(歴史)20世紀前半・中国と日本(中国近代史・日中戦争)


(1959年第1回全国運動会・写真前列左から)周恩来総理・朱徳副主席・毛沢東国家主席・劉少奇国家副主席(出典)「丸善エンサイクロペディア大百科」丸善1995年刊

中国14億人の巨大国家の誕生である。(中国・近代史概略全12節 )
中国の近代史をみると、まるで凝縮した世界史をみるかのようである。そして1949年の中華人民共和国建国は、単純なマルクス・レーニン主義(共産主義)による革命ではない。毛沢東は、その国家形成の中でマルクス・レーニン主義を毛沢東思想として再構築し、ソ連とも資本主義国とも異なるあたらしい社会主義国家を建設していったといわれる。毛沢東は、世界史的にみても最大の革命家の一人であり、また一方で中国の文化的伝統のもっとも忠実な後継者であるともいわれる。
12-1
年・事項・内容
中国の近代史(概略)

●ここで中国の19世紀以降の歴史の概略を書いてみる。他国人である日本人が、中国を共産党による1党独裁国家で、国民も政府に指導されるだけの国民などと考えては大きく間違えることになるだろう。
日本は、日本人としては残念なことに、中国という国家が民族主義による統一戦争と独立戦争のなかで建国に至る時、中国を抑圧し侵略する側であったことである。もし日本が、領土的野心を持たず、軍隊を統帥できる国家であったのなら、日本はこれほどの汚名をアジアに残さずにすんだことであろう。

朝鮮

初期の清朝時代の地図

●最初に日本の教科書の清朝時代の中国の地図をみてみる。(この画像は「Wheelzoom」jsにより、マウスホールで拡大・縮小・移動ができる)この地図は初期の清朝時代の地図で1937年の日本の教科書の地図である。
●特に満州(現中国東北部)の松花江や万里の長城が入り組んだ部分は見ておかねばならない地域である。
●漢字の記入は右書きで、赤字は各省名を示している。この地図で表示されていないのが「蘇州」「南京=江寧」「江蘇・省」である。「蘇州」は上海の西にあり、「江寧」とあるのが「南京」のことである。江蘇省は「江寧」の「江」と「蘇州」の「蘇」を取って「江蘇」省となった。
●地図の西方の赤枠はズンガル部(ジュンガル)で、最後の遊牧民帝国といわれ、18世紀に清の乾隆帝によって滅ぼされた。)
●「清初アジア図」(出典:1932年三省堂発行の「実業教科 東洋歴史」)

12-2
年・事項・内容
清王朝の象徴「北京・紫禁城・太和殿」


●次に、中国の歴史の最後の王朝となった清の象徴である紫禁城の写真から見てみよう。
●左の写真は、中国「紫禁城の太和殿」。ここは大典(皇帝の即位など重要な儀式)の中心となったところで、宮中最大の建築である。殿高は35.05メートル、殿内面積は2377平方メートルで、およそ3万平方メートルあまりの敷地の中、彫刻で飾られた高さ8メートルの3層の大理石基壇のうえに建てられている。
「紫禁城の太和殿」(出典:「故宮博物院展 紫禁城の宮廷藝術」図録 西武美術館/朝日新聞社1985年 刊

●左図は光緒大婚図冊の「冊立奉迎図」の一部で、「奉迎礼の式典挙行」、「双喜の飾り文字をはじめ数々の飾りつけがされた太和殿前における、奉迎礼の式典挙行の場面」
(出典:「故宮博物院展 紫禁城の宮廷藝術」図録 西武美術館/朝日新聞社1985年 刊
●左写真は、「太和殿内宝座」「殿内には7層の壇上透し彫り金漆塗りの宝座と衝立てがおかれ、宝座の前には香卓、宝象、ろく獣、香筒、香炉などの荘厳用調度が設置されている。宝座をとりまく6本の巨柱は、金柱とよばれる雲龍文の柱で、殿内を飾る彩画はすべて龍と幾何文である。整然とした大殿は金色もまばゆく堂堂とそびえたち、皇帝の至高の権力と威厳を示している。・・・」とある。
(出典:「故宮博物院展 紫禁城の宮廷藝術」図録 西武美術館/朝日新聞社1985年 刊

12-3
年・事項・内容
18~19世紀中華の誇りと繁栄

●中国(清朝)は当時においても、最高の文明とそれを支える物資と技術があると、自負していた。従ってヨーロッパとの貿易は、広州で限定的に行うことで充分であった。ヨーロッパから買いたいものなどなかったからである。中国としては望まれれば朝貢という形で、恩恵を授ければそれで充分であった。中国の当時の考えは次のようであった。
「天朝の産物は豊富であって、これといってないものはなく、時計、羅紗、毛織物など外夷の産物は、中国の必需品ではない。ただ天朝の産する茶、陶磁器、糸などは、西洋各国の必需品であるから、広東において貿易をゆるし、必需品を与えて、天朝の余沢にうるおわしめているのである。貿易は、万国に君臨する中国皇帝が四夷(しい=東夷《とうい》・西戎《せいじゅう》・南蛮《なんばん》・北狄《ほくてき》)を撫育し、一視同仁(いっしどうじん=親疎の差別をせず、すべての人を平等に見て仁愛を施すこと)の恩恵に出るものである」(=出典:『世界の歴史13』中央公論社1961年刊)


●そして中国の皇帝に謁見するするときの作法は、屈辱的な「三跪九叩(さんきくこう=3回ひざまずいて、それぞれ3回頭を床にたたきつけること)」を求められた。1816年にイギリス国王に派遣(貿易改善の目的)されたアマーストはこれを拒絶したが、謁見はできなかった。19世紀後半になると清朝の権威は衰え、1873年日本の外務卿副島種臣は、これをを拒絶し、3回の最敬礼(立礼)ですまし、日本の国威を示した。


左上写真「太和殿内景」(出典:「故宮博物院展 紫禁城の宮廷藝術」図録 西武美術館/朝日新聞社1985年 刊
左下写真「三跪九叩」の図、臣下が中国の皇帝に拝謁するときの礼。(出典:『世界の歴史13』中央公論社1961年刊)
19世紀人口の増加と農民の困窮

●中国の人口は、18世紀から19世紀半ばまでの100年間で2倍以上に増加し、約4億3千万人に達したといわれる。(18世紀末で3億人)耕地も増えず、農業技術の改善もないため、農民の暮らしはより厳しさを増し、貧富の格差は広がり、社会不安は増大していった。
●1808年(中国)、イギリス海軍は澳門(マカオ)の砲台を占領。ナポレオン戦争による英仏の戦いは中国にも及んだ。同年日本でもイギリス船フェートン号が長崎港に侵入しオランダ船捕獲事件をおこす。
●1816年8月(中国)、イギリス全権大使アマーストは「三跪九叩」を拒否したため、清朝皇帝嘉慶帝は謁見を拒否する。この中国派遣も東インド会社の要請によるものだったが、結果として東インド会社は中国貿易独占権を失っていく。そしてイギリスは、軍事行使であるアヘン戦争に向かっていく。

アヘン、銀の流出、銀の高騰、税の高騰、さらなる貧困と社会不安

●イギリス東インド会社は、インド支配の確立と、中国との片貿易解消のために、インドの特産の「アヘン」を中国に大量に輸出しようと考えた。中国でもアヘンは薬用として用いられていた。しかし17世紀アヘンをタバコのように吸飲する風習が、オランダ支配下の台湾から中国に伝わると、しだいにその害が広がるようになってきた。しかしその量はきわめて少なく、社会問題となることはなかった。それをイギリスは、大量のインド産アヘンを中国に輸出することによって、インド経営とイギリス本国のために、いままで一方的に中国へ流出していた「銀」を、今度はアヘンによって中国の「銀」を獲得することにしたわけである。いつの世も巨額の利益を得るのは、武器と麻薬取引なのだろうか。
●そして中国にとってこの大量のアヘンの輸入(密貿易)は、中国の銀の保有量を減らし、結果として銀の価格を高騰(2倍)させた。そして中国ではこの銀の高騰により、税金(銅を銀に換えて納税していた)が実質2倍にも引き上げられたことと同じになり、税を支払う側の農民の没落・流民化や商人の困窮につながり、同時に税金の滞納も生じ、国家の財政をも逼迫させていった。


「アヘン窟」の絵。中国の都市にはこのような陰惨なアヘン窟が数多くあった。常用するとアヘンは麻薬となり、精神も肉体もむしばまれたのである。(出典:『丸善エンサイクロペディア大百科』丸善1995年刊)
1840年アヘン戦争

●清朝政府は繰り返し、アヘン禁令を出したが、年々その輸入量は増え、しまいには公然と密輸入・密売買が行われるようになっていった。そしてアヘンの流行は、官界や軍隊にまで蔓延して、社会の腐敗・堕落は一層激しいものになっていった。こうしたなか、清朝政府は「厳禁論」をもってアヘン密貿易の根絶にあたるため、林則徐を欽差大臣として広東に派遣した。この厳禁論は「アヘン吸飲者の刑罰を、死刑をもって臨む」もので、それによりアヘンの密輸入の道も根絶するのが目的であった。
●林則徐は強硬手段をとり、外国商人の持っているアヘンを没収し焼却した。そして今後アヘンの取り扱いをしないという誓約書を書かせた。ポルトガル商人とアメリカの商人はこの誓約書を提出したが、イギリス商人は応じなかった。イギリスはこれを機に、中国との貿易自由化と開港を、軍事力で一気に解決しようとした。これがアヘン戦争であった。イギリス議会でも後に自由党を率いたグラッドストーンは、政府の出兵に強く反対したが、少数の差で出兵が可決された。
●こうして1840年、全権使節エリオット率いる、軍艦16隻、輸送船27隻、陸軍4千が各地を攻め北京に迫った。清朝政府はあわてて香港島を割譲することで妥結を試みたが、イギリス艦隊が去ると清朝政府は再び強硬姿勢をとるようになった。そこでイギリスは、1842年全権使節をかえ陣容を新たにし、軍艦25隻、汽船14隻、病院船、測量船など9隻、陸兵1万人という大艦隊で北上し、上海を占領し、揚子江をさかのぼり、南京城に向かった。
●清朝政府はたまらず南京条約を結んで、アヘン戦争を終結させた。


「アヘン戦争」の絵。1841年1月、中国の武装ジャンク(木造帆船)がイギリス軍艦に攻撃され炎上しているところ。中国が装備していた火力は旧式で、最新イギリス戦艦メネシス号の敵ではなかった。(出典:『丸善エンサイクロペディア大百科』丸善1995年刊)
1842年8/29南京条約締結。(不平等条約である)

●南京条約の概要は以下のとおりである。

1・香港をイギリスに割譲すること。
2・軍費、アヘン賠償金、行商(ホン・マーチャント、公行)の債務金として合計2100万ドルを支払うこと。
3・広東(カントン)のほか、厦門(アモイ)、福州、寧波(ニンポー)、上海(シャンハイ)を開くこと。
4・5港において、イギリス商人は、自由に安全に居住し、商業に従事しうること。
5・行商(ホン・マーチャント、公行)の外国貿易独占を廃止すること。
6・両国相応の官吏は、対等の交際をすること。
(出典:『世界の歴史13』中央公論社1961年刊)

●しかし清朝政府にとっては、この5港の開港や、香港島割譲さえも、単に羈縻(きび)政策とか懐柔政策とかいった敵(イギリス)を手なずける手段の一つにすぎなかった。乱暴者に欲しいものをやって退散してもらおう、というものだった。だから条約締結後も、イギリスの対中貿易が増えるわけでもなかった。
●イギリスはこの貿易不振を中国の条約不履行にあると考えて、地方長官である両広総督(広東・広西省の長官)を責めたがらちがあかず、清朝の中央政府に直接打撃を加えようと試みた。

1850年11月~1864年太平天国の乱


●洪秀全率いる貧農・手工業者が広西で蜂起し、太平天国の乱が始まる。洪秀全はキリスト教(アメリカのプロテスタント)を信仰し、自らを「天王」と名のり、清朝打倒と太平天国を立て、地上にキリスト教による神の国を建設することをめざした。この新宗教は、天父上主皇上帝を創造主とする唯一神教で、偶像崇拝をやめ、生きて小天堂に遊び、死して大天堂に昇ることができると説いた。この天堂というのが天国であるという。この太平天国が理想としたのは、共産主義社会であるといわれ、私有財産を認めず、必要な品物は平等に分配され、貧富の差は無いとされる。
左「旧約聖書」(出典:『世界の歴史13』中央公論社1961年刊)右「地図」1932年三省堂発行の「実業教科 東洋歴史」


そして、1932年三省堂発行の「実業教科 東洋歴史」には次のように書かれている。

『キリスト教を奉じ、神を天父と称し、キリストはその長子で、自身は次子であると唱え、婦人の纏足(てんそく)および人身売買などを厳禁し、また檄文を四方に伝えて漢人の奮起を促し、胡服(中国北方の民族の胡人の着る衣服)・辮髪(べんぱつ)を禁じ、明代の服装にかえった。清朝では洪秀全を以て逆賊と称したが、今の中華民国人の中にはかえってこれを義人と見なし革命の先駆者として称賛するものが多い。』


●1853年には、南京を占領し、太平天国の都「天京」と定めた。その頃の徒党は、男180万人・女30万と伝えられる。この太平天国は、清朝の弁髪を拒否したことで、「長髪賊の乱」ともいわれる。この弁髪は、1645年に、清が薙髪令(ちはつれい)を発し、満州人の頭髪の結い方である弁髪を、中国全土の全男子に強制し、敵か味方(帰順)の識別を行い、清朝への忠誠のあかしのため、違反者には死刑の厳罰をもってのぞんだものである。
「辮髪」(出典:『世界の歴史9』中央公論社1961年刊)

1856~1860年アロー号事件・天津条約・北京条約締結(1860年)

●日本では、1853年7月、アメリカのペリーが東インド艦隊を率いて浦賀に来航し、江戸幕府が崩壊するきっかけになった。長州藩士高杉晋作は、1862年藩命で、幕府使節随行員として中国の上海へ渡航し、清の列強による分割や混乱を見たことで、日本の尊皇攘夷と後の倒幕運動に確信を持ったといわれる。
●インドでは1857年5月、インド大反乱が起きた。これによりインド統治が東インド会社からイギリス本国による統治に変わる契機となった大反乱であった。
●アメリカでは1861年4月、ついに南北戦争が勃発する。4年に及ぶ内乱の始まりである。
●1856年、「アロー号事件(海賊船の容疑で中国人乗組員が逮捕された事件)」と「フランス人神父が逮捕・投獄・殺害された事件」が起こった。これを理由に1857年末から、イギリスとフランスは共同して出兵し、広東の攻撃を開始した。そしてアメリカとロシアを加えて天津に達した。1858年、ここに清朝政府は、4カ国と和議を講じ個別に天津(てんしん)条約を結んだ。さらに1860年英仏連合軍は、前年におきた北京入城阻止事件にからんで出兵し、天津をうばい北京西郊の離宮「円明園」を掠奪・放火し破壊した。
●そして英仏連合軍は北京に入城し、天津条約の批准書を交換し、追加条約ともいえる「北京条約」を締結させた。そのおもな条項は以下のようである。

1・香港対岸の九龍をイギリスに割譲すること。
2・イギリス、フランスに対する賠償金を、それぞれ800万両(テール=1両は約1ドル40セント)に増額すること。
3・天津を開港すること。
4・外交官を北京に常駐させるか、または随時北京にくるようにさせること。
5・カトリック教会は随意に土地の租借、購買し、家屋を建築しうること。
(出典:『世界の歴史13』中央公論社1961年刊)


(●1898年九龍半島の大部分と付属諸島からなる新界が租借地となった。香港・九龍等をイギリスが返還したのは、1997年のことである。)
(地図・香港島付近)(出典:「写真記録日中戦争1・15年戦争の道」ほるぷ出版1995年刊)

清朝滅亡へ向かう

●下図・清朝系図

(上左写真・同治皇帝像)
(上右写真・光緒皇帝像)(出典:「故宮博物院展 紫禁城の宮廷藝術」図録 西武美術館/朝日新聞社1985年 刊

19世紀の重要で実用となった発見・発明・開発・制度など
ヨーロッパ文明(思想や制度、科学技術)は、圧倒的な勢いで東洋世界のみならず全世界を支配していった。東洋世界が近代化をめざした理由は、下記の19世紀のヨーロッパの科学的発明・発見などをみればよく理解できる。それはまさに驚異的であり圧倒的であった。



●1800年、イギリスのジェームズ・ワットの蒸気機関の特許が切れると(1769年ワットは新方式の蒸気機関を開発していた。)、高圧蒸気機関の開発が成功し、蒸気船、蒸気機関車がなどが急速に世界中に普及していった。そして石炭が、石油に代わる20世紀初頭まで、最重要の燃料となった。
●1800年(イタリア)、物理学者ヴォルタが電池を発明した。電圧のボルトは彼の名に由来する。
●1803年8月(フランス・セーヌ川)、アメリカ人フルトンが蒸気船の航行実験に成功する。
●1819年6月(イギリス)、アメリカ外輪蒸気船(サヴァンナ号)が、27日と11時間で大西洋横断に成功。
●1830年9月(イギリス)、蒸気機関車鉄道がマンチェスターとリヴァプール間で開通、交通革命が到来する。前年スティーヴンソン親子が蒸気機関車コンテストで優勝した「ロケット号」を改良したもの。
●1831年(イギリス)、物理学者ファラデーが、電磁流発電機を使って電流発生に成功し、現在の発電機の基礎をつくる。
●1833年(ロンドン)、イギリス王立研究所のファラデー教授が電磁誘導の法則に続き、電気分解の法則を発見。
●1837年9月(アメリカ)、アメリカ人モースがモールス符号を開発、電信の実用化に道を開く。
●1836年(イギリス)、イギリス海軍測量船ビーグル号は博物学者ダ―ウインを乗せて南半球を周航する。ダ―ウインは「進化論」の基礎を作る。
●1838年4月(ニューヨーク)、スクリュー推進によるイギリス蒸気船(グレート・ウエスタン号)が、15日間で大西洋横断に成功。定期旅客運送の開始。

下

 

12-4
年・事項・内容
1861年11月西太后、クーデター

●西太后は5歳の実子、載淳を第10代皇帝同治帝として即位させ、主戦派を粛正した。そして咸豊(かんぽう)帝の皇后(東太后)と側室の西太后(慈禧皇太后)両者による摂政政治(垂簾聴政)が始まる。
●1850年、第8代道光帝(在位1821~1850)が死去すると、咸豊帝(在位1850~1861)が次の皇帝となった。咸豊帝はアロー号事件後、英仏連合軍の侵攻により北京から熱河に逃れていたが、1861年この地で死去した。咸豊帝の皇后(東太后)には子がなく、側室であった後の西太后の子である穆宗(ぼくそう)同治(どうち)帝(1861~1875)が帝位を継いだ。東太后と西太后が摂政政治(垂簾聴政)を行い、咸豊帝の弟にあたる恭親王奕訢(えききん)が補佐した。


左絵「西太后」(出典:1932年三省堂発行の「実業教科 東洋歴史」)
1861年総理衙門(そうりがもん=外務省)創設

●清朝政府は、アヘン戦争、アロー号事件によって、自国の中華思想を改め、初めて外交的に対等の扱いをする存在(欧米列強)を認めた。それまで対外関係一般を「夷務」とよんでいたものを、「洋務」と変え、そしてその元締めとして総理衙門を設け、列国の公使館を北京に開くことを認め、また中国も各国に公使を派遣するようになった。そして1862年には北京に京師国文館(外国語学校)が開かれた。こうして中国における近代化が始まったが、これは「洋務運動」とよばれた。

1864年7月南京陥落、太平天国滅亡

●太平天国は、内部の権力争いにより腐敗堕落して、軍事力も下降していった。一方清朝の危機を救ったのは、曾国藩の湘軍(湘勇)や李鴻章の淮軍だった。これらは、それぞれの郷里で募集された軍隊で、清朝皇帝の命令によって組織されたものであるから一応正規軍ではあった。しかし清朝政府の国庫は不足し、経費を出せないため、代わりに軍費を現地で調達する権限を与えた。こうして特権を得た曾国藩や李鴻章は、現地の官憲や郷紳の協力を得て軍費を調達し、のちに地方の民政長官である総督・巡撫の地位を得ていった。こうして1864年、曾国藩は強力な湘軍を率いて南京城に突入し太平天国を滅ぼした。

