(歴史)大日本帝国陸海軍と「アジア・太平洋戦争」③昭和4年、昭和恐慌前夜


航空母艦加賀1928年(昭和3年)3月31日竣工。(写真・福井静夫)上空から見た加賀。加賀は八・八艦隊計画では戦艦だったが、ワシントン海軍軍縮条約で航空母艦に改造され、航空艦隊の主力として活躍する。これにより日本海軍は、前年3月竣工の赤城と共に2隻の巨大空母を保有することになった。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

1929年(昭和4年)10月アメリカに端を発する世界恐慌の中、日本は金本位制に復帰したが、ついに日本は昭和恐慌をむかえてしまう。
最初に日本貿易の中心的産業であった生糸・絹織物産業の衰退と電力業の発展を書く。この生糸・絹織物産業の衰退を決定づけたのは、アメリカの大恐慌とレーヨンの市場参入によることが大きかった。そして電力業の発展は「動力革命」といわれ、日本の製造業全体に大きな影響を与えた。
●年表では日本国内の政治・経済・事件を、昭和4年(1929年)まで書き出した。昭和初期といっても、昔のことではない。現代の多くの企業のルーツがこの時代にあり、出版・放送・マスメディアの発達もこの時代からである。政治的にも2大政党(制度ではない)による政権交代や男子普通選挙の実施、陪審制の実施などもこの時代からである。だが一方で治安維持法や治安警察法による思想弾圧が始まったのもこの時代である。特筆できるのは、国家による共産党への徹底した弾圧があったことである。しかし労働争議や小作争議については、共産主義弾圧とはおもむきが異なり、調停を重視したことであろうか。

目次
ピックアップした項目 内容
★生糸・絹織物産業の衰退と電力業の発展 日本の産業の花形であった生糸・絹織物産業の衰退が始まり、農村も疲弊していく。一方で電力事業の発展は、電動機の普及をうみ、「動力革命」となっていく。
★国内政治・社会年表
昭和2年8月《1927年》~昭和4年《1929年》

(下段一覧から年代ごとにリンク)
この昭和初期の時代は、労働争議、男子普通選挙、政党政治、思想弾圧、世界恐慌、植民地支配、デフレ、財閥の成長、中国での軍部侵略の前兆などすべてが起こった時代といえるだろう。
国内政治・社会年表
年・内閣 内容
昭和2年(1927年)8月以降
若槻内閣→田中義一内閣
●若槻礼次郎内閣(憲政会)、昭和2年(1927年)4月、台湾銀行救済のための緊急勅令案を枢密院によって否決され総辞職する。(昭和金融恐慌処理)
昭和3年(1928年)
田中義一内閣
●第1回男子普通選挙を実施するが、治安維持法を緊急勅令で改正、国体変革を目的とする勢力(共産党など)を徹底的に弾圧した(特別高等警察の機構拡張も行う)。対中国強硬外交を推進し、山東出兵、済南事件を起こす。
昭和4年(1929年)
田中内閣→濱口雄幸内閣
●田中義一内閣(政友会)、昭和4年(1929年)7月、張作霖爆殺事件(昭和3年6月)の陸軍に対する処分を徹底できず総辞職。
●濱口雄幸内閣(民政党)、外交方針と経済政策を転換、「対支親善」「軍縮促進」「整理緊縮」「金解禁断行」などを施政方針とする。外務大臣に幣原喜重郎、大蔵大臣に井上準之助(前日銀総裁)を起用、徹底した緊縮財政を開始する。そして金解禁のために、国際競争力(輸出)強化の政策として、輸入削減のための節約と貯蓄を奨励し、産業合理化に取り組んだ。そして濱口雄幸内閣は昭和5年1/11、緊縮財政下において、金解禁を断行していく。
●しかしながら、昭和4年(1929年)10月に起こったアメリカ・ニューヨークの株式の大暴落に始まる大恐慌は、日本の輸出産業に大打撃を与え、かつ国内の緊縮財政とデフレ政策とがさらに国内景気を縮小させ、日本は深刻な不況に陥った。労働争議、小作争議が頻発し、物価・所得は下落し失業者は増え不況は深まった。また政府は、財政圧縮と国際協調のためロンドン海軍軍縮条約(昭和5年4月)を締結したが、これが天皇の大権である「統帥権」を政府が「干犯」したという「統帥権干犯」問題となっていくのである。

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★生糸・絹織物産業の衰退と電力業の発展
『昭和2万日の全記録』講談社、『昭和財政史』(戦前編)大蔵省(財務省)、「日本経済史」慶応義塾大学出版会発行(2011年)などから数値を引用した

生糸・絹織物産業の衰退

●ここで日本の産業の花形であった生糸・絹織物産業の衰退について、昭和恐慌収束の1931年頃(昭和6年頃)までの数値を引用してみる。国内不況、物価下落、金解禁、世界恐慌、為替下落、レーヨンの市場参入など、衰退した原因は複雑である。左図は昭和初期のおける主要輸出品価額表であるが、全輸出品の筆頭は「生糸」であった。上位の生糸と綿織物の合計は、全輸出額の55%以上を占めた。下段にある繊維関係6品目をみると、昭和4年で66%となり、間違いなく日本の主力輸出産業は繊維工業であった。
(左図)(出典)「昭和財政史第13巻」(国際金融・貿易)財務省
●なかでも、製糸工程の大規模化、機械化を進めていったのは、長野県諏訪6大製糸(片倉組、山十組、小沢組、岡谷組、小口組、林組)と京都府綾部地方の郡是(ぐんぜ)製糸が代表であった。
郡是(ぐんぜ)製糸は今のグンゼ株式会社である


●ところが昭和5・6年となると、左図(重要輸出品価額)にあるように、生糸、綿織物、絹織物の3大輸出品は、激減している。金額ベースで昭和6年の昭和4年対比では、順に54.5%、51.9%、44.9%の激減である。しかし数量ベースでみると、2年間を通じて生糸3.3%、綿織物21%の減退とあるので、これらの金額ベースでの輸出激減は、国内の物価下落による影響も大きいということである。特に生糸の価格下落は激しかった。
(図)(出典)「昭和財政史第13巻」(国際金融・貿易)財務省



●この物価については、左図の上の「貿易数量・金額指数比較表」(横浜正金銀行調査)を見ると、特に昭和6年の金額ベースは激減しているが、数量輸出指数では105.8となっている。これは単価の下落によるものであるから、特に昭和5.6年の貿易の委縮は、主として急激な物価下落によると考えられる。
(図)(出典)「昭和財政史第13巻」(国際金融・貿易)財務省
●また下図の「日・英・米三国物価指数」をみると東京の物価指数の下落ぶりがわかる。昭和4年の171.9が昭和6年6月には119.8で約30%の下落である。だがそれでも東京の物価は他国より高かったので、濱口内閣の金解禁、産業の合理化による商品原価引き下げによる輸出増進はうまくいかなかった。
(図)(出典)「昭和財政史第9巻(通貨と物価)」財務省


●しかし、何といっても生糸の輸出価額の減少は、主要輸出先であるアメリカの不況による、価格下落の結果であった。左図の「横浜市場生糸平均相場」をみると昭和3、4年に対しても5~6割の価格下落となっている。またアメリカの生糸消費が減少したにもかかわらず、日本の生産が増進を続けたことも原因となった。そして中国の日貨排斥やインドの国内産業保護による関税引き上げも影響した。またレーヨンの市場参入にも大きな影響をうけた。
●この生糸の価格下落は、農家に甚大な影響を与えた。農村では繭価が最大60%の値下がりを記録し、生糸の暴落に輪をかけた。全国農家560万戸のうち222万戸が養蚕農家であり、この繭収入は農家の最大の現金収入だった。そして恐慌のなか、昭和5年は「豊作飢餓」、昭和6年は「凶作飢餓」となり、農村の疲弊は深刻化していく。
(図)(出典)「昭和財政史第13巻」(国際金融・貿易)財務省


●左は1936年(昭和11年)までの「主要輸出品価額の推移」であるが、ついに生糸は綿織物に抜かれてしまう。また人絹織物は昭和11年にはベスト3に入ってくるようになった。(図)(出典)「昭和財政史第13巻」(国際金融・貿易)財務省
●レーヨン(人造絹糸)は木材パルプを原料に化学的加工を経て作られるもので、1884年にフランスで製造に成功した。レーヨンはフランス語で「光る」を意味する。日本には20世紀に入ってから伝えられたが、工業化の試みは失敗した。本格的な生産を開始できたのは、1915年鈴木商店(あの戦争成金といわれた)の金子直吉による援助で、山形県米沢市に作られた人造絹糸製造所からだった。鈴木商店記念館サイトには「ビスコース(最新の製造法)の研究をしていた久村清太と久村の学友で米沢高等工業学校(現・山形大学工学部)の講師でやはりビスコース人絹の研究をしていた秦逸三を資金援助し、東レザーの分工場・米沢人造絹糸製造所を実験工場として、工業化を成功させた。」とある。そして1918年(大正7年)には株式会社に改組、「帝国人造絹絲」に社名を変更した。現「帝人」である。


*リンクします「昭和財政史(戦前編)」→財務省・財務総合政策研究所

電力業の発展


●日本の電気事業は、1882年(明治15年)東京電灯によって開始された。明治・大正にかけて各地では中小の電力会社の設立が相次いだが、関東大震災を機に電力会社の統合が進んだ。この頃、東京電灯、日本電力、大同電力、宇治川電気、東邦電力の5大電力会社が激しい企業競争を続けていた。
●なかでも東邦電力(のちに電力の鬼と呼ばれた松永安左エ門社長)は、工業地帯である京浜地区への進出を狙い「東京電力」という子会社を作り、関東大地震で施設が壊滅した「東京電灯」へ殴り込みをかけたのである。この「東京電力」は、東邦電力が静岡県の大井川の水利権を持つ「早川電力」と横浜地区に電力供給権を持つ「群馬電力」を手に入れ合併させたもので1925年に創立された。しかしこの『電力戦争』とよばれた「東京電灯」と「東京電力」の戦いはすさまじく、「東京電力」の攻勢は、東京市電、京浜電車、東武鉄道、日本鋼管、日清紡などの大口客を「東京電灯」から奪った。国鉄(今のJR)だけは両者の話合いで協調して送電した。
●しかしこの過激な競争で両者の経営内容が悪化し、これをみかねた三井、三菱、安田など有力財閥銀行が斡旋にはいり、昭和3年(1928年)4/1「東京電灯」が「東京電力」を合併して争いは終結した。
●下の「電力業の発展と動力革命」の数値であるが、これらの電力業の競争は、電力の供給の拡大と料金の低下を生み、日本の製造業に大きな影響を与えた。数値でも1934年(昭和9年)には電動機の比率は81.3%となって、原動力の変換「動力革命」が起きたのである。
●ちなみに現在でも日本の東西で交流周波数が異なる理由は、この時代に、東京電灯がドイツ製交流発電機(50Hz)、大阪電灯がアメリカ製交流発電機(60Hz)を使用して電力を供給したことが原因である。
(上の写真は、東京電灯千住火力発電所で、隅田川沿いに立地し、1926年《大正15年》から稼働し、1964年《昭和39年》に撤去された発電所だった。この火力発電所の4本の煙突《高さ80mあまり》は「お化け煙突=方向によって1本~4本に見えた」とよばれた。私事であるが、自分が小学校低学年の頃、千葉県の松戸から池袋方面に常磐線でくるとき、この煙突をたびたび見た記憶がある。だが常磐線ではせいぜいのところ3本程度にしかならなかった気がする。)
(上写真)大正15年(1926年)操業開始の東京電灯千住火力発電所。(出典)『昭和2万日の全記録』講談社1989年刊
(下表)「電力業の発展と動力革命」(出典)「日本経済史」慶応義塾大学出版会発行(2011年)

「ナショナル」製品の登場。松下電気器具製作所・第1の飛躍

●超一流企業の草創期。松下幸之助は1917年に「二股ソケット」を考案し、独立し1918年に松下電気器具製作所を設立した。そして昭和2年(1927年)4月、過去の自転車店奉公時代の体験から生まれたアイデアをもとに「ナショナルランプ」を発売して大成功をおさめた。(写真)自転車用電池ランプの宣伝板-写真・松下電器歴史館(出典)『昭和2万日の全記録』講談社1989年刊
●松下電器産業(現パナソニック)草創期の精神は、「自分自身や大衆の生活の中にある身近なものを工夫改良し、より便利な、より経済的なものにしようとする意欲」から生まれた。そして松下幸之助は販売促進・市場流通の構造に斬新なアイデアを導入していったのである。一例としては、「ナショナルランプ」の拡販策で1万個を無料で販売店に提供し、1万個の電池を宣伝用に岡田電池商会に無料提供させ、代わりに年内に20万個仕入れるという交換条件をつけるという販売促進を行った。結果は大成功で、約束の2倍以上の47万個を岡田電池商会から仕入れることができたのだった。
●また松下幸之助の経営手腕は信頼されており、金融恐慌のなかでも住友銀行は、松下の新工場建設の計画に対して、無担保で融資を行ったのである。

★国内政治と社会年表。1927年(昭和2年)8月頃から1929年(昭和4年)頃。『昭和2万日の全記録』講談社を中心に要約引用し、朝日新聞の紙面紹介を行った。新聞はその時代をあらわしているからである

年表(1927年~1929年)
年・月 1927年(昭和2年)8月~
(昭和2年成立の田中内閣の政治基調)
●田中義一(陸軍大将)内閣(政友会)は、昭和2年の4月より若槻礼次郎内閣(憲政会)の後を継いで成立した。この時の大きな問題は、若槻内閣が「枢密院」によって総辞職に追い込まれたという事実である。「枢密院」は、若槻内閣の金融恐慌対策の台湾銀行救済法案ではなく、内閣の軟弱な対支外交政策(幣原外交)に対して、反対したのだった。
●従って田中内閣は、「枢密院」、元老(西園寺公望)そして陸軍の意向をくんだ内閣といえるのである。その考えは「対外的には軍事力を行使しても中国における権益は守ること」(山東出兵・済南事件)であり、「国体(天皇制)を変革しようとする思想は徹底的に弾圧」(共産党弾圧・緊急勅令による治安維持法改正・全国道府県に特高課を配置)することであった。
●この天皇の諮詢に応える「枢密院」は、政治の中枢において、議会よりも、そして内閣よりも権力を持つことができたのである。大日本帝国憲法(下にその部分を引用)では、日本が議院内閣制を基本的に認めず、また行政権は天皇が自ら行う「大権」であり、内閣は天皇を補弼するだけのものでしかなかったのである。これに対して議会も枢密院弾劾決議案を第53議会に提出し可決したが、枢密院は無視したのである。この時代に「憲政の常道」といわれた政党政治・議院内閣制は、憲法に明記された制度ではなく、「慣例」であったにすぎなかった。

