(14世紀頃まで)朝鮮(古代~高麗王朝時代)
2023年5月17日日本・中国・朝鮮
だが古代史において、7世紀(660年代~)は日本と朝鮮にとって特筆される時代であると思う。唐と新羅によって百済が滅亡(660年)すると、百済の復興を援助する日本が、白村江の戦で唐・新羅に大敗(663年10月)する。続いて唐と新羅は、高句麗を滅ぼし(668年10月)、その結果、新羅が朝鮮半島を統一した。(676年)。
日本は、この朝鮮半島の動乱によって、百済、高句麗から多くの亡命者を受け入れ、政治的にも文化的にも大きな影響を受けた。この7世紀は日本にとっても重要な世紀であると考えられる。
中国では「唐」が成立し、朝鮮半島は「新羅」によって統一され、日本列島(倭国)では、「日本」という国号をもつ王権が成立した。「日本」の誕生である。
注意すべき点は、日本列島は縄文の昔から海に囲まれた島国で孤立し、自給自足の閉鎖的農業(稲作)社会だった、と考えてはいけない。何故ならその稲作自体も、朝鮮半島あるいは中国から伝播してきたからである。その伝播も日本では当初より水稲栽培であったといわれる。このことは重要なことで、水稲栽培を行うということは高度な技術、用具そして集団の力が必要だということであり、単に稲だけが来たわけではない。農業を含めた経済(社会の基盤)という面からも理解が進めば、古代史もより興味ぶかいものとなるだろう。
3世紀前後の日本列島においても、稲作以外に数多くの産物・生産物(漁撈、狩猟、穀物や果実の栽培、製塩、樹木の伐採による燃料や家屋や船の建材類、衣服のもとになる麻、綿、絹、などの織物類、それらを飾る宝飾類、土器などの器類、青銅や鉄による農具や武器類)などを生産・製造していたと考えられる。そしてさらに、それら生産物を交換・売買するための市場、それらを運ぶ物流(交易)があったと考えられる。古代社会を自給自足的な閉鎖社会だと考えてはいけない。人々の生活が成り立つためには、人と物が動く商業社会が大なり小なり必要になるからである。
そしてこの人と物の流れは、必然的に富の集積を生み、さらに活発化する経済は、貧富の差を拡大させ、社会の階層化は進む。そして権力を持つ集団が地域ごとに小国家を築き、互いに争うようになる。その力の源泉となったのは、生産力と財力、そして武力である。
日本列島においては、古代からの交通手段は、なんといっても船による海・河川(湖)交通が主体だった。また日本列島は、森林と山地が多く内陸の平地が狭いために、最初に集落が発達していった場所は、海に面する潟や港、そして河川沿にあったと思われる。だが水稲栽培の普及により集落の場所は、当初の低湿地から内陸部の平地へと拡大していった。このことは重要なことで、そのためには集団の共同作業(大規模な灌漑工事など)が必要とされ、その結果、強力な組織力を持つ集団が、飛躍的な生産力の拡大を背景に部族社会を統合していったと考えられる。
そして中国からの文化の伝播(稲作・鉄製の農具・武器)などを考えると、古代における日本列島の先進地域は、やはり朝鮮半島に面した北部九州を中心とした地域と考えられる。大陸と日本列島(島国)をつなぐ道は、北九州を中心にした海上の道であったに違いない。
●3世紀中国の「魏(220-265)・呉(220-280)・蜀(221-263)」の正史である『三国志』のなかに「魏志倭人伝」がある。その倭人伝の「邪馬台国」に関する記述に次のようなことが書かれている。 朝鮮半島を通過して邪馬台国に至るところの描写。
(対馬国)「・・居る所絶島、方四百余里ばかり。土地は山険しく、深林多く、道路は禽鹿の径の如し。千余戸あり。良田なく海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴(してき)す。(してき=米を買い入れるという意味だけでなく、南北(九州と朝鮮)に交易していたと考えられる)」
(一大国=壱岐)「・・方三百里ばかり。竹木・叢林多く、三千ばかりの家あり。やや田地あり、田を耕せどもなお食するに足らず、また南北に市糴す。」
(倭地の風俗)「・・尊卑各々差序あり、相臣服するに足る。租賦(=ねんぐ・みつぎ)を収む、邸閣あり、国々に市あり。有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむ。・・」
そして卑弥呼への詔書(魏の皇帝からの)のなかに「(卑弥呼の)大夫の難升米と次使の都市牛利」と書かれている箇所がある。この「大夫」と「都市」は官職のことで、この「都市」が「市」を司る役職とも考えられている。それほど「市」は重要であった。漢の官名で「都水」というのがあり、これは治水を司る役人だったといわれている。(森浩一「倭人伝を読みなおす」2010年筑摩書房第1刷)
●また同じ『三国志』の「魏志韓伝弁辰条」には、次のようにある。
●上記のように3世紀頃の東アジアの状況からも、日本列島は孤立しているのではなく、交易が盛んで人々の活動が活発であったことが読み取れる。同時にこの「鉄」を中国の「銭」のように用いているとも書かれている。貨幣経済の初期の形態を示すものであろう。当時の日本列島内では何が貨幣の役割を担ったかは定かではない(米や絹布だったかもしれない)。だが古墳時代(3世紀半ば~5世紀)になると、鉄鋌(てってい=短冊形の板に規格化された鉄素材)が古墳から副葬品として発掘されるにいたった。このことから、これらの鉄鋌は単に鉄素材の意味だけではなく、貨幣の役割を担っていたとも考えられている。
さらに重要なことは、青銅器時代から鉄器時代へと向かうにあたって、武器、甲冑、農具などに使用される「鉄」を、海を越えて朝鮮半島にまで獲得(交易)しに行ったことである。また同時にこれらの鉄を自前でも生産するようになっていったことである。 この鉄の獲得は、統一国家によって行われたわけではない。まだ国家が未成熟な古代社会においては、地域ごとの部族集団が個々に行っていたと考えられる。だがそうしたなかで、富と人と武力を集積できた一部の集団が、分立状態にあった多くの集団を連合する形で小国家を作り上げていったのであろう。
ここでは、「朝鮮の歴史(新版)・三省堂1995年」の年表を中心に記述し、日本との関係の深いポイントを書き出してみた。また「古代朝鮮・井上秀雄・講談社2004年」「日本の歴史1・神話から歴史へ・井上光貞・中公文庫改版7刷2014年刊」「日本の時代史・吉川弘文館2002年」「日本古代の歴史1『倭国のなりたち』・吉川弘文館2013年」などからも、要約抜粋した。特に日本と朝鮮の古代史は、日本の国家誕生に関わる、神話と歴史が交錯する重要な部分である。
年 | 旧石器時代 |
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B.C.数十万年 | ●旧石器時代始まる。 東アジアにおける人類の出現は中国の藍田原人(らんでんげんじん)といわれ、75万年~65万年前といわれる。北京原人は46万年~23万年前とされる。 朝鮮半島ではピョンヤン市力浦(リョクポ)区域にある、大峴洞(テギョンドン)洞窟遺跡から、原人と旧人の中間形態を示す少女の頭蓋骨が発見されている。これが今のところ最も古い化石人骨とされる。 |
B.C.5000年頃 | ●櫛目文(くしめもん)土器時代始まる。 この土器は、底が尖った砲弾形の器形を持った、櫛の歯でひっかいたような短斜線文や綾杉文が描かれた尖底深鉢である。 この頃の生業は、採集と漁撈であるが、中期以降には畑作農耕も行われた。遺跡が海岸沿いにあることや出土する道具をみると、専ら漁撈が中心だったようだ。 |
B.C.1000年頃 | ●無文土器時代始まる 中国東北地方の影響を受け、櫛目文土器から無文土器の出現にかわる。無文土器は、朝鮮半島全体で同じ形を共有するわけでない。地域、時代によってそれぞれ特徴を持つ。例えば、後期で粘土を口縁に巻きつけた粘土帯土器が現れたが、これは北部九州を中心に日本にも影響を与えている。 |
B.C.10~8C. | ●稲作始まる。 中国の長江下流域で紀元前5,000年頃に始まった稲作は、インデカ(長粒米)とジャポニカ(単粒米)だったが、長い年月を経て北上する過程でジャポニカが残り、山東半島あたりから朝鮮半島に伝わったと考えられる。 農具は石製や木製であり、後期になると鉄製鎌や鉄製鍬などが現れたが、それほど鉄製農具は普及しなかった。半島を経由して日本に伝播した稲作は初期の段階から水稲耕作だった。 |
