(歴史)簡易世界通史・20世紀後半(1945年~1999年)②朝鮮戦争、サンフランシスコ平和条約


●(上左写真)朝鮮戦争:戦火を逃れソウルを脱出する人々は線路を歩いて南へと下る。(1951年1月4日)
●(上右写真)朝鮮戦争:極寒の雪原に延々と避難民の列が続く。(1951年1月4日)
(出典:「図説朝鮮戦争」田中恒夫 著 河出書房新社2011年刊)

東西対立の中、中華人民共和国が建国した。巨大国家の誕生である。
●1945年~1999年頃までの大きめな出来事は、以下のようである。このページでは赤字の項目の年代頃を記述している。中華人民共和国建国、朝鮮分離独立、日本のサンフランシスコ平和条約・日米安保条約調印など、東(ソ連側)西(アメリカ側)の対立は、21世紀現代にまで影響をおよぼしている。日本は国家としては独立を保っているが、軍事的にはアメリカに安全保障を任せ、政治思想的には現実主義と理想主義とに分裂していて、本当の意味で方向性の定まった国家なのだろうか。日本は幸運なことに、朝鮮半島のような分断は避けられたが、実は思想的には分断されているという人もいる。
●国際連合憲章調印(連合国50ヵ国)●ベトナム民主共和国独立宣言(30年におよぶベトナム戦争の始まりである)●中国国共内戦●アメリカ「マーシャルプラン」「赤狩り」●インド・パキスタン分離独立●ガンディー暗殺される●パレスチナ分割・イスラエル建国・第一次中東戦争勃発●ソ連西ベルリン封鎖・東西ドイツ分離独立●韓国・北朝鮮分離独立●NATO北太平洋条約機構発足●ソ連原爆実験成功●中華人民共和国建国●朝鮮戦争勃発●日本・サンフランシスコ平和条約に調印●エジプトクーデター(ナーセル)●アメリカ世界初の水爆実験●アメリカ・アイゼンハワー大統領就任とダレス国務長官●ソ連スターリン死去●アルジェリア独立戦争勃発(アルジェの戦い)●ソ連「ワルシャワ条約調印」●ハンガリー動乱●アフリカ初ガーナ独立

下

●世界簡易通史20世紀後半(1945年頃~1999年頃)②
この②では、参考として、「世界の歴史8・9・10」J.M.ロバーツ著創元社2003年刊、「世界の歴史29(冷戦と経済繁栄)」中央公論新社1999年刊、「世界の歴史13~16(現代)」中央公論社1963年刊、「日本の歴史11・12」読売新聞社1963年刊、「新版世界各国史3・中国史」山川出版社1998年刊、「近代史日本とアジア上下」古川万太郎著 婦人之友社2002年刊、「図説朝鮮戦争」田中恒夫 著 河出書房新社2011年刊、「革命いまだ成らず」譚璐美(たん・ろみ)新潮社2012年刊、「クロニック世界全史」講談社1994年刊などを参考とし要約と引用もおこなった。

目次
ピックアップした項目 内容
中華人民共和国建国(1949年10/01)。中国近代史(概略)と日中戦争 毛沢東主席、北京の天安門広場で中華人民共和国の成立を宣言。国民革命軍、日本武力干渉と侵略、一致抗日、国共内戦、そして統一建国。
赤狩り旋風(1950年) アメリカで始まった「赤狩り」は日本でも実施された。レッドパージ共産主義者追放である
朝鮮戦争勃発(1950年6/25) 北朝鮮軍が 38度線を越えて大韓民国に侵攻
日本・サンフランシスコ平和条約に調印(1951年9/8) 同日アメリカと日米安全保障条約を調印した。「平和条約」と「日米安全保証条約」を意味などを補足して引用。
韓国イ・スンマン(李承晩)大統領、海洋主権宣言を発表(1952年1/18) 李承晩ライン設定と日本漁船拿捕、そして竹島の領有権をめぐる問題の発生
第1次インドシナ戦争の概略 フランス、インドシナ半島を日本に奪われたが、日本の敗北によって、戦後復権を目指して戦争となる。

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歴史年表(世界の動き)

1948~
年・月 国・地域 事項
1948年 1月30日 インド、ガンディー暗殺
インド独立の父マハトマ・ガンディーが、この日ニューデリーでヒンドゥー教徒のゴードセーに狙撃され死亡した。ヒンドゥー至上主義を掲げる民族義勇団がRSSに属するゴードセーらは、ガンディーの主張する二つの宗教(ヒンドゥ-とイスラム)の和解を宗教的な侮辱と感じ、暗殺を計画。暗殺者たちは、20日、ガンディーに爆弾を投げつけたが失敗。そしてこの日、民衆にまぎれこんだゴードセーが、礼拝に進むガンディー向けて 3発の銃弾を発射したのである。翌日、遺体は100万の大群衆に囲まれ、ヤムナ河畔で荼毘(だび)に付され、その灰はガンジス川に流された。(インド初代首相ネルーは、「光は消え、すべては暗黒となった」と叫びガンディーの死を悼んだ。)


(左写真)ガンディーとネルー。インド独立に大きな貢献をはたした2人が、1946年にボンベイで開かれたインド国民会議派の会議で話をしているところ。(出典)「世界の歴史9」J.M.ロバーツ著創元社2003年刊

1948年1月4日 ミャンマー、完全独立 イギリスの旧植民地ビルマが、ビルマ連邦としてスタート、英連邦にも加わらない完全独立を達成した。
1948年5月14日 イスラエル、イスラエル建国宣言 イスラエルが建国宣言を行う。アメリカは即日、ソ連は三日後にイスラエルを承認した。しかし翌 5月15日、イスラエルは「独立戦争」、パレスティナは「パレスティナ戦争」とよぶ第一次中東戦争が勃発した。翌年1949年2月、イスラエルはエジプトと休戦協定に調印。その後3月レバノン、4月トランス・ヨルダン、7月シリアと休戦協定を結ぶ。
1948年 8月15日 朝鮮半島、分断独立
ソウルでイ・スンマン(李承晩)を大統領とする大韓民国樹立を宣言。これはアメリカ軍政下におかれて3年後、強力なアメリカの後押しによるものだった。一方北では、1948年 9月9日、キム・イルソン(金日成)が朝鮮民主主義人民共和国の成立を宣言した。こちらはソ連の影響下で社会主義体制を採用した。こうした両国の独立は、民族の分断を強め、2年後に朝鮮戦争勃発となる。


