(歴史)「簡易世界通史・18世紀」

アメリカ独立戦争そしてフランス革命。世界は封建君主の時代から次の時代へ移っていく。
フランス革命のニュースが日本に伝わったのは、1794年のことである。オランダ船の船長が毎年徳川幕府に提出する『風説書』には次のようにある。

「ふらんす国臣下の者ども、徒党仕(つかまつ)り、国王ならびに王子を弑(しい)し、国内乱妨(らんぼう)におよび申候(もうしそうろう)」

また1826年に幕府天文学者高橋作左衛門景保が、出島のオランダ商館長から聞いた話をまとめた『丙戌異聞』には次のようにある。(やさしくして書き写した文とある)(出典:「世界の歴史」中央公論社1961年刊)

「わが寛政の初め、フランス国ルイ16世王の代にあたって、政令正しからず、国民苛虐(かぎゃく)にたえずして盗賊蜂起せしに、有司(やくにん)も制することあたわず。1793年正月、国王ついに賊のために弑(しい)せらる。時に5人の諸侯あり。1人の名をバラスという。4人の名は記さず。この5候力をあわせ、賊を討って、これを平らげ、おのおの一致して国を治めしかども、互いに地を広めんとてまた軍(いくさ)おこり、或は隣国と戦い、国内静ならず。これよりさきボナパルト・ナポレオンなる者あり。(中略)ここに至ってボナパルト兵を起し、まずコルシカ島を奪い・・・」と続く。

当時の日本では「自由・平等・博愛」の3理念ではなく、ナポレオンの創出した「歩兵・騎兵・砲兵」の3兵戦術に驚嘆したという。

●世界簡易通史18世紀
ここでは、綿引弘「世界の歴史がわかる本」全三巻三笠書房2000年刊、綿引弘「一番大切ななことがわかる(世界史の)本」三笠書房2008年刊、「クロニック世界全史」講談社1994年刊、「丸善エンサイクロペディア大百科」丸善1995年刊、「世界の歴史」中央公論社1961年刊、「世界歴史大系イギリス史」山川出版社1990年刊、「新版世界各国史・南アジア史」山川出版社2004年刊、などから要約・引用した。また吉川弘文館「世界史年表」も参考にした。

目次
ピックアップした項目 内容
18世紀世界<要旨> 植民地獲得で戦う英仏。18世紀はイギリスとフランスの戦いでもある。
スペイン継承戦争(1702年-1713年) スペイン系ハプスブルク家が断絶する。継承戦争が起こる。
オーストリア継承戦争(1740年-1748年) 神聖ローマ帝国カール6世死去すると、長女マリア・テレジアがハプスブルク家を相続した。相続に異義をとなえ戦争が起こる。
7年戦争(1756年-1763年) プロシアのフリードリヒ大王が、オーストリアの反プロイセン連合打破のためにザクセンに侵入、ほとんど全ヨーロッパを敵にまわす戦争を始めた。この戦争は植民地を含む世界大戦となった。
フレンチ・インディアン戦争(1755年-1763年) イギリスは、ヨーロッパで孤立していたプロシアに資金提供をして、フランスをヨーロッパ大陸に釘付けにし、北アメリカ大陸とインドで植民地獲得に全力をそそいだ。イギリスが北アメリカで、連合するフランスとインディアンと戦争を行った。
イギリスによるインド支配(1764年~) イギリスはインドでも敵対するフランスを倒し、インド支配を確実にしていく。
アメリカ独立戦争(1775年~1783年) イギリス軍と植民地の民兵が衝突し、ついに独立戦争に発展した。世論を独立支持に傾かせた「コモン・センス」の一部を引用し、「独立宣言」も引用してみる。
フランス革命(1789年~1799年) 封建的な旧制度と絶対王政を倒す。ルイ16世は処刑され、「人権宣言」が公布された。しかしジャコバン派の独裁と恐怖政治が行われ、ついにナポレオンの出現をみる。

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18世紀はイギリスとフランスの戦いでもある。
18世紀世界<要旨>
(植民地獲得で戦う英仏)
●イギリスはフランスに、第2次英仏百年戦争で勝利した。イギリスは産業革命を行って大英帝国にのし上がっていく。負けたフランスは、財政難から革命が起き絶対王政は崩壊した。
●ロシア・プロシア・オーストリアが啓蒙専制君主による国内改革で台頭し始めた。
●アメリカ合衆国は、イギリスに対する独立戦争に勝利し、独立した。
●ヨーロッパは、市民革命と産業革命(二重革命)が進展して、本格的な資本主義体制が生み出された。それによって、ヨーロッパは他の世界を圧倒する時代を迎えた。
●オスマントルコはロシアの南下政策で圧迫され始めた。
●インド・東南アジアはヨーロッパ勢力の進出を受けた。とりわけインドは、イギリスの植民地化にさらされ始めた。
●清はイギリスとの交易は許したが、大清帝国の繁栄を謳歌していた。
●日本は徹底した鎖国政策で、国内的な安定を確保していた。
*綿引弘「一番大切ななことがわかる(世界史の)本

年・月 国・地域
(赤字=勝者)
事項
1700年-1721年 北方戦争(21年間)
(北・東ヨーロッパ)
◎スウェ-デン
●ロシア
●ザクセン
●デンマーク


最終的にはロシアが勝つ。
●スウェ-デン(17世紀末からバルト海貿易を独占していた大国)は、ロシア・ピョートル1世の大軍をナルヴァの戦いで破る。これによりピョートル1世は、ロシアの軍制改革に力をそそぎ、9年後のポルタヴァの戦い(1709年)で雪辱する。新興国ロシアは、このポルタヴァの勝利により国際的な地位を上げた。


●1721年ニスタット条約(北方戦争終結)、21年続いた北方戦争が終結し平和条約が結ばれた。そしてロシアはこの条約により、バルト海への出口を獲得し、サンクト・ペテルブルクは中心都市として発展する。ロシアは大国への道を歩み始める。
1702年-1713年 スペイン継承戦争
(ヨーロッパ)
◎イギリス
◎オランダ
◎プロシア
◎オーストリア

●フランス
●スペイン


(右図フランスのブルボン王家の系図)出典:クロニック世界全史講談社1994年刊
スペイン継承戦争

●スペイン・カルロス2世が死去し、スペイン系ハプスブルク家は断絶となった。
●ルイ14世はハプスブルク家を抑えて、ブルボン王家がスペインとフランスを合わせて支配しようと野心をもった。カルロス2世は、後継者として、フランス・ブルボン家ルイ14世の孫を指名したが、イギリスなど各国はフランスの勢力拡大をおそれ、フランス・スペインに宣戦を布告し戦争となった


●1713年ユトレヒト条約(スペイン継承戦争終結)。イギリスなど各国は、フランスとスペインが合同しないことを条件に、フランス・ブルボン家のフェリペ5世のスペイン王を承認した。イギリスがこのスペイン継承戦争で最大の受益国となり、イギリスはスペイン領に対する奴隷供給の独占権(アシエント)を得た。これによりリヴァプールは奴隷貿易などで大発展し、のちにその資本はイギリス産業革命を支えていった。
1718年 バッサロヴィツ条約
◎ヴェネツィア
◎オーストリア

●オスマン帝国
●ヴェネツィア・オーストリア軍とオスマン帝国は、モレア(ペロポネソス)をめぐって1716年来交戦中であったが、この戦いの仲裁に入ったイギリス・オランダによって、オーストリアは条約を結び、オスマン帝国領内での通商権、カトリック教徒への保護権を得て、南方へ進出する。
1727年 キャフタ条約
●ロシア
●清
●ロシアと清国は、1689年ネルチンスク条約以来のモンゴル地区の国境の画定や通商問題の懸案事項を解決した。これにより建設された町キャフタは、対清貿易の中心地として大いに発展した。
1733年-1738年 ポーランド継承戦争
(ヨーロッパ)
◎フランス
●オーストリア
●スウエーデンの支持を受けた新国王レシチンスキに対し、ロシアの支持を受けたザクセン候が、ザクセン軍とロシア軍とでワルシャワに侵攻し、アウグスト3世として即位した。オーストリアはアウグスト3世を支持したが、レシチンスキの娘を王妃にもつフランス・ルイ15世は、オーストリアに宣戦を布告し戦争が始まった。


●1738年ウイーン条約(ポーランド継承戦争終結)・1735年ウイーン暫定協定で一応の決着をみ、今回正式調印となった。その結果、ルイ15世の義父レシチンスキはポーランド王位を退いた。
1739年 ベオグラード和約
◎オスマン帝国
●オーストリア
●オスマン帝国は、1718年バッサロヴィツ条約での失地回復を果たし、またロシアはニッサ条約を結び、南下の基礎を築く。
1739年 ペルシャのインド侵攻
◎ペルシャ(イラン)
●ムガル帝国
●ペルシャの王ナーディル・シャーは、アフガンからインドに侵入し、ムガル朝王都デリーを襲って略奪と虐殺のかぎりを尽くした。
重要事項
(世界の動き1700年~1740年頃)
●1701年(ドイツ)プロイセン王国が成立。ホーエンツォレルン家のフリードリヒが国王となる。
●1702年(イギリス)国王ウイリアム3世が落馬がもとで死亡。共同統治者であったメアリー2世(1695年死去)の妹のアンが王位を継承した。
●1707年(イギリス)グレート・ブリテン王国が成立した。イングランドとスコットランドが合同する。
●1707年(インド)ムガル帝国第6代皇帝アウラングゼーブ(インド全域を支配)が失意の晩年のを閉じる。
●1708年(西アフリカ)ダホメー王国でアガジャ王が即位する。奴隷貿易でヨーロッパ商人と直接取引を行い経済発展をとげる。多くの奴隷たちがアメリカ大陸へ売られていった。(王は国民の財産と生殺与奪権を持つ絶対君主だった。)
●1710年(ドイツ)マイセンにヨーロッパ最初の陶磁器製作所(王立磁器マニュファクチャー)が設立される。
●1714年(イギリス)アン女王が死去し、王位継承法により、ドイツハノーヴァー選帝候がジョージ1世として即位する。
●1715年(フランス)ルイ14世(太陽王)が死去する。ルイ14世の曽孫のルイが15世として即位したが、5歳だったためオルレアン公が摂政となった。
●1716年(日本)8代将軍に徳川吉宗が就任、享保の改革に着手する。
●1718年(アメリカ)フランスがルイジアナ植民地に、ニューオリンズを建設する。
●1719年(ロンドン)ダニエル・デフォー(政治ジャーナリスト)が「ロビンソン・クルーソー」を刊行、大評判となる。
●1720年(ロンドン)株価大暴落バブル崩壊、南海会社(政府の国債引き受け金融機関)株価も大暴落する。ウォルポール政権誕生して経済も回復する。
●1723年中国(清朝)雍正帝がキリスト教を禁止し宣教師を追放する。以後1850年まで国法となり、後に開国を求める列強と紛争の種となる。
●1726年(ロンドン)アイルランドのスウィフトが、社会風刺の書「ガリヴァー旅行記」を出版する。
1740年-1748年 オーストリア継承戦争
(ヨーロッパ)
◎オーストリア
◎イギリス
◎オランダ

●プロシア(プロイセン)
●フランス(地図)オーストリア継承戦争(出典:クロニック世界全史講談社1994年刊)
オーストリア継承戦争

●神聖ローマ帝国カール6世死去すると、長女マリア・テレジアがハプスブルク家を相続した。カール6世は事前に「国事詔書」で領土の永久不分割、女子の相続などを、領内貴族そして列強各国に承認・確認をもとめていた。だがマリア・テレジアの相続に異義をとなえたバイエルン選帝侯は、フランスや有力諸侯の支援を受けて、家督の相続を要求した。これをみたプロシアの新国王フリードリッヒ2世は、マリア・テレジアの相続を認める代わりに、シレジア(シュレジェン)の領土を要求し、シレジアに侵攻し戦争になった。その後イギリスの本格的介入で、オーストリア連合軍がフランスを破り、一方プラハを陥落させたバイエルン候が、皇帝カール7世を名乗った。それに対しオーストリア軍は、バイエルンの本拠地ミュンヘンを占拠し対抗した。そしてプロシアがオーストリアにシレジアの領有を認めさせると、オーストリアはイギリスとオランダの支持を受け、プラハを奪回した。するとプロシアはフランスと同盟を結び、ボヘミアに進撃し第二次シレジア戦争を起こした。


●1748年アーヘン和約(オーストリア継承戦争終結)・カール6世の「国事詔書」は国際的に承認され、マリア・テレジアが帝位と領土の継承権を得た。1745年にカール7世が死ぬと、マリア・テレジアの夫が、神聖ローマ帝国皇帝フランツ1世として選出された。プロシアのフリードリッヒ2世は、シレジアの領有を条件にフランツ1世の帝位を認めていたが、戦争は続いていた。そしてこの和約でプロシアは、シレジアを獲得しドイツ第2位の強国となった。
1744年 イギリスとフランスの抗争
(インド・北アメリカ)
◎イギリス
●フランス


(地図)18世紀中頃のインドとアメリカ(出典:クロニック世界全史講談社1994年刊)
●両国の衝突は、インドではカーナティック戦争となり、北アメリカではジョージ王戦争となり、植民地をめぐる抗争は激しさを極めた。第二次カーナティック戦争(1751年)は、イギリス東インド会社軍のクライヴの勝利となる。
1744年 サウード家、アルワッハーブを保護し、イスラム復興運動始まる。
(サウジアラビア)
●ナジュド地方の支配者サウード家のムハンマドが、宗教改革家ムハンマド・ブン・アブド・アルワッハーブと会見し、イスラム改革のための同盟を誓った。アルワッハーブは、聖典コーランと予言者ムハンマドの教えに帰れと主張した。サウード家は彼を保護し、彼の指導に従いイスラムの布教に努力し、イスラム復興のワッハーブ運動を始めた。このワッハーブ派は、18世紀末にはほぼアラビア半島全域に広がった。
1751年 中国がチベットを保護国とする
◎清
●チベット
●ダライ・ラマ7世は、清朝によるチベット支配強化策を認め、清朝の保護国となった。歴代のダライ・ラマは16世紀以降モンゴル高原に大きな影響力を持っていた。しかし1718年にジュンガル部が、チベット支配をもくろみ侵入してきたため、清朝はチベットに出兵しジュンガル部を追放したが、かわりにチベット支配も強めた。
1752年 ビルマ族による国土統一に成功
ミャンマー
●新国王アラウンパヤーが、これまでのタウングー朝にかわってコンバウン朝を開いた。1754年にはビルマ族の旧都を奪回し、1755年に下ビルマに進みダゴンを陥落させ、ラングーン(戦いの終焉の意味)に改名した(現ヤンゴン)。こうして3度目のビルマ族による国土統一を成し遂げた。
1756年 アフガニスタンがデリー占領
◎アフガニスタン
●ムガル帝国
●アフガニスタンの王アフマド・シャーがデリーを占領し、パンジャーブ地方を併合する。ムガル帝国にはこれを阻止する力はもう無く、シク教徒のみ抵抗を試みた。
1757年 ジュンガル王国滅亡
(中央アジア最後の遊牧騎馬民族国家)
◎清
●ジュンガル王国
●清の大軍による総攻撃を受け、アムルサナ(先々代の王の外孫)はシベリアへ敗走する途上病没しジュンガル王国は滅亡した。これにより清は、天山の南の東トルキスタンをも1759までに征服し、パミール以東を「新疆=新しい土地」と称し、清は歴代最大となる版図を得た。
1756年-1763年 7年戦争
(ヨーロッパ・インド・北アメリカ)
◎プロシア
◎イギリス

●オーストリア
●フランス
●ロシア
●ポーランド
●スウエーデン
●スペイン


(右地図)「7年戦争」(出典:クロニック世界全史講談社1994年刊)
7年戦争(植民地を含む世界大戦)