(大日本帝国憲法)
第4章 国務大臣及枢密顧問
第55条国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼(ほひつ)シ其ノ責ニ任ス
2 凡(すべ)テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅(しょうちょく)ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス
第56条枢密顧問(すうみつこもん)ハ枢密院官制ノ定ムル所ニ依リ天皇ノ諮詢(しじゅん)ニ応(こた)ヘ重要ノ国務ヲ審議ス
(内閣官制・明治22年勅令第135号)
第1条 内閣ハ国務各大臣ヲ以テ組織ス
第2条 内閣総理大臣ハ各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承ケテ行政各部ノ統一ヲ保持ス
1927年
昭和2年
8月30日
「女たちの最大の争議」山一林組で1357人スト突入

●長野県諏訪郡平野村(現岡谷市)の同社の男子・女子工員1357人は、「組合加入の自由・待遇改善」などの要求に対する会社側の回答を不満として一斉にストライキに突入した。ストに入ったのは、山一林組9工場のうち平野村にある、本店・第2・第3工場に属する従業員たちで、そのうちの89%が平均年齢が17歳を満たない製糸女子工員だった。
●特に貧しい小作農から集められた女工たちは、「登録制度・寄宿舎制度・等級制度」などによって、がんじがらめに縛り付けられていた。女子工員登録制度は、1925年に施行された労働者募集取締令に抵触するものとなり、1926年2月に廃止されたが、寄宿舎制度を根幹とする奴隷制度は、改正された工場法によってもなお存続しつづけた。
●9月7日、会社側は工場閉鎖命令を出し、9月12日には本店工場の炊事場・食堂を閉鎖して兵量攻めにでた。そして争議団は外出する隙をつかれ、500余名が寄宿舎を締め出されてしまった。こうして幹部の寝返りなどがあり、女子工員413人は説得に応じ帰郷し、争議団は解散する。(下に「女工哀史」をリンクしておいた。)
写真は昭和2年12月末に工場は閉鎖され、敗北した女子工員たちが特別列車で故郷にむかうところ。(出典)『昭和2万日の全記録』講談社1989年刊
●ただ、日本国内にあった全ての製糸工場が「女工哀史」であったわけではない。また当時の社会の貧富の差は激しく、農村の労働作業は製糸工場以上であったといわれる。

*リンクします 「女工哀史」 細井和喜蔵 著 改造社 大正14刊→ 国立国会図書館デジタルコレクション
1928年
昭和2年
9月1日
宝塚少女歌劇団・日本初のレビュー『モン・パリ』を上演

●宝塚少女歌劇団は、日本最初のレビュー『モン・パリ』を宝塚大劇場で上演した。特に鮮烈だったのは「ラインダンス」と「階段レビュー」であった。以来この2つは必ずレビューに使われる演出となった。
(注)レビューとは大衆演劇の形式の一つで、音楽、踊り、コントなどからなるショーである。19世紀末にフランスでおこり、20世紀初頭に世界的に流行した。ラインダンスもレビューのひとつ。(上写真)昭和2年10月に再演された『モン・パリ』車内吊りポスター。-写真・阪急学園池田文庫(出典)『昭和2万日の全記録』講談社1989年刊
●特筆されるのは、箕面有馬(みのおありま)電気軌道(現阪急電鉄)の専務・小林一三(いちぞう)の存在である。小林は私鉄の経営を、沿線の宅地分譲や遊園地(行楽地などの)経営を行うことで乗客の誘致をはかるというビジネスモデルを日本で最初に実現した人物である。この宝塚少女歌劇団も、当初は宝塚新温泉に客を集めるために創立されたものだった。
●そして1924年(大正13年)に宝塚に大劇場を完成させると、劇団は演出家岸田辰也に、大劇場にふさわしい演目を研究させた。そして岸田は欧米に派遣され、パリで人気を博していた「レビュー」の導入を決めたのである。
しかしそのレビュー1本の上演費用は、概算でも宝塚の年間上演費用の4年分に相当し、猛反対を受けたのだが、それを許可したのがここでも社長の小林一三だったのである。
●岸田はレビュー「モン・パリ」の振り付けなどを弟子の白井鉄造に任せた。こうして白井は、日本のレビュー発展の最大の功労者となっていくのである。
●宝塚少女歌劇団は、このレビュー公演の翌年(昭和3年5月)には東京歌舞伎座に進出し、5日間の公演は超満員となった。この成功を見た東京松竹は、昭和3年10月に楽劇部を設立した。そして多くのレビュー団が誕生していったのである。下段の日本最初の地下鉄のところの「佐藤千夜子 東京行進曲 昭和4年の東京銀座 浅草」の中にもラインダンスのシーンがある。

1927年
昭和2年
10月16日~
(東京府美術館で第8回帝展が開催)
●院賞受賞は日本画・鏑木清方「築地明石町」、洋画・田辺至「裸体」、彫刻・横江嘉純「大乗」。
(左の日本画)鏑木清方「築地明石町」1927年(出典)「原色明治百年美術館」朝日新聞社1967年年刊
1927年
昭和2年
11月1日
(講談社「キング」11月号、140万部を完売)
●この「キング」は初の100万部越えの雑誌となる。11月号は、キングに付録「明治大帝」をつけたもので、この付録は出版界始まって以来の大付録で、箱入り828ページ、定価がキングと2冊で一円だった。この「明治大帝」はのちに単行本として発売されベストセラーとなったという。こうして講談社は、『雄弁(明治43年)』『講談倶楽部(明治44年)』『少年倶楽部(大正3年)』『面白倶楽部(大正5年)』『現代(大正9年)』『婦人倶楽部(大正9年)』『少女倶楽部(大正12年)』『キング(大正14年)』、そして翌年には『幼年倶楽部(大正15年)』を創刊し「9大雑誌」を刊行した。この9大雑誌で国内発行の雑誌の6割以上を占め、講談社は「雑誌王国」と呼ばれるようになった。
1927年
昭和2年
11月3日
●初めての明治節。この日は旧制の4大節のひとつで、明治天皇の誕生日。明治神宮に参拝者が昼間約50万人、夜約30万人。
1927年
昭和2年
12月20日
野田醤油争議(戦前最長ストライキ)

●野田醤油株式会社は罷業中の工員735人を解雇した。これで解雇者の累計は1037人となる。
●これより前4月10日に組合側は、「増給の要求」、「解雇・退職・老衰手当の増額」など6項目の要求を会社側に提出していた。この時、会社側は要求を全面拒否したので、スト突入は必至だったが、労働組合本部の介入でストは回避されていた。そして1927年9月13日、関東醸造労働組合野田支部の組合員が千葉県野田町(現野田市)の野田醤油株式会社を訪れ要求書を手渡した。内容は下請け会社・丸三運送店がらみの組合つぶしと思われる行動に抗議するものだった。そしてこの3日後、組合はストに突入し、翌年4月20日までの218日間の戦前の最長ストライキとなった。
●この事件の結末は、1928年(昭和3年)3月20日、野田争議団副団長堀越梅雄が、東京駅前丸ビル明治屋支店前角で、葉山へ行幸する天皇に直訴に及んだことがきっかけとなった。会社側は「不敬事件」としたが、問題を起こした責任は免れず、調停もあって妥結した。調停内容は、争議団の解散、解雇者のうち342人の復職、総額45万円の手当の支給というものだった。
写真は昭和3年4月1日、内務省へ請願のため江戸川堤を東京へ向かって行進する争議団。(出典)『昭和2万日の全記録』講談社1989年刊
(注)1917年(大正6年)高梨家と茂木一族7家が設立した野田醤油株式会社は、のちにキッコーマン醤油株式会社に商号変更した。

1927年
昭和2年
12月30日
●日本最初の地下鉄開業。東京地下鉄道の浅草-上野間
左絵は「上野-浅草間開通のポスター」昭和2年。杉浦非水作(出典)『昭和2万日の全記録』講談社1989年刊
下にYouTubeから「ZaitakuCare氏」の「佐藤千夜子 東京行進曲 昭和4年の東京銀座 浅草」をリンクしてみた。「東京地下鉄道株式会社」による日本最初の地下鉄(上野-浅草間1927年12月30日開業)の映像が写っている。


*リンクします「佐藤千夜子 東京行進曲 昭和4年の東京銀座 浅草」
動画・出典:youtube(ZaitakuCare氏)
年・月 1928年(昭和3年)
(昭和3年の田中内閣の政治・経済)
●田中内閣の経済政策は、積極財政を展開し金解禁には消極的だった。そして財閥の後押しがあり「金権体質」ともいわれた。しかし日本の為替相場の低迷と日本外債の価格低迷は、巨額な対外債務をかかえ、しかも継続的に外債発行を必要とする日本にとって、金本位制復帰による国際信用の回復は必要不可欠なものであった。そして昭和3年12月、経済審議会は、「国際収支の均衡をはかるため金輸出の解禁を断行すべし」との答申案を満場一致で可決し、政府は閣議で金の輸出解禁にむけて調査を開始する旨の申し合わせを行った。次の濱口雄幸内閣だけが金解禁を政策課題にしたわけではない。
1928年
昭和3年
1月1日
銀行法施行。大蔵省による監視・指導と5大銀行集中

普通銀行数の推移

●この法律は、銀行の最低資本金を100万円(大都市では200万円)と定め、明治以来の中小銀行の乱立等の問題の解決を目指すものであった。政府は条件に満たない銀行に対して、廃業または他行との合併をもとめた。さらに大蔵省銀行局に検査課を設け、銀行への監視・指導を強化した。日本の銀行制度・金融行政が刷新されたのである。そして日本の銀行は、5大銀行(三井・三菱・安田・住友・第一)に集中していく。
(上表)「普通銀行数の推移(1896-1945年)」(出典)「日本経済史」慶応義塾大学出版会発行(2011年)
1928年
昭和3年
1月12日
(大相撲実況中継始まる。)
●ラジオによる大相撲実況中継が、東京の国技館大相撲春場所から始まった。実況放送が人気を呼び、大相撲は人気を盛り返していった。前年の昭和2年、東京と大阪に分立していた相撲協会は、人気の衰退を挽回するために合併し、日本大角力協会を設立していた。
1928年
昭和3年
1月19日
●全日本農民組合・全日本農民組合同盟・中部日本農民組合有志が合同を決定し全日本農民組合と称する。会員数5万人。
1928年
昭和3年
1月21日
●再開された第54帝国議会は同日解散された。これは田中内閣(政友会)が民政党から提出された内閣不信任案上程に先立ち議会を解散したもので、これにより2月20日に第1回普通選挙が行われることとなった。
1928年
昭和3年
1月23日
日ソ漁業条約調印

●この条約交渉は難航していたが、後藤新平の斡旋により合意をみた。後藤新平は初代満州鉄道総裁時代からロシアとの関係が深く、元内相・外相であり元東京市長でもあった。田中義一首相が直接後藤にこの斡旋を頼んだという。(後藤はスターリンとも2度ひざ詰め談判をしたという)
●この「日ソ漁業条約」は第2次といわれ、第1次条約は日露戦争講和条約であるポーツマス条約に基づいて1907年に結ばれていた。この頃の北洋漁業(カムチャッカ沿岸、オホーツク海、ベーリング海を漁場)は、事実上日本が独占的に操業を行っていた。それが第1次条約によって法的に認められたので、日本の北洋漁業はさらに発展し、漁獲物もそれまでの「たら」から「さけ」「ます」の資源開発が加わり、獲得した漁区も1917年までに倍増した。
●この第1次条約は1919年9月に失効したが、ロシアは革命期にあたり、日本は交渉相手が定まらず北洋漁業は不安定な操業となっていた。そこで日本は1921年、1922年と「自主出漁」を宣言して操業を行った。これは「自衛出漁」ともよばれ、沿海州には戦艦三笠、カムチャッカへは巡洋艦新高、戦艦岩見が派遣された。
●なぜ軍艦まで派遣したかといえば、この頃には北洋漁業はさらに発展し、母船工法による「かに」の漁獲と缶詰加工が、イギリス・アメリカに向けた輸出による有力な外貨獲得源になっていたからである。缶詰の生産高は、1921年270函(はこ)、1923年3万3800函、1927年には33万7000函と、6年間で122倍増となり、その大部分が輸出されたのである。
●絵は「ベーリング海のさけやかにを売りものにした日魯漁業の広告-写真・『アサヒグラフ』昭和2年11月30日号」(出典)『昭和2万日の全記録』講談社1989年刊。
●「日魯漁業」とはマルハと経営統合した現在の「マルハニチロ」である。また「日魯」の意味は分かち書きして「日・魚・日」で「日々の豊漁を示し」、「日魯」の魯は「魯西亜・外国事情書(1839)」のロシアの「ロ」の意味であるという。広告にある缶詰は、100年にわたって現在も使われているデザインである。

●「かに工船」には中甲板に缶詰工場が設置され、一隻に400人ばかりの「雑夫」が詰め込まれ「監獄部屋」といわれた。小樽出身のプロレタリア作家小林多喜二の「蟹工船」は代表作のひとつである。

*リンクします「蟹工船」→国立国会図書館デジタルコレクション
1928年
昭和3年
2月
●2/1、日本共産党、機関紙・赤旗(せっき)を創刊した。(非合法)
●2/11、第2回冬季オリンピック(サンモリッツ)で開催。日本スキー選手団の選手役員7人が初参加する。
1928年
昭和3年
2月11日
(第3回建国祭が挙行される)
●これは1926年創立の国家主義団体建国会(会長東大教授上杉慎吉)の幹部赤尾敏が、メーデーに対抗するため国家主義、国体賛美の示威運動を構想して実現したものである。そしてこの建国祭は年々規模拡大し、紀元節(神武天皇即位の日で戦後「建国記念の日」として復活)の国家行事として定着していった。しかし逆に国家による組織化のために、当初の右翼の情熱が失われ、永田(建国祭本部委員長)や赤尾らは昭和9年からは参加をやめた。
1928年
昭和3年
2月20日
初めての男子普通選挙が実施される(第16回衆議院総選挙)


