回の最敬礼(立礼)ですまし、日本の国威を示した。
(左図)「三跪九叩」の図、臣下が中国の皇帝に拝謁するときの礼。(出典:『世界の歴史13』中央公論社1961年刊)
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19世紀人口の増加と農民の困窮
●中国の人口は、18世紀から19世紀半ばまでの100年間で2倍以上に増加し、約4億3千万人に達したといわれる。(18世紀末で3億人)耕地も増えず、農業技術の改善もないため、農民の暮らしはより厳しさを増し、貧富の格差は広がり、社会不安は増大していった。 ●1808年(中国)、イギリス海軍は澳門(マカオ)の砲台を占領。ナポレオン戦争による英仏の戦いは中国にも及んだ。同年日本でもイギリス船フェートン号が長崎港に侵入しオランダ船捕獲事件をおこす。 ●1816年8月(中国)、イギリス全権大使アマーストは「三跪九叩」を拒否したため、清朝皇帝嘉慶帝は謁見を拒否する。この中国派遣も東インド会社の要請によるものだったが、結果として東インド会社は中国貿易独占権を失っていく。そしてイギリスは、軍事行使であるアヘン戦争に向かっていく。 |
アヘン、銀の流出、銀の高騰、税の高騰、さらなる貧困と社会不安
●イギリス東インド会社は、インド支配の確立と、中国との片貿易解消のために、インドの特産の「アヘン」を中国に大量に輸出しようと考えた。中国でもアヘンは薬用として用いられていた。しかし17世紀アヘンをタバコのように吸飲する風習が、オランダ支配下の台湾から中国に伝わると、しだいにその害が広がるようになってきた。しかしその量はきわめて少なく、社会問題となることはなかった。それをイギリスは、大量のインド産アヘンを中国に輸出することによって、インド経営とイギリス本国のために、いままで一方的に中国へ流出していた「銀」を、今度はアヘンによって中国の「銀」を獲得することにしたわけである。いつの世も巨額の利益を得るのは、武器と麻薬取引なのだろうか。
●そして中国にとってこの大量のアヘンの輸入(密貿易)は、中国の銀の保有量を減らし、結果として銀の価格を高騰(2倍)させた。そして中国ではこの銀の高騰により、税金(銅を銀に換えて納税していた)が実質2倍にも引き上げられたことと同じになり、税を支払う側の農民の没落・流民化や商人の困窮につながり、同時に税金の滞納も生じ、国家の財政をも逼迫させていった。
(上絵)「アヘン窟」の絵。中国の都市にはこのような陰惨なアヘン窟が数多くあった。常用するとアヘンは麻薬となり、精神も肉体もむしばまれたのである。(出典:『丸善エンサイクロペディア大百科』丸善1995年刊)
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1840年アヘン戦争
●清朝政府は繰り返し、アヘン禁令を出したが、年々その輸入量は増え、しまいには公然と密輸入・密売買が行われるようになっていった。そしてアヘンの流行は、官界や軍隊にまで蔓延して、社会の腐敗・堕落は一層激しいものになっていった。こうしたなか、清朝政府は「厳禁論」をもってアヘン密貿易の根絶にあたるため、林則徐を欽差大臣として広東に派遣した。この厳禁論は「アヘン吸飲者の刑罰を、死刑をもって臨む」もので、それによりアヘンの密輸入の道も根絶するのが目的であった。
●林則徐は強硬手段をとり、外国商人の持っているアヘンを没収し焼却した。そして今後アヘンの取り扱いをしないという誓約書を書かせた。ポルトガル商人とアメリカの商人はこの誓約書を提出したが、イギリス商人は応じなかった。イギリスはこれを機に、中国との貿易自由化と開港を、軍事力で一気に解決しようとした。これがアヘン戦争であった。イギリス議会でも後に自由党を率いたグラッドストーンは、政府の出兵に強く反対したが、少数の差で出兵が可決された。
●こうして1840年、全権使節エリオット率いる、軍艦16隻、輸送船27隻、陸軍4千が各地を攻め北京に迫った。清朝政府はあわてて香港島を割譲することで妥結を試みたが、イギリス艦隊が去ると清朝政府は再び強硬姿勢をとるようになった。そこでイギリスは、1842年全権使節をかえ陣容を新たにし、軍艦25隻、汽船14隻、病院船、測量船など9隻、陸兵1万人という大艦隊で北上し、上海を占領し、揚子江をさかのぼり、南京城に向かった。
●清朝政府はたまらず南京条約を結んで、アヘン戦争を終結させた。
上絵「アヘン戦争」。1841年1月、中国の武装ジャンク(木造帆船)がイギリス軍艦に攻撃され炎上しているところ。中国が装備していた火力は旧式で、最新イギリス戦艦メネシス号の敵ではなかった。(出典:『丸善エンサイクロペディア大百科』丸善1995年刊)
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1842年8/29南京条約締結。(不平等条約である)
●南京条約の概要は以下のとおりである。
1・香港をイギリスに割譲すること。
2・軍費、アヘン賠償金、行商(ホン・マーチャント、公行)の債務金として合計2100万ドルを支払うこと。
3・広東(カントン)のほか、厦門(アモイ)、福州、寧波(ニンポー)、上海(シャンハイ)を開くこと。
4・5港において、イギリス商人は、自由に安全に居住し、商業に従事しうること。
5・行商(ホン・マーチャント、公行)の外国貿易独占を廃止すること。
6・両国相応の官吏は、対等の交際をすること。
(出典:『世界の歴史13』中央公論社1961年刊)
●しかし清朝政府にとっては、この5港の開港や、香港島割譲さえも、単に羈縻(きび)政策とか懐柔政策とかいった敵(イギリス)を手なずける手段の一つにすぎなかった。乱暴者に欲しいものをやって退散してもらおう、というものだった。だから条約締結後も、イギリスの対中貿易が増えるわけでもなかった。
●イギリスはこの貿易不振を中国の条約不履行にあると考えて、地方長官である両広総督(広東・広西省の長官)を責めたがらちがあかず、清朝の中央政府に直接打撃を加えようと試みた。 |
1850年11月~1864年太平天国の乱
●洪秀全率いる貧農・手工業者が広西で蜂起し、太平天国の乱が始まる。洪秀全はキリスト教(アメリカのプロテスタント)を信仰し、自らを「天王」と名のり、清朝打倒と太平天国を立て、地上にキリスト教による神の国を建設することをめざした。この新宗教は、天父上主皇上帝を創造主とする唯一神教で、偶像崇拝をやめ、生きて小天堂に遊び、死して大天堂に昇ることができると説いた。この天堂というのが天国であるという。この太平天国が理想としたのは、共産主義社会であるといわれ、私有財産を認めず、必要な品物は平等に分配され、貧富の差は無いとされる。
左「旧約聖書」(出典:『世界の歴史13』中央公論社1961年刊)右「地図」1932年三省堂発行の「実業教科 東洋歴史」