●プロシアの勃興は、オーストリアに打撃をあたえた。マリア・テレジアは国内の近代化と外交戦略によって、プロシアの弱体化をはかり、反プロシア連合を主導した。カウニッツ伯の進言で、ハプスブルク家(オーストリア)はブルボン家(フランス)と、16世紀以来の敵対関係を解消し同盟を結んだ(ヴェルサイユ防衛同盟)。そしてロシアもこの同盟に加わった。これは、「3人の女性同盟」といわれ、マリア・テレジア(オーストリア)、ポンパドゥール夫人(フランス・ルイ15世の愛妾)、エリザヴェータ(ロシア女帝)をいう。
一方イギリスは自国の王家であるドイツ・ハノーヴァー家を守るために、結局プロシアと同盟を結んだ(ウエストミンスター協約)。イギリスは植民地(インドや北アメリカなど)でフランスと対立しており、同盟を結ぶはずはなかった。そしてイギリスがフランスに宣戦布告を行うと、プロシアは、機先を制しザクセンに侵攻し、7年戦争が勃発した。

プロシアとオーストリアの戦い
(ヨーロッパ)
◎プロシア
●オーストリア
●ロシア
●1757年(12月)ロイテン会戦(ポーランド)。フリードリッヒ2世のプロシア軍(3.3万人)は、シレジアのロイテンでオーストリア軍(6.5万人)の大軍を破る。


●1759年(8月)クネルスドルフの戦い(ドイツ)。プロシアはオーストリア・ロシア連合軍に壊滅的な打撃を受け、将官のほとんどを失い、フリードリッヒ2世自身も自害することを覚悟したといわれる。しかし勝った連合軍はとどめを刺さず、プロシアにとって「第1の奇跡」といわれた。


●1760年(8月)リーグニッツの戦い(ポーランド)。苦境に立たされていたプロシアは、前年からフランスとの和平交渉を進めていたが、オーストリアの戦争意志は固かった。しかし劣勢だったプロシアは、この戦いに勝利し「第2の奇跡」といわれた。


●1760年(10月)ベルリン焼失。ロシアの女帝エリザヴェータ、ベルリンを奇襲し焼き尽くした。
1757年 プラッシーの戦い
(インド)
◎イギリス東インド会社
●ベンガル太守
●フランス「18世紀半ばのインド」(出典:世界の歴史がわかる本 綿引弘著三笠書房2011年刊)
●イギリスは、オーストリア継承戦争と七年戦争の中で、フランス東インド会社と戦ってきた。南インドでは、マドラス(イギリス)とポンディシェリ(フランス)との間で戦った(カーナティック戦争第1次~第3次)。イギリスはクライヴ、フランスはデュプレックスだった。しかし有能だったデュプレックスは、第2次カーナティック戦争(1750-54)で解任され、それ以後フランスは後退していくことになる。


●1757年(6月)のプラッシーの戦いは、ベンガル太守(シラージュ・ウッダウラ)とクライヴ率いるイギリス東インド軍との戦いだったが、太守の伯父(ミール・ジャーファル)の裏切りと大雨によって、ベンガル軍は敗れた。クライヴは800人のイギリス軍と2200人のインド兵で、それにに対して、ベンガル軍は5万の歩兵と18000の騎兵と多くの軍像だったといわれる。イギリス軍は、3月にフランス軍の拠点(シャンデルナゴル)を陥落させ、ベンガルとイギリスとの間に緊張が高まっていた。イギリスは、この戦いの勝利でベンガルの支配権を握り、インド支配を確実なものとした。


第3次カーナティック戦争(1758-63)では、イギリスが1761年に、フランスの1673年以来の根拠地をポンディシェリ陥落させ、勝敗がついた。
1755年-1763年 フレンチ・インディアン戦争
(北アメリカ)
◎イギリス
◎アメリカ植民地

●フランス
●インディアン部族
●スペイン(カリブ海)
フレンチ・インディアン戦争

●前年から続くイギリス・フランス間のオハイオ川流域争奪戦から、フレンチ・インディアン戦争が始まった。インディアン全部族がフランスについたわけではなく、インディアン諸部族は、イギリスとフランスの戦争に巻き込まれたというのが正確とあります。1754年の初めてのアメリカ植民地会議で、フランクリンはフランス軍およびインディアンと戦うために全植民地が連合することを提案し、採択された。


●1759年ケベック(カナダ)陥落。イギリスはケベック・アブラハム平原においてフランス軍を破り、ケベックをおとす。
●1761年カリブ海に大艦隊を派遣。イギリスはアメリカ植民地統治に欠かせないスペイン植民都市ハバナを攻撃し落とす。イギリスの海上権が確立。
1763年(2月) (7年戦争終結)
パリ条約
フベルトゥスブルクの和約
◎イギリス
●フランス
●スペイン


◎プロシア
●オーストリア


(右地図「18世紀中頃の北アメリカ」と「パリ条約後のアメリカ」)(出典:クロニック世界全史講談社1994年刊)
●終結にいたる各国の情勢の変化
ロシアでは、エリザヴェータ女帝が急死し(1762年)、フリードリッヒ2世を崇拝するピョートル3世が即位し、プロシアと講和を結び撤退した。(スウェーデンも講和)(しかし1762年ピョートル3世は、6ヶ月で妃エカチェリーナの宮廷革命によって幽閉され王位を失い殺害された。)
イギリスでは、主戦論者の大ピットが国王(ジョージ3世)と衝突して辞任した。国王や廷臣たちは、財政難や長期にわたる戦争に対する早期講和を求めていた。
フランスについては、情勢の変化はなく、1743年に即位したルイ15世は、無為・怠惰な国王で、ポンパドゥール夫人と共に、浪費するばかりの宮廷生活だけだった。

(パリ条約)によって、
イギリスは、フランスからカナダとミシシッピ川以東のルイジアナを獲得した。スペインからは、ハバナとマニラ(フィリピン)を返還する代わりに、フロリダを得た。インドではイギリスが、フランスのシャンデルナゴルとポンディシェリ以外の全てで優先権を得た。ルイ15世は、ルイ14世の時代のヨーロッパの最強国の地位を失った。


(フベルトゥスブルクの和約)によって、
プロシアはオーストリアに対して、シレジアを確保し、ヨーロッパの強国としての地位を確立した。
1764年~ イギリス・インド支配への戦争
◎イギリス東インド会社
●ムガル帝国と諸国・諸藩「1750年前後の南インド」(一部色づけ)(出典:「新版世界各国史・南アジア史」山川出版社2004年刊)
イギリス・インド支配

●1764年ブクサール戦闘。イギリス東インド会社軍は、ベンガル・アウド藩の太守・ムガル皇帝の連合軍を圧勝する。これにより1765年、東インド会社はムガル帝国より、ベンガル州等の「ディーワーニー=財務長官の職と権限」を授与される。実質の植民地化。


●1767年第1次マイソール戦争勃発。マイソール王は南部カルナータカに侵攻し、イギリス東インド会社軍と戦争となる。そしてこのマイソール戦争は、第2次1780年、第3次1790年、第4次1799年まで続き、19世紀初頭には、イギリスのマドラス管区として支配され終結した。これは一部をイギリスの直轄地とし、マイソール等を藩王国とするものである。


●1769年ベンガル大飢饉。飢餓と疫病で、特に都市部の職人層や下層労働者層に大きな打撃を与えた。推定では人口2900万人のうち、1000万人が死んだといわれる。


●1775年第1次マラータ戦争勃発。マラータ同盟内の後継者争いで、ボンベイのイギリス軍の援助要請から戦争が始まった。この戦争も、第2次1805年、第3次1817年と続き、ついにマーラータ同盟は降伏し、イギリス支配下に入った。


●1845年第1次シク戦争勃発(パンジャーブ地方)。インド総督は、最後の独立国シク王国に宣戦布告した。翌年戦争が終わり、イギリスは講和を結び、カシミールを獲得した。しかしシク教徒のイギリス支配に対する反発から、1848年第2次シク戦争となったが、イギリスは翌年シク王国を併合した。

イギリス東インド会社によるインド統治は、藩王国領を除いて、ベンガル管区、マドラス管区、ボンベイ管区に分かれていた。しかし数度にわたるインド統治法の改正によって、問題は手直しされていったといっても、やはり1私企業が植民地を支配することには、問題があった。そして1858年のセポイの反乱をもって、東インド会社によるインド統治は廃絶され、イギリスの直轄植民地になった、
18世紀頃のインド各地の王国の細密画

(出典:「インド宮廷文化の華」NHKきんきメディアプラン1993年発行)

(左画)「テラスのナワーブ・アリーヴァルディー・ハーンと、その甥と孫」紙に不透明水彩と金泥。ベンガル、ムルシダーバード、1750~55年頃。 
(中画)「嵐を避けて家に逃げ込む女性」紙に不透明水彩と金泥。北インド、ラクラウ、1760年頃。
(右画)「花火」紙に不透明水彩と金泥。伝ナインスク筆、パンジャーブ、ジャンムーあるいはジャスローター、1750年頃。

1768年 第1次ロシア・トルコ戦争
(黒海~地中海)
◎ロシア
●オスマン帝国
●ロシア・エカチェリーナ2世、黒海から地中海への出口をねらい、オスマン領へ侵攻する。ロシアは、1769年ベッサラビアを制圧してクリミアを脅かし、1770年カグールの会戦でオスマン軍を破り、アナトリアの海戦でも、バルチック艦隊がオスマン艦隊を壊滅させる。


●1774年ロシア・トルコ講和
(ブルガリア)(第1次ロシア・トルコ戦争終結)、ロシア・エカチェリーナ2世とオスマン帝国スルタン・アブデュル・ハミト1世は、講和条約を結んだ。ロシアはアゾフ、ドニエプル川河口など多くの地方と賠償金を獲得し、さらに黒海における艦隊の建造権と、商船のボスポラス、ダーダネルス両海峡通行権などを得た。これによりロシアは黒海の制海権を得ただけでなく、オスマン帝国内のギリシャ正教徒の保護の名目で、内政に干渉する権利も得た。


(左地図「エカテリーナ(エカチェリーナ)時代の領土の拡大」)(出典:興亡の世界史14「ロシア・ロマノフ王朝の大地」講談社2007年刊)
1769年 清・ビルマ遠征
(ミャンマー)
◎ビルマ
●清
●清の乾隆帝、4回にわたり雲南の権益確保とビルマの屈服を狙ったが失敗した。ビルマの抵抗は激しく、清軍は撤退した。ビルマ軍もアユタヤを攻略中だったが、撤退した。(ビルマは1767年タイの王都アユタヤを徹底的に破壊し、アユタヤ朝を滅ぼした。)
1772年~1795年 1772年第1次ポーランド分割


1793年第2次ポーランド分割


1795年第3次ポーランド分割


(ヨーロッパ)


◎プロシア
◎ロシア
◎オーストリア

●ポーランド
第1次~第3次ポーランド分割

●(第1次分割)プロシア、ロシア、オーストリア3国は、フリードリッヒ2世の提案によりポーランド分割の協定を行った。ポーランドは、国政改革により軍の増強に力をそそぎ、プロシアはポーランドの強大化をおそれて、ロシアと共に圧力をかけた。ロシアは3国の同盟を結び、ポーランドを分割した。この分割でポーランドは、国土の30%住民の約35%を失った。


●(第2次分割)ロシアとプロシア2カ国で分割の協定を結んだ。オーストリアはフランス革命で動きがとれず参加できなかった。ポーランド国内では貴族間の争いにより、ロシアに対し軍事介入をもとめ、10万のロシア軍の侵入を受け、ポーランド軍との戦闘になったが、ロシア軍に全土を支配された。


●(第3次分割)ロシア、プロシア、オーストリア3国で分割が協定された。これにより800年以上東ヨーロッパに君臨したポーランドは、消滅した。ヨーロッパ中がフランス革命に目を注がれており、この分割に対して特にイギリスが介入できなかったことが不運だった。


(左地図「ポーランド分割」)(出典:世界の歴史がわかる本「ルネッサンス・大航海時代~明・清帝国」三笠書房2011年刊)
重要事項
(世界の動き1730年頃~1770年頃)
●1733年(アメリカ)13番目のユニークな植民地ジョージア(ジョージ2世の名に由来)を、オグルソープが建設。(勤勉で恵まれない貧しい人々の為)
●1735年(中国・清)第6代皇帝乾隆帝が即位し、帝国の繁栄の頂点を迎える。
●1735年(スウェーデン)、植物学者リンネ「自然の体系」を刊行し、画期的な植物分類法を提唱する。
●1745年(フランス)、ルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人権勢をふるう。
●1748年(フランス)、モンテスキュー「法の精神」を完成。専制政治の危険を説く。
●1751年(フランス)、啓蒙思想の象徴である「百科全書」の第1巻が刊行される。この巻には、ディドロや哲学者・数学者のダランベールなどが編集にかかわった。
●1752年(アメリカ)、科学者のフランクリンがたこあげの実験に成功する。「電気についての実験と観察」で名声を高める。
●1757年(中国・清)、清朝が海禁策をとり、海外貿易を広州1港に限定する。
●1758年(フランス)、重農主義者ケネー、国の根本は農業にありとの「経済表」を発表する。
●1759年(ロンドン)大英博物館が一般公開を始める。
●1761年(イギリス)、南部担当国務大臣ピット(大ピット)が7年戦争中なさなか、国王と衝突して政権を離れた。ピットは過去4年間首相のニューカスルと共にイギリスを指導してきた。その半年後首相も辞任し、イギリスの政局は若い国王の下で混乱する。
●1762年(カリブ海)イギリスは、カリブ海のスペイン植民地最大の海軍基地ハバナを大艦隊で攻撃し陥落させる。イギリスはカリブ海の海上権を得る。
●1762年(パリ)思想家ジャン・ジャック・ルソーが「社会契約論」と「エミール」を出版する。しかしルソーのこの厳しい批判に対して、パリ高等法院はルソーの逮捕状を出した。下に「社会契約論」の第1編第1章を引用しおく。
●1764年(イギリス)、ジェームズ・ハーグリーヴズがジェニー紡績機を発明した。ジェニーの名は彼の妻の名にちなむともいわれる。産業革命の始まりである。1769年アークライトの水力紡績機、1779年クロンプトンのミュール紡績機などが続く。
●1766年(中国・清)清朝に仕えたイタリアの画家カスティリオーネが北京で死去。
●1766年(イギリス)、ヘンリ・キャヴェンディッシュが水素ガスを発見する。鉄や亜鉛などの金属に酸を加えることで可燃性の空気を得た。これが水素ガスであった。
●1768年フランス、ジェノヴァ共和国が独立運動に手を焼き、コルシカ島をフランスに売却する。
「社会契約論」1762年、ジャン・ジャック・ルソー著 一部引用

(出典)「ルソー社会契約論」桑原武夫訳・前川貞次郎訳 1954年第1刷・2013年第83刷 岩波書店刊 

第一章 第一編の主題

 人間は自由なものとして生まれた、しかもいたるところで鎖につながれている。自分が他人の主人であると思っているようなものも、実はその人々以上にドレイなのだ。どうしてこの変化が生じたのか? わたしは知らない。何がそれを正当なものとしうるか? わたしはこの問題は解きうると信じる。
 もし、わたしが力しか、またそこから出てくる結果しか、考えに入れないとすれば、わたしは次のようにいうだろう—ある人民が服従を強いられ、また服従している間は、それもよろしい。人民がクビキをふりほどくことができ、またそれをふりほどくことが早ければ早いほど、なおよろしい。なぜなら、そのとき人民は、〔支配者が〕人民の自由をうばったその同じ権利によって、自分の自由を回復するのであって、人民は自由をとり戻す資格をあたえられるか、それとも人民から自由をうばう資格はもともとなかったということになるか、どちらかだから。しかし、社会秩序はすべての他の権利の基礎となる神聖な権利である。しかしながら、この権利は自然から由来するものではない。それはだから約束にもとづくものである。これらの約束がどんなものであるかを知ることが、問題なのだ。それを論ずる前に、わたしは今のべたことを、はっきりさせておかねばならない。(後略)

