(世界史)「日本・敗戦」(昭和20年《1945年》8/15)

世界史

ここでは、日本の敗戦(1945年)を中心に記述した。日本最高指導部は、最後までソ連の仲介を期待していた。
●太平洋戦争・日本敗戦(1945年頃)
ここでのポイントは、1940年頃から日本の敗戦までの最高指導部の対応である。日本は、1941年にソ連と中立条約を締結した。そのため日本は最後までソ連に対して、アメリカとの仲介を期待していた。しかしソ連の中立条約破棄と満州への侵攻は、ソ連と連合国アメリカとの間で、ドイツ降伏の3ヶ月後に行う約束事項であった。日本最高指導部は、最後までソ連の仲介を期待しながら、全国民には徹底抗戦を強いて、「国体護持」のために戦争遂行を続けた。
(上写真左から)●ドイツ(ナチス)総統ヒトラー●フランス(初めての放送を終えた)ドゴール●アメリカ(日独伊への宣戦布告に署名する)ローズベルト大統領●イギリス(首相一日目の)チャーチル●ロシア(もう一人の独裁者)スターリン●アメリカ(連合軍最高司令官)マッカーサー元帥●(アメリカ大使館を訪問した)日本国昭和天皇●中国周恩来と(若き日の)毛沢東1935年3月。(出典)A.J.P.テイラー「第2次世界大戦」1981年刊(左5枚)と「目撃者」朝日新聞1999年刊(右2枚)
ここでは「朝鮮の歴史(旧版1974年・新版1995年)三省堂刊」、「朝日百科・日本の歴史近代1」・朝日新聞社1989年刊などを参考とし要約・引用した。日本の昭和史は「昭和2万日の全記録・第6・7巻」講談社1989・90年刊、「昭和史」半藤一利著・平凡社2004年刊などから要約・引用した。現代史は「激動!!北朝鮮・韓国そして日本」重村智計(しげむら・としみつ)著・実業之日本社2013年刊を抜粋要約した。

日本・海軍の予科練と戦意高揚映画

●最初に1942年11/1海軍の予科練(海軍飛行予科練習生)の募集ポスターと東宝映画「決戦の大空」を紹介しよう。日本国内での戦意高揚のイメージである。この日から予科練の制服が水兵服から7つボタンの短ジャケットに変わった。そして翌年の東宝映画「決戦の大空」(1943年9月)の主題曲「若鷲の歌」(西条八十作詞・古関裕而作曲)は、国民に広く親しまれ、とりわけ少年たちの間では航空機搭乗員の象徴になった。しかし戦局の悪化ともに太平洋戦争末期、予科練出身者は特攻の主役となり多くの戦死者を出していった。(日本の戦意高揚映画の特徴は次のようにあるという。《主人公は、いかに潔く死ぬか、あくまでも責務を忠実に果たし、すがすがしい笑顔残して死んでいくか、という日本的美学の体現者、として描かれた》(佐藤忠男)とあります)

上左写真:予科練ポスター。上右写真は「予科練体操」・毎日シリーズ出版。(出典:「昭和2万日の全記録・第6巻」講談社1990年刊)

映画『決戦の大空へ』(1943)一部

●予科練は航空機搭乗員養成をめざし、厳しい身体検査、学力試験、適性検査を経て入隊した少年兵であった。当初陸海軍とも、少年兵制度は専門技術を身につけた下士官養成を目的としていた。しかし戦局逼迫による兵員不足補うため、実際には教育そのものよりも、少年達を戦闘要員として駆り出す機関へと変わっていった。
●映画『決戦の大空へ』・出典:youtube《sandy karen》より一部紹介、下段でリンクしています。
※動画を見るときは、写真を左クリックしてください。別ページで再生されます。
また右クリックで別の方法も選択できます(mp4動画、サイズ11.6MB、2分28秒)

*リンクします映画『決戦の大空へ』(1943)より『若鷲の歌』あり動画・出典:youtube(sandy karen)

日本降伏(1942年頃~1945年8月までの概略)

●日本の15年間に及ぶ戦争は敗戦という最終段階をむかえた。1931年9月の柳条湖鉄道爆破事件を契機に中国東北地方へ侵略、1937年7月盧溝橋事件を契機に中国との全面戦争(日中戦争)、1941年12月ハワイ真珠湾攻撃によってアメリカと開戦し、東南アジア・太平洋方面において、連合国(アメリカ・イギリス・オランダ・中国など)と太平洋戦争に突入した。

日本降伏(1945年8月)までの道のり
1938年以降
日本、「国家総動員法」公布・施行

●中国との全面戦争突入(1937年盧溝橋事件)に伴い、後方支援体制のため、日本のすべての資源、資本、労働力などを政府が統制できる「国家総動員法」(1938年)を公布・施行した。これにより国内外で軍需品の優先的確保や、国民徴用令によって軍需産業に一般国民の動員ができるようになった。また財閥や大企業も軍部に協力して、軍需生産に積極的に協力していった。そして思想統制・戦意高揚(大政翼賛会・隣組)、言論・思想弾圧(検閲・特高)などが激しくなっていった。

1942年以降
(国内重要項目)

●大日本婦人会発足(1942/02)・・大政翼賛会に加盟し、国家・社会・家族への奉仕を綱領として、軍部・官庁の監督のもと防空訓練、貯蓄増強、廃品回収などの活動を行った。会員資格は20歳未満の未婚者を除く日本人女子全員。
●食料管理法公布(1942/02)・・国家による食料の生産・流通管理体制が完成した。
●戦時刑事特別法公布(1942/02)・・戦時下の犯罪をより厳しく罰した。そして被疑者・被告人の権利を大幅に制限した。
●中小商工業の再編成と職業転換促進(1942/03)


日本本土初空襲

●日本、本土を初空襲(1942/04)される。・・アメリカ空母ホーネット発進のB52爆撃機16機、東京・名古屋など爆撃。


●金融統制団体令公布施行(1942/04)・・全国各金融機関を統合一体化し、挙国体制の要請に応える。
●言論統制と用紙統制(1942/07)・・新聞を1県1紙制にする。
●言論抑圧体制(1942/12)・・大日本言論報国会が発足。日本的世界観を確立して大東亜新秩序を建設する。文学界も戦争賛美と国家主義を鼓吹し、画壇も「戦争画」で協力した。

