(世界史)「17世紀」①(オランダの世紀)
(左絵)イギリス東インド会社。(右絵)オランダ東インド会社(出典:両方とも『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)
17世紀① | 主要項目 |
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(17世紀・要旨) | オランダの世紀・ルイ14世・ピューリタン革命・清 |
17世紀はオランダの世紀と呼ばれる。 | オランダの繁栄。オランダ第1回東インド航海と「リーフデ号」日本漂着。 1601年、1602年と相次いでイギリス東インド会社とオランダ東インド会社が設立される。特にこのオランダ東インド会社は、世界最初の株式会社の設立であったといわれる。 |
また「東インド会社とアジアの海」・興亡の世界史第15巻、羽田正著 講談社2007年刊、「世界の歴史第8回」中央公論社1961年刊より要約・抜粋した。また吉川弘文館「世界史年表」も参考にした。関連する写真、著作からも引用した。
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●オランダの進出を下段で年表にした。
●オランダ東インド会社は、17世紀末頃までには、高級香辛料の直接取引を独占するようになった。また一方インド洋海域でも商館を次々と設置し、オランダ東インド会社は他のヨーロッパ諸国を圧倒した。
モカ(アラビア半島)、バンダレ・アッバース(ペルシャ湾)、スーラト(西北インド)に商館を置き、コーチン(インド西南海岸・ポルトガルの拠点)を占領し、セイロン(スリランカ)でポルトガルを追放し、インド東方海岸のマスリパトナム、プリカット、タイのアユタヤなどに商館を置いた。そして日本には平戸、ついで長崎、また台湾(安平)に商館を設置した。
●こうしたなかイギリス東インド会社は、香料貿易はかろうじて行っていたが、他方でインド大陸での綿織物貿易へと向かっていった。
年 | 内容 |
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16世紀後半 | テルナテ島①のスルタンとポルトガルが争い、ポルトガルはティド-レ島②に移り要塞を建設した。 |
1605年 | オランダはアンボン島⑤のポルトガルの砦を奪い、ティド-レ島②の、ポルトガル人とスペイン人に対抗した。 |
1619年 | オランダは、イギリス東インド会社軍とバンテン王国から奪った町を、「バタヴィア」(=ジャカルタ)と命名した。1620年現在の人口は873名だが、71名は日本人だった。徳川幕府では1604年から朱印船貿易が行われ、東南アジア各地には日本人町が多く出来た。バタヴィアには、傭兵として日本から渡ってきたものもいた。日本人では、アユタヤ王朝で活躍し1630年殺害された山田長政が有名。多くの日本人が貿易や傭兵として活躍していた。 |
1620年 | バンダ諸島③で香料のオランダ引き渡し拒否事件が起きた。オランダ東インド会社軍は、ルン島④に拠点を持つイギリス東インド会社の扇動とみなし、バンダ諸島を占領しルン島でも虐殺を行った。 |
1621年 | オランダ・バタヴィア総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーンが2,000名(日本人87名)でバンダ島で虐殺を行い、あらたにヨーロッパ出身者による奴隷農園経営を、賃貸する形でナツメグ生産を始めさせた。 |
1623年 | オランダ、マルク諸島アンボン島⑤で、イギリス東インド会社の商館長以下10人と、9人の日本人傭兵、1人のポルトガル人計20人を処刑した。(アンボン事件) |
1641年 | オランダ、ポルトガル拠点マラッカ⑧を征服。 |
1663年 | オランダ、コーチンに商館を設置し、ポルトガルを駆逐しはじめる。 |
1667年 | オランダ、インドネシア・スラウェシ島のゴア王国を制圧する。 |
1669年 | オランダ、ポルトガル拠点マカッサル⑥を激戦の末、征服した。 |
1677年 | オランダ、インドネシア・ジャワ島のマタラム王国の内乱に介入する。 |
1684年 | オランダ、インドネシア・ジャワ島のバンテン王国を支配する。 |
1688年 | オランダ、タイのアユタヤ朝の国王死去にともない、タイでの貿易権を回復する。 |
●16世紀からポルトガル人は良質なインドの織物の貿易を行っていた。またオランダ東インド会社も1630年代から、貿易を行っていた。両者ともにプリカットに商館を置き、またオランダはマスリパタムにも商館をおいて綿織物の輸出を行っていた。(プリカットはマドラスの北40km程度北)
