(世界史)「11世紀~15世紀」イタリア諸都市からルネサンス始まる

世界史

12世紀の日本は平治物語・平家物語の世界である。14世紀、イタリアにルネサンス運動が起こる。
 ヨーロッパの古い中世宗教世界は、教皇や貴族の没落と共に、新たな時代をむかえる。財力をもった商工業者の台頭である。そしてルネサンスとよばれた「再生」「復活」の運動は、豊かな人間性と合理性を追求していくヒューマニズム(人文主義・人間主義)と言われた。そして自然についても、正しく認識し、自然の法則を発見し、利用していくという合理的な科学的思考が生まれていく。宗教ではなく近代合理主義の芽生えである。
目次
世紀別 主要項目
●11~12世紀ごろの世界 都市の発達・十字軍・教皇権・ロマネスク様式からゴシック様式・イコン
●13世紀ごろの世界・・ 十字軍・修道会・チンギス・ハーン・モンゴル帝国・蒙古襲来
●14世紀ごろの世界・・ 英仏百年戦争・ペスト・チムール帝国・明・朝鮮(李朝)
●15世紀ごろの世界・・ 大航海時代・ルネッサンス・メディチ家・東ローマ帝国滅亡

●綿引弘「世界の歴史がわかる本」全三巻三笠書房2000年刊、綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」三笠書房2008年刊、「クロニック世界全史」講談社1994年刊、「丸善エンサイクロペディア大百科」丸善1995年刊から要約・引用した。また「世界の歴史」中央公論社1961年刊より要約・抜粋した。また吉川弘文館「世界史年表」も参考にした。関連する写真、著作からも引用した。また、13世紀~15世紀は、地域別簡易歴史年表を作成し、別枠で追加した。

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簡易通史・14-11(11~12世紀頃の世界)
(11世紀~)都市の発達・十字軍・教皇権・ロマネスク様式からゴシック様式・イコン
世紀別世界<要旨>
(世界的に温暖で安定した気候が続いた。)
●ヨーロッパでは、大開墾時代、中国では宋代の江南の開発が進展した。
●ヨーロッパ北部では、ノルマン民族の侵入。中国北部ではモンゴル族の遼、チベット族の西夏が南部への侵入。
●イスラム世界では、中央アジアのトルコ族(セルジュークトルコ)が台頭した。
*綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」
(ヨーロッパ)

●気候は11世紀~13世紀にかけて温暖期に入った。それにともない開墾事業が発展し、木製の犂(すき・からすき)は鉄犂にかわり、馬や牛による重い犂の使用となっていった。領主、農民による荘園周辺、修道院による森林開発がさかんになった。三圃農法(三年で耕地を一巡させる)が普及し、収穫量も倍増し、人口の増加が著しかった。農業生産の増大は、農業と手工業を分離していき、商工業も発展し、各地に都市が発達した。商業の発達は、都市の手工業の発達をうみ、商人(組合)ギルドから同職(職業別)ギルドが生まれた。また水車の使用が、主要な動力源となった。後に箱型風車から塔型風車(14世紀)の考案がなされた。(オランダ風車が有名)
●都市の発達は、市政の自治権を領主から獲得するようになり、自由都市と呼ばれるものもあった。特に、イタリアのベネチア、ジェノバ、フィレンツェ、ピサなどの各都市は、周辺の農村地帯を含む共和国に発展した。ドイツでは、リューベックやミュンヘンなどの有力都市が、皇帝直属の自由都市として諸侯と対抗するようになった。
●なかでもベネチアの商人達は、キリスト教徒の聖地巡礼を請負い、パック旅行を斡旋し利益を上げた。エルサレム巡礼旅行の実績は、のちの十字軍の遠征でも力を発揮した。(聖地エルサレム、サンチャゴ・デ・コンポステーラ(スペイン)、ローマ(イタリア)、カンタベリー寺院(イギリス)、サン・マルコ聖堂(ベネチア)等。

1055年 イラク、セルジューク朝トゥグリル・ベク、バクダードに入城。セルジューク朝の基盤を築いた。
1066年 フランス、フランス諸侯のノルマンジー公ウイリアムが、イングランドを征服して、ノルマン朝をつくった。イギリス、ヘースティングズ近郊でイングランド王ハロルド二世に勝利した。
1072年 スペイン、アルフォンソ六世が、カスティリア・レオン・ガリシアの3国を再統合した。またポルトゥカレ市一帯を征服し、ポルトガル王国の起源を築く。
1077年 イタリア、神聖ローマ皇帝ハインリヒ四世、ローマ教皇グレゴリウス七世に許しを請う。「カノッサの屈辱」
1088年 フランス、クリュニー修道院で、ヨーロッパ最大の聖堂建設が始まる。
ロマネスク様式の最高美といわれた。フランス革命で解体。
1096年
第1回十字軍


●第1回十字軍東方へ出発。直接の原因は、ビザンツ帝国がセルジュークトルコの脅威を受けるようになったことである。
●1095年、ビザンツ皇帝アレクシウス一世は、教皇ウルバヌス二世に支援を要請し教皇がそれに応えた。教皇ウルバヌス二世は、

「イスラムの圧迫に苦しむビザンツ帝国を救う。聖地エルサレムをイスラムから奪回する。これは聖戦であり、戦いに参戦する者は、すべての罪が許される。」

と明言して十字軍参加を呼びかけた。
(地図)「第1回十字軍遠征」(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)

1099年 ●第1回十字軍、聖地エルサレムを占領し、イスラム教徒とユダヤ教徒の虐殺を行った。
(絵)「宗教騎士団」のイメージ(例 ホスピタル騎士団-11世紀ヨハネの巡礼宿泊所の守備隊。テンプル騎士団-1128年ソロモン神殿跡に本拠を置いた。チュートン騎士団-1198年入団資格がドイツ人のみ。これらは全て、ローマ教皇のみに忠誠を尽くした軍隊。)
(出典:『丸善エンサイクロペディア大百科より』丸善1995年刊)
(西ヨーロッパ、皇帝権と教皇権とキリスト教)