●この選挙は1925年に公布された改正選挙法(男子普通選挙法)にもとづく初めての総選挙だった。これは、それまでの納税額による選挙資格の制限を撤廃し、25歳以上の男子に選挙権を付与したもので、これにより有権者数は従来の4倍の総人口の20.1%、1241万人となった。
●またこの普通選挙法成立にあたって枢密院が、共産主義など現体制を脅かす思想を取り締まるため、「治安維持法」を成立させたことも忘れてはならない。
●それでもこの普通選挙実施に対しては、大手新聞・通信21社は昭和3年1月に共同宣言を発し、1897年以来の普選運動の成果として、ひとまず「画期的選挙法」であると評価した。
●選挙結果は政友会217議席、民政党216議席、他政党では実業同志会が4議席、革新党3議席、中立その他18議席、労働農民党2議席、社会民衆党4議席、日本労農党1議席、日本農民党0議席、地方政党1議席、合計466議席であった。下の朝日新聞の数値とは相違しているが、速報レベルかもしれない。上2/20、下2/24東京朝日新聞紙面より(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行


●この「普通選挙法」の中の、「選挙権及び被選挙権」の章から一部を抜き出してみた。被選挙権・選挙権をもたない者のポイントは次のようであった。下段で「国立公文書館デジタルアーカイブ」の「普通選挙法(大正14年5月5日法律第47号)」にリンクした。

第2章 選挙権及び被選挙権
「第五條 帝国臣民夕ル男子ニシテ年齢二十五年以上ノ者ハ選挙権ヲ有ス」
(女子には選挙権も被選挙権もなかった)
「第六條 左ニ掲クル者ハ選挙権及被選挙権ヲ有セス」として
 一 禁治産者及準禁治産者
 ニ 破産者ニシテ復権ヲ得ザル者  
 三 貧困ノ為公私ノ救恤(きゅうじゅつ)ヲ受クル者 (下記のように修正された)
 三 貧困ニ因リ生活ノ為公私ノ救助ヲ受ケ又ハ扶助ヲ受クル者
(この「貧困ノ為」を貴族院は削り欠格範囲を拡大しようとしたが、両院協議会の協議により、「貧困ニ因リ」に字句を修正することにより、兄弟・親子の相互扶助は欠格要件とならないようにしたのである)
 四 一定ノ住居ヲ有セサル者
 五 六年ノ懲役又ハ禁錮以上ノ刑二處セラレタル者
(略)
第七條 華族ノ戸主ハ選挙権及被選挙権ヲ有セス
 陸海軍軍人ニシテ現役中ノ者(未夕入営セサル者及帰休下士官兵ヲ除ク)及戦時若ハ事変二際シ召集中ノ者ハ選挙権及被選挙権ヲ有セス兵籍ニ編入セラレタル學生生徒(勅令ヲ以テ定ムル者ヲ除ク)及志願ニ依り国民軍ニ編入セラレタル者亦同シ
(略)

*リンクします「衆議院議員選挙法(大正14年5月5日法律第47号)
《通称: 普通選挙法》」
「国立公文書館デジタルアーカイブ」

政友会と民政党の広告合戦



●左は普通選挙を前に政友会、民政党の政策や綱領の新聞広告(東京日日新聞)である。出典は下段の「国会図書館・資料にみる日本の近代」からである。また政友会と民政党は、他の「東京朝日新聞」にも1ページ広告を載せて自党の政策等をアピールした。また田中首相は自身の選挙演説をレコードに吹き込み、政友会候補の応援のため全国に送った。
●だが、田中内閣の野党に対する選挙違反の摘発は集中的に行われた。特に総選挙初登場の無産政党に対しては容赦の無い弾圧を加えた。最左派の労働農民党(委員長大山郁夫)、中間派の日本労農党(委員長麻生久)、右派の社会民衆党(委員長安部磯雄)へは治安維持法を武器に弾圧を加えた。なかでも共産党の合法組織と目された労働農民党への弾圧はすさまじいものだった。
●2月20日に内務省が発表した選挙違反人員は、与党政友会164人、民政党1701人、その他605人とある。一例をあげると、労働農民党の委員長大山郁夫が1/26香川入りして80回以上の演説会を試みたが、そのほとんどが本題に入る前に警察官によって中止されられた。著名な中央の学者・弁護士・ジャーナリストを応援弁士に呼んでも、演壇で「諸君」といえば中止、抗議すると検束という弾圧であった。
(下写真)昭和3年2月、警官立ち会いの下で行われた立会演説会。-写真・中日新聞社(出典)『昭和2万日の全記録』講談社1989年刊。


*リンクします「国立国会図書館」第1回普通選挙の
「政友会の主要政策」と「普選に臨む立憲民政党の主義綱領」
「国会図書館・資料にみる日本の近代」
1928年
昭和3年
3月11日
受験制度改革と教育現場の支配

●東京府立中学校・高等女学校で初めて、昨年度文部省通牒「中等学校試験制度改正に関する件」による改正受験が実施された。これは社会問題と化した「受験地獄」への対応として、文部省が従来の試験制度を廃止し、小学校校長による「成績内申」と「口頭試問」による人物考査の2本建てにするというものだった。
●しかし小学校校長による内申を重視するということは、当初より圧力や情実の懸念があった。そして実際に昭和4年3月には、大阪府で内申書を偽造した校長、教員120人が懲戒処分になるという事件が起きた。結果文部省は「必要ある場合には筆答試験を加える」ことを認めたのである。
●一方文部省は昭和3年3月、新たに道府県の学務部に専任視学(地方視学官)各1人を配置した。この視学とよばれるものは1873年頃からあったが、昭和に入ると、この視学官は国が定めた教育内容の監督、指導だけでなく、教師の身分、人事にまで強大な権力を振るい、学校現場から恐れられる存在となった。以後日本の教育は、この視学官配置などを柱として、教育の国家管理、軍国主義教育への傾斜を強めていった。

1928年
昭和3年
3月15日未明
3・15事件(日本共産党員大量検挙)

●共産党員および労農党などの関係者1568人を全国で一斉検挙した。捜査は内務・司法両省が連携し、全国各地の警察を動員して、1道3府27県、100数十カ所に及んだ。検挙者のなかには、共産党幹部の志賀義雄、山本懸蔵(5/8病気自宅監視より逃亡)、佐野文夫らも含まれていたが、その他の多くの幹部は逮捕を免れた。東京では警視庁の特高(特別高等警察)課も動き、活動家の自宅、共産党員が出入りしているといわれた労働農民党本部、日本労働組合評議会本部、東京市従業員組合本部、無産者新聞社、マルクス書房など50カ所あまりを一斉捜査した。
●政府は、「国家の根幹である『国体』を変革すること」を目的とする共産党の壊滅作戦を決行したのであった。
(上写真)3.15事件で検挙された被告たちが、大阪地裁で判決を受け、囚人用の編笠をかぶせられて退所するところ昭和4年(出典)『昭和2万日の全記録』講談社1989年刊


(日本共産党綱領草案など)
●当時の共産党の綱領や行動指針を理解するのは難しいが、その概要を知ることができる。以下のリンク先から綱領草案の一部分を引用してみた。
当時の共産党はコミンテルン(ソビエト連邦の共産党が組織した各国共産主義政党の国際統一組織)の指令によって活動を行っていた。

(日本共産党の当面の要求)
●政治的・社会的分野 
①君主制の廃止(天皇制)②貴族院の廃止 ③18歳以上への無制限の普通選挙権 ④労働者・農民の完全な団結権 ⑤言論・出版・集会の自由 ⑥デモの自由 ⑦ストライキの自由 ⑧軍隊・警察・憲兵隊およびスパイ制度の廃止 ⑨労働者・農民の武装 ⑩被差別部落民に対する差別の完全な撤廃 ⑪死刑制度の廃止 ⑫家族制度の廃止 ⑬土地・奢侈品への高率課税制度および高率の累進課税制度の創設 ⑭間接税の廃止 ⑮教育の機会均等 ⑯生活必需品価格の公的統制 ⑰家父長制の廃止
●経済的分野
①8時間労働制 ②労働保険 ③最低賃金 ④工場委員会による工場管理 ⑤労働組合・農民組合の資本家・地主・政府との団体交渉権の承認 ⑥女性労働者および若年労働者の保護 ⑦報道機関および公共交通機関の公有
●農業分野
①大土地所有の無償での没収 ②土地の国有 ③小作制度の改善 ④農民金融制度の公的経営
●国際関係分野
①帝国主義的干渉の廃止 ②朝鮮からの軍隊の撤退 ③植民地の放棄と植民地民族の自決 ④ソヴィエト・ロシアの承認
*リンクします「1924年2月の日本共産党綱領草案」黒川伊織著
 法政大学大原社会問題研究所 2009-06-25→国立国会図書館デジタルコレクション
*リンクします「日本共産党小史」白揚社編輯部 編
 白揚社 昭和6年 刊→国立国会図書館デジタルコレクション
1928年
昭和3年
3月31日
(空母加賀竣工・ワシントン軍縮会議とその影響)
●加賀は八・八艦隊計画では戦艦だったが、ワシントン海軍軍縮条約で航空母艦に改造され、航空艦隊の主力として活躍する。これにより日本海軍は、前年3月竣工の赤城と共に2隻の巨大空母を保有することになった。日本海軍では航空母艦には「鳥や竜」など空を飛ぶ動物の名をつける。ところが、この2隻には「加賀」(国名=戦艦)と「赤城」(山名=巡洋戦艦)の名がつけられている。このことからも軍縮条約で変更されたことがわかる。この空母への改造は、各国とも割当トン数内で、基準排水量3万3000トン以下の空母を2隻を建造できるので、空母に改造したのである。(写真)上空から見た加賀。(撮影-福井静夫)(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
●このワシントン軍縮会議(1921年11月~1922年)のポイントは以下のようである。①10年間主力艦の建造停止②保有主力艦の基準排水量による総トン数比率をアメリカ・5、イギリス・5、日本・3、フランス・1.67、イタリア・1.67に決定したことである。これにより日本では、起工中の主力艦はすべて工事中止の処分を受けた。そのため進水を終わらせていた戦艦「土佐」は未完成のまま海軍に引き渡され、1924年に標的船として使われ1925年海没処分された。
●しかしこの条約では、基準排水量1万トン以下、備砲8インチ(20.3cm)以下の艦艇には制限がつけられなかったので、各国はこの制限以下の重巡洋艦の建造と重武装化に重点を移していった。
●そんな中、川崎造船所が破綻した。明治中期以来の三菱と並ぶ2大造船企業であったが、昭和2年7月、3千人の従業員の解雇と、神戸造船工場の海軍移管となる事態を迎えた。直接の原因は、昭和2年4月に金融恐慌によって主要取引銀行であった「十五銀行」(=華族銀行と呼ばれ抜群の大銀行であり、皇室や官庁の預金が多かった。)が休業したことによる。川崎造船所もワシントン条約によって、建造中の戦艦加賀、巡洋戦艦愛宕が建造中止命令を受け苦境に陥ったのであった。この川崎造船所の問題は、一民間企業の死活問題ではなく、国防上の問題でもあったので国家の救援を受けた。だが昭和6年再び破綻を迎えた。現在の川崎重工業株式会社の困難な時代の歴史である。
1928年
昭和3年
4月4日
●高速旅客蒸気機関車C53形誕生する。この蒸気機関車は大正の名機C51形にかわる旅客用蒸気機関車で、アメリカから輸入したC52形3気筒機関車を参考にした国産3気筒機関車であった。そして時速約121km、速力・牽引力ともに旅客用で最大で、多くの優等列車牽引に快速を誇った。(写真-交通公社フォトライブラリー)(出典)『昭和2万日の全記録』講談社1989年刊
1928年
昭和3年
4月10日
治安警察法第8条発動

●政府は労働農民党・日本労働組合評議会・全日本無産青年同盟に対し、治安警察法第8条にもとづき解散命令を発した。この日は、3.15事件の報道解禁の日と同じ日であった。新聞には3.15事件が大きく載っている。また下に治安警察法第8条を引用した。
4/11東京朝日新聞(夕刊)(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行
●田中義一内閣の鈴木喜三郎内務大臣は次のように言った。要点は次のようである。「これら3団体は何れも日本共産党の大衆団体であり、共産党の指令にもとづき実際行動をおこしてきた。このような団体は断然これを排除して、公安を保全することは適切妥当の処置である」と公言した。
●また3.15事件の検挙者の中に官公立の学生が多かったことに驚いた政府は、各大学の社会科学研究会(=全国の大学・高校で作られたマルクス主義研究団体)の活動を禁止し、河上肇(=京大・経済学者、退官後共産党員、後に検挙収監、転向)ら左翼教授を学園から追放した。政府は、共産党にかかわるとみなす人物・組織を根こそぎにしようとしたのである。
4/16河上肇京大総長の辞職勧告をうけ、辞表提出。
4/17文部省、学生・生徒の思想傾向に関し、「善導徹底」を訓令する。

治安警察法第8条
「第八条 安寧秩序ヲ保持スル為必要ナル場合ニ於テハ警察官ハ屋外ノ集会又ハ多衆ノ運動若ハ群集ヲ制限、禁止若ハ解散シ又ハ屋内ノ集会ヲ解散スルコトヲ得
2 結社ニシテ前項ニ該当スルトキハ内務大臣ハ之ヲ禁止スルコトヲ得此ノ場合ニ於テ違法処分ニ由リ権利ヲ傷害セラレタリトスル者ハ行政裁判所ニ出訴スルコトヲ得」
*リンクします国立公文書館「治安警察法ヲ定ム」→「公文書にみる日本のあゆみ」
1928年
昭和3年
5月3日
済南事件勃発(日本軍と中国軍武力衝突)


