(歴史)大日本帝国陸海軍と「アジア・太平洋戦争」⑤2.26事件勃発


(右写真)「Google ストリートビュー」から切り抜いた東京・九段会館(撮影日2017/10)(左写真)「憲兵のものものしい警備に守られた、戒厳司令部になった東京・九段の軍人会館」(1936/2)(出典)「2.26事件と昭和維新」新人物往来社1997年刊

日本は国際連盟を脱退し中国侵攻を加速する。そして2.26事件が起こる
ここでは最初に経済の数字をあげる。日本は大蔵大臣が井上準之助から高橋是清に代わり、財政・金融政策を変えた。そして世界恐慌のなか日本はいち早く不況を克服したといわれている。この時代を理解するためにも、ある程度経済の意味するところを知っておきたい。
●次に年表では日本国内の政治・経済・事件を、昭和8年から昭和11年の2.26事件頃までを書き出した。この期間の特筆すべきことは、中国大陸では日本軍が満州国を足場にして熱河省、河北省へ侵攻したことである。これにより国際連盟総会は日本の満州国を認めず、反発した日本は国際連盟を脱退した。国内では「国体明徴運動」による絶対的天皇制と軍部独裁体制への思想弾圧が進んだ。そして同時に右翼によるテロ未遂事件や陸軍青年将校による政府転覆計画が連続して発覚した。そしてついに陸軍内部の皇道派である急進過激派は、2.26事件(昭和11年2月)を起こした。帝国陸軍といっても派閥争いは激しく一枚岩であったわけではない。
●2.26事件のところでは、陸軍の思想について、戦前の日本精神などの論理的根拠となった大川周明「大東亜秩序建設」による「大東亜共栄圏」の思想、2・26事件の青年将校たちの思想的根拠となった「北一輝」の「日本改造法案大綱」などの一部を引用した。また2・26事件の下士官や兵士達の体験をまとめた埼玉県編集発行(1981年)の「2・26事件と郷土兵」や、2.26事件判決文を引用して青年将校の思想を探ってみたい。
●最後に「統帥権」と「シビリアンコントロール」について、アメリカ合衆国の憲法と比較してみる。日本では現実論は弱く理想論、建前論が強いようである。

目次
ピックアップした項目 内容
★政府の財政支出の拡大と変化(特に軍事費の増加)による産業構造の変化と新興コンツェルンの出現 ●この時代、日本の産業構造は変化し重化学工業が発展した。その大きな要因は政府による財政支出の拡大であり、なかでも軍事費の拡大であった。また政府や関東軍による満州の資源を利用した大規模な重化学工業の開発があり、朝鮮においても新興コンツェルンを中心に重化学工業の進出が続いた。当然ながら軍事費拡大を求めたのは軍部ではあったが、国家としてもそれを求めたのである。そして新興財閥といわれた「日産コンツェルン」「日窒コンツェルン」「森コンツェルン」「日曹コンツェルン」「理研コンツェルン」が生まれる。
★国内政治・社会年表
昭和8年《1933年》~昭和10年《1935年》
●下段では、内閣ごとに主な流れを記入し、各年表にリンクした。
(国内政治・社会年表)

(年ごとに年表にリンク)

年・内閣 昭和8年(1933年)から昭和10年(1935年)までの主要な流れ
昭和8年(1933年)
斎藤実内閣
●満州では、1/3関東軍が山海関を占領し、熱河作戦を開始した。満州国は熱河省もその領土であると宣言して侵攻したのである。前年の12月、日本の満州国問題を討議する国連の臨時総会が開かれ、日本はリットン報告書を激しく非難し、国内においても反発や国際連盟脱退の動きが強まっていた。そんななかでの熱河作戦の開始は、連盟の対日感情を悪化させ、2/24国際連盟総会は満州国不承認などの対日勧告案を採択した。そこで3/27、日本は正式に国際連盟を脱退したのである。

下

昭和9年(1934年)
斎藤内閣→岡田啓介内閣
●政治面では、1月「時事新報」が「番町会を暴く」という連載を開始した。この番町会とは郷誠之助を中心とした財界の気鋭のグループで、後に台湾銀行からの「帝人株式」の斡旋で斎藤内閣が倒閣する「帝人事件」の発端となった。
7/3斎藤内閣は帝人事件の責任をとり総辞職。7/4重臣会議が開かれ、海軍大将岡田啓介を全員一致で推挙し7/8岡田内閣が成立した。

下

昭和10年(1935年)
岡田啓介内閣(翌年2.26事件勃発、総辞職)
●中国大陸では、1月、ソ連から満州国に北満鉄道譲渡の関する協定が成立する。4月、満州国皇帝溥儀が来日する。溥儀はこの訪日によって自らが至高の権威をもったと錯覚するに至ったと自伝で自嘲したという。6月、「梅津・何応欽協定」、さらに「土肥原・秦徳純協定」が成立する。これは軍部による華北分離工作であり、塘沽停戦ラインからさらに南下侵攻しようとする軍部の工作であった(11/25冀東防共自治委員会成立、12/11冀察政務委員会成立)。
10/19毛沢東率いる第1方面軍が、1万2500kmにわたる「長征」を終え、陝西省保安の呉起鎮に到着し第15軍団と合流した。この長征途上共産党中央は「8.1宣言」を行い、内戦を停止し国家民族の危機にあたり一致協力して抗日民族統一戦線の結成を呼びかけた。

下

★「2.26事件」の勃発
昭和11年(1936年)2月26日。
北一輝「日本改造法案大綱」大川周明「大東亜秩序建設」
●特に「2.26事件」後、陸軍統制派は「粛軍」により皇道派を一掃し、軍部は政治的発言力を強め、軍部による戦争国家改造をはじめていく。日本の海外膨張(侵略)の理論的(精神的)根拠を「天皇制」に置いたのである。そして軍部の独立を、自ら天皇の大権を犯しているにもかかわらず「統帥権干犯」といって、正当化したのである。軍事独裁である。
★帝国陸海軍の統帥権思想。
統帥権干犯とはどういう意味か。
日本の自衛隊法とアメリカ合衆国の憲法と「大統領戦争権限法」の紹介。
●この統帥権の問題については、新陸軍読本と海軍読本から統帥権のところを抜き出してみる。陸海軍の主張する「統帥権」の意味がわかる。軍部は政府に対して、「政府は第1次ロンドン会議で、天皇の大権である兵力量を勝手に外国と決めた」ことを「統帥権干犯」と主張した。だが「満州事変の際、関東軍は天皇の命令を待たず軍事行動を起こし、かつ朝鮮総督は朝鮮軍を命令を受けずに勝手に越境させた」ことの方が「統帥権干犯」であることは明白である。この問題は現代における「シビリアンコントロール」とも関連してくる。軍隊の統帥権を誰が握るかは国家の大問題である。

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★財政支出の変化、軍事費の増大と「国債の日銀引き受け」。それによる重工業の発展、そして新興コンツエルンの出現。

財政支出の変化、軍事費の増大


●最初に政府の一般会計の歳出(昭和1年・1926~昭和20年・1945)をみてみよう。軍事費その他の項目の歳出状況がわかる。左表(2枚に分けた)は「昭和財政史3巻・歳計」より「資料Ⅱ統計」「4表一般会計歳出 事項別調」より作成したものである。(単位1000円)
ここでのポイントは1番上の赤色の「軍事費」である。この軍事費の内訳は、別資料の「省別でみた一般会計(経常部と臨時部)」の陸軍省と海軍省を合計したもので狭義の軍事費とされている。そしてこの表の軍事費には、昭和12年度より設置された特別会計(ここでは「臨時軍事費特別会計」)に繰り入れた額が合算されている、とある。
●この額は別項の「一般会計の軍事費」と「臨時軍事費特別会計」の合計からは2重計上となるので差し引いてある。




●左の図(単位は1000円)は上の表の昭和1年から昭和13年までをグラフ化したもので、歳出全体が増大していることと、一般会計に占める軍事費の構成比が伸びていることがわかる。
歳出全体では昭和6年が最低であったが、この年は濱口内閣と若槻礼次郎内閣での井上準之助・大蔵大臣の財政政策が終わった年である。そして6年末に登場したのが大蔵大臣・高橋是清である。政策の違いがはっきりと数値に出ている。
●また下の2枚目のグラフ(単位は1000円)は昭和20年までのものであるが、一般会計における軍事費の割合は昭和16年をピークに低下している。しかしこの軍事費の割合の減少と金額の増減は、次項で述べる「臨時軍事費特別会計」をみなければわからない。
●つまり軍事費の大きさは一般会計における軍事費だけではわからないのである。「一般会計における軍事費」と「臨時軍事費特別会計」を足さないと、その大きさはわからない。その大きさは桁違いである。
なお昭和20年の一般会計の軍事費の支出は、陸海軍復員局の610,367(千円)のみである。アジア太平洋全域から日本へ戻ってくる兵士らの復員費用である。


「一般会計の軍事費」と「臨時軍事費特別会計」の合計(狭義の軍事費)



●昭和12年度(日華事変・日中戦争開始)からは、一般会計とは別に特別会計が設置された。(注)一般会計は毎年度決済を行うが、特別会計ここでは「臨時軍事費特別会計」では事変終結までを1会計年度とした。そしてこの臨時軍事費特別会計の決算整理が行われたのは戦後だった。ただし特別会計はこの臨時軍事費特別会計だけではなく、現代と同じように数多くあった。そして明治期からも4つの大きな臨時軍事費特別会計があった。それは「日清戦争」「日露戦争」「欧州戦争・シベリア出兵」そして「日華事変・太平洋戦争」である。
●左の表(2枚に分けた)は、一般会計軍事費と臨時軍事費特別会計の合計(狭義の軍事費)である。出典は 「昭和財政史4巻・臨時軍事費」である。特に昭和20年(敗戦の年)の臨時軍事費特別会計支出額が低いのは月数が少ないことと、外貨金庫による肩代わりその他経理上の操作で決算額が減らされた、と財政史にはある。
●また左グラフは、「臨時軍事費特別会計」と「一般会計の軍事費」の合計を示したものである。下部の赤の部分が「一般会計の軍事費」であり、積みあがった「臨時軍事費特別会計」は、これまた桁違いの大きさである。なおグラフの黄色は、マイナス部分で、一般会計から特別会計に繰り入れられた額で2重計上のため引いたものである。
●折れ線グラフは、「臨時軍事費特別会計」と「一般会計歳出総計」の合計に対する、軍事費合計(狭義)の構成比である。70%以上が連続する昭和13年以降は、「戦争に勝った、負けた」の問題では無く、国家が破綻するかしないかの国家存亡の重大危機にあったはずである。


「国債の日銀引受け」による通貨供給

●ではこのような財政支出がどうして可能であったのであろうか。それは「日銀引受け」による新規公債を発行するという方式を、犬養内閣の高橋是清蔵相が案出したことによるのである。前任の井上準之助蔵相による緊縮財政は、さらなる不況の深刻化をもたらし、政府の租税収入の激減をもたらした。そして政権の眼目だった非募債方針は変更されていったのである。
こうして政権がかわり高橋是清蔵相が就任すると、「金解禁以来極度に沈滞した産業界に景気の呼ぶ水として通貨を補充し、一般購買力を増加させて、生産力の活動を促すこと(昭和財政史6巻国債)」を目的として、政府の財源を公債増発に求めたのである。
●そしてその方法を、金融市場での国債売買による公開市場操作ではなく、新規発行の国債を「日銀引受け」による発行としたのである。これは具体的には、「公債が日銀引受けで発行されると、同時にその額に応じて政府の国庫預金勘定が増額するが、政府の予算執行とともに、日銀を支払人とする小切手振出しによって、この預金は次々と引き出されて民間に撒布されてゆく・・(昭和財政史6巻国債)」とある。
上図は「昭和財政史6巻・国債」より「第1表国債増減一覧」より年度別の、(年度首現在額)と(発行額+償還額の差引発行額)と(年度末現在額)を抜き出して作図したものである。井上財政当時(昭和5-6年頃)「公債60億円」と言われていた国債総額は、毎年10億円近くを加えて、昭和10年末には98億円となっていき、その後国債の発行は桁違いに増加していくのである。
●この制度の問題は、通貨がそのまま発行されることにあった。もし日銀が引受けた国債の民間への売却がうまくいかなかったり、政府が過度に運用を続ければ、通貨の膨張を生み、悪性インフレに進む危険性があるということである。だから高橋蔵相は時期が来ればただちにこの制度を中止することを念頭に置いていたという。そして高橋蔵相が2.26事件で殺害された理由も、公債漸減政策のなかで軍事費(軍事公債)を削減しようとしたからともいわれる。
●しかしその後跡を継いだ広田弘毅内閣の馬場蔵相は赤字国債を容認し、軍部の要求する巨額な軍事費を認めたのである。

*リンクします「昭和財政史(戦前編)」→財務省・財務総合政策研究所

重工業の発展と新興コンツエルンの出現



●政府の財政支出の拡大(特に軍事費の増加)により、日本の産業構造は変化し重化学工業が発展する。そして新興財閥といわれた「日産コンツェルン」「日窒コンツェルン」「森コンツェルン」「日曹コンツェルン」「理研コンツェルン」が生まれる。
●左の表は「本邦工業生産額」(昭和1年~昭和13年までのもの・単位100万円)で、出典は「ダイヤモンド経済統計年鑑」 昭15年版(第6回)ダイヤモンド社 編 昭和11-15年刊である。そしてそれをグラフにしたのが下の図である。
●特筆すべきことは、昭和7年(1932)から始まる高橋是清大蔵大臣による財政支出の大幅拡大による重工業の発達である。折れ線グラフは、重工業(金属工業+機械器具工業+化学工業)の工業生産額全体に占める割合を示したもので、昭和7年に35%だったのが昭和13年には59.5%に拡大している。日本はそれまでの紡織工業を中心とする軽工業から産業構造を変化させたのである。


*リンクします「ダイヤモンド経済統計年鑑」「本邦工業生産額」昭15年版(第6回) ダイヤモンド社 編 昭和11-15年刊→国立国会図書館デジタルコレクション

日産コンツェルン

●日産コンツェルンは、鮎川義介が義弟の久原房之介が設立した久原鉱業を任され再建し、重工業を中心に企業の吸収合併により急成長したコンツェルンである。久原鉱業は第1次世界大戦中の銅景気にのって、日立製作所、日本汽船、合同肥料などを傘下に収めたが、大戦後経営不振に陥っていた。そして昭和3年12月に鮎川は久原鉱業を日本産業と改称し持株会社として発足させたが低迷を続けていた。しかし昭和6年12月の金輸出再禁止によって、日本産業は金の価格が急騰したことにより業績が一挙に回復した。日産は「再禁成金」と呼ばれたという。下は昭和12年現在の日産コンツェルン傘下の企業の一覧である。
●昭和9年6月1日、「自動車製造」が改称して日産自動車が生まれ「ダットサン」など国産自動車の大量生産に乗り出した。「自動車製造」は昭和8年12月、日本産業(日産)と戸畑鋳物(鮎川が創設したもの)の共同出資で設立された会社である。
(注)なお、豊田自動織機製作所内に自動車部が設置され、社業として国産自動車の研究・開発を行うことを開始したのは昭和8年9/1のことである。(現在のトヨタ自動車創業のはじまりである)
また源流でもある久原鉱業の鉱山部門は日産の名を継がず、日本鉱業株式会社となったが、後に新日鉱ホールディングス、現在のJXTGホールディングスとなっている。ガソリンスタンドの看板でいえば今のところ「ENEOS」グループとみればよいだろう。
(写真)昭和10年4/12、日産自動車横浜工場で、「ダットサンセダン」第1号車がコンベアラインから離れたところ。これは、大量生産方式による、シャーシからボディまでの一貫生産の開始だった。このため、アメリカから多くの技術者が招かれた。左から4人目が、鮎川義介。-写真・日産自動車。一覧表(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

●日産コンツエルンは昭和12年(1937年)には77社(上図)を傘下におさめ、三井、三菱に次ぐ財閥に発展した。そして昭和12年12月、鮎川は日産を「満州重工業開発」に改組・改称し、本社を新京(長春)に移した。しかし日産は、日中戦争を契機とした旧財閥の重化学工業への進出などにより衰退していく。


日窒(にっちつ)コンツェルン

●日本窒素肥料の創業者野口遵(したがう)が電解法によるアンモニア合成工場を世界に先駆け完成し、化学肥料(硫安)製造を軸に電力・化学部門に進出し、朝鮮にも進出して巨大化したコンツェルンである。特徴は、 電気化学を利用し、ダム建設による水力発電を行い、そしてその大量の電力を利用して電気化学工場で肥料、火薬を製造したことである。北朝鮮の鴨緑江にある電源開発のための水豊ダム建設は有名である。この企業体はチッソ(現JNC株式会社の持ち株会社)であり、あの水俣病でも有名である。戦後財閥解体で第二会社新日本窒素肥料(チッソ)、旭化成工業、積水化学工業などに解体された。


森コンツェルン

●森矗昶(もりのぶてる)が創業した日本電気工業と、森が経営に関わった昭和肥料が合併して設立した昭和電工を中心に、化学、アルミニウム製造などに事業展開したのが森コンツェルンである。昭和9年1月に日本沃度(ヨード)株式会社社長の森矗昶は、長野県大町工場にて初の国産原料と国産技術によるアルミ生産に成功した。この日本沃度は昭和9年3月に日本電気工業と改称し生産施設を強化し、純度99%の製品を生産するようになった。そして昭和10年に陸軍航空本部が製品に対して航空機用として実用に供し得ると認めたのである。


日曹コンツェルン

●中野友礼(とものり)が自らの技術をもとに創立した日本曹達(ソーダ)を中心に企業集団を形成したコンツェルンである。


理研コンツェルン

●この理研コンツェルンは異色の存在で、1917年渋沢栄一を設立者総代として財団法人として創設された理化学研究所を中心に形成されたコンツェルンである。もともと科学技術に関する試験研究を総合的に行ない、その成果の応用・普及を目的とする財団法人であったが、大河内正敏が所長になると(大正10年《1921年》就任時の肩書は、子爵・貴族院議員・工学博士・東大工学部教授)、経営危機に陥っていた理研を国際研究機関にまで発展させ、かつ昭和2年(1927年)には研究成果の応用・工業化を進めるため、理化学興業を創立したのである。そして昭和12年(1937年)には、傘下企業33社を数え、製品もビタミンA(この発明により理研は経営危機を脱した)、アドゾール(吸湿剤)、マグネシウム、ピストリングなど多岐にわたった。また各種発明特許権を保有し、科学主義、高賃金・低コスト、良品廉価を経営のスローガンとした。
●この理化学研究所の歴史の中で、特に有名なことは、昭和12年(1937年)4月の仁科芳雄による物理学最先端装置サイクロトロンの完成である。最初に完成したのは大阪帝大理学部であったが、その研究者も理研から招かれた菊池正士の研究によるものだった。そして1週間遅れで理研の仁科研究室で、サイクロトロンが完成し、日本初の実験が行われた。このサイクロトロンは荷電粒子加速器のひとつであり、原子核の構造・性質を研究する装置であった。そしてウラン濃縮と核分裂反応の研究も進めていたが、本格的な実験に入る前に敗戦となり、占領軍によって理研の2基のほか日本の保有する全てのサイクロトロンが破壊された。
(写真)昭和12年4月、完成したサイクロトロンの前で記念撮影する理化学研究所の研究員たち。-写真・大河内元冬(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

★国内政治と社会年表。1933年(昭和8年)から1935年(昭和10年)頃。『昭和2万日の全記録』講談社を中心に要約引用し、朝日新聞の紙面紹介を行った。新聞はその時代をあらわしているからである

年表(1933年~1935年)
満州国と国際連盟 1933年(昭和8年)から
(昭和8年のポイント)
●2/24国際連盟総会は、「リットン報告書採択、満州国不承認を内容とする」19人委員会の報告書を、42(賛成)対1(反対・日本)棄権1(シャム)で可決・採択した。日本の松岡洋右(ようすけ)代表は短く総会の決議は遺憾であると反対を表明し、「さようなら」と日本語で挨拶し議場を去った。左の写真は、4/27横浜港に帰り特別列車で東京駅に着き、熱狂的な群衆の歓迎を受ける松岡代表である(中央)。(写真)「・・松岡は熱狂的な群衆に迎えられ、駅のホームは「全権歓迎」と書かれた白布や日章旗を持った歓迎の人々で埋まった」(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊より抜粋
●手元に、昭和8年3月の小学校(6年生)卒業記念綴方文集がある。ここから「国際連盟を思う」と題された文章を引用してみる。当時の普通の小学生が思っていたことがわかる。これは大正9年生まれの私の父親世代のものである。世論は国際連盟脱退を支持していたのだろう。