●皇帝は封建諸侯統制のために教会を利用し、そのための聖職者の叙任権を確保しようとした。教皇は、教会改革として叙任権を取り戻すために、両者は激しく争った。「カノッサの屈辱」で教皇権は優位にたち、13世紀インノセント(インノケンティウス)三世の時代に、教皇の権威は絶頂に達した。
●中世のヨーロッパは「信仰と教皇の時代」といわれた。中世文化はキリスト教文化だった。そして神学が諸学の中心におかれた。美術、文学、教会建築、壁画、ステンドグラス、彫刻、音楽等、すべてがキリスト教に関連した。教会建築は11世紀のロマネスク様式から、13世紀のゴシック様式へと発展していった。ビザンティン様式は東ローマ帝国様式。下はイタリア、フランス、ドイツの聖堂写真。

大聖堂の例

●(写真)イタリア、アッシジ、サン・フランテェスコ聖堂。1228年~1253年完成。上堂部分がゴシック様式、下堂部分がロマネスク様式。ジェット「小鳥への説教」フレスコ画あり。(出典:「ルーブル美術館Ⅲ」日本放送出版協会1985年刊)
●(写真)イタリア、ヴェネツィア、サン・マルコ大聖堂。828年創建、11世紀~15世紀に改築。ビザンティン様式。(出典:「世界遺産夢紀行」2002年講談社刊)
●(写真)イタリア、ピサの大聖堂、ドゥオーモ広場。11世紀~14世紀に建築。ロマネスク様式。右から鐘楼(ピサの斜塔)、大聖堂、洗礼堂。都市国家ピサの財力をつぎ込んだ。(出典:「世界遺産夢紀行」2002年講談社刊)


●(写真左)フランス、シャルトル大聖堂。1145年~1155年。盛期ゴシック様式。「聖母マリアの聖衣」(出典:「ルーブル美術館Ⅲ」日本放送出版協会1985年刊)
●(写真中)フランス、パリ。ノートルダム寺院1163年~1245年頃完成。(出典:「世界の旅別巻」1965年小学館刊)
●(写真右)イタリア、フィレンチェ大聖堂とサン・ジョヴァンニ洗礼堂。手前の八角形の建物が洗礼堂、そのむこうがサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂、とジェットの鐘塔。1296年~1461年。晩期ゴシック様式。(出典:「ルーブル美術館Ⅲ」日本放送出版協会1985年刊)

●(写真)ドイツ。ケルン大聖堂。初代完成が4世紀、2代目は818年に完成し、1248年の火災により焼失。3代目は1248年に建設がはじまり、2度の世界大戦後1956年に復元。(出典:「世界の旅11ドイツ」河出書房新社1969年刊)

1140年頃 (イタリア)沿岸諸都市が地中海を制圧し、東方交易の拠点となり莫大な富を得る。後のルネサンスの経済的基盤となっていく。ヴェネツィア、ジェノバ等。
1147年フランス (フランス)ドイツ王コンラード三世とフランス国王ルイ7世、第2回十字軍出発。
1171年 (エジプト)カリフ死によりファーティマ朝滅亡。サラーフ・アッディーン(サラディン)、アイユーブ朝創始。
1187年 (エルサレム)サラーフ・アッディーンが聖地奪還。
1189年 (神聖ローマ帝国)神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世、第3回十字軍出発。フランス国王フィリップ二世も参加。
1189年 (イギリスリ)チャード一世、イングランド王に即位する。第3回十字軍に合流。1192年、サラーフ・アッディーンと休戦協定を結ぶ。

(重要語)
○アッコ(アッカー、アッコン)第1回十字軍よりパレスチナの中心都市、軍事拠点で港湾都市。1104年~1291年にかけて十字軍とイスラムの攻防拠点となるが、1291年落城。
○大学の創立。イタリア、ボロ-ニャ大学(法学、ヨーロッパ最古の近代総合大学11世紀創立)、サレルノ大学(医学、ヨーロッパ2番目に古い)。フランス、パリ大学(ノートルダム寺院付属学校から。12世紀前半創立)。イギリス、オックスフォード大学(12世紀創立)、ケンブリッジ大学(13世紀創立)。

●中世社会の様子を、「世界の歴史3、中世ヨーロッパ」中央公論1961年刊より一部引用してみる。

中世社会のパノラマ。
 ・・・・・人災の最たるものは大小無数の戦争で、戦争に火事はつきもの、というより放火は戦争の正当の手段で、どの軍隊も放火隊をもっていた。彼らは計画的に市や村を焼き払い、収穫物に火をはなった。敵の力を殺ぐためには味方の集落に火をはなち、穀物を焼きはらうことも珍しくなかった。大都市が戦争の舞台となったときの光景はすさまじいかぎりである。人々はいたるところでいっせいに火をはなつ。狭い通りは逃げまどう人と家財とでいっぱいになり、そのうえに塔や修道院などの大きい建物が焼けおちる。家畜は狂いはしり、女子供は泣きさけびながら煙にまかれてたおれる。ときには火をはなった軍隊すらが、城門を出るのに苦労するのである。だが勝ちほこった軍隊は、「これで心配のたねもなくなった。ボルドーは火の海のなかにある。われわれは今朝よりはるかに強くなった」とほこらしげに言う。 農業の生産力が低く交通運輸の未発達だった中世での飢饉の恐ろしさは格別だった。しかもおよそ四年に一度ぐらいのわりで起こり、貯えの乏しい下層民は餓死をまぬかれず、富裕なものすらもときに辛うじて生命をつないだのであった。

下

●法皇を頂点とするピラミッド。「世俗の支配者が誤りをおかせば教会によって裁かれる。聖職者が誤りをおかせばその上司によって裁かれる。法王はしかし神以外に責任をおうことがないから、人間によって裁かれることはありえない」と法王権の最盛期最後をかざるボニファチウス八世が述べた。

(重要語)
○「教会裁判権」「イギリス王ジョン破門」「異端」「異端審問権」「教会・唯一の主・唯一の信仰・唯一の洗礼」「邪教」「魔女」「悪魔」「魔術」


(写真左1)ジェット「小鳥への説教」フレスコ画。イタリア、アッシジ、サン・フランテェスコ聖堂。
(出典:「ルーブル美術館Ⅲ」日本放送出版協会1985年刊)
(写真左2)「ウラディ-ミルの聖母」1131年頃、コンスタンティノープルで制作。トレチャコフ美術館蔵。(ロシア)
(写真左3)「聖テオドロスと聖ゲオルギウスを伴う玉座の聖母子」6世紀。聖カテリーナ修道院蔵。(エジプト、シナイ山)
(2,3、出典:「イコン(聖像画)の道」南川三治郞著 河出書房新社1996年刊)