●綿織物の有名産地は、パンジャーブ地方(西北インド)、グジャラート地方(西北インド)、コロマンデル海岸(クリシュナ川の河口からカリメール岬《スリランカ北端と向き合う岬》までの海岸《南東インド》)そしてベンガル地方(北東部)とされる。右地図参照。
●そうしてイギリス東インド会社は、インド亜大陸へ進出し、綿織物貿易拡大へ向かった。
(地図)ムガル時代の地図。(コロマンデル海岸を追加記入・星野)(出典:「インド宮廷文化の華(細密画とデザインの世界)」ヴィクトリア&アルバート美術展1993年~1994年NHK等)
●まずここでは、「インド更紗(サラサ)」=東西の染織技術の源泉となった多彩な模様染めの世界=小笠原小枝著を「クロニック世界全史」から一部引用してみる。
イギリスは、歴史的も技術的にも世界をリードしてきたインド更紗を、最初は貿易で利益をあげ、次にその模様染めの技術を革新させ、本国で大量生産することに成功し、インドの綿織物工業を奪った。
人類の歴史とともに発達してきた衣の文化は,衣の素材となる織物(テキスタイル),さらに織物や染め物をつくりあげる繊維や染料と深くかかわっている。その繊維や染料には,風土や時代によってさまざまなものが用いられてきたが,共通していえることは,近代の産業革命以前には,世界のどの地域においても天然のものが利用されていたことである。そのなかには獣皮,フェルト,魚皮,さらに樹皮を柔らかくたたきのばしたタパなど,不織布といわれる織物以前の素材も含まれていた。
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●(左から1)「テントの飾り布」木綿にプリント、彩色、染め。ムガル、18世紀初期。184.0×111.0cm
「この飾り布は防染法、手描き、型押しという複雑な技法で作られていて、その過程は西洋ではチンツ(更紗)=さらさ、とよばれてきた。・・・・」
●(左2)「カシュミール・ショール」パシュミーナー(山羊の毛織物)カシュミール、18世紀末期または19世紀初頭。310.0×137.0cm「カシュミール・ショールはアクバル帝の時代からムガルの宮廷で好まれたが、残念なことに当時のものはまったく現存しない。・・・・」
●(左3)「パトカー(男物の帯)」木綿に絹糸で刺繍。ダッカ、1800年頃。203.0×59.0cm
「ベンガル地方、ことにバングラデーシュのダッカの上質の綿(めん)モスリンは帝政ローマの昔から有名だった。・・・この上品な帯は、上質なモスリンに典型的なムガル後期の草花文を刺繍していて、織物のようにみえる。」
●(左4)「パトカー(男物の帯)」木綿にプリント。ムガル、18世紀。540.5×72.0cm 「装飾をほどこした帯は何世紀もの間インドの男性の衣類の中で重要な役割を演じ、それは彫刻や初期の絵画に示されている通りである。・・・普通は草花文が好まれたが、このように小さな葉だけを並べた繊細なデザインのものは珍しい。」
(全て、出典:「インド宮廷文化の華(細密画とデザインの世界)」ヴィクトリア&アルバート美術展1993年~1994年NHK等)
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●(左1)「ジャーマー(男物の上着)」木綿。北インド、1850年頃。丈134cm、裾幅105cm、袖丈127cm。「ジャーマーは17世紀から19世紀末まで男性の式服として、何度か型は変化したが、もっとも広く用いられた。イスラム教徒もヒンドゥー教徒もともに着用し、一般的にはイスラム教徒は右前にし、ヒンドゥー教徒はこのジャーマーのように左脇で紐を結んで左前にした。・・・・」
●(左2)「少年の上着」ショール生地(パシュミーナー)。北インド、18世紀末~19世紀初期。丈87.0cm、裾幅100.0cm、袖から袖まで104.0cm。「カシュミールのショール地の衣服は、北インドの宮廷で冬に用いられた。同じ模様を繰り返し織り込んだ何メートルの生地を、このような衣服に仕立てて共布のズボン(パージャーマー《=パジャマの語源、星野》)と一緒に着用した。」
●(左3)「カーペット」羊毛に絹の横糸、木綿の縦糸。ムガル、17世紀中期。52.0×56.0cm「このカーペットのように極度に目のつんだベルベットのように滑らかな毛織物は、絹や羊毛ではなくて、むしろパシュミーナー(カシュミールの山羊の下腹の良質の毛)を使って作られた。カシュミール・ショールと同じく、良質の光沢ある素材を用いているので、単位面積あたりの結び目を多くすることができるのである。そのためムガル・カーペットの最高級品には、他ならぬこの山羊の毛を用いたのである。・・・」