1864年以降洋務運動

●曾国藩(そうこくはん)、李鴻章(りこうしょう)、左宗棠(さそうとう)らは、太平天国の反乱を鎮圧する過程で、強兵のためには洋式の訓練と新式の装備が不可欠であることを知り、外国人の武官を招いたり部下を海外に留学させたり、武器弾薬を輸入して自分の軍隊の近代化を進めた。また軍艦を購入して海軍を創設し、砲台もきずいて、北京の防備を厳重にした。そして、武器、弾薬、船舶などを輸入する一方で、自国製造をも試みた。1862年、曾国藩、安慶で武器弾薬の試造。1865年李鴻章、上海で江南製造局を開設、1866年左宗棠、福州に馬尾船政局をたて、大規模に武器、弾薬、船舶の製造をはじめた。そして上海、南京、天津、福州、広東などの開港場にはいくつもの兵器廠、造船所が設けられた。近代化は軍備の面から始まったが、続いて運輸・通信・鉱業の近代化となり、平和産業でもある毛織物工業なども起こっていった。

1875年光緒(こうちょ)帝即位、「垂簾聴政(すいれんちょうせい)」

●西太后は中国の古典、書や絵画、音楽にも通じる才女ではあった。しかし、幼少の天子が位につき母后が摂政政治を行えば、宦官が権力を持ち、宮廷は腐敗していくのがあたりまえであった。
●1875年、同治帝が子がなく没すると、西太后は咸豊帝の弟である醇親王奕譞と西太后の妹の間に生まれた子で、4歳の德宗光緒帝(在位1875~1908)を反対を押し切って帝位につけ、引き続いて東太后とともに「垂簾聴政」をおこなった。
●1881年、突然東太后が死去すると、西太后は、補佐していた咸豊帝の弟にあたる恭親王奕訢(えききん)を、1884年に清仏戦争の敗戦の責任を負わせ失脚させた。こうして西太后はすべての権力を握った。


(左写真・垂簾聴政の場)出典:「故宮博物院展 紫禁城の宮廷藝術」図録 西武美術館/朝日新聞社1985年 刊
1882年アメリカ、中国人の移民を10年間禁止する。

●アメリカは、建国以来すべての国の移民に門戸を開放してきたが、初めて1民族(働き過ぎる中国人)を排除の対象とした。中国系の人々は、カリフォルニア州だけでも15万人になっていた。もともと彼らは、カリフォルニアの金鉱労働者あるいは大陸横断鉄道の苦力(クーリー)として、アメリカが積極的に受け入れた移民労働者だった。その後この移民法は、1892年にさらに10年間更新され、1902年には中国人移民は永久に禁止される。(19世紀アヘン戦争以降、中国国内の社会不安と混乱は、多くの中国人を海外へと向かわせた。)

(上左写真)シエラ・ネヴァダ山中の大陸横断鉄道工事現場。1869年に完成。
(上右写真)1880年デンヴァーの暴動。中国人労働者は西欧化を嫌ったため、白人労働者は感情を害し迫害を強めた。(出典:「クロニック世界全史」講談社1994年刊)(注)1873年には、ワイオミングのロックスプリングスで、失業の不安から白人労働者による、中国人炭鉱夫(低賃金)に対する排斥・虐殺事件が起きた。)

「ローン・レンジャー」2013年アメリカ映画
●ここで、1869年の大陸横断鉄道を題材としたアメリカ映画を紹介してみる。この映画は、ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ配給による、ジョニー・デップがトント役(インディアンの相棒)で出演している西部劇である。しかし単なる西部劇・アクション映画とは言えないようである。コミカルなジョニー・デップの演技のシーンの奥に、さりげなくアメリカの歴史の真実を提起しているかのようである。19世紀の半ばにおいて、蒸気機関車による鉄道は、圧倒的ですさまじい西洋文明の力を誇示したに違いない。日本や中国で、近代化のために鉄道が大きなポイントとなった時代背景がわかりそうである。大陸横断鉄道の敷設工事のシーンとバッファローの群れの中を疾走する蒸気機関車のシーンを紹介する。

(音量ボタンを小にしてから、再生して下さい。)星野。

●よけいな解説だろうが、この映画にはあまり日本人が知らない背景がある。①1869年全米が熱狂した初の大陸横断鉄道が完成した。これは東西から進んだ鉄道会社の線路が、ユタ州「プロモントリー・サミット」でついに接続し、その地点で完成記念式典が行われた。②東西の鉄道会社のうち、セントラル・パシフィック鉄道は中国人労働者を、ユニオン・パシフィック鉄道はアイルランド人労働者使ってこの大陸横断鉄道を完成させた。この映画では中国人労働者(弁髪)は、別な鉱山のシーンで多数登場している。これらの中国人労働者は苦力(クーリー)とよばれた。そして「西部の鉄道の枕木の下には、中国人の骨が一つずつ埋められている」ともいわれた。③鉄道敷設のためインディアンに対して、居留地の権利を保証した条約も無効と宣言し、「コマンチ族よ思い知れ」といっている。④鉄道敷設工事のため、数年前に発明されたばかりのダイナマイトと、危険で不安定なニトログリセリンを準備している。これらには高額の費用がかかり、その保管にはなんと銀行の金庫室をあてている。セントラル・パシフィック鉄道は、このニトログリセリンを発破に使用し、多くの犠牲者を出したといわれる。⑤インディアンとの戦闘で、騎兵隊は強力で圧倒的なガトリング銃(砲)で圧殺している。(日本では1868年戊辰戦争の時、新潟長岡藩がガトリング砲を初めて購入し実戦に使用したといわれる。)⑥難攻不落な大事業を、シエラ・ネヴァダ山中を彷彿とさせる大鉄橋で表現している。⑦「バッファローの群れの中を疾走する蒸気機関車のシーン」は大変皮肉である。バファローを絶滅近くにまで減らしたのは、大陸横断鉄道(テントで暮らし移動していく労働者たちの食料)でもあり、またアメリカ政府のインディアン政策に関わるものであったからである。

12-5
年・事項・内容
1884年6月清仏戦争勃発、ベトナム

●清朝とフランスは、ベトナムの宗主権をめぐり確執を深めていたが、ついに武力衝突となった。フランスはベトナムを保護国とするため、1882年ハノイを攻撃し占領した。清朝は朝貢関係を維持するため、ベトナムに進駐し、軍艦をトンキン湾に派遣した。しかし清朝は、清朝が誇る北洋艦隊を派遣せず、フランス艦隊は馬尾海戦で福建艦隊を壊滅させた。そして翌年フランスは清朝と講和し、ベトナムの植民地化を確定した。

1884年北洋海軍、アジア最大の艦隊として成立。

●北洋大臣の李鴻章支配下の北洋海軍が、日本海軍をしのぎ、アジア最大の艦隊となる。
●清朝は1874年の日本による台湾出兵を機に、北洋・福建・南洋の海軍設置を決定した。しかしこれらの海軍も清朝政府直属の軍隊ではなく、地方の有力総督の支配する軍隊であった。特に李鴻章は1870年に直隷総督・北洋大臣となり、当時中国最強の淮軍を擁し直隷総督(総督の中でも、首都北京近辺を統括した直隷総督は筆頭格)で、その権勢により、中国の内治外交を掌握するほどであった。清仏戦争でも北洋海軍を出動させなかったのは李鴻章の意向であった。
●そして李鴻章は清仏戦争後、北洋海軍の増強にのりだし、1885年にドイツから、巨艦定遠と鎮遠の2戦艦を購入しアジア最大の艦隊として偉容を誇り、司令官を丁汝昌とした。


左写真若き日の「丁汝昌」(出典:「別冊歴史読本」新人物往来社1987年刊)
1894年8/1日清戦争勃発

●日清戦争により東アジアの勢力分布が大きく変化することになった。この頃、清朝の中央では西太后派と皇帝(光緒帝)派が対立し、地方では最大権勢を持つ李鴻章(直隷総督)と、張之洞(湖広総督=湖南・湖北両省の長官)、劉坤一(両江総督=江蘇・安徽・江西3省の長官)との対立もみられた。西太后と李鴻章は戦争回避派であったが、主戦派である張之洞や劉坤一らは、皇帝の命が下っても、李鴻章を陥れるため軍を動かさず、また主戦派はあくまで戦うべしとして、なかなか講和をさせなかった。軍備の劣勢を自覚していた李鴻章は、英露による調停を期待したがかなわず、自軍の淮軍と北洋艦隊を動員して日本にあたった。
●しかし平壌の戦いや黄海海戦にやぶれ、旅順、大連、山東半島の威海衛まで日本に占領され、李鴻章は翌1895年、講和をきめた。そして1895年4月、日清講和条約(下関条約)を締結した。
(上写真)清国全権・李鴻章(73歳)(出典:「写真記録日中戦争・敗戦と解放」ほるぷ出版1995年刊)

1895年4月締結の日清講和条約(下関条約)の内容
①朝鮮の独立を認めること。
②遼東半島および台湾、澎湖諸島を日本に割譲すること。
③賠償金2億両(テール)を支払うこと。
④開港場で日本人が製造業を営むことを承認すること。

●しかし日本の遼東半島の領有は、3国(ロシア・ドイツ・フランス)の圧力により、放棄させられた。これを日本では「3国干渉」といい、1945年8月の太平洋戦争終結の昭和天皇の「・・わたしは、明治天皇が三国干渉の時の苦しいお心持をしのび、堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び、将来の回復に期待したいと思う。」とまで例にあげるほどの大きな事件と記憶された。

日清戦争の衝撃(清王朝)

●日清戦争後の清朝では主戦論の光緒帝派が実権を握った。しかし真の主戦論者は「康有為」を中心とする少壮気鋭の官僚、読書人や現状に不満をもつ者たちであった。彼らは、西太后や李鴻章の軟弱な態度を責め、領土割譲を含む日清講和条約が締結されると、拒和論を起こし講和を拒否し日本と徹底して戦うことを求めた。
●その内容は、①中国は、琉球、ビルマ、安南と次々と藩属・朝貢の国を失い、ここで朝鮮も失った。②中国は、日本よりはるかに強いイギリス、フランス、ロシアと戦ったが、いまだかって領土を割譲したことはない。にもかかわらず、日本に台湾・澎湖諸島を、莫大な償金と権益とともに割譲した。③このままにすれば、中国は列強に分割されて瓦解してしまう、というものだった。●中国は日清戦争の巨額な賠償金の支払いのため、列強から借款を受け、租借地や鉱山開発権や鉄道敷設権などを失っていった。

(上写真)清国全権・李鴻章(73歳)(出典:「写真記録日中戦争・敗戦と解放」ほるぷ出版1995年刊)
(地図)「列強による租借地の形成」(出典:「写真記録日中戦争・敗戦と解放」ほるぷ出版1995年刊)

1894年孫文、ハワイで革命団体「興中会」を結成

●孫文(28歳)がホノルルで、中国に民主国家建設をめざし、革命団体「興中会」を結成した。広州で医院を開業していた孫文は、李鴻章に国政改革の意見書を提出していたが、何の回答も得られなかった。そこで孫文は清朝に見切りをつけ、実践的な革命活動を行うため兄のいるハワイに渡り「興中会」を結成した。孫文らは清朝を打倒し、新たな民主国家を建設することで、列強による分割の危機に瀕している中国を救済しようとしていく。


左写真「孫文」(出典:『世界の歴史13』中央公論社1961年刊)
1898年6月光緒帝ついに康有為の「変法運動」を採用

●光緒帝は康有為の「ロシアのピョートル大帝の心を心とし、日本の明治天皇の法を法とし」て革新を行おうとする意見を取り入れ、その一党を採用し新政を開始した。「国是を定める詔」●康有為は、今までの洋務運動は、ヨーロッパの物質文化(科学や技術)だけを切り離して取り入れようとしただけのものであるとし、清国がフランスと日本に敗北をしたことをみれば、それは誤りであるとした。必要なことは、ヨーロッパの政治思想を取り入れ、近代議会政治こそ君民一体、上下一心の治を為すもので、中国がまさに取り入れるべきものであると主張した。
●こうして光緒帝は、科挙の改革、近代的教育制度の確立、農工商業の振興、軍事訓練、運輸通信施設の近代化、官庁の整理、事務の簡素化や啓蒙のための新聞、官報の発行など、急速に革新政策を進め始めた。


左写真「康有為」(出典:『世界の歴史13』中央公論社1961年刊)
1898年9月西太后、クーデターで光緒帝を幽閉・戊戌(ぼじゅつ)の政変

●しかし光緒帝の急激な改革は、保守派の反発を招いた。ここで登場するのが袁世凱(えんせいがい)である。もともと李鴻章の淮軍出身で、朝鮮で頭角をあらわし、日清戦争後軍隊の近代化を痛感し、近代兵器を伴った兵の訓練、厳しい規律などを実施し新建陸軍建設に、大きな成果を挙げた。そして袁世凱は、北京周辺でもっとも強大な北洋軍の指揮権を握っていた。袁世凱は1901年李鴻章の死去を受けて、直隷総督兼北洋大臣に就任した。
●袁世凱は、当初光緒帝側につくことを約していたが、結局西太后側につきクーデターは成功した。結果、光緒帝は幽閉され、変法側の6人は逮捕処刑された。しかし康有為らは日本に亡命することができたが、変法運動は挫折した。袁世凱は後に中華民国の大総統に就任する。
●こうして三たび摂政となった西太后は、反動的に保守、排外、反漢の政策を行うようになった。そして光緒帝の廃位も企てた。
●この清朝政府の保守排外政策は、一般民衆の排外的気風を助長し、ついに義和団蜂起となって、清朝政府の列強に対する宣戦布告につながっていった。


(左写真)儀礼用の軍服を着ている袁世凱(出典)「世界の歴史9」J.M.ロバーツ著創元社2003年刊
1900年6月義和団の蜂起、8カ国連合軍出兵、北京に入城。


●義和拳教徒らは、義和団という白蓮教系の秘密結社を中心として、農民達を含めて、キリスト教および列国の中国侵略に反抗して山東省で蜂起した。この義和拳教というのは、孫悟空などを神としてまつり、拳棒術を極めることにより神力・魔力を得られるというものだった。
●義和団は、初めは「反清復明」を唱えて民衆を扇動していたが、排外的気風の強まりからスローガンを「扶清滅洋=清をたすけて西洋を滅ぼせ」に変え、団徒を急速に増やし強大化し、おおきな暴動となった。
●1900年(5月~6月)には直隷に進み天津から北京に入城し、各国公使館地域を包囲した。清朝もこれを機に列国に対して宣戦布告したため、列国も清国軍と交戦となった。このとき日本は、アメリカ・イギリス・ロシア・ドイツ・フランス・イタリア・オーストリアとともに出兵し8カ国連合国で鎮圧にあたった。アメリカ映画「北京の55日」がこの事件を題材にした。また日本軍の公使館附武官の柴五郎の働きは各国の賞賛を受けた。(柴五郎はのちに大将となるが、その生い立ちは『ある明治人の記録』に書かれているとおり、会津藩出身であるがために戊辰戦争では悲惨な過去を持つ。)
●8月14日、8カ国連合軍は北京に入城し、圧倒的な軍事力により義和団を鎮圧し、西太后は光緒帝を伴い西安に避難した。(この逃走の時、西太后は憎んでいた光緒帝の側室の珍妃を、井戸に押し込み溺死させたという。今も残るその井戸は「珍妃井」とよばれている。)


写真「義和団拳民」(出典:『世界の歴史13』中央公論社1961年刊)

義和団蜂起と8カ国連合軍出兵、北京に入城
(下地図)1900年頃の中国における列強の支配する鉄道。(出典:「クロニック世界全史」講談社1994年刊) (上写真)鉄道を破壊する義和団
(下写真)北京に入城する8カ国連合軍のアメリカ兵部隊(出典:「クロニック世界全史」講談社1994年刊)

北京の55日(1963年アメリカ映画)
●ここでチャールトン・ヘストン主演の、今から50年以上前のスペクタル映画の1シーンを紹介してみる。イギリス公使を謁見する西太后と、公使が「三跪九叩」を拒否して、足で枕(頭を床につける)をどかすシーンである。次に西太后がヨーロッパ諸国の北京からの退去をもとめ、義和団側に立って暗に宣戦布告を行うシーンとなる。アメリカ映画の出演者は、外国人も全員母国語なまりの英語を話すので、リアリティにはかける。映画としては、中国の人がみても面白くはないとおもうが、清王朝時代のイメージが少しはつかめるかどうか。


(注)西太后がイギリス公使を謁見している建物は、どうも1420年に明の永楽帝が建設した「天壇祈年殿=皇帝が五穀豊穣を祈った建造物」を模した建物(撮影セット)のようである。

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12-6
年・事項・内容
1901年9月北京議定書が締結される。清国と11カ国

●西太后排外方針を転換し、新政を実施し、ヨーロッパ的な制度改革を開始する。これを年号にちなみ「光緒新政」という。
●これにより清国は、莫大な総額4億5000万両(テール)、年賦払いの利子をたすと9億8000万両(1テール=1円40銭)の賠償金の支払い、列強の北京駐兵権承認などを締結させられた。清国は賠償金のためさらなる借款を列強から受け、その担保としての権利を失い半植民地化が進んでいった。
●しかしさいわいなことに清国は列強による領土分割を回避できた。その理由は、漢人の地方長官らが西太后の開戦命令に従わず、義和団と戦い外国人の保護に努めたからであった。山東巡撫・袁世凱、両江総督・劉坤一、湖広総督・張之洞、両広総督・李鴻章らがそうであった。
●また満州では、義和団鎮圧のために出兵したロシアが撤兵せず、後の日露戦争に発展していく。

(新政の一例)纏足(てんそく)禁止令・・1902年2月、清朝政府は中国社会に古くから伝わる風習である纏足を禁止する命令を出した。これは太平天国のスローガンでもあったが、実際にこの風習が根絶したのは、中華人民共和国成立後のことであった。
(重要事項)
●1901年12月10日、第1回ノーベル賞授賞式開催される。X線を発見したドイツのレントゲン(56)ら6名が受賞した。ノーベル賞はダイナマイトや無煙火薬の製造で巨万の富を築き、5年前に63歳で亡くなったスウェーデンの化学者アルフレッド・ノーベルの遺言にもとづいて創設された。ノーベルは発明した爆薬が、土木事業などに平和利用されることを願っていたが、戦争の道具に使われことに心を痛め、人類の幸せを願ってこの賞を創設したといわれる。
1902年~西太后による新政と日露戦争(1904年~1905年)の衝撃

●1902年西太后は西安から北京に帰ると、一転して康有為の変法プログラムに従って改革を断行していった。それは次のようである。
①中央の政務を行う伝統的な六部の制を廃し、外務部・商部・学部などを同列に置いた。
②教育制度を大幅に改め、伝統的な書院を、大学堂・中学堂・小学堂・蒙養学堂(幼稚園)の4段階に区別した近代的な学校とした。
③千年以上つづいた科挙を廃止し、学校出身者に官吏となる資格を与えることにした。
④兵制を改革して、緑営の兵隊を警察・巡防隊に改組したり、あらたに壮丁を選募して洋式の訓練を施し全国に36鎮(師団)の新軍を建設した。
⑤残虐な刑罰を廃止し、司法の独立をはかって法部を新設した。
●日露戦争で日本が大国ロシアに勝利した衝撃は、アジア諸国に大きな影響を与えた。特に中国に与えた影響は大きかった。日本は日露戦争の結果、絶対条件である「韓国の自由処分、ロシア軍隊の満州撤退、遼東半島租借権と旅順-ハルビン間鉄道の譲渡」を得たが、鉄道は「旅順-長春間」に譲歩し、第2条件であるカラフトの割譲は「カラフト南半分」に妥協した。そして「賠償金最高15億円」要求は撤回した。日本は講和を成立させることが必要だったのである。
●中国は日本のロシアに対する勝利を、立憲政治の専制政治に対する勝利とみた。そのため日露戦争後は憲政施行の世論がいっそう強くなり、清朝政府も憲政施行を決断するに至った。そして1908年、憲法大綱を発表し、1916年に憲法を発布し、国会開設することを内外に発表した。

1908年光緒帝死去(暗殺か?)と翌日の西太后死去

●しかし1908年11月14日に光緒帝が死去し、翌日西太后が死去した。これは病気でもない光緒帝が死んだのだから、何者かによる暗殺か、または内部の権力争いの末の結果なのかもしれない。

「革命いまだ成らず」譚璐美(たん・ろみ)新潮社2012年刊によれば、
●2008年清朝光緒帝死因研究報告会は、光緒帝の陸墓に僅かに残る遺骨や頭髪、衣服の化学分析から、致死量をはるかにうわまわる猛毒の三酸化砒素が検出され、「光緒帝の死因は、急性胃腸性砒素中毒であり、毒殺されたものと断定した」とあります。

