(世界史)「11世紀~15世紀」イタリア諸都市からルネサンス始まる
2023年4月16日世界史
ここでは綿引弘「世界の歴史がわかる本」全三巻三笠書房2000年刊、綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」三笠書房2008年刊、「クロニック世界全史」講談社1994年刊、「丸善エンサイクロペディア大百科」丸善1995年刊から要約・引用した。また「世界の歴史」中央公論社1961年刊より要約・抜粋した。また吉川弘文館「世界史年表」も参考にした。関連する写真、著作からも引用した。また、13世紀~15世紀は、地域別簡易歴史年表を作成し、別枠で追加した。
(世界的に温暖で安定した気候が続いた。)
●ヨーロッパでは、大開墾時代、中国では宋代の江南の開発が進展した。
●ヨーロッパ北部では、ノルマン民族の侵入。中国北部ではモンゴル族の遼、チベット族の西夏が南部への侵入。
●イスラム世界では、中央アジアのトルコ族(セルジュークトルコ)が台頭した。
*綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」
●ここでは11~12世紀頃のヨーロッパを中心に、都市の発達・十字軍・教皇権・ロマネスク様式からゴシック様式・イコンなどについて述べる。
(十字軍とモンゴル帝国の遠征)
大きな特徴は、ヨーロッパでは十字軍、ユーラシア大陸では、モンゴル帝国の大遠征が行われた。これにより文明圏の接触と交流がもたらされ、世界の一体化の先駆けとなった。
●ヨーロッパでは、数次の十字軍の失敗により、騎士階級と教皇権が衰退。王権と商工業者が台頭し、封建制度が揺らいできた。
●モンゴル帝国が史上空前の大帝国を築いた。ロシアのモスクワを含む南半分、中国、朝鮮、ミャンマー、イラン、イラク。
●北インドでは、イスラム政権のデリースルタン朝。
●インドネシアでは、マジャパヒト王国(モンゴル軍を撃退した)が成立。
*綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」
●ここでは13世紀の十字軍・修道会・チンギス・ハーン・モンゴル帝国・蒙古襲来などについて述べる。
年・月 | 13世紀~ | ||
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1204年 |
第4回十字軍破門される
第4回十字軍は、調達金不足のため、ヴェネティア(ヴェニス)商人に、敵対的なザマを攻撃することを要求され実行。怒ったローマ教皇インノセントは十字軍を破門した。破門された十字軍はエジプトに向かわず、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを攻撃、陥落させた。ヴェネティアと十字軍は略奪品を折半し、フランドル伯ボードアンを皇帝として、ラテン帝国を樹立した。900年の繁栄を極めたコンスタンティノープルは、略奪と蛮行によりいっきに荒廃した。 |
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1210年 | バチカンの聖フランテェスコが「小さき兄弟会」を創設する。聖フランテェスコはキリストの再来とたたえられ、カトリック教会に活力を取り戻させた。 | ||
1215年 |
マグナ・カルタ
イングランド王ジョン、貴族の要求するマグナ・カルタを承認する。法の支配の原則を重視するという考え。 |
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1215年 |
第4回ラテラノ公会議開催
(ローマ)インノセント三世主宰、第4回ラテラノ公会議開催。全ヨーロッパより400名以上の司教、800名以上の修道院長、諸国の代表団が集まって開かれた。カトリック体制を強化するなかで、過酷な反ユダヤ政策を決議した。これがキリスト教徒によるユダヤ人迫害の始まりといわれる。またドミニコ修道会が正式に認可された。 |
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1236年 | (スペイン)カスティリャ王フェルナンド三世、コルドバを征服。最後のイスラム・ナスル朝(グラナダ王国1230年)が興る。 | ||
1241年 |
ハンザ同盟が成立
(ドイツ)バルト海貿易でハンザ同盟が成立。神聖ローマ帝国のリューベックとハンブルクとの間に同盟が結ばれた。「ハンザ」とは商人の仲間を意味し、外来の商人は排除するという同盟。 |
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1273年 |
ハプスブルク家登場
(ドイツ)20年近く続いた大空位時代終わり、ハプスブルク家登場。 |
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1206年 |
モンゴル世界帝国の始まり
「上天より命ありて生まれたる蒼き狼(あおきおおかみ)ありき、その妻なる惨白(なまじろ)き牝鹿ありき。・・・生まれたるバタチカンありき・・」
その子孫がチンギス・ハーンであるとする。 |
