(歴史)簡易世界通史・20世紀後半(1945年~1999年)①ナチスドイツ、大日本帝国、イスラエル

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●上左写真は「朝鮮戦争」「国連軍に助けを求める難民 1950年9月16日 バート・ハーディ 韓国」
●上右写真は「ベトナム戦争」「米軍の爆撃を逃れて川を渡る親子 1965年9月6日 沢田教一(UPI 南ベトナム・クイニョン)」この写真は『安全への逃避』と題されたもので、ハーグ第9回世界報道写真コンテスト大賞、アメリカ海外記者クラブ賞、ピューリッツァー賞を受賞したものである。沢田は1970年プノンペン(クメール・ルージュ・カンボジア)で殺害された。(享年34歳)(出典:「目撃者」朝日新聞社 1999年刊)

*リンクします「カメラマン・サワダの戦争」NHKアーカイブス
第2次世界大戦後、多くの戦争・紛争・独立・分断が起きた。思想的にも社会主義・共産主義が大きな力をもち、そして世界は、民族主義の独立のうねりの中で、ソ連とアメリカを中心に対立を極めた。
●1945年~1999年頃までの大きめな出来事を列挙するだけでも以下のようになる。日本が世界史に積極的に関わることはなかった。しかし日本人が知らなくても、すべてが現代に繋がる同時代史の出来事である。下は1945年からわずか55年間の出来事の一部分を列挙したもの。
●国際連合憲章調印(連合国50ヵ国)●ベトナム民主共和国独立宣言(30年におよぶベトナム戦争の始まりである)●中国国共内戦●アメリカ「マーシャルプラン」「赤狩り」●インド・パキスタン分離独立●ガンディー暗殺される●パレスチナ分割・イスラエル建国・第一次中東戦争勃発●ソ連西ベルリン封鎖・東西ドイツ分離独立●韓国・北朝鮮分離独立●NATO北太平洋条約機構発足●ソ連原爆実験成功●中華人民共和国建国●朝鮮戦争勃発●日本サンフランシスコ平和条約に調印●エジプトクーデター(ナーセル))●アメリカ・アイゼンハワー大統領就任とダレス国務長官●ソ連スターリン死去●アルジェリア独立戦争勃発(アルジェの戦い)●ソ連「ワルシャワ条約調印」●ハンガリー動乱●アフリカ初ガーナ独立

下

●世界簡易通史20世紀後半(1945年頃~1999年頃)①
この①では、最初に、第2次世界大戦終結にあたり、ファシズムのこと、共産主義のことを記述した。そしてイスラエル建国までのアラブの歴史を記述してみた。特に中東の歴史は、オスマン帝国の崩壊、植民地支配(石油利権・スエズ運河、イギリスとフランスの委任統治)、民族独立問題、宗教問題、パレスティナ問題などが複雑にからみあい、一般論では理解できない歴史である。参考としてここでは、「世界の歴史8・9・10」J.M.ロバーツ著創元社2003年刊、「世界の歴史29(冷戦と経済繁栄)」中央公論新社1999年刊、「世界の歴史16(現代)」中央公論社1963年刊、「クロニック世界全史」講談社1994年刊、「丸善エンサイクロペディア大百科」丸善1995年刊、「エルサレムは誰のものか」平山健太郎著日本放送協会1992年刊、などを参考とし引用もおこなった。

目次
ピックアップした項目 内容
ドイツ・ヒトラーのナチズム ヒトラー「わが闘争」、映画「シンドラーのリスト」、ダ―ウインの「種の起源」、ニーチェ「ツァラツストラはかく語りき」
日本のファシズム。アジア・太平洋侵略 日本軍の戦争犯罪「極東国際軍事裁判」判決文 第4 B部 第8章 通例の戰爭犯罪(一部引用)
ドイツ、日本の平和への誓い R.ヴァイツゼッカードイツ連邦議会演説、日本国憲法前文
「鉄のカーテン」「東西冷戦」 チャーチルの対ソ警戒。スターリンの反論。
共産主義国の憲法と前文 「ソヴェト社会主義共和国同盟憲法」と「ロシア憲法前文等」「中華人民共和国の憲法前文」
日本と中国の国交回復 日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明
「トルーマン・ドクトリン」「マーシャル・プラン」 (西)経済協力機構(OEEC)対(東)経済相互援助会議COMECON(コメコン)
「パレスティナ分割とイスラエル建国」 イスラエル建国(1948/5/14)までの「エルサレム」の歴史と中東の歴史(概略)