そして、1932年三省堂発行の「実業教科 東洋歴史」には次のように書かれている。
『キリスト教を奉じ、神を天父と称し、キリストはその長子で、自身は次子であると唱え、婦人の纏足(てんそく)および人身売買などを厳禁し、また檄文を四方に伝えて漢人の奮起を促し、胡服(中国北方の民族の胡人の着る衣服)・辮髪(べんぱつ)を禁じ、明代の服装にかえった。清朝では洪秀全を以て逆賊と称したが、今の中華民国人の中にはかえってこれを義人と見なし革命の先駆者として称賛するものが多い。』
●洪秀全は1853年には南京を占領し、太平天国の都「天京」と定めた。その頃の徒党は、男180万人・女30万と伝えられる。この太平天国は、清朝の弁髪を拒否したことで、「長髪賊の乱」ともいわれる。この弁髪は、1645年に、清が薙髪令(ちはつれい)を発し、満州人の頭髪の結い方である弁髪を、中国全土の全男子に強制し、敵か味方(帰順)の識別を行い、清朝への忠誠のあかしのため、違反者には死刑の厳罰をもってのぞんだものである。
「辮髪」(出典:『世界の歴史9』中央公論社1961年刊)
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1856~1860年アロー号事件・天津条約・北京条約締結(1860年)
●日本では、1853年7月、アメリカのペリーが東インド艦隊を率いて浦賀に来航し、江戸幕府が崩壊するきっかけになった。長州藩士高杉晋作は、1862年藩命で、幕府使節随行員として中国の上海へ渡航し、清の列強による分割や混乱を見たことで、日本の尊皇攘夷と後の倒幕運動に確信を持ったといわれる。
●インドでは1857年5月、インド大反乱が起きた。これによりインド統治が東インド会社からイギリス本国による統治に変わる契機となった大反乱であった。
●アメリカでは1861年4月、ついに南北戦争が勃発する。4年に及ぶ内乱の始まりである。
●1856年、「アロー号事件(海賊船の容疑で中国人乗組員が逮捕された事件)」と「フランス人神父が逮捕・投獄・殺害された事件」が起こった。これを理由に1857年末から、イギリスとフランスは共同して出兵し、広東の攻撃を開始した。そしてアメリカとロシアを加えて天津に達した。1858年、ここに清朝政府は、4カ国と和議を講じ個別に天津(てんしん)条約を結んだ。さらに1860年英仏連合軍は、前年におきた北京入城阻止事件にからんで出兵し、天津をうばい北京西郊の離宮「円明園」を掠奪・放火し破壊した。
●そして英仏連合軍は北京に入城し、天津条約の批准書を交換し、追加条約ともいえる「北京条約」を締結させた。そのおもな条項は以下のようである。
1・香港対岸の九龍をイギリスに割譲すること。
2・イギリス、フランスに対する賠償金を、それぞれ800万両(テール=1両は約1ドル40セント)に増額すること。
3・天津を開港すること。
4・外交官を北京に常駐させるか、または随時北京にくるようにさせること。
5・カトリック教会は随意に土地の租借、購買し、家屋を建築しうること。
(出典:『世界の歴史13』中央公論社1961年刊)

●1898年九龍半島の大部分と付属諸島からなる新界が租借地となった。香港・九龍等をイギリスが返還したのは、1997年のことである。
(地図・香港島付近)(出典:「写真記録日中戦争1・15年戦争の道」ほるぷ出版1995年刊)
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清朝系図と皇帝像
●清朝最後の皇帝溥儀は、後に日本によって満州国皇帝に擁立される。

(上左写真・同治皇帝像) (上右写真・光緒皇帝像)(出典:「故宮博物院展 紫禁城の宮廷藝術」図録 西武美術館/朝日新聞社1985年 刊
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世界を圧倒するヨーロッパ文明(19世紀の発見・発明・開発・制度など) 6-2
ヨーロッパ文明(思想や制度、科学技術)は、圧倒的な勢いで東洋世界のみならず全世界を支配していった。東洋世界が近代化をめざした理由は、下記の19世紀のヨーロッパの科学的発明・発見などをみればよく理解できる。それはまさに驚異的であり圧倒的であった。

19世紀の発見・発明・開発・制度など
●1800年、イギリスのジェームズ・ワットの蒸気機関の特許が切れると(1769年ワットは新方式の蒸気機関を開発していた。)、高圧蒸気機関の開発が成功し、蒸気船、蒸気機関車がなどが急速に世界中に普及していった。そして石炭が、石油に代わる20世紀初頭まで、最重要の燃料となった。
●1800年(イタリア)、物理学者ヴォルタが電池を発明した。電圧のボルトは彼の名に由来する。
●1803年8月(フランス・セーヌ川)、アメリカ人フルトンが蒸気船の航行実験に成功する。
●1819年6月(イギリス)、アメリカ外輪蒸気船(サヴァンナ号)が、27日と11時間で大西洋横断に成功。
●1830年9月(イギリス)、蒸気機関車鉄道がマンチェスターとリヴァプール間で開通、交通革命が到来する。前年スティーヴンソン親子が蒸気機関車コンテストで優勝した「ロケット号」を改良したもの。
●1831年(イギリス)、物理学者ファラデーが、電磁流発電機を使って電流発生に成功し、現在の発電機の基礎をつくる。
●1833年(ロンドン)、イギリス王立研究所のファラデー教授が電磁誘導の法則に続き、電気分解の法則を発見。
●1837年9月(アメリカ)、アメリカ人モースがモールス符号を開発、電信の実用化に道を開く。
●1836年(イギリス)、イギリス海軍測量船ビーグル号は博物学者ダ―ウインを乗せて南半球を周航する。ダ―ウインは「進化論」の基礎を作る。
●1838年4月(ニューヨーク)、スクリュー推進によるイギリス蒸気船(グレート・ウエスタン号)が、15日間で大西洋横断に成功。定期旅客運送の開始。
●1839年(パリ)、写真(ダゲレオタイプ=銀板写真)が誕生。しかし翌年イギリス人・タルボットが感光紙にネガを定着させ焼き増しが可能な「カロタイプ」を発明した。
●1840年(イギリス)、世界最初の切手発行。料金前納と全国均一制の近代郵便制度が開始される。
●1841年(ロンドン)、イギリスの作家メーヒューとレモンが、風刺漫画雑誌「パンチ」を創刊する。近代的メディアの誕生である。
●1843年(フランス)、新聞連載小説が流行し、文学の大衆化が進み商業文学の誕生となった。
●1840年代(パリ)、ガス灯が公共照明として普及し、1850年代には半数の街路に設置された。
●1850年5月(ドーヴァー海峡)、海底ケーブルの敷設作業が完了し、世界経済の中心地であったロンドンとパリが電信システムでつながった。1866年には大西洋にも敷設され、海底ケーブルは世界中に張り巡らされていった。