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1218年 | (中央アジア)ホラズム帝国「オトラル」でモンゴルの使節団が虐殺される。この事件が引き金になって、翌1219年、チンギス・ハーン20万人の西アジア大遠征が開始された。 | ||
1220年 | (モンゴル)チンギス・ハーン率いるモンゴル遠征軍、ホラズム攻略。(中央アジアからイラン高原を領有支配) | ||
1227年 | (モンゴル)チンギス・ハーン病死。 ●キプチャク・ハン国は、チンギス・ハーンの孫のバトゥにより黒海北岸の平原につくられた。 ●イル・ハン国は、西征の途上フラグがモンゴル本土での帝位争奪戦の勃発に出会い、そのままイランの地に留まり成立した。 ●チャガタイ・ハン国はオゴタイの孫のハイドゥの死後、実権を掌握して成立した。 |
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1234年 | (中国)モンゴル軍・宋軍、金を滅ぼす。 | ||
1237年 | (ロシア)モンゴル(バトゥ)ヨーロッパ遠征軍、モスクワ占領。1240年キエフ陥落。 | ||
1241年 | (ポーランド)バトゥ率いるモンゴル軍が、ワールシュタット平原でポーランド軍とドイツ騎士団の連合部隊を撃破した。モンゴル軍はこの数年来、北ロシア南ロシアを席巻し、東ヨーロッパに侵入を始めた。この戦いの勝利で、モンゴル軍は西ヨーロッパに攻め込もうとしたが、本国で大ハーン・オゴデイ(オゴタイ)が急死したため、きびすを返した。 | ||
1258年 | (イスラム)フラグ、バグダ-ドに侵入、イスラム・アッバース朝を滅ぼす。虐殺された人々は80万とも200万ともいわれている。これによりイスラム世界は、精神的支柱であるカリフを失った。 | ||
1260年 | (モンゴル)フビライが大ハンに即位すると、相続争いが起きる。 | ||
1266年 | (モンゴル)オゴタイの孫ハイドゥがフビライと対立。ハイドゥの乱勃発。40年間におよぶ戦乱が起こる。 | ||
1271年 |
元の成立
フビライ・ハーンが、国号を大元とする。 |
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1279年 | (中国)元、南宋を滅ぼし、中国を統一する。 | ||
1273年 |
![]() ●元が日本と東南アジア侵略を開始する。1274年、文永の役。1281年、弘安の役。 ●モンゴルの第二次遠征(弘安の役)は、南宋征服後、10万人の中国人を徴兵して決行したが、失敗した。しかしモンゴルは、第三次遠征を企てた。1282年、中国・高麗に大船3000隻の建造を命じ、準備を進めた。また1284年には、ベトナムへ大軍を送り攻撃を開始したが、ベトナムの果敢な抵抗にあい失敗した。この敗戦により、フビライ・ハーンは第三次日本遠征計画を中止した。 (絵)「蒙古襲来絵詞」鎌倉後期1293年頃の作。 |
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●日本では2011年、琉球大らの調査チームが、元寇(げんこう)の舞台となった長崎県で、元軍の沈没船を730年ぶりに発見した。その映像は公開されている。
リンクします朝日新聞社「発見された元寇船の映像を公開 長崎」
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モンゴルの大遠征の謎
この謎について綿引弘著「世界の歴史がわかる本」より一部引用してみる。オトラル事件がきっかけとある。 「オトラル事件」を契機に20万のモンゴル軍が動きはじめた!
モンゴル諸族を統一したチンギス=ハンが周辺諸国に対して一大征服戦争を始めたのは、のちにオトラル事件と呼ばれる一つの出来事がきっかけであった。 イラン高原から中央アジア一帯を支配していたトルコ系のホラズム帝国は、西域地方の西遼(カラーキタイ)を征服して東に成立したモンゴル帝国と境を接するようになった。1218年、チンギス=ハンはホラズム帝国からの使節に対する答礼使節として400人(数には諸説あり)と物資を満載した500頭のラクダから成る大隊商団を送った。一行が国境の町オトラルに到着したとき、その町の長官に襲われ、ほぼ全員が虐殺された。長官はモンゴルに、自分たちの交易の独占権を奪われることを恐れてこの挙に出たのであるが、このオトラル事件が引き金となってペルシアの史家に「この事件が全世界を荒廃せしめ、全人類から住居と財産を奪う結果に至るのである」とまでいわせた、チンギス=ハンの西アジア大遠征が開始されたのである。 |
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●北アメリカ文化圏と主な部族、遺跡。コロンブス以前の南北アメリカ大陸には、ヨーロッパ大陸に匹敵する人口があったといわれる。またアステカ人はメキシコ盆地、テスココ湖湖畔に定住して繁栄していく。 |
※年表は、「クロニック世界全史」講談社1994年刊から、地域別に抜き出して作成した。
(南北アメリカ) ・コロンブス以前の北アメリカには、10の文化圏があり、南北アメリカをたすと、ヨーロッパの人口に匹敵していたといわれる。その後の、ヨーロッパ人がもたらした、虐殺、奴隷使役、伝染病により先住民は激減した。 ・12世紀後半、ペルーインカ帝国の基礎を作る。 |