●新しい墓制が出現。 支石墓(しせきぼ)・石棺墓(せっかんぼ)・甕棺墓(かめかんぼ)・木槨墓(もっかんぼ)である。 ●支石墓は威鏡北道の北半分を除く半島のほぼ全域に分布している。構造的に2種類あり、北方式(テーブル式)と南方式(碁盤式)とに分けられる。このうち南方式支石墓は、縄文時代後期から弥生時代にかけて日本の北部九州に伝播した。 |
年 | 青銅器文化 |
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B.C.9~8C. |
青銅器使われ始める
●中国の遼寧地方の青銅器文化が波及し、それを基盤に後期には、朝鮮独自の細型銅剣に象徴される青銅器文化が生み出された。この細型銅剣は、遼寧式銅剣の下半部が細くなったもので、その盛行とともに銅戈、銅矛などの武器、銅斧などの工具や多紐細文鏡とよばれる銅鏡があった。 |
B.C.4~3C. |
鉄器が使われ始める
●青銅器は機能を失い、鉄器が本格的に生産され普及した。武器・農工具や交易で使われた後の時代の鉄鋌(てつてい)のような鉄の地金も作られた。 「・・・国に鉄を出し、韓・濊・倭皆従いてこれを取る。諸そ市買に皆鉄を用い、中国の銭を用いる如し。又以て二郡に供給す」とある。
●また「古代朝鮮」井上秀雄(著)には次のようにある。 鉄器の使用は西北朝鮮で前4~前3世紀ともいわれ、北中国の燕(えん)の明刀銭の分布から第2次青銅器文化と鉄器文化の伝来経路は、遼東半島から鴨緑江(アムノッカン)中流をへて大同江(テドンガン)上流にはいり、平壌(ピョンヤン)地方に定着したと推測される。この経路はのちに高句麗の王都となった輯安(しゅうあん)地方を通っていることや、燕からの亡命者の満(まん)の移住と建国にもかかわるものとして注目されている・・・・
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ここで、押さえておくべき文献資料などを一覧にしておく。特に三国志は著名だが、この3国とは、「魏・呉・蜀」をいう。そして「邪馬台国」が書かれているのは、3国の中の、魏志の中の「烏丸伝・鮮卑伝・東夷伝」とあるうちの東夷伝の中である。さらにこの東夷伝のなかの、「夫余・高句麗・東沃沮・挹婁・濊・韓(馬韓、弁韓、辰韓)・倭人」とあるうちの「倭人の条」のなかである。
(出典):石原道博編訳『新訂・魏志倭人伝・他3編』岩波書店1951年第1刷。
(出典):石原道博編訳『新訂・旧唐書倭国日本伝・他2編』岩波書店1956年第1刷。
(出典):佐伯有清編訳『三国史記倭人伝・他6編』岩波書店1988年第1刷。
(出典):広辞苑等より
撰者(年) | 出身王朝 | 書名 (成立年)対象の時代 | 備考 |
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班固(はんこ) (32-92) |
後漢 (25-220) |
●漢書(82年頃成立) 前漢(前202-後8)の歴史を記した紀伝体の書。 |
24史の1。本紀12巻、表8巻、志10巻、列伝70巻。計100巻(現行120巻) |
王充(おうじゅう) (27-101?) |
後漢 (25-220) |
●論衡 30巻。もと100編というもの、今本は85編(第44編を欠く)。 |
当時のあらゆる学説・習俗に対し独自の批判を記したもの。 |
禹の治水を助けた白益の著といわれる? | 戦国時代~秦・漢代の作 | ●山海経 中国古代の神話と地理の書。18巻。 |
山や海の動植物や金石草木、また怪談を記す。 |
范曄(はんよう) (398-445) |
南朝宋 (420-479) |
●後漢書(432年頃成立) 後漢(25-220)の事跡を記した史書。 |
24史の1。本紀10巻、列伝80巻。志30巻は、晋の司馬彪の「続漢書」の志をそのまま採用。 |
陳寿(ちんじゅ) (233-297) |
西晋 (280-316) |
●三国志(280年代成立) ・魏(220-265) ・呉(220-280) ・蜀(221-263) 3国の正史。24史の1。65巻。 |
「魏志・呉志・蜀志」のうちの魏志「烏丸伝・鮮卑伝・東夷伝」の東夷伝の中に「夫余・高句麗・東沃沮・挹婁・濊・韓(馬韓、弁韓、辰韓)・倭人」条がある。 |
古朝鮮(コジョソン)の伝説で、檀君(タングン)神話の伝承がある。「古代朝鮮」井上秀雄(著)には次のようにある。
『この神話は、モンゴル軍の侵入を受け、高麗王朝は江華島へ逃げたが、残された国民は各地で侵略軍と戦い、支配者とは別な愛国心が広範に広がった。この愛国心の象徴こそが壇君神話であり、「三国遺事(サムグンニュサ)」において民間信仰の壇君神話を巻頭にあげたことは、朝鮮の歴史観の特色を示すとある。』また「本当は怖い韓国の歴史」豊田有恒・祥伝社2012年刊では、この壇君神話は一種の天孫降臨神話であり、韓国ではつい近年まで壇君紀元が使われていた』とあります。西暦2012年は、壇君紀元4345年である。
●古朝鮮の箕子朝鮮については、「史記」や「漢書」にも箕子による開国記事がみえ、当時からそのような伝説が流布していたことは事実であろう。これらの伝説とは別に、具体的な朝鮮半島の動向が明らかになるのは、中国の戦国時代からである。前4~3世紀には、中国の秦・漢交代期の動乱を避け、逃れてきた燕・斉・趙の人々を朝鮮は積極的に受け入れた。そして朝鮮王を自称する首長に代表される独自の勢力があり、中国と交渉を持っていた。
衛氏朝鮮は前漢によって滅ぼされ、漢は朝鮮半島の直接支配にのりだした(B.C.100年前後)。だが高句麗などの攻撃により、朝鮮半島における漢の拠点は「楽浪郡」だけになってしまった。この激動期(紀元前後の前漢~後漢)において、朝鮮半島において勢力を伸ばしたのが高句麗だった。その後の2世紀末になると、遼東太守だった公孫度は、後漢滅亡の契機となった黄巾の乱やそれに続く混乱に乗じて、遼東郡と玄菟郡を領有して事実上独立した。そしてその子の公孫康は、朝鮮半島の楽浪郡を支配下におき、その南に漢人支配の足がかりにしようと帯方郡を設置した。
238年、中国の魏は、蜀の諸葛孔明の死を契機に公孫氏討伐にのりだし、4万の大軍で3代目公孫淵を戦死させ、公孫氏を滅ぼした。そして楽浪郡・帯方郡は魏の領土となった。 そしてこの時日本列島の倭国では、「邪馬台国」の女王「卑弥呼」がこの帯方郡に使いを送り、魏の天子に朝献を求めたと、下記「三国志・魏志・東夷伝・倭人条」にある。「郡」とは帯方郡のことである。
※(出典):石原道博編訳『新訂・魏志倭人伝・他3編』岩波書店1951年第1刷。
※ただここに書かれている景初2年(238年)は、魏と公孫氏の戦乱の最中であるので、朝貢は翌年景初3年(239年)の誤りとする見解が主流らしい。
一方日本の正史である「日本書紀巻第9」には、3世紀のこととして、仲哀天皇(在位192年~200年)の皇后である「神功皇后」の物語が書かれている。
「日本国家の起源」(岩波書店1960年発行)井上光貞著によれば、この「神功紀」の前半は、伝承にすぎず歴史事実ではないが、後半は逸書である「百済記」をもとに書かれているので、史実も発見できるとある。どういう意味かというと、「日本書紀」には、この「百済記」や「百済新撰」「百済本記」といわれる百済3書(百済の歴史書)から引用され、それをもとに朝鮮半島に関連する記事が書かれている巻があるということである。そしてこの「神功紀」の卷も「百済記」をもとに書かれているので、その部分では、史実も発見できるといっているのである。
※これら百済3書は現在すべて失われていて、日本書紀にのみ一部逸文として引用されているだけである。
さらに「日本国家の起源」によれば、この日本書紀の「神功紀」の「百済記」の干支は、120年ずらされていて、実際は4世紀の記事を3世紀の記事としているとある。
※何故日本書紀は120年(2運)早めて記述したのであろうか。同一の干支があった時、干支は60年ごとに1巡するので、どの年でも選択は可能である。ただし別の資料に確実な年が記述されていれば、その干支の年を確定することができる。それがこの「神功紀」の以下の部分でわかったのである。
