(世界史)「16世紀」(ポルトガル・スペイン大航海時代・宗教戦争)

世界史

日本では戦国時代が終わり、強力な徳川時代が始まる。世界ではポルトガルとスペインが大航海時代をむかえる。だがヨーロッパでは宗教戦争が始まる。
 16世紀日本では織田信長と秀吉により戦国時代が終わっていく。世界では、ポルトガル・スペインの大航海時代となり、日本にまで尖兵でもあったキリスト教の宣教師がやってくるようになった。徳川家康は、スペインの侵略を危惧した意見に対して、「侵略したければ来ればよいではないか」と言ったという。戦国時代の武将にとってはスペインでも脅威は感じなかったのであろう。だがヨーロッパでは、血なまぐさい宗教戦争(カトリック対プロテスタント)が始まる。
目次
16世紀 主要項目
(16世紀・要旨) スペイン・インカ・アステカ・宗教改革・オスマントルコ・ムガール帝国・明
スペインとポルトガルの抗争 トルデシーリャス協定・アステカ帝国を滅ぼす・インカ帝国を滅ぼす・奴隷貿易
ルネサンスと宗教改革 イタリアの5大勢力・大量の贖宥状・ルター「95カ条の論題」・イギリス国教会・トリエント公会議・ハプスブルク家
「太陽の沈まぬ国」スペイン スペイン・フェリペ(フィリップ)2世・ポルトガル王位の継承・広大な海外植民地の併合・ネーデルラント独立宣言・エリザベス1世
ヨーロッパの宗教改革と宗教戦争(詳細) 16世紀エラスミス・ルターから始まる宗教改革運動・プロテスタント対カトリック宗教戦争(迫害、弾圧、虐殺)・グーテンベルクの活版印刷
オスマントルコ・スレイマン1世 地中海世界のほぼ3/4を支配・「パスク・オトマニカ」・サファビー朝ペルシャ・アッバス1世・首都イスファハン(世界の半分)
インド・ムガル帝国 第3代アクバル帝・イスラム・ヒンドゥ-両教徒の融和政策・タージ・マハル・
明とシナ海世界、海賊・倭寇・琉球 航海技術造船技術の発達・鄭和の艦隊派遣・琉球中山王国による統一・万国の津梁
16世紀、ポルトガルのインド洋海域進出 ヴァスコ・ダ・ガマ「インド航路」からの歴史・ヴァスコ・ダ・ガマの航海。(第1回と第2回)
ポルトガル進出前の東アジア海域とその後 倭寇(わこう)・後期倭寇、中国沿海地域の人々と東シナ海沿岸諸地域の人々・華人海商の王直

●綿引弘「世界の歴史がわかる本」全三巻三笠書房2000年刊、綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」三笠書房2008年刊、「クロニック世界全史」講談社1994年刊、「丸善エンサイクロペディア大百科」丸善1995年刊から要約・引用した。
また「東インド会社とアジアの海」・興亡の世界史第15巻、羽田正著 講談社2007年刊、「世界の歴史第8回」中央公論社1961年刊より要約・抜粋した。
また吉川弘文館「世界史年表」も参考にした。関連する写真、著作からも引用した。また、13世紀~16世紀は、地域別簡易歴史年表を作成し、別枠で追加した。

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スペインとポルトガルの抗争・9-1
トルデシーリャス協定・スペイン、アステカ帝国・インカ帝国を滅ぼす・奴隷貿易

16世紀<要旨>

●この世紀に展開された大航海により、アステカ・インカ帝国がスペインに滅ぼされ、新大陸はヨーロッパ勢力の支配下に組み込まれるかたちで、世界の一体化が実現した。
●ヨーロッパではルネサンスと宗教改革が進展し、中世から近世への幕開けとなった。
●オスマン・トルコ、サファービー朝ペルシャ帝国、ムガル帝国のイスラム勢力と東アジアの明帝国は健在で、最後の繁栄を謳歌していた。
*綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」

1494年
1529年
トルデシーリャス協定とサラゴサ条約


●スペインとポルトガル、トルデシーリャス協定とサラゴサ条約を結ぶ。
●1498年、ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマは喜望峰、アフリカ東海岸を経て、インド西海岸カリカットに到達して、ヨーロッパ・インド航路を完成。
1492年スペインのコロンブスによる、カリブ海(サンサルバトル島、エスパニョーラ《ハイチ》島、キューバ等)到達。
1499年、アメリゴ・ヴェスプッチ、南米沿岸を探査による、「新大陸」確認など、両国は大航海時代の幕を開いた。
●この2国による世界進出は、その領有権をめぐり抗争し一触即発の危機に直面した。そこで1494年ローマ教皇による仲介で、トルデシーリャス協定を結び、1529年にはサラゴサ条約を結び、東経134度の子午線を境界にして、世界を2分した。スペインは、ブラジルに進出したポルトガルを認め、モルッカ諸島(マルク諸島・香料諸島)はポルトガルに譲渡したが、境界線西側のフィリピンはマゼラン以来の先取権を主張し占有した。1543年種子島に中国船(倭寇)が漂着して、ポルトガル人が鉄砲を伝来したことも、このサラゴサ条約により、日本の岡山以西はポルトガルの領有権が認められていたために進出してきた結果だった。(地図)「大航海時代の世界」(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)

1521年
アステカ滅亡


●スペイン(コルテス軍)はアステカの首都テノチティトランを攻略し、アステカを滅亡させた。
●上絵画(ディエゴ・リベラ絵)「テノチティトランの光景」(出典:『アステカ文明展1974年』メキシコ国立人類学・歴史学研究所、メキシコ国立人類学博物館、朝日新聞社)
●左(テノチティトランの地図)「コルテスがスペイン王カルロス1世あての報告書に添付したといわれる」(出典:『アステカ文明展1974年』メキシコ国立人類学・歴史学研究所、メキシコ国立人類学博物館、朝日新聞社)

●(1524年アステカ滅亡後、強要するカトリックの修道会士に対し、アステカの賢者が自分たちの宗教哲学について語った一編の詩)

あなた方はいう。
「お前たちは知らない、万物の主も、はたまた天地の創造者も。」
あなた方はいう。
「お前たちの神はいつわりだ。」
だが、あなた方が語るのは、異様なことばである。
われわれは惑う。われわれは混乱する。

下

1533年
インカ帝国滅亡

●スペイン(ピサロ)インカ帝国を滅ぼす。
●インカ帝国を滅ぼしたピサロは、傀儡のインカ皇帝マンコ2世の反乱にあい、皇帝と結んだ盟友のアルマグロと対立した。そして1538年アルマグロを捕らえ斬首刑に処したが、こののちピサロ派とアルマグロ派は15年にわたってスペイン人同士の内乱に発展した。ピサロ自身も1541年、アルマグロの息子に暗殺された。
●スペイン本国のインディアス新法(征服者特権の制限、先住民保護)に反発して蜂起したピサロの弟ゴンサロも、1548年国王軍に処刑された。一方マンコ2世はアンデス山中に逃げ込み、インカ皇帝最後の砦ビルカバンバにたてこもり、1572年マンコの息子が捕らえられ処刑されるまで抵抗を続けた。

(重要語)
「マゼラン世界周航1519~1522」「脳外科手術」「コカイン」「アタワルパ」「部屋いっぱいの黄金」「梅毒」「エンコミエンダ制=(征服地の土地や住民の統治は植民者に任せる)」「バリャドリード論争=(スペイン1550年、植民は平和的な布教を中心としたものにすべき)」
奴隷貿易

●スペインは、メキシコ・ペルーなどで大量の金・銀を採掘、それらの鉱山・大農場(プランテーション=タバコ・綿花・コーヒー等)で現地インディオを奴隷状態に置き搾取した。16世紀半ば頃までに、キューバ島、ジャマイカ島でインディオをほぼ全滅させ、その他地域でも1/3に激減させた。この労働力不足を補うために行われたのが、アフリカ黒人の拉致、奴隷売買だった。
●また、スペインが新大陸から得た金銀は、1521年~1660年までで金200トン銀1800トンに達し、コロンブスのいう「スペインが貧乏国から世界一の富裕国」になったわけだ。これはみな、インディオの強制労働・搾取を踏み台にしていた。そしてヨーロッパ全体が得た利益も、その後数百年にわたるアフリカ奴隷貿易が生み出した莫大な富によるものであったことを、記憶しなければならない。「世界の歴史がわかる本」では、数百年にわたる奴隷貿易の総数は「実に1億人にのぼるといわれる」と書かれている。
(上グラフ)「大西洋奴隷貿易の規模と輸入地」F・カーティンは、アフリカ黒人奴隷は、1860年代までに総数約950万人としているが、アフリカからの積み出し前の死亡者や、悲惨な奴隷船内の死亡者、密貿易の横行などを考慮すれば、実際の犠牲者はこれをかなり上回ったと容易に想像できる。(出典:『丸善エンサイクロペディア大百科より』丸善1995年刊)


(左絵)「18世紀奴隷船積み込み図」1783年、リヴァプールのブルックス号(320t)。成年男女および小児あわせて総数451人の奴隷を輸送することができた。
上(地図)「1790年ヨーロッパからの奴隷輸送船」奴隷船は三角形の航路をとった。リヴァプールなどのヨーロッパの港から、アフリカに行って奴隷を集め、大西洋を渡り、西インド諸島やアメリカで奴隷を売り、そこで購入した商品をヨーロッパに運んで売買した。18世紀末までには、奴隷貿易の主力はイギリス帝国に移った。
(出典:『丸善エンサイクロペディア大百科より』丸善1995年刊)

