(19世紀頃まで)朝鮮(朝鮮王朝成立~大韓帝国成立)日本(明治維新)
2023年4月16日日本・中国・朝鮮
●日本は、天皇制を根幹とする大日本帝国を築き上げていく。明治維新である。
ここでは「朝鮮の歴史(旧版1974年・新版1995年)三省堂刊」、「朝日百科・日本の歴史近代1」・朝日新聞社1989年刊などを参考とし要約・引用した。明治維新の日本史は「日本の歴史・第10巻」読売新聞社1963年第14刷から要約・引用した。日本の昭和史は「昭和2万日の全記録・第6・7巻」講談社1989・90年刊などから要約・引用した。現代史は「激動!!北朝鮮・韓国そして日本」重村智計(しげむら・としみつ)著・実業之日本社2013年刊を抜粋要約した。
●日本では、徳川家康は秀吉の死後ただちに朝鮮から兵を撤退させ、国内統一へ邁進した。1600年の「関ヶ原の戦い」で豊臣家との天下分け目の戦いに勝利し、1603年武家の棟梁として朝廷より「征夷大将軍」に任命され江戸幕府を開いた。特筆すべきは、「禁中並公家諸法度」で、天皇の主な職務を定め、第1条は『天子諸藝能之事、第一御學問也。・・』として、朝廷すら法的に管理したことである。また「武家諸法度」第1条で、武家は『文武弓馬ノ道、専ラ相嗜ムベキ事』とし、武家のあるべき形も示したことである。
●儒教(朱子学)の林羅山(道春)は、藤原惺窩の推挙を受け、23歳の若さで家康のブレーンの一人となった。朱子学は江戸幕府の正学とされた。
*リンクします「三徳抄」林道春 国民思想叢書・ 儒教篇 1929-1931刊→
●下の絵は、17世紀に描かれた「江戸図屏風」の一部を、切り取り合成した参考図。「朝鮮通信使」の一行が、江戸城正面・大手門に描かれている。

●この「江戸図屏風」は『江戸時代初期の江戸市街地および近郊の景観を画題として、そのなかに江戸幕府第三代将軍徳川家光の事蹟を描き込んだ、六曲一双の屏風。(=国立歴史民俗博物館)』とあります。このなかには明暦3年(1657年)の大火で焼け落ちた江戸城天守が描かれていて、その江戸城大手門には、登城する「朝鮮通信使」の一行が描かれている。この図では、正使・副使とおぼしき人物は輿に乗り、従者に天蓋様の長柄の傘をさしかけさせ、まだ大手門へ向かう城外にいる。先行する先頭集団は大手三之門前に達し、橋前には4人が並んで、竿頭に矛のついた旌旗を押し立てている。また濠端には虎皮その他獣皮類など献上品が並んでいる。豊臣秀吉の朝鮮侵攻の後、難航していた日朝の修好が、徳川家康によって関係が修復されていったことを象徴している。(出典:「江戸図屏風」平凡社1971年刊と「江戸図屏風」国立歴史民俗博物館)
*リンクします「江戸図屏風」→「国立歴史民俗博物館」
●同時期の日本は明治維新の激動期にあたる。明治政府の「征韓論」については、1873年10月の政変で、留守政府主役であり「征韓論」を強く主張した西郷隆盛らが政権を去った。しかしこの「征韓論」は、外交政策の論争ではなく、統一国家と「富国強兵」の実現のために、不満を持つ士族階級と人心を外に向かわせるための手段であったとも言える。なぜなら、この後実権を握った「征韓論」反対派であった大久保利通らの新政府も、1874年に初の海外派兵・台湾出兵(=西郷従道の独断専行と評価されている)を行ったことに現れている。
明治政府の事実上の中心となった大久保利通は、次のように言った。
激動の10年間(1877年頃まで)の主な出来事は以下のようである。「御一新」と呼ばれた。
年 | 日本・明治維新 |
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1868年~ |
「王政復古の大号令」「五か条の誓文」「神仏分離令」「廃仏毀釈」
●「五か条の誓文」 一、広ク会議ヲ興(おこ)シ、万機公論(ばんきこうろん)ニ決スベシ。
一、上下(しょうか)心ヲ一(いつ)ニシテ、盛(さかん)ニ経綸(けいりん)ヲ行ウベシ。 一、官武一途庶民(かんぶいっとしょみん)ニ至ル迄、各々(おのおの)其(その)志(こころざし)ヲ遂ゲ、人心ヲシテ倦(う)マザラシメン事ヲ要ス。 一、旧来(きゅうらい)ノ陋習(ろうしゅう)ヲ破リ、天地ノ公道ニ基(もとづ)クベシ。 一、知識ヲ世界ニ求メ、大(おほい)ニ皇基(こうき)ヲ振起(しんき)スベシ。 ●新政府は、王政復古の方針のなかで、祭政一致を目的に、神祇官を再興し、仏教を排斥しようとした。この思想的な背景は、藤田幽谷・藤田東湖・会沢正志斎の後期水戸学や、平田篤胤の平田派であったが、結局実務を担って行けたのは、津和野・大国隆正の国学派亀井茲監や福羽美静であった。当初明治政府の国学派グループは、神祇官(じんぎかん)を再興して祭政一致の制度を実現しようと神道国教化を目指した。しかし平田派の神秘主義的な思想は、さすがに近代化を目指す新政府には、受け入れられなかった。新政府は、富国強兵と近代国家の樹立の為、政教分離と信教の自由をみとめ、キリスト教解禁も西洋諸国からの圧力により認めた。しかし神仏分離令は、江戸時代に権勢を誇った仏教界(檀家制度)に大きなダメージを与えた「廃仏毀釈」運動。 |
1868年 |
藩兵の処遇
●戊辰戦争の奥羽での戦闘が終わると、中央政府や各藩は、凱旋してくる藩兵の仕末に頭を悩ました。中央政府にとっては、藩に兵力が戻ることにより政府に反抗するのではないかという恐れ、また藩にとっては藩兵がもはや藩の統制に服さないのではないかという恐れであった。そこで廃藩のまえおきとして「版籍奉還」が必要となった。 |
1869年(正月より) |
「版籍奉還」版=領地、籍=領民
●中央政府(特に木戸孝允)は、大名が土地と人民を朝廷に返す形をとることが、諸藩の統制に必要と考えた。そこで薩長土肥の4藩が、率先して版籍奉還を願う建白書を提出した。4月までには大きな藩のほとんどが建白書を提出した。旧藩主は藩知事となった。 |
1869年(5月) |
「戊辰戦争」終結
●最後まで抵抗を続けた榎本武揚・土方歳三らは、北海道・箱館五稜郭で独立(蝦夷共和国)を宣言したが、戦闘の末無条件降伏した。 |
~1870年 |
政府による「藩の改革」
●新政府は、藩士(武士階級)の家格(一門から平武士にいたるまで10以上の階層に分かれていた)の区別を廃止して、士族と卒族の2階級とした(大久保利通の立案とされる)。また地方知行は廃止され、俸禄は米で渡されるようにした。中央政府にとって、戊辰戦争で倒幕を成功させた士族階級は、逆に新体制にとって重荷となり、近代的軍隊組織にとっても古い存在になっていた。 |