●1851年5月(ロンドン)、第1回万国博覧会がロンドンで開幕する。水晶宮とよばれたガラス張りの殿堂が人気を集めた。イギリス産業革命の象徴であった。

●1850年(アメリカ)、ボストンのシンガーが実用ミシンの開発に成功した。ミシンは1830年代にフランスで考案されたが、その後アメリカで改良・開発が進められていた。
●1851年(アメリカ)、ニューヨーク・タイムズ創刊。「世界各地のニュースを盛り込み、大衆の生活に即した新聞」をモットーとする。
●1852年(パリ)、世界初のデパート「ボン・マルシェ」がオープン。小売り販売の大革命。
●1855年(パリ)、第2回パリ万国博覧会開催。近代ヨーロッパ文明の科学と技術の進歩を賛美する。パリはその後、1867年、78年、89年、1900年と繰り返し万博が開かれる都市となる。
●1856年(イギリス)、パーキン(化学を専攻する学生)が世界最初の合成染料モーブを合成する。
●1856年(イギリス)、発明家ベッセマーが新しい製鋼法を発見し、鉄鋼の大量生産が可能となる。
●1858年(ヨーロッパ)、自然科学の主流(免疫、病原菌、細胞分裂、生物学)がフランスからドイツへ移っていく。パスツール(免疫学・フランス)、フィルヒョー(細胞病理学・ドイツ)など顕微鏡世界で大きな発見。
●1859年(アメリカ)、石油採掘の先駆者ドレークが、世界初の機械掘りによる原油掘削に成功する。油田開発が広まっていく。
●1863年(イギリス)、近代都市の交通革命、世界最初の地下鉄がロンドンを走る。
●1864年(インド)、イギリスはイランを横断してインド・カルカッタとロンドンを結ぶ電信線を敷設した(ロイターの協力)。電信の増大により1851年にロイター通信社が設立され、内外の通信を供給するようになっていった。
●1865年(チェコ)、アウグスチノ修道会の司祭メンデルが、えんどうを使い「メンデルの法則(遺伝)」を発見する。
●1866年(大西洋)、大西洋電信会社は、ついにアメリカとヨーロッパを結ぶ大西洋海底ケーブルを敷設した。1858年に敷設作業が始められたが、アメリカ南北戦争のため大幅に遅れていた。
●1866年(スウェーデン)、アルフレッド・ノーベルが、高性能爆薬(ダイナマイト)の製造に成功する。爆発しやすいニトログリセリンを珪藻土と混合することにより、発火装置がなければ爆発しない固形爆薬を製造した。
●1867年(ドイツ)、ジーメンスは電磁石の磁気作用(イギリスのファラデーの発見した電磁誘導を利用)から電気を取り出すことに成功。電力技術の基礎を築いた。
●1869年(アメリカ)、初の大陸横断鉄道完成。全長約2860kmである。セントラル・パシフィック鉄道は中国人労働者を、ユニオン・パシフィック鉄道はアイルランド人労働者使い、カリフォルニア・サクラメントとネブラスカ・オマハのそれぞれを起点に工事を進め、ユタ州で結ばれた。
●1869年11月(エジプト)、スエズ運河完成する。全長162.5km、幅22m、深さ8mで1859年4月に着工したものである。この建設工事では、12万の労働者の人命が失われたという。
●1870年(アジア)、デンマークの大北電信会社が、アジア初のボンベイ-シンガポール-上海の間に海底ケーブルを敷設する。翌年には同じ大北電信会社が、長崎-ウラジオストク間と、長崎-上海間に敷設された。世界的な規模で通信網が張り巡らされていった。
●1871年(イギリス)、フットボール協会は、サッカーのルールを決定し、近代サッカーが始まり、世界への普及がすすむ。
●1872年(アメリカ)イギリス人写真家マイブリッジは、駆ける馬の連続撮影に成功、大きな反響をよび映画を生むきっかけとなる。
●1874年(アメリカ)、レミントン父子商会(南北戦争時代の兵器生産で有名)のレミントンが、タイプライターの実用化と大量生産を行う。タイプライターの起源は、1714年イギリスのヘンリ・ミルが考案した筆記機械とされる。
●1876年2月(アメリカ)、ボストン大学のアレグザンダー・グラハム・ベルが電話を発明した。ベルは、シカゴのエリシャ・グレー(2時間遅れで同じような電話機の特許申請を提出)と、特許権争いとなったがベルが勝訴して、電話の発明者の名を後世に残した。
●1876年(ドイツ)、技術者オットーが、石炭ガスを使用するガス機関で4サイクル式のオットーサイクルを実現する。これにより石油成分を使用する内燃機関(エンジン)が実用化されていく。
●1877年11月(アメリカ)、発明王トーマス・エジソンは、レコードと蓄音機装置の設計に成功した。手動式ハンドルで回転させたレコードは、ロウ製の円筒だった。エジソンは、炭素送話機、炭素フィラメント(京都産竹)使用の白熱電球、活動写真、謄写版など1300件以上の特許を取得している。
●1879年(ドイツ)、電気工学者ジーメンスのジーメンス社が、世界初の電車をベルリン貿易博覧会で発表する。
●1879年(フランス)、昆虫学者ファーブル「昆虫記」第1巻を出版する。しかしファーブルは、ダーウインの進化論に批判的だったので、ヨーロッパではしだいに忘れられていった。
●1882年(アメリカ)、ジョン・ロックフェラー、石油業界の頂点に立つ。約40の石油精製業者およびパイプライン会社とトラスト契約(企業の独占形態の一つ)を結び、スタンダード・オイル・トラストを形成し、アメリカの石油精製能力の80%とパイプラインのほとんどを支配下に置いて、石油業界の頂点に立った。しかし、1892年反トラスト法違反により、解散を命じられるが7年後、持ち株会社を組織し別会社を設立した。しかし1911年アメリカ連邦最高裁は、この持ち株会社による独占も反トラスト法違反と判決を下し、スタンダード・オイルは33社に分割される。その後、中心となるエクソン社は石油メジャーとして業界に君臨する多国籍企業となっていく。
●1882年(ドイツ)、細菌学者コッホが、結核の細菌感染説を発表。結核は「白いペスト」と恐れられていた業病だったが、コッホの緻密な努力で原因が確定した。
●1883年(パリ)、オリエント急行営業開始(記念列車で黒海は汽船で渡った)。翌年パリ-イスタンブル間3186kmが開通した。
●1884年(イギリス)、ロンドン郊外のグリニジ天文台が、本初子午線(経度0度)に指定される。これによりグリニジ天文台が時刻と経度の基準となる。
●1884年(イギリス)、蒸気タービンの創始者パーソンズが、反動式蒸気タービンの特許を得る。(蒸気タービンとは火力発電や原子力発電に使われているものである)
