(歴史)大日本帝国陸海軍と「アジア・太平洋戦争」①帝国陸軍

上は、祖父の遺品にあった「御真影=昭和天皇・皇后の公式の肖像写真」である。80年以上前のものと思われる。

「アジア・太平洋戦争」とは、戦後の世代にとっても重要な現代史であり、避けては通れない日本の過去である。
ここでは、大日本帝国陸海軍について、陸軍を中心に書いてみる。日本がおこした「アジア・太平洋戦争」は、アジア周辺諸国に深く傷跡を残した。この戦争は、日清・日露戦争から現代にまでつながる日本の現代史であり、忘却すべき歴史ではない。 この戦争は、今なお現代日本人に対して、過去をどう認識し、過去をどう決着するかという課題を問い続けている。
 日本がこの戦争を決着できないのは、つまるところ戦後の日本が、自国の戦争過去を、自らの手で精算できなかったことに起因する。この戦争では、日本人は加害者でもあり被害者でもあったからである。そのため「戦争責任」「東京裁判」「憲法9条」「自衛隊」「靖国参拝」「南京虐殺」「慰安婦」「日米安全保障条約」「沖縄問題」などの問題を決着できずにいる。
●だがこの戦争は、われわれ戦後世代にとっては過去のものであり、ましてもっと若い世代にとっては、既に過ぎ去った教科書に書かれた歴史にすぎない。それでもわれわれ戦後世代は、戦争責任を負わねばならないのだろうか。この戦争は、われわれの戦争ではない。
 だが、朝鮮半島の人々の日本人に対する、むきだしの排日感情に接すると、われわれであっても、若者であっても、日本の戦争過去の重大性を認識せざるを得ない。われわれもまた、日本民族の歴史を心に刻まなければならないからである。
 だが中国や朝鮮半島の戦後の世代にとって、本当の敵は日本なのだろうか。日本では民主主義と個人尊重は浸透し、日本国民にとって全体主義や国家主義はすでに克服した過去である。彼らの本当の敵は、彼ら自身に潜む国家主義と、排斥・差別意識ではあるまいか。
●日本軍の残虐さと壮絶な最後は、両極端であり直視できないものである。しかし、われわれにとって必要なことは、現代の価値観で歴史に幻想を持ってはならないことである。そこには無数の人々の過去があり現実があり死ぬまで消えぬ体験があった。後を継ぐわれわれはそれを記憶に刻み未来に挑むだけである。

吉田満著「戦艦大和ノ最期」の初版あとがきに次のようにある。

・・・前に発表された際、これは戦争肯定の文学であり、軍国精神鼓吹の小説であるとの批判が、かなり強く行われた。
この作品の中に、敵愾心とか、軍人魂とか、日本人の矜持とかを強調する表現が、少からず含まれていることは確かである。

下

頭で考えただけの批判や理想主義では何も解決しない、現実主義であるべきである。この時代において、数多くの人々が、全身全霊をこめて命を尽くした、という事実は忘れてはならない。
「歩兵科新兵必携・典範令」の「歩兵操典」の問答集には次のようにあります。
一、負傷セル敵、兵器ヲ棄(ス)テ、降伏セル敵、敵ノ患者(カンジャ)等(ナド)ハ如何(イカ)ニ取扱フヤ
   直(スグ)二上官ニ差出(サシダ)シマス
一、俘虜(フリョ)ハ如何ニ處置スルヤ
   侮辱ヲ與(アタヘ)ルコトナク敵國ノ軍人トシテ接待(セッタイ)シマス
一、俘虜若(モ)シ抵抗或(アルヒ)ハ逃走セントスル時ハ如何ニスルヤ
   殺(コロ)シマス 
・・・・「歩兵操典」「出戦時ノ心得」から一部抜き出し

陸軍刑法には次のようにあります。
  第三章 辱職ノ罪
第四十条 司令官其ノ尽スヘキ所ヲ尽サスシテ敵ニ降リ又ハ要塞ヲ敵ニ委シタルトキハ死刑ニ処ス
第四十一条 司令官野戦ノ時ニ在リテ隊兵ヲ率ヰ敵ニ降リタルトキハ其ノ尽スヘキ所ヲ尽シタル場合ト雖六月以下ノ禁錮ニ処ス
第四十二条 司令官敵前ニ於テ其ノ尽スヘキ所ヲ尽サスシテ隊兵ヲ率ヰ逃避シタルトキハ死刑ニ処ス
(注)司令官とは、軍隊の司令に任ぜられた以上、団体の大小、任務の軽重、将校・下士官を問わず総て司令官である。

 第四章 抗命ノ罪
第五十七条 上官ノ命令ニ反抗シ又ハ之ニ服従セサル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス
 一 敵前ナルトキハ死刑又ハ無期若ハ十年以上ノ禁錮ニ処ス
 二 軍中又ハ戒厳地境ナルトキハ一年以上十年以下ノ禁錮ニ処ス
 三 其ノ他ノ場合ナルトキハ五年以下ノ禁錮ニ処ス

 第七章 逃亡ノ罪
第七十五条 故ナク職役ヲ離レ又ハ職役ニ就カサル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス
 一 敵前ナルトキハ死刑、無期若ハ五年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
 二 戦時、軍中又ハ戒厳地境ニ在リテ三日ヲ過キタルトキハ六月以上七年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
 三 其ノ他ノ場合ニ於テ六日ヲ過キタルトキハ五年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

第七十七条 敵ニ奔リタル者ハ死刑又ハ無期ノ懲役若ハ禁錮ニ処ス
・・・・陸軍刑法(明治41年法律第46号)

下は小松真一著「虜人日記」の「幽霊の話」のところ。(注)昭和20年(1945年)9月1日PW(Prisoner of War=捕虜)になってから、昭和21年12月11日帰国するまでの雑感。 レイテ島(フィリピン中部)。軍旗(聯隊旗)奉焼=軍旗は死んでも守らなければならない。ニッパ=ニッパヤシで屋根を葺いた建物。
幽霊の話
 レイテは10余万の日本軍が死んだ所であり、殊に我々の居るパロの高地は、第三十三部隊が軍旗を焼いて玉砕した所なので、白骨が沢山出てくる。毎日の雨に、あたりは何となく淋しいし、幽霊が出るにはもってこいの条件なのに、出ないのは不思議だと思っていた。
 すると幽霊がはたして出始めた。

下

戦後70年以上たった現在でも「アジア・太平洋戦争」は終わっていないのである。厚生労働省「戦没者慰霊事業」による「海外戦没者遺骨の収容状況」によれば、
平成29年(2017年)3月31日現在において、海外戦没者概数約240万人のうち、
収容遺骨概数 約127万柱 未収容遺骨概数 約113万柱とあり、次のようにあります。
未収容遺骨の情報を求めています。

 戦没者の御遺骨の収容については、これまでも戦友の方々や現地政府等から提供された情報に基づき鋭意実施してきており、約34万柱の御遺骨を収容したところですが、戦後70年以上が経過し、遺骨情報が減少してきているなどの事情から、未だ約60万柱の御遺骨が未収容であり、特に南方地域(フィリピン、東部ニューギニア、ビスマーク・ソロモン諸島、インドネシア等)での遺骨収容が困難な状況になりつつあります。

下

厚生労働省「戦没者慰霊事業」「海外戦没者遺骨の収容状況」
厚生労働省

目次
基本用語・項目 内容
★「帝国陸海軍階級章」「軍隊の簡単な解説(漫画)」「軍馬の写真」 「昭和2万日の全記録・1億の新体制」講談社、「水木しげる伝(上)戦前編」などから紹介。50余万頭の馬も異国の地に倒れた。
★帝国陸軍の階級、組織、用語など。 ①陸軍の階級、②軍隊の編制、③兵科、④陸軍全体の組織、⑤兵役(徴兵制度)「図解日本陸軍歩兵」「新陸軍読本」「陸軍読本」などから引用、抜粋、要約。
★「アジア・太平洋戦争」の軍人・軍属の死亡者・不明者。 「戦後70年:数字は証言する データで見る太平洋戦争」毎日新聞社。厚生労働省「戦没者慰霊事業の実施」海外戦没者遺骨収容状況概見図、「別冊歴史読本第68(266)号太平洋戦争総決算」新人物往来社1994年刊掲載の厚生省援護局1964年作成「地域別兵員及び死没者概数表」など。
★NHK[証言記録 兵士たちの戦争]とアメリカ映画・TVドラマに描かれた日本軍。 「硫黄島 地下壕に倒れた精鋭部隊」NHK。「ザ・パシフィック」2010年(アメリカ軍が日本軍を評価した戦いのひとつ「硫黄島」)。「硫黄島からの手紙」2006年。
★春風亭柳昇「落語与太郎戦記」と輸送船の体験談。
戦死者のうち「海没」が約30万柱とある理由がわかるようである。
春風亭柳昇「落語与太郎戦記」、山本七平「一下級将校の見た帝国陸軍」から「地獄の輸送船生活」、小松真一「虜人日記」から「海難」、水木しげる「水木しげる伝(上)戦前編」の「野戦ゆき」のところなどを、紹介する。

(注)一部の写真は、クリックするとポップアップし、再度クリックすると戻ります。また一部の画像は「Wheelzoom」jsにより、マウスホールで拡大・縮小・移動ができるものがあります。jacklmoore氏のサイトを参照してください。
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★「帝国陸海軍階級章」「軍隊の簡単な解説(漫画)」「軍馬の写真」
●初めに、帝国陸海軍の階級章の写真、水木しげるの作品の一部、そして軍馬の写真を掲載した。
陸海軍の階級章一覧

●「昭和2万日の全記録・1億の新体制」講談社1989年刊から「陸海軍の階級章」一覧。この写真はマウスホールで拡大・縮小・移動ができる。
階級章

軍隊の組織(水木しげる作品)

●下は「水木しげる伝(上)戦前編・講談社2004年刊」から、軍隊の組織を「ネズミ男」が解説しているところ。クリックして拡大して左から右へ順にみてください。

50余万頭の軍馬も海外へ

●また陸軍の組織の中に「馬政課」という課がある。ここは軍馬や軍用動物に関する部署であったが、日中戦争・太平洋戦争を通じて徴発された軍馬は50余万頭と推定され、さらに日本軍による現地調達も多数にのぼった。50余万頭の馬も異国の地に倒れた。次の写真を掲載しておく。

●「戦争に倒れた軍馬たち」(出典:「昭和2万日の記録5」講談社1989年刊)

●(左写真)1939年2月10日、海南島上陸に備える軍馬。鞍ずれが痛々しい。-写真・毎日新聞社
●(中写真)1937年8月、秋田県 湯沢町、愛宕グランドでの軍馬購買風景。-撮影・奥山信吾。
●(右写真)倒れて起き上がれない馬を励ます兵士。その向こうを戦列駄馬が通り過ぎていく。1941年春、江西戦線で。