アメリカ独立戦争
年・月 事項 内容
1765年 印紙税法に対する抗議行動
イギリス植民地総督邸焼き討ち
(アメリカ)
◎アメリカ
●イギリス
●イギリス本国で印紙税法が成立。7年戦争後のイギリスは、多大の負債を抱えた。そのためイギリスは、植民地の駐留費用などの捻出のため、印紙税法を成立させた。この印紙税法は、商業上のすべての証書、パンフレット、新聞、暦などに印紙を貼るというもので、反発は大きかった。この法律は1766年に廃止された。また7年戦争の結果獲得したフランス領を、イギリス本国の直轄地として、植民地人の入植を禁止したことも、イギリスに対する不満を高めた。
1770年 ボストン虐殺事件 ●ボストンで、イギリス軍歩兵隊と市民が衝突し、イギリス兵の発砲により5人が射殺された。この事件は、ボストンへの関税委員会設置のため、イギリス軍が護衛のため進駐してきたことが引き金となった。税関吏と市民との対立が頻発していた。
1773年 ボストン茶会事件 ●インディアンに変装した「自由の息子」のメンバーが、夜ボストン港に停泊中のイギリス船3隻に乗り込み、茶箱342箱を海中に投げ捨てた事件。この発端は、イギリスが、茶の独占販売を与えるという「茶法」を制定し、窮地のイギリス東インド会社を救済しようとしたことによる。これにより、対立は決定的なものとなった。
1775年-1783年 アメリカ独立戦争
アメリカ独立戦争

●1775年(4月)レキシントンでの衝突。マサチューセッツの武器庫押収に向かったイギリス軍と、アメリカ植民地民兵がレキシントンで衝突した。これが独立戦争の始まりだった。5月に第2回大陸会議が開かれ、満場一致でジョージ・ワシントン(ヴァージニア代表)が陸軍総司令官に選出された。イギリスとの戦争が始まった翌年、不合理な君主制から独立するのは、当然の常識とする「コモン・センス」が出版され、独立へ世論が高まった。下に「コモン・センス」の一部を引用する。


左13州の地図と独立宣言書(出典:『クロニック世界全史』講談社1994年刊)


●1776年(7月)独立宣言を採択。フィラデルフィアでの大陸会議は、トマス・ジェファソンの起草したものを修正して独立宣言として採択した。起草委員は以下の5名だった。トマス・ジェファソン(ヴァージニア)、ジョン・アダムズ(マサチューセッツ)、ベンジャミン・フランクリン(ペンシルヴァニア)、ロバート・リヴィングストン(ニューヨーク)、ロジャー・シャーマン(コネティカット)。


下に「独立宣言」の一部を引用する。
「コモン・センス」1776年、トマス・ペイン著 一部引用

(出典)「コモン・センス 他三編」小松春雄訳岩波書店1976年刊 
王政および世襲制について
人類は、本来天地創造の秩序においては平等であった。したがってその後なにかの事情が生じなければ、この平等は破られるはずはなかった。貧富の差については、およそのところ説明することができる。そしてその説明のためには、圧制や強欲というどぎつい、耳障りな言葉を使わなくてもよい。圧制はしばしば富を獲得した結果生じるものであって、ほとんど—いな全くと言ってよい—富を獲得する手段ではない。また強欲によって食うに困るような貧乏から免れはするが、概して小心になりすぎて金持ちになることはない。

下

「アメリカ独立宣言書」 一部引用

(出典:アメリカ大使館about USA 和訳。2017現在アメリカ大使館サイトには掲載が無い)

独立宣言
1776 年7 月4 日第2 回大陸会議により採択
13 のアメリカ連合諸邦による全会一致の宣言

人類の歴史において、ある国民が、他の国民とを結び付けてきた政治的なきずなを断ち切り、世界の諸 国家の間で、自然の法と自然(の)神の法によって与えられる独立平等の地位を占めることが必要となったとき、 全世界の人々の意見を真摯に尊重するならば、その国の人々は自分たちが分離せざるを得なくなった理由 について公に明言すべきであろう。

下

1777年(3月) アメリカ、ヨーロッパ各国に援軍要請。
◎アメリカ合衆国
◎フランス
◎スペイン等

●イギリス

(植民地の民兵が、イギリス正規軍に勝った理由)
①植民地の民兵は、志気が高く6ヶ月間の野営で1/3を失った試練(バレー・フォージ)にも耐えた。そしてこの試練は、アメリカ軍の誕生の原点といわれるほどの強い独立への情熱を独立軍に与えた。
②一方イギリス正規軍は傭兵に過ぎなかった。イギリス国王ジョージ3世は、ドイツの領主から3万人の傭兵を買い入れてアメリカに送った。志気の違いが大きく戦局を左右したことはまちがいない。
1777年(3月)第4回大陸会議は、アメリカ独立支援の軍派遣要請を、ヨーロッパに使節団を送り各国高官に要請する。


●1777年(7月)フランス軍人ラファイエット公爵らが、独立戦争に参加するため渡米する。


●1777年(10月)サラトガの戦い。イギリス軍が、アメリカ大陸軍に降伏する。独立軍は、イギリス正規軍に勝利したことにより、独立への確信を深めた。


●1777年(11月)大陸会議はアメリカ合衆国の統治を定めた連合規約を採択した。各植民地「States=国家」は独立国家であり、13の主権国家が連合して国家を構成する「The United States of America =アメリカ合衆国=合州国=連合国」を国名とした。


●1778年(2月)フランスと条約締結。ベンジャミン・フランクリンらは、フランスと通商・同盟条約締結に成功した。フランスは前年のサラトガの戦いの結果や、15年前のフレンチ・インディアン戦争で失った失地回復を狙い、アメリカ支援にまわった。


●1780年(4月)ラ・ファイエット、フランス政府の援軍確約を得て戻る。ジョージ・ワシントンの片腕として、アメリカを勝利に導いた。その後フランス革命に参加し、独立戦争とフランス革命双方に活躍し「両大陸の英雄」と称された。


●1781年(10月)ヨークタウンの戦い。アメリカ・フランス連合軍に対して、イギリス軍降伏する。アメリカ独立戦争事実上終わる。
1783年 パリ条約(独立戦争終結) ●イギリスはミシシッピ川以東のルイジアナをアメリカに割譲、以西のルイジアナはスペイン領。
●イギリスはフロリダをスペインに割譲した。

アメリカは独立したといっても、13州が各々独立しただけであって、大陸会議のあとの連合会議も、国家としての政策を実行することはできなかった。そこで完全な国家として連合するために、1787年憲法制定会議が開かれることになった。(注)日本では、「アメリカ合衆国」と表記しているが、意味からすれば「アメリカ合州国」を使う方が良いと思われる。)

年・月 国・地域 事項
1777年 スイスの銀行家ネッケル、フランスの財政再建に着手する。
(フランス)
●チェルゴの後を継いだ銀行家ネッケルは、パリ一番の富豪と知られたが、免税特権を持つ貴族・聖職者への課税は抵抗をうんでいく。
1781年 スペイン、インディオ反乱指導者処刑
(ペルー)
●インカ帝国最後の皇帝の血を受け継ぐ、アンデスの反乱の指導者トゥパック・アマル-が、スペインによって家族・親族・配下ともども処刑された。この反乱は、スペインの腐敗した植民地支配に対し糾弾したもので、ペルー南部からボリビアさらにアルゼンチン国境付近にまで広がった。この反乱は、ペルー独立の先駆的事件と評価されている。
1783年 ロシア、クリム・ハーン国を併合
(クリミア)
●南下をねらうロシアは、黒海北岸(クリミア半島)のモンゴル系クリム・ハーン国を併合した。翌年にはセヴァストポリに港をつくり、19世紀初めには、この港を黒海艦隊の大要塞とした。
1783年 イギリス、小ピット、24歳でイギリス首相となる。 ●ピット(小ピット)は大政治家ピット(大ピット)の次男で、国王ジョージ3世によって首相兼蔵相に任命された。新内閣は議会から激しい攻撃にさらされたが、次の総選挙では勝利を得た。そしてそれ以後17年間政権を維持し、国王から独立した近代内閣制度が生まれていく。
1788年1月26日 オーストラリア史始まる。 ●イギリスは、流刑とされた囚人を新しい植民地建設事業に送り込んだ。その地は、内務大臣の名にちなんでシドニーと名づけられた。
1789年 清朝軍撃退される
(ベトナム)
●ベトナム・レ朝の救難要請にこたえ、清朝軍はベトナム北部に大軍をもって進軍してきたが、タイソン党のクアンチュン帝にハノイから撃退される。そしてこれにより400年続いたレ朝は終わる。

フランス革命
年・月 事項 内容
フランスのこれまでの流れ

●当時、フランスは、7年戦争(1756年~63年)の渦中にあり、植民地争奪をめぐってイギリスとしのぎをけずっていた。すでにスペイン王位継承戦争(1701年~14年)では、両国は北アメリカを舞台にはげしい植民地争奪戦を展開して、フランスはニュー・ファウンドランド、アカディア、ハドソン湾地方を失い、ついでオーストリア王位継承戦争(1740年~48年)では、フランスは英領マドラスを奪ってインドにおけるフランス勢力を一時的にも伸張することができた。しかし、1世紀にわたる両国の闘争に終止符をうつこの7年戦争は、イギリスの決定的勝利に終わった。すなわち、1763年に成立したパリ条約によって、イギリスは、北米とインドの支配権を確立し、フランスは新旧両大陸において主要植民地を失うことになったのである。このことが、フランス王室の威信を大きくゆるがせた。そして10年後に、アメリカ独立戦争(1775年~83年)が開始されると、フランスは7年戦争の報復のため、植民地側を助けてイギリスと戦った。これが進歩思想を国内に普及させる機会となった。しかしこの2つの戦争によって、フランス王政の財政が破産寸前の状況となった。これが革命勃発の導火線となった。(出典:「世界の歴史10」中央公論社1962年刊より)

絶対王政下のフランスでは、次のような状況下にあった。

フランス・アンシャンレジーム(旧制度)

①僧侶は第1身分②貴族は第2身分③それ以外の国民は第3身分とされ、その上に絶対君主たる王が君臨した。国王は僧侶と貴族から政治権力を奪い、王権に取り込み、かわりにさまざまな特権を認めて保護した。その1番の特権は税金の免除であった。98%以上を占める第3身分が、2%の第1身分と第2身分を支えていた。「世界の歴史10」中央公論社1962年刊によれば、フランス革命直前の人口構成は次のようである。僧侶14万人、貴族40万人、ブルジョア(中間の階級に位置した有産者、商工業者、市民など)100万人、非農勤労者200万人、農民2300万人合計2654万人。またブルジョア階層が貴族の株を買って成り上がる制度があり、これは政府の重要財源のひとつとなっていたという。

絶対王政下フランスでの財政政策

赤字財政の立て直し政策

●1774年財政総監(総理大臣と大蔵大臣兼ねたような存在)チュルゴーは、封建的な統制と特権の廃止を勅令をもって断行した。それは農民の賦役労働、穀物取引の統制、商人や生産者ギルドの廃止などであった。しかし1774年からの凶作による農民一揆の発生や、貴族や御用商人、ギルドの親方など両極から反対によりこの改革は挫折した。
●1777年銀行家ネッケルが財政総監に招かれ、財政再建に着手する。当時フランス政府の年間収入は約5億リーブル(1795年まで使われていた単位)で、アメリカ独立戦争に投入した戦費は20億リーブルで、その累積により債務は1789年には45億リーブルに達した。結局このネッケルは、改革的な政策はできず公債の募集などに成功したに過ぎなかった。しかし1781年ネッケルは債権者の信用を保つため、「財政報告書」を公表した。これにより国家財政の秘密が公にされ、特に王室の乱費が公にされたことは重要な事であった。そしてネッケルは、前任者と同様に宮廷と特権階級に反感をもたれ辞職した。
●1786年財政総監カロンヌは、封建的な身分制度の下での不平等な課税制度を改め、特権階級である第1・第2身分に課税をしようと試みた。そのため第3身分に課せられていた1/20税(全収入の1/20に課せられる直接税)を廃止し、身分差別なしにいっさいの土地所有者に「地租」を課すことによって、全体として増収をはかろうとした。そして同時に評判悪かった塩税を一律化し、国内関税を廃止し、穀物取引の自由を復活し、生産に関する種々の税金を廃止した。これにより貧民層とブルジョア層の支持を得ようと試みた。しかし1787年カロンヌは名士会の反対にあい解任された。後任はブリエンヌが継ぎ、1788年にはネッケルが再登用された。

査問機関や最高裁判所的な性格もつ機関、そして議会は次のようなものであった。

名士会、高等法院、三部会

●名士会は国王によって選ばれた王族、大貴族、司教、知事、高等法院長、大都市の市長、地方3部会の代表者などからなっていた。これは国王の意志に反することはしない査問機関である。財政総監カロンヌはこの名士会の承認を得ることで、高等法院へ圧力をかけ改革案を通そうとした。しかし名士会はこれを拒否し、1787年カロンヌは解任されてしまった。
●高等法院は最高裁判所的な性格もち、国王の定めた法律であっても、高等法院で登記されない限り法律とは認められなかった。高等法院はこの拒否権を行使することによって政治権力を持った。(ただ国王自身が高等法院に来て、法律の帳簿への記入を命令すれば、高等法院は拒否できなかった。)三部会が1614年を最後に招集された後、高等法院が国民の意見を代表する機関であると自認していた。しかしこの高等法院は、17世紀には貴族とブルジョアの中間に位置していたが、18世紀になるとまったく貴族化し自分たちの階層に不利益なことには全て反対するようになっていた。1787年7月(名士会解散2ヶ月後)、高等法院は地租に関する勅令の登記を拒否し「全国三部会」の招集を要求した。これは国王側に対抗しただけで第3身分を支持したわけではなかったが、一般世論の支持を得ることになった。
●三部会は僧侶・貴族・平民という身分によって選挙された代表者からなる議会であった。しかし175年間開かれなかった三部会が、名士会においてラファイエットが「公共の税金を決定できるのは、国民の代表にのみ可能である」と主張するにおよんで、ついに招集されるようになる。(その前に地方三部会が開かれこととなり、その中で第3身分代表者数の倍増と身分別投票の廃止が第3身分のスローガンとなった)こうして三部会は、3院制ともいうべき議会から1院制にかわり多数決原理の導入という、近代議会制度への道筋を歩んでいくことになる。

(注)何故第3身分が代表者数の倍増を求めたかといえば次の理由である。第1身分から第3身分まで、そのそれぞれの定数が300、300、300であったなら、第3身分は最大で300しかとれず、600対300で敗退する。しかし600なら、600対600で第1身分と第2身分の合計と同数になる。しかし身分別投票(3院制)ならいくら定数が増えても、2(第1身分と第2身分)対1(第3身分)で敗退してしまう。だから定数倍増と、1院制で多数決(合同多数決方式)を採るということを要求したわけである。

当時のフランスの身分制度と国王と王妃

(出典:「世界の歴史10」中央公論社1962年刊より)
(左絵)身分制度の絵、第3身分がフランス国王を背負っている。(中絵)ルイ16世(右絵)マリー・アントワネット

フランスの啓蒙思想家たち

●イギリスは当時世界先進国であったが、フランスはヨーロッパ諸国中いちばん社会矛盾の激しいところであった。そしてその矛盾は、旧来の思想では処理できないところまで来ていた。そしてそれが啓蒙思想を生み出していった。そしてそれらの思想がフランス革命を生み出す基盤となっていった。ここでは、代表的な啓蒙思想家を広辞苑より抜き出して一覧にしてみる。(人物画は「世界の歴史10」中央公論社1962年刊より)