●乙亥年(255年)肖古王死す。
●甲申年(264年)貴須王死す。
(三国史記=朝鮮の正史)
●乙亥年(375年)近肖古王死す。
●甲申年(384年)近仇首王死す。
※近肖古王=肖古王、近仇首王=貴須王である。
この2書を比べると、「干支」は同じだが、日本書紀では120年ずらしてある。何故分かるかというと、日本書紀は神武天皇の即位を、紀元前660年の辛酉年としているので、逆算することができるわけである。
別の例をあげると、下記の「神功紀」にある「百済との最初の国交の記事」も、直接「日本書紀」に伝わった伝承ではなく、これら「百済3書」に書かれた内容から「日本書紀」を記述している。さらにその記事を120年繰り上げて、実際は4世紀である「百済との国交の始まり」を3世紀として記述しているのである。その部分を、120年繰り下げて実際の年にして抜粋すると以下のようである。「百済の肖古王」がでてくるので、4世紀が正しいことがわかる。
●366年、日本の使者が卓淳国を訪れたので、卓淳王は百済との約束を重んじて、日本の使者を百済に送った。百済の肖古王は喜んで織物や武器を送り、国交が開始された。
ではいったい何故日本書紀は、4世紀のことを3世紀にしたのだろうか。その理由は、「日本書紀」は神功皇后を、邪馬台国の「卑弥呼」としたかったからである。
つまり、8世紀の天皇家による「日本書紀」編纂時には、卑弥呼について直接の伝承は無かったが、「魏志倭人伝」記載の邪馬台国「卑弥呼」は知識として知っていたので、卑弥呼にみたてた神功皇后の物語を創作したということである。
※「日本書紀・神功紀」は「魏志倭人伝」の記事を引用しているが、「卑弥呼」の名は隠されている。
★つまり「日本書紀」という書物は、そういった中国の歴史書や、古来より地域や豪族らに伝わってきた伝承等を、8世紀になって新しい日本国誕生にあたり、天皇家の正統性のために取捨選択して作り上げられた書物であるということである。そのことが「日本書紀」に対する基本的な理解である。だから考古学者が、考古学的遺物・遺跡を、安易に「日本書紀」に記載されている天皇名と結びつけて論じることは、実証学としてはおかしなことである。
「訓讀日本書紀. 中巻」→
ここで、「三国志・魏志・東夷伝・夫余条」より、東明王(トンミョンワン)伝説、そして「三国史記」の朱蒙(チュモン)伝説を引用する。これらは東アジアで共通する日光感情神話といわれる。そして朱蒙伝説は、高句麗・広開土王碑文の第1段の開国伝承と類似しているとされ、東明王と朱蒙は同一人物とされている。
「三国志・魏志・東夷伝・夫余(ふよ)条」より、東明王(トンミョンワン・とうめい王)伝説。
おそらく、もともとは濊貊(わいばく)の地であったのだが、夫余王は自ら亡命者と称している。それなりに根拠のあることであろう。
魏略はいう。さらに古い記録にもある。むかし北のほうに高離(こうり)国という国があった。その王の侍女が身ごもったので、王は殺そうとした。侍女は、答えた。鶏卵のような気が、わたしのほうに落ちてきたため、妊娠してしまったのだ、と。やがて、赤ん坊が生まれた。王は、この子を便所に捨ててしまった。だが、(便所で飼われている)豚が、息を吹き掛けて、蘇生させた。そこで、厩に捨てたのだが、今度は馬が、息を吹き掛けて、蘇生させてしまった。王は、やはり天の子ではないかと考え、母親に引き取らせ育てさせることにした。東明と名付けた。常に馬飼いをさせたのだが、東明は弓矢が得意だった。王は、やがて東明に国を奪われるのではないかと恐れ、殺そうとした。東明は、南方へむけて脱走し、施掩水(しえんすい)という河にでた。弓矢で川面をたたくと、魚や鼈(すっぽん)が出てきて橋になり、東明か対岸に渡ったとたんに解散した。追ってきた王の兵は、渡ることができなかった。こうして東明は夫余の地で王となったのである。
(出典:「歴史から消された邪馬台国の謎」豊田有恒・青春出版社2005年刊)
「三国史記」の朱蒙(チュモン・しゅもう)伝承の概略
「・・扶余王解夫婁(かいふろ)は子がなく山川の神を祭って嗣子を求めた。そうすると金色の蛙形の小児を得て金蛙(きんあ)と名づけこれを養い、位を譲った。金蛙は鴨緑江の河神の娘柳花(りゅうか)をとらえて問うと次のように答えた。「私は天帝の子解慕漱(かいぼそ)と自称する者と交わった。その後、彼は帰ってこなかった」。金蛙はこの話を不思議に思って柳花を部屋の中に閉じこめた。柳花は日の光にあたると妊娠して大きな卵を生んだ。金蛙はこれを嫌って犬や豚に与えても喰べないし、道に捨てても牛馬がこれを避けた。金蛙はこれを割こうとしたが殼を破ることができなかったので、卵を柳花に返した。やがて殼を破って朱蒙が生まれ、七歳になると弓を射ることが非常に巧く、百発百中したという。金蛙の王子たちは彼を嫌って殺そうとしたので、柳花は彼に南方に逃れるようにいった。佟佳江(とうかこう)まで逃げてきたところ追手が迫ったので、川に向かって朱蒙は「自分は天帝の子で、河神の孫である。追手が迫っているのでなんとかして欲しい」といった。すると、魚や亀が浮きあがって橋を作った。その後、さまざまな苦労を重ね、ついに朱蒙は高句麗を建国したという。・・」
(出典:「古代朝鮮・井上秀雄・講談社2004年」広開土王陵碑文、開国の伝承より一部引用」
3世紀高句麗は国内(クンネ)城(+丸都城)を都とする新国を建てた。近くには有名な広開土王碑がある。後漢を継いだ魏は公孫氏を滅ぼし、その勢いで244年から高句麗を攻め、王都を陥落させた。だが高句麗王は生き延び、しだいに復興を遂げた。3世紀後半、晋が中国を統一すると、倭国では266年、卑弥呼の後を継いだ女王壱与が晋に朝貢した。
そして4世紀末(391年)有名な高句麗・広開土(クァンゲト)王が即位する。そして414年高句麗は、広開土王の死後その功績を顕彰すべく広開土王陵碑を建てる。
この碑が広開土王碑で、そこには391年から404年にかけて「倭」が朝鮮半島に進入し、高句麗、百済、新羅、加羅(?)の戦争状態のありさまが刻印されている。
年 | 高句麗 |
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3C.初 |
高句麗、国内城(丸都城)を都とする
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244 |
魏、高句麗を攻める
●後漢を継いだ魏は、公孫氏を滅ぼし、高句麗と直接国境を接することになった。魏は公孫氏討伐に活躍した将軍を派遣し、高句麗侵攻をくわだてた。そして244年から本格的に侵攻し、王都を陥落させたが、高句麗王は逃げ延びて、再興を期した。 |
3C.中頃 |
三韓、帯方郡を攻めて、太守を敗死させる
●韓族はしだいに強力になり、帯方郡の設置も韓族の侵入に備えていたものだった。『魏志』韓伝によれば、3韓のうち、「馬韓」は50余国総計10余万戸、「辰韓・弁韓」は、馬韓より規模が小さく、24の小国で総計4万~5万戸であったという。 |
●3世紀後半、晋が中国を統一し、幽州の5郡を分割して平州を置いた。これにより、とくに馬韓・辰韓地方の諸国が、晋に朝貢するようになった。そういうなかから小国の連合体が生まれていった。(倭国では266年、女王壱与が晋に朝貢)
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313頃 |
高句麗、楽浪郡を滅ぼし、翌年には帯方郡も滅ぼす
●これには馬韓・辰韓なども高句麗とともに参加していたと思われる。高句麗による楽浪郡や帯方郡の攻撃は、その郡民の多くを、鮮卑族の慕容氏(遼河方面に勢力を持っていた)のもとへ移住させた。その後高句麗は遼東を確保した慕容氏と衝突するようになる。高句麗は西進のため新城(シンソン)を築き、南進のため、平壌を拠点とした。 |
342 | ●前燕、高句麗を攻めて、国内城を破壊する。燕王を称するようになった慕容氏は、5万の大軍で王都を攻めた。王都に侵入した燕王は、前王美川王の墓を暴き、王母や妃を捕らえ宮殿を焼きはらった。故国原(コググォン)王は、翌年臣と称して朝貢し、父の屍を取り戻した。 |
<三国時代>