★帝国陸軍の階級、組織、用語など。
●次に陸軍の基本的な用語を簡単に一覧にしてみる。①陸軍の階級、②軍隊の編制、③兵科、④陸軍全体の組織、⑤兵役(徴兵制度)などである。(参考)「図解日本陸軍歩兵」画 中西立太、文 田中正人 2006年並木書房刊。「太平洋戦争 日本帝国陸軍」編集制作 有限会社オフ 成美堂出版2000年刊。「新陸軍読本」武田謙二 著 高山書院 昭和15年(1940年)刊。「陸軍読本」大久保弘一 著 日本評論社 昭和13年(1938年)刊。

①陸軍の軍人の階級
区分 階級のくくりの呼び名 階級、正式には全て「陸軍」が頭に付く。
(軍隊内職務)
将校 将官 大将、中将、少将。(軍司令官、師団長、旅団長)
将校 佐官
(上長官)
大佐、中佐、少佐。(連隊長、大隊長)
(上長官は明治・大正期)
将校 尉官
(士官)
大尉、中尉、少尉。(中隊長、小隊長)
(士官は明治・大正期)
准士官 准士官 准尉。(1936年までは特務曹長)
下士官 下士官
(下士)
曹長、軍曹、伍長。(分隊長)
(下士は1931年まで)

(兵卒)
兵長(1941年に伍長勤務上等兵を改称し独立の階級として新設)、上等兵、1等兵(1931年まで一等卒)、2等兵(1931年まで二等卒)。
(兵卒は1931年まで)
(注)
●元帥は階級ではなく、陸海軍大将への称号で、元帥は終身現役。
●「大元帥」とは天皇のこと。軍人勅諭に次のようにある。

・・子々孫々に至るまて篤(あつ)く斯(この)旨(むね)を傅(つた)へ天子は文武の大権を掌握するの義を存(ぞん)して(=正しき条理を維持する)再(ふたたび)中世以降の如き失體(しったい)なからんことを望むなり朕は汝等(なんじら)軍人の大元帥(だいげんすい=全軍を統率する総大将)なるぞされは朕は汝等を股肱(ここう=手足とも頼みにするの意)と頼み汝等は朕を頭首と仰きてそ其親(したしみ)は特に深かるへき朕か國家を保護して上天(しょうてん=神霊)の恵(めぐみ)に應(おう)し祖宗の恩に報いまゐらする事を得(う)るも得(え)さるも汝等軍人か其職を盡すと盡さゝるとに由(よ)るそかし(=意味を強めた助調)

●平時陸軍の編制は軍隊・官衙(かんが)・学校・特務機関とに区分された。そして中心であるのは軍隊である。軍隊は下記のように分かれる。
(注)親補(しんぽ=旧憲法のもとで、天皇がみずから官職を命じること。)、直隸(ちょくれい=直接に隷属すること。直属。)

軍隊
軍隊 説明
〇「師団」 (師団長=陸軍中将を以て親補す) 師団長は天皇に直隷し、部下の陸軍諸部隊を率い、軍事に関する諸件を統轄・処理する。
〇「航空兵団」 (航空兵団司令官=陸軍大・中将を以て親補す) 司令官は天皇に直隷し、部下飛行部隊を練成・統率する。航空兵団司令部(東京)、飛行団、飛行聯隊。
〇「台湾・朝鮮・満洲及支那駐屯軍及び守備隊など」 各司令官は、天皇に直隷し、朝鮮、台湾、関東州及び満州、に在る陸軍諸部隊を率ひて各地を防衛する。 朝鮮軍司令部(龍山)、台湾軍司令部(台北)、関東軍司令部(新京)、支那駐屯軍司令部(天津)、台湾守備隊、独立守備隊、台湾・満州に在る重砲兵聯隊。
〇「憲兵隊」 本部を師団司令部所在地に置く 各隊は之を分隊に分け、各々其の管区内に置き、補助憲兵は憲兵科以外の各兵科から採用する。
〇「陸軍教化隊」 所在地は姫路。 しばしば罰せられても、改悛の状なき者を此の隊に入れ、教導感化する。

●この中で、陸軍における軍隊の平時常設の最大単位は師団であった。そして戦時(戦闘序列)となれば師団をこえて、軍、方面軍、総軍が編成された。下は平時師団編制と歩兵聯隊の典型的な編制。師団編制は「陸軍読本」から、歩兵聯隊編制は「図解日本陸軍歩兵」より要約した。
②軍隊の編制(師団・聯隊)
編制区分 長(階級) ポイント
師団 師団長=中将 師団長は天皇に直隷し、部下の陸軍諸部隊を率い、軍事に関する諸件を統轄・処理する。(師団長は閣僚に匹敵する親補職で、就任の際直接、天皇より辞令を受けた。)
師団編成部隊 1・師団司令部(師団司令部には参謀部・副官部・兵器部・経理部・軍医部・獸医部・法務部の各部がある。参謀部と副官部とを合して幕僚といい、参謀長は幕僚長である。)


2・歩兵旅団、3・歩兵聯隊、4・騎兵聯隊、5・野砲兵又は山砲兵聯隊、6・工兵聯隊、7・輜重兵(しちょうへい)聯隊、8・戦車聯隊、9・騎兵旅団、10・独立山砲兵聯隊、11・騎砲兵聯隊、12・野戦重砲兵旅団、13・重砲兵聯隊、14・高射砲聯隊、15・鉄道聯隊、16・電信聯隊、17・気球聯隊
旅団 旅団長=少将 歩兵旅団は1930年代に廃止された。
聯隊
(歩兵聯隊)
聯隊長=大佐、中佐 3個歩兵大隊。別に歩兵砲隊があり、聯隊砲(軽榴弾砲)4門、速射砲(欧米の対戦車砲)4門をもち、聯隊での重火器の主力となった。軍隊という言葉が聯隊を指すほど、聯隊がもっとも重要であった。そのことを象徴するものが「聯隊旗」(通称・軍旗)であり、天皇から下賜され、聯隊の団結の象徴であり、もっとも神聖なものであった。聯隊旗は歩兵聯隊と騎兵聯隊のみ。


(左絵)水木しげる「敗走記」講談社2010年刊より
大隊 大隊長=少佐 平時3個中隊戦時4個の中隊で1個大隊(1936年以前)。以後平時戦時ともに3個中隊で1個大隊となり、別に機関銃中隊(重機8丁装備)、歩兵砲小隊(大隊砲2門装備)を大隊編成内においた。
中隊 中隊長=大尉、まれに中尉 4個小隊と指揮班、弾薬小隊で1個中隊となる。中隊の規模は太平洋戦争の頃で120名~150名であった。中隊長は、副官として中尉または少尉、中隊附の准尉と若干の下士官をスタッフとした。中隊戦力の根幹となる歩兵の小銃数は、1940年歩兵操典では、1個分隊12名編制で小隊と指揮班を合わせ144挺であった。
平時の兵営内での編成は中隊まで。

小隊・分隊は戦時または演習時に設けられた。兵士たちの日常生活、教育訓練や演習などの「内務」は中隊単位で行われた。曹長は通例、中隊の経理事務、被服などを担当し、戦時には中隊指揮班附(准尉は指揮班長)などになった。軍曹は平時の内務班長であり、戦時には内務班が数個に分割され分隊となった。内務班には班附伍長が2名いて、平時は内務班の幹部として班長の補佐をするが、戦時には分隊長ともなる。


●下は「水木しげる伝(上)戦前編・講談社2004年刊」から、私的制裁で悪名高い内務班の体験のシーン。クリックして拡大して左から右へ順にみてください。
小隊 小隊長=少尉、准尉、曹長 歩兵小隊の戦時編制は、1933年頃から軽機分隊3個、擲弾筒(てきだんとう)分隊1個の編制となった。
分隊 分隊長=軍曹、伍長 1940年改正の「歩兵操典」では、分隊員は各12人であった。定数は軽機分隊=軽機1+小銃11、擲弾筒分隊=擲弾筒3+小銃9、であった。
歩兵部隊が採用した「戦闘群」戦法。傘型散開など。

「新陸軍読本」によれば次のようにある。
①歩兵は、日清・日露戦争では身につけた銃剣と小銃とで闘った。
②しかし機関銃現れ、第1次世界大戦では歩兵の主力火器が小銃から機関銃に替わっていった。
③そこで、中隊には軽機関銃、大隊には重機関銃を配属し、また手榴弾、擲弾筒を中隊に与え、歩兵砲、迫撃砲、高射機関銃及び毒瓦斯投射機や火炎放射機などが大隊に配属され、近代歩兵は複雑化し大きく変化した。
④このような歩兵の火力装備は、陣地の構築に大きく変化をもたらし、攻撃体形も根本的に変化した。それが戦闘群戦法といわれ、一列の散兵による攻撃から、多数の分隊程度の小集団による、縦深のある散開で波状的に攻撃を反復して敵陣を奪取するものに変化した。縦型散開、横型散開、傘型散開など。


(上左絵「擲弾筒」)出典:「図解日本陸軍歩兵」画 中西立太、文 田中正人 2006年並木書房刊。
(上右絵「陸軍の歩兵火器」)出典:「太平洋戦争 日本帝国陸軍」編集制作 有限会社オフ 成美堂出版2000年刊。

●1940年陸軍は、歩兵、騎兵、砲兵、工兵、輜重兵、航空兵の6の兵科区分を廃止した。これは、明治12年(1879年)に制定された区分では、進歩した近代戦に対応できなくなったことが原因であった。しかし兵科の意味を知っておくことは必要であるので、「新陸軍読本」1940年刊より抜粋して、陸軍各兵科の任務を簡単に一覧にしてみる。
③兵科の任務
兵科 重点 説明
①歩兵 軍の主兵である。 いくら近代戦になろうと、歩兵は戦争の勝敗を決定づける最大のもので、軍の主兵といわれる。歩兵は白兵戦においてその威力を発揮し、果敢な突撃のあるところに常に勝利を伴うものである。指揮官の卓越した戦術戦略的能力と、兵士の必勝の信念に燃える攻撃精神は、今も世界一であるといえる。


●「完全装備の兵士」
この画はマウスホールで拡大・縮小・移動ができる。下画「完全装備の兵士」文=平山 晋。画=古藤祐介(出典:「太平洋戦争 日本帝国陸軍」編集制作 有限会社オフ 成美堂出版2000年刊。)
軍装

②戦車隊 現代戦場の花形。 今や戦車隊及びこれを中心とする装甲機械化部隊は、近代戦において最重要の兵種となり、従来の機動戦の概念を一変するに至った。
左写真1933年当時の「八九式軽戦車と九二式装甲自動車」その後八九式は改修され大型化していく。(写真出典:「満州事変国防献品記念録」1933年陸軍省発行)
③騎兵 近代化していく騎兵。 機械化部隊の出現によってその存在を危ぶまれたが、両者が混成し近代化することによって有効とされた。騎兵は状況に応じて下馬して徒歩戦を行うように変化した。
④砲兵 戦場を支配する砲兵。 砲兵は、勝敗を決する歩兵による白兵戦になるまで、戦場を支配する。砲兵の目標は、遠くは敵の兵站基地及び都市、近くは敵陣の機関銃、戦車人馬など、要塞であろうと飛行機であろうと全てを包含していて、砲兵の射撃できないものは無いほどである。そしてその増大する火力は、集中火力の運用によってその威力を発揮した。しかし弱点は重量の重さによる行動の制限を受けることで、防御力も弱く近接戦闘に弱かった。しかし軽快で威力のある軽榴弾砲の出現と重砲の機械化は機動力を増大させた。
●高射砲兵・・地上軍の空軍に対する唯一の攻撃部隊。