「密林の死闘-ニューギニア」(一部分)佐藤敬と「アッツ島玉砕」藤田嗣治(白黒写真)

(左絵)佐藤敬。(右白黒写真)藤田嗣治。(出典:「太平洋戦争名画集」毎日グラフ臨時増刊1967/11/3)


●(私見だが)これらの戦争画は戦争賛美とは決して思えない。藤田嗣治は戦争画を書いて、戦争協力者として非難され日本を追われた。藤田嗣治の絵と同様、「密林の死闘-ニューギニア」の絵も、兵士の内面にまで踏み込んだ芸術性の高い絵画であると感じられる。

1943年以降 ●間接税を中心に増税(1943/01)・・酒税・砂糖消費税・遊興飲食税などのほか、写真撮影などを創設
●米英音楽演奏禁止(1943/01)・・ジャズなど約1000曲の演奏を禁止。敵性語も禁止(セーフ→よし、ニュース→報道など)


日本軍ガダルカナル島撤退

●日本軍ガダルカナル島を撤退(1943/02)・・大本営は「転進」と言いつくろう。下のリンクしたNHKの大本営発表を見てください。「海ゆかば」は第二の国歌として愛唱され、戦時中のラジオ放送で、大本営発表の冒頭に流された。また「出陣学徒壮行会(学徒出陣)」のところでリンクした映像でも、明治神宮外苑競技場全体が「海ゆかば」に包まれて学徒出陣を送っている。

*リンクします「ガダルカナルの戦況」NHKアーカイブス
*リンクします「海ゆかば」NHKアーカイブス
「海(うみ)行(ゆ)かば 水(み)漬(づ)く屍(かばね)山(やま)行(ゆ)かば 草(くさ)生(む)す屍(かばね)大(おお)君(きみ)の 辺(へ)にこそ死(し)なめ かへりみはせじ」

(大意:海では水につかった屍になろうとも、山では草が生えた屍になろうとも、天皇の足下で死ねるなら、決して後悔はしない)

「撃ちてし止(や)まむ」

●陸軍、決戦標語「撃ちてし止(や)まむ」(敵を撃たずにおくものか)(1943/02)・・ポスター5万枚内外地に配布。
左写真 日本劇場の壁面に張り出された「撃ちてし止まむ」の陸軍省ポスター(撮影:金丸重嶺)1943年 中村国利 東京・有楽町(出典:「目撃者」朝日新聞1999年刊)
●この「撃ちてし止(や)まむ」というのは、日本書紀の神武天皇の巻に複数ある。下のリンク先の「国立国会図書館デジタルコレクション」のコマ番号12を選んでください。下段でその部分の一歌を引用した。

「・・先づ八十梟帥(やそたける)を国見丘(くにみのをか)に撃ちて破りて斬りたまひつ。是の役(えたち)に、天皇志(みこころざし)必ず克ちなんといふことを存(たもち)たまへり。乃(すなわ)ち御(み)謠(うたよみ)して曰(のたまは)く、

カムカゼ(神風)ノ、イセノウミ(伊勢海)ノ、オホイシ(大石)ニヤ、 イハヒモトヘル、シタダミ(細螺)ノ、シタダミノ、アゴ(吾子)ヨ 、アゴヨ、シタダミノ、イハヒモトヘリ、ウ(撃)チテシヤ(止)マム、ウ(撃)チテシヤ(止)マム。

謠(みうた)の意(こころ)は大石を以て其の国見丘に喩(たと)へたまふなり。・・・

など複数の歌がある。

「訓讀日本書紀. 中巻」→国立国会図書館デジタルコレクション
●金属回収本部官制公布施行(1943/03)
●厚生省、出生増加と結婚奨励(1943/04)
連合艦隊司令長官・山本五十六戦死

●連合艦隊司令長官・山本五十六(いそろく)が戦死する(1943/04)。・・アメリカ軍、暗号解読し待ち伏せして撃墜する。元海軍次官。(アメリカは、山本が三国同盟に強硬に反対し、日米開戦を回避しようとし、陸軍を毛嫌いしていたことを、戦後知ったという)
●山本五十六は、新潟長岡藩の断絶となった上席家老山本家を、高野家から養嗣子(家督相続人となる養子)として継いだ。山本家は戊辰戦争時、河井継之助とともに新政府に反抗したため賊軍となり、山本帯刀は斬首され河井家とともに家名断絶となった家柄である。高野家も長岡藩の武士の家系であり、後に山本家が再興を許された時、旧藩主牧野のくちききにより後を継いだ。妻は会津藩士の娘であった。(長州藩に対する思いは、会津藩士「柴五郎」と同じようなものがあったのであろうか)写真は長岡に帰郷した、若い頃の山本五十六。(星野個人所有)

●東条内閣改造(1943/04)・・翼賛政治体制を強化。強まる東条独裁
●健民運動強調期間始まる(1943/05)
●陸軍、少年兵の志願年齢を14歳に引き下げる(1943/05)


覚醒剤ヒロポン

●ヒロポン(覚醒剤)が軍隊や軍需工場で使用され、多くの製薬会社から同様の覚醒剤も市販された。・・眠気や疲労感がとれ、精神高揚作用があり、ドイツ陸軍の使用により日本軍にも導入されたといわれる。(1951年覚醒剤の使用・所持が禁止された)


●工場法戦時特例により工場就業時間制限令廃止(1943/06)・・女子・年少者の深夜業と構内作業を認可。


●「学徒戦時動員体制確立要綱」を閣議決定(1943/06)・・学生生徒を産業労働力の有力な供給源として位置づけ、食糧増産・国防施設・緊急物資増産・輸送力増強の重点事業に、中等学校3年生以上を学校単位で勤労動員として送り込んだ。そして戦況悪化にともない、学徒動員は徹底され苛酷となっていった。敗戦までに動員された学徒数は340万人を超えた。


●「女子勤労挺身隊」の編成を決める(1943/09)・・17の職種に男子の就業を禁止し、代わりに女子を就業させた。新規女学校卒業生と、14歳以上の未婚の女性を、軍需工場や政府作業庁などに出動させた。1944年9月には「女子挺身勤労令」を公布し、法的根拠を与えた。敗戦までに動員された女子挺身隊の動員数は約47万人だった。


