(世界史)「16世紀」(ポルトガル・スペイン大航海時代・宗教戦争)
16世紀 | 主要項目 |
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(16世紀・要旨) | スペイン・インカ・アステカ・宗教改革・オスマントルコ・ムガール帝国・明 |
スペインとポルトガルの抗争 | トルデシーリャス協定・アステカ帝国を滅ぼす・インカ帝国を滅ぼす・奴隷貿易 |
ルネサンスと宗教改革 | イタリアの5大勢力・大量の贖宥状・ルター「95カ条の論題」・イギリス国教会・トリエント公会議・ハプスブルク家 |
「太陽の沈まぬ国」スペイン | スペイン・フェリペ(フィリップ)2世・ポルトガル王位の継承・広大な海外植民地の併合・ネーデルラント独立宣言・エリザベス1世 |
ヨーロッパの宗教改革と宗教戦争(詳細) | 16世紀エラスミス・ルターから始まる宗教改革運動・プロテスタント対カトリック宗教戦争(迫害、弾圧、虐殺)・グーテンベルクの活版印刷 |
オスマントルコ・スレイマン1世 | 地中海世界のほぼ3/4を支配・「パスク・オトマニカ」・サファビー朝ペルシャ・アッバス1世・首都イスファハン(世界の半分) |
インド・ムガル帝国 | 第3代アクバル帝・イスラム・ヒンドゥ-両教徒の融和政策・タージ・マハル・ |
明とシナ海世界、海賊・倭寇・琉球 | 航海技術造船技術の発達・鄭和の艦隊派遣・琉球中山王国による統一・万国の津梁 |
16世紀、ポルトガルのインド洋海域進出 | ヴァスコ・ダ・ガマ「インド航路」からの歴史・ヴァスコ・ダ・ガマの航海。(第1回と第2回) |
ポルトガル進出前の東アジア海域とその後 | 倭寇(わこう)・後期倭寇、中国沿海地域の人々と東シナ海沿岸諸地域の人々・華人海商の王直 |
●綿引弘「世界の歴史がわかる本」全三巻三笠書房2000年刊、綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」三笠書房2008年刊、「クロニック世界全史」講談社1994年刊、「丸善エンサイクロペディア大百科」丸善1995年刊から要約・引用した。
また「東インド会社とアジアの海」・興亡の世界史第15巻、羽田正著 講談社2007年刊、「世界の歴史第8回」中央公論社1961年刊より要約・抜粋した。
また吉川弘文館「世界史年表」も参考にした。関連する写真、著作からも引用した。また、13世紀~16世紀は、地域別簡易歴史年表を作成し、別枠で追加した。
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イタリアの5大勢力・大量の贖宥状・ルター「95カ条の論題」・イギリス国教会・トリエント公会議・ハプスブルク家 | |
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イタリア5大勢力が対立・抗争 ●イタリアでは、ローマ教皇・ナポリ・ヴェネチア・ミラノ・フィレンツェの5大勢力が対立・抗争を繰り返していた。しかしこの勢力は均衡していたことで、イタリアは荒廃せずにいられたとも言える。 | |
1494年 | シャルル8世イタリア遠征 ●(フランス)シャルル8世は、イタリアに大規模な遠征軍を送り、ミラノ・フィレンツェ・ナポリを占領した。この危機にフィレンツェの市民は、無気力なメディチ家を追放し、ドミニク派の聖職者のサボナローラを指導者としたが、彼の「神権政治」を嫌った市民は、1498年、彼を火刑に処した。 |
16世紀 | イタリア戦争(4回) ●フランスと神聖ローマ帝国は、イタリアの覇権をめぐり、4回にわたりイタリア戦争(1521年~1544年)を起こし、イタリアは荒廃していった。さらにポルトガルのインド航路の開拓により、イタリア諸都市は没落し、イタリア・ルネサンスは衰退していった。 (重要語) 「3大発明(火薬・羅針盤・活版印刷術)」「ポーランド・コペルニクス(地動説)」「トスカネリ(地球球体説)」「フランフォル・メルカトル(世界地図)」「イタリア・ジョルダーノ=ブルーノ(地動説)」「イタリア・ガリレオ=ガリレイ(望遠鏡、地動説)」「ドイツ・ケプラー(惑星の運動法則)後のニュートンの天文学に大きな影響を与えた」「ユリウス歴からグレゴリオ歴へ改訂制定。(日本が採用したのは1872年)」 ●特に火薬は、鉄砲、大砲を生み出し、戦争・戦術を変えた。ルネサンスの火器を代表するものは鉄砲よりも大砲だった。野戦においても威力を発揮し、はじめて兵科としての砲兵が確立した。1588年のイギリスの、スペイン無敵艦隊(フェリペ2世)に対する勝利も、砲数の優勢がものをいったといわれる。 ●日本では鉄砲は織田信長にみられるように、おおいに普及したが大砲は普及しなかった。徳川家康の大坂城攻撃の際(1615年大坂夏の陣)の使用が有名。この普及しなかった理由は輸送上の困難さによるものかもしれない。 | ●ここで、有名なマキャベリの「君主論」の最初を引用してみる。この時代の雰囲気がわかる。旧漢字は新漢字になるべく直した。 |