秀吉のキリシタン禁止

●16世紀、秀吉の時代の日本のキリシタン禁止と奴隷問題について、山本七平「日本人とは何か」から一部分引用してみる。秀吉のキリシタン禁止は、日本人奴隷問題が影響していると書かれている。

●秀吉のキリシタン禁止令の不思議
だが話が少し先へ進みすぎたようである。グレゴリオ十三世の教令でスペイン人はマニラで足ぶみをせざるを得なくなったが、日本人は、トルデシリヤス協定にも教皇の教令にも拘束されず、また知らなかったから、フィリピンに出かけて行って貿易をしていた。その一人、キリシタンのパウロ原田喜右衛門(はらだ きえもん)が秀吉側近の長谷川宗仁(はせがわ そうにん)に、マニラは殆ど防備がないので、大兵を率いて攻略すると恫喝(どうかつ)すれば戦わずに降伏するであろうといった。

下

●キリシタンに突きつけた五ヵ条の詰問状
ところが秀吉は九州征伐のとき不意にこの態度を一変させた。これがあまり急であったのでキリシタン側はさまざまな臆測をしているが、資料を見るとその理由は明らかである。

下

●秀吉を激怒させた最大の理由
だが秀吉乃至(ないし)はその側近に、キリシタンに対する嫌悪を感じさせた最大のものは、ポルトガル人が日本人を奴隷としてインドその他に売っていたことであろう。この事実があることをコエリョも否定しておらず、イエズス会宣教師はこの防止につとめたと言っているにすぎない。さらに彼は、少々逆襲的に、この問題は秀吉が法令を下して「売る日本人」を厳罰に処してくれれば、解決する問題だとしている。

下

ルネサンスと宗教改革・9-2
イタリアの5大勢力・大量の贖宥状・ルター「95カ条の論題」・イギリス国教会・トリエント公会議・ハプスブルク家
イタリア5大勢力が対立・抗争

●イタリアでは、ローマ教皇・ナポリ・ヴェネチア・ミラノ・フィレンツェの5大勢力が対立・抗争を繰り返していた。しかしこの勢力は均衡していたことで、イタリアは荒廃せずにいられたとも言える。

1494年
シャルル8世イタリア遠征

●(フランス)シャルル8世は、イタリアに大規模な遠征軍を送り、ミラノ・フィレンツェ・ナポリを占領した。この危機にフィレンツェの市民は、無気力なメディチ家を追放し、ドミニク派の聖職者のサボナローラを指導者としたが、彼の「神権政治」を嫌った市民は、1498年、彼を火刑に処した。

16世紀
イタリア戦争(4回)

●フランスと神聖ローマ帝国は、イタリアの覇権をめぐり、4回にわたりイタリア戦争(1521年~1544年)を起こし、イタリアは荒廃していった。さらにポルトガルのインド航路の開拓により、イタリア諸都市は没落し、イタリア・ルネサンスは衰退していった。

(重要語)
「3大発明(火薬・羅針盤・活版印刷術)」「ポーランド・コペルニクス(地動説)」「トスカネリ(地球球体説)」「フランフォル・メルカトル(世界地図)」「イタリア・ジョルダーノ=ブルーノ(地動説)」「イタリア・ガリレオ=ガリレイ(望遠鏡、地動説)」「ドイツ・ケプラー(惑星の運動法則)後のニュートンの天文学に大きな影響を与えた」「ユリウス歴からグレゴリオ歴へ改訂制定。(日本が採用したのは1872年)」
●特に火薬は、鉄砲、大砲を生み出し、戦争・戦術を変えた。ルネサンスの火器を代表するものは鉄砲よりも大砲だった。野戦においても威力を発揮し、はじめて兵科としての砲兵が確立した。1588年のイギリスの、スペイン無敵艦隊(フェリペ2世)に対する勝利も、砲数の優勢がものをいったといわれる。
●日本では鉄砲は織田信長にみられるように、おおいに普及したが大砲は普及しなかった。徳川家康の大坂城攻撃の際(1615年大坂夏の陣)の使用が有名。この普及しなかった理由は輸送上の困難さによるものかもしれない。

●ここで、有名なマキャベリの「君主論」の最初を引用してみる。この時代の雰囲気がわかる。旧漢字は新漢字になるべく直した。

君主論(「君主論」岩波書店1935年刊)
第一 国家の種類及びその獲得の方法
古今にわたり人類を支配してゐる国家又は併合国家は、すべて共和国に属するか然らざれば君主国である、あるひはかってさうであった。而て主権は世襲的であるか(この場合は君主たるものの血統が長い間その国を統治してゐる)、或は新規なものであるかである。新規の主権はミラノのズフォルツァに見る如く、全然新しいか、然らざればナポリのイスパニア王領に於ける如く、征服によって世襲君主に併合されたものである。

下

ルネサンス、西ヨーロッパ各国に広がる

●イタリアに始まったルネサンスは、やがてアルプスを越えて西ヨーロッパ各国に広がった。ルネサンスは、人間性の回復、合理的なものの考え方を広め、各国に近代的国民文化を発展させた。この動きは、教会・聖職者(腐敗、堕落した)のあり方に対しても起こった。

(重要語)
ボッカチオ「デカメロン」、ネーデルラントのエラスムス「愚神礼讃」グーテンベルグ「活版印刷術」
聖(サン)ピエトロ寺院、システィナの礼拝堂の改修

●メディチ家出身のローマ教皇レオ10世は、文化を保護し壮大な聖(サン)ピエトロ寺院の改修を行った。現存するバチカンの聖ピエトロ寺院、システィナの礼拝堂は、この時大改修されたものである。
●文豪ゲーテは「システィナ礼拝堂を見ずしては、およそ一人の人間が何をなし得るかということを、はっきり覚(さと)ることはできない」と述べた。

(左写真)「システィナの礼拝堂」天井画・ミケランジェロ「創世記」、祭壇の奥壁・ミケランジェロ「最後の審判」(出典:『世界の旅8イタリア』河出書房1967年刊)
(右絵)「ミケランジェロ・アダムの創造」1508~1510年 フレスコ天井画 ローマ システィナの礼拝堂。(出典:『家庭美術館』平凡社1961年刊)

1517年
ルター「95カ条の論題(提題)」

●ドイツ、ルターが「95カ条の論題(提題)」で抗議する。
●このバチカンの聖ピエトロ寺院、システィナの礼拝堂大改修の財源となったのは、大量の贖宥状(しょくゆうじょう=免罪符)の販売だった。十字軍のころより贖宥状の販売はあったが、この頃は教皇庁の資金集めの手段となっていた。レオ10世は南ドイツ、アウグスブルクの大富豪フッガ-家に、10%の手数料で販売を委託した。
これに対してルターが「95カ条の論題(提題)」で抗議した。これが宗教改革の始まりとなった。

●ここで「世界の歴史」中央公論社1961年刊より、『教会の扉に貼りだされた言葉』から一部引用してみる。

『教会の扉に貼りだされた言葉』
1517年10月31日。この日は翌日が万聖節であって多数の人々が教会に詣でてくるのを予想して選ばれたのであるが、この日彼はウィッテンベルク城教会の扉に「95ヵ条の論題」を貼りだした。

下

1524年~1525年
ドイツ農民戦争

●ルターの「神の前の平等」に刺激され、農民戦争が起こる。
●ドイツは封建諸侯の勢力が強く、王権が弱かったため教会が強大な権勢を保持していた。そのためローマ教会は、贖宥状をドイツで販売したし、ドイツの農民は、それだけ教会の圧迫と諸侯の圧政に苦しんでいたといえる。そして、ルターの「神の前の平等」に刺激され、ドイツ農民戦争(1524年~1525年)が起こった。当初は農民に理解を示していたルターも、トマス=ミュンツアーの指導による反乱になると、農民を非難し弾圧を諸侯に勧告した。反乱が鎮圧されると、宗教改革はルター派の諸侯対教皇・皇帝の争いとなっていった。

1529年
オスマン帝国ウイーン包囲

●このイスラムによる攻撃は、西洋キリスト教世界に衝撃を与えた。またこのことは宗教改革を加速し、「プロテスタント=抗議する人々=新教」という呼称が生まれた。
●1529年オスマン帝国軍(イスラム)のウイーン包囲は、西洋キリスト教世界に衝撃を与え、対立するルター派諸侯との妥協を生み、逆に宗教改革を加速させることになった。
●しかし、対外情勢が好転するとドイツ皇帝は、一転して一度許したルター派を禁止した。これに対してルター派の諸侯や都市は、いっせいに抗議行動を起こした。ここに「プロテスタント=抗議する人々=新教」という呼称が生まれた。
●また、フランス人カルビンの教えによる宗教改革運動は、イギリス「ピューリタン(清教徒)」、スコットランド「プレスビテリアン(長老派)」、フランス「ユグノー」、オランダ「ゴイセン(乞食党)」とよばれ、ルター派以上に多くの国々で受け入れられ、市民革命の担い手となり、世界史上重要な役割を果たした。

1534年
イギリス国教会。ヘンリー8世教皇と絶縁

●ヘンリー8世は、教皇から「信仰擁護者」と賞賛されるほどのカトリック教徒だったが、自身の離婚問題(アン=ブーリン)で教皇と対立して、破門された。これに対し、ヘンリー8世は「首長令」(1534年)を発布し、教皇と絶縁し、全国の修道院を解散し土地・財産を没収し、王室財政を強化した。国教会の教義や儀式の内容は、カトリックと大差はなかった。
●次王エドワード6世は、国内のカルビン派の影響から、「一般祈祷書」(1549年)でプロテスタント的信仰を目指した。次のメアリ1世は、夫のスペイン王フィリップ2世の影響を受け、カトリックを復活させ、プロテスタントを弾圧した(血ぬられた女王)。
●そのあとを継いだエリザベス1世は、首長令(1559年)を復活し「イギリス国教会(イングランド教会)」を確立し、官吏は必ず国教徒でなければならないと定め、カトリックとピューリタン(プロテスタント)をきびしく抑圧した。