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第2次世界大戦終結(1945年~)歴史年表(世界の動き)

1945/1/1~
年・月 国・地域 事項
1945年1/1 ポーランド ポーランド国民解放委員会がルブリンで臨時政府と改称する。1/3ソ連はルブリン政府を承認し、1/17ワルシャワを解放する。
1945年1/9 フィリピン アメリカ軍ルソン島に上陸し、3/3マニラを完全占領する。
1945年1/20 ハンガリー ハンガリーはソ連に無条件降伏し、新政権ドイツに宣戦布告する。
1945年1/27 ポーランド ソ連軍アウシュヴィッツ強制収容所を開放する。
1945年2/4 ソ連邦、ウクライナ
左からチャーチル、ルーズベルト、スターリン。
米英ソ首脳ヤルタ会談を開く。(大戦後の国際秩序を規定した重要な会談。戦後処理、ソ連対日参戦、国際連合設立など)sengo014(右写真出典:「昭和2万日の全記録・第7巻」講談社1989年刊)
1945年3/12 ドイツ
an1131a(写真出典右記と同じ)
ベルゲン・ベルゼン強制収容所で「アンネの日記」のアンネ・フランク(16歳)が死亡する。彼女の姉も数日前に死亡した。下に「悲劇の少女アンネ」シュナーベル著 久米穣訳 偕成社1968年初版1994年改訂2版10刷より、最後のところの「オットー・フランクの言葉」を引用する。

・・そのようなとき、オットーは、よく招待され、日記に出ていないアンネのエピソードなどを、話してくれとたのまれた。
 もちろん、オットーはこころよく応じた。だが、おわりにちかくなると、オットーは表情をひきしめて、こう話した。

下

1945年3/22 エジプト・カイロ アラブ連盟成立。エジプト王国、トランス・ヨルダン王国、シリア王国、レバノン共和国、サウジアラビア王国、イラク王国、イエメン王国はアラブの連携を目指した。
1945年3/30 西ヨーロッパ ソ連軍、ポーランドのダンツィヒを占領し、ハンガリーからオーストリアに進撃し、4/13ウイーンを占領する。
1945年4/1 日本 アメリカ軍沖縄本島に上陸を開始する。
1945年4/12 アメリカ ルーズベルト(ローズヴェルト)大統領が急死する。トルーマンが第33代大統領に就任する。ルーズベルトの死と、チャーチルの首相交代は、第2次世界大戦の戦後処理に大きな影響を与えたとされる。
1945年4/25 ドイツ
右写真(出典:「写真記録日中戦争」ほるぷ出版1995年刊
エルベ川のトルガウでアメリカ軍とソ連軍が出会う。(エルベの誓い)doitu001
1945年4/28 イタリア ムッソリーニ銃殺される。レジスタンスが勝利しパルチザン部隊がムッソリーニを銃殺し、4/29ミラノのロレッタ広場で愛人ペタッチらとともに死体が逆さづりにさらされる。
1945年4/30 ドイツ・ベルリン アドルフ・ヒトラーと愛人エヴァ・ブラウンが総統地下壕で自殺した。その後直ちにガソリンをかけて燃やされたが、数時間後にソ連軍の侵攻を受け、遺体はソ連軍に回収されたという。ネオナチの聖地になることを恐れたソ連は、完全に全てを秘匿して処置したとされる。
1945年5/2 ドイツ
右写真(出典:「昭和2万日の全記録・第7巻」講談社1989年刊
ソ連軍ベルリンを占領する。sengo011上写真「4/22ベルリン陥落の日、ドイツ国会議事堂の上に赤旗を立てるソ連兵」
●朝日新聞「目撃者」では1945年4/30撮影とある。
1945年5/7 フランス、ランス ドイツは西側連合国軍(アイゼンハワー将軍司令部)に対して降伏文書を調印する。5/9ドイツはベルリン・ソ連軍司令部において、ソ連軍に対して2度目の降伏調印をおこなう。6/5ベルリン協定(アメリカ、イギリス、フランス、ソ連)を結び、ドイツ4分割を決める。
パリ解放とドイツ降伏を祝うニューヨーク
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(上左写真)パリ解放後シャンゼリゼ通りを行進するアメリカ兵士たち。1944年08月29日 AP/WWP パリ
(上右写真)ニューヨークのタイムズスクエアでドイツの無条件降伏を祝う米市民たち。1945年05月07日AP/WWPニューヨーク(出典は共に:「目撃者」朝日新聞社1999年刊)

