(世界史)「11世紀~15世紀」イタリア諸都市からルネサンス始まる
世紀別 | 主要項目 |
---|---|
●11~12世紀ごろの世界 | 都市の発達・十字軍・教皇権・ロマネスク様式からゴシック様式・イコン |
●13世紀ごろの世界・・ | 十字軍・修道会・チンギス・ハーン・モンゴル帝国・蒙古襲来 |
●14世紀ごろの世界・・ | 英仏百年戦争・ペスト・チムール帝国・明・朝鮮(李朝) |
●15世紀ごろの世界・・ | 大航海時代・ルネッサンス・メディチ家・東ローマ帝国滅亡 |
(注)このページでは、右下「緑・矢印ボタン」で目次に戻り、その下の「赤・矢印ボタン」でページトップへ戻ります。
(13世紀~)十字軍・修道会・チンギス・ハーン・モンゴル帝国・蒙古襲来 | |||
---|---|---|---|
世紀別世界<要旨> 十字軍とモンゴル帝国の遠征) 大きな特徴は、ヨーロッパでは十字軍、ユーラシア大陸では、モンゴル帝国の大遠征が行われた。これにより文明圏の接触と交流がもたらされ、世界の一体化の先駆けとなった。 ●ヨーロッパでは、数次の十字軍の失敗により、騎士階級と教皇権が衰退。王権と商工業者が台頭し、封建制度が揺らいできた。 ●モンゴル帝国が史上空前の大帝国を築いた。ロシアのモスクワを含む南半分、中国、朝鮮、ミャンマー、イラン、イラク。 ●北インドでは、イスラム政権のデリースルタン朝。 ●インドネシアでは、マジャパヒト王国(モンゴル軍を撃退した)が成立。 *綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」 | |||
1204年 | 第4回十字軍破門される 第4回十字軍は、調達金不足のため、ヴェネティア(ヴェニス)商人に、敵対的なザマを攻撃することを要求され実行。怒ったローマ教皇インノセントは十字軍を破門した。破門された十字軍はエジプトに向かわず、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを攻撃、陥落させた。ヴェネティアと十字軍は略奪品を折半し、フランドル伯ボードアンを皇帝として、ラテン帝国を樹立した。900年の繁栄を極めたコンスタンティノープルは、略奪と蛮行によりいっきに荒廃した。 | ||
1210年 | バチカンの聖フランテェスコが「小さき兄弟会」を創設する。聖フランテェスコはキリストの再来とたたえられ、カトリック教会に活力を取り戻させた。 | ||
1215年 | マグナ・カルタ イングランド王ジョン、貴族の要求するマグナ・カルタを承認する。法の支配の原則を重視するという考え。 | ||
1215年 | 第4回ラテラノ公会議開催 (ローマ)インノセント三世主宰、第4回ラテラノ公会議開催。全ヨーロッパより400名以上の司教、800名以上の修道院長、諸国の代表団が集まって開かれた。カトリック体制を強化するなかで、過酷な反ユダヤ政策を決議した。これがキリスト教徒によるユダヤ人迫害の始まりといわれる。またドミニコ修道会が正式に認可された。 | ||
1236年 | (スペイン)カスティリャ王フェルナンド三世、コルドバを征服。最後のイスラム・ナスル朝(グラナダ王国1230年)が興る。 | ||
1241年 | ハンザ同盟が成立 (ドイツ)バルト海貿易でハンザ同盟が成立。神聖ローマ帝国のリューベックとハンブルクとの間に同盟が結ばれた。「ハンザ」とは商人の仲間を意味し、外来の商人は排除するという同盟。 | ||
1273年 | ハプスブルク家登場 (ドイツ)20年近く続いた大空位時代終わり、ハプスブルク家登場。 | ||
1206年 | モンゴル世界帝国の始まり