1534年
イグナティウス・デ・ロヨラ、イエズス会を創立

●(パリ)イグナティウス・デ・ロヨラは清貧・貞潔を誓願し、イエズス会を創立した(ジェスイット教団・ヤソ会)。1540年、教皇パウルス3世は、この教団を正式に認可した。この教団は、教皇の命令を絶対とする軍隊的規律を持ち、スペイン、ポルトガルの植民活動と結びつき、世界各地に発展し活動していった。(フランシスコ=ザビエル・日本、マテオ=リッチ・中国など)
●またカトリック教会側は、トリエント公会議(1545年~1563年)を開き、教会の自己改革、教義の再確認、プロテスタントの主張の否定、異端審問の強化などを決め、プロテスタントに対する反撃を開始した。
● このカトリックとプロテスタントの宗教戦争は、フランスではユグノー戦争(1562年~1598年)、1572年の聖(セント)バーソロミューの虐殺(サン・バルテルミの虐殺)(プロテスタントの虐殺)や、ドイツでは30年戦争(1618年~1648年)が代表的。

ハプスブルク家

●広辞苑では、「中欧を中心とする広大な地域に君臨した家門。ヨーロッパで最も由緒ある家柄のひとつ。1438年~1806年の神聖ローマ帝国はすべてこの家門から出た。・・・」とある。16世紀までのハプスブルク家の歴史を、下段で簡単に書き出してみる。


(写真左)「ウイーン、”ハプスブルク家の象徴”といわれる聖カール教会」1713年カール6世。
(出典:『世界の旅11ドイツ・オーストリア』河出書房新社1969年刊)
(写真右)「ウイーン、ハプスブルク家シェーンブルン(美しい泉)離宮」最盛期を築いたマリア=テレジア時代(18世紀)に完成。19世紀ウイーン会議(会議は踊る、ナポレオン戦争後)で名高い舞台となった。(出典:同上)

ハプスブルク家の歴史(簡略)
内容
976年 ●オーストリアは、神聖ローマ帝国皇帝オットー2世が、バーベンベルク家を辺境伯に任命し、歴史が始まった。
1246年 ●バーベンベルク家が断絶すると、オーストリアは近隣諸邦の争奪の場となり混乱した。
1273年 ●ルドルフ1世が神聖ローマ皇帝(ドイツ国王)となり、この地を領有しハプスブルク家の支配が始まり、ウイーンに居城がおかれた。
1438年 ●ハプスブルク家が神聖ローマ皇帝位を世襲するようになり、15世紀末のマキシミリアン1世は、婚姻による家門拡大をはかり、息子(フェリペ1世)をスペインの王女(フェルナンデ・アラゴン王とイサベル・カスティリャ女王との娘)と結婚させた。
●スペインでは、1469年カスティリャ王女・イサベルとアラゴン王・フェルナンドが結婚し、1479年に女王と国王になったので、両国は統一され、1492年にグラナダ(イスラム教国)を陥落させたことにより、スペインの統一を実現した。
1516年 ●この子供(マキシミリアン1世の孫)のカールは、スペイン王・カルロス1世となり、3年後には神聖ローマ帝国のカール5世となり両国を支配した。
1556年 ●フェリペ2世(カルロス1世の子)がスペインを継ぎ、カルロス1世の弟・フェルディナント1世が、神聖ローマ帝国とオーストリアを継いだ。こうしてハプスブルク家は、スペインとドイツに君臨する、ヨーロッパ最強の家門となっていった。

「太陽の沈まぬ国」スペイン・9-3
スペイン・フェリペ(フィリップ)2世・ポルトガル王位の継承・広大な海外植民地の併合・ネーデルラント独立宣言・エリザベス1世
「太陽の沈まぬ国」スペイン

スペイン・フェリペ(フィリップ)2世は、父カルロス1世の政策を発展させ、教皇を支援し反宗教改革の指導者となり、カトリックを背景とした世界帝国を樹立しようとした。イギリス女王メアリ1世の夫君でもあったので、イギリスにカトリックを復活させようとしたり、地中海の制海権をもっていたオスマントルコの海軍を、レパント沖海戦(1571年)で破り進出をおさえた。また1580年、ポルトガルの王位を継承し、広大な海外植民地を併合し、アメリカ大陸とアジアの貿易の双方をほとんど独占し、「太陽の沈まぬ国」と呼ばれた。

サン・フェリーペ号航海士失言事件

●ここでまた、同時代日本の秀吉、キリシタンの対応から、「サン・フェリーペ号航海士失言事件」を、山本七平「日本人とは何か」から一部分引用してみる。スペイン人と宣教師の目的を、航海士が正直に答えた、とある。

●サン・フェリーペ号航海士失言事件
日本伝道にすでに相当の経験を積んだイエズス会士は、以上の点をよく心得ていたが、新しくフィリピンから使節として来たフランシスコ会宣教師はそれを知らなかったので大胆にも公然と伝道をはじめた。これには日本側にもさまざまな記述があるが、イエズス会側、スペイン側の資料を見た方がフェアであろう。

下

1581年
ネーデルラント独立宣言

●(オランダ)ネーデルラントは中世末期より、毛織物工業の発達と中継貿易の拠点として繁栄してきた。15世紀末よりハプスブルク家の領有となり、フェリペ(フィリップ)2世の時スペイン領となり、スペイン国税の2/5はネーデルラントから得ていた。フェリペ2世は教皇を支援し反宗教改革の指導者であったので、ネーデルラント(カルビン主義・プロテスタントだった)を弾圧した。1567年のスペイン総督(アルバ公)は血の弾圧を行い、プロテスタントを迫害した。1568年、アルバ公はネーデルラントの大貴族エグモント伯を処刑した。これにより国民的な抵抗運動(独立運動)が起こった。

(重要語)
「ゲーテ・戯曲エグモント伯」「ベートーベン・エグモント序曲」「ゴイセン」「ベルギー」
1579年
ユトレヒト同盟

●ホラント州など北部7州は、ユトレヒト同盟を結び、1581年ネーデルラント連邦共和国の独立を宣言した。その中心がホラント州だったので、日本ではオランダとよんでいる。独立後オランダはアジアのポルトガルの貿易拠点を奪い、広州を窓口として中国との貿易を独占し、日本とも貿易を開いた。そして1602年オランダ東インド会社、1622年西インド会社が設立されて、「17世紀はオランダの世紀」とよばれ、アムステルダムは世界の商業・金融の中心として繁栄した。

エリザベス1世(イギリス・在位1558年~1603年)

●ヘンリー8世(1509年~1547年)と愛人アン・ブーリンはひそかに結婚し、女児エリザベスを生んだ。ヘンリー8世はアン・ブーリンに汚名を着せ処刑し、新たにジェーン・シーモアは男児エドワード6世(1547年~1553年)を生んだ。
●ヘンリー8世の最初の妻(キャサリン・オブ・アラゴン=スペイン、フェルナンデ・アラゴン王とイサベル・カスティリャ女王との末娘)はメアリ1世(1553年~1558年)を生んだ。
メアリ1世は、15歳で夭逝したエドワード6世の後を継いだ。メアリ1世は、王位継承後スペインのフェリペ2世と結婚し、カトリック回復を試み、プロテスタント弾圧を行い「血のメアリ」と呼ばれた。メアリ1世に子はなく、やむなく異母妹エリザベスを後継者に指名したという。
●イギリスは、エリザベス1世の時代に絶対主義の全盛期をむかえた。

「エリザベス・ゴールデン・エイジ」シェカール・カプール監督。2007年製作。
●エリザベス1世のイギリス映画として、1998年「エリザベス」、2007年「エリザベス・ゴールデン・エイジ」などがある。この「ゴールデン・エイジ」では、エリザベス女王の国家への忠誠が特に印象に残った。数シーンをピックアップして紹介する。80回アカデミー賞衣装デザイン賞受賞。
●スペイン無敵艦隊との戦いで、カトリック教国スペインの敗退を暗示する沈む十字架のシーン。勝利したイギリスの、「国家を象徴」する誇り高きエリザベス女王など。

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(重要語)
「毛織物貿易を積極的に保護・奨励」「スペイン船の略奪=私拿捕船=海賊を保護」「ドレ-ク・海賊行為・世界周航を達成」「ホーキンズ・アフリカ黒人奴隷売買」「オランダ独立を支援」「イギリス国教会を確立」「スコットランド、メアリ=スチュアート処刑」「1588年、スペイン無敵艦隊撃破」「1600年、東インド会社設立」「シェークスピア」
●笠信太郎全集4「智恵の構造」から、「智恵の構造・過去-歴史的体験」(知識と知恵は違うという内容)より、宗教戦争の時代のエリザベス1世の部分を一部引用してみる。

たとえば十六世紀の後半はーヨーロッパのことでありますがーヨーロッパの人がもう一人残らずプロテスタントであるか、それもカルビニストであるか、ルーテル派であるか、それとも、そういったどれでもなくてカソリックであるか、ということで、大いにもんちゃくを起した。

下

●ここで16世紀のフランドルの画家ブリューゲルとスペイン、エル・グレコの絵をのせる。フランドル地方の農民の生活と、スペイン、カトリックの重厚でインパクトのある宗教画。

