(世界史)「中華人民共和国建国、朝鮮戦争、サンフランシスコ平和条約」
●(上左写真)朝鮮戦争:戦火を逃れソウルを脱出する人々は線路を歩いて南へと下る。(1951年1月4日)●(上右写真)朝鮮戦争:極寒の雪原に延々と避難民の列が続く。(1951年1月4日)(出典:「図説朝鮮戦争」田中恒夫 著 河出書房新社2011年刊)
第2次世界大戦後 | 主要項目 |
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中華人民共和国建国(1949年10/01)。中国近代史(概略)と日中戦争 | 毛沢東主席、北京の天安門広場で中華人民共和国の成立を宣言。国民革命軍、日本武力干渉と侵略、一致抗日、国共内戦、そして統一建国。 |
赤狩り旋風(1950年) | アメリカで始まった「赤狩り」は日本でも実施された。レッドパージ共産主義者追放である |
朝鮮戦争勃発(1950年6/25) | 北朝鮮軍が 38度線を越えて大韓民国に侵攻 |
日本・サンフランシスコ平和条約に調印(1951年9/8) | 同日アメリカと日米安全保障条約を調印した。「平和条約」と「日米安全保証条約」を意味などを補足して引用。 |
韓国イ・スンマン(李承晩)大統領、海洋主権宣言を発表(1952年1/18) | 李承晩ライン設定と日本漁船拿捕、そして竹島の領有権をめぐる問題の発生 |
第1次インドシナ戦争の概略 | フランス、インドシナ半島を日本に奪われたが、日本の敗北によって、戦後復権を目指してヴェトミン(ヴェトナム独立同盟)と戦争となる。 |
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●1949年 10月1日中国、毛沢東、天安門広場で建国宣言を行う。ユーチューブの「Mao declares the Peoples’ Republic of China」から最初の部分を紹介する。(下段でリンク)(自分のような一般の日本人からみると、動画の中でわかるのは、毛沢東、横を歩く朱徳、劉少奇、宋 慶齢《孫文の未亡人》、周恩来ぐらいか。調べると、李 済深《国民党革命委員会主席》、張瀾《民主同盟主席》、高 崗《東北人民政府主席》も壇上並ぶとある。)
※(YouTube動画、サイズ4.08MB、1分29秒)
*リンクしますYouTubeから「Mao declares the Peoples’ Republic of China」
年・月 | 「赤狩り」が始まる。アメリカ、そして日本。 |
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1949年11月 | オランダ、インドネシア連邦共和国独立 ●インドネシアとオランダの円卓会議が合意に達し、ハーブ協定が調印された。 |
1950年1月 | ●イギリスが中華人民共和国を承認する。このため台湾の国民党政府は、イギリスと断交する。 |
1950年1月 | ●中国、ベトナム民主共和国を承認する。 31日にはソ連も承認する。 |
1950年1月 | イスラエル、エルサレム首都宣言 ●イスラエルが国連決議に反して、エルサレムを首都とすることを宣言する。アラブ諸国は、イスラエルに対する経済封鎖で対抗する。 |
1950年2月14日モスクワ | ●中国とソ連が中ソ友好同盟相互援助条約に調印する。 |
1950年2月 インドシナ半島 | ●フランスがベトナム(バオダイ政権)、カンボジア、ラオスをフランス連合内の独立国として承認する、7日、アメリカとイギリスは、この3カ国の独立を承認する。 |
1950年 | 1950年2月9日アメリカ「赤狩り旋風」 ●共和党上院議員のマッカーシーが国務省内に共産主義者がいる、と発言する。以後、マッカーシズムと呼ばれる赤狩りが各界を揺さぶる。前年十月に中国で共産党政権が誕生して以来、アメリカ国内では反共気運が異常な高まりを見せていた。マッカーシーは一躍マスコミの注目を集め、議会も彼の発言を無視できず、2週間後、上院外交委員会は調査に乗り出す。この赤狩りによる犠牲者は、国務省や大学の中国専門家だけではなく、ハリウッドの俳優にまで及ぶ。 日本での公職追放(レッドパージ) ●日本では朝鮮戦争が始まる直前の 6月6日、共産党幹部 (徳田球一ら)24人の追放、翌7日の赤旗幹部27人の追放からレッドパージが始まった。そして 7月24日、新聞経営者たちは GHQに呼び出されレッドパージの指示を受けた。朝日、毎日、読売、日経、東京、共同、時事、日本放送協会の8社は、7月28日、336人を追放。8月末までに、地方紙を含む50社で704人が解雇された。マスコミに次いで民間企業、なかでも重要基幹産業が対象になり、電力業界では 8月26日、合計2137人に上る解雇通告を発令した。民間におけるレッドパージは、朝鮮戦争の兵站機能を負わされた日本の企業で、サボタージュや業務阻害がおこることを未然に防ぐために行われたものである。秋になると、官庁・公団・公社に及び、この年だけで1万2168人がレッドパージされた。 ●徳田球一は、1950年6月に公職追放(レッドパージ)され、7月に出頭命令を拒否し、地下に潜行、同年10月、中華人民共和国に亡命した。 |