上写真「道なき道を進む砲兵隊」「陸軍の編成と部隊の種類」から(写真出典:「太平洋戦争 日本帝国陸軍」編集制作 有限会社オフ 成美堂出版2000年刊。)
⑤工兵 技術兵団たる工兵。 1879年頃の工兵は、塹壕(ざんごう)を掘り掩蓋部(えんがいぶ)の構築だけで、大工や左官や土方の労働者の集まりのように思われていた。しかし現代の工兵は技術兵団といわれ、電気鉄条網の構築、橋梁、隧道の破壊やこれらの復旧、また鉄道輸送を担任し鉄道建設、あるいは有線無線電信機を駆使し戦場通信も任ぜられ、ますます重要なるものとなっている。


上写真「友軍を渡す工兵部隊」「陸軍の編成と部隊の種類」から(写真出典:「太平洋戦争 日本帝国陸軍」編集制作 有限会社オフ 成美堂出版2000年刊。)
⑥糧道輜重兵(しちょうへい)
軍の死活を握るものといわれる。
●下は戦時の輜重隊の区分である。

1941年春、江西戦線

常に戦闘部隊に弾薬・糧食を運び補給する重要な任務であり、戦時は軍の動脈となって厖大な編制となる。
(左写真)「倒れて起き上がれない馬を励ます兵士。その向こうを戦列駄馬が通り過ぎていく。1941年春、江西戦線で。」(出典:「昭和2万日の記録5」講談社1989年刊)
行李(こうり)輜重 各戦闘部隊に配属され、小行李(直接戦闘に必要な弾薬を主とする)と大行李(食糧其の他の宿営用品を輸送し駄馬編制)とに分かれる。
師団(しだん)輜重 行李輜重は弾薬食糧が欠乏した場合、師団輜重から補給を受ける。(師団輜重と兵站輜重は戦略単位部隊以上の大部隊に属して輸送補給に任ずるもの)
兵站(へいたん)輜重 師団輜重が欠乏した場合、兵站輜重より補給を受けることを常とする。
「新陸軍読本」1940年刊の「輜重隊」のところには次のように書かれている。

・・・泥濘(でいねい)膝を没する湿地帯に人馬共に泥にまみられて前線の補給に任ずる輜重隊の活動や、また敵弾雨飛する中を、弾薬補給に任じ、自衛力も少なく、至る処に遊撃隊の出撃する長い兵站戦を、独力敵の妨害を廃除し、自己の犠牲をも顧みず前線へ前線へと急追する輜重隊の活躍は涙なしに見ることはできません。・・・

●「空軍」については「新陸軍読本」(1940年刊)に次のようにある。

近代戦における航空部隊の威力は絶大で、この空軍の整備充実のいかんが戦争の運命を左右するといえる。空軍は、戦場のみならず後方遠く敵本土基地に対しても爆撃を敢行するようになり、空軍にとっての戦線は、地球の上空全てがはてしない戦線となった。このため航空機にとっては日本海は既にクリーク(小川、小運河)にすぎず、「私たちは海に囲まれているから安全である」というような古い概念は捨て去らねばならない。日本全国いたるところが空爆に曝される危険が多分にある。・・

●現在(2017年)においてはさらに空軍は進化し、ミサイル・軍事衛星等によるスペースコマンド(宇宙軍団)レベルの時代となっている。日本の再軍備を肯定するわけではないが、日本人が70年以上も前に否定した安全神話を、現代においても非現実的に信じているとすれば、日本人の国防意識は幼稚なものと言わざるを得ない。最近のマスコミの論調を聞くと、北朝鮮の脅威は日本ではなくアメリカの問題であるらしい。自国の防衛は自国で行うのが当たり前のことである。何をアメリカに期待しているのだろう。他国のために自国の血を犠牲にする国があるはずがない。

空軍(戦争の運命を左右する)
項目 小項目 説明
軍用機の大別 偵察機 偵察機は空軍の眼となり、聴覚となって、遠距離を飛んで敵の上空に現れ、精巧な写真機で主要目的物の撮影や、地上軍事施設の所在を衝き止めこれを材料として爆撃効果を絶対高度に発揮させる。
戦闘機(空中戦の花形) 近代戦は先ず空中戦にはじまり、空を制するものが勝利をつかむといわれる。この制空権確保のための空中戦の主力となるものが戦闘機である。「スパーマリン・スピットファイヤー(イギリス)」、「メッサー・シュミットMe109(ドイツ)」、「カーチスP40(アメリカ)」など。
爆撃機 爆撃機は今や、戦線に束縛されることのない砲兵に替わろうとしている。爆撃機から投下される巨大な爆弾は戦線を超越して、巨大な砲弾に替わり、水平爆撃によりまた急降下爆撃によって、砲弾以上の威力を発揮し、一瞬にして築造物をまた人馬を粉砕してしまう。例「ボーイングB17(アメリカ)」
新しい爆弾。 「モトロフのパン籠」
複式焼夷弾(第2次ヨーロッパ大戦時)
この爆弾はソ連で考案されフィンランド戦線の、特に木造家屋の密集した所に使われて、脅威的な威力を発揮した爆弾。木造建築物の多い日本のような国にとっては恐るべきものである。
●発声爆弾(大音響発生)●時計爆弾(地雷爆弾、投下され地中に埋没しタイマーで爆発)
列国空軍の現況 空軍力算定 一国の空軍力は空軍兵力、航空機生産力、航空予算の3つによって空軍力算定の基礎となる。

(注)1939年9月第二次世界大戦勃発。1940年9月、日独伊三国同盟締結。アメリカ1941年3月武器貸与法成立(イギリスへの武器輸出開始)、1941年8月大西洋憲章でイギリスと共にファシズム国家との戦争を確認。アメリカ、1941年12月日本の真珠湾攻撃により参戦。
英国 (1939年4月には)第1線機1750機+予備機1750機=合計3500機を整備し、(1939年12月には)推定で4370機になると思われる。そして英独の戦争激化のため(1940年4月末までには)8000機になると考えられる。しかし生産能力は月産1000機を確保する努力をしているが、ドイツの連続爆撃による工場の被害によりこの数字を達成するのは困難であると思われる。
ドイツ (1939年7月には)第1線機4000機、予備機8000機を有し、(1940年4月までには)第1線機8000機+予備機6000機=合計14000機になると推定されている。生産能力も月産1200台以上といわれ、さらに増加するものといわれている。
米国 (1939年4月には)第1線機1800機を持ち、(1940年4月までには)第1線機を5563機にすると発表している。生産能力は(1938年には)月産500台であったものを、(1939年末には)月産1000台になるとおもわれる。そしてこの欧州大戦での英国の危機は米国を刺激しており、(1940年には)年産50000台を目標とし着々と準備を進めている。アメリカの発達した工業力は、この数字の実現を不可能とはしていない。
ソ連 現在(1939年)第1線機3500機、予備機2000機及び極東に1500機を持ち、合計7000機を持つ。そして(1940年には)10000機に到達すると思われる。
民間航空 空軍の母胎である。 各国のすべての空軍は、民間航空を母とし基礎として成長してきた。英国は世界各地に散在する植民地と自治領との交通を全て航空機によって行い、アフリカに、豪州(オーストラリア)に、シンガポールに、民間航空路の網の目を構成している。米国は米本土の航空網を蜘蛛の巣のように張り巡らし、夜間飛行の設備は完備し、空中の交通整理を行うほどの状態である。中南米を傘下に収め、極東の地域との連絡の「クリッパー」機は太平洋を越え、マニラ、香港と南太平洋を快翔している状況である。支那事変前までは、支那全土は全て英、米、独の民間航空機の傘下にあった。
●日本の民間航空事業は、大日本航空株式会社(資本金1億円)が政府補助の下に行っているが、まだまだ不十分である。支那全土、南方仏印、蘭印、フィリッピン、南太平洋の隅々にまで商業航空路を開拓しなければならない。
爆撃と防空戦 悲惨な都市爆撃 ロンドンはドイツ機の報復爆撃を受け危殆に瀕している。しかしこれは遠いヨーロッパの出来事ではない。日本もいつかかる危険にさらされるかもしれない。日本海はクリークであり、太平洋は敵航空母艦の侵入を許せば、日本全土は空爆に曝されてしまうのである。またわが帝国は地理的に欠陥を持っている。①軍事上また経済上の生命的機関が全て海岸に偏在して、海上からの空爆に対して容易に危険にさらされる。②4面を海に囲まれ細長い領土であるため、防空兵力を分散させねばならぬ不利がある。③建造物がほとんど木造で可燃性であるため、焼夷弾に対して絶対の弱点を持つ。④地形の特徴が目標を容易に発見させる。つまり日本海を渡って東京を目標にすれば、佐渡→信濃川→利根川を発見すれば簡単である。また太平洋からすれば、富士山を掴めば至極簡単に東京は標定できる。

●次に「新陸軍読本」1940年刊より抜粋して、陸軍全体の組織を一覧にしてみる。

④陸軍の組織(全体)
第1 陸軍の3長官
所謂(いわゆる)陸軍の3長官と称するのは、参謀総長 陸軍大臣及び 教育総鑑の3名であって、この機関を中央統轄機関と云います。
参謀総長 帝国陸軍の統帥に関する中央統轄機関は参謀本部であり、その長官は参謀総長であります。参謀本部條令には「参謀総長は天皇に直隸(ちょくれい=直接に隷属すること。直属。)して帷幕(いばく=陣営、本陣のこと。)の軍務に参画し国防及用兵に関する計画を掌り参謀本部を統括す」とありますやうに、戦時には現在の如く天皇の大纛下(だいとうか=天皇のいる陣営の意)に大本営が設けられ、参謀総長は海軍々令部長と共に幕僚長として、用兵作戦の重大責務を負うものであります。
陸軍大臣 陸軍々政の中央統轄機関が陸軍省であり、此の長官が陸軍大臣であります。陸軍大臣は国務大臣として内閣に列しますが、平時編制、動員計画、要塞兵備、軍人統督等の統帥及び編制事項に関する軍政事務は、自ら天皇に対して責に任ずるものであります。
教育総鑑 軍事教育の中央統轄機関は教育総監部であり、此の長を教育総監と云います。教育総監は天皇に直隷し、全軍隊の教育と学校教育とを掌るものであります。