1870年~ |
新政府「官営模範工場・富岡製糸工場」等の設立を行う
●明治初期の官営事業は、軍事工業(例:横須賀海軍工廠など)・一般工業、模範工場、農林・牧畜業、鉱山など全てにわたった。 *リンクします群馬県富岡市富岡「官営模範工場」「富岡製糸場」 |
1869年~1870年 |
「農民闘争」百姓一揆や打ちこわし
●「諸隊の反乱」長州藩の脱隊騒動。 |
1871年 |
「日清修好条規」調印
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1871年(7月) |
新政府「廃藩置県」を断行
●天皇は在京の諸藩知事を召集して、藩を廃し県を置く旨の詔書をつたえた。「廃藩置県」である。藩知事は、家禄と華族の身分が保障され、東京に居を移された。また諸藩の年貢は政府が一手に収めたが、藩の持っていた多額の借金を政府が肩代わりした。廃藩は藩主にとって、決して悪い取引ではなかった。しかしそのしわ寄せを受けたのは、下級藩士だった。 |
1871年(11月)~1873年(9月) |
「岩倉使節団」欧米へ出発
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1872年 |
「壬申戸籍」
●壬申戸籍は、身分制度別による戸籍ではなく、屋敷・家屋単位の戸籍であった。平民も苗字を名乗ることを許されていたが、この壬申戸籍の届け出の時に、苗字をつける者が多かったと言われる。しかしスローガンでは「四民平等」とはいっても、実際は支配階級(皇族・華族・士族)と平民に分かれており、第2次世界大戦後の日本国憲法制定まで続いた。この士族(新たに天皇の官吏・軍人がなった)は「官尊民卑」の風潮を社会に今なお残している。そして最下層には「えた」「非人」がいたが平民とされ差別の撤廃がはかられた。 |
1872年~1876年 |
●福沢諭吉「学問のすすめ」「文明論之概略」など
●「明六社」結成(1873年)福沢諭吉・西周・津田正道・中村敬宇・加藤弘之・森有礼・神田孝平・箕作麟祥・西村茂樹ら啓蒙思想家達が作った。 天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり。されば天より人を生ずるには、萬人(ばんにん=多くの人・すべての人)は萬人皆同じ位にして、生れながら貴賤上下の差別なく、萬物の霊たる身と心との働を以て天地の間にあるよろづの物を資(と)り、以て衣食住の用を達し、自由自在、互に人の妨(さまたげ)をなさずして各(おのおの)安樂に此(この)世を渡らしめ給ふの趣意(しゅい=意見・意味)なり。
されども今廣(ひろ)く此(この)人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、其有様雲と?(どろ)との相違あるに似たるは何ぞや。其次第甚だ明なり。 學問とは、唯(ただ)むづかしき字を知り、解(かい=とく)し難き古文を読み、和歌を樂み、詩を作るなど、世上(せじょう=世の中)に実のなき文學を云ふにあらず。これ等の文學も自から人の心を悦ばしめ随分調法なるものなれども、古来世間の儒者和學者などの申すやうさまであがめ貴(たっと・とうと)むべきものにあらず。 學問をするには分限(ぶんげん=その者の身分・地位・能力などで、ぎりぎりの範囲・限界。身の程)を知る事肝要なり。人の天然生れ附(つき)は、繋(つな)がれず縛(しば)られず、一人前の男は男、一人前の女は女にて、自由自在なる者なれども、唯自由自在とのみ唱へて分限を知らざれば我儘(わがまま=自分の思い通りにすること)放盪(ほうとう=ほしいままにふるまうこと)に陷(おちいる)ること多し。 前条に云へる通り、人の一身も一国も、天の道理に基て不羈(ふき=束縛されないこと)自由なるものなれば、若し此一国の自由を妨げんとする者あらば世界萬国を敵とするも恐るゝに足らず、此一身の自由を妨げんとする者あらば政府の官吏も憚(はばか)るに足らず。ましてこのごろは四民同等の基本も立ちしことなれば、何れも安心いたし、唯天理に從て存分に事を爲すべしとは申ながら、凡そ人たる者は夫々(それぞれ)の身分あれば、亦其身分に從ひ相応の才徳なかるべからず。身に才徳を備んとするには物事の理を知らざるべからず。物事の理を知らんとするには字を學ばざるべからず。是即ち學問の急務なる訳なり。昨今の有様を見るに、農工商の三民は其身分以前に百倍し、やがて士族と肩を並るの勢に至り、今日にても三民の内に人物あれば政府の上に採用せらるべき道既に開けたることなれば、よく其身分を顧み、我身分を重きものと思ひ、卑劣の所行(しゅぎょう)あるべからず。凡(およ)そ世の中に無知文盲の民ほど憐(あわれ)むべく亦悪(にく)むべきものはあらず。智恵なきの極(きわみ)は恥を知らざる *リンクします「学問のすすめ」→
*「福沢全集. 巻3『文明論之概略』」福沢諭吉著 時事新報社1898年刊
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1873年 |
「徴兵令の発布」
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![]() (左上・イラスト徴兵令発布)張り紙に、「血税というのは自分の生血で国に報ずること」とある。(左下・徴兵のがれのパンフレット)飛ぶように売れたという。出典:『幕末の素顔』毎日新聞社1970年刊) |
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1873年 |
「地租改正」
●この改正は、各藩まちまちな年貢を、統一された地租にすることが目的だった。そのため、米(農作物)ではなく現金で税金を収めること、そのために農民は農作物を自由に栽培できるようにしたこと、また土地売買の禁止を廃止し、地券を持つものが土地の所有者となり税金を払うことにしたことなどが定められた。重要なことは、今まで税率を収穫高の%で決めていたことを、農地の値段(地価)の%で決めて定率としたことであった。 |
1873年 |
征韓論と岩倉使節団帰国そして政変