●1884年(イギリス)、アメリカ人の発明家マキシムが、本格的な機関銃を開発した。これは、銃弾の発射による反動を利用し、自動装填と発射を可能にした連発銃である。それ以前は、アメリカのガトリングが発明した、銃身を6本重ねて回転させるガトリング銃方式であった。一方このマキシム銃は、引き金を引いているあいだは弾丸が自動的に連続発射できるもので、近代的な機関銃の登場であった。1899年の南アフリカの第2次ボーア戦争で威力を発揮し、その後世界中に普及した。
●1885年(ドイツ)、ドイツ南部のシュトゥットガルトの技師ダイムラーは、世界初のガソリンエンジンを動力とする2輪車を完成した。また同じ頃、マンハイムの技師のベンツも、世界初の4サイクル1気筒のガソリンエンジンを搭載した3輪車を制作した。やがて自動車はこの時代の文明の象徴となっていく。1926年にこの両者の自動車工場は合併し、世界的な自動車メーカーであるダイムラー・ベンツ社が誕生した。(現在はダイムラー社であり、メルセデス・ベンツはブランド名である。)
●1886年(アメリカ・フランス)、アルミニウム電解製造法、チャールズ・マーティン・ホール(アメリカ)とポール・エルー(フランス)が同時に発明した。2人はアメリカとフランスで特許を取得し、大規模な工業化が図られていく。
●1887年(アメリカ)、物理学者アルバート・マイケルソンとエドワード・モーリーは共同実験により光の速度の測定実験に成功する。これにより彼らはエーテルの存在を否定し、自然科学界に衝撃を与えた。「科学史上で最重要の定説の否定」と賞賛された。
●1888年(アイルランド)、イギリスの獣医ダンロップが空気入りタイヤを考案し、世界的タイヤ会社を設立する。
●1888年(アメリカ)、アトランタで製薬業を営んでいたアサ・キャンドラーは、ジョン・ペンバートンが発明したコーラ飲料の権利を取得し、手を加えて清涼飲料水として売り出し大成功した。これがコカ・コーラである。最初ペンバートンは「頭痛に効く飲み物」として薬局で販売したとある。
●1889年3月(フランス)、パリにエッフェル塔が完成した。パリ万博のシンボルとして人気を集めた。
●1891年(ドイツ)、ライト兄弟の先駆者リリエンタール、自作のグライダーの飛行実験に成功する。
●1893年(ドイツ)、機械技術者ディーゼルが、軽油や重油を使うディーゼルエンジンを発明した。これはガソリンエンジンとは異なり、高温圧縮空気の中に、重油の霧を噴射して自然爆発するものである。ディーゼルエンジンはまもなく実用化され、蒸気機関に代わって、鉄道や船舶で用いられるようになった。
●1895年(ドイツ)、物理学教授のレントゲンが未知の放射線を発見し、X線と命名した。数か月のうちにX線撮影装置も考案され、骨折の確認、弾丸など異物の場所の確認などが容易にできるようになった。X線により医学の診断技術は飛躍的な進歩をもたらし、「世紀の大発見」と報じられた。
●1896年4月(ギリシャ)、フランスの教育学者クーベルタンが1892年に提唱した近代オリンピック第1回大会が、ギリシャのアテネで1500年の時を経て復活し開催された。
●1898年(フランス)、マリー・キューリーとピエール・キューリー夫妻は、鉱物が出す光線の研究で、新元素ラジウムを発見した。
●1898年(イギリス)、イタリアの発明家マルコーニが、ドーヴァー海峡を隔てて51kmの無線通信に成功する。彼が設立したマルコーニ無線電信社は、イギリス海軍、保険会社ロイズと契約し業務を拡大し、第1次世界大戦時には世界の無線通信をほぼ独占するようになった。
清朝・西太后の時代が始まる(1861年~)6-3
清朝では、側室の西太后が1861年11月より咸豊(かんぽう)帝の皇后(東太后)と摂政政治(垂簾聴政)を行うことで、実権を握っていった。そして1875年、同治帝が子がなく没すると、西太后は4歳の德宗光緒帝(在位1875~1908)を反対を押し切って帝位につけた。そして引き続いて東太后とともに「垂簾聴政」をおこなったが、1881年、東太后が死去すると、西太后がすべての権力を握った。
だがこのような清朝の政治体制は腐敗していき、中国国内も1840年のアヘン戦争以降、社会不安と混乱により、多くの中国人が海外へ向かった。ここではアメリカ移民の例をあげる。

清朝1851年~(西太后の時代へ) |
1861年11月西太后、クーデター
●西太后は5歳の実子、載淳を第10代皇帝同治帝として即位させ、主戦派を粛正した。そして咸豊(かんぽう)帝の皇后(東太后)と側室の西太后(慈禧皇太后)両者による摂政政治(垂簾聴政)が始まる。
●1850年、第8代道光帝(在位1821~1850)が死去すると、咸豊帝(在位1850~1861)が次の皇帝となった。咸豊帝はアロー号事件後、英仏連合軍の侵攻により北京から熱河に逃れていたが、1861年この地で死去した。咸豊帝の皇后(東太后)には子がなく、側室であった後の西太后の子である穆宗(ぼくそう)同治(どうち)帝(1861~1875)が帝位を継いだ。東太后と西太后が摂政政治(垂簾聴政)を行い、咸豊帝の弟にあたる恭親王奕訢(えききん)が補佐した。
左絵「西太后」(出典:1932年三省堂発行の「実業教科 東洋歴史」)
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1861年総理衙門(そうりがもん=外務省)創設
●清朝政府は、アヘン戦争、アロー号事件によって、自国の中華思想を改め、初めて外交的に対等の扱いをする存在(欧米列強)を認めた。それまで対外関係一般を「夷務」とよんでいたものを、「洋務」と変え、そしてその元締めとして総理衙門を設け、列国の公使館を北京に開くことを認め、また中国も各国に公使を派遣するようになった。そして1862年には北京に京師国文館(外国語学校)が開かれた。こうして中国における近代化が始まったが、これは「洋務運動」とよばれた。 |
1864年7月南京陥落、太平天国滅亡
●太平天国は、内部の権力争いにより腐敗堕落して、軍事力も下降していった。一方清朝の危機を救ったのは、曾国藩の湘軍(湘勇)や李鴻章の淮軍だった。これらは、それぞれの郷里で募集された軍隊で、清朝皇帝の命令によって組織されたものであるから一応正規軍ではあった。しかし清朝政府の国庫は不足し、経費を出せないため、代わりに軍費を現地で調達する権限を与えた。こうして特権を得た曾国藩や李鴻章は、現地の官憲や郷紳の協力を得て軍費を調達し、のちに地方の民政長官である総督・巡撫の地位を得ていった。こうして1864年、曾国藩は強力な湘軍を率いて南京城に突入し太平天国を滅ぼした。
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1864年以降洋務運動