(左写真)大韓民国大統領に就任した李承晩(出典:「写真記録日中戦争」ほるぷ出版1995年刊)
1948年6月 ドイツ、ベルリン封鎖 アメリカ・イギリス・フランス3か国が占領する西側のドイツで、新通貨ドイツ・マルクが導入された。これは西側独自の通貨改革となった。一方ソ連側は6月23日、東側で独自の通貨東ドイツ・マルク導入を行った。そしてソ連は、24日西ベルリンに通じる陸の交通路を封鎖、西側3か国は、物資を空から運ぶ「空の架け橋作戦」を26日から翌年5月20日まで展開する。
1949年1月 インド・パキスタン、カシミール帰属問題 交戦状態にあったインドとパキスタンが国連勧告を受けて停戦し、カシミールの帰属を国民投票で決めることで合意する。カシミールは南部がインド、北部がパキスタンに分かれて帰属した。
1949年1月 モスクワ、コメコン ソ連と東欧5カ国の代表が、経済相互援助会議コメコンの設立を決定する。
1949年4月4日 ワシントン
北大西洋条約機構(NATO)
ヨーロッパ11ヶ国とアメリカが、集団防衛体制などを定めた北大西洋条約に調印する。8/24条約が発効して、北大西洋条約機構(NATO)が発足した。
1949年4月 日本、1ドル =360円 連合国軍総司令部 GHQは、日本政府に対して、1ドル =360円の単一為替レートを設定し 、4月25日から実施するように指示した。この狙いは、貿易拡大によって日本経済を自立・活性化させるとともに、アメリカドル圏に従属させることにあった。
1949年5月 ドイツ、ドイツ連邦共和国とドイツ民主共和国が成立 東西の分断が確定。西のドイツに新国家、ドイツ連邦共和国が成立、初代首相にアデナウアーが就任し、初代大統領にホイスが選出された。一方ソ連占領下の東ドイツでは、1949年10月、ドイツ民主共和国が成立、初代大統領にピークが選出され、初代首相には グローテヴォールが就任した。こうしてドイツの分断は確定し、1990年10月3日の統一ドイツ誕生まで分断は続いた。
1949年6月 ガーナ、エンクルマ イギリス領ゴールドコースト植民地で、統一ゴールドコースト会議の元書記長、エンクルマがアクラに約6万人集めて、新たに結成した会議人民党(CPP)の決起集会を行った。このCPPは、たちまち大衆の熱狂的な支持を集め、エンクルマ 1951年の選挙で獄中から立候補して圧勝。1951年首相に就任する。


(左写真)エンクルマ(出典:「世界の歴史16(現代)」中央公論社1963年刊
1949年9月 アメリカ、ソ連の原爆実験成功を発表 トルーマン・アメリカ大統領が、ソ連の原爆実験成功を発表した。ソ連は 1949年 8月29日に、カザフスタンの核実験場でソ連第1号の原子爆弾を成功させた。ソ連政府は、原爆実験に沈黙を守ってきたが、2日後、2年前からすでに原子爆弾を保有していたことを、初めて公式に認めた。
1949年 10月1日 中国


初めて翻った中国国旗「五星紅旗」。地の赤色は革命を象徴し、黄色の五つの星は共産党指導下の革命的人民の大団結を表す


右写真(出典:「写真記録日中戦争」ほるぷ出版1995年刊)
中華人民共和国の成立

●毛沢東主席が、北京の天安門広場で中華人民共和国の成立を宣言した。建国式典は 30万人もの群衆で埋め尽され、毛沢東主席が、「中華人民共和国中央人民政府が成立した」と宣言すると、その瞬間、広場は嵐のような歓声に包まれた。そして毛沢東が自らスイッチを押して、新国旗の五星紅旗を掲揚すると礼砲がとどろき、その後陸海空軍の閲兵式と祝賀パレードが繰り広げられた。ソ連は翌2日、新政府を承認するが、国民政府を支持するアメリカは3日、承認保留を表明した。
●中国近代史概略は、別ページ「(歴史)20世紀前半・中国と日本(中国近代史・日中戦争)」に段組みを入れ替えて移しました。

「中華人民共和国・建国宣言」毛沢東
●1949年 10月1日中国、毛沢東、天安門広場で建国宣言を行う。ユーチューブの「Mao declares the Peoples’ Republic of China」から最初の部分を紹介してみる。(自分のような一般の日本人からみると、動画の中でわかるのは、毛沢東、横を歩く朱徳、劉少奇、宋 慶齢《孫文の未亡人》、周恩来ぐらいか。調べると、李 済深《国民党革命委員会主席》、張瀾《民主同盟主席》、高 崗《東北人民政府主席》も壇上並ぶとある。)

( flash動画8.61MB)
(音量ボタンを小にしてから、再生して下さい。)星野。


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YouTubeから「Mao declares the Peoples’ Republic of China」

1949~
年・月 国・地域 事項
1949年11月 オランダ、インドネシア連邦共和国独立 インドネシアとオランダの円卓会議が合意に達し、ハーブ協定が調印された。
これにより、約10年間にわたったインドネシアの対オランダ独立戦争は終結をむかえ、インドネシア連邦共和国の成立が国際的に認知された。
1950年1月 イギリス イギリスが中華人民共和国を承認する。このため台湾の国民党政府は、イギリスと断交する。
1950年1月 中国、ベトナム民主共和国を承認 中華人民共和国がベトナム民主共和国を承認する。 31日にはソ連も承認する。
1950年1月 イスラエル、エルサレム首都宣言 イスラエルが国連決議に反して、エルサレムを首都とすることを宣言する。アラブ諸国は、イスラエルに対する経済封鎖で対抗する。
1950年2月14日モスクワ モスクワ 中国とソ連が中ソ友好同盟相互援助条約に調印する。
1950年2月 インドシナ半島 フランスがベトナム(バオダイ政権)、カンボジア、ラオスをフランス連合内の独立国として承認する、7日、アメリカとイギリスは、この3カ国の独立を承認する。
1950年
1950年2月9日アメリカ「赤狩り旋風」

●共和党上院議員のマッカーシーが国務省内に共産主義者がいる、と発言する。以後、マッカーシズムと呼ばれる赤狩りが各界を揺さぶる。前年十月に中国で共産党政権が誕生して以来、アメリカ国内では反共気運が異常な高まりを見せていた。マッカーシーは一躍マスコミの注目を集め、議会も彼の発言を無視できず、2週間後、上院外交委員会は調査に乗り出す。この赤狩りによる犠牲者は、国務省や大学の中国専門家だけではなく、ハリウッドの俳優にまで及ぶ。