ルネサンス、西ヨーロッパ各国に広がる ●イタリアに始まったルネサンスは、やがてアルプスを越えて西ヨーロッパ各国に広がった。ルネサンスは、人間性の回復、合理的なものの考え方を広め、各国に近代的国民文化を発展させた。この動きは、教会・聖職者(腐敗、堕落した)のあり方に対しても起こった。 (重要語) ボッカチオ「デカメロン」、ネーデルラントのエラスムス「愚神礼讃」グーテンベルグ「活版印刷術」 | |
聖(サン)ピエトロ寺院、システィナの礼拝堂の改修 ●メディチ家出身のローマ教皇レオ10世は、文化を保護し壮大な聖(サン)ピエトロ寺院の改修を行った。現存するバチカンの聖ピエトロ寺院、システィナの礼拝堂は、この時大改修されたものである。 | |
1517年 | ルター「95カ条の論題(提題)」 ●ドイツ、ルターが「95カ条の論題(提題)」で抗議する。 |
●ここで「世界の歴史」中央公論社1961年刊より、『教会の扉に貼りだされた言葉』から一部引用してみる。 | |
1524年~1525年 | ドイツ農民戦争 ●ルターの「神の前の平等」に刺激され、農民戦争が起こる。 |
1529年 | オスマン帝国ウイーン包囲 ●このイスラムによる攻撃は、西洋キリスト教世界に衝撃を与えた。またこのことは宗教改革を加速し、「プロテスタント=抗議する人々=新教」という呼称が生まれた。 |
1534年 | イギリス国教会。ヘンリー8世教皇と絶縁 ●ヘンリー8世は、教皇から「信仰擁護者」と賞賛されるほどのカトリック教徒だったが、自身の離婚問題(アン=ブーリン)で教皇と対立して、破門された。これに対し、ヘンリー8世は「首長令」(1534年)を発布し、教皇と絶縁し、全国の修道院を解散し土地・財産を没収し、王室財政を強化した。国教会の教義や儀式の内容は、カトリックと大差はなかった。 |
1534年 | イグナティウス・デ・ロヨラ、イエズス会を創立 ●(パリ)イグナティウス・デ・ロヨラは清貧・貞潔を誓願し、イエズス会を創立した(ジェスイット教団・ヤソ会)。1540年、教皇パウルス3世は、この教団を正式に認可した。この教団は、教皇の命令を絶対とする軍隊的規律を持ち、スペイン、ポルトガルの植民活動と結びつき、世界各地に発展し活動していった。(フランシスコ=ザビエル・日本、マテオ=リッチ・中国など) |
●広辞苑では、「中欧を中心とする広大な地域に君臨した家門。ヨーロッパで最も由緒ある家柄のひとつ。1438年~1806年の神聖ローマ帝国はすべてこの家門から出た。・・・」とある。16世紀までのハプスブルク家の歴史を、下段で簡単に書き出してみる。
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(写真左)「ウイーン、”ハプスブルク家の象徴”といわれる聖カール教会」1713年カール6世。
(出典:『世界の旅11ドイツ・オーストリア』河出書房新社1969年刊)
(写真右)「ウイーン、ハプスブルク家シェーンブルン(美しい泉)離宮」最盛期を築いたマリア=テレジア時代(18世紀)に完成。19世紀ウイーン会議(会議は踊る、ナポレオン戦争後)で名高い舞台となった。(出典:同上)
年 | 内容 |
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976年 | ●オーストリアは、神聖ローマ帝国皇帝オットー2世が、バーベンベルク家を辺境伯に任命し、歴史が始まった。 |
1246年 | ●バーベンベルク家が断絶すると、オーストリアは近隣諸邦の争奪の場となり混乱した。 |
1273年 | ●ルドルフ1世が神聖ローマ皇帝(ドイツ国王)となり、この地を領有しハプスブルク家の支配が始まり、ウイーンに居城がおかれた。 |
1438年 | ●ハプスブルク家が神聖ローマ皇帝位を世襲するようになり、15世紀末のマキシミリアン1世は、婚姻による家門拡大をはかり、息子(フェリペ1世)をスペインの王女(フェルナンデ・アラゴン王とイサベル・カスティリャ女王との娘)と結婚させた。 ●スペインでは、1469年カスティリャ王女・イサベルとアラゴン王・フェルナンドが結婚し、1479年に女王と国王になったので、両国は統一され、1492年にグラナダ(イスラム教国)を陥落させたことにより、スペインの統一を実現した。 |
1516年 | ●この子供(マキシミリアン1世の孫)のカールは、スペイン王・カルロス1世となり、3年後には神聖ローマ帝国のカール5世となり両国を支配した。 |
1556年 | ●フェリペ2世(カルロス1世の子)がスペインを継ぎ、カルロス1世の弟・フェルディナント1世が、神聖ローマ帝国とオーストリアを継いだ。こうしてハプスブルク家は、スペインとドイツに君臨する、ヨーロッパ最強の家門となっていった。 |
スペイン・フェリペ(フィリップ)2世・ポルトガル王位の継承・広大な海外植民地の併合・ネーデルラント独立宣言・エリザベス1世 | |