「上天より命ありて生まれたる蒼き狼(あおきおおかみ)ありき、その妻なる惨白(なまじろ)き牝鹿ありき。・・・生まれたるバタチカンありき・・」 その子孫がチンギス・ハーンであるとする。 | ||
1218年 | (中央アジア)ホラズム帝国「オトラル」でモンゴルの使節団が虐殺される。この事件が引き金になって、翌1219年、チンギス・ハーン20万人の西アジア大遠征が開始された。 | ||
1220年 | (モンゴル)チンギス・ハーン率いるモンゴル遠征軍、ホラズム攻略。(中央アジアからイラン高原を領有支配) | ||
1227年 | (モンゴル)チンギス・ハーン病死。 ●キプチャク・ハン国は、チンギス・ハーンの孫のバトゥにより黒海北岸の平原につくられた。 ●イル・ハン国は、西征の途上フラグがモンゴル本土での帝位争奪戦の勃発に出会い、そのままイランの地に留まり成立した。 ●チャガタイ・ハン国はオゴタイの孫のハイドゥの死後、実権を掌握して成立した。 | ||
1234年 | (中国)モンゴル軍・宋軍、金を滅ぼす。 | ||
1237年 | (ロシア)モンゴル(バトゥ)ヨーロッパ遠征軍、モスクワ占領。1240年キエフ陥落。 | ||
1241年 | (ポーランド)バトゥ率いるモンゴル軍が、ワールシュタット平原でポーランド軍とドイツ騎士団の連合部隊を撃破した。モンゴル軍はこの数年来、北ロシア南ロシアを席巻し、東ヨーロッパに侵入を始めた。この戦いの勝利で、モンゴル軍は西ヨーロッパに攻め込もうとしたが、本国で大ハーン・オゴデイ(オゴタイ)が急死したため、きびすを返した。 | ||
1258年 | (イスラム)フラグ、バグダ-ドに侵入、イスラム・アッバース朝を滅ぼす。虐殺された人々は80万とも200万ともいわれている。これによりイスラム世界は、精神的支柱であるカリフを失った。 | ||
1260年 | (モンゴル)フビライが大ハンに即位すると、相続争いが起きる。 | ||
1266年 | (モンゴル)オゴタイの孫ハイドゥがフビライと対立。ハイドゥの乱勃発。40年間におよぶ戦乱が起こる。 | ||
1271年 | 元の成立 フビライ・ハーンが、国号を大元とする。 | ||
1279年 | (中国)元、南宋を滅ぼし、中国を統一する。 | ||
1273年 | ![]() ●元が日本と東南アジア侵略を開始する。1274年、文永の役。1281年、弘安の役。 ●モンゴルの第二次遠征(弘安の役)は、南宋征服後、10万人の中国人を徴兵して決行したが、失敗した。しかしモンゴルは、第三次遠征を企てた。1282年、中国・高麗に大船3000隻の建造を命じ、準備を進めた。また1284年には、ベトナムへ大軍を送り攻撃を開始したが、ベトナムの果敢な抵抗にあい失敗した。この敗戦により、フビライ・ハーンは第三次日本遠征計画を中止した。 (絵)「蒙古襲来絵詞」鎌倉後期1293年頃の作。 | ||
●日本では2011年、琉球大らの調査チームが、元寇(げんこう)の舞台となった長崎県で、元軍の沈没船を730年ぶりに発見した。その映像は公開されている。リンクします朝日新聞社「発見された元寇船の映像を公開 長崎」 | |||
モンゴルの大遠征の謎 この謎について綿引弘著「世界の歴史がわかる本」より一部引用してみる。オトラル事件がきっかけとある。 | |||
●北アメリカ文化圏と主な部族、遺跡。コロンブス以前の南北アメリカ大陸には、ヨーロッパ大陸に匹敵する人口があったといわれる。またアステカ人はメキシコ盆地、テスココ湖湖畔に定住して繁栄していく。 |
(14世紀~)英仏百年戦争・ペスト・チムール帝国・明・朝鮮(李朝) | |
---|---|