第2 元帥府と軍事参議院
元帥府 元帥府は天皇の軍事上の最高顧問であり、軍事諮詢機関としての任務を果すものであって、之に列せられる陸海軍大將には特に元帥の称号を賜はるのであります。
軍事参議院 軍事参議院は帷幄(いあく=本陣。本営。)の下にあって重要軍務の諮詢(しじゅん=問いはかること。相談。)に応ずるものであります。軍事参議官は元帥、陸軍大臣、海軍大臣、参謀総長、海軍軍令部総長及び特に軍事参議官に親補(しんぽ=旧憲法のもとで、天皇がみずから官職を命じること。)せられた陸海軍将官を以て充て、其の高級先任者が軍事参議院議長となることになっています。

第3 陸軍官衙
陸軍に於て官衙(かんが=役所。官庁。)と称するものには次の樣なものがあります。
1、陸軍省

陸軍省は陸軍に関する軍政を掌る処で、陸軍大臣は現役の陸軍大・中将をもって親補せられ、内閣の閣員に列します。
 陸軍大臣は陸軍の軍政を管理し、陸軍の軍人や軍属を統督し、所轄の諸部を監督します。文官である政務官は、一般の行政に関しては陸軍大臣を補佐しますが、軍の機密や軍令に関する事項には触れない。
 陸軍省には大臣官房(機密に属する事項、文書の記録、共の他の庶務及び各局に属していない事項を掌る)以外に次の樣に8局がおかれてあります。

陸軍省(8局)
1、人事局 イ、(補任課)は陸軍の武官や文官の進退、任免、分限、補職、命課等、其の他一切人事にする事項を掌る所です。
ロ、(恩賞課)は、恩給、賜金、叙位叙勲、記章、褒章等に関する事や、休暇、結婚、軍事扶助に関する事項を掌る処です。
2、軍務局 (軍事課)・・国防の大綱、陸軍軍備軍政、建制、平時戦時の編制等に関する事項、陸軍予算の一般統制、演習検閲に関する事項、等を掌る所です。
(軍務課)・・国防政策一般、国際的規約、外国事務、国家総動員一般等に関する事項、満州国及支那の軍事に関する事項、国防思想の普及及び思想対策、軍に関係ある諸団体の指導統制に関する事項等を掌る所です。
3、兵務局 イ、(兵務課)は、各兵の本務に関する事項、軍紀、風紀、懲罰、儀式、礼式、服制等に関する事項、内務、兵要施設に関する事項等を掌る処です。 
ロ、(兵備課)は、兵役、補充、動員、召集、徴発等に関する事項、在郷軍人会に関する事項等を掌る処です。 
ハ、(防衛課)は、憲兵の本務、軍事警察、軍機の保護に関する事項、防諜、防空、戒厳、警備等に関する事項、衛戍(えいじゅ=軍隊が永く1つの土地に駐屯すること)勤務其の他要塞等に関する事項等を掌る所です。 
ニ、(馬政課)は、軍馬の供給、飼養、管理、検査、衛生、地方馬の調査、検査、徴発等に関する事項、獣医部の動務及教育に関する事項、軍犬其の他軍用動物に関する事項等を掌る処です。
4、整備局 イ、(戦備課)は軍需、物資等の動員一般に関する事項、労務及陸軍共済組合に関する事項等を掌る処です。
ロ、(工政課)は軍需品(燃料を除く)工業の指導及補助、製造の設備の計画統制等に、対する一切の業務を掌る処です。
ハ、(資源課)は、軍需品の原料及材料の調査、研究の統制、需給調査、規格統制等に関する事項を掌る処です。
ニ、(交通課)は、国防交通一般、運輸、通信、軍用鳩に関する事項、戦時交通の統制、海運資材、水路交通路等に関する事項等を掌る処です。
5、兵器局 イ、(銃砲課)は、兵器及び一般器材の制式、支給、交換、調達、整備、検査及び之に関する一切の経理事項或は兵器の調査研究及び審議や、技術将校以下の教育に関する事項等を掌る処です。
ロ、(機械課)は航空兵器及一般兵器以外の機械化器、化学兵器、自動車燃料等に関する事項を掌る処です。
6、経理局 イ、(主計課)は、経理部の動務教育、予算、決算、軍資運用の研究、動員予算、審議、或は金銭経理に関する事項を掌る処です。
ロ、(監査課)は、会計の監査、民間工業に対する経理及原価調査の監督等に関する事項を掌る処です。
ハ、(衣糧課)は、被服、糧秣、衣糧器具に関する事項、陸軍製絨廠に関する事項等を掌る処です。
ニ、(建築課)は、陸軍用地及建築に関する事項、国有財産に関する事項等を掌る処です。
7、医務局 イ、(衛生課)は、衛生部の動務教育に関する事項や、衡生一般に関する事項等を掌る処です。
口、(医事課)は、治病、療養、身体検査、其他病院及医務室に関する医事一切を掌る処です。
8、法務局 法務局には課の区分はなく、軍事司法に関する一切の事項を掌る処です。
2、参謀本部

参謀本都は、国防及び用兵の事を掌る処で、其の長官は参謀総長で、陸軍・中将をもって親補せられ、天皇に直隷して帷幄の軍務に参画し、陸軍大学校、陸軍測量部を管轄しています。
地測量部は、陸地測量を行い、兵用地図や一般国用に必要なる内国地図を製造したり修正したりします。又其の他に陸地測量官となるべき人の養成に當っています。

3、教育総監部

教育総監部は、陸軍軍隊教育(航空兵専門の教育は除く)の斉一(せいいつ=ととのいそろっていること。みな一様であること)進歩の為、所轄学校の教育を掌る所で、其の長官を教育総監といい、陸軍の大将又中将をもって親補せられ、天皇に直隷して数育総監部を統轄します。又所轄の諸学校及陸軍将校生徒の試験委員を監督します。
教育総監部には本部長の外に騎兵・砲兵、工兵、輜重兵の四つの兵監部が置かれてあって、本部長は教育総監を補佐して統監部一切の事務整理を行い、各兵監は各々其の兵科の教育上斉一進歩を図る責任をもっています。

4、航空総監部

航空総監部は、陸軍航空兵科軍隊の教育に関係する事項を司る所で、其の長官を航空総監といい、陸軍の大将又は中将をもって親補せられ、天皇に直隷して航空総監部を統轄します。又所轄の航空関係諸学校を統轄します。航空総監部には総務部と教育部とがあって、総務部は庶務会計事務を行い、教育部で航室兵科軍隊の一切の教育に関する事項の業務を行います。

5、軍司令部

陸軍では今回国土防衛特に防空の強化を図り、併せて外地兵備の基地として強力ならしめる為に、国内の兵備の体系を大改造して不敗の国防態勢を整へる事になり、昭和15年8月1日より新軍令が実施される事となりました。これによりますと昭和11年に創設され、空の国土防衛に多大の機能を発揮して来た東部・中部・西部の3防衛司令部は廃止されて、全本土に4つの軍管区司令部が創設される事になりました。
 軍司令官は陸軍の大将又は中将をもって親補せられ 天皇に直隷して部下陸軍諸部隊を統率して軍事に関係ある全ての事を統理します。
 軍司令部の中には参謀本部、副官部、兵器部・経理部、軍医部、獣医部、法務部の7部があって各担当の事務を掌っています。
 尚此の新軍令により新たに師団司令部の制度も改革され、今まで 天皇に直隷していた師団司令部も各軍管区の軍司令部に隷属する事となりました。
 今新たに編成された4軍管区とこれに隷属する師管区を示してみますと次の通りです。

4軍管区と師管区
(1)東部軍管区
東部軍管区は従来の東部防衛司令部の管轄範囲内をもって軍管区とし軍司令部の所在地は東京市であります。
(イ)東京師管区(麻布連隊区、甲府連隊区、横浜連隊区、本郷連隊区、千葉連隊区を含む)、(口)宇都宮師管区(水戸聯隊区、宇都宮聯隊区、前橋聯隊区を含む)、(ハ)仙台師管区(仙台聯隊区、福島聯隊区、新潟聯隊区を含む)、(ニ)金澤師管区(金澤聯隊区、富山聯隊区、長野聯隊区を含む)
(2)中部軍管区
中部軍管区は従来の中部防衛司令部の管轄範囲内をもって軍管区とし軍司令部の所在地は大阪市であります。
(イ)名古屋師管区(名古屋聯隊区、岐阜聯隊区、豊橋聯隊区、静岡聯隊区を含む)、(ロ)京都師管区(京都聯隊区、福知山聯隊区、津聯隊区、大津聯隊区、敦賀聯隊区、福井聯隊区を含む)、(ハ)大阪師管区(大阪聯隊区、堺聯隊区、奈良聯隊区、和歌山聯隊区を含む)、(ニ)姫路師管区(神戸聯隊区、姫路聯隊区、鳥取聯隊区、岡山聯隊区を含む)
(3)西部軍管区
西部軍管区は従来の西部防衛司令部の管轄範囲内をもって軍管区とし軍司令部の所在地は旧防衛司令部所在地であった小倉市を廃止して福岡市に置く事になりました。
(イ)広島師管区(広島聯隊区、福山聯隊区、松江聯隊区、浜田聯隊区、山口聯隊区を含む)、(口)善通寺師管区(高松聯隊区、松山聯隊区、徳島聯隊区、高知聯隊区を含む)、(ハ)熊本師管区(熊木聯隊区、大分聯隊区、宮崎聯隊区、鹿児島聯隊区、沖縄聯隊区を含む)、(ニ)久留米師管区(小倉聯隊区、福岡聯隊区、佐賀聯隊区、長崎聯隊区を含む)
(4)北部軍管区(新設)
北部軍管区は北海道及東北の旧八師管区以北の地をもって新軍管区とし軍司令部の所在地は目下銓衡中であります。
(イ)旭川師管区(札幌聯隊区、函館聯隊区、釧路聯隊区、旭川聯隊区、豊京聯隊区を含む)、(ロ)弘前師管区(青森聯隊区、盛岡聯隊区、秋田聯隊区、山形聯隊区を含む)
6、軍司令官に隷属する官衙

師団司令部、聯隊区司令部、要塞司令部、陸軍病院、陸軍監獄、陸軍倉庫。
●師団司令部・・師団長は陸軍中将をもって親補せられ、軍司令官に隷属し部下陸軍諸部隊を統率し軍司令官の命令を承けて軍事に関係する諸件を統理します。師団司令部の中には参謀部、副官部、兵器部、経理部、軍医部、獣医部、法務部の7部があって各担当の事務を軍司令部の各部と連絡して処理します。
●聯隊区司令部・・聯隊区の管轄範囲は新軍令によって1府単位に改められ司令部の所在地も府県庁の所在地に置かれる事になりました。司令官は師団長に隷属し、聯隊区内に於ける徴兵及召集、在郷軍人の服役及召集在郷将校団及在郷軍人会に関する事務、並に青年学校、在郷軍人職業輔導部、国防婦人会等の事務をも掌ります。 朝鮮及台湾では各兵事区に陸軍兵事部を置き以上の様な仕事を掌っています。(略)