●そして光緒帝の実弟にあたる醇親王載灃(じゅんしんのうさいほう)の子、溥儀(ふぎ)が3歳で帝位(宣統帝)を継ぎ、醇親王が摂政となり翌1909年宣統と改元する。この宣統帝がラスト・エンペラーである。


「醇親王」と右「宣統帝」。この左上の写真は、「世界の歴史9」J.M.ロバーツ著創元社2003年刊、『世界の歴史13』中央公論社1961年刊、1932年三省堂発行の「実業教科 東洋歴史」3冊すべてに掲載されている写真と同じである。

(重要事項)
●1903年12月17日、アメリカのライト兄弟が、人類初の動力飛行に成功。
●1905年1月、血の日曜日事件発生、第1次ロシア革命へ。
●1905年9月、ドイツでアインシュタインが「特殊相対性理論」を発表、1916年には「一般相対性理論」を完成。20世紀最大の革命的な業績である。

日本の満州の利権拡大政策が、のちの日中戦争・太平洋戦争の原点となる。

●現代の日本人にとって、日露戦争(1904年)は忘却の彼方のことかもしれない。しかし太平洋戦争の日本の敗戦に至るすべてと、そして現代の中国との問題のすべてが、満州から始まることを知れば、忘れるべき過去ではないだろう。
●結果的に日本はこの満州(点と線)の権益をまもるため、武力によって領土(満州全域)を支配するため武力侵攻(1931年満州事変)し「満州国」を作った。領土獲得のための武力侵攻、これを「侵略」というのだ。

年・事項・内容
なぜ日本が「侵略」といわれるようになっていくのか

●日本はアメリカの主張(満州の門戸開放・中立化)を認めることで、日露戦争の仲介をアメリカに頼んだ。しかし日本は、日露戦争後も占領地から軍隊を撤退せず軍政を継続した。イギリス・アメリカはそのために自由な商業活動が阻害されていると再三抗議を日本にしている。
●特にアメリカの鉄道王ハリマン(前の方で、映画「ローンレンジャー」にでてくるアメリカ横断鉄道であるユニオン・パシフィック鉄道などを所有している鉄道王)との契約を反故(1905年)にしたことなどから、アメリカはさらに日本に疑念を抱いた。(ハリマンは大連から南満州鉄道・東清鉄道・シベリア鉄道をへてヨーロッパに至る大陸横断鉄道網の創設を企画した。)
●伊藤博文は1906年の英米の抗議に対して、満州問題を含め戦後日本の進路を、米英協調路線に求めることを政府首脳に強調し、軍政を廃止していくなど改善を試みた。しかし軍は、しだいに政治と外交に介入していく程の力を得ていった。
●日露戦争でロシアから獲得したものは中国の領土ではない。日本は、ロシアが清国との間で得た権益を獲得したに過ぎない。だから日本はさらに清国との交渉が必要であった。そして清国とのあいだで得たものは次のものである。

①遼東半島の租借権(=期間を定めて借りる権利)
②東清鉄道南部支線(長春から大連704km)の敷設・経営の権利
③鉄道付属地の権利。これはロシアが各国が都市部にもっていた占有権である「租界」からヒントを得て、鉄道経営に必要として清国に認めさせたものである。それは●線路の両側合計66m幅の土地。●主要駅周辺に市街地を作るための土地。●撫順など鉄道沿線にある炭鉱の経営権などである。
④鉄道守備隊(軍隊)の駐留権。これは鉄道1kmあたり15人以内と定めたものである。しかしこれは日本とロシアが決めたものであって、清とロシアの合弁会社の時は、ロシアは警察権だけを得ていた。当然清国は外国軍隊の駐屯を拒否したが、日本とロシアにより妥協させられた。

●そして日本は上の地図にある、安東から奉天(現瀋陽)に至る261kmの安奉鉄道の敷設権と経営権を得ようとした。なぜなら朝鮮半島釜山から南満州鉄道に直結することにより、軍事的にも戦略幹線とすることができるからである。


地図「満州権益関連地図」(出典:「近代史 日本とアジア上」吉川万太郎著 婦人之友社2002年刊)
1905年南満州鉄道株式会社の設立。

●この会社は、半分を日本政府が出資した植民地経営のためのマンモス国策会社であった。事業内容は、鉄道、港湾の整備、船舶輸送、炭鉱の経営、鉄道付属地での都市建設と都市の管理、農地開発までも行う会社であった。具体的には以下の例がある。
●(鉄道)1911年に、安奉線の改修工事と、鴨緑江の鉄橋架設工事完成により、朝鮮鉄道と安奉線が接続され、翌年には釜山・安奉線・長春間に「アジア・ヨーロッパ列車」の直通運転が開始された。長春で東清鉄道・シベリア鉄道につながることができた。
●(撫順炭鉱)埋蔵量10億トンと推定され、東洋一の大炭鉱といわれた。1914年からは露天掘りによる採掘を始め、出炭量は2倍3倍へと増えていった。そして頁岩層から石油が採れることがわかり、年間約30万トンの石油を生産するようになった。
●(大連港の整備と拡充)1906年から防波堤の建設にとりかかり、1926年までに内港に、24トン級から1万トン級まで合計31隻の船舶を一時に係留できる埠頭を建設し、世界に有数の港湾を建設した。
●(都市の建設)鉄道付属地の経営として、1906年から1916年までに鉄道沿線に30の都市を建設した。そして都市行政(住民の管理、教育・衛生、上下水道の敷設)などを行うようになる。しかしここは日本の植民地でも領土でもないわけだから、中国政府との軋轢も当然発生していった。


左上写真「1934年頃大連港埠頭」(出典:「昭和2万日の記録3」講談社1989年刊)
左下写真「弾丸列車あじあ号1934年11月」(出典:「クロニック世界全史」講談社1994年刊)

12-7
年・事項・内容
1907年7月女性革命家・秋瑾、逮捕処刑される。

●呉・越地方での蜂起計画を立てた首謀者の秋瑾が逮捕され、2日後処刑された。反清民族主義を抱き、日本に留学し、中国同盟会に参加し、帰国後革命運動に献身してきた。この年中国同盟会は5度ほど大規模な反清蜂起を起こすが、すべて失敗した。しかし清朝政府にとって、革命勢力は脅威となっていった。左写真「秋瑾」(出典:「クロニック世界全史」講談社1994年刊)

1911年慶親王内閣

●1910年清朝は、立憲準備の期間を3カ年短縮して、1913年に国会を招集することに決める。そして1911年に、伝統的な内閣(最高機関)である軍機処を廃止し、慶親王を内閣総理大臣に任命し、責任内閣制を成立させた。そして、司法制度、軍事制度も近代化し、アヘン吸飲も禁止し、これまで禁じられた満漢の通婚を許しまた官吏の任用も満漢の別をはぶき、満漢の融和をはかった。

(武力の掌握)清朝政府は、1906年特に強大化した張之洞(湖広総督)と直隷総督袁世凱を中央政府の軍機大臣に任じ、それぞれの軍隊から引き離そうと試みた。慶親王は、1909年に袁世凱を失脚させ、1911年禁衛軍をつくり陸海軍大元帥を代行し、参謀総長、海軍大臣には実弟をあてた。そして新内閣では、国務大臣13名のうち満州人を8名任命し、そのうちの5名に皇族を任命した。
憲政施行準備と満漢対立

●しかし義和団事件の時も、清朝政府の命令に従わず義和団を攻撃したのは地方の漢人長官たちであり、中央と地方、満州人と漢人の対立は深まっていった。満州人保守派の、立憲制度への移行準備も、漢人の攻撃を弱めて清朝政権を確保することこそが目的であった。
●そして革命運動はいっそう激しくなっていった。

(重要事項)
●1908年10月(アメリカ)、「フォードT型」誕生。自動車時代を開く。
●1910年8月22日(朝鮮)、日本が大韓帝国を併合する。李王朝500年の歴史終わる。
●1912年1月(ドイツ)、地球物理学者のヴェーゲナー「大陸移動説」を発表する。
●1912年4月、イギリス豪華客船「タイタニック号」氷山に激突し沈没した。
「孫文」について「広辞苑」より引用。
中国の革命家・政治家。字は逸仙。中山と号。広東香山県の人。初め医者となり、やがて興中会を組織、さらに中国同盟会を結成、革命運動に尽力。しばしば日本へ亡命。1911年の辛亥革命に際し臨時大総統に選ばれたが、直ちに袁世凱に譲り、袁世凱、および段祺瑞らの軍閥の専制化に反対、反袁世凱運動をおこす。1919年中国国民党を組織し、さらに国共合作を進め、新三民主義を提唱、国民革命の実現をめざしたが、半ばにして北京で没。著「三民主義」「建国攻略」など (1866~1925)
「三民主義」「広辞苑」より引用。
民族・民権・民生の3主義からなる政治理論。1905年孫文が中国同盟会の綱領として提唱してから中国国民党の政綱となり、1924年同党改組以後、新三民主義とよばれた。近代国家としての中国の建設のため、国内諸民族の平等と帝国主義列強の圧迫からの独立(民族主義)、民主制の実現(民権主義)、平均地権・資本節制(民生主義)を眼目とし、それら3者の統一的実現を強調。
1911年10月10日辛亥革命始まる。武昌で革命派武装蜂起する。


●孫文は1909年頃にシンガポールから追われ、その後革命のための資金集めと遊説で世界中を巡っていた。孫文に資金を提供し続けたのは、全世界の華僑達だった。「華僑は、革命の母である」と孫文は言い残したといわれる。
●中国同盟会の後事を託されていたのは黄興、胡漢民らであった。彼らはこれまで同様に会党(三合会、天地会、哥老会など)に働きかけていたが、同時に新軍(義和団事件以後に各省で募集された新式の軍隊)にも運動し始めていた。光復会も新軍によって革命を起こそうとしていた。中国同盟会は、広東の興中会(孫文、胡漢民ら)、湖南の華興会(宋教仁、譚人鳳)、湖北の日知会、江蘇の光復会など、地域的な革命団体の大同団結によるものだった。1911年4月には、黄興の指揮によって両広総督の役所を襲い蜂起したが失敗した(黄花崗事件)。
●そして1911年10月10日、清朝湖北新軍の革命派メンバーが武昌で蜂起し、辛亥革命の口火を切った。そして12日までに漢陽の新軍、漢口の新軍も決起し、武漢三鎮(武昌・漢陽・漢口)が革命軍によって解放された。この湖北新軍(そのうちの5000人)の兵士らを、宋教仁らが設立した「中部同盟会」が、秘密組織である「文学社」と「共進会」とを連帯させることで懐柔し・掌握し、蜂起させたのであった。
●そして11月末までに全国のほぼ2/3にあたる14省が、次々と戦争らしい戦争をせずに独立していった。その大きな理由は、これまで清朝政府を支持していた地方の資産階級や郷紳層(郷里で大きな政治的・社会的発言権や各種の特権を賦与された社会階層の人たちで、退職官僚や進士合格者達)が清朝政府を見限ったときに革命が勃発したからであった。
●清朝政府は革命の勃発に対して、袁世凱(醇親王が失脚させていた)を革命軍鎮圧のために起用しようとした。北洋陸軍は袁世凱の私兵のようなものであったからである。当時の清朝の陸軍は、北洋新軍を中央軍、各省の新軍を地方軍として全国26鎮からなっていた。しかし袁世凱はなかなか動かず、ついに隆裕太后によって、醇親王は袁世凱を内閣総理大臣に任命して、清朝の実権をあけわたすに至った。これにより袁世凱は、腹心の馮国璋、段祺瑞を南下させ、たちまち漢口、漢陽を鎮圧した。しかし袁世凱は、圧倒的な武力と兵力を持っていたにもかかわらず北洋新軍を漢陽で停戦させた。
●袁世凱は、革命軍と清朝政府と列強の思惑を、天秤にかけたのであろう。そして12月の半ばを過ぎると、諸外国の講和要請に応える姿勢をみせ、革命軍にたいして講和を申し入れた。一方清朝に対しては、革命軍が北京に来れば皇帝の命も危ないと偽り、皇帝の退位を勧めた。


左上「辛亥革命の波及過程」の地図(出典:「新版世界各国史3 中国史」山川出版社1998年、2008年1版6刷刊)
1912年1月1日孫文、臨時大総統に就任。中華民国の誕生。

●独立した各省の代表者達は上海に集まり、孫文(1911年12月25日帰国)を臨時大総統に選び、南京に中華民国臨時政府を組織した。ここに民主共和の中華民国が誕生した。(写真)「臨時大総統就任のため、南京にむかう孫文」(出典:「クロニック世界全史」講談社1994年刊)
●しかし孫文は、切迫した戦闘状態の中での南北講和のなかで、民主共和を護るため1月22日次のような声明を発表した。
「清朝皇帝が退位し、袁世凱が共和制に賛成すれば、臨時大総統を譲る」
●2月12日、清朝皇帝溥儀退位。
●2月13日、孫文臨時大総統を辞任。
●2月15日南京の臨時参議院は、袁世凱を臨時大総統選出。

1912年2月12日清朝最後の皇帝、溥儀が退位

●清朝最後の皇帝、宣統帝溥儀(6歳)が総理大臣・袁世凱の圧力により退位した。ここに太祖即位から297年、世祖順治帝から268年目で、満州族による清王朝は亡びた。そして秦の始皇帝以来、2133年続いた専制王朝体制は、ここについに幕を閉じた。
●袁世凱は、次のように考えていたようである。「革命いまだ成らず」(下)譚璐美 著 新潮社2012年刊によれば、袁世凱は日本の取材に答えて次のように発言したとある。

「たとえ革命政権による共和政体が樹立したとしても、到底完全な統一を実現できるわけがないので、結局は従来の立憲政体を希望するのは自然の趨勢である。ならば一度共和を実行して不結果に終わるのを待って、一丸となって軍費財政を充実させ、完全な君主立憲政治を確立するのがよい。 」(1911年12/25付 東京朝日新聞)

●また袁世凱に対する清朝の思いは次のようであった。東京朝日新聞は「太后、袁を恨む」との小見出しをつけ、北京特電で次のように報じたとある。(注)「太后」=隆裕太后、光緒帝の皇后《孝定景皇后》で、最終的に和平派に傾き、皇帝退位の決断をした。

「袁内閣の意向が実は共和制を採用する方向に傾きつつあるのを見て、袁世凱が君主立憲制を標榜しているのは、全く一時のごまかしの政策であったと悟った皇太后は、袁世凱の不誠実をひどく恨んで、終日泣き暮らしている。もし漢陽を占領した後、一撃の下に武昌を攻撃すれば、革命軍を圧倒することは簡単なことであったのに、袁世凱はそうせずに、革命軍の歓心を買うために停戦を申しこみ、今また列国に調停を嘆願して、共和制の政権を樹立するのもやむを得ない事態に至らしめようとしている。満州王朝を今日のような衰退に陥れたのは、袁世凱であるとして、各皇族たちはますます彼を深く敵視し、慶親王もまた袁世凱を信頼しすぎたことを、今更のように後悔しているという」(1911年12/26付 東京朝日新聞)
1912年3月10日袁世凱、臨時大総統に就任し独裁を強める。


●袁世凱は、南京には南下せず、北京で臨時大総統に就任し、実質の中華民国臨時政府組織を北京に移していった。
●一方、8月には宋教仁(=孫文とは異なり、理想を議会制民主主義の国家体制としていた)らが、中国同盟会に群小政党を合同して「国民党」を結成した。そして1912年末に行われた中華民国最初の衆参両院で、国民党は多数を占めた。
●この動きに袁世凱は弾圧を強め、1913年3月国民党の実権者である宋教仁を上海で暗殺した。さらに国民党系の指導者達をいっせいに罷免した。これに反発した国民党の急進派は、孫文の指令により各地で武装蜂起(1913年7月~9月)を起こした。これを第2革命という。しかし9月1日に南京を占領され、すぐに鎮圧されてしまった。孫文・黄興らは1913年8月、日本に亡命した。
●そして袁世凱は、1913年10月に正式な大総統に就任すると独裁を強め、11月に国民党の解散と同党の国会議員438名の議員資格を剥奪し、1914年1月には機能がマヒしていた国会を廃止した。そして1914年5月には、大総統の権限を強化し、立法府の権限を弱めた新憲法(中華民国約法)を公布した。(袁世凱は1913年4月に、5カ国借款団《日本、イギリス、ロシア、ドイツ、フランス》から中国復興のため2500万ポンド《2億5000万元》を借り入れ、諸外国から信用を得ていた。)


(上写真)袁世凱と天壇(圜丘壇か?)で皇帝になる儀式を行う袁世凱(出典:「写真記録日中戦争」ほるぷ出版1995年刊)
1914年7月東京「中華革命党」を結成

●一方で孫文らは、1914年7月東京にて「中華革命党」を結成した。孫文の宣誓書は次のようである。「血の宣誓」であったという。

「誓約書」
宣誓人・孫文は、中国の危急を救い、国民の困苦を救い、自らの身命と自由の権利を捨てて、同志を統率し、再度革命を起こし、民権、民生の2つの主義を達成し、5権憲法を創設し、政治を治めて国民を平和にし、国家の基礎を強固にし、世界の平和を維持することを、特にここに誓うものである。
そして未来永劫ここに約し、死しても違わず、万一二心あれば、甘んじて極刑を受く。
中華民国広東省香山県 孫文(血判)
(出典)「革命いまだ成らず」譚璐美(たん・ろみ)新潮社2012年刊

●その後袁世凱は、1916年1月に帝政復活を試み帝位についたが、この反発は大きく、地方の軍閥は次々と反旗を翻し、全国に起きた反袁世凱闘争の中で、3月袁世凱は帝政を取り消し退位した。そしてその後あっけなく病死した。(1916年6月)

1914年7月28日第1次世界大戦勃発。オーストリア、セルビアに宣戦布告。

●3国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア)と3国協商(イギリス・フランス・ロシア)との対立を背景として起こった人類初の世界的総力戦である。そして同盟側にはトルコ、ブルガリアが参加し、協商側には、同盟側を脱退したイタリアのほかベルギー、日本、アメリカ、中国などが参加して世界大戦と発展していった。
●アメリカは1914年8月の時点では、ウイルソン大統領が中立を宣言し、建国以来の外交方針である「孤立主義」を堅持していた。(アメリカは1917年、「世界の民主主義を救え」へと、ついに参戦した。)
●日本は1914年8月23日にドイツに宣戦布告を行って交戦国となった。この日本の参戦目的と中国をめぐる列強の影響は次のようである。

第1次世界大戦、日本の参戦目的と中国をめぐる列強の影響
日本は、自国を欧米列強と並ぶほどの世界的地位へ高めることが目的。

●日本は、欧州大戦の勃発をチャンスとみて、日英の利益に反するドイツの根拠地(膠州湾・青島や太平洋の島々のトラック島・サイパン島など)を東洋から一掃し、中国における日本の地歩を固めることを目的とした。イギリスは東洋での日本とロシアの進出をある程度黙認していたが、日本の攻撃は、山東半島のドイツの根拠地にのみに限定すべきと考えていた。(日英同盟は1905年、1911年と2度更新されている。)
●この目的に従って日本は、ヨーロッパ諸国からの、陸海軍のヨーロッパへの派兵要請をすべて拒否した。日本は「・・その唯一の目的は国防にあるがゆえに、帝国軍隊を遠く外征させることはできない・・」とその後も拒否続けたが、1917年に講和会議での発言権を強めるため、イギリス・フランスの要請(ドイツ潜水艦攻撃から防御)により、海軍特務艦隊を地中海などへ派遣した。(日本は、イギリス・フランス・ロシアから代償として、山東半島のドイツの利権と赤道以北のドイツの南洋諸島の利権を、秘密条約によって保障された)
(上写真)膠州湾の青島港(ドイツ海軍基地)(出典:「世界の歴史14」中央公論社1963年刊

ロシアは第1次世界大戦に参戦することによって、危機をすり替えようと考えた。

●ロシアは国内の労働運動・ストライキが続く革命運動による危機を、総動員令を発し第1次世界大戦に参戦することによって、危機をすり替えようと考えた。
●ロシアの内政不安は、日本からの武器援助を求める秘密協定(1907年、1910年、1912年)となり、ロシアは日本に対して、代償として満州・蒙古(モンゴル)の勢力範囲の分割を約束した。そしてロシアは1916年の秘密協定で、日本の武器援助の代償として、松花江以南の東清鉄道支線を譲渡することとなった。さらに第3国との戦争時には、両国は互いに軍事的に援助するというもので、この日本とロシアの接近は特にアメリカを刺激した。