年・月 | 朝鮮戦争勃発 | ||
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1950年4月 | イギリス・フランス赤狩り始まる ●イギリスでは4日、アトリ―首相が政府の要職に共産党員が就くことを禁ずると言明する。 | ||
1950年5月 | アメリカ、フランスを援助 ●アメリカは第一次インドシナ戦争で、フランスを援助することを米仏会談で約束する。 | ||
1950年6月25日 朝鮮半島 | 朝鮮半島で朝鮮戦争が勃発
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●1950年6月25日北朝鮮軍による南侵の真相は、ソ連崩壊後の公文書(発見)によれば次のようである。 「キムイルソン(金日成)は1950年の初めからソ連側に『南侵』の意向を伝えていた。スターリンは経済援助と軍事援助をあたえ金日成をなだめていたが、1950年4月下旬クレムリンで秘密会談をもった。金日成は『南侵』すれば、韓国軍は壊滅し、南の人民と共産主義者が蜂起する」と力説した。これに対してスターリンは「毛沢東が同意すれば、承認する」と条件つき承認を与えた。金日成は、1950/5/13~5/16北京を訪問し、毛沢東の同意を得た。そして金日成は、南侵してもアメリカは介入しないこと、そして李承晩政権が崩壊すればアメリカは朝鮮半島を放棄すると、判断した。そして6月25日未明、北朝鮮は38度線を越境武力侵入した、とされる。(出典:「激動!!北朝鮮・韓国そして日本」重村智計(しげむら・としみつ)著・実業之日本社2013年刊) (注)日本では、当時のマスコミや学会では左翼が多かったため、北朝鮮の主張する「韓国が先に戦争をしかけた」ということを長いあいだ信じていたといわれる。「激動!!北朝鮮・韓国そして日本」重村智計著にも、当初から「北朝鮮の南侵」を主張していたのは2人の学者だけで、2人は左翼系の学者から総攻撃と激しい非難を浴びた、と書かれている。そして左翼系の学者のいいかげんさを、「学問の真理」と「運動」の区別がつかないと評している。
「大統領およびアメリカ軍最高司令官としての私の命令に対する、公然たる反逆である。憲法の下における大統領の権威に対する挑戦である」と。 ●そして朝鮮戦争は、ついに1953年7月27日、休戦協定(交渉開始から2年)が調印された。(韓国は調印を拒否した) (注)「朝鮮戦争」という呼び名は日本だけのもので、アメリカは「The Korean War」、韓国では「韓国戦争or『6.25』」、北朝鮮では「祖国解放戦争」、中華人民共和国では「抗美援朝戦争」(美=美国=アメリカ)と呼ばれている。(出典:「図説朝鮮戦争」) この戦争による死傷者数は、韓国軍(戦死者41万5千人・負傷者及び行方不明者約42万9千人=韓国側発表)・米軍死傷者等14万2千人(=米軍側発表)・北朝鮮人民軍(死者50万8千人・負傷者数10万人=推定・北朝鮮側未発表)・中国軍死傷者約50万人(=推定・中国側未発表)といわれる。また一般市民の犠牲者は、韓国で死傷者46万9千人、死者は少なくとも17万人(=米軍推定)といわれ、南北あわせると200万人を越えたといわれる。(出典:「昭和2万日の全記録9」講談社1989年刊)(※60年以上たった現在でも朝鮮戦争は終結せず、休戦のままである) ●日本は朝鮮戦争の兵站基地となった。国際政治の面では、日本の中立が事実上不可能となり、自由主義陣営に組み込まれる原因となった。そして日本にいたアメリカ占領軍が、そのまま国連軍の名の下に朝鮮の戦場に出動したため、マッカーサーはその穴埋めのため、日本に警察予備隊(7万5千人)の設立を命じた。 「朝鮮戦争は共産主義世界の破壊工作であり、平和を守るためアメリカと国連が立ち上がっているのであるから、日本もこれに協力すべきで、中立はありえない」 というものだった。 (日本の国連軍への協力 総括 協力の概要)の一部抜粋 ●・・日本は当初、在韓米軍家族の緊急避難地域、緊急派遣部隊の出撃基地、緊急補給基地、米軍及び国連軍の前線司令部としての役割を果たし、その後は作戦基地、訓練基地、兵站基地として国連軍の戦争遂行に大きく寄与したといえる。 (日本と韓国) ●日本の朝鮮戦争での基本的な協力姿勢は、東アジアの平和と安定回復のために参戦している国連軍に協力することが義務でもあり、ひいては日本の安全保障のためであるとの意識に支配され、戦火に晒されている隣国を助けるという思いは希薄であった。(日本は)・・あくまでも国連軍によって事態の終息をはかるという姿勢に終始していた。占領下にあったわが国としては致し方なかったという面はある。また国民の関心も、朝鮮の戦況は気にかかるものの、敗戦後の混乱と不安定な生活からの脱却をはかることが第一であった。 ●一方韓国政府は、戦争の間日本に協力を要請することもなく、戦後も、日本と朝鮮戦争とのかかわりについて 言及することもなかった。李承晩大統領は 1952年秋、韓国に派遣されている日本人技術者や労務者を韓国人と交代させるよう国連軍司令部に要請し、国連軍司令部はこれに同意し、日本人技術者や労務者を逐次に撤収させた。このように韓国では、日本が朝鮮戦争に関わり国連軍に協力しているという事実について、国民に広く積極的に知らされることはなかった。知らせることを憚る雰囲気があったというのが正確であろう。また国民についても、現実の戦火の中で、隣国日本について考える余裕もなかったであろう。 反面、戦争の最中に、「マッカーサー・ライン」や「李承晩ライン」付近で日本漁船が拿捕されたり銃撃を受けたりした。1950年から 53年の間に拿捕116隻、死亡3名、1947年のマッカーサー・ラインの設定から 1965年に日韓基本条約と日韓漁業協定の成立によって同ラインが廃止されるまでの 18年間には、328隻の日本漁船が拿捕、8名が銃撃を受けて死亡し、3929人が抑留されている。 ●朝鮮戦争の間、両国は驚くほど疎遠であった。海峡を隔てて一方は国家の存亡を賭けて戦い、一方はそれを側面から支え、朝鮮戦争に深くかかわり合いをもちながらも、敗戦からの立ち直るのに必死で隣の国に深く思いを致すことはなかったのである。これは互いに不幸なことであった。 ●戦争が終わって60年近くたった現在でも、日韓両国は朝鮮戦争における互いの国の状況も実態も理解しているとはいえないように思う。韓国では、少数の研究者を除けば、朝鮮戦争において韓国は戦い抜き、その結果として日本を守ってやったという優越感と、韓国が死をもって戦っている間に、日本は特需によって一方的に儲けたという一種の妬みに似た感情がある。反面、日本が国連軍に協力するという姿勢で戦争を後方から支援したということについてほとんどの者が認識していない。 一方日本は、韓国が国連軍とともに戦い共産軍の進出を阻止したおかげで、日本の危機は免れたということを認識するものは少なく、また国連軍への協力は密かに行われたことが多く、ほとんどの人は協力の内容についても知らないことが多い。今や両国の関係は密接になり、経済ばかりでなく、人や文化の交流も盛んになってきたにも拘わらず、朝鮮戦争についてはお互いの理解は進んでいないといえる。 (朝鮮戦争が日本に及ぼした影響) ●朝鮮戦争は、占領下にある日本が予期し得ない出来事であったが、その後の日本の進路を決定づける大きな意味があったといえる。この戦争を通じて日本は、全面講和論とその延長による非武装中立論を一時的に終息させて多数講和という現実的な対応を選択し、その帰結として日米安全保障体制を確立した。また特需という経済的恩恵をて、経済復興の基礎を作り、戦前にその多くを占めていた対中貿易にかわって、米国および東南アジアという新たな市場を得た。さらに戦後活発化しつつあった共産主義イデオロギーを、共産党幹部の公職追放などによって活動を逼塞させた。こうして日本は、この戦争に対応していく中で、完全に西側の一員としての地位を確立し、冷戦構造の中にくみこまれて行ったのである。(以下略) | |||
1950年10月24日 チベット | 中国チベット進駐
左写真(ラサ・ポタラ宮殿、ラサの標高約3700m)出典:「西蔵・聖地カイラス巡礼」日本放送出版協会1985年刊 | ||
1951年3月 | イラン、アングロ・イラニアン石油会社(AIOC)を国有化 ●国民議会がイラン原油を独占していたイギリス資本のアングロ・イラニアン石油会社(AIOC)を国有化する法案を可決した。そして10月にはAIOCはイラン国営石油会社(NIOC)となったが、石油の取引拒否など対外的な孤立化に直面していった。イランでは2年ほど前から、モサッデクを中心に国民戦線が結成され、民族運動が高まっていた。ラズマーラー首相が暗殺されると、モサッデクは首相に任命された。 | ||