●これは蒋介石の国民革命軍が、北伐のため中国北方軍を追い、中国山東省の済南市へ進行してきたところ、日本人居留民保護の警備にあたっていた日本軍と武力衝突を起こした事件である。左5/4朝日新聞には「在留邦人多数惨殺」とある(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行
●これは陸軍省が、日本人12人虐殺を280人以上と誇大に新聞発表したためで、世論は沸騰し現地軍の武力行使を支持した。5/4、中国革命軍と停戦交渉も成立したが、日本人の惨殺死体が発見されたため、日本軍は5/9、済南城一斉攻撃を開始し5/11に占領した。

1928年
昭和3年
5月8日
第3次山東出兵を断行(名古屋師団動員)



●政府は5/8に重要閣議で第3次山東出兵を決定したが、参謀本部は全中国の武装制圧を軍事参議官会議に提出した。これに対して田中内閣は、「在支居留民の生命財産の保護と、帝国の既得権利を擁護」することにとどめると考えていたので難色を示した。この頃から政府は陸軍強行派の主張を抑えられなくなってきたのである。
(新聞)5/9の朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行
(写真・部分)昭和3年5月、第三師団(名古屋)に動員令下る。ラッパの音も高らかに万歳の声に送られて出動する豊橋歩兵第十八連隊の兵士たち。(撮影-影山光洋)(出典)『昭和2万日の全記録』講談社1989年刊
●下段で、張作霖爆殺事件ごろまでの日中関係略年表をのせた。

済南事件前後から、張作霖爆殺事件ごろまでの日中関係略年表

「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊より抜粋
昭和2年(1927)
4/20…田中義一政友会内閣成立。
5/11…蒋介石(国民革命軍)、北伐再開。

下

1928年
昭和3年
6月4日未明
張作霖爆殺事件(満州某重大事件)発生。

●この事件は、国民党軍(蒋介石・北伐)の北京侵攻を目前にして、関東軍高級参謀・河本大作大佐らが、時の北京政権の国家元首にあたる張作霖を、満州引き揚げ途上に奉天駅付近で列車ごと爆殺した事件である。
●日本は張作霖に対して、自国の満蒙の権益保護のために、資金や兵器を援助していたが、張作霖は日本の要求に従わなくなった。そこで日本は、張作霖を排除し東北軍を無力化することで、動乱(北伐)が満州へ波及することを防止することと、一挙に満州を占領することで、軍事力によって日本の権益を保護しようと意図した。
(新聞)6/5東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行

1928年
昭和3年
6月5日
(日本海員組合スト断行、最低賃金制を獲得する)
●前年来、日本海員組合は船主協会に社外船員の職種別最低賃金制を要求していたが、ついにその実施を迫ってストを断行した。長引けば就航船舶の7割が止まるという大事態を迎えた。この社外船というのは、日本郵船・大阪商船・三井物産の大手を除く百数十社の中小企業に属する船舶で、船員は大手と比べて劣悪な待遇であった。海事協同会は調停に失敗し、8419人371隻がストに突入し、史上空前の事態となった。
●6/7、争議解決のため仲裁委員会が労使調停にあたり、6/9にはストは解除され、仲裁委員会は労使の説得に成功した。海員組合は最低賃金制を獲得したのである。
1928年
昭和3年
6月29日
治安維持法改正、緊急勅令で公布、即日施行。

●この改正により治安維持法は「国体の変革」の罪に対しては最高刑を死刑とした。この緊急勅令による改正・治安維持法の第1条は以下のとおりである。
(新聞)6/29東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行


勅令百二十九號 治安維持法中左ノ通改正ス
第一條 國體ヲ變革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務二従事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ五年(1941年の改正で7年)以上ノ懲役若ハ禁錮二處シ情ヲ知リテ結社二加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ爲ニスル行爲ヲ爲シタル者ハ二年(1941年の改正で三年)以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮二處ス
1928年
昭和3年
7月3日
(特別高等警察の機構拡張)
●内務省警保局に保安課を新設し警務官5人を置く。また全国道府県に特高課を置き、警部・刑事を増員する。
(注)(警保局)は内務省の内局の一つ。旧制の中央集権的警察制度の中央機関で、行政警察、高等警察および出版物の検閲、監獄に関する事務などを扱った。
(特別高等警察)は、旧制で特に思想運動や政治運動の取り締まりを行なった警察。明治43年(1910年)大逆事件を契機に、警視庁に特別高等課を設置させたのに始まる。(出典)「日本語大辞典精選版」
1928年
昭和3年
7月28日
第9回オリンピック・アムステルダム大会開催

●この大会で日本勢は初の金メダルを獲得した。陸上3段跳びの織田幹雄が金、200m平泳ぎ鶴田義行が金、また日本選手団で紅一点の人見絹枝も陸上800mで銀メダルを獲得した。オリンピック大会委員会は日本選手(織田幹雄)の優勝など予想もしていなかったので、表彰用の日章旗を用意しておらず、選手団入場行進用の特大サイズの日章旗をあわてて掲揚したといわれる。そして競泳男子800m自由形リレーで銀メダル(米山弘、佐田徳平、新井信男、高石勝男)、競泳男子100m自由形で高石勝男が銅メダルを獲得、南部忠平選手も陸上3段跳びで4位に入賞した。
●人見絹枝は、1925年第2回国際女子陸上競技大会(スウェーデン)では8種目に出場し、走幅跳び、立幅跳びに優勝し大会最優秀選手となった。そしてその後も100m、200m、走幅跳びに世界新記録をマークしたスーパーウーマンだった。
●そしてこの大会で陸上競技に初めて女子種目が加えられたため、人見絹枝は日本女性として最初のオリンピック参加という名誉を担ったのである。またこの大会は、初めて聖火の導入、入場式での発祥国ギリシャを先頭にする行進、7万人収容のメインスタジアムなど、近代オリンピックの体裁が整った大会となった。
(写真)左が女子陸上800m決勝で力走する人見絹枝選手。右が人見と激しくせり合い金メダルを獲得したドイツのラトケ選手。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

1928年
昭和3年
8月
東京市会疑獄事件・築地魚市場移転疑獄と京成電鉄疑獄

●明治以来、東京市における疑獄事件は絶えることがなかった。しかしこの8月の2つの疑獄事件は伏魔殿といわれた東京市政の腐敗ぶり市民の前にさらし、これを契機に市民や新聞による市政刷新運動が展開されることとなった。またこのような地方議会における相次ぐ汚職は、国政レベルの汚職(松島遊郭移転に伴う贈収賄)とあいまって、国民の間に政党不信、議会政治への失望を植え付けた。
●築地魚市場移転疑獄とは次のような事件である。江戸期以来東京日本橋にあった魚市場が、1923年の関東大震災によって全焼し、東京市は震災復興計画の一環として築地への移転を決めた。魚市場側はこの移転をめぐり市に対して「板舟権=魚市場での売場権のこと」の保証金として総額700万円を要求したことに始まる。そしてこの金額の問題で、魚市場理事と市会議員との間で贈収賄が行われていたことが発覚し、この8月、魚市場理事2人が警視庁に召喚され、その後10数日の間に、市会議員10人と魚市場側5人がつぎつぎと召喚・逮捕されたのである。
●一方、京成電鉄疑獄は、1922年以来京成電鉄が東京市内への乗り入れを計画し、数回にわたって起点の本所区押上から浅草付近まで敷設線を申請していたが、いずれも市会によって否決されたことが発端であった。そして京成電鉄は議会工作のため100万円の運動費を使い、うち40万円を市会議員買収に使ったといわれた。そして8/15、京成電鉄疑獄の中心と目されていた民政党代議士大野敬吉が召喚されると、京成電鉄社長や多数の市会議員が検挙・拘引された。
●この京成電鉄疑獄と築地魚市場移転疑獄は相互に関連しており、黒幕として暗躍した民政党・三木武吉、政友会・中島守利らも連座した。これらにより東京市会議員の逮捕、拘留者が25人に達し、東京市会は機能不全に陥った。そして監督官庁である内務省は、12月21日に市会の解散を命令、市長も翌年2月責任をとって辞任したのである。
(新聞)9/15東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行

1928年
昭和3年
8月27日
パリ不戦条約調印

●この平和条約は、前年4月以来ブリアン・フランス外相がアメリカに呼びかけていたもので、会議出席国15カ国で調印がなった。調印後ソ連、中国を含む各国に参加を求め、63カ国となった。内容は「国家間の紛争は平和的手段のみで解決を図る」というもので「戦争放棄に関する条約」ともいわれる。(新聞)8/27東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行
●朝日新聞(昭和3年8月27日)の紙面には、この「パリ不戦条約の主文」として以下のように掲載されている。

(本日調印さるる不戦條約の主文は左の通りである)
第1條・・締約国は各自その国民を代表し国際間の争議解決のため戦争に訴ふるを非とし締約国相互間の国策の具としての戦争を廃棄することをここに厳しゅくに宣言す
第2條・・締約国は各締盟国間に発生する事あるべき争議又は紛争は総てその性質又は原因の何たるを問はず平和的手段以外のものに訴へざるべき事を約す
第3條・・本條約は前文に記載の締約国により各自その憲法上の規定に従い批准せらるべく然して本條約は各国の批准書が全部寄託済となりたる時より効力を発生す

●外務省の条約検索ではこの「戦争抛棄ニ関スル條約」の「定訳」で第1条は以下のようにある。(カタカナをひらがなに変えた)

第1條・・締約国は国際紛争解決の為戦争に訴ふることを非とし且其の相互関係に於て国家の政策の手段としての戦争を抛棄することを其の各自の人民の名に於て厳粛に宣言する

この「人民の名に於て・・」が問題になったという。これを外務省の「日本外交文書デジタルアーカイブ昭和期I第2部 第1巻」戦争抛棄に関する条約(不戦条約)締結問題をみると、「人民の名に於て・・」の問題が次のように書かれている。何が問題となったか理解できる。(カタカナをひらがなに変え、句読点を追加した)

(「人民ノ名ニ於テ」の字句削除方米当局に申入れにつき訓令・第144号至急・6月30日後発)の一部)
・・・第1條中「人民ノ名ニ於テ」なる辞句に対しては、我憲法の精神に違反するものとして相当有力なる反対論あり。即ち「人民ノ名ニ於テ戦争ノ廃止ヲ宣言ス」なる辞句が、「人民ノ為メニ戦争ノ廃止ヲ宣言ス」若くは「人民ヲシテ戦争ヲ行ハシメサルコトヲ宣言ス」と云うが如き意味とすれば差支なきも、字義としては「名ニ於テ」と云う以上「代表シテ」即ち「agentトシテ」と解釈するの外なく、斯くの如きは、国家の主権は人民に在りとする思想を前提とするものなるを以て我が憲法上の解釈としては認容し難き所なり・・・・

●この問題は野党民政党の反対や枢密院で問題となった。苦境に立たされた田中義一内閣は、この一句は日本に適用されないとの留保条件をつけて、やっと批准をとりつけた。

1928年
昭和3年
8月14日
(宮田警視総監、東京府下4カ所で二業地の新設を認可する)
●これに対して婦人矯風会・廓清会幹部が反対運動方法を協議。(広辞苑)二業地とは、料理店と芸者屋と相混在して営業を営む土地
1928年
昭和3年
8月19日
(富山県の電灯料争議、滑川町を除き解決する)
●富山県東部地区で広がっていた富山電気株式会社に対する電灯料値下げ運動が、知事の調停で解決した。これは住民が、高額な富山電気の電球や電気料金に対して、電気料金値下げ期成同盟を結成して対抗したことからはじまる。7月までに期成同盟に加入した町村は24、会社に返還した電球は2万4000個、電灯を使わないという消灯運動に参加した家は1万3000戸に達したのであった。このような不景気の中での自然発生的な住民運動に対し、各地の電気会社は紛争を避けるため電気料金値下げに踏み切った。また県当局や警察も運動の拡大を恐れ、調停や斡旋につとめた。
1928年
昭和3年
9月9日
●田中首相、憲兵司令官陸軍少将峯幸松に、張作霖事件の実地調査を命ずる。それまで白川義則陸相は、関東軍は関与しないと報告していた。しかし田中首相は、憲兵司令官陸軍少将峯幸松の報告により、事件の真相が河本大佐らの謀略であったことを知った。
1928年
昭和3年
9月18日
(国際連盟、婦人児童売買に関して調査実施を決議)
●国際連盟は、遊郭制度を保存する国々の調査実施を決議した。日本も対象となる。
(広辞苑)遊郭とは、多数の遊女屋が集まっている一定の地域。いろざと。いろまち。くるわ。遊里。明治以後、貸座敷営業が許可された地域。
1928年
昭和3年
9月28日
(秩父宮雍仁親王《ちちぶのみや やすひとしんのう=昭和天皇の弟宮》、松平勢津子と結婚)
●皇室は初めて皇族・五摂家以外から后を迎えた。松平節子(勢津子)は、旧会津藩主・松平容保(かたもり)の六男で駐米大使の松平恆雄の長女である。幕末の頃、松平容保(9代藩主)は、京都守護職となり佐幕派の中心として尊皇攘夷派(特に長州)の弾圧に努めた。そしてその後の戊辰戦争でも会津藩は徳川最後の砦として薩長と戦ったのである。そのため戊辰戦争後、新政府による会津藩処分は激烈を極め、領土没収、藩断絶、全会津藩士を謹慎処分(各地)、戦死者の埋葬禁止、一年後には、家名存続の為の立藩移住(斗南藩=となみはん=下北半島むつ市)等と、執拗な報復が続いたのであった。
●この日松平家ゆかりの会津若松市は、60年来の怨念が晴れ、朝から祝賀行事でわきかえったという。
(写真)昭和3年9月、松平勢津子、秩父宮家へ輿入れのことを、会津若松市の松平家廟に報告。(写真-福島民報社)(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1928年
昭和3年
10月1日
陪審法が全面施行