●曾国藩(そうこくはん)、李鴻章(りこうしょう)、左宗棠(さそうとう)らは、太平天国の反乱を鎮圧する過程で、強兵のためには洋式の訓練と新式の装備が不可欠であることを知り、外国人の武官を招いたり部下を海外に留学させたり、武器弾薬を輸入して自分の軍隊の近代化を進めた。また軍艦を購入して海軍を創設し、砲台もきずいて、北京の防備を厳重にした。そして、武器、弾薬、船舶などを輸入する一方で、自国製造をも試みた。1862年、曾国藩、安慶で武器弾薬の試造。1865年李鴻章、上海で江南製造局を開設、1866年左宗棠、福州に馬尾船政局をたて、大規模に武器、弾薬、船舶の製造をはじめた。そして上海、南京、天津、福州、広東などの開港場にはいくつもの兵器廠、造船所が設けられた。近代化は軍備の面から始まったが、続いて運輸・通信・鉱業の近代化となり、平和産業でもある毛織物工業なども起こっていった。 |
1875年光緒(こうちょ)帝即位、「垂簾聴政(すいれんちょうせい)」
●西太后は中国の古典、書や絵画、音楽にも通じる才女ではあった。しかし、幼少の天子が位につき母后が摂政政治を行えば、宦官が権力を持ち、宮廷は腐敗していくのがあたりまえであった。
●1875年、同治帝が子がなく没すると、西太后は咸豊帝の弟である醇親王奕譞と西太后の妹の間に生まれた子で、4歳の德宗光緒帝(在位1875~1908)を反対を押し切って帝位につけ、引き続いて東太后とともに「垂簾聴政」をおこなった。
●1881年、突然東太后が死去すると、西太后は、補佐していた咸豊帝の弟にあたる恭親王奕訢(えききん)を、1884年に清仏戦争の敗戦の責任を負わせ失脚させた。こうして西太后はすべての権力を握った。
(左写真・垂簾聴政の場)出典:「故宮博物院展 紫禁城の宮廷藝術」図録 西武美術館/朝日新聞社1985年 刊
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1882年アメリカ、中国人の移民を10年間禁止する。
●アメリカは、建国以来すべての国の移民に門戸を開放してきたが、初めて1民族(働き過ぎる中国人)を排除の対象とした。中国系の人々は、カリフォルニア州だけでも15万人になっていた。もともと彼らは、カリフォルニアの金鉱労働者あるいは大陸横断鉄道の苦力(クーリー)として、アメリカが積極的に受け入れた移民労働者だった。その後この移民法は、1892年にさらに10年間更新され、1902年には中国人移民は永久に禁止される。(19世紀アヘン戦争以降、中国国内の社会不安と混乱は、多くの中国人を海外へと向かわせた。)
(上左写真)シエラ・ネヴァダ山中の大陸横断鉄道工事現場。1869年に完成。 (上右写真)1880年デンヴァーの暴動。中国人労働者は西欧化を嫌ったため、白人労働者は感情を害し迫害を強めた。(出典:「クロニック世界全史」講談社1994年刊)(注)1873年には、ワイオミングのロックスプリングスで、失業の不安から白人労働者による、中国人炭鉱夫(低賃金)に対する排斥・虐殺事件が起きた。)
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「ローン・レンジャー」2013年アメリカ映画
●ここで、1869年の大陸横断鉄道を題材としたアメリカ映画を紹介する。この映画は、ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ配給による、ジョニー・デップがトント役(インディアンの相棒)で出演している西部劇である。しかし単なる西部劇・アクション映画とは言えないようである。コミカルなジョニー・デップの演技のシーンの奥に、さりげなくアメリカの歴史の真実を提起しているかのようである。19世紀の半ばにおいて、蒸気機関車による鉄道は、圧倒的ですさまじい西洋文明の力を誇示したに違いない。日本や中国で、近代化のために鉄道が大きなポイントとなった時代背景がわかりそうである。大陸横断鉄道の敷設工事のシーンやバッファローの群れの中を疾走する蒸気機関車のシーンがあり興味深い。蒸気機関車の敷設工事シーンを下で紹介する。
※(YouTube動画、サイズ5.03MB、46秒)
●よけいな解説だろうが、この映画にはあまり日本人が知らない背景がある。
①1869年全米が熱狂した初の大陸横断鉄道が完成した。これは東西から進んだ鉄道会社の線路が、ユタ州「プロモントリー・サミット」でついに接続し、その地点で完成記念式典が行われた。
②東西の鉄道会社のうち、セントラル・パシフィック鉄道は中国人労働者を、ユニオン・パシフィック鉄道はアイルランド人労働者を使ってこの大陸横断鉄道を完成させた。この映画では中国人労働者(弁髪)は、別な鉱山のシーンで多数登場している。これらの中国人労働者は苦力(クーリー)とよばれた。そして「西部の鉄道の枕木の下には、中国人の骨が一つずつ埋められている」ともいわれた。
③鉄道敷設のためインディアンに対して、居留地の権利を保証した条約も無効と宣言し、「コマンチ族よ思い知れ」といっている。
④鉄道敷設工事のため、数年前に発明されたばかりのダイナマイトと、危険で不安定なニトログリセリンを準備している。これらには高額の費用がかかり、その保管にはなんと銀行の金庫室をあてている。セントラル・パシフィック鉄道は、このニトログリセリンを発破に使用し、多くの犠牲者を出したといわれる。
⑤インディアンとの戦闘で、騎兵隊は強力で圧倒的なガトリング銃(砲)で圧殺している。(日本では1868年戊辰戦争の時、新潟長岡藩がガトリング砲を初めて購入し実戦に使用したといわれる。)
⑥難攻不落な大事業を、シエラ・ネヴァダ山中を彷彿とさせる大鉄橋で表現している。
⑦「バッファローの群れの中を疾走する蒸気機関車のシーン」は大変皮肉である。バファローを絶滅近くにまで減らしたのは、大陸横断鉄道(テントで暮らし移動していく労働者たちの食料)のせいでもあり、アメリカ政府のインディアン政策(主食であるバファローを減らすことによって、インディアンを追い詰める)に関わるものであったからである。
清朝、清仏戦争敗北(1884年)、日清戦争敗北(1894年~)6-4
1894年日本は朝鮮への支配を強めるため、朝鮮の宗主国である清国に対して戦争をしかけた。日本にとってロシアの南下に対抗するには、朝鮮半島を支配下に置く必要があったのである。

清朝1884年~ |
1884年6月清仏戦争勃発、ベトナム
●清朝とフランスは、ベトナムの宗主権をめぐり確執を深めていたが、ついに武力衝突となった。フランスはベトナムを保護国とするため、1882年ハノイを攻撃し占領した。清朝は朝貢関係を維持するため、ベトナムに進駐し、軍艦をトンキン湾に派遣した。しかし清朝は、清朝が誇る北洋艦隊を派遣せず、フランス艦隊は馬尾海戦で福建艦隊を壊滅させた。そして翌年フランスは清朝と講和し、ベトナムの植民地化を確定した。 |
1884年北洋海軍、アジア最大の艦隊として成立。
●北洋大臣の李鴻章支配下の北洋海軍が、日本海軍をしのぎ、アジア最大の艦隊となる。