「国際連盟を思う」
国際連盟とは、世界大戦後、平和のためにつくられたのではないのか。それで東洋平和をかく乱させようとするのは何故か、僕は思う、連盟のリットン卿の報告書を見よ、皆な支那にかたを以ってゐるのだ。そして日本の力をあはよくば弱めようとするのだ。そして日本の力が弱くなれば全亜細亜の有色人種は、又もや昔のやうに欧米諸国におさえられるのだ。それをたすけるのは、すなわち日本の使命ではないか。その発端として満州国は成立し、日本はそれを承認したのだ。が、国際連盟は、いまだそれを承認せず、それを承認するか否かは、連盟の注目となってゐるのだ。もしそれを承認すれば日本満州国はますます仲よくなります、ますます日本は強くなるのだ。連盟は日本の強くなるのを恐れそれを承認しえず、それで日本は、それを説明すべく、松岡全権をはじめ種大使をジュネーブにおくったのだ。が、連盟はなを、それをきき入れず、不利の方に、みちびこうとするのだ。連盟は不義なり、日本はただちに連盟を脱退せよ。 をはり
満州国のイラスト

mansyuu

●左のイラストは、下の拓殖大学のサイトから、満州帝国地図のうち「満州帝国新行政区画図」(康徳元年《1934年》当時の満州国の省や旗の区分が記載されている地図)をイラストにしたもので、都市名、省名、鉄道などを強調して大きく記入して作成してみた。(図はマウスホールで拡大・縮小・移動ができる)
●遼東半島にあったのが、日本の租借地だった「関東州」である。関東州は満州帝国の一部ではない。「関東」という名も日本の地名ではなく、その西にある「山海関」の東にあることに由来する。「山海関」より西は「関内」といった。万里の長城の内側である。
●吉林の南に第2松花江とある先には、松花江の源流としてあの「白頭山」がある。白頭山は鴨緑江と豆満江の源流でもあり、北朝鮮の革命の聖地である。
●モンゴル(人民共和国)と満州国との国境付近に流れているのが「ハルハ川(河)」である。この付近で起こったのが「ノモンハン事件=ハルハ川戦争」であり、ソヴィエト・モンゴル軍と関東軍・満州国軍との国境紛争(規模からすれば戦争)である。ソヴィエト共産党の指導者(独裁者)はスターリンであり、モンゴルに対するスターリンの共産主義確立のための粛清は、政府指導者から宗教指導者である僧侶にまで徹底して行われたといわれる。「ノモンハン事件」は単に国境紛争ではなく、その後の日本の軍事戦略に大きな影響を与えた。

年・月 1933年(昭和8年)
1933年
昭和8年
1月1日~5月
関東軍、熱河作戦を開始する




●1/1、日本軍は中国山海関で守備隊による謀略事件を起こし、1/2に関東軍が出動し海軍の支援を受け、1/3山海関を占領した。これは関東軍による熱河省侵攻の準備作戦だった。この時点では政府や陸軍中央は熱河省への侵攻に対しては消極的だった。国際連盟は前年12月21日に臨時総会を開き、リットン報告書を議題としたが結論は出ず、日本の満州問題を特別委員会に付託していた状況にあったためである。
(新聞)1/3東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●しかし関東軍司令官武藤信義は、1/28熱河作戦の準備命令を下し、兵力10万人を整えた。
●日本政府は、もし国際連盟総会が満州国不承認を内容とするリットン報告書を採択した場合、連盟を脱退することを2/20の閣議で決定していた。そして2/24の国際連盟総会は特別委員会の報告書を採択したのである。
●2/17各部隊に進軍命令が下り、2/23関東軍は熱河作戦を開始し、3方面から「熱河省」に侵攻を開始した。満州国樹立の際、関東軍は「奉天省・吉林省・黒竜江省」の東3省だけではなく、「熱河省」も満州帝国の領土に含むと宣言し予定通り侵攻を開始したのである。熱河省は、満州国の安定支配に欠かせない地域であり、特産のアヘンも財源上魅力的であった。
●こうして関東軍は、3/2熱河省北部の赤峰を占領し、3/4南部の省都承徳を、戦車隊、自動車隊からなる機甲部隊により占領した。続いて3/10前後に万里の長城の重要関門である古北口、喜峰口、界嶺口等に達し、熱河省を制圧した。兵士達の軍装は、2月下旬の気温が氷点下25度に達する極寒のため、防寒頭巾・外套・フェルト製長靴で身を固めた。この戦闘の中で赤峰に侵攻した第6師団では521人の凍傷患者を出した。
●これに対して蒋介石の国民政府軍は総勢20数万の大軍を投入して反撃に転じた。このため日本軍は3月中旬頃より苦戦に陥り、当初予定した万里の長城までの侵攻を変更し、戦局打開を口実に万里の長城を越えて関内・河北省へ侵攻した。(4/10)
●4/18天皇は関東軍に対して関内からの事実上の撤退を命じたため、関東軍は万里の長城まで撤退した。しかし5月になると再度日本軍は関内へ侵攻を開始し、5月末には中国軍を追って北平(ペーピン=北京)まで30km~50km地点まで迫った。
●5/31日本軍の猛攻に中国側は停戦を余儀なくされ「塘沽(タンクー)停戦協定」を結んで停戦した。塘沽は天津の東。


●上のイラストは、下にリンクした「満州国関連地図」の「經濟上より觀たる滿蒙の道路」という、昭和4(1929)年に南満洲鉄道株式会社より発行された図書の付録の一部を切り取って、関東軍の熱河作戦の行動を簡略してイラストにしたイメージである。茶色は万里の長城で、その上の緑のラインは熱河省の境界を示している。空色の河は「灤河(らんが)」で、4/18国際的に孤立することを憂えた天皇が、関東軍真崎甚三郎参謀次長に「関東軍はまだ灤河の線より撤退せざるや」と詰問して事実上の撤退を命じた河である。
●上写真は3/9長山峪の攻略に続いて万里の長城にせまる、第八師団歩兵第十六旅団の第三十二連隊。同連隊は第十七連隊とともに、翌10日に万里の長城への攻撃を開始し、12日には野砲兵第八連隊も加わり古北口を占領した。-写真・毎日新聞社(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
●(下の新聞)6/1東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

*リンクします「高精細な満州国の関連地図」拓殖大学→
拓殖大学「旧外地関係資料アーカイブ」
1933年
昭和8年
1月
●1/15アメリカ、満州国不承認を列国に通告する。
●1/23国際連盟19カ国委員会、対日勧告案起草のため委員会(英仏など9カ国)を設置。
●1/26「連盟脱退大アジア団結」を主張する近衛文麿ら、東京会館で大アジア協会第1回創立委員会を開催する。
1933年
昭和8年
1月30日~3月24日
ナチス党ヒトラー、ドイツ首相に就任する

●ヒンデンブルク大統領(86)は、1/30シュライヒャーの辞任(2日前)で空席になっていた首相に、ナチス党党首アドルフ・ヒトラー(44)を任命した。副首相には元首相のパーペン(54)が就任した。この内閣はナチス党(第1党)と国家人民党の連立内閣で、シュライヒャー首相を辞任に追い込んだのも、ヒトラーとパーペンによる連立政権樹立のための合意によるものだった。
●ナチス党は第1党であったが、憲法改正に必要な3分の2以上の議席を確保するため、議会の解散と3/5の総選挙実施を閣議決定した。そして投票日6日前の2/27、ドイツ国会議事堂炎上事件(ナチスの陰謀か)をきっかけに共産党弾圧を開始し、2/28には「民族と国家の防衛のための緊急令」を公布し、共産党を含めあらゆる政治的反対者の追放を可能とした。
●そしてナチス党は、3/5総選挙の結果288議席を確保し、3/23全権委任法を441対94で可決した。弾圧にもかかわらず総選挙で81議席を得た共産党は3/9非合法政党とされ、全権委任法に反対した社会民主党は6/21党活動を禁止された。3/24全権委任法の公布・施行により、ヒトラーの独裁政権は確立し、14年間続いたワイマール共和国は終わりを告げた。
(新聞)3/25東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1933年
昭和8年
2月04日
長野県で「教員赤化事件」「2.4事件」起こる

●2/4早朝、長野県特高課は約1000人の警官を動員し、共産党員とそのシンパ層への一斉検挙を開始した。この検挙は4月上旬まで続き、600余人が逮捕されたが、そのうち教員が60余校138人にのぼった。
●この事件の背景にあったのは、昭和初頭からの農村の窮乏があった。小学校での欠食児童の問題や、教員の減俸問題により、伝統的に自由主義教育の土壌をもっていた長野県の教師達は、恐慌の原因解明と解決策を求めて、社会主義・共産主義に接近していったのである。この中心となったのが、大量の検挙者を出した諏訪郡の永明小学校で、プロレタリア教育運動がここから広がった。
(新聞)2/22東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1933年
昭和8年
2月20日
プロレタリア作家小林多喜二、築地署で虐殺される。

●この事件については下記に朝日新聞の記事と講談社の記事を順に引用してみる。どちらが真実だったかわかるであろう。
●東京朝日新聞昭和8年(1933年)2月22日 紙面より。(出典:「朝日新聞に見る日本の歩み」-暗い谷間の恐慌・侵略Ⅱ-朝日新聞社1975年刊)

『小林多喜二氏 築地署で急逝 「不在地主」「蟹工船」等の階級闘争的小説を発表して一躍プロ文壇に打って出た作家同盟の闘将小林多喜二氏(31)は二十日正午頃党員一名と共に赤坂福吉町の芸妓屋街で街頭連絡中を築地署小林特高課員に追跡され約20分にわたって街から街へ白昼逃げ回ったが遂に溜池(ためいけ)の電車通りで格闘の上取押へられそのまま築地署に連行された。最初は小林多喜二といふ事を頑強に否認してゐたが同署水谷特高主任が取調べの結果自白、更に取調続行中午後5時頃突如さう白となり苦悶し始めたので同署裏にある築地病院の前田博士を招じ手當(てあて)を加へた上午後7時頃同病院に収容したが既に心臓まひで絶命してゐた、21日午後東京地方検事局から吉井検事が築地署に出張検視する一方取調べを進めてゐるが、捕縛された當時大格闘を演じ殴り合った点が彼の死期を早めたものと見られている。  (ー後略ー多喜二氏の略歴 )』

●「2月20日 小林多喜二、拷問で殺される」。(出典:「昭和 2万日の全記録 第3巻 非常時日本 昭和7年-9年」講談社1989年刊 )

『小林多喜二、築地署で虐殺される。(常態化する特高の拷問)
 昭和8年二月二〇日正午ごろ、東京赤坂の路上で、作家の小林多喜二が、築地署の特高課員によって逮捕された。築地署に連行された小林は、三時間に及ぶ拷問を受け、この日の午後七時四五分に死亡した。三一歳だった。二十一日夜、小林の遺体は、千田是也、鹿地亘、壺井栄、宮本百合子らの待つ杉並区の自宅へ戻った。拷問の跡は歴然としていた。 「内出血で紫褐色に膨れあがった両方の股、これも靴で蹴上げられた痣のある睾丸、焼火箸を突き刺したらしい二の腕とこめかみの赤茶けた凹み。― 警察は心臓麻痺だといいはり、あらゆる手をつかって屍体解剖を妨害した」(千田是也『もうひとつの新劇史―千田是也自伝』)

●「治安維持法」は昭和3年(1928年)6月の改正で、最高刑を死刑に定めたが、死刑が適用された例はなかった。しかし昭和7年10月逮捕された共産党中央委員の岩田義道も、小林と同様に逮捕後拷問によって死亡した。裁判による刑の執行ではなく、警察署内の取り調べの拷問による「死刑」である。拷問によって殺された人は100人を越えると言われている。

1933年
昭和8年
2月20日
(政府、連盟脱退を閣議決定する)
●閣議で、国際連盟総会が19カ国委員会の対日勧告案を採択した場合、連盟を脱退することを決定した。
(新聞)2/21東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1933年
昭和8年
2月24日
国際連盟総会、満州国不承認などの対日勧告案を採択する

●総会は42(賛成)対1(反対・日本)棄権1(シャム)で可決・採択した。日本の松岡洋右(ようすけ)代表は短く総会の決議は遺憾であると反対を表明し退席した。
(新聞)2/25東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊


*リンクします「国際連盟脱退へ」NHKアーカイブス
1933年
昭和8年
3月3日
午前2時30分ごろ
三陸地方にM8.3の地震発生・大津波襲来


●宮城県金華山沖約250kmの海底でM8.3の地震が発生し、約30分後に大津波が三陸海岸の町や村を襲った。津波は、幅120km、長さ300kmにわたる巨大なもので、並の高さは岩手県陵里湾で23mを記録し、くりかえし押し寄せた。津波の被害は、岩手県が最も大きく、青森県、宮城県、福島県、北海道などを合わせると、死者・行方不明者3064人、流出・破損船舶8078隻を数えた。
(3/4新聞と3/4の第2号外)2/21東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
写真

1933年
昭和8年
3月4日
(フランクリン・ルーズベルト、アメリカ第32代大統領に就任する。)
●3/5夜、ルーズベルト大統領はステートメントを発表した。それは3/9の臨時議会招集まで、金融恐慌の非常対策として、4日間の全銀行の休業、休業期間中の金輸出絶対禁止などであった。
(新聞)3/7東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1933年
昭和8年
(軽演劇など)
●4/1東京浅草で古川ロッパ、徳川夢声を中心とした「笑いの王国」を旗揚げした。前年11月には浅草の公園劇場では松竹爆笑隊が旗揚げしていた。
●軽演劇では昭和8年~9年にかけて劇団「ムーラン・ルージュ」が興隆期を迎えた。前年12月の心中事件が世間の注目をあび、ムーラン・ルージュは有名になった。
●サーカスでは、3/22ドイツのハーゲンベック・大サーカス団(団員150人)が182頭の動物(ライオン、トラ、象、北極熊、あざらし、カンガルー、かばなどの他、珍しいラマ、双角さい、キリン、バクなどもいた。)を引き連れ来日し、その動物の演技と規模の大きさで観客を圧倒した。またハーゲンベック・サーカス団は動物商としても知られており、今回の来日では上野動物園が2頭のキリンを購入した(8月に到着)。この動物サーカスの成功をうけ、日本の曲馬団、曲芸団はサーカスと名乗るようになった。
(写真)6/4名古屋の広小路通りを行進する動物たち-写真カール・ハーゲンベック動物園(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
●下で「サーカスの唄」松平晃(西條八十作詞・古賀政男作曲)をユーチューブから紹介する。この歌はサーカス団の来日前からヒットしていたもので、ハーゲンベック大サーカスの芝浦での興行では、ラジオで実況中継され、淡谷のり子が「サーカスの唄」を歌った。ちなみに冒頭の歌詞で「・・つばくら・ろ」とあるのは「ツバメ」のことだそうです。

*リンクします「サーカスの唄」
動画・出典:youtube(akiraplastic5氏)
1933年
昭和8年
3月27日
日本、正式に国際連盟脱退を通告、詔書も発布される

●ここでは新聞と下段で「国際連盟脱退に関する詔書」を、「時局関係十大御詔勅謹解」 御詔勅衍義謹纂会 纂 明治天皇聖徳奉讃会支部 昭和14刊より引用してみた。大変難しいが、語句の読みと意味を()内に示しておいたので、大意はつかめると思う。
(新聞)3/28東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊


 今上天皇陛下 国際聯盟脱退ニ関スル詔書             昭和八年三月二十七日
(ちん)(おも)フニ、曩(さき=以前)ニ世界ノ平和克復(こくふく)シテ、國際聯盟ノ成立スルヤ、皇考(=大正天皇)之ヲ懌(よろこ)ヒテ、帝國ノ参加ヲ命シタマヒ、朕亦遺緒(いしょ=先人の遺しておいた事業)ヲ継承シテ苟(いやしく)モ懈(おこた)ラス。前後十有三年、其ノ協力ニ終始セリ。
今次満洲國ノ新興二當リ、帝國ハ其ノ独立ヲ尊重し、健全ナル発達ヲ促スヲ以テ、東亜ノ禍根ヲ除キ、世界ノ平和ヲ保ツノ基(もとい)ナリト為ス。然ルニ不幸ニシテ、聯盟ノ所見之卜背馳(はいち=反対の方向に向かう)スルモノアリ。朕乃(すなわ)チ政府ヲシテ慎重審議、遂二聯盟ヲ離脱スルノ措置ヲ採ラシムルニ至レリ。

下

*リンクします 「国際連盟脱退に関する詔書」→国立国会図書館デジタルコレクション
1933年
昭和8年
3月29日
米穀統制法公布(11/1施行)

●この日、「農村負債整理組合法」(8/1施行)、農業動産信用法(12/1施行)が公布され、「米穀法」が廃止され「米穀統制法」(11/1施行)が公布された。また「資本逃避防止法」が廃止され「外国為替管理法」が公布(5/1施行)された。
●この「米穀統制法」は、米価の下落を防止し安定化することを目的として施行されたものである。旧来の米穀法(大正10年制定)は、その方法を米穀の需要供給を調節(買入、売渡、交換・加工・貯蔵)することにより米の価格を調整しようとしたものであった。つまり供給が多ければ米価が下落し、農家が採算を取れなくなるので、政府が買入を行い供給量を減らし米の価格を上げようとするものである。逆に米価が騰貴して消費者に負担が大きくなる時は、政府が所有米を売却して供給量を増やし米の価格を下げようというものであった。
●これに対して新しい「米穀統制法」は、目的は同じだがその方法を変えたのである。それは価格公定制度(最低価格と最高価格の公定)である。旧「米穀法」では米価の基準価格を定め、その基準価格に対応して市場調節を行ったが、「米穀統制法」では年度初め(12月)に予め最低価格と最高価格を公定して、数量に関わらず申し込みがあれば最低価格で政府が無制限に買い入れ、また最高価格で売渡を行わなければならないというものであった。
●問題点は下記のようであった。

①昭和8年は内地米が大豊作になり、米価下落が予想され公定最低価格での買入申し込みが殺到したこと。(政府の買上予算の破綻)
②朝鮮米(内地向けに生産され品質が良く価格が安い)と台湾米が「米穀統制法」の対象外であり流入を制限できなかったために、米価下落の圧力となっていたこと。
③買入と売渡申し込みに数量規定があり、貧農では不可能であり共同申し込みも時間がかかり、また換金までに1カ月以上かかったことである。(同一銘柄100俵以上で同一等級と同一粒種で20俵以上が条件など)
④利ざやに貪欲な米穀商人達は、借金や肥料代のために換金を急ぐ農民に対して、公定価格より安く買いたたき、それを政府に売って多大な利益を上げたこと。(農民救済処置とはならなかった)
⑤厖大な政府買上が発生したことで米の供給量が減少し、米価上昇による売り惜しみも発生した。また「豊作飢饉」による米価下落を恐れて農民の米の売り急ぎもあって、自家用の飯米までも売ってしまう「飯米飢饉」も起きた。などである。

次段では農業年鑑から、この頃の「米需給累年比較」などの数値をあげてみる。農業の基本語句(単位)なども知っておきたい。

内地の米需給累年比較(単位千石)と米価

●左の表は、「内地の米需給累年比較(単位千石)と米価(深川正米標準相場・玄米中米・1石単位 円・米穀年度)」である。
出典は「農業年鑑. 昭和16年」「国勢グラフ」編輯部 編 国勢社 昭和12-15刊によった。
語句の意味は次のようである。
●米穀年度=前年11月~当年10月までの1年間。米穀年度の呼び方は、その年度が終る月の属する暦年をとる。たとえば昭和9年10月31日に終る年度は昭和9米穀年度と呼ぶ。かっては米の収穫は11月から始められていた。11/1が年度初めである。
●それぞれの単位は、1石(コク)=10斗(ト)=100升(ショウ)=1000合(ゴウ)、1升=1.8039L(リットル)、1斤(キン)=600gなど。
また1俵 = 4斗が事実上の統一基準になった。1斗はメートル法換算で18.039リットルと法定されていたので、明治時代の一俵は72.156リットルである。米1斗の質量は約15 kgなので、1俵は約60 kgとなる。
当時の1人当たりの年間消費量は、1人の食事1回1合で1日3合、1年間で概ね1000合とあるが、1石1斗=1.1石として計算年の4月末時点の人口で乗じた(かけた)ものともある。
●消費総額は供給総額より輸移出額及び翌年度への繰越額を減じて算出されているとあるが、消費量は計算して出しているようでもある。