●西郷隆盛は岩倉・大久保らが帰国する前に朝鮮使節派遣を決め、自身が大使になることで朝鮮へ赴き、戦端を開くつもりでいた。そして太政大臣・三条実美に決定を迫り、ついに同意を得て大使派遣を決定した。三条は天皇に裁可を求めたが、天皇は岩倉具視の帰国(9月)を待って裁断することとした。西郷は決まったことに喜んでいたが、帰国した岩倉らは反対で、大久保利通を参議に就任させて、留守政府の決定を覆そうとした。大久保は会議の席上次のように主張した。 「外征をおこせば、かならず重税・外債・紙幣乱発となって、大変な災いとなる。少し待って、先に国内産業を起こし、武器・軍艦を整えるべき」
しかし認められなかったので、大久保・木戸・大木・大隈らはそろって辞表を提出した。太政大臣・三条実美は両派の間に入って心痛のあまり病気となってしまった。そこで大久保は、岩倉具視を太政大臣代理に任命するように画策して、最終的に天皇の採決を朝鮮使節派遣反対に導いた。ここに征韓派の敗北は定まり、留守政府主役であった西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らは辞職し、同時に賛同していた官僚、軍人達も政権を去った。(10月) |
1873年 |
「大久保利通による官僚制度の確立と改革」
●大久保は、参議が卿(各省の行政長官)を兼任することで、各省を監督させるようにした。また内務省を創設して卿につき、全国の警察権をにぎった。東京の警視庁には、川路利良を大警視に任じた。内務省は、行政警察・新聞雑志の発禁の権・府県への指導・殖産興業の農政関係など、国内政治の中枢をにぎった。警官には、最初3000人の内2000人を薩摩士族から採用した。警察の目的は、政治警察が目的であり、政治運動や思想弾圧の基礎がこのときにできた。大久保利通は西郷らの辞職の後、伊藤博文・勝海舟・寺島宗則らを参事に任じた。(10月) |
1874年(1月) |
「民選議院設立の建白」
●辞職した参議、板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らと、由利公正・岡本健三郎・古沢滋・小室信夫らの士族出身のインテリを加えた8名が、連名で「左院」に建白した。この議会の開設を要求する運動は、後に「自由民権運動」として日本全国に広がっていく。民選議院設立の建白の草案の最後部分を引用した。 |
民選議院設立の建白の草案
「民撰議院設立建白草稿(三種)」
「・・・臣等既に已に今日我国民撰議院を立てすんはある可からさる所以、及ひ今日我国人民進歩の度能く斯議院を立るに堪る事を弁論する者は、則有司の之を拒む者をして口に藉する所なからしめんとに非す、斯議院を立る、天下の公論を伸張し、人民の通義権利を立て、天下の元気を鼓舞し、以て上下親近し、君臣相愛し、我帝国を維持振起し、幸福安全を保護せん事を欲して也、請幸ひに之を択ひ玉はん事を。」(出典:「民撰議院設立建白草稿(三種)」国会図書館・資料にみる日本の近代) *リンクします「民撰議院設立建白草稿(三種)」猊剌屈社編『日新真事誌』(1874.1.18)掲載
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1874年 |
「士族による反乱」
●(1月)「岩倉具視暗殺未遂事件」高知県士族武市熊吉ら9人による赤坂での事件。 |
1874年(5月) |
初の海外派兵(台湾出兵)
●政府は大久保と大隈の主張により、1872年に起きた台湾の原住民による漂着琉球人(沖縄人)殺害事件を口実に、台湾出兵を決定した。(アメリカの後押しもあった)しかしイギリスは、清国がこれを「侵略」と見なせば、イギリス船の参加を禁止する通告をしてきた。そしてアメリカも中立を宣言したため、政府は台湾出兵を中止した。 |
1875年(5月) |
「樺太・千島交換条約」
●1870年樺太開拓使次官黒田清隆は、樺太を放棄し北海道開拓に専念すべしと主張していた。イギリス・アメリカは、ロシアの南下を阻止する目的があったが、日本の樺太経営の能力がないことを見て、樺太の放棄と北海道確保に専念することを勧告した。そして日本はロシアと樺太・千島交換条約を結んだ。小笠原諸島についてはペリーの領有宣言があり、日本も領有権を主張しなかったが、アメリカはイギリスに対抗するため、日本の領有を認めた。 |
1875年(7月)~1879年(3月) |
日本新政府、琉球王国を滅ぼす「琉球処分」
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1875年(2月) |
「大阪会議」
●木戸孝允は台湾出兵に反対して1874年(5月)辞職した。同時に薩摩の島津久光(西郷や大久保の薩摩元藩主)が大久保・大隈に対する排斥運動を起こした。また自由民権運動も全国的な展開に発展しそうになり、大久保は苦境に立ち、事態収拾のため大阪会議を開いた。そして大久保利通・木戸孝允・板垣退助・伊藤博文・井上馨ら5人が会談して事態を収拾させた。これは大久保の専制主義が、立憲政体論に対して示した妥協であって、木戸・板垣の協調をはかったものにすぎなかった。 |
1875年(9月) |
「江華島事件」
●日本政府は、朝鮮王室の内紛(大院君追放、閔氏政権成立)につけこんで、1875年5月軍艦雲揚号を派遣し、9月には江華島付近に侵入し示威行動を起こした。これに対して朝鮮側は砲撃を行い交戦となった。 |
1876年 |
「廃刀令」「家禄制度の廃止(秩禄処分)」
●「廃刀令」は大礼服(最上礼服)着用者、軍及び警察以外に刀を身に付けることを禁じたもので、武士の特権と身分を完全に否定したものだった。 |
1876年 |
士族の反乱と農民一揆
●(10月)熊本神風連の乱。 「そもそもわが百万の士族になんの罪かある。政府果たしてこの心をもって士族を制馭(せいぎょ)せば、かならず天下の大乱を醸(かも)さん」
●75年末~76年「農民大一揆」鳥取・茨城・愛知・三重・和歌山・岐阜などで前例の無いほどの大一揆が発生した。農民一揆にたいしては木戸は次のように手紙に書いている。 「良民に災難をかける士族の暴動にたいしては、鉄火をもって十二分に圧倒せよ。しかし人民が生活に苦しみ、やむをえずおこす一揆にたいしては、鉄砲をもって制御してはならぬ」
●1877年大久保・木戸は、地価の3%という地租の率を2.5%に引き下げ、地方税の率も、地租の1/3から1/5に下げた。農民には一時のアメを与えながら、全力のムチを士族暴動に加えた。 |
1877年(1月) |
「西南戦争」勃発、士族最後の反乱