(写真左1)「聖カテリーナ修道院のバジリカ」551年建てられ、1612年現在の形になった。(エジプト、シナイ山)
(出典:「イコン(聖像画)の道」南川三治郞著 河出書房新社1996年刊)
(写真左2)「サンマルコ寺院内部」イタリア ヴェネティア。
(写真左3)「サンティ・コスマ・エ・ダミアーノ」イタリア ローマ
(2,3、出典:『世界の旅8』河出書房新社1967年刊)

1126年 (中国)「金」(1115年、女真族が独立して大金国を建てた)が宋の首都開封を陥落させ、宋が滅亡。1127年、南宋が復興。北に「金」、南に「宋」となる。
1150年頃 ●カンボジア石造建造物アンコールワットが完成する。

(地図左)「アンコールワット」カンボジア、ヴィシュヌ神信仰するスールヤヴァルマン二世が、自らの霊廟として建てた。全て砂岩のブロックを積み上げて造られたクメール美術の傑作。
(写真右)「アンコールトム」アンコール・ワット寺院の北に位置する。12世紀後半、ジャヤーヴァルマン7世により建設されたといわれている。(出典:『世界の旅3』河出書房新社1968年刊)
1156年 ●(日本)保元の乱起こる。武士の時代が始まる。平治の乱後、平清盛の権力確立する。しかし1185年、壇ノ浦で平家滅亡。1192年、源頼朝征夷大将軍に任ぜられる。鎌倉幕府。
●「平治物語」には次のようにある。「平治の乱」が終わり、今度は、平清盛と戦った源実朝が殺された。嫡男の頼朝は伊豆へ流され、常磐御前(ときわごぜん=実朝の側室)の三人の子は出家させられた。今若(いまわか)、乙若(おとわか)、牛若(うしわか=義経)の三人。頼朝の助命をしたのが、池禅尼(いけのぜんに=清盛の継母)とある。頼朝が、平忠盛(清盛の父)との早世した子(家盛)に似ていたからだという。少し引用する。

下

簡易通史・14-12(13世紀頃の世界)
(13世紀~)十字軍・修道会・チンギス・ハーン・モンゴル帝国・蒙古襲来
世紀別世界<要旨>
十字軍とモンゴル帝国の遠征)
大きな特徴は、ヨーロッパでは十字軍、ユーラシア大陸では、モンゴル帝国の大遠征が行われた。これにより文明圏の接触と交流がもたらされ、世界の一体化の先駆けとなった。
●ヨーロッパでは、数次の十字軍の失敗により、騎士階級と教皇権が衰退。王権と商工業者が台頭し、封建制度が揺らいできた。
●モンゴル帝国が史上空前の大帝国を築いた。ロシアのモスクワを含む南半分、中国、朝鮮、ミャンマー、イラン、イラク。
●北インドでは、イスラム政権のデリースルタン朝。
●インドネシアでは、マジャパヒト王国(モンゴル軍を撃退した)が成立。
*綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」
1204年
第4回十字軍破門される

第4回十字軍は、調達金不足のため、ヴェネティア(ヴェニス)商人に、敵対的なザマを攻撃することを要求され実行。怒ったローマ教皇インノセントは十字軍を破門した。破門された十字軍はエジプトに向かわず、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを攻撃、陥落させた。ヴェネティアと十字軍は略奪品を折半し、フランドル伯ボードアンを皇帝として、ラテン帝国を樹立した。900年の繁栄を極めたコンスタンティノープルは、略奪と蛮行によりいっきに荒廃した。

1210年 バチカンの聖フランテェスコが「小さき兄弟会」を創設する。聖フランテェスコはキリストの再来とたたえられ、カトリック教会に活力を取り戻させた。
1215年
マグナ・カルタ

イングランド王ジョン、貴族の要求するマグナ・カルタを承認する。法の支配の原則を重視するという考え。

1215年
第4回ラテラノ公会議開催

(ローマ)インノセント三世主宰、第4回ラテラノ公会議開催。全ヨーロッパより400名以上の司教、800名以上の修道院長、諸国の代表団が集まって開かれた。カトリック体制を強化するなかで、過酷な反ユダヤ政策を決議した。これがキリスト教徒によるユダヤ人迫害の始まりといわれる。またドミニコ修道会が正式に認可された。
●十字軍は第6回(1228年)、第7回(1248年)、第8回(1270年)何れも失敗した。そして1291年拠点アッコンが陥落して、200年に及ぶ十字軍は終了した。ラテン帝国は1261年、ジェノヴァの支援を受けた東ローマによって倒された。

1236年 (スペイン)カスティリャ王フェルナンド三世、コルドバを征服。最後のイスラム・ナスル朝(グラナダ王国1230年)が興る。
1241年
ハンザ同盟が成立

(ドイツ)バルト海貿易でハンザ同盟が成立。神聖ローマ帝国のリューベックとハンブルクとの間に同盟が結ばれた。「ハンザ」とは商人の仲間を意味し、外来の商人は排除するという同盟。

1273年
ハプスブルク家登場

(ドイツ)20年近く続いた大空位時代終わり、ハプスブルク家登場。

1206年
モンゴル世界帝国の始まり

(地図)「モンゴル世界帝国」(出典:綿引弘「世界の歴史がわかる本」全三巻三笠書房2000年刊)
(系図)「モンゴル帝国系図」(出典:『丸善エンサイクロペディア大百科より』丸善1995年刊)