(西・南・中央ヨーロッパ) ・1204年、イングランド王ジョン、フランスに敗れ、ノルマンディーを失う。 ・1210年、バチカン。聖フランテエスコが「小さき兄弟会」を創設する。 ・1212年、少年十字軍。マルセーユの船主、少年達を奴隷に売る ・1228年、第5回十字軍。 ・1230年、スペイン、カスティリャ王国樹立。 1238年、アラゴン統一王国。 ・1236年、スペインのレコンキスタ、イスラム王国(グラナダ)を残し駆逐する。 ・1248年、第6回十字軍。 1270年、第7回十字軍。 ・1270年頃、スペイングラナダ(イスラム)、アルハンブラ宮殿建築を開始。 ・1273年、ドイツハプスブルク家登場。大空位時代終結。 ・1274年、ヴェネツィアのマルコポーロ、元に到着。 ・1284年、イギリスイングランド王エドワード1世、ウェールズを征服。併合。 |
(東ヨーロッパ・北アフリカ)東ローマ・ロシア・エジプト・トルコ ・1204年、第4回十字軍コンスタンティノープル占領「ラテン帝国」(ヴェネツィアの傀儡)。ビザンツ帝国の衰退(コンスタンティノープルの旧名ビザンチウム) ・1237年、ロシア、モンゴル軍によりモスクワ陥落。 1240年、キエフ陥落。 ・1241年、モンゴル軍、ポーランド軍とドイツ騎士団軍を撃破。本国の大ハーンの急死により戻る。 ・1243年、バトウ、キブチヤック・ハン国(サライ=ヴォルカ下流)を建国。 ・1258年、フラグ、8世紀から続くイスラム(アラブ)帝国(この時アッバース朝)を滅ぼす。イル・ハン国建国。 ・1250年、エジプト、クーデターで、マルムーク朝を創設。 ・1261年、ビザンツ帝国再興。ニカイヤ帝国が奪還。 ・1291年、パレスチナ。マムルーク朝、十字軍拠点アッカーを奪還。 ・1299年、トルコオスマン朝を創設する。 |
(西アジア・中央アジア・南アジア・東南アジア) ・1206年、インド。ゴール朝の武将、独立してデイリーに奴隷王朝を創設する。 ・1211年、インド「奴隷王朝(インド初のイスラム王朝)」支配が確立。(デイリー)。 ・1220年、中央アジア。モンゴル遠征軍、ホラズム攻略。 ・1224年、オゴタイが中国北西部にオゴタイ・ハン国(都エミル)を建国。 ・1227年、チャガタイ・ハン国を建国、中央アジアのアルマリクを首都。 ・1238年、タイ民族最初の国家スコータイ朝開く。 ・1266年、オゴタイの孫ハイドゥが元と対立。ハイドゥの乱勃発。 40年間におよぶ戦乱。 |
(北・東アジア)中国・朝鮮 ・1206年、モンゴル。テムジン、統一国家の長として選ばれ、チンギス・ハーンと称する。 ・1215年、モンゴル。チンギス・ハーン大遠征を開始する。 ・1218年「オトラル事件」翌年、チンギス・ハーン西アジア征服大遠征開始。モンゴル帝国の始まり。 ・1227年、中国。チンギス・ハーン病死。 ・1232年、朝鮮。モンゴル軍、高麗に侵入。1234年、中国。モンゴル軍、金を滅ぼす。 ・1271年、元(モンゴル帝国)大都を首都。 ・1279年、元、南宋を滅ぼす。 ・1274年、マルコ・ボーロ、フビライ・ハンに謁見する。 ・1274年、元、モンゴル軍2万、高麗軍1万数千、北九州を襲う。 ・1281年、元、中国軍10万人と高麗軍で第2次日本遠征を行う。 ・1284年、元、ベトナム(チェン朝)に撃退され遠征に失敗し、第3次日本遠征も中止。 |
(日本) ・1219年、第三代将軍源実朝、鎌倉鶴岡八幡宮で暗殺される。 ・1221年、承久の乱。北条執権幕府、朝廷に対して優位となる。 ・1274年「文永の役」・1281年「弘安の役」元、敗退。 |
(この世紀は、温暖期から寒冷期に入り、飢饉や疾病が多発する不安定な時代。)
●ヨーロッパでは、イギリスとフランス間で100年戦争勃発。1338年~1453年
(フランドル地方の争奪と王位継承が原因)
●1348年、ペスト大流行。数年間でヨーロッパの人口の1/3が病死した。
●戦争とペストの大流行、農村の荒廃と領主の圧迫に反乱がおき(フランスではジャックリーの乱<1358年>、イギリスではワットタイラーの乱<1381年>等)、領主の没落を決定し、封建制の崩壊がはじまった。
●ユーラシア、中国では、モンゴル帝国が解体し、その再興を図ったチムール帝国が、一時強勢を誇った。
●ロシアでは、モスクワ大公国が自立の動きを強めた。
*綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」
●ここでは14世紀の英仏百年戦争・ペスト・チムール帝国・明・朝鮮(李朝)などについて述べる。
年・月 | 14世紀~ |
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(英仏百年戦争)1338年~1453年
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ペスト(黒死病)の大流行1348年~1350年、1361年、1369年、1379年
●1400年には、ヨーロッパ全人口の半分か2/3ぐらいに減少したといわれる。このペストの有様を、「世界の歴史3、中世ヨーロッパ」中央公論1961年刊より一部引用してみる。 「救いを求めて」