●(左4)「掛け布」(ルーマール)木綿に手描きと型防染の併用染め。デカン、ゴールコンダ、1640~50年頃。62.0×89.0cm「この美しい掛け布は、中央に丸文を配する構成の点でも、ゆったりと寄りかかる王子やエキゾチックな草木のデザインの点でも、ペルシャのカーペットや写本の装丁を思い起こさせる。しかし、色調は17世紀のデカン更紗(チンツ)製品の典型で、淡いピンクの地を精密に描かれた衣服や草木で埋めつくしている。・・・・」
(全て、出典:「インド宮廷文化の華(細密画とデザインの世界)」ヴィクトリア&アルバート美術展1993年~1994年NHK等)
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●(左1)「更紗(チンツ)の断片」木綿に手描きと型防染の併用染め。デカン、17世紀中期。58.0×26.0cm。「この更紗は、敷物か、カーテンか、あるいは衣服の一部であろう。その幻想的な花や埋め草に使われた繊細な文様は、17世紀のデカンの更紗の特色をよく示しているが、個々の草花のモチーフを規則的に配置するのは、ムガルの宮廷で好まれたデザインである。・・・」
●(左2)「ターバンの生地」木綿、絞り染め。ラージャスターン、ジャイプル、1860年頃。500.0×18.0cm。「この良質のモスリンのターバン地にみられる色とりどりのジグザグ柄は、ラハリヤー(「波のような」の意味)と呼ばれる絞り染めの複雑な手順をへて染められている。・・・」
●(左3)「クリシュナを刺繍したチャンバー地方のルーマール」木綿に絹糸で刺繍。パンジャーブ、18世紀。82.5×89.0cm 「この種の刺繍のある布はパンジャーブ地方のあちこちで18世紀から19世紀にかけて作られたもので、同時期の細密画と密接な関係にあったことを示している。非常に上品な図柄で、それぞれの区画に笛を吹いたり、牛飼いの娘グーピーたちと語り合うクリシュナを刺繍している。・・・」
●(左4)「ドレス」木綿、彩色と染め、金彩。東南インド、ヨーロッパ向け、1780年頃。丈155.5cm、裾幅126.0cm。「17世紀の末になると、インドのチンツ(更紗)製の衣服がヨーロッパで大流行し、18世紀を通じて人気は衰えなかった。それは下層階級から上層へ広まっていった数少ないファッションの1つと思われ、最初はオランダの召使いやメイドの間で人気を博し、後にオランダの中産階級にもてはやされるようになった。オランダのウイリアムとその妻メアリーが1690年に共同でイギリス王位につくと、それが刺激となってオランダのファッションが流行し、ただちにイギリスの貴婦人が華麗なチンツに身をつつむようになり、この種の金彩をほどこしたものも見られるようになった。たいていはこのドレスのように全面に花模様を繰り返した布でできていて、注文主の好みに合わせてインドかヨーロッパで仕立てられたのであろう。オランダ人はどちらかというと大柄の大胆なデザインを好む傾向にあったので、このチンツの繊細な花の曲線はイギリス向けであったことを思わせる。」
(全て、出典:「インド宮廷文化の華(細密画とデザインの世界)」ヴィクトリア&アルバート美術展1993年~1994年NHK等)
●イギリスのインド進出の概略は以下のようである。
年 | 内容 |
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1611年 | ●イギリス東インド会社、コロマンデル海岸の拠点としてマスリパタムに商館を置く。 |
1612年 | ●イギリス東インド会社、インド西岸のスーラト、タイのアユタヤに商館を置いた。 |
1615年 | ●英国初の駐インド大使が、ムガル皇帝ジャハンギールに謁見し、商館の設置や通商上の特権を獲得した。 |
1615年 | ●イギリス艦隊がボンベイ沖でポルトガル艦隊を破る。 |
1627年 | ●ムガル皇帝ジャハーンギールが没し、翌年シャー・ジャハーンが即位する。 |
1632年 | ●ムガル皇帝シャー・ジャハーンが愛妃の廟、タージ・マハルの築造を開始する。(前章の16世紀に写真と肖像画記載。) |
1633年 | ●イギリスがベンガルに植民を開始する。 |
1633年 | ●ムガル皇帝シャー・ジャハーンがデカンのアフマドナガル王国を併合する。 |
1638年 | ●ムガル皇帝シャー・ジャハーンがアフガニスタン・カンダハールを奪回する。 |
1639年 | ●イギリス東インド会社、マドラスを獲得、翌年商館と1644年には要塞(セント・ジョージ要塞)が完成した。イギリスは、マスリパタムがゴールコンダ王国によって脅かされていたため、新たな拠点を求めていた。こうしてマドラスがイギリス東インド会社南インド最大の基地となった。また東インド会社は、30年間の免税という特典を設け、インド人の綿布工や商人を招来し、この地を本格的な根拠地としてインド貿易に参入していった。 |