●(モンゴル)テムジンがモンゴル統一国家の長に選ばれ、チンギス・ハーンと称する。

「上天より命ありて生まれたる蒼き狼(あおきおおかみ)ありき、その妻なる惨白(なまじろ)き牝鹿ありき。・・・生まれたるバタチカンありき・・」

その子孫がチンギス・ハーンであるとする。

1218年 (中央アジア)ホラズム帝国「オトラル」でモンゴルの使節団が虐殺される。この事件が引き金になって、翌1219年、チンギス・ハーン20万人の西アジア大遠征が開始された。
1220年 (モンゴル)チンギス・ハーン率いるモンゴル遠征軍、ホラズム攻略。(中央アジアからイラン高原を領有支配)
1227年 (モンゴル)チンギス・ハーン病死。
●キプチャク・ハン国は、チンギス・ハーンの孫のバトゥにより黒海北岸の平原につくられた。
●イル・ハン国は、西征の途上フラグがモンゴル本土での帝位争奪戦の勃発に出会い、そのままイランの地に留まり成立した。
●チャガタイ・ハン国はオゴタイの孫のハイドゥの死後、実権を掌握して成立した。
1234年 (中国)モンゴル軍・宋軍、金を滅ぼす。
1237年 (ロシア)モンゴル(バトゥ)ヨーロッパ遠征軍、モスクワ占領。1240年キエフ陥落。
1241年 (ポーランド)バトゥ率いるモンゴル軍が、ワールシュタット平原でポーランド軍とドイツ騎士団の連合部隊を撃破した。モンゴル軍はこの数年来、北ロシア南ロシアを席巻し、東ヨーロッパに侵入を始めた。この戦いの勝利で、モンゴル軍は西ヨーロッパに攻め込もうとしたが、本国で大ハーン・オゴデイ(オゴタイ)が急死したため、きびすを返した。
1258年 (イスラム)フラグ、バグダ-ドに侵入、イスラム・アッバース朝を滅ぼす。虐殺された人々は80万とも200万ともいわれている。これによりイスラム世界は、精神的支柱であるカリフを失った。
1260年 (モンゴル)フビライが大ハンに即位すると、相続争いが起きる。
1266年 (モンゴル)オゴタイの孫ハイドゥがフビライと対立。ハイドゥの乱勃発。40年間におよぶ戦乱が起こる。
1271年
元の成立

フビライ・ハーンが、国号を大元とする。

1279年 (中国)元、南宋を滅ぼし、中国を統一する。
1273年
●元が日本と東南アジア侵略を開始する。1274年、文永の役。1281年、弘安の役。
●モンゴルの第二次遠征(弘安の役)は、南宋征服後、10万人の中国人を徴兵して決行したが、失敗した。しかしモンゴルは、第三次遠征を企てた。1282年、中国・高麗に大船3000隻の建造を命じ、準備を進めた。また1284年には、ベトナムへ大軍を送り攻撃を開始したが、ベトナムの果敢な抵抗にあい失敗した。この敗戦により、フビライ・ハーンは第三次日本遠征計画を中止した。
(絵)「蒙古襲来絵詞」鎌倉後期1293年頃の作。
●日本では2011年、琉球大らの調査チームが、元寇(げんこう)の舞台となった長崎県で、元軍の沈没船を730年ぶりに発見した。その映像は公開されている。

リンクします朝日新聞社「発見された元寇船の映像を公開 長崎」
YouTube朝日新聞社
モンゴルの大遠征の謎

この謎について綿引弘著「世界の歴史がわかる本」より一部引用してみる。オトラル事件がきっかけとある。

「オトラル事件」を契機に20万のモンゴル軍が動きはじめた!
 モンゴル諸族を統一したチンギス=ハンが周辺諸国に対して一大征服戦争を始めたのは、のちにオトラル事件と呼ばれる一つの出来事がきっかけであった。

下

●北アメリカ文化圏と主な部族、遺跡。コロンブス以前の南北アメリカ大陸には、ヨーロッパ大陸に匹敵する人口があったといわれる。またアステカ人はメキシコ盆地、テスココ湖湖畔に定住して繁栄していく。

(地図)「北アメリカ文化圏と主な部族、遺跡」
(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)
(写真)「太陽の神トナティウの顔」・アステカの「太陽の歴石」重さ24t、直径3.96m。「顔の口からは、石のナイフの形をした舌を外に出し、人間の血と心臓を養分として必要なことを示している。」(出典:『アステカ文明展1974年』メキシコ国立人類学・歴史学研究所、メキシコ国立人類学博物館、朝日新聞社)


(13世紀)簡易地域別歴史年表(横並び)

(この年表はマウスホールで拡大・縮小・移動ができる。)

13世紀

簡易通史・14-13(14世紀頃の世界)
(14世紀~)英仏百年戦争・ペスト・チムール帝国・明・朝鮮(李朝)
世紀別世界<要旨>
(この世紀は、温暖期から寒冷期に入り、飢饉や疾病が多発する不安定な時代。)
●ヨーロッパでは、イギリスとフランス間で100年戦争勃発。1338年~1453年
 (フランドル地方の争奪と王位継承が原因)
●1348年、ペスト大流行。数年間でヨーロッパの人口の1/3が病死した。
●戦争とペストの大流行、農村の荒廃と領主の圧迫に反乱がおき(フランスではジャックリーの乱<1358年>、イギリスではワットタイラーの乱<1381年>等)、領主の没落を決定し、封建制の崩壊がはじまった。
●ユーラシア、中国では、モンゴル帝国が解体し、その再興を図ったチムール帝国が、一時強勢を誇った。
●ロシアでは、モスクワ大公国が自立の動きを強めた。
*綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」
(英仏百年戦争)1338年~1453年


●イギリスとフランスとの戦争で、フランスの王位継承とフランドル地方の争奪が原因で起こった。フランドル地方は、11世紀のノルマン征服以来イギリス領で、早くから毛織物業が発達していた。フランスは、フランドル地方を独占的に支配下におこうとして、イギリスとの対立を深めた。
●このような時期に、フランスでカペー朝が断絶してバロワ朝が成立した。イギリスは、エドワード三世の母がカペー家の出身であることを理由に、王位継承権を主張してフランスに軍を送り、百年戦争が始まった。最初の戦いでは、フランスの重装備(甲冑の重さが60~80kg)の伝統的騎士軍に対して、イギリス軍は、軽装備の歩兵隊(長弓隊)を中核として、縦横無尽の働きでフランス騎士軍を破った。エドワード三世の王子(黒太子)は、自営農民(ヨーマン)を率いて、クレシー、ポワチエの戦いでフランスを破り、フランス北西部の大半を支配した。このことは、中世ヨーロッパを象徴した騎士軍は、もはや役に立たず、封建社会自体が転換していくことになる。
●(兵士の略奪)
兵士達は、略奪によって報奨の一部とした。村または町全体を占領すると、一般的に略奪を行い、住民を放火や剣で殺害した。1347年に、カレーがエドワード三世の手に落ちたとき、イングランド人はみな略奪品を身につけていたといわれる。エドワード黒太子は、1370年リモージュを占拠したとき、略奪を許可し、守備隊を一人残らず殺害した。
(地図)「イングランドの侵入」(出典:『丸善エンサイクロペディア大百科より』丸善1995年刊)
(絵)「エドワード黒太子」(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)