●国民徴用令改正公布(1943/07)・・これは、国が必要と認めるときは随時「徴用」できるもので、範囲は事業主までに拡大した。徴用は国民登録された16~40歳の男子と、16~25歳未満の女子を、重要産業に強制配置するもので「白紙召集」と恐れられた。
●学生・生徒の徴兵猶予停止(1943/10)


「出陣学徒壮行会」

●東京の「出陣学徒壮行会」(学徒出陣)が明治神宮外苑で挙行された(1943/10)・・文部省主催で、東京とその近県77校(東京帝大・早大など)から集まった学徒が、スタンドを埋めた6万5千人のなかを東条英機首相らの閲兵を受け・行進した。この全国で行われた学徒出陣により、入営した人数は、推定13万人といわれる。

*リンクします「出陣学徒壮行会」NHKアーカイブス

●都市疎開実施要綱決定(1943/12)・・疎開区域は京浜、阪神、名古屋と北九州地方の主要都市12都市。

1944年以降 ●内務省、初の「建物疎開命令」を出す(1944/01)・・東京都と名古屋市の密集地域。


(横浜事件)「小林多喜二の二の舞を覚悟しろ!」

●神奈川県警察特高課、「中央公論」と「改造」の編集者を治安維持法違反容疑で検挙(横浜事件)(1944/01)・・「小林多喜二の二の舞を覚悟しろ!」と怒鳴られロープ、木刀などによる殴る蹴るの拷問を受け、4人が獄中で死亡、別の4人も保釈後死亡した。

小林多喜二の拷問死

「朝日新聞に見る日本の歩み」と「昭和 2万日の全記録」から、小林多喜二(こばやしたきじ)の拷問死についての記事をのせる。当時の「朝日新聞」では、まるで病死あつかいである。「共産党の壊滅」部分は「日本の歴史第12巻・読売新聞社1963年刊」より引用。

下

1944年以降 ●決戦非常措置要綱を閣議決定(1944/02)・・総動員体制のいっそうの徹底化を図った。学徒勤労動員の強化、防空体制の強化と疎開の促進など15項目。
●決戦非常措置要綱に基づき、6大都市の国民学校児童200万人へ給食開始(1944/04)
●防空総本部、都市居住者に「身元票所持」(上着の裏側に縫い付ける)を通牒。


●中国の成都からB29(アメリカ軍長距離爆撃機ボーイングB29)飛来、北九州を初めて空襲。(1944/06)
●マリアナ海戦で日本大敗(1944/06)


サイパン島陥落(1944/07)

●日本本土、B29の射程に入る。1944年8月からアメリカ軍は、サイパン・テニアンをB29・B24の基地として使用を開始した。1944年11月には、マリアナ基地(サイパン・テニアン・グアム)からB29が東京を空襲した。サイパン島陥落では、守備隊4万人全滅し、追いつめられた住民(5000人)は、アメリカ軍の投降の呼びかけにもかかわらず断崖から身を投じた「バンザイクリフ」。民間人を犠牲にした「サイパンの悲劇」はテニアン、グアム、沖縄でも繰り返された。ウイキペディア「サイパンの戦い」にはつぎのようにある。

・・民間人の最期の様子はアメリカの従軍記者によって雑誌『タイム』に掲載され、世界中に配信された。特に入水自決の一部始終を撮影したフィルムは1シーンしかなく、入水者は会津出身の室井ヨシという婦人であった。下段のNHKの動画にそのシーンがある。
*リンクします「サイパン島陥落」NHKアーカイブス

●東条内閣総辞職(1944/07)小磯・米内連立内閣誕生。


●閣議「1億国民総武装」を決定・・竹槍訓練などが始まる(1944/08)
●東京都第1次学童集団疎開出発(1944/08)・・板橋区から群馬県妙義町、品川区から都下瑞穂町など。


●「流言飛語」や不満や批判は、特高によって取り締まられた。そして特高(警察)・憲兵・隣組などによる監視は、戦争の長期化と戦況の悪化によってさらに強化された。


「神風攻撃隊」

●初の海軍「神風攻撃隊」(1944/10/25)レイテ沖に出撃。最初の神風(しんぷう・かみかぜ)攻撃隊は、本居宣長の歌

『しきしまの大和心(やまとごころ)を人(ひと)問(と)はば朝日(あさひ)ににほふ山(やま)さくら花(ばな)』

からとられた。「敷島隊」・「大和隊」・「朝日隊」・「山桜隊」そして「菊水隊」がくわえられた。


●人間魚雷「回天初の特攻」(1944/11)・・パラオなどのアメリカ艦隊泊地へ「回天」による攻撃を実施。
●東海地方にM8.0の大地震が発生。(東南海地震)(1944/12/07)・・重要な軍需工場に多大の被害が出たため、厳重な報道管制がひかれ、地震の被害は小さく報道された。
●B29約80機、名古屋を初の本格空襲(1944/12/13)

日本降伏前夜(1945年)
1945年(太平洋戦争末期の年)
日本は全土に無差別焼夷弾爆撃を受ける

●1945/03/9~10東京大空襲。この時の死者数10万人以上。(1944/11月以降106回)
●3/13日大阪空襲。(5ヶ月間で33回)
●3/17日神戸大空襲。(3/17・5/11・6/5の3回の大空襲で神戸は壊滅した)
●1944年末から約180都市の総死者数24万人以上100万人(不確定)。

上左写真「B29による大阪大空襲。右中央に大阪城が見える。1645/06/01 U.S.Army Air Forces(共同通信社)大阪」。
上右写真「焼夷弾攻撃で焼き払われた大阪。月面クレーターのような1トン爆弾の穴が空襲のすさまじさを物語っている」(出典:「昭和2万日の全記録・第7巻」講談社1989年刊)


●この日本本土爆撃(夜間爆撃、焼夷弾爆撃、低高度爆撃、無差別爆撃)を立案実行したのは、1945年1月末にヨーロッパ戦線より赴任したカーチス・ルメイだった。戦後彼は言った「もし戦争に敗れていたら私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸運なことにわれわれは勝者になった」とウイキペディアにはある。またこれも有名な話だが、戦後日本政府は、このルメイに航空自衛隊の育成に貢献したとして、勲章をあげたそうです。


写真「8万人が死亡した東京大空襲:折り重なる炭化した死体 1945/03/11 石川光陽 東京・本所」(出典:「目撃者」朝日新聞1999年刊)
1945年02/04
ヤルタ(クリミア半島ウクライナ)会談を開く