●この陪審法は司法にも民意を反映させることを主旨としたもので、刑事事件に限り陪審審理が認められることになった。この陪審制度の司法への導入の考えは、1880年公布の治罪法(旧刑事訴訟法の前身)の草案を作成した明治政府の法律顧問ボアソナードまでさかのぼる。彼はこの法律のなかで陪審制度導入を図ったが、1882年の治罪法制定施行の際には、陪審制度の部分は廃棄されてしまった。なぜなら当時の考えとして、陪審制度を導入すれば、めいめいが勝手なことをやって締まりがつかず、道理も失われて無法状態に陥る危険性があると考えたからである。
●だがこの陪審制度を要望する声は消えず、1919年政府はようやく臨時法制審議会を設けて陪審制度立案要綱を作成、さらに司法省が陪審法調査委員会を設けて法案を作成し、以後修正をへながら昭和3年10月1日の陪審法施行となったのである。
(新聞)10/1東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行
●しかしこうして始まった陪審裁判も、1929年は144件を数えたが、1935年には10件台に激減し、1943年の「陪審法ノ停止ニ関スル法律」によってその施行が停止された。そして「陪審法ハ今次ノ戦争終了後再施行スルモノトシ其ノ期日ハ各条ニ付勅令ヲ以テ之ヲ定ム」とされたのである。今次の戦争とは「アジア・太平洋戦争」である。
●そして、それから約65年たった2009年5月から「裁判員制度」が開始されたのである。陪審制と参審制との違いは下記サイトを参照してください。

*リンクします「陪審制や参審制とは違うのですか。」裁判員制度→
「裁判所ウェブサイト」
1928年
昭和3年
10月6日
●共産党書記長・渡辺政之輔、台湾基隆(キールン)で警官に追い詰められピストルで反撃、頭部を射ち抜いて自殺。
1928年
昭和3年
10月10日
国産・FF52形電気機関車完成

(日本の工業技術発展の上で記念すべき成果をもたらす)
●鉄道省は第1次世界大戦中から大規模な電化計画を立てていたが、その区間に使用される機関車はすべて輸入機関車であった。その頃の輸入車両59両中の内訳は、イギリス37両、アメリカ16両、スイス4両、ドイツ2両で、その形式も13に分かれ部品の規格もばらばらだった。そしてその頃の電化区間は、日本側の運転・保守態勢も未整備であったことなども原因して故障が頻発し、電気機関車を2両連結しての運転や、電気機関車・蒸気機関車2両連結などにより故障事故に備える状態が続いていたのである。
●そこで鉄道省は、電気機関車の国産化の実現と、加えて機構・部品の規格化と標準化の実現に向けて計画を進めた。そして日立製作所、芝浦製作所、汽車製造会社、三菱電気会社、三菱造船所、川崎車両会社、川崎造船所を製作会社に指定し、これらの各社と鉄道省の間で協議を進めながら共同設計を行った。これにより部品ひとつひとつまで規格化を徹底することができた。
●そして完成したFF52形電気機関車の性能は、輸入機関車をはるかにを超えることができたのであった。
●当時の電化区間は、1925年12/13に東海道本線(東京-国府津)、と横須賀線(大船-横須賀)が電化された。国府津(=こうづ)は電気機関車と蒸気機関車を付け替える役割の駅で、新型電気機関車7両全てがここに配属された。そして1928年ごろまでに東海道本線は熱海(熱海線)まで電化され、1934年には丹那トンネルが開業したことにより、国府津駅ー沼津駅間が現在のルートになった。今までの旧ルートは御殿場線と名称が変更され、これにより電化区間も東京駅ー沼津駅間となった。この当時2番目の長さの丹那トンネルの工事請負は鹿島組(現鹿島建設)と鉄道工業会社であった。また1931年開通の当時1番長い清水トンネルは当初より電化された。トンネル内の蒸気機関車の煤煙が運転手らへ窒息の危険をおよぼしたからである。

1928年
昭和3年
10月23日
(日本初の陪審裁判大分地裁で行われる)
●これは9月に起こった情婦殺人未遂事件の裁判で、陪審員12人が立ち会った。東京初の陪審裁判は12/17東京地裁で行われた。21歳の女性放火未遂事件だったが、陪審員から出された答申は「然らず」で無罪となった。
1928年
昭和3年
10月28日
(全国廃娼デー)
●廓清会・日本基督教婦人矯風会の主催で行われ、廃娼請願の署名約2万人分集まる。
●12/6には埼玉県会で公娼制度の廃止を全会一致で決議した。こうして昭和3年中に福井、秋田、福島と続き、4年には新潟、5年には長野、神奈川、沖縄、6年には茨城、山梨、7年には岩手、宮城の各県会が相次いで公娼制度廃止決議を行い、全国に波及していった。
●しかし数度にわたって国会にも提出された廃娼案は存娼論によってそのつど否決された。女性の人権擁護の戦いはつづくのである。
1928年
昭和3年
11月7日
●アメリカ大統領選、共和党のフーバー、40州を制圧して第31代大統領に当選する。1921年から1928年まで商務長官をつとめ、経済的繁栄政策を展開してきたが、1929年からの世界恐慌打開策で失敗する。
1928年
昭和3年
10月~11月
昭和天皇の即位大礼の準備が進む

●10/7、内務省、大礼警備のために品行方正・成績優秀な警官3万人を京都に集める。
●10/14、警視庁、大礼を前に数日来東京市内の鉄砲火薬店一斉調査。この日、ダイナマイトなどの密売発覚する。
●10/16、大礼のための主基斎田(すきさいでん)の「神穀」、福岡県脇山村から輸送式を行い京都へむかう。
●10/16、大礼使、大礼諸儀次第を発表。
●10/24、大礼大饗の宴の舞人に宮内省楽部の20人決定。久米舞、悠紀・主基地方風俗舞、万歳楽、太平楽を舞う。
●10/30、大礼に参列する25カ国駐日大公使、宮中鳳凰の間で天皇に謁見。式に先立ち、18カ国大公使に贈勲。
●11/1、大礼に際し、一般国民からの献上品、赤坂離宮で受け付け開始。1日で約600点に達する。
●11/1、大礼を記念して、「ラジオ体操」、東京で放送開始。これは大礼記念事業として逓信省簡易保険局が計画したものである。アメリカニューヨークのメトロポロタン生命保険会社が行っていたラジオ体操を、日本でも始めることを提案したものであった。そして文部省体育研究所所長を委員長に会議を重ね、同時に東京放送局によるラジオ体操の試験放送も行い、「国民保険体操」として体操の型と伴奏曲を決定したのであった。こうしてラジオ体操は、「国民的運動」として全国に普及していった。
●11/5、日本放送協会、全国中継放送を開始する。

昭和天皇即位大礼。天皇、「高御座」で即位の勅語

●昭和3年(1928年)11月10日、秋晴れの京都で即位大礼が挙行された。午前「賢所大前の儀」つづいて午後「紫宸殿の儀」で即位の勅語が出された。田中義一首相が寿詞(よごと)を奏した後、万歳を三唱し、参列者がこれに唱和し、午後3時全国で万歳が唱えられ、4時6分儀式が終わった。この国家行事の意味するところは、大礼使設置の際の内閣総理大臣の訓示にあらわされている。次のようである。

「我ガ国民ハ国ヲ挙リテ深ク思ヲ建国ノ昔ニ潜メ皇位ノ神聖ナルヲ仰ギ国体ノ尊厳ナルヲ念(おも)ヒ感奮踴躍相率ヒテ忠愛ノ至情ヲ捧ゲ宝祚ノ無窮ヲ禱(いの)リ国運ノ隆昌ヲ祝セントス」

●そして同日、減刑令・復権令が公布施行され、総数22万4473人が恩赦をうけた。

(新聞)11/11東京朝日新聞(夕刊)(第1)(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行
●旧皇室典範には以下のようにある。ポイントは「践祚(せんそ)」「祖宗の神器」「元号」「即位」「大嘗祭」「京都」である。

第10条 天皇崩(ほう)ずるときは皇嗣(こうし)即(すなわ)ち踐祚(せんそ)し祖宗(そそう)の神器(しんき)を承(う)く
第11条 即位(そくい)の礼(れい)及(および)大嘗祭(だいじょうさい)は京都に於(おい)て之(これ)を行(おこな)ふ
第12条 踐祚(せんそ)の後(のち)元号(げんごう)を建(た)て一世(せい)の間(あいだ)に再(ふたた)び改(あらた)めざること明治元年の定制(ていせい)に従(したが)ふ

(注)明治元年の定制とは『自今(じこん)以後(いご)旧制を革易(かいえき)して一世一元(いっせいいちげん)以(もっ)て永式(えいしき)とせん』の詔勅による。
●ここで大正天皇の崩御から、昭和天皇の践祚、改元、朝見の儀まで、日時を詳しく書き出してみる、各語の意味するところがわかる。

① 大正15年(1926年)12/25(土)午前1時25分、大正天皇で48歳で崩御。(葉山御用邸)(写真)大正天皇。明宮(はるのみや)嘉仁(よしひと)。明治天皇第3皇子。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
② 同日午前3時15分、摂政裕仁(ひろひと)親王、践祚の式を行う。式場には東郷平八郎、西園寺公望、若槻礼次郎首相以下各国務大臣、枢密院議長らが参集した。新天皇は特別に設けられた玉座に着席し、「剣璽渡御(けんじとぎょ)の儀」を行った。これは三種の神器のうち剣と璽(たま)を承継する儀式で、続いて国璽、御璽も承継した。この三種の神器は、神話と伝説の世界から現在にまで天皇家に受け継がれてきた3つの宝物である。八咫鏡(やたのかがみ)・天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)である。
③ 同日、践祚の式の後、御用邸で閣議が開かれ元号について協議された。政府案は「昭和」と決めて上奏し、直ちに枢密院に諮詢(しじゅん=問いはかること)された。枢密院は「上治」との対案を出したが、この協議の最中に、「東京日日新聞」が号外で、年号が「光文」で決定するだろうと報じた。そうしたなか、午前11時、枢密院は政府案通り新年号を「昭和」と決定、即日公布された。その詔書は以下である。

「朕皇祖皇宗ノ慰霊ニ頼(よ)リ、大統ヲ承(う)ケ万機ヲ総フ。茲(ここ)ニ定制ニ遵(したが)ヒ元号ヲ建テ、大正15年12月25日以後ヲ改メテ昭和元年ト為ス」

(注)大正15年(1926年)は12月24日までで、12月25日から12月31日までが昭和元年(1926年)である。翌年は昭和2年(1927年)である。
④ 昭和元年(1926年)12/28、朝見の儀が、宮中正殿で閣僚はじめ文武官およびその婦人ら300人を招集し開かれた。天皇は勅語を朗読、若槻首相が奉答文を奏し儀式を終了した。

●昭和2年に決められた「即位大礼」の日程は以下の通りである。即位は、大正天皇崩御より約1年10ヶ月半後のことである。践祚と即位は同義であり、先帝の崩御あるいは譲位の直後に行われたのだが、桓武天皇(在位781年~806年)の時より別の日に行うことが常例となった。

「即位大礼」の日程

(出典)日程表と写真「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
●[昭和2年]12月30日…大礼使官制公布。「即位大礼」、日程決定。大礼使総裁に閑院宮載仁(ことひと)親王任命。
[昭和3年]
●1月17日…大礼の最初の儀式「期日奉告の儀」が行われる。これは、大礼の日程を公表するのに先だち、賢所(かしこどころ)・皇霊殿(こうれいでん)・神殿(しんでん)に奉告を行うもの。ついで「勅使発遣(はっけん)の儀」を行い、伊勢神宮、神武天皇山陵および前帝四代の陵に期日奉告の勅使を派遣。また、官報号外で即位の礼を11月10日に、大嘗祭(だいじょうさい)を11月14日~15日に行うことを発布。
●2月5日…「斎田(さいでん)点定(てんてい)の儀」。大嘗祭に用いる新穀(しんこく)をつくる田(斎田)を定める儀式で、亀卜(きぼく=亀の甲を火にかざし、ひびの入り方で占う)により、悠紀田(ゆきでん)が滋賀県に、主基田(すきでん)が福岡県に選定される(さらに調査の上、田を選定、それぞれ4月14日修祓式、15日御鍬入式、20日播種式、6月5日御田植式が行われる)。
●7月20日…大礼使より、大礼日取の発表(京都行幸から親謁の儀まで)。
●10月16日…悠紀田・主基田から京都大宮御所へ新穀納入。17日上賀茂神社境内の神酒醸造所に移され、11月11日、新酒を大嘗宮(だいじょうきゅう)に納入。

即位式の装束を着けた天皇・皇后

●11月6日…京都に「行幸の儀」(~7日)。
●11月7日…賢所春興殿に「渡御の儀」。
●11月10日…「即位礼」。2263人が参列し午前、「賢所大前の儀」で皇霊に即位を奉告。続いて午後、「紫宸殿の儀」で即位の勅語が出され、内閣総理大臣田中義一が寿詞(よごと)を奉り、その発声で全員が万歳三唱。紫宸殿中央には高御座(たかみくら)がしつらえられ、その東には皇后の座所の御帳台(みちょうだい)が設けられる。帽額(もこう)、高御座の屋根、帳帷(ちょうすい)、その内部など、いずれも豪華な装飾がある。

11/8記者団に公開された「紫宸殿の儀」の予行時の写真。

●11月11日…午後から夜にかけ「賢所御神楽(みかぐら)の儀」。
●11月13日…「鎮魂の儀」。大嘗祭の前夜、天皇の霊力を最高度に高めるため行われる。
●11月14日…春興殿賢所大前に「大御饌(みけ)供進の儀」。神宮、皇霊殿、神殿、全国官・国幣社に「奉幣の儀」。
●11月14日…「大嘗祭」。午後六時から「悠紀殿の儀」、午後11時から「主基殿の儀」。それぞれ女官が斎米を臼で搗き、稲舂(いなつき)歌、近江・筑紫の風俗歌の演奏のあと「御親供(ごしんく)の儀」と「御直会(おなおらい)の儀」が行われ、午前三時すぎに終了(~15日)。
●11月16日…「大饗(おおみあえ)第一日の儀」。
●11月17日…「大饗第二日の儀」「大饗夜宴の儀」。
●11月19日…京都を出て宇治山田市着。
●11月20日…「神宮親謁の儀」(~21日)。
●11月23日…「神武天皇陵親謁の儀」。
●11月24日…「仁孝・孝明天皇陵親謁の儀」。
●11月25日…「明治天皇陵親謁の儀」。