ペスト(黒死病)の大流行1348年~1350年、1361年、1369年、1379年

●1400年には、ヨーロッパ全人口の半分か2/3ぐらいに減少したといわれる。このペストの有様を、「世界の歴史3、中世ヨーロッパ」中央公論1961年刊より一部引用してみる。

「救いを求めて」
・・・・病人が出ると、人々は病人を悪魔といっしょに家のなかに閉じ込めてしまおうとして、戸口を厳重に釘づけにしてしまった。また死人が出た家は焼き払い、それで家のなかの病魔を滅ぼせたと考えた。ときには瀕死の苦しみにあえぎながらもまだ生きている病人を、家ごと焼いてしまったこともあった。むごいことがむごいとは感ぜられぬ異常な状況、雰囲気が人々の心を支配していたのだ。

下

1358年
ジャックリーの乱

●(フランス)セーヌ川下流域の農民が、百年戦争の惨苦と領主の圧迫に反抗して反乱を起こした。当時パリ市民も戦争に反対して、農民軍と提携の協約を結んだ。しかし実際は、パリ市民軍は農民軍を援助しなかった。農民反乱の参加者は10万人に達したが、3ヶ月で平定された。

1381年
ワット・タイラーの乱

●(イギリス)東南部一帯で、人頭税の課税と農奴制の廃止などを要求した農民反乱が起こった。反乱は急速に拡大し参加者は10万人をこえた。牧師ジョン・ボールは「アダムが耕しイブが紡いだとき、どこに領主がいたか」と演説し農奴を励ました。
●反乱軍は、このジョン・ボールやワット・タイラー(屋根屋)のすぐれた指導者に率いられ、国王リチャード二世との会見に臨んだ。しかし国王は、会見に来たワット・タイラーを虐殺し、すぐにジョン・ボールをはじめとする指導部を捕らえ、絞首刑に処し反乱を鎮圧した。しかし、この事件により農奴の解放や、荘園制の崩壊を早め。国王による絶対主義へと傾斜していった。

東南アジア

●東南アジアは、ユーラシア大陸から突き出た半島と、その先に連なる島々を伝わって、多くの民族のたえまない移動が行われたため、複雑な人種構成をもつ地域が形成された。歴史的にはインド・中国・イスラム・ヨーロッパ勢力による民族移動・交易・布教・植民地化が行われた結果、その政治・経済・文化は大きな影響を受けた。宗教ひとつとっても仏教・ヒンドゥー教・イスラム教・キリスト教がいりまじり重層している。しかし、「多様性のなかの統一」というジャワの古語で、今もインドネシアの格言になっている言葉がある。東南アジアのもつ歴史的な特性が、この言葉に的確に表現されている。
●7世紀に、イスラム商人の活動が活発になると、スマトラ島を中心に、シュリービジャヤ王国が成立し、バレンバン港を中心に貿易で600年間にわたって繁栄した。14世紀後半マジャパヒト王国に滅ぼされた。
●ジャワのマジャパヒト王国(1293年~1524年)は、シンガサリ王朝(1222年~1292年)が元との戦いの後、元を撃退した後継者のビジャヤが、寒村のマジャパヒトに新王朝をつくった。この王国について、「インドネシア人の大部分は、壮大さと国家的統一という点で、マジャパヒト王国を民族的、歴史的記念碑と見なしている」とある。
●1351年タイ。アユタヤ朝が起こる。14世紀後半から400年以上、東南アジアの貿易拠点として繁栄していく。

モンゴル世界帝国のその後(イル・ハン国、ティムール帝国、ムガル帝国)

●モンゴル帝国は、チンギスハーン亡き後、元を宗主国として、イル・ハン国、キプチャック・ハン国などの連合国家になっていった。なかでも、チンギスハーンの孫フラグが1258年に建国したイル・ハン国は、西アジア・イスラム世界と深い関係を持った。特筆すべき事件は、1258年イスラム・アッバス朝を滅ぼしたことである。これにより、イスラムのカリフ制は終わりをつげ、アッバス朝のカリフの血縁者はエジプト・シリアを支配するマムルーク朝に亡命せざるを得なくなった。この宗教的指導者であるカリフ制が復活するのは、16世紀のトルコ・オスマン朝まで待たねばならなかった。イル・ハン国とマムルーク朝は、シリアをめぐって覇権争いを14世紀後半まで続けた。もう一つの特記事項は、モンゴル遊牧民(シャーマニズムだった)のイスラム化である。中興の祖といわれるカザ・ハーンのイスラム教への改宗を契機に、モンゴル遊牧民の改宗が急速に広まった。
●1335年イル・ハン国は、建国者のフラグの血統が絶えると、後継者争いが起こり、国家としての実体を失った。そして14世紀末までに、ティムール帝国、アクコユン朝(白羊朝)の征服をうけ、モンゴル遊牧民はその民族性を失っていった。
●イランでは、イル・ハン国の衰退したあと、戦国乱世の時代に入った。イランは、16世紀サファヴィー朝(1501年~1736年)が統一するまで、混乱が続いた。

(騎馬遊牧民族の遺跡)


●「黄金人間」と「天馬伝説(汗血馬)」
●シルクロード沿いにあって、1998年までカザフ共和国の首都であったアルマトゥイ(上の地図ではアルマアタ=ソ連時代の名称)のそばのイッシクシ市で発見された「黄金人間」
(下左写真)「黄金人間」、右写真「天馬」(出典)「シルクロード 大草原をゆくソビエト」 井上靖著 日本放送協会1983年刊


●下に「シルクロード 大草原をゆくソビエト」 井上靖著 日本放送協会1983年刊から一部引用してみる。

「シルクロード」 井上靖
『中央アジアの遊牧諸民族は、すでに先史時代から活発に活動していた。そして古代オリエントから鉄器文化を学びとると、飛躍的に発展し、強力な遊牧国家(スキタイ人国家)となった。ギリシャ人からスキタイ、ペルシャ人からサカと呼ばれ、中国の文献では「塞」と書かれ、ペルセポリスの「朝貢者の列」の浮き彫りにも彫られている。・・大草原を疾駆した騎馬遊牧民は、文化を残すということに関してはほとんど無関心であった。・・最初の遊牧文化といわれるスキタイの黄金の品々は「クルガン」と呼ばれる墳墓から発掘される。なかでもカザフのイッシク・クルガンからは今世紀最大の発見のひとつといわれる「黄金人間」が発掘されている。・・』とある。