●ルーズベルト大統領(アメリカ)、チャーチル首相(イギリス)、スターリン首相(ソ連)は、第2次世界大戦後の世界の体制を決めるため会談を開いた。(写真出典:「昭和2万日の全記録・第7巻」講談社1989年刊)

その内容は、①世界平和機構の設置②ポーランド問題③ドイツの戦後処理などであった。そして日本について重要なことは、アメリカがソ連に対日参戦を要請し、それに対してソ連がドイツ降伏の3ヶ月後日本に対して宣戦布告することを約束したことである。それに関してスターリンはルーズベルトに次のように言ったという。

わたしとモトロフ(ソ連外相)にとっては、次の条件が満たされなければ、日本を敵として参戦する理由を国民に説明できない。ドイツとの戦争は国民もよく理解しているが、大きい紛争を抱えてもいない日本を敵として、ソ連が戦争しなければならないかは理解できないだろう。その政治的条件が満たされるならば、国民は対日戦争を国家利益にかかわることなのだと納得するだろう。

その条件(密約)とは次のようであった。

(ポイント)1904年(日露戦争時)に侵害されたロシア国の旧権利を回復するため①樺太南部および隣接する全ての島の返還②大連商港の優先的利益と旅順港(海軍基地)の租借権の回復③東清鉄道と南満州鉄道は中ソ合併会社が運営するがソ連の優先的利益は擁護される④千島列島はソ連に引き渡される。などである。

●しかしドイツ降伏後アメリカは、ヨーロッパにおける勢力分割をめぐってソ連と決定的に対立し、日本占領についてもソ連を排除した形で構想するようになった。(1945/08/16日本降伏後、スターリンはアメリカ大統領トルーマンに、北海道北半分をソ連の占領地域として認めるように要求している。トルーマンはこれを断固として拒否したが、日本の最高戦争指導部が降伏を遅らせば遅らせるほど、日本は間違いなく、ドイツ・朝鮮と同様に分断占領されたことであろう。いいかえれば朝鮮が日本の代わりに分断されたといっても過言ではない。)(注)ソ連=ソビエト社会主義共和国連邦。1922年成立、1991年崩壊。

1945年03/17
日本軍の硫黄島守備隊全滅

●硫黄島の戦いでの両軍の死傷者数は、2/19~3/26までに、アメリカ軍死傷者2万6千人弱、日本軍死傷者2万数百人(戦死1万9千9百人)とされる。そしてこの結果、硫黄島はアメリカ軍の日本攻撃に大きな役割を担うこととなった。それはサイパン・テニアン・グアム島から発進したB29爆撃機の不時着飛行場となり、またB29の護衛機である新鋭戦闘機p51(史上最高のレシプロ戦闘機といわれた)の基地となったのである。(左写真)グアム島のノースフィールドに勢ぞろいしたB29(毎日新聞社提供)(出典:「写真記録日中戦争」ほるぷ出版1995年刊

*リンクします「硫黄島玉砕」NHKアーカイブス
1945年04/01
アメリカ軍、沖縄本当上陸作戦を決行

●上左写真「1945/4/7沈没する戦艦大和」(戦艦大和《海上特攻》)(菊水作戦《神風特攻含む》)出典:「昭和2万日の全記録・第7巻」講談社1989年刊)
●上右写真、沖縄県渡嘉敷島にロケット弾の一斉攻撃を加えるアメリカ艦隊(出典:「写真記録日中戦争6・敗戦と解放」ほるぷ出版1995年刊


●(左写真)「沖縄・洞窟のなかから助け出されて、米海兵隊の兵士の水筒から水を飲む少女。月刊沖縄社」出典:「昭和2万日の全記録・第7巻」講談社1989年刊)
●1945年6月までの日本側死者数18万8千人《うち沖縄住民死者数9万4千人》。講談社:昭和2万日の全記録「住民にとっての沖縄戦の章」では次のようにある。
日本側の死者・24万4千余。うち正規軍6万6千弱、防衛隊2万8千余、戦闘協力者5万5千余、住民9万4千余。戦闘協力者は純粋に住民と見なしてよいので合わせて15万人。正規軍の2.2倍の数である。沖縄の住民にとって、敵はアメリカ軍と日本軍であり、住民はその狭間にあって犠牲となった。
●「日本軍による住民虐殺(スパイ容疑)=5/5参謀長名による公布文書の例『軍人軍属を問わず、標準語以外の使用を禁ず。沖縄語を以て談話しある者は間諜(スパイ)として処分す』」
●「国土防衛義勇隊(地域防衛のため現地在住の男性により組織された軍事集団)」
●「鉄血勤皇隊(日本軍史上初の14~17歳の学徒隊《少年兵部隊》)」
●「ひめゆり部隊=6/18摩文仁村の洞穴で自決。前線で負傷兵看護の沖縄師範女子部と県立第一高女の女学生ら49名」
●「日本軍による集団自決強制(一例)=3/26~3/27、座間味島・渡嘉敷島・慶留間島で合計560人死亡」など(出典:昭和2万日の全記録7巻講談社1989年刊)
*リンクします「沖縄戦の歴史」「沖縄市民平和の日」サイト
1945年04/05
ソ連、日ソ中立条約(翌年期限切れ)を破棄。

●ソ連、日ソ中立条約(翌年期限切れ)を延長しないことを日本に通達。(ソ連側は「破棄」と表現)ヤルタ会談(1945/02)で対日参戦を決定していた。

1945年04/07
鈴木貫太郎(78歳)内閣が成立

●陸軍は、陸軍大臣に阿南惟幾(あなみこれちか)大将を出し、本土決戦を戦い抜くため、「最後の一兵まで戦う」「本土決戦訓5ヶ条」を布告した(下段)。
●阿南惟幾陸軍大臣は、8/15敗戦の日の未明、割腹の後自ら頸動脈を切り自決した。『一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル』と遺書にはあった。


写真「阿南惟幾陸軍大将」(出典:「写真記録日中戦争6・敗戦と解放」ほるぷ出版1995年刊

「本土決戦訓5ヶ条」
①神州不滅の信念に徹し、聖諭(天子の勅諭)の遵守に邁進し、最後まで戦え。
②皇土(天皇の治める国土)を死守すべし。
③その時がくるのをしっかり訓練して待て。
④体当たり精神に徹せよ。
⑤一億戦友の先駆たれ。戦友である国民全員の先駆として、皇軍将兵はすべて死ね。
1945年05/07
ドイツ、ヒトラー自決(4/30)。連合国に無条件降伏する(5/7)