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1877年~78年 |
「維新三傑の死」
●西郷隆盛(1877年9月西南戦争で敗戦自刃・51歳) |
●新政府の行った各種政策は、経済・財政・金融上の課題・問題を理解しないと、本当の意味はわからない。戊辰戦争、西南戦争の費用をはじめ、旧藩の債務(家禄を含む)の肩代わりは、莫大な費用がかかり、また同時に諸外国から導入した技術移植・官営工場・運輸・通信など産業基盤の整備にも莫大な費用がかかった。新政府にとって、封建制度撤廃、資金の創出、安定した通貨・金融制度、殖産興業など課題は山積していた。また士族階級の反乱や民選議院設立運動・自由民権運動・武装蜂起勃発など、政治的な問題も社会を揺るがしたが、文明開化・富国強兵は政治論だけでは達成できるはずもなかった。大隈重信・伊藤博文・井上馨・渋沢栄一・松方正義らの経済政策は、現代にまで続く日本の経済構造の基盤を作ったといえる。
「明治財政史。第1巻」から緒言(明治23年頃までの部分)を引用し(ポイントを赤字にし、カタカナをひらがなに、読点・句読点を入れ、旧字体はなるべく新字体にした)、「日本銀行 百年史」などからその内容を簡単に書き出してみる。
「・・・明治財政史は最も混雑極わまる財政を以て初まれり。慶應の末年に當り徳川将軍は政権を朝廷に返上し、京都は全国政治の中心となりたるも、未だ政治機関の組織就中(なかんずく=とりわけて)最も急要なる財政を如何(いか)にすべきや、の問題を考うるの暇もなく鳥羽伏見の戦争になりたるものなり。當時(とうじ)の官軍は、朝廷に味方せる諸藩の聯合軍にして、経費の多くは各藩より支弁(しべん=支払う)せり。而(しか=そう)して各藩に属せざる中央政府の経費は、纔(わず=僅)かに富豪よりの借入金と太政官札(だじょうかんさつ=不換紙幣)の発行とにより支えたるものなり。
明治元年より同4年7月廃藩置県に至るまでの間に於(おけ)る財政の務は、朝廷の直轄に帰したる土地より生ずる歳入を整理し、太政官札の通用に障碍(=害)あり価格の下落せるを救うの途を講じ、旧政府発行の貨幣紊乱(びんらん=みだれること)せるを一掃して新に純良の貨幣を造り、及(および)2分金其他の贋造貨幣を処分し、通商会社及為替(かわせ)会社を設立せる等是なり。此年間に於て明治政府中央集権の方針は著著(ちゃくちゃく)進行し、諸藩の軍隊及軍艦を中央に取集めて軍政を統一し、之と共に軍隊及軍艦の維持に要する経費の財源は、諸藩より納付せしむるの方針を採れり。
明治4年廃藩後明治10年までの間に於る財政の務は、旧藩より引継たる歳入を整理し、旧藩の負債を処分し、旧藩発行の紙幣を整理し、政府発行紙幣償還の為、金札引換公債証書条例を制定し、通商会社為替会社を解散して国立銀行条例を制定し、鉄道建設及秩禄処分の為め外国債を起し、土地の官民有区分を明らかにし、地租改正を断行し、地租の米納を金納に改め、旧政府時代の雑税2千余種を廃して税法の統一を計り、家禄を処分して金禄公債の制に改め、台湾、佐賀、萩、鹿児島の戦役費を支弁し、地租の率を改め8百万円を減じたる等是なり。
明治11年より明治23年に至るまでの間に於(おけ)る財政の務は、公債の償還方案を定め地方税を起し、政府紙幣の整理を断行し、正金銀行及日本銀行を設立し、国立銀行条例を改正して、其発行紙幣消却方法を定め、鉄道公債を起し、軍備拡張の為め酒税を増し海軍公債を起し、其他所得税、醤油税、菓子税、煙草税、売薬税、印紙税等を課し、大蔵省証券の制を定め兌換銀行条例を設け、紙幣と銀貨との交換を実施し、公債を整理し、予算出納会計検査等会計の制度を改良し田畑の地価を修正減少したる等是なり。・・・・
項目・内容・評価など |
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「太政官札=だじょうかんさつ」(不換紙幣)の発行
●政府は戊辰戦争終了までに、4800万両を発行した(1869年6月まで)。また商人達からも300万両を借りた。倒幕の費用は、「太政官札」というお金を、自ら作り自ら消費したことでまかなった。またこの「太政官札」は、各藩や商人等に勧業資金として貸し付けられ、殖産貿易振興を目的に使われた。 しかしこの「太政官札」の価値は下落し、流通は困難を極めた。1869年5月製造中止。この「太政官札」の処理も含め流通通貨の整理を目的に、「新紙幣」発行(1872年4月)を決めた。
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「通商会社及為替会社」設立(1869年5月~8月)
●政府は殖産興業を推し進めるため、民間企業家を糾合して通商会社と為替会社を設立させた。政府による不換紙幣流通促進策でもあった。設立場所は、東京・大阪・京都・横浜・神戸・新潟・大津・敦賀の8か所。設立の中心となったのは、三井・小野・島田・鴻池などの幕藩期以来の富商であった。 その後、為替会社の「紙幣発行(為替札)」が多額に上り、危惧を抱いた政府は規制を強化し、1872年11月国立銀行条例公布後、1873年3月解散が決定された。
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「鉄道建設」の為の外国債(9分利付き)1号(1870年4月)
●これはロンドンで発行されたポンド建て国債で、100万ポンド(当時の相場で488万円) 日本国債の公募広告はロンドンの主要日刊紙などに掲載され、日本の国際金融市場参入に好意的で、起債は成功した。
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「新貨条例」公布(1871年)
●伊藤博文は、仮決定していた「銀本位制」を「金本位制」採用に改めた。この「新貨条例」は、江戸時代からの不統一で紊乱した通貨制度を整理し制度統一の基礎を固めた。しかし貿易上の便宜のため貿易銀も採用したため、実質的には金銀複本位制であった。 この新貨は「円」を基本単位にし、1/100・円を「銭」、1/10・銭を「厘」とした。また在来の通用貨幣との交換比率は「1円」=「1両」とした。1869年に太政官札は「新貨幣」と交換回収する事に決められていたが、「新貨幣」鋳造は円滑には進まず、先に「新紙幣」の発行になってしまった。(1872年4月)