第4 陸軍省隷属官衙
陸軍航空本部(陸軍航空廠、陸軍航空工廠、陸軍航空技術研究所、陸軍飛行実験部)、陸軍技術本部、陸軍兵器本部、陸軍軍需審議会、陸軍築城部、陸軍運輸部、軍馬補充部、陸軍気象部、陸軍衛生材料廠、陸軍獣医資材廠、陸軍被服廠、陸軍製絨所、陸軍糧秣廠、陸軍燃料廠。
(下は一例)
 陸軍航空本部  陸軍航空本部は航空に関する事項の謌査研究、航空通信、兵要気象及民間航空に関する事項、航空兵の本務、典令範に関する事項、航空兵器及び其の燃料の制式、支給、交換、調達、整備、検査、払下げから、其の調査研究審議に関する事項、其の他航空に関する極めて広範囲にわたる一切の事項を掌ります。尚ほ航空本都長の隷下に陸軍航空廠、陸軍航空工廠、陸軍航空技術研究所、陸軍飛行実験部がある。
 陸軍兵器本部 陸軍兵器本部は従来の陸軍兵器廠及び陸軍造兵廠で行っていた仕事を統合して兵器本部長の隷下に收めたもので、陸軍兵器の考案及び設計、兵器其の他の軍需品の製造、修理、軍用火薬の製造、修理、兵器用金属材料の調査研究、兵器の貯蔵、兵器、兵器材料、自動車燃料の購買、検査修理、補給及び廃品の処分等を行う所です。(後略)

第5 陸軍の諸学校
●(参謀本部に属するもの)陸軍大学校。
●(教育総監部に属するもの)陸軍幼年学校、陸軍予科士官学校、陸軍士官学校、陸軍砲兵学校、陸軍教導学校、陸軍歩兵学校、陸軍騎兵学校、陸軍野砲兵学校、陸軍重砲兵学校、陸軍工兵学校、陸軍戸山学校、陸軍通信学校、陸軍自動車学校、陸軍習志野学校、陸軍戦車学校、陸軍防空学校、陸軍予備士官学校。
●(航空総監部に属するもの)東京陸軍航空学校、熊谷陸軍飛行学校、水戸陸軍飛行学校、陸軍航空整備学校、陸軍航空士官学校、下志津陸軍飛行学校、明野陸軍飛行学校、浜松陸軍飛行学校、陸軍航空技術学校。
●(陸軍大臣の管轄に属するもの)陸軍兵器学校、陸軍経理学校、陸軍軍医学校、陸軍獣医学校、陸軍憲兵学校。
(下は一例)
陸軍大学校 (参謀本部に属するもの) 陸軍大学校は将校に高等用兵に関する学術を修得して、軍事研究に必要な学識を増進せしめ、高等用兵に関する学術の研究を行う所で、学生の修業期間は大体3ヶ年です。
陸軍予科士官学校 (教育総監部に属するもの)陸軍予科士官学校は兵科の士官候補生となるべき生徒及び兵科(憲兵科及び兵科中航空関係を除く)将校となるべき学生を教育する所で、生従は陸軍幼年学校を卒業した者、又は陸軍将校となるべく志願し召募試験に合格した者をもって之に充てる。修業期間は2ヶ年。
学徒は陸軍兵科(憲兵科及び兵科中航空関係を除く)少尉候補生たる准尉、曹長をもって之に充てる。修業期間は1ヶ年。
陸軍士官学校 (教育総監部に属するもの) 陸軍士官学校は陸軍兵科(憲兵科及び兵科中航空関係を除く)の将校為すべき生徒を教育するで生徒は陸軍予科士官学校を卒業した士官候補生で所定の隊附勤務を修得した者をもって之に充てる。修業期間1年8ヶ月。
陸軍教導学校 (教育総監部に属するもの)陸軍教導学校は兵科の現役下士官と為すべき学生を教育する所で、昔の教導団制度の一部復活と見ることができます。修業期間は1か年。
陸軍野砲兵学校 (教育総監部に属するもの)陸軍野砲兵学校は兵科の将校及び下士官を学生とし、之に射撃、戦術、観測通信術並に馭法等を修得せしめ、之を各隊に普及し、且つ常に此等諸学術の調査研究を行い、野戦砲及高射砲兵の教育の進歩を図り、野戦砲兵及高射砲兵用兵器、情報用兵器、器具、材料等の研究試験を行う所です。
陸軍戦車学校 (教育総監部に属するもの)陸軍戦車学校は将校及び下士官を学生とし、之に戦車隊又は軽装甲車隊に必要なる諸学術を修得せしめ、之を各隊に普及し、之等種学校の調査及び研究を行い、以て戦車隊軽装甲車隊の教育の進歩を図り、且つ之等に必要なる兵器其の他の資材の研究及び試験並に機械化部隊に関する綜合研究を行う所です。
以上の外に各隊より派遣された下士官や兵に軽装甲車に関する教育を行い、且つ下士官候補者に戦車隊下士官に必要なる教育を行います。

●次に、(1)兵役制度、(2)徴兵検査、(3)徴集延期と入営延期、(4)幹部候補生、(5)召集・点呼、(6)現役士官の出身と現役下士官の出身、(7)進級、を「図解日本陸軍歩兵」「陸軍読本」「新陸軍読本」などから抜粋してみる。大前提は、日本には明治以来徴兵制度があったことである。大日本帝国憲法には次のようにある。

第20条日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有(ゆう)ス

すなわち、日本国民は誰でも兵隊にならねばならなかったことである。そして帝国陸軍の組織としてのヒエラルキー(上下階層関係に整序されたピラミッド型の秩序ないし組織)は、訓練と教育を受けた「正規将校(職業軍人)」が中枢であり上層階であった。従って徴集・召集された兵隊達は最下層(底辺)にいて消耗品となった。だから軍人といっても、将校と兵隊では、その体験・環境・意識など全く違っていた。そして平時でも、徴集・召集された兵隊達の兵役義務は、現役2年間だけの兵役期間ではなく、現役を退き予備役になってからも15年4ヶ月は召集などの義務を負った。そして戦時では、満期除隊となってもそのまま即日召集となり、戦地へ向かった。一例として、手記・著作などから、作者達の徴集・召集のシーンを抜粋しながら一覧にしてみる。

⑤兵役制度(徴兵制度)など
(1) 兵役(へいえき)
●兵役は、1927年徴兵令が全面改正され、下記の4つに区分された。
常備兵役(現役および予備役) ●現役とは、徴兵検査で甲種・第1乙種・第2乙種で合格した者のうち、陸軍が必要とした人数を入営させた者。現役の服務期間は2年で、専従者として軍隊に勤務する。
●予備役(よびえき)とは、満期除隊で現役を退いたり、または最初から予備役を志願した者で、ふだんは民間人の生活を送っているが、軍の必要に応じて軍に戻り、一定期間指定される職務につく義務を負っている。後備役廃止前の服務期間は5年4ヶ月。この軍に呼び戻すことを「召集」という。
後備役(こうびえき) 後備役は10年とされていたが、後備役廃止後(1941年)は、予備役が15年4ヶ月とされた。
補充兵役(第1および第2補充兵役) ●第1補充兵役は、徴兵検査で現役に適するとされた者のうち、実際に入営を命じられなかった者のの中からさらに所要の人数を選び、12年4ヶ月間に120日以内の教育召集に応ずる義務を兵役者に課したもの。これは現役の欠員補充、戦時の消耗補填が目的であった。
●第2補充兵役は、現役に適する者のうち第1補充兵役に服さなかった者で、服務期間は第1と同様。
国民兵役(第1および第2国民兵役) ●第1国民兵役は、後備役を終了した者(37歳以上)および軍隊教育を受けた補充兵役満了者(32歳以上)が服するもので、満40歳までが年限。
●第2国民兵役は、年齢満17歳以上45歳までの者で、いっさいの軍隊教育を受けたことがない者が服する兵役。
「召集兵」佐藤鉄章 著 河出書房新社1989年刊

最初の「出征」のところを引用してみる。佐藤鉄章は1914年秋田市大館市生まれ、1944年3度目の召集をうけて、中国・芷江作戦に従軍した。(この作戦は、中国戦線において戦死傷による消耗が総兵力の50%に達し、最後のもっとも惨烈をきわめた作戦)

「出  征」
●1944年11月中旬
 14日朝7時50分、いつものごとく学校へ出勤。私が勤めている秋田県立花輪高等女学校は、私の借家から歩いて5分のところにあるので、勤務にはたいへん便利だ。
 朝、玄関を出たところで、駅から来る生徒たちと一緒になった。
 「おはようございます!」「おはようございます!」きびきびとした美しい声。声にとりまかれるように校門まで来たところで、ふいにひとりの4年生から言われた。
「先生、だいじょうぶ? なんか、大召集があったらしいって言ってたけど……」
「そうか。いずれにせよ、男子はみな戦場へ行くことになるだろう。きっと私にもくる……」
 私は彼女と校門のところでわかれた。彼女はおそらく通学列車のなかで聞いたにちがいないその噂をほんのちょっぴり披露におよんだだけなのだろうが、私には、その大召集という言葉が痛いように突きささった。

下

(2) 徴兵検査
●徴兵検査は、徴兵年齢(満20歳)に達した日本男子の兵役に関する処分を決定するための検査で、体格検査の結果、その体格の良否により次の5種に区分される。
甲種(こうしゅ)
合格
身長1.52メートル以上の身体強健なる者。現役(補充兵)に徴集し得べき者。この内、その体格の優劣に従い徴集予定者及び徴集順序を定め、各徴集区分の配賦人員に応じ現役兵、第1補充兵の順序に徴集し、それ以外の者は第2補充兵に徴集する。
乙種(おつしゅ)
合格
身長1.50メートル以上の身体甲種につぐ者。此の間その体格が比較的良好なる者を、第1乙種、第2乙種、第3乙種とする。現役(補充兵)に徴集し得べき者。この内、その体格の優劣に従い徴集予定者及び徴集順序を定め、各徴集区分の配賦人員に応じ現役兵、第1補充兵の順序に徴集し、それ以外の者は第2補充兵に徴集する。
丙種(へいしゅ)
合格
身長1.50メートル以上であって、身体乙種につぐ者及び身長1.50メートル未満の者で、1.45メートル以上あって丁種又は戊種に該当せざる者。徴集を免除し第2国民兵役に入る者とする。
丁種(ていしゅ)
不合格・兵役免除
身長1.45メートルに満たない者、戊種及び疾病や身体又は精神に異常あるため服役に堪えない者。
戊種(ぼしゅ)
翌年更に検査を受ける者
疾病其他体格の関係上、次の年に於て徴集し得べき見込みある者。


左写真「徴兵検査 1940年4月 朝日新聞社 大阪・東成」
右写真「銀座の泰明小学校で行われた出征兵士の壮行会 1937年11月 土門拳 東京・銀座」
2枚とも(出典)「目撃者」朝日新聞社1999年刊