(左絵画)「干草の収穫」ピーテル・ブリューゲル 1565年 油彩 板 プラハ国立美術館蔵(出典:『ブリューゲルとネーデルラント風景画』 国立西洋美術館 朝日新聞社1990年刊
(中絵画)「雪の狩人」ピーター・ブリューゲル 1565年頃 油彩 板 ウイーン美術史美術館蔵 (出典:『家庭美術館』平凡社 1962年 刊)
(右絵画)「受胎告知」エル・グレコ 油彩 カンヴァス 1600年頃大原美術館 (出典:『家庭美術館』平凡社 1962年 刊)

ヨーロッパの宗教改革と宗教戦争(詳細)・9-4
ヨーロッパの宗教改革と宗教戦争(より細かく)

ここで16世紀エラスミス、ルターから始まる宗教改革運動、プロテスタント対カトリック、宗教戦争(迫害、弾圧、虐殺)などの関連事件を年代順に書き出してみる。グーテンベルクの活版印刷も宗教改革運動に力を与えた。
●この内乱に等しい宗教戦争がヨーロッパ大陸の諸国に与えた影響は計り知れない。そして17世紀になると、宗教戦争は継承戦争、国家間の国際戦争へと変貌していく。

16世紀エラスミスとルターから始まる宗教改革運動
年代 内容
1509年イギリス
エラスミス(オランダ人文主義者)

●エラスミスは友人のトマス・モアの別荘にて「痴愚神礼讃(ちぐしんらいさん)=愚神礼讃」を著す。1511年パリで出版され、1522年までに2万部を売り上げたといわれ、宗教改革の気運を大いにい盛り上げた。

1517年ドイツ
ルター

●ルターは、ローマ教皇による免罪符(贖宥状)販売に対する疑義から教会改革を説く。免罪符は、新徒がこれを購入すると「罪が許される」というもので、身分、収入で値段が変わり、「金が箱の中でチャリンと鳴れば天国へ行ける」といって販売されたという。その販売の背景として、資金調達(大聖堂建築など)、賄賂(大司教就任の為など)、献金(教皇庁への)などがあり、金銭的な利益獲得が目的だった。

1521年ドイツ
カール5世神聖ローマ皇帝

●カール5世は、マルティン・ルターに対していっさいの権利を剥奪する帝国追放令を科した。そして彼の著作の購買・頒布を全面的に禁止した。ルターはローマ教皇および宗教会議の権威を否定し、教皇と絶縁をしていた。カール5世は、宗教的対立が帝国内で政治的に波及することを恐れていた。

1525年ドイツ
「農民戦争」勃発

●「平等な神の国の建設」を目指した農民戦争が勃発した。当初農民軍は優勢であったが、略奪、破壊を繰り返す暴徒と化していった。ルターは最初は同調的であったが、「殺人強盗団」と決めつけ非難するようになった。指導者トマス・ミュンツァーは捕えられ斬首され、農民軍は約10万人の戦死者を出して終結した。

1527年ローマ
神聖ローマ帝国軍(ドイツ人傭兵中心)ローマに侵入

●神聖ローマ帝国軍が暴徒化してローマに侵入し、全市で略奪、破壊、暴行、殺人を重ねた。これはローマ教会に対する復讐心があったためだと考えられる(農民戦争時の遺恨)。これにより文化財は破壊し尽くされ、ルネサンスの一大中心地としてのローマの時代は終わりをつげた。

1529年ドイツ
プロテスタントの誕生

●ザクセン選帝侯ら(ルター擁護派)は、帝国議会でのルータ派禁圧のヴォルムス勅令実施採択に反対して、抗議書を提出した。この事によりルター派を「抗議する者(プロテスタント)」と呼ぶようになった。

1531年ドイツ
「シュマルカルデン同盟」を結成

●プロテスタント諸侯らがカトリック対抗のため「シュマルカルデン同盟」を結成した。この同盟はフランスをはじめ、国外の改革派と連携していく。

1534年フランス
イエズス会創立

●イグナティウス・デ・ロヨラとパリ大学の同士6人(ザビエル、ファーブルら)がイエズス会(=ジェズイット教団・耶蘇会《やそかい》)を創立した。「キリストのための戦士」として、清貧、貞潔、聖地巡礼の誓願をたてた。

1534年フランス
プロテスタント迫害

●国王フランソワ1世は、カトリックのミサを批判する「プラカード事件」をきっかけに、プロテスタント迫害をはじめる。国王は神聖ローマ帝国への対抗上、プロテスタントには寛容的だった。プロテスタントは、人文主義者、印刷業の親方(知識人)や商人層にまで浸透し始めていた。

1536年スイス
ジャン・カルヴァン(カルビン)

●カルヴァンは「キリスト教綱要」を著し、フランス・プロテスタントの理論的指導者となる。(カルヴァン派)

1537年デンマーク ●デンマークはカトリック教会の財産を没収し、「シュマルカルデン同盟」に加入し、1542年にはカール5世(神聖ローマ帝国・スペイン)に宣戦布告した。
1541年バチカン
教皇パウルス3世

●教皇パウルス3世は「イエズス会」設立を認可する。これまでの修道会とは異なり、修道院から出て世俗社会に活動の場を求め、厳しい規律をもって軍隊風の強力な組織を作っていった。イエズス会は積極的な伝道・教育活動により、非キリスト教国に急速に進出していく。とりわけ学校教育、学問研究に組織的に取り組み、宗教改革に対するカトリック教会の先兵としての役割を果たしていく。

1541年スイス
ジャン・カルヴァン

●カルヴァンはジュネーヴの改革を依頼され、同市を厳格な規律のもと宗教改革を遂行した。そして、異端審問法廷である長老制を導入し、政治と宗教が一体化した厳格な規律の神権政治を行った。この禁欲的なカルヴァン主義はスコットランドでは長老派、イギリスでは清教徒(ピューリタン)、フランスではユグノーとして新たな運動を展開していく。

1542年バチカン
プロテスタントの迫害

●ローマ教皇パウルス3世は検邪聖省を設置し、プロテスタントの迫害を行う。15世紀のスペイン異端審問制度にならって、宗教裁判所を再組織し、イタリアからプロテスタントの影響力を一掃する。

1545年イタリア
トリエント公会議開催

●ローマ教皇パウルス3世、トリエント公会議開催を呼びかける。この公会議は、3期にわたり1563年まで続き、カトリックの教義を固め、プロテスタントへの基本的な姿勢を確認するなど、重要な会議となった。
ここでトリエント公会議の内容の一部を、「sspx japan伝統的ローマ・カトリック教会のサイトへようこそ!」より一部引用してみる。下記サイトで内容を確認して下さい。

「トリエント公会議」
「sspx japan伝統的ローマ・カトリック教会」
1821(984)聖なる公会議は、司教および他人を教える任務にある者に、聖人の取次ぎを呼求めること、遺物の尊敬、画像の正しい使用について、信者に教えることを命ずる。すなわち、キリスト教の初期からの使徒伝承のカトリック教会の慣例および聖なる教父たちの同意と公会議の教令に従って、キリストとともに統治する天上の聖人が人間のために祈りを天主にささげること、私たちの主、唯一のあがない主、救い主である天主のひとり子イエズス・キリストを通じて天主の恩恵を得るため、謙虚に聖人を呼求めること、彼らの祈りと力と助けを求めることが、善いこと、有益なことであると教えなければならない。そのため、天上にいる聖人を呼求めてはならないとか、聖人たちは人間のために祈らないとか、たとえ人間のために祈るとしても聖人を呼求めることは偶像崇拝であり、「天主と人との仲介者はイエズス・キリスト唯一人である」(1チモテ2・5参照)という天主のことばに反し、さらに声を出す出さないにかかわらず聖人に祈るのは愚の骨頂である、と主張することは不敬である。
1822(985)聖人と殉教者の聖なる遺体は、かつてはキリストの生きた体、聖霊の聖顔であった(1コリント3・16;6・19;2コリント6・16)。またキリストによって復活させられ、永遠の生命に入り、天国の栄光を受けるべきものであるため、崇敬すべきものである。これらの遺体を通じて多くの恵みが天主から人類に与えられる。聖人の遺物は表敬に値せず、その表敬は不必要であり、聖人の助力を得るためにその墓所を訪ねるのは無駄なことであると主張する者を、教会は過去において排斥したし、今日も排斥する。
1823(986)キリスト、聖母、諸聖人の聖画像を教会堂内に置き、それにふさわしい崇敬をささげるべきである。しかし、聖画像の中に神性または天主の能力があるかのように表敬してはならない。過去の異邦人が偶像から期待したように(詩編134・15以下参照)、その聖画像から何かを求めたり、それに信頼したりしてはならない。聖画像に対する表敬は、それによって表わされた原形に向けられるものであり、聖画像に接吻し、その前で帽子を脱ぎ、ひざをつくのは、それを通してキリストを礼拝するのであり、キリストにならった聖人たちを崇敬するのである。このことは、これまでの諸公会議、特に聖画像破壊論者に対する第2ニケア公会議(DzS600~601)の教令によって教えられたことである。 (一部引用)
1555年ドイツ
アウスブルク宗教和議締結

●フェルディナント(神聖ローマ帝国皇帝カール5世の弟)は全権委任を受け新旧両宗派と交渉、アウスブルク宗教和議締結となる。ここに長年の宗教抗争が終結した。しかしこの和議は、反面ドイツの宗教的一体性が失われ、諸侯の領邦的支配権がいっそう強化されることになった。これは17世紀の30年戦争(1618年)の原因を内包させることとなった。

1556年神聖ローマ帝国
皇帝カール5世退位

●皇帝カール5世は40年におよぶ支配を終え退位する。カール5世はカトリックによる帝国を目指した。神聖ローマ帝国は弟のフェルディナント、スペインは子のフェリペ2世が継承した。