・・・・病人が出ると、人々は病人を悪魔といっしょに家のなかに閉じ込めてしまおうとして、戸口を厳重に釘づけにしてしまった。また死人が出た家は焼き払い、それで家のなかの病魔を滅ぼせたと考えた。ときには瀕死の苦しみにあえぎながらもまだ生きている病人を、家ごと焼いてしまったこともあった。むごいことがむごいとは感ぜられぬ異常な状況、雰囲気が人々の心を支配していたのだ。 しかしかれらが考えたいっさいの予防策は、無駄であった。死者はつぎつぎと自分の周囲にふえていく一方だ。ではどうしたらよいか。そうだ、逃げよう。一人が浮き足だつと、隣り近所の者がみな狂ったようにわけもわからず走りだした。町の者は村へ逃げ、村の者はさらにどこか遠いところ、すこしでも病魔におかされていない土地を求めて逃げまどった。ある地方では、人々はみな真っ白な布で顔全体をおおい、死神がどこからも入りこめないようにしてして妻や子を引きつれ、必死になって故郷をあとに移動した。 |
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1358年 |
ジャックリーの乱
●(フランス)セーヌ川下流域の農民が、百年戦争の惨苦と領主の圧迫に反抗して反乱を起こした。当時パリ市民も戦争に反対して、農民軍と提携の協約を結んだ。しかし実際は、パリ市民軍は農民軍を援助しなかった。農民反乱の参加者は10万人に達したが、3ヶ月で平定された。 |
1381年 |
ワット・タイラーの乱
●(イギリス)東南部一帯で、人頭税の課税と農奴制の廃止などを要求した農民反乱が起こった。反乱は急速に拡大し参加者は10万人をこえた。牧師ジョン・ボールは「アダムが耕しイブが紡いだとき、どこに領主がいたか」と演説し農奴を励ました。 |
東南アジア
●東南アジアは、ユーラシア大陸から突き出た半島と、その先に連なる島々を伝わって、多くの民族のたえまない移動が行われたため、複雑な人種構成をもつ地域が形成された。歴史的にはインド・中国・イスラム・ヨーロッパ勢力による民族移動・交易・布教・植民地化が行われた結果、その政治・経済・文化は大きな影響を受けた。宗教ひとつとっても仏教・ヒンドゥー教・イスラム教・キリスト教がいりまじり重層している。しかし、「多様性のなかの統一」というジャワの古語で、今もインドネシアの格言になっている言葉がある。東南アジアのもつ歴史的な特性が、この言葉に的確に表現されている。 |
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モンゴル世界帝国のその後(イル・ハン国、ティムール帝国、ムガル帝国)
●モンゴル帝国は、チンギスハーン亡き後、元を宗主国として、イル・ハン国、キプチャック・ハン国などの連合国家になっていった。なかでも、チンギスハーンの孫フラグが1258年に建国したイル・ハン国は、西アジア・イスラム世界と深い関係を持った。特筆すべき事件は、1258年イスラム・アッバス朝を滅ぼしたことである。これにより、イスラムのカリフ制は終わりをつげ、アッバス朝のカリフの血縁者はエジプト・シリアを支配するマムルーク朝に亡命せざるを得なくなった。この宗教的指導者であるカリフ制が復活するのは、16世紀のトルコ・オスマン朝まで待たねばならなかった。イル・ハン国とマムルーク朝は、シリアをめぐって覇権争いを14世紀後半まで続けた。もう一つの特記事項は、モンゴル遊牧民(シャーマニズムだった)のイスラム化である。中興の祖といわれるカザ・ハーンのイスラム教への改宗を契機に、モンゴル遊牧民の改宗が急速に広まった。 |
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(騎馬遊牧民族の遺跡)
「シルクロード」 井上靖
『中央アジアの遊牧諸民族は、すでに先史時代から活発に活動していた。そして古代オリエントから鉄器文化を学びとると、飛躍的に発展し、強力な遊牧国家(スキタイ人国家)となった。ギリシャ人からスキタイ、ペルシャ人からサカと呼ばれ、中国の文献では「塞」と書かれ、ペルセポリスの「朝貢者の列」の浮き彫りにも彫られている。・・大草原を疾駆した騎馬遊牧民は、文化を残すということに関してはほとんど無関心であった。・・最初の遊牧文化といわれるスキタイの黄金の品々は「クルガン」と呼ばれる墳墓から発掘される。なかでもカザフのイッシク・クルガンからは今世紀最大の発見のひとつといわれる「黄金人間」が発掘されている。・・』とある。 ●また、漢の武帝の天馬伝説(汗血馬)は、ウズベキスタンのフェルガナ盆地に伝わる話である。(大宛・漢の時代の張騫が情報をもたらした、天馬・汗血馬のことといわれる) |
※それぞれのマーカーをクリックするとGoogle Map上の写真などを閲覧できる。
ティムール帝国とムガル帝国 | |
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![]() ●ティムールは、零落したチャガタイ人貴族の子として中央アジア・サマルカンドの南のケシュ近郊で生まれた。分裂したチャガタイ人の糾合に成功して、中央アジア・南ロシア・北インドを支配下におさめ、強大なティムール帝国を建設した。1402年アンカラの戦いで、オスマントルコとの戦いに勝利し、オスマンのバャズィド1世を捕虜にした。バャズィド1世は途上で死亡してしまい、オスマントルコでは後継者争いのため、国家の存亡の危機を迎えた。 ●ティムールは中国遠征途中で病没したが、帝国は1507年まで、その子供達が支配した。16世紀になると、北方のウズベクと西方のトゥルクメンの、2つのトルコ系新勢力の圧迫をうけ、1507年ウズベクによってティムール帝国は滅ぼされた。 ●その後、ティムール王族のバーブル(1483年~1530年)は、ティムールの再興をはかったが、ウズベクに勝てず、アフガニスタンからインドに進出しムガル朝を開いた。 ●ティムールの文化は、サマルカンド、ヘラートに豪壮華麗な建造物を建てた。また、長らく遊牧民の粗野だったトルコ語が、初めて文化的な言語となり、トルコ文書語(チャガタイ語)はペルシャ語と並んで、中央アジアで使用され続けられた。 (地図)「ティムールの遠征路」(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊) |
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1392年 |
李氏朝鮮の建国
朝鮮では倭寇との戦いで功績のあった将軍李成桂が、高麗を倒して政権を握り、李氏朝鮮(1392年~1910年)を建てた。英語で朝鮮をコリア(Korea)とよぶのは、高麗(朝鮮語の発音でコーレーKore)に由来する。 |
1368年 |
明の建国(中国)
第1代~第2代皇帝の業績は下段のようである。 |
在位 | 皇帝・元号・業績等 |
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1368-1398 |
第1代太祖・洪武帝
●朱元璋は1328年貧農の子として生まれ、紅巾軍の一武将郭子興の軍のもとで頭角をあらわしていった。紅巾軍とは、白蓮教(地下にに潜った仏教系秘密宗教)を奉じる信徒たちによって組織された、元朝に対する反乱軍のことで、頭に紅巾をまいていたことによる。そして1368年朱元璋は、群雄たちをつぎつぎと倒し、南京にて明を建国した。 |
1398-1402 |
第2代恵帝・建文帝
●1398年太祖・洪武帝が死ぬと、長男の太子・標(すでに死去)の次男が2代目建文帝となった。しかしその叔父燕王(洪武帝の子、のちの永楽帝)との間で骨肉の争いが起きた。燕王は北京にあって隠然たる勢力を有していた。年少の建文帝を輔佐した者たちは学問はあっても、政治や軍事には疎かった。彼らは特に燕王の兵力を削減させるため、圧力を強めた。一方燕王はひそかに挙兵を計画し、ついに反乱となった「靖難の変」。内乱は3年におよんだが、宮廷内の宦官(かんがん)が、建文帝への不満から燕王に内通するものがでた。1403年これを契機に燕王は怒濤の進撃を開始し、ついに首都金陵(南京)を落とし、成祖永楽帝として即位した。建文帝は混乱の中行方知らずとなった。 |
※年表は、「クロニック世界全史」講談社1994年刊から、地域別に抜き出して作成した。
(南北アメリカ) ・1324年,西アフリカ,マリ帝国,メッカに巡礼。イスラム圈との金の交易で最盛期となる。 ・1341年,カナリア諸島にボルトカルの船団到達。 ・1345年,メキシコ,アステカ族,テスココ湖に到看。テノチティトランの建設を開始。 |
(西・南・中央ヨーロッパ) ・1303年,ローマ。教皇ボニフアティウスハ世,フランス国王との対立で襲撃され,監禁される。 ・1309年,フランス。教皇クレメンス五世,アウィニョンに入城,教皇庁がおかれることになった。 ・1314年,ヨーロッパ全土に大飢饉が広がる。1317年にかけて。 ・1328年,フランス,カペー朝が断絶。イングランド王,王位継承権を主張。 ・1339年,フランス,イングランドと王位継承権をめぐって百年戦争始まる。 ・1341年,ポルトガル王アフォンソ4世カナリア諸島に船団を派遣。大航海時代の幕開け。 ・1348年,黒死病(ベスト)が大流行。1349年までにヨーロッパ全土に広がる。(ユダヤ人の毒の投げ入れ風説で,ジュネーブをはじめ各都市でユダヤ人大量虐殺が起こった) ・1358年,フランス,ジャックリーの乱(農民反乱)おきる。 ・1370年,ドイツ,ハンザ同盟バルト海の支配権を得る。(デンマークを屈服させる) ・1371年,スコットランド。スチュアート朝始まる。 ・1378年,イタリア,ローマ教会大分裂。ローマ教皇とアヴィニヨン教皇。 ・1381年,イギリス。ワット・タイラーの乱鎮圧される。(人頭税の反発や農奴制廃止を要求) ・1391年,スペイン。「血まみれの洗礼事件」反ユダヤの暴動の波が襲う。 |
(東ヨーロッパ・北アフリカ)東ローマ・ロシア・エジプト・トルコ ・14世紀初期,トルコ,オスマン朝,ビザンツ帝国をアナトリア地方で圧迫。 ・1326年,トルコ,ビザンツ帝国のブルサを攻略。オスマン帝国の首都とする。 ・1328年,ロシア。モスクワ公イヴァン,キプチヤツク・ハーン国より大公位を与えられる。 ・1360年,卜ルコ,バルカン半島に大規模な遠征を実施。ビザンツ帝国の重要拠点を次々に征服する。 ・1365年,トルコ,オスマン朝バルカンに進出。ビザンツ帝国のアドリアノープルに遷都する。 ・1380年,ロシア。モスクワ公国,ドン川上流で,キプチヤツク・ハーン国の軍隊を撃退する。 ・1389年,オスマン軍,バルカン諸侯連合軍をコソヴォ平原で撃破。セルビア・ブルガリア・マケドニアを支配する。 |