1951年4月11日 | アメリカ、マッカーサー解任 ●トルーマン大統領はホワイトハウスで異例の記者会見を行い、マッカーサー国連軍最高司令長官を解任し、後任にリッジウェー中将を任命したことを発表した。マッカーサーはトルーマン大統領と、朝鮮戦争をめぐる軍事的・政治的方針でことごとく対立し、解任された。しかしアメリカ国民は帰国したマッカーサーを熱烈に歓迎した。マッカーサーは19日の議会での演説で、『戦争においては勝利に代わるものはない』と論じ最後に『老兵は死なず、ただ消え去るのみ』と名文句を残した。 | ||
マッカーサー元帥解任時の日本国民の反応
●(上左の写真)「1945年9月27日アメリカ大使館にマッカーサー元帥を訪問した昭和天皇」 ジェターノ・フェイレイス 東京。この写真を新聞が載せると、日本政府はすぐに発売禁止にした。しかしGHQはこの処分を撤回させた。
●マッカーサー解任のニュースは日本国民に大きな驚きを与えた。日本人にとってマッカーサーは、天皇の上に位置する支配者で、そのような存在を解任できる人間がいたのか、という驚きであった。・・(中略)・・驚きとともに、マッカーサーに対する惜別の声がわき上がった。国民大多数の反応もきわめて心情的で、解任を報ずる 4月12日の「朝日新聞」は「マックアーサー元帥を惜しむ」と題する次のような社説を掲げた。 「われわれは終戦以来、今日までマックアーサー元帥とともに生きてきた。(中略)日本国民が敗戦という未だかつてない事態に直面し、虚脱状態に陥っていた時、われわれに民主主義、平和主義のよさを教え、日本国民をこの明るい道へ親切に導いてくれたのはマ元帥であった。子供の成長を喜ぶように、昨日までの敵であった日本国民が、一歩一歩民主主義への道を踏みしめていく姿を喜び、これを激励しつづけてくれたのもマ元帥であった」。 4月15日、天皇はすでに何らの公的肩書きも持たないマッカーサーを、周囲の反対を押し切りアメリカ大使館に訪問した。吉田茂首相は「・・・天皇から一市民に至るまで、すべての日本人が貴下の別れを惜しんでいる・・・」との書簡を送った。(中略)・・マッカーサー 離日に際して「夕刊毎日新聞(現毎日新聞)」は思い入れたっぷりの記事を掲げた。 「白い雲に真赤なバターン号の機首が美しく映えていた。ああマッカーサー元帥、日本を混迷と飢餓から救いあげてくれた元帥、元帥!その窓から、あおい麦が風にそよいでいるのを御覧になりましたか。今年のみのりは豊かでしょう。それはみな元帥の5年8カ月にわたる努力の賜であり、同時に日本国民の感謝のしるしでもあるのです」。 ●マッカーサーはアメリカ上院軍事外交合同委員会聴聞会(1951年5/5)で質問に答えて次のように述べた。 「アングロ・サクソン族が科学、芸術、進学、文学の点で45歳だとすれば、ドイツ人はそれと全く同じくらいに成熟しています。しかしながら日本人は、時計で計った場合には古いが、まだまだ教えを受けなければならない状態にあります。現代文明の基準で計った場合には、彼らは、我々が45歳であるのに対して、12歳の少年のようなものでしょう。教えをうけている時代の常として、彼らは新しいモデル、新しい考えに従い易いものです。そこには基本的な考え方を植え付けることができます。彼らは依然として柔軟で、また新しい考え方を受け入れられる起点に十分近いところにありました」。
*リンクします「マッカーサー元帥 帰米」NHKアーカイブス |
年・月 | 「サンフランシスコ平和条約」と「日米安全保障条約」 |
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1951年9月8日 | 日本・サンフランシスコ平和条約に調印 ●1952年4/28、GHQは廃止され日本は独立を回復した。しかしアメリカとの行政協定、台湾の国民党政府との講和、沖縄の切り離し、在日朝鮮人の外国人登録など問題は山積していた。そして3日後の5/1の第23回メーデーは、皇居前広場(使用を禁止された)で警官による催涙ガスとピストルによる鎮圧により2名が死亡するという「血のメーデー」となってしまった。 ●そして9/8やっと日本は連合国48ヶ国とサンフランシスコのオペラハウスで平和条約を結ぶことができた。日米安全保障条約も同日調印。発効は両条約共に翌1952年4月28日である。 ●この「サンフランシスコ平和条約」の第2条と第3条は、21世紀現代における「北方領土」「竹島」「尖閣諸島」「南沙諸島」などの問題がおこる出発点となった条約である。これは読んでおかねばならない条約である。 ●また「日米安全保障条約」第3条に関する「行政協定=後の地位協定」は1952年2月に調印され発表された。この行政協定により、米軍による全国の基地化、裁判権の治外法権、免税特権、防衛負担金など各種問題が生まれる原点となったものである。 *リンクします「平和条約の締結に関する調書 第5冊」 |