1562年フランス
ユグノー戦争の始まり

●カトリック教徒ギーズ公フランソアはシャンパーニュ地方で、ユグノーの礼拝集会を襲い、30人を虐殺した。ユグノー戦争の始まりである。1598年まで8次に及んだ。

1568年オランダ
スペインに対する独立戦争

スペイン王フェリペ2世はオランダのプロテスタントを厳しく弾圧した。カトリックに対抗したネーデルラントの大貴族エグモント伯が処刑されたことにより、40年に及ぶスペインに対する独立戦争が始まった。

1572年フランス・パリ
サン・バルテルミの虐殺

●カトリック教徒がユグノーの貴族らを襲い、200人以上を虐殺した。ユグノー戦争頂点に達する。虐殺は女性・子供を問わずセーヌ川は死骸で埋まったといわれる。サン・バルテルミの虐殺(セント・バーソロミューの虐殺)

1576年神聖ローマ帝国
ルドルフ2世、神聖ローマ帝国皇帝に即位

●ルドルフ2世(4年前にボヘミア王、スペイン生まれ)神聖ローマ帝国皇帝に即位する。新皇帝はイエズス会の厳格なカトリック教育を受けて育ち、宗教寛容政策を停止し、プロテスタントを弾圧した。宗教紛争は激しさを増した。

1576年フランス ●ボーダン(社会思想家)、「国家論」を発表。ユグノー戦争を収拾し、平和を回復させるために、絶対王政を擁護した。
1584年オランダ ●オラニエ公ウイレム(独立戦争の指導者)がカトリック狂信者に暗殺される。スペイン王フェリペ2世は、彼に賞金をかけていた。
1585年フランス
第8次ユグノー戦争

●国王アンリ3世、プロテスタントのアンリ・ド・ナヴァルを自身の継承者として承認した。しかしこのことはカトリックの反発を呼び、ローマ教皇はアンリ・ド・ナヴァルを破門した。そしてギーズ公アンリ(カトリック)と討伐軍をおこし、第8次ユグノー戦争が始まった。

1588年イギリス
スペイン無敵艦隊の敗北

●スペイン・フェリペ2世、イギリスに進攻し大敗する。スペイン無敵艦隊の敗北(ドーヴァー海峡)。イギリスはネーデルラントを支援し、またアメリカ・カリブ海に進出しスペインと敵対していた。スペインは、この敗戦にもかかわらず、艦隊を再建増強しその後も大西洋を支配し続けた。

1588年フランス・パリ ●モンテーニュ「エセ-」を出版する。ユグノー戦争のさなか、冷めた目で宗教紛争を眺め、モラリスト文学の最高峰として随想という分野を創始した。のちにデカルト、パスカルやルソーらに影響をあたえた。
1589年フランス
国王アンリ4世即位、ブルボン王朝始まる

●国王アンリ3世がドミニコ会修道士(カトリック)に刺殺される。これにより260年続いたヴァロア朝は断絶した。
●この第8次ユグノー戦争では、「3人アンリの戦い」が行われた。ギーズ公アンリ(カトリック)が全土のほとんどを支配し、パリに入城したが、パリを追われた国王アンリ3世は、アンリ・ド・ナヴァル(プロテスタント)と共同でパリ包囲作戦をおこなった。そして奸計をもって、ギーズ公アンリと弟を殺害したが、逆にカトリックに報復された。
●そしてアンリ・ド・ナヴァルが、アンリ3世の臨終の床で王位継承者として指名され、アンリ4世として即位し、ブルボン王朝が始まった。

1589年頃スペイン ●スペインはポルトガルの併合に伴い、ポルトガルに住むユダヤ人への迫害を強めた。(1世紀前に、スペインでのユダヤ追放令によってポルトガルに移住してきた。)
●同時にスペインにいる改宗ユダヤに対しても迫害を強め、そのため多くのユダヤ人が、ネーデルラントのアムステルダムへ向かった。ユトレヒト同盟の規約には「信教の自由」がうたわれていたためである
1590年フランス ●アンリ4世(新国王)はイヴリーの戦いでカトリック同盟軍を破る。フランスではカトリック同盟が、アンリ4世に対抗してシャルル10世を擁立していた。
●アンリ4世軍は、カトリック同盟軍を追って進軍しパリを包囲した。しかし、パリの抵抗は強く、支援のスペイン軍(カトリック)がパリに入城すると、アンリ4世軍はパリ包囲網を解いた。
1593年フランス ●アンリ4世(プロテスタント)はカトリックに改宗(3度の改宗)する。アンリ4世は、パリ奪回と国家統一のため改宗を決意し、1594年にシャルトル大聖堂で正式にフランス国王として戴冠した。
1598年フランス
「ナントの王令」ユグノー戦争が終結

●アンリ4世「ナントの王令」を発布する。ここに「信教の自由」が承認され、36年にわたったユグノー戦争が終結した。この王令は両派による裁判所の開設や、プロテスタントを官職につけるなどを認め、永続的に廃止されないとしたが、1685年に廃止された。しかしこれによりスペインとの戦争も終結し、フランスに平和が久しぶりに戻った。

1600年ローマ ●ジョルダーノ・ブルーノ(哲学者)が異端審問の結果、火刑に処される。8年間の獄中での尋問と拷問をうけた。コペルニクスの地動説を支持し宇宙無限論を主張し、異端とされた。
1605年イギリス・ロンドン ●ガイ・フォークス(軍人旧教徒)が国王と議会の爆破をねらう。
●1603年にイギリス国王として、エリザベス1世の後を継いだジェームズ1世(スコットランド王)は、宗教の寛容策はとらず、イギリス国教会政策を強行したため、失望した旧教徒らが未遂事件を起こした。
●ジェームズ1世は、エリザベス1世が処刑したスコットランド女王メアリー・スチュアートの遺児で、ここにチューダー朝が終わり、スチュアートが始まった。
1609年オランダ ●スペイン王フェリペ3世はネーデルラント北部7州と休戦条約を結ぶ。1568年の独立戦争開始以来の休戦となった。これはスペインの国家財政の破産状態が原因だった。しかし1621年に戦争は再開された。オランダの独立が承認されるのは1648年ウエストファリア条約のときになる。
1610年フランス・パリ ●国王アンリ4世が狂信的なカトリック修道士に暗殺される。プロテスタントに対する融和策に不満を抱く。
1611年イギリス ●国王ジェームズ1世が(清教徒の誓願による)英訳聖書の決定版を完成させた。(作成を命じたのは1604年)これは50名の学者・宗教家による翻訳作業によるもので、イギリスにとって、シェークスピアと並んで文学的遺産となり、近代英語の形成に大きな影響をあたえた。
1618年チェコ(ボヘミア)
「30年戦争」

●プロテスタントが、ハプスブルク家である国王フェルディナントに対する抗議行動をプラハの王宮で起こした。ボヘミアでは「信教の自由」が国王により破棄されたことにより、プロテスタント貴族がこの事件を起こした。この抗議行動は武装反乱となり、1619年のフェルディナント2世の神聖ローマ帝国の即位後にはさらに拡大していった。この戦争は「反ハプスブルク家」「反カトリック」闘争となり、ヨーロッパ諸国をまきこむ「30年戦争」となっていった。

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グーテンベルクの活版印刷(『クロニック世界全史』講談社1994年刊より、抜粋。)

●「書籍印刷なくして宗教改革なし」といわれる。グーテンベルク(15世紀)は合金による金属活字を、旧来の手写本にひけをとらない299個の文字と記号を鋳造し、1282ページの聖書印刷を開始し、新しいコミュニケーション技術の新時代を開いたとあります。この印刷技術の果たした役割は大きく、ルターの思想は印刷されたパンフレット・書籍によって伝播していき、ルターが翻訳したドイツ語聖書は、近代ドイツ語を生み出すもとになったと言われています。そしてこの印刷技術は大航海時代にのって世界各地に広がって行きました。日本には、イエズス会ヴァリニャーノ(天正遣欧使節帰国に伴って来日)によって印刷機がもたらされ、布教活動に力を発揮し、その印刷物は現代にまで残されている。


(左絵)「書写する修道士」12世紀まで、聖書や神学書の書写はおもに修道院の写本室で行われていた。・・・
(出典:『クロニック世界全史』講談社1994年刊より)
(右写真)グーテンベルクによって印刷された「42行聖書」の創世記のページ。赤と黒のテキストの文字と彩色されたイラストレーションが描かれている。聖書の普及が宗教改革の一つの前提であった。
(出典:『クロニック世界全史』講談社1994年刊より)

オスマントルコ・スレイマン1世・9-5
地中海世界のほぼ3/4を支配・「パスク・オトマニカ」・サファビー朝ペルシャ・アッバス1世
15世紀
ビザンツ帝国滅亡

●(オスマントルコ)スルタン・メフメト2世はコンスタンティノープルを陥落させ、ビザンツ帝国を滅ぼし、コンスタンティノープルをイスタンブールと改称し、ここを首都と定めた。

16世紀初頭
オスマン帝国の支配


●セリム1世がマムルーク朝を征服し、エジプト・シリアを手中におさめ、東地中海世界を支配した。第10代スレイマン1世の時代に、アルジェリア・リビアを併合し、オスマン帝国は地中海世界のほぼ3/4を支配した。
(地図)スレイマン大帝没時(1566年)のオスマン帝国領とハプスブルク家 (出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)