●また、漢の武帝の天馬伝説(汗血馬)は、ウズベキスタンのフェルガナ盆地に伝わる話である。(大宛・漢の時代の張騫が情報をもたらした、天馬・汗血馬のことといわれる)
●この地域のトピックスは、「アラル海」が消失へ向かっていることがあげられる。上の地図(1983年頃)では左地図上にある。しかし、最新のGoogleMap(下段)をみると、確かに消え去ろうとしている。

ティムール帝国とムガル帝国

●ティムールは、零落したチャガタイ人貴族の子として中央アジア・サマルカンドの南のケシュ近郊で生まれた。分裂したチャガタイ人の糾合に成功して、中央アジア・南ロシア・北インドを支配下におさめ、強大なティムール帝国を建設した。1402年アンカラの戦いで、オスマントルコとの戦いに勝利し、オスマンのバャズィド1世を捕虜にした。バャズィド1世は途上で死亡してしまい、オスマントルコでは後継者争いのため、国家の存亡の危機を迎えた。
●ティムールは中国遠征途中で病没したが、帝国は1507年まで、その子供達が支配した。16世紀になると、北方のウズベクと西方のトゥルクメンの、2つのトルコ系新勢力の圧迫をうけ、1507年ウズベクによってティムール帝国は滅ぼされた。
●その後、ティムール王族のバーブル(1483年~1530年)は、ティムールの再興をはかったが、ウズベクに勝てず、アフガニスタンからインドに進出しムガル朝を開いた。
●ティムールの文化は、サマルカンド、ヘラートに豪壮華麗な建造物を建てた。また、長らく遊牧民の粗野だったトルコ語が、初めて文化的な言語となり、トルコ文書語(チャガタイ語)はペルシャ語と並んで、中央アジアで使用され続けられた。

(地図)「ティムールの遠征路」(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)


(地図左1)「サマルカンド・レギスタン広場(砂のある広場の意)」メドレセ(イスラム神学校)がコの字型に建つ。
(出典:『丸善エンサイクロペディア大百科より』丸善1995年刊)
(写真左2)「グル・エミール」ティムール一族の廟(サマルカンド ティムールの柩がある)
(写真左3)「復元されたティムールの風貌」(タシケント歴史博物館蔵)
(2と3、出典:「シルクロード 大草原をゆく ソビエト」 井上 靖著 日本放送協会1983年刊)

1392年
李氏朝鮮の建国

朝鮮では倭寇との戦いで功績のあった将軍李成桂が、高麗を倒して政権を握り、李氏朝鮮(1392年~1910年)を建てた。英語で朝鮮をコリア(Korea)とよぶのは、高麗(朝鮮語の発音でコーレーKore)に由来する。

1368年
明の建国(中国)

第1代~第2代皇帝の業績は下段のようである。
(簡略)朱元璋は紅巾軍に加わり、しだいに頭角を現し、紅巾軍の指導者となった。「紅巾の乱」は各地で元を破り、朱元璋は金陵(現在の南京)で即位し、洪武帝と称した。洪武帝は、モンゴル風の風俗を禁止し、漢民族国家と漢民族文化の再興に強い意欲を燃やした。また、一世一元制を定め、皇帝名を年号とした。また行政組織の改革も進め、唐以来の律令を改め、大明律・大明令を制定した。

明の皇帝と業績
在位 皇帝・元号・業績等
1368-1398
第1代太祖・洪武帝

●朱元璋は1328年貧農の子として生まれ、紅巾軍の一武将郭子興の軍のもとで頭角をあらわしていった。紅巾軍とは、白蓮教(地下にに潜った仏教系秘密宗教)を奉じる信徒たちによって組織された、元朝に対する反乱軍のことで、頭に紅巾をまいていたことによる。そして1368年朱元璋は、群雄たちをつぎつぎと倒し、南京にて明を建国した。
●大都(北京)でいまだ勢力を保っていた元朝(順帝)を北伐する。追われた元朝は「北元」とよばれカラコルムに都した。
●中華民族による「中華」の回復。弁髪廃止、モンゴル語使用禁止、モンゴル風姓氏の禁止など。「滅夷興漢」
●行政組織の変更による皇帝独裁化。行政、監察、軍事の三権分立と皇帝直属化。
●民衆の組織化。「里甲制」と「坊廂制」とよばれる人民組織を編成。
●法治主義。法典を整備し、大明律令を制定。中国法制史における、唐律(750年間にわたる)と明律(550年間にわたる)は日本にも重要な影響を与えた。唐律は大宝律令や養老律の手本となり、明律は徳川時代に影響を与え、また明律の後をついだ清律は、明治になって制定された新律綱領に影響を与えた。

1398-1402
第2代恵帝・建文帝

●1398年太祖・洪武帝が死ぬと、長男の太子・標(すでに死去)の次男が2代目建文帝となった。しかしその叔父燕王(洪武帝の子、のちの永楽帝)との間で骨肉の争いが起きた。燕王は北京にあって隠然たる勢力を有していた。年少の建文帝を輔佐した者たちは学問はあっても、政治や軍事には疎かった。彼らは特に燕王の兵力を削減させるため、圧力を強めた。一方燕王はひそかに挙兵を計画し、ついに反乱となった「靖難の変」。内乱は3年におよんだが、宮廷内の宦官(かんがん)が、建文帝への不満から燕王に内通するものがでた。1403年これを契機に燕王は怒濤の進撃を開始し、ついに首都金陵(南京)を落とし、成祖永楽帝として即位した。建文帝は混乱の中行方知らずとなった。

(14世紀)簡易地域別歴史年表(横並び)

(この年表はマウスホールで拡大・縮小・移動ができる。)

階級章

簡易通史・14-14 (15世紀頃の世界)

『コロンブスの探検航路』(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)