1917年のロシアの社会主義革命

●しかし一番大きな中国への影響は、ロシアの社会主義革命「2月革命」と「10月革命」によって、ソビエト政権が樹立されたことである。そしてソビエト政府は、「平和に関する布告」や「ロシア諸民族の権利宣言」を発表し、「無併合」「無償金」「民主的平和の原則」「民族自決の原則」を声明し帝国主義戦争を否定したことである
(右写真)レーニン(出典:「世界の歴史14」中央公論社1963年刊

●アメリカ大統領ウイルソン(民主党)は世界平和のために「14か条の綱領」を発表

●ソビエト政府の平和の原則に対して、アメリカも世界平和のために1918年1月「14か条の綱領」を発表した。それは、「秘密外交の排斥」「海洋の自由」「貿易条件の平等」「軍備縮小への保障」「植民地は人民の利益を考慮して主権を決定する」「大小国家が、独立および領土保全を相互に保障するため、恒常的な国際連合を設立すること」などである。特に最初の「秘密外交の排斥」とは、ソビエト政府が旧ロシア帝国の秘密協定を暴露したことがきっかけであった。(一例。1916年5月イギリスが、フランスとロシアを加えた3カ国で中東地域の分割の秘密協定を結んだ《サイクス・ピコ協定》など)
(左写真)ウイルソン大統領(出典:「世界の歴史14」中央公論社1963年刊

12-8
年・事項・内容
1915年1月18日北京「対華21か条要求」と「国恥記念日5/9」

●日本の加藤外相(大隈内閣)は、日置中華公使に指令し第1号~5号全21項目の要求(日本の権益拡大)を、袁世凱中華民国大総統に手交(提出)させた。この日本の要求は、世界の外交史にも例の無いもので国際問題化し、特にアメリカは痛烈な抗議を日本に対して行った。そこで日本は最後通牒を発し、第5号の大部分を除いて、1914年5月9日に要求を袁世凱に認めさせた。中華国民はこの屈辱により5月9日を「国恥記念日」として、以後反日・排日運動を本格化させていく。要求の簡単な概要は以下の通りであった。

●第1号は「日本が山東省の旧ドイツ利権を受け継ぐことを認めよ」という要求。
●第2号は「『南満州および東部内蒙古における日本国の優越なる地位を承認する』条約を結べ」という要求。この中には、旅順・大連の租借期限と満鉄・安奉両線の期限を、それぞれさらに99年ヵ年づつ延長する要求が含まれており、南満と東蒙を完全に日本の事実上の植民地にする要求であった。
●第3号は「漢陽の製鉄所や鉄山・炭鉱を経営する公司を日中の合弁とする」要求。
●第4号は「中国の沿岸の港および島を、他国に割譲または貸与しない」ことの要求。
●第5号は、問題になった内容で、要求ではなく希望としたが、まるで戦争で圧倒的に勝った国が、敗戦国に押しつけるようなものだった。その簡略した概要は次のようである。「政府に日本人の財政および軍事顧問を置くこと」「日本の病院・寺院・学校にその土地の所有権を認めること」「中国の警察を日中合弁とし、日本人の警察官を多数雇用すること」「中国政府の兵器の半数以上を日本が供給するか、日中合弁の兵器廠を設立する」「各地の鉄道の敷設権の要求」「港湾設備の外国資本の締め出し」「中国での日本人が布教する権利を認めること」などであった。


●これに対して袁世凱は憤慨して次のようにいったと報告『我提案に関し袁大総統憤慨の口吻を坂西大佐に洩らし・・』には次のようにある。

「・・袁は頗(すこぶ)る憤慨したる語気を以て日本国は平等の友邦として支那を遇すべき筈なるに何故に常に豚狗の如く奴隷の如く取扱はんとするか・・」


●また日本はどうかといえば、1932年三省堂発行の「実業教科・東洋歴史」からこの『日・支条約内容』の部分を引用してみる。旧漢字は改めた。《》内は星野補注。当時の日本国民の意識がわかる。

●日・支條約の内容
右の日・支條約の草案が21箇條であったので、俗に之を21箇条の條約といふ。しかし、実際に結ばれた條約は13箇条で、内容も余程草案と異ってゐる。そして右に記した(3)即ち山東省問題の解決した今日では、(1)=《99ヵ年延長要求》及び(2)=《南満州・東蒙古の日本の特別権益を認める》に関する規定が残存するに過ぎない。しかもそれがいづれも当然の規定のみである。然るに支那の無智の学生や職業的扇動家等が、この條約の結ばれた5月7日を国恥日と称して、毎年さわいでゐるのは、実に不当といはねばならぬ。

●この「対華21か条要求」については、下記「外務省 日本外交文書デジタルアーカイブ」のリンク先から確認することができる。○「大正3年(1914年) 第3冊」「7 対中国諸問題解決ノ為ノ交渉一件」の中の、12/3「中国に対する要求提案に関し訓令の件」の附属書の中に条約案が記載されている。そして○「大正4年(1915年) 第3冊上巻」「4 対中国諸問題解決ノ為ノ交渉一件」「 1 中国トノ交渉」の「1月18日袁大総統に我提案を手交済の件」で報告されている。

*リンクします「大正3年(1914年) 第3冊」「大正4年(1915年) 第3冊上巻」
「外務省 日本外交文書デジタルアーカイブ」
1915年9月陳独秀らが「青年雑誌」(=のちに「新青年」と改称)を創刊する。

●新文化運動「新青年」とは、儒教的な旧制度・旧文化に反対して、陳独秀・胡適・魯迅らが提唱し、反儒教運動・白話運動などを中心に、民主主義と科学精神とを標榜する新文化の樹立、社会の近代化を推進。反封建的性格を持ち、5・4運動の原動力となった、とあります(広辞苑より引用)。当時の北京大学では、自由主義者の蔡元培学長が新進の人材の抜擢をおこない、革新ジャーナリスト陳独秀を文学部長、マルクス主義者李大釗を図書館主任、無政府主義者の李石曽を生物学教授に、そして26歳の胡適も教授に迎えた。そして彼らの北京大学での革新運動は、全国の革新運動を指導していくことになり、「新青年」はその運動の中心的機関誌となっていった。


(左写真)「陳独秀」(出典:「クロニック世界全史」講談社1994年刊)
陳独秀、写真の取り違い。

●「革命いまだ成らず」(下)譚璐美 著 によれば、本当は陳独秀は2人写真の左の人物で、右の人物と取り違えられたとあります。1人で写っている中央公論社1963年刊の「陳独秀」の写真は間違っているということである。
●しかし一番上の「クロニック世界全史」の写真も、右の写真の左右どちらの人物とも似ていない気がするがどうであろうか。(2人写真)陳独秀(出典)「革命いまだ成らず」(下)譚璐美 著 新潮社2012年刊と(1人写真)「世界の歴史14」中央公論社1963年刊

1918年魯迅「新青年」誌上に「狂人日記」を発表する

●そして魯迅は「阿Q正伝」などを次々に発表していく。「魯迅」を「広辞苑」より引用してみると、以下のようである。
『魯迅・・中国の文学者。本名周樹人。浙江の人。中国近現代文学を代表する存在である。日本で医学を学んだが、文学による民族性の改造を志し、処女作「狂人日記」以後、創作・社会批評・海外文学紹介などに努める。「阿Q正伝」で中国の国民性を批判した。ほかに「吶喊」「彷徨」「野草」など。(1881~1936)』
左写真「魯迅」(出典:「クロニック世界全史」講談社1994年刊)


*リンクします「魯迅全集」井上紅梅 訳 改造社1932年刊 より「阿Q正伝」コマ番号51国立国会図書館デジタルコレクション
中国の赤い星

●毛沢東が、「中国の赤い星」の著者エドガー・スノウに、当時を語ったところを一部抜粋してみる。毛沢東は李大釗によって北京大学の図書館に勤めることができた、といっている。(出典:「中国の赤い星」p106~p111筑摩書房1952年初版・1957年10版発行より)

●「中国の赤い星」
「北平はひどく金がかかるように思われました。私は友人から金を借りてこの古都へ到着したので、着くとすぐ職を見つけなければなりませんでした。私の師範学校時代の倫理の教師だった楊昌済が国立北京大学の教授になっていました。私が仕事の口を見つけてくれるように頼んだところかれは同大学の図書館主任に紹介してくれました。それが李大釗でした。この男はのちに中国共産党の創立者になりそのご張作霖に殺害されました。李大釗は私に図書館の助理員の仕事をくれ、私はそれで月8元の十分な俸給をもらっていました。

下

12-9
年・事項・内容
1917年~段祺瑞、実権を掌握。張作霖の台頭。

●軍閥が割拠し段祺瑞が北京政府を握り、満州(中国東北部)では張作霖が台頭し、広東軍政府(孫文)が樹立された。
●袁世凱の死後、中央政府の実権を掌握したのは、安徽派軍閥の巨頭・段祺瑞であった。段祺瑞は袁世凱によっていったんは廃止された国会との対立の中で、1918年に自身の議員を多数派にして成立させ実権を握った。日本は巨額の資金援助(西原借款など)を行い結びつき、日本に都合の良い軍事協定を結び、また中国をドイツに参戦(1917年8月)させた。この軍事協定は、シベリア干渉戦争での日中両軍の協力を口実に、日本軍の中国での行動を容易にさせた。
●一方満州では、東北3省(奉天・吉林・黒竜江)の実権を握っていた軍閥の張作霖が台頭してくる。日本はこの張作霖を、日本の権益を守る代理人と考え支援を行っていく。1917年5月に張作霖は北京政府からの独立を宣言する。(2枚写真)上左「段祺瑞」と「張作霖」(出典:「世界の歴史14」中央公論社1963年刊

1917年9月広東軍政府の樹立

●一方政界から離れていた孫文は、広東軍政府の樹立を宣言した。これは北京政府の実権を握る段祺瑞に対抗するもので、国民党系議員や西南軍閥との連合政権であった。

(上写真)孫文と広東軍将校たち(出典:「クロニック世界全史」講談社1994年刊)
1919年「中華革命党」を「中国国民党」へ改組

●孫文は、1914年に結成した「中華革命党」を上海の租界に本部置く「中国国民党」に改組した。
●モスクワで、レーニンの発案によるコミンテルン(第3インターナショナル)が創立される。国際的な革命組織である。30カ国の代表52名の参加した。

1919年1月~6月パリ講和会議、ヴェルサイユ条約、5.4運動

●第1次世界大戦の戦後処理問題を討議する会議がフランスのパリで開かれた。中国は、日本の 山東占領と 21か条問題があったため、会議に対して大きな期待を寄せていた。それは、ロシアのソヴィエト革命政権による「無併合」「無賠償」「帝国主義の否定」やアメリカのウイルソン大統領の 14か条の宣言が、中国の追い風となることを期待したためであった。そのため中国は、北京政府と広東政府合同の代表団を結成して、パリ講和会議に臨んだ。しかし1919年4月、会議は中国とアメリカによる山東返還要求を拒絶する決定を下した。これは1917年にイギリスとフランスが、日本に秘密条約で山東と旧ドイツの南洋諸島(赤道以北)の利権を保証していたからであった。アメリカの理想主義は、イギリスとフランスにより譲歩させられたわけである。(中東のアラブの独立問題も同様であった)
●中国国内では、陳独秀はこのウイルソン大統領に強く失望し、マルクス主義に急速に傾斜していったといわれる。そして1919年5月4日、北京の学生たちは「外に国権を争い、内に国賊を討て」「21か条を廃止せよ」「命をかけて青島を取り戻せ」と排日スローガンを掲げデモを行った。この排日運動は全国に広がる「5.4運動」のきっかけとなった。

この「5.4運動」は、北京から天津、上海、広東、漢口などの大都市から全国規模に広がっていった。この学生たちの思想運動から始まった革新運動は、この5月4日の事件で排日運動、反政府運動(反軍閥)、反帝国主義として発展し、大きな中国民衆のナショナリズム(民族主義)の高揚となっていった。そしてこの5.4運動の高まりと抗議運動は、時の政権を動かし、ヴェルサイユ条約の調印を拒否させるほどのものとなった。
●この5.4運動は多くの影響を与え、毛沢東(長沙で活動)や周恩来(天津で活動)そして孫文にまでにも、中国の革命には民衆の団結が必要であることを教えた。

(朝鮮では、日本に対する独立運動が1919年3月1日から始まった。「3.1独立運動」)

重要語(世界の動き1910年代)
●1914年7月、第1次世界大戦勃発。
●1914年8月、パナマ運河開通(着工から34年)。
●1915年5月、ドイツ潜水艦Uボートが、イギリス豪華客船ルシタニア号を撃沈(1198人犠牲)。アメリカはドイツへの反発を強める。
●ドイツ毒ガス兵器を使用。これ以後、戦闘に毒ガス攻撃はつきものになる。
●1917年4月、アメリカがついにドイツに参戦する。
●1917年10月、ロシア10月革命が起こる。ソヴィエト政権樹立。
●1918年8月シベリア出兵。シベリア方面は、アメリカ、日本(7万5000人)、イギリス、フランスが出兵し、バイカル湖以東のシベリア要地を占領した。
●1918年3月、ソヴィエト政府ドイツと単独講和(ブレスト・リトフスク条約)
●1918年10月日本でスペイン風邪38万人死亡。全世界で2000万人以上が死亡した。
●1918年11月、ドイツで革命がおき、皇帝ヴィルヘルム2世が退位する。ドイツ休戦協定に調印、第1次世界大戦が終結する。
中国共産党の成立(1920年8月)・中国共産党第1回全国代表大会(1921年7月)

●陳独秀らは上海で共産党の前身である中国社会主義青年団を結成した。そして1921年7月には、中国共産党第1回全国代表大会の開会式を行い(中国共産党の成立)、初代総書記に陳独秀を選出した。コミンテルンは、1920年から李大釗や陳独秀と接触し、共産党の結成を働きかけていた。第1回全国代表大会では、毛沢東はまだ末席の記録係だった。

1921年11月~1922年2月、ワシントン会議、中国の主権・独立・領土保全を9か国が保障

●この会議の参加国は9か国で、アメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリア、中国、オランダ、ポルトガル、ベルギーであった。
●この会議で調印されたおもな条約は、①海軍軍縮の5か国条約。②日英同盟破棄の4か国条約。③中国の主権・独立・領土保全を保障する9か国条約、などである。これにより日本は旧ドイツの山東における特殊権益を放棄した。また1917年のアメリカとの石井・ランシング協定(アメリカは日本の特殊権益を認め、日本は中国の門戸開放を認めるという内容)は破棄された。

「大亜細亜(アジア)主義」 孫文  講演 

●ここで、孫文が日本の神戸で行った「大亜細亜(=アジア)主義」と題した演説を引用する。これは孫文が、1924年11月28日に神戸商業会議所など 5団体の招きに応じて、旧制神戸高等女学校講堂で演説したものである。100年後の現代においても、東アジアの政治・文化の方向性を指し示しているのではなかろうか。

『今後日本が世界の文化に対し、西洋覇道の犬となるか、或は東洋王道の干城(かんじょう=国家を守る武士・軍人)となるか、夫(そ)れは日本国民の慎重に考慮すべきことであります。』

と講演を結んでいる。
(注)漢字国名はカタカナを補い、旧漢字は新漢字にした。またこの原典を引用した「国立国会図書館デジタルコレクション」にはページの入れ違いがあったので、読み替えた。文章の最後の露国は、社会主義国ソ連のことであろう。(出典)「大亜細亜主義」  孫文全集. 第3巻コマ番号112から120まで
 外務省調査部 訳編 第一公論社 1939-1940刊。

 大 亞 細 亞(アジア) 主義
(民国13年11月28日神戸高等女学校に於て神戸商業会議所他5団体に対してなしたる講演)
 諸君、私は本日諸君より斯くの如き歓迎を受けまして実に感激に堪えません。本日は皆様より亜細亜(=アジア)主議と云ふことに付(つい)て、私に講演しろと云ふ御話でありました。所で此の問題に付て講演するには、我(わが)亜細亜(=アジア)とは一体どんな所あるかを先づはっきりさせて置かなければなりません。

下

*リンクします「大亜細亜主義」  孫文全集. 第3巻コマ番号112から120まで
 外務省調査部 訳編 第一公論社 1939-1940刊国立国会図書館デジタルコレクション
*リンクします「第7編 大亜細亜主義」コマ番号603から611まで
 孫文主義. 上巻 孫文 著[他]  [外務省調査部]  1935-1936刊国立国会図書館デジタルコレクション

当時の中国を巡る日本とアメリカなどの関係
1900年頃、アメリカの中国人移民禁止と日本人移民禁止。日米対立へ。

●アメリカは1905年、中国人移民を永久に禁止した(中国国内では、激烈なアメリカ商品の排斥運動とボイコットが起きた)。それに続いてアメリカは、ハワイやカリフォルニアでの日本人移民に対する排斥運動の高まりから、1921年移民割当法、1922年日本人のアメリカ帰化権を否定、そして1924年5月の移民法で、アメリカ帰化権のないもののいっさいの入国を禁止した。

1911年前後、辛亥革命の頃、日本とアメリカの対立とロシアとの協約

●アメリカは中国の門戸開放を要求し、満州の鉄道全部を中立化することで、イギリスと共同で鉄道を建設しようと試みた。また1910年には、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツで合同の借款団をつくり、満州の工業開発を行おうと試みた。それに対して日本は、その借款団に加わり自国の特殊権益を各国に認めさせることができた。
●辛亥革命の時、日本は清朝政府を援助したが、イギリス・アメリカは袁世凱と取引をすすめ、袁世凱の野心を利用して革命を骨抜きにしようとした。また日本は、1907年、1910年、1912年と日露協商を結び、ロシア(内政不安)に対する武器援助の見返りに、満州と蒙古に勢力範囲の分割境界線を定めた。そして参謀本部は日本政府の意向を無視して、満州の中国からの分断・独立を画策して事件も起こした。

第1次世界大戦(1914年~1918年)・パリ講和会議(1919年)・ワシントン会議(1921年~1922年)頃

●日本は1914年には、工業生産額が農業生産額を上回り、さらに1920年世界大戦後には、さらに規模を拡大し工業国の仲間入りを果たした。そして日本はアジアの小国から、イギリス、アメリカに次ぐ世界第3位の海軍国となり、イギリス・アメリカ・フランス・イタリアと並んで、世界の5大帝国主義強国となり、国際連盟の常任理事国となった。日本は連合国からの軍需品の注文と、交戦諸国のアジア市場からの撤退もあり、1919年~1920年頃に戦時中を上回る空前の繁栄を誇った(株式投資も加熱した)。
●アメリカはパリ講和会議でも、中国に対する新4か国借款団(アメリカ・日本・イギリス・フランス)の結成を提唱して、各国の持っている優先権を共有しようとした。この提唱は日本が持つ満蒙における特殊権益(遼東半島・南満州・山東)を否定するものであり、日本は1年5ヶ月に及ぶ交渉を通して、なんとか日本の権益を対象から外すことができた。

日本はワシントン会議(1921年~1922年)で山東の権益を失う

●ワシントン会議でのアメリカの目的は以下のようであった。
①海軍軍縮
②日英同盟の破棄
③中国に対する日本進出の阻止。
●日本は、軍縮会議と平行して行われた「中国の主権・独立・領土保全を保障する9か国条約(アメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリア、中国、オランダ、ポルトガル、ベルギー)」で山東(旧ドイツ租借地の権益)を中国に返還した。
●日本は原敬に政権が代わり、大隈重信、寺内正毅時代からの対外政策を、アメリカと協調する現実路線に変更した。このままでは日本が国際社会で孤立してしまう恐れがあったからである。日本はシベリア出兵を各国が撤退した後も単独で続け、連合国から領土的野心も疑われていたこともあった。原敬首相は藩閥に対して、政党内閣の実現を終生の念願とし、また統帥権の独立の廃止すら考えていたが、1921年11月右翼の青年によって暗殺された。(写真)左・寺内正毅総理大臣から、右・原敬総理大臣へ(出典:「日本の歴史」読売新聞社1963年刊)
●ワシントン会議でのメインの議題は、軍備制限問題であった。各国は第1次世界大戦によって急速に進歩した軍事技術(飛行機・戦車・毒ガスなどの新兵器・重火器《大砲》の大型化・軍艦の近代化)により、従来の軍備を一新する必要にせまられた。しかしそのために各国の財政負担は莫大のものとなり、同時に起こった世界平和に対する風潮は、各国で軍事費増大に対する批判を高めていた。特に海軍の建艦費が大きく、アメリカでも1921年度の海軍予算可決の際には、アメリカ・イギリス・日本で軍縮会議を開け、という付帯決議がされるほどになった。一方日本海軍の建造計画も、アメリカ海軍を仮想敵国としたため大規模なものになっていった。日本での軍事費は、1920年度で明治維新後最大規模に達し、陸軍省関係で2億4千万円、海軍省関係で4億余万円、計6億5千万円弱で政府歳出総額の48%を占めた。1921年度はさらにこれを上まわり、計7億3千余万円となり歳出総額の49%に達した。各国は軍拡競争をやめざるをえなくなったわけである。
●またアメリカはイギリスに対して、1921年に期限が切れる日英同盟を更新しないように要望した。アメリカにとって日英同盟は、もし対日本戦争が起こった場合イギリスが日本側につくおそれとなるからであった。カナダ(アメリカと利害関係の深い)は同盟解消に賛成し、オーストラリア・ニュージーランドは(日本が攻めてこない保障のため)同盟の存続を望んだが、イギリスは、日本側が切望していた日英同盟を解消した(更新しなかった)。