(3) 徴集延期と入営延期
●中等学校以上の学校に在学する者は本人の願いにより、それぞれ徴集を延期された。また徴兵検査で戊種と判定された者は毎年徴兵検査を受けることや、刑法の適用を受ける者や、現役兵として徴集されたが家族が生活できない時などは徴集を延期された。
●しかし1943年10月1日、理工系と教員養成系を除く文科系の高等教育諸学校の20歳以上の在学生の徴兵延期を撤廃した。学徒出陣である。そして1943年10月と11月に徴兵検査を実施し12月に入隊させることとした。(これに先立つ1941年からは修業年限が短縮されて卒業が繰り上がっていった。)
中学校・実業学校
年齢21年まで。
(中学校)旧学制下の男子の中等教育機関。小学校6年卒業以上の学力ある男子を収容し、修業年限は5年で義務教育ではなかった。現在の高等学校と同じく高等普通教育を授けることを目的としていた。中学。
(実業学校)旧制中等学校の一つ。実業に従事する者に必要な教育を施すのを目的とした学校。工業学校、農業学校、商業学校、商船学校、実業補習学校の5種類があった。〔実業学校令(明治32年)(1899)〕
師範学校・大学予科
年齢23年まで。(4月1日より1月1日までの間に出生したる者)
(師範学校)教員養成専門の学校。明治5年(1872)東京に設置され、翌年から各府県に官立・公立のものが置かれた。同19年の師範学校令で高等、尋常の二種となり、同30年の師範教育令で女子高等師範が独立するとともに、中等学校教員を養成するための高等師範学校と区別して、小学校教員養成のための尋常師範学校を単に師範学校と称することとした。第二次大戦後、昭和22年(1947)の学校教育法により廃止、各都道府県に置かれた国立大学の教員養成を目的とする学部がこれにかわった。師範。
(大学予科)高等教育機関で、教育内容は現在の大学教養課程に相当した。特定の旧制大学に附属し、専門教育を行う大学本科、すなわち学部に進学する前段階としての予備教育を行う機関。
高等学校専攻科・専門学校
年齢24年まで。(4月1日より1月1日までの間に出生したる者)
(高等学校専攻科)学校の本科課程の上位に付設し、さらに高度の学術・技芸を専攻させる課程
(専門学校)旧制で、専門学校令に基づき、専門的な学問、技術を教育した学校。旧制中等学校の卒業後に専門教育を受けさせた学校。
大学学部(除医学部) 年齢25年まで。(4月1日より1月1日までの間に出生したる者)
大学医学部 年齢26年まで。(4月1日より1月1日までの間に出生したる者)

(4) 幹部候補生
●幹部候補生は、配属将校を附した学校の卒業生で、予後備役の士官又は下士官たる希望を有する者から採用され、採用後3ヶ月即ち入営後6ヶ月を経過した後、その成績により次のように区分され、その在営期は2ヶ年に延長された。そして最近採用範囲を拡大し、補充兵でも短期現役兵でも資格あるものはことごとく志願できることとなった。(幹部候補生志願者は徴兵検査場で願書を差し出す。)
甲種幹部候補生
(予備役士官となる者)
甲種幹部候補生のために陸軍予備士官学校を創設し、入隊若干月後同校またはこれに準ずる教育機関において概ね1年間特別教育を施し、これらの学校を卒業後は現役見習士官として修業期間の終わりまで在隊させ、立派な予備少尉に任官できる資格を備えさせた。
乙種幹部候補生
(予備役下士官となる者)
乙種幹部候補生のためには、つとめて集合教育を施し、第2年次においては伍長に、入営後概ね1年半で半数は軍曹の階級に進め、成績特に優秀なる者には、退営の際将校勤務適任証書を付与することとなった。
「一下級将校の見た帝国陸軍」山本七平 著 文芸春秋社2012年第20刷 刊

最初の「大に事(つか)える主義」の章より、徴兵検査のところを抜き出してみる。この時(1942年6月)山本七平は、”御用聞き”氏に言われて「幹部候補生」を志願した。1942年から大学も修業年限は6ヶ月間に短縮したとあるので、山本七平も1942年9月卒業、10月入隊かと思われる。「一下級将校の見た帝国陸軍」によれば、東部十二部隊(正式名称・近衛野砲兵聯隊)に入営し、一期の検閲・幹部候補生試験で「甲種幹部候補生」に思いもよらず合格した、と書かれている。そして部隊内で幹部教育を受け、1943年2月に豊橋第一陸軍予備士官学校砲兵生徒隊十榴(105ミリ榴弾砲)中隊へ入校した(1943年12月卒業予定を2か月繰り上げ卒業)。そして原隊復帰して見習士官、そして1944年5月門司からフィリピンへ本部要員として向かった、とある。少尉任官は後日であろう。本文で「おい、そこのアーメン、ボサーッとつっ立っとらんで、手続をせんか━ッ」とあるのは、山本七平がクリスチャン一家であったためであろうか)

(前略)
宿命的にものごとを受けとると、人は、死に対すると同様、それを見まい考えまいとする。
もちろん私も例外者ではない。そのためか昭和十七年の四月、最終学年を迎えたときの私、きわめて平凡な当時の一青年である私の気持は、ただ、漠然とした危惧が何となく近よってきたという感じだった。そして心のどこかに「まだ一年ある、その間に何とかなるかもしれぬ」という気持もあった。
 今から考えれば滑稽かも知れぬ。しかし、開戦から四ヵ月、真珠湾大戦果の軍艦マーチにはじまり、マニラ占領、シンガポール占領、ジャワ占領とオランダ軍降伏、ラングーン占領、二ユーギニア上陸とつづき、「緒戦の大勝利に酔うな」といった警告が新聞に出るほどの”うちょうてん”のはしゃぎぶり状態では、到底それが、大日本帝国の断末魔の小康状態とは思えず、何となくすべてが好転しはじめたような錯覚を抱いても、不思議ではない。そしてそれが逆に、兵役も戦場も、漠とした遠い未来の宿命のように思わせていた。

下

●この幹部候補生について、山本七平は次章で次のように書いてある。
「・・・その原因は戦場で最も多く消耗するのは下級将校、特に小隊長クラスだということである。・・これへの有効な補充は、士官学校の卒業生を待っていては追いつかないし、また、将来の軍の幹部として養成したものが中・少尉で消耗しては、中堅幹部がなくなってしまう、という配慮もあったであろう。・・」とある。

(5) 召集・点呼
●召集とは戦時または事変に際し、また平時において所要に応じ、在郷の兵(現役帰休兵、予備役・後備役兵、国民兵)を、軍隊で勤務させる目的で呼び寄せることをいい、次の6種があった。
充員召集 動員に際し諸部隊の人員を規定の人数に充たすために在郷軍人を召集するをいう。(これは勅令である動員令を必要とした。平時編制と戦時編制のあいだを埋める欠員を補充する)
臨時召集 戦時又は事変に際し、臨時に在郷軍人を召集することで、平時でも警備その他の必要により帰休兵や予備兵を召集することがある。(この臨時招集と上記充員召集が、その令状の色から「赤紙」と呼ばれた。この臨時召集は、充員召集に比べて手続きが簡便なため乱発された)
国民兵召集 戦時又は事変のとき、国民兵を召集するをいう。
演習召集 勤務演習の為平時在郷軍人を召集するをいう。充員召集の演習の目的のため、充員召集の手続に準じて実施する演習召集を特に臨時演習召集という。
教育召集 教育のため補充兵を召集するをいう。
帰休兵召集 在営兵の欠員、その他必要あるとき、臨時に帰休兵を召集するをいう。
簡閲点呼 簡閲点呼は予備役後備役の下士官・兵・及び第一補充兵を一定の場所に集めて之を検査し之を教導するのが目的である。要は国家有事の際其の覚悟と用意が十分出来ているか否かを点検するのである。その他参集の状態・心身の健否・軍事能力の保持・軍事の思想普及の程度・服役に於ける義務履行の確否等を検査し、勅諭勅語の御趣旨を奉じ軍人の本文を全うするよう指導教育するのである。

(6) 現役士官の出身と現役下士官の出身
●現役士官(正規将校)は下記の3系統より充当されたが、その中心は「陸軍士官学校卒業者」である。陸軍士官学校は、1887年その制度の変更により、陸士旧制〇期(士官生徒〇期)という11期続いた士官生徒制度から、士官候補生制度へと変わった。この制度は1期1890年7月卒から、1945年8月第59・60・61期生(敗戦時修業中)まで続いた。
①陸軍士官学校卒業者
陸軍士官学校

陸軍士官学校に入るためには予科陸軍士官学校に入学しなければならない。予科陸軍士官学校に入学出来るのは 
イ、陸軍幼年学校卒業者
ロ、現役下士官、兵及幹部候補生中の志願者
ハ、一般の志願者
(ロ、ハの志願者については先づ厳密なる身体検査を行い、之に合格した者に対し中学四年第二学期修業程度の学術試験を課しその成績優良者中から採用入学を命ずるのである。)

予科陸軍士官学校

 予科陸軍士官学校で二年間教育を受け卒業すると、兵科士官候補生(兵科撤廃により一率に兵科と云うが之は従来の歩・騎・砲・エ・航・輜重の各兵科を含む)を命ぜられ各専門の聯隊に入隊し、ここで六ヶ月間の聯隊附実地練習を経たのち、続いて次に本科である陸軍士官学校に進み (航空関係に進むものは航空士官学校へ入学し二年四ヶ月の教育を受ける)一年十ヶ月間の教育を受け、卒業後原所属隊に帰って見習士官を命ぜられ、約二ヶ月間士官の実務を修得してのち、少尉に任官されるのである。
 以上の予科陸軍士官学校並に陸軍士官学校の在学期間は、今次の支那事変で各若干宛短縮されている。