●清朝は1874年の日本による台湾出兵を機に、北洋・福建・南洋の海軍設置を決定した。しかしこれらの海軍も清朝政府直属の軍隊ではなく、地方の有力総督の支配する軍隊であった。特に李鴻章は1870年に直隷総督・北洋大臣となり、当時中国最強の淮軍を擁し直隷総督(総督の中でも、首都北京近辺を統括した直隷総督は筆頭格)で、その権勢により、中国の内治外交を掌握するほどであった。清仏戦争でも北洋海軍を出動させなかったのは李鴻章の意向であった。
●そして李鴻章は清仏戦争後、北洋海軍の増強にのりだし、1885年にドイツから、巨艦定遠と鎮遠の2戦艦を購入しアジア最大の艦隊として偉容を誇り、司令官を丁汝昌とした。
左写真若き日の「丁汝昌」(出典:「別冊歴史読本」新人物往来社1987年刊)
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1894年8/1日清戦争勃発
●日清戦争により東アジアの勢力分布が大きく変化することになった。この頃、清朝の中央では西太后派と皇帝(光緒帝)派が対立し、地方では最大権勢を持つ李鴻章(直隷総督)と、張之洞(湖広総督=湖南・湖北両省の長官)、劉坤一(両江総督=江蘇・安徽・江西3省の長官)との対立もみられた。西太后と李鴻章は戦争回避派であったが、主戦派である張之洞や劉坤一らは、皇帝の命が下っても、李鴻章を陥れるため軍を動かさず、また主戦派はあくまで戦うべしとして、なかなか講和をさせなかった。軍備の劣勢を自覚していた李鴻章は、英露による調停を期待したがかなわず、自軍の淮軍と北洋艦隊を動員して日本にあたった。
●しかし平壌の戦いや黄海海戦にやぶれ、旅順、大連、山東半島の威海衛まで日本に占領され、李鴻章は翌1895年、講和をきめた。そして1895年4月、日清講和条約(下関条約)を締結した。
(上写真)清国全権・李鴻章(73歳)(出典:「写真記録日中戦争・敗戦と解放」ほるぷ出版1995年刊)
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日本屈辱の「3国干渉」を受ける
●1895年4月締結の日清講和条約(下関条約)の内容
①朝鮮の独立を認めること。 ②遼東半島および台湾、澎湖諸島を日本に割譲すること。 ③賠償金2億両(テール)を支払うこと。
④開港場で日本人が製造業を営むことを承認すること。
●だが日本は、上の条約のなかの「遼東半島の領有」は、3国(ロシア・ドイツ・フランス)の圧力により、放棄させられた。
これを日本では「3国干渉」といい、1945年8月の「太平洋戦争」敗戦時に昭和天皇が
「・・わたしは、明治天皇が三国干渉の時の苦しいお心持をしのび、堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び、将来の回復に期待したいと思う。」
とまで例にあげるほどの大きな事件と記憶された。 |
清朝、日清戦争敗戦に衝撃
●日清戦争後の清朝では主戦論の光緒帝派が実権を握った。しかし真の主戦論者は「康有為」を中心とする少壮気鋭の官僚、読書人や現状に不満をもつ者たちであった。彼らは、西太后や李鴻章の軟弱な態度を責め、領土割譲を含む日清講和条約が締結されると、拒和論を起こし講和を拒否し日本と徹底して戦うことを求めた。
●その内容は、
①中国は、琉球、ビルマ、安南と次々と藩属・朝貢の国を失い、ここで朝鮮も失った。
②中国は、日本よりはるかに強いイギリス、フランス、ロシアと戦ったが、いまだかって領土を割譲したことはない。にもかかわらず、日本に台湾・澎湖諸島を、莫大な償金と権益とともに割譲した。
③このままにすれば、中国は列強に分割されて瓦解してしまう、というものだった。
●中国は日清戦争の巨額な賠償金の支払いのため、列強から借款を受け、租借地や鉱山開発権や鉄道敷設権などを失っていった。
(上写真)清国全権・李鴻章(73歳)(出典:「写真記録日中戦争・敗戦と解放」ほるぷ出版1995年刊) (地図)「列強による租借地の形成」(出典:「写真記録日中戦争・敗戦と解放」ほるぷ出版1995年刊) |
1894年孫文、ハワイで革命団体「興中会」を結成
●孫文(28歳)がホノルルで、中国に民主国家建設をめざし、革命団体「興中会」を結成した。
広州で医院を開業していた孫文は、李鴻章に国政改革の意見書を提出していたが、何の回答も得られなかった。そこで孫文は清朝に見切りをつけ、実践的な革命活動を行うため兄のいるハワイに渡り「興中会」を結成した。孫文らは清朝を打倒し、新たな民主国家を建設することで、列強による分割の危機に瀕している中国を救済しようとしていく。
左写真「孫文」(出典:『世界の歴史13』中央公論社1961年刊)
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1898年6月光緒帝ついに康有為の「変法運動」を採用
●光緒帝は康有為の「ロシアのピョートル大帝の心を心とし、日本の明治天皇の法を法とし」て革新を行おうとする意見を取り入れ、その一党を採用し新政を開始した。「国是を定める詔」
●康有為は、今までの洋務運動は、ヨーロッパの物質文化(科学や技術)だけを切り離して取り入れようとしただけのものであるとし、清国がフランスと日本に敗北をしたことをみれば、それは誤りであるとした。必要なことは、ヨーロッパの政治思想を取り入れ、近代議会政治こそ君民一体、上下一心の治を為すもので、中国がまさに取り入れるべきものであると主張した。
●こうして光緒帝は、科挙の改革、近代的教育制度の確立、農工商業の振興、軍事訓練、運輸通信施設の近代化、官庁の整理、事務の簡素化や啓蒙のための新聞、官報の発行など、急速に革新政策を進め始めた。
左写真「康有為」(出典:『世界の歴史13』中央公論社1961年刊)
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1898年9月西太后、クーデターで光緒帝を幽閉・戊戌(ぼじゅつ)の政変
●しかし光緒帝の急激な改革は、保守派の反発を招いた。ここで登場するのが袁世凱(えんせいがい)である。もともと李鴻章の淮軍出身で、朝鮮で頭角をあらわし、日清戦争後軍隊の近代化を痛感し、近代兵器を伴った兵の訓練、厳しい規律などを実施し新建陸軍建設に、大きな成果を挙げた。そして袁世凱は、北京周辺でもっとも強大な北洋軍の指揮権を握っていた。袁世凱は1901年李鴻章の死去を受けて、直隷総督兼北洋大臣に就任した。
●袁世凱は、当初光緒帝側につくことを約していたが、結局西太后側につきクーデターは成功した。結果、光緒帝は幽閉され、変法側の6人は逮捕処刑された。しかし康有為らは日本に亡命することができたが、変法運動は挫折した。袁世凱は後に中華民国の大総統に就任する。
●こうして三たび摂政となった西太后は、反動的に保守、排外、反漢の政策を行うようになった。そして光緒帝の廃位も企てた。