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「太陽の沈まぬ国」スペイン スペイン・フェリペ(フィリップ)2世は、父カルロス1世の政策を発展させ、教皇を支援し反宗教改革の指導者となり、カトリックを背景とした世界帝国を樹立しようとした。イギリス女王メアリ1世の夫君でもあったので、イギリスにカトリックを復活させようとしたり、地中海の制海権をもっていたオスマントルコの海軍を、レパント沖海戦(1571年)で破り進出をおさえた。また1580年、ポルトガルの王位を継承し、広大な海外植民地を併合し、アメリカ大陸とアジアの貿易の双方をほとんど独占し、「太陽の沈まぬ国」と呼ばれた。 | |
サン・フェリーペ号航海士失言事件 ●ここでまた、同時代日本の秀吉、キリシタンの対応から、「サン・フェリーペ号航海士失言事件」を、山本七平「日本人とは何か」から一部分引用してみる。スペイン人と宣教師の目的を、航海士が正直に答えた、とある。 | |
1581年 | ネーデルラント独立宣言 ●(オランダ)ネーデルラントは中世末期より、毛織物工業の発達と中継貿易の拠点として繁栄してきた。15世紀末よりハプスブルク家の領有となり、フェリペ(フィリップ)2世の時スペイン領となり、スペイン国税の2/5はネーデルラントから得ていた。フェリペ2世は教皇を支援し反宗教改革の指導者であったので、ネーデルラント(カルビン主義・プロテスタントだった)を弾圧した。1567年のスペイン総督(アルバ公)は血の弾圧を行い、プロテスタントを迫害した。1568年、アルバ公はネーデルラントの大貴族エグモント伯を処刑した。これにより国民的な抵抗運動(独立運動)が起こった。 (重要語) 「ゲーテ・戯曲エグモント伯」「ベートーベン・エグモント序曲」「ゴイセン」「ベルギー」 |
1579年 | ユトレヒト同盟 ●ホラント州など北部7州は、ユトレヒト同盟を結び、1581年ネーデルラント連邦共和国の独立を宣言した。その中心がホラント州だったので、日本ではオランダとよんでいる。独立後オランダはアジアのポルトガルの貿易拠点を奪い、広州を窓口として中国との貿易を独占し、日本とも貿易を開いた。そして1602年オランダ東インド会社、1622年西インド会社が設立されて、「17世紀はオランダの世紀」とよばれ、アムステルダムは世界の商業・金融の中心として繁栄した。 |
エリザベス1世(イギリス・在位1558年~1603年) ●ヘンリー8世(1509年~1547年)と愛人アン・ブーリンはひそかに結婚し、女児エリザベスを生んだ。ヘンリー8世はアン・ブーリンに汚名を着せ処刑し、新たにジェーン・シーモアは男児エドワード6世(1547年~1553年)を生んだ。 (重要語) 「毛織物貿易を積極的に保護・奨励」「スペイン船の略奪=私拿捕船=海賊を保護」「ドレ-ク・海賊行為・世界周航を達成」「ホーキンズ・アフリカ黒人奴隷売買」「オランダ独立を支援」「イギリス国教会を確立」「スコットランド、メアリ=スチュアート処刑」「1588年、スペイン無敵艦隊撃破」「1600年、東インド会社設立」「シェークスピア」 | |
「エリザベス・ゴールデン・エイジ」シェカール・カプール監督。2007年製作。
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●笠信太郎全集4「智恵の構造」から、「智恵の構造・過去-歴史的体験」(知識と知恵は違うという内容)より、宗教戦争の時代のエリザベス1世の部分を一部引用してみる。 | |
●ここで16世紀のフランドルの画家ブリューゲルとスペイン、エル・グレコの絵をのせる。フランドル地方の農民の生活と、スペイン、カトリックの重厚でインパクトのある宗教画。 |
ここで16世紀エラスミス、ルターから始まる宗教改革運動、プロテスタント対カトリック、宗教戦争(迫害、弾圧、虐殺)などの関連事件を年代順に書き出してみる。グーテンベルクの活版印刷も宗教改革運動に力を与えた。
●この内乱に等しい宗教戦争がヨーロッパ大陸の諸国に与えた影響は計り知れない。そして17世紀になると、宗教戦争は継承戦争、国家間の国際戦争へと変貌していく。
年代 | 内容 |
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1509年イギリス | エラスミス(オランダ人文主義者) ●エラスミスは友人のトマス・モアの別荘にて「痴愚神礼讃(ちぐしんらいさん)=愚神礼讃」を著す。1511年パリで出版され、1522年までに2万部を売り上げたといわれ、宗教改革の気運を大いにい盛り上げた。 |
1517年ドイツ | ルター ●ルターは、ローマ教皇による免罪符(贖宥状)販売に対する疑義から教会改革を説く。免罪符は、新徒がこれを購入すると「罪が許される」というもので、身分、収入で値段が変わり、「金が箱の中でチャリンと鳴れば天国へ行ける」といって販売されたという。その販売の背景として、資金調達(大聖堂建築など)、賄賂(大司教就任の為など)、献金(教皇庁への)などがあり、金銭的な利益獲得が目的だった。 |
1521年ドイツ | カール5世神聖ローマ皇帝 ●カール5世は、マルティン・ルターに対していっさいの権利を剥奪する帝国追放令を科した。そして彼の著作の購買・頒布を全面的に禁止した。ルターはローマ教皇および宗教会議の権威を否定し、教皇と絶縁をしていた。カール5世は、宗教的対立が帝国内で政治的に波及することを恐れていた。 |