1921年の原内閣の基本方針(中国に対する基本方針)、外相・幣原喜重郎に引き継がれる

●「満蒙に対する政策・閣議決定」(要点)が決定され、「東方会議」が開催される。この「東方会議」は、南満州・韓国の地域を対象とする政策立案のための会議であった。メンバーは、首相・外相・蔵相・陸相・海相らの閣僚と、朝鮮総督・朝鮮軍司令官・関東庁長官・関東軍司令官・駐北京公使・駐奉天総領事らであった。
●しかし幣原外相は、積極的な中国政策を行わなかったため「政府の中国政策が軟弱で、在留邦人の生命財産をも、ろくに守らない」と激しく非難を浴び、「強硬外交」の田中内閣へ代わっていく。(写真)幣原外務大臣(出典:「日本の歴史」読売新聞社1963年刊)


●「満蒙に対する政策・閣議決定」(要点)

満蒙は、国防上並びに国民の経済的生存上、緊密の関係にあり、満蒙に日本の勢力を扶植することは日本の満蒙対策の根幹である。

●具体的政策

世界の大勢である国際的傾向と民族自決主義は、日本の満蒙対策を、侵略的傾向と誤解するかもしれないので、満蒙対策の実行に際しては細心の用意とこまかな熟慮が必要である。

(注)関東州とは、遼東半島先端部(大連・旅順など)と南満州鉄道付属地を併せた租借地であった。この鉄道付属地というのが多くの権益を含んでいて、線路の両側の66mの土地や主要駅周辺に市街地を作るための土地なども含まれた。そして日本は鉄道守備隊の駐留権を認めさせたので、鉄道の総距離に応じて多くの兵力を駐屯させることができた(1km当たり15人以内)。また鉄道沿線にある炭鉱(例えば撫順炭鉱など)等の経営権も含まれた。

12-10
年・事項・内容
1919年と1920年カラハン宣言

●ソヴィエト政府は、北京政府に対して国交回復の呼びかけに続いて、「カラハン宣言」を行った。これはソヴィエト政府が旧ロシアが持つ権益を否定したもので、義和団事件の賠償金の停止や、東清鉄道の権益の返還などがあった。このソヴィエトのカラハン宣言は北京政府のみならず、国権回復運動がさかんになってきた中国全体に大きな波紋をよびおこした。そして1923年カラハンは北京で、国交回復の大綱として①不平等条約は無効②外モンゴルの主権は中国にあること③北満(東清)鉄道は中国とソヴィエトとの合弁、ということにまとめた。(写真)カラハン(出典:「世界の歴史14」中央公論社1963年刊

1921年コミンテルン、孫文と接触する。中国国民党と中国共産党

●コミンテルンから派遣されたマリングは、上海で中国共産党を組織した後、南の孫文と接触した。孫文はかねてから私有財産を否定する共産主義に対して疑問を持っていたが、マリングとの会見でソ連の新経済政策が自分の考えと同じ事を知り喜んだという。
●マリングはモスクワに帰り、孫文の革命指導者としての能力を高く評価してコミンテルンに報告した。まもなく中国共産党が中国国民党を支援していくことになるが、その理由は次のようなレーニンの考えであった。

①プロレタリアート革命の援軍として各国に共産党を作る。(1920年インドネシア共産党創設。イラン共産党創設。1921年中国共産党創設。1922年日本共産党創設。1924年朝鮮共産党成立など)
②アジア植民地における民主化運動は、先進的であり民族ブルジョアジーによって行われる革命的ナショナリズムであるとした。だからコミンテルンは、ブルジョアジーが革命的である場合に限り、支援することを決定した。
③そしてコミンテルンとは別にソヴィエト政府は、革命勢力と敵対する北京政府や他の軍閥を支援し、外国干渉国(日本やイギリス)に対抗させた。
④こうしてコミンテルンは、孫文のひきいる中国国民党を革命的ブルジョア政党として支援することを決定した。

●1922年コミンテルンを代表するマリングは、中国共産党員が1人1人中国国民党に加入して、国民党内で合作していくことを決定した(陳独秀は、共産党員は国民党外にあって協力すべしとして反対した)。
●1923年ソヴィエト政府のヨッフェは、上海に亡命中の孫文を訪ね、2人は「孫・ヨッフェ共同宣言」を発表した。このなかで孫文はカラハン宣言の完全実施を求め、かつ中国にはソヴィエト体制は適さないとの条文を入れた。一方ヨッフェは中国の独立と統一のための援助を確約し、共産党との協力を要請した。


(上2枚の写真)「レーニン」「孫文と蒋介石」(出典:「世界の歴史14」中央公論社1963年刊
1922年4月第1次奉直戦争

●呉佩孚らの直隷派と張作霖らの奉天派とが対立し武力衝突となる。
その結果、直隷派が北京政府を支配する。

1923年2月孫文、広東政府大元帥に就任

●孫文は再び広東政府に迎えられて、大元帥に就任した。そしてこの新広東政府とソ連との関係は緊密となっていった。8月には蒋介石と張太雷が、ソ連式軍事組識と政治委員制度をソ連に数ヶ月逗留して学びに行った。そして11月頃から政治顧問(ボロディン)や軍事顧問(ガレン)ら数十名のコミンテルン顧問が広東政府に到着し、同時に援助武器も次々と到着した。

1923年6月中国共産党国共合作を決定

●中国共産党が第3回全国代表大会を開催し、中国国民党との合作を決定する。

1924年1月国共合作が成立

●中国国民党第1次全国代表大会が広東の広州で開かれ、根本方針を「ソ連と連合し、共産党を容認」する「国共合作」が成立した。孫文は民族の統一と独立をまもるために、連ソ・容共・扶助工農(ソ連および中国共産党と提携し労働者・農民を援助する)という三大政策を提唱し、国民党は改組され、第1次国共合作を正式に決定した。選ばれた中央執行委員のなかには、李大釗ら3名の中国共産党員があり、候補執行役員のなかには毛沢東の名もあった。
●そして孫文は、悲願であった真の革命軍養成のために、蒋介石を校長に「黄埔軍官学校(広州の郊外)」を設立した。(ソ連とコミンテルンからの援助。武器は帝政ロシアが日本から買い入れた日本製の武器だった)また共産党を代表して同校に派遣されたのが周恩来だった。またやがて農民運動の指導者を養成するために設立された農民運動講習所の所長が毛沢東だった。


「周恩来」「広辞苑」より引用。

周恩来・・中国の政治家。江蘇の人。初め日本に留学、5・4運動に際し天津で活動。のちフランスに留学、中国共産党フランス支部を組織。西安事件以来、国共合作に努力。人民共和国成立と共に政務院(のちの国務院)総理兼外交部長、以後死ぬまで首相。(1898~1976)

左写真「蒋介石」(出典:「日本の歴史」読売新聞社1963年刊)。
左写真「周恩来」(出典:「近代史日本とアジア上」古川万太郎著 婦人之友社2002年刊)

1924年9月第2次奉直戦争

●張作霖率いる奉天軍が、直隷軍に宣戦布告、15日、北京政権をめぐる第2次奉直戦争が勃発する。

1925年3月12日孫文59歳北京に死す。国民党員への遺囑(いしょく)

●ここで、中国の「国父」であり「近代革命先行者」である孫文の遺嘱(いしょく=遺託)を引用する。

余致力國民革命,凡四十年,其目的在求中國之自由平等。
(余、力を国民革命にいたすこと、すでに凡そ40年、その目的は中国の自由平等を求むるにあり。)
積四十年之經驗,深知欲達到此目的,必須喚起民眾及聯合世界上以平等待我之民族,共同奮鬥。
(しかして40年の経験により、この目的を達せんとほっせば、必ずことごとく民衆を喚起し、かつ世界において平等をもって我が民族を待つものを連合し、これと共同奮闘するの要あるを知れり。)
現在革命尚未成功,凡我同志,務須依照余所著《建國方略》、《建國大綱》、《三民主義》及《第一次全國代表大會宣言》,繼續努力,以求貫徹。
(現在、革命なお未だ成功するに至らず。およそ我が同士はすべからく余の著すところの建国方略、建国大綱、三民主義および第1次全国代表大会の宣言により継続努力し、もってこれが貫徹を期すべし。)
最近主張開國民會議及廢除不平等條約,尤須於最短期間,促其實現。是所至囑!
(最近の主張たる国民会議の開催および不平等条約の排除は、ことに最短期間においてこれを実現するを要す。これ遺囑するところなり!) 
孫文 3月11日補簽 
中華民國14年2月24日
筆記者 汪精衛
(訳文・出典)「革命いまだ成らず」譚璐美(たん・ろみ)新潮社2012年刊
1925年5月30日5・30事件発生

●上海の共同租界で、中国人労働者らが、日本人経営の紡績工場へデモを行い、結果このデモ隊にイギリス人警官隊が発砲し、流血事件となる。この紡績工場では2月に、旧正月を間近に迎え日本人には月給を支払ったが、中国人職工には給料の支払いを延期したことからストライキが始まった。このストライキも指導したのは共産党だった。中国共産党は創設以来、党員は率先して大衆の中に入って大衆の組織化に力を尽くしていた。この5・30事件により、6月1日から上海全市がゼネストに突入、反帝国主義運動が全国の主要都市に広がった。(香港ストライキ、広州市デモ隊10万人へイギリス・フランス陸戦隊発砲など)

1925年7月1日中華民国の成立

●これを機に広州で国民党が汪兆銘を主席に、中華民国・国民政府(広東政府)の成立を宣言した。

1926年3月18日、3・18事件。北京の天安門広場で軍警察が発砲

●軍閥政府に反対して北京の天安門広場で学生民衆が国民大会を開く。それに対して軍・警察がデモ隊に発砲し死者50人余り、負傷者160人余が出る。

1926年3月20日中山艦事件

●蒋介石(国民革命軍第1軍軍長)が広州に戒厳令を敷き、沿岸警備艦中山艦の艦長以下共産党員の乗組員を逮捕する。この真相はわからず、蒋介石側はクーデターの情報があったいい、共産党側は弾圧のためのでっち上げだとした。

1926年7月、国民革命軍北伐を開始する


●蒋介石を総司令とする国民革命軍全軍10万が、北方に割拠する軍閥打倒のため、広東から進撃を開始した。広東には中華民国の正統承継者たる広東政府が樹立されており、国内統一のため軍閥打倒を課題としていた。北伐は各地で民衆の熱烈な歓迎を受け、連戦連勝を続け怒濤の勢いで進撃した。10月10日には要衝の地武漢を占領した。12月17日には上海に到達して解放したが、上海解放は革命軍進攻直前に共産党指導下の労働者らが成功させていた。コミンテルンは中国革命の主導権を握るときが来たと判断した。
●こうした中、国民党の左派と蒋介石を中心とする反共派とのあつれきが激しくなっていった。蒋介石は左派の指導する革命運動には不満で、容共左派は武漢にとどまり、反共派は蒋介石のもとに集まっていった。(写真)黄埔軍官学校長時代の蒋介石(出典:「世界の歴史14」中央公論社1963年刊
●その後、国民革命軍司令部は廃止され、蒋介石は軍事委員会の平委員に落とされた。
●当初は労働者と連合していた上海の銀行や企業家らは、反共に転じて蒋介石に共産派粛正を条件に財政的援助を申し出た。これが1927年の反共クーデターにつながっていく。

1927年1月イギリス兵と民衆とが衝突

●漢口と九口のイギリス租界でイギリス兵と民衆とが衝突し、流血の事態となる。

1927年3月南京事件

●南京を占領した国民革命軍の一部兵士が、列国の領事館・住宅・教会を襲撃する。そして暴行・掠奪・破壊などを行った。これに対し、英米軍は艦砲射撃で報復し、中国人の軍民2000人が死傷する。日本は幣原外相により共同出兵を拒否した。しかしこれは野党や軍部により、幣原軟弱外交と非難され、窮地に立った若槻礼次郎内閣は、1927年4月総辞職し幣原外相も辞職した。
●北京を支配する張作霖は、この南京事件がコミンテルンの指導によって行われたとみて、列国の黙認により、4月6日ソ連大使館を急襲し数多くの機密書類を押収した。この時ソ連大使館にかくまわれていた李大釗は逮捕処刑された。(前述の毛沢東の話にある共産党創設メンバーの李大釗である)(写真)李大釗(出典:「世界の歴史14」中央公論社1963年刊

1927年4月12日、蒋介石が反共クーデターを起こす、第1次国共合作崩壊

●上海において蒋介石が反共クーデターを起こす。蒋介石の命を受けた軍隊が、労働組合の関連機関や施設を一斉捜査、共産党員をことごとく逮捕し、労働者の軍隊組織を武装解除した。これに抵抗するものは容赦なく射殺された。この時共産系の指導者のほとんどが逮捕処刑され、その犠牲者は数千人とされる。このとき周恩来はかろうじて脱出した。つづいて15日には広東で反共クーデターが行われ、上海・南京地区と広州地区の共産系組織は壊滅した。

1927 4月18日南京政府の樹立

●蒋介石の国民党右派が、武漢政府(国民党政府は、1927年2月北伐が長江流域を制圧していき、武漢に移動していた)に対抗し、南京にもう一つの国民政府を樹立し、共産党員の徹底粛清を宣言した。一方、武漢政府も右派が台頭し、7月には共産党が武漢政府を離脱し、9月に武漢政府は南京政府に合流した。

1927年5月28日日本第1次山東出兵

●田中義一(陸軍大将)政友会内閣(前月4月20日に成立)は、中国での権益の保護・拡大を図る「積極外交」に方針を転換した。山東省は多くの紡績・製紙工場が進出し、満蒙に次ぐ日本権益の中心地であり、この出兵の真意も、北伐軍を阻止し、既得権益を守ることにあった。田中義一首相は5/28日次の政府声明を発表した。

「支那の内政には不干渉。日本人居留民に戦乱の患がおよぶ恐れがないとわかれば、ただちに派遣軍を撤退させる」と強調した。

しかしこの時北伐軍(蒋介石)は、山東省手前江蘇省で北方軍閥軍と武漢政府軍の南京進撃の窮地に立たされ進軍を中止した。蒋介石は総司令を辞任。これにより日中軍事衝突は起きず、9月までに日本軍は撤兵した。

1927年8月共産党南昌蜂起

●中国共産党(蒋介石によって粛正された)は武漢政府を退き、南昌で初の武装蜂起を行った。この蜂起は、中国共産党が党の崩壊危機に直面し、武漢で開いた臨時中央会議などで、国共合作の打ち切り、共産党員の国民政府からの離脱を宣言、共産党の武装による国民党との対抗、などの方針を決定したことによる。この蜂起は国民党の反撃にあい失敗したが、湖南・広西両省で秋收蜂起軍を率いた毛沢東は、井崗山で革命根拠地を築き、そして華南の各地には革命根拠地が作られていった。ここに国民党と共産党の内戦が始まる。

1928年4月第2次北伐を再開

●南京の国民政府は北伐再開の方針を決め、蒋介石を北伐全軍総司令に任命した。4/7蒋介石は全軍に北伐宣言を発し、第1目標である済南の占領へ向かった。

1928年5月3日済南事件勃発と第2次山東出兵(日中武力衝突)

●中国山東省の済南市で、北伐のため中国北方軍を追い同市に侵攻してきた蒋介石の国民革命軍と、日本人居留民保護の警備にあたっていた日本軍との間で武力衝突が発生した。北京政府軍は済南市を退去した。日本政府は事前に情報を得て、4/19臨時閣議で兵員5000人の第2次山東出兵を決め、4/25第1陣の第6師団が青島に到着し4/26済南に集結した。そしてついに国民革命軍に総攻撃を開始した。国民革命軍の主力は、国民政府の北伐継続の方針にそって済南を脱出し北京へ向かった。日本軍は5/11に済南城を占領し、中国南北両政府に対して、「戦乱が満州に波及すれば、治安維持のため適当な処置(軍事行動)をとる」と警告した。
●国民政府は、日本の山東出兵を国際連盟に提訴し、南北両政府も日本に対して抗議を行った。そして張作霖は東北軍の北京総退却を命じ、自身も奉天に引き上げの途中関東軍に爆殺される。


(写真)1928年5月出動する豊橋歩兵第18連隊兵士たち(部分)(撮影影山光洋)出典:「昭和2万日の記録1」講談社1989年刊
1928年6月4日関東軍、張作霖を爆殺する

●奉天軍閥の張作霖を乗せた特別列車が、奉天(現瀋陽)駅に到着する直前の南満州鉄道との立体交差を通過しようとした瞬間、すさまじい爆発音が起こった。車両もろとも暴破された張作霖は重傷を負い、ただちに奉天城に運び込まれたが、午前10時ごろに死亡した。
●この爆殺事件は、蒋介石にひきいられた北伐軍にやぶれた張作霖が、北京から奉天に引き揚げる途中に発生した事件である。事件の首謀者は日本軍(関東軍)高級参謀、河本大作(大佐)であった。当初日本軍は北伐軍に対抗する張作霖を支持していた。しかし日本軍は敗退した張作霖を見限り、暗殺することによって奉天軍と満州を混乱させて、いっきに満州を支配しようと目論んだ。


(上写真)「張作霖」と右写真「張作霖爆殺現場」破壊の跡もなまなましい爆破現場は、京奉線と満鉄線が交差する地点。出典:「昭和2万日の記録1」講談社1989年刊
『満州某重大事件』日本国内の対応

●「昭和2万日の全記録1巻」講談社1989年刊によれば以下のようである。

日本国内の対応
①関東軍はこの事件を極秘にした。日本の陸軍省はこの事件の犯人を中国革命軍の仕業と言明しつづけた。
②しかし外交ルートや中国の英字新聞から真相が漏れ外務省に伝わった。それは河本大佐が偽装工作(中国人のアヘン中毒者を3人雇い、そのうち2人を線路横で刺殺し犯人に見せかけて遺棄)に関わり前日に逃れた残りの一人が、張作霖の子の張学良に詳細を伝えたことが始まりとある。
③日本政府は陸軍大臣に真相を調べさせたが、陸軍大臣は関東軍は関与しないと報告した。しかし田中義一首相は、憲兵隊司令官を現地に派遣し、その結果河本大佐らの謀略の報告を受け事件の真相を知った。
④田中首相は天皇に「この爆死事件に帝国陸軍の関与が事実なら厳然たる処断を行う」と上奏(天皇に申し上げること)した。日本の議会や新聞などは、この事件を『満州某重大事件』とあいまいにして真相を隠した。
⑤田中首相は、議会で真相の公表を激しく追及され、また陸軍は河本大佐らの処罰に反対したため、窮地に追い込まれた。そしてついに天皇に「真相は不明」との公表の許可を請うたが、天皇に叱責され田中内閣は総辞職した。
1928年6月8日国民革命軍北京入城、北伐完了を宣言する

●蒋介石率いる国民革命軍が北京に無血入城し、6月11日には山西軍閥の北伐軍も入城し、ここに北伐戦争が一応完了する。(右から)
●李宗仁(国民革命軍第7軍長)
●蒋介石(同総司令)
●馮玉祥(西北軍閥首領)
●閻錫山(山西軍閥首領)
(写真)出典:「昭和2万日の記録1」講談社1989年刊
●写真は北伐報告祭のものとおもわれる。「生きている中国史」高木健夫著・河出書房1957年刊によれば、次のようにある。『・・・1928年7月6日、4人一緒になって北平郊外西山碧雲寺の孫文の霊柩に詣で、北伐完成の報告祭を挙行した。この日の式は蒋介石が司会し、国民党関係者5百余人が列席した。蒋介石は北伐の経過を報告し涙ながらに革命完成に精進すべきことを誓った。式が終ってから国民革命軍各総司令は孫文のガラスの柩の外から遺体を拝んだけれども、蒋介石は感極まってガラスの柩に抱きついて大声をあげて泣くという劇的光景がみられた。』とある。