●この清朝政府の保守排外政策は、一般民衆の排外的気風を助長し、ついに義和団蜂起となって、清朝政府の列強に対する宣戦布告につながっていった。(左写真)儀礼用の軍服を着ている袁世凱(出典)「世界の歴史9」J.M.ロバーツ著創元社2003年刊
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1900年6月義和団の蜂起、8カ国連合軍出兵、北京に入城。清国敗北。6-5
清国は義和団事件によって8カ国連合軍に敗れた。このことが日本とロシア衝突の要因となり日露戦争(1904年~1905年)へとつながった。そして日露戦争での日本の勝利は清国に衝撃を与えたのである。

義和団事件1900年~ |
1900年6月義和団の蜂起、8カ国連合軍出兵、北京に入城。
●義和拳教徒らは、義和団という白蓮教系の秘密結社を中心として、農民達を含めて、キリスト教および列国の中国侵略に反抗して山東省で蜂起した。この義和拳教というのは、孫悟空などを神としてまつり、拳棒術を極めることにより神力・魔力を得られるというものだった。
●義和団は、初めは「反清復明」を唱えて民衆を扇動していたが、排外的気風の強まりからスローガンを「扶清滅洋=清をたすけて西洋を滅ぼせ」に変え、団徒を急速に増やし強大化し、おおきな暴動となった。
●1900年(5月~6月)には直隷に進み天津から北京に入城し、各国公使館地域を包囲した。清朝もこれを機に列国に対して宣戦布告したため、列国も清国軍と交戦となった。このとき日本は、アメリカ・イギリス・ロシア・ドイツ・フランス・イタリア・オーストリアとともに出兵し8カ国連合国で鎮圧にあたった。アメリカ映画「北京の55日」がこの事件を題材にした。また日本軍の公使館附武官の柴五郎の働きは各国の賞賛を受けた。(柴五郎はのちに大将となるが、その生い立ちは『ある明治人の記録』に書かれているとおり、会津藩出身であるがために戊辰戦争では悲惨な過去を持つ。)
●8月14日、8カ国連合軍は北京に入城し、圧倒的な軍事力により義和団を鎮圧し、西太后は光緒帝を伴い西安に避難した。(この逃走の時、西太后は憎んでいた光緒帝の側室の珍妃を、井戸に押し込み溺死させたという。今も残るその井戸は「珍妃井」とよばれている。)
写真「義和団拳民」(出典:『世界の歴史13』中央公論社1961年刊)
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義和団蜂起と8カ国連合軍出兵、北京に入城
(下地図)1900年頃の中国における列強の支配する鉄道。 (出典:「クロニック世界全史」講談社1994年刊) |
(上写真)鉄道を破壊する義和団(下写真)北京に入城する8カ国連合軍のアメリカ兵部隊 |
(出典:「クロニック世界全史」講談社1994年刊)
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北京の55日(1963年アメリカ映画)
ここでこの義和団事件をテーマ―としたチャールトン・ヘストン主演の、今から50年以上前のスペクタル映画の1ショットを紹介する。西太后に謁見するイギリス公使は「三跪九叩」を拒否して、足で枕(頭を床につける)をどかし立礼で済ます。西太后はヨーロッパ諸国の北京からの退去をもとめ、義和団側に立って暗に宣戦布告を行う。(注)西太后がイギリス公使を謁見しているこのシーンの建物は、どうも1420年に明の永楽帝が建設した「天壇祈年殿=皇帝が五穀豊穣を祈った建造物」を模した撮影セットのようである。
清国、義和団事件で敗北(北京議定書締結)1901年~ |
1901年9月北京議定書が締結される。清国と11カ国
●西太后排外方針を転換し、新政を実施し、ヨーロッパ的な制度改革を開始する。これを年号にちなみ「光緒新政」という。
●これにより清国は、莫大な総額4億5000万両(テール)、年賦払いの利子をたすと9億8000万両(1テール=1円40銭)の賠償金の支払い、列強の北京駐兵権承認などを締結させられた。清国は賠償金のためさらなる借款を列強から受け、その担保としての権利を失い半植民地化が進んでいった。
●しかしさいわいなことに清国は列強による領土分割を回避できた。その理由は、漢人の地方長官らが西太后の開戦命令に従わず、義和団と戦い外国人の保護に努めたからであった。山東巡撫・袁世凱、両江総督・劉坤一、湖広総督・張之洞、両広総督・李鴻章らがそうであった。
●また満州では、義和団鎮圧のために出兵したロシアが撤兵せず、後の日露戦争に発展していく。
(新政の一例)纏足(てんそく)禁止令・・1902年2月、清朝政府は中国社会に古くから伝わる風習である纏足を禁止する命令を出した。これは太平天国のスローガンでもあったが、実際にこの風習が根絶したのは、中華人民共和国成立後のことであった。
(重要事項) ●1901年12月10日、第1回ノーベル賞授賞式開催される。X線を発見したドイツのレントゲン(56)ら6名が受賞した。ノーベル賞はダイナマイトや無煙火薬の製造で巨万の富を築き、5年前に63歳で亡くなったスウェーデンの化学者アルフレッド・ノーベルの遺言にもとづいて創設された。ノーベルは発明した爆薬が、土木事業などに平和利用されることを願っていたが、戦争の道具に使われことに心を痛め、人類の幸せを願ってこの賞を創設したといわれる。
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1902年~西太后による新政と日露戦争(1904年~1905年)の衝撃
●1902年西太后は西安から北京に帰ると、一転して康有為の変法プログラムに従って改革を断行していった。それは次のようである。
①中央の政務を行う伝統的な六部の制を廃し、外務部・商部・学部などを同列に置いた。 ②教育制度を大幅に改め、伝統的な書院を、大学堂・中学堂・小学堂・蒙養学堂(幼稚園)の4段階に区別した近代的な学校とした。 ③千年以上つづいた科挙を廃止し、学校出身者に官吏となる資格を与えることにした。 ④兵制を改革して、緑営の兵隊を警察・巡防隊に改組したり、あらたに壮丁を選募して洋式の訓練を施し全国に36鎮(師団)の新軍を建設した。 ⑤残虐な刑罰を廃止し、司法の独立をはかって法部を新設した。
●日露戦争で日本が大国ロシアに勝利した衝撃は、アジア諸国に大きな影響を与えた。特に中国に与えた影響は大きかった。日本は日露戦争の結果、絶対条件である「韓国の自由処分、ロシア軍隊の満州撤退、遼東半島租借権と旅順-ハルビン間鉄道の譲渡」を得たが、鉄道は「旅順-長春間」に譲歩し、第2条件であるカラフトの割譲は「カラフト南半分」に妥協した。そして「賠償金最高15億円」要求は撤回した。日本は講和を成立させることが必要だったのである。