1525年ドイツ | 「農民戦争」勃発 ●「平等な神の国の建設」を目指した農民戦争が勃発した。当初農民軍は優勢であったが、略奪、破壊を繰り返す暴徒と化していった。ルターは最初は同調的であったが、「殺人強盗団」と決めつけ非難するようになった。指導者トマス・ミュンツァーは捕えられ斬首され、農民軍は約10万人の戦死者を出して終結した。 |
1527年ローマ | 神聖ローマ帝国軍(ドイツ人傭兵中心)ローマに侵入 ●神聖ローマ帝国軍が暴徒化してローマに侵入し、全市で略奪、破壊、暴行、殺人を重ねた。これはローマ教会に対する復讐心があったためだと考えられる(農民戦争時の遺恨)。これにより文化財は破壊し尽くされ、ルネサンスの一大中心地としてのローマの時代は終わりをつげた。 |
1529年ドイツ | プロテスタントの誕生 ●ザクセン選帝侯ら(ルター擁護派)は、帝国議会でのルータ派禁圧のヴォルムス勅令実施採択に反対して、抗議書を提出した。この事によりルター派を「抗議する者(プロテスタント)」と呼ぶようになった。 |
1531年ドイツ | 「シュマルカルデン同盟」を結成 ●プロテスタント諸侯らがカトリック対抗のため「シュマルカルデン同盟」を結成した。この同盟はフランスをはじめ、国外の改革派と連携していく。 |
1534年フランス | イエズス会創立 ●イグナティウス・デ・ロヨラとパリ大学の同士6人(ザビエル、ファーブルら)がイエズス会(=ジェズイット教団・耶蘇会《やそかい》)を創立した。「キリストのための戦士」として、清貧、貞潔、聖地巡礼の誓願をたてた。 |
1534年フランス | プロテスタント迫害 ●国王フランソワ1世は、カトリックのミサを批判する「プラカード事件」をきっかけに、プロテスタント迫害をはじめる。国王は神聖ローマ帝国への対抗上、プロテスタントには寛容的だった。プロテスタントは、人文主義者、印刷業の親方(知識人)や商人層にまで浸透し始めていた。 |
1536年スイス | ジャン・カルヴァン(カルビン) ●カルヴァンは「キリスト教綱要」を著し、フランス・プロテスタントの理論的指導者となる。(カルヴァン派) |
1537年デンマーク | ●デンマークはカトリック教会の財産を没収し、「シュマルカルデン同盟」に加入し、1542年にはカール5世(神聖ローマ帝国・スペイン)に宣戦布告した。 |
1541年バチカン | 教皇パウルス3世 ●教皇パウルス3世は「イエズス会」設立を認可する。これまでの修道会とは異なり、修道院から出て世俗社会に活動の場を求め、厳しい規律をもって軍隊風の強力な組織を作っていった。イエズス会は積極的な伝道・教育活動により、非キリスト教国に急速に進出していく。とりわけ学校教育、学問研究に組織的に取り組み、宗教改革に対するカトリック教会の先兵としての役割を果たしていく。 |
1541年スイス | ジャン・カルヴァン ●カルヴァンはジュネーヴの改革を依頼され、同市を厳格な規律のもと宗教改革を遂行した。そして、異端審問法廷である長老制を導入し、政治と宗教が一体化した厳格な規律の神権政治を行った。この禁欲的なカルヴァン主義はスコットランドでは長老派、イギリスでは清教徒(ピューリタン)、フランスではユグノーとして新たな運動を展開していく。 |
1542年バチカン | プロテスタントの迫害 ●ローマ教皇パウルス3世は検邪聖省を設置し、プロテスタントの迫害を行う。15世紀のスペイン異端審問制度にならって、宗教裁判所を再組織し、イタリアからプロテスタントの影響力を一掃する。 |
1545年イタリア | トリエント公会議開催 ●ローマ教皇パウルス3世、トリエント公会議開催を呼びかける。この公会議は、3期にわたり1563年まで続き、カトリックの教義を固め、プロテスタントへの基本的な姿勢を確認するなど、重要な会議となった。 「トリエント公会議」 |
1555年ドイツ | アウスブルク宗教和議締結 ●フェルディナント(神聖ローマ帝国皇帝カール5世の弟)は全権委任を受け新旧両宗派と交渉、アウスブルク宗教和議締結となる。ここに長年の宗教抗争が終結した。しかしこの和議は、反面ドイツの宗教的一体性が失われ、諸侯の領邦的支配権がいっそう強化されることになった。これは17世紀の30年戦争(1618年)の原因を内包させることとなった。 |
1556年神聖ローマ帝国 | 皇帝カール5世退位 ●皇帝カール5世は40年におよぶ支配を終え退位する。カール5世はカトリックによる帝国を目指した。神聖ローマ帝国は弟のフェルディナント、スペインは子のフェリペ2世が継承した。 |
1562年フランス | ユグノー戦争の始まり ●カトリック教徒ギーズ公フランソアはシャンパーニュ地方で、ユグノーの礼拝集会を襲い、30人を虐殺した。ユグノー戦争の始まりである。1598年まで8次に及んだ。 |
1568年オランダ | スペインに対する独立戦争 スペイン王フェリペ2世はオランダのプロテスタントを厳しく弾圧した。カトリックに対抗したネーデルラントの大貴族エグモント伯が処刑されたことにより、40年に及ぶスペインに対する独立戦争が始まった。 |