張学良(張作霖の長男)後を継ぐ

●張学良(張作霖の長男)は父張作霖が支配していた東北3省(奉天・吉林・黒竜江)の後を継いだ。張作霖は北京政府の最高指導者であり、国民政府の蒋介石とは対立していた。そして満州は行政権・外交権の独立した王国であったので、関東軍は当初より日本の満州の権益を守るために、東北軍(張作霖)を支援していた。しかし張学良は、張作霖爆殺事件の犯人が日本軍と知り、国民政府と合体して抗日を決意した。(写真)張学良(出典:「世界の歴史14」中央公論社1963年刊

1928年10月蒋介石、南京の国民政府主席に就任。

●12月には張作霖の後を継いだ長男の張学良が、国民政府に忠誠を誓い、国民政府はここに全国統一を実現した。

「北伐ルート」地図(出典)「図解知っているようで知らない昭和史」河合敦著 PHP研究所2005年刊

重要語(世界の動き1920年代)
●1923年9月1日、日本、関東大震災が発生した。最大の被害を受けた東京では、火災により全市街の2/3が消失し、死者9万9331人、罹災者総数は340万人に及んだ。また混乱の中でデマなどによる自警団による朝鮮人虐殺が起きる。被害者は3000人以上といわれる。
●1924年5月アメリカ、日本人移民全面禁止へ。クーリッジ大統領、新「排日」移民法に署名する。
●1925年1月ソ連、ロシア革命の指導者の1人レオン・トロッキーが軍事人民委員会を解任される。レーニンが病気で倒れた後のスターリンとの対立の結果だった。後にトロッキーは共産党を除名されて追放され、1940年亡命先のメキシコで暗殺された。
●1925年4月日本、治安維持法が公布。社会主義運動、労農運動の拡大を抑え、言論・思想・社会運動を弾圧するものであった。「国体を変じ又は私有財産制度を否認することを目的」とする結社や謀議・扇動行為を取り締まった。後に最高刑を死刑と定めた。
●1926年3月アメリカ、クラーク大学の物理学教授ゴダードが、世界初の液体燃料で推進するロケットの打ち上げに成功した。
●1927年5月21日フランス・パリ、アメリカ人飛行士リンドバーグが、33時間半に及ぶ大西洋横断無着陸単独飛行に成功した。飛行場には10万人の群衆が押し寄せた。
●1927年7月インドネシア、スカルノ国民同盟を結成、オランダに対する民族運動大同団結へ。
●1927年ロンドン、ハイゼンベルク「不確定性原理」を発表する。1929年ハイゼンベルクが世界1周講演旅行で日本にたちより、日本の若手物理学者(のちにノーベル物理学賞受賞)の湯川秀樹や朝永振一郎に大きな刺激を与えたといわれる。
●1928年9月イギリス・ロンドン、フレミング、ペニシリンを発見。のちに再研究され、医療的有用性と伝染病の治療に革命的な効果が明らかにされた。そして抗菌性物質は「抗生物質」と名づけられ、その研究は医学に飛躍的な進歩をもたらした。1944年には結核の治療に画期的な「ストレプトマイシン」が発見された。
●1928年アメリカ、ウォルト・ディズニーがトーキーアニメ映画「蒸気船のウィリー」を完成し、「ミッキー・マウス」をデビューさせた。
●1929年アメリカ・シカゴ、禁酒法時代のイタリア系ギャング、アル・カポネが、敵対するアイルランド系ギャングを、マシンガンで惨殺する事件(2/14セント・ヴァレンタインの虐殺)を起こす。
●1929年8月エルサレム、ユダヤ人とアラブ人の衝突による流血の惨事「嘆きの壁事件」が起きる。
1929年10月アメリカ・ニューヨーク・ウオール街、「暗黒の木曜日」空前の株価が大暴落。全世界に及ぶ金融パニックで「大恐慌」の始まりとなる。
●1929年11月3日、朝鮮半島、光州で日本人学生と朝鮮人学生が乱闘事件を起こす。これにより全土に反日運動が波及し、1919年の3・1独立運動以来最大の独立闘争に発展する。

12-11
年・事項・内容
1930年5月30日間島事件

●満州の間島(延吉)で朝鮮の共産主義勢力を中心にした、地主打倒・反日の蜂起がおこる。 日本官憲は根こそぎ検挙でこれに対抗するが、蜂起は断続的に 1年余り続く。

1930年7月29日長沙ソヴィエト政府を樹立

●中国共産党の紅軍第3軍が長沙ソヴィエト政府を樹立する。翌月5日、国民政府軍の反撃を受けて撤退する。

1930年9月 1日反蒋介石北方政府(中華民国臨時政府)を樹立

●汪兆銘、閻錫山、馮玉祥らが北平(北京)に反蒋介石北方政府(中華民国臨時政府)を樹立し、主席には閻錫山が就任する。

1930年12月27日蒋介石が包囲掃討作戦を開始

●蒋介石が広西省南部の中国共産党根拠地に対し、本格的な包囲掃討作戦を開始する(第一次掃共戦)。しかし翌年1月、毛沢東率いる紅軍に撃退される。

1931年6月中村大尉射殺事件、東北地方で日本軍の将校が中国人に射殺される。

●6月下旬参謀本部員中村大尉らが、満州の状況を調査していたところ、東北軍に逮捕された。これは関東軍が北部満洲で、軍事作戦を展開するのに備える行動であったと思われる。中村大尉らは中国人になりすまして偵察行動(スパイ活動)をしていたが、発覚を恐れて逃亡して射殺された事件である。

1931年7月2日万宝山事件

●長春郊外の万宝山で日本政府が移住させた朝鮮人と、中国人農民が水利をめぐって衝突する。日本の軍部は「満蒙問題武力解決」を唱えて介入を図り、満州事変の一因となる(万宝山事件)。

1931年~1933年満州事変の勃発、日本の中国侵略の始まり。

(地図)1931年~1933年の中国東北部と華北の事件。(出典:「図解知っているようで知らない昭和史」河合敦著 PHP研究所2007年刊)

1931年9月18日日本軍柳条湖満鉄爆破。満州事変勃発

●日本軍(関東軍)は奉天(現瀋陽)の北8kmの柳条湖付近で満鉄線路を爆破し、中国侵略を始める。関東軍は、3年前の張作霖爆殺事件でも軍事行動に至らず、さらに奉天軍閥を継いだ張学良も南京国民政府側にたっていたため、満州(中国東北部)の軍事的制圧のきっかけを狙って、この謀略事件を起こしたものだった。日本政府は当初、不拡大方針を決定するが、関東軍はこれを無視して戦線を拡大し、わずか5ヶ月で満州全域を占領した。
●この事件は、関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と、作戦主任参謀石原莞爾中佐の2名が中心となって計画した謀略事件であった。彼らは 1931年6月末頃から準備を進め、中村大尉事件をきっかけに武力進出を実施するつもりだったが、陸軍中央に止められた。日本では幣原外相が、「関東軍に不穏な動きあり」との報告を受け、関東軍を抑えるため参謀本部第一部長を満洲へ派遣しようとしていた。そのため彼らは急きょ予定を早め計画を実行した。
左写真「板垣征四郎大佐」と右写真は盧溝橋事件(1937年)頃の「石原莞爾」(出典:「世界の歴史15」中央公論1962年刊)
●日本の満州侵略は、日清戦争(1894~1895年)での遼東半島を3国干渉によって失ったことに始まり、日露戦争(1904~1905年)で「日本軍10万の将兵を失って獲得した遼東半島(先端部は関東州)は、絶対に手放すことはできない」という関東軍と陸軍の強い意志が背景にあった。また軍部の暴走とはいうが、国民の支持があったから実行できたともいえる。そして根底において日本は、大日本帝国憲法で「統帥権(=軍隊の最高指揮権)」は天皇の「侵(おか)すべからざる」大権と定められている国家である。日本帝国政府の上部に軍部が位置するわけだから、軍部の暴走が起きる危険性は充分にあったし、必然だったかもしれない。

(大日本帝国憲法の一部)
第3条天皇ハ神聖(しんせい)ニシテ侵(おか)スヘカラス
第4条天皇ハ国ノ元首(げんしゅ)ニシテ統治権(とうちけん=国家を統治する大権。国土・人民を支配する権利。主権)ヲ総攬(そうらん=政事・人心などを、一手に掌握すること)シ此ノ憲法ノ条規(じょうき)ニ依リ之ヲ行フ
第11条天皇ハ陸海軍ヲ統帥(とうすい)ス
第12条天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額(じょうびへいがく)ヲ定ム
第13条天皇ハ戦(たたかい)ヲ宣(せん)シ和ヲ講(こう)シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
1931年11月7日中国共産党、ソヴィエト政府を瑞金にて樹立

●江西省南部の瑞金にて、中華ソヴィエト共和国臨時政府の樹立が宣言され、主席には毛沢東が選ばれ、瑞金が首都とされた。共産党は、1927年第1次国共合作が崩壊すると武装蜂起を開始し、毛沢東はそれ以降、湖南・広西両省の井崗山地区に革命根拠地(ソヴィエト区)の建設をすすめた。そして1930年には各地のソヴィエト区の数は19に達していた。だが共産党は、国民政府軍の包囲掃討作戦によって、1934年には江西省から撤退を余儀なくされ「長征」を開始する。
左写真「毛沢東」(出典:「クロニック世界全史」講談社1994年刊)

1932年 1月28日第1次上海事変

●上海で日本人僧侶が中国人に殺されたのをきっかけに、この日、日本軍と中国軍が衝突する。5月5日に停戦協定を結ぶ。(この事件も国際世論の目を、満州からそれせるために日本軍により仕組まれた謀略事件であったといわれる。)

1932年3月1日満州国の建国宣言

●満洲国の建国宣言が出される。9日、元首である執政に清朝最後の皇帝溥儀が就任する。
●関東軍の板垣征四郎大佐と石原莞爾中佐らは、当初満州の日本領有化を考えていたが、軍中央部は領有化に反対した。そのため関東軍は方針を満州国の建国(傀儡政権の擁立)に変更した。
●関東軍は1931年9月に柳条湖事件を起こした後、同月22日『我国の支持を受け東北4省(東3省に熱河省を加えたもの)及び蒙古を領域とせる宣統帝(清朝の廃帝愛新覚羅溥儀)を頭首とする支那政権を樹立し在満蒙各民族の楽土たらしむ』という満蒙問題解決策案を決定した。そして1931年11月、関東軍奉天特務機関長の土肥原賢二らは、天津に隠棲していた溥儀を旅順へ移した。溥儀は清朝皇帝への復辟(ふくへき=退位した君主が再び位につくこと)を期待したが、新国家の名称は「満州国」、しかも満・漢・蒙・日・朝5族による共和制だった。
●1932年10月、第1次満州武装移民団423人が日本を出発して1933年4月吉林省樺川県永豊鎮に入植を完了した。そして1945年までに約30万人が満州に入植した。関東軍はこの入植を、反満抗日ゲリラ対策と、対ソ連戦に備えた兵力養成と考えていた。
●しかし1945年8月のソ連軍(極東軍130万人)満州侵攻の時、関東軍は在留邦人(約155万人)を置き去りに退却した結果、約18万人が死亡し、満州開拓民の1/3の8万人が死亡した。そのうちの多くが集団自決したといわれる。そして満州に残され、中国人らに引き取られた戦争孤児達は数千人に達したといわれる。
(写真)満州皇帝溥儀。清朝ラスト・エンペラー宣統帝である。(出典)「世界の歴史9」J.M.ロバーツ著創元社2003年刊。「満州国陸海空軍大元帥の正装の軍服を身に着けた溥儀。当時満29歳」と「昭和2万日の全記録4」講談社1989年刊にはある。

(重要事項)
●1932年5月15日、(日本)5・15事件起こる。海軍青年将校ら犬養首相を射殺。政党内閣終わる。
●1932年7月、(ドイツ)ヒトラーのナチ党が、総選挙で230議席を獲得し第1党となる。共和国が終焉を迎えていく。
●1932年11月(アメリカ)、フランクリン・ローズベルト(民主党)、大統領に当選。
●1932年10月(ソ連)、スターリン政敵を排除、独裁体制を強める。
1932年4月29日対日戦争宣言

●毛沢東主席(39)とする瑞金の中華ソヴィエト政府が、対日戦争宣言を発表する。

1932年4月29日上海テロ事件

●上海での天長節祝賀式典に、朝鮮人独立運動家の尹奉吉が爆弾を投げ、上海派遣軍司令官白川義則、重光葵らが負傷する。白川はのちに死亡する。(1945年ミズリー号上の日本降伏文書の調印式で、ステッキをもち足を引きずっていたのが日本政府代表 重光葵外務大臣である。この時の事件で重傷を負い足を切断したためである)

1932年 9月15日日満議定書を調印

●日本が満洲国との間に 日満議定書を調印し、正式に満洲国を承認する。

1932年 9月16日平頂山事件

●「昭和2万日の全記録3」講談社1989年刊によれば、次のようにある。『日満議定書は9月15日に調印された。しかし、この日の夜、撫順炭鉱(遼寧省)の事務所4カ所が抗日ゲリラに襲撃され、日本人が殺されるという事件が起こった。撫順炭鉱は、満鉄の経営する炭鉱で、独立守備歩兵第2大隊第2中隊が警備していた。同隊は、翌16日早朝、撫順炭鉱から4キロ南に離れた平頂山の部落を包囲した。この部落には約3000人が住んでおり、その多くは炭鉱労働者と貧農であった。しかし、同隊は住民がゲリラと通じているとみなして(「匪賊=ひぞく」と通じているという意味で「通匪」とよばれた)、一人残らず家から追い立て、住居を焼き払った。
住民は平頂山南の崖下に追い詰められ、四方に据え付けた機関銃の掃射を受けた。生き残った者もいたが、同隊は、銃剣・日本刀で、赤ん坊まで刺し殺していった。皆殺しであった。そのうえ、死体を石油で焼き、数日後に崖をダイナマイトで爆破して埋めたのである。住民の中で逃げのびることができたのは、10人程度だったという。
日中戦争開始後、中国共産党八路軍の反撃を受けた日本軍は、部落ごと焼き払うなど徹底した弾圧を加えた。これを中国側は、殺しつくし・奪いつくし・焼きつくす意味の「三光作戦」と呼んだ。平頂山での虐殺はこの三光作戦の原形であった。』
(写真)中国「平頂山受難同胞記念碑」(出典:「写真記録日中戦争・敗戦と解放」ほるぷ出版1995年刊)

1932年10月1日リットン報告書、日中両国に交付

●満州での日本の軍事行動を侵略とみなした、国際連盟調査委員会のリットン報告書が日中両国に交付される。

1933年1月1日山海関謀略事件

●満州国と中国の境界地区、山海関で日本軍敷地内に手榴弾が投げ込まれる。これも日本軍の謀略によるものだが、日中両軍が衝突、3日に日本軍は山海関を占領する。

1933年2月24日、ジュネーブ国際連盟臨時総会がリットン報告を承認。満州国不承認を可決

●国民政府は、柳条湖事件を受けて、日本の満州事変の責任を国際連盟に提訴していた。それに対して国際連盟は、リットン調査団を、1932年2月東京から、上海、南京、漢口、北平、そして満州各地を、約5ヶ月間かけて現地調査に派遣した。「リットン調査団一行」(出典:「世界の歴史15」中央公論1962年刊)
●リットン調査団と国連総会の19カ国からなる委員会は、事変の責任は日本にあることと、満州国を否認し、中国の主権が満州に及ぶ状態に戻すことを勧告した。そして国際連盟臨時総会は、42対1、棄権1でこの勧告を可決した。
●これに対して日本代表松岡洋右は反対演説をして退場し、日本は3/27国際連盟を脱退した。


*リンクします「国際連盟脱退へ」NHKアーカイブス
(重要事項)
●1933年1月、(ドイツ)ヒトラー政権誕生。
●1933年10月(ドイツ)、ドイツが国際連盟を脱退。ヒトラー再軍備を主張。
1933年2月日本軍が熱河省侵攻を開始する。

●満州国樹立の際、関東軍は、奉天省・吉林省・黒竜江省の東3省だけでなく、熱河省もその領土に含めると宣言した。熱河省は、関東軍にとって満州の安定支配に欠かせない地域であり、また特産品のアヘンは財源上の大きな魅力だった。
●4月10日、関東軍は熱河省を制圧後、万里の長城の内側(関内)に侵入を開始した。一旦は国際的孤立を憂えた天皇の詰問により、関東軍の関内の第1線部隊は万里の長城まで撤退した。しかしその後も国民政府軍の反撃は続き、追撃する関東軍は河北省に侵入し、5月末には北京(北平)から30km~50kmの地点まで迫った。中国側はやむなく停戦を余儀なくされてしまった。

1933年5月31日塘沽停戦協定

●国民政府と日本との間で塘沽停戦協定が結ばれる。実際上、国民政府が満州国を黙認する形となる。これにより関東軍は、河北省東部を非武装化し、満州支配を安定させ、関内侵攻の足場を築いた。

1934年3月1日満州帝国皇帝溥儀

●満州国に帝政がしかれ、国号が満州帝国となる。執政溥儀が皇帝に即位する。

1934年10月15日中国共産党、革命への長い旅「長征」を開始する

●中国共産党の紅軍、主力部隊(第1方面軍8万6000人)が、蒋介石率いる国民政府軍の攻撃により、瑞金を出発し国民政府軍の包囲網を突破して西方への脱出を開始した。「長征」の始まりである。(地図)共産党「長征」(出典:「クロニック世界全史」講談社1994年刊)
●国民政府軍は4年前から5回にわたって、最大100万といわれる兵力で、中国共産党のソヴィエト区への包囲掃討作戦を展開していた。
●中国共産党は、国民政府軍の追撃を振り切り、地方軍閥との戦闘を繰り返しながら、11の省を通過し、18の山脈を越え、17の大河を渡り、約1年後、陝西省北部の延安を新たな根拠地とした。約1万2500kmを踏破した。延安に到着したのは8000人といわれる困難な大移動だったが、中国共産党は新たな展開を迎えた。翌年の会議で、中国共産党の主導権が、ソ連留学派から毛沢東へ移っていったのである。毛沢東は「長征」について次のように述べたという。

「・・長征は宣言書であり、宣伝隊であり、種まき機であった。・・・11の省にたくさんの種をまいた。やがて芽を出し、葉を伸ばし、花を咲かせ、実を結び、将来かならず収穫されるだろう」

長征は共産党の基盤拡大に大きな役割を果たした。

1935年1月13日共産党軍、貴州省の遵義を占領

●長征途上の共産党軍が、貴州省の遵義を占領する。同地で共産党政治局拡大会議を開き、毛沢東の主導権が確立する。

1935年8月1日中国共産党8・1宣言を発表。抗日救国

●中国共産党が8・1宣言を発表して、内戦の停止と、抗日への一致団結を呼びかける。
これは長征途上の共産党に変わり、モスクワにいたコミンテルン執行委員陳紹禹は、「抗日救国のために同胞に告げる書」を中国共産党・中華ソヴィエト政府名義で発表した。これは、国民党も含むすべての勢力に、過去の経緯や意見・利害の相違を捨てて内戦を停止し、共同して抗日救国のために戦おうと呼び掛けたもので、共産党の政策の大転換である。

1935年10月20日長征の終結

●毛沢東らの紅軍第1方面軍が、陝西省 呉起鎮で第15軍団と合流する。(長征の終結)(1935年8月党創設者の1人張国燾が四川省西部をめざし紅軍は軍を二分し、毛沢東軍は陝西省をめざし合流した。張国燾軍は四川省に根拠地を築けず、1936年10月に毛沢東軍に合流した。)

1935年頃の写真

下は「保安」か「延安」での写真と思われる。(出典)「中国の赤い星」エドガー・スノウ著筑摩書房1957年刊より

下は「目撃者」朝日新聞1999年刊の「若き日の毛沢東(中央)と周恩来(左)」1935年3月撮影 撮影者不明 中国、とある写真だが、上の写真の2枚と背景が同じである。これは同じ時期に同じ場所で撮られたものだろう。ただ、上の左の写真の「ソヴィエト中国の4巨頭」とあるが、一番左の人物は、下の右の人物と同一である。誰なのだろうか。上のその右に並ぶ3人は、周恩来・朱徳・毛沢東であろう。