(西アジア・中央アジア・南アジア・東南アジア) ・1303年,(ハイドゥ)の国,ハイドゥ死後元と和睦する。その後,チャガタイ・ハン国,ハイドゥの国を併合。 ・1331年,インドネシア,マジヤパヒト王国最大の版図となる。 ・1336年,南インド,ヒンドゥー王国ヴィジャヤナガル建国。(以後300年間存続する】 ・1351年,タイで新王朝アユタヤ朝がおきる。(以後アユタヤは首都として400年栄える。) ・1370年,ティムール(チャガタイ・ハン国に仕えた小部族出身)サマルカンドに帝国を興す。その後イル・ハン国を併合し拡大を続け,西アジア全体に勢力を伸ばす。 ・1380年,中央アジア,ティムール,ホラズム遠征を終え,東西トルキスタンを統一支配する。 ・1398年,ティムール,インドに進攻する。 ・1396年,インド,グジヤート王国(海上商業国家)誕生。 |
(北・東アジア)中国・朝鮮 ・1313年,元,官吏任用試験(科挙)再開する。中国人に対する懐柔策か。 ・1328年,元朝,帝位継承をめぐる内紛,2年間におよび混乱する。 ・1335年,元,宰相のバヤン権勢をふるい,混乱と衰退が顕著となる。 ・1351年,元で農民反乱「紅巾の乱」勃発。 ・1356年,高麗,元との関係を絶つ政策を行う。 ・1368年,朱元璋,明を建国し,元の大都(後の北京)を攻略。初代皇帝洪武帝となる。 ・1368年,元はモンゴル平原に退去。首部カラコルム。(北元) ・1380年,高麗軍,来襲した倭寇500隻を鎮浦で撃破する。(李成桂将軍) ・1392年,朝鮮半島,李成桂朝鮮建国。(首都漢陽ソウル) |
(日本) ・1324年,後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕運動を起こすが,失敗する。 ・1333年,鎌倉幕府滅亡。建武の新政。 ・1338年,足利尊氏,征夷大将軍,室町幕府を開く。 南北朝の争乱。 ・1350年頃,前期倭寇(日朝混合の海賊),高麗王朝の沿岸を襲う。 ・14世紀,沖縄商人,南海交易で繁栄する。 ・1378年,3代将軍足利義満,京都室町,花の御所に移る。 ・1392年,南北朝合一。60年に及ぶ内乱が終わる。 |
(明の誕生とチムール帝国の強大化)
●ヨーロッパでは百年戦争に代表されるように、多くの国で封建諸侯(貴族)間の争いが王位継承とも絡んで激しく展開され、封建諸侯の没落と王権の強化をもたらした。
●ポルトガル・スペイン王国はイベリア半島からイスラム勢力を追い、ともに大航海時代を推進しはじめた。
●ユーラシア大陸中央部では、モンゴル帝国の再興を目指すチムール帝国が強大な勢力を誇った。
●オスマン・トルコが、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)を滅ぼす。1000年の歴史に幕が下りた。
●東アジアでは元を倒した明が周辺諸国を朝貢国として従え、南海貿易の確保のため鄭和(ていわ)に大艦隊を率いさせ、インド・アラビア半島・アフリカ東岸にまで軍を送った。
●15世紀の南シナ海・インド洋・アラビア海は、中国・インド・アラビア・マラッカ・琉球などの商人が行き交う自由な交易活動の場として繁栄した。しかし、これはヨーロッパ勢力の進出を前にした、しばしの平和だった。
*綿引弘「一番大切なことがわかる(世界史の)本」
●ここでは15世紀の大航海時代・ルネッサンス・メディチ家・東ローマ帝国滅亡などについて述べる。
年・月 | 15世紀~ |
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大航海時代の始まり
●ポルトガル、スペインが、ヨーロッパ人の世界進出の先駆けとなった。従来、ヨーロッパと東方貿易の主導権を握っていたのは、イスラム商人やイタリア諸都市であった。15世紀になると、オスマントルコがバルカン半島や東地中海を制圧するようになった。そこで西ヨーロッパの商人は、直接東方貿易を行うことを、模索するようになった。 (重要語)
マルコポーロ「東方見聞録」「胡椒・香料=肉類の防腐剤の役割」トスカネリ「世界地図」「地球球体説」「羅針盤の発明」「エンリケ航海王子(ポルトガル)」「絶対王政」「重金主義」「重商主義」 (ルネッサンスの始まり=イタリア諸都市から)
●ルネサンスの本来の意味は、フランス語で「再生」「復活」を意味し、ギリシア・ローマの古典文化の再生を指した。この文化運動は古典研究を通じて、豊かな人間性と合理性を追求していき、ヒューマニズム(人文主義・人間主義)と言われた。そして自然についても、正しく認識し、自然の法則を発見し、利用していく合理的な科学的思考が生まれた。 (重要語)
「ダンテ」「ペトラルカ」「ボッカチオ」「ジオット」「レオナルド・ダ・ビンチ」「ミケランジェロ」「ラファエロ」「マキャベリ(君主論)・チェーザレ・ ボルジア」 |
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天体観測・時計・羅針盤・緯度経度観測・海図・四分儀の発展
●ヨーロッパには、中国から羅針盤、イスラムから星の高度の測定技術がもたらされた。イスラム・アストロラーベ(天体の高度、時刻の算出)。四分儀は、ヨーロッパでプトレマイオスの時代から使われていた。 (重要語)
「グリニッジ子午線」「国際地理学会」「国際子午線会議」(現在地の正午の時刻と、基準となる経度(グリニッジ)との時間の差で経度を算出した) |
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なぜ、ポルトガルが真っ先に大航海時代をむかえたのか?