1648年 | ●ムガル皇帝シャー・ジャハーンが、アーグラからデリーへ遷都する。 |
1649年 | ●サファヴィー朝、ムガル帝国から奪われたカンダハールを奪回する。 |
1658年 | ●ムガル皇帝シャー・ジャハーンが息子(アウラングゼーブ)に幽閉される。翌月ムガル皇帝アーラムギール(アウラングゼーブ)として即位する。 |
1669年 | ●ムガル皇帝アウラングゼーブ、ヒンドゥー教を禁止し寺院を破壊する。ヒンドゥー教徒、皇帝に反発する。 |
1672年 | ●フランス東インド会社、コロマンデル海岸に新拠点ポンディシェリを獲得する。 |
1674年 | ●デカン地方で、ムガル帝国に抗して、ヒンドゥー独立国家マラーター王国できる。 |
1676年 | ●ムガル皇帝アウラングゼーブ、北西辺境のアフガン族の反乱鎮圧に成功する。 |
1679年 | ●ムガル皇帝アウラングゼーブ、非イスラム教徒へのジズヤ(人頭税)を復活、ヒンドゥー教徒反発する。 |
1682年 | ●イギリス東インド会社、オランダに破れ、インドネシア・ジャワ島バンテンから撤退する。 |
1687年 | ●ムガル皇帝アウラングゼーブ、前年のビージャプル王国に続き、ゴールコンダ王国を併合する。 |
1690年 | ●イギリス東インド会社、ムガル皇帝よりベンガルに商館設置の許可を得た。1696年にはウイリアム要塞の建築許可も得て、ここにイギリスのインド支配の最重要拠点になった「カルカッタ」が誕生した。 |
●茶は輸入額は、17世紀では多くはないとみられるが、18世紀になると急増していく。オランダ東インド会社の輸入額に占める割合は、2%(1711年~13年)、18.8%(1730年~32年)、24.2%(1771年~73年)、54.4%(1789年~90年)と急増していく。そして同様にイギリス東インド会社も、中国広州と直接取引をはじめた1713年以降、茶の輸入額は増加していく。またフランス東インド会社でも取引が増加し、スウェーデンやデンマークの東インド会社も茶貿易に参入していった。こうして18世紀半ばを過ぎると、イギリスと植民地アメリカやオランダを中心に普及していった。
ここで「茶と紅茶」について、日東紅茶の公式サイトとトワイニング紅茶の公式サイトから少し引用してみる。茶と紅茶の違いと歴史がわかる。
(日東紅茶・紅茶のマメ知識)でみると
●普段、私たちが「~茶、~ティー」と呼んでいるものはたくさんあります。緑茶、烏龍茶、麦茶、ハーブティー・・・など。その中でも、緑茶、烏龍茶、紅茶は、実は、同じ茶樹から作られます。学名は「カメリア・シネンシス」(Camellia Sinensis (L) O. Kuntze) 、椿や山茶花と同じ科であり、ツバキ科ツバキ属の常緑樹です。本来「茶」とは、この「カメリア・シネンシス」から作られたものを指します。
●コーヒーは、エチオピアからイエメンへ伝播し、16世紀オスマン帝国によりイスラム世界に広まった、といわれる。1530年代には北シリアのダマスカス、アレッポにコーヒー店が開かれ、1550年代にはイスタンブルにもコーヒーを供する店舗が開かれた。皇帝セリム2世の時代(1566年 – 1574年)にはイスタンブル内の「コーヒーの店」は600軒を超えていた。そしてヨーロッパ各地へは、17世紀前半ヴェネツィア商人を介して広まっていった。もともとイスラムの飲み物であったために、当時のローマ教皇クレメンス8世は、悪魔の飲み物(ワインを飲めないイスラム教徒が悪魔から与えられた)であるコーヒーに洗礼を施して、キリスト教徒がコーヒーを飲用することを公認したという。
●イギリスでは1650年にオックスフォードでコーヒー・ハウスが営業を始め、1652年には初めてロンドンにコーヒー・ハウスが開業した。
(クロニック世界全史によれば)1690年頃にロンドンでコーヒー・ハウスが大流行し、社交や情報交換の場となり、18世紀初頭には2000軒に達した。これらの店は、それぞれ集まる客層が決まっていた。例えば、ぶどう酒や船荷を扱う同業者が集まっていたロイドというコーヒー・ハウスの名は、ロイズ海上保険会社として名を残した。また「ジャーナリズム」といわれるものは、コーヒー・ハウスに情報を提供するために生まれたともいわれる。コーヒー・ハウスは、イギリスの政治・文化に大きな影響を与えたという。
しかし18世紀半ばから減少し、代わりに、クラブ、ティーハウスが台頭し、イギリスの家庭には紅茶が定着していった。