1935年12月9日「12・9運動」

●日本軍による華北分離工作に危機感を持った北京の学生 5000人が華北自治反対を叫んでデモ行進を行う。(12・9運動)
●このあと北京・天津両市の学生が統一行動をとり、上海、南京、長沙、武漢などの都市で、学生・労働者・農民による抗議行動が頻発していく。そして1936年5月には「全国抗日救国連合会」が結成され、孫文夫人の宗慶齢(蒋介石夫人・宗美麗の姉)や魯迅らの著名人らが共産党を支持した。そして張学良も抗日救国運動から大きな影響を受けた。
●この分離工作とは、次のようである。

1935年11月に国民政府が、イギリスの財政支援のもとに貨幣制度の改革に踏み切り、財政と金融を立て直し、経済を発展させようとしたことから始まる。日本はこの政策を失敗させるために妨害工作を行っていく。①華北分離工作は、綏遠省(現内モンゴル自治区の中部)、察哈尓省、河北省、山西省、山東省の5省を、国民政府の統治から分離させようというものである。そして華北諸省の自治を認めさせようとし、非武装地帯(塘沽停戦協定1933年)として指定された河北省東部に、殷汝耕を委員長とする傀儡政権である冀東防共自治委員会を成立させ、国民政府からの独立を宣言させた。満州国に続く第2の傀儡政権であった。これに対して国民政府は日本軍の圧力をかわすため、12月に日本軍の支持する宋哲元を委員長とする、河北省・察哈尓省の両省と北京・天津両市の行政を管轄する冀察政務委員会を設置した。このような国民政府の日本に対する妥協行動は、自国政府である国民政府への抗議行動を生み出していった。
重要語(世界の動き1930年代前期)
●1934年アメリカ、ディーゼル機関車が誕生。時速160kmを記録する。これにより鉄道は、蒸気機関車からディーゼル機関車に代わっていく。
●1934年11月1日満州鉄道、大連-新京間で、特急列車「あじあ号」が運転を開始する。
●1934年12月29日、日本はワシントン海軍軍縮条約の破棄を、アメリカに通告する。
●1935年8月3日日本、岡田啓介内閣が、「天皇機関説」を否認する声明を出す(第一次国体明徴宣言)。9月18日、美濃部達吉は貴族院議員を辞職する。
●1935年 8月12日日本、陸軍統制派の中心人物、永田鉄山軍務局長が、対立する皇道派の相沢三郎中佐に斬殺される。
●1935年9月ドイツ、ニュルンベルク法を制定する。「純血保護法」と「ドイツ国公民法」を公布した。これにより、ナチスドイツは法律によってユダヤ人を「劣等人種」として迫害を始めた。

●1935年10月アメリカ、ギャラップの世論研究所が調査結果を公表する。世論調査の有効性と無作為抽出による調査法を開発した。
●1935年10月、イタリアがエチオピア侵略を開始する。
●1935年11月フィリピン、フィリピン独立に向けコモンウエルス政府が発足する。しかし日本の侵略によって挫折する。
1936年 12月12日西安事件

●張学良らが内戦停止・一致抗日を求めて、西安で蒋介石を監禁する。
●この日未明、共産党討伐を督促するため西安に来ていた蒋介石が、東北軍閥の張学良らによって監禁された。蒋介石は前年から、陝西省を根拠地とする共産党勢力の討伐を張学良に任せていた。だが、張学良にとっては日本軍が占領する満州回復こそが重要だった。さらに彼は、内戦停止・抗日救国を唱えた共産党の8・1宣言に共鳴していたため、「諫言」するとして蒋介石を監禁したのである。
●5日後の17日には張学良の要請を受けて、延安から共産党の周恩来(38)らが到来、蒋介石を説得する。その結果、蒋介石は内戦停止など8項目について合意、25日に釈放される。蒋介石に同行した張学良は南京で逮捕されるが、西安事件は国民党の路線を大きく変更させ、抗日統一戦線成立のきっかけとなった。古川万太郎著「近代史 日本とアジア」婦人之友社2002年刊には次のようにある(要約)。

●この時毛沢東は即座に、張学良が信頼している周恩来を西安に派遣した。周恩来は身を挺して、血気にはやる両軍内強硬派《すぐに蒋介石を処刑》の説得にあたった。10年近く国民党軍との戦争を行ってきた中国共産党が、恨み骨髄の蒋介石を処刑しようとはせず、民族の危機を打開するため抗日の重要性を訴え、蒋介石の生命の保障を説く周恩来の姿勢は、両軍強硬派に大きな影響を与えた。そしてこの結果、国共合作がなり党派を越えた一致抗日がここに成立した。

●この時の張学良の東北軍の心情を歌った歌が「松花江上」である。東北軍は満州事変で日本軍に故郷を奪われ、紅軍と戦うよりむしろ日本軍と戦うことを望み、また蒋介石の南京中央政府に対する反感も鬱積していた。この歌は、まず東北軍のなかで愛唱され、やがて盛り上がる抗日風潮のなかで全中国の知識人のなかにひろまり、一世を風靡したとある。

「松花江上」の大意。『我が家は満州松花江のほとり、森あり林あり炭鉱あり。大豆、高粱も山野見渡すかぎり。我が家は満州松花江のほとり、わが故郷はそこにあり。老いたる父母もそこにいます。9・18、9・18、(満州事変勃発の日)かの惨めたる時より、9・18、9・18、かの惨めたる時より、我が故郷をのがれ出でたり。愛する父母を見捨てたり。・・流浪・流浪・・いつの日か故郷に帰らん、父よ母よ、いつの日かともに集わん・・』

●YouTubeに「《松花江上》王宏偉, 抗戰歌曲」yliang1688氏の投稿があった。リンクしてみた。

*リンクします「《松花江上》王宏偉, 抗戰歌曲」YouTube 「yliang1688氏」の投稿
1937年1月9日15万人の抗日デモ

●西安で共産党主導の抗日デモが行われる。15万人が参加して抗日軍事運動の開始を決定する。

1930年代の中国の財政の安定と経済発展
●蒋介石の国民政府は、関税の引き上げや統一地方税を創設して、中華民国始まって以来の最も豊かな中央政府税収を獲得し、権力基盤の確立に成功した。そして主力産業であった軽工業も発展し、また鉄道道路などの産業基盤整備も進んだ。そしてアメリカからの資金援助やイギリスからの援助、そして国際連盟からの技術援助なども実施された。また財政経済政策の一つの柱として通貨政策があった。1935年11月、イギリス・アメリカの支援も受けながら全般的な幣制改革を実施した。この結果、中国の通貨は政府系銀行の発行する「法幣」に統一され、外国為替レートも安定化した。これにより銀貨流出にともなう金融難で深刻な恐慌に苦しんでいた中国経済は、この幣制改革以降急速に景気が回復した。
●この経済の発展は沿海の大都市を膨張させ、そこに近代的な都市文化を生み出した。特に上海の人口は、1910年に129万人、1930年に314万人、1937年には385万人に達した。そして新聞雑誌、ラジオなどのマスメディアが発達し、上海の2大紙「申報」「新聞報」などが上海の地方紙から、華中一帯を地盤とするほどの全国紙に発展した。またラジオ放送も1934年には30局以上が放送を行い、ニュース・音楽・演劇等を終日放送していた。また映画館も数多く設立され、その頃の流行歌「何日君再來」も当時の上海映画界のスターの周璇が歌ったものであった。また中華人民共和国の国歌に採用された「義勇軍行進曲」(聶耳作曲)も、30年代の上海映画の挿入歌であった。

下に、YouTubeに数多くある内の一つにリンクしてみた。

*リンクします「周璇 – 何日君再來(1937年)」YouTube「oldindrub氏」の投稿

12-12
年・事項・内容
1937年~1945年(地図)1937年~1945年の日中全面戦争の部分引用


(出典:「図解知っているようで知らない昭和史」河合敦著 PHP研究所2007年刊)

1937年7月7日盧溝橋事件・日本、中国侵攻を開始。日中全面戦争勃発

●蒋介石は、日本の全面侵略の意図を認め、7月17日国民に対して、

「・・戦争が開始されればいかなる犠牲を払ってでも、最後まで戦い抜く」

と不退転の決意を表明した。こうして日中は全面戦争となる。
●この盧溝橋で日中両軍の衝突は、以後8年に及ぶ日中全面戦争の発端であった。北伐の完了以来、北京に駐屯していた国民政府軍と、その面前で連日、夜間演習をふくむ猛練習を繰り返していた日本軍は、一触即発の緊張した雰囲気のもとにあり、偶発的に衝突が起きたといわれる。
●しかしその後の行動をみれば、日本軍の意図したことは明白である。日本軍は近衛文麿首相の閣議決定である「事件不拡大・現地解決」により一応現地軍の代表が停戦交渉をするが、日本軍は停戦するつもりはなく全面戦争へと向かった。この時日本陸軍の内部では杉山陸相らの強硬派と、石原莞爾・参謀本部作戦部長らの慎重派が対立していた。石原莞爾らの主張は、陸軍上層部にはかなりの影響力を持っていた。なぜならソ連の「満州国」侵攻を想定し対ソ戦を準備する中で、日本軍は泥沼化する恐れのある中国侵攻は避けるべきである、との石原の主張であったからである。石原らは杉山陸相らの無定見な冒険主義に反対していた。(その石原莞爾が満州事変《1931年》では首謀者であったとは、皮肉なことである。後に石原は東條英機と敵対し予備役にまわされたため、戦犯を免れたという。)
●杉山陸相は、閣議の事件不拡大の方針にもかかわらず、3個師団の出兵の再承認を求めると、近衛文麿首相はあっさり認めてしまう。そして高圧的な「華北派兵に関する声明」を発表して強行姿勢に転じた。

1937年8月13日第2次上海事変

●上海で市街戦へと拡大する、第2次上海事変。写真「日中戦争:パニック状態で逃避する上海市民 1937年12月 撮影者不明 中国・上海」(出典:「目撃者」朝日新聞社1999年刊)

1937年国民革命軍第八路軍

●国民政府軍と共産党軍は、その軍隊の編制を改め、労農紅軍を、朱徳を総司令官、彭徳懐を副司令に「国民革命軍第八路軍」へ改編した。また華南8省で活動していた紅軍各部隊は統合され「国民革命軍新編第4軍」に改編された。1937年9月、八路軍は平型関の戦いで初めて日本軍に勝ち、中国国民に大きな希望を与えたといわれる。(1947年八路軍は人民解放軍と改称した。)

1937年 9月23日第2次国共合作の成立

●国民政府が、4月15日に中国共産党から示されていた国共合作宣言を受諾する。第2次国共合作の成立。

1937年11月20日重慶に移動

●国民政府が、政府機関を重慶などの奥地へ移す。

1937年12月13日南京大虐殺

●日本軍が南京を占領し、2カ月にわたって大虐殺を行う。これが日本軍の行った捕虜や市民に対する大量虐殺事件である。前ページ「世界簡易通史20世紀後半(1945年頃~1999年頃)①」で、東京裁判の判決文の一部を引用しています。日本人として読んでおかねばならない判決文である。
写真「南京大虐殺」刑場に運ばれる中国人捕虜とある。(出典:「世界の歴史15」中央公論1962年刊)
●中国の抗日戦争への決意は、この南京事件によってさらに不退転なものなったともいわれる。またこの時期に日本では「戦陣訓」が作られた。何故作られたかといえば、教育総監部が中国での日本軍の軍紀紊乱への対策として、軍人勅諭を補足するものとして作成をはじめた、といわれる。
●だが根本の原因は、日本の戦いに何の正義もなかったことにある。

『この戦争は膺懲(ようちょう=征伐して懲らしめること)戦であり、中国の人民が日本民族の優越性と指導的地位を認めること、日本と協力することを拒否したから、これを懲らしめるために戦われているものであると日本の軍首脳者は考えた。』(引用:東京裁判判決文)

これでは、何の正当性も正義も無いだろう。

重要語(世界の動き1930年代中期)
●1936年1月15日日本、日本全権が、ロンドン海軍軍縮会議からの脱退を通告する。
●1936年2月26日、日本で2・26事件起こる。陸軍の皇道派青年将校らが首相官邸などを襲撃し、内大臣・大蔵大臣・教育総監などを殺害したクーデター。
●1936年7月スペイン、軍部が反革命クーデターを決行、スペイン内乱が始まる。フランコ将軍クーデター失敗に終わる。
●1937年スペイン、バスク地方の古都ゲルニカをドイツ空軍(イタリア軍も参加)が爆撃した。世界中からこの破壊と殺戮に対して、非難の声があがった。(ピカソはゲルニカを描いた)

●1937年6月ソヴィエト、スターリンが大粛正を行い、8人の赤軍最高首脳を処刑する。その罪状は、軍律違反・反逆罪・スパイ行為などであった。
●1938年3月ドイツがオーストリアを併合する。ヒトラー「大ドイツ」を実現する。
1938年1月国民政府を相手とせず

●日本、近衛文麿内閣が南京占領後「爾後(じご)国民政府を相手とせず。帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立を期待する」と第一次近衛声明を発表し、対中国戦争に本格的に乗り出した。
●日本軍は、海沿いの青島、威海衛、厦門、連雲港、広東をつぎつぎ占領し、南北両側から徐州にせまったが中国軍は撤退し、5月19日日本軍は中国軍の去った徐州を占領した。そして10月には武漢地区も占領したが、国民政府は重慶へ退いていく。そして日本軍の戦線は伸びきり、戦いは泥沼化していった。

1938年3月28中華民国維新政府が成立

●日本占領下の南京に、日本の傀儡政権である中華民国維新政府が成立する。

1938年 5月26日毛沢東・持久戦論

●毛沢東が延安の抗日戦争研究会で、抗日戦争は持久戦であり、最後の勝利は中国のものであるという講演(持久戦論)を行う。

1938年11月3日、日本・第2次近衛声明を発表

●近衛文麿首相が中国政策に関する声明(第2次近衛声明)を発表した。そのなかで「国民政府といえども新秩序の建設に来たり参ずるにおいては、あえてこれを拒否するものに非ず」と述べ、前回の「爾後(じご)国民政府を相手とせず」の発言を修正した。(これは国民政府を分断させる工作《汪兆銘を利用する》のためだった。)その声明を肉付けした『日支新関係調整方針』の骨子は以下のようである。(出典:古川万太郎著「近代史 日本とアジア」婦人之友社2002年刊)

1・帝国の冀(き=希)求する所は、東亜永遠の安定を確保すべき新秩序建設に存り、今次征戦究極の目的亦(また)此に存す。
2・新秩序の建設は日満支3国相携え、政治、経済、文化等各般にわたり互助連環の関係を樹立するを以て根幹とし、東亜に於ける国際正義の確立・・・・経済結合の実現を期するに存り。
3・帝国が支那に望むところは、この東亜新秩序建設の任務を分担せんことに存り。帝国は支那国民が我真意を理解し、帝国の協力に応えんことを期待す。

●この近衛文麿首相は、日本にとって1番重要な1930年代に、戦争を黙認した名門公家政治家の代表であろう。ともあれ日本は、中国との全面戦争のなかで、戦争の長期化の恐れとアメリカからの輸入(石油・鉄は40%以上を依存)禁止処置の恐れなどから、中国との早期な和平を模索していた。参謀本部によるドイツ駐中国大使を仲介とする「トラウトマン工作」などである。また後に国民党の有力者である汪兆銘を離反させ、日本と和平を結ばせようとしたことなどである。しかし日本の和平の条件は、中国が絶対認めない「満州国」の承認や、華北と華南の中間に非武装地帯を設ける要求など、中国を侮蔑するもので交渉が成功するはずもなかった。

1938年12月「援蒋ルート」が完成

●ビルマ雲南の昆明に至る「援蒋ルート」が完成する。日中戦争以後、中国の国民党政府が急ピッチで建設を進めていた道路が完成。翌年1月には正式に開通した。重慶に首都を移した国民党の蒋介石政権にとり、日本の侵略軍とたたかうための物資をイギリス、フランス、アメリカから補給してもらう貴重なルートになる。ラングーン港にはイギリス船が入港、武器弾薬 6000tが陸揚げされており、これが「援蒋ルート」最初の援助物資となる。左写真「援蒋ルート」(出典:「クロニック世界全史」講談社1994年刊)

1939年5月~8月、国境紛争「ノモンハン」事件へ発展

●いままで満州国とソ連国境付近では国境紛争が、1937年に113回、1938年には166回起きていた。それまでは決着は外交交渉で終結していた。ところが1937年4月に新たに関東軍辻政信参謀により 「満ソ国境紛争処理要綱」が示され、その内容は次のようであった。

ソ連軍(外蒙古軍含む)の不法行為に対しては、徹底的に膺懲(ようちょう=征伐してこらしめる)し、初動において封殺破摧(はさい=粉々に打ちくだくこと)せよ

●1939年5月11日、ついに関東軍・満州国軍とソ連軍・モンゴル軍の衝突が起こった。関東軍は15日、ソ連・モンゴル軍に総攻撃を仕掛けたが、圧倒的な火力の前に第23師団捜索隊は全滅。31日、第1次戦闘は終了した。
●1939年 6月27日、収まりのつかない関東軍は、中央の了解なしにソ連領を爆撃、7月2日には地上部隊にも攻撃命令が出され、第2次戦闘が開始された。だが兵力、火力、機動力で劣る関東軍はまたもや大敗。戦争拡大を恐れた大本営は、不拡大方針を打ち出すが、関東軍はこれを無視し、さらに兵力の集中を図った。ソ連軍はこれに対し予想をはるかに上回る兵力を結集させていた。関東軍は 3度目の大敗となった。
●9月1日、第2次世界大戦が勃発すると日本はソ連に停戦を申し入れ、9月15日、モスクワで停戦協定が成立した。昭和2万日の全記録によれば、次のようにある。

日本側の戦死者は1万8千人に達した。その敗北の原因はソ連軍との圧倒的な戦力の差にあったが、それ以前に関東軍の情勢判断の甘さがあった。また近代的な装備火力を持つソ連軍に対して、関東軍は白兵突入主義を続行し兵の犠牲をさらに大きくした。そして大敗を喫したノモンハン事件では、多くの将校が戦線離脱などの責任を追及されて、自決させられたり、また予備役に編入させられたりした。さらに、大敗の真相は国民の耳目からは隠された。=出典:昭和2万日の全記録講談社1989年刊=)
重要語(世界の動き1930年代後半)
●1939年3月ドイツ軍が首都プラハに無血入城する。チェコスロバキア共和国解体する。
●1939年4月、スペイン内乱が終結し、フランコ反乱軍司令官が終結を宣言する。スペインはドイツ・イタリアの援助を受け軍事独裁政権となっていく。
●1939年8月、ドイツとソ連が独ソ不可侵条約を締結する。(日本平沼騏一郎内閣はこれに衝撃を受け「欧州の天地は複雑怪奇」と声明し総辞職した。)
●1939年9月1日、第2次世界大戦勃発。ドイツ軍ポーランドに武力侵攻し、全土を席巻する。9月27日にはワルシャワが陥落する。そしてソ連もポーランドに侵攻し(独ソ不可侵条約の秘密議定書にもとづく)、ポーランドはまたも分割され国家が消失した。

●1939年9月3日、イギリス・フランスはドイツに宣戦布告を行ったが、アメリカルーズベルト大統領は、9月4日、欧州戦争不介入を宣言した。
●1939年11月アメリカは、ドイツと交戦するイギリス・フランスに武器の供給をできるように中立法を改正した。それまでアメリカは孤立主義のため、交戦国に対する武器・戦略物質の輸出を中立法によって禁止していた。
1940年 1月19日毛沢東が新民主主義論を発表、中国革命の方向を示す。

●延安にいた毛沢東はこの日、雑誌「中国文化」に「新民主主義論」を発表した。毛沢東はこの論文で、中国は半植民地・反封建社会の状態にあり、民主主義と社会主義の2つの段階の革命が必要とされるが、当面の民主主義革命(ブルジョワ革命)を担うべきブルジョワが不在であるため、プロレタリアートが指導して民主主義革命を遂行しなければならないと定式化した。これが「新民主主義革命」であり、中国は欧米型ともソ連型とも異なる新しいタイプの国家をめざすことになる。