●中国は日本のロシアに対する勝利を、立憲政治の専制政治に対する勝利とみた。そのため日露戦争後は憲政施行の世論がいっそう強くなり、清朝政府も憲政施行を決断するに至った。そして1908年、憲法大綱を発表し、1916年に憲法を発布し、国会開設することを内外に発表した。
左上の写真は左「醇親王」と右「宣統帝」。この写真は、「世界の歴史9」J.M.ロバーツ著創元社2003年刊、『世界の歴史13』中央公論社1961年刊、1932年三省堂発行の「実業教科 東洋歴史」3冊すべてに掲載されている写真と同じである。
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1908年光緒帝死去(暗殺か?)と翌日の西太后死去
●しかし1908年11月14日に光緒帝が死去し、翌日西太后が死去した。これは病気でもない光緒帝が死んだのだから、何者かによる暗殺か、または内部の権力争いの末の結果なのかもしれない。
「革命いまだ成らず」譚璐美(たん・ろみ)新潮社2012年刊によれば、 ●2008年清朝光緒帝死因研究報告会は、光緒帝の陸墓に僅かに残る遺骨や頭髪、衣服の化学分析から、致死量をはるかにうわまわる猛毒の三酸化砒素が検出され、「光緒帝の死因は、急性胃腸性砒素中毒であり、毒殺されたものと断定した」とあります。
●そして光緒帝の実弟にあたる醇親王載灃(じゅんしんのうさいほう)の子、溥儀(ふぎ)が3歳で帝位(宣統帝)を継ぎ、醇親王が摂政となり翌1909年宣統と改元する。この宣統帝がラスト・エンペラーである。
(重要事項) ●1903年12月17日、アメリカのライト兄弟が、人類初の動力飛行に成功。 ●1905年1月、血の日曜日事件発生、第1次ロシア革命へ。 ●1905年9月、ドイツでアインシュタインが「特殊相対性理論」を発表、1916年には「一般相対性理論」を完成。20世紀最大の革命的な業績である。
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日露戦争での日本の勝利が、満州への利権拡大政策となり、のちの日中戦争・太平洋戦争の原点となる。6-6
現代の日本人にとって、日露戦争(1904年)は忘却の彼方のことかもしれない。しかし日中戦争・太平洋戦争に起因する現代の中国・「韓国北朝鮮」との問題のすべてが、満州から始まることを知れば、忘れるべき過去ではないだろう。
●結果的に日本はこの満州(点と線)の権益をまもるため、武力によって領土(満州全域)を支配するため武力侵攻(1931年満州事変)を行って行くのである。領土獲得のための武力侵攻、これを「侵略」というのだ。

日本、中国満州への野望 |
なぜ日本が「侵略」といわれるようになっていくのか
●日本はアメリカの主張(満州の門戸開放・中立化)を認めることで、日露戦争の仲介をアメリカに頼んだ。しかし日本は、日露戦争後も占領地から軍隊を撤退せず軍政を継続した。イギリス・アメリカはそのために自由な商業活動が阻害されていると再三抗議を日本にしている。
●特にアメリカの鉄道王ハリマン(前の方で、映画「ローンレンジャー」にでてくるアメリカ横断鉄道であるユニオン・パシフィック鉄道などを所有している鉄道王)との契約を反故(1905年)にしたことなどから、アメリカはさらに日本に疑念を抱いた。(ハリマンは大連から南満州鉄道・東清鉄道・シベリア鉄道をへてヨーロッパに至る大陸横断鉄道網の創設を企画した。)
●伊藤博文は1906年の英米の抗議に対して、満州問題を含め戦後日本の進路を、米英協調路線に求めることを政府首脳に強調し、軍政を廃止していくなど改善を試みた。しかし軍は、しだいに政治と外交に介入していく程の力を得ていった。
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●日露戦争でロシアから獲得したものは中国の領土ではない。日本は、ロシアが清国との間で得た権益を獲得したに過ぎない。だから日本はさらに清国との交渉が必要であった。そして清国とのあいだで得たものは次のものである。
①遼東半島の租借権(=期間を定めて借りる権利)
②東清鉄道南部支線(長春から大連704km)の敷設・経営の権利
③鉄道付属地の権利。これはロシアが各国が都市部にもっていた占有権である「租界」からヒントを得て、鉄道経営に必要として清国に認めさせたものである。それは●線路の両側合計66m幅の土地。●主要駅周辺に市街地を作るための土地。●撫順など鉄道沿線にある炭鉱の経営権などである。
④鉄道守備隊(軍隊)の駐留権。これは鉄道1kmあたり15人以内と定めたものである。しかしこれは日本とロシアが決めたものであって、清とロシアの合弁会社の時は、ロシアは警察権だけを得ていた。当然清国は外国軍隊の駐屯を拒否したが、日本とロシアにより妥協させられた。
●そして日本は上の地図にある、安東から奉天(現瀋陽)に至る261kmの安奉鉄道の敷設権と経営権を得ようとした。なぜなら朝鮮半島釜山から南満州鉄道に直結することにより、軍事的にも戦略幹線とすることができるからである。地図「満州権益関連地図」(出典:「近代史 日本とアジア上」吉川万太郎著 婦人之友社2002年刊) |
1905年南満州鉄道株式会社の設立。
左写真「1934年頃大連港埠頭」(出典:「昭和2万日の記録3」講談社1989年刊) 右写真「弾丸列車あじあ号1934年11月」(出典:「クロニック世界全史」講談社1994年刊)
●この会社は、半分を日本政府が出資した植民地経営のためのマンモス国策会社であった。事業内容は、鉄道、港湾の整備、船舶輸送、炭鉱の経営、鉄道付属地での都市建設と都市の管理、農地開発までも行う会社であった。具体的には以下の例がある。
●(鉄道)1911年に、安奉線の改修工事と、鴨緑江の鉄橋架設工事完成により、朝鮮鉄道と安奉線が接続され、翌年には釜山・安奉線・長春間に「アジア・ヨーロッパ列車」の直通運転が開始された。長春で東清鉄道・シベリア鉄道につながることができた。
●(撫順炭鉱)埋蔵量10億トンと推定され、東洋一の大炭鉱といわれた。1914年からは露天掘りによる採掘を始め、出炭量は2倍3倍へと増えていった。そして頁岩層から石油が採れることがわかり、年間約30万トンの石油を生産するようになった。
●(大連港の整備と拡充)1906年から防波堤の建設にとりかかり、1926年までに内港に、24トン級から1万トン級まで合計31隻の船舶を一時に係留できる埠頭を建設し、世界に有数の港湾を建設した。
●(都市の建設)鉄道付属地の経営として、1906年から1916年までに鉄道沿線に30の都市を建設した。そして都市行政(住民の管理、教育・衛生、上下水道の敷設)などを行うようになる。しかしここは日本の植民地でも領土でもないわけだから、中国政府との軋轢も当然発生していった。 |