世紀別世界<要旨> (この世紀は、温暖期から寒冷期に入り、飢饉や疾病が多発する不安定な時代。) ●ヨーロッパでは、イギリスとフランス間で100年戦争勃発。1338年~1453年 (フランドル地方の争奪と王位継承が原因) ●1348年、ペスト大流行。数年間でヨーロッパの人口の1/3が病死した。 ●戦争とペストの大流行、農村の荒廃と領主の圧迫に反乱がおき(フランスではジャックリーの乱<1358年>、イギリスではワットタイラーの乱<1381年>等)、領主の没落を決定し、封建制の崩壊がはじまった。 ●ユーラシア、中国では、モンゴル帝国が解体し、その再興を図ったチムール帝国が、一時強勢を誇った。 ●ロシアでは、モスクワ大公国が自立の動きを強めた。 *綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」 | |
(英仏百年戦争)1338年~1453年
| |
ペスト(黒死病)の大流行1348年~1350年、1361年、1369年、1379年 ●1400年には、ヨーロッパ全人口の半分か2/3ぐらいに減少したといわれる。このペストの有様を、「世界の歴史3、中世ヨーロッパ」中央公論1961年刊より一部引用してみる。 | |
1358年 | ジャックリーの乱 ●(フランス)セーヌ川下流域の農民が、百年戦争の惨苦と領主の圧迫に反抗して反乱を起こした。当時パリ市民も戦争に反対して、農民軍と提携の協約を結んだ。しかし実際は、パリ市民軍は農民軍を援助しなかった。農民反乱の参加者は10万人に達したが、3ヶ月で平定された。 |
1381年 | ワット・タイラーの乱 ●(イギリス)東南部一帯で、人頭税の課税と農奴制の廃止などを要求した農民反乱が起こった。反乱は急速に拡大し参加者は10万人をこえた。牧師ジョン・ボールは「アダムが耕しイブが紡いだとき、どこに領主がいたか」と演説し農奴を励ました。 |
東南アジア ●東南アジアは、ユーラシア大陸から突き出た半島と、その先に連なる島々を伝わって、多くの民族のたえまない移動が行われたため、複雑な人種構成をもつ地域が形成された。歴史的にはインド・中国・イスラム・ヨーロッパ勢力による民族移動・交易・布教・植民地化が行われた結果、その政治・経済・文化は大きな影響を受けた。宗教ひとつとっても仏教・ヒンドゥー教・イスラム教・キリスト教がいりまじり重層している。しかし、「多様性のなかの統一」というジャワの古語で、今もインドネシアの格言になっている言葉がある。東南アジアのもつ歴史的な特性が、この言葉に的確に表現されている。 | |
モンゴル世界帝国のその後(イル・ハン国、ティムール帝国、ムガル帝国) ●モンゴル帝国は、チンギスハーン亡き後、元を宗主国として、イル・ハン国、キプチャック・ハン国などの連合国家になっていった。なかでも、チンギスハーンの孫フラグが1258年に建国したイル・ハン国は、西アジア・イスラム世界と深い関係を持った。特筆すべき事件は、1258年イスラム・アッバス朝を滅ぼしたことである。これにより、イスラムのカリフ制は終わりをつげ、アッバス朝のカリフの血縁者はエジプト・シリアを支配するマムルーク朝に亡命せざるを得なくなった。この宗教的指導者であるカリフ制が復活するのは、16世紀のトルコ・オスマン朝まで待たねばならなかった。イル・ハン国とマムルーク朝は、シリアをめぐって覇権争いを14世紀後半まで続けた。もう一つの特記事項は、モンゴル遊牧民(シャーマニズムだった)のイスラム化である。中興の祖といわれるカザ・ハーンのイスラム教への改宗を契機に、モンゴル遊牧民の改宗が急速に広まった。 | |
(騎馬遊牧民族の遺跡)