ドイツ・ヒトラーのナチズムの思想
●自由主義諸国(アメリカやイギリスなど)と社会主義国(ソ連邦)が共同して戦ったのはヒトラーのナチズム(ファシズム)であった。ナチス・ドイツは、当時ヨーロッパ各国にいたユダヤ人900万人のうち、500万人から600万人を、強制収容所でその多くを大量虐殺した。1942年ナチス・ドイツは、最重要政策であるユダヤ人の排斥・迫害に関する「最終解決」を「ヴァンゼー会議」で決定した。これは具体的な実務レベルの最終決定であり、これによりナチス・ドイツは、組織的ユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)を決定し実行に移した。
(親衛隊≪SS≫のアイヒマンは、この「最終解決」であるホロコーストに関与し、ユダヤ人数百万人の強制収容所移送の中枢を担ったが、敗戦時逃亡に成功しアルゼンチンに潜伏した。しかしイスラエルの執念の追跡により、ついに1960年イスラエル諜報特務庁≪モサド≫により逮捕連行され1962年イスラエルで処刑された。)
日本はこのようなナチス・ドイツと同盟を結んだ。日本はヒトラーのナチズムの思想を知っていたのだろうか?日本は極東で孤立し、西洋にコンプレックスをもっていたとはいえ、ファシズムとヒトラーの狂気を容認したドイツと同盟を結んだということは、日本もまたアジアに対しては差別的民族意識を持つファシズムの国であったということである。明治維新以来、積極的に西洋文明を取り入れ独立を保った日本は、アジアにおいて優越意識と選民意識をもった国となってしまったのであろう。

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(上左写真)ナチス・ドイツの国章の間を上る独裁者アドルフ・ヒトラー 1934年10月 撮影者不明 ドイツ・バッケンベルク
(上右写真)ワルシャワ(ワルシャワ・ゲットーでは、5万6000人のユダヤ人が殺された)1943年4月 撮影者不明 ポーランド・ワルシャワ。(●これらは映画の1シーンではない)(出典:「目撃者」朝日新聞社1999年刊)

●ここで、
①アドルフ・ヒトラーの「わが闘争」から、「民族と人種」の中から「文化の創始者としてのアーリア人」の一部を引用してみる。このなかでは「日本人」についても書かれている。日本では、日独伊3国同盟に影響を与えるとして、この部分の和訳をカットしたとある。

(訳注:アーリア人とは、ヨーロッパの大部分、小アジア、ペルシャ、インド、アフガニスタン地方に住むインド・アーリア語を話す人種のこと。ナチズムではとくにユダヤ人を区別して用いる。たとえばアーリア化といえば、官庁や実業界からユダヤ人を追放することであった。ついでに語源的にみれば、アーリアとはサンスクリット語で、「高貴な」だとか「貴族」という意味がある。)
「わが闘争」「文化の創始者としてのアーリア人」の一部
●ヒトラーは狂信的な反ユダヤ主義者でアーリア人至上主義者であった。だからこの文章の後に続くユダヤ人に対するゆがんだヒトラーの憎悪を読むと、ホロコーストが最初から計画されたものだとわかる。ヒトラーは狂信的確信犯であり虐殺者であった。(出典)「わが闘争」アドルフ・ヒトラー著 平野一郎・将積茂 訳 角川書店1973年発行 1995年29刷
 文化の創始者としてのアーリア人種
 どの人種あるいは諸人種が人間の文化の最初のにない手であったのか、したがってまた、われわれが人間性という言葉ですべて包括しているものの実際の創始者であったのか、という点について争うことはむだな企てである。現代において、この問いを立てるのはより簡単であり、この場合、答えもまた容易に出てくるし、また明白でもあるのだ。われわれが今日、人類文化について、つまり芸術、科学および技術の成果について目の前に見出すものは、ほとんど、もっぱらアーリア人種の創造的所産である。

