(世界史)「16世紀」(ポルトガル・スペイン大航海時代・宗教戦争)
2023年4月16日世界史
●この世紀に展開された大航海により、アステカ・インカ帝国がスペインに滅ぼされ、新大陸はヨーロッパ勢力の支配下に組み込まれるかたちで、世界の一体化が実現した。
●ヨーロッパではルネサンスと宗教改革が進展し、中世から近世への幕開けとなった。
●オスマン・トルコ、サファービー朝ペルシャ帝国、ムガル帝国のイスラム勢力と東アジアの明帝国は健在で、最後の繁栄を謳歌していた。
*綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」
16世紀日本では織田信長と秀吉により戦国時代が終わっていく。世界では、ポルトガル・スペインの大航海時代となり、日本にまで尖兵でもあったキリスト教の宣教師がやってくるようになった。
徳川家康は、スペインの侵略を危惧した意見に対して、「侵略したければ来ればよいではないか」と言ったという。戦国時代の武将にとってはスペインでも脅威は感じなかったのであろう。だがヨーロッパでは、血なまぐさい宗教戦争(カトリック対プロテスタント)が始まる。
ここでは、綿引弘「世界の歴史がわかる本」全三巻三笠書房2000年刊、綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」三笠書房2008年刊、「クロニック世界全史」講談社1994年刊、「丸善エンサイクロペディア大百科」丸善1995年刊から要約・引用した。また「東インド会社とアジアの海」・興亡の世界史第15巻、羽田正著 講談社2007年刊、「世界の歴史第8回」中央公論社1961年刊より要約・抜粋した。また吉川弘文館「世界史年表」も参考にした。関連する写真、著作からも引用した。また、13世紀~16世紀は、地域別簡易歴史年表を作成し、別枠で追加した。
スペインとポルトガルは、トルデシーリャス協定とサラゴサ条約を結び、世界を2分する。スペインは、中南米のアステカ帝国と南米インカ帝国を滅ぼした。そして滅ぼした多くの地域で原住民を奴隷状態に置き搾取した。そしてこの労働力不足を補うために行われたのが、アフリカ黒人の拉致、奴隷売買だったのである。
イタリアに始まったルネサンスは、西ヨーロッパ各国に広がった。ルネサンスは、人間性の回復、合理的なものの考え方を広め、各国に近代的国民文化を発展させた。そしてこの動きは、教会・聖職者(腐敗、堕落した)のあり方に対しても起こった。ルターによる抗議「95カ条の論題(提題)」である。これが宗教改革の始まりとなった。こうしてカトリックに対する「プロテスタント=抗議する人々=新教」という呼称が生まれたのである。
●広辞苑では、「中欧を中心とする広大な地域に君臨した家門。ヨーロッパで最も由緒ある家柄のひとつ。1438年~1806年の神聖ローマ帝国はすべてこの家門から出た。・・・」とある。16世紀までのハプスブルク家の歴史を、下段で簡単に書き出してみる。
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(写真左)「ウイーン、”ハプスブルク家の象徴”といわれる聖カール教会」1713年カール6世。
(出典:『世界の旅11ドイツ・オーストリア』河出書房新社1969年刊)
(写真右)「ウイーン、ハプスブルク家シェーンブルン(美しい泉)離宮」最盛期を築いたマリア=テレジア時代(18世紀)に完成。19世紀ウイーン会議(会議は踊る、ナポレオン戦争後)で名高い舞台となった。(出典:同上)
年 | 内容 |
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976年 | ●オーストリアは、神聖ローマ帝国皇帝オットー2世が、バーベンベルク家を辺境伯に任命し、歴史が始まった。 |
1246年 | ●バーベンベルク家が断絶すると、オーストリアは近隣諸邦の争奪の場となり混乱した。 |
1273年 | ●ルドルフ1世が神聖ローマ皇帝(ドイツ国王)となり、この地を領有しハプスブルク家の支配が始まり、ウイーンに居城がおかれた。 |
1438年 | ●ハプスブルク家が神聖ローマ皇帝位を世襲するようになり、15世紀末のマキシミリアン1世は、婚姻による家門拡大をはかり、息子(フェリペ1世)をスペインの王女(フェルナンデ・アラゴン王とイサベル・カスティリャ女王との娘)と結婚させた。 ●スペインでは、1469年カスティリャ王女・イサベルとアラゴン王・フェルナンドが結婚し、1479年に女王と国王になったので、両国は統一され、1492年にグラナダ(イスラム教国)を陥落させたことにより、スペインの統一を実現した。 |
1516年 | ●この子供(マキシミリアン1世の孫)のカールは、スペイン王・カルロス1世となり、3年後には神聖ローマ帝国のカール5世となり両国を支配した。 |
1556年 | ●フェリペ2世(カルロス1世の子)がスペインを継ぎ、カルロス1世の弟・フェルディナント1世が、神聖ローマ帝国とオーストリアを継いだ。こうしてハプスブルク家は、スペインとドイツに君臨する、ヨーロッパ最強の家門となっていった。 |
スペイン・フェリペ(フィリップ)2世は、父カルロス1世の政策を発展させ、教皇を支援し反宗教改革の指導者となり、カトリックを背景とした世界帝国を樹立しようとした。イギリス女王メアリ1世の夫君でもあったので、イギリスにカトリックを復活させようとしたり、地中海の制海権をもっていたオスマントルコの海軍を、レパント沖海戦(1571年)で破り進出をおさえた。また1580年、ポルトガルの王位を継承し、広大な海外植民地を併合し、アメリカ大陸とアジアの貿易の双方をほとんど独占し、「太陽の沈まぬ国」と呼ばれた。
年・月 | 16世紀 |
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サン・フェリーペ号航海士失言事件
●ここでまた、同時代日本の秀吉、キリシタンの対応から、「サン・フェリーペ号航海士失言事件」を、山本七平「日本人とは何か」から一部分引用してみる。スペイン人と宣教師の目的を、航海士が正直に答えた、とある。 ●サン・フェリーペ号航海士失言事件
日本伝道にすでに相当の経験を積んだイエズス会士は、以上の点をよく心得ていたが、新しくフィリピンから使節として来たフランシスコ会宣教師はそれを知らなかったので大胆にも公然と伝道をはじめた。これには日本側にもさまざまな記述があるが、イエズス会側、スペイン側の資料を見た方がフェアであろう。 前にも引用した『日本王国記』の著者ヒロンは日本に二十年近く滞在したスペイン商人だけに、宣教師とは違った視点があって面白い書物だが、その記述が必ずしも正しくないとしてパードレ・モレホンが註を付している。双方を合わせると、次のようになるであろう。まずモレホン。