ここで、少し歴史をさかのぼってみる。 |
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15世紀 |
![]() (絵)「ポルトガル人の西アフリカ航海」(出典:『大航海時代<ビジュアル版>世界の歴史13』 増田義郎著 講談社1984刊) |
15世紀末 |
連合王国スペイン誕生
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ジェノヴァ人のコロンブス
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※年表は、「クロニック世界全史」講談社1994年刊から、地域別に抜き出して作成した。
(南北アメリカ)(アフリカ・北アフリカ) ・1410年年頃、アフリカ、ナイジェリア、ハウサ諸王国栄える。 ・1418年、アフリカ、ギニア探検隊(ポルトガル)マデイラ諸島に漂着。 ・1427年、中央アメリカ。アステカ王国、テスココ王国、トラコパン王国三国同盟を結ぶ。アステカ文化興隆。 ・1430年頃、メキシコ、第4代イツコアトル、アステカ王国の基礎をつくる。 ・1431年、大西洋、アゾレス諸島探検(ポルトガル) ・1438年、ペルー、インカ帝国勢力拡大。第9代皇帝ユパンキ。 ・1445年、セネガル、ポルトガル、ディニス・ディアス、アフリカ最西端(ヴェルデ岬)へ到達。 ・1450年、アフリカ。大ジンバブエ王国衰退する。 ・1464年、ニジェール河畔、マリ帝国の属国から脱却し、西アフリカ最大のソンガイ帝国を築く。 ・1465年、モロツコ、マリーン朝滅ぶ。 ・1471年、ガーナ、ポルトガルの「アフリカ会社」プラ川河口で大規模な金鉱脈を発見。 ・1472年、モロツコ。マリーン朝の王族ワッタース家が、ワッタース朝を興す。 ・1479年、メキシコ。「太陽の歴石」が造られる。 ・1482年、ポルトガル、コンゴ川河口に到達。コンゴ王国と友好関係を結ぶ。 ・1488年、ポルトガル、バルトロメウ(パーソロミュー)・ディアス、アフリカ大陸最南端に到達。ポルトガル国王、インドへの航海の見通しがついたことで、最南端の岬を「喜望峰」と名づけた。 ・1492年、コロンブス、アメリカバハマ諸島に到達。スペインの領有であること宣言。 ・1493年、黄金と奴隷をもとめて、2回目の航海。奴隷狩りを行い、ハイチでは2年間で25万人の半敷が殺されたり自殺したといわれる。コロンブスはこの虐殺をとがめられ、1496年に帰国。 ・アステカ帝国(メキシコ)とインカ帝国{ペルー}が繁栄する。 ・1499年、南アメリカ。アメリゴ・ヴェスプッチ南米沿岸を探検、南北両大陸を「新大陸」と確認。 |
(西・南・中央ヨーロッパ) ・1409年、イタリア、教会大分裂3教皇。 ・1410年、ポーランド。ポーランド・リトアニア連合軍、ドイツ騎士団を破る。ポーランド大国化。 ・1411年、ポルトガル、カスティリャと30年間の講和条約を結ぶ。以後海外進出政策を開始。 ・1415年、フランス、イングランド遠征軍に大敗。100年戦争。 ・1415年、ポルトガル、エンリケ航海王子、対岸のアフリカセウタを攻略。 ・1417年、ドイツ、コンスタンツ公会議、新教皇を選出。ロ-マ教皇グレゴリウス12世、退位。 ・アヴィニョン教皇ベネディクトゥス13世異端として弾劾され廃位。 ・1429年、フランス、イングランド軍が、ジャンヌ・ダルクにより撤退させられる。 ・100年戦争は転機を迎える。 ・1431年、救世主となったジャンヌ・ダルクだが、異端(神のお告げを主張)として処刑された。 ・1447年、ドイツ、グーテンベルク活版印刷を開発。 ・1453年、フランス、100年戦争終結。シャルル7世イングランド軍に勝利する。イングランド、カレーを除いて全面撤退。 ・1455年、イギリス、ばら戦争勃発。王位継承権争い。ヨーク家(白ばら)ランカスター家(赤ばら) ・1469年、スペイン、カスティリャ王女イザベル、アラゴン王子と結婚。スペイン王国の基礎を築く。 ・1474年、ポルトガル。トスカネリ、世界地図を完成。西回り航路を提案、ポルトガル王に献上する。 ・1477年、オーストリア、ハプスブルク家ネーデルラントを領有。 ・1479年、ポルトガルは西アフリカ海岸、カスティリャはカナリア諸島を、それぞれの権利として相互に承認する。 ・この頃、ヨーロッパ、グーテンベルクの活版印刷術、ヨーロッパ各地に昔及する。 ・1479年、スペイン、カスティリャとアラゴン統合、スペイン連合王国成立。 ・1481年、ポルトガル、新国王、エンリケ航海王子の積極的な航海事業を継承する。 ・1485年、イギリス、ばら戦争終結。ヘンリ7世チューダー朝開く。 ・1491年、フランス、シャルル8世、国土統一へ向かう。 ・1492年、スペイン、イスラム王朝グラナダのナスル朝滅亡。アルハンブラ宮殿の鍵を両国王(連合王国)へ渡す。 ・スペインは、キリスト教徒のレコンキスタを完成。ナバラ王国を除き、版図を確定した。その後「ユダヤ人追放令」を発布して、彼等の財産を没収して、結果的に「コロンブス」の計画を援助できた。 ・1494年、教皇アレクサンデル6世のもと、世界を分割する協約に調印する。(トルデシーリャス条約) ・1497年、イタリア、レオナルド・ダ・ピンチ「最後の晩餐」完成。 ・1498年、ポルトガル・フランス。両国であいついでユダヤ人追放令が出される。 ・1499年、イタリア。フランス・ルイ12世、ヴェネツィア軍の協力で、ミラノに入城。 |