●日本では朝鮮戦争が始まる直前の 6月6日、共産党幹部 (徳田球一ら)24人の追放、翌7日の赤旗幹部27人の追放からレッドパージが始まった。そして 7月24日、新聞経営者たちは GHQに呼び出されレッドパージの指示を受けた。朝日、毎日、読売、日経、東京、共同、時事、日本放送協会の8社は、7月28日、336人を追放。8月末までに、地方紙を含む50社で704人が解雇された。マスコミに次いで民間企業、なかでも重要基幹産業が対象になり、電力業界では 8月26日、合計2137人に上る解雇通告を発令した。民間におけるレッドパージは、朝鮮戦争の兵站機能を負わされた日本の企業で、サボタージュや業務阻害がおこることを未然に防ぐために行われたものである。秋になると、官庁・公団・公社に及び、この年だけで1万2168人がレッドパージされた。


●徳田球一は、1950年6月に公職追放(レッドパージ)され、7月に出頭命令を拒否し、地下に潜行、同年10月、中華人民共和国に亡命した。
共産党の活動 ●日本共産党・徳田球一らは1945年10/10、18年ぶりに府中刑務所から釈放される。徳田(左)と志賀(右) (上写真)出典:「昭和2万日の記録7」講談社1989年刊
1946年5/1 ●第17回メーデー5/1(11年ぶりに復活)宮城前広場で演説する共産党・徳田球一(写真・共同通信社) (出典:「昭和2万日の記録7」講談社1989年刊)
1946年5/19 「食料メーデー」「プラカード事件」
(右写真)1946年5月の「食料メーデー」における「プラカード事件」のプラカード。(出典:「昭和2万日の記録7」講談社1989年刊)
●食糧難で1946年5/19に宮城前広場で行われた「食料メーデー」。このときのデモ行進で使われたプラカードが、天皇に対する「不敬罪」として起訴されたが、社会的波紋を呼び、1審では天皇に対する「名誉毀損」による懲役8ヶ月の有罪判決がでた。しかし、2審では「不敬罪だが大赦で免訴」、3審では「大赦で審議できず」となり決着を回避した。

1946年食料メーデー(5/19)プラカード

1946年10月 ●天皇に会見を申し入れる共産党。

1946年10/12天皇に会見を申し入れる共産党

(出典:「昭和2万日の記録7」講談社1989年刊)

1950~
年・月 国・地域 事項
1950年4月 イギリス・フランス赤狩り始まる イギリスでは4日、アトリ―首相が政府の要職に共産党員が就くことを禁ずると言明する。
フランスでは28日原子力委員会委員長が共産主義者として解任される。
1950年5月 アメリカ、フランスを援助 アメリカは第一次インドシナ戦争で、フランスを援助することを米仏会談で約束する。
1950年6月25日 朝鮮半島
北朝鮮軍が 38度線を越えて大韓民国に侵攻した。
(右写真)1950年6/28、ソウルに突入する北朝鮮機甲部隊。韓国の臨時首都は大田、のちに釜山に移された。1週間後の7/5には、ソウル南方の烏山で、はじめてアメリカ軍と北朝鮮軍が激突した。(出典:「クロニック世界全史」講談社1994年刊)
朝鮮半島で朝鮮戦争が勃発

●1950年6月25日北朝鮮軍による南侵の真相は、ソ連崩壊後の公文書(発見)によれば次のようである。

「キムイルソン(金日成)は1950年の初めからソ連側に『南侵』の意向を伝えていた。スターリンは経済援助と軍事援助をあたえ金日成をなだめていたが、1950年4月下旬クレムリンで秘密会談をもった。金日成は『南侵』すれば、韓国軍は壊滅し、南の人民と共産主義者が蜂起する」と力説した。これに対してスターリンは「毛沢東が同意すれば、承認する」と条件つき承認を与えた。金日成は、1950/5/13~5/16北京を訪問し、毛沢東の同意を得た。そして金日成は、南侵してもアメリカは介入しないこと、そして李承晩政権が崩壊すればアメリカは朝鮮半島を放棄すると、判断した。そして6月25日未明、北朝鮮は38度線を越境武力侵入した、とされる。(出典:「激動!!北朝鮮・韓国そして日本」重村智計(しげむら・としみつ)著・実業之日本社2013年刊)

(注)日本では、当時のマスコミや学会では左翼が多かったため、北朝鮮の主張する「韓国が先に戦争をしかけた」ということを長いあいだ信じていたといわれる。「激動!!北朝鮮・韓国そして日本」重村智計著にも、当初から「北朝鮮の南侵」を主張していたのは2人の学者だけで、2人は左翼系の学者から総攻撃と激しい非難を浴びた、と書かれている。そして左翼系の学者のいいかげんさを、「学問の真理」と「運動」の区別がつかないと評している。


●この北朝鮮の南侵に対してアメリカは、国連安全保障理事会に非難決議(北朝鮮の侵略であるとする)を提出した。緊急招集された国連安全保障理事会はこれを採択したが、これはソ連が安全保障理事会をボイコットしていたためである。アメリカはソ連の拒否権にあうことなく決議できた。このソ連の欠席の理由は、台湾政府が安全保障理事会の常任理事国であることに対する抗議のためだった。しかしこれによりアメリカは、自国を中心とする国連軍(16カ国参加・最高司令官マッカーサー)を結成することができた。
●当初韓国政府は強力な北朝鮮軍により、大邱(テグ)、釜山(プサン)付近を除いて全土を制圧された。しかし、国連軍は仁川(インチョン)上陸作戦を機にソウルを奪回し、10月には38度線を越えて侵攻し、平壌(ピョンヤン)を占領し、中国国境の鴨緑江付近に到達した。
●しかしここでついに中国人民義勇軍の参戦をみたのである。これは実質中国正規軍の介入であり、米中戦争の危機であった。中国軍を主体とした北朝鮮軍は形勢を逆転して、1951年1月には再びソウルを奪回し、国連軍を押し戻した。
●国連軍は、新型の化学兵器を大量に使用し始めた。ナパーム弾、バズーカ砲(対戦車砲)、誘導ロケット弾、夜間狙撃銃、無反動砲などを大量に投入していった。またジェット戦闘機(アメリカ側=f-80~f-86など、北朝鮮側ソ連製ミグMiG-15など)による史上初の空中戦が行われた。その後戦局は38度線をめぐり2転3転を続け、膠着状態となった。その間、マッカーサーは中国・ソ連への原爆攻撃の計画をトルーマン大統領に申請したが、この作戦は第3次世界大戦の危惧と原水爆禁止運動の広がりから、実現しなかった。
●そしてトルーマンは、中国との全面戦争すら辞さないマッカーサーを解任した。その理由は、アメリカ政府が交渉による朝鮮戦争終結を図ろうとしたにもかかわらず、マッカーサーは中国に対して大陸進攻をほのめかし、最後通告に等しい声明を発したためであった。「トルーマン回顧録」によれば、以下のようにある。