下

②次に映画「シンドラーのリスト」からゲットー(ユダヤ人強制隔離区域)での1シーンを紹介する。YouTubeには数多くの強制収容所の記録がアップされている。なぜそうかといえば、事実を公開しなければ、必ず誰かが隠蔽し、あるいはねつ造だと言い張るからである。真実を公開することは、生きている人間のためではなく、無残にも死んでいった死者のためにあるからである。

「シンドラーのリスト」スティーヴン・スピルバーグ監督1993年アメリカ映画

●この映画の1シーンを紹介する。( flash動画14.5MB)ポーランドのゲットーに隔離されていたユダヤ人達(ダビデの星の腕章)が強制収容所に強制移送させられていく1シーンである。この映画は、一度は見なければならない作品である。(これはアメリカ映画である)
(音量ボタンを小にしてから、再生して下さい。)星野。


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③次に19世紀半ばに発表されたダ―ウインの「種の起源」の一節を引用する。宗教・哲学・政治思想など全てにおいて多大なる影響を与え続けている。当然ながら進化論もヒトラーの思想に影響を与えたことであろう。
(出典:「種の起源(下)」ダ―ウイン著 渡辺政隆訳 光文社2009年 発刊 )

「種の起源」から「要約と結論」の「結論」の部分

結論
 種の起源に関して本書で述べた見解もしくはそれに類似した見解が一般に受け入れられれば、自然史学に相当規模の革命が起きるだろうとおぼろげながら予測できる。分類学者の仕事の進め方が現在と変わることはない。ただ、この種類やあの種類はほんとうは種なのかどうかという漠とした疑念に始終さいなまれずにすむようになる。私の経験から言って、これは間違いなく大きな救いとなる。

下

④次に哲学者ニーチェの「ツァラツストラはかく語りき」から「超人思想」の一部分を引用する。ヒトラーはニーチェの思想に大きく影響されたともいわれるが、ニーチェがドイツ民族を「超人」であるなどとはいってはいない。

「ツァラトゥストラかく語りき」から一部引用
●ニーチェの哲学がわかるはずもないが、若者にとっては魅力があることだろう。もしこの本を知っていればのことではあるが・・。(出典)「ツァラトゥストラかく語りき」ニーチェ著 竹山道雄訳 新潮社 1953年発行1984年45刷 

ツァラトゥストラは群集を見、訝り、つぎのように語った。―――――人間は、獣と超人との間に張りわたされた一條の綱である。―――――一つの深淵を越ゆる一條の綱である。
渡りゆくも危く、途上にあるも危く、後(しりえ)を見るも危く、戦慄するもはた佇立(ちょりつ=たたずむ)するも危い。
人間が偉大なる所以(ゆえん)は、彼が目的にあらずして、橋梁たるにある。人間にして愛されうべき所以は、彼が一つの過渡たり、没落たるにある。

下

⑤最後にリヒャルト・ シュトラウスの「ツァラツストラはかく語りき」の有名な曲の一部をYouTubeから紹介する。映画『2001年宇宙の旅』やTVCMでも使われている。「未知なる高みから出現する何者かを待ち望む高揚した感情」を表現しているのだろうか。

「ツァラトゥストラはかく語りき」
(出典:YouTube「ジュゼッペ・シノーポリ指揮 ドレスデン国立歌劇場管弦楽団」)


(ボリュームスライダーを調整してから再生して下さい)

1945/6/26~
年・月 国・地域 事項
1945年6/26 アメリカ、サンフランシスコ
(右写真)6/26開かれた式典で、イギリス駐米大使が調印している場面。(出典)「世界の歴史9」J.M.ロバーツ著創元社2003年刊
国際連合(国連)憲章に調印