名前 人物画 内容
ルソー
1712~1778
フランスの作家・啓蒙思想家。ジュネーヴ生まれ。「人間不平等起源論」「社会契約論」などで民主主義理論を唱えて大革命の先駆をなすとともに、「新エロイーズ」など情熱の解放を謳ってロマン主義の父と呼ばれ、また「エミール」で自由主義教育を説き、「告白」では赤裸々に自己を語った。
ディドロ
1713~1784
フランスの作家・思想家。ダランベールとともに「百科全書」の編纂・刊行に当たった。該博な知識と多方面の才能を持ち、小説「ラモーの甥」「運命論者ジャック」のほか、哲学・文学・美術・演劇などに関する多くの著作がある。
ダランベール
1717~1783
フランスの物理学者・数学者・哲学者。ニュートンの力学を剛体に拡張してダランベールの原理を樹立、また、積分の原理、弦・空気の振動、天文学に関する理論などを発表。哲学上は感覚論・相対主義をとり、不可知論を主張。ディドロらと「百科全書」を刊行、その「序論」および「数学」を執筆。
ヴォルテール
1694~1778
フランスの作家・思想家。啓蒙主義の代表者。理性と自由を掲げて封建制と専制政治および信教に対する不寛容と闘い、たびたび投獄、また、イギリス・プロイセン・スイスに滞在。著は「哲学書簡」「哲学事典」、歴史研究「ルイ14世紀の世紀「風俗史論」、風刺小説「カンディード」、その他劇詩・叙事詩など。
モンテスキュー
1689~1755
フランスの政治思想家・法学者。主著「法の精神」で歴史的研究に実証的比較方法を導入、法律制度と自然的・社会的条件との関連を追求。また三権分立を説いて、アメリカ合衆国憲法およびフランス革命に影響を与えた。ほかに「ペルシア人の手紙」「ローマ人盛衰原因論」など。
ケネー
1694~1774
フランスの経済学者。重農主義の祖。自由放任論者で、百科全書派の一人。著「経済表」「重農主義」など。
第三身分とは何か

●ここで1789年に発表され革命初期に大きな影響を与えた、シャルトルの司教代理エマヌエル・シエイエスの「第三身分とは何か」の最初のところを引用してみる。もっとも多くの人々に読まれたといわれる。「第三身分とは何か」1789年エマヌエル・シエイエス著 一部引用
(出典)「新訳第三身分とは何か」薬師院仁志訳 PHP研究所2009年刊

「第三身分とは何か」エマニュエル・シェイェス

 極限まで真理に迫ろうとする哲学者を、行き過ぎだと非難してはならない。哲学者の役割が目的地を示すことにあるならば、まず自らがそこに到達していなければならないからである。むしろ、哲学者が中途半端な地点に留まったまま道を示そうとすれば、その掲げる道標は人を欺くものとなろう。これとは対照的に、為政者たちの職務は、難題の本質から外れぬようにしながらも、少しずつ歩を進めてゆくことである。
……目的地まで行かない哲学者は、自分がどこにいるのかを知ることがない。そして、目的地を見ない為政者は、自分がどこへ向かっているのかを知ることがない。
(本論の概略)
 本論の構成は、非常に明快なものである。まず、我々は次に挙げる3点に関して、以下のように問いかけ、以下のように答えているのだ。

 1、そもそも、第三身分とは何か。
   —-全ての者のことである。
 2、一方、現在に至るまでの政治体制において、第三身分は何であったか。
   —-無に等しい者でしかなかった。
 3、そこで、第三身分は何を要求しているのか。
   —-政治体制の中で、相応な者になることである。

 本論の読者は、やがて、これらの解答が正しいか否かを理解するであろう。その後、我々は、次なる検討課題へと向かうことになる。すなわち、第三身分がそれに相応な存在となるために、これまでどのような方策が試みられてきたのか、また、それを実現するには今後どのような方策を取らなければならないのか、という問題である。これに照らして、我々は、以下の3点について論及してゆく。

 4、第三身分のためと称して、大臣諸侯がこれまで企ててきたこと、および特権者たちの側が今日提案していること。
 5、一方、第三身分を相応な存在にするために、真になすベきであったこと。
 6、最後に、自らに相応しい地位を獲得するに当たって、第三身分の側が果たさなければならないこと。

1788年~
年・月 フランス革命 ここでは、クロニック世界全史から引用してみる
1789年 5月5日フランス 全国三部会、全国民注視のなか175年ぶりにヴェルサイユで開催。「シエイエス」「ネッケル」
全国3部会ヴェルサイユで開催

●全国3部会が、全国民注視の中 175年ぶりにヴェルサイユで開催された。
この年の 121月からフランス全土で行われた複雑な選挙の結果、第1身分 =聖職者代表と第2身分=貴族代表が各々約300名、第3身分代表が約 600名、合計約1200名の代表が参集した。
聖職者代表は、1/3が高位聖職者、その他は第3身分に親近感のある下級聖職者の司祭たちで構成された。
貴族代表には、保守的な帯剣貴族(=十字軍以来の伝統をもつ貴族)が多かったが、ラ・ファイエットなどの自由主義派貴族も約90名含まれていた。第3身分代表は定数の倍増をかちとって特権身分代表とほぼ同数となったが、ロベスピエールやバルナーヴなど法律家が多く含まれていた。また特権身分出身で、あえて第3身分代表として選出された人物に、ミラボーやシエイエスらがいる。しかしこの3部会では、ルイ16世の短い演説の後、ネッケルが 3時間に及ぶ財政報告を行った。だが、単に財政上の問題を論じたにすぎず、実効ある改革案や最大の関心事である議決方法についてはなんら言及されず、第3身分代表を深く失望させた。

(「世界の歴史10」中央公論社1962年刊によれば以下のようにある。)
●ルイ16世とその政府は、旧体制はそのままにしておいて、なんとか当座の財政破綻をくいとめようと欲したのにすぎない。三部会の招集も、これによって世論を安定させ、債権者の政府に対する信頼感を増し、第3身分のあと押しによって、新地租を中心とする財政改革案を承認させれば、それでよいとしたのである。

左2枚絵(出典:「世界の歴史10」中央公論社1962年刊)
18世紀末のフランスの階級構成と三部会の構成(選挙結果)
身分 区分 人口 構成比 三部会選挙人数 備考
第1 僧侶 14万人 0.5% 308人 このうち205人が、第3身分の出身で村の司祭。
第2 貴族 40万人 1.5% 285人 このうち、266人が帯剣貴族(十字軍以来の伝統を持つ)
第3 ブルジョア 100万人 3.8% 621人 農民は文盲が多く、農民の代表は送れなかった。農民の意見を代弁したのは、第1身分の村の司祭たちだった。第3身分の半数以上は弁護士その他の司法関係者だった。商人・地主・ブルジョアは178人だった。
非農勤労者 200万人 7.5%
農民 2300万人 86.7%
合計 2654万人 100.0% 1214人
1789年6月20日 憲法制定まで解散せず!国民議会がテニスコートで誓う。「バイイ」(出典:「世界の歴史10」中央公論社1962年刊)
国民議会がテニスコートで誓う

●5月5日の開催以来、身分別投票か個人別投票かをめぐって、空転を続けていた全国 3部会は、この日大きな転機を迎えた。
6月に入っても、投票方式すら定まらず、無為に時が過ぎることに業を煮やした第3身分代表たちは、他の2身分に彼らへの合流を呼び掛け、17日には自らの集まりを国民議会と称するに至った。
さらに19日には、司祭が多くを占める第1身分代表は、激論の末、国民議会に合流することを宣言した。こうした第3身分代表の挑発的な姿勢に対し、国王政府側ついに強硬手段に出た。この日早朝、室内修繕を名目に衛兵が会議場を閉鎖したのである。締め出された代表たちは、会場の隣の球技場(テニスコート)に場所を移し、ただ広いだけで殺風景なこの部屋で立ったままで議論を戦わせた。そして、国民議会初代議長ジャン・バイイの主宰のもと「憲法が制定されるまで議会を解散せず、状況に応じ、いかなる場所においても集会を開く」ことを熱狂のうちに宣言した。世にいう「テニスコートの誓い」である。
テニスコートの誓いは、まさしく王権に対しての公然たる反対意思の表明であった。

「テニスコートの誓い」ダビッドの作品

(出典:「世界の歴史10」中央公論社1962年刊より)
(左絵)右中央に右手をあげて宣誓文を読むのがバイイ。
そのバイイの足もとに椅子に腰かけたまま、興奮の渦巻きのなかにたったひとり憂鬱そうな顔をして、手もあげず、胸もはらず、ただじっと前方をみつめているのがシエースである。
(右絵)一番手前のあたりに、足を前後に大きくふんばって、帽子をわしづかみにした左手を前方に出し、右手をたかだかとあげて、議長の宣誓に呼応するのはミラボーである。
その右がバルナーヴ。中間あたりに、胸をそらせ、その上に両手をおいて感動にたえかねているかに見えるのが、やがて革命の総指揮者となるロベスピエール。

1789年7月9日フランス 立憲体制の確立に着手 国民議会を改称 憲法制定国民議会に。「ミラボー」
国民議会を改称 憲法制定国民議会に

●この日,国民議会は,みずからを憲法制定国民議会と改称し,本格的な憲法制定作業に入った。
 6月20日のテニスコートの誓いののち,事態を憂慮した国王政府は,6月23日ルイ16世がみずから議会に臨席して,武力による議会解散をほのめかした。しかし国民議会は,この威嚇に屈せず,その後数日のうちに聖職者代表の多くと47名の貴族が国民議会に合流した。
 ここにいたって,王権側も国民議会を承認せざるをえなくなり,27日,国王は聖職者と貴族代表に対し,国民議会に合流するように命じた。
 王権は,一見,立憲王政樹立を容認したかにみえるが,実際には武力による議会の制圧を謀って軍隊をヴェルサイユ周辺に集結させはじめており,事態はなおいっそう緊迫の度を深めている。


左絵(出典:「世界の歴史10」中央公論社1962年刊)
7月14日フランス 民衆が立つ!パリに革命の火の手あがる。パリの民衆,バスティーユ牢獄を襲撃フランス革命ここに始まる。「廃兵院」(出典)「世界の歴史10」中央公論社1962年刊「バスティーユ要塞」(出典)「クロニック世界全史」講談社1994年刊「ラファイエット」(出典)「世界の歴史10」中央公論社1962年刊「三色旗」
バスティーユ牢獄を襲撃フランス革命始まる

●厚い雲が垂れこめるこの日,パリの民衆はついに武装蜂起し,バスティーユ牢獄を襲撃した。騒乱はただちにフランス全土に波及し,ヴェルサイユのルイ16世(35)にも伝えられた。
 このときルイが「暴動か」と尋ねると,側近は「いえ,陛下,革命でございます」と答えたと伝えられる。以後10年にわたって続くフランス革命の,これが始まりであった。
 パリにおける政治的緊張は,数日前から極度に高まっていた。経済的には,1788年からの凶作のために春以来穀物価格は急騰しつづけた。賃金の半分以上をパン購入に当てるパリの下層民衆の生活は窮迫し,彼らの不満は爆発寸前だった。
 そうしたなかで,国王は,議会を制圧するため軍隊2万をパリ近郊に集結させ,この軍事力を背景に7月11日,民衆が期待をかけていたジヤック・ネッケル(57)を突如解任するという強硬策に打って出た。

(「世界の歴史10」中央公論社1962年刊によれば以下のようにある。)
●この銀行家ネッケル罷免は、特に王室財政と関わる金融業者に衝撃を与えた。なぜなら後を継いだのが、マリーアントワネットの反動的黒幕の1人とみられていたブルトイユ男爵であったからである。彼は王室財政の破産を宣告して、負債をチャラにしてしまうのではないかと思われたからである。

 このネッケル罷免の知らせは,事態を決定的に悪化させた。12日これを知ったパリのブルジョアジーや民衆は強く憤激し,みずからを守るために武装を始めたのである。まず民衆は,廃兵院へ押しかけて約3万丁の小銃を奪い,さらに武器を調達するためにバスティーユに向かった。

(「世界の歴史10」中央公論社1962年刊によれば以下のようにある。)
●デモ隊には、武器商からの略奪品で武装した市民たちと、兵営を脱走したフランス衛兵たちが加わったが、武器弾薬が足りなかった。そこに国王軍の攻撃のうわさが流れたため、彼らは数万の小銃があるという「廃兵院」を襲った。しかし火薬がたりないので、今度はバスティーユ要塞へ向かった。

 この要塞は14世紀にパリ防衛の目的で築かれたが,ブルボン朝のもとでは国王が恣意的に政治犯を投獄する牢獄として使用され,専制政治の象徴とみられていた。武器引き渡しなどを求めて押しかけた民衆に守備兵が発砲して戦闘となった。民衆は百余人の死傷者を出しながらこれを陥落させたのである。
 バスティーユ陥落の知らせは,国王政府を驚愕させ,屈伏させた。すなわち,ルイ16世は軍隊の撤退を指示し,ネッケルを復職させ,さらにはみずからパリにおもむいて新たに成立した市当局や,ブルジョアジー民兵である国民衛兵を承認したのである。市政革命の成功により,各都市のブルジョアジーが常設委員会を設置し,市政の実権を握っていく。

(「世界の歴史10」中央公論社1962年刊によれば以下のようにある。)
●バイイを市長に、ラファイエットを国民衛兵の司令官に、それぞれ任命した。そしてラファイエットは、パリ市の色である赤と青のあいだに、ブルボン王朝の色である白をはさんだ三色旗を国民衛兵の帽章として採用した。以後これが革命フランスの象徴となる。

 さらにパリのこの政治的激動は,地方において農民の大規模な蜂起をもひきおこすことになる。「大恐怖」とよばれるこの農民騒擾は,うわさや「貴族の陰謀」に恐怖した農民たちが,いわば自衛のためにその領主の館を襲ったものである。

1789年8月26日フランス 憲法制定国民議会が人権宣言を採択、革命の諸原理を明示。(出典)「クロニック世界全史」講談社1994年刊
人権宣言を採択

●憲法制定国民議会は,この日,1789年の革命の成果とその普遍的原理を列記し,将来制定される憲法の前文となるべき「人間および市民の権利宣言」(人権宣言)を採択した。アメリカの独立宣言を模範としながら,人類全体にとっての普遍性をより強く志向するこの宣言は,近代市民社会創出の原理であると同時に,まさしく旧体制(アンシャン・レジーム)の死亡証書といえる。
 これに先立つ8月4日,すでに議会は,封建的諸特権の廃止宣言を可決している。これは,7月下旬からフランス全土で吹き荒れていた「大恐怖」と呼ばれる農民騒擾をなんとか鎮静させるために,大土地所有者であるノアイユ子爵(33)ら議会の自由主義派貴族が率先して封建的な諸特権の放棄を宣言したものである。具体的には,免税特権や教会10分の1税の廃止,領主裁判権等の人格的な支配権の無償廃止などが盛り込まれていた。しかし,地代徴収権など物的諸権利は,領主から農民が買い戻すことを必要とした有償廃止にとどまった。ともかくも,この宣言により,全国の農民反乱は終息したのである。
 ついでこの日26日に採択された人権宣言は,前文および全17条からなり,第1条で「人間は生まれながらにして自由であり,権利において平等である」ことをうたった。以下,圧政に対する抵抗権,主権在民,法の前での平等,表現・出版の自由,財産権の神聖不可侵といった,ブルジョアジーの求める革命の基本原理が明確化されたのである。