●左の上のグラフは、上段の「米需給累年比較」をグラフ化したものだが、ポイントは「前年内地産額」である。米穀年度は前年11月から始まるので、内地産額は前年の数値を表していると考えるべきである。
●するとこのグラフの昭和9年米穀年度の大豊作は昭和8年にあたり、米穀統制法が施行されたのはその年の11月であるわけである。下のグラフは、米の「翌年度への繰越量」を示したものでその年の過剰米の大きさを示すものでもある。米穀9年度が大豊作で突出していることがわかる。
●このため米価の下落は確実で、昭和8年12月に最低公定価格23円30銭・最高価格30円50銭が発表されると、農民(米穀商人や地主たちも)は「政府買取」に殺到したのである。このため政府保有米(買取米)は昭和9年2月には1400万石に達し、貯蔵量も昭和9年4月には1000万石に達した。こうしたなか米価は上昇を始めた。しかし、数量条件に満たない米を持ち、借金や肥料代の支払いのため換金を急ぐ農民たちは、米穀商に公定価格より安い価格で米を買いたたかれていくのである。そして米穀商はその買い集めた米を政府に売り、差額で多大な利益を上げた。
●グラフには米価の動きも示してあるが、もし政府が対策を怠れば米価の下落は必至であったはずである。だが米価は上昇しているので、政府の「米穀統制法」による内地米買上げ政策は効果を上げたと思われる。しかし一方、米価の上昇による売り惜しみや、政府保有米の大量買上げによる米不足は、農家の自家用飯米まで不足する事態となり「豊作飢饉」「飯米飢饉」を深刻化させたのであった。
●そして昭和9年秋、今度は大凶作となったのである。

●下で「農業年鑑. 昭和16年」コマ番号24、内地の米需給累年比較(単位千石)「国勢グラフ」編輯部 編 国勢社 昭和12-15刊にリンクした。

*リンクします 「農業年鑑. 昭和16年」→国立国会図書館デジタルコレクション

●ここで「農村指導者は語る」産業組合新聞社 編 産業組合新聞社昭和12年刊 コマ番号95-98を紹介する。新聞記者のインタビューに答える当時「米の神様」の異名をとった農林省米穀局長 荷見安(はすみ-やすし)である。

*リンクします「米穀統制諸法律と米価の調節」→国立国会図書館デジタルコレクション
1933年
昭和8年
4月1日
●小学校1年生用の国語教科書「サクラ読本」=『小学国語読本』卷1、の使用が始まる。初の色刷り教科書で、「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」で始まる。また「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」や「ヒノマル ノ ハタ バンザイ バンザイ」などもあった。この読本の「ヒノマルノハタ」の解説教授書には主眼として次のようにある。

日の丸の旗は日本の国旗だ。日の丸を賛美する心は、日本を賛美する心だ。
君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりてこけのむすまで
空にひらめく日の丸に対する情景を味わせること。その感激を深めること、そして国旗に対する愛敬の念を涵養する(=徐々に養い育てること)することは、愛国の精神を鼓吹する所以である。

とあります。

1933年
昭和8年
4月8日
●ドイツ政府、「新文官服務条例」を発布する。これはユダヤ人官吏を違法とするもので、官界から一切のユダヤ人を放逐した。また昭和9年6月には、日独混血の学者夫妻が「純ドイツ人種にあらざる者の官公職就任制限」により職を追われ日本に逃れた。
1933年
昭和8年
4月13日
●東京九段の靖国神社で石の大鳥居(高さ約11m)とこま犬(高さ約2.3m)が完成。献納式が行われた。奉納したのは、製糸業で知られた「片倉合名」長野県諏訪の片倉製糸紡績の片倉一族であった。
(写真)靖国神社で組み立て作業が進められる大鳥居-写真共同通信社(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1933年
昭和8年
4月19日
(アメリカ、金本位制から離脱する。)
●アメリカ大統領ルーズベルト、金輸出禁止・ドル相場放任を声明。アメリカは金本位制から離脱した。
1933年
昭和8年
4月22日
滝川事件起こる

●文部次官栗屋謙、京大法学部刑法講座主任教授・滝川幸辰(ゆきとき)の辞職を小西重直京大総長に要求する。
この事件は、文部次官栗屋が京都帝国大学総長小西を文部大臣官邸に呼び出し、法学部教授滝川に「赤化的傾向」があるとして、同教授の免職か休職を要求したことから始まった。
●ことの発端は、前年(昭和7年)に滝川教授が中央大学で講演(トルストイの「復活」と刑罰思想)を行った際、「犯人に対して報復的態度で臨むのではなく犯罪の原因を検討すべき」というようなことを述べたことが、司法当局によって現刑法を否定する左翼的思想と見なされたことが始まりだった。そして7年の11月には「司法官赤化事件」で共産党シンパの判事らが逮捕されると、慶大の蓑田胸喜(みのだむねき)らが「赤化の温床は帝大の赤化教授にあり」として攻撃を始めたのである。
●この文部省による教授処分要請は、「学問の自由」「大学自治」に対する大きな問題となり、京大法学部の反発は全教授の辞任にまで発展した。そして学内でも法学部の学生を中心に経済学部、文学部の学生も立ち上がり、処分反対、教授会支持へと運動が広がり、東大、東北大、九大へと拡大していった。(5/26滝川教授の休職処分発令)
●しかし6月末に小西京大総長が辞任し、新しい総長が就任すると事態は急転した。新総長は、7月総長あずかりとなっていた教授たちの辞表を文部省に提出したのである。これにより文部省は6人の教授の依頼免官を発令し、残りの教授の辞職は新総長の説得により辞職を撤回させるという分断策をとったのである。そして中心的な学生も逮捕され、運動は押さえ込まれていった。
●思想弾圧は「自由主義は共産主義の温床」という論理によって、自由主義にも及んだのであった。
(新聞)5/27東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1933年
昭和8年
4月28日
(陸軍の少年航空兵制度始まる。)
●これは陸軍が航空兵力拡充のために創設した制度により編制され、海軍の予科練に相当した。15歳から19歳の少年を対象にし(二期からは14歳から16歳)所沢飛行学校で3年間の軍事教育がなされた。
1933年
昭和8年
5月3日
(日本で2番目の地下鉄《御堂筋線》開通)
●大阪市営高速鉄道、梅田-心斎橋間で開通した(5/20日開業)。写真は4/19地下鉄車両の地下入れが行われた時のもので、2台のトラクターと牛にひかれて大阪駅から南北筋に運ばれ、御堂筋前につくられた開口部から吊り降ろされた。
写真は新町橋を通過中の車両。-写真毎日新聞社(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1933年
昭和8年
5月7日
(関東軍、関内作戦を開始する。)
●関東軍は一度長城線まで撤退したが、再び長城線を越えて、撫寧・水平など灤東一帯へ向けて侵攻を開始した。
1933年
昭和8年
5月10日
(ナチス焚書)
●ナチス学生団、非ドイツ的著作や性書などをベルリン、フランクフルトの広場で焼く。
1933年
昭和8年
5月18日
(3大製紙の合同による大製紙トラスト成立)
●王子製紙が富士製紙・樺太工業を合併し大製紙トラストが成立した。
1933年
昭和8年
5月18日
(アメリカ、ニューディール政策のひとつである「テネシー渓谷開発公社法(TVA)」成立。)
●アメリカ大統領ルーズベルトは、大統領就任後100日間で、民間資源保存団の成立、農民救済、テネシー渓谷開発公社の設立、全国産業復興法、住宅所有者再融資法、連邦緊急救済法、通貨インフレの権限付与法などニューディールを特徴づける重要法案をつぎつぎに成立させた。資本家も労働者も農民も拍手をもって歓迎したのである。
1933年
昭和8年
5月23日
(娼妓の廓外外出が自由となる)
●内務省、娼妓取締規則改正公布(6/12施行)。所轄警察署への届け出不要で外出が自由となる。
1933年
昭和8年
5月31日
塘沽(タンクー)停戦協定成立

●関東軍代表岡村寧次少将と中国軍代表熊斌が、河北省塘沽で停戦協定に調印する。この協定の重要な点は、中国軍を、河北省北東部の万里の長城と北京周辺の間にある地域より撤退させたことである。日本側はこれを非武装地帯と呼んだが、これは満州から華北への侵攻拡大を目的とするものだった。

1933年
昭和8年
6月3日
(高松地裁差別判決事件おこる)
●この事件は、高松地裁が高松市近郊の被差別部落に住む青年兄弟に、誘拐罪で懲役1年と懲役10カ月の判決を言い渡したことから始まった。2人は、岡山県へ行商に行った帰りに、船中で17歳の女性と知り合い、弟が同居を始めた。ところが、女性の父親が「娘が誘拐され」と警察に訴え、裁判になった事件である。検事は論告のなかで「特殊部落民でありながら自己の身分をことさらに隠し、甘言詐謀を用いて誘惑したるものなり」と述べ、裁判長もこの差別的な論告を支持しこの判決となったのである。
●これに対して、「水平社」(=差別からの解放を目指した)は全国的な規模で運動を展開し、各地で宣伝活動を行いながら、東京で内務省社会局長官、大審院次席検事や検事総長と面会し判決の取り消しを要求した。
●この結果、判決の取り消しにはならなかったが、司法省は2人を仮釈放し、担当検事を左遷するなど関係検事・判事の人事異動を行い決着をつけた。5カ月に及ぶ水平社の運動は勝利を得たのである。
1933年
昭和8年
6月7日
共産党幹部、獄中で「転向」を表明

●日本共産党の中央委員長佐野学と中央委員鍋山貞親2人は、市ケ谷刑務所にて「転向」を声明、翌日8日に声明文「共同被告同志に告ぐる書」を発表した。
これは2人の「転向」声明といわれ、コミンテルン(=1919年レーニンを中心にモスクワに創設された国際共産主義運動の指導組織で、各国の共産党はその指導・命令に従っていた)を批判し、天皇制を認め、満州事変を認め、民族主義に基づいた一国社会主義を主張したものだった。
●これに対して共産党は、昭和8年6/16付の「赤旗」で2人を激しく非難し除名処分とした。
●しかし治安当局にとっては2人の転向は大いに利用価値があり、新聞・雑誌を通じて報じられただけでなく各刑務所にも声明文は配布された。
そして「輝ける指導者」といわれたこの2人の転向は、共産党員、党支持者、労働組合員や知識人に大きな衝撃を与え大量転向を招いたのである。
また前年より司法大臣は、被疑者が転向を表明したときは起訴を取り下げることを訓令していたため、7月末での既決囚の党員393人中133人、未決囚の党員1370人中415人が転向を上申した。
●非転向を通し獄中にいたのは、市川正一、国領伍一郎、徳田球一、志賀義雄らごくわずかの人に限られた。
(新聞)6/10東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

*リンクします 佐野学及鍋山貞親「共同被告同志に告ぐる書」「思想警察通論」日本警察社 編 昭和15年刊→国立国会図書館デジタルコレクション
1933年
昭和8年
6月16日
(松竹少女歌劇部員・レビューガール、ストライキに入る)
●発端は、東京浅草松竹座の音楽部員(楽士)の待遇改善要求に対して、経営側が6/12、29人の解雇、全員減給の処分を発表したことに対する抗議から始まった。翌13日、歌劇部員は音楽部員と共に「馘首・減給絶対反対」「女生徒を酷使するな」「衛生設備の完備」など26ヶ条の要求書を提出した。そして6/16、レビューガール約230人が「男装の麗人」として人気絶頂の水の江滝子(19歳)を争議委員長としてストライキに入った。この争議は大阪松竹座にも飛び火したが、大阪では高野山僧侶団の調停で和解した。
●しかし東京では争議が長引き、会社側は強硬な姿勢を崩さず争議団の切り崩しを図った。そして少女歌劇部を解散し、あらたに松竹少女歌劇団設立を発表した。これに屈せず水の江滝子らレビューガール(がんばりガール)達は7/1から湯河原の貸別荘に立てこもったのである。
●その後7/12浅草に集まった水の江滝子ら46人は、浅草の警察署の特高係によって検挙された(水の江滝子ら38名は同夜釈放)。しかし7/13から争議団は経営側と3昼夜におよぶ団交を行い7/16深夜妥結したのである。
(新聞)6/14東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1933年
昭和8年
6月17日
(ゴー・ストップ事件起こる)
●この事件は大阪の天神橋筋6丁目の交差点で午前11時30分頃起こった。赤信号を無視して交差点を渡ろうとした歩兵第4師団第八連隊の1等兵を、交通整理中の巡査が呼び止め派出所に連行、2人は派出所内で口論となり殴り合いとなった。これを目撃した通行人が大阪憲兵隊に連絡、憲兵が派出所に急行、憲兵の報告は第八連隊から第4師団へ送られ、大騒動となった。
●これを聞いた歩兵第4師団長と第4師団参謀長は激怒し、「皇軍の威信に関する重大問題」と発言して警察側に陳謝を要求した。これに対して大阪府警察部長は、兵隊が街頭で私人の資格で通行している時は、1市民として交通信号に従うのは当然であるとして、「軍人が陛下の軍人であるなら、警察官も陛下の警察官である」と声明を発表した。
●さらに7月に入ると、陸軍大臣荒木貞夫が第4師団を激励し、内務大臣は警察の支持を表明し、ついに争いは陸軍省と内務省の争いに発展して解決のめどが立たなくなった。
●この間、最初の目撃者の通行人(大阪府吹田町の会計係)は、警察と軍とに挟まれノイローゼとなり電車に飛び込んで自殺し、曽根崎警察署長は心労のため入院してしまった。
●そして11月ようやく後任の曽根崎警察署長が巡査に非があったことを認め陳謝し、第八連隊長は1等兵の不注意に遺憾の意を表して、ここに和解がなった。
(写真)「11/18、歩兵第八連隊を訪ねた増田曽根崎警察署長(右)と松田連隊長の握手。増田は陳謝、松田は遺憾の意を表した。」-写真朝日新聞社(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1933年
昭和8年
6月19日
(丹那トンネルついに貫通《水抜抗》。)

●この丹那(たんな)トンネルは、東海道本線熱海駅と函南(かんなみ)駅との間にある鉄道トンネル(7804m)で、着工以来15年2カ月目で貫通した。(本坑貫通は8/25。鉄道開通は昭和9年12/1)。もろい地質と大量の湧水、破砕帯の掘削など世界的な難工事といわれ、開通までに16年の工期と、労働者延べ250万人、たび重なる事故で殉職者67人の犠牲を払い、工費2673万円でついに開通したのである。
●1925年12/13に電化された区間は、東海道本線の(東京-国府津)間と横須賀線(大船-横須賀間)だった。東海道本線の難所は、国府津(こうづ)-御殿場(ごてんば)-沼津間の「箱根越え」が最も厳しかった。急勾配やいくつものトンネルと橋梁があり、上り列車も下り列車も補助機関車を必要とした。国府津は電気機関車と蒸気機関車を付け替える役割の駅で、昭和3年(1928年)完成の国産新型電気機関車7両全てもここに配属されていた。そして東海道本線は1928年ごろまでに熱海(熱海線)までが電化され、そしてこの丹那トンネルが開業したことにより、国府津駅ー沼津駅間は現在のルートになった。今までの旧ルートは御殿場線と名称が変更され、これにより電化区間も東京駅ー沼津駅間となった。
(新聞)6/20東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
下の地図は、「カシミール3D」(国土地理院の数値地図などを使える)というソフトをもとに作成したもので、このフリーソフト(基本部分)は個人が趣味で作成しているとは思えぬ程のものである。最近は道案内もグーグルマップばかりで、もう少し手を加えてもらいたいものである。
1933年
昭和8年
7月10日
神兵隊事件起こる

(ここでは「2.26事件と昭和維新」新人物往来社1997年刊から事件の内容を要約してみる)

●この事件は「血盟団事件」や「5.15事件」と関係を持っていた2人の首謀者によって計画されたが未遂に終わった事件である。
その一人天野辰夫は弁護士であるが、東京帝大法科時代に上杉慎吉教授(「天皇機関説」の美濃部達吉教授のライバル)の門下生となり、「昭和維新」を志すようになっていた。そして卒業後弁護士業務につきながら国家主義的な運動を行い、 全日本興国同志会や愛国勤労党を組織した。
●もう一人の前田虎雄は、井上日召(血盟団)や本間憲一郎(5.15事件で逮捕)らと国家改造の同志として契を結んだ間柄だった。そして5.15事件後本間を介して天野と前田は顔を合わせることになったのである。そして3人は斎藤実内閣打倒をめざして画策するようになった。(本間憲一郎は逮捕された)
●そして昭和8年になると、計画は具体化し破壊担当は前田、天野は軍資金調達と破壊後の建設を担当することになった。資金調達に協力したのが安田銕之助(てつのすけ)元陸軍中佐であった。一方前田の方は、実行部隊の組織化に着手し、血盟団井上日召とも準同志的な関係にあった鈴木善一の協力を得た。この鈴木は、当時右翼のなかで最も大きい大日本生産党(内田良平、頭山満らが幹部)の関東本部青年部長で、前田と共に行動部隊の中心となった。またこの頃前田が同志として獲得したのが、山口三郎・現役海軍中佐(海軍航空廠飛行実験部)だった。計画では山口中佐は軍用機で首相官邸や警視庁空爆を担当した。その他に愛国勤労党や北方開拓同盟などからも同志が獲得された。さらに鈴木善一により、大日本生産党や大阪の右翼団体から多数の同志が参加し、また国学院大学生も動員された。
●当初行動計画は以下のように決まったが、規模や日程に変更があったために、7/10(蹶起予定の前日)、大部分の隊員が明治神宮講会館に集結していたことが怪しまれ49名が逮捕され計画は頓挫した。

(当初計画)
●決行日時:7月4日午前11時 (閣議開催中)
●名称: 「神兵隊」  司令部 前田虎雄 鈴木善一
●動員方法:明治神宮への祈願団体を装って集合する。
●襲撃目標人物:斉藤首相以下全閣僚・牧野内大臣・鈴木政友会総裁・若槻民政党総裁・山本権兵衛・藤沼警視総監。
●役割分担(略)

●こうして事件は未遂に終わり、総数95名が検挙された。そして天野辰夫、前田虎雄ら63名が殺人予備罪および放火予備罪で起訴された。
しかし東京地裁の予審の途中で内乱予備陰謀罪の嫌疑が濃くなり、昭和10年9月審理は大審院(内乱予備陰謀罪は大審院の特別権限)へ移された。
●昭和12年11月より大審院の公判が始まったが、被告らは昭和10年2月から始まった「国体明徴(こくたいめいちょう)運動」を法廷闘争として、検事や裁判官に対して天皇機関説の排除を要求して審議拒否、裁判長忌避、退廷などを行ったのである。被告たちは、国体明徴運動(天皇中心の国体観念を明確に証拠立てる)をたてに逆に検事・裁判長を追及する事態となったのである。
●こうして事件の裁判は、8年後の昭和16年(1941年)3月15日、大審院第1号法廷で天野辰夫ら44名全員に次の判決を下し終了した。

「被告らに対し、いずれも其の刑を免除す」

であった。
(新聞)7/20朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
(写真)昭和16年3/15大審院第1号法廷。-写真共同通信社。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

1933年
昭和8年
7月
●7/20陸軍省、満州事変勃発以降の戦死傷者数と負傷者数の現況を発表。戦死2530人、負傷6896人。
●7/31海軍省、9年度から4年間に艦艇36隻建造・航空隊8隊増の第2次補充計画予算額を大蔵省に提示する。
1933年
昭和8年
8月1日
●帝都電鉄(現、京王・井の頭線)開通。渋谷-井の頭公園間が開通した。翌昭和9年4月、吉祥寺まで延長した。
1933年
昭和8年
8月1日
(時事新報社、芝公園で「東京音頭」盆踊り大会を開催。後援東京市)
●この盆踊り大会がきっかけに、ビクターが発売した西条八十(やそ)作詞、中山晋平作曲の「東京音頭」が大ヒットした。これはビクターが、前年発売した「丸の内音頭」が好評だったため、歌詞を変更し歌手も人気急上昇中の小唄勝太郎と三島一声(一声は同じ)に変えて8年7月に発売されたものだった。この音頭は、文部省、内務省、陸軍省、海軍省も思想善導のため推薦しているともいわれ、ブームは各地に波及し、ブラジル、アメリカなどの海外在留邦人たちの間にも及んだといわれる。
●歌詞の「君(=天皇)が御稜威(みいつ=御威光)は天照らす」や「君と臣(たみ)との、千歳の契り」など天皇賛美が織り込まれていたが、大衆はそうは思わなかったようである。下にユーチューブから「東京音頭」にリンクした。(歌詞が載っているので参考になる。「みいづ」と歌われている)
(写真一部分)9年7月、東京の帝都舞踏場で開かれた「盆踊舞踏大会」。ダンサー全員が浴衣姿で「東京音頭」を踊って客を呼び寄せた。-撮影・影山光洋(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