1572年フランス・パリ | サン・バルテルミの虐殺 ●カトリック教徒がユグノーの貴族らを襲い、200人以上を虐殺した。ユグノー戦争頂点に達する。虐殺は女性・子供を問わずセーヌ川は死骸で埋まったといわれる。サン・バルテルミの虐殺(セント・バーソロミューの虐殺) |
1576年神聖ローマ帝国 | ルドルフ2世、神聖ローマ帝国皇帝に即位 ●ルドルフ2世(4年前にボヘミア王、スペイン生まれ)神聖ローマ帝国皇帝に即位する。新皇帝はイエズス会の厳格なカトリック教育を受けて育ち、宗教寛容政策を停止し、プロテスタントを弾圧した。宗教紛争は激しさを増した。 |
1576年フランス | ●ボーダン(社会思想家)、「国家論」を発表。ユグノー戦争を収拾し、平和を回復させるために、絶対王政を擁護した。 |
1584年オランダ | ●オラニエ公ウイレム(独立戦争の指導者)がカトリック狂信者に暗殺される。スペイン王フェリペ2世は、彼に賞金をかけていた。 |
1585年フランス | 第8次ユグノー戦争 ●国王アンリ3世、プロテスタントのアンリ・ド・ナヴァルを自身の継承者として承認した。しかしこのことはカトリックの反発を呼び、ローマ教皇はアンリ・ド・ナヴァルを破門した。そしてギーズ公アンリ(カトリック)と討伐軍をおこし、第8次ユグノー戦争が始まった。 |
1588年イギリス | スペイン無敵艦隊の敗北 ●スペイン・フェリペ2世、イギリスに進攻し大敗する。スペイン無敵艦隊の敗北(ドーヴァー海峡)。イギリスはネーデルラントを支援し、またアメリカ・カリブ海に進出しスペインと敵対していた。スペインは、この敗戦にもかかわらず、艦隊を再建増強しその後も大西洋を支配し続けた。 |
1588年フランス・パリ | ●モンテーニュ「エセ-」を出版する。ユグノー戦争のさなか、冷めた目で宗教紛争を眺め、モラリスト文学の最高峰として随想という分野を創始した。のちにデカルト、パスカルやルソーらに影響をあたえた。 |
1589年フランス | 国王アンリ4世即位、ブルボン王朝始まる ●国王アンリ3世がドミニコ会修道士(カトリック)に刺殺される。これにより260年続いたヴァロア朝は断絶した。 |
1589年頃スペイン | ●スペインはポルトガルの併合に伴い、ポルトガルに住むユダヤ人への迫害を強めた。(1世紀前に、スペインでのユダヤ追放令によってポルトガルに移住してきた。) ●同時にスペインにいる改宗ユダヤに対しても迫害を強め、そのため多くのユダヤ人が、ネーデルラントのアムステルダムへ向かった。ユトレヒト同盟の規約には「信教の自由」がうたわれていたためである |
1590年フランス | ●アンリ4世(新国王)はイヴリーの戦いでカトリック同盟軍を破る。フランスではカトリック同盟が、アンリ4世に対抗してシャルル10世を擁立していた。 ●アンリ4世軍は、カトリック同盟軍を追って進軍しパリを包囲した。しかし、パリの抵抗は強く、支援のスペイン軍(カトリック)がパリに入城すると、アンリ4世軍はパリ包囲網を解いた。 |
1593年フランス | ●アンリ4世(プロテスタント)はカトリックに改宗(3度の改宗)する。アンリ4世は、パリ奪回と国家統一のため改宗を決意し、1594年にシャルトル大聖堂で正式にフランス国王として戴冠した。 |
1598年フランス | 「ナントの王令」ユグノー戦争が終結 ●アンリ4世「ナントの王令」を発布する。ここに「信教の自由」が承認され、36年にわたったユグノー戦争が終結した。この王令は両派による裁判所の開設や、プロテスタントを官職につけるなどを認め、永続的に廃止されないとしたが、1685年に廃止された。しかしこれによりスペインとの戦争も終結し、フランスに平和が久しぶりに戻った。 |
1600年ローマ | ●ジョルダーノ・ブルーノ(哲学者)が異端審問の結果、火刑に処される。8年間の獄中での尋問と拷問をうけた。コペルニクスの地動説を支持し宇宙無限論を主張し、異端とされた。 |
1605年イギリス・ロンドン | ●ガイ・フォークス(軍人旧教徒)が国王と議会の爆破をねらう。 ●1603年にイギリス国王として、エリザベス1世の後を継いだジェームズ1世(スコットランド王)は、宗教の寛容策はとらず、イギリス国教会政策を強行したため、失望した旧教徒らが未遂事件を起こした。 ●ジェームズ1世は、エリザベス1世が処刑したスコットランド女王メアリー・スチュアートの遺児で、ここにチューダー朝が終わり、スチュアートが始まった。 |
1609年オランダ | ●スペイン王フェリペ3世はネーデルラント北部7州と休戦条約を結ぶ。1568年の独立戦争開始以来の休戦となった。これはスペインの国家財政の破産状態が原因だった。しかし1621年に戦争は再開された。オランダの独立が承認されるのは1648年ウエストファリア条約のときになる。 |
1610年フランス・パリ | ●国王アンリ4世が狂信的なカトリック修道士に暗殺される。プロテスタントに対する融和策に不満を抱く。 |
1611年イギリス | ●国王ジェームズ1世が(清教徒の誓願による)英訳聖書の決定版を完成させた。(作成を命じたのは1604年)これは50名の学者・宗教家による翻訳作業によるもので、イギリスにとって、シェークスピアと並んで文学的遺産となり、近代英語の形成に大きな影響をあたえた。 |