「原田と法眼(人質として彼らを預かった長谷川宗仁)は修道士(レリヒオーソ)に、他国にいるのだから、イエズス会の人々のように、もっと慎重に行動せよと忠告した。……しかし修道士は彼らに冷淡な態度で答えたので、原田と法眼は彼らに敵意を抱いた。そこで右兵衛と称する(宗仁の)息子は、彼ら(原田と法眼)には罪がなく、修道士と親しくしていた人名表に載っている賎しい日本人の忠告を聞き、原田と法眼の忠告をきこうとしなかった修道士に罪がある、と言った」
いわば彼らは、イエズス会のような慎重さを欠いていた。ヒロンはこれを
「……(パードレたちは、使節という肩書きをおびてルソンからやって来たのに拘らず、国王(秀吉)によって明示されたあらゆる禁令に反して、しかもその王国内で、国王がさきに厳重に禁じた教えを説き、教えているのだとして、パードレらが日本の諸法令や、神と仏の教理の破壊者だとして告発される方策を何とかしてとろうというのであった。……太閤様は自国内に己が法令を破る不届者がいるということを聞き及んで大いに怒り、即刻、全パードレと、彼らをマニラから連れて来たという科で、原田喜右衛門、さらに彼らの昔の主で、太閤自ら彼を預けた法眼殿も、彼らもろともに捕らえられて殺すように命じたのである」
と述べている。二人は結局処罰されなかったが、その理由はモレホンが補っていると見てよいであろう。これがいわゆるニ十六聖人の殉教へと発展して行くわけだが、その背後にあったものが、有名な「サン・フェリーペ号航海士失言事件」である。
「右衛門尉(増田長盛)は、船の財物を押さえた後、航海図を取って航海士(ビロートランディーアに、エスパニャ人は、どういう方法で、フィリピナス(フィリピン)、モルーカス(モルッカ)、ヌエバ・エスパニャ(メキシコ)、ペルーなどを奪ったか、と訊ねた。航海士は彼に恐怖心を起こさせようと考えて、われわれは世界中と取引しようとしている。もしわれわれを厚遇すれば味方となり、虐待すれば領土を奪う、と言った。右衛門尉は、これを聞いて喜んでいった。『そのためにまず修道士(フライレ)が来なければならないだろう』。彼がそうであると答えると、右衛門尉はこの言葉を大坂の太閤様に報告した。そして彼は財物を取り上げるため、何かよい口実を、ひたすら探し求めていたので、エスパニャ人修道士の大虐殺を行なった」
増田長盛に誘導尋問の意志があったかどうかは明らかではないが、この航海士が「厚遇すれば味方になり、虐待すれば領土を奪う」と恫喝し、その国を取るためまず修道士が派遣されると言ったことは事実であろう。これはイエズス会側の記録で日本側の創作ではない。
「国王(秀吉)はエスパニャ人の船の積荷をことごとく取り上げたが、彼らが自分たちの防衛のため大砲と火縄銃とを持っていたので、ここのキリシタンを援助して日本を奪いに来たのに違いないといった。極めて小人数で絹を積んできたのであるから、いかに根も葉もないことかわかる。まず私たち修道士が来て、その後からエスパニャ人が来、こうしてヌエバ・エスパニャやフイリピナスを奪ったと、専らいわれている」と。
このことは次章で記す『契利斯督記』にも出てくる。確かにコルテスやピサロは、ほんのわずかの小銃と兵士でメキシコやペルーを征服して植民地とした。この事実は否定できないから、「専らそういわれて」も仕方ないが、その知識を当時の日本が持っていたなら、だれかが提供したのであろう。そうなると、先ほどの航海士の言葉は彼らにとって実に危険な言葉となるが、彼が言ったのがそれだけでなかったことは、この航海士の件に立ち会ったフアン・ポープル師の次の言葉で明らかである。
「(ところがその)航海図の中で、日本が拇指にも足りない大きさであることを示されて、(増田長盛?らは)その小なるに驚き、これを信ずることができなかった。示された他の陸地や海洋が、ほとんどわれらのカトリックの国王のものであるので、いかにして、それほど領有したかと訊ねた。航海上が、さらにそれより多く領有していると答えると、驚いて、貴殿らと一緒になぜパードレを連れて行くのかといった。航海士は、自分たちの告解を聞いてもらうため、また死者があるときに安らかに死ねるように導いてもらう必要があるので、連れていくのである。またある土地へ行ってそこでキリスト教徒を作ろうとするとき、パードレの手を借りるために連れて行くのであると答えた。
通訳の言い方が悪かったためか、あるいは暴虐の国王がこれを理解しなかったためか、人びとはこの航海士を責めたてた。しかし実際には彼には罪がなく、何か不注意があったとすれば、それに気がつかなかったためで、彼の意図は善意であった。しかし善意であろうとなかろうと、浦戸にあった船の財物に関してなされたことも、都で司教のしたことも、すでに済んでしまっていたのだ。そこで航海士には罪はないから、彼を咎めるべきではない」 フアン・ポープル師の証言の目的は、その末尾に示されているように航海士への弁護である。このことは、在日のスペイン人・ポルトガル人から、彼は相当に強く非難されたことを意味する。だがポープル師の、彼の失言が「善意」だったという言葉は、日本人は少々皮肉に聞こえる。というのは、一言にしていえば彼は「正直」だったのである。 |
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1581年 |
ネーデルラント独立宣言
●(オランダ)ネーデルラントは中世末期より、毛織物工業の発達と中継貿易の拠点として繁栄してきた。15世紀末よりハプスブルク家の領有となり、フェリペ(フィリップ)2世の時スペイン領となり、スペイン国税の2/5はネーデルラントから得ていた。フェリペ2世は教皇を支援し反宗教改革の指導者であったので、ネーデルラント(カルビン主義・プロテスタントだった)を弾圧した。1567年のスペイン総督(アルバ公)は血の弾圧を行い、プロテスタントを迫害した。1568年、アルバ公はネーデルラントの大貴族エグモント伯を処刑した。これにより国民的な抵抗運動(独立運動)が起こった。 (重要語)
「ゲーテ・戯曲エグモント伯」「ベートーベン・エグモント序曲」「ゴイセン」「ベルギー」 |
1579年 |
ユトレヒト同盟
●ホラント州など北部7州は、ユトレヒト同盟を結び、1581年ネーデルラント連邦共和国の独立を宣言した。その中心がホラント州だったので、日本ではオランダとよんでいる。独立後オランダはアジアのポルトガルの貿易拠点を奪い、広州を窓口として中国との貿易を独占し、日本とも貿易を開いた。そして1602年オランダ東インド会社、1622年西インド会社が設立されて、「17世紀はオランダの世紀」とよばれ、アムステルダムは世界の商業・金融の中心として繁栄した。 |
エリザベス1世(イギリス・在位1558年~1603年)