連合国50ヶ国が国際連合(国連)憲章に調印した。ポーランドはその後調印し原加盟国(51ヶ国)となった。国際連合には、安全保障理事会(11ヶ国)などが設置され、常任理事国はアメリカ、ソ連、イギリス、フランス、中国(中華民国)の5ヶ国がなり、拒否権を持った。日本では「国際連合」と呼ぶが、この名称は、対枢軸国(日本・ドイツ・イタリアなど)に対する「連合国」を言い換えたもので、新しい組織が生まれたわけではない。だからいまだにドイツ・日本などに対する「敵国条項」が残っている。
日本人は感覚的に「国際連合」は中立公正の決議を行う場所と思っているが、現実は5大国が拒否権を持つがために「決議する場所」ではなく「審議の場を提供する場所」となった。しかしこれにより、全世界が情報を共有し「国際世論」が形成されるようになり、大国の横暴にも歯止めがかかるようになって行くと、期待されている。koku001

「敵国条項の例」第53条第1項後段(安保理の許可の例外規定)は、「第二次世界大戦中に連合国の敵国だった国」が、戦争により確定した事項に反したり、侵略政策(ファシズム、覇権主義)を再現する行動等を起こしたりした場合、国際連合加盟国や地域安全保障機構は安保理の許可がなくとも、当該国に対して軍事的制裁を課すこと(制裁戦争)が容認され、この行為は制止できないとしている(出典)ウイキペディア
1945年6/28 ポーランド ポーランドに国民統一臨時政府が成立する。
1945年7/16 アメリカ ニューメキシコ州アラモゴードで人類初の原爆実験に成功する。
1945年7/17 ドイツ トルーマン(アメリカ)、チャーチル(イギリス)、スターリン(ソ連)によるポツダム会談が始まる。会談の後半はチャ-チルから労働党アトリー首相に変わった。トルーマンはスターリンに、異常な破壊力を持つ新兵器(原爆)の保有をつげた。スターリンも、チャーチルも「戦争終結のため日本に対して使用すること」は賛成であると答えたという。
1945年8/6 日本 アメリカ、広島に原爆投下、8/9長崎に原爆を投下する。
広島と長崎の原爆「昭和ニッポン」1億2千万人の映像 講談社DVDBOOK

動画・出典:「昭和ニッポン」2005年発行(第1巻)一部紹介( flash動画6.9MB)
(アメリカ軍が上空から撮影した有名な動画。広島の最初の画像のブレは、原爆の衝撃波によるといわれる)
(音量ボタンを小にしてから、再生して下さい。)星野。


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1945年8/8 満州 ソ連、日本に宣戦布告し満州などに極東軍が侵攻を開始する。
1945年8/14 ソ連・中国 モスクワにて、ソ連と中国国民政府が、中ソ友好条約を締結する。
1945年8/15 日本 8/14日本は連合国にポツダム宣言受諾を通知し、8/15天皇が受諾したことを国民に放送。
1945年8/17 インドネシア ジャカルタでスカルノ(大統領)インドネシア独立を宣言。しかし旧宗主国オランダはこの宣言を認めず、以後4年間の独立戦争となる。
1945年8/24 朝鮮半島 ソ連軍8/8侵攻以来各地を転戦後、ついに平壌に進駐し市民の歓迎を受ける。
1945年9/2 日本 日本、東京湾アメリカ戦艦ミズリー号上で、降伏文書に調印する。日本政府代表は重光葵外相(58歳)と軍部代表梅津美治郎参謀総長(63歳)が署名し、連合国軍総司令部(GHQ)の最高司令官マッカーサー元帥(65歳)が連合国を代表して署名した。以下、アメリカ、中国、イギリス、ソ連、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランドの順に署名した。ここにアジア・太平洋戦争が正式に終結した。

日本のファシズム。アジア・太平洋侵略。
●ドイツのナチズムだけを述べているのは不公正だろう。日本のアジア各国への侵略と殺りくに、正義はあったのだろうか。日本は降伏前に全土を爆撃され、最後に人類初の原子爆弾まで落とされ、全土は焦土となった。だからといってそのことが免罪符になるわけではないし、まして過去を帳消しにできるわけではない。下の写真は中国の南京と平頂山の写真の一部である。