「大統領およびアメリカ軍最高司令官としての私の命令に対する、公然たる反逆である。憲法の下における大統領の権威に対する挑戦である」と。

(上左写真)1951年6月9日
(上右写真)ソウル(出典:「図説朝鮮戦争」田中恒夫 著 河出書房新社2011年刊)

●そして朝鮮戦争は、ついに1953年7月27日、休戦協定(交渉開始から2年)が調印された。(韓国は調印を拒否した)

(注)「朝鮮戦争」という呼び名は日本だけのもので、アメリカは「The Korean War」、韓国では「韓国戦争or『6.25』」、北朝鮮では「祖国解放戦争」、中華人民共和国では「抗美援朝戦争」(美=美国=アメリカ)と呼ばれている。(出典:「図説朝鮮戦争」)

この戦争による死傷者数は、韓国軍(戦死者41万5千人・負傷者及び行方不明者約42万9千人=韓国側発表)・米軍死傷者等14万2千人(=米軍側発表)・北朝鮮人民軍(死者50万8千人・負傷者数10万人=推定・北朝鮮側未発表)・中国軍死傷者約50万人(=推定・中国側未発表)といわれる。また一般市民の犠牲者は、韓国で死傷者46万9千人、死者は少なくとも17万人(=米軍推定)といわれ、南北あわせると200万人を越えたといわれる。(出典:「昭和2万日の全記録9」講談社1989年刊)(※60年以上たった現在でも朝鮮戦争は終結せず、休戦のままである)

●日本は朝鮮戦争の兵站基地となった。国際政治の面では、日本の中立が事実上不可能となり、自由主義陣営に組み込まれる原因となった。そして日本にいたアメリカ占領軍が、そのまま国連軍の名の下に朝鮮の戦場に出動したため、マッカーサーはその穴埋めのため、日本に警察予備隊(7万5千人)の設立を命じた。
1950年8月19日、外務省は次のように発表した。

「朝鮮戦争は共産主義世界の破壊工作であり、平和を守るためアメリカと国連が立ち上がっているのであるから、日本もこれに協力すべきで、中立はありえない」

というものだった。
●事実日本は、北朝鮮が敷設した機雷除去のため、掃海艇を1950年10月中旬から年末までに、元山(16隻)、仁川・郡山など(54隻)を派遣した。そのうち1隻は、10/17機雷に触れて沈没し、船員1名が死亡した。この掃海艇派遣の事実は国民には30年間秘密にされた。
●「図説朝鮮戦争」田中恒夫 著 河出書房新社2011年刊の総括の部分を抜粋すると以下のようである。

(日本の国連軍への協力 総括 協力の概要)の一部抜粋
●・・日本は当初、在韓米軍家族の緊急避難地域、緊急派遣部隊の出撃基地、緊急補給基地、米軍及び国連軍の前線司令部としての役割を果たし、その後は作戦基地、訓練基地、兵站基地として国連軍の戦争遂行に大きく寄与したといえる。
(日本と韓国)
●日本の朝鮮戦争での基本的な協力姿勢は、東アジアの平和と安定回復のために参戦している国連軍に協力することが義務でもあり、ひいては日本の安全保障のためであるとの意識に支配され、戦火に晒されている隣国を助けるという思いは希薄であった。(日本は)・・あくまでも国連軍によって事態の終息をはかるという姿勢に終始していた。占領下にあったわが国としては致し方なかったという面はある。また国民の関心も、朝鮮の戦況は気にかかるものの、敗戦後の混乱と不安定な生活からの脱却をはかることが第一であった。
●一方韓国政府は、戦争の間日本に協力を要請することもなく、戦後も、日本と朝鮮戦争とのかかわりについて 言及することもなかった。李承晩大統領は 1952年秋、韓国に派遣されている日本人技術者や労務者を韓国人と交代させるよう国連軍司令部に要請し、国連軍司令部はこれに同意し、日本人技術者や労務者を逐次に撤収させた。このように韓国では、日本が朝鮮戦争に関わり国連軍に協力しているという事実について、国民に広く積極的に知らされることはなかった。知らせることを憚る雰囲気があったというのが正確であろう。また国民についても、現実の戦火の中で、隣国日本について考える余裕もなかったであろう。
反面、戦争の最中に、「マッカーサー・ライン」や「李承晩ライン」付近で日本漁船が拿捕されたり銃撃を受けたりした。1950年から 53年の間に拿捕116隻、死亡3名、1947年のマッカーサー・ラインの設定から 1965年に日韓基本条約と日韓漁業協定の成立によって同ラインが廃止されるまでの 18年間には、328隻の日本漁船が拿捕、8名が銃撃を受けて死亡し、3929人が抑留されている。
●朝鮮戦争の間、両国は驚くほど疎遠であった。海峡を隔てて一方は国家の存亡を賭けて戦い、一方はそれを側面から支え、朝鮮戦争に深くかかわり合いをもちながらも、敗戦からの立ち直るのに必死で隣の国に深く思いを致すことはなかったのである。これは互いに不幸なことであった。
●戦争が終わって60年近くたった現在でも、日韓両国は朝鮮戦争における互いの国の状況も実態も理解しているとはいえないように思う。韓国では、少数の研究者を除けば、朝鮮戦争において韓国は戦い抜き、その結果として日本を守ってやったという優越感と、韓国が死をもって戦っている間に、日本は特需によって一方的に儲けたという一種の妬みに似た感情がある。反面、日本が国連軍に協力するという姿勢で戦争を後方から支援したということについてほとんどの者が認識していない。
一方日本は、韓国が国連軍とともに戦い共産軍の進出を阻止したおかげで、日本の危機は免れたということを認識するものは少なく、また国連軍への協力は密かに行われたことが多く、ほとんどの人は協力の内容についても知らないことが多い。今や両国の関係は密接になり、経済ばかりでなく、人や文化の交流も盛んになってきたにも拘わらず、朝鮮戦争についてはお互いの理解は進んでいないといえる。
(朝鮮戦争が日本に及ぼした影響)
●朝鮮戦争は、占領下にある日本が予期し得ない出来事であったが、その後の日本の進路を決定づける大きな意味があったといえる。この戦争を通じて日本は、全面講和論とその延長による非武装中立論を一時的に終息させて多数講和という現実的な対応を選択し、その帰結として日米安全保障体制を確立した。また特需という経済的恩恵をて、経済復興の基礎を作り、戦前にその多くを占めていた対中貿易にかわって、米国および東南アジアという新たな市場を得た。さらに戦後活発化しつつあった共産主義イデオロギーを、共産党幹部の公職追放などによって活動を逼塞させた。こうして日本は、この戦争に対応していく中で、完全に西側の一員としての地位を確立し、冷戦構造の中にくみこまれて行ったのである。(以下略)
1950年10月24日