1618年チェコ(ボヘミア) | 「30年戦争」 ●プロテスタントが、ハプスブルク家である国王フェルディナントに対する抗議行動をプラハの王宮で起こした。ボヘミアでは「信教の自由」が国王により破棄されたことにより、プロテスタント貴族がこの事件を起こした。この抗議行動は武装反乱となり、1619年のフェルディナント2世の神聖ローマ帝国の即位後にはさらに拡大していった。この戦争は「反ハプスブルク家」「反カトリック」闘争となり、ヨーロッパ諸国をまきこむ「30年戦争」となっていった。 |
●「書籍印刷なくして宗教改革なし」といわれる。グーテンベルク(15世紀)は合金による金属活字を、旧来の手写本にひけをとらない299個の文字と記号を鋳造し、1282ページの聖書印刷を開始し、新しいコミュニケーション技術の新時代を開いたとあります。この印刷技術の果たした役割は大きく、ルターの思想は印刷されたパンフレット・書籍によって伝播していき、ルターが翻訳したドイツ語聖書は、近代ドイツ語を生み出すもとになったと言われています。そしてこの印刷技術は大航海時代にのって世界各地に広がって行きました。日本には、イエズス会ヴァリニャーノ(天正遣欧使節帰国に伴って来日)によって印刷機がもたらされ、布教活動に力を発揮し、その印刷物は現代にまで残されている。
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(左絵)「書写する修道士」12世紀まで、聖書や神学書の書写はおもに修道院の写本室で行われていた。・・・
(出典:『クロニック世界全史』講談社1994年刊より)
(右写真)グーテンベルクによって印刷された「42行聖書」の創世記のページ。赤と黒のテキストの文字と彩色されたイラストレーションが描かれている。聖書の普及が宗教改革の一つの前提であった。
(出典:『クロニック世界全史』講談社1994年刊より)
航海技術造船技術の発達・鄭和の艦隊派遣・琉球中山王国による統一・万国の津梁 | |||||
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東・南シナ海世界 ●明の王朝成立からの外患は「北虜南倭」(モンゴル諸国、倭寇)だった。多くの中国人は、宋元時代(12世紀~13世紀)以降、羅針盤を使用した航海技術や造船技術の発達により、日本や南海諸国に渡航していた。彼らは商業活動に従事する一方、海賊行為も行っていた。明代の前半、華僑の海賊の頭目は、スマトラのパレンバン、ボルネオ、ルソンなどにいて、鄭和の艦隊派遣の目的のひとつは、彼ら中国人海賊の鎮圧と、国家による南海諸国との通商だった。かれら中国、日本や琉球の勢力は、国家に縛られない自由人として互いに結び、シナ海(東・南)で活動を続けた。 (重要語) 「三国志通俗演義」「水滸伝」「西遊記」「金瓶梅」「紅楼夢」新大陸「とうもろこし・とうがらし・じゃがいも」 | |||||
琉球王国
「琉球国は南海の勝地にして、三韓(朝鮮)の秀を鍾(あつ)め、大明(中国)を以て輔車(ほしゃ)となし日域(日本)を以て脣歯(しんし)となす。この二中間にありて涌出するの蓬莱島なり。舟楫(しゆうしゆう=船のこと)を以て万国の津梁(しんりょう=架け橋)となし、遺産至宝は十方刹に充満せり・・」 とあり、琉球王国と日本、明との関係をはじめとして対外に目をむけた琉球の意識がよく理解できる。(ふりがな等は「世界の歴史がわかる本」より)
左(絵129)「進貢船の図」19世紀 紙本著色 沖縄県立博物館。
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ヴァスコ・ダ・ガマ「インド航路」からの歴史・ヴァスコ・ダ・ガマの航海。(第1回と第2回)
●ポルトガルの東洋進出は、1498年のヴァスコ・ダ・ガマのインド・カリカット到着から始まる。
1498年 | ●ヴァスコ・ダ・ガマが「インド航路=アフリカ喜望峰まわり」によって、インド・カリカットに到着。(インドは、西欧・アラブ・アフリカ世界と東アジア・東南アジア世界を結ぶ重要な中継センターだった。沿岸部にはゴア、カリカットなど多くの湾岸都市が栄えていた。カリカットは、キリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒などが住む、多種多様な国際交易拠点だった。) |
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1505年 | ●初代ポルトガル・インド総督は、コーチンなどに要塞を築く。 |
1508年 | ●第2代インド総督は、インドへむかう途上、ホルムズ島(ペルシャ湾入口)を占領する。 |
1510年 | ●ポルトガル、インド洋貿易支配のためゴアを占領する。 |