(上左写真)南京大虐殺「揚子江岸に打ち上げられた死体」(岩波書店)(出典:「昭和2万日の全記録第4巻」講談社1989年刊)
(クロニック世界全史(講談社1994年刊)では「揚子江の岸辺に打ち上げられた死体。敗残兵掃討を名目に無差別に殺害するという日本軍の蛮行は、日本史上、消しがたい汚点となる。」と書かれている)
(右写真)中国「平頂山受難同胞記念碑」(出典:写真記録 日中戦争ほるぷ出版1995年発行)

●日本軍の戦争犯罪は「極東国際軍事裁判」で明らかにされ、日本人は初めてこの事実を知った。この判決では、日本が中国との戦争を「戦争」ではなく「事変」とすることで、戦時捕虜や民間人に対する行為を「戦争法規」外として正当化したことが示されている。そして日本軍の戦時捕虜や一般の民間人に対してのおぞましい蛮行が明らかにされている。日本人として読むに堪えない部分ではあるが、アジア各国に立てられている数多くの「同胞受難碑」が、この日本軍の行為が厳然たる事実であることを証言している。(注:戦争法規=戦争状態においてもあらゆる軍事組織が遵守するべき義務を明文化した戦時国際法)
「東京裁判」が勝者による裁判であったことは事実であろう。しかし日本人が直視しなければならないのは、「戦争をしたことに対する平和の罪」の問題ではなく、「戦争法規」すら眼中になかった日本軍の実態が証言されているこの部分である。ここは読んでおかねばならない。日本人は初めて「東京裁判」で「皇軍」の真実を知った。下に「東京裁判・判決文」から一部を引用してみる。「平頂山事件」「秋田花岡事件」と「南京虐殺」が述べられている。(なるべく旧漢字は新漢字にし、振り仮名と意味も記入した)
極東国際軍事裁判所判決. 第4 B部 第8章 通例の戰爭犯罪(一部引用)

通 例 の 戦争 犯 罪
●(残虐行為)
 すべての証拠を慎重に検討し。考量した後、われわれは、提出された多量の口頭と書面による証拠をこのような判決の中で詳細に述べることは、実際的でないと認定する。残虐行為の規模と性質の完全な記述については、裁判記録を参照しなければならない。
 本裁判所に提出された残虐行為及びその他の通例の戦争犯罪に関する証拠は、中国における戦争開始から1945年8月の日本の降伏まで、拷問、殺人、強姦及びその他の最も非人道的な野蛮な性質の残忍行為が、日本の陸海軍によって思うままに行われたことを立証している。数ヵ月の期間にわたって、本裁判所は証人から口頭や宣誓口述書による証言を聴いた。これらの証人は、すべての戦争地域で行われた残虐行為について、詳細に証言した。それは非常に大きな規模で行われたが、すべての戦争地域でまったく共通の方法で行われたから、結論はただ一つしかあり得ない。すなわち、残虐行為は、日本政府またはその個々の官吏及び軍隊の指導者によって、秘密に命令されたか、故意に許されたかということである。

下

極東国際軍事裁判所判決. 第4 B部 第8章 通例の戰爭犯罪 極東国際軍事裁判所 編 1948年刊  
国立国会図書館デジタルコレクション
「東京裁判判決 : 極東国際軍事裁判所判決文」極東国際軍事裁判所 編 毎日新聞社1949年刊
国立国会図書館デジタルコレクション

第2次世界大戦の犠牲者推計(飢饉や病気の被害者含む)

●推計であっても、次のポイントは知っておかねばならないと思う。
①人口の比率から見ると「ポーランド」が最も多くの犠牲者を出した。560万人~580万人(全人口の15%以上)がドイツ軍に殺され、そのうちの1/3以上はユダヤ人だといわれる。
②ソ連邦が最大の犠牲者を出したといわれる。2660万人で全連邦人口の13%以上。
③ユダヤ人の犠牲者は、当時ヨーロッパ各国にいた900万人のユダヤ人のうち、500万人から600万人が犠牲となり、ナチスによる強制収容所でその多くが虐殺された。そして強制収容所ではロマ(ジプシー)、身体障害者・精神障害者、ソ連兵捕虜、スラブ人らも虐殺された。
④中国の日中戦争犠牲者(1937年-1945年)は、1985年の共産党政権発表(抗日勝利40周年)によれば軍民死亡者2100万人。1995年発表では、軍民死傷者数を3500万人とした。(飢餓・病気・餓死による死傷者も含まれるのであろう)