②少尉候補出身者 少尉候補生出身というのは、
イ、従来の歩・騎・砲・エ・輜重の各兵科即ち兵科の准尉・曹長より選抜されて、予科陸軍士官学校に入学卒業したる者。
口、航空兵科の准尉・曹長・軍曹より選抜されて、陸軍航空士官学校に入学卒業した者。
ハ、砲工兵技術准士官・下士官で選抜されて陸軍兵器学校に入学卒業した者。
ニ、憲兵科准尉・曹長より選抜され、陸軍憲兵学校に入学卒業した者。 
以上いづれも卒業後各々兵科の少尉に任ぜられるものである。(修業年限はいづれも一箇年宛)
技術部将校 技術部将校は理・エ学士及び農芸化学を修めたる者並に理工学専門学校の出身者から採用し、二ヶ月見習士官として士官の勤務を修得し、のち各々その専門に応じ兵技及び航技の中尉少尉に任用される。又新に技術部の依託学生及び依託生徒を採用する事となった。
 従来の航空技術関係の文官(技師・技手)となる陸軍依託生はそのまま存置されるばかりでなくその範囲が陸軍技術一般に拡張されて最近の改正中に移された。この依託学生、依託生徒の採用条件は年齢廿七(27)歳未満で身体検査に合格したものの中で銓衡試験が行はれる。
(イ)技術部依託学生・・大学令による大学の工学部若くは理学部の学生または農学部において農芸化学を修めたる学生。
(ロ)技術部依託生徒・・主として工業に関する学科を教授する専門学校(研究科、選科等の別科を除く)の生徒。
③特別志願士官 特別志願士官といふのは、満洲事変後新に設けられた制度で、昭和八年以来従来の各兵科の予備役士官から採用されている。各部現役士官の出身は下の如くである。
(一)経理部
イ、経理部士官候補生で陸軍経理学校を卒業した者。
 その入学試験や経路は、陸軍士官学校の予科本科生徒と概ね同一である。
ロ、現役兵科(憲兵隊を除く)の士官で、経理部士官を志願し選抜されて陸軍経理学校を卒業した者。
ハ、少尉候補者と同様の制度で兵科の准尉・曹長・及び経理部准尉・曹長で経理士官を志願し選抜されて陸軍経理学校を卒業した者。
ニ、法学・経済学及び商業の学士と称し得るもの、及び陸軍経理部依託学生となり、学士と称し得る者は、共に見習主計として二ヶ月間実務の後主計中尉に任用される。
(二) 衛生部
イ、大学及専門学校の学生生徒で、陸軍衛生部の依託学生生徒となり、その学校の課程を卒業した者、及び衛生幹部候補生、医師又は薬剤師たる者のうちから銓衡の上軍医中少尉並に薬剤中少尉に任用される。
ロ、現役の衛生准尉、曹長から選抜され、陸軍軍医学校を卒業したる者は、衛生少尉に任用される。これは元は看護官と称したものである。
ハ、軍医候補生は、医師免許証所有者の中から志願により採用される。
(三)獣医部
イ、陸軍獣医部依託学生生徒、獣医部幹部候補生及び獣医のうちから銓衡の上之を任用する。
ロ、獣医准尉及曹長で、獣医免許証を持っている者を、陸軍獣医学校で特別に教育して任用する。
 以上各部士官にも、特別志願士官採用の制度が行はれている。
●現役下士官の出身
 憲兵下士官は、憲兵科上等兵のうち、憲兵下士官を志願し、概ね二年憲兵の職務に服し、品行方生志操確実なる者から選抜して任用される。其の他各兵科下士官・予後備役憲兵上等兵・予後備役各兵科軍曹・伍長からも任用される。
兵科(兵技及び航技下士官を除く)の下士官は、徴兵又は志願により入隊し、概ね三月以上在営した者のうち、志願により下士官候補として之を採用し、下の如き学校又は課程を修めた者から任用される。
1 陸軍教導学校を卒業した者。
2 陸軍諸校に設けられている下士官候補者隊の課程を修了した者。
3其の他、陸軍大臣の定むる所により、所属隊に於て下士官となるに必要な課程を修了した者。
 以上の外、兵科の下士官適任証書を有つ上等兵で、退営後二年以内に現役下士官を志願する者及予備軍曹・伍長で、現役満期後二年以内に現役を志願した者からも任用される。
兵技及び航技下士官は、陸軍兵器学校生徒及び陸軍航空整備学校の課程を卒業した者を任用する。
 各部下士官のうち、経理部下士官は其の候補者から、縫・裝工下士官はその候補者から、衛生部下士官は、衛生・療工下士官候補者から、獣医部下士官は其の候補者から、軍樂部の下士官は軍楽上等兵から、いづれも志願により之を任用する。

(7) 進級(現役将校、現役下士官、現役兵)
●現役将校は、尉官の階級に於て三年以上隊附勤務に服しない者でなければ大尉から少佐に進級させられない。又佐官の階級に於て二年以上隊附に服した者でなければ大佐から少将に進級させられないのを例とする。
 中将より大将に進級させるには、歴戦者又は、枢要なる軍務の経歴を有するものにして、功績特に顕著なる者の中より、特旨をもって親任されることになっている。
現役将校の進級 現役将校の各官の進級に必要たる実施停年は下の如くである。
(注)停年とは、軍人がある階級で勤務した年数。
中将から大将に進むには            四  年
少将(各部少将を含む)から中将に進むには   三  年
大佐(同    上)から少将に進むには    二  年
中佐(同    上)から大佐に進むには    二  年
少佐(同    上)から中佐に進むには    二  年
大尉(同    上)から少佐に進むには    四  年
中尉(同    上)から大尉に進むには    二  年
少尉(同    上)から中尉に進むには    一  年
休職又は停職の期間は実役停年に算入しない。
現役下士官の進級 現役下士官の各官に進級に必要なる実役停年は下の如くである。
曹長(各部曹長を含む)から准士官に進むには  二年 
軍曹 (各部軍曹を含む)から曹長(各部曹長)に進むには  一 年
伍長(各部伍長を含む)から軍曹(各部軍曹)に進むには 六ヶ月
戦時又は事変に際しての進級は前記の実役停年を半減することが出来る。 
現役兵の進級 現役二等兵で、入営後概ね六ヶ月を経て成績優秀なる者は、一等兵に進級せしめられる。中隊長は前記該当者を選抜し、順序を経て聯隊長の認可を受け、之に一等兵を命ずるのである。
 現役一等兵で、入営概ね一年を経て成績優秀なる者は同様の手続きを経て上等兵に進級せしめられる。 
現役上等兵で六ヶ月以上、上等兵勤務に属し、成績優秀なるものは兵長(従来に伍長勤務上等兵の事)となる。
 此の場合中隊長は前記該当者の候補者名簿を調整し、順序を経て聯隊長に上申すれば、聯隊長は中隊に欠員ある毎に之に兵長(従来の伍長勤務上等兵の事)を命ずるのである。
 陸軍下士官適任証書を付与さるべき上等兵または一等兵はこの証書の付与と共に兵長に進級せしめられる。
 現役上等兵又は一・二等兵在営中抜群の功績があって、其の行為軍人の亀鑑として、師団長又は之と同等以上の権能ある長官之を一般に布達した者、及公務に因る傷痍疾病のため危篤に陥った者に対しては.前記の規定及定員にかかはらず其の際特に一等兵を兵長に、二等兵を上等兵に進級せしめることが出来る。
 現役一等兵成績優秀なる者は、退営の際特に之を進級せしむることが出来る。 戦時又は事変に際し編成したる部隊の一・二等兵で、下の各号に該当する者は、特に之を上等兵に進級せしむることが出来る。
 一、殊勲を奏したる者
 二、勲功顕著なる者で、傷痍疾病の為危篤に陥った者
 戦時又は事変に際し、編成したる部隊の一・二等兵の進級年限は、之を半減することが出来る。

「新陸軍読本」武田謙二著 高山書院 昭和15年(1940年)刊
国立国会図書館デジタルコレクション
「陸軍読本」大久保弘一 著 日本評論社 昭和13年(1938年)刊
国立国会図書館デジタルコレクション

★「アジア・太平洋戦争」の軍人・軍属の死亡者・不明者。
●ここでは、「アジア・太平洋戦争」の死亡者等を、「戦後70年:数字は証言する データで見る太平洋戦争」毎日新聞社、厚生労働省「戦没者慰霊事業の実施」海外戦没者遺骨収容状況概見図、「別冊歴史読本第68(266)号太平洋戦争総決算」新人物往来社1994年刊などより一覧を作成してみた。
●毎日新聞社の「戦後70年:数字は証言する データで見る太平洋戦争」の数値をまとめると次のようになる。

①戦没者合計の表
区分 明細
軍人・軍属 230万人 国外210万人、国内20万人
民間人 80万人 海外30万人、国内50万人
戦没者 合計 310万人

とある。

毎日新聞社の「戦後70年:数字は証言する データで見る太平洋戦争」
毎日新聞社

そして(第1回230万人はどのように戦死したか? – 毎日新聞)のなかでは次のようにある。

日中戦争から太平洋戦争で亡くなった軍人・軍属の数について、日本政府は230万人(1937~45年)という数字を公式に採用してきた。だが、彼らがどこで、どのように亡くなったかについては不明確な点が多く、「6割が餓死した」との学説もある。・・・「厚生省(現厚生労働省)援護局は1964年に国会からの要求を受け、「地域別兵員及び死没者概数表」を発表。日中戦争が始まる37年から太平洋戦争が終わる45年までの軍人や軍属の戦没者(当時の発表では総数が212万1000人)について、地域ごとに内訳を示した。」

とあり、地域ごとの数字をあげている。
●そして、厚生労働省「戦没者慰霊事業の実施」によれば平成29年(2017年)6月末現在「海外戦没者遺骨の収容状況」はつぎのようである。

②海外戦没者遺骨収容状況概見図
区分 備考
海外戦没者 概数 240万人 平成29年(2017年)6月末現在
収容遺骨 概数 127.4万人
未収容遺骨 概数 112.6万人 ●海没、約30万柱●収容困難(相手国の事情)約23万柱●収容可能(最大)約60万柱

とあり地域別に戦没者の一覧を載せている。

厚生労働省「戦没者慰霊事業の実施」「海外戦没者遺骨の収容状況」
厚生労働省

●上記①の戦没者の合計の表と、②の「海外戦没者概数約240万人」の関係を一覧にすると下記のようになる。すなわち厚生労働省の「海外戦没者概数約240万人」は、民間人と軍人軍属の戦没者が含まれており、日本内地の戦没者が含まれていない。そして戦没者合計310万人から240万人を引くと、70万人が日本内地の戦没者(軍人・軍属、民間人)であるということである。この内訳が現在の公式数値とおもわれる。

③海外・内地区分戦没者合計表
区分 軍人・軍属 民間人 合計
海外 210万人 30万人 240万人
内地 20万人 50万人 70万人
合計 230万人 80万人 310万人

●海外の民間人の戦没者の大きな割合を占めたのが、「満州」と「沖縄戦」であり、軍が民間人を見捨てたり、軍が民間人を戦闘に巻き込み犠牲にしたといわれる。
●内地の民間人の戦没者の大きな原因は、「全国の空襲」によるもので、特に「東京大空襲」「広島・長崎の原爆被害」が特筆される。

●次に、過去に国が行った戦争被害調査について、書いておく。1947年社会党の片山内閣が成立し、1949年4月に「太平洋戦争による我国の被害総合報告書」が公表された。これは経済安定本部総裁官房企画部調査課編によるもので、戦没者、陸軍軍人1,435,676人、海軍軍人429,034人、とあるものがこの出典である。(例)講談社「昭和2万日の全記録」7巻1989年刊「総括・太平洋戦争」。

経済安定本部総裁官房企画部調査課編「太平洋戦争による我国の被害総合報告書」
国立公文書館デジタルアーカイブ

●そして厚生省援護局は、1964年に「大東亜戦争における地域別兵員及び死没者概数表」を作成し、軍人や軍属の戦没者総数を212万1000人とし、地域別に内訳を発表した。これが現在に至るまでの基礎データとなっているようである。
下に「別冊歴史読本第68(266)号太平洋戦争総決算」新人物往来社1994年刊よりぬきだしてみた。マウスホイールで拡大して確認してください。