●上左写真「死の直前のヒトラー」(別のA..J.Pテイラ-の本)では「爆撃されたドイツの町を久し振りに訪れたヒトラー」とある。
(出典:「写真記録日中戦争6・敗戦と解放」ほるぷ出版1995年刊
●上右写真「4/22ベルリン陥落の日、ドイツ国会議事堂の上に赤旗を立てるソ連兵」(出典:「昭和2万日の全記録・第7巻」講談社1989年刊)。朝日新聞社の「目撃者」では「1945年4/30」とある。

1945年5月中旬
日本、和平工作を進める

●日本は「最高戦争指導会議」で、沖縄戦のさなかではあったが、いざとなればソ連を仲介として和平を実行しようと決定する。(最高戦争指導会議6名=鈴木総理大臣・東郷外務大臣・阿南陸軍大臣・米内海軍大臣・梅津参謀総長・及川軍令部総長)

1945年06/08
日本「御前会議」を開く

●日本国の今後採るべき戦争指導の基本大綱は「あくまでも戦争完遂し、もって国体を護持し、皇土を死守すること」に決定した。しかし戦況の極度の悪化と空襲激化により、外交的手段としてソ連の仲介による和平を期待するようになった。しかし日本政府は次のことを知るはずもなかった。
①ソ連はヤルタ会談(1945/02)で、ドイツ降伏後3ヶ月後に日本攻撃をすることが決まっていたこと。
②ソ連は、アメリカの原爆開発の情報をつかみ、より早く日本攻撃実施を意図していたこと。
③アメリカもソ連参戦前に早く日本を降伏させたかったこと、等である。
(注)「御前会議」=明治憲法下で、国家の重大な緊急事件について、天皇出席のもとに、重臣・大臣などが催す会議。

1945年06/23 ●日本、義勇兵役法公布施行する。男15歳~60歳・女17歳~40歳を国民義勇戦闘隊に編成した。日本は国民全員が兵隊となったのである。そして「国民抗戦必携(4月配布)=上陸してくるアメリカ兵との戦い方《・・刀や槍を用いる場合は斬撃や横払いよりも背の高い敵兵の腹部目がけてぐさりと刺した方が効果的である。・・・》等」「勤労奉仕」「少年兵」「竹槍訓練」「1億玉砕」である
1945年06/30
(強制連行された)中国人が蜂起する

●秋田県花岡鉱山にて、強制連行の中国人労働者850人が酷使に抵抗して蜂起した。1944年以降で収容された986人のうち420人が死亡していた。BC級戦犯横浜裁判において判決(絞首刑から終身刑へ減刑)もでたが、戦後損害賠償訴訟が鹿島に対して起こされ和解勧告もされた。(1985年以来、大館市は毎年蜂起の日に中国人殉難者慰霊式を開いている)


秋田の「秋田魁新報社」の2016/06/30掲載の記事には次のようにある。(一部抜粋)

●花岡事件71年、犠牲者の冥福祈る 慰霊式に180人参列
戦時中に秋田県花岡町(現大館市)へ強制連行された中国人労働者が酷使や暴力に反発し一斉蜂起した花岡事件から71年を迎えた30日、同市花岡町の十瀬野公園墓地で中国人殉難者慰霊式が開かれた。事件の遺族を含め日中の関係者約180人が参列。平和と友好を改めて誓い、犠牲者の冥福を祈った。
 慰霊式は旧花岡町が1950年に始め、大館市が引き継いで主催している。主催者を代表し福原淳嗣市長が「過去の悲惨な事実を決して風化させてはならない。事件を歴史の教訓とし、日中両国の友好と世界の恒久平和のために市民と共に努力することを誓う」と式辞を述べた。
1945年07/16
アメリカ、人類初の原爆実験に成功

●アメリカ、ニューメキシコ州アラモゴードにて、人類初の原爆実験に成功する。目標は当初より日本だった。

1945年07/26
アメリカ・イギリス・中国、ポツダム宣言発表

左からイギリス・チャーチル、アメリカ・トルーマン、ソ連スターリン。(共同通信社)(出典:「昭和2万日の全記録・第7巻」講談社1989年刊)

ポツダム宣言

アメリカ合衆国大統領、イギリス首相、中華民国主席の名において、大日本帝国(日本)に対する、降伏要求の最終宣言を行った。ポツダム宣言には、ソ連は日ソ中立条約があるため署名していない。(カタカナをひらがなにし、濁点、句読点を追加し、ふりがなを追加し、漢数字を英数字にして読みやすくした)
●特に第10条の「吾等は日本人を民族として奴隷化せんとし又は国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものに非(あら)ざるも、吾等の俘虜(ふりょ=捕虜)を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰加えらるべし。・・・」とあり、日本はあらゆる公文書の「証拠隠滅」を図ったといわれる。

(ポツダム宣言)
1945年7月26日米、英、支三国宣言。(1945年7月26日「ポツダム」に於て)

下

*リンクします「ポツダム宣言」国立国会図書館・重要資料「ポツダム宣言」
1945年07/28 ●ポツダム宣言に対する日本の各新聞社の報道発表。各新聞社は内閣情報局の指令で、戦意高揚をはかる言葉を並べて報道した。

「笑止、対日降伏条件、戦争遂行に邁進、帝国政府問題とせず」(読売報知)
「米・英・重慶、日本降伏の最後条件を声明、三国共同の謀略放送、政府は黙殺」(朝日新聞)
「笑止!米英蒋共同宣言、自惚れを撃砕せん、聖戦を飽くまで完遂」(毎日新聞)

(出典:「昭和史」半藤一利著・平凡社2004年刊など)

1945年08/06
アメリカ、原子爆弾投下


●アメリカ、原子爆弾(新型爆弾)を広島に投下。1945年8月~12月の間の被爆死亡者は、9万人ないし12万人と推定。また1976年広島市による国連事務総長への報告では、1945年末の総死亡数は14万人(誤差1万人)となっている。また朝鮮人(軍需工場や軍関係の労務に従事させられていた)の死者数は5000人~8000人、韓国の原爆被害者援護協会では3万人と推定されている。また中国人(留学生・軍人・軍属・強制連行)、東南アジア出身留学生、アメリカ人捕虜、オーストラリア人捕虜、外国人修道女・修道士・神父らが被爆・死亡した。(出典:昭和2万日の全記録7巻講談社1989年刊)アメリカは日本が降伏しなければさらに原爆を投下すると警告。
上写真「かろうじて外形をとどめた爆心地に建つ産業奨励館(原爆ドーム)1945年8月宮武甫(朝日新聞社)広島」(出典:「目撃者」朝日新聞1999年刊)