*リンクします「小唄勝太郎・三島一聲:東京音頭 A/B」
動画・出典:youtube(「光もとめて・・・」氏より)
1933年
昭和8年
8月9日
関東地方防空大演習始まる(~11日まで)


●防空演習は昭和3年の大阪から名古屋、北九州と行われてきた。そして関東地方では昭和5年から準備が進められ、ついに東京を中心に神奈川・千葉・埼玉・茨城の1府4県で、軍民一体となった大規模な防空演習が行われたのである。
●演習では攻撃担当は海軍で、小笠原南方海上を北上する某国艦隊が東京をはじめとする関東一帯の主要都市を空襲するという想定だった。海軍は横須賀防衛隊の駆逐艦、潜水艦、航空母艦、航空機50機を動員した。防衛担当は陸軍で、近衛師団以下10個師団の部隊、所沢飛行学校、陸軍自動車学校などを動員し、兵士総数は1万数千人に達した。仮想敵国はアメリカとソ連だった。
●今回の関東防空大演習の特徴は、今までの軍隊だけの演習から、「吾等の帝都は吾等で護れ」のスローガンのもとに、女性、小学生まで参加した軍民一体の演習だったことである。演習には防護団(在郷軍人会、青年団、少年団、婦人会を主な構成団体として結成されたもの)を中心に1千万余の住人が参加した。各地区の防護団は防護分団に分かれ、住民はそれぞれ警護班・警報班・防火班・交通整理班・避難所管理班・工作班・防毒班・救護班・配給班の任務についた。
●演習では、爆撃を避けるための煙幕を張ったり、防毒マスク着用訓練などが行われたが、最も重視されたのが、夜間の空襲から都市を守る灯火管制だった。これは各家庭が自発的に電灯を消灯したり、電灯を黒布で覆うものだった。
●こうして防空訓練が終わると、陸軍は総力戦思想のもと、防空体制の強化、防護団のような住民組織の拡充に乗り出した。そして国防献金熱の高まりや国防婦人会の誕生など、民衆の国防意識を高めていったのである。
(新聞)8/11朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊。(写真)「昭和8年5月14日の大阪献納兵器 天覧」の写真。先頭の天皇の横に見える巨大兵器が90式大空中聴音機で飛行機の位置、高度、機数を測定した。(出典)満州事変 国防記念録 陸軍省 昭和8年8月3日発行(非売品)

1933年
昭和8年
9月1日
豊田自動織機製作所、自動車製作部門を設置する

●豊田自動織機製作所は社内にのちに自動車部となる自動車製作部門を設置し、社業として国産自動車の研究・開発を行うことを開始した。トヨタ自動車創業のはじまりである。
●1918年、日本政府は軍用自動車補助法を公布し、10社近くが製造に挑戦してきたが、昭和5年になってもその販売台数は合計500台未満だった。そして政府が自動車産業の育成・保護を重要視するようになったのは、この年昭和8年の中国における関東軍熱河作戦がきっかけであった。
●陸軍は、熱河作戦では熱河省に鉄道網がないため、陸軍史上初めて自動車部隊による兵站線(=前線との輸送連絡線)確保を行い成功をおさめたのである。この主力となったのは、アメリカのフォードとシボレー(GM)の数百台のトラックだった。陸軍は、自動車の機動力を発揮したこの作戦の成功によって、軍用トラック製造の必要性を痛感したのである。昭和10年になっても日本車の技術水準はきわめて低く、戦地では国産のトラックより中古でもよいからアメリカ車に乗りたいとの要望が強かったといわれる。
●国産車が生産を増やすことが出来たのは、昭和11年(1936年)7月の「自動車製造事業法」公布以降の事で、アメリカ車の生産台数を制限して政府援助による国産化・量産化を図るという、陸軍と商工省共同の自動車製造事業確立推進計画のおかげであった。

1933年
昭和8年
9月9日
荒木貞夫陸相、陸軍の国策案大綱を高橋蔵相に提示

●荒木貞夫陸相、陸軍の国策案大綱(内外問題への提言・軍備拡充の要求など)を高橋蔵相に提示する。4時間にわたった対談の後、荒木陸相は次のように語った。
(抜粋すれば)『・・是非政府に誠意を以て諸政策を実行してもらいたいと思う。1935年-36年は恐らく未曾有の国難となる。国難に打ち勝ってゆくのには挙国一致の外はない。如何に立派な政策を樹てても実行せぬでは何の役に立たぬ、実行あるのみである。国民もほんとうに緊褌一番(きんこんいちばん=気持ちを引き締めて事に当たること)してくれねば困る』
その具体的な提言内容(概略)は以下のようである。(新聞紙面より要約)
(新聞)9/10朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

●満州問題・・過去2年間にわたる満州の実情は、非常なる勢いをもって改革せられ、産業開発も所期の計画通り行っている。この機を逸せず力を一層産業開発に致せば、その成果期して待つべきものがある。
●支那問題・・日本としてはあくまで根本方針としては日支両国の善隣関係を良好ならしむることが望ましい。さりとて下手な手を打っては却って支那側に乗ぜられることになるから、十分なる戒心を以て注視しなければならない。
●対外問題・・連盟脱退通告後、世界の情勢は日本にとり必ずしも良好であるとはいえない。日本としては未曾有な困難に直面しなければならない。東洋の平和を確保してゆくには国防力の拡充が必要である。海軍が第2次補充計画を急ぐのは当然のことであり、又陸軍としても対支対露関係に顧みても強力な軍備を準備していることが現在としてはもっとも有効なる平和維持策である。区々たる財政技術の問題などに拘泥していては、この最大の困難を切り抜けることはできない。
●教育問題・・今やその教育も動(やや)もすれば教育のための教育に堕して、真に国家国民のための必要なる教育が忘れがちになっているのではないかと思われる。共産党員中には、純然たる無産無識階級から出たものもあるが、高等教育を受けた者の内に多数輩出していることは、我が教育のどこかに重大な欠陥あるのではないかと思われる。万国に比類無きわが国体の精華を徹底せしめ、日本人たるの教育に立ち返らねばならない。

●9/11高橋蔵相は「国策として定めた国防計画は公債が増えても充実させねばならぬ」と国防費先議を言明した。
●9/12大角海相は高橋蔵相に、「1935年、36年は危機、第2次補充計画は国防上不可欠の限界線」と説明。
上記の「1935年、36年の危機」というのは、①1935年3月の日本の国際連盟脱退の発効、②1936年末に期限満了となるワシントン・ロンドン両軍縮条約で、条約範囲内の日本の海軍力が米英に比べて不利になること。さらにソ連の軍事力強化などを根拠に、1935年36年が日本の「厄年」になることを軍部が予言した。

1933年
昭和8年
9月14日
●広田弘毅前駐ソ大使、内田外相の後任として就任。
1933年
昭和8年
9月27
●軍令部令が制定され、海軍軍令部条例は廃止された。海軍軍令部を軍令部、海軍軍令部部長を軍令部総長と改称した。
この意味するところは、参謀本部(かって陸軍を中心に全軍を統括していた)に対して、海軍軍令部が独立性と対等性をもとめ、軍令部としたもので、これにより「軍令部総長は参謀総長と共に、皇軍統帥の最も重大且つ神聖なる任務を負う」ことになることができたのである。
1933年
昭和8年
10月1日
児童虐待防止法施行

●この法律は4/1に公布されたもので、14歳未満の児童に対する虐待を禁止した社会福祉法である。東北地方の農村の貧困による「娘の身売り」のほか、体罰や重労働など児童を取り巻く状況が厳しさを増したことから制定された。保護責任者の虐待を禁じ、軽業(かるわざ)、酌婦、物売りなどに就業することを禁止あるいは制限した。新聞は5月に10月からの児童虐待防止法施行を報じるもの。
(新聞)5/12朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1933年
昭和8年
10月14日
ドイツ・ヒトラー政府、国際連盟とジュネーブ軍縮会議から脱退を声明


●ヒトラーは、ベルリンからラジオで全世界にむけて脱退の声明を発した。そして軍備に平等を認めないのはドイツへの差別であり、決して容認できないと強調、ドイツの再軍備を公然と主張した。
●翌月(11/12)、政府の外交政策の信任投票とドイツ国会総選挙が行われ、ナチスは660の全議席を獲得、政府信認投票では90%以上がヒトラー政府を支持した。
その背景には、1929年から始まった世界恐慌があった。この恐慌は第1次世界大戦後の賠償金問題からようやく立ち直り始めたドイツ経済に大打撃与えたのである。失業者は1929年に150万人であったのが、1932年には600万人に達した。国民はヒトラーを熱狂的に支持したのである。
(写真)1933年10/14、国際連盟とジュネーブ軍縮会議からの脱退を、ラジオで国民に告げるヒトラー。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

1933年
昭和8年
11月8日
(東京競馬場が東京府下・府中町にオープンした。)
●この競馬場は東京府下・目黒町にあった東京競馬場(通称目黒競馬場)が移転したもので、坪数22万坪、収容人数5万人という東洋一の規模を誇った。
●日本における競馬は明治41年(1908年)に馬券の発売が禁止されて以来衰退していた。しかし大正12年(1923年)に競馬法が公布され、馬券の発売が復活すると人気は高まってきた。それに加えて、競馬倶楽部、農林省、陸軍省は、競馬が盛んになると国産馬の品種改良、軍馬の育成につながると考えていた。
(上写真)府中に移転した「東京競馬場」-写真・毎日新聞社(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊


●そして昭和7年(1932年)4/24、目黒競馬場で第1回東京優駿大競走(初の日本ダービー)が東京競馬俱楽部によって開催された。昭和5年東京競馬俱楽部(会長安田伊左衛門)は「広ク全国ニ良駿ヲ求メテ能力ノ厳選ヲ試ミム」を目的に東京優駿大競走を企画したのである。安田は、世界的レベルでの競走を行うことにより、馬の生産者に刺激を与え、馬体の改良、馬産の振興という目的を達成しようとしたのである。
●そのため優勝馬に対する破格の賞金だけではなく、馬の生産者に対しても1着1500円、2着800円、3着500円の賞金を授与したのである。第1回優勝馬には、1着賞金1万円、登録付加賞金1万3530円、さらに1500円相当の金杯が函館騎手に授与された。帝室御章典(のちの天皇賞)の1着賞金2000円と比較しても破格なレースとなったのである。
(下写真)昭和7年4/24「目黒競馬場」初のダービー開催に9千余人がつめかけた。-写真・日本中央競馬会(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1933年
昭和8年
11月13日
救国埼玉青年挺身隊事件発覚(栗原中尉クーデター計画)

この事件の経緯の概略は次のようである。(「2.26事件と昭和維新」新人物往来社1997年刊から事件の内容を概略)
●事件の中心人物である陸軍青年将校・栗原安秀中尉(のちの2.26事件で死刑)は、昭和6年の「10月事件」の橋本欣五郎中佐のグループから離れて、自身の所属する歩兵第1連隊で教官として同志獲得に務めていた。「10月事件」以降、形成されていった革新青年将校の一団が「皇道派」で、隊附きの尉官クラスの将校は、大川周明に対立する西田税(みつぎ)と北一輝の「日本改造法案大綱」を信奉していた。
●一方数年前から過激派学生の拓大生吉田豊隆や日大生水上源一(のちの2.26事件で死刑)らは、大川周明や安岡正篤らの革新思想に感化されて、各大学の学生を糾合して救国学生同盟を結成し同志獲得を行っていた。そして水上源一と栗原中尉が会うことになり、昭和8年早々には、青年将校らと救国学生同盟が提携することになったのである。
●昭和8年3月、拓大生吉田豊隆は卒業して郷里の埼玉県熊谷市の自宅に帰り、その地でクーデター計画に備えて待機していた。また予備召集後召集解除された富岡捨次(栗原中尉に教育を受け感化された)も郷里の埼玉県入間郡で、吉田や水上らと連携を取りながら待機していた。
●昭和8年9月22日の決起計画(栗原中尉と水上源一が計画)での襲撃目標は、西園寺公望、牧野伸顕、斎藤実、若槻礼次郎、鈴木喜三郎、岩崎小弥太、警視庁、新聞社、日本銀行などであり、学生、在郷軍人を含めた民間と軍部がともに一斉決起する予定だった。
●ところが、決起を知った西田税が自重するように水上を強く説得、計画はあっけなく中止となった。だが11月、民間側では単独決行計画(吉田豊隆がリーダー)が再浮上し、埼玉県川越市で開催予定の政友会関東大会で出席予定の鈴木総裁らを襲撃することになったのである。これが未遂に終わった「救国埼玉青年挺身隊事件」である。
●そしてこの事件が端緒となって、栗原中尉らのクーデター計画が露見したのである。こちらのクーデター計画は内乱陰謀事件としては昭和9年6月捜査中止となったが、嫌疑濃厚とされた中尉たちは、のちの2.26事件に重なっていくのである。

1933年
昭和8年
11月16日
●潜水母艦「大鯨」進水。横須賀海軍工廠で潜水母艦大鯨の進水式が行われた。同艦は排水量約1万トン、長さ197.3メートル、幅17.7メートル、速力20ノット。7カ月という短期間で完成。昭和17年、航空母艦に改造された。
(写真)式典準備中の大鯨。-写真・福井静夫(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1933年
昭和8年
12月8日
●松岡洋祐、政友会を脱党し衆議院議員を辞職。「1国1体」を目指す政党解消運動開始の声明書を発表。
1933年
昭和8年
12月9日
(陸・海軍省、軍部批判に対する声明を発表する。軍民離間声明といわれた。)
●軍部の政党を無視した国策決定、軍拡予算計上に対して、政友会や民政党は軍部批判の声を上げていた。それに対して陸軍当局が、「最近予算問題その他に関連して軍民分離の言動をなすものが少なくない」と反論し、さらに政党の主張は「国防の根本をなす人心の和合結束を破壊する企図」であると非難した。
1933年
昭和8年
12月23日
皇太子誕生、サイレン、ラジオ、新聞などで速報される。

●皇太子はこの日、午前6時39分に誕生した。現在(2018年4月)の天皇である。昭和天皇にはすでに4人の子がいたが4人とも女子だった。大日本帝国憲法第2条は「皇位は皇室典範ノ定ムル所ニヨリ、皇男子孫之ヲ継承ス」と定めていたので、「日嗣(ひつぎ)の皇子(みこ)」の誕生であった。
●翌、昭和9年2/11の紀元節(=神武天皇即位の日、現在の建国記念の日)に詔書が発布され、皇太子誕生による恩赦が実施された。該当者は約4万1000人であった。特筆されるのは恩赦を受けた次の人物達である。濱口雄幸元首相を狙撃し、死刑の判決を受けていた佐郷谷留雄。5.15事件で1週間前に判決を受けたばかりの橘孝三郎と大川周明。マルクス主義者の河上肇などである。
(新聞)12/24朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1933年(昭和8年)の出来事 政治・経済・事件・災害・文化

「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊より抜粋
1.2 日本軍,山海関を占領
1.9 大島・三原山に実践女子専門学校生投身自殺,2.12 再び同校生が投身し友人が自殺に立ち会った
1. 11 ソ連,第2次5ヵ年計画発表
1. 12 河上肇検挙される
1. 15 米国,満州国不承認を列国に通告

下

年・月 1934年(昭和9年)
(昭和9年のポイント)

大冷害、東北6県を襲う。急増した欠食児童と娘の身売り

左:青森県新城村で行われた部落相談会。右:岩手県下の一農村。

●昭和9年は、日本各地で自然災害が起こり、農作物が大きな被害を受けた。九州・四国の干害、北陸・山陰の冷雪害、関西・中国の室戸台風による風水害と続いたが、冷害に見舞われた東北の被害は甚大で、明治38年(1905年)以来の凶作となり、多くの農山村が飢餓線上をさまよった。
●農村の窮乏(農業恐慌)は、1932年(昭和7年)以後深刻になっていった。1930年(昭和5年)豊作飢饉、1931年(昭和6年)~1932年(昭和7年)の凶作。1933年(昭和8年)豊作飢饉、そして1934年(昭和9年)のかってない大凶作と農村の状況は深刻となっていった。特にアメリカの恐慌(1929年からの世界恐慌)による生糸輸出の激減が、養蚕農家に大きな影響を与えた。(写真)凶作にあえぐ東北の農村(出典)「日本の歴史(第12巻)世界と日本」読売新聞社1966年刊
●そしてこの農業恐慌の下で、米作・養蚕地域を中心に赤字農家が激増した。1戸平均約1000円(昭和6年の平均農家所得の2倍相当)という莫大な負債を抱えた農家では、その返済のため、青田売り、欠食児童、娘の身売りなど深刻な事態を生んだ。このため小作争議も増加を続け、昭和5年の2478件が昭和10年には6824件となった。
●この農村の問題と救済は陸軍にとっても深刻な問題となった。なぜなら兵士の大部分が農村出身であったからである。血盟団や5・15事件の被告たちも農村救済を叫んでいた。
1932年(昭和7年)の5・15事件後の斉藤内閣でも、農村救済(時局匡救《きょうきゅう》策)が取り上げられたが、多額の軍事費に圧迫されて農村救済予算は削られてしまった。そのかわり政府は農村の自力更生運動(経済更生運動)を推進し、その要となった産業組合の強化を行った。
●この自力更生運動は、土地利用、生産方法から生活、教育の細目にまでわたる経済更生計画に基づいて、毎年1000町村を経済更生指定町村として、各町村に100円の補助金を出すというものだった。
そして農村の中堅リーダーを養成するため、農林省は昭和9年より各地に「農民道場」を設置した。また「産業組合」というのはいわゆる「協同組合」で、信用、販売、購買を目的として設立されたものである。
1934年
昭和9年
1月1日
(東京日比谷に、東京宝塚劇場開場)
●東京宝塚、レビュー「花詩集」で開場。「花詩集」には、小夜福子、葦原邦子、草笛美子、雲野かよ子らトップスターが出演した。
(写真)前列左から、大空ひとみ、三浦時子、中列左から、草笛美子、雲野かよ子、後列左から、葦原邦子、橘薫、巽寿美子、小夜福子。葦原は宝塚のクラーク・ゲーブル、小夜は宝塚のゲーリー・クーパーと呼ばれた。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1934年
昭和9年
1月5日
(日印新通商協定成立)
●インドへの日本の綿織物輸出が急増したことに対してインドとイギリスは抗議、イギリス政府は昭和8年4月、日印通商条約の廃棄を通告。9月日印会商が開始された。
●そしてここに、幾多の困難や決裂の危機に瀕しながらも、インドの関税引下げと交換的に日本の印(インド)綿不買を解除して、新たな日印新通商協定が成立したのである。
1934年
昭和9年
1月12日
(日本沃度《ヨード》大町工場、国産初のアルミニウムの工業的生産に成功する。)
●アルミニウム工業は、1854年にフランスでおこった。日本での国産化が遅れた理由は、技術的な問題より、原料が国内で産出しないことにあった。しかし、昭和6年9月に勃発した満州事変は、航空機用資材としてアルミの需要を高め、しかも、同年12月の金輸出再禁止の影響でアルミ地金が高騰したため、軍部はアルミの国産化を急ぐように政府に要望した。
●そして昭和8年6月、日本沃度(ヨード=現昭和電工)社長の森矗昶(のぶてる)は、長野県大町に工場を建設し、翌昭和9年1月10日に操業を開始、12日に初めての製品を得たのである。(森コンツエルンである)
(写真)アルミは「粘土から得た銀」と呼ばれた。昭和9年1/12に日本沃度大町工場で製造された国産アルミニウムインゴットの第1号。記念の刻印は翌日打たれた。写真-昭和電工(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1934年
昭和9年
1月17日
(「番町会を暴く」時事新報社が連載を開始。)
●下がそのまえがきである。政治的な問題となっていったことが想像される。「帝人事件」の発端となった。