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「国立銀行条例」公布(1872年11月)
1873年・1874年設立 ●大隈重信・井上馨らは「正貨兌換の銀行券を発行する『バンクヲフジャパン』構想」をもっていた。 しかし設立された銀行は4行にすぎなかった。この4行の銀行券発行免許高は、計203万5千円程度に過ぎなかった。そして1874年には、三井組と共に、維新以来の会計官・大蔵省の為替方であった小野組と島田組が破綻し閉店してしまった。そのため第一国立銀行(島田組は大株主)は、倒壊の危機をむかえた。そして1873年頃から起こった世界的な銀価低落、輸入促進による正貨(金貨が大部分)の流失、そして政府不換紙幣のさらなる増発による、紙幣価値の低下などにより、各国立銀行は銀行券を発行できなくなり、深刻な営業不振となった。各国立銀行は銀行券の正貨兌換をやめることを陳情したが、政府はそれを認めず救済処置で済ませた。
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「秩禄最終処分」(1876年)と「改正国立銀行条例」(1876年8月)
●維新政府にとって幕藩期より引き継いだ旧大名・士族らの秩禄は、1874年においても政府財政支出の30%を占めていた。 この改正は、当初政府紙幣(不換紙幣)を回収することが目的のひとつであったが、この改正で金禄公債が政府紙幣との交換となり、また銀行券の発行も資本金の8割までできることになったので、国立銀行は非常な勢いで増加(1879年末で153行)した。1879年6月末で、金禄公債交付額全体の27%が国立銀行の設立に利用された。しかし、国立銀行券の増発は、西南戦争後のインフレを助長し、政府方針は通貨供給から通貨安定へと変換を余儀なくされた。
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「西南戦争と不換紙幣の増発」(1877年)
●政府は、西南戦争勃発の直前、地租軽減を行い農民の一大決起を押さえ込むことに成功した。農民の一揆と士族の反乱が同時に起これば、維新政府は存立の危機にさらされてしまうからである。しかしこの西南役征討費は、総額で4156万7727円に上り、明治10年度(1877年)歳出決算額(4843万円=征討費を含まない)の85.8%に相当する巨額なものだった。そのため政府は第十五国立銀行より1500万(銀行券発行免許高の90%)を借り入れ、また政府新紙幣2700万円を発行して戦費を調達せざるを得なかった。この西南戦争を契機とする不換紙幣・銀行券の増発は、経済的危機と社会不安を醸成し、政府の政策転換を余儀なくさせた。 下記表よりわかるように、西南戦争翌年末の合計(政府紙幣+銀行券)流通前年比は、138.3%増となった。このような不換紙幣流通高の急膨張は、金銀正貨に対する価値の低下、輸入の増大、正貨の流出、物価の騰貴(インフレ)を進展させた。日本にとってこの未曾有の金融・財政危機は、近代国家に不可欠な「中央銀行=日本銀行」の設立につながっていった。政治的には、明治14年(1881年)大隈重信免官(明治14年の政変)が起き、松方正義大蔵卿就任による徹底的な緊縮財政(松方デフレ)が始まった。
●政府が1500万円借りた第十五国立銀行(1877年設立)とは、次のようなものであった。 頭取・旧長州藩主(毛利)、副頭取・旧尾州藩主(徳川)、取締役・旧土佐藩主(山内)・旧福岡藩主(黒田)・旧岡山藩主(池田)、世話役として岩倉具視の孫や近衛家・島津家・前田家・細川家の各家令がなった。そして資本金は、全国国立銀行総数153行の合計資本金額の4割以上を占めた。政府は、多額の金禄公債を得た旧大名や上級武士達を、銀行資本家に転身させた。
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(出典:「日本銀行 百年史」)
明治・年末 (西暦) |
政府紙幣 | 国立銀行券 (流通高) |
政府紙幣+ 銀行券 |
前年比(%) | 本位貨 (金貨・銀貨) |
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01年(1868) | 24,037 | 24,037 | |||
02年(1869) | 50,091 | 50,091 | 208.4% | ||
03年(1870) | 55,500 | 55,500 | 110.8% | ||
04年(1871) | 60,272 | 60,272 | 108.6% | 5,407 | |
05年(1872) | 68,400 | 68,400 | 113.5% | 29,824 | |
06年(1873) | 78,381 | 913 | 79,294 | 115.9% | 47,215 |
07年(1874) | 91,902 | 823 | 92,725 | 116.9% | 44,284 |
08年(1875) | 99,072 | 327 | 99,399 | 107.2% | 36,795 |
09年(1876) | 105,148 | 1,685 | 106,833 | 107.5% | 35,980 |
10年(1877) | 105,797 | 13,165 | 118,962 | 111.4% | 31,610 |
11年(1878) | 139,419 | 25,139 | 164,558 | 138.3% | 29,650 |
12年(1879) | 130,309 | 33,752 | 164,061 | 99.7% | 27,206 |
13年(1880) | 124,940 | 34,398 | 159,338 | 97.1% | 24,140 |
14年(1881) | 118,905 | 34,376 | 153,376 | 96.3% | 23,064 |
*リンクします「明治財政史。第1巻」明治財政史編纂会 編 丸善1904巻→
*リンクします「日本銀行 百年史 明治維新政府の通貨・銀行政策」「日本銀行」
1875年9月、日本軍艦「雲揚号」が「江華島」で示威行動を行い、朝鮮の開国を強要した。そして1976年「日朝修好条規(江華条約)」を締結させた。
年 | 朝鮮王朝 |