*リンクします「広島平和記念資料館WebSite」「広島平和記念資料館」
広島と長崎の原爆「昭和ニッポン」1億2千万人の映像 講談社DVDBOOK

●ここで講談社の「昭和ニッポン」2005年発行(第1巻)を紹介する。講談社創業100周年記念企画とあり、豊富で貴重な映像が収録されており、ぜひ購入をお勧めする。動画・出典:「昭和ニッポン」2005年発行(第1巻)一部紹介
●広島・長崎、原爆投下。(アメリカ軍が上空から撮影した有名な動画。広島の最初の画像のブレは、原爆の衝撃波によるといわれる。そのため長崎ではもっと高空から撮影したといわれる。)
※動画を見るときは、写真を左クリックしてください。別ページで再生されます。
また右クリックで別の方法も選択できます(mp4動画、サイズ3MB、36秒)

日本、降伏決断へ
1945年08/09
午前0時すぎ
ソ連、日本に宣戦布告(8/8)。ソ連極東軍130万人侵攻(8/9)

●ソ連軍は数カ所で国境線を突破し、満州・朝鮮・南樺太に侵攻を開始した。ソ連のスターリンはアメリカの広島原爆投下によって対日参戦を早め、北海道の北半分・千島列島全て・満州の領有を狙って侵攻した。
●前日の夜、ソ連のモトロフ外相はモスクワで、日本駐ソ大使に対して宣戦布告を通告した。
●日本軍(関東軍)は、この侵攻に対して在留邦人(約155万人)を置き去りにして北部一帯から退却した。このため日本本土へ逃げる(引き揚げ)までに約18万人が死亡、特に満州開拓民の1/3の8万人が死亡した。(逃げ切れず数多くの開拓民たちが集団自決したといわれる)そして残され、救われ、中国人に引き取られた戦争孤児たちは数千人に達したといわれる。
●一方関東軍は大本営からの即時停戦命令を受け、ソ連軍と停戦交渉に入り8/26頃には全ての戦闘を終結した。しかし満州・樺太・千島から約57万5千人の軍人等が捕虜となり、「シベリア抑留」され各地(モンゴルや中央アジア、北朝鮮、カフカス地方、バルト三国、ヨーロッパロシア、ウクライナ、ベラルーシなど)の捕虜収容所に送られ苛酷な強制労働をさせられ約5万5千人が死亡した。
●日本では、この抑留者に対する帰国事業が1947年~1956年にかけて行われ47万3千人が帰国した。残りの約4万7千人は「病弱のため入ソ後旧満州・北朝鮮に送られた者等」と厚生労働省のサイトにはあります。
(写真)ソ連からの帰国事業で乗船前の抑留者たち。(出典:「写真記録日中戦争」ほるぷ出版1995年刊

*リンクします「シベリア抑留中死亡者に関する資料の調査」厚生労働省
●個人的なことだが、自分の叔父(父の弟)の戸籍には次のようにある。『昭和21年(1946年)2月18日特別不明満州黒河(こくが)省(現在の黒竜江省)黒河病院で戦病死』・・父は死ぬまで、弟の行方を探していた。
1945年08/09
午前
日本、最高戦争指導会議を開く

●日本は関東軍からソ連侵攻の連絡を受け最高戦争指導会議を開いた。ポツダム宣言を受諾する流れとなったが、宣言における天皇制・武装解除・戦犯の処置などについて議論が起こり会議は紛糾した。

1945年08/09
午前11時
アメリカ、長崎に原爆投下

●アメリカ軍のB29は目標であった北九州小倉が雲のため目視できず、目標を長崎に変更して第2の原爆を投下した。(1945年11月時点で死者7万5千人と発表された)

*リンクします「長崎原爆資料館」「長崎市平和・原爆《長崎原爆資料館》」
1945年08/10
日本、条件付でポツダム宣言受諾を通告

●ついに日本政府はポツダム宣言受諾を決断し、中立国であったスイスとスウェーデン駐在の日本大使を通して、条件付(天皇制の維持)で受諾を通告した。
●しかしアメリカとソ連の回答は遅れた。

1945年08/12
(夜)
連合国回答(バーンズアメリカ国務長官名)

●連合国は、サンフランシスコ放送を通じて次のような回答を伝えた。

日本の政治形態は日本の国民の意志によって決定すること。日本本土占領時、天皇および日本国政府の国家統治の権限は、連合軍最高司令官の下に置かれるとする、と。
1945年08/13
(朝)
日本、最高戦争指導会議を開く

●軍部は、連合国の回答文に対し、この内容では国体の破滅、皇国の滅亡を招来するとして、再度条件の確認を求めるべきと主張し結論はでなかった。しかし陸軍はクーデタで鈴木内閣を倒す計画をすでに立てていた。そしてその発動を翌08/14朝10時と決めていた。しかし阿南陸軍大臣と梅津参謀総長は、8/14朝クーデタに反対したため計画はストップした。

1945年08/14
(朝)
日本「御前会議」を開く

●鈴木首相は天皇と会い、最高戦争指導会議の構成員と閣僚全員と枢密院議長で、最後の意志決定を天皇による「聖断(=天子の決断で逆らうことはできない)」で戦争終結を行おうとした。基本的に天皇は立憲君主なので、政治に関わることはなかった。その時の天皇の言葉は次のようであった。(出典:「昭和史」半藤一利著・平凡社2004年刊)

「反対論の趣旨はよく聞いたが、私の考えは、この前言ったことに変わりはない。私は、国内の事情と世界の現状をじゅうぶん考えて、これ以上戦争を継続することは無理と考える。

下

1945年08/14
日本、降伏を決定

●閣議が開かれ、正式にポツダム宣言を受諾し降伏することが決定した。午後11時、中立国であったスイスとスウェーデン駐在の日本大使を通して、ポツダム宣言受諾を通告した。ここに日本は降伏した。そして終戦の詔書が作られ、午後11時20分頃、天皇による受諾の放送(08/15正午放送予定)がレコード盤に録音された。クーデター計画は、「軍人たるも聖断にしたがうほかない」という阿南陸相により実行されなかった。しかしメンバーの2人の将校が、独自に近衛第一師団を動員して反乱を試み、録音レコードの奪回も試みたが鎮圧された。