「サンフランシスコ平和条約」と「日米安全保障条約」 ●ここで「外務省 日本外交文書デジタルアーカイブ」からこれらの条約を引用してみる。分かりやすくするため、西暦の年月日はアラビア数字に変えた。また難しい単語・地名は読みと意味を()内に補足し、黒小文字で記入した。また「日米安全保障条約」第3条に関する「行政協定=後の地位協定」は、上の外務省のページからダウンロードして閲覧して下さい(外務省専用無料閲覧ソフトをダウンロードする必要あり)。 「日本国との平和条約」 日本国との平和条約 | |
1951年12月 | 中国の「三反運動(195年12月)」「五反運動(1952年2月)」 ●中国共産党中央が、党幹部や商工業者の汚職・浪費・官僚主義の「三害」に反対する「三反運動」を全国的な大衆運動とし開始した。翌年には、贈賄・脱税など「五毒」に対する「五反運動」も展開した。これにより中国社会の積年の弊を一掃する大衆運動となった。 |
1952年1月18日 | 韓国李承晩(イ・スンマン)大統領、海洋主権宣言を発表
(日韓漁民の状態)当時の韓国の漁船保有数は、日本の約1/10、航海機器も十分ではなく、網も綿を使ったものが大部分であった。一方日本漁船は、各種航海機器や魚群探知機などを採用し、合成繊維漁網を使用し始めていた。
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●下地図はグーグルマップだが、wordpressプラグインの「MapPress」のため、竹島・独島を「リアンクール岩礁」と表記している。マイナスボタンを押してズームアウトして位置を確認してください。すると左下から済州島(チェジュとう)、巨文島(コムンとう)、対馬、欝陵島(ウルルンとう)、竹島・独島となる。
●また右下の+ボタンで「リアンクール岩礁」にズームインしてから、人型ボタンでグーグルストリートにしてポイントを見ると、多くの韓国の人たちが訪れている様子が見て取れる。
●1952年1月は、朝鮮戦争が膠着状態となり休戦協定が前年7月から始まっていた。
●サンフランシスコ平和条約(1951年9月日本が調印)の発効が1952年4月であり、マッカーサーラインが廃止になる直前であった。
●李承晩・韓国大統領は、反共主義者でもあるが当然ながら反日であったこと。
●韓国は、対馬と竹島の領有を主張し、サンフランシスコ平和条約の中で、日本の権利放棄に対馬と竹島を含めるように、アメリカに求めていたこと。また韓国はアメリカに、前年からマッカーサーラインの継続を求めていたが、サンフランシスコ平和条約により失効することを告げられていた。
(アメリカは韓国の対馬と竹島の領有の要求を拒絶して、実際の条約は下記のようになった。しかし、日本としては、この条文の意味している「竹島は放棄する地域に含まれていない」という消極的な条文ではなく、「竹島は日本の領土である」との積極的な条文が欲しかったところであろう。)
第二条
(a)日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島(チェジュとう)、巨文島(コムンとう)及び欝陵島(ウルルンとう)を含む朝鮮に対するすべての権利、権原(けんげん=[法]ある行為を正当化する法律上の原因。地上権・貸借権の類。)及び請求権を放棄する。
この竹島問題については、外務省と「領土・主権対策企画調整室 – 内閣官房」の下記のサイトに日本の主張が述べられているので確認して下さい。また韓国の大使館の「独島」サイトには韓国の主張が述べられているので確認して下さい。
*リンクします「外務省 日本の領土をめぐる情勢「竹島」「外務省 外交政策」
*リンクします「内閣官房 竹島問題」「内閣官房 領土・主権対策企画調整室」
*リンクします「DOKDO 韓国の美しい島 独島」「駐日本国大韓民国大使館」
●ここでベトナムの独立宣言を引用してみる。最初からこの戦争は、対フランス、対日本への民族独立運動であることがわかる。
(出典)「人権宣言集」岩波書店1957年刊 より一部引用