16世紀
地中海世界「パスク・オトマニカ=(オスマンの平和)」

●スレイマン1世時代のオスマン・トルコは、アジア・アフリカ・ヨーロッパ三大陸の要を支配し、地中海からインド洋にいたる貿易もおさえて繁栄した。ポルトガルのインド洋進出にも対抗し艦隊も派遣し、また黄金の獲得を狙ってアフリカのスーダン・エチオピアへも進出した。
●スレイマン1世は当時の世界で最も実力のある皇帝と見なされ、壮麗王と呼ばれた。地中海世界は「パスク・オトマニカ=(オスマンの平和)」とよばれ、オスマン帝国は、道路・宿駅・隊商宿のネットワークの拡張維持につとめ、街々にバザールや、ビジネスセンターを兼ねた隊商宿のハンを設けて公益施設を整備した。東西の交易の繁栄は、帝都イスタンブ-ルをはじめとする都市の発展と都市文化を開花させた。

(重要語)
ヨーロッパ最強の軍団「イェニチェリ」「クリミア・ハン国を保護化、黒海の商業権支配」「イラン・サファビー朝攻撃、メソポタミア奪取」「スルタン-カリフ=イスラム世界、政教両権を持つ最高権力者」「1529年、ウイーン包囲」
オスマン・トルコ・イスタンブール


●(左写真)「スレイマニエ・ジャーミ」スレイマン1世の命で1557年完成 イスタンブール最大のモスク(出典:「大系世界の美術・イスラム美術」学研1972年刊)
●(右写真)「スルタン・アフメット・ジャーミ」(ブルーモスク)第14代スルタン・アフメト1世によって1609年から1616年の7年の歳月をかけて建造された。「世界で最も美しいモスク」(出典:建築巡礼17・イスタンブール 丸善1990年刊)

●イスタンブール・トプカプ宮殿博物館


(左写真)「宝石飾水注」水晶 高さ20cm 16世紀後半トプカプ宮殿博物館
(中写真)「宝石金象嵌兜」鉄 高さ27cm 経22cm 16世紀第4四半期
(右写真)「鍍金馬面」銅 高さ57cm 幅48cm 16世紀後半 トプカプ宮殿博物館
(出典:トルコ文明展 編集発行 (財)中近東文化センター 平凡社1985刊)

イラン民族の国家、サファビー朝ペルシャ・アッバス1世・首都イスファハン「世界の半分」

●チムール帝国が1500年ウズベク人によって滅ぼされた。その直後1502年、イラン民族のサファビー朝が、トルコ系民族の支配を脱し、イランの地に樹立された。ササン朝ペルシャ以来のイラン民族国家だった。サファビー朝はシーア派を国教としたので、スンニー派のオスマン・トルコとは抗争を繰り返した。しかしアッバス1世のとき全盛期をむかえ、オスマン・トルコと平和条約を結び、内外の平和が訪れ、商業・貿易が発達して、首都イスファハンは大いに栄え、「世界の半分」と賞賛された。

●(左写真)イスファハン「王のモスク(マスジット・イ・シャ-)のドームと正面のイバーン」イバーンは、ファサ-ド(建築物の正面)にはめ込まれている半ドームの大きなアーチ。
●(右写真)「西イバーンと中庭に映ったその影」プールは沐浴に使われる。この上には、ゴールダテフという木製の張り出しがあり、ここから司祭(イマーム)は、中庭に集まった信者に祈りを捧げる。(出典:「世界の遺跡と名建築 第5巻」講談社 1983年 刊)

インド・ムガル帝国・9-6
第3代アクバル帝・イスラム・ヒンドゥ-両教徒の融和政策・タージ・マハル
8世紀 ●インドにイスラム勢力の侵入が始まり、11世紀に本格的になった。
10世紀半ば (北インドに侵入)
●トルコ系ガズニ朝(アフガニスタンに建国)が北インドに侵入し、10数回にわたりヒンドゥ-教寺院を破壊した。
12世紀半ば (ゴール朝、北インド全域を支配)
●トルコ系のゴール朝がインド侵入を開始した。インドのラージプート族(ヒンドゥ-勢力)は抵抗を続けたが、ゴール朝は北インド全域を支配していった。
1206年
アイバク、イスラム政権を樹立

●ゴール朝の奴隷出身(トルコ系の国家では奴隷はひとつの身分、有能であれば高い地位につくこともできた)の武将アイバクが、デリーを首都にイスラム政権を樹立した(奴隷王朝)。この後300年間は、短命なイスラム政権が交代し、デリー・イスラム諸王朝時代とよばれる。

1200年頃

●(写真左)「クトゥブ・ミナール=アイバクの塔(高さ73m)1200年頃」。アイバクは正式には、クトゥブ=ウッディーン=アイバクという。アイバクがヒンドゥー教徒に対する勝利を記念して建てた物。(世界の旅では愛妻のために建てたと書かれている)この塔はインド最古のイスラム寺院クワットル・イスラム・モスクの塔である。「出典:世界の旅3」インド・東南アジア 河出書房新社1969年 刊
●(写真右)「さびない鉄塔」このアイバクの塔の横に高さ7mの鉄柱が立っている。これもアイバクが破壊した他の寺院から移設したもので、4世紀頃に作られたといわれる。世界有数の鉄鉱石の産出国であるインドでは、古来よりサビないすぐれた鉄が、作られていたと言われる。現在は、柵があって触れないようだ。(出典:「インド鉄紀行」川崎製鉄 発刊1994年刊


16世紀
ムガル帝国建設

●中央アジアのトルコ・モンゴル系の一部族が、チムールの子孫と称するバーブルに率いられて、アフガニスタンに進出した。1526年、北インドに侵入したバーブルは、デリーを占領してムガル帝国(ムガルはモンゴルの訛ったもの)を建設し、急速にインドに同化していった。

16世紀~17世紀
イスラム・ヒンドゥ-両教徒の融和政策

●第3代アクバル帝はイスラム・ヒンドゥ-両教徒の融和政策を行う。ムガル帝国は、第3代アクバル帝のとき、ヒンドゥー教徒のラージプート族を平定し、北はアフガンから南はビンジャ山地の南までを統一し発展した。この急速な発展の最大の要因は、イスラム・ヒンドゥ-両教徒の融和政策にあった。
●もともと遊牧民だったラージプート族は、自らをカースト制のクシャトリア(王侯・武士階級)とみなし、「王子」を意味するラージプートと称した。彼らの諸王国は、ラージャスタン地方に割拠し繁栄を誇った。アクバルは、このうちのカッチャワ王国の娘を后に迎えて、全インドにヒンドゥ-・イスラムの融和・和解の範を示した。アクバルは、ラージプート諸王国に自治を認め、特権を与え、対立を解き、全インド支配と繁栄を築いた。ムガル帝国 第5代皇帝は、シャー・ジャハーン(在位:1628年 – 1658年)で、タージ・マハルの建造者としても有名。

●(チムールでは「細密画=ミニアチュア」が、モンゴルの影響とイスラムの伝統生かして発達し、書物のさし絵として描かれた。この画法はサファビー朝ペルシアやインドのムガル帝国に引き継がれた)

●(左絵)「1561年グワーリアルのナルワル付近でのアクバル帝」欽定写本「アクバルナーマ」の挿絵。紙に不透明水彩と金泥。ムガル 1586年~1589年頃。
●(中絵)「1561年沈みかけた橋の上を象に乗って、別の像を追跡するアクバル帝」欽定写本「アクバルナーマ」の挿絵。紙に不透明水彩と金泥。ムガル 1586年~1589年頃。
●(右絵)「1573年にスーラト城へ戦勝行進するアクバル帝」欽定写本「アクバルナーマ」の挿絵。紙に不透明水彩と金泥。ムガル 1586年~1589年頃。
(出典:「インド宮廷文化の華(細密画とデザインの世界)」ヴィクトリア&アルバート美術展1993年~1994年)NHK等)

タ-ジ・マハル

●(左絵)「ターバン飾りをもつシャー・ジャハーン王子」紙に不透明水彩と金泥。ムガル 1616年~1617年頃。
この肖像の頭上には「シャ-・ジャハ-ン」の文字がある。さらに下縁には「25歳の時の余の肖像・・」と皇帝自身の書き込みがある。(出典:「インド宮廷文化の華(細密画とデザインの世界)」ヴィクトリア&アルバート美術展1993年~1994年)NHK等)
●(中写真)「タージ・マハル」 ムガル帝国第5代皇帝シャ-・ジャハ-ン(在位1628年~1658年)が、愛妻のために建築した。(出典:「世界の遺跡と名建築 第5巻」講談社 1983年 刊)
●(右写真)「タージ・マハル」(出典:「世界の旅3」インド・東南アジア 河出書房新社1968年 刊)

明とシナ海世界、海賊、倭寇、琉球・9-7
航海技術造船技術の発達・鄭和の艦隊派遣・琉球中山王国による統一・万国の津梁
東・南シナ海世界

●明の王朝成立からの外患は「北虜南倭」(モンゴル諸国、倭寇)だった。多くの中国人は、宋元時代(12世紀~13世紀)以降、羅針盤を使用した航海技術や造船技術の発達により、日本や南海諸国に渡航していた。彼らは商業活動に従事する一方、海賊行為も行っていた。明代の前半、華僑の海賊の頭目は、スマトラのパレンバン、ボルネオ、ルソンなどにいて、鄭和の艦隊派遣の目的のひとつは、彼ら中国人海賊の鎮圧と、国家による南海諸国との通商だった。かれら中国、日本や琉球の勢力は、国家に縛られない自由人として互いに結び、シナ海(東・南)で活動を続けた。
●琉球は15世紀の半ばまでに、山北(さんほく)、中山(ちゅうざん)、山南(さんなん)は中山王国によって統一された。尚巴志(しょうはし)。中山王は、明の冊封をうけて琉球王になった。琉球は、朝鮮・日本・中国沿岸をはじめ、ルソン・安南・ボルネオ・ジャワなどと交易を行い繁栄した。南海交易品は、琉球王国からは、日本産の銅・刀剣・中国産の生糸・絹織物・陶磁器等を輸出し、南方諸国からは、胡椒(こしょう)・蘇木(そぼく)・鬱金(うっこん)などの香料・薬類・砂糖などを輸入して、これらを中国、日本本土や朝鮮に輸出した。
●しかし、16世紀なかば以降、さかんに来航するポルトガル人やスペイン人により、従来の東アジアの伝統的な通商は打撃を受け、特に琉球王国は大打撃を受けた。近代的火器で武装したポルトガルは各沿岸港に拠点を作り、北上をつづけ、琉球船は閉め出されていった。かわりに日本は、対外貿易を歓迎した信長、秀吉により、堺や平戸は繁栄した。