1945年08/15
正午
天皇による「戦争終結」の放送

●この放送は、難解な文語で述べられたために、一般の人には意味が正確に伝わらず、いよいよ本土決戦だと逆にはり切った人間もあった、といわれる。
●ここで終戦の詔書(しゅうせんのしょうしょ)の最初の部分と音声を引用してみる。

『朕深ク世界ノ大勢卜帝國ノ現状卜ニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲二忠良ナル爾臣民二告ク
朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國二對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
抑帝國臣民ノ康寧ヲ圖り萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措力サル所曩二米英二國二宣戦セル所以モ亦實二帝國ノ自存卜東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他國ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戦已二四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庶ノ奉公各?最善ヲ盡セルニ拘ラス戦局必スシモ好轉セス世界ノ大勢亦我二利アラス加之敵ハ新二残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻二無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所眞二測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ繼續セムカ終二我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊二謝セムヤ是レ朕力帝國政府ヲシテ共同宣言二應セシムルニ至レル所以ナリ・・・・後略』

*リンクします「終戦の詔書」→「国立公文書館 デジタルアーカイブ」

(Google Chromeでも音声ボタンで音量が調整できるようになりました《2018.12》。)

(出典:(音声)YouTube「玉音放送」から)

日本・降伏文書調印

●しかし、日本の太平洋戦争は「ポツダム宣言」受諾を通知するだけで終わるわけではない。正式に連合国諸国代表に対し降伏文書に調印しなければ戦争は終わらない。日本の降伏文書調印式は、1945/09/02東京湾のアメリカ軍艦ミズリー号で行われた。降伏文書に署名した連合国は、アメリカ・中国・イギリス・ソ連・オーストラリア・カナダ・フランス・オランダ・ニュージーランドの計9カ国だった。1945/08/14ポツダム宣言受諾の通知から18日が過ぎていた。

各国における降伏文書調印(交渉)の写真の一部
年・月 写真
1945年9月2日
ミズリー号降伏文書調印(東京湾)

日本側全権団。外務大臣・重光葵、参謀総長・梅津美治郎ほか9名。

1945年9月9日
朝鮮における降伏。ホッジ中将(アメリカ軍)

1945年9月9日
南京(中国)日本軍降伏調印式

中国軍総司令官・何応欽に投降書を渡す。

1945年10月25日
台湾における降伏調印式

台湾総督・安藤利吉が署名。安藤は戦犯として上海監獄収監中に自殺(1946年)。

1945年 ソ連極東軍総司令官ヴァシレフスキーと日本の関東軍参謀長・秦彦三郎中将との降伏交渉。
アジア各地の日本軍の降伏

●アジア各地の日本軍は8/15以降それぞれ降伏していったが、同時に降伏したわけではなく、多くの混乱が起きた。
例えばインドネシアでは、推定で500~2000人が独立軍に身を投じ、オランダ軍と戦った。中国では国共内戦に巻き込まれ、共産軍の討伐に利用された部隊もあった。またグアム島の横井庄一元伍長は日本の降伏を知らず、約28年後の1972年発見され日本に帰還した(戦友2人は8年前に死んだという)。帰還する時の『・・恥ずかしいけれども帰ってきた・・』の言葉は日本人にショックを与えた。この帰還した1972年2月2日のNHKの報道特別番組『横井庄一さん帰る』は、59.8%の高視聴率を記録した。1950年、 フィリピン・ルバング島で日本軍敗残兵が投降したが、そのまま戦闘を継続した小野田少尉が投降し日本に帰還したのは1974年だった。

(左)グアム島メモリアル病院の横井庄一さん。(毎日新聞社提供)(右)小野田寛郎さん。(共同通信社提供)(左右写真・出典:「写真記録日中戦争6・敗戦と解放」ほるぷ出版1995年刊

●しかし一方日本国内においても、強制連行で北海道の昭和炭鉱で働かされていた中国人の劉連仁さんは、日本敗戦の直前(1945/07)山に逃亡したが、発見されたのは1958/02(13年後)だった。
*リンクします「降伏文書」国立国会図書館・重要資料「降伏文書」
*リンクします「横井庄一さんグアム島より帰る」NHKアーカイブス

日本、第10条連合国による戦犯裁判を受諾

●忘れてはならないのは、「ポツダム宣言」を受諾し、降伏文書に調印したことにより、ポツダム宣言第10条の連合国による戦犯裁判を受諾したことである。

『吾等は日本人を民族として奴隷化せんとし又は国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものに非(あら)ざるも、吾等の俘虜(ふりょ=捕虜)を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰加えらるべし。・・』

これが連合国によるA・B・C級戦犯裁判である。特に、東京裁判において、日本国民は日本軍の捕虜に対する行為や、非人間的な残虐行為について初めて知る所となり衝撃を受けた。東京裁判について多くの評価があるが、日本政府の公式見解はつぎのようである。

「日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)」11条により、日本国はこの裁判および他の連合国法廷の裁判を受諾したため、異議を申し立てる立場にない。

この判決文B部第8章の通例の戦争犯罪(残虐行為)の箇所は、日本人として読むのがつらい。

*リンクします「東京裁判判決 : 極東国際軍事裁判所判決文」極東国際軍事裁判所 編 毎日新聞社1949年刊
国立国会図書館デジタルコレクション

海外で行われたBC級戦犯裁判

●また、海外で行われたBC級戦犯裁判について概要は以下のようである。あまり知られてはいない。(東京裁判でのA級戦犯は、絞首刑7名、終身禁固刑16名、有期禁固刑2名である。BC級戦犯裁判の方がはるかに多くの軍人・軍属らが処刑された。)