政党と政商の結托暗躍はあらゆる社会悪の源となり、遂に五・一五事件を誘発して非常時内閣の出現を見たことは汎く知るところ、然も五・一五事件の洗礼をうけた非常時内閣下に於て政党政商等はしばらくその爪牙を隱して世の指弾を避くるに汲々たる折柄、こゝにわれらはわが政界財界の蔭に奇怪な存在を聞く。曰く「番町会」の登場がそれである。
即ち彼等はいまやその伏魔殿に立籠り、嘗て政党政商が爲せるが如き行爲。紐育タマニー者流にも比すべき吸血をなしつゝ政界財界を毒しつゝあるといふ。然もこの「番町会」のメンバーとして伝へられるものに某財界巨頭を首脳とし、これを囲繞するものに現内閣の某大臣あり、新聞社の社長あり、政権を笠に、金権と筆権を擁して財界と政界の裏面に暗躍する暴状は目に餘るものがあり、既に彼等の飽くなき陰謀の一端は、さきには商工会議所乗取り、近くは帝国人絹の乗取り、紳戸製鋼所株の拂下げ或は政民聯携運動等となって、世人を戦慄せしむるに至った。我等は敢て事を好むものではない、然も非常時内閣の下、更始一新が叫ばれる今日、権力と金力を背景とする不義不正が横行するに対し、言論機関の使命の爲めに、断じて黙過すべきでない。よって本社はこの利権の伏魔殿の策諜に対し忌憚なき摘発を加へ、以て社会の批判に訴へることゝした。
 昭和九年一月         時 事 新 報 社
*リンクします「『番町会』を暴く・ 帝国人絹の巻」 時事新報社昭和9年刊→国立国会図書館デジタルコレクション
1934年
昭和9年
1月23日
●病気を理由に辞任した荒木貞夫陸相の後任は、林銑十郎(教育総監)に決定。教育総監の後任に真崎甚三郎。
(新聞)1/23東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1934年
昭和9年
1月29日
「鉄の巨人」日本製鉄設立

●議会は、満州事変の勃発により鉄鋼の軍事需要が増大したことにより、国内製鉄業界の徹底的合理化を条件に、鉄鋼関税の大幅引き上げを承認し、国内生産体制の確立のため、昭和8年「日本製鉄株式会社法案」を可決した。これにより政府には日鉄への命令権・統制権が与えられたのである。そして官営八幡製鉄所を中心に、銑鉄企業の輪西製鉄、釜石鉱山、三菱製鉄、鋼材企業の富士製鉄、九州製鉄の1所5社が合同した日本鉄鋼史上初のトラストが誕生した。さらに3月には東洋製鉄が参加し、銑鉄部門における日鉄のシェアは国内生産能力の97.1%となった。
(写真)日鉄発足当時の八幡製鉄所の工場。写真・新日本製鉄(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

1934年
昭和9年
2月15日
(東海林太郎《しょうじたろう》「赤城の子守唄」ポリドールから発売。)
●この曲は松竹映画「浅太郎赤城の唄」の主題歌で、約40万枚が売れた。昭和2年に日本ビクター、昭和3年に日本コロンビアが設立されると、ヒット曲はレコード会社が作るようになった。そして同時期に蓄音機、ラジオが普及したことも、次々とヒット曲が生まれる要因の一つとなった。下でユーチューブにリンクした。

*リンクします「赤城の子守唄」
動画・出典:youtube(guregoripetuku氏)
1934年
昭和9年
3月1日
満州国帝政を実施。執政溥儀(ふぎ)皇帝に即位。


●満州国に帝政が実施され、溥儀は執政から皇帝に即位、「康徳帝」を名乗った。同日公布された満州国「組織法」によって皇帝の地位は、
第1条「満州帝国は皇帝之を統治す」
第2条「皇帝の尊厳は侵さるる事なし」
第5条「皇帝は立法院の翼賛に依り立法権を行う」
第11条「皇帝は陸海軍をを統率す」などとされたのである。
紋章は蘭の花に定められ、元号は大同から康徳に改められた。
日本の天皇制を模したのである。
●上は3月2日の新聞で、下の写真は4月11日のもの。
(新聞)3/2朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
(写真)1934年4/11菱刈隆駐満大使(前列中央左)は皇帝溥儀(前列中央)に信任状を捧呈。儀式が終わり勤民楼で記念撮影を行った時のもの。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

1934年
昭和9年
3月9日
●鐘紡前社長・時事新報社社長武藤山治、狙撃される。(翌日鎌倉の病院で死亡)
犯人はその場で自殺したため動機は不明だが、武藤が帝人事件の告発や、「政・財・官」の癒着を暴いたことが関係するとみられている。
(新聞)3/10東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1934年
昭和9年
3月12日
(新鋭水雷艇「夕鶴」設計ミスで転覆、100人殉職)
●佐世保警備戦隊は、長崎県五島列島付近の海上で、昭和9年3月6日から行っていた夜間訓練を、同月10日に中止した。これは荒天と濃霧によるもので、旗艦の巡洋艦竜田から各艦艇に帰投信号が発せられたが、水雷艇夕鶴(艦長岩瀬奥一少佐)の応答はなかった。夕鶴は、同日午前4時12分、波浪を受け、すでに転覆していたのである。夕鶴は同年2月に就役したばかりの水雷艇だった。
●この事故原因の調査の結果、原因は船体が傾いた時に元の状態に戻ろうとする復元力不足にあることがわかった。設計ミスだったのである。この背景には、1930年に締結したロンドン海軍軍縮条約があった。同条約は600トン未満の艦艇の建造を制限しなかったことから、軍令部は、設計担当の艦政本部に、艦艇の能力を超えた兵装を要求したのである。基準排水量535トンの夕鶴に1000トン級駆逐艦の性能を詰み込んだのである。そのため、重心が通常の設計よりも1m以上も高くなり、転覆したのであった。
1934年
昭和9年
3月21日
函館市で大火。死者・行方不明者2716人、焼失戸数2万4186戸。

●この北海道函館市で起こった火災は、最大風速30mの強風にあおられて燃え広がった。翌朝鎮火したものの市街地の3分の1を焼失、死者・行方不明者あわせて2716人という、関東大震災と戦災を除くと、わが国の火災史上例をみない惨事となった。
(新聞)3/23朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1934年
昭和9年
3月25日
(栄養士の知識向上のための「栄養士会会誌」創刊される。)
●栄養士会は、アメリカで栄養学を学んだ佐伯矩が、栄養士育成を目的に創立(大正14年)した栄養学校の関係者が作った学会で、この年から日本医学会の第13分会として認められた。これは、栄養改善指導が軌道に乗り始めたことを示していた。
●この背景には、明治後半から昭和初期にかけて、「国民病」といわれた結核と脚気(かっけ)の問題があった。これらはともに罹病率は高く特効薬がなかったため、いったんかかると栄養をつけ、静養するしか回復の方法はなかった。このため栄養改善指導が行われるようになったが、このきっかけは1882年(明治15年)、海軍が脚気対策に白米と麦を等分に混ぜ、兵食改良を試みたことが始まりだった。
1934年
昭和9年
3月28日
石油業法公布(7/1施行)

●この石油業法とは、石油業の許認可制を骨子とした統制経済法である。軍需産業を対象とした一連の事業法の先駆けとして 3月28日に交付された。軍事資源としての石油の安定供給と国内資本による製油業発達を図った軍部及び政府は、石油値下げ競争による市場の混乱を機にこの法を制定。精製および輸入業は許可制とし、業者には常時6カ月分以上の貯油義務を課した。販売価格の決定権は商工大臣がもつことになった。

1934年
昭和9年
4月
●4/3、小学校教員3万6000余人による精神作興大会が二重橋前で開催される。「国民道徳を振作」せよ、という趣旨の勅語が出された。
●4/17、天羽(あもう)外務省情報部長、非公式声明を発する。内容は、欧米諸国の対中国援助は、財政的、技術的とを問わず日本に重大な影響を及ぼすおそれがあるから、反対する、というもの。各国からの非難を受け4/24広田外相は、天羽声明は手違いであると釈明した。
1934年
昭和9年
4月18日
帝人事件が起こる。斎藤内閣総辞職に発展

● 昭和9年4月18日、帝国人造絹糸製造株式会社(帝人)社長・前台湾銀行理事の高木復亨(なおみち)が、帝人株売買の背任・贈賄の容疑で逮捕された。高木の自供から、株を買い取った番長会の長崎英造、河合良成、小林中、水野護らも、背任・贈賄の容疑で逮捕された。
さらに5月に入ると、大蔵次官黒田英雄、同省銀行局長大久保偵次らが、株売買を仲介した際の収賄の容疑で逮捕された。閣僚の辞職で揺れていた斎藤内閣は、大蔵省高官の逮捕により、7月3日、総辞職した。しかしこの後も、中島久万吉前商工相が収賄の容疑で、三土忠造前鉄道相が偽証の容疑で逮捕されて、帝人株売買による逮捕者は17人に達した。
●この事件で17人を逮捕した検察局は、前例のないといわれた革手錠による身体拘束、南京虫責めなどを行い、拘留期間も200日以上に及んだ。このため議会でも「検察ファッショ」「司法ファッショ」の非難が相次いだ。
●公判は昭和10年6月から開始されたが、被告全員が自白を否認した。そして判決も、正当な株売買として全員に無罪が言い渡されたのである。
結局この「帝人事件」は、斉藤内閣倒閣を意図した、司法界の長老で枢密院副議長の平沼騏一郎を中心とする右翼の陰謀といわれているのである。
(新聞)5/19(第2号外)朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1934年
昭和9年
4月~5月
●4/19農村自力更生運動の一環として、全国桑園経営競技会優等賞授与。
●4/30、アメリカで生糸市場大暴落。
●5/2出版法改正公布。(8/1施行)
●5/14農林省、12県16ヵ所に農民道場を設置する。
●5/15商工省、ビール醸造業・石炭鉱業を重要産業に指定。
●5/24ブラジル議会で移民制限条項成立。
1934年
昭和9年
5月30日
●東郷平八郎元帥逝去。6/5東京日比谷斎場で国葬が行われる。鹿児島県出身(88歳)。日露戦争の日本海海戦でロシア・バルチック艦隊を破り、陸軍の乃木希典とともに日本の英雄。
(新聞)5/30(号外)朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1934年
昭和9年
6月2日
●フランス・リオンで欧州絹生産国代表による国際絹業連合会、日本品の進出阻止で団結することを決議する。
1934年
昭和9年
7月2日
●商工省、セメント統制方針を決定。重要産業統制法を発動し、1年間増産中止と建値強制引き下げを行う。
●7/2東京商工会議所(郷誠之助会頭)は、東京丸ノ内の同所内に商工相談書を開設した。中小商工業者を対象に経営相談を行った。
1934年
昭和9年
7月3日
斎藤実内閣、帝人事件の責任をとり総辞職。

●斎藤実内閣が総辞職すると、初の重臣会議(=5.15事件以後、後継首相の推薦に関わった重臣の合議形態で、首相経験者、枢密院議長、内大臣など)が開かれた。
●この重臣会議は、これまで首相推薦を行って来た元老西園寺公望が、高齢を理由に元老辞退を申し出たのをきっかけに、開設されることになったもので、今回の決定も、斎藤前首相が岡田啓介を首相として推薦し、「現状を継承できる最適者」との意見が、結局全員の支持を得たのであった。そして岡田啓介を後継首相として決定し、元老西園寺公望が天皇に奏薦したのである。
(新聞)7/4朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1934年
昭和9年
7月8日
岡田啓介(おかだ‐けいすけ)内閣成立

軍人、政治家。海軍大将。若狭(福井県)出身。田中・斎藤両内閣の海相。昭和9年(1934年)首相となったが、2.26事件のため辞職。太平洋戦争末期には重臣として終戦工作に尽力。(出典)「日本語大辞典精選版」
●この内閣の特徴は新官僚の登場で、陸相・林銑十郎、海相・大角岑生、外相・広田弘毅は留任し、新官僚のリーダー的存在であった後藤文夫が内相となり、蔵相には大蔵次官の藤井真信、内閣書記官長には河田烈が起用されたのである。
(新聞)7/9朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1934年
昭和9年
7月26日
(近畿大防空演習開始、~28日まで。)
●大防空演習が大阪を中心とする近畿地方一帯で4個師団が参加して行われた。爆撃機による模擬空襲が昼夜にわたって行われ、大阪港も灯火管制を行った。
(写真)煙幕に包まれる大阪市外。写真-毎日新聞社(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1934年
昭和9年
8月1日
(内務省による、レコードの検閲始まる。)
●改正出版法が施行され、内務省によるレコード検閲が開始された。レコードも新聞、雑誌、書籍と同様に、発売前に内務省の検閲を受けねばならないことになった。
1934年
昭和9年
8月2日
(ドイツ、ヒンデンブルク大統領死去、ヒトラー大統領を兼務する。)
●8/19ヒトラー首相、大統領兼任を問う一般投票で賛成90%を獲得。「総統」の地位を確認される
1934年
昭和9年
8月
(純国産練習機「赤とんぼ」誕生。)
●石川島(のちの立川)飛行機製作所は、陸軍の委嘱を受け、8月純国産練習機第1号を完成させた。のち、改良を加えた3号機が採用され、制式名称は九五式一型練習機と名付けられた。通称「九五中練」、俗称「赤トンボ」の名で親しまれ、昭和18年までに一号機を含めて2398機が生産された。乗員2人。最大速度は時速240km。
写真・野沢正(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1934年
昭和9年
9月1日
●東京・横浜・川崎の3市連合の防空演習が、午後1時から翌2日午後3時まで実施される。約50万人が参加した。
1934年
昭和9年
9月5日
(東京市電従業員、整理案に対して1万1千余名始発からストを行う。)
●9/2東京市電気局、赤字解消のため従業員1万人余の解雇し、4~5割減給して再雇用するという人員整理案を発表した。これに対して東京交通労働組合は9/5から全面ストを開始し女性車掌たちも参加した。当局は組合首脳99人を懲戒解雇し対抗した。しかしその後警視総監による調停も不調に終わり10月にもストとなった。結果は10/13、2割減給で妥結した。
(新聞)9/5(号外)朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1934年
昭和9年
9月~10月
アメリカ・アリゾナ州で排日運動激化。

●9/13、排日運動激化で20数人が日本人農園を襲撃した。(8/20、アリゾナ州の排日実行委が、在留日本人農家を訪ね25日までに立ち退きを要求していた。)
●10/5にはさらに排日運動が激化し、地方官憲も暴徒に参加し日本人農民を検挙。アメリカ政府は州知事に取り締まりを厳命する。
●10/29日本人宅2軒へ爆弾が投げ込まれ、幼児負傷。

1934年
昭和9年
9月14日
政府、陸軍による在満機構改革案を承認。

●これは8/6、陸軍省が在満政治機構改革の原案を発表したもので、関東軍の主導の下で、満州国に対する日本の支配機構を統一しようというもの。内容は、昭7年より関東軍司令官が駐満全権大使と関東庁長官を兼任していたが、これを、関東庁を廃止して関東軍監督下の関東局を現地に置き、内閣直属の対満事務局を中央に新設しようとする案。
●これに対して外務省・拓務省・関東庁そして現地警察は反対し、9/12には関東庁全職員が庁員大会を開催し総辞職を決議した。
●10/7拓務省は、陸軍省に反発し、同案再考要求の具申書を高等官全員連署で岡田首相に送付。
●10/17政府、在満機構改革の陸軍案断行を決定。「命令系統の統一であり、警察機関の憲兵化ではない」と声明。
●10/18関東軍、在満機構改革反対派への鎮撫工作のため、大連に特務機関設置(27日廃止)。
●10/19大連で全満州29警察署巡査代表大会開催。警官5000人の総辞職と在満巡査統制委員会解散を決定。
●12/22在満機構改革案、臨時枢密院本会議で可決。直ちに臨時閣議で決定(12/26公布)
●12/26対満事務局官制公布施行。林銑十郎陸相が総裁を兼任し、在満機構改革問題が収束した。
(新聞)9/15朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1934年
昭和9年
9月18日
●国際連盟総会、ソ連の国際連盟への加入を、賛成39、反対3、棄権7で可決。常任理事国の地位賦与も承認。
1934年
昭和9年
9月21日
室戸台風、関西を直撃。40府県に甚大な被害。

●この台風は9/21午前5時頃、高知県の室戸岬付近に上陸した。最低気圧911.9ミリバール(現在ヘクトパスカル)を記録、瞬間最大風速は60mを越えた。そして室戸台風は徳島県から淡路島を北上、午前8時頃大阪湾の和田岬に再上陸した。そのため湾の海面が約3m上昇し、海水は時速10km前後で木津川、尻無川などを逆流し、大阪市内の低地へ奔流となって流れ込んだ。
●また加えて、大阪の被害は暴風によるものが1番大きく、特に天王寺地区では四天王寺の五重塔が倒壊し、また小学校の7割以上が倒壊などの被害を受け、児童676人教員ら18人が死亡した。大阪・兵庫・京都・岡山など30府県での被害状況の合計は、(死者・行方不明者数)3246人、(家屋の全半壊戸数)88,046戸、(田畑の被害・千町歩)22,427.4、(橋梁の流出)7,939件。(出典)中央気象台編「日本気象災害年表」とある。
(新聞)9/21(第3号外)朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
(写真一部分)暴風のため吹き寄せられた船。大阪港付近の岩崎橋下流で撮影。大阪市の流出・沈没船舶は2112隻。写真・「アサヒグラフ」10/3号(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

1934年
昭和9年
10月1日
陸軍パンフレット問題起こる。「国防の本義と其強化の提唱」

●いままで陸軍省のパンフレットは調査班が発行しており、その内容も資料的なもので発行部数も少なかった。ところが昭和9年になると、パンフレットの発行は新聞班によって行われるようになり、10/1に発行された「国防の本義と其強化の提唱」は約16万部発行された。
この内容は、国防力の強化、資本主義経済の否定(統制経済の提唱)、総力戦体制の確立を主張したものだった。
●このパンフレットは、陸軍省軍務局軍事課の池田純久少佐が、国策研究会の矢吹一夫らの協力を得て作成し、軍務局長永田鉄山少将の承認、陸軍大臣林銑十郎の決裁を経て発行されたものであった。永田は統制派の中心人物で池田も統制派に属していた。この統制派は陸軍が直接行動によらず主導権を握ることによって総力戦体制を確立しようとするグループであり、直接行動による独裁政権を樹立しようとする皇道派とは別であった。
●しかしこのパンフレットは議会でも問題となり、政友・民政両党は内閣を無視した軍の政治干与であると強く反発した。林陸相も12/1の衆議院本会議で、「研究のために公にしたまでで只今直ちに実行するといふ如き考へはない」と弁明した。美濃部達吉も中央公論でこれを批判したが、一方で賛意を表明する団体もあった。
(新聞)10/6朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

*リンクします「国防の本義と其強化の提唱」軍事叢書. 第1輯 軍事思想普及会 昭和13年刊→国立国会図書館デジタルコレクション
1934年
昭和9年
10月
東北地方、明治38年(1905年)以来の大凶作

●特に東北の冷害による凶作の被害は甚大であった。9年の米の全国平均収穫高が、対平年比82.8%であったのに対し、東北6県では60.9%しか収穫できなかった。なかでも冷害のひどかった岩手県では45.5%、青森県では53.6%と最悪を記録した。
●このため衆議院は12/6、農林省の提出した「政府所有米穀の臨時交付に関する法律案」を可決し、政府所有米のうち50万石を東北6県の町村に交付した。
●だが飢饉となった岩手県では農家の77%が緊急の救済を必要とし、欠食児童が急増し、間引きや母子心中が相次いだ。特に大きな問題となったのは、娘の身売りだった。東北6県で、芸・娼妓、女給、女子工員などとして人身売買され離村した娘の数は、9年10月までの1年間で5万人余にのぼった。下は、昭和9年12/1の朝日新聞の記事「14娘を売った金、40円の家と化す。 冬籠りの窮農を訪ふ」の一部。

・・・『スミエあ売られて難儀してす、吾(われ)あ死んでもいいはで、孫達あ楽にさせてやりてい』と赤く瀾れた眼から涙をボロボロこぼした、 この佐藤一家は、家は借金のカタに取られて近所の家に同居してゐたが、スミエといふ14の娘を名古屋市賑(にぎはひ)町の娼妓屋に売った金で、此の家を買ったのだ、 身代金は5ヵ年の契約で450円だったが、そのうち100円は1本になってから渡すとのことで、娘の着物代にといって50円、周旋料だといってブローカーに22円50銭、親爺と周旋屋とで娘を名古屋まで送って行った汽車賃、宿料、自動車代その他雑費だといって127円50銭とられ、結局手に渡ったのは僅(わつか)150円だった、 そのうちから70円の借金を支払ひ、40円で家を買ふと残る40円もなんといふことなしに消えてしまった・・・・

写真は12/1東京朝日新聞の記事のもの(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1934年
昭和9年
10月24日
日米海軍予備第1次会談開催