「フランス人権宣言」1789年「人権宣言集」岩波書店1957年刊 より一部引用

●ここで、1789年8月、フランス憲法制定国民会議が採択した「人および市民の権利宣言」を引用する

「人および市民の権利宣言」「フランス人権宣言」

 国民議会として組織されたフランス人民の代表者達は、人権の不知・忘却または蔑視が公共の不幸と政府の腐敗の諸原因にほかならないことにかんがみて、一の厳粛な宣言の中で、人の譲渡不能かつ神聖な自然権を展示することを決意したが、その意図するところは、社会統一体のすべての構成員がたえずこれを目前に置いて、不断にその権利と義務を想起するようにするため、立法権および執行権の諸行為が随時すべての政治制度の目的との比較を可能にされて、より一そう尊重されるため、市民の要求が以後単純かつ確実な諸原理を基礎に置くものとなって、常に憲法の維持およびすべての者の幸福に向うものとなるためである。--その結果として国民議会は、至高の存在の面前でかつその庇護の下に、つぎのような人および市民の権利を承認し、かつ宣言する。
第一条 人は自由、かつ、権利において平等なものとして出生し、かつ生存する。社会的差別は、共同の利益の上にのみ設けることができる。
第二条 あらゆる政治的団結の目的は、人の消滅することのない自然権を保全することである。これらの権利は、自由・所有権・安全および圧制への抵抗である。
第三条 あらゆる主権の原理は、本質的に国民に存する。いずれの団体、いずれの個人も、国民から明示的に発するものでない権威を行い得ない。
第四条 自由は、他人を害しないすべてをなし得ることに存する。その結果各人の自然権の行使は、社会の他の構成員にこれら同種の権利の享有を確保すること以外の限界をもたない。これらの限界は、法によってのみ、規定することができる。
第五条 法は、社会に有害な行為でなければ、禁止する権利をもたない。法により禁止されないすべてのことは、妨げることができず、また何人も法の命じないことをなすように強制されることがない。
第六条 法は、総意の表明である。すべての市民は、自身でまたはその代表者を通じて、その作成に協力することができる。法は、保護を与える場合でも、処罰を加える場合でも、すべての者に同一でなければならない。すべての市民は、法の目からは平等であるから、その能力にしたがい、かつその徳性および才能以外の差別をのぞいて平等にあらゆる公の位階、地位および職務に就任することができる。
第七条 何人も、法律により規定された場合でかつその命ずる形式によるのでなければ、訴追され、逮捕され、または拘禁され得ない。恣意的命令を請願し、発令し、執行し、または執行させる者は、処罰されなければならない。然しながら法律により召喚されまたは逮捕された市民は、直ちにしたがわなけれぱならない。その者は、抵抗により犯罪者となる。
第八条 法律は、厳格かつ明白に必要な刑罰のみを定めなければならず、何人も犯罪に先立って制定公布され、かつ適法に適用された法律によらなければ、処罰され得ない。
第九条 すべての者は、犯罪者と宣告されるまでは、無罪と推定されるものであるから、その逮捕が不可欠と判定されても、その身柄を確実にするため必要でないようなすべての強制処置は、法律により峻厳に抑圧されなければならない。
第十条 何人もその意見について、それが、たとえ宗教上のものであっても、その表明が法律の確定した公序を乱すものでないかぎり、これについて不安をもたないようにされなければならない。
第十一条 思想および意見の自由な伝達は、人の最も貴重な権利の一である。したがってすべての市民は、自由に発言し、記述し、印刷することができる。ただし、法律により規定された場合におけるこの自由の濫用については、責任を負わなければならない。
第十二条 人および市民の権利の保障は、一の武力を必要とする。したがってこの武力は、すべての者の利益のため設けられるもので、それが委託される人々の特定の利益のため設けられるものではない。
第十三条 武力を維持するため、および行政の諸費用のため、共同の租税は、不可欠である。それはすべての市民のあいだでその能力に応じて平等に配分されなければならない。
第十四条 すべての市民は、自身でまたはその代表者により公の租税の必要性を確認し、これを自由に承諾し、その使途を追求し、かつその数額・基礎・徴収および存続期間を規定する権利を有する。
(他訳・・分担額・課税基準・取り立て(徴収)及び期間を決定する権利を有する。)
第十五条 社会は、その行政のすべての公の職員に報告を求める権利を有する。
第十六条 権利の保障が確保されず、権力の分立が規定されないすべての社会は、憲法をもつものでない。
第一七条 所有権は、一の神聖で不可侵の権利であるから、何人も適法に確認された公の必要性が明白にそれを要求する場合で、かつ事前の正当な補償の条件の下でなければ、これを奪われることがない。
(山本桂一)

1789年10月5日フランス ヴェルサイユヘ行こう!行進する民衆,国王一家をパリヘ連れ戻す。「ヴェルサイユへ行進」(出典:「世界の歴史10」中央公論社1962年刊) ●この日早朝,中央市場に集まった主婦を中心とする数千人の群衆は,まず市庁舎へ向かい,ここからバスティーユ占領の英雄の1人であるマイヤール(26)に率いられて,国王ルイ16世にパンを要求するために,ヴェルサイユヘの行進を始めた。雨と泥にまみれたデモ隊は,ヴェルサイユに到着し,国王にパンの供出を約束させた。
 翌早朝,民衆の一部が王宮に侵入して流血の騒ぎとなり,高揚した民衆の要求で国王はパリヘの帰還を承諾する。ルイ16世と妃マリー・アントアネット(34)ら国王一家は,パリヘと連れ戻され,チュイルリー宮に入る。ヴェルサイユ行進,または10月事件とよばれる事件である。
 行進の起こる前,ルイ16世は,国民議会が採決した封建的特権廃止宣言や人権宣言の裁可を拒みつづけていた。国王が裁可しないかぎり,これらは発効しないため,パリ市民は,国王の態度に激しい怒りを抱いていたのである。
 行進の直接の発端は,またしても食糧危機にあった。バスィーユ襲撃以来パンの価格はいぜんとして高く,パリの下層民衆の生活を圧迫しつづけていた。加えて,10月1日到着したフランドル連隊の歓迎宴会で,軍人たちが反革命的な言動をとったことが誇大に報道されたことから,民衆の怒りが沸騰したのである。
 この事件ののち,国民議会もパリヘと移る。政治の中心は名実ともにパリに移り,国王一家は二度とヴェルサイユに戻ることはなかった。
1790年7月12日フランス> 憲法制定国民議会が、聖職者民事基本法を採択、新たな宗教的制度始まる。 ●国民議会は,さきに世襲貴族制を廃止したのに続いて,聖職者民事基本法を成立させ,フランスの全聖職者を,国家から俸給を受け取る国家公務員とした。
 革命政府にとって,ローマ・カトリックはアンシャン・レジームを支えてきたイデオロギーであり,革命をすすめるには新たな宗教的制度が必要であった。すでに前年11月2日にオータンの司教タレーラン・ペリゴール(36)の建議によって教会財産の国有化に踏み切った議会は,12月にはこれを担保にアシニアとよばれる国債を発行,その財源に当てた。
 聖職者民事基本法は,教会財産国有化によって経済的基盤を失った聖職者に,国家が俸給を支払うことを定めたもので,国家による教会統制の到達点といえる。選挙で選出された聖職者は,憲法と基本法に対し忠誠の宣誓を義務づけられたが,宣誓を拒否する聖職者が多数出て,国論を二分する大問題となっていく。

(「世界の歴史10」中央公論社1962年刊によれば以下のようにある。)
●これに対してローマ法王はすでに「人権宣言」を反キリスト教的と非難していたが、この聖職者民事基本法についても非難を公にした。ローマ法王はフランスで宣誓を拒否した聖職者たちを支持し、彼らは反革命運動と結びついていった。
1790年8月31日フランス ナンシーでの兵士反乱を、ブイエ将軍が強硬に鎮圧、多数の犠牲者を出す。 ●メッス市の軍司令官ブイエ将軍は,ナンシー駐屯部隊で発生した兵士反乱鎮圧のため出動し,強硬策に訴えてこれを圧殺した。この血なまぐさい戦闘で双方に多数の死傷者が出た。ブイエは,反乱の首謀者20名余を絞首刑に処し,41名をガレー船送りとした。
 反乱の原因は,フランス軍隊内の階級対立にあった。正規軍では,士官は反革命的な貴族によって占められ,革命に共感する平民出身の兵士たちとのあいだで対立の度を深めていたのである。各地の軍隊内では士官に対する兵士の反乱がしばしば発生し,国民議会の大きな懸念となっていた。
 こうした兵士反乱を苦々しく思っていたのは,バスティーユ以来パリの国民衛兵司令官として民衆の輿望を一身に担っていたラ・ファイエット(33)である。大貴族出身である彼は,ナンシーの反乱が起こると,反乱兵士に対し断固たる処置をとるべきだと判断し,峻厳な弾圧命令を議会で可決させ,従兄弟のブイエに命じて残虐な鎮圧行動をとらせた。
 事後ラ・ファイエットはブイエの行為を賞賛するが,マラー(47)ら民主派はこれを激しく攻撃し,これを境にラ・ファイエットの人気は凋落の一途をたどるのである。
1790年パリ パリの政治はクラブの熱い議論から、多数の政治クラブが活発に活動。「ダントン」(出典)「クロニック世界全史」講談社1994年刊 ●いま,パリではさまざまな政治クラブが誕生し,夜ごと熱い議論が戦わされている。議員個々人は,主張の似通ったもの同士で政治クラブに集まり,そこでさまざまな問題を議論し合っていた。こうした討議は,当然ながら議会での審議にも大きな影響を与えた。
 政治クラブの隆盛は,憲法制定国会での討議を通じて,右派から左派までの党派が,はっきりしてきたことの反映でもある。しかし,これは近代的な意味での政党ではなく、党派内の決議でメンバーを拘束したり,綱領をもつことはなかった。
 こうした政治クラブのなかでももっとも有名なのが,ジャコバン・クラブであろう。クラブの正式名称は「憲法友の会」といい,その前身は,1789年6月にヴェルサイユで結成されたブルトン・クラブである。
 当初はブルターニュ出身議員たちのたんなる集まりにすぎなかった。だが,シエイエス,バイイ,ミラボー,ロベスピエール,バルナーヴといった錚々たる人々がこれに加わり,革命派の一大拠点となったのである。ヴェルサイユ行進の後,クラブはパリのサントノレ街にあるジャコバン修道院に移ったので,一般にはジャコバン・クラブとよばれた。
 これ以外に「人民協会」とよばれるローカルな政治結社が多数生まれたが,なかでもコルドリエ修道院を拠点とするコルドリエ・クラブが有名。ここでは弁護士出身のダントン(31)が大きな影響力をもっていた。
1790年1月フランス 新しい行政区分が成立、全国83の県が設置され地方分権化がすすむ。 ●前年に国民議会は,アンシャン・レジームの錯綜した地方行政区分を廃止し,全国を新たに83の県に分割した。そしてこの1月,この新制度にもとづいて地方自治体の選挙が行われた。アメリカを模範としたこの新制度は,中央権力の地方への大幅な譲渡であり,地方分権が急速にすすむと思われる。
 住民のだれもが1日で県庁所在地まで行くことができるように各県の境界を定め,各県は,6~9の大郡(ディストリクト)に分割された。大郡はさらに小郡(カントン)に分割され,小郡の下には市町村(コミューン)がおかれたのである。
 県の行政は,その県の選挙人会から選ばれた県会(36名,任期2年),県会のなかから選ばれた8名によって構成される県行政部,司法権をつかさどり中央との連絡にあたる県総代(1名)によって運営される。
 また,コミューンも,市民から選出された市町村長,総参事会,自治体代理らによって運営された。そしてコミューンは,租税の割り当てと徴収,国民衛兵の徴発,戒厳令の施行,治安の維持など,非常に広範な権限を有したのである。
1790年7月14日 革命1周年記念の「連盟祭」、熱狂のうちにシャン・ド・マルスで開催。 ●バスティーユ陥落1周年を祝う「連盟祭」が,パリのシャン・ド・マルス練兵場で行われた。午前10時,号砲とともに国民議会議員,全国83県から集まった1万5000人の連盟兵,そして国王夫妻が入場する。タレーラン(36)が「祖国」と名づけられた祭壇に登って荘厳なミサをあげた。ついで国民衛兵司令官ラ・ファイェット(33)が,国民・法・国王に対する忠誠を宣誓し,連盟兵がこれに唱和するに及んで,式典は最高潮に達した。そぼ降る雨のなか、三色旗(トリコロール)が振られ,祭典会場に詰めかけた観衆約30万人は,熱狂と興奮のるつぼと化した。式典には女性や子どもも参加した。
1791年6月21日フランス ルイ16世,逃亡を企てるが失敗。ヴァレンヌで逮捕、パリヘ護送される。「ルイ16世最後の肖像」(出典:「世界の歴史10」中央公論社1962年刊)
ルイ16世が逃亡、逮捕されパリヘ護送される

●フランス国王一家の逃亡が,この日の夜,東部のムーズ県の小村ヴァレンヌで発覚し,阻止された。
 国王一家逃亡のうわさは,パリでは1791年1月末から流れていた。このため,4月18日,復活祭の機会に自分の好みの司祭の手で秘蹟をうけるためにチュイルリー宮殿を離れようとしたルイ16世(37)は,群衆によって阻止された。ルイ16世がフランス脱出を決心したのは,このときであった。
 6月20日深夜,脱出計画は実行に移された。従僕に変装したルイ16世は,王妃や2人の子どもらとともに,チュイルリー宮殿を脱出し,馬車でブイエ将軍の軍隊が待つメッスに向かったのである。
しかし,計画は失敗する。旅程が大幅に遅れ,護衛のためにブイエ将軍が街道に派遣した騎兵隊が,住民の警戒を招いてしまった。一行がサント・ムヌーまで来たとき,国王は,かつてヴェルサイユに滞在したことのある宿駅長ドルエによって変装を見破られた。そしてとうとうヴァレンヌで,国王一家は,郡総代で薬種商人ソースの家に護送され,そこで逮捕されたのである。
 国王一家のパリ帰還は,国王の逃亡によって裏切られたと感じたパリの民衆の激しい反応をひきおこす。国王の肖像やシンボルが破壊され,国王廃位を要求する請願や国王・王妃に対する誹謗文書があふれ返る。そして6月25日,ルイ16世一家は,重苦しい沈黙のなかをパリに戻る。
 ヴァレンヌ事件の内外の影響は大きい。議会多数派が,国王の「誘拐」というフィクションをつくりだして事態を収拾しようとしたにもかかわらず共和主義運動が高揚し,7月17日には,国王処罰の請願運動がシャン・ド・マルス広場で挙行される。一方,事件はヨーロッパの諸王朝を刺激し,戦争への道を開くことにもなるのである。

1791年8月27日ドイツ ピルニッツ宣言。ヨーロッパの君主は、フランス王家を擁護する。
ピルニッツ宣言、フランス王家を擁護

●神聖ローマ皇帝レオポルト2世(44)とプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世(47)はピルニッツ(ドレスデン近郊)で会談し,フランス王家の支援を確認,ヨーロッパ諸列強の武力干渉もありうるとの共同宣言を発した。
 この夏までは革命思想の波及は,ヨーロッパ各国にとって脅威とは考えられていなかった。フランス亡命貴族の武力干渉キャンペーンも功を奏さなかった。また,マリー・アントアネット(36)は武力干渉を懇願する手紙を兄のレオポルト2世に送ったが,皇帝の慎重 な態度は変わらなかった。
 レオポルト2世自身はこのピルニッツ宣言を外交辞令と考えていた。イギリスも共同行動に参加しない旨を表明していた。だが,亡命貴族はこの宣言を革命政府に対する最後通牒ととったので,ジャコバン派とジロンド派はヨーロッパの諸君主,亡命貴族,国内の反革命派の共同行動の危機を訴え,勢力を拡大していく。結果的には,ピルニッツ宣言は革命戦争をひきおこす第一歩となる。