12/2東京、代々木原の大礼特別大観兵式。先頭は大元帥服の天皇。

●11月26日…東京に還幸(~27日)。
●11月27日…賢所温明(うんめい)殿に「還御の儀」。
●11月28日…賢所「御神楽の儀」。
●11月29日…「大正天皇陵親謁の儀」。
●11月30日…「皇霊殿・神殿親謁の儀」。皇室の儀式すべて終了。
●12月 2日…代々木練兵場で大礼特別大観兵式。(実況を全国中継放送)
●12月 4日…横浜沖で大礼特別大観艦式。(お召艦榛名。艦艇200隻結集、約100万人の人出)
「即位大礼」で新聞・ラジオなど報道体制の発達

●新聞紙上画期的な情報伝達手段の導入とは、「電送写真」「飛行機の活用」「超高速度輪転機」「電光ニュース」などがあった。「電送写真」とは電話線を使って写真を電送する新技術で、今でいう「ファックス/ファクシミリ」のことと考えればよいであろう。先鞭をつけたのは大阪毎日新聞社(1924年ドイツのコルン式電送写真機導入、後にフランスのベラン式などを導入)だったが、初めて昭和3年8月に姉妹紙の「東京日日新聞」に電送して掲載した写真にはまだ歪みがみられた。一方朝日新聞社はこの年、ドイツのテレフンケン式を導入して10月から掲載を始め、ベラン式をしのぐ鮮明な画像を送ることができた。こういったなか日本電気は、国産第1号の「NE式電送写真機」(丹羽保次郎と小林正次の考案)の試作品を完成させた。大阪毎日・東京日日新聞社はそれを聞くと導入すべく実用化を急がせ、大礼目前の11月4日に「NE式電送写真機」採用の社告を新聞に掲載できた。
●「飛行機の活用」というのは、東京朝日、大阪朝日、大阪毎日、東京日日など各社は、連日10数機でフィルム、写真、原稿、号外、夕刊などを内地のみならず朝鮮半島にまで空輸していたのである。また新聞社はニュース映画製作も重要な仕事であったので、撮影から上映までの時間を飛行機の活用によって短縮することができた。そんな大礼報道で各社が速報競争を繰り広げているなか、日本電報通信社の飛行機(写真と原稿を空輸中)が濃霧のため墜落し、所属のパイロット3名が死亡した事故もおきた。この日本電報通信社とは、現代日本最大手の広告代理店「電通」である。
●「超高速度輪転機」とは特に大阪毎日新聞社がニューヨークのアール・ホー社に注文し、7/19に試運転を成功させた「ニッポン・ウルトラ・ライトニング・プレス」がそれで、従来型の1時間7万2千部の印刷を、一挙に12万部に高めた。これにより即位大礼当日11/10には、第1夕刊、第2夕刊、号外、第1朝刊、第2朝刊と膨大な部数を印刷することができた。
●「電光ニュース」とは、大礼を機に登場したもので、東京朝日新聞本社屋6階東面と大阪朝日会館屋上に、イギリス製の「流通式電光ニュース速報装置」を取り付け、11/5より光文字でニュースを伝えたものである。
●一方、ラジオも大礼を前に様変わりした。東京・名古屋・大阪の既設の3局から、昭和3年6月~7月にかけて札幌・仙台・広島・熊本に放送局が開設され、11/5には7局を結ぶ有線中継放送網(札幌-仙台は無線)が完成し、放送が開始されたのである。ラジオの聴取契約数も昭和2年末の39万が、大礼のあった昭和3年11月末には53万2000へ増加した。

1928年
昭和3年
11月22日
●3.15事件の大阪地裁における公判、97人の全被告が総立ちで革命歌を歌い傍聴禁止となる。
1928年
昭和3年
11月28日
●高柳健次郎、テレビジョンの公開実験を行う。
これは浜松高等工業学校の高柳健次郎が、電気学会講演に際し、ブラウン管受像方式を用い、世界で初めて受像に成功したものである。
1928年
昭和3年
12月14日
●経済審議会第2特別委員会、金輸出解禁断行の答申案を決定。12月21日、経済審議会は、「国際収支の均衡をはかるため金輸出の解禁を断行すべし」との答申案を満場一致で可決した。
●12/28、政府は閣議で金の輸出解禁にむけて調査を開始する旨申し合わせする。
1928年
昭和3年
12月20日
●日本大衆党結成。
これは、日労・農民・無産大衆・民憲・民衆など7党が合同して結成したものである。昭和5年、全国大衆党に合流。
1928年
昭和3年
12月29日
●張学良が国民政府に合流。
国旗の変更(易幟・えきし)を宣言し、東三省各地に「青天白日旗」(=中国国民党の党旗)がひるがえる。張学良は関東軍によって爆殺された張作霖の長男。奉天軍閥として対日妥協政策を装っていたが、ついにその政策を放棄し、蒋介石率いる国民政府に合流した。12/31、日本の林総領事は張学良を訪問して会談したが、張学良は考えを変えることはなかった。
1928年(昭和3年)その他の事件・災害・文化など

「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊より抜粋
●1/18、秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひとしんのう=昭和天皇の弟宮)、旧会津藩主・松平容保(かたもり)の六男で駐米大使の松平恆雄の長女節子と婚約。
●2/19、内相鈴木喜三郎、議会中心政治否定の声明を出す。『議会中心主義などという思想は民主主義の潮流にさをさした英米流のものであって、我が国体とは相容れない』と発言し抗議を受ける。

下

年・月 1929年(昭和4年)
(昭和4年のポイント)
●田中義一内閣(政友会)は、7月、満州某重大事件(張作霖爆殺事件《昭和3年6月》)の陸軍に対する処分問題で天皇の叱責を受け総辞職。(9/29、田中義一狭心症のため死亡)
●代わりに組閣した濱口雄幸内閣(民政党)は外交方針と経済政策を転換、「対支親善」「軍縮促進」「整理緊縮」「金解禁断行」などを施政方針とした。特に金解禁のため徹底した緊縮財政を開始する。(11/21、翌昭和5年1月11日に金解禁を行う大蔵省令を公布)
●10月、アメリカ、ニューヨーク・ウォール街で株式が大暴落する。10/24(暗黒の木曜日)、10/29(悲劇の火曜日)といわれ、全世界を巻き込む世界大恐慌の幕が開けた。
1929年
昭和4年
1月
1月の災害

●1/1、佐世保港外で、石炭輸送中の汽船が低気圧に巻き込まれて沈没、乗員30人死亡する。
●1/2、吹雪の日本海沿岸に津波襲来、住宅約300戸が全壊。北陸本線も不通となる。
●1/2、山口県の離島大津島で大火。強風にあおられて80戸中52戸を焼失。
(新聞)1/3東京朝日新聞紙面より(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行

1929年
昭和4年
1月
中国・朝鮮情勢

●1/5、南京の反日会、日本商品を扱う商人をさらしものにする組織的排日運動を決定する。
●1/6、上海市党部指導委員会は、商人から押収した日本商品はすべて没収すると決定。
●1/7、前年末に発生した日本陸戦隊装甲車による中国人車夫轢殺事件を機に、漢口で排日激化、反日会がスト決行。
●1/9、漢口で排日激化、反日委員会、日本租界を経済封鎖。陸戦隊、危険区域の日本人に引き上げ準備を命令。
●1/9、東北政務委員会が奉天に成立。主席は張学良で、これにより張学良政権は地方軍閥ではなく、中国国民政府の1機関となったことを意味した。
●1/12、漢口での反日運動激化、日本租界外の日本人、租界内に避難する。
●1/13、国民政府、張学良に対し「日本との鉄道交渉を中止して、日本の要求を即刻拒絶せよ」と電命。
●1/14、朝鮮元山で、石油工場労働者300人が会社側の協定違反に反発してスト突入。22日以降、元山の労働者1万人以上が参加する大規模なゼネストに発展したが、4/6組合側の敗北に終わった。
(写真)朝鮮元山ゼネスト(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

1929年
昭和4年
1月9日
岐阜県犀川(さいがわ)切り落とし反対運動暴動化

●岐阜県安八郡下7町村の町村民3500人は、耕地約350町歩をつぶす犀川切り落とし計画に反対し、1月7日知事に会見を求め県庁へデモを行った。そして1月9日には前夜深夜から村役場を襲撃し警官隊と乱闘となった。この暴動はさらに周辺の町村に波及し、軍隊も鎮圧に出動し、200余人の農民が検挙されたが、家族ぐるみの支援で、計画は廃案となった。(新聞)1/10東京朝日新聞紙面より(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行

1929年
昭和4年
1月19日
●新党俱楽部(床次竹二郎代表)、「南京政府を承認し速やかに山東撤兵を実行せよ」と声明する。
1929年
昭和4年
1月22日
●ナップ成立に伴い日本プロレタリア美術家同盟(AR)結成,続いて同映画同盟(プロキノ)同劇場同盟(プロツト)同作家同盟(ナルプ)同音楽家同盟(PM)それぞれ結成。
●このナップというのは全日本無産者芸術団体協議会のことを言い、機関誌には「戦旗」があり、昭和4年6月号で小林多喜二に続き新しい文学の旗手が誕生した。それは「太陽のない街」を同誌に寄稿した徳永直(すなお)である。下にプロレタリア文化運動の作品を一覧にしてみた。
(ポスター)左翼劇場第14回公演『太陽のない街』、(一覧)ともに、(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊


大正10年(1921年)
2月‥‥第1次『種蒔く人』秋田で創刊、6月‥‥山川均『レーニンと卜ロツキイ』、10月‥‥『種蒔く人』東京で再刊


大正11年(1922年)
6月‥‥平林初之輔『文芸運動と労働運動』、7月‥‥日本共産党結成、10月‥‥大杉栄『労働運動と労働文学』


下

1929年
昭和4年
1月31日
●衆議院,満州某重大事件追究,真相発表決議案を否決
1929年
昭和4年
2月
2月の災害

●2/1、信越本線黒井-直江津間の橋梁上で、青森発列車と除雪車が衝突。死者4人、負傷者19人。
●2/13、陸羽東線長沢-瀬見駅間で、吹雪のため小牛田行き列車が立ち往生。12時間後134人を救出。
●2/24、各地で強風が吹き荒れ火事が頻発。宮城県気仙沼で約1000戸、茨城県の土浦でも100数10戸焼失。
(写真)「気仙沼で大火」写真は浜見山から見た魚町、南町の焼け跡。-写真・佐藤由紀子(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

1929年
昭和4年
2月1日
●若槻礼次郎,貴族院で田中内閣の諸政策を痛撃
1929年
昭和4年
2月3日
●「改造文庫」刊行はじまる。『社会主義の発展』(エンゲルス)、『エミール』(ルソー)など。
「改造」は総合雑誌。大正八年(1919)4月、改造社が創刊。急進的な編集方針によって当時の社会主義思想の高揚に貢献。また文芸欄も充実しており、近代文学の代表的作品を数多く掲載。新進作家の登龍門としても権威があった。昭和19年(1944)改造社の解散によって廃刊、同21年復刊したが、30年廃刊。(出典)日本国語大辞典精選版
1929年
昭和4年
2月17日
●山梨県下の大地主400人が小作争議に対抗して山梨土地株式会社を設立
1929年
昭和4年
2月23日
(説教強盗妻木松吉を逮捕)
●翌日の朝日新聞(2/24)には『帝都を恐怖させた、説教強盗一世捕はる』とある。昭和3年から4年にかけては強盗事件が頻発し、第1次大戦後の不況と金融恐慌により犯罪が激増し「帝都不安の時代」と称された。強盗はこの説教強盗だけでなく、新渡戸稲造宅を襲ったピストル強盗、いつも刺身包丁を持ち赤靴をはいていた「赤靴強盗」、説教強盗の二世・三世、講談強盗、さらには軒並強盗と呼ばれるものまで現れた。
●この説教強盗一世は、大正15年(1926年)8月から昭和4年(1929年)2月かけて、2年8カ月にわたって東京市民を震撼させ、62件の強盗、22件の窃盗などで、ついに逮捕されたのである。
1929年
昭和4年
3月4日
米大統領にフーバー就任

●アメリカ資本は、第1次世界大戦後の荒廃したドイツ、ヨーロッパを復興させた。そしてドイツからの賠償金やヨーロッパ各国からの戦費返済がアメリカに還流し、当時のアメリカには全世界の金の約半分が集まったといわれた。1928年の大統領選では共和党は依然として有利であり、フーバーは選挙前の演説で次のように語ったという。

「今日われわれアメリカ人は、どの国の史上にもまだ見られなかったほど、貧困に対する最終的勝利に近づいている。・・われわれは神の加護によって、貧困がこの国から絶滅する日を、やがてまのあたりに見るであろう・・・」
(出典)世界の歴史14 中央公論社1963年刊

●「永遠に栄えよ」と豪語したアメリカが、まもなく歴史上未曾有の大恐慌となった。そして世界は、それが原因で第2次世界大戦へとむかった、ともいわれる。

1929年
昭和4年
3月5日
労農党代議士山本宜治,七生(しちせい)義団員黒田保久二に刺殺さる

●労農党代議士山本宜治が誕生したのは、前年2月に行われた初の普通選挙で当選したからである。この時無産政党から8人が当選したが、山本宜治は最左翼である労働農民党(労農党)の推薦を受け、京都帝大教授河上肇らの応援を得て当選した1人だった。
●しかし田中内閣の無産政党に対する弾圧は厳しく、昭和3年3/15に共産党の弾圧を行い、4/10には労農党と他の2団体に対して治安警察法を適用し解散命令を下した。山本宜治代議士は合法的政党基盤を失い孤立しながらも、昭和4年の五六議会では田中内閣批判を展開し、政友会系議員によるヤジと怒号の中で孤軍奮闘を続けた。そういう山本宜治代議士に対して右翼が暗殺の暴挙にでたのであった。(新聞)3/6東京朝日新聞紙面より(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行