●ヘンリー8世(1509年~1547年)と愛人アン・ブーリンはひそかに結婚し、女児エリザベスを生んだ。ヘンリー8世はアン・ブーリンに汚名を着せ処刑し、新たにジェーン・シーモアは男児エドワード6世(1547年~1553年)を生んだ。 (重要語)
「毛織物貿易を積極的に保護・奨励」「スペイン船の略奪=私拿捕船=海賊を保護」「ドレ-ク・海賊行為・世界周航を達成」「ホーキンズ・アフリカ黒人奴隷売買」「オランダ独立を支援」「イギリス国教会を確立」「スコットランド、メアリ=スチュアート処刑」「1588年、スペイン無敵艦隊撃破」「1600年、東インド会社設立」「シェークスピア」 |
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「エリザベス・ゴールデン・エイジ」シェカール・カプール監督。2007年製作。
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●笠信太郎全集4「智恵の構造」から、「智恵の構造・過去-歴史的体験」(知識と知恵は違うという内容)より、宗教戦争の時代のエリザベス1世の部分を一部引用してみる。
たとえば十六世紀の後半はーヨーロッパのことでありますがーヨーロッパの人がもう一人残らずプロテスタントであるか、それもカルビニストであるか、ルーテル派であるか、それとも、そういったどれでもなくてカソリックであるか、ということで、大いにもんちゃくを起した。
カソリックとプロテスタントの対立で、人々はどっちかにみんな巻き込まれておったという時代が続いて、かつそれがそれぞれの国のなかだけでなしに、国際的な紛争にまでなった。いわゆる宗教戦争の時代というものが、ちょうどいまから四百年前、世をあげてそれに苦しんでおったのです。ところが、そのときのイギリスの女王はエリザベス一世で、女王は、このヨーロッパの大陸で巻き上っておるそういった宗教的紛争からイギリスを守り、紛争をやらないようにするということに、全力をあげたのであります。おかげでイギリスは、この時代にいろいろの苦悩が少なくてすんだ。そして国際的な誘惑をしりぞけながら、やっと事柄がだいたい鎮まったところで、これまで抗争をしておったスペインとの戦いをやり、いわゆるスペインの無敵艦隊を撃沈したのです。以後イギリスの産業が次第に発展する糸口をつくったという人であって、ラッセル卿もこのエリザベス女王を非常に知恵のあった人だというふうに言っているのであります。あの大変な宗教戦争、だれもかれもがそのなかに取り込まれておるときに、それを越えた立場からものを見、かつ実際に所期の効果をあげたというのは、よほどの人であろうと思います。 |
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●ここで16世紀のフランドルの画家ブリューゲルとスペイン、エル・グレコの絵をのせる。フランドル地方の農民の生活と、スペイン、カトリックの重厚でインパクトのある宗教画。 |
ここでは16世紀エラスミス、ルターから始まる宗教改革運動、プロテスタント対カトリック、宗教戦争(迫害、弾圧、虐殺)などの関連事件を年代順に書き出してみる。グーテンベルクの活版印刷も宗教改革運動に力を与えた。
この内乱に等しい宗教戦争がヨーロッパ大陸の諸国に与えた影響は計り知れない。そして17世紀になると、宗教戦争は継承戦争、国家間の国際戦争へと変貌していく。
年代 | 内容 |
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1509年イギリス |
エラスミス(オランダ人文主義者)
●エラスミスは友人のトマス・モアの別荘にて「痴愚神礼讃(ちぐしんらいさん)=愚神礼讃」を著す。1511年パリで出版され、1522年までに2万部を売り上げたといわれ、宗教改革の気運を大いにい盛り上げた。 |
1517年ドイツ |
ルター
●ルターは、ローマ教皇による免罪符(贖宥状)販売に対する疑義から教会改革を説く。免罪符は、新徒がこれを購入すると「罪が許される」というもので、身分、収入で値段が変わり、「金が箱の中でチャリンと鳴れば天国へ行ける」といって販売されたという。その販売の背景として、資金調達(大聖堂建築など)、賄賂(大司教就任の為など)、献金(教皇庁への)などがあり、金銭的な利益獲得が目的だった。 |
1521年ドイツ |
カール5世神聖ローマ皇帝
●カール5世は、マルティン・ルターに対していっさいの権利を剥奪する帝国追放令を科した。そして彼の著作の購買・頒布を全面的に禁止した。ルターはローマ教皇および宗教会議の権威を否定し、教皇と絶縁をしていた。カール5世は、宗教的対立が帝国内で政治的に波及することを恐れていた。 |
1525年ドイツ |
「農民戦争」勃発
●「平等な神の国の建設」を目指した農民戦争が勃発した。当初農民軍は優勢であったが、略奪、破壊を繰り返す暴徒と化していった。ルターは最初は同調的であったが、「殺人強盗団」と決めつけ非難するようになった。指導者トマス・ミュンツァーは捕えられ斬首され、農民軍は約10万人の戦死者を出して終結した。 |
1527年ローマ |
神聖ローマ帝国軍(ドイツ人傭兵中心)ローマに侵入
●神聖ローマ帝国軍が暴徒化してローマに侵入し、全市で略奪、破壊、暴行、殺人を重ねた。これはローマ教会に対する復讐心があったためだと考えられる(農民戦争時の遺恨)。これにより文化財は破壊し尽くされ、ルネサンスの一大中心地としてのローマの時代は終わりをつげた。 |
1529年ドイツ |
プロテスタントの誕生
●ザクセン選帝侯ら(ルター擁護派)は、帝国議会でのルータ派禁圧のヴォルムス勅令実施採択に反対して、抗議書を提出した。この事によりルター派を「抗議する者(プロテスタント)」と呼ぶようになった。 |
1531年ドイツ |
「シュマルカルデン同盟」を結成
●プロテスタント諸侯らがカトリック対抗のため「シュマルカルデン同盟」を結成した。この同盟はフランスをはじめ、国外の改革派と連携していく。 |
1534年フランス |
イエズス会創立
●イグナティウス・デ・ロヨラとパリ大学の同士6人(ザビエル、ファーブルら)がイエズス会(=ジェズイット教団・耶蘇会《やそかい》)を創立した。「キリストのための戦士」として、清貧、貞潔、聖地巡礼の誓願をたてた。 |
1534年フランス |
プロテスタント迫害
●国王フランソワ1世は、カトリックのミサを批判する「プラカード事件」をきっかけに、プロテスタント迫害をはじめる。国王は神聖ローマ帝国への対抗上、プロテスタントには寛容的だった。プロテスタントは、人文主義者、印刷業の親方(知識人)や商人層にまで浸透し始めていた。 |
1536年スイス |
ジャン・カルヴァン(カルビン)