1791年9月3日フランス 革命は終わった? 立憲王政を定めた1791年憲法を採択。 ●憲法制定国民議会は,1789年7月以来,新しいフランスにふさわしい制度や政策をつぎつぎに決定し,憲法制定の準備をすすめてきたが,この日,2年がかりの作業を終えて,フランス最初の憲法を採択した。
 この憲法により,フランスは絶対王政を廃し立憲王政となった。神授権と歴史的権利にもとづく国王の伝統的な正統性は消滅し,国王はもはや国民の代表者にすぎず,俸給をもらう官吏となり,法律によってのみ統治することとなった。
 立法権は,任期2年で選挙人によって選ばれる一院制の議会,すなわち745名の代議員により構成される立法議会に属する。しかし,その選挙権については,一定額の直接税を支払う有産者にしか与えられておらず,貧しい民衆や農民を排除したかたちとなった。また経済的には,自由経済体制の樹立が図られた。
 この1791年の体制は,反革命派の攻撃と,民衆や農民の不満という2つの危険にさらされることとなる。
1791年10月1日フランス 反革命派の攻撃と都市、農村の騒乱のなかで、立法議会は多難な門出となる。 ●憲法制定国民議会は9月30日をもって解散し,この日、立法議会が召集された。
 新しい立法議会には,憲法制定国民議会の議員は再選されないと宣言されているので,ここにはじめて集まった745名の立法議会議員は,大分が若年でまだ無名の士である。
 議会の右翼には264人の議員からなるフイヤン派が席を占めた。彼らは1791年憲法が確立した立憲王政を支持している。
 左翼にはジャコバン・クラブあるいはコルドリエ・クラブの136人の議員が陣取っていた。彼らはジャック・ブリソ(37)とコンドルセ(48)たちに指導され,ジロンド県選出の弁舌家たちの活躍がみられたことから、のちにジロンド派とよばれる。
 両派のあいだに, 345人の議員からなる浮動群がいたが,彼らは明確な綱領をもたなかった。
 すでに秋から,穀物や食料品の価が高騰し,都市や農村では騒乱が起きていた。貴族,聖職者による反革命の企ても始まっており,立法議会は多くの難題へのすみやかな対処を迫られることになる。
1791年11月9日フランス 亡命者処罰法採択される。帰国しなければ死罪に問われ,財産没収。 ●革命開始とともに貴族たちは,続々と国外に亡命し,革命の波及を恐れるプロイセンやオーストリアの援助のもとに,国外から武力で革命を打倒しようと企てていた。こうした反革命の危機を回避するため,立法議会は,亡命者処罰の法令をこの日採択した。
 2年前から国王ルイ16世の弟アルトア伯に続いて貴族の一部が亡命を始めていたが,さらに前年,多くの聖職者たちがこれに連なった。そしてこの年の6月に国王が逃亡に失敗してヴァレンヌで捕まると,亡命者はますます増加した。国王のもう1人の弟,プロヴァンス伯(のちのルイ18世,36)もブリュッセルに亡命し,これら王弟たちのもとに亡命者が結束して,反革命の武装集団を組織しつつあった。
 武力干渉の危機に対して,議会は10月に,プロヴァンス伯に対して2か月以内にフランスに帰国しなければ,摂政職に就く権利を剥奪する法令を採択。さらにこの日の法令で亡命者は翌年の1月1日までに帰国しなければ,陰謀を企むものとみなされ,死罪に問われることとなった。
1792年3月23日フランス フイヤン派にかわりジロンド派が組閣。開戦論が高まる「ブリソ」(出典:「世界の歴史10」中央公論社1962年刊) ●フイヤン派が没落し,ジロンド県選出の議員たちを指導者とするジロンド派内閣が成立した。首班はジャック・ブリソ(38)である。
 前年末から立法議会では,オーストリアとの戦争問題をめぐって議論が対立していた。ジロンド派の指導者ブリソは,亡命者を支援する列強国に対する戦争を行うべきだと主張していた。一方,マクシミリアン・ロベスピエール(34)は戦争に反対し,平和の維持を説いていた。
 しかし,この月の初め,王妃マリー・アントアネット(37)の兄であるオーストリアのレオポルト2世が予期せざる死を迎えたことで,状況は混乱をみせはじめた。フランス革命に対抗し,前年の8月,ヨーロッパの諸勢力結集をよびかけてピルニッツ宣言を発したのは,レオポルト2世だったからである。
 成立したばかりのジロンド派内閣では,いまや開戦の好機であるという意見が高まってきている。
1792年4月20日フランス 立法議会ついにオーストリアに対する宣戦を決議する。 ●フランスの立法議会は「ボヘミアおよびハンガリー王」への宣戦布告を,ほぼ満場一致で可決した。
 フランス人亡命者を送還するよう求める最後通牒が,オーストリアのフランツ2世(24)に発せられていたが,彼が応じなかったため,このたびの宣戦布告となったのである。
 フランツ2世は,3月1日に死去した神聖ローマ皇帝レオポルト2世の息子だが,この宣戦決議のときにはまだ皇帝に即位しておらず,世襲の領地はボヘミアおよびハンガリーのみだったので,「ボヘミアおよび八ンガリー王」への宣戦布告となった。
 このようにオーストリアに限定した宣戦を決議した立法議会は,これでプロイセンが中立を保ってくれるものと期待した。しかし,プロイセンは同盟条約にもとづいてオーストリア側につくことになる。
 ジロンド派は,この戦争によって国外に革命の精神を広め,国内の革命を強化することを意図していた。
1792年8月10日フランス パリの民衆がチュイルリー宮を襲撃。議会の宣言により,王政が廃止される。
チュイルリーの王宮を襲撃、王の権利停止を宣言

●未明,パリの場末街の民衆が蜂起し,チュイルリーの王宮を襲撃した。正午には王宮が陥落し,議会は国王ルイ16世(38)の権利停止を宣言した。
 6月初めごろから国王は,議会の法令に対し拒否権を発動し,ジロンド派閣僚を更迭してフイヤン派の人物を新たに大臣に任命するなど,「反国民的」とみられる態度を示してきた。このため,パリの民衆は6月20日,国王に対する抗議のデモを組織し,チュイルリー宮に侵入して国王に圧力をかけた。しかし,国王はこれに応じなかった。
 この間,オーストリア戦線では敗北が続いており,7月11日,議会は「祖国は危機にあり」という非常事態宣言を発した。志願兵の全国的徴募が命じられ,7月末各地から連盟兵が続々とパリに到着した。
 同じころ,オーストリア・プロイセン同盟軍の総指揮官ブラウンシュヴァイクによる宣言がパリに伝えられた。その宣言は,パリ市民が国王にいささかでも危害を加えれば,パリ市に対する武力行使と全面破壊も辞さないという激しいもの。これがパリの民衆の怒りをかきたてた。
 そのため,8月3日,パリの48地区中の47地区が議会に国王の廃位要求を提出した。しかし8月9日,議会は47地区の請願を討議することなく散会したため,深夜警鐘が鳴らされた。10日米明,民衆は蜂起コミューンを結成し,連盟兵とともにチュイルリー宮に到着,護衛兵と銃撃戦となる。
 国王は議会に避難していたが,蜂起軍の勝利が伝わると,議会は国王の権利停止を宣言し,普通選挙による国民公会の召集を布告した。ここに王政は廃止され,革命の路線は大きく変化していくことになる。

1792年9月2日フランス 「監獄の陰謀」を恐れ、アベイ監獄などで王党派囚人を大量虐殺。「アベイ監獄」(出典)「クロニック世界全史」講談社1994年刊 ●この日午後2時ごろ、二十数人の囚人がパリのアベイ監獄に護送される途中、群衆によって暴行され,さらにアべイ監獄の中庭で3人の囚人を除く全員が虐殺された。
 前月10日の蜂起以後,王党派の容疑者の逮捕が続き,パリの監獄は囚人でいっぱいだった。しかもプロイセン軍侵入の危機を前にしてパリで「監獄の陰謀」といううわさが広まった。志願兵が前線の防衛のためにパリを去ったあとで,囚人が解放され,愛国者が惨殺されるのではないかと恐れられたのである。そして、8月30日のヴェルダン陥落の報が虐殺のきっかけとなった。
 群衆は,2日から6日までにパリの9つの監獄をつぎつぎと襲撃し、監獄内に「民衆法廷」を設置して、即決裁判を行い,貴族や非宣言聖職者など1000人以上の囚人を虐殺する。
1792年9月20日フランス フランス軍,ヴァルミーで勝利し、プロイセン軍の侵攻を阻止する。


右下絵「ラ・マルセイエーズ」(出典)「クロニック世界全史」講談社1994年刊
●ヴァルミーで会戦し砲撃戦となったフランス軍とプロイセン軍の戦いは,フランス砲兵隊の活躍により,フランス軍の勝利に終わった。
 7月以来,オーストリアとプロイセンの軍隊に国境を越えて侵入され
たフランスでは,祖国の危機が宣言され,義勇兵の大隊が国境に配備されていた。 しかしプロイセン軍の進撃は続き,8月23日にロンウィが陥落した。さらに9月2日,ヴェルダンが降伏すると,パリ侵攻の道が開かれたということで,パリでは恐怖心が高まっていた。
 プロイセン軍の攻撃に対抗するため,ケラーマンの指揮する軍隊と,デュムーリエの指揮する軍隊が進軍を開始した。
 9月19日,メッスから来たケラーマンの軍隊が,スダンから来たデュムーリエの軍隊と合流。プロイセン軍3万4000に対しフランス軍は5万と,はじめて数の上で優勢となった。フランス軍は,9月20日の朝,ついにアルゴンヌ丘陵のヴァルミーで,侵入してきたプロイセン軍と対峙した。
 この日は悪天候だったが,プロイセン軍の激しい砲撃に対し,フランス軍は「国民万歳!」と叫びながら頑強に抵抗した。グリボーヴァルによって創設された新しいフランス砲兵隊の活躍のまえに,プロイセン軍指揮官ブラウンシュヴァイクは退却を命じざるをえなかった。
 このとき,ブラウンシュヴァイクの陣営にいたゲーテは,「この日より,そしてここから,世界史の新しい時代が始まる」と述べている。
 ヴァルミーにおけるフランス軍の勝利は,革命後最初の軍事的勝利であるとともに,革命の精神の勝利であると考えられた。ヨーロッパ一(いち)といわれた訓練を施された職業的なプロイセンの軍隊に,国民的で民衆的な軍隊が勝利を収めたのである。
 フランスは以後,逆襲に転じ,秋にはヴェルダン,ロンウィからプロイセン軍を撤退させ,まもなくサヴォアとニースなどを占領する。
1792年9月20日フランス パリで国民公会召集、王政の廃止と共和政の樹立を宣言。
王政の廃止と共和政の樹立を宣言

●フランスに新しい憲法を与えることを使命とする新しい国民公会の議員たちが,この日の午後,はじめて集まった。議員たちは,8月末と9月初めに実施された2段階の普通選挙によって選ばれた。国民公会は,ジロンド派で構成される事務局を選出した。
 翌日,国民公会はコロ・デルボア(41)とグレゴアール神父(42)の提案を受けて,王政の廃止を全員一致で議決する。この法令は,早くもその晩に布告される。
 さらに9月22日,ビヨ・ヴァレンヌ(36)の提案にもとづき,国民公会はすべての公文書に「共和国第1年」と記すことを決定。これにより,フランス共和政が誕生するのである。
 国民公会の政治地図は,ジロンド派とモンターニュ派の敵対する二つの陣営と,両者のあいだに立つ平原派によって塗り分けられていた。

1793年1月21日フランス 1票差でフランス国王の死刑が決定。ルイ16世,ギロチンの露と消える。「ルイ16世処刑」
(出典:「世界の歴史10」中央公論社1962年刊)
ルイ16世死刑執行される

●この日午前10時22分,ルイ・カペーことかつての国王ルイ16世が,革命広場でギロチンの露と消えた。39歳だった。天気は曇り,寒い朝のことである。
 前年8月10日のパリの民衆蜂起によって王権が停止され,その直後に召集された国民公会の冒頭で王政の廃止が宣言されてのち,ダンプル塔に幽閉された国王をどう処遇するかという問題は,国政上の大問題となっていた。国王を裁判にかけることが可能なのか。
 何人かの議員は,1791年憲法の規定を盾にとって国王の不可侵権を主張した。逆に,マクシミリアン・ロベスピエール(35)のように,国王はすでに8月10日の民衆蜂起において人民によって断罪されていると論じるものもいた。だが11月20日に国王とオーストリア国王一家との秘密書簡が発見されたことが,躊躇していた議員たちを大きく裁判の方向に傾けることになった。12月3日には,国王の裁判は可能,ただし国民の代表である議会によってのみ可能,とされるにいたり,国民公会が法廷となった。
 国王裁判においては,ジロンド派が国王を救おうとし,逆に,モンターニュ派は原則として国王の処刑を要求した。「ルイは処刑されねばならない,そうでなければ共和国は幻想だ」とロベスピエールは述べた。こうしてこの年1月17日,議員による投票が行われ,361票対360票という1票差で国王の死刑が決定された。これは,モンターニュ派とジロンド派の力関係が議会内でも逆転したことを示すものであった。
 国王の処刑は,内外に大きな反響をもたらす。国内的には,国王殺害派と反国王殺害派との溝が決定的なものとなり,国外では,国王処刑に脅威を感じた諸君主国によって第1回対仏大同盟が形成される。だが国王処刑のより重要な意味は,それが,王政そのものの死をもたらし,アンシャン・レジームとの断絶を完全なものとしたことである。

1793年3月10日フランス フランス西部で革命体制に対する農民の反乱が起こる。 ●国民公会によって2月24日に公布された30万人の徴兵令をきっかけとして,この日,ヴァンデの農民が蜂起した。
 蜂起直後,農民を中心に組織されたヴァンデ軍は破竹の勢いで連戦連勝し,ショレ,ソミュール,アンジェなどの都市をまたたくまに占領してしまう。
 しかしナントの占領を目前にした6月29日の戦闘が転機となる。国民公会もしだいに事の重大性を認識しはじめ,8月1日にはヴァンデヘの精鋭軍の派遣を決定する。この結果10月17日,ヴァンデ軍はショレ近郊の戦闘で敗北し,さらに12月には決定的な敗北を喫して軍隊としての活動を停止する。
 ヴァンデの農民反乱の性格についていえば,国家が地域社会に暴力的に介入したために生じた摩擦の一表現であったことは否定できない。なぜなら,都市に攻め入ったヴァンデ軍の一農民は,「いったいなんの権利があって『国家』というやつは,おれたちを兵隊にひっぱろうというのか」と叫んでいたからである。
1793年4月6日フランス 国民公会が公安委員会の創設を決定。ただちに人選に着手した。「ロベスピエール」
(出典:「世界の歴史10」中央公論社1962年刊)
●国民公会は,対外戦争での敗戦やヴァンデでの蜂起の開始といった危機的状況のもと,公安委員会の創設を決定した。
 当初のメンバーはジロンド派を中心にして9人で構成されていたが,ジロンド派が没落していわゆる「ジャコバン独裁」が成立すると改組され,事務局が設けられる。その後,7月にダントンが排除され,ロベスピエールが加わるなど何度かの改変をへて,9月に12人の議員からなる最終的な陣容が確定し,この公安委員会がテルミドール9日(1794年7月27日)にいたるまでフランス政治を指導することになる。
 公安委員会はロベスピエールが加入すると,ますますその権限を強化する。 10月10日に,「平和の到来まで(共和暦第1年)憲法の実施を停止する」という宣言が出され,憲法によらない非常政治体制である「革命政府」がおかれる。そしてその要として内外政策,将校の任命と解任,派遣議員の指導,反革命容疑者の逮捕などに独裁的な強権をふるう。
1793年7月13日フランス 「人民の友」マラーが、シャルロット・コルデに入浴中に刺殺される。 ●モンターニュ派の指導者の1人であるジャン・ポール・マラー(50)が,シャルロット・コルデ(25)によって暗殺された。
 マラーは,革命前は医者として生計を立てながら書物を著していたが,革命勃発とともに「人民の友」紙を発刊して,パリ民衆のあいだに影響力をもつようになっていた。前年の「9月虐殺事件(アベイ)」の首謀者とみなされ,ジロンド派の絶好の攻撃目標となっていた。 この年の4月に,ジロンド派はマラーを革命裁判所に出廷させたが,彼はその弁舌と民衆の圧力で無罪を勝ちとり,モンターニュ派の英雄となっていた。
 しかしノルマンディーでジロンド派によるマラー糾弾を聞いたコルデは,マラーを殺せば革命の行き過ぎを止めることができると考え,マラー暗殺を決行したのである。
 コルデは逮捕され,7月17日に死刑の判決を受け,翌日ギロチンにかけられた。
1793年9月ヨーロッパ 第1次対仏大同盟。革命フランスに対するヨーロッパの包囲網が完成。
第1次対仏大同盟