1929年
昭和4年
3月14日
●横浜船渠(ドック)従業員4900人スト,東京モス紡績,横浜市電でも争議罷業。横浜ドックの従業員は待遇改善を求めてストを行い3/24会社側の譲歩で妥結した。横浜市電のストは、料金値上げと15人の従業員解雇に反対して3/5午前8時半より2日間におよぶ全線ストに入った。3/7午前1時半に調停が成立し朝から平常運転に戻った。東京モスリンは東洋モスリンとは別の紡績会社で、3/25女子工員2400人が賃上げ・食事改善などを要求して争議に入ったものである。
1929年
昭和4年
3月16日
●普通選挙による初の東京市会議員選挙実施。この選挙で無産党の堺利彦がトップ当選した。
(堺利彦)政治家。号は枯川。福岡県生まれ。幸徳秋水らと平民新聞を創刊。社会主義を信奉、非戦論を唱え入獄数回。売文社を設立。日本共産党初代委員長。のち労農派に転じ、日本大衆党・全国労農大衆党に参加。(1870-1933)(出典)広辞苑
(写真)中央が堺利彦、写真・毎日新聞社(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1929年
昭和4年
3月23日
●東京の大学・専門学校の卒業生約2万人のうち、4割強は就職できず、社会の1大不安要因との新聞報道。朝日では「空前の就職難時代を如何に解決すべきか、10万の求職青年をひかへて」とある。
小津安二郎監督・松竹映画「大学は出たけれど」は、この世相をうまく表現し昭和4年9月封切られ大ヒットした。
(新聞)3/24東京朝日新聞紙面より(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行
1929年
昭和4年
3月26日
●インド詩聖タゴール来日
(RabīndranāthTagoreラビンドラナース━)インドの詩人、思想家。インドの近代化を促すとともに、東西文化の融合につとめた。日本にも4回来訪。ベンガル語と英語で作品を発表。1913年、抒情詩集「ギーターンジャリ」でノーベル文学賞を受賞した。インド国歌「ジャナ・ガナ・マナ(インドの朝)」の作詞・作曲者。(1861-1941)(出典)日本国語大辞典精選版
1929年
昭和4年
3月28日
●外務省、済南事件協定に関する交換公文発表。鈴木参謀総長、山東撤兵の命令を発令、文書の交換調印後2カ月間で撤兵とあるので、全部の撤兵完了は5月下旬の予定と新聞報道。南京・漢口両事件解決の協定調印は5月2日南京で行われた。
1929年
昭和4年
4月1日
●初の国産ウイスキー発売。すでに「赤玉ポートワイン」で実績を積んでいた寿屋(現サントリー)が、「サントリー白札」を発売、ウイスキー大衆化への先駆けとなった。
1929年
昭和4年
4月1日
●東京上野松坂屋本館が開店した。地上8階地下1階のルネサンス様式の建物で、売り場のほかに、演芸大ホール、美容室、鉄道案内所、大小展覧会場、動物園などが備えられ、開店日には12万~13万人が来店した。
(写真)上野松坂屋本館(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1929年
昭和4年
4月5日
●東京実業組合連合会・東京商工会議所,商業労働者の週48時間労働に反対
1929年
昭和4年
4月15日
●大阪・梅田に初の本格的ターミナル・デパート阪急百貨店開店。これは阪急電鉄直営のデパートである。地上8階会地下2階のビルで、1階には阪急電車の乗り場・切符売り場があり、2階から6階までが商品売り場、そして7階が大食堂になっていた。これは電車のプラットホームの上にデパートを建てたもので、日本初の、そして世界でも例のないターミナル・デパートの登場だった。ターミナル駅を通るサラリーマンと沿線の客を目当てとしたデパートという発想は、阪急電鉄社長小林一三(いちぞう)によるものだった。小林一三は戦前の第2次近衛内閣で商工相、戦後幣原内閣で国務相にもなった大実業家である。
(写真)阪急百貨店開店時の夜景。小林の創設した「宝塚少女歌劇」の電飾もみえる。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1929年
昭和4年
4月16日
日本共産党員全国的大検挙(4・16事件)

新聞報道はこの年の11/5に解禁となった。下の紙面は11/6のものである。(新聞)11/6東京朝日新聞紙面より(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行
●「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊より引用すると、以下のようにある。
『4/16内務省警保局は、治安維持法違反などで全国の特高警察網を使い、1道3府 24県にわたる、日本共産党員とそのシンパの一斉検挙を行った。この日の検挙者は約400人に上った。共産党は前年の 3.15大検挙で組織に大打撃を受けたが、常任中央委員の渡辺政之輔・鍋山貞親・佐野学・市川正一らは検挙を逃れていた。警察側の追及は厳しく、3年8月に中央事務局員の宮原省久・岩田義道・野坂参三らが、さらに10月3日には国領伍一郎が検挙された。また、委員長渡辺政之輔は10月6日、台湾の基隆で警官隊に追い詰められてピストル自殺をした。しかし、彼らは組織の再建に奔走した。党再建の任務を帯びた市川がモスクワから帰国し、4年3月、鍋山、三田村四郎とともに新たに中央指導部を設立した。3.15大検挙とそれ以降の検挙にもかかわらず、党員は400人を超えていたといわれる。党の影響下に1万2000余人を結集して日本労働組合全国協議会がつくられ(3年12月)、日本共産青年同盟も再建された(4年1月)。共産党の組織は着実に拡大し、「天皇制打倒・無産階級の解放」などを主張して、労働運動や社会運動に大きな影響を与えていた。こうした中で、暗号で書かれた党員名簿がアジトで発見されたのをきっかけに、4.16大検挙になったのである。この大検挙を逃れた市川正一、鍋山貞親、三田村四郎、佐野学ら党の最高幹部も、4月から6月にかけ次々と逮捕され、共産党は再び打撃を受けた。この年の6月には、早くも田中清玄らによって再建が図られたが、以後、弾圧の中過酷な闘争を余儀なくされ、10年ついに壊滅した。』

1929年
昭和4年
4月26日
鉄鋼6社が鋼材連合会(業界カルテル)を設立

●棒鋼を生産する日本鋼管、神戸製鋼、釜石鉱山、富士製鋼、大阪製鉄、浅野小倉製鋼6社が加盟し、鋼材の生産と価格の調節を目的として各社の生産割合を決定した。これは不況による大量の在庫を抱え、価格の暴落に苦しむ鋼材企業が、不況克服のため結成したものである。1931年には「重要産業統制法」が制定され、国策として主要産業のカルテルを公認し、これに従わない企業を強制的にカルテルに参加させた。
(注)現在では 独占禁止法があり、正式名称である「私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律」の、「公正取引の確保」により不正取引として、カルテルや談合が禁止されている。しかし逆に国家が国策としてカルテルを強制した時代もあったのである。

1929年
昭和4年
5月1日
●第10回メーデー、全国で開催され約2万3000人が参加した。東京では芝公園の集会後、デモに移った約1万人の労働者が、警官隊と衝突を繰り返し、検挙者を多数出した。
(新聞)5/2東京朝日新聞紙面(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行
1929年
昭和4年
5月1日
●日本ビクターが『東京行進曲』を発売、空前のヒットとなる。東京行進曲の前にはニットーの『道頓堀行進曲』がヒットしていた。「行進曲」とつければヒットするとばかり、多くの映画やレコードが誕生した。下に一覧を引用した。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊。

●『行進曲』映画一覧、題名・制作会社
青春行進曲…河合映画、混戦行進曲…東亜京都、日活行進曲…日活太秦、マキノ大行進曲…マキノ御室、大名古屋行進曲…東亜京都、
大九州行進曲…東亜京都、忍術行進曲…東亜京都、海の行進曲…松竹蒲田、新東京行進曲…日活太秦、神戸行進曲…帝キネ、
恋愛行進曲…松竹蒲田、大学行進曲…米パラマウント、結婚行進曲…米パラマウント
●『行進曲』レコード一覧、曲名・制作会社
道頓堀行進曲…ニットー、浅草行進曲…ニットー、巴里行進曲……ニットー、銀座行進曲…ニットー、モガモボ行進曲…オリエント、
観楽行進曲…ビクター、新銀座行進曲…ビクター、千日前行進曲…ニットー、横浜行進曲…ニットー、名古屋行進曲…ニットー、
京都行進曲……ニットー、大阪行進曲……ニットー、神戸行進曲……ニットー

などである。
下で「東京行進曲 佐藤千夜子」と「道頓堀行進曲 内海一郎」のYouTubeにリンクしてみた。自動再生なので、ボリュームを絞ってから、リンクをクリックしてください。

*リンクします 「東京行進曲 佐藤千夜子」→YouTubeからkankan nou氏
*リンクします「道頓堀行進曲 内海一郎」→YouTubeからSuperTokuyama氏
1929年
昭和4年
5月5日
●国民政府軍の憲兵隊が済南城に入城し、城内の警備を引き継ぐ。日本軍が撤退し引き渡しが完了した。
1929年
昭和4年
5月18日
●神宮球場で始まった早慶戦が超満員となる。場内に負傷者続出し、あふれた観客が警備の警官隊と乱闘になる。
1929年
昭和4年
5月19日
●石原莞爾、永田鉄山らの中堅将校が「一夕(ゆう)会」を結成した。陸軍人事の刷新、「満蒙問題」の解決などを申し合わせる。
1929年
昭和4年
5月22日
●海軍飛行艇,横須賀・南洋(サイパン)間の飛行に成功
1929年
昭和4年
5月25日
●農林省の調査で、前年の小作争議は総件数1744件、参加小作人数、7万1301人と新聞報道。(小作調停法が1924年に施行され、小作争議が起きた場合、当事者の申し立てで裁判所が調停を行った。各府県に小作官がおかれ争議解決にあたった。昭和4年5/29、小作調停法を宮城・岩手・青森3県に施行する旨公布。)
1929年
昭和4年
5月30日
●三土(みつち)忠造蔵相、官邸で日本経済連盟代表と会見、「金解禁は実行せず」と言明する。5月21日の朝日新聞に「金解禁におびゆる財界。期限を付して解禁を断行せよ」との記事。
(新聞)5/21東京朝日新聞紙面(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行
1929年
昭和4年
5月30日
樺太未曾有の大惨状、猛火に包まれて7日

●新聞では、発火地域は20余ヵ所とあり、恵須取町は全滅に近いとある。「昭和2万日の全記録」講談社でも、恵須取町に延焼し同町を全焼、罹災者4000人とある。
(新聞)5/30東京朝日新聞紙面(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行

1929年
昭和4年
6月1日
●中華民国南京で孫文慰霊祭執行、犬養毅、頭山満が国賓待遇で参列。
1929年
昭和4年
6月3日
政府,中華民国国民政府を正式承認

●6/4の朝日新聞には、「芳澤公使の国書捧呈式、けふ盛大に挙行される。国民政府正式に承認され日支の国交常軌に復す」とあり南京の国民政府大礼堂にて厳粛に行われた、とある。

1929年
昭和4年
6月10日
●拓務省設置,田中首相が拓相兼任。この日拓務省設置の官制が公布、施行された。朝鮮、台湾、関東州、樺太、南洋群島の統治、殖産に関する事務や、移植民の保護指導、満鉄、東洋拓殖の業務の監督を主業務とした。
(写真)庁舎となる中央会議所に掛けられる看板。写真-アサヒグラフ(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1929年
昭和4年
6月10日
●佐野学,上海で逮捕
社会運動家、歴史学者。大分県出身。日本共産党の創立に参加。四・一六事件により入獄中、鍋山貞親とともに転向声明を発表。第二次大戦後、日本政治経済研究所を創設。著書「ロシア経済史」「唯物史観批判」など。明治25~昭和28年(1892-1953)(出典)日本国語大辞典精選版
1929年
昭和4年
6月13日
●東京日本橋の三井本館完工。三井財閥の本拠にふさわしく、敷地1700坪、鉄筋コンクリート5階建て、総工費2000万円で、三井合名、三井銀行、三井信託など三井関連各社が入居した。ここは昭和7年(1932年)血盟団事件で三井財閥最高指導者・団琢磨が暗殺された場所である。
(写真)三井本館落成(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
●8/30朝日新聞に昭和4年度全国長者番付が発表された。「三井本家が第1位、不景気しらずの大富豪」とあり、ベスト10の氏名は以下の通りである。①三井八郎右衛門、②岩崎久弥、③三井高修、④三井源右衛門、⑤三井元之助、⑥大倉喜七郎、⑦三井高精、⑧岩崎小弥太、⑨三井寿太郎、⑩住友吉左衛門。
1929年
昭和4年
6月26日
●枢密院御前会議,不戦条約を留保宣言つきで可決。これが前年昭和3年(1928年)8/27にパリで調印した「不戦条約」の批准承認であった。枢密院は「人民の名において・・」を、国体の名誉のために留保(日本は適用されないと)したのである。そして7月24日に国際不戦条約が発効し,ワシントンで批准46カ国が参加して宣布式が行われた。日本は「人民の名において」は日本に不適用と宣言したのである。
(新聞)6/27東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行
1929年
昭和4年
6月28日
田中首相総辞職を表明

●田中首相は満州某重大事件(張作霖爆殺事件・昭和3年6/4)の処理問題で、天皇より叱責を受け辞職を決意、内閣は7/2総辞職した。7/1には、満州某重大事件の責任者の処分も発表した。(新聞)7/2東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行
●事件発生以来、陸軍は「張作霖爆殺の犯人は中国革命軍」と言明しつづけ、政府も国内では「満州某重大事件」として真相はあいまいにしていた。ところが外交ルートから「事件は関東軍将校の謀殺」という真相が漏れるにつれ、田中首相は天皇に昭和3年12月「鋭意調査中なるも、もし帝国軍人が関与しているなら厳然たる処断する」と上奏した。
●民政党は政府に対し、昭和4年に開かれた第56議会において、「満州某重大事件」の真相究明を迫ったが、田中内閣は目下調査中と逃げに終始して追及をかわした。
●田中首相は陸軍の圧力や閣内の強硬意見に負けて、処分内容を次のように決定した。それは「犯人は陸軍には存在しないが、警備上に若干の手落ちがあるとして、関東軍司令官村岡長太郎中将を予備役編入、関東軍高級参謀河本大作大佐を停職」とするものだった。
●6月28日、田中首相は関係者の処分内容を上奏するために参内した。しかし田中は、天皇に「お前の最初に言ったことと違ふぢゃないか」と叱責された。人一倍尊皇心の厚い田中首相は恐懼し涙を流し即座に辞意を表明したという。

1929年
昭和4年
7月2日
濱口雄幸(はまぐち-おさち)内閣成立(民政党)