1940年 3月30日中華民国国民政府樹立

●日本軍の支援を得て汪兆銘が、南京に中華民国国民政府(南京政府)を樹立する。日本は、以前より反蒋介石であった汪兆銘をかついで、反蒋介石政権を樹立させ、和平交渉(実際の和平では無い)を試みた。そして日本は南京政府を、中国を代表する政府として承認した。日本は、日本の主張を認める条約締結を傀儡政府と結ぶことが目的だった。そうすれば対外的(特にアメリカ)に、日本の侵略行動を正当化(抗弁)できるからであった。
●汪兆銘は日本の都合の良い「日華基本条約」を調印したことで、重慶の国民政府から強く恨まれ、暗殺者も放たれた。この「偽政府」は日本の敗北とともに消滅した。


左写真「汪兆銘」(出典:「世界の歴史15」中央公論1962年刊)
1940年5月18日日本軍、中国の戦時首都重慶・成都など無差別爆撃を開始

●作戦が終了する 9月5日まで 72回に及ぶ長期連続の空襲が行われ、重慶の市街地・工場地帯のへの爆撃は、5月26日以来攻撃日数32日に達した。とりわけ、6月24日から29日までの6日間は、陸海軍合同で昼夜わたる記録的な連続爆撃が行われた。この日本軍の爆撃は、1937年4月、ドイツ軍がスペインのゲルニカを爆撃した以上の被害をもたらした。しかし中国の交戦意志は、逆に強まった。

1940年8月20日百団大戦

●共産党指導下の八路軍が、華北駐屯の日本軍に 115個連隊で総攻撃を開始する(百団大戦)。国民革命軍の八路軍(共産党)が、初めて行った日本軍に対する大規模な攻勢であった。

重要語(世界の動き1940年)
●1940年4月、ドイツ軍北へ侵略開始。デンマーク、ノルウェーを占領。
●1940年5月、ドイツ軍ベルギー、オランダ、ルクセンブルクへ侵攻、オランダ、ベルギーが降伏する。6月22日にフランスはドイツと休戦協定を結ぶ。
●1940年5月イギリス、ウィンストン・チャーチル挙国一致内閣を組織する。ドイツとの総力戦に向かう。
●1940年6月イタリア、ムッソリーニが、イギリス・フランスに対して宣戦を布告する。
●1940年6月、ソ連がバルト3国(エストニア、ラトビア、リトアニア)に侵攻、ソ連邦に組み入れる。
●1940年7月、フランス第3共和政が終わりヴィシー政権が成立(ペタン元帥)。ドイツ軍は 6月14日にパリに入城した。
●1940年9月、日本軍北部仏印(フランス領インドシナ)へ侵攻する。
●1940年9月27日ベルリン、日本・ドイツ・イタリアが三国同盟を締結する
1941年1月7日皖南事件

●国民党軍が、突如共産党指導下の新四軍を攻撃する。この真相は不明で、共産党側4万人に対して、国民党軍第3戦区の部隊約8万人が突如攻撃を開始したものである。この戦闘は7日間続き、激闘の末新四軍は全滅した。

1941年7月1日中華民国国民政府を承認

●ドイツ、イタリアなど枢軸国8か国がこの国民政府(汪兆銘が主席)を承認した。

1941年8月「大西洋憲章」を発表

●イギリス・チャーチル首相とアメリカのルーズヴェルト大統領が、世界平和確立のために「大西洋憲章」を発表した。「領土不拡大」「民族自決」「貿易の自由と拡大」であり反ファシズムであった。しかし後にチャーチルは、民族自決はインド、ビルマには通用しないと言明した。

12月7日、日本軍ハワイ真珠湾を先制攻撃、日米開戦となる

●1941年10月東条内閣が成立して戦争準備がすすむ。そして12月1日の御前会議でアメリカ、イギリス、オランダとの開戦を決定する。
●12月7日、日本軍はハワイの真珠湾(パールハーバー)のアメリカ太平洋艦隊を攻撃する。日本は、日清・日露・日中戦争と宣戦布告をせずに開戦した。(日清戦争:日本海軍は黄海上の豊島沖で北洋艦隊に奇襲攻撃。日露戦争:旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃。日中戦争は宣戦布告をしないで「事変」とした。)
●日本はアメリカにも宣戦布告なしで先制攻撃をしかけたわけである。アメリカは「だまし討ち・卑怯者」「リメンバー・パールハーバー」を合い言葉に、日本への開戦を決定した。(日本は真珠湾攻撃30分前に宣戦布告が届くように計算していたが、不手際のため遅れたといわれる。しかし日本軍もドイツ軍も先制攻撃が最善であることは軍事的に常識であった。日本政府がそのつもりなら、3日前でも2日前でも宣戦布告が可能であったはずである。ぎりぎりの先手必勝は譲れない作戦であったのだ。しかし山本五十六連合艦隊司令長官は、あとあとまでこの遅延を気にしていたともいわれる)

左写真「真珠湾奇襲攻撃で燃え上がる米艦船」1941年12月7日 撮影者不明 ハワイ・真珠湾
右写真「日本海軍機の奇襲を受けたハワイ海軍基地」1941年12月7日 撮影者不明 ハワイ・オアフ島(出典:「目撃者」朝日新聞社1999年刊)
1941年12月25日日本軍、香港占領

●日本軍が、イギリス軍の拠点である香港を占領した。

重要語(世界の動き1941年代)
●1941年2月、リビア戦線に、「砂漠のキツネ」ロンメルが到着、イタリア軍を救援する。
●1941年 4月3日、ドイツがバルカン半島のユーゴスラビアの首都ベオグラードを空爆する。4月17日にユーゴスラビアは降伏する。
●1941年5月ベトナム、インドシナ共産党はホーチミンを盟主にベトナム独立同盟(ベトミン)を結成する。
●1941年8月、アメリカは日本に対する石油輸出を全面的に禁止する。1940年の日本軍による、フランス領インドシナ侵攻以来、対日経済制裁の声が高まっていた。
●1941年6月22日、ヒトラーがバルバロッサ作戦を発動する。ソ連に 550万の大軍で侵攻する
●1941年8月、イラン国王レザー・シャーが退位に追い込まれる。イギリスとソ連軍は、イラン南部と北部から進行し圧倒的な軍事力で軍事占領を行った。
●1941年11月、アメリカは日本に最後通牒を行う。アメリカが「ハル・ノート」を提示した。内容は中国および仏印(フランス領インドシナ)からの日本軍の全面撤退。日・独・伊三国同盟の否認。日本はアメリカとの開戦をここに決意した。
●1941年12月、モスクワを前に敗退、ドイツ最大の敗北を期す。
1942年4月3日中国共産党、整風運動を大々的に展開する。

●「クロニック世界全史」には次のようにある。

●この日,延安の中国共産党指導部は22種類の必読文献を指定し,党内教育の徹底をめざす,いわゆる整風運動を開始した。これは学習を通じて,党員ひとりひとりが,「学風」=主観主義,「党風」=セクト主義,「文風」=党八股(内容がなく形式的な文章)的な作風を克服しようというもの。
 すでに前年5月,毛沢東は幹部会で,「われわれの学習を改革しよう」と題する報告を行っていた。さらに7月には,毛沢東同志の旗のもと,前進しよう」という論文が出され、毛沢東がマルクス主義を創造的に発展させた,「天才的指導者」であることが指摘されていた。
 この整風運動は毛沢東の指導のもとに展開され,運動のなかで毛沢東思想が,唯一の正統な党の指導理論として確立されていく。毛沢東の党内における地位も確固たるものとなり,翌1943年,毛沢東は正式に党主席に就任する。
重要語(世界の動き1942年)
●1942年1月20日ドイツ、ナチスドイツ、ヴァンゼー会議でユダヤ人大量虐殺の「最終解決」を決定。
●1942年2月アメリカ、西海岸で「ジャップ追放」、日系人に強制退去命令、収容所へ。
●1942年3月インドネシア、日本軍が、最後の拠点ジャワ島バンドンに入城した。開戦3ヶ月で東南アジアを占領。
●1942年6月中部太平洋、日本海軍はミッドウエー海戦で大敗北。
●1942年10月エジプト、ロンメル敗れる。連合国軍北アフリカ戦線で猛反撃を開始する。
1943年1月9日汪兆銘の政府、アメリカ、イギリスに宣戦布告する。

●汪兆銘の南京政府が日本と協定を結んでアメリカ、イギリスに宣戦布告する。

1943年9月13日蒋介石が国民政府の主席に就任

●国民党の蒋介石が、国民政府の主席に就任する。

1943年11月22日、カイロ宣言を発表。

写真「カイロ会談」(出典:「世界の歴史15」中央公論社1963年刊)●アメリカ合衆国ルーズベルト大統領、イギリスチャーチル首相、中華民国蒋介石主席らが、エジプトのカイロで、対日戦略についての首脳会議を開いた。内容は以下のようである。
①3か国の戦争目的は、日本の侵略制止にあり、領土拡張の意図はない。
②日本が第1次大戦以後に奪取・占領した太平洋のすべての島を剥奪する。
③日本が占領した満州・台湾・澎湖諸島を中国に返還させる。
④日本が奪取した他のすべての地域から日本を駆逐する。
⑤朝鮮をやがて独立させる。
⑥以上の目的のため、日本が無条件降伏するまで戦闘を継続する。などである。

重要語(世界の動き1943年)
●1943年1月、ドイツ軍ソ連スターリングラード攻防戦で敗北する。
●1943年2月南太平洋、日本軍ガダルカナル島守備隊が撤退する。
●1943年4月、カチンの森に数千の死体が発見される。ソ連が虐殺したポーランド人将校か?
●1943年4月、ワルシャワ・ゲットーでユダヤ人たちがドイツ軍に決起する。しかし5月に鎮圧される。
●1943年7月、英米連合軍シチリア島に上陸する。イタリア崩壊へ。
1944年6月6日連合国軍フランス・ノルマンディー上陸作戦を決行

●「史上最大の作戦」といわれた連合国軍によるノルマンディー上陸作戦が午前1時30分に開始された。第1波兵力は15万6000人、投入された艦船約4400隻、航空機は延べ2万5000機にのぼった。総司令官はアメリカのドワイト・アイゼンハワー(54)であった。

1944年7月18日、日本東條英機内閣総辞職する

●7月7日のサイパン島の陥落により、東条内閣倒閣の動きは強まり、2年9か月で東条内閣は総辞職した。そして、戦争継続を建前に、総理大臣に小磯国昭(前朝鮮総督)海軍大臣米内光正(元総理大臣)の連立内閣が発足した。

1945年5月7日ナチス・ドイツ無条件降伏する

●ドイツは、5月7日に西側連合国軍の司令部で無条件降伏文書に調印した。そして5月9日にソ連軍司令部で2度目の降伏文書に調印した。これは、米ソの対立と、東西ドイツ分割を暗示するできごとであった。

1945年8月8日ソ連は日本に宣戦布告し、満州などに侵攻する

●この侵攻は、アメリカ・イギリス・ソ連の1945年2月のヤルタ会談の時の秘密協定の約束ごとであった。ソ連極東軍130万人は、満州、朝鮮、南樺太に侵攻した。日本は、ソ連による和平交渉の仲介を、最後まで期待していたといわれる。

1945年8月14日日本ポツダム宣言受諾を表明

●8月15日正午、日本国天皇が国民に受諾を放送した。

重要語(世界の動き1945年)
●1945年2月、アメリカ・イギリス・ソ連の最高指導者であるルーズベルト・チャーチル・スターリンがヤルタで会談を行った。ドイツ敗北が決定的となり、降伏後のドイツ管理、国際連合の開設などが話し合われた。
●1945年7月17日~8月2日、ドイツのポツダムで、アメリカ大統領トルーマン(ルーズベルト死去のため)、イギリス首相チャーチル(7/24からアトリ―首相)、ソ連首相スターリンが、ドイツ戦後処理と日本戦後処理について会談し、日本に無条件降伏を促すポツダム宣言を発表した。
1945年8月14日中ソ友好同盟条約

●中国国民政府は、モスクワでソ連と中ソ友好同盟条約を締結する

1945年8月18日満州国消滅

●満州皇帝溥儀が退位し、満州国が消滅した。溥儀は日本亡命に失敗しソ連軍に捕らえられ収容所に収監された。そして東京裁判に証人として出廷したあと、ソ連から中華人民共和国へ引き渡され、政治犯収容所に収監された。そして1959年12月に周恩来の働きかけもあって特赦で釈放され、一般市民にもどったといわれる。

1945年10月10日「双十協定」を発表

●国民党の申し入れにより共産党と国家の大計について話し合いがもたれ、合意内容「双十協定」が発表された。
●アメリカ政府は、国民政府下の安定した統一中国を期待し、懸命な調停を続け、1945年8月から10月まで国共両党の会談が重慶で開かれた。そして 10月10日付けの合意文書(双十会談紀要)が公表された。これは国民党の指導性を承認し、共産党の独自武装を否定するなど、国民党の優位を認めたものだった。しかし党派間の平等と合法性を認めたため、新しい「政治協商会議」の創設が約束された。
●1946年1月に開催された「政治協商会議」は、国民党8人、共産党7人、青年党5人、民主同盟2人、その他政党政派と無党派知識人を加えた38人から構成され、「和平建国綱領」「憲法草案」などを採択した。


写真「蒋介石と毛沢東」(出典:「新版世界各国史3 中国史」山川出版社2008年1版6刷刊)
1946年1月10日国共内戦停止

右写真「延安を訪れたジョージ・マーシャル特使」(出典:「クロニック世界全史」講談社1994年刊)●アメリカのマーシャル特使の斡旋で、国民党と共産党は内戦停止に合意した。しかし3月に東北で戦闘が始まる。

1946年7月12日全面内戦に突入

●国民党軍(50万人)が、共産党の支配する蘇晥(江蘇省と安徽省)解放区へむけて本格的な攻撃を開始し、国共両党は全面的な内戦に突入した。クロニック世界全史には次のようにある。

一致抗日を掲げてきた国共両軍だったが、日本の降伏直後から各地で衝突が発生。今年1月に停戦協定が結ばれたものの、国民党は共産党勢力の強い東北地区に大軍を送り込むなど対決姿勢を示し、両軍の衝突は時間の問題となっていた。
国民党軍約430万人に対し共産党軍約120万人、装備の上からも圧倒的優位にあった国民党軍は、共産党側の拠点を次々に攻略、翌年3月には本拠地延安も占領する。
しかし、共産党軍は5月に東北で反攻を開始、9月には「総反攻宣言」を発表し、1948年4月に延安を奪回。次々と主要地域を開放して国民党軍を追い詰めていく。
中国周辺部と共産党

①チベットのラサ政権は1949年、中国国民党が崩壊した直後から、独立への道を歩もうとした。しかし中国人民共和国の対応は早く、1950年にラサに進駐し、独立の動きを封じた。
②モンゴルでは、1945年9月にデムチュクドンロブ(徳王)の側近だったポインタライらが、内モンゴル人民共和国政府の設立を宣言した。そして1946年1月には、旧満州国軍の軍人だったモンゴル人らが東モンゴル自治政府を結成した。これらは中国からの分離独立、あるいはモンゴル人民共和国への合流を目指していた。これに対して中国共産党は、共産党軍とソ連軍の力を背景にして、1947年4月に中国共産党指導下に内モンゴル自治政府にすべての政治勢力を吸収させた。
③中央アジアの東トルキスタン人民共和国は1944年樹立されていたが、ソ連の仲介で国民政府側と協議を進め、1946年7月ウイグル族側の主権を大幅に認めた新疆省連合政府が成立していた。ところが革命指導者らが全員飛行機事故で亡くなったため、親ソ派指導者のサイフジンらにより、新疆省は中国人民共和国の中にくみいれられた。

1947年1月1日新憲法公布

●国民政府が中華民国の新憲法を公布し、12月からの実施を決定する

1947年 2月28日台湾で反国民政府暴動が発生

●台湾では反国民政府暴動が起き、5000人が死亡する。(2・28事件)

1948年11月7日国民政府軍が徐州南部で人民解放軍に敗れる

●国民政府軍が、南京防衛の拠点である徐州南部で人民解放軍に敗れる。翌月1日には人民解放軍が徐州を占領し、国民政府は南京追われて広東へ移る。

1949年 1月14日和平8条件を提示

●蒋介石の1月1日の和平提案を受けて、共産党の毛沢東主席が和平8条件を提示する。

1949年 1月21日国民政府総統を引退

●蒋介石が国民政府総統を引退し、総統代理に李宗仁が就任する。

1949年 4月21日国共和平会議が決裂

●国共和平会議が決裂し、この日、人民解放軍全軍が進撃を開始する。

1949年 10月1日中華人民共和国の成立

●毛沢東主席が、北京の天安門広場で中華人民共和国の成立を宣言した。建国式典は 30万人もの群衆で埋め尽され、毛沢東主席が、「中華人民共和国中央人民政府が成立した」と宣言すると、その瞬間、広場は嵐のような歓声に包まれた。そして毛沢東が自らスイッチを押して、新国旗の五星紅旗を掲揚すると礼砲がとどろき、その後陸海空軍の閲兵式と祝賀パレードが繰り広げられた。ソ連は翌2日、新政府を承認するが、国民政府を支持するアメリカは3日、承認保留を表明した。
●そして中国国旗「五星紅旗」初めて翻った。地の赤色は革命を象徴し、黄色の五つの星は共産党指導下の革命的人民の大団結を表す写真(出典:「写真記録日中戦争」ほるぷ出版1995年刊)

1949年 10月1日毛沢東の天安門広場での「中華人民共和国・建国宣言」の動画。下にユーチューブの「Mao declares the Peoples’ Republic of China」にリンクをはった。(自分のような一般の日本人からみると、動画の中でわかるのは、毛沢東、横を歩く朱徳、劉少奇、宋 慶齢《孫文の未亡人》、周恩来ぐらいか。調べると、李 済深《国民党革命委員会主席》、張瀾《民主同盟主席》、高 崗《東北人民政府主席》も壇上並ぶとある。)

YouTubeから「Mao declares the Peoples’ Republic of China」
1949年12月 7日国民政府台湾へ

●中国国民政府が首都を台湾の台北に移す。

共産党は何故権力を掌握できたのか

●ここで最後に、「新版世界各国史3 中国史」山川出版社2008年1版6刷刊より、「共産党は何故権力を掌握できたのか」の部分を引用してみる。

49年革命でなぜ共産党は権力を掌握できたのか。その疑問にたいするひとつの回答は、国民政府の統治が崩壊したため、ということであり、もうひとつの回答は共産党が権力を掌握する力を獲得したつぎのような事情に求められねばならない。
 まず第一に、農村で土地革命を推進したことである。日本軍に協力していた大地主の土地を没収し貧農層に配分する政策は、土地をえた農民の共産党にたいする支持を強め、兵士の確保を容易にした。ただし中小地主の土地まで没収するなどの急進的な改革で農民の支持を失った時期もあり、農業生産を増加させるためのきめ細かな政策が展開されていたわけでもない。この時期の土地革命の意義をあまり過大に評価することはできない。
 第二に、戦後の早い時期から東北地区で軍事的優位を獲得することに的をしぼり、ソ連側のさまざまな援助も受けながら、強大な正規軍部隊を編成したことである。その結果、従来のような貧弱な装備でゲリラ戦中心に闘うだけでは歯が立たなかった国民政府軍とのあいだでも、正面から陣地戦を挑み勝利することが可能になった。
 そして第三のもっとも重要な要因は、「連合政府」の呼びかけが端的に示すとおり、共産党単独で社会主義政権樹立をめざす道を避け、国民政府への批判を強めていたさまざまな政治勢力を総結集するのに成功したことである。共産党が提起した内戦反対の運動、米軍兵士の女子学生暴行事件を契機とした反米運動、「反飢餓運動」と呼ばれた生活難打開のための運動などには、都市の多くの学生・知識人たちが呼応した。国民政府の経済運営に失望した商工業者のなかにも、当分のあいだは資本主義の枠内での経済復興をめざすという共産党が掲げる政策に期待をよせる人々がふえていた。国民党でも共産党でもない良識派を結集していた政治団体、中国民主同盟のなかでも共産党に共感をいだく部分が増大しつつあった。こうした政治情勢の展開を受け、国民政府軍のなかには共産党側に内応する動きが広がった。
 49年革命によって権力の座に就いた共産党は、朝鮮戦争の勃発と冷戦の激化という厳しい客観情勢に直面しながら、以上に述べたような都市と農村の民衆のさまざまな期待に応えなければならなかった。それがどの程度まではたされたのかが、今、改めて問われ始めている。

●中国の近代史(概略)ここで終わり
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