●カルヴァンは「キリスト教綱要」を著し、フランス・プロテスタントの理論的指導者となる。(カルヴァン派) |
1537年デンマーク | ●デンマークはカトリック教会の財産を没収し、「シュマルカルデン同盟」に加入し、1542年にはカール5世(神聖ローマ帝国・スペイン)に宣戦布告した。 |
1541年バチカン |
教皇パウルス3世
●教皇パウルス3世は「イエズス会」設立を認可する。これまでの修道会とは異なり、修道院から出て世俗社会に活動の場を求め、厳しい規律をもって軍隊風の強力な組織を作っていった。イエズス会は積極的な伝道・教育活動により、非キリスト教国に急速に進出していく。とりわけ学校教育、学問研究に組織的に取り組み、宗教改革に対するカトリック教会の先兵としての役割を果たしていく。 |
1541年スイス |
ジャン・カルヴァン
●カルヴァンはジュネーヴの改革を依頼され、同市を厳格な規律のもと宗教改革を遂行した。そして、異端審問法廷である長老制を導入し、政治と宗教が一体化した厳格な規律の神権政治を行った。この禁欲的なカルヴァン主義はスコットランドでは長老派、イギリスでは清教徒(ピューリタン)、フランスではユグノーとして新たな運動を展開していく。 |
1542年バチカン |
プロテスタントの迫害
●ローマ教皇パウルス3世は検邪聖省を設置し、プロテスタントの迫害を行う。15世紀のスペイン異端審問制度にならって、宗教裁判所を再組織し、イタリアからプロテスタントの影響力を一掃する。 |
1545年イタリア |
トリエント公会議開催
●ローマ教皇パウルス3世、トリエント公会議開催を呼びかける。この公会議は、3期にわたり1563年まで続き、カトリックの教義を固め、プロテスタントへの基本的な姿勢を確認するなど、重要な会議となった。
1821(984)聖なる公会議は、司教および他人を教える任務にある者に、聖人の取次ぎを呼求めること、遺物の尊敬、画像の正しい使用について、信者に教えることを命ずる。すなわち、キリスト教の初期からの使徒伝承のカトリック教会の慣例および聖なる教父たちの同意と公会議の教令に従って、キリストとともに統治する天上の聖人が人間のために祈りを天主にささげること、私たちの主、唯一のあがない主、救い主である天主のひとり子イエズス・キリストを通じて天主の恩恵を得るため、謙虚に聖人を呼求めること、彼らの祈りと力と助けを求めることが、善いこと、有益なことであると教えなければならない。そのため、天上にいる聖人を呼求めてはならないとか、聖人たちは人間のために祈らないとか、たとえ人間のために祈るとしても聖人を呼求めることは偶像崇拝であり、「天主と人との仲介者はイエズス・キリスト唯一人である」(1チモテ2・5参照)という天主のことばに反し、さらに声を出す出さないにかかわらず聖人に祈るのは愚の骨頂である、と主張することは不敬である。
1822(985)聖人と殉教者の聖なる遺体は、かつてはキリストの生きた体、聖霊の聖顔であった(1コリント3・16;6・19;2コリント6・16)。またキリストによって復活させられ、永遠の生命に入り、天国の栄光を受けるべきものであるため、崇敬すべきものである。これらの遺体を通じて多くの恵みが天主から人類に与えられる。聖人の遺物は表敬に値せず、その表敬は不必要であり、聖人の助力を得るためにその墓所を訪ねるのは無駄なことであると主張する者を、教会は過去において排斥したし、今日も排斥する。 1823(986)キリスト、聖母、諸聖人の聖画像を教会堂内に置き、それにふさわしい崇敬をささげるべきである。しかし、聖画像の中に神性または天主の能力があるかのように表敬してはならない。過去の異邦人が偶像から期待したように(詩編134・15以下参照)、その聖画像から何かを求めたり、それに信頼したりしてはならない。聖画像に対する表敬は、それによって表わされた原形に向けられるものであり、聖画像に接吻し、その前で帽子を脱ぎ、ひざをつくのは、それを通してキリストを礼拝するのであり、キリストにならった聖人たちを崇敬するのである。このことは、これまでの諸公会議、特に聖画像破壊論者に対する第2ニケア公会議(DzS600~601)の教令によって教えられたことである。 (一部引用) |
1555年ドイツ |
アウスブルク宗教和議締結
●フェルディナント(神聖ローマ帝国皇帝カール5世の弟)は全権委任を受け新旧両宗派と交渉、アウスブルク宗教和議締結となる。ここに長年の宗教抗争が終結した。しかしこの和議は、反面ドイツの宗教的一体性が失われ、諸侯の領邦的支配権がいっそう強化されることになった。これは17世紀の30年戦争(1618年)の原因を内包させることとなった。 |
1556年神聖ローマ帝国 |
皇帝カール5世退位
●皇帝カール5世は40年におよぶ支配を終え退位する。カール5世はカトリックによる帝国を目指した。神聖ローマ帝国は弟のフェルディナント、スペインは子のフェリペ2世が継承した。 |
1562年フランス |
ユグノー戦争の始まり
●カトリック教徒ギーズ公フランソアはシャンパーニュ地方で、ユグノーの礼拝集会を襲い、30人を虐殺した。ユグノー戦争の始まりである。1598年まで8次に及んだ。 |
1568年オランダ |
スペインに対する独立戦争
スペイン王フェリペ2世はオランダのプロテスタントを厳しく弾圧した。カトリックに対抗したネーデルラントの大貴族エグモント伯が処刑されたことにより、40年に及ぶスペインに対する独立戦争が始まった。 |
1572年フランス・パリ |
サン・バルテルミの虐殺
●カトリック教徒がユグノーの貴族らを襲い、200人以上を虐殺した。ユグノー戦争頂点に達する。虐殺は女性・子供を問わずセーヌ川は死骸で埋まったといわれる。サン・バルテルミの虐殺(セント・バーソロミューの虐殺) |
1576年神聖ローマ帝国 |
ルドルフ2世、神聖ローマ帝国皇帝に即位
●ルドルフ2世(4年前にボヘミア王、スペイン生まれ)神聖ローマ帝国皇帝に即位する。新皇帝はイエズス会の厳格なカトリック教育を受けて育ち、宗教寛容政策を停止し、プロテスタントを弾圧した。宗教紛争は激しさを増した。 |
1576年フランス | ●ボーダン(社会思想家)、「国家論」を発表。ユグノー戦争を収拾し、平和を回復させるために、絶対王政を擁護した。 |
1584年オランダ | ●オラニエ公ウイレム(独立戦争の指導者)がカトリック狂信者に暗殺される。スペイン王フェリペ2世は、彼に賞金をかけていた。 |
1585年フランス |
第8次ユグノー戦争
●国王アンリ3世、プロテスタントのアンリ・ド・ナヴァルを自身の継承者として承認した。しかしこのことはカトリックの反発を呼び、ローマ教皇はアンリ・ド・ナヴァルを破門した。そしてギーズ公アンリ(カトリック)と討伐軍をおこし、第8次ユグノー戦争が始まった。 |