(15世紀~)大航海時代・ルネッサンス・メディチ家・東ローマ帝国滅亡
世紀別世界<要旨>
明の誕生とチムール帝国の強大化)
●ヨーロッパでは百年戦争に代表されるように、多くの国で封建諸侯(貴族)間の争いが王位継承とも絡んで激しく展開され、封建諸侯の没落と王権の強化をもたらした。
●ポルトガル・スペイン王国はイベリア半島からイスラム勢力を追い、ともに大航海時代を推進しはじめた。
●ユーラシア大陸中央部では、モンゴル帝国の再興を目指すチムール帝国が強大な勢力を誇った。
●オスマン・トルコが、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)を滅ぼす。1000年の歴史に幕が下りた。
●東アジアでは元を倒した明が周辺諸国を朝貢国として従え、南海貿易の確保のため鄭和(ていわ)に大艦隊を率いさせ、インド・アラビア半島・アフリカ東岸にまで軍を送った。
●15世紀の南シナ海・インド洋・アラビア海は、中国・インド・アラビア・マラッカ・琉球などの商人が行き交う自由な交易活動の場として繁栄した。しかし、これはヨーロッパ勢力の進出を前にした、しばしの平和だった。
*綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」
大航海時代の始まり

●ポルトガル、スペインが、ヨーロッパ人の世界進出の先駆けとなった。従来、ヨーロッパと東方貿易の主導権を握っていたのは、イスラム商人やイタリア諸都市であった。15世紀になると、オスマントルコがバルカン半島や東地中海を制圧するようになった。そこで西ヨーロッパの商人は、直接東方貿易を行うことを、模索するようになった。

(重要語)
マルコポーロ「東方見聞録」「胡椒・香料=肉類の防腐剤の役割」トスカネリ「世界地図」「地球球体説」「羅針盤の発明」「エンリケ航海王子(ポルトガル)」「絶対王政」「重金主義」「重商主義」
(ルネッサンスの始まり=イタリア諸都市から)

●ルネサンスの本来の意味は、フランス語で「再生」「復活」を意味し、ギリシア・ローマの古典文化の再生を指した。この文化運動は古典研究を通じて、豊かな人間性と合理性を追求していき、ヒューマニズム(人文主義・人間主義)と言われた。そして自然についても、正しく認識し、自然の法則を発見し、利用していく合理的な科学的思考が生まれた。
特に、「フィレンツェ」の「メディチ家」の繁栄は、コシモ・デ・メディチと孫のロレンツォ・デ・メディチの時に(1434~1494)全盛を迎えた。この時に多くの大天才達が、フィレンツェに集まった。

(重要語)
「ダンテ」「ペトラルカ」「ボッカチオ」「ジオット」「レオナルド・ダ・ビンチ」「ミケランジェロ」「ラファエロ」「マキャベリ(君主論)・チェーザレ・ ボルジア」

(写真左1)レオナルド・ダ・ヴィンチ 「モナ・リザ」油彩 板 1503年-1506年 ルーブル美術館蔵
(出典:「ルーブル美術館Ⅲ」日本放送出版協会1985年刊)
(写真左2)レオナルド・ダ・ヴィンチ「聖アンナ」油彩 板 1507年-1513年 ルーブル美術館蔵。
(出典:「ルーブル美術館Ⅲ」日本放送出版協会1985年刊)
(写真左3)ラファエロ「カルデルリーノの聖母」板 1505年-1506年頃 フィレンツェ ウフィツィ美術館蔵
(出典:「家庭美術館」平凡社1961年刊)

天体観測・時計・羅針盤・緯度経度観測・海図・四分儀の発展

●ヨーロッパには、中国から羅針盤、イスラムから星の高度の測定技術がもたらされた。イスラム・アストロラーベ(天体の高度、時刻の算出)。四分儀は、ヨーロッパでプトレマイオスの時代から使われていた。
●航法は「コンパスローズ=羅針図」と「ポルトラノ海図」を用い、放射線状に目的の港に32方位線を描き、それにコンパス(羅針盤)を合わせて進んだ。中国、明の鄭和の7度の大航海では、羅針盤による中国の伝統的な航法と、イスラム世界の天体航法の両方を使っていた。航法は、沿岸航法から沖合航法に変わり、三角帆(逆風でもジグザグに風上へと航行できる)や活版印刷術による地図の印刷は、航海技術の革新をもたらした。
●時計は,日時計や水の流量を一定にして時を刻む水時計や砂時計が使われてきた。13世紀末にやっと機械式時計の出現を見た。これは、教会や聖堂の宗教行事や鐘を鳴らす時報のために作られたと考えられる。しかし船の時計は、16世紀のマゼランの航海でも砂時計が使われていた。正確な時計は、船にとって重要な意味をもった。正確な経度が算出できるからである。
●緯度については、天体観測で、正午の太陽の高度や夜の北極星の高度を測ることで算出できた。だから緯度を目安に航法していく緯度航法と、船が進む速度を測る推測法などで航海を行うことが主流だった。経度は、18世紀末になるまで、正確には測れなかった。パリ天文台(1667年)やグリニッジ天文台(1675年)の建築目的のひとつが、正確な経度を求めることにあった。1714年の英国議会でも、委員長アイザック・ニュートンが報告を行い、正確な経度は「時計による方法・木星の衛星の食の利用(ガリレオ・ガリレイ)・月距離法・大砲の利用」などでも、いまだ問題があるとした。1726年のスウィフト「ガリバー旅行記」でも経度測定法は、永久運動、万能薬の発見と同じくらい困難なことと述べられている。
しかしついに、1759年にジョン・ハリソンがクロノメーター(H-4)(81日間で誤差5.1秒)を製作した。そして1770年に完成したクロノメーター「k-1」は、ジェームズ・クックの航海で、高い精度で経度が測定できることが認められた。

(重要語)
「グリニッジ子午線」「国際地理学会」「国際子午線会議」(現在地の正午の時刻と、基準となる経度(グリニッジ)との時間の差で経度を算出した)


(地図左)「14世紀頃のポルトラノ海図」コンパスローズに32の方位線が描かれている
(写真右)「オルテリウスの世界図」1570年の先駆的な世界地図帳の巻頭を飾った。日本はまだ塊となっている。
(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)

(写真左)「イスラムのアストロラーベ」太陽や星の高度を測る。平板式といわれ、測角器の裏は天文計算の計算器になっていた。
(写真右)「中国式湿式羅針盤(左)とヨーロッパの乾式羅針盤(右)」中国では水浮式羅針盤と方位盤が12世紀に一体化し、明代に湿式と呼ばれた。ヨーロッパでは、13世紀に中国のものを改良し、円盤上に指針を置く乾式が生まれた。(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)

なぜ、ポルトガルが真っ先に大航海時代をむかえたのか?