●百済(ペクチェ)は朝鮮半島中西部におこり、高句麗・新羅とともに三国を形成した。百済の前身は馬韓(マハン)の50余国の小国のひとつ伯済(ペクチェ)国で、漢江(ハンガン)下流域、ソウルの江南を中心としていた。4世紀なかば、近肖古(クムソゴ)王代までには、周囲の小国をあわせた連合体に成長した。 ●新羅(シルラ)は辰韓(チンハン)12国のひとつ、慶尚北道慶州(キョンジュ)の斯盧(サロ=シラ)国が4世紀なかばに成長して、先進の高句麗に従属するかたちで、勢力を伸ばしていった。 ●加耶(カヤ)諸国は、百済や新羅に取り込まれない残された諸小国や、弁韓(ピョンハン)地域の諸国のことをいった。日本で「任那」とよぶのは、加耶の1国(金官国)の別な呼び方であった。金官は、3世紀の狗邪(クヤ)国の後身であり、鉄生産や海上交易などの利を得て、大加耶とよばれる勢力となった。海をへだてた倭とも関係が深く、4世紀以降、百済-加耶南部-倭の同盟関係が6世紀初めまで維持された。 |
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371 |
百済、高句麗を平壌で破り、故国原(コググォン)王を敗死させる
●百済の太子の近仇首(クングス)は、南進してくる高句麗軍を平壌城に攻め、故国原王を殺した。百済は、北の高句麗と対立し、南の加耶諸国と親交を結び、倭とも接近し同盟関係を持った。369年には「七支刀」を倭王に贈っている。現在日本国奈良県石上(いそのかみ)神宮に所蔵(国宝)されている。 「宝物」七支刀「石上神宮公式サイト」 |
372 |
高句麗に仏教伝わる。百済、晋に朝貢する
●百済は東晋へ使者を送り、鎮東将軍・領楽浪太守の号を受けた。高句麗は中国北部の前秦(五胡十六国の1つ)と通じており、護国的仏教が伝わった。(朝鮮において初) |
377 | ●新羅、高句麗とともに前秦に入貢する。新羅が前秦に入貢できたのは、高句麗が認めていたからであり、新羅は高句麗に従属する形をとった。 |
384 |
百済に仏教伝わる
●東晋から西域僧の摩羅難陁(マラナンダ)によって、仏教が伝えられた。百済は、前秦・高句麗・新羅に対抗するため東晋に通交していた。 |
391 |
高句麗、広開土(クァンゲト)王即位する
●広開土王、故国壌(コグギャン)王のあとを継いで18歳で即位した。広く領土を開いた王という諡(おくりな)もち、永楽大王と称した。対外的に大きく発展した時代を築いた。 |
414 | ●高句麗、広開土王陵碑を建てる。王の死後にその功績を顕彰すべく建てられたものである。この碑文によれば、高句麗は「新羅」を助け、「百済」と結んだ「倭」を破ったとある。日本古代史にとって、この碑文の価値は最重要なものとなっている。 |
●広開土王碑文抄を下記に引用する。(出典)佐伯有清編訳『三国史記倭人伝・他6編』岩波書店1988年第1刷。
特に①については、ウイキペディアによれば、日本・韓国・北朝鮮で解釈が異なるという。「新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に来たので(高句麗は)海を渡って百残を破り、新羅を救って臣民とした。」韓国学会の定説とある。
①百残・新羅は、旧(もと)是れ属民にして、由来朝貢す。而(しか)るに倭は、辛卯の年(391年)を以て来りて海を渡り、百残・口口・新羅を破り、以て臣民と為す。(辛卯年条)
②九年己亥(399年)、百残、誓いを違(たが)えて、倭と和通す。(九年己亥条) ③王、平穣に巡下す。而(すなわ)ち新羅、使を遣わして、王に白(もう)して云く。倭人、其の国境に満ちて、城池を潰破(かいは)し、奴客を以て民と為(な)せり。王に帰して命を請うと。 (同右条) ④十年庚子(400年)、歩騎五万を遣わして、往(ゆ)きて新羅を救わ教(し)む。男居城従(よ)り、新 羅城に至るまで倭、其の中に満つ。(十年庚子条) ⑤官兵、方(まさ)に至り、倭賊、退(しりぞ)く。(同右条) ⑥倭、満ち、倭潰(つい)ゆ。(同右条) ⑦十四年甲辰(404年)、而(すなわ)ち倭、不軌(ふき)にも帯方界に侵入す。(十四年甲辰条) ⑧倭寇、潰敗し、斬殺するもの無数なり。(同右条)
●『太王四神記』(たいおうしじんき・テワンサシンギ)韓国MBCTVドラマ(2007年)
韓国で、歴史上尊敬する人物のベスト3は、「世宗大王」「李舜臣将軍」「広開土大王」であるという。この『太王四神記』は広開土大王を主人公にペ・ヨンジュンを起用し、最終回の放送では35.7%の高視聴率を記録したとある。「古代韓国の歴史と英雄」(康 熙奉)実業之日本社2011年刊 |
●「三国史記」にみる倭関係記事は以下のようである。(出典)木下礼仁「5世紀以前の倭関係記事-『三国史記』を中心として」より。1982年中公新書「倭人伝を読む」収録。
三国史記の六部 | 件数 | 備考 |
---|---|---|
新羅本紀 | 59 | 倭関係記事はほぼ「新羅本紀」に集中しており、大部分は「倭人あるいは倭兵」が新羅の辺境を犯したというものである。この「倭」の根拠地がどこにあるかが、大きな問題となっている。 |
高句麗本紀 | 2 | 「高句麗本紀」には2例みられるが、これは「倭山」という「有名未詳地」であるので、倭関係記事はひとつもない。 |
百済本紀 | 16 | 「百済本紀」の倭関係記事は、例外なく、百済王の即位・廃位・結婚などに関連する外交記事が中心。 |
雑志 | 7 | |
列伝 | 26 | |
合計 | 110 | ●記事の例をあげる(408年・実聖7年春2月記事)
「王、倭人の対馬島に営を置き、貯うるに兵革・資糧をもってし、以て我を襲わんことを謀るを聞き、我、その未だ発せざるに先んじて、精兵を練り兵儲を撃破せんと欲すと。・・・・」
|
ここで、前段ででてきた「干支」について簡単に述べる。紀元前より連綿と続く、2文字の漢字組み合わせについて、基本事項を知っておく必要があるとおもう。中国を中心とする「中華圏」では古代から年代表現で必ずでてくるからである。(星野)
●例えば五月人形の由来は、5月5日端午(たんご)の節句に、男児の健やかな成長の願いを込めて、人形などを飾ったことがはじまりという。
この「端午の節句」(たんごのせっく)という文字の「端午」の意味は、次のようになる。
「端」(たん)・・・・はしっこの意味で「始まり」のこと。
「午」(ご:音読み)・・「午の日」(ごのひ)のこと。
●月の名にも「午の月」(ごのつき)があるが、それは5月のことをいう。だからといって「午の日」は5日ではない。「端午」(たんご)とは、ある月の「最初の午の日」の意味だった。12ヶ月の月にはそれぞれ名前があり(十二支が固定で5年で1巡)、日にちの名は、60干支が無限に連続していく。
そして、5月の時期の、最初の午(ご)の日に祝っていたものが、「午」(ご)は「五」(ご)に通じることから、5月5日の節句(せっく)になったということです。
●この「端午の節句」(たんごのせっく)の「午」(ご)の文字。これは干支を構成する文字の一つで、起源はずっと古く、中国の殷の時代(紀元前17世紀~紀元前1046年)にまでさかのぼる。この「午」の文字は、他の種類の文字とともに、年、月、時刻、方角などの表現に使われた。
●このようにして使われた文字は①10個のグループと②12個のグループがあり、さらに、この2種類の文字を組み合わせた文字列が③60個のグループとなる。
①10個の漢字を十干(じっかん)という。
甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸 |
---|
②12個の漢字を十二支(じゅうにし)という。
子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥 |
---|
そして①と②の2文字で組み合わせたものを③干支(かんし:えと)という。「10・干」と「12・支」を合わせたものなので、干・支という。
01甲子・02乙丑・03丙寅・04丁卯・05戊辰・06己巳・07庚午・08辛未・09壬申・10癸酉 |
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11甲戌・12乙亥・13丙子・14丁丑・15戊寅・16己卯・17庚辰・18辛巳・19壬午・20癸未 |
21甲申・22乙酉・23丙戌・24丁亥・25戊子・26己丑・27庚寅・28辛卯・29壬辰・30癸巳 |