●新聞は、10/24に開かれた日米海軍予備第1次会談を報じたものである。(写真1段目、山本五十六代表・海軍少将、写真2段目右、松平恒雄代表・駐英大使)、10/23から日英予備会談開始。
●この予備交渉は、イギリスがロンドン海軍条約(有効期限1936年12/31)に定められた(第23条)「1935年に開かれる予定の軍縮会議」前に、日英米3国の了解を得るために提議したものであった。ところが日本の軍縮方針(ワシントン条約破棄など)が、英米と根本的に異なるため、10月まで予備交渉を休止していた。そして日本は方針を確定し予備交渉を再開したのであった。
●日本の根本主張は、①ワシントン条約破棄(有効期限1936年12/31)、②軍備平等確保、③現行艦種別比率主義を廃棄し、共通最高限保有量設定により全保有量を縮減する、などであった。これらは英米の主張とは相容れず、イギリスは斡旋を試みたが、交渉は危機に瀕していった。
(新聞)10/25朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●下段で、1922年のワシントン海軍軍縮条約と1930年のロンドン海軍条約の概略を書いておく。海軍軍縮の流れをつかんでおきたい。

「海軍軍備制限に関する條約」(ワシントン海軍軍縮条約)(1922年2月)

(文は「日本の歴史」読売新聞社1963年より引用・要約)
●ワシントン海軍軍縮会議は、第1次世界大戦後の1921年(大正10年)7月、アメリカ国務長官ヒューズがアメリカ駐在全権大使幣原喜重郎に軍縮会議の提案をしたことから始まった。
第1次世界大戦は非常に進歩した軍事科学が軍備の革新をもたらした。そのため各国は、飛行機、戦車、毒ガスなどの新兵器そして重火器(大砲)の大型化や、軍艦の近代化のためほとんどの兵器を一新する必要がおこった。

下

「1930年ロンドン海軍条約」(1930年4月)

●1922年のワシントン海軍軍縮会議は、主力艦と航空母艦を制限したものだったので、各国の補助艦艇(巡洋艦以下)についての建造競争は激化していた。そこで1927年(昭和2年)、ジュネーブで補助艦を制限する会議が開かれたが、これは各国の主張が対立してまとまらなかった。
●しかし1929年に端を発する世界恐慌は、各国を経済不況と社会不安で襲い、各国政府にとっても財政負担軽減である海軍軍縮を強く望む機運がうまれた。また主力艦の建造停止期間も1931年に迫っていたこともあり、1930年1月より日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリア5ヶ国がロンドンに集まり軍縮会議開催となったのである。

下

*リンクします「海軍軍備制限ニ關スル條約」1922年「ワシントン会議」→
国立公文書館「アジア歴史資料センター」

*リンクします1930年「ロンドン」海軍条約→
国立公文書館「アジア歴史資料センター」
1934年
昭和9年
10月25日
(高山本線、悲願の全通)
●高山線飛騨小坂(おさか)と富山から延びる飛越線の坂上(さかかみ)間が開通した。15年かかった高山本線の開通である。
(写真)は祝賀の花電車。写真-中日新聞社。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1934年
昭和9年
11月2日
(ベーブ・ルースら大リーグ選抜チーム17名来日)
●これは読売新聞社・社長正力松太郎の招待によるもので、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリック、ジミー・フォックスらも参加した。この時の全日本チームは、沢村栄治、スタルヒン、三原脩、水原茂、中島治康ら30選手で編制された。
●12/26読売新聞社は野球人気を背景に、全日本チームを母体に、日本初の職業野球団「大日本東京野球俱楽部」(現読売ジャイアンツ)を結成した。
(写真)ファンに手を振る初来日のルース。-写真・朝日新聞社(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊


●第10戦で好投した沢村栄治投手は、久慈次郎捕手とバッテリーを組み、速球と大きく落ちるカーブで、ルース、ゲーリック、フォックスのホームランバッターを三振させた。
(写真)第10戦で好投した沢村栄治投手(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
(注)沢村栄治、プロ野球投手。三重県出身。京都商業在学中から速球投手として知られ、東京巨人軍に入団後、エースとして活躍し初の最高殊勲選手となる。第2次世界大戦に応召し台湾沖で戦死。昭和22年(1947)その功績をたたえて「沢村賞」が制定された。大正6~昭和19年(1917-1944)(出典)「日本語大辞典精選版」
1934年
昭和9年
11月20日
士官学校事件。青年将校らクーデター計画容疑で逮捕

●逮捕された将校は、陸軍歩兵太尉・村中孝次(のちの2.26事件で死刑)と、陸軍一等主計(大尉)磯部浅一(のちの2.26事件で死刑)、そして士官学校区隊長片岡太郎中尉であった。そしてその他に陸軍士官学校士官候補生5人が容疑で士官学校に軟禁された。
●容疑は5.15事件のようなクーデターを計画しているとの疑いであったが、軍法会議での取り調べに対して村中、磯部はそのような計画はでっちあげで、皇道派弾圧のための陰謀であると主張した。
その結果、翌昭和10年3/29事件は嫌疑不十分として不起訴が決定した。しかし4/1行政処分が行われ、将校3人は停職処分、5人の士官候補生は退学処分となった。この停職処分はもっとも重い行政処分で、6ヶ月は復職できず、また1年以内に復職できないときは自然休職となるものだった。
●しかし事件はこれで終わらなかった。
①昭和10年2/7、軍法会議取調中、村中大尉は誣告(ぶこく=虚偽告訴)の訴えを起こした。相手は陸軍省軍務局員・片倉衷少佐と士官学校第一中隊長・辻政信大尉であった(2人共に統制派側)。
(4/2には磯部も同様の訴えを起こす)しかしこの訴えは黙殺された。
②昭和10年7/11、停職中の2人は連名で「粛軍に関する意見書」を発表した。この内容は昭和6年に起きた「3月事件」や陸軍内部の皇道派と統制派の対立を暴露したものであった。
●8/2これに驚いた軍当局は、停職中の2人を陸軍内部の統制を乱すものとして免官処分としたのである。2.26事件の判決の中で2人が元将校とも書かれず「常人=民間人」とされている理由はこのためである。

1934年
昭和9年
12月19日
ワシントン海軍軍縮条約破棄

●枢密院本会議、ワシントン海軍軍縮条約破棄を全会一致で可決する。
12/21閣議、ワシントン条約破棄通告を正式に決定、22日斎藤博駐米大使に通告。新聞は、斎藤大使今夜(ワシントン時間29日正午)がハル国務長官に手交する記事。
(新聞)12/29朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1934年(昭和9年)の出来事 政治・経済・事件・災害・文化

「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊より抜粋
1. 5 日印シムラ会商,日本の譲歩で成立
1. 8 京都駅構内で海兵団入団者の見送り人が階段をなだれ落ち77人圧死
1. 15 共産党内の裏切り・スパイの疑惑にからむリンチ事件が発覚
1. 16 内外硫安販売協定成立

下

年・月 1935年(昭和10年)
(昭和10年のポイント)
●昭和10年7月、陸軍内部の将官人事をめぐる2つの派閥の争いがおこった。統制派によって皇道派の真崎甚三郎が教育総監を罷免させられ、同時に真崎直系の皇道派将官はほとんど中央から排除された。それに怒り覚えた皇道派の相沢中佐が、8月陸軍省内で軍務局長永田鉄山少将を刺殺したのである。憲兵隊に連行された相沢中佐の第1回軍法会議は昭和11年1月に開かれたが、公判においても皇道派と統制派の対立は続いた。そうしたなか皇道派による2.26事件が勃発したのである。
●青年将校らは自らを「昭和維新」のための正義の決起と信じ、事件後は軍部上層部と天皇の庇護を信じたのである。しかし陸軍内部は、彼らのように観念的で精神主義的で直接行動によって国内改造をめざす「皇道派」(荒木貞夫・真崎甚三郎らが中心)だけでなかった。新官僚(軍部を背景に国家改造を意図した高級官僚の一派)とも連携し総合的国策をとり合法的手段により覇権確立をめざした「統制派」(永田鉄山を中心)があった。
1935年
昭和10年
1月1日
●東京市、初の公設保健所である市特別衛生地区保健館を京橋に開設する。
1935年
昭和10年
1月10日
(国際連盟、連盟脱退後の日本の南洋委任統治継続を認める。)
●第1次世界大戦後、日本は旧ドイツ領南洋諸島を国際連盟からの委任を受け統治を行って来たが、国際連盟を脱退したことによりその委任を失う恐れがあった。日本は以前よりパラオ、トラック等に対アメリカ戦略拠点である軍事基地を設置していた。
1935年
昭和10年
1月21日
●ソ連から満州国への、北満鉄道譲渡に関する協定が、譲渡価格1億4000万円などの条件で成立する。1/22満州国鉄路総局、北満鉄道のソ連人従業員約6000人を解雇するなどの人事方針を決定する。
(新聞)1/22東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1935年
昭和10年
1月
●1/23、近衛歩兵軍旗祭(62回)式典が行われる。「近衛歩兵」は明治7年1月に編成され、主に宮城の警備を担う師団として、1/23明治天皇から「軍旗」を授けられた日である。
●1/31、日本・満州国連合部隊ハルハ廟を占領する。2/1関東軍司令部は、日満連合軍はハルハ河以北を占領したモンゴル軍を攻略、失地を回復したと発表。
1935年
昭和10年
2月4日
(海軍、九六式艦上戦闘機試験飛行に成功)
●三菱重工業は、海軍九試単座戦闘機(九六式艦上戦闘機)の試験飛行に成功する。初の実用低翼単葉戦闘機である。
(写真)九六式艦上戦闘機 写真-野沢正。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1935年
昭和10年
2月
●2/5、日本人の農耕禁止・農園居住禁止を目的とする「排日土地法案」、米アリゾナ州議会に提出される。3/18上院で15対5で可決、しかし21日下院では未上程のまま閉会。
●2/11、東京築地の東京中央卸売市場開場する。
●2/20、日本共産党の機関紙『赤旗(せっき)』この日187号を最後に休刊する。昭和20年(1945年)10/20復刊。
1935年
昭和10年
2月18日
2月25日
貴族院議員・菊池武夫、天皇機関説を攻撃

●2/18貴族院本会議で、菊池武夫議員が同じく貴族院議員美濃部達吉・東大名誉教授の著書を取り上げ「天皇機関説」を攻撃した。内容は「憲法学者の中に、日本の国体を破壊するような憲法の解釈をする者がいる、社会の木鐸(ぼくたく)をもって任ずべき帝国の大学の教授や学者が、このような著述をすることに自分は耐えられない・・」と攻撃を始めたのである。新聞は、2/25これに対して美濃部達吉が反論と説明を行った時のもの。
(新聞)2/26東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●この天皇機関説事件とは学説論争ではなく、「天皇」の権力の行使を「国家の機関」の行使とみなすこと自体天皇に対する不敬であり、そういうことを論ずるリベラルな知識人や学者は許さないという国家主義者の狂信的攻撃事件であろう。しかし2/25美濃部達吉の弁明を聞いた菊池武夫は、午後の本会議で「・・只今承る如き内容のものであれば何も私がとりあげて問題とするに当たらないやうに思う」と述べ、この時はあっさり矛をおさめた。下の写真は、左から美濃部達吉(当時63歳)、貴族院議員菊池武夫(当時81歳)、機関説排撃の理論的指導者蓑田胸喜(みのだ-むねき-きょうき)当時42歳。
●2/28江藤代議士が、東京地検に美濃部達吉を不敬罪で告発した。


(写真)(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
 ●「憲法講話」 より「第二講(下)天皇(其の一)」美濃部達吉著 有斐閣1912年刊 引用
ここで「憲法講話」美濃部達吉より「天皇」の最初の部分を引用してみる。「機関」という意味が分かりやすく説かれている。また発禁になった「憲法憲法撮要」にもリンクしてみた。まず広辞苑より「天皇機関説」について引用すると、「明治憲法の解釈として、国家の統治権は天皇にあるとする説に対して、統治権は法人である国家に属し、天皇はその最高機関であるとする学説。一木喜徳郎・美濃部達吉らが唱えたが、1935年国体明徴問題がおこり、国体に反する学説とされた。」とある。

下

*リンクします「憲法講話」美濃部達吉 著→国立国会図書館デジタルコレクション
*リンクします「憲法憲法撮要」美濃部達吉 著→国立国会図書館デジタルコレクション
1935年
昭和10年
3月
●3/4、岡田啓介首相、貴族院予算総会で美濃部達吉の「天皇機関説」に反対を表明する。
●3/4共産党リンチ事件で逃走中の袴田里見、東京本郷で警視庁特高課員に逮捕される。最後の共産党中央委員が逮捕され、日本共産党は壊滅した。
●3/8、頭山満・菊池武夫ら、機関説撲滅同盟を結成、国民運動を起こすための方針を決定。
1935年
昭和10年
3月8日
忠犬ハチ公、渋谷区内の路上で死亡。13歳だった。

●ハチ公は、渋谷に住む東京帝国大学教授上野栄三郎博士のもとへもらわれてから、毎日渋谷駅まで博士を送り迎えしていた。ところが上野邸で飼われてから約1年半後に博士は急逝してしまった。それを知らないハチ公は、日課のように渋谷駅に博士を迎えに通ったのである。ハチ公は7年前に死んだ主人の恩を忘れない忠犬であった。忠犬ハチ公は終身の教科書にも登場するようになったのである。
(下左写真から)昭和9年4/21東京渋谷駅前に完成したハチ公銅像の除幕式 写真-渋谷区郷土文化館。
(下左次の写真)昭和11年3/8、渋谷駅駅頭の銅像の前で、ハチ公1周忌の法要が行われた。 写真-毎日新聞社
(下右次の写真)生前のハチ公。うしろは吉川渋谷駅長と上野未亡人。
(下右端写真)昭和11年の国定教科書「尋常小学終身巻ニ」に登場したハチ公。さし絵は石井伯亭。
(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

1935年
昭和10年
3月9日
●大蔵省、軍事費の割合が46.62%で欧米列強で1番高いと発表した。これは10年度総予算に対する割合である。
1935年
昭和10年
3月16日
ドイツ、ヴェルサイユ条約破棄、再軍備を宣言

●総統アドルフ・ヒトラーが徴兵制による再軍備を宣言する。国際連盟はヴェルサイユ条約軍備制限条項違反として、翌月17日、反対決議案を可決する。
●4/27にはベルサイユ条約の海軍条項を破棄、潜水艦12隻の建造など海軍再建を声明。
●9月には、ニュルンベルクで開催のナチス党大会で「ドイツ人の血と名誉保護のための法(純血保護法)」と「ドイツ国公民法」を公布した。これはユダヤ人迫害のための法律である。
(新聞)3/17東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1935年
昭和10年
3月23日
(北満鉄道譲渡協定調印、広田外相官邸で調印式)
●北満鉄道をソ連から満州国へ譲渡する協定が、日満ソ3国間で調印された。1700kmの線路とその付属財産一切が、総額1億7000万円で、満州国のものとなった。買収金のうち、現金支払い分4670万円は小切手・国庫証書で手交。
1935年
昭和10年
4月06日
●満州国皇帝溥儀(ふぎ)が日満友好のため来日した。東京駅では、天皇および皇族、全閣僚がそろい、最大級の歓迎につつまれた。そして皇帝一行は日本各地で大歓迎された。溥儀の自伝には次のようにある。(一部引用)「・・私がついに最大の錯覚を起こし、みずから至高の権威を持ったと思うようになったのは、この日本訪問だった。・・」と。
だがこの訪問自体も関東軍(日本)による「日満友好」の演出と、満州国が日本の傀儡ではなく独立国であることを世界に知らしめるための演出であった。
(新聞)4/7東京朝日新聞夕刊(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1935年
昭和10年
4月09日
●内務省、美濃部達吉の著書「逐条憲法精義」「日本憲法の基本主義」「憲法撮要」を発禁、他の2著に改定命令をだす。(4/7美濃部は地検の召喚により出頭した。)
●この発禁処分は美濃部以外の機関説論者の著書にもおよび、三十数種が絶版にされた。同時に文部大臣訓令によって、機関説は教育の場でも事実上禁止された。美濃部学説を継承する教授は講座を廃止・交替させられたが、現実に機関説に反対する憲法学者は少数だったため、全国の大学で混乱が起こった。美濃部自身も、東京商科大学、早稲田大学、中央大学の講師を辞任する。大学におけるこの機関説『抹殺』は、学問の自由を失ったことを意味した。(文は講談社2万日の記録より)
(新聞)4/10東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1935年
昭和10年
4月21日
●台湾中北部で地震発生(午前6時2分、同27分)。被害甚大、死者3185人、全壊家屋1万5292戸。
(新聞)4/22東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1935年
昭和10年
4月23日
●帝国在郷軍人会、天皇機関説排撃パンフレット「大日本帝国憲法の解釈に関する見解」15万部を全国に配布する。
日本軍(関東軍)華北へ侵攻の準備を始める。

●5/29、支那駐屯軍(北支派遣軍・天津)参謀長酒井隆、軍事委員会北平分会長何応欽に対し抗日テロなど停戦協定違反と警告。
●5/31、関東軍、中国国民政府の停戦協定違反に対し、軍の出動を含む強硬方針を通告する。
●6/5、チャハル(察哈尓)事件起きる。この事件は、関東軍特務機関員4人が、チャハル省張北で宋哲元軍に連行・監禁された事件である。これに対して関東軍側は「日本軍人に対する侮辱」とし責任者の処罰等を要求。6/27宋哲元軍のチャハル省撤退、排日機関の解散などの協定を成立させた。(土肥原・秦徳純協定)
●6/10、梅津・何応欽協定。これは軍事委員会北平分会長何応欽が、日本軍側の要求を全面的に承認したものである。内容は①河北省内国民党機関の撤退や駐屯している第51軍や中央軍(第2、第25師団など)の移駐要求。③平津地方(北平《北京》・天津地方)の諸団体による反満抗日策動の禁止、などであった。
●日本は、塘沽協定による非武装地帯をさらに南下させ、華北5省(河北省・山東省・山西省・チャハル省・綏遠省)を国民政府から分離させようとするのである。
(新聞)6/11東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●そして11/25、日本軍の指導(傀儡政権)で、中国河北省東部地域に冀東(きとう)防共自治委員会が成立。委員長殷汝耕。11/26冀東防共自治政府と改称した。
●これに対して国民政府は、12/18冀察政務委員会を宋哲元を委員長として成立させ、河北(冀)・チャハル(察)察省を支配した。親日を装ったものであった。
●このように日本と妥協を重ねる蒋介石(国民政府)の考えは「先安内後攘外」といわれている。つまり先に国内を安定させることを優先させたのであった。そして蒋介石が特に力を注いだのが、共産党勢力の殲滅であった。そんな蒋介石に不満を持つ張学良(東北軍・日本に満州を奪われた)は、1936年「西安事件」をおこし共産党と国民党の抗日民族統一戦線の合作に貢献するのである。

1935年
昭和10年
07月16日
●陸軍省真崎甚三郎教育総監を更迭する。この頃の陸軍の内部は、皇道(こうどう)派と統制(とうせい)派に分かれて激しく派閥争いを行っていた。皇道派は荒木大将、真崎(まさき)大将を中心とする一派で、さかんに天皇中心主義を強調したので皇道派といわれた。一方の統制派は、かって桜会(さくらかい)に属し三月事件などを計画した参謀本部や陸軍省の中堅幹部達が中心であった。彼等は十月事件失敗後は、クーデターによらずとも、戦争体制を強化することで軍部が実権を得られると考えていた。中心人物は軍務局長永田鉄山少将らであった。
●この真崎教育総監の罷免は、統制派の策謀であるとして皇道派を怒らせ、永田鉄山少将刺殺事件(相沢事件)に発展していった。
(新聞)7/17東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
国体明徴運動と陸軍皇道派と統制派

●天皇機関説排撃の中で、1935年4/6陸軍教育総監真崎甚三郎は、天皇機関説は国体に反するという内容の国体明徴の訓示を全陸軍に通達した。しかしこのことは、宮廷と政財界の上層部を強く刺激した。これは天皇崇拝がより強調されることで真崎をリーダーとする皇道派がさらに勢いをもつことを恐れたからであった。真崎が陸軍士官学校校長の時代に、彼が並外れた皇道教育によって国家改造をめざす青年将校を続出させ、過激な青年将校グループを束ねているのが真崎とされたからである。皇族である参謀総長閑院宮載仁親王や、天皇も真崎を嫌ったと言われる。
●そして7月、林銑十郎陸相は、今井人事局長、橋本次官そして永田軍務局長、杉山参謀次長らによる、皇道派一掃の人事を強行した。真崎は反発して抵抗したが、参謀総長閑院宮載仁親王によって強引に上奏され裁可された。「”でかしたぞ、林銑十郎!” 荒木・真崎に不気味な威圧感をおぼえていた宮中の側近、元老、重臣ブロック以下各界は、双手を挙げてバンザイを唱えた・・」と当時の陸軍記者石橋は書いたとある。(「昭和の反乱」より)(出典)「別冊歴史読本永久保存版」「2.26事件と昭和維新」新人物往来社1997年2月刊