●フランス国民公会が2月に出した宣戦布告を受けてイギリスの小ピット政権は,オーストリアなど対仏同盟諸国と随時条約を結んできたが,最後に残されていたポルトガルとの条約を締結した。これで対仏大同盟は完成した。
 1月のルイ16世の処刑,革命政府による各国内でのアジテーション活動などによって,対仏同盟はヨーロッパ規模に拡大していた。オーストリア軍は前年末の冬から反攻に出て,この3月にはベルギー全土を回復した。プロイセン軍はフランスの占領したライン左岸地域を回復,その過程でドイツにおける最初の共和国マインツ共和国も打倒した。
 革命政府のカルノー(40)は8月,国民総動員令を発して兵力を増強したが,戦況は好転しなかった。だが,同盟国側も自国の利益が優先し,進撃はこの年の秋には止まる。ポーランド問題の解決を優先するプロイセンが1795年に革命政府と単独講和を結び,戦線から離脱する。

1793年10月16日フランス 「ロココの女王」マリー・アントアネットが断頭台でその生を終える。(出典:「世界の歴史10」中央公論社1962年刊)
マリー・アントアネット死刑執行

●マリー・アントアネット(38)の処刑が執行された。マリー・アントアネットは,オーストリア・ハプスブルク家の出身で,女帝マリア・テレジアを母として生まれた。 1770年,のちのルイ16世と結婚。美貌と才知に恵まれたが,派手な行動のために,いくつもスキャンダルをまきおこした。
 革命開始後,国王一家は王妃の母国オーストリアの後援のもとに東部国境地帯で王権の回復を図ろうとして,1791年6月にパリ脱出を企てたが,ヴァレンヌで捕らえられパリヘ送還された。92年8月10日のチュイルリー宮襲撃で王権が停止され,国王一家はダンプル塔に監禁された。
93年1月21日のルイ16世の処刑後は,王妃は皇太子からも隔離され,孤独な監禁生活を送っていた。
 オーストリアとの通謀を疑われ,革命裁判所に起訴され,この年の8月1日,コンシェルジュリ牢獄に送られた。裁判で有罪を宣告され,この日,ギロチンで処刑された。

1793年4月22日アメリカ ヨーロッパにおけるフランス革命戦争にアメリカが中立を宣言。 ●ジョージ・ワシントン大統領(61)が対フランス中立宣言を発し,アメリカがヨーロッパのフランス革命戦争に中立の立場をとる方針を明らかにした。
 1月にルイ16世が処刑されヨーロッパに戦火が広がると,アメリカでは, 1778年の米仏同盟条約を有効としてフランス革命政府の支援を求めるトマス・ジェファソン(50)らの共和派と,急進主義の行き過ぎを恐れてイギリスとの友好関係を重視するアレグザンダー・ハミルトン(36)らの連邦派の対立が深まっていた。決断を迫られたワシントンは,フランス共和国を承認する一方で,この中立宣言を発して国民に「友好的でどちらにも偏らない」姿勢をヨーロッパ諸国にとるようよびかけた。
 ワシントンの方針は翌年には立法化されるが,彼が懸案解決のためにアメリカに不利なジェー条約をイギリスと結んだことから共和・連邦両派の対立は激化し,ワシントンも「専制者」として非難を浴びる。
1793年10月5日フランス 非キリスト教化と時間の革新のため、フランスで共和暦を採用。 ●国民公会は,議員ジルベール・ロムが作成した共和暦を採用した。
 共和暦は共和政の確立により,人々の生きる時間の枠組みも変化したという認識にたって,フランスに共和政が樹立された1792年9月22日をその始まりの日としたもの。それは,キリスト以前と以後という時間の区切りかたをするキリスト教の時間枠からの解放でもあり,非キリスト教化運動の一つでもあった。
 共和暦では,1年は12の月からなるが,各月は等しく30日からなり,5日の閏日が設けられた1か月は週によってではなく,10日ごとの旬により区切られる。また,ファーブル・デグランティーヌ(38)の提案で,国民公会は月の名前を自然の暦と関係づけながら考え,次のように決定した。秋(葡萄月,霧月,霜月),冬(雪月,雨月,風月),春(芽月,花月,草月),夏(収穫月,熱月,実月)。共和暦が廃止されるのは,1805年12月31日のことである。
1793年12月19日フランス ナポレオン・ボナパルト、イギリス軍を撃退しトゥーロン奪還に成功。
ナポレオン・ボナパルト24歳

●イギリス軍と王党派の手中にあったトゥーロンをフランス共和国が奪回した。
 トゥーロンは,フランスにとって重要な軍港だったが,1793年7月,共和国に反旗をひるがえし,王党派が支配下においた。8月末,王党派がトゥーロンをイギリス・スペイン連合艦隊に引き渡したため,奪回のためにフランス共和国軍が派遣され,港湾の砲撃作戦が展開された。
 このとき目覚ましい働きを見せたのが,若き陸軍大尉ナポレオン・ボナパルト(24)である。ナポレオンは精密に地形を調査し,トゥーロン港を見下ろすエギレット岬を占領して,そこから港湾を砲撃する作戦を立てた。この作戦はしばらく実施されなかったが,司令官の交替にともなってナポレオンが副官に任命されると,実行に移された。ナポレオンが戦闘を指揮し,12月19日,敵艦隊に大損害を与えて,撃退に成功する。
 コルシカ島生まれのナポレオンは無名の一将校であったが,トゥ-口ン奪回ではじめて軍事的才能を認められ, 1794年春にはイタリア遠征軍砲兵司令官に任命される。(出典:「世界の歴史10」中央公論社1962年刊)

1794年6月10日フランス 革命の敵を根絶するためのプレリアル法可決,大恐怖政治始まる。 ●この日(共和暦プレリアル22日),ジョルジュ・クートン(38)が国民公会で革命裁判所に関する報告を行い,革命の敵を「根絶する」ために裁判を迅速化する法案(プレリアル法)が可決された。物的証拠は不必要となり,犯罪の範囲が際限もなく広がり,犯罪に対する刑は死刑のみとなった。ここに,いわゆる大恐怖政治が開始される。
1794年4月5日パリ 「8月10日の男」ダントンが処刑され、革命政府の独裁強まる。「ダントン」(出典:「世界の歴史10」中央公論社1962年刊)
ダントン処刑

●ジョルジュ・ダントン(35)が裁判で死刑の判決を受け,ただちに処刑された。
 革命の指導者として活躍したダントンは,現実主義的な妥協の政治家だったといわれている。革命前は弁護士だったが,革命開始とともに,パリのコルドリエ地区で活躍し,1790年にコルドリエ・クラブという政治的なクラブをつくった。彼の力は,大胆な政策と扇動にあり、 1792年8月10日の蜂起の成功とともに彼の存在が大きく浮かび上がった。
 ダントンは国民公会に選出され、1793年4月公安委員会に加わるが,7月解任される。ロベスピエール派の革命政府独裁が強化されると,その阻止に回ったためである。ついに94年3月逮捕され,4月2日から裁判が開始された。4月4日,ダントンが持ち前の雄弁と人気の高さで無罪になるのではないかと恐れたサン・ジュスト(27)は,ダントンの弁明を封じる法令を可決させ,4月5日死刑の判決を下した。

1794年5月8日パリ 科学者ラヴォアジエも断頭台に消える!政治的粛清の嵐。 ●アントアーヌ・ラヴォアジエ(51)が,ギロチンにかけられた。
 才能ある科学者として知られるラヴォアジエは,徴税請負人でもあったが,金銭横領の疑いをかけられたのである。彼は有機化学の創設者であり,酸化の理論を発展させ,呼吸が化学的な燃焼の過程であることを明らかにした功績をもつ。
 この革命の動乱のなかでは,何千人もの人々が処刑された。その対象は革命に敵対する人々,権力者の個人的な政敵(たとえばジロンド派),さらにはたんに嫌われたり疑われただけの人々も含まれていた。
 処刑の道具にはギロチンが用いられた。これは,医師ジョセフ・イグナス・ギョタンが1789年に,人道的理由からこれまでの手斧による首切りに代えて考案したものである。この機械を用いれば,重くて素早く落ちる斧が,瞬時に胴体から頭を切断することができた。
1794年6月8日フランス フランス各地の主要都市で、「最高存在」の祭典が開催される。 ●全国の主要都市で「最高存在」の祭典が開催され,とくにパリでは,画家ジャック・ルイ・ダヴィッド(46)が考えたシナリオにそって,盛大かつ厳粛に挙行された。
 早朝5時,パリの住民は太鼓の合図で家を出て、チュイルリー広場に向かった。広場では国民公会議長のマクシミリアン・ロベスピエール(36)の演説のあと,賛歌が演奏され,合唱された。その間,ロベスピエ一ルが手に持った松明で「無神論」の像を燃やすと,「英知」の像が現れた。そのあと人々は,ロベスピエールを先頭にして,シャン・ド・マルス広場に行進した。
 この広場には,象徴的な人工の山が築かれていた。そこに全員が集まり,「最高存在への賛歌」を歌い,専制への永遠の敵意を誓い,最後に「共和国万歳」の叫びを発して,祭典は終了した。参加総数は,50万人に近かったと思われる。
 この祭典の直接のきっかけは,非キリスト教化運動の激化にあった。ロベスピエールは,国内世論の分裂を招きかねないこの無神論の運動を激しく非難した。
 そして先月の7日には,公安委員会の名のもとに国民公会で報告を行い,国家道徳の基礎として「最高存在の実在と霊魂の不滅」を承認するとともに,社会的な統合をめざして,「最高存在」を祝す国民祭典の開催を提案したのである。
 しかし,「最高存在」の祭典は,口ベスピエールの意図に反する結果をもたらす。公会議員の多くが,この祭典のなかにロベスピエールの独裁の野望をみるとともに,「最高存在」という曖昧な概念が多様な批判を招くことになるからである。
1794年6月26日フランス フランス軍、フルーリュスの戦いでオーストリア軍を撃破。 ●この日,ジュルダン将軍(32)率いるフランス共和国軍は,ベルギー国境の村フルーリュスでコーブルク元帥指揮下のオーストリア軍を撃退した。
 コーブルク元帥は,18万5000人のオーストリアの精鋭部隊をベルギー国内に展開し,リール侵攻を虎視眈々とねらっていた。 しかし5月18日,ピシュグリュ中尉率いる共和国軍がトゥールコアンで勝利を収め,元帥の野望をくじいた。そしてこの日,ジュルダン将軍は総数8万の兵を率いてフルーリュス村の近くでコーブルクの軍を背面攻撃し,みごとに勝利を収め,ベルギーからの退却をよぎなくさせたのである。
 戦闘は,朝の4時前から14時間も続き,双方の戦死者それぞれ約5万という激闘だった。このとき,はじめて熱気球が偵察に利用された。
1794年7月28日パリ 国民公会でクーデターが起こり、ロベスピエールが失脚、処刑される。
(出典:「世界の歴史10」中央公論社1962年刊)
ロベスピエール処刑 「テルミドールの反動」

●午後7時ごろ,国民公会議長ロベスピエールは,その仲間とともに断頭台に上がった。
 前日,国民公会の議場は騒然たる雰囲気に包まれた。正午ごろ,公安委員会の一員でもあるビヨ・ヴァレンヌ(38)が,ロベスピエールに対する弾劾を開始したからである。ロベスピエール派非難は数時間にわたって続けられた。こうしてロベスピエールは,「暴君くたばれ!」という怒号と混乱のなか,弟のオギュスタン,サン・ジュスト,クールトンらとともに逮捕された。
 これに対し,パリ・コミューン総評議会が国民公会への蜂起をパリ市民によびかけた。警鐘が鳴らされ,48のセクションに対して国民衛兵派遣の命令が出された。これにこたえて市庁舎前のグレーヴ広場に兵を派遣したのは,わずか16セクションにすぎなかったが,それでもこのときコミューン勢力は優勢だった。
一方,国民公会は午後7時に再開され,ロベスピエールらを「法の外におく」(裁判なしで処刑する)ことを決定し,各セクションに支持を求めた。午後11時には,多くのセクションが国民公会への支持を鮮明にした。これに対してロベスピエールは,グレーヴ広場の部隊になんの行動命令も下さなかった。グレーヴ広場の兵士たちは,命令もなく雨も降り出すという状況のなかで,この日の午前1時には広場から姿を消してしまった。午前2時ごろ,国民公会側の部隊が市庁舎に押し入り,ロベスピエールらを逮捕した。
 そしてこの日の夕刻,ロベスピエールら22人は,ギロチンの露と消えたのである。

1795年5月16日オランダ オランダ共和国が崩壊、かわってバタヴィア共和国成立 ●フランス革命軍に占領されていたネーデルラント連邦(オランダ)共和国は,バタヴィア共和国になったことを宣言した。新国家は自治権を有するが,決定についてはフランスが拒否権を保持している。
 オランダ共和国では,保守的な総督と都市貴族の支配に対して不満が高まっていた。啓蒙主義の影響を受けた愛国党が変革を試みたが,1787年,プロイセンの介入で挫折していた。 しかし,フランス革命軍の進撃とともに諸都市で愛国党が蜂起,この年,総督ウィレム5世(47)は亡命した。愛国党はこの日,人権宣言を発し,フランスをモデルとする革命政府を樹立したのである。
 バタヴィア共和国は,1806年にナポレオンの弟ルイが国王として入り,オランダ王国が成立,さらに10年にはフランスに併合される。
1795年8月22日フランス フランスで共和暦第3年憲法が採択される。
フランスで共和暦第3年憲法

●国民公会は新憲法である共和暦第3年憲法を採択した。この憲法では普通選挙制が廃止され,直接税を払っている21歳以上のフランス人男子にのみ選挙権が認められ,2段階選挙はそのまま残された。
 まず,選挙権をもつ市民が第1次選挙人集会で,25歳以上のフランス人のなかから第2次選挙人を選ぶ。こうして選ばれた約2万人の選挙人が議員を選ぶことになる。
 立法権は,五百人議会と元老院にゆだねられ,五百人議会が法案を提出し,元老院が票決する。
 行政権は5人の総裁からなる総裁政府にゆだねられる。総裁は両議会が選挙し,5年の任期で毎年1人ずつ改選される。
 共和暦第3年憲法は,フランスで施行された最初の共和政憲法だったが,4年あまりしか続かなかった。

1795年10月26日フランス フランス国民公会が解散し、共和政憲法のもと総裁政府が成立。
総裁政府が成立

●共和暦第3年憲法が採択されて約2か月後,ようやく総裁政府体制が成立した。
 すでに国民投票によって,憲法は承認されていたが,食糧不足,物価高騰やインフレにより,民衆の不満が増大し,反対勢力をあおりたてていた。
 10月5日,反対勢力,王党派の暴動が発生し,国民公会はバラス(40)を指揮官に,ナポレオン・ボナパルト(26)ら5人の将軍を副官に任じて,鎮圧に成功する。この「ヴァンデミェール13日の事件」で,国民公会と共和政は勝利したが,その勝利は軍隊の介入によってもたらされたものだった。国民公会は10月26日に「共和国万歳!」を叫んで,解散する。
 この日,元老院は五百人議会によって作成された50人の候補者のリストにもとづいて,行政府の長となる5人の総裁を選んだ。バラス,ラ・レヴェリェル・レポ,ルベル(48),ルトゥルヌール,シエイエス(47)である。このうちシエイエスは自分が起草した憲法草案を国民公会が拒絶したことに不満をもっていたため,総裁就任を断った。かわりにカルノー(42)が選ばれる。この5人は,全員ルイ16世の処刑に賛成しており,元貴族のバラスを除けばいずれもブルジョアジーの出身で,穏健,愛国的な共和主義者だった。
 こうして成立した総裁政府体制はバブーフ(35)の陰謀事件のような平等主義者たちによる攻撃と,王党派右翼による攻撃にさらされ,困難な舵取りをよぎなくされる。

1796年5月10日パリ 平等派の陰謀発覚バブーフ,逮捕される。総裁政府の転覆ならず。 ●総裁政府は,平等派の陰謀の首謀者,フランソア・バブーフ(36),フィリッポ・ブオナロッティ(35)らを逮捕した。
 バブーフは貧しい家庭の生まれで,貴族の不正を確信し,ルソーやマブリを読んで,革命初期から共産主義の萌芽的理論を提唱。テルミドール期にも「財産の平等」のための闘いをして逮捕,投獄された。
 総裁政府の成立後,釈放されたバブーフは,宣伝紙「護民官」を通じて蜂起と反乱をよびかけた。「財産と労働をともにする共同体」の実現をめざして,3月には,ブオナロッティ,ダルテなどとともに秘密組織「蜂起委員会」を結成。総裁政府を転覆しフランスに一種の共産主義体制を樹立すべく陰謀を企てたが,未然に露見し逮捕,処刑された。
1796年11月17日イタリア ナポレオンがイタリア遠征で大勝利(出典)「クロニック世界全史」講談社1994年刊
ナポレオンがアルコレの戦闘でオーストリア軍を撃退。