31甲午・32乙未・33丙申・34丁酉・35戊戌・36己亥・37庚子・38辛丑・39壬寅・40癸卯 |
41甲辰・42乙巳・43丙午・44丁未・45戊申・46己酉・47庚戌・48辛亥・49壬子・50癸丑 |
51甲寅・52乙卯・53丙辰・54丁巳・55戊午・56己未・57庚申・58辛酉・59壬戌・60癸亥 |
01甲(こう:きのえ) 「木( き)の兄( え)」 | 02乙(おつ:きのと)「木( き)の弟( と)」 |
03丙(へい:ひのえ) 「火( ひ)の兄( え)」 | 04丁(てい:ひのと)「火( ひ)の弟( と)」 |
05戊(ぼ:つちのえ) 「土(つち)の兄( え)」 | 06己(き:つちのと)「土(つち)の弟( と)」 |
07庚(こう:かのえ) 「金( か)の兄( え)」 | 08辛(しん:かのと)「金( か)の弟( と)」 |
09壬(じん:みずのえ)「水(みず)の兄( え)」 | 10癸(き:みずのと)「水(みず)の弟( と)」 |
●(説明)このように訓読みで「きのえ」「きのと」のように、兄(え)と弟(と)の組み合わせで読んだことにより、この十干(じっかん)の文字を「えと」といった。
しかし今日では、「えと」と言えば①十干(じっかん)の文字ではなく、次の②十二支(じゅうにし)のことを言うようになった。
なぜ、木の兄(きのえ)、水の弟(みずのと)といわれるかは、陰陽五行説に由来する。
万物は 木、火、土、金、水の5種類の元素からなり(五行説)、万物の生成消滅は陰(弟)(いん)、と陽(兄)(よう)によって起こる(陰陽説)。それぞれの5元素に陰と陽が対となるという。
(補足)
|
01子( し: ね:鼠:11月:北) | 02丑(ちゅう: うし:牛:12月: ) |
03寅( いん:とら:虎:01月: ) | 04卯( ぼう: う:兎:02月:東) |
05辰( しん:たつ:龍:03月: ) | 06巳( し: み:蛇:04月: ) |
07午( ご:うま:馬:05月:南) | 08未( び:ひつじ:羊:06月: ) |
09申( しん:さる:猿:07月: ) | 10酉( ゆう: とり:鶏:08月:西) |
11戌(じゅつ:いぬ:犬:09月: ) | 12亥( がい: い:猪:10月: ) |
①の十干(音読み・訓読み)と②の十二支(音読み・訓読み)を合わせて、№01は甲子(こうし・かっし:きのえ・ね)、 №34は(ていゆう:ひのと《の》・とり)、№57は(こうしん:かのえ・さる)、 №60は(きがい:みずのと《の》・い)と読んでいく。また、2015年を含む「甲子」から「癸亥」を、60年間の1セットとして、対応する西暦を記入すると以下のようになる。
01甲子(こうし・かっし:きのえね)(1984年) | 02乙丑(いっちゅう:きのとのうし) (1985年) |
03丙寅(へいいん:ひのえとら) (1986年) | 04丁卯(ていぼう:ひのとのう) (1987年) |
05戊辰(ぼしん:つちのえたつ) (1988年) | 06己巳(きし:つちのとのみ) (1989年) |
07庚午(こうご:かのえうま) (1990年) | 08辛未(しんび:かのとのひつじ) (1991年) |
09壬申(じんしん:みずのえさる) (1992年) | 10癸酉(きゆう:みずのとのとり) (1993年) |
11甲戌(こうじゅつ:きのえいぬ) (1994年) | 12乙亥(いつがい:きのとのい) (1995年) |
13丙子(へいし:ひのえね) (1996年) | 14丁丑(ていちゅう:ひのとのうし) (1997年) |
15戊寅(ぼいん:つちのえとら) (1998年) | 16己卯(きぼうつちのとのう) (1999年) |
17庚辰(こうしん:かのえたつ) (2000年) | 18辛巳(しんし:かのとのみ) (2001年) |
19壬午(じんご:みずのえうま) (2002年) | 20癸未(きび:みずのとのひつじ) (2003年) |
21甲申(こうしん:きのえさる) (2004年) | 22乙酉(いつゆう:きのとのとり) (2005年) |
23丙戌(へいじゅつ:ひのえいぬ) (2006年) | 24丁亥(ていがい:ひのとのい) (2007年) |
25戊子(ぼし:つちのえね) (2008年) | 26己丑(きちゅう:つちのとのうし) (2009年) |
27庚寅(こういん:かのえとら) (2010年) | 28辛卯(しんぼう:かのとのう) (2011年) |
29壬辰(じんしん:みずのえたつ) (2012年) | 30癸巳(きし:みずのとのみ) (2013年) |
31甲午(こうご:きのえうま) (2014年) | 32乙未(いつび:きのとのひつじ) (2015年) |
33丙申(へいしん:ひのえさる) (2016年) | 34丁酉(ていゆう:ひのとのとり) (2017年) |
35戊戌(ぼじゅつ:つちのえいぬ) (2018年) | 36己亥(きがい:つちのとのい) (2019年) |
37庚子(こうし:かのえね) (2020年) | 38辛丑(しんちゅう:かのとのうし) (2021年) |
39壬寅(じんいん:みずのえとら) (2022年) | 40癸卯(きぼう:みずのとのう) (2023年) |
41甲辰(こうしん:きのえたつ) (2024年) | 42乙巳(いっし:きのとのみ) (2025年) |
43丙午(へいご:ひのえうま) (2026年) | 44丁未(ていび:ひのとのひつじ) (2027年) |
45戊申(ぼしん:つちのえさる) (2028年) | 46己酉(きゆう:つちのとのとり) (2029年) |
47庚戌(こうじゅつ:かのえいぬ) (2030年) | 48辛亥(しんがい:かのとのい) (2031年) |
49壬子(じんし:みずのえね) (2032年) | 50癸丑(きちゅう:みずのとのうし) (2033年) |
51甲寅(こういん:きのえとら) (2034年) | 52乙卯(いつぼう:きのとのう) (2035年) |
53丙辰(へいしん:ひのえたつ) (2036年) | 54丁巳(ていし:ひのとのみ) (2037年) |
55戊午(ぼご:つちのえうま) (2038年) | 56己未(きび:つちのとのひつじ) (2039年) |
57庚申(こうしん:かのえさる) (2040年) | 58辛酉(しんゆう:かのとのとり) (2041年) |
59壬戌(じんじゅつ:みずのえいぬ)(2042年) | 60癸亥(きがい:みずのとのい) (2043年) |
●有名な歴史上の事件は、この干支表記を使って名付けているものがある。(下記に例)
№09、壬申(じんしん)の乱(672年日本)=日本古代最大の内乱戦争で天武天皇が勝利する。
№29、壬辰(じんしん)倭乱(1592年朝鮮)=秀吉の朝鮮侵略(文禄の役)により全土を蹂躙され、朝鮮文化が甚大な被害を受ける。
№05、戊辰(ぼしん)戦争(1868年日本)=明治新政府の倒幕(徳川幕府)戦争。
№48、辛亥(しんがい)革命(1911年中国)=中国清朝の滅亡、中華民国の樹立。(革命が勃発した年)。等がある。
(解説)干支は、このように全部で22個(10個+12個)の漢字を、2個ずつ順につなげて組み合わせて、60年間を表現した。ポイントは、この漢字の文字列は、年で言えば、紀元前より断絶すること無く現在まで連続しているということである。だからこの干支(かんし:えと)表記があれば、歴史上で、年を確定できる大きな手がかりとなっている。60年に1回しか出現しないので、逆算することができる。今から1500年以上前の金石文にもこの干支が使われているので、年を確定できる。
③の表から、直近の「辛卯」の年は№28西暦2011年になる。60の倍数の一つである1620年を引くと、西暦2011年-1620年(60年×27)=西暦391年となり、確定する。年号などの別の資料があり、何世紀頃かを推定できれば、その年を確定できる。120年間で2回同じ干支が出現するのだから。
(例2)日本国和歌山県橋本市の隅田八幡神社が所蔵する、5 – 6世紀頃製作の人物画像鏡(日本最古の金石文、国宝に指定)がある。その銘文には、「癸未(みずのとひつじ)年八月日十大王年男弟王・・・作此竟」とある。しかし、製作された年が確定できない例となっている。