チベット、中国チベット進駐写真(ラサ・ポタラ宮殿、ラサの標高約3700m) 中国人民解放軍が東チベットを制圧し、チャムド戦役が終了した。中国政府は前年の建国以降、北京放送を通じ、チベットは中国の一部であるとして、チベット人民解放のため人民解放軍のチベット進駐を宣言していた。これに対してチベット政府はこれに抗議し、イギリス、アメリカ、インドに支援を求めたが、拒否されていた。
1951年 5月23日、中国・チベット両政府の代表が北京でチベット平和解放協定に調印した。これにより中国軍主力は 10月26日、首都ラサに進駐した。その後1959年3月10日、チベットでは中国からの独立を叫び武装反乱が発生し、ダライラマ14世はインドへ亡命し、チベット亡命政府を樹立した。そしてダライラマ14世は、1989年にノーベル平和賞を受賞している。


(左写真)出典:「西蔵・聖地カイラス巡礼」日本放送出版協会1985年刊
1951年3月 イラン、アングロ・イラニアン石油会社(AIOC)を国有化 国民議会がイラン原油を独占していたイギリス資本のアングロ・イラニアン石油会社(AIOC)を国有化する法案を可決した。そして10月にはAIOCはイラン国営石油会社(NIOC)となったが、石油の取引拒否など対外的な孤立化に直面していった。イランでは2年ほど前から、モサッデクを中心に国民戦線が結成され、民族運動が高まっていた。ラズマーラー首相が暗殺されると、モサッデクは首相に任命された。
1951年4月11日 アメリカ、マッカーサー解任 トルーマン大統領はホワイトハウスで異例の記者会見を行い、マッカーサー国連軍最高司令長官を解任し、後任にリッジウェー中将を任命したことを発表した。マッカーサーはトルーマン大統領と、朝鮮戦争をめぐる軍事的・政治的方針でことごとく対立し、解任された。しかしアメリカ国民は帰国したマッカーサーを熱烈に歓迎した。マッカーサーは19日の議会での演説で、『戦争においては勝利に代わるものはない』と論じ最後に『老兵は死なず、ただ消え去るのみ』と名文句を残した。
マッカーサー元帥解任時の日本国民の反応

●(左上の写真)「1945年9月27日アメリカ大使館にマッカーサー元帥を訪問した昭和天皇」 ジェターノ・フェイレイス 東京。この写真を新聞が載せると、日本政府はすぐに発売禁止にした。しかしGHQはこの処分を撤回させた。
(出典:「目撃者」朝日新聞社1999年刊)
●「1951年4月11日解任された日のマッカーサー」朝日新聞(出典:「写真記録日中戦争」ほるぷ出版1995年刊)


●ここでマッカーサー元帥解任時(1951年4月)の日本国民の反応を、「昭和2万日の全記録9」講談社1989年刊より抜粋して紹介する。そしてその後の、アメリカ上院軍事外交合同委員会聴聞会(1951年5/5)での、マッカーサーの『・・日本人は12歳』発言も紹介してみる。当時の日本人の心境はどのようなものだったのだろうか。日本を焦土とした敵であったのに、日本を救った恩人となったようである。

●マッカーサー解任のニュースは日本国民に大きな驚きを与えた。日本人にとってマッカーサーは、天皇の上に位置する支配者で、そのような存在を解任できる人間がいたのか、という驚きであった。・・(中略)・・驚きとともに、マッカーサーに対する惜別の声がわき上がった。国民大多数の反応もきわめて心情的で、解任を報ずる 4月12日の「朝日新聞」は「マックアーサー元帥を惜しむ」と題する次のような社説を掲げた。

「われわれは終戦以来、今日までマックアーサー元帥とともに生きてきた。(中略)日本国民が敗戦という未だかつてない事態に直面し、虚脱状態に陥っていた時、われわれに民主主義、平和主義のよさを教え、日本国民をこの明るい道へ親切に導いてくれたのはマ元帥であった。子供の成長を喜ぶように、昨日までの敵であった日本国民が、一歩一歩民主主義への道を踏みしめていく姿を喜び、これを激励しつづけてくれたのもマ元帥であった」。

4月15日、天皇はすでに何らの公的肩書きも持たないマッカーサーを、周囲の反対を押し切りアメリカ大使館に訪問した。吉田茂首相は「・・・天皇から一市民に至るまで、すべての日本人が貴下の別れを惜しんでいる・・・」との書簡を送った。(中略)・・マッカーサー 離日に際して「夕刊毎日新聞(現毎日新聞)」は思い入れたっぷりの記事を掲げた。

「白い雲に真赤なバターン号の機首が美しく映えていた。ああマッカーサー元帥、日本を混迷と飢餓から救いあげてくれた元帥、元帥!その窓から、あおい麦が風にそよいでいるのを御覧になりましたか。今年のみのりは豊かでしょう。それはみな元帥の5年8カ月にわたる努力の賜であり、同時に日本国民の感謝のしるしでもあるのです」。

●マッカーサーはアメリカ上院軍事外交合同委員会聴聞会(1951年5/5)で質問に答えて次のように述べた。

「アングロ・サクソン族が科学、芸術、進学、文学の点で45歳だとすれば、ドイツ人はそれと全く同じくらいに成熟しています。しかしながら日本人は、時計で計った場合には古いが、まだまだ教えを受けなければならない状態にあります。現代文明の基準で計った場合には、彼らは、我々が45歳であるのに対して、12歳の少年のようなものでしょう。教えをうけている時代の常として、彼らは新しいモデル、新しい考えに従い易いものです。そこには基本的な考え方を植え付けることができます。彼らは依然として柔軟で、また新しい考え方を受け入れられる起点に十分近いところにありました」。
*リンクします「マッカーサー元帥 帰米」NHKアーカイブス

1951年9月~
年・月 国・地域 事項
1951年9月8日 アメリカ、日本平和条約に調印。日米安全保障条約にも同日調印


発効は両条約共に翌1952年4月28日である。


●1952年4/28、GHQは廃止され日本は独立を回復した。しかしアメリカとの行政協定、台湾の国民党政府と講和、沖縄の切り離し、在日朝鮮人の外国人登録など問題は山積していた。


3日後の5/1、第23回メーデーは「血のメーデー」となり、皇居前広場(使用を禁止された)で警官による催涙ガスとピストルによる鎮圧により2名が死亡した。
日本・サンフランシスコ平和条約に調印