(重要語)
「三国志通俗演義」「水滸伝」「西遊記」「金瓶梅」「紅楼夢」新大陸「とうもろこし・とうがらし・じゃがいも」
琉球王国


●左(120拓本)「万国津梁の鐘銘(ばんこくしんりょうのしょうめい)拓本」20世紀 紙本拓本 沖縄県立博物館。
●右(地図)「二大海洋王国と南海交易ルート」(出典:「世界の歴史がわかる本」綿引弘 三笠書房)


●「万国津梁の鐘」は第一尚氏6代尚泰久王の1458年に鋳造された。もと首里城の聖殿にあったといわれる梵鐘で胴に記された銘文により「万国津粱鐘」とよばれる(現品重要文化財)。その鐘銘の冒頭は

「琉球国は南海の勝地にして、三韓(朝鮮)の秀を鍾(あつ)め、大明(中国)を以て輔車(ほしゃ)となし日域(日本)を以て脣歯(しんし)となす。この二中間にありて涌出するの蓬莱島なり。舟楫(しゆうしゆう=船のこと)を以て万国の津梁(しんりょう=架け橋)となし、遺産至宝は十方刹に充満せり・・」

とあり、琉球王国と日本、明との関係をはじめとして対外に目をむけた琉球の意識がよく理解できる。(ふりがな等は「世界の歴史がわかる本」より)

左(絵129)「進貢船の図」19世紀 紙本著色 沖縄県立博物館。
右「冊封使行列図」琉球国王の即位のつど、明から冊封使を迎えてきた。一行は正・副両使を含め数百人で構成されていた、とあります。(出典:「海上の道-沖縄の歴史と文化-」編集 東京国立博物館 読売新聞社1992年発行)


●進貢船(しんこうせん)というのは、明(のちに清)へ朝貢にいく使節(進貢使)一行を福州まで乗せていく船をいう。使節を福州でおろした進貢船はその年のうちに那覇に帰り、翌年迎えの船(接貢船)を出した。

16世紀、ポルトガルのインド洋海域進出・9-8
ヴァスコ・ダ・ガマ「インド航路」からの歴史・ヴァスコ・ダ・ガマの航海。(第1回と第2回)
ポルトガルのインド洋海域進出

●ポルトガルの東洋進出は、1498年のヴァスコ・ダ・ガマのインド・カリカット到着から始まる。

年代別ポルトガルの東洋進出の概観
1498年 ●ヴァスコ・ダ・ガマが「インド航路=アフリカ喜望峰まわり」によって、インド・カリカットに到着。(インドは、西欧・アラブ・アフリカ世界と東アジア・東南アジア世界を結ぶ重要な中継センターだった。沿岸部にはゴア、カリカットなど多くの湾岸都市が栄えていた。カリカットは、キリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒などが住む、多種多様な国際交易拠点だった。)
1505年 ●初代ポルトガル・インド総督は、コーチンなどに要塞を築く。
1508年 ●第2代インド総督は、インドへむかう途上、ホルムズ島(ペルシャ湾入口)を占領する。
1510年 ●ポルトガル、インド洋貿易支配のためゴアを占領する。
1511年 ●ポルトガル、マレー半島のマラッカを占領する。(マラッカ海峡は、「モンスーンが始まり、終わるところ」といわれ、春と秋に季節風が規則正しく入れ替わり、帆船時代の重要な交易ルートだった。15世紀初め、ここにシュリービジャヤの一王族がマラッカ王国を建て、東南アジア、中国、インド間の三角貿易の中心となり商業港として大いに栄えた。またイスラム教を受け入れたので、この王国を拠点にイスラム教が東南アジアに広まった。)
1512年 ●ポルトガル、マルク諸島(=香料諸島・モルッカ諸島)に到達する。(マルク諸島は、3大香料といわれる、胡椒(=こしょう・ペッパー)、丁子(=ちょうじ・クローブ)、肉荳蔲(=にくずく・ナツメグ)の後者2つを同時に産する世界にひとつの場所だった。香料は調味料、薬品として大きな需要があり、その利益も莫大だった。マゼラン艦隊が持ち帰った丁子は、原産地価格の2500倍になった。ポルトガルとスペインはこのマルク諸島をめぐり抗争を続けたが、1536年ポルトガルが支配権を確立した。)
1517年 ●ポルトガル、船隊(8隻)を率いて中国広州に上陸。
1522年 ●明、ポルトガルを略奪行為のため、広州から追放する。
1536年 ●ポルトガル、マルク諸島の支配権確立。スペイン、フィリピン諸島へむかう。(1521年マゼランの世界周航でフィリピンに権利を持つ。)
1542年 ●ポルトガル国王の要請でスペイン人ザビエル(イエズス会)、インド・ゴアで布教する。
1543年 ●九州種子島に、ポルトガル人を乗せた中国船漂着(鉄砲伝来)。
1547年 ●ザビエル、マラッカでアンジロー(日本人最初のキリスト教信者となる)と会い、日本布教を決意。
1549年 ●ザビエル、アンジローの案内で鹿児島に上陸。
1557年 ●ポルトガル、中国澳門(マカオ)で、居住権を得る。(1522年以降ポルトガルは、中国人の海賊や倭寇と結んで、浙江省沖の舟山群島などを拠点に、中国商人と密貿易を行っていて、1553年頃よりマカオに住み始めていた。)

ポルトガル、ヴァスコ・ダ・ガマのインド洋海域進出の詳細

●全体を俯瞰するために上「グーグルマイマッププラス(世界地図)」に、インド洋海域のポルトガル関係地点をプロットして地図を作成した。これらの地点は、「ポルトガルの主な商館・要塞所在地(一時的支配を含む)1520年頃」から抜き出した。また、参考として、ヴァスコ・ダ・ガマの航海寄港地を次のように色分けした。
●1回目航海=青色、2回目航海=赤色で色分けしてマークした。黄色は、その他の商館・要塞の所在地で、青色・赤色もすべて商館・要塞の所在地である(黄色と同等)


(出典)「東インド会社とアジアの海」・興亡の世界史第15巻、羽田正著 講談社2007年刊より要約・引用。(地点引用)同上「東インド会社とアジアの海」より。

第1回目ヴァスコ・ダ・ガマの航海と成功。

●このガマの航海の成功と帰還は、ポルトガルのみならずイタリア諸都市(東方貿易を独占していた)に衝撃を与えた。2隻の香辛料・宝石などの売却益は、2年間の航海の総費用を差し引いても充分な利益をあげた。
●ガマ自身も、その利益と褒賞で、ポルトガルの大富豪となったほどであった。

第1回目ヴァスコ・ダ・ガマの航海。
1498/3月
②モザンビーク島(モザンビーク)到達

●ヴァスコ・ダ・ガマは1497年7月リスボンを出港し(旗艦サン・ガブリエル号100トン)、11月に喜望峰を越えた。モザンビークには3隻で到達し、その乗組員数は148人~170人だった。
●ヴァスコ・ダ・ガマは、この地の住民の多くが、敵であるムスリム(イスラム教徒)であることを知った。ガマは武力を行使して水を奪い、銃と砲で暴力的に必要物資を調達して、港の使用料を払わず北上した。

1498/4月
④モンバサ(ケニア)⑤マリンディ(ケニア)を出港

●モンバサについでマリンディに立ち寄ったガマは、キリスト教徒とその王国についての情報を熱心に求めた。またアラブ人ムスリム(イスラム教徒)に対して、不必要なまでに敵意を示した。船を襲い、その積み荷を強奪もした。マリンディで、インドからのキリスト教徒の商船と出会い、インドの航路やインドの港町の情報を得た。そして案内人を雇い1498/4月インドへ出港した。

1498/5月
⑪カリカット(インド)到着

●ガマはカリカット到着1週間後に、ポルトガル王の使節として、カリカットの王(ザモリン)に謁見した。ガマは王に、「ポルトガル王は強大で裕福なこと。」「キリスト教徒の王を探すために派遣されたこと。」などを力説した。
●しかし、翌日王への贈り物を見た役人やイスラム商人達は、そのあまりにも貧相な贈り物に笑い出したという。王は謁見してガマに、「裕福なポルトガルなのに、なぜ何も持ってこなかったといい」「どちらにしろ、船で持ってきたものを売れるだけ売りなさい」と命じたという。王国の収入は、商品の売却時にかける関税だったからだ。
●カリカットは、独立あるいは半独立の王国の一つで、町には海外貿易に携わる多種多様な商人が共存し、胡椒や香辛料の集散地であった。そのため、11世紀からの起源を持つカリカットにとって、王の公平さと町が安全であることの評判が重要なことであった。その後ガマ一行は3ヶ月間カリカットにとどまり、持ってきた織物、錫、鎖などを、胡椒、クロウヴ、シナモン、宝石などと交換した。