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1873年~ |
「大院君追放と閔氏政権」
●1873年朝鮮では、大院君に対して両班層の不満が高まり政変が起きた。大院君を追放し、国王高宗の親政がはじまり、閔升鎬(ミンスンホ)を中心に王妃の閔氏一族が政権の中枢を占めた。1874年に日本の台湾出兵の報が伝わると、開国の主張も起こり閔氏政権は妥協をはかり、日本との交渉が再開されていった。 |
1876年 |
「日朝修好条規(江華条約)締結」
●1875年9月、日本軍艦「雲揚号」は朝鮮の首都漢城(ソウル)の表玄関である「江華島」で示威行動を行い、朝鮮側・草芝鎮砲台と交戦し江華島事件を起こした。当然ながら日本は、欧米諸国の軍事的威嚇行動(アメリカのペリー)をまねし実行したものだった。そして翌1876年2月開国を強要するため、特命全権大使(黒田清隆)を6隻の軍艦と共に派遣し、江華島へ乗り込ませた。これに対し朝鮮政府は、交渉を有利に進めようとしたが日本側の威嚇行動に屈し、不平等条約である「日朝修好条規」締結を余儀なくされた。 第1款
朝鮮国は⾃主の邦にして⽇本国と平等の権を保有せり。嗣後(しご=以後)両国和親の実を表せんと欲するには、彼此(ひし=あちらとこちら)互に同等の礼儀を以て相接待し、毫(いささか)も侵越(=おかす)猜嫌(=そねみきらう)する事あるべからず。先づ従前(じゅうぜん=今まで)交情(こうじょう=交際のよしみ)阻塞(=ふさぎとめる)の患(=わずらい・うれい)を為(な)せし諸例規を悉(ことごと)く⾰除(かくじょ=悪を断って改める)し、務めて寛裕(かんゆう=心がひろくゆとりのあること)弘通(ぐつう=仏法がひろく世の中に行われる)の法を開拡し以て双⽅とも安寧を永遠に期すべし。 *リンクします「修好条規」法令全書 内閣官報局1887-1912
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1880年~ |
「開国・開化政策」
●朝鮮政府は日本との開港後も、欧米諸国とは鎖国政策を堅持していた。しかし清国・李鴻章は、日本とロシアを牽制するため、列国との間で条約締結をはかるべきと勧告してきた。また政府は、国内改革による自強をはかる必要から、対欧米諸国と開化政策採用の方針を決定した。こうして1881年には軍制を統合して、洋式の別技軍をもうけ日本人教官を招いて訓練させた。また紳士遊覧団(62名)を日本に派遣したり、金允植(キムユンシク)を武器製造や軍事技術習得のため清国に派遣(留学生38名)した。 |
「衛生斥邪派」(鎖国攘夷)の運動
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1882年 |
「壬午軍乱」
●反乱は大院君の復帰により収拾したが、日清戦争の遠因となった。 |
1882年 |
「日本・清国の対応」
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1884年12月 |
「甲申政変」
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1885年4月 |
「天津条約」
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1885年 |
「ロシア」への接近策
●高宗および閔妃は日・清の圧力を牽制するため、ロシアと陸軍教官を招聘する秘密協定を結ぼうとしたが、清国は圧力をかけてそれを撤回させた。そして清国は、高宗および閔妃牽制のため大院君を帰国させ、さらに宗主国として朝鮮の内政干渉を強めるため、袁世凱(えんせいがい)を送り込んだ。 |
1887年 |
「自立化」への動き。
●朝鮮政府は、外交の自立化をはかるため、諸外国に公使を派遣することを決定した。しかし清国は、派遣には清国の許可が必要であることと、現地では清国公使の指示に従うことを朝鮮政府に約束させた。清国は朝鮮との宗属関係強化に乗り出した。一方日本は、ロシアの介入を警戒しつつ清国と朝鮮の宗属関係を切り離し、朝鮮を日本の利益線と見なし、朝鮮を支配下に置くことを国家目標とした。 |
「東学」新興宗教と民衆運動
●朝鮮は、日本をはじめ、アメリカ・イギリス・ドイツ・ロシア・フランスなど欧米諸国との間に不平等条約を結び開国したが、その影響は特に農村において深刻化した。飢餓・疫病の流行や盗賊の横行など、社会不安は激しくなっていった。そうしたなか、李朝両班支配体制を批判し、人間平等をうたう「東学=西学(キリスト教)に対する」が農民層のあいだに広く深く浸透していった。この宗教はやがて実践的に理解され、兵乱を意図し蜂起するようになっていった。「南接派」は政府に対して徹底抗戦的であった。「斥倭洋」「地方官の不当誅求(厳しい取り立て)反対」などを標榜した。 |
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1894年 |
甲午農民戦争」
●この1894年の農民戦争は、東学南接派によって計画的に引き起こされた。その発端は、私腹を肥やしていた郡守に対して、全羅道の農民1000余名が武器を奪取して蜂起したものだった。一旦は収束したものの、農民軍は1万人以上で再蜂起し、道都の全州に入城し政府軍の精鋭部隊と熾烈な攻防戦を繰り広げた。これにより政府は清国に出兵を要請し、また日本もこれに対抗して軍事介入を行った。これにより農民軍は、政府と全州和約(農民軍の安全保障を含む)を結び、この蜂起を収束させた。 |
1894年(6月~) |
「日清戦争・開戦」宣戦布告は1894/08/01
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1894年(7月) |
ロシアの圧力とイギリスによる調停
●日本の出兵に驚いた清国や列強諸国は、日清の共同撤兵を申し入れてきた。日本は最初から、清国を軍事力で朝鮮より追い出すことが目的であったので、なんとしても出兵の口実を早急に作る必要があった。そこで日本は清国に対して、朝鮮の乱民の鎮圧を日清共同で行うことや、鎮圧後朝鮮の「内政改革」を共同で行うことを、申し入れた。 |
1894年07/23 |
日本「王宮占領」と「大院君」招聘
●日本の大鳥公使は朝鮮王に対し「清国に撤兵を要求し、清国の宗主権を認めた条約を破棄する」ことを最後通告として要求した。 |