ここで、少し歴史をさかのぼってみる。
(参考・要約)「大航海時代」<ビジュアル版>世界の歴史13 増田義郎著 講談社1984刊
●イスラム帝国は、8世紀にはビザンツ帝国を侵し、メソポタミア、シリア、エジプト、北アフリカへ進み、ジブラルタル海峡を越えてスペインの西ゴート王国にまで侵入した。そしてさらにピレーネ山脈を越えて、フランク王国と戦ったが、破れた。また東へは、中央アジア、インドを次々とイスラム化した。
●9世紀から10世紀にかけて、イスラム世界は、バクダッドを中心に、東アフリカからインド・東南アジア・中国にまで至るインド洋世界を中心に大いに繁栄した。(アラビアンナイトの描いた世界)
●一方中国は、10世紀半ばにはインドを訪問していた。さらに15世紀前半の明の鄭和大艦隊(60隻)は、7回に及んで東アフリカにまで遠征し、交易と中国の威信を世界に示した。
●ヨーロッパの、この繁栄したイスラム世界に対する交易の拠点となったのは、イタリアの諸都市(十字軍の遠征拠点や物流の斡旋でも繁栄してきた)だった。またユダヤ人達は、東(イスラム社会)西(キリスト教社会)の媒介者として活躍した。イタリア諸都市の中でも、大きく栄えたヴェネッィアとジェノヴァは、抗争を繰り返し、14世紀にはついに戦端(キオジアの海戦)を開いた。ヴェネッィアは勝利し、東地中海の通商権を獲得し独占した。
●負けたジェノヴァは西地中海へ向かった。もともとジェノヴァは、12世紀には北アフリカのモロッコと通商関係を結んでおり、ジブラルタル海峡をも越えて活動していた。13世紀には船団を組んでフランドル地方(フランス北部・ベルギー西部・オランダ南部)まで航海するようになった。またこの頃には、大洋航海用の帆船の改良も行われつつあり、14世紀にはカナリア諸島まで航海していた。
●このフランドル地方に向かう船団の立ち寄り港として、ポルトガルの諸港は栄え、特にリスボンは大いに発展し、イタリア人も居住するようになった。もともと海洋国だったポルトガルは、イタリア人との接触で、航海術や造船術をさらに学んだ。
また航海者だけでなく、金融業者・銀行家もジェノヴァやフィレンツェから移住して、ポルトガルの発展を支えた。
●またポルトガルの王室自身も造船所を持ち、30隻以上の帆船を所有する大船主となっていた。15世紀の初めには、各港には、年に4~5百隻が出入し、ポルトガルは、地中海世界と大西洋沿岸のヨーロッパ世界をつなぐ役割を果たしていた。国王以下多くの貴族は出資者となり、さかんに航海・貿易を行っていた。
●船も発展し、イスラム船の帆を取り入れ考案された、3本マストに三角形の帆を張った「カルベラ船」が建造された。のちのコロンブスやヴァスコ・ダ・ガマの航海でも使われたといわれる。

(絵左)「カルベラ船」(写真右)「ゴールデン・ハイド号(復元)」フランシス・ドレイク(イングランド)の世界周航(1577~1580年)の旗艦(出典:『大航海時代<ビジュアル版>世界の歴史13』 増田義郎著 講談社1984刊)

15世紀 ●ポルトガル王(エンリケ王子も含む)は、イスラムに対するレコンキスタと、キリスト教世界の拡大と、アフリカにあるという伝説、プレスター・ジョンを王とするキリスト教国の探究も目的としていた。1415年のアフリカ「セウタ」の攻略、海路と陸路による西アフリカ探検など、単にインド航路の発見のためだけではなかった。1488年バーソロミュー・ディアスの「喜望峰」到達は、伝説のキリスト教国の入り口に達したという「希望」から、国王が命名したという。
(絵)「ポルトガル人の西アフリカ航海」(出典:『大航海時代<ビジュアル版>世界の歴史13』 増田義郎著 講談社1984刊)
15世紀末
連合王国スペイン誕生

●スペインイサベル女王が、カスティリャ女王に、夫君がアラゴン国王となり、連合王国スペインとなる。
(右地図)「15世紀末のスペイン」(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)

ジェノヴァ人のコロンブス


●このような時代背景の中で、ジェノヴァ人のコロンブスが、太平洋航路によるアジア到達を目指して、ポルトガル王に許可と援助(投資)を求めたが、断られた。コロンブスはその後スペイン(多くのイタリア人が移住していた)へ移り住み、今度はカスティリャのイサベル女王に援助要請を続けた。ポルトガルは、アフリカ喜望峰発見により、大西洋横断インド航路には興味を失っていた。その後スペインの教会修道士達の援助や、同郷人のジェノヴァ商人達の資金援助により、イサベル女王の謁見に成功し、1492年のグラナダ(イスラム)の陥落を機に、女王の同意を得た。キリスト教会の新たな世界への布教と、コロンブスの事業収益の期待から、同意と投資を受けたわけである。だからアメリカでのコロンブスは、探検ではなく、事業利益を出すことが最大目的だったわけである。後年コロンブスは、告発(過重労働強制、インディオに対する戦争行為など)により逮捕され本国スペインへ送還された。
それに対してコロンブスは次のように抗議した。「私は新世界をわれらが国王ならびに女王両陛下の支配下におき、貧乏なスペインを世界一の富裕国にした」と。
●このコロンブスの征服と支配は、1493年~1496年の3年間で、300~400万人いたと推定されるエスパニョーラ島の住民の2/3の生命を奪った。本国では、期待された黄金や香料(発見されず)は少なく、コロンブスの植民事業に対する失望が広がった。焦ったコロンブスは収益を上げるため、さらに搾取強め、インディオの捕獲と奴隷貿易に狂奔していった。そして告発を受けた。


(15世紀)簡易地域別歴史年表(横並び)

(この年表はマウスホールで拡大・縮小・移動ができる。)

15世紀


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世界史

Posted by hoshino