日本は連合国48ヶ国とサンフランシスコのオペラハウスで平和条約を結んだ。日本は首席全権の吉田茂首相が調印を行った。しかし中国は北京政府と台湾政府の争いが続いていたために招聘されず、インド、ビルマ、ユーゴスラビアの3ヶ国は出席を拒絶した。またソ連、チェコスロバキア、ポーランドは出席はしたが、平和条約は新しい戦争のための条約であるとして調印を拒否した。アメリカのねらいは、対日講和を早期に実現し、日本を親米的・反共的国家に育成することにあった。そして日本は、同日午後5時、サンフランシスコのアメリカ第6軍司令部で「日米安全保障条約」を調印した。


この「サンフランシスコ平和条約」の第2条と第3条は、21世紀現代における「北方領土」「竹島」「尖閣諸島」「南沙諸島」などの問題がおこる出発点となった条約である。これは読んでおかねばならない条約である。突き詰めればこれらの諸問題は、この条約によって日本がこの地域の関連するすべての権利、権原及び請求権を放棄したことによって生じた問題であると言える。また現代の本土の人間は忘れているが、この条約によって琉球諸島及び大東諸島は、1972年5月まで約20年間アメリカの信託統治制度の下におかれた。


また「日米安全保障条約」第3条に関する「行政協定=後の地位協定」は1952年2月に調印され発表された。この行政協定により、米軍による全国の基地化、裁判権の治外法権、免税特権、防衛負担金など各種問題が生まれる原点となったものである。

*リンクします「平和条約の締結に関する調書 第5冊」
「外務省 日本外交文書デジタルアーカイブ」
*リンクします「サンフランシスコ平和条約調印式」
NHKアーカイブス
「サンフランシスコ平和条約」と「日米安全保障条約」

「外務省 日本外交文書デジタルアーカイブ」から引用してみる。分かりやすくするため、西暦の年月日はアラビア数字に変えた。また難しい単語・地名は読みと意味を()内に補足し、黒小文字で記入した。また「日米安全保障条約」第3条に関する「行政協定=後の地位協定」は、上の外務省のページからダウンロードして閲覧して下さい(外務省専用無料閲覧ソフトをダウンロードする必要あり)。

「日本国との平和条約」

  日本国との平和条約
連合国及び日本国は、両者の関係が、今後、共通の福祉を増進し且つ国際の平和及び安全を維持するために主権を有する対等のものとして友好的な連携の下に協力する国家の間の関係でなければならないことを決意し、よって、両者の間の戦争状態の存在の結果として今なお未決である問題を解決する平和条約を締結することを希望するので、
 日本国としては、国際連合への加盟を申請し且つあらゆる場合に国際連合憲章の原則を遵守し、世界人権宣言の目的を実現するために努力し、国際連合憲章第55条及び第56条に定められ且つ既に降伏後の日本国の法制によって作られはじめた安定及び福祉の条件を日本国内に創造するために努力し、並びに公私の貿易及び通商において国際的に承認された公正な慣行に従う意思を宣言するので、
 連合国は、前項に掲げた日本国の意思を歓迎するので、
 よって、連合国及び日本国は、この平和条約を締結することに決定し、これに応じて下名(かめい=以下に記した氏名)の全権委員を任命した。これらの全権委員は、その全権委任状を示し、それが良好妥当であると認められた後、次の規定を協定した。

下

1951年12月 中国、「三反運動(195年12月)」「五反運動(1952年2月)」 中国共産党中央が、党幹部や商工業者の汚職・浪費・官僚主義の「三害」に反対する「三反運動」を全国的な大衆運動とし開始した。翌年には、贈賄・脱税など「五毒」に対する「五反運動」も展開した。これにより中国社会の積年の弊を一掃する大衆運動となった。
1952年1月18日 韓国・李承晩ラインの設定(上地図)マッカーサーライン、李承晩ラインなど(出典:「クロニック世界全史」講談社1994年刊)
韓国李承晩(イ・スンマン)大統領、海洋主権宣言を発表

●韓国は、李承晩ラインを設定し、朝鮮半島周辺海域の水産資源などに対する主権行使を通告した。このラインは、1945年に日本漁船の操業水域を指定したマッカーサーラインを拡張したものであった。そして1952年10月、韓国政府は捕獲審判令を公布施行し、李承晩ライン内の日本漁船拿捕を開始し、1964年までに326隻を拿捕、乗組員3904人を抑留した。この問題が一応の解決をみたのは、1965年の日韓漁業協定によってであった。竹島は、この李承晩ラインの韓国側に入っており、マッカーサーラインにも竹島は韓国側に入っていた。そして1952年9月に国連軍が、朝鮮戦争の韓国防衛水域を、李承晩ラインとほぼ同じ線上に設定したこともあり、韓国はそれを名目として李承晩ラインを合法化、固定化した。そしてその後韓国は、竹島に警備隊員などを常駐させ,宿舎や監視所,灯台,接岸施設などを構築していった。


(左写真)李承晩(出典:「世界の歴史16(現代)」中央公論社1963年刊


(日韓漁民の状態)当時の韓国の漁船保有数は、日本の約1/10、航海機器も十分ではなく、網も綿を使ったものが大部分であった。一方日本漁船は、各種航海機器や魚群探知機などを採用し、合成繊維漁網を使用し始めていた。

●下地図はグーグルマップだが、wordpressプラグインの「MapPress」のため、竹島・独島を「リアンクール岩礁」と表記している。左下から済州島(チェジュとう)、巨文島(コムンとう)、対馬、欝陵島(ウルルンとう)、竹島・独島である。(下のように地図を切り取ってみると、中国・韓国・日本が大変近いことがわかる)また右下の+ボタンで「リアンクール岩礁」にズームインしてから、人型ボタンでグーグルストリートにしてポイントを見ると、多くの韓国の人たちが訪れている様子が見て取れる。



①時代背景

●1952年1月は、朝鮮戦争が膠着状態となり休戦協定が前年7月から始まっていた。
●サンフランシスコ平和条約(1951年9月日本が調印)の発効が1952年4月であり、マッカーサーラインが廃止になる直前であった。
●李承晩・韓国大統領は、反共主義者でもあるが当然ながら反日であったこと。
●韓国は、対馬と竹島の領有を主張し、サンフランシスコ平和条約の中で、日本の権利放棄に対馬と竹島を含めるように、アメリカに求めていたこと。また韓国はアメリカに、前年からマッカーサーラインの継続を求めていたが、サンフランシスコ平和条約により失効することを告げられていた。
(アメリカは韓国の対馬と竹島の領有の要求を拒絶して、実際の条約は下記のようになった。しかし、日本としては、この条文の意味している「竹島は放棄する地域に含まれていない」という消極的な条文ではなく、「竹島は日本の領土である」との積極的な条文が欲しかったところであろう。)