1935年
昭和10年
7月28日
(巡洋艦「最上」竣工)
●呉海軍工廠で、15センチ砲15門搭載の巡洋艦最上が竣工した。ロンドン軍縮条約失効後、短期間で20センチ10門に改装できるよう、重武装を前提にした大型の艦体として設計されていた。
(写真)巡洋艦「最上」 写真-福井静夫。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1935年
昭和10年
7月31日
●満鉄総裁林博太郎上京し辞表を提出した。後任に軍部の推薦を受けて松岡洋右が就任した。満州国建設のため軍部や財閥と協調できる人物ということで、関東軍司令官南次郎が推薦した。
1935年
昭和10年
08月01日
(抗日救国統一戦線)
●中国共産党は中国民衆に対して「抗日救国統一戦線」を提唱した(8.1宣言)。この宣言は、中国共産党の方針を転換し、中国民族を救うために、国民党を含めた全階級・全民族を結集して抗日民族統一戦線の結集を呼びかけたものであった。

「過去の意見の対立と利害の相違を捨て、国家・民族の危機が迫っているいまは、すべてのものは内戦を停止し、あらゆる国力を集中して抗日救国の神聖なる事業に奮闘すべきである」と。
1935年
昭和10年
08月03日
「国体明徴の声明」(第一次)発表

● 8月3日、ついに政府は一応の措置として「国体明徴の声明」(第一次)を発表した。
 「恭シク惟ミルニ我ガ国体ハ天孫降臨ノ際下シ賜ヘル御神勅二依り昭示セラルル所ニシテ万世一系ノ天皇国ヲ統治シ給ヒ(中略)即チ大日本帝国統治ノ大権ハ嚴トシテ天皇二属スルコト明ナリ、若シ夫レ統治権ガ天皇二存セズシテ天皇ハ之ヲ行使スル為ノ機関ナリト為スガゴトキハ是レ全ク万邦無比ナル我が国体ノ本義ヲ愆ルモノナリ……」
 岡田首相は、これでことを収めようとしたが、軍部や右翼の反発は収まらず、声明は「第一次」ではすまなかったのである。(新聞)8/4東京朝日新聞市内版(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1935年
昭和10年
08月12日
永田鉄山少将、軍務局長室で刺殺される(相沢事件)


●永田鉄山少将(陸軍省軍務局長)が軍務局長室で相沢三郎(歩兵中佐)に刺殺される。
●永田少将は長野県出身で陸軍士官学校(16期)首席卒業、陸軍省きっての逸材で「永田の前に永田なく、永田のあとに永田なし」といわれた。そして統制派の中心人物でもあり軍政の要である軍務局長という役職にいたので、皇道派から見ると、林銑十郎陸相の行う人事その他軍政すべてが永田少将によるものだと思われた。皇道派にとって永田は軍の革新を阻害する元凶のように写っていた。
(新聞)8/13東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1935年
昭和10年
8月22日
●吉川英治の『宮本武蔵』、「東京朝日新聞」「大阪朝日新聞」の夕刊小説として始まった。この『宮本武蔵』は大衆文学の歴史において画期的な意味を持ち、国民文学として人気を博した。連載中から刊行された単行本は、以後2000万冊以上も出版される大ベストセラーとなった。
1935年
昭和10年
8月24日
(満州鉱業開発会社、新京で設立)
●この会社は満鉄と満州国政府の共同出資で設立された特殊法人のひとつ。満鉄がマグネサイト鉱区を満州国が現金を出資した。特殊法人は、満州国の軍需資源の開発を日本政府の統制下に置く役割を担い、同社は石油、鉄鉱石などの鉱業権を一手に握った。
1935年
昭和10年
8月27日
●帝国在郷軍人会、東京九段の軍人会館で対時局全国大会を開き、天皇機関説排撃を宣言する。この帝国在郷軍人会の軍人会館(現九段会館)は、昭和9年3/25に完成し落成式が行われた。洋風建築に和風屋根を載せた「帝冠様式建築」の代表的な例で、川元良一の設計。「容姿は国の気品を備え荘厳雄大」とされる。
1935年
昭和10年
9月4日
●林銑十郎陸相、永田鉄山軍務局長刺殺事件の責任をとり辞職。後任は川島義之大将。
1935年
昭和10年
9月18日
美濃部達吉、貴族院に辞表を提出

●美濃部達吉の機関説問題での司法処分は、正式に起訴猶予処分となり完了した。しかし美濃部博士は、貴族院議員の辞表を提出したのち声明を発表し、「・・辞表を提出したのは、学説を翻すとか、著書が間違っていたことを認めるとかではなく、私が議員として職分を尽くすことが甚だ困難になった事を深く感じたことに他ならない・・」と述べた。だが閣議でこの声明を問題視する声が続出すると、9/21美濃部は「世上の誤解を生んだ」とこの声明を取り消したのである。

1935年
昭和10年
9月26日
(第四艦隊事件発生)
●台風下の三陸沖で演習中の第四艦隊艦船が遭難し、駆逐艦初雪、夕霧が大破、他の3隻も破損し、54人が殉職した。これは台風による予想もできなかった強大な三角波が次々と艦隊を襲ったことで起こった。駆逐艦夕霧の艦首は切断され、同じく駆逐艦初雪の艦首も切断された。そして駆逐艦睦月、菊月、三日月、朝潮は艦橋倒壊、空母竜驤は艦橋前部破壊、空母鳳翔は飛行甲板前端圧潰、重巡洋艦妙高は船体中央部外板鋲接弛緩の被害を受け、54名が殉職する大惨事となった。
●この船体切断事故は、日本海軍を根底から揺さぶる大事件となった。日本海軍が誇る最新鋭の駆逐艦が切断された原因は、「船体強度不十分」であった。最新駆逐艦の船体に欠陥があったのである。
(新聞)9/28東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
下の写真は駆逐艦夕霧と艦首が切断された夕霧。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

1935年
昭和10年
10月3日
●(イタリアがエチオピアを侵略)イタリア軍は、1896年にエチオピアに大敗した「アドワ」へ再度の進撃を開始した。これは第2次イタリア・エチオピア戦争である。近代兵器を装備したイタリア軍は、国際連盟の経済制裁を無視し、翌年5/5首都アジス・アベバを落とし、エチオピアを併合した。
(新聞)10/4東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
1935年
昭和10年
10月15日
(国体明徴第2次声明)
●岡田啓介内閣は、国体明徴第1次声明(8/3)の中で、天皇機関説は攻撃はしたが排除はしなかったために、軍部や在郷軍人会、右翼団体から激しい反発を買っていた。そこでこの第2次声明では『統治権の主体は天皇 機関説・厳に芟除(さんじょ=刈り除くこと)の要』と閣議で満場一致で承認して声明を発表したものであった。そして11/18、政府は国体明徴を具体化するため「教学刷新評議会」を文部省内に設置し、そして昭和12年5月に「国体の本義」を刊行した。さらに1941年、実践的な「臣民の道」を刊行した。
●第2次声明前月の9/18日、司法省は美濃部に起訴猶予の決定をしたが、美濃部は貴族院議員を辞職した。
1935年
昭和10年
10月28日
●第1回芥川賞(石川達三「蒼氓」)、直木賞(川口松太郎「鶴八鶴次郎」その他)の贈呈式が東京日比谷公会堂で行われた。(文藝春秋社・菊池寛)
1935年
昭和10年
11月
国民政府、貨幣制度の改革断行

●銀本位制だった中国は、銀の暴落などで破綻した財政・金融を立て直すために、イギリスのバックアップで貨幣制度改革を断行した。概略は、銀貨・銀塊の使用は禁止し、政府系の指定した銀行のみが紙幣を発行し、それのみを法定通貨とした。そしてその紙幣はポンドと兌換でき、為替レートは1元=1シリング2ペンス半とした、などである。つまり国民政府はイギリスと関係を強化することで、財政・金融の建て直しを行おうとしたのである。
(新聞)11/4朝日新聞「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊より抜粋

1935年
昭和10年
12月9日
第2次ロンドン海軍軍縮会議に参加

●日英米仏伊5ヶ国によるロンドン海軍軍縮会議始まる。水野全権、不脅威、不侵略体制の確立などを提案。

1935年(昭和10年)の出来事 政治・経済・事件・災害・文化

「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊より抜粋
1.7 中国,満州向け郵便物取り扱い開始
1.7 フランス・イタリア新平和協約調印,仏領ソマリランドの一部割譲
1. 13 ザール地方帰属人民投票,ドイツ帰属に決定
1. 20 民政党,町田忠治を総裁に推戴

下

1936年
昭和11年
1月15日
第2次ロンドン海軍軍縮会議から脱退

●日本全権永野修身(おさみ)は正式に脱退を通告した。日本はすでにワシントン軍縮条約も単独破棄通告をしていた。両条約共に1936年末には無効となるので、1937年1月1日以降、世界の軍縮体制は崩壊し、軍備無制限競争再開の時代となっていった。
(新聞)1/16東京朝日新聞(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊

1936年
昭和11年
2月
●野坂参三・山本縣蔵、モスクワで「日本共産主義者への手紙」を発表。反ファシズム統一戦線を次のように呼びかけた。

わが国民をファシズムと戦争の戦慄から救ふ道は、労働階級の統一行動と反ファッショ人民戦線を基礎とする偉大な国民運動のみである。されば日本共産党の当面する任務は、軍部、反動、戦争に反対して全勤労民を統一することである」と
1936年
昭和11年
2月20日
●第19回総選挙がおこなわれる。
岡田啓介内閣は、多数野党である政友会が内閣不信任案を提出したのを受けて、その上程に先立ち議会を解散したものであった。過去4年間で、血盟団事件、5・15事件、国際連盟脱退など内外で大事件が起こり、国民の間でも解散・総選挙を望む声が高まっていた。選挙の結果は政友会が惨敗し、民政党がついに第1党になった。岡田首相は政府支持派が絶対多数を得たことで、2/23「挙国一致で邁進する」と声明を出した。(2.26事件3日前である)
●普通選挙法による第16回総選挙(1928年)から第18回総選挙(1932年)と総選挙は行われてきたが、政友会、民政党の2大政党による干渉や買収が横行し、政界は腐敗をきわめていた。そんななかで、官僚グループ(新官僚)は、政党政治の党利党略を批判し、軍部と結合して国家の革新を図ろうとした。そして彼らは、政党人による買収・干渉などの腐敗選挙をなくすために選挙粛清運動を積極的に展開した。
★2・26事件「蹶起趣意書」「判決文(罪状)判決理由書(動機と原因)」「陸軍の思想的背景」など
1936年昭和11年2月26日2・26事件勃発
2・26事件勃発

●2月26日の早朝(午前5時)、各連隊の青年将校らは、蹶起と同時に目標とした政府首脳や重臣をその官邸や私邸に襲った。
翌日2月27日東京市に戒厳令が公布され、戒厳司令部は最初の三宅坂から九段の軍人会館に移された(午前6時)。
写真2枚とも(出典)「別冊歴史読本永久保存版」「2.26事件と昭和維新」新人物往来社1997年2月刊

●この事件は「昭和維新」の断行を旗印に、皇道派青年将校らが起こしたクーデター事件である。参加総人数は民間人を含めて1558名である。彼らは斎藤実内大臣、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎教育総監らを射殺し、鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせた。岡田首相も殺害されたと報道されたが、反乱軍が誤認し実際は岡田首相の義弟が射殺された。
下の蹶起(けっき)趣意書は、青年将校が彼らの蹶起の目的と理由を書いたもので、2月24日北一輝宅の2階で村中孝次が野中大尉の原文に筆を入れてできた。事件前夜、歩兵第1連隊で謄写印刷し、決行後、陸軍大臣始め軍当局者、各新聞社などに配布したものである。


左上の新聞は昭和11年(1936年)2月27日の大阪朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」昭和51年第4刷朝日新聞社発行

蹶起(けっき)趣意書

 謹ンデ惟(おもいみ)ルニ我神洲タル所以(ゆえん)ハ、万世一神タル天皇陛下御統帥ノ下二、挙国一体生成化育(せいせいかいく= 天地自然が万物を育て、この宇宙を成り立たせていること)ヲ遂ゲ、終二八紘一宇(はっこういちう=地の果てまでを一つの家のように統一して支配すること)ヲ完(まっと)フスルノ国体二存ス。此ノ国体ノ尊厳秀絶ハ天祖肇国(ちょうこく=国をひらきはじめること)神武(じんむ=神武天皇)建国ヨリ明治維新ヲ経テ益々体制ヲ整へ、今ヤ方(まさ)二万方(ばんぽう=あらゆる方面)二向ツテ開顕(かいけん=ひらきあらわすこと)進展ヲ遂グベキノ秋(とき)ナリ

下

「趣意書」(出典)「2・26事件 獄中手記・遺書」 河野司 編 河出書房新社 昭和47年初版 平成元年(1989年)新装初版発行

2・26事件の概要と蹶起部隊参加人員内訳及び判決(罪状・動機と原因)
事件の概要

●昭和11年(1936年)2月26日の早朝(午前5時)、「昭和維新」の断行を旗印に、憂国の気概に燃えた各連隊の青年将校らは、蹶起と同時にいっせいに政府首脳や重臣をその官邸や私邸に襲った。この章の最後の表が、蹶起部隊の参加人員内訳と出動先・結果一覧である。
●蹶起部隊は各所の襲撃終了後、麹町区永田町一帯を占拠し交通遮断に及んだ。この間蹶起部隊の首脳将校は、陸軍大臣に「蹶起趣意書」を読み上げ、要望事項を提示しその実施を迫った。判決文の「行動の概要」には次のようにある。
写真と以下の「判決文」「陸軍大臣告示」「戒厳司令部発表」は、(出典)「2・26事件 獄中手記・遺書 」河野司 編 河出書房新社 昭和47年初版 平成元年(1989年)新装初版発行

「・・麹町区西南地区一帯の交通を制限し、以て香田清貞、村中孝次、磯部浅一等の陸軍首脳部に対する折衝工作を支援せり。 前記香田清貞、村中孝次、磯部浅一等は丹生誠忠の指揮する部隊と共に、二月二十六日午前五時頃陸軍大臣官邸に到着、陸軍大臣川島大将に面接し、香田清貞は一同を代表して蹶起趣意書を朗読すると共に各所襲撃の状況を説明したる後、維新断行のため善処を要望し、また真崎大将、古荘陸軍次官、山下少将、満井歩兵中佐を招致して事態収拾に善処せられたき旨要請せり。」とある。

●要望には、反皇道派の宇垣一成大将、南次郎大将の逮捕もあった。そして午前8時30分頃、陸軍大臣川島大将の要請で来た皇道派の真崎大将は、蹶起将校達に「とうとうやったか、お前たちの心はヨヲッわかっとる」(磯部浅一手記)と言ったという。
●その後川島陸相は宮中に赴き、天皇に状況を報告した。天皇は「速ニ事件ヲ鎮定」するように命じたという。
●午後1時30分、宮中において陸軍軍事参議官会議(天皇の下問に答える陸軍長老会議)が開かれ、皇道派幕僚である真崎、荒木貞夫大将らが中心となって、蹶起将校を説得するための下記「陸軍大臣告示」が作成された。それが蹶起将校の行動を是認する内容のものであったため事態はさらに紛糾していった。

「陸軍大臣告示」(2月26日午後3時30分 東京警備司令部)

一、蹶起の趣旨に就ては天聴に達せられあり
二、諸子の行動は国体顕現の至情に基くものと認む
三、国体の真姿顕現(弊風を含む)に就ては恐懼に堪へず
四、各軍事参議官も一致して右の趣旨に依り邁進することを申合せたり
五、之れ以上は一に大御心に待つ

●しかし翌2月27日になると、天皇は陸軍当局による鎮圧が進まないことに憤りをおぼえ、「朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ、真綿ニテ、朕ガ首ヲ締ムルニ等シキ行為ナリ」とし、ついに「朕自ラ近衛師団ヲ率ヒ、此ガ鎮定ニ当ラン」(本庄繁「本庄日記」)とまで言ったといわれる。27日朝、政府は東京地区に戒厳令をしいた。
●決起部隊は「事態収拾を真崎大将に一任したい」と要望したが、真崎大将は天皇の強い言葉により言動が慎重となり、決起部隊の聯隊復帰をすすめるだけとなってしまった。「維新遂行・真崎内閣」をも期待されていた真崎大将は豹変したのである。参謀本部は、鎮圧をしぶる皇道派の香椎陸軍中将・戒厳司令官に「奉勅命令」(戒厳司令官は占拠部隊を所属部隊に復帰させよ、という内容)を下達するように命じた。
●こうして2月28日午前5時すぎに「奉勅命令」が下達され、もし決起部隊が従わなければ反乱軍となり、戒厳司令部は2月29日朝9時攻撃開始を決定した。
●2月29日朝より鎮圧軍は戦闘態勢にもとに原隊復帰勧告を行い、結果決起部隊は抵抗をやめ、下士官・兵は原隊に復帰していった。将校准士官は逮捕され陸軍衛戍(えいじゅ)刑務所に収容された。野中大尉は2月29日陸相官邸で自決、別動隊の河野大尉は3月6日東京陸軍病院熱海分院で自決した。安藤大尉は拳銃で自決を図ったが一命をとりとめた。
●蹶起将校たちは自決することより法廷で闘うことを決めて投降したが、陸軍は非公開で上告も許さない特設軍法会議で、同年昭和11年(1936年)7月5日には判決を下し、1週間後に死刑を執行した。
●2・26事件の論理的支柱であった北一輝と西田税は翌年8月19日には、常人(一般人)である磯部、村中等と共に銃殺刑に処された。
上のビラの写真は(出典)「雪未だ降りやまず(続2・26事件と郷土兵)」昭和57年埼玉県史刊行協力会発行

●戒厳司令部発表(ラジオ放送)(二月二十九日午前八時五十五分)
「兵に告ぐ」
 勅命が発せられたのである、既に 天皇陛下の御命令が発せられたのである
 お前達は上官の命令を正しいものと信じて、絶対服従をして、誠心誠意活動して来たのであろうが、既に 天皇陛下の御命令によって、お前達は皆原隊に復帰せよと仰せられたのである。此上お前達が飽く迄も抵抗したならば、夫(それ)は勅命に反抗することとなり、逆賊とならなければならない
 正しいことをして居ると信じていたのに、それが間違って居ったと知ったならば、徒らに今迄の行懸りや義理上から何時までも反抗的態度を取って天皇陛下に叛き奉り、逆賊としての汚名を永久に受けるような事があってはならない
 今からでも決して遅くはないから、直ちに抵抗をやめて軍旗の下に復帰する様にせよ、そうしたら今までの罪も許されるのである
 お前達の父兄は勿論のこと、国民全体もそれを心から祈って居るのである
 速かに現在の位置を棄てて帰って来い
戒厳司令官  香椎 中将

●戒厳司令部発表(ビラにて撒布)(二月二十九日午前八時五十五分)
「兵に告ぐ」
 既に勅命は発せられた、諸士が飽く迄も原隊に復帰する事を肯んぜざるは、畏くも勅命に反き奉り、逆賊たるの汚名を蒙る事となるのである。凡そ諸士が上官に対し献身忠誠を致すのは一に上官の命は直に陛下の命を承る義なりと心得ればこそである
 然るに、不幸にして上官が勅命に反抗するに至った以上、猶且小節の情義に捕われ或は行き懸りの上に引きずられて最後迄之と行動を共にせんとするのは、諸士も叛逆者として屍の上の汚名を後世迄も残さねばならぬ事となるのである
 諸士は飽く迄も大綱の順逆を誤って最後の決断を忘れてはならぬ、それには潔く意を決して再び軍旗の下に復帰し、速かに大御心を安じ奉らねばならぬ、全国民亦衷心諸士の翻意を念願しつつあるのである
戒厳司令官  香椎 中将


●「2・26事件蹶起部隊参加人員内訳」(下図はマウスホールで拡大・縮小・移動ができる)
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上図(出典)新編埼玉県史 別冊「2・26事件と郷土兵」埼玉県史刊行協力会 1981年発行

2・26事件の処刑一覧、判決文(罪状)判決理由書(動機と原因)、「2・26事件と郷土兵」
●反乱将校ら17名に死刑の判決下る。准士官以下47名処断される。1936年(昭和11年)7月7日午前2時陸軍省発表。(新聞)7/7東京朝日新聞市内版(出典)「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社1974年刊
●「2・26事件と郷土兵」には次のようにある。「・・事件は4日目になって収拾されたが、その直後、特設された軍法会議において反乱罪を問われ、将校の殆んどが死刑となり、命令を忠実に実行した部下も多数有罪の判決をうけた。また一般兵も隔離の上、憲兵のきびしい取調をうけた後無罪放免となっている。この時兵士たちは憲兵から『上官のあやまった命令に服従したお前たちは間違いである』といわれ驚きとともに命令とは何かと苦しんだとのことである。 事件後主力となった歩一、歩三の部隊は渡満し新任地で汚名挽回を期し専心軍務に励んだものの、決して汚名の消えることはなかった。・・」とある。
2・26事件の判決。7月7日陸軍省発表