③の表から、直近の「癸未」の年は№20西暦2003年になる。60の倍数の一つである1500年を引くと、西暦2003年-1500年(60年×25)=西暦503年。または、さらに60年を引いて、西暦2003年-1560年(60年×26)=西暦443年、と説が分かれている。
●(注意点)この干支は数学でいうところの「組み合わせ」ではない。もし組み合わせなら10個×12個=120通りの文字となる。しかし60通りなので、組み合わせの中の、半分の文字列しかない。
これは、10個の文字と12個の文字を順繰りに合わせていくため、60が最小公倍数(=2つ以上の正の整数の共通な倍数《公倍数》のうち最小のものを最小公倍数という)になるためである。片方の歯を10個にして「十干」の文字を書き、もう一方の歯車の歯数を12個にして「十二支」の文字を書く。そしてその2つの歯車を回転させると、接点のところにふたつの文字が合わされて作り出される文字列が、「干支(えと)」と考えると分かりやすい。61番目から最初の文字に戻る。年齢の60才を、還暦というのは、まさに60年で歴が一巡して還るからである。
5世紀、倭の5王とよばれる「讃、珍、済、興、武」が、中国の王朝に朝貢したことが、年代順に「晋書」「宋書」「南史」「南斉書」「梁書」に記されている。倭の5王は413年~502年までの約89年間に中国の南朝を中心に朝貢したのである。なかでも「宋書・倭国伝」に記されている「倭王・武」の478年の上表文は、倭国内統一戦争、朝鮮半島での高句麗との戦い等の歴史を述べていることで有名である。
★だが「武」に比定されている雄略天皇の日本書紀・古事記の巻には、宋の順帝に遣使した記事も、下段で引用した立派で堂々とした国書(上表文)の記載もない。さらに武が「使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王」に除されたという記事もない。
一方韓国では1971年、朝鮮3国時代の百済第25代の王である武寧王(462年-523年)の王陵が発掘された。そこから発見された墓誌石から、日本書紀に引用された百済系資料の確実さと、南朝(梁)が百済王に除した「使持節・都督・百済諸軍事・寧東大将軍・百済王」が正確であることが確認されたのである。
するとなぜ「日本書紀」の倭の5王に比定されている天皇、すなわち第16代(仁徳)or第17代(履中)から第21代(雄略)各々の天皇の治績に、中国王朝に対する遣使の記事が一切無いのだろうか。
それは、8世紀の天皇家には南朝に遣使した「倭の5王」に関する伝承がなかったということを意味している。歴史学者(文献史学)が、倭の五王を「日本書紀」に記載されている天皇に比定しているのであって、必ずしも倭の5王が天皇家ではなく別系統の「大王」であっても不思議はないのである。
年 | 高句麗 |
---|---|
427 |
高句麗、平壌城に遷都する
●広開土王の子長寿(チャンス)王は、領土拡大を経て全盛期を現出した。そして本格的な南方経営のため、平壌に遷都した。 |
475 |
高句麗、百済の漢城(ハンソン)を陥とし、蓋鹵(ケロ)王を殺す
●百済、熊津城に遷都する。高句麗は、百済に対して455年以降繰り返し侵攻していた。そしてついに百済の王城を陥落させ、王を殺した。ここに百済はいったん滅亡した。蓋鹵王の子(あるいは弟)は熊津(公州)に逃れ、そこで即位し百済を再興した。その後6世紀になると、武寧王は積極的な外交により、大きく領土を広げた。熊津の武寧王陵は「塼(せん)」で築かれ、中国の梁墓に近く、梁と百済の関係はきわめて深かった。 |
倭の5王
●日本では5世紀、倭の5王とよばれる「讃、珍、済、興、武」が、中国の王朝に朝貢したことが、南朝の史書、特に「宋書・倭国伝」に記されている。なかでも「倭王・武」の478年の上表文は、倭国内統一戦争、朝鮮半島での高句麗との戦い等の歴史を述べていることで有名である。下に「倭の五王」坂元義種著・教育社1981年刊より一部引用する。
興死す。弟武立ち、自(みずか)ら使持節・都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称す。
順帝(じゅんてい)の昇明(しょうめい)二年、遣使上表して曰く、「封国(ほうこく)は偏遠(へんえん)にして、外に藩と作(な)る。昔(むかし)自(よ)り祖禰(そでい)、躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を擐(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東の方(かた)、毛人(もうじん)五十五国を征し、西の方(かた)、衆夷六十六国を服す。渡りて海北九十五国を平(たい)らぐ。王道(おうどう)、融泰(ゆうたい)にして、土(ど)を廓(ひろ)げ、畿(き)を遐(はるか)にす。累葉(るいよう)朝宗(ちょうそう)して、歳(とし)に愆(あやま)らず。 臣、下愚(かぐ)なりと雖(いえど)も、忝(かたじけ)なくも先緒(せんしょ)を胤(つ)ぎ、統(す)ぶる所を駆率(くそつ)し、天極(てんきょく)に帰崇(きすう)す。道(みち)百済に遙(はる)けくして船舫(せんぼう)を装(よそお)ひ治(おさ)む。しかるに、句驪(くり)、無道(むどう)にして、図(はか)りて見呑(げんどん)せんと欲す。辺隷(へんれい)を掠抄(りゃくしょう)し、虔劉(けんりう)して已(や)まず。毎(つね)に稽滞(けいたい)して以て良風を失(うしな)ふことを致(いた)さしむ。路(みち)に進むと曰(い)ふと雖(いえど)も、或(ある)は通じ、或(ある)はしからず。 臣が亡考(ぼうこう)済、実に寇讎(こうしゅう)の天路(てんろ)を壅塞(ようそく)するを忿(いか)る。控弦(こうげん)百万、義声に感激して、方(まさ)に大挙せんと欲するに、奄(にわか)に父兄を喪(うしな)ひ、垂成(すいせい)の功をして一簣(き)に獲ざらしむ。居(お)ること諒闇(りょうあん)にありて、兵甲(へいこう)を動かさず。是(これ)を以て、偃息(えんそく)して未だ捷(か)たず。今に至りて、甲(こう)を練(ね)り、兵を治(おさ)め、父兄の志(こころざし)を申(かさ)ねんと欲す。義士(ぎし)・虎賁(こほん)、文武、功を効(いた)さんとし、白刃(はくじん)、前に交(まじ)はれども、亦(また)、顧(かえり)みざる所なり。もし帝徳の覆載(ふくさい)するを以て、此(こ)の彊敵(きょうてき)を摧(くだ)き、克(よ)く方難(ほうなん)を靖(やす)んぜば、前功を替(か)ふること無(な)けん。 竊(ひそ)かに自(みずか)ら開府儀同三司(かいふぎどうさんし)を仮(か)り、其(そ)の余(よ)も咸(みな)仮授(かじゅ)して、以て忠節を勧(すす)めしめん」と。 詔して武を使持節(しじせつ)・都督(ととく)倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に除す。 ●この倭の五王が日本の誰にあたるかは諸説ある。 |
|
514 |
新羅、法興王即位する
●法興王は、国制の整備につとめ、兵部を設け法幢(ほうどう)軍団を創設した。 |
520 | ●新羅、律令を定め、官位制を整える。独特の衣冠制など、固有法を明文化したものとみられる。 |
527 | ●新羅、仏教を公認する。5世紀にはすでに仏教が伝わっていた。法興王は反対する群臣をおさえ、仏教を正式に認めた。王は王宮近くに興輪寺を創し、王妃も永興寺を創した。 |
538 | ●百済、泗泚(サビ)に遷都し、国号を南扶余と改める。武寧王をついだ聖(ソン)王(聖明王・ソンミョン)は高句麗に対抗するため遷都した。551年百済は新羅と大加耶と連合して、高句麗を攻め漢城を回復した。(聖王は日本に仏教を伝えたことで有名。) |
551~2 | ●新羅、半島中央部に進出する。新羅はこの漢城を百済より奪った。 |
554 |
新羅、管山城で百済の聖王を敗死させる
●百済の聖王は新羅を討とうとしたが、逆に殺され、百済は滅亡の危機に瀕した。 |
562 |
新羅、大伽耶を滅ぼし、加羅諸国を収める
|