「日清戦争」●「平壌の戦い」(9/15)●「黄海海戦」(9/17)●「講和条約調印」(1895/04/17)
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(講和条約概略)清国は、朝鮮の独立を承認し、遼東半島・台湾・澎湖島を割譲し、償金2億両(テール)を支払い、また通商上、諸列強と均等の権利を与え、また新しい開港場と開市場における日本人の工業企業権を認めた
●下のリンク先から馬関條約(下関條約)の日本文・漢文などの原本が公開されている。表紙をクリックした後、中日講和條約(馬關條約)を検索して下さい。 *リンクします『中華民国外交部保存之前清條約協定』
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1895年05月 |
「3国干渉」
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※(ヨーロッパの国際関係とは)
①中国での利害の対立は、イギリスとロシアにあったこと。②両国ともヨーロッパ情勢から、単独で日清間に介入することを避けたこと。(ヨーロパでは単独行動は国際的孤立を招く恐れがあった)③ドイツは中国に利害関係を持っていなかったが、自国のヨーロッパでの露仏同盟(ロシア・フランス同盟)に対する不安から、ロシア・フランスの後押しをすることで、露仏同盟とイギリスを対抗させる狙いがあった。そしてこれにより中国への発言権も確保しようとした、ことなどである。 |
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1895年10/8 |
「閔妃暗殺と日露の対立」
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●この事件は『クロニック世界全史』講談社1994年刊には以下のように書かれている。
●1895年10月8日早朝、日本の軍人と大陸浪人が漢城(ソウル)の王宮に乱入し、王妃閔妃(44)を殺害した。死体は王宮外の前庭に運び出され、積み上げた薪(まき)の上で焼き捨てられた。
●この事件は、9月に赴任したばかりの日本公使三浦梧楼(49)が企てたもので、実際に指揮をとったのは朝鮮政府宮内府顧問の岡本柳之助(43)だった。三浦はこれを朝鮮政府の内紛に見せかけるため、閔妃の政敵である国王の父の大院君(75)をかつぎ出し、日本が指導した訓練隊を動員してクーデターの体裁をとろうとした。ところが、日本人が実行犯であることを欧米人に目撃され、その事実はたちまち漢城の各外交官に知れわたることになった。 |
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1896年02/11 |
「親ロシア派クーデター」「高宗」ロシア公使館へ
●朝鮮国王「高宗」と皇太子は、王宮を密かに脱出し、ロシア公使館へ移った。親ロシア派がクーデターを起こし、日本の圧力を避けて国王の身柄を移したものであった。そして高宗と親ロシア派内閣は、金宏集ら開化派の大臣の処刑を命じ、親日派を一掃した。金宏集や魚允中ら大臣たちは白昼惨殺されたという。 |
1897年10/12 |
「大韓帝国の成立」(大韓帝国皇帝高宗)
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![]() ここには17世紀以来、清の使節を「三跪九叩(さんきくこう)」してむかえた、屈辱の「迎恩門」があった。 (写真)独立門(出典:『丸善エンサイクロペディア大百科』丸善1995年刊) ● しかし、1898年12月高宗は、政府による皇国協会による弾圧が、双方の暴力抗争となったため、詔勅をもって独立協会を解散させ協会員を逮捕し、運動を終息させた。 |
●「明治大正財政史 第1巻 大蔵省編」から「第3節 償金の収支及運用」と「第7節 貨幣制度の改革」の1部分を引用してみる。(漢字数字をアラビア数字に直し、旧字体はなるべく新字体にした)維新以来急務であった金本位制へ移行するために、清国賠償金が大いに役立ったと書かれている。この金本位制への移行は、日本の近代化にとって最重要なものだったと思われる。
「第3章日清戦役及其以後の財政」の「第3節 償金の収支及運用」には冒頭に次のようにある。
『日清戦役の結果、我国は清国より巨額の償金を受領することとなりしが、右償金は既述の如く戦後に於ける国防充実其他諸般の経営に関して最も重要なる財源となり、延(ひい)て我国歳計の膨張を誘致するに至る原因となりしのみならず、之が運用に依り後述の如く我国貨幣制度上金本位制の実施を見るに至りしものにして、本償金の収支及運用は戦後の我財政経済の上に最も重大なる影響を及ぼせしものと云ふべきなり。以下之が概要を略説すべし。』とあり、「第7節 貨幣制度の改革」には次のようにある。
第七節 貨幣制度の改革
『既述の如く政府は維新の初に當り幣制整理の急務なるを認め、明治4年5月新貨條例を公布して
金本位の貨幣制度を採用せしが、當時東洋諸国の貿易には一般にメキシコ銀が使用せられしを以て
新貨條例に於ても海外貿易の便を図りて、本位貨幣の外別に品位・量目共にメキシコ銀と同一の貿易
1円銀を鋳造し、其の本位金貨に対する比率を金貨100円に対し1円銀101円と定め、且(かつ)本位金貨同樣其の自由鋳造を認めたり。然れども右1円銀は當初は之を開港場に限り通用を認むるものなりし