  第二章 領域
    第二条
(a)日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島(チェジュとう)、巨文島(コムンとう)及び欝陵島(ウルルンとう)を含む朝鮮に対するすべての権利、権原(けんげん=[法]ある行為を正当化する法律上の原因。地上権・貸借権の類。)及び請求権を放棄する。
②日本の対応

この竹島問題については、外務省と「領土・主権対策企画調整室 – 内閣官房」の下記のサイトに日本の主張が述べられているので確認して下さい。また韓国の大使館の「独島」サイトには韓国の主張が述べられているので確認して下さい。

*リンクします「外務省 日本の領土をめぐる情勢「竹島」「外務省 外交政策」
*リンクします「内閣官房 竹島問題」「内閣官房 領土・主権対策企画調整室」
*リンクします「DOKDO 韓国の美しい島 独島」「駐日本国大韓民国大使館」

1952年2月~
年・月 国・地域 事項
1952年2/15 ギリシャ・トルコNATO加盟 両国は北大西洋条約機構(NATO)に加盟した。
1952年4/28 アメリカ、アイゼンハワー元帥辞任 アイゼンハワー元帥は、大統領選出馬のためNATO軍最高司令官辞任する。
1952年4/28 日本、条約発効 サンフランシスコ平和条約、日米安全保障条約が発効し、日本は独立を回復する。また日本は中華民国と日華平和条約を調印した。中華人民共和国政府とは国交を結ばない関係となる。
1952年5/1 アメリカ、ソ連圏などの旅行禁止や許可制 アメリカ政府は、中国、チェコスロバキア、ハンガリーへの旅行を禁止する。ソ連など他の共産圏への旅行を許可制とした。
1952年5/26 西ドイツ、主権回復 フランス・イギリス・アメリカが、ドイツ占領終結協定に調印し、西ドイツが主権を回復した。
1952年6/23 朝鮮半島、大規模爆撃 アメリカ軍航空機500機が、北朝鮮鴨緑江上流の「水豊ダム」を爆撃した。この、1944年3月に竣工したダムと水豊水力発電所(発電能力:60万kW)は、当時世界最大級の発電能力を誇った。(日本統治時代に建設開始、費用負担は現・チッソ、発電機は現・東芝製)
1952年7/19 フィンランド、オリンピック開幕 第15回オリンピックが、フィンランド・ヘルシンキで開幕した。
1952年7/23 エジプト革命 自由将校団(ナーセルらが指導する)がクーデターをおこし、カイロを完全制圧し、王政を打倒した。ファルーク1世国王は、退位と国外退去の求めに応じて、エジプトを去った。当初自由将校団は、ナギーブ将軍を担いだが、のちに青年将校ナーセルが台頭し1956年にエジプト大統領となり、反イスラエルとスエズ運河国有化でイギリスを撤退させたことにより、アラブ世界で高い評価を受けるようになっていく(アラブナショナリズム)。


(左写真)ナーセル大統領(出典:「世界の歴史9」J.M.ロバーツ著創元社2003年刊)
1952年8/17 モスクワ、中国とソ連協定 中国政府代表団(周恩来を団長とする)がソ連を訪問し、長春鉄道の中国返還などのの協定に調印する。
1952年10月 イギリス・イラン国交断絶> イランのモサッデク首相、石油紛争の解決案をイギリスに提示するもイギリスは拒否、国交断絶となる。
1952年11/1 アメリカ世界初の水爆実験写真(出典:世界の歴史29 中央公論新社1999年刊) ●1949年9月にアメリカ・トルーマン大統領は、ソ連の原爆実験を公表し、翌々日ソ連のタス通信もこれを認めた。ここにアメリカの核の独占は崩れ、アメリカの軍事的優位は失われ始めた。アメリカはこのことに動揺し、1950年1月原爆よりはるかに威力のある水爆を開発することにふみきった。そして1952年12月、太平洋エニウエトク環礁で水爆実験に成功した。
●しかしソ連もその9ヶ月後の1953年8月、水爆の開発に成功した。しかもその水爆は、アメリカより進んだ小型軽量の「乾式」爆弾であった。これはアメリカの65トンもの「湿式」爆弾に比べて、航空機で運搬できると推定された。
●アメリカはそれ以降、マーシャル群島やビキニ環礁で水爆実験を繰り返し行い、翌1954年3月にビキニ環礁で「乾式」爆弾の実験を行った。しかしこの水爆実験の爆発の規模は予想外大きく、ビキニ環礁の風下約1万8000kmに「死の灰」をまき散らした。その結果日本の漁船第五福竜丸は危険区域より64kmも離れていたにもかかわらず、乗組員23人全員が被爆し入院し、そのなかの久保山愛吉無線長(40)は9/23に死亡した。そしてマーシャル群島でも、危険水域外の島々で28人のアメリカ人と243人の住民が被ばくした。
1952年11/4 アメリカ大統領選、アイゼンハワー圧勝 これにより20年ぶりに共和党から大統領が誕生する。1953年1月アイゼンハワー大統領就任
1953年1月 アメリカ、新国務長官ダレス就任 新国務長官ダレスは、トルーマン政権時代の共産主義に対する「封じ込め政策」を敗北主義と批判し、「巻き返し政策」を発表した。これによりアメリカはアジア、ラテン・アメリカ地域に積極的に介入していく。


(左写真)ダレス(出典:「世界の歴史16(現代)」中央公論社1963年刊
1953年2月 タイ 中国および共産圏に対する貿易を全面的に禁止する。
1953年3/5 ソ連、スターリン首相死去


(右写真)「スターリンの棺と後継指導者たち」(出典:「クロニック世界全史」講談社1994年刊)
後継指導部として、マレンコフ党書記が首相を兼任、ベリアが内務相兼第1副首相に就任する。しかし3/14に突然マレンコフが党書記を辞任し、フルシチョフが党を指導する集団指導体制を始める。その後フルシチョフは、外相モロトフとマレンコフらと謀り、6月にベリアを逮捕し「人民の敵」として党から除名する。さらに1955年2月には、マレンコフを首相辞任に追い込んで行った。
1953年7/27 朝鮮戦争・休戦協定成立 朝鮮半島・板門店(38度線南)で、ハリソン中将(国連軍主席代表)とナム・イル(南日)大将(朝鮮民主主義人民共和国・主席代表)が、休戦協定に調印した。中国も協定内容に同意したが、韓国はこれを拒否した。この休戦は、アメリカのアイゼンハワー新政権が、東西冷戦の焦点はアジアではなくヨーロッパにあると考え、朝鮮戦争の休戦を支持したことによる。だが朝鮮民族同士の戦争は、南北の間にさらに悲惨な溝を深め、2017現在、休戦状態が続き、統一朝鮮は実現されていない。
1953年8月 イラン、クーデター アメリカCIAの援助を受けたザーヘディー将軍率いる国王派が、クーデターを起こし、民族主義を推進するモサッデク政権を打倒した。国王はモハンマド・レザー・シャーで、1926年に即位したレザー・ハーンの息子である。
1953年11月 ベトナム、フランス軍ディエンビエンフーに作戦開始 第1次インドシナ戦争で劣勢に立つフランス軍が、ハノイを側面から揺さぶるため、ラオス国境に近いディエンビエンフーに新拠点を築く作戦を開始する。
●右地図は、19世紀のフランス領インドシナ連邦の地図。「クロニック世界全史」には次のようにある。