(濱口雄幸)政治家。高知県出身。第1、2次加藤内閣の蔵相、第1次若槻内閣の内相を経て、立憲民政党総裁。昭和4年(1929年)首相就任。産業合理化・国際協調外交を唱え、ロンドン海軍軍縮条約を結ぶ。右翼青年に狙撃されたのがもとで没。(金解禁、緊縮財政)(出典)「日本語大辞典精選版」
●田中内閣は張作霖謀殺問題で総辞職,民政党濱口雄幸内閣成立,外務大臣・幣原喜重郎(幣原外交復活)、大蔵大臣・井上準之助、陸軍大臣・宇垣一成、海軍大臣・財部彪(たからべ-たけし)、逓信大臣・小泉又次郎など。
(新聞)7/3東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行。ちなみには、小泉又次郎は自民党第87・88・89代内閣総理大臣小泉純一郎の祖父である。
●7/9に発表された濱口新内閣の10大政綱の要点は次の10項目であった。

1.「政治の公明」政治の公明は立憲政治の根本要件たり。
2.「民心の作興」政府は益々国体観念のかん養に留意して国民精神の作興に力(つと)め・・
3.「綱紀革正」厳に綱紀をしゅく正するにあらずむば、民風のたい廃遂に済(すく)ふべからざるに到らむとす・・
4.「対支親善」軽々しく兵を動かすは固より国威を発揚する所以に非ず、政府の求める所は共存共栄にあり・・
5.「軍縮促進」列国と共に断然たる決意をもって国際協定の成立を促進せざるべからず・・
6.「整理緊縮」中央地方の財政に対し一大整理緊縮を断行し、陸海軍の経費に関しても国防に支障来さざる範囲において大に整理節約の途を講ずる・・
7.「非募債と減債」国債の総額は昭和4年度末現在額より増加せざること・・
8.「金解禁断行」諸般の準備を整へ近き将来において金解禁をせむことを期す・・
9.「社会政策確立」社会政策確立・国際貸借の改善・関税の改正は委員会を設けてその調査審議を託す・・
10.「教育の更新」義務教育費の増額、農漁山村経済の改善、殊に中小農工商に対する金融機能の整備等・・
7/10東京朝日新聞紙面より(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行
1929年
昭和4年
7月1日
●婦人および年少者の深夜業禁止。これは大正12年(1923年)に改正された新工場法の一部適用除外規定がこの日からなくなった(改正工場法の施行が関東大地震のため、この日まで延期されていた)。それが女子および16歳未満の年少工員の深夜業禁止であった。しかしこれは工場法適用工場(常時10人以上の職工を使用する)のみであったので、当時の労働者の大多数を占める中小零細工場の従業員は適用外となったのである。
改正工場法の即時実施と賃金引き下げ反対で、6/26天満紡績はストに突入した。7/1に解決。(写真)「天満紡労働争議で立ち上がる女工たち」-1929年朝日新聞社大阪(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1929年
昭和4年
7月8日
●金解禁ふくみで各市場一斉暴落
1929年
昭和4年
7月11日・7月14日
●7/11中華民国,東支鉄道を回収。7/14ソ連、支国境封鎖(17日ソ連,対華国交断絶を宜言)、7/25日・英・米・仏・伊・独の6カ国,東支鉄道のソ華共同管理を勧告,27日中国は承認(12月22日ハバロフスク休戦協定で回収失敗に終わる)
●これは前年昭和3年12月、張学良が国民政府に合流したことにより、国民政府の国権回復運動であった。昭和4年5月にはハルビンその他のソ連領事館および北満鉄道各機関を包囲捜索し、7月には東支鉄道(東清鉄道・北満鉄道のこと)を実力によって回収を行った。しかしこれに対してソ連は強硬姿勢をしめし、ソ連軍は満州に侵入し張学良軍と武力衝突を起こした。結局張学良軍は敗退し、ハバロフスク休戦協定で東支鉄道回収は失敗したのである。
1929年
昭和4年
7月15日
●日本航空輸送会社,東京・大阪・福岡間定期旅客輸送を開始。東京(立川飛行場)から大阪(木津川)-福岡(太刀洗)向けの一番機が出発した。乗客6名(乗員2名)であった。9/10からは福岡-蔚山(ウルサン)-京城(ソウル)-平壌(ピョンヤン)-大連間(週3往復)で朝鮮・満州線も営業を開始した。
(写真)東京の立川飛行場を出発する旅客輸送一番機、フォッカー・スーパーユニバーサル機。アメリカ・アトランチック社製。写真-野沢正(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1929年
昭和4年
7月19日
●国際決済銀行設立に参加を決定。しかしこの設立協議では、日本が通貨安定を達成していないことから、日本の原加盟国への参加に疑問が呈されたという。
1929年
昭和4年
7月29日
●濱口内閣,5%削減の緊縮実行予算を発表。閣議で昭和4年後実行予算を決定し、当初予算の5%にあたる9100万円を削減した。
1929年
昭和4年
8月2日
●文部省の節約教化運動、男女青年団・宗教団体のほか全国各学校も動員されることが決定。
1929年
昭和4年
8月4日
●青島(チンタオ)で反日怠業が激化、日系紡績会社すべて休業。(この日から3社を加え6社すべてが休業した。)
1929年
昭和4年
8月6日
●ドイツ賠償ヤング案に対しハ-グ会議開催(31日閉会)。これは第1次世界大戦のドイツ賠償金を1924年から実施されたドーズ案に続いて、さらに賠償金を減額し、返済期間を緩和したヤング案を決めたものである。しかしのちに起こる世界恐慌で、ドイツはこのヤング案による賠償金支払いも不能となっていった。
1929年
昭和4年
8月19日
●ドイツの世界1周飛行船ツェッペリン伯号霞ヶ浦に着く。8/26、ツェッペリン伯号,太平洋横断に成功,ロサンゼルスに到着。この霞ヶ浦飛行場には、見物客が徹夜組も含めて正午までに約8万人が殺到した。
(新聞)8/20東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行
1929年
昭和4年
8月27日
●東京中央放送局,求人求職放送を開始。これは週2回、夜7時のニュースのあとに求人求職を伝える「職業ニュース」の放送を開始した。
1929年
昭和4年
8月28日
●濱口首相,緊縮政策を全国に放送。また内閣の金輸出解禁については、大蔵大臣井上準之助が「金解禁━全日本に叫ぶ」を9/18に出版し、ベストセラーになった。これは国民に金解禁の必要性を分かりやすく説いたもので、政府は金解禁への協力を、新聞ラジオなどメディアを積極的に使って宣伝した。現代においても通貨・為替は投機の対象となり、この不安定な為替問題は現代においても大きな問題である。

*リンクします 「金解禁:全日本に叫ぶ」井上準之助 著 先進社 昭和4年刊→ 国立国会図書館デジタルコレクション
疑獄事件頻発

●事件を列挙すると以下のようである。これらの疑獄事件は政党に対する国民の信頼を著しく失わせた。ただしこの疑獄事件は、政友会・田中義一内閣時代のもので、民政党の政友会に対する政略とみるむきも多かったといわれる。新聞は11月30日小橋文相が辞任した時の報道。
(新聞)11/30東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行


●8/25、北海道鉄道の社長ら4人、背任横領の疑いで取り調べ。私鉄疑獄事件に発展する。
これは次の5件で、①北海道鉄道会社一部路線の国家買収に関する汚職事件。②伊勢電鉄の鉄道敷設免許に関する贈賄。③東大阪電鉄の鉄道敷設免許に関する贈賄。④博多湾鉄道の一部路線の国家買収に関する贈賄。⑤奈良電鉄延長線の早期免許取得で贈賄、だった。そしてこれは田中義一内閣の鉄相小川平吉と元政友会代議士春日俊文と共謀して行った贈賄事件とされたのである。
●9/11、売勲事件で天岡直嘉前賞勲局総裁ら起訴。これは叙勲を扱う賞勲局の総裁天岡直嘉が、昭和3年11月の天皇即位大礼を期して行われた大幅な叙勲の際、贈賄を受けた事件である。天岡は叙勲を望む財界人からの収賄を計画したのだった。天岡は昭和10年の控訴審で懲役2年と追徴金の判決となった。
●9/26、私鉄大疑獄事件の中心人物、前鉄相小川平吉を起訴収容。昭和8年の一審では、小川と春日の共謀は認められず、私鉄関係の被告15人全員が無罪となった。しかし検事側控訴により、翌昭和9年の東京控訴院では、小川と春日は共に②③④事件で有罪となり、懲役2年および追徴金の判決を受けた。
●11/29、越後鉄道買収疑獄で疑惑を受けた小橋文相が辞任(昭和5年12月有罪判決)
この事件は、昭和2年10月、越後鉄道国有買収にからみ小橋が収賄したとされた事件で、政友会の小川平吉らの5私鉄疑獄の取り調べの過程で明るみに出た事件だった。
●12/18、朝鮮総督府疑獄事件、前朝鮮総督・山梨半造、涜職(とくしょく=汚職の古い言い方)罪で起訴。これは釜山に朝鮮米の取引所を開設しようとした東京深川の米穀商川崎徳之助らが、朝鮮総督・山梨半造(予備役陸軍大将)に5万円を贈賄したとされる事件。裁判の結果、山梨は一審、二審で無罪となった。理由は、贈賄側が金を贈賄であると明確に言わなかったからというものだった。宇垣陸相は陸軍大将の不祥事であるので山梨に退官を求めたが、山梨はこれを拒否した。この事件は軍上層部の腐敗を指弾する若手将校の憤激を買った。
1929年
昭和4年
10月11日
●「浅間丸」がサンフランシスコ航路に就航。この浅間丸は日本郵船会社所有のもので、昭和5年4月「秩父丸(のち鎌倉丸と改名)」と「竜田丸」が同航路に就航し、世界の注目を集めた。豪華客船時代の幕が開けたのである。この船は太平洋横断の新記録を作り、ロサンゼルスで2日間一般公開を行い、1日1万500人余の観客が押しかけるほどの盛況だった。
(写真)大勢の見送りを受け、サンフランシスコに向けて横浜港を出港する浅間丸。(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊
1929年
昭和4年
10月12日
●犬養毅,政友会総裁となる。新聞は10/8のもので、臨時顧問会は、政友会総裁に犬養翁推戴(すいたい)に決定とある。10/12政友会は臨時党大会を開き、急死した田中義一に代わり犬養毅を第6代総裁に指名した。
(新聞)10/8東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行
1929年
昭和4年
10月15日
●全国官吏の1割減俸発表,22日判検事などの反対運動で政府撤回。
●内閣は緊縮財政の一環として官吏減俸を閣議決定し、昭和5年1月からの実施を予定した。しかし「減俸は不景気になる」などと判事、検事、各省官吏が猛反対し、結局政府は撤回した。
(新聞)10/16東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行
1929年
昭和4年
10月24日
ニューヨーク株式大暴落

●世界恐慌はじまる,ニューヨーク株式暴落で糸価暴落(29日ニューヨーク株式再び致命的暴落)
●仲買人は「いくらでもいい、成り行きで売ってくれ」と叫んで取引所に殺到した。11件の自殺も伝えられた。「暗黒の木曜日」は長い悪夢の始まりだった。とある。(写真)と文「株式市場が崩壊したウォール街」(出典)「クロニック世界全史」1994年講談社刊

1929年
昭和4年
11月1日
●内務省,失業者数30万0195人と発表
1929年
昭和4年
11月1日
●労農党結党大会開催,中央執行委員長に大山郁夫
1929年
昭和4年
11月3日
反日・光州学生事件

●朝鮮光州の学生が植民地的差別教育反対・日本打倒で決起,5万4000人参加。この事件は、朝鮮全羅南道の光州で、日本人の中学生10人と朝鮮人の高等普通学校(朝鮮人中学校で4年制)生12人が衝突した。これは4日前通学列車内で、日本人中学生が朝鮮人女子高校生に侮辱的言動をとったことが発端だった。そしてこれが光州地方に広がり、最後にそれが「反日帝・朝鮮独立」となり全土に波及したのであった。

1929年
昭和4年
11月16日
●英米財団と1億円借入クレジット設定の交渉成立(金輸出解禁実施直前の準備)。
1929年
昭和4年
11月19日
●蚕糸中央会は12月15日から31日まで全休,2月以降4ヵ月全国的操短と共同保管量拡張を決定。
1929年
昭和4年
11月19日
●産業合理化審議会設置。
1929年
昭和4年
11月21日
金輸出解禁断行を発表

●政府,昭和5年1月11日を期し金輸出解禁断行を発表。
(新聞)11/21東京朝日新聞(出典)「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行

1929年
昭和4年
11月29日
●中華民国駐在公使佐分利貞男,箱根で怪死。
1929年
昭和4年
12月15日
●日本人絹連合会,第1次操短を決議。
1929年
昭和4年
12月24日
●大阪造幣局、金解禁に備え「昭和」の年号を刻印した最初の「金貨鋳造」を開始した。
1929年
昭和4年
12月25日
●日本大衆党分裂,反対同盟の堺利彦ら東京無産党を結成。
1929年
昭和4年
12月29日
上越線清水トンネル貫通

(導坑最後の障壁が破られトンネルが貫通した日である)
●大正8年(1919年)測量開始、大正11年(1922年)8月、土合(どあい)口で導坑掘進開始、翌12年12月、土樽(つちたる)口も着工した。鉄道省はこの工事では従来の請負方式をやめ、初めて直轄方式を取り入れ、宿舎の手配、食料調達から労務管理一切まで鉄道省が行った。このことは日本のトンネル工事で画期的なことであった。
●また設計上でも、トンネルの長さを短縮(半分の約9.7km)するために、勾配を変更し、そのためのループ線をトンネルの前後につけることで解決したり、土合-石打間を電化して、スピードアップと輸送力の増強も図った。しかし工事は困難をきわめ、導坑掘削から9年、総工費1172万5000余円、延べ360万8000人を動員、犠牲者47人、2500余人が重軽傷を負い、昭和6年(1931年)9月1日に開通したのである。この時清水トンネル(上越線)通過の1番列車は、前日8/31午後10時5分上野発-秋田行き、であった。
(図)清水トンネル(出典)「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊

1929年(昭和4年)その他の事件・災害・文化など

「朝日新聞社に見る日本の歩み」1974年朝日新聞社発行と「昭和2万日の全記録」講談社1989年刊より抜粋
●1/9、久原鉱業,日本産業と改称
●1/17、労農大衆党,京都で結党
●1/19、日華関税条約成立(2月1日実施)
●2/15、染料関税を撤廃

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