1588年イギリス |
スペイン無敵艦隊の敗北
●スペイン・フェリペ2世、イギリスに進攻し大敗する。スペイン無敵艦隊の敗北(ドーヴァー海峡)。イギリスはネーデルラントを支援し、またアメリカ・カリブ海に進出しスペインと敵対していた。スペインは、この敗戦にもかかわらず、艦隊を再建増強しその後も大西洋を支配し続けた。 |
1588年フランス・パリ | ●モンテーニュ「エセ-」を出版する。ユグノー戦争のさなか、冷めた目で宗教紛争を眺め、モラリスト文学の最高峰として随想という分野を創始した。のちにデカルト、パスカルやルソーらに影響をあたえた。 |
1589年フランス |
国王アンリ4世即位、ブルボン王朝始まる
●国王アンリ3世がドミニコ会修道士(カトリック)に刺殺される。これにより260年続いたヴァロア朝は断絶した。 |
1589年頃スペイン | ●スペインはポルトガルの併合に伴い、ポルトガルに住むユダヤ人への迫害を強めた。(1世紀前に、スペインでのユダヤ追放令によってポルトガルに移住してきた。) ●同時にスペインにいる改宗ユダヤに対しても迫害を強め、そのため多くのユダヤ人が、ネーデルラントのアムステルダムへ向かった。ユトレヒト同盟の規約には「信教の自由」がうたわれていたためである |
1590年フランス | ●アンリ4世(新国王)はイヴリーの戦いでカトリック同盟軍を破る。フランスではカトリック同盟が、アンリ4世に対抗してシャルル10世を擁立していた。 ●アンリ4世軍は、カトリック同盟軍を追って進軍しパリを包囲した。しかし、パリの抵抗は強く、支援のスペイン軍(カトリック)がパリに入城すると、アンリ4世軍はパリ包囲網を解いた。 |
1593年フランス | ●アンリ4世(プロテスタント)はカトリックに改宗(3度の改宗)する。アンリ4世は、パリ奪回と国家統一のため改宗を決意し、1594年にシャルトル大聖堂で正式にフランス国王として戴冠した。 |
1598年フランス |
「ナントの王令」ユグノー戦争が終結
●アンリ4世「ナントの王令」を発布する。ここに「信教の自由」が承認され、36年にわたったユグノー戦争が終結した。この王令は両派による裁判所の開設や、プロテスタントを官職につけるなどを認め、永続的に廃止されないとしたが、1685年に廃止された。しかしこれによりスペインとの戦争も終結し、フランスに平和が久しぶりに戻った。 |
1600年ローマ | ●ジョルダーノ・ブルーノ(哲学者)が異端審問の結果、火刑に処される。8年間の獄中での尋問と拷問をうけた。コペルニクスの地動説を支持し宇宙無限論を主張し、異端とされた。 |
1605年イギリス・ロンドン | ●ガイ・フォークス(軍人旧教徒)が国王と議会の爆破をねらう。 ●1603年にイギリス国王として、エリザベス1世の後を継いだジェームズ1世(スコットランド王)は、宗教の寛容策はとらず、イギリス国教会政策を強行したため、失望した旧教徒らが未遂事件を起こした。 ●ジェームズ1世は、エリザベス1世が処刑したスコットランド女王メアリー・スチュアートの遺児で、ここにチューダー朝が終わり、スチュアートが始まった。 |
1609年オランダ | ●スペイン王フェリペ3世はネーデルラント北部7州と休戦条約を結ぶ。1568年の独立戦争開始以来の休戦となった。これはスペインの国家財政の破産状態が原因だった。しかし1621年に戦争は再開された。オランダの独立が承認されるのは1648年ウエストファリア条約のときになる。 |
1610年フランス・パリ | ●国王アンリ4世が狂信的なカトリック修道士に暗殺される。プロテスタントに対する融和策に不満を抱く。 |
1611年イギリス | ●国王ジェームズ1世が(清教徒の誓願による)英訳聖書の決定版を完成させた。(作成を命じたのは1604年)これは50名の学者・宗教家による翻訳作業によるもので、イギリスにとって、シェークスピアと並んで文学的遺産となり、近代英語の形成に大きな影響をあたえた。 |
1618年チェコ(ボヘミア) |
「30年戦争」
●プロテスタントが、ハプスブルク家である国王フェルディナントに対する抗議行動をプラハの王宮で起こした。ボヘミアでは「信教の自由」が国王により破棄されたことにより、プロテスタント貴族がこの事件を起こした。この抗議行動は武装反乱となり、1619年のフェルディナント2世の神聖ローマ帝国の即位後にはさらに拡大していった。この戦争は「反ハプスブルク家」「反カトリック」闘争となり、ヨーロッパ諸国をまきこむ「30年戦争」となっていった。 |
●「書籍印刷なくして宗教改革なし」といわれる。グーテンベルク(15世紀)は合金による金属活字を、旧来の手写本にひけをとらない299個の文字と記号を鋳造し、1282ページの聖書印刷を開始し、新しいコミュニケーション技術の新時代を開いたとあります。この印刷技術の果たした役割は大きく、ルターの思想は印刷されたパンフレット・書籍によって伝播していき、ルターが翻訳したドイツ語聖書は、近代ドイツ語を生み出すもとになったと言われています。そしてこの印刷技術は大航海時代にのって世界各地に広がって行きました。日本には、イエズス会ヴァリニャーノ(天正遣欧使節帰国に伴って来日)によって印刷機がもたらされ、布教活動に力を発揮し、その印刷物は現代にまで残されている。
15世紀(オスマントルコ)スルタン・メフメト2世はコンスタンティノープルを陥落させ、ビザンツ帝国を滅ぼし、コンスタンティノープルをイスタンブールと改称し、ここを首都と定めた。
そしてオスマン帝国は、第10代スレイマン1世の時代に、アルジェリア・リビアを併合し、地中海世界のほぼ3/4を支配した。「パスク・オトマニカ=(オスマンの平和)」といわれた。
年・月 | 16世紀 | |||
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16世紀初頭 |
オスマン帝国の支配
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16世紀 |
地中海世界「パスク・オトマニカ=(オスマンの平和)」
●スレイマン1世時代のオスマン・トルコは、アジア・アフリカ・ヨーロッパ三大陸の要を支配し、地中海からインド洋にいたる貿易もおさえて繁栄した。ポルトガルのインド洋進出にも対抗し艦隊も派遣し、また黄金の獲得を狙ってアフリカのスーダン・エチオピアへも進出した。 (重要語)
ヨーロッパ最強の軍団「イェニチェリ」「クリミア・ハン国を保護化、黒海の商業権支配」「イラン・サファビー朝攻撃、メソポタミア奪取」「スルタン-カリフ=イスラム世界、政教両権を持つ最高権力者」「1529年、ウイーン包囲」 |