連合国は、「東京裁判」が始まる前、日本が占領していた地域で、戦争犯罪人を逮捕し軍事裁判を行った。マニラ、シンガポール、ラバウル、モロタイ、バタビア、メナド、グァム、サイゴン、北京、上海、南京、香港、横浜など計50ヵ所に法廷が設置され、件数2244、被告は5700人にのぼった。「東京裁判」がA級戦犯を被告としていたのに対し、海外で行われた裁判の被告は、戦争法規違反の現地責任者や、非戦闘員に加えられた殺人、虐殺、奴隷化もしくは人道に対する犯罪者で、BC級の戦犯者であった。一覧にすると以下のようである。
●BC級裁判結果(件数・民族別内訳・刑別人数)
各国軍事裁判 アメリカ イギリス オーストラリア オランダ フランス フィリピン 中国 合計
裁判件数 456 330 294 448 39 72 605 2244
被告人数(日本人) 1446 896 849 963 230 169 826 5379
被告人数(朝鮮人) 3 56 5 68 16 148
被告人数(台湾人) 4 26 95 7 41 173
死刑人数 143(3) 223 153 236(10) 63(37) 17 149 984
無期人数 162(2) 54 38 28(1) 23(4) 87 83 475
有期人数 871 502 455 705 112(2) 27 272 2944
無罪人数 188 116 267 55 31 11 350 1018
その他人数 89 83 36 14 1 27 29 279

(注)()内は判決確定後減刑。「その他」は控訴棄却・死亡・逃亡等。
(出典:昭和2万日の全記録7巻講談社1989年刊)


●この海外におけるBC級裁判の一例あげる。
○山下奉文大将は、マニラ軍事法廷でフィリピンにおける日本の残虐行為とマニラ市民への残虐、米軍捕虜への虐待などにより処刑(絞首刑)された。
○第14軍司令官本間雅晴中将は、フィリピン「バターン死の行進」(10万人に近い捕虜や難民)に対する責任を問われ、処刑(銃殺刑)された。
○南京軍事法廷では、第6師団長谷寿夫と、「百人斬り競争」の前線勇士として報道された少尉野田毅と向井敏明らが死刑。東京裁判では、中支那方面軍司令官松井石根陸軍大将が「南京大虐殺」(南京事件)の責任を問われて処刑された(B級戦犯)。

南京軍事法廷判決で、南京事件の被害者総数は30万人以上とされ、現在における中国の公式見解は、この数値に基づいている。
各国における対日勝利と解放
年・月 国・地域での写真
1945年8月16日
1945年9月
●(朝鮮)

●朝鮮の解放は複雑だった。9月9日朝鮮における降伏文書署名まで、朝鮮総督府と日本軍が治安を維持した。朝鮮建国準備委員会はまだ準備段階で、アメリカ軍は9/11日北緯38度線以南に軍政を敷いた。またソ連は進軍を続け南下してきたが、平壌に戻り38度線以北を統治した。
(写真)ソウル西大門刑務所が解放され万歳を叫ぶ政治犯。(出典:「写真記録日中戦争6・敗戦と解放」ほるぷ出版1995年刊
(写真)ソウルに進駐するアメリカ軍。(出典:「写真記録日中戦争6・敗戦と解放」ほるぷ出版1995年刊
1945年 ●(満州・ハルビン)
(写真)ソ連軍を歓迎するハルビンの人々。(写真、出典:「写真記録日中戦争6・敗戦と解放」ほるぷ出版1995年刊
1945年
●(中国)

毛沢東の書と写真(出典:「写真記録日中戦争6・敗戦と解放」ほるぷ出版1995年刊


●(左)毛沢東の書「慶祝抗日勝利、中華民族解放万歳」
●(右写真)抗戦勝利慶祝大会(延安)

1945年8月19日
●(8月革命ベトナム)

(写真、出典:「写真記録日中戦争6・敗戦と解放」ほるぷ出版1995年刊


●(左)ホー・チーミン大統領。1945年9月2日ベトナム民主共和国成立。
●(右)1945年8月19日ハノイで開かれた大集会。ベトナム全土にフランスと日本に対する蜂起がおこった(8月革命)

「ヴェトナム民主共和国独立宣言

●ここでベトナムの独立宣言を引用してみる。日本人は知らなくてはならない。
(出典)「人権宣言集」岩波書店1957年刊 より一部引用

下

朝鮮半島・独立と分断と朝鮮戦争

●一方朝鮮半島では、日本軍の降伏武装解除のため、38度線以北をソ連軍、以南をアメリカ軍が分断統治した。アメリカ側は、統一政府樹立のため、南北の統一選挙を行う事を国連に提案し(1947年朝鮮半島全域での選挙実施)採択された。しかし、1948年国連代表団はソウルには入ったが、北朝鮮では入国を拒否され、結局統一選挙はできなかった。南では1948年5月総選挙実施・憲法を制定し、8/15大韓民国が樹立された。北では1948年5月1日憲法制定し、9/9朝鮮民主主義人民共和国が樹立された。ここに朝鮮の南北分断が確定した。アメリカとソ連(朝鮮支配の強い意志)、李承晩と金日成の「先分断、後統一」の方針が背景にあったという。そして1949年6月までに、ソ連軍とアメリカ軍は朝鮮半島より撤退を完了した。

●しかし、1950年6月25日未明、北朝鮮は38度線を越境武力侵入し、韓国軍と全面衝突となり、朝鮮戦争(6.25動乱)が勃発した。
ソ連崩壊後の公文書(発見)によれば真相は次のようである。

「キムイルソン(金日成)は1950年の初めからソ連側に『南侵』の意向を伝えていた。スターリンは経済援助と軍事援助をあたえ金日成をなだめていたが、1950年4月下旬クレムリンで秘密会談をもった。金日成は『南侵』すれば、韓国軍は壊滅し、南の人民と共産主義者が蜂起する」と力説した。これに対してスターリンは「毛沢東が同意すれば、承認する」と条件つき承認を与えた。金日成は、1950/5/13~5/16北京を訪問し、毛沢東の同意を得た。そして金日成は、南侵してもアメリカは介入しないこと、そして李承晩政権が崩壊すればアメリカは朝鮮半島を放棄すると、判断した。そして6月25日未明、北朝鮮は38度線を越境武力侵入した、とされる。(出典:「激動!!北朝鮮・韓国そして日本」重村智計(しげむら・としみつ)著・実業之日本社2013年刊)

超大国米ソの戦いの世紀

●第二次世界大戦の後に平和が訪れたわけでない。アメリカは1946年7月1日と7月25日広島、長崎に続く原爆実験を行った。手前側に見える軍艦の中には、接収された帝国海軍の「長門」もあった。超大国米ソの世紀が始まる。


(出典:「昭和2万日の全記録・第7巻」講談社1989年刊)

世界史

Posted by hoshino