1498/8月出港
⑪カリカット出港

●ガマは出港はしたが、東アフリカへ向かう北東風はまだ吹いておらず、西インド洋を越えるのに3ヶ月を要した。その間、壊血病で30人もの乗組員が死亡し、3隻のポルトガル船は惨憺たる状態におちいった。

1499/1月
⑤マリンディ(ケニア)到着

●ガマは、ようやくマリンディに着いたが、簡単な補給をすませ、すぐに出港した。しかし乗組員不足のため、モンバサ近くで1隻を焼却処分し、2隻で帰途についた。1499/3月に喜望峰を越え、7月と8月にようやく2隻がリスボンに帰着した。しかしヴァスコ・ダ・ガマ本人は、病死した兄をアゾレス諸島に埋葬してから別船で帰還した。帰港まで2年を越える年月がかかった。

カブラルの出発と失敗

●ガマの成功の結果、ポルトガル王は直ちに13隻の新しい船隊を組織した。特にガマから得た情報で、インド洋には砲を備えた強力な艦隊が無いことと、沿岸地域には銃が普及していないことが重要だった。そこでこの艦隊の艤装(船の出発準備一切)では、銃砲の準備にもぬかりなかった。
●この13隻の船隊(カブラル)は、1500年3月にリスボンを出港して、1年4ヶ月の短期間でインドを往復し、帰路にはブラジルを発見するという功績をあげたが、失敗と酷評された。その理由は、次のようであった。

1.インドに行くまでに7隻を失い、帰路に1隻を失ったこと。
2.商品量が不十分で、航海全体の費用を回収できなかったこと。
3.カリカットで武力紛争を起こし、54人のポルトガル人を失ったこと。
4.町を砲撃し現地に商館を置くことに失敗したこと。

●この失敗の結果ポルトガル王は、インドへの航海で利益を上げることの困難さを知り、さらに新たな派遣を躊躇した。そこで再びヴァスコ・ダ・ガマは、私財でもって航海を行うことを申し出て、王の許可を得たのである。

ヴァスコ・ダ・ガマの航海。第2回目

●ガマの艦隊は20隻からなる大艦隊で、1502/2月リスボンを出港した。ガマは武力でインド洋を制圧することにより、大きな利益をあげることが出来ると確信していた。

第2回目ヴァスコ・ダ・ガマの航海。
1502/7月
③キルワ(タンザニア)到達

●ヴァスコ・ダ・ガマ提督艦隊(20隻)は、当時随一の繁栄を誇ったキルワ沖合に到達。大砲を一斉に放ち武力による示威行為を行った。ガマ提督は、キルワの王に武力で貢ぎ物(毎年のポルトガル王へのお金)を強要し、和平と友好関係を結んだ。

1502/9月
⑩カンナノール(インド西海岸)沖合に停泊

●ガマの船隊は、航海方面からカリカットへ向かう船を待ち伏せし、略奪と殺人を行った。なかにはメッカからの巡礼(イスラム教徒の婦女子・子供含む240人~380人)の帰りの船を襲い、ポルトガル王室の年間収入の1/10もの財宝を略奪したあと、船を燃やし殺害したという。ガマやポルトガル人にとってイスラム教徒は異教徒であり、殺人という意識はなかったと思われる。

1503/3月
⑪カリカット⑫コーチン(カリカットの南方)から帰路につく

●ガマは、カリカットでは王と賠償交渉(カブラルの損害)するが、突然2日間で400発の砲撃を加え、周辺建物を破壊し、カリカット港を5隻の船で封鎖した。インド側もガマの船隊に、大船34隻を含む大小の船で反撃したが、ポルトガル船の大砲の威力に負けてしまう。
●こうしてガマ提督は、コーチンやカンナノールで胡椒や高級香辛料を大量に仕入れ、さらに何隻かを略奪し、5隻を残してガマは帰路についた。そしてコーチンに商館を設置し1503/10月までに14隻が物資を満載し、リスボンに帰着した。香辛料は1500トンに達し巨大な売却益を得た。

第2代副王、アフォンソ・デ・アルブケルケの時代

●こうしてポルトガルは、1515年頃までにインド洋の主要な港町を攻撃し支配していった。特に征服者として名高い第2代副王、アフォンソ・デ・アルブケルケの時代にポルトガル海上帝国の基礎が築かれた。
●この組織の内容を引用すると、以下になる。

インド領の統治者はポルトガル国王である。現地で王の権限を代表し、民政、軍政の責任を担うのは王によって任命され派遣される「副王」で、1515年以後はゴアに駐在した。ポルトガル本国とゴアの間の通信は、最短でも10ヵ月かかったので、インド領の実質的な運営は、副王とその下に設けられた評議会が責任を負った。評議会は、ゴアの大司教、ゴアの町の行政責任者(カピタン)、有力で古顔の貴族2、3名、それに王室財産の管理人などから構成されていた。インド領の各地に設けられた要塞の数はおよそ50にもなったが、それらの要塞や拠点となる商館には、カピタンと呼ばれる責任者が派遣され、ゴアの副王の指示を仰ぎながら、担当地域の民政と軍務を管轄していた。

ポルトガルさらに東へ向かう

●当初インド洋西海域に集中していたポルトガルは、東南アジア方面から来る、高級香辛料、香木類(沈香・白檀など)、中国産絹織物・陶磁器などの国際的な商取引の中心地が、マレー半島のマラッカであることを知った。マラッカでは、アジア全域から多くの商人が集まり、港では84の言語が話されていたという。1511年副王アルブケルケは、船隊で砲撃を加え激しい戦いの末、この一大貿易センターを征服した。そしてマラッカを基地として、東南インドのプリカット、ベンガルのチッタゴン(バングラデシュ)、ビルマのペグなどに順次拠点を築いていった。そしてさらに東の高級香辛料の産地である、マルク諸島(モルッカ・香料諸島)やバンダ諸島へと向かい、南シナ海を北上し中国沿岸、琉球諸島、朝鮮半島そして日本に到達したのだった。

ポルトガル進出前の東アジア海域とその後・9-9
倭寇(わこう)・後期倭寇、中国沿海地域の人々と東シナ海沿岸諸地域の人々・華人海商の王直
13世紀~16世紀
「倭寇(わこう)」は海賊集団の総称

●倭寇は13世紀~16世紀、東シナ海から南シナ海にかけて朝鮮・中国沿岸地域で掠奪を働いた海賊集団の総称である。前期倭寇(14世紀中心)と後期倭寇(16世紀中心)とに大別される。前期倭寇は、九州やその周辺の島嶼部に住む人々を主力とし、後期倭寇は、中国沿海地域の人々と、彼らに荷担する東シナ海沿岸諸地域の人々が主力となった。

15世紀のはじめ
鄭和の大艦隊

●鄭和の大艦隊は、明への朝貢と海賊を制圧する示威活動であった。倭寇の活動はほぼ収まり、中国の明帝国は、日本の足利政権と正式な国家間貿易(勘合貿易)を認めた。
●明帝国は対外貿易を「朝貢」貿易しか認めなかった。「朝貢」とは、明の周辺国が中国の臣下として使節をおくり、貢ぎ物を献じ、明に臣下として認められることをいった。この「朝貢」使節と同行する商人団が貿易を行ったわけである。このような明との朝貢関係を持った国は、日本をはじめ40カ国以上になった。とくに15世紀永楽帝の時代の「鄭和の大艦隊」は、明への朝貢を促し、かつ海賊を制圧する示威活動であったともいえる。

16世紀
密貿易(後期倭寇)活発化

●しかし16世紀になると、明の禁制に対して、当然ながら密貿易(後期倭寇)は活発化していった。その拠点は、15世紀後半からは、中国福建省の漳州・東南の月港、16世紀になると浙江省・寧波(宁波)ニンポー沖の舟山群島の双嶼(そうしょ)になっていった。
●ここを拠点にした華人海商の王直が有名で、種子島に漂着したポルトガル人(鉄砲伝来)の船の所有者は王直といわれている。また島根県(日本)の石見(いわみ)銀山の発見と生産増大は、中国本土の銀の不足から、日本との貿易を急増させた。また勘合貿易の日本船の寄港地である寧波(宁波)では、細川氏と大内氏の暴力事件発生により、1523年以降貿易が10年に1回に制限されたため、密貿易の比重がさらに高まった。

1517年
ポルトガル、明との「朝貢」貿易希望する

●こうした情勢の中、ポルトガルは明と「朝貢」貿易を行うため、1517年正式な使節を広州に派遣した。しかし明の皇帝の死去に伴う情勢の変化や、1519年の別のポルトガル船の、武力による広州湾での要塞建築や掠奪行為が原因で、ポルトガルは明国政府と戦闘になり広州から撤退した。
●そこで私的ポルトガル人達は密貿易に従事することになり、密貿易に従事する華人と結びついていった。だから種子島に漂着したポルトガル人も、王直の船に乗って密貿易に従事して漂着したと思われる。

1552年
ポルトガル王室艦隊、マカオ(澳門)に上陸

●こうしたなか、ポルトガル王室艦隊は、明との正式な貿易を行うため、広州湾一帯のポルトガルの海賊船や密売貿易商人を服従させ、明政府に恩をうり、マカオ(澳門)に上陸し、1557年居住を認められた。
●これはポルトガルが地代を払って居住したのであって、明政府が割譲したものではなかった。植民地となってしまうのは、1887年の阿片戦争後のことである。ポルトガルも東アジアにおいては、法を遵守せざるを得なかった、といえる。


16世紀年表(この年表はマウスホールで拡大・縮小・移動ができる。)

16世紀

上矢印

世界史

Posted by hoshino