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オスマン・トルコ・イスタンブール
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●イスタンブール・トプカプ宮殿博物館
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イラン民族の国家、サファビー朝ペルシャ・アッバス1世・首都イスファハン「世界の半分」
●チムール帝国が1500年ウズベク人によって滅ぼされた。その直後1502年、イラン民族のサファビー朝が、トルコ系民族の支配を脱し、イランの地に樹立された。ササン朝ペルシャ以来のイラン民族国家だった。サファビー朝はシーア派を国教としたので、スンニー派のオスマン・トルコとは抗争を繰り返した。しかしアッバス1世のとき全盛期をむかえ、オスマン・トルコと平和条約を結び、内外の平和が訪れ、商業・貿易が発達して、首都イスファハンは大いに栄え、「世界の半分」と賞賛された。
●(左写真)イスファハン「王のモスク(マスジット・イ・シャ-)のドームと正面のイバーン」イバーンは、ファサ-ド(建築物の正面)にはめ込まれている半ドームの大きなアーチ。
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ムガル帝国の第3代アクバル帝はイスラム・ヒンドゥ-両教徒の融和政策を行った。この第3代アクバル帝のとき、ヒンドゥー教徒のラージプート族を平定し、北はアフガンから南はビンジャ山地の南までを統一し発展した。この急速な発展の最大の要因は、イスラム・ヒンドゥ-両教徒の融和政策にあった。
年・月 | 16世紀 | |||
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8世紀 | ●インドにイスラム勢力の侵入が始まり、11世紀に本格的になった。 | |||
10世紀半ば | (北インドに侵入) ●トルコ系ガズニ朝(アフガニスタンに建国)が北インドに侵入し、10数回にわたりヒンドゥ-教寺院を破壊した。 |
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12世紀半ば | (ゴール朝、北インド全域を支配) ●トルコ系のゴール朝がインド侵入を開始した。インドのラージプート族(ヒンドゥ-勢力)は抵抗を続けたが、ゴール朝は北インド全域を支配していった。 |
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1206年 |
アイバク、イスラム政権を樹立
●ゴール朝の奴隷出身(トルコ系の国家では奴隷はひとつの身分、有能であれば高い地位につくこともできた)の武将アイバクが、デリーを首都にイスラム政権を樹立した(奴隷王朝)。この後300年間は、短命なイスラム政権が交代し、デリー・イスラム諸王朝時代とよばれる。 |
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1200年頃 |
●(写真左)「クトゥブ・ミナール=アイバクの塔(高さ73m)1200年頃」。アイバクは正式には、クトゥブ=ウッディーン=アイバクという。アイバクがヒンドゥー教徒に対する勝利を記念して建てた物。(世界の旅では愛妻のために建てたと書かれている)この塔はインド最古のイスラム寺院クワットル・イスラム・モスクの塔である。「出典:世界の旅3」インド・東南アジア 河出書房新社1969年 刊
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16世紀 |
ムガル帝国建設
●中央アジアのトルコ・モンゴル系の一部族が、チムールの子孫と称するバーブルに率いられて、アフガニスタンに進出した。1526年、北インドに侵入したバーブルは、デリーを占領してムガル帝国(ムガルはモンゴルの訛ったもの)を建設し、急速にインドに同化していった。 |
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16世紀~17世紀 |
イスラム・ヒンドゥ-両教徒の融和政策
●第3代アクバル帝はイスラム・ヒンドゥ-両教徒の融和政策を行う。ムガル帝国は、第3代アクバル帝のとき、ヒンドゥー教徒のラージプート族を平定し、北はアフガンから南はビンジャ山地の南までを統一し発展した。この急速な発展の最大の要因は、イスラム・ヒンドゥ-両教徒の融和政策にあった。 |
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●(チムールでは「細密画=ミニアチュア」が、モンゴルの影響とイスラムの伝統生かして発達し、書物のさし絵として描かれた。この画法はサファビー朝ペルシアやインドのムガル帝国に引き継がれた)
●(左絵)「1561年グワーリアルのナルワル付近でのアクバル帝」欽定写本「アクバルナーマ」の挿絵。紙に不透明水彩と金泥。ムガル 1586年~1589年頃。
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タ-ジ・マハル
●(左絵)「ターバン飾りをもつシャー・ジャハーン王子」紙に不透明水彩と金泥。ムガル 1616年~1617年頃。
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琉球王国の「万国津梁の鐘」は、第一尚氏6代尚泰久王の1458年に鋳造された。その鐘銘の冒頭は以下のようである。
「琉球国は南海の勝地にして、三韓(朝鮮)の秀を鍾(あつ)め、大明(中国)を以て輔車(ほしゃ)となし日域(日本)を以て脣歯(しんし)となす。この二中間にありて涌出するの蓬莱島なり。舟楫(しゆうしゆう=船のこと)を以て万国の津梁(しんりょう=架け橋)となし、遺産至宝は十方刹に充満せり・・」
年・月 | 16世紀 | ||||
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東・南シナ海世界
●明の王朝成立からの外患は「北虜南倭」(モンゴル諸国、倭寇)だった。多くの中国人は、宋元時代(12世紀~13世紀)以降、羅針盤を使用した航海技術や造船技術の発達により、日本や南海諸国に渡航していた。彼らは商業活動に従事する一方、海賊行為も行っていた。明代の前半、華僑の海賊の頭目は、スマトラのパレンバン、ボルネオ、ルソンなどにいて、鄭和の艦隊派遣の目的のひとつは、彼ら中国人海賊の鎮圧と、国家による南海諸国との通商だった。かれら中国、日本や琉球の勢力は、国家に縛られない自由人として互いに結び、シナ海(東・南)で活動を続けた。 (重要語)