が、其後銀価は低落し金貨は海外に流出して金の欠乏甚しく、到底金本位制を維持すること能はざるに至りしを以て、明治11年5月に至り右貿易1円銀を広く国内一般に無制限に通用を許すことと為したり。茲(ここ)に於てか我国の貨幣制度は金本位より一転して金銀複本位制となれり。然るに他方に於て政府は不換紙幣増発の弊に堪へず、既述の如く明治14年以来之が整理に着手し、着々其の功を収むると共に、他方正貨の準備も漸次充実したるを以て、明治18年5月より日本銀行をして銀貨兌換の銀行券を発行せしめ、ついで翌19年1月より政府紙幣の銀貨兌換を開始したり。斯(か)くて我国の貨幣制度は茲に再転して事実上の銀本位制となるに至りしが、當時政府が右の如く銀貨兌換の制度を採用せし所以(ゆえん)は、蓋(けだ)し當時我国に接近せる諸国は依然銀貨を以て主要なる貨幣とし、又欧米諸国に在りても尚ほ複本位説を唱ふるもの少からず、加ふるに金本位制実施の為には巨額の金準備を必要とし、當時之を得ること甚だ困難なりしに因るものなり。然るに當時に至りて銀価は世界的に漸落の歩調を辿り、かつて銀1対金16程度に安定せしもの19年には銀1対金20となり、26年には26迄低落したり。而して此の間世界各国中銀本位若くは金銀複本位制度を採用せる諸国は相次いで金本位制度に移行したる為め銀価は益々其の下落の勢を促進せられ、27年には1対30、2・3の割合を示すに至れり。斯(か)くの如く銀価日々下落し、加ふるに浮沈動揺極まりなきに至りて、我国亦其の影響を受くること甚しく、當時我国外国貿易の3分の2を占むるに至りし金貨国に対する為替相場は、銀価の動揺と共に激変し、外国貿易に従事する者をして殆ど其の適従する所を知らざらしめ、又国内物価は頻(しきり)に昂騰して国民生活を脅かすに至り、国家の経費も亦之に応じて増加するの傾向を示し、今や銀貨本位制を維持するは到底国家の利益と相背馳(はいち=反対の方向にむかう)するの惧(おそれ)あるを思はしめたり。茲(ここ)に於て政府は本邦幣制の得失を根本的に調査するの必要を認め、明治26年10月貨幣制度調査会を設置し、朝野の学識経験ある者を委員として幣制の改革に関する調査に當らしめたり。斯くて調査会は同28年7月に至り調査の結果を政府に報告せしが、之に依れば委員の多数は我国の幣制を改革するの必要ありと認め、且其の新に採用すべき制度として金本位制の可なることを認めたり。茲に於て政府も略略(ほぼ・だいたい)其の方針に決定せしが、金本位制施行の為には巨額の金準備を必要とするを以て之が著手には尚ほ躊躇せざるを得ざりき。然るに偶偶(たまたま)日清戦役の結果我国は清国より巨額の償金を受領することとなりしを以て、政府は之を利用して金準備を得るの計画を立て、清国と協議の結果賠償金2億両を始め遼東半島還付報償金3千万両及威海衛守備費償却金年額5千万両は、総て之を英貨に換算の上倫敦(ロンドン)に於て受領することとなり、右合計2億3千150万両の換算額3千808万2千884磅(ポンド)余は、明治28年10月以降漸次之を受領し、既に29年末迄に共の額2千240余磅(ポンド)に達したり。斯(か)くて金本位採用の準備全く成りたるを以て、政府は明治30年3月貨幣法其他付属法律案を帝国議会に提出したり。(中略)
以上は即ち明治30年に於ける幣制改革の概要なるが、右は実に日清戦後に於ける財政及経済に関する施設中最も緊要なるものの一にして、此の金本位制の実施の結果、物価変動の範囲は著しく縮小し、隨(したが)て一般の商工業は漸く著実なる発達を為し得るの基礎を得、又我国貿易国の大半を占むる金貨国に対する為替相場は激変の憂を免かれて、外国貿易の進展を容易ならしむることを得、茲に我国経済界は駸々(しんしん=早く進むさま)として共の進運に向ひたり。而も當時に於ては我国の銀貨国に対する経済的関係は金貨国に比して大ならざりしと、貨幣法実施後に於ける銀貨の変動は実施前の如く甚しからざりしとに依り、金本位制採用の結果は銀貨国に対する貿易に就ても大体に於て阻害を受けたる形迹(跡)を認むることを得ざるのみならず、却て益々増加の趨勢を示したり。殊に金本位制採用の效果として注意すべきは、我国金融市場をして世界の金融市場と連絡を通ずるに至らしめ、為に漸次他の金貨国に於ける低利なる資本の流入を来すに至りしこと之なり。之れ我国爾後の産業の発達に尠(すくな)からざる效果を齎(もた)らせしは言を俟(ま)たざる所にして、其後日露戦役に當りて軍費調達の為め欧米に於て多額の国債を募集するに際し、我国の金貨国たりしことは之に幾多の便宜を与へしものあることは疑を容れざる所なりと云ふべし。』
*リンクします「明治大正財政史第1巻 大蔵省編 昭和11至15刊 」
●中国や朝鮮がまだ極東世界だけに目を向けていた頃、世界は「帝国主義」の時代に突入していた。そしてヨーロッパ列強の植民地支配のやり方は、過去の重商主義の時代(武力による権力奪取や圧政による原住民の搾取)から変貌をとげ、より資本主義的な関係から実質の支配と利益を得るように変化していた。
●その具体的な方法は、現地政府やその国の有力者に借款を与えたり、民間資本を貸し付けたりして、代わりに鉄道敷設権・鉱山開発権・築港権・油田開発権などを譲渡させ、実質的な支配をしていくやり方だった。また租税徴収権などの特権を譲渡させ、現地権力者の弱みに乗じてその地域全体を従属させることも行われたのである。
●そして実際に活動するのは先進国の企業家達であり、後進国の現地で新しい企業を起こし経営し利益をあげる事こそが国家のためでもあり最大の目的でもあった。さらに19世紀後半になると富の蓄積は拡大し、新しい金融資本(銀行・保険会社・証券会社など)が誕生し、この金融資本が大規模な投資を行い、企業経営を支配していく金融資本主義の時代になっていった。そして列強の政府は、その目的のため、現地の政治情勢を安定させ、社会秩序を維持し、企業家や投資家の所有権を保護しなければならなかった。またその国の内政に干渉し、その国を植民地や保護国としまうことも相手次第で行った。また国全体ではなくても、一定の地域を「租界」や「租借地」とし領事裁判権を得て自国民を保護することも同じ目的のためであった。
●そして自国に対するナショナリズムは、資本主義を背景に国家主義につながり、積極的膨張政策を生み、さらに白人の持つ、未開種族や有色人種に対する選民意識は、他国を支配し文明化するのは使命でもあるという「帝国主義」を生み出していった。
●イギリスは最初に産業革命を起こし、19世紀後半までに最大の資本の蓄積を持った国だった。そのイギリスですら、「小英国主義」の植民地不要論を捨て、旧植民地を再編して、帝国の強化と発展に努めねばならないと、帝国主義的国家政策に転換した。1877年1月1日、イギリス・ヴィクトリア女王はインド皇帝に即位し、インド帝国が成立した。ディズレーリ首相は強力に帝国主義的外交を進めた。そして続いて、フランス・ドイツ・イタリア・ベルギー・アメリカ合衆国も、海外に資本を投下し植民地化を推進する帝国主義国家に成長していった。
●そしてその帝国主義の本質を見抜いていた思想家が日本にもいたのである。日本の幸徳秋水の「帝国主義」は、その記念碑的著述のひとつである。
●下段でアフリカの分割の一例をあげる。
*リンクします「帝国主義」幸徳秋水著 警醒社 明治34.4(1901年)刊