●マントヴァ東北のアルコレで行われた3日に及ぶ戦闘で,ナポレオン・ボナパルト(27)がオーストリア軍に決定的な勝利を収めた。
 ナポレオンはこの年の3月2日,26歳と8か月にしてイタリア遠征軍司令官に任命され,4月12日から,オーストリア・サルデーニャ連合軍を相手に,イタリア戦役を開始。総裁政府は,この遠征によってイタリアからオーストリア軍を駆逐し,フランスに隣接するサルデーニャの国王と同盟を結ぶ意図をもっていた。
 ナポレオンはまず,ピエモンテでオーストリア軍を孤立させ,サルデーニャ・ピエモンテ軍を東方に撃退。休戦協定でサルデーニャはサヴォアとニースをフランスに割譲する。
 東からミラノに進軍していたナポレオンはロディ橋の戦闘でオーストリア軍を破り,5月15日ミラノに入城。オーストリア軍はチロルに退却するが,要塞都市マントヴァに1万4000人の兵からなる大駐屯部隊を残した。ナポレオンは4万5000人の兵力をもって,マントヴァ包囲を開始。以後8か月のあいだ,マントヴァをめぐって,フランス軍とオーストリア軍のあいだで攻防戦が展開された。
 11月3日オーストリア軍はアルヴィンツィの部隊とダルドヴィチの部隊,計4万5000人をマントヴァヘ派遣する。ナポレオンはヴェローナを出発し,マントヴァ東北のアルコレで11月15日から17日にかけての3日間,アルヴィンツィの部隊と死闘を繰り広げこれを撃退した。
 さらに翌年1月14日,ナポレオンはリヴォリで圧勝し,マントヴァは2月2日に降伏する。
 このイタリア遠征はナポレオンにとって栄光に輝く大勝利であり,独自の道を歩むきっかけともなる。

1797年7月9日イタリア ナポレオン,ミラノでチザルピナ共和国を建国。憲法も公布する。 ●チスパダナ共和国,ロンバルディア,ヴェネツィア諸邦の一部とヴァルテッリナを包含するチザルピナ共和国の建国宣言がミラノで行われ,ナポレオン・ボナパルト(28)はみずから起草した憲法を公布した。この憲法は,フランスの共和暦第3年憲法から大きな影響を受けたものである。
 すでに6月,イタリアの北西部のジェノヴァでは,それまでの寡頭政府が倒され,22人のジャコバン派による暫定政府が樹立されていた。ここでナポレオンによるチザルピナ共和国建国にともない,ジェノヴァ共和国はリグリア共和国となる。
 このように,フランス軍の侵入とイタリア人の革命的活動の結果,イクリアにフランスの同盟国のごとき諸共和国がうちたてられていく。
 10月にフランス・オーストリア間で結ばれるカンポ・フォルミオ条約により,チザルピナ共和国をはじめとするイタリアの新しい政治地図は公式に承認されることになる。
1797年10月17日イタリア カンポ・フォルミオの和約成立。オーストリアはナポレオン軍に屈す。 ●第1回対仏大同盟戦でフランスと戦っていたオーストリアは,ナポレオン軍がウィーンに迫ってきたため,この日,北イタリアのカンポ・フォルミオ村で,ナポレオンと講和条約を結んだ。
 バーゼルの単独講和でプロイセンが脱落して北部ドイツの中立が確保されると,1796年から戦場は南ドイツと北イタリアに移った。イタリア遠征軍司令官ナポレオン・ボナパルトは,オーストリアの同盟国であるサルデーニャをくだし,ロンバルディアを征服,北イタリア全土を手中に収めた。
 南ドイツのジュルダン,モロー軍は,北イタリアのナポレオン軍と連結する勢いをみせた。その後,オーストリア南部のケルンテンにナポレオン軍が進出すると,ロシア軍は撤退,イギリスの資金援助の滞りもあってオーストリアでは厭戦気分が広まった。
 この年の4月にフランスとオーストリアはすでにレオーベンでの仮和約を成立させていたが,その後もナポレオンはイタリアで勝利しつづけた。そして,フランスの姉妹共和国であるリグリア(ジェノヴァ),チザルピナ(ミラノ)両共和国を建設し,さらにウィーンに迫ったのである。オーストリアはついに屈服し,第1回対仏大同盟は瓦解した。
 カンポ・フォルミオ条約でオーストリアはネーデルラント,ロンバルディアなどをフランスに割譲し,かわりにヴェネツィアを得た。さらに秘密協定でライン川左岸地方の割譲を承認させられたが,この問題の結論は12月1日に行なわれるラシュタットでの帝国平和会議にもちこされることになった。
1798年3月29日スイス スイスにフランス型の中央集権国家ヘルヴェティア共和国成立。 ●フランス軍はベルンに進駐し,スイスの各州代表に新憲法を承認させた。ここにフランス型の中央集権国家,ヘルヴェティア共和国の樹立が宣言された。
 スイスでは,アルザスから革命の理念が流れ込み,急進派を形成させた。チューリヒのヨハン・ラーファター(57)やヨーハン・ペスタロッチ(52)らが,親仏派に属した。革命派はフランスの支持を期待したが,軍事介入を望んだのではなかった。 しかし,ナポレオン・ボナパルト(29)はフランスとイタリアを結ぶスイスの戦略的重要性から軍隊を投入したのである。
 新政府は地主の封建的諸権利などを廃止するが,州自治の破壊と軍役金の負担は,激しい抵抗運動をひきおこす。 1803年2月ナポレオンはこの混乱を収拾し,19州からなる連邦制を復活させるが,スイスは,1815年まではフランスの衛星国家としてとどまる。
1798年6月11日マルタ フランス軍がマルタ島征服、最後の騎士団領が消滅する。 ●エジプト遠征の途上,フランス軍が地中海マルタ島を征服した。 1530年以来,ヨハネ騎士団の拠点であったマルタの併合により,最後の騎士団領が消滅することになった。
 ヨハネ騎士団の発足は11世紀までさかのぼる。 14世紀にはロードス島を拠点として地中海東部最強の海軍となっていたが, 1523年スレイマン1世によるオスマン帝国の拡大以後,ロードス島からの撤退をよぎなくされた。騎士団は皇帝カール5世からマルタ島を下賜され,それ以来ヨハネ騎士団は,マルタ騎士団ともよばれ,レパントにおける対オスマン海戦にも関与した。
 1537年には,すでにイギリス国内の騎士団領が革命の流れのなかで奪われていたが,フランス革命によって,騎士団はフランスにおけるすべての財産も失うことになる。
1798年7月21日エジプト エジプト遠征中のナポレオンの軍隊が、ピラミッドの戦いでマムルーク騎兵を撃破。 ●ナポレオンの軍隊が,ピラミッドの戦いでマムルーク騎兵を撃破した。
 オスマン帝国の支配下にあるエジプトへの遠征の計画は,1796年以来,総裁政府に提出されていた。貿易確立の観点と,イギリス領インドに対する戦略拠点準備の観点から,ナイル川デルタおよびスエズ地峡を占領するというものである。
 1798年3月15日から5月19日にかけての2か月のうちに,ツーロンとジェノヴァに大艦隊が集められた。艦隊には,およそ200人の学者,作家,芸術家も乗り込み,5月19日エジプトに向けて出航した。
 7月1日,ナポレオンの艦隊は,アレクサンドリア港に到着し,翌日軍隊が上陸して,市街を占領した。さらにカイロに向けて進撃。エジプトは封建諸侯の太守やマムルーク騎兵の隊長たちに支配されていたが,軍隊はこれらマムルーク騎兵と交戦しながら進んだ。
 この日のピラミッドの戦いでは,マムルーク騎兵を,方陣をしいたフランス歩兵が撃破した。ナポレオンは「兵士よ,ピラミッドの上から4000年の歴史が諸君を見下ろしているぞ!」といって兵士たちをはげましたと伝えられる。7月23日ナポレオンはカイロに入城。
 しかし,8月1日,エジプトの海岸に戻ってきたホレイショ・ネルソン(40)率いるイギリス艦隊が,アブキール付近に停泊中のブリュエス率いるフランス艦隊を襲い,ブリュエスは戦死。艦隊はほとんど撃破されてしまう。フランス陸軍はエジプト征服に成功しながら,地中海の制海権をイギリスに奪われて,捕虜同然の状態となるのである。
1799年3月12日フランス 対仏大同盟,戦争に再突入。フランスがオーストリアに宣戦布告。 ●フランスはこの日,オーストリアに対して宣戦を布告し,第2次対仏大同盟との戦争に突入した。対仏大同盟の中心はイギリスの首相ウィリアム・ピット(小ピット,40)で,同盟には,イギリスをはじめ,オーストリア,ロシア,オスマン帝国などが加わっていた。
 フランス革命に対抗するヨーロッパ諸国の第1次同盟は2年前に崩壊したが,小ピットは対仏大同盟の再建を図り,前年の12月下旬には第2次同盟を結成していた。この同盟にはナポリも参加したが,イタリアではフランスの勢力は強大で,この3月の開戦以前に国王フェルディナンド4世(48)はシチリアに逃れていた。
 オーストリアとの開戦後,ジュルダン(37)指揮下のフランス軍はドイツに侵攻するが,3月25日にはドイツ南西部のシュトカハでカール大公(28)のオーストリア軍に敗れ,ライン川を越えて後退する。こうして開戦当初は対仏大同盟側が有利であったが,8月にエジプトから帰還したナポレオン・ボナパルト(30)の活躍で同盟は崩壊し,3年後,イギリスも講和を結ぶことになる。
1799年11月9日フランス ナポレオン,クーデターに成功。「民衆の革命」に終止符を打つ。
ナポレオン、クーデターに成功

●ナポレオンは,総裁政府の不人気と,内外政策のゆきづまりに乗じてクーデターを断行し,政権を掌握した。この日は共和暦第8年のブリュメール18日にあたる。
 エジプト遠征を敗北と判断したナポレオンは,エジプトを脱出し,10月16日パリに戻った。パリは彼を熱狂的に迎えた。ナポレオンは,弟で五百人議会議長のリュシアン・ボナパルト(24)らとクーデターの準備を始め,憲法の改正を望むエマヌエル・シエイエス(51)と手を組んで周到な計画を練り,この日,クーデターを実行に移したのである。
 しかし,クーデターは五百人議会の強い抵抗にあい,「独裁者を打倒せよ!」「共和国と共和暦第3年憲法万歳!」といった叫びがナポレオンに発せられた。このため翌日の夕方には軍隊が議場に入り,議会を屈服させる。そして元老院は,ナポレオン,シエイエス,ピエール・デュコ(52)の3人を臨時統領に任命する。
 こうしてブリュメール18日のクーデターは革命に終止符を打つ。民衆の圧力による体制の変革の道は閉ざされ,政権は軍事的独裁にゆだねられる。
 ナポレオンは,フランス革命の成果を継承し,旧体制から解放されて富裕になったブルジョアジーと小土地所有農民を基盤に,新しい秩序を整えていくことになる。ナポレオンは1804年に皇帝となる。

重要事項
(世界の動き1770年頃~1800年頃)
●1770年(フランス)、ルイ15世の孫に当たる王太子ルイと、オーストリアの女帝マリア・テレジアの娘マリー・アントアネットの婚礼がヴェルサイユで盛大に行われた。1774年マリー・アントアネットはルイ16世の王妃となる。
●1771年(ベトナム)、タイソン勢力が200年以上続いたチン氏とグエン氏の南北対立時代を終わらせる。これによりタイソン兄弟が、ベトナム全土を分割して支配する。
●1772年(スウェーデン)、新国王グスタヴ3世はクーデターに成功、議会から実権を奪い絶対王政をしく。
●1773年(ロシア)、コサック出身のブガチョフが民衆を率いて反乱を起こす。この反乱には延べ300万人が参加したとされる。
●1774年(ドイツ)、ゲーテの著作「若きウェルテルの悩み」が刊行され、ヨーロッパの多感な青年の心をとらえる。
●1775年(パリ)、ボーマルシェ作の喜劇「セビリャの理髪師」パリで好評をはくす。
●1775年(イギリス)、ワットの蒸気機関はじめての販売に成功する。これにより蒸気機関が産業界に普及していく。
●1776年(イギリス)、アダム・スミス「諸国民の富」を刊行、自由主義経済学の基礎を築く。
●1779年(ハワイ)、イギリス海軍のキャプテン・クック探検途上でハワイの島民に殺害される。
●1782年(中国・清)、乾隆帝の命により編纂がすすめられていた「四庫全書」が完成した。7万9千余巻にも及ぶ叢書である。
●1783年8/5(日本)、浅間山が大噴火をおこす。火砕流が村を飲み込み、江戸でも3cmの降灰
が積もった。噴煙は成層圏にまで達したため、北半球に異常気象をもたらすことになった。日本でも凶作が起きたが、遠くフランスでも、フランス革命の要因となった小麦の不作を招いたといわれる。
●1785年(フランス)、マリー・アントアネット「首飾り事件」にまきこまれ、国民の非難を浴びる。彼女はわがままで華美を好み、浪費と放蕩を続け「赤字夫人」と呼ばれていた。民衆のあいだの王妃の不人気は、この事件で一気に顕在化し、後の革命での王家の処刑につながる。
●1785年(パリ)、化学者ラヴォアジエは燃焼による水の生成実験に成功し、水が酸素と水素という2つの気体が結合してできることを解明した。
●1788年、カント「実践理性批判」刊行される。81年に「純粋理性批判」90年に「判断力批判」を刊行する。
●1789年(南太平洋)、イギリス海軍のバウンティ号で反乱が起きる。専制的な艦長に対する反感から起きた。
●1789年4月30日(アメリカ)、ジョージ・ワシントンがアメリカ合衆国の初代大統領に就任する。
●1790年(ウイーン)、神聖ローマ帝国の皇帝ヨーゼフ2世失意のうちに死去する。
●1790年(ロシア)、ロシアの法律家ラジーシチェフは農奴制を厳しく批判して「ペテルブルクよりモスクワへの旅」を出版した。この本は直ちに発禁となり、ラジーシチェフも逮捕され死刑の宣告を受ける。(後に減刑され10年間シベリア流刑となる)
●1791年(イギリス)、カナダ法が成立。これによりイギリス領カナダは東西2地域に分割された。カトリックの多いフランス系の東部とプロテスタントの多いイギリス系の西部である。
●1791年(ハイチ)、カリブ海のフランス植民地サン・ドマングで、黒人奴隷の大規模な反乱が起きた。後の1804年には、自由を得た黒人とムラト(白人と黒人の混血者)は、フランスに独立を宣言することになる。
●1791年(ウイーン)天才作曲家モーツァルトが「レクイエム」を残しウイーンに死す。35歳だった。
●1793年(中国)、イギリス使節マカートニー清に通商条約締結を求めるが、拒否される。
●1794年(イラン)、カージャール朝がザンド朝を滅ぼしイラン全土を掌握する。
●1795年(フランス)、地球の子午線をもとにメートル法が制定される。メートルとグラムが決定される。
●1795年(南アフリカ)、イギリスはアフリカにあるオランダの植民地ケープ・タウンを占領した。
●1796年(イギリス)、医師のジェンナーが天然痘に対する免疫を与える種痘を開始した。この種痘法はやがて外国にも普及し多くの人命を救った。
●1798年(インドネシア)、オランダの東インド会社が解散し、インドネシア領土はバタヴィア共和国の管轄となる。
●1798年(イギリス)、マルサスが匿名で「人口論」を刊行した。
●1799年(スペイン)自然学者フンボルトが新大陸の奥地探検のためスペインを出発した。

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