586 | ●高句麗、長安城に遷都する。6世紀になると王権は弱体化し、5世紀に獲得した漢城(ハンソン・ソウル江南)も、新羅に取られた。この新羅の急速な成長に対し、平原王は都を平壌市街の南に移し、計画的な王都・長安城を築いて対抗した。高句麗の寺院の多くは、1塔3金堂式の独特の伽藍配置をもち、新羅・倭に影響を与えた。学問僧も輩出し、日本の三論宗の開祖とされる慧灌(ヘグァン)も、隋に留学したのち、倭に渡った(625年)。また王陵の壁画には四神図が描かれるようなった。 |
598 |
隋の文帝。高句麗征討を命じる
●これ以後80年にわたり東アジアの動乱が始まった。中国では、589年隋が陳を平定して、300年ぶりに中国を統一した。高句麗・百済・新羅は隋の冊封を受けたが、高句麗は隋の侵攻をおそれ防備を固めたことにより、逆に隋により水陸30万による攻撃をうけた。 |
6世紀朝鮮半島は、高句麗は南進政策、百済(東城王・武寧王・聖明王)は中興の時、新羅(照知王・智証王・法興王)は国家興隆の時であった。特に新羅は、日本との関係の深かった加耶諸国(日本では任那)を562年に滅ぼした。特に加耶をめぐる新羅・百済・倭の抗争は、複雑な様相を呈した。
★ヤマト王権あるいは日本列島と任那(加耶諸国)とは深い結びつきがあったことは間違いない。
●加耶諸国の考古学的出土物は、北九州、畿内の出土物と同様なものがあり、深い交流と結びつきがあったと思われる。
●また同時期の日本(継体天皇・欽明天皇・敏達天皇)においては、日本書紀が「百済本紀」の記事を多く引用しているので、この頃の歴史的事実をある程度記録していると考えられている。
●527年(継体21年)に起きた日本の「磐井の乱」は、朝鮮半島をめぐる高句麗、百済、新羅、加耶(任那)の争いが、日本の九州の豪族・磐井と近畿ヤマト王権の国内戦争にも影響していたことを暗示している。
●下に日本書紀から、欽明天皇が敏達天皇へ遺言するところを引用してみる。当時の任那に対するヤマト王権の強烈な意志が感じられる。(出典:「日本書紀 下」坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋(校注)岩波書店1965年発刊)
「朕(われ)、疾(やまひ)甚(おも)し。後(のち)の事(こと)を以(も)て汝(いまし)に屬(つ)く。汝、新羅を打(う)ちて、任那を封(よさ)し建(た)つべし。更(また)夫婦(をうとめ)と造(な)りて、惟(これ)舊日(もとのひ)の如(ごと)くならば、死(みまか)るとも恨(うら)むること無(な)けむ」とのたまふ。
是の月に、天皇、遂に内寢(おほとの)に崩(かむがあ)りましぬ。時(とき)に年(みとし)若干(そこばく)。
●欽明天皇は、新羅に対する敵対感情と、任那に対して昔のように夫婦となれと、親愛の情を吐露し、任那の復興を皇太子である敏達天皇へ遺言している。また敏達天皇も、皇太子である用明天皇へ任那復興を命じている。
隋の煬帝は、612年100万の軍で高句麗を攻めた。また翌年、翌々年にも大軍を送ったが、高句麗はこの3次におよぶ隋の遠征軍を迎え撃ち退けた。さらに隋は4次の攻撃を計画したが、国内で反乱が起き、隋は滅びた。
そして618年唐が興ると、3国は唐の冊封をうけ安定するかにみえた。しかしその後、3国の抗争はさらに激化していった。
そんな中で百済と高句麗では内乱が起きた。その後、高句麗と百済は連携し新羅に対抗したので、新羅は唐に出兵を求めた。この3国の抗争は、ついに唐の直接介入を招き、朝鮮半島と日本は、大きな破局と動乱期をむかえた。
年 | 隋・唐、百済・高句麗・新羅と日本 |
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612 | ●隋の煬帝、高句麗を攻める(613、614) |
642 | ●百済、新羅西南部を奪う。高句麗の泉蓋蘇文、権力を握る |
644 | ●唐、高句麗を攻める(647、648) |
647 | ●新羅、毗曇が乱を起こす |
651 | ●新羅、執事部を設け、官制を整える |
●新羅でも内乱が起きたが、金春秋(後の武烈王)らが鎮圧し、親唐路線を継承し、権力の集中を成し遂げた。
●武烈王が即位すると、高句麗と百済は連合して新羅を攻めた。これに対し新羅は唐に援軍を求め、660年新羅と唐の連合軍は百済の王都を攻略し、ついに百済は滅んだ。 ●しかし百済の遺民による、百済復興の挙兵が相次ぎ、なかでも鬼室福信の兵が有力であった。彼は日本に援軍を求め、同時に人質として日本に来ていた百済の王子豊璋を、王として立て百済を再興しようとした。しかし内紛と日本軍の白村江での敗退で、百済復興は失敗した。 |
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654 | ●新羅、武烈王即位する |
655 | ●唐、高句麗を攻める(658、659、661~2) |
660 |
唐、新羅と結び百済を滅ぼす
●そして五都督府を置く。 |
663 |
唐、白村江で日本軍を破る
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668 |
唐、新羅と結び高句麗を滅ぼし、翌年、安東都護府を置く
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●新羅は唐と連合して、百済・高句麗を滅ぼしたが、唐は朝鮮半島全域を支配することをもくろんでいた。そこで新羅は、670年唐に対して軍事的反抗に踏み切った。そしてついに唐の勢力を朝鮮半島より撤退させ、朝鮮半島統一を成し遂げた。(ただ高句麗が所有していた北部地域の大半は放棄した。)
●高句麗滅亡後、唐によって強制移住させられていた高句麗人と靺鞨(まつかつ)人達は反乱を起こし、後に大祚栄(テチョヨン)は渤海(パルヘ)を建国し強大な国家を築いた。 |
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670 | ●新羅、唐と争い、百済故地を収める(~676) |
676 | ●唐、熊津都督府・安東都護府を撤収する |
684 |
新羅、報徳国を滅ぼす(統一の完了)
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687 | ●新羅の郡県制(九州五京制)が確立する |
698 | ●大祚栄、震国王を称する(渤海の建国) |
●新羅は律令国家ではあったが、唐制に従うのではなく固有の官制を継承発展させ、中央集権化を行ったことに特徴があった。685年には、全土を九州に分け、郡・村(城)から郡・県に改め、州-郡-県制とした。同時に軍制も改編整備した。また旧百済人・旧高句麗人らを新羅の身分制へ編入させ、身分制秩序を一元化した。このようにして新羅は、統一国家を築き上げていった。
●この新羅独特の身分制度は骨品制(コルプム)である。これは血統によって8階層に区分された。聖骨・真骨・六頭品・五頭品・四頭品・三頭品・二頭品・一頭品である。 |
一方、朝鮮半島の動乱は、日本列島にも多大な影響を与えた。対外戦争(白村江の戦い)で敗退したことにより、日本列島では重大な転機が訪れた。日本国の誕生である。この7世紀の出来事の一部を抜き出すと、以下のようである。
●蘇我氏の台頭と没落。クーデター(乙巳の変)と内乱(壬申の乱)。
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●倭国から日本へ。日本国の誕生。 中国の旧唐書・日本伝には以下のように書かれている。 「日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。あるいはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと。あるいはいう、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併せたりと。・・・・後略」
また『三国史記』日本伝の新羅本紀670年12月条には次のようにある。 「倭国、更めて日本と号す。自ら言う。日(ひ)出(い)づる所に近し。以(ゆえ)に名と為すと。」
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8世紀朝鮮半島の新羅の北東、中国の東北部に渤海が興る。9世紀になると朝鮮半島では内乱が続き、後百済・後高句麗(摩震・泰封)・新羅の後三国時代を迎える。10世紀になり王建(ワンゴン)が、高麗(こうらい・コリョ)を建国し、936年後三国を統一した。