1511年 | ●ポルトガル、マレー半島のマラッカを占領する。(マラッカ海峡は、「モンスーンが始まり、終わるところ」といわれ、春と秋に季節風が規則正しく入れ替わり、帆船時代の重要な交易ルートだった。15世紀初め、ここにシュリービジャヤの一王族がマラッカ王国を建て、東南アジア、中国、インド間の三角貿易の中心となり商業港として大いに栄えた。またイスラム教を受け入れたので、この王国を拠点にイスラム教が東南アジアに広まった。) |
1512年 | ●ポルトガル、マルク諸島(=香料諸島・モルッカ諸島)に到達する。(マルク諸島は、3大香料といわれる、胡椒(=こしょう・ペッパー)、丁子(=ちょうじ・クローブ)、肉荳蔲(=にくずく・ナツメグ)の後者2つを同時に産する世界にひとつの場所だった。香料は調味料、薬品として大きな需要があり、その利益も莫大だった。マゼラン艦隊が持ち帰った丁子は、原産地価格の2500倍になった。ポルトガルとスペインはこのマルク諸島をめぐり抗争を続けたが、1536年ポルトガルが支配権を確立した。) |
1517年 | ●ポルトガル、船隊(8隻)を率いて中国広州に上陸。 |
1522年 | ●明、ポルトガルを略奪行為のため、広州から追放する。 |
1536年 | ●ポルトガル、マルク諸島の支配権確立。スペイン、フィリピン諸島へむかう。(1521年マゼランの世界周航でフィリピンに権利を持つ。) |
1542年 | ●ポルトガル国王の要請でスペイン人ザビエル(イエズス会)、インド・ゴアで布教する。 |
1543年 | ●九州種子島に、ポルトガル人を乗せた中国船漂着(鉄砲伝来)。 |
1547年 | ●ザビエル、マラッカでアンジロー(日本人最初のキリスト教信者となる)と会い、日本布教を決意。 |
1549年 | ●ザビエル、アンジローの案内で鹿児島に上陸。 |
1557年 | ●ポルトガル、中国澳門(マカオ)で、居住権を得る。(1522年以降ポルトガルは、中国人の海賊や倭寇と結んで、浙江省沖の舟山群島などを拠点に、中国商人と密貿易を行っていて、1553年頃よりマカオに住み始めていた。) |
●全体を俯瞰するために上「グーグルマイマッププラス(世界地図)」に、インド洋海域のポルトガル関係地点をプロットして地図を作成した。これらの地点は、「ポルトガルの主な商館・要塞所在地(一時的支配を含む)1520年頃」から抜き出した。また、参考として、ヴァスコ・ダ・ガマの航海寄港地を次のように色分けした。
●1回目航海=青色、2回目航海=赤色で色分けしてマークした。黄色は、その他の商館・要塞の所在地で、青色・赤色もすべて商館・要塞の所在地である(黄色と同等)
●このガマの航海の成功と帰還は、ポルトガルのみならずイタリア諸都市(東方貿易を独占していた)に衝撃を与えた。2隻の香辛料・宝石などの売却益は、2年間の航海の総費用を差し引いても充分な利益をあげた。
●ガマ自身も、その利益と褒賞で、ポルトガルの大富豪となったほどであった。
1498/3月 | ②モザンビーク島(モザンビーク)到達 ●ヴァスコ・ダ・ガマは1497年7月リスボンを出港し(旗艦サン・ガブリエル号100トン)、11月に喜望峰を越えた。モザンビークには3隻で到達し、その乗組員数は148人~170人だった。 |
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1498/4月 | ④モンバサ(ケニア)⑤マリンディ(ケニア)を出港 ●モンバサについでマリンディに立ち寄ったガマは、キリスト教徒とその王国についての情報を熱心に求めた。またアラブ人ムスリム(イスラム教徒)に対して、不必要なまでに敵意を示した。船を襲い、その積み荷を強奪もした。マリンディで、インドからのキリスト教徒の商船と出会い、インドの航路やインドの港町の情報を得た。そして案内人を雇い1498/4月インドへ出港した。 |
1498/5月 | ⑪カリカット(インド)到着 ●ガマはカリカット到着1週間後に、ポルトガル王の使節として、カリカットの王(ザモリン)に謁見した。ガマは王に、「ポルトガル王は強大で裕福なこと。」「キリスト教徒の王を探すために派遣されたこと。」などを力説した。 |
1498/8月出港 | ⑪カリカット出港 ●ガマは出港はしたが、東アフリカへ向かう北東風はまだ吹いておらず、西インド洋を越えるのに3ヶ月を要した。その間、壊血病で30人もの乗組員が死亡し、3隻のポルトガル船は惨憺たる状態におちいった。 |
1499/1月 | ⑤マリンディ(ケニア)到着 ●ガマは、ようやくマリンディに着いたが、簡単な補給をすませ、すぐに出港した。しかし乗組員不足のため、モンバサ近くで1隻を焼却処分し、2隻で帰途についた。1499/3月に喜望峰を越え、7月と8月にようやく2隻がリスボンに帰着した。しかしヴァスコ・ダ・ガマ本人は、病死した兄をアゾレス諸島に埋葬してから別船で帰還した。帰港まで2年を越える年月がかかった。 |
●ガマの成功の結果、ポルトガル王は直ちに13隻の新しい船隊を組織した。特にガマから得た情報で、インド洋には砲を備えた強力な艦隊が無いことと、沿岸地域には銃が普及していないことが重要だった。そこでこの艦隊の艤装(船の出発準備一切)では、銃砲の準備にもぬかりなかった。