●事件の詳細は、判決文に述べられているが、一部を引用する。順に「陸軍省発表文」「処刑一覧(将校・元将校・常人)の部分」「判決文(罪状)」「判決理由書(動機と原因)」を引用した。(出典)「2・26事件 獄中手記・遺書」 河野司 編 河出書房新社 昭和47年初版 平成元年(1989年)新装初版発行

●陸軍省発表(昭和十一年七月七日午前二時)
去る二月二十六日東京に勃発したる叛乱事件に付ては、其の後特設せられたる東京陸軍軍法会議に於て慎重審判中の処、直接事件に参加したる将校一名、元将校二十名(内二名は事件直後自決死亡す)、見習医官三名、下士官二名、元准士官下士官八十九名、兵千三百五十八名、常人十名中、起訴せられたる者は将校一名、元将校十八名。下士官二名、元准士官下士官七十三名、兵十九名、常人十名にして七月五日その判決言渡を終了せり。
右軍法会議の審判の結果に基く処刑及び判決理由概ね左の如し。
2・26事件「処刑」一覧

(元准士官、元下士官、兵、常人ら、省略)
(注)首魁とは悪事・謀反むほんなどをたくらむ中心人物。首謀者。

下

2・26事件の判決文(罪状)判決理由書(動機と原因)
罪 状
 被告人中、将校、元将校及重要なる常人等が、国家非常の時局に当面して激発せる慨世憂国の至情と、一部被告人等が其進退を決するに至れる諸般の事情とに就いては、これを諒とすべきものなきにあらざるも、その行為たるや聖諭に悖り理非順逆の道を誤り、国憲国法を無視し、而も建軍の本義を紊り、苟も、大命なくして断じて動かすべからざる皇軍を僭用し、下士官兵を率いて叛乱行為に出でたるが如きは其の罪寔に重且大なりと謂うべし、仍て前記の如く処断せり。
 又下士官、兵中有罪者一部の者に在りては、兵器を執り、叛乱をなすに当り、進んで諸般の職務に従事したるものと認め得べしと雖も、その他の者にありては、自ら進んで、本行動に参加する意志なく、平素より上官の命令に絶対に服従するの観念を馴致せられあり、尚同僚始め大部隊の出動する等、周囲の状況上之を拒否し難き事情等の為、已むなく参加し、その後においても唯命令に基き行動したるものにして、今や深くその非を悔い、改俊の情顕著なるものあるを以て、之等の者に対しては刑の執行を猶予し、爾余の下士官兵は上官の命令に服従するものなりとの確信を以て、其の行動に出でたるものと認め、罪を犯す意なき行為として之を無罪とせり。

2・26事件の判決理由書(動機と原因)
判決理由書
一、動機と原因
 (イ) 村中孝次、磯部浅一、香田清貞、安藤輝三、栗原安秀、対馬勝雄、中橋基明は夙に世相の頽廃、人心の軽佻を慨し、国家の前途に憂心を覚えありしが、就中(なかんずく)昭和五年のロンドン条約問題、昭和六年の満洲事変等を契機とする一部識者の警世的意見、軍内に起れる満洲事変の根本的解決要望の機運等に刺戟せられ、逐次内外の情勢緊迫し、我国の現状は今や黙視し得ざるものあり、まさに国民精神の作興、国防軍備の充実、国民生活の安定等、まさに国運の一大飛躍的進展を策せざるべからざるの秋に当面しあるものと為し、時艱(じかん)の克服打開に、多大の熱意を抱持するに至れり。
 尚この間軍隊教育に従事し、兵の身上を通じ農山漁村の窮乏、小商工業者の疲弊を知得して深く是等に同情し、就中一死報国共に国防の第一線に立つべき兵の身上に、後顧の憂多きものと思惟せり。渋川善助亦一時陸軍士官学校に学びたる関係により、同校退校後も在学当時の知己たる右の者の大部と相交わるに及び、是等と意気相投ずるに至れり。

下

「2・26事件と郷土兵」新編 埼玉県史別冊 より
●この本は、2・26事件に参加したり関係した埼玉県関係者の証言記録である。蹶起部隊として事件に参加した約1500名の将兵のうち、ほぼ半数が埼玉県出身の兵士だったからである。ここでは、その証言記録のなかから大宮市出身、歩兵第三聯隊第六中隊 軍曹 大正2年(1913年)生まれの谷中靖(旧姓中村)の「黒い影に憤怒」を紹介してみる。
「黒い影に憤怒」
昭和十一年連隊は渡満の関係で戦時編成となり、第六中隊は従来四コ班だったが一コ班増加し、私が新設の第五班長に、大木作蔵伍長が班付に任命された。
 一月十日新兵の入隊以降、私は毎日これの内務教育と訓練に忙殺されていた。
 その頃連隊内では相沢事件の公判をめぐって青年将校の間には何か緊張感が漲っていたようで、第六中隊でも毎週一回ずつの安藤大尉の精神訓話の中にそのことがいつも出てきて、これに関連した世なおしの必然性が説かれていた。このため心ある者は近く何か事件が起こることを意識していた。
 果たせるかな、二月二十六日○一・〇〇非常呼集によって遂にその日がやって来た。
 今週の週番司令は我が中隊長安藤大尉だ。間もなく命令がきた。
  「第六中隊は只今から靖国神社の参拝に向う、第二種着用!」

下

陸軍の思想的背景
大川周明「大東亜秩序建設」、北一輝「日本改造法案大綱」の思想
大川周明「大東亜秩序建設」

大川周明(おおかわ‐しゅうめい)、日本ファシズム運動の理論的指導者。山形県出身。軍部に接近し、三月事件、五・一五事件などに関係。戦後、A級戦犯の容疑を受けたが精神異常の理由で釈放。(出典)「日本語大辞典精選版」
●ここで大川周明「大東亜秩序建設」の「大東亜秩序の歴的根拠」より7の「支那事変より大東亜戦争へ」のところを引用してみる。「大東亜」建設の意味が少しわかる。
●左写真は、極東軍事法廷1946年(昭和21年)5月3日第1回公判開廷時の大川周明(なぜか合掌している黒服の人物)。(出典)「NHK特集・激動の記録・占領時代(昭和21年~23年)」NHKエンタープライズ2008年発売DVD


大川周明「大東亜秩序建設」より

「7 支那事変より大東亜戦争へ」
 是くの如くにして日本の誤れる進路は、満洲帝国の建設と共に、一挙正しき転向を見た。満洲建国は、日本が亜細亜抑圧の元兇たる英米との協調を一抛し、興亜の大業に邁往し初めたものとして、まさしく維新精神への復帰である。満洲事変勃発に際して、国民の熱情が火の如く燃えたのも、実に其為であった。然るに最も遺憾に堪へぬことは支那が日本の真意と亜細亜の運命とを覚らず、満洲建国を以て日本の帝国主義的野心の遂行となし、いやが上にも抗日の感情を昂め来れることである。

下

日本改造法案大綱(北一輝著)

●ここで、2・26事件の青年将校たちの思想的根拠となった「北一輝」の「日本改造法案大綱」の最初の部分を引用してみる。クーデターを実行するべきと言っているようである。

「国家改造論策集 内務省警保局保安課 1935年刊 「日本改造法案大綱」 北一輝著」
 緒言
 今や大日本帝國は内憂外患竝び到らんとする有史未曾有の国難に臨めり。國民の大多数は生活の不安に襲はれて一に歐洲諸國破壊の跡を學ばんとし、政權軍權財權を私せる者は只龍袖に隂(かく)れて惶々(こうこう=おそれるさま)其不義を維持せんとす。而して外、英米獨露悉く信を傷けざるものなく、日露戦争を以て漸く保全を與へたる隣邦支那すら酬ゆるに却て排侮を以てす。眞に東海粟島の孤立。一歩を誤らば宗祖の建國を一空せしめ危機誠に幕末維新の内憂外患を再現し來れり

下

*リンクします「日本改造法案大綱」 北一輝著」→ 国立国会図書館デジタルコレクション


●翌年、北一輝・西田税に死刑判決が下った。新聞は昭和12年(1937年)8月14日の東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」昭和49年朝日新聞社発行

★現在の統帥権と帝国陸海軍の統帥権思想。統帥権干犯。
現在の日本の自衛隊の統帥権に関する法律の条文は下記の通りである。下に一部自衛隊法などから抜粋した。しかしこれらは現在の日本国憲法には書かれていない。これが大問題であることは、アメリカ合衆国の憲法をみればわかる。
●アメリカの連邦議会は、憲法によって「宣戦布告」を行う権限を持つが、同時に大統領は、憲法によって「最高司令官」として強大な軍事権限を持つ。連邦議会は、この大統領の強大な軍事権限に制限をかけるため、「大統領戦争権限法」を成立させた。「シビリアンコントロール」とは、「文民(非軍人)」が軍隊のトップにいるという意味ではなく、軍隊を「政治的統制・民主的統制・議会統制」の下に置くことをいうのである。また連邦議会は軍法を定める権限を持ち、司法においても特別裁判所(連邦行政裁判所などや連邦軍事裁判所など)を設置している。
●一方日本国民は、日本国憲法にも明記させないでいる軍隊(自衛隊)をどうやって統帥して行くつもりなのだろうか。自衛隊法にある「内閣総理大臣が自衛隊の最高の指揮監督権を持つ(自衛隊法)」ということだけでは「シビリアンコントロール」とはいえない。現実に存在する軍事力を、議会(国会=国民の意思)がどのように統帥していくかを決め、それを憲法に明記しなければならない。国の骨格に関わる重要なことは法律ではなく憲法に明記しなければならないからである。下段で、「日本国憲法」「自衛隊法」「武力攻撃事態・・法」などにリンクしてみた。
●特に「武力攻撃事態等及び存立危機事態における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律」の「国会の承認」と「自衛隊法」にある「防衛出動」がポイントであろう。だがこれは「戦争・交戦命令」ではない。何故なら日本国憲法には、次の第2章があるからである。

日本国憲法

第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
○2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

自衛隊法

第二章 指揮監督
(内閣総理大臣の指揮監督権)
第七条 内閣総理大臣は、内閣を代表して自衛隊の最高の指揮監督権を有する。
(防衛大臣の指揮監督権)
第八条 防衛大臣は、この法律の定めるところに従い、自衛隊の隊務を統括する。ただし、陸上自衛隊、海上自衛隊又は航空自衛隊の部隊及び機関(以下「部隊等」という。)に対する防衛大臣の指揮監督は、次の各号に掲げる隊務の区分に応じ、当該各号に定める者を通じて行うものとする。
一 統合幕僚監部の所掌事務に係る陸上自衛隊、海上自衛隊又は航空自衛隊の隊務 統合幕僚長
二 陸上幕僚監部の所掌事務に係る陸上自衛隊の隊務 陸上幕僚長
三 海上幕僚監部の所掌事務に係る海上自衛隊の隊務 海上幕僚長
四 航空幕僚監部の所掌事務に係る航空自衛隊の隊務 航空幕僚長


第六章 自衛隊の行動
(防衛出動)
第七十六条 内閣総理大臣は、次に掲げる事態に際して、我が国を防衛するため必要があると認める場合には、自衛隊の全部又は一部の出動を命ずることができる。この場合においては、武力攻撃事態等及び存立危機事態における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律(平成十五年法律第七十九号)第九条の定めるところにより、国会の承認を得なければならない。

下

武力攻撃事態等及び存立危機事態における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律

(注)理解しやすいように小項目以下は別枠でくくって表示した。しかしこの法律のタイトルからして、日本の政治の困難さがわかるようではある。


第九条 政府は、武力攻撃事態等又は存立危機事態に至ったときは、武力攻撃事態等又は存立危機事態への対処に関する基本的な方針(以下「対処基本方針」という。)を定めるものとする。

下

*リンクします「日本国憲法」総務省「電子政府の総合窓口」→ 電子政府の総合窓口
*リンクします「自衛隊法」総務省「電子政府の総合窓口」→ 電子政府の総合窓口
*リンクします「武力攻撃事態等及び存立危機事態における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律」総務省「電子政府の総合窓口」→
電子政府の総合窓口
*リンクします「警察法」総務省「電子政府の総合窓口」→ 電子政府の総合窓口

●一方アメリカ合衆国の統帥権は下記の通りである。アメリカ憲法から抜粋してみる。連邦議会と大統領に権限を分けている。本来意味したことは、「連邦議会」が宣戦布告し「大統領」が最高司令官として軍隊を指揮して戦争を行う、ことであった。しかし大統領命令によって、議会の宣戦布告なしでも軍隊の派遣がなされ、大統領の軍事権限は拡大されて行った。そこで連邦議会は、「大統領戦争権限法」によって大統領の軍事権限を規制するようになった。
「アメリカ合衆国憲法」第1条(立法府)

第8節(連邦議会の権限)
第11項 連邦議会は、宣戦布告をし、掠奪免許状を賦与し、陸上および海上における捕獲に関する規則を設ける権限を有する。
第12項 連邦議会は、陸軍を徴募し、維持する権限を有する。ただし、この目的のための支出予算は2年を超える期間にわたってはならない。
第13項 連邦議会は、海軍を備え、維持する権限を有する。
第14項 連邦議会は、陸海軍の統帥および規律に関する規則を定める権限を有する。
第15項 連邦議会は、連邦の法律の執行、反乱の鎮圧および侵略の撃退のために民兵の召集に関する規定を設ける権限を有する。

「アメリカ合衆国憲法」第2条(行政府)

第1節(行政権、大統領選挙)
第8項 大統領は、その職務を執る前に次のような宣誓もしくは確約をしなければならない。
「私はアメリカ合衆国大統領の職務を忠実に遂行し、最善を尽くしてアメリカ合衆国憲法を維持、保護、擁護することを巌粛に誓う(もしくは確約する)」。
第2節(大統領権限)
第1項 大統領は、アメリカ合衆国陸海軍およびアメリカ合衆国の軍務に服している諸州の民兵の最高司令官である。大統領は行政府各省の職務に関する事項につき文書で行政府各省の長官に意見を求めることができる。大統領は弾劾裁判事件を除くアメリカ合衆国〔連邦政府〕に対する犯罪に対して刑の執行停止および恩赦を行う権限を有する。

●「大統領戦争権限法」(1973年)は、連邦議会が、ベトナム戦争の結果から、大統領が持つアメリカ軍の海外派遣を決定する軍事権限を規制しようとしたことから生まれた。この法律は、大統領が海外派遣ができるためには、以下の3つの条件が必要であるとした。
「大統領戦争権限法」の概略

(アメリカ軍、海外派遣の3条件)
①連邦議会が宣戦布告をした場合。
②特別法によって権限が大統領に委譲されている場合。
③アメリカ合衆国に軍事攻撃があった場合。
(概略は次のようである。)
これら3条件のうち1つ以上があれば、大統領は軍隊に戦争命令をだすことができる。さらに、大統領が外国に軍隊を派遣した場合は、48時間以内に連邦議会に通報する義務がある。また戦争の継続を連邦議会が認めない場合、60日以内に停戦する義務がある。また大統領は、軍隊派遣前にできるだけ速やかに連邦議会と話し合いを行ったり、派遣後も連邦議会に詳細を報告する義務がある、というものである。

このように現在の状況と、下記の大日本帝国憲法ならびに大日本帝国陸海軍の「統帥権」の考えを読めば、より問題が明確となる。日本帝国陸海軍は、帝国憲法で「天皇」に統帥大権があるという理由から、軍隊自身もまた統帥大権による独立神聖を主張したのである。そして行政機関たる政府や立法機関たる議会から、指揮、命令、干渉を受けることを「統帥権干犯」とし、戦争に突き進んだのである。
●しかし現代では逆に、日本国憲法に「軍隊」と「統帥権」とを明確に規定せず、議会もそれを放置し続けているということは、政府と議会が統帥責任を放棄していることに他ならないのである。
またこのような日本のあいまいな姿勢は、対外的に自国防衛体制の脆弱さを暴露しているのである。なぜなら自衛隊は、憲法において「・・陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」という存在にすぎないからである。今や日本は周辺国にとってみれば、交戦できないほど弱い国とみなされているのである。
●また自衛隊法には内閣総理大臣は「最高の指揮監督権を有す」とあるが、「最高司令官である」とは書かれていない。軍隊では「命令権」を持たなければならない。同じように防衛大臣の指揮監督は、『当該各号に定める者(幕僚長など)を通じて行うものとする』とあり、「指揮監督権」は直接の命令権ではないようなニュアンスである。司令官の命令に従わない者は、命令拒否・不服従で死刑が軍隊である。自衛隊は軍隊ではないのである。
●いつまでも軍事力保持について観念論・理想論ではなく現実的な論議をしてもらいたいものである。理想論ならそれを具体化・現実化する論議が必要であろう。ただ軍隊に対してトラウマを持ち違憲論だけで済ますようであれば、一歩も前には進まない。軍隊が悪かったわけではない、命令を行う日本の権力層が、どうしようもなくダメだったからにすぎない。今後もし戦争が起きた時、日本の権力層や知識階層(新聞・報道を含む)は、またその責任を国民にかぶせるつもりであろうか。日本は敗戦時徹底的な攻撃を受け甚大な被害を受けた。そのため日本の権力層は国民に総懺悔をさせて、すべての責任をあいまいにしようとした。そして現在においても、日本は憲法9条を持つ平和国家なのだから、攻撃されるはずはないと夢想する政治家までいるようである。だが近隣諸国にとってはそうではあるまい。今度こそ仕返しして、恨みを晴らしてやろうと考える国があっても、ふしぎはないことである。
「大日本帝国憲法」の一部抜粋
第1章 天皇(てんのう)
第1条大日本帝国ハ万世一系(ばんせいいっけい)ノ天皇之ヲ統治ス
第3条天皇ハ神聖(しんせい)ニシテ侵(おか)スヘカラス
第4条天皇ハ国ノ元首(げんしゅ)ニシテ統治権(とうちけん=国家を統治する大権。国土・人民を支配する権利。主権)ヲ総攬(そうらん=政事・人心などを、一手に掌握すること)シ此ノ憲法ノ条規(じょうき)ニ依リ之ヲ行フ
第11条天皇ハ陸海軍ヲ統帥(とうすい)
第12条天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額(じょうびへいがく)ヲ定ム
第13条天皇ハ戦(たたかい)ヲ宣(せん)シ和ヲ講(こう)シ及諸般ノ条約ヲ締結ス

新陸軍読本から「統帥権の帰属」の部分
「第二 建軍の樣式と兵役制度」より「統帥権の帰属」
 各国の軍隊成立の要素の中で最重要なものは統帥権の所在と兵役制度であります。国防上軍の存在することが絶対不可欠でありますから、此の軍を統率し指揮運用する統帥権は独立不羈(どくりつふき=他から制御されないで自己の所信で事に処すること。また、そのさま。)、他の要因に依って影響されることなく存在することと徴兵制度の施行が絶対に必要となります。
 我が国は萬邦無比の神聖なる国体に基いて此の統帥権の不羈独立と徴兵制度を確立し、世界に比類のない軍制を確立しているのであります。
 一 統帥権の帰属

下

「新陸軍読本」武田謙二 著 高山書院 昭和15年(1940年)刊
国立国会図書館デジタルコレクション

「海軍読本. 第20号」の統帥権の独立不可侵の部分
 第7 帝国海軍の組織
 一 統帥権の独立不可侵
天皇の海軍
 建国の初、天皇定って日本国家あり、これ我が国体の大本であって、天壌とともに窮(きわま)りなく、天皇は日本国家と一体たること萬世に亙(わた)って不動である。
(注:天壌無窮=てんじょうむきゅう=天地とともにきわまりのないこと。永遠に続くこと。)
 抑〃(そもそも)国軍の使命は、一に国家生命の独立を主張し、防衛して、以て国と国と対立するの間、我が国の由って立つの国是を遂行するにある。
 されば国家を離れて国軍なく、天皇を離れて皇軍なし。
 天皇は親ら国軍を統帥し給う。 これ神武肇国(ちょうこく=新しく、国家をたてること。建国。)の厳然たる事実であり、祖宗(そそう)の御制であって、帝国憲法が、第11條に於て「天皇は陸海軍を統帥す」と統帥大権を明らかにした所以である。

下

「海軍読本. 第20号」阿部信夫 著 海軍省海軍軍事普及部 昭14(1939年)
国立国会図書館デジタルコレクション

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