「シルクロード」 井上靖 『中央アジアの遊牧諸民族は、すでに先史時代から活発に活動していた。そして古代オリエントから鉄器文化を学びとると、飛躍的に発展し、強力な遊牧国家(スキタイ人国家)となった。ギリシャ人からスキタイ、ペルシャ人からサカと呼ばれ、中国の文献では「塞」と書かれ、ペルセポリスの「朝貢者の列」の浮き彫りにも彫られている。・・大草原を疾駆した騎馬遊牧民は、文化を残すということに関してはほとんど無関心であった。・・最初の遊牧文化といわれるスキタイの黄金の品々は「クルガン」と呼ばれる墳墓から発掘される。なかでもカザフのイッシク・クルガンからは今世紀最大の発見のひとつといわれる「黄金人間」が発掘されている。・・』とある。 ●また、漢の武帝の天馬伝説(汗血馬)は、ウズベキスタンのフェルガナ盆地に伝わる話である。(大宛・漢の時代の張騫が情報をもたらした、天馬・汗血馬のことといわれる) |
ティムール帝国とムガル帝国 | |
---|---|
![]() ●ティムールは、零落したチャガタイ人貴族の子として中央アジア・サマルカンドの南のケシュ近郊で生まれた。分裂したチャガタイ人の糾合に成功して、中央アジア・南ロシア・北インドを支配下におさめ、強大なティムール帝国を建設した。1402年アンカラの戦いで、オスマントルコとの戦いに勝利し、オスマンのバャズィド1世を捕虜にした。バャズィド1世は途上で死亡してしまい、オスマントルコでは後継者争いのため、国家の存亡の危機を迎えた。 ●ティムールは中国遠征途中で病没したが、帝国は1507年まで、その子供達が支配した。16世紀になると、北方のウズベクと西方のトゥルクメンの、2つのトルコ系新勢力の圧迫をうけ、1507年ウズベクによってティムール帝国は滅ぼされた。 ●その後、ティムール王族のバーブル(1483年~1530年)は、ティムールの再興をはかったが、ウズベクに勝てず、アフガニスタンからインドに進出しムガル朝を開いた。 ●ティムールの文化は、サマルカンド、ヘラートに豪壮華麗な建造物を建てた。また、長らく遊牧民の粗野だったトルコ語が、初めて文化的な言語となり、トルコ文書語(チャガタイ語)はペルシャ語と並んで、中央アジアで使用され続けられた。 (地図)「ティムールの遠征路」(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊) | |
1392年 | 李氏朝鮮の建国 朝鮮では倭寇との戦いで功績のあった将軍李成桂が、高麗を倒して政権を握り、李氏朝鮮(1392年~1910年)を建てた。英語で朝鮮をコリア(Korea)とよぶのは、高麗(朝鮮語の発音でコーレーKore)に由来する。 |
1368年 | 明の建国(中国) 第1代~第2代皇帝の業績は下段のようである。 |
在位 | 皇帝・元号・業績等 |
---|---|
1368-1398 | 第1代太祖・洪武帝 ●朱元璋は1328年貧農の子として生まれ、紅巾軍の一武将郭子興の軍のもとで頭角をあらわしていった。紅巾軍とは、白蓮教(地下にに潜った仏教系秘密宗教)を奉じる信徒たちによって組織された、元朝に対する反乱軍のことで、頭に紅巾をまいていたことによる。そして1368年朱元璋は、群雄たちをつぎつぎと倒し、南京にて明を建国した。 |
1398-1402 | 第2代恵帝・建文帝 ●1398年太祖・洪武帝が死ぬと、長男の太子・標(すでに死去)の次男が2代目建文帝となった。しかしその叔父燕王(洪武帝の子、のちの永楽帝)との間で骨肉の争いが起きた。燕王は北京にあって隠然たる勢力を有していた。年少の建文帝を輔佐した者たちは学問はあっても、政治や軍事には疎かった。彼らは特に燕王の兵力を削減させるため、圧力を強めた。一方燕王はひそかに挙兵を計画し、ついに反乱となった「靖難の変」。内乱は3年におよんだが、宮廷内の宦官(かんがん)が、建文帝への不満から燕王に内通するものがでた。1403年これを契機に燕王は怒濤の進撃を開始し、ついに首都金陵(南京)を落とし、成祖永楽帝として即位した。建文帝は混乱の中行方知らずとなった。 |