●この13隻の船隊(カブラル)は、1500年3月にリスボンを出港して、1年4ヶ月の短期間でインドを往復し、帰路にはブラジルを発見するという功績をあげたが、失敗と酷評された。その理由は、次のようであった。
2.商品量が不十分で、航海全体の費用を回収できなかったこと。
3.カリカットで武力紛争を起こし、54人のポルトガル人を失ったこと。
4.町を砲撃し現地に商館を置くことに失敗したこと。
●この失敗の結果ポルトガル王は、インドへの航海で利益を上げることの困難さを知り、さらに新たな派遣を躊躇した。そこで再びヴァスコ・ダ・ガマは、私財でもって航海を行うことを申し出て、王の許可を得たのである。
●ガマの艦隊は20隻からなる大艦隊で、1502/2月リスボンを出港した。ガマは武力でインド洋を制圧することにより、大きな利益をあげることが出来ると確信していた。
1502/7月 | ③キルワ(タンザニア)到達 ●ヴァスコ・ダ・ガマ提督艦隊(20隻)は、当時随一の繁栄を誇ったキルワ沖合に到達。大砲を一斉に放ち武力による示威行為を行った。ガマ提督は、キルワの王に武力で貢ぎ物(毎年のポルトガル王へのお金)を強要し、和平と友好関係を結んだ。 |
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1502/9月 | ⑩カンナノール(インド西海岸)沖合に停泊 ●ガマの船隊は、航海方面からカリカットへ向かう船を待ち伏せし、略奪と殺人を行った。なかにはメッカからの巡礼(イスラム教徒の婦女子・子供含む240人~380人)の帰りの船を襲い、ポルトガル王室の年間収入の1/10もの財宝を略奪したあと、船を燃やし殺害したという。ガマやポルトガル人にとってイスラム教徒は異教徒であり、殺人という意識はなかったと思われる。 |
1503/3月 | ⑪カリカット⑫コーチン(カリカットの南方)から帰路につく ●ガマは、カリカットでは王と賠償交渉(カブラルの損害)するが、突然2日間で400発の砲撃を加え、周辺建物を破壊し、カリカット港を5隻の船で封鎖した。インド側もガマの船隊に、大船34隻を含む大小の船で反撃したが、ポルトガル船の大砲の威力に負けてしまう。 |
●こうしてポルトガルは、1515年頃までにインド洋の主要な港町を攻撃し支配していった。特に征服者として名高い第2代副王、アフォンソ・デ・アルブケルケの時代にポルトガル海上帝国の基礎が築かれた。
●この組織の内容を引用すると、以下になる。
●当初インド洋西海域に集中していたポルトガルは、東南アジア方面から来る、高級香辛料、香木類(沈香・白檀など)、中国産絹織物・陶磁器などの国際的な商取引の中心地が、マレー半島のマラッカであることを知った。マラッカでは、アジア全域から多くの商人が集まり、港では84の言語が話されていたという。1511年副王アルブケルケは、船隊で砲撃を加え激しい戦いの末、この一大貿易センターを征服した。そしてマラッカを基地として、東南インドのプリカット、ベンガルのチッタゴン(バングラデシュ)、ビルマのペグなどに順次拠点を築いていった。そしてさらに東の高級香辛料の産地である、マルク諸島(モルッカ・香料諸島)やバンダ諸島へと向かい、南シナ海を北上し中国沿岸、琉球諸島、朝鮮半島そして日本に到達したのだった。
倭寇(わこう)・後期倭寇、中国沿海地域の人々と東シナ海沿岸諸地域の人々・華人海商の王直 | |
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13世紀~16世紀 | 「倭寇(わこう)」は海賊集団の総称 ●倭寇は13世紀~16世紀、東シナ海から南シナ海にかけて朝鮮・中国沿岸地域で掠奪を働いた海賊集団の総称である。前期倭寇(14世紀中心)と後期倭寇(16世紀中心)とに大別される。前期倭寇は、九州やその周辺の島嶼部に住む人々を主力とし、後期倭寇は、中国沿海地域の人々と、彼らに荷担する東シナ海沿岸諸地域の人々が主力となった。 |
15世紀のはじめ | 鄭和の大艦隊 ●鄭和の大艦隊は、明への朝貢と海賊を制圧する示威活動であった。倭寇の活動はほぼ収まり、中国の明帝国は、日本の足利政権と正式な国家間貿易(勘合貿易)を認めた。 |
16世紀 | 密貿易(後期倭寇)活発化 ●しかし16世紀になると、明の禁制に対して、当然ながら密貿易(後期倭寇)は活発化していった。その拠点は、15世紀後半からは、中国福建省の漳州・東南の月港、16世紀になると浙江省・寧波(宁波)ニンポー沖の舟山群島の双嶼(そうしょ)になっていった。 |
1517年 | ポルトガル、明との「朝貢」貿易希望する ●こうした情勢の中、ポルトガルは明と「朝貢」貿易を行うため、1517年正式な使節を広州に派遣した。しかし明の皇帝の死去に伴う情勢の変化や、1519年の別のポルトガル船の、武力による広州湾での要塞建築や掠奪行為が原因で、ポルトガルは明国政府と戦闘になり広州から撤退した。 |
1552年 | ポルトガル王室艦隊、マカオ(澳門)に上陸 ●こうしたなか、ポルトガル王室艦隊は、明との正式な貿易を行うため、広州湾一帯のポルトガルの海賊船や密売貿易商人を服従させ、明政府に恩をうり、マカオ(澳門)に上陸し、1557年居住を認められた。 |
16世紀年表