地域別兵員及び死没者概数表



●ここで厚生省援護局が1964年作成した「大東亜戦争における地域別兵員及び死没者概数表=戦没者総数を212万1000人」と2017年度版厚生労働省の「海外戦没者遺骨の収容状況」を、地域別に対比させ、下表を作成してみた。そして「海外戦没者遺骨の収容状況」の日本本土欄に、70万人の数値を追加した場合の合計も記入した。この内訳は軍人軍属20万人+民間人50万人であるらしい。

④地域別、1964年と2017年対比表
1964年「地域別兵員及び死没者概数表」
(軍人・軍属のみ)
2017年度「海外戦没者遺骨の収容状況」
(軍人・軍属と民間人)
増減
地域 死没者数 地域 死没者数
日本本土(含周辺) 103,900 日本本土(含周辺) (70万) -103,900
小笠原諸島 15,200 -15,200
沖縄諸島計 89,400 沖縄 188,100 98,700
①台湾 39,100 ①台湾 41,900 2,800
②朝鮮(南部) 15,900 ②韓国 18,900 3,000
③朝鮮(北部) 10,600 ③北朝鮮 34,600 24,000
(①+②+③)小計 65,600 (①+②+③)台湾・韓国・北朝鮮計 95,400 29,800
樺太・千島(含アリューシャン) 11,400 アリューシャン 24,400 13,000
満州 46,700 中国東北地方 245,400 198,700
中国本土(含香港) 455,700 中国本土 465,700 10,000
シベリア 52,700 旧ソ連邦 54,400 1,700
④硫黄島 21,900
中部太平洋諸島 247,200 ⑤中部太平洋諸島 247000
中部太平洋諸島 247,200 (④+⑤)中部太平洋諸島(硫黄島含)計 268,900 21,700
フィリピン 498,600 フィリピン 518,000 19,400
仏領印度支那 12,400 ベトナム・ラオス・カンボジア 12,400 0
タイ・マライ・シンガポール 18,400 タイ・マレーシア・シンガポール 21,000 2,600
⑥ビルマ(含印度) 164,500 ミャンマー・インド 167,000
⑦アンダマン・ニコバル 2,400 (インドに含)
(⑥+⑦)小計 166,900 ミャンマー・インド計 167,000 100
⑧スマトラ 3,200 ⑧インドネシア 31,400
⑨ジャワ 6,500 ⑨北ボルネオ 12,000
⑩小スンダ 53,000 ⑩西イリアン(西部ニューギニア) 53,000
⑪ボルネオ 18,000
⑫セレベス 5,500
⑬モルッカ 4,400
(⑧+⑨+・・+⑬)小計 90,600 (⑧+⑨+⑩)小計 96,400 5,800
ニューギニア 127,600 東部ニューギニア 127,600 0
⑭ビスマルク諸島 30,500 ビスマーク・ソロモン諸島 118,700
⑮ソロモン諸島 88,200
(⑭+⑮)小計 118,700 ビスマーク・ソロモン諸島 118,700 0
陸軍・海軍合計 2,121,000 海外戦没者合計 2,403,400 282,400
日本本土に70万人を加えた場合の合計数値 +70万=
3,103,400
+70万=
982,400

★NHK[証言記録 兵士たちの戦争]とアメリカ映画・TVドラマに描かれた日本軍。

●ここでは、NHKの「戦争証言アーカイブ」や、アメリカのTVドラマや映画から、「硫黄島」の戦いのシーンを紹介してみる。戦意高揚映画でもなく、英雄伝説でもない。両軍の兵士達の個人の体験である。著名なアメリカの監督の作品は、必ず個人が主役であり、個人にこそ尊厳がある。日本では過去の戦争批判・軍部批判は当然のことかもしれない。しかしだからといって、この戦争で死んでいった兵隊たち(国民)を無視したり批判したりするのはおかしなことである。靖国神社に英霊として祀られるとかではなく、鎮魂でもなく、個々人に敬意と名誉を与えることができる社会が必要だと思うだけである。

作品名 簡単な内容と動画
NHK戦争証言アーカイブ[証言記録 兵士たちの戦争]

最初にNHKのサイトから「硫黄島 地下壕に倒れた精鋭部隊」を見てみたい。この番組は、再生が自動で始まるので、一時停止を押して調整してください。音声調整や全画面表示もできます。そのまま再生すると、全チャプター(シーン)再生(43分)になるので、チャプターを選択して再生できます。
『激戦地に赴いた陸軍歩兵第百四十五連隊。現役兵を中心に、鹿児島で編成された精鋭部隊でした。最後の戦いの場となった硫黄島では、太平洋戦争終盤、アメリカ軍6万人、日本軍2万1千人がこの島で激突しました。』・・

NHK戦争証言アーカイブより「硫黄島 地下壕に倒れた精鋭部隊」

「ザ・パシフィック」第8章「硫黄島」
「ザ・パシフィック」(The Pacific)は、実話を基に太平洋戦争における米海兵隊員達と日本軍の死闘を描いた2010年のアメリカ、テレビドラマシリーズである。製作総指揮はスティーヴン・スピルバーグ、トム・ハンクス、ゲイリー・ゴーツマン。ここでは最初にアメリカ軍から見た「硫黄島」の戦いの解説と、硫黄島上陸作戦前に結婚し、名誉勲章受章者である海兵隊員ジョン・バジロン一等軍曹が、激戦の中戦死していくシーンである。

( flash動画41.5MB)(音量ボタンを小にしてから、再生して下さい。)星野。


(注意点)「2017年4月以降Windows10 Creators Update の後、ブラウザ「Microsoft Edge」でAdobe Flash Player がブロックされるようになりました。エラー表示のときは、下のflashアイコンを押してください、すると上部に許可を求めるメーセージがでますので選択してください。ページはリセットされます。Edgeには既にAdobe Flash Playerが内蔵していますので、ダウンロードされるわけではありません。Adobe Flash PlayerやWindows10 のサイトが開いた時は閉じてください」

「硫黄島からの手紙」
「硫黄島からの手紙」は2006年のアメリカ戦争映画で、監督クリント・イーストウッドである。栗林中将が防衛体制の見直しを行い、強力な地下陣地構築を行っていく。そしてこの映画では、日本兵役で、嵐の二宮和也らが出演しており、上官に自決を強制される日本兵と、生きて帰ると誓った普通の青年の心の葛藤を熱演している。それらのシーンを紹介する。

( flash動画40.8MB)(音量ボタンを小にしてから、再生して下さい。)星野。

★春風亭柳昇「落語与太郎戦記」。各著者による輸送船のシーン。戦没者で海没が約30万柱とあるのがわかるようである。

輸送船、海難、海没
作者名、作品名 簡単な内容と抜粋、引用
春風亭柳昇「落語与太郎戦記」

春風亭柳昇1920年生まれ、1940年7月 徴兵検査で甲種合格。1944年船舶警護分隊長として輸送船「暁雲丸」に乗船とウイキにはある。この時の経験を新作落語として演じて好評をはくした。30分ちかくある落語である、動画でもなく、文章でもないが臨場感あふれるものである。
(ボリュームスライダーを調整してから再生して下さい)
春風亭柳昇「落語与太郎戦記」

YouTube「Enshoh 100」より「落語与太郎戦記」
山本七平著「一下級将校の見た帝国陸軍」文芸春秋1987年第1刷、2012年第20刷

「地獄の輸送船生活」のところ。
山本七平は1921年生まれ。入営後、幹部候補生試験で「甲種幹部候補生」に思いもよらず合格した。そして1943年2月に豊橋第一陸軍予備士官学校砲兵生徒隊十榴(105ミリ榴弾砲)中隊へ入校し、1943年12月卒業予定を2か月繰り上げて卒業し、原隊復帰して見習士官となった。
そして1944年5月門司からフィリピンへ本部要員として向かった時の話しである。
(左地図、山本七平著「一下級将校の見た帝国陸軍」より。)


「地獄の輸送船生活」
それはいずれの時代でも同じかもしれぬ。渦中にいる者は不思議なほど、大局そのものはわからない。従って今なら「戦史」で一目瞭然のことを知らなくても不思議ではない。しかしそれは、前述のような微細な徴候から全貌の一部が判断できなかった、ということではない。
 昭和十九年六月━これもまた六月だったが━といえば、ガダルカナルの撤退からすでに一年四ヵ月、アッツ玉砕から一年、マキン・タラワ両島も半年前に全滅し、クェゼリン・ルオット両島の守備隊も、四ヵ月前の二月一日に全滅していた。とはいえ一方では大陸打通作戦が開始され、インパールへの”快進撃”がはじまり、その陥落占領は「時間の問題」といわれ、報道される全般の戦局は何となく一進一退という印象でも、大日本帝国の無条件降伏が一ヵ年余の後に迫っていようとは、だれも予想しないのが実情だった。そして”自転”する組織の中で、それが”生活”になっている”一歯車”には、この機構が永久機械の如くつづくように思われた。━ふっと「我に帰る」ことが時々あっても。

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小松真一著「虜人日記」筑摩書房1975年刊行、2004年第1刷刊

「海難」のところ。小松真一は1911年生まれ、1932年東京農業大学農芸化学科卒。科学者として大蔵省醸造試験場、農林省米穀利用研究所を経て、台湾でブタノール工場を創設。1944年比島(フィリピン)に「軍属」としてブタノール生産のため派遣される。小松氏は1943年7月その依頼(陸軍省整備局長から)を、台北の台湾軍兵器部今井大尉から要請された。

明糖と合併
 昭和十八年(1943年)九月一日、明糖に合併され全社員もそのまま明糖に引き継がれた。
 家族は内地へ引揚ぐべきか、生活の楽な台湾に置くべきか、色々迷ってみたが、目下の戦況では台湾危しと直感し、内台航路の危険をおかして内地に引揚げる事に決心し、明糖小塚常務に交渉、明糖川崎研究所勤務と一応発令してもらった。内地転勤というかたちで台東を九月七日に出発した。昭和十四年台東に着任以来酒精工場の建設に運営に精根を打ち込んできただけに、育てあげた工場員と別れるのは感無量のものがあった。

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水木しげる「水木しげる伝(上)戦前編」講談社2004年第1刷刊、2005年第4刷刊

「野戦ゆき=戦地へ行くこと」のシーン。「水木しげる伝(下)」の詳細年譜によれば、水木しげるは1922年生まれ、1942年徴兵検査で乙種合格(近眼のため)、1943年激戦地ニューブリテン島(ラバウル)へ送られる。この時輸送船はほとんどが沈没し、水木しげるの輸送船は奇跡的に到着できたと書かれている。そしてその後も無事に到着した輸送船はなく、水木らはラバウルに派遣された最後の兵隊団であったとある。(左からクリックして順にみてください。)

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