「三国志通俗演義」「水滸伝」「西遊記」「金瓶梅」「紅楼夢」新大陸「とうもろこし・とうがらし・じゃがいも」 |
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琉球王国
「琉球国は南海の勝地にして、三韓(朝鮮)の秀を鍾(あつ)め、大明(中国)を以て輔車(ほしゃ)となし日域(日本)を以て脣歯(しんし)となす。この二中間にありて涌出するの蓬莱島なり。舟楫(しゆうしゆう=船のこと)を以て万国の津梁(しんりょう=架け橋)となし、遺産至宝は十方刹に充満せり・・」
とあり、琉球王国と日本、明との関係をはじめとして対外に目をむけた琉球の意識がよく理解できる。(ふりがな等は「世界の歴史がわかる本」より)
左(絵129)「進貢船の図」19世紀 紙本著色 沖縄県立博物館。
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●ポルトガルの東洋進出は、1498年のヴァスコ・ダ・ガマのインド・カリカット到着から始まる。
ヴァスコ・ダ・ガマ「インド航路」からの歴史。ヴァスコ・ダ・ガマの航海。(第1回と第2回)
1498年 | ●ヴァスコ・ダ・ガマが「インド航路=アフリカ喜望峰まわり」によって、インド・カリカットに到着。(インドは、西欧・アラブ・アフリカ世界と東アジア・東南アジア世界を結ぶ重要な中継センターだった。沿岸部にはゴア、カリカットなど多くの湾岸都市が栄えていた。カリカットは、キリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒などが住む、多種多様な国際交易拠点だった。) |
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1505年 | ●初代ポルトガル・インド総督は、コーチンなどに要塞を築く。 |
1508年 | ●第2代インド総督は、インドへむかう途上、ホルムズ島(ペルシャ湾入口)を占領する。 |
1510年 | ●ポルトガル、インド洋貿易支配のためゴアを占領する。 |
1511年 | ●ポルトガル、マレー半島のマラッカを占領する。(マラッカ海峡は、「モンスーンが始まり、終わるところ」といわれ、春と秋に季節風が規則正しく入れ替わり、帆船時代の重要な交易ルートだった。15世紀初め、ここにシュリービジャヤの一王族がマラッカ王国を建て、東南アジア、中国、インド間の三角貿易の中心となり商業港として大いに栄えた。またイスラム教を受け入れたので、この王国を拠点にイスラム教が東南アジアに広まった。) |
1512年 | ●ポルトガル、マルク諸島(=香料諸島・モルッカ諸島)に到達する。(マルク諸島は、3大香料といわれる、胡椒(=こしょう・ペッパー)、丁子(=ちょうじ・クローブ)、肉荳蔲(=にくずく・ナツメグ)の後者2つを同時に産する世界にひとつの場所だった。香料は調味料、薬品として大きな需要があり、その利益も莫大だった。マゼラン艦隊が持ち帰った丁子は、原産地価格の2500倍になった。ポルトガルとスペインはこのマルク諸島をめぐり抗争を続けたが、1536年ポルトガルが支配権を確立した。) |
1517年 | ●ポルトガル、船隊(8隻)を率いて中国広州に上陸。 |
1522年 | ●明、ポルトガルを略奪行為のため、広州から追放する。 |
1536年 | ●ポルトガル、マルク諸島の支配権確立。スペイン、フィリピン諸島へむかう。(1521年マゼランの世界周航でフィリピンに権利を持つ。) |
1542年 | ●ポルトガル国王の要請でスペイン人ザビエル(イエズス会)、インド・ゴアで布教する。 |
1543年 | ●九州種子島に、ポルトガル人を乗せた中国船漂着(鉄砲伝来)。 |
1547年 | ●ザビエル、マラッカでアンジロー(日本人最初のキリスト教信者となる)と会い、日本布教を決意。 |
1549年 | ●ザビエル、アンジローの案内で鹿児島に上陸。 |
1557年 | ●ポルトガル、中国澳門(マカオ)で、居住権を得る。(1522年以降ポルトガルは、中国人の海賊や倭寇と結んで、浙江省沖の舟山群島などを拠点に、中国商人と密貿易を行っていて、1553年頃よりマカオに住み始めていた。) |
●全体を俯瞰するために上「グーグルマイマッププラス(世界地図)」に、インド洋海域のポルトガル関係地点をプロットして地図を作成した。これらの地点は、「ポルトガルの主な商館・要塞所在地(一時的支配を含む)1520年頃」から抜き出した。また、参考として、ヴァスコ・ダ・ガマの航海寄港地を次のように色分けした。
●1回目航海=青色、2回目航海=赤色で色分けしてマークした。黄色は、その他の商館・要塞の所在地で、青色・赤色もすべて商館・要塞の所在地である(黄色と同等)
●このガマの航海の成功と帰還は、ポルトガルのみならずイタリア諸都市(東方貿易を独占していた)に衝撃を与えた。2隻の香辛料・宝石などの売却益は、2年間の航海の総費用を差し引いても充分な利益をあげた。
●ガマ自身も、その利益と褒賞で、ポルトガルの大富豪となったほどであった。
1498/3月 |
②モザンビーク島(モザンビーク)到達
●ヴァスコ・ダ・ガマは1497年7月リスボンを出港し(旗艦サン・ガブリエル号100トン)、11月に喜望峰を越えた。モザンビークには3隻で到達し、その乗組員数は148人~170人だった。 |
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1498/4月 |
④モンバサ(ケニア)⑤マリンディ(ケニア)を出港
●モンバサについでマリンディに立ち寄ったガマは、キリスト教徒とその王国についての情報を熱心に求めた。またアラブ人ムスリム(イスラム教徒)に対して、不必要なまでに敵意を示した。船を襲い、その積み荷を強奪もした。マリンディで、インドからのキリスト教徒の商船と出会い、インドの航路やインドの港町の情報を得た。そして案内人を雇い1498/4月インドへ出港した。 |
1498/5月 |
⑪カリカット(インド)到着
●ガマはカリカット到着1週間後に、ポルトガル王の使節として、カリカットの王(ザモリン)に謁見した。ガマは王に、「ポルトガル王は強大で裕福なこと。」「キリスト教徒の王を探すために派遣されたこと。」などを力説した。 |
1498/8月出港 |
⑪カリカット出港
●ガマは出港はしたが、東アフリカへ向かう北東風はまだ吹いておらず、西インド洋を越えるのに3ヶ月を要した。その間、壊血病で30人もの乗組員が死亡し、3隻のポルトガル船は惨憺たる状態におちいった。 |
1499/1月 |
⑤マリンディ(ケニア)到着