年 | 新羅と渤海 | |
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713 |
大祚栄、唐より渤海郡王に封じられる
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733 | ●新羅、唐の要請により渤海に出兵する | |
735 | ●新羅、唐より浿江(大同江)以南の領有を認められる | |
751 | ●新羅の仏国寺・石窟庵創建される | |
757 | ●新羅、郡県名を唐風に改称する | |
759 | ●新羅、官庁・官職名を唐風に改称する | |
780 | ●新羅の上大等金良相、恵恭王を殺して、即位する(宣徳王) | |
822 | ●金憲昌の乱起こる | |
●新羅では8世紀末頃より王族内部での確執があらわになり、反乱が頻発し王位の簒奪もしばしば起こった。
●そして9世紀末になると、農民の反乱が全国で頻発し、また地方豪族の反乱もあいついだ。そして後百済・後高句麗(摩震・泰封)・新羅の後三国時代を迎えた。 |
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846 | ●張保皐(弓福)の乱起こる | |
892 | ●甄萱、完山に後百済を建国する | |
902 | ●弓裔、後高句麗を建国する | |
904 | ●弓裔、国号を摩震とする(911年。泰封と改める) | |
918 |
王建、弓裔を放逐して、高麗を建国する
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922 | ●高麗、契丹と国交を結ぶ | |
923 | ●高麗、この頃後梁に入朝する | |
926 |
契丹、渤海を滅ぼす
●この前後、渤海人、高麗に多数亡命する |
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933 |
王建、後唐から高麗国王に封じられる
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935 | ●新羅の敬順王、高麗に降り、新羅滅ぶ | |
936年高麗、後百済を滅ぼし、統一を完了
●高麗は対外的には、遼河の上流域を本拠地とする遊牧民の契丹と、11世紀初めまで侵略戦争を戦った。
●内政では中央権力機構を整備し、王権の強化に努めた。高麗の官僚は、文臣(文班)と武臣(武班)からなり、あわせて両班(ヤンバン)といった。 ●田柴科(でんさいか)制度とは、両班や胥吏や軍人には、国家から土地が支給された。田地(耕作地)と柴地(燃料採取地)の両方が支給されたのでそういった。 ●姓氏や本貫(ほんがん)も支配体制の一環として制度化された、高麗国家の繁栄は、王族と門閥官僚の繁栄であったといえる。 |
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940 | ●州府郡県の名号を改める。 | |
945 | ●王位をめぐり、王規の乱起こる | |
958 | ●科挙が施行される | |
976 | ●田柴科制度を定める | |
983 | ●12牧を定め、中央から牧使を派遣するなど、地方行政機構を整備する | |
993 | ●契丹、高麗を攻める | |
995 | ●州県制を施行する | |
1009 | ●康兆、穆宗を殺し、顕宗を国王に擁立する。 | |
●高麗は契丹や女真族の侵攻を防ぐため、1033年から12年歳月をかけて、鴨緑江(アムノッカン)の河口から東海岸の都連浦にかけて長城(千里長城)を築いた。
●内政では、貴族間の争いが起こり、武臣による反乱も起こるようになった。 |
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1010 | ●契丹の第2次侵攻(~11) | |
1014 | ●武臣が乱を起こす | |
1018 | ●地方官制が改められ、郡県制が確立する。契丹の第3次侵攻(~19) | |
1033 | ●西北境に長城の築造を始める | |
1076 | ●官制、田柴科制改められ、中央官制が確立する | |
1095 | ●李資義の乱起こる | |
1106 | ●監務の地方派遣始まる。 | |
●1170年武臣が多くの文臣らを殺害し実権を握った。この武臣政権に対して民衆の反乱が起こり、12世紀末になると各地の反乱軍は連合するようになった。これらは民衆による支配層に対する蜂起であった。
●1196年には武臣である崔忠献(チェチュンホン)がクーデターを起こし、政権を掌握した。 |
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1107 | ●尹瓘、長城を越えて女真を攻める | |
1126 | ●李資謙の乱起こり、慶源李氏没落する。金に服属する | |
1135 | ●妙清ら、西京で反乱を起こす(~36) | |
1145 | ●三国史記編纂される | |
1170 | ●武臣政権が成立する(庚寅の乱) | |
1173 | ●金甫当、武臣政権に抗して挙兵する | |
1174 | ●西京留守の趙位寵、挙兵する(~76) | |
1176 | ●公州鳴鶴所民の亡伊と亡所伊らが蜂起する(これ以降、民衆反乱相次ぐ) | |
1196 | ●崔忠献、政権を掌握する(崔氏政権の成立) | |
1198 | ●開城で私奴万積らの反乱計画発覚する | |
1218 | ●モンゴルと国交を結ぶ。 | |
●13世紀になると崔氏政権は、文臣と武臣のバランスをとり、その上に自身が武臣の第一人者として執権するという体制を確立していった。
●しかし1231年モンゴルが侵攻してくると、崔氏政権は王都(開城)を江華島に遷都し抵抗したが1258年滅びた。これにより王権は回復したが、太子をモンゴルに送り降伏した。 ●これに反対する三別抄(武人政権の軍隊)が蜂起し抵抗したが、最後に済州島で滅亡した。 |
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1231 |
モンゴル、高麗に侵攻する(~59)
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1232 | ●開城から江華島に遷都する | |
1258 | ●崔氏政権、倒れる | |
1259 | ●太子倎をモンゴルに送り、降伏する | |
1270 | ●武臣の執権終わる。開城に復都する。三別抄の乱起こる(~73) | |
1274 |
元、日本を攻める(1281)
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元、日本、東南アジア侵略を開始
●1273年元は、日本、東南アジア侵略を開始する。日本侵攻は、1274年・文永の役。1281年・弘安の役。 |
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1350 | ●倭寇の侵入激しくなる。 | |
●元に屈服した高麗王朝は、元の王女を妃とすることで、地位の安全を図った。高麗王室も、今まで「祖」や「宗」が使われていた廟号も「王」に格下げされた。「太子」も「世子」に格下げされ、人質として元で生活を余儀なくされた。
●こうして14世紀後半になると南からは倭寇の侵略をうけ、北からは漢族の反乱軍である紅巾軍の侵入をうけ、戦乱の中で指揮官の一人であった李成桂が政権を掌握し、朝鮮王朝を建国した。 |
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1356 | ●恭愍王、反元運動を展開する | |
1359 | ●紅巾軍侵入する(1362) | |
1388 | ●李成桂、鴨緑江の威化島で回軍し、政権を掌握 | |
1391 | ●科田法を制定する | |
1392 |
李成桂即位する。朝鮮王朝の建国
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