1887年10/17。アジアでの勢力拡大を図るフランスは、カンボジアとベトナムのトンキン、アンナン、コーチシナの3地域の植民地官僚機構を統合し、フランス領インドシナ連邦を成立せた。これに先立つ1883年、84年の2次にわたるフエ条約により、フランスはベトナム南部のコーチシナを直轄植民地、北部のトンキンを保護領、中部のアンナンを保護国にしていた。

(右地図)出典:「クロニック世界全史」講談社1994年刊

第1次インドシナ戦争の概略

●右地図は、1954年7月のジュネーブ協定頃のヴェトミン(ヴェトナム独立同盟)の支配地域の拡大推移を示したものである。この地図の解説には次のようにある。


①フランス軍のカオバンならびにランソンにおける敗北(1950.10)が大きな転換点となった。


②ジュネーブ会談では、ヴェトミン側は、停戦ラインを北緯16度(17度線より南部)を主張したが、フランスと中国・ソ連の圧力により17度線となったと述べられている。


③北部ラオス国境近くが「ディエンビエンフー」である。フランス軍はこの戦いで敗北が決定的となった。
(今のベトナム北部を「トンキン」、その下から南部までを「アンナン」、最南部を「コーチシナ」といった。また南部のサイゴンは今のホーチミン市である。)


(右地図)出典:「丸善エンサイクロペディア大百科」丸善1995年刊
第1次インドシナ戦争

「ヴェトナム民主共和国独立宣言

●ここでベトナムの独立宣言を引用してみる。最初からこの戦争は、対フランス、対日本への民族独立運動であることがわかる。
(出典)「人権宣言集」岩波書店1957年刊 より一部引用

下

●朝鮮戦争が終わったのちもインドシナでは、泥沼のような戦争が続いていた。インドシナでは、日本降伏を機にヴェトミン(べトナム独立同盟)が決起して、バオダイ皇帝は退位し、1945年9月ホー・チ・ミンを指導者とするベトナム民主共和国を樹立した。

第1次インドシナ戦争
年・月 事項 内容
1946年3月 フランス、新独立国を承認ホー・チ・ミンの写真 フランスは、1946年3月の暫定協定でこの新独立国であるベトナム民主共和国を承認した。
しかしフランスは、本格交渉に入ると、コーチシナ(=フランス統治時代のベトナム南部に対する呼称。)を引き離そうと策した。そして11月には、ハイフォン(北部)の小紛争をきっかけに、これを海空から攻撃して占領した。


左写真、ヴェトナム民主共和国(北ベトナム)の大統領に就任した1954年当時のホー・チ・ミン(1892~1969年)。ホー・チ・ミンは1960年に再選され、その後10年間にわたってヴェトナム戦争で指導的な役割をはたした。(出典:「世界の歴史9」J.M.ロバーツ著創元社2003年刊)
1946年12/19 フランス武力衝突を起こす フランスはベトナム政府に対して、ハノイにいるヴェトミン全軍隊の武装解除を要求し、それをきっかけに全面的な武力衝突に突入した。
フランス軍は、1948年ごろまでは軍事的に優位であった。ホー・チ・ミン軍は劣勢で、北ベトナムの主要都市はほとんど全部フランス軍に占領されていた。しかしフランス軍は、その後のホー・チ・ミン軍によるゲリラ部隊による攻撃により、次第に守勢となっていった。
1949年3月 フランス、バオダイ政権承認 フランスは、南ベトナムにバオダイ政権を成立させ、フランス連合国内での独立を承認した。こうしてベトナムもまた南北にわかれて戦うこととなった。
1950年秋 ヴェトミン軍総反攻開始 戦況は長らく一進一退を続けていたが、中華人民共和国の成立によって、ヴェトミン軍は中華人民共和国からの援助を受けられるようになった。そしてヴェトミン軍は体勢を立て直して、1950年秋から総反攻に転じた。そして、ラオソニ、ラオカイなど中国の国境沿いの要衝を奪回し、年内に北部地帯からフランス軍を撃退した。
1953年11月 フランス・ディエンビエンフー占領 フランスはアメリカ援助のもとに、欧州のフランス軍9個大隊、増強された南ベトナム軍で、北部ディエンビエンフーを奇襲占領した。
1954年3月~5月 フランス敗北・ディエンビエンフー包囲作戦


(右写真)「ディエンビエンフーに翻る勝利の旗」(出典:「クロニック世界全史」講談社1994年刊)
ヴェトミン軍は、中華人民共和国の援助で装備の近代化を行い、1954年3/13~5/7にかけて4個師団を集中し、ディエンビエンフー包囲作戦を行い、フランスに対し決定的な勝利をおさめた。これにより戦局の大勢は決まり、6月にはフランス連合軍はトンキン・デルタ地帯に撤収し、7月にはハノイ周辺にまで退いた。
1954年7/21 ジュネーブ会議・休戦協定
ベトナム南北に分断
1954年4月からアメリカ・ソ連・イギリス・フランスの4大国とインド・中華人民共和国などアジア諸国の18ヵ国が参加して開催された。会議開催中も戦況はフランスに不利になっていった。フランスとしては、アメリカの介入を求めて大規模な反攻を行うか、譲歩して休戦するかの選択を迫られていった。事実アメリカはフランスの要請を受け、軍事介入の瀬戸際まで行ったといわれる。しかしこの泥沼のような戦争は、国際世論、フランス国内、そしてインドをはじめ東南アジア諸国の平和を願う真剣な努力によって、1954年7月21日休戦協定が調印され停戦した。このベトナム休戦協定では、1956年7月に統一総選挙の予定だったが、これは実現せず、北緯17度線を境界として北にベトナム民主共和国、南にベトナム共和国ができて敵対することになった。この協定には、アメリカと南ベトナム・ゴ・ディン・ジェム政権は、調印を拒否した。
●そして1961年1月、第35代アメリカ合衆国大統領にジョン・F・ケネディが就任すると、アメリカは南ベトナム軍事顧問団の増強を行い、ついにベトナム戦争(第2次インドシナ戦争)を引き起こした。

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