●ガマは、ようやくマリンディに着いたが、簡単な補給をすませ、すぐに出港した。しかし乗組員不足のため、モンバサ近くで1隻を焼却処分し、2隻で帰途についた。1499/3月に喜望峰を越え、7月と8月にようやく2隻がリスボンに帰着した。しかしヴァスコ・ダ・ガマ本人は、病死した兄をアゾレス諸島に埋葬してから別船で帰還した。帰港まで2年を越える年月がかかった。 |
●ガマの成功の結果、ポルトガル王は直ちに13隻の新しい船隊を組織した。特にガマから得た情報で、インド洋には砲を備えた強力な艦隊が無いことと、沿岸地域には銃が普及していないことが重要だった。そこでこの艦隊の艤装(船の出発準備一切)では、銃砲の準備にもぬかりなかった。
●この13隻の船隊(カブラル)は、1500年3月にリスボンを出港して、1年4ヶ月の短期間でインドを往復し、帰路にはブラジルを発見するという功績をあげたが、失敗と酷評された。その理由は、次のようであった。
2.商品量が不十分で、航海全体の費用を回収できなかったこと。
3.カリカットで武力紛争を起こし、54人のポルトガル人を失ったこと。
4.町を砲撃し現地に商館を置くことに失敗したこと。
●この失敗の結果ポルトガル王は、インドへの航海で利益を上げることの困難さを知り、さらに新たな派遣を躊躇した。そこで再びヴァスコ・ダ・ガマは、私財でもって航海を行うことを申し出て、王の許可を得たのである。
●ガマの艦隊は20隻からなる大艦隊で、1502/2月リスボンを出港した。ガマは武力でインド洋を制圧することにより、大きな利益をあげることが出来ると確信していた。
1502/7月 |
③キルワ(タンザニア)到達
●ヴァスコ・ダ・ガマ提督艦隊(20隻)は、当時随一の繁栄を誇ったキルワ沖合に到達。大砲を一斉に放ち武力による示威行為を行った。ガマ提督は、キルワの王に武力で貢ぎ物(毎年のポルトガル王へのお金)を強要し、和平と友好関係を結んだ。 |
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1502/9月 |
⑩カンナノール(インド西海岸)沖合に停泊
●ガマの船隊は、航海方面からカリカットへ向かう船を待ち伏せし、略奪と殺人を行った。なかにはメッカからの巡礼(イスラム教徒の婦女子・子供含む240人~380人)の帰りの船を襲い、ポルトガル王室の年間収入の1/10もの財宝を略奪したあと、船を燃やし殺害したという。ガマやポルトガル人にとってイスラム教徒は異教徒であり、殺人という意識はなかったと思われる。 |
1503/3月 |
⑪カリカット⑫コーチン(カリカットの南方)から帰路につく
●ガマは、カリカットでは王と賠償交渉(カブラルの損害)するが、突然2日間で400発の砲撃を加え、周辺建物を破壊し、カリカット港を5隻の船で封鎖した。インド側もガマの船隊に、大船34隻を含む大小の船で反撃したが、ポルトガル船の大砲の威力に負けてしまう。 |
●こうしてポルトガルは、1515年頃までにインド洋の主要な港町を攻撃し支配していった。特に征服者として名高い第2代副王、アフォンソ・デ・アルブケルケの時代にポルトガル海上帝国の基礎が築かれた。
●この組織の内容を引用すると、以下になる。
●当初インド洋西海域に集中していたポルトガルは、東南アジア方面から来る、高級香辛料、香木類(沈香・白檀など)、中国産絹織物・陶磁器などの国際的な商取引の中心地が、マレー半島のマラッカであることを知った。マラッカでは、アジア全域から多くの商人が集まり、港では84の言語が話されていたという。1511年副王アルブケルケは、船隊で砲撃を加え激しい戦いの末、この一大貿易センターを征服した。そしてマラッカを基地として、東南インドのプリカット、ベンガルのチッタゴン(バングラデシュ)、ビルマのペグなどに順次拠点を築いていった。そしてさらに東の高級香辛料の産地である、マルク諸島(モルッカ・香料諸島)やバンダ諸島へと向かい、南シナ海を北上し中国沿岸、琉球諸島、朝鮮半島そして日本に到達したのだった。
倭寇(わこう)は13世紀~16世紀に、東シナ海から南シナ海にかけて朝鮮・中国沿岸地域で掠奪を働いた海賊集団の総称である。前期倭寇(14世紀中心)と後期倭寇(16世紀中心)とに大別される。前期倭寇は、九州やその周辺の島嶼部に住む人々を主力とし、後期倭寇は、中国沿海地域の人々と、彼らに荷担する東シナ海沿岸諸地域の人々が主力となった。鉄砲伝来で有名な種子島に漂着したポルトガル人も、王直の船に乗って密貿易に従事して漂着したと思われる。
年・月 | 16世紀 |
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15世紀のはじめ |
鄭和の大艦隊
●鄭和の大艦隊は、明への朝貢と海賊を制圧する示威活動であった。倭寇の活動はほぼ収まり、中国の明帝国は、日本の足利政権と正式な国家間貿易(勘合貿易)を認めた。 |
16世紀 |
密貿易(後期倭寇)活発化
●しかし16世紀になると、明の禁制に対して、当然ながら密貿易(後期倭寇)は活発化していった。その拠点は、15世紀後半からは、中国福建省の漳州・東南の月港、16世紀になると浙江省・寧波(宁波)ニンポー沖の舟山群島の双嶼(そうしょ)になっていった。 |
1517年 |
ポルトガル、明との「朝貢」貿易希望する
●こうした情勢の中、ポルトガルは明と「朝貢」貿易を行うため、1517年正式な使節を広州に派遣した。しかし明の皇帝の死去に伴う情勢の変化や、1519年の別のポルトガル船の、武力による広州湾での要塞建築や掠奪行為が原因で、ポルトガルは明国政府と戦闘になり広州から撤退した。 |
1552年 |
ポルトガル王室艦隊、マカオ(澳門)に上陸
●こうしたなか、ポルトガル王室艦隊は、明との正式な貿易を行うため、広州湾一帯のポルトガルの海賊船や密売貿易商人を服従させ、明政府に恩をうり、マカオ(澳門)に上陸し、1557年居住を認められた。 |
16世紀年表
※年表は、「クロニック世界全史」講談社1994年刊から、地域別に抜き出して作成した。
年表が大きいので、PDFで作成した。通常はブラウザの別タブで表示されるか、ダウンロード選択となる。
(南北アメリカ)(スペイン・ポルトガル) (16世紀)地域別歴史年表pdfファイル |
(イギリス・フランス) (16世紀)地域別歴史年表pdfファイル |
(ドイツ・オーストリア等) (16世紀)簡易地域別歴史年表pdfファイル |
(イタリア・バチカン等)(東ヨーロッパ・ロシア・バルカン半島等) (16世紀)簡易地域別歴史年表pdfファイル |
(アフリカ・北アフリカ・南アフリカ)(オスマントルコ・パレスチナ・地中海) (16世紀)簡易地域別歴史年表pdfファイル |
(中央アジア・インド)(東南アジア) (16世紀)簡易地域別歴史年表pdfファイル (北アジア・中国)(朝鮮)(日本等) (16世紀)簡易地域別歴史年表pdfファイル |