(15世紀~)大航海時代・ルネッサンス・メディチ家・東ローマ帝国滅亡 | |
---|---|
世紀別世界<要旨> 明の誕生とチムール帝国の強大化) ●ヨーロッパでは百年戦争に代表されるように、多くの国で封建諸侯(貴族)間の争いが王位継承とも絡んで激しく展開され、封建諸侯の没落と王権の強化をもたらした。 ●ポルトガル・スペイン王国はイベリア半島からイスラム勢力を追い、ともに大航海時代を推進しはじめた。 ●ユーラシア大陸中央部では、モンゴル帝国の再興を目指すチムール帝国が強大な勢力を誇った。 ●オスマン・トルコが、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)を滅ぼす。1000年の歴史に幕が下りた。 ●東アジアでは元を倒した明が周辺諸国を朝貢国として従え、南海貿易の確保のため鄭和(ていわ)に大艦隊を率いさせ、インド・アラビア半島・アフリカ東岸にまで軍を送った。 ●15世紀の南シナ海・インド洋・アラビア海は、中国・インド・アラビア・マラッカ・琉球などの商人が行き交う自由な交易活動の場として繁栄した。しかし、これはヨーロッパ勢力の進出を前にした、しばしの平和だった。 *綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」 | |
大航海時代の始まり ●ポルトガル、スペインが、ヨーロッパ人の世界進出の先駆けとなった。従来、ヨーロッパと東方貿易の主導権を握っていたのは、イスラム商人やイタリア諸都市であった。15世紀になると、オスマントルコがバルカン半島や東地中海を制圧するようになった。そこで西ヨーロッパの商人は、直接東方貿易を行うことを、模索するようになった。 (重要語) マルコポーロ「東方見聞録」「胡椒・香料=肉類の防腐剤の役割」トスカネリ「世界地図」「地球球体説」「羅針盤の発明」「エンリケ航海王子(ポルトガル)」「絶対王政」「重金主義」「重商主義」 (ルネッサンスの始まり=イタリア諸都市から) ●ルネサンスの本来の意味は、フランス語で「再生」「復活」を意味し、ギリシア・ローマの古典文化の再生を指した。この文化運動は古典研究を通じて、豊かな人間性と合理性を追求していき、ヒューマニズム(人文主義・人間主義)と言われた。そして自然についても、正しく認識し、自然の法則を発見し、利用していく合理的な科学的思考が生まれた。 (重要語) 「ダンテ」「ペトラルカ」「ボッカチオ」「ジオット」「レオナルド・ダ・ビンチ」「ミケランジェロ」「ラファエロ」「マキャベリ(君主論)・チェーザレ・ ボルジア」 | |
天体観測・時計・羅針盤・緯度経度観測・海図・四分儀の発展 ●ヨーロッパには、中国から羅針盤、イスラムから星の高度の測定技術がもたらされた。イスラム・アストロラーベ(天体の高度、時刻の算出)。四分儀は、ヨーロッパでプトレマイオスの時代から使われていた。 (重要語) 「グリニッジ子午線」「国際地理学会」「国際子午線会議」(現在地の正午の時刻と、基準となる経度(グリニッジ)との時間の差で経度を算出した) | |
なぜ、ポルトガルが真っ先に大航海時代をむかえたのか? ここで、少し歴史をさかのぼってみる。 | |
15世紀 | ![]() (絵)「ポルトガル人の西アフリカ航海」(出典:『大航海時代<ビジュアル版>世界の歴史13』 増田義郎著 講談社1984刊) |
15世紀末 | 連合王国スペイン誕生
|
ジェノヴァ人のコロンブス
|