(東ヨーロッパ・北アフリカ)東ローマ・ロシア・エジプト・トルコ ・1402年、トルコ。オスマントルコ軍、ティムール軍|こ大敗する(アンカラの戦い)。オスマン存亡の危機 ・1403年、トルコ。オスマン朝バヤズィット1世幽閉中に死亡。このためオスマン朝は一時分裂した。 ・1413年、トルコ。オスマン朝を再統合したメフメト1世が、第5代スルタンに即位。アンカラの戦いで失った領土回復に努める。 ・1422年、オスマン朝ムラト2世、コンスタンティノープルを包囲する。 ・1445年、ロシア。カザン・ハーン国(キプチヤック・ハーン国の後裔)が成立し、ロシアへの侵入を繰り返す。 ・1453年、メフメト2世率いるオスマン朝軍が、コンスタンティノープルを陥落させる。ビザンツ帝国1000年の歴史に幕。イスタンブールと名称変更。オスマン朝の首都とする。 ・1459年、セルビア。オスマン軍、セルビア全土を征服(ベオグラードを除く)。 ・1460年、ギリシア。オスマン軍、アテネをはじめぺロポネソス半島のほとんどを征服する。 ・1462年、ロシア、モスクワ大公イヴァン3世即位。ロシア再統一図る。 ・1468年、バルカン半島。アルバニアの勢力が衰え、オスマン帝国に征服される。 ・1471年、チェコ。ポーランドのボヘミア支配が始まる。 ・1476年、ルーマニア。ワラキア公ヴラド・ツェペシュ・ドラキュラ(小説「ドラキュラ」のモデル)が、オスマン軍に殺される。 ・1477年、クリミア半島。オスマン朝、クリム・ハン国を属国とする。 ・1478年、ロシア、モスクワ大公イヴァン3世、ロシア統一をほぼ完了。 ・1480年、ロシア、モスクワ大公イヴァン3世、モンゴル、キプチヤック・ハーンより独立。ロシア大公国。 ・1480年、イタリア。オスマン軍湾岸都市オトラントを占領する。 ・1481年、トルコ。オスマン朝第7代スルタン、メフメト2世遠征中に病死する。 ・1483年、東ヨーロッパ。オスマン軍ヘルツェゴヴィナを征服。 ・1499年、地中海。オスマン帝国(ギリシア制覇を目指す)がヴェネツィアの海軍基地を攻撃。第2次卜ルコ・ヴェネツィア戦争が始まる。 |
(西アジア・中央アジア・南アジア・東南アジア) ・1405年、中央アジア。ティムール、明朝征服遠征途上急死する。 ・1407年、ベトナム。明軍ベトナムに進軍し、ホー(胡)朝を滅ぼす。 ・1409年、中央アジア。ティムールの第4子が支配者となる。 ・1414年、マレーシア、マラッカ王国イスラムに改宗。中国、西アジア、インドの貿易中継国として繁栄。 ・1414年、インド。ヒズル・ハーンがデイリーを占領し、サイイド朝を創始する。 ・1420年頃、インド。ヴェネツィア出身の旅行家二コロ・ディ・コンティが、ヴィジャヤナガル王国を訪問。 ・1428年、ベトナム。明軍を撃退した指導者レ・ロイが大越を創始する。 ・1432年、カンボジア。タイのアユタヤ朝の軍隊がカンボジアに進攻。首都アンコールを放棄し、2年後プノンペンへ遷都する。 ・1449年、中央アジア。ティムール帝国、皇帝が息子の反乱で殺害される。 ・1451年、インド。デイリーにロ-ディー朝創始。 ・1486年、インド。衰退したヴィジャヤナガル王国で、第2王朝サールヴァ朝創始される。 ・1498年、インド。ポルトガル、ヴァスコ・ダ・ガマ、カリカットに到着。アフリカ最南端をまわり、アフリカ東海岸モザンビーク、モンバサを経由しインドへ向かった。これにより、ヨーロッパ・インド航路が完成した。東方貿易で栄えたイタリア諸都市は大きな打撃を受けることになる。 |
(北・東アジア)中国・朝鮮 ・1405年、中国、明の鄭和大艦隊南海遠征に出発。最大の船は、長さ150メートル、8000トン。 ・1410年、中国、明の永楽帝5度の親征、タタールを討つ。 ・1413年、朝鮮。李朝が郡県の名称を改める。八道制。 ・1417年、中国。明の永楽帝、科挙のための国定教科書、「四書大全」「五経大全」「性理大全」を完成。 ・1421年、中国。明の永楽帝、北京に遷都する。 ・1422年、中国。第6回鄭和の艦隊、本隊はアフリカ(スマトラ)、別隊は東アフリカに到達する。 ・1424年、中国。永楽帝北征中|こ死去。 ・1436年、中国。第7回鄭和の艦隊、南海遠征より帰還する。 ・1443年、朝鮮第4代国王、世宗、朝鮮独自の文字ハングルを完成。 ・1448年、中国。福建省の佃戸、10万人の農民軍の反乱を起こす。 ・1482年、モンゴル。チンギス・ハーンの子孫、バトウ・モンケ、チンギス家の再興と、モンゴルの再統一の端緒となる。 ・1495年、朝鮮。李朝の世宗が没し、李朝動乱期に入る。 |
(日本) ・1419年対馬、朝鮮軍に襲われる。倭寇の報復。 ・1429年、沖縄。琉球統一抗争の結果、中山王尚巴志(しようはし)が琉球王国を建国した。 ・1443年、日本。対馬国の宗貞盛、李朝との貿昜特権を獲得する。 ・146 7年、応仁の乱はじまる。畠山氏の家督争いが拡大。 ・1477年、応仁の乱終わり。戦国時代始まる。 ・1488年、加賀の国、一向一揆により「百姓の持ちたる国」成立。 ・1496年、蓮如、石山本願寺を創建する。 ・1498年、東海・近畿地方に大地震と津波が発生、2万6000人ほどが亡くなる。 |