ドイツ、日本の平和への誓い
●日本人は国民性のためか、思っていてもその心情を吐露する演説を行う政治家は少ない。だがドイツ人は次のように心情を述べた。1985/5/8ドイツ連邦議会でのヴァイツゼッカー大統領の演説である。下にその一部分を引用してみる。良識ある大部分の日本人も、同じことを心に刻んでいると私は信じる。
R.ヴァイツゼッカー1985/5/8ドイツ連邦議会演説(一部引用)

(前略)・・・暴力支配が始まるにあたって、ユダヤ系の同胞に対するヒトラーの底知れぬ憎悪がありました。ヒトラーは公けの場でもこれを隠しだてしたことはなく、全ドイツ民族をその憎悪の道具としたのです。ヒトラーは1945年4月30日の(自殺による)死の前日、いわゆる遺書の結びに「指導者と国民に対し、ことに人種法を厳密に遵守し、かつまた世界のあらゆる民族を毒する国際ユダヤ主義に対し仮借のない抵抗をするよう義務づける」と書いております。
 歴史の中で戦いと暴力とにまき込まれるという罪---これと無縁だった国が、ほとんどないことは事実であります。しかしながら、ユダヤ人を人種としてことごとく抹殺する、というのは歴史に前例を見ません。この犯罪に手を下したのは少数です。公けの目にはふれないようになっていたのであります。しかしながら、ユダヤ系の同国民たちは、冷淡に知らぬ顔をされたり、底意のある非寛容な態度をみせつけられたり、さらには公然と憎悪を投げつけられる、といった辛酸を嘗めねばならなかったのですが、これはどのドイツ人でも見聞きすることができました。シナゴーグの放火、掠奪、ユダヤの星のマークの強制着用、法の保護の剥奪、人間の尊厳に対するとどまることを知らない冒涜(ぼうとく)があったあとで、悪い事態を予想しないでいられた人はいたでありましょうか。

下

●一方の日本では、GHQ(連合軍総司令部)の強力な指導により、民主主義憲法である「日本国憲法」を公布(1946年11/3)することができた。今なお押しつけ憲法であるとの論議が起こるのは、当時の日本の政府、与野党、憲法学者のすべてが、「民主主義」の理念や本質を理解していなかったことが背景にはあった。しかし日本国民は恒久の平和を念願し、この平和憲法を選んだ。そして日本国民はこの憲法前文のなかで、決意を込めて誓っている。その前文を下記に引用する。(出典)「世界は『憲法前文』をどう作っているか」中山太郎編 ティビーエス・ブリタニカ2001年刊
「日本国憲法前文」

日本国憲法前文

 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。

下

GHQ作成・新憲法啓発ポスターsengo001a
(上写真)GHQが作成した新憲法啓発のためのポスター。わかりやすい図柄で新憲法の内容を説明している。(写真・毎日新聞社)(出典:「昭和2万日の全記録第7巻」講談社1989年刊)

1945/9/2~
年・月 国・地域 事項
1945年9/2 ベトナムbeto003(上写真)ホー・チミン(初代主席)(右)1945年8月19日ハノイで開かれた大集会。ベトナム全土にフランスと日本に対する蜂起がおこった(8月革命) ベトナム民主共和国独立式典が、ハノイのインドシナ総督官邸前のバディン広場で開催される。ホー・チミン(初代主席)が独立宣言を読み上げた。しかしフランスはこれを認めず、9/23ベトナム南部に侵攻を開始した。beto002(左と上写真、出典:「写真記録日中戦争」ほるぷ出版1995年刊
1945年11/20 ドイツ ニュルンベルクで、ナチス戦犯(戦争犯罪人)に対する国際軍事裁判が開廷した。翌1946年9月30日と10月1日に判決が出る。空相ゲーリング、外相リッベントロップら12名に絞首刑、総統代理ヘスら3名に終身刑の判決が出る。戦争犯罪裁判は史上初めてであった。
1945年11/29 ユーゴスラビア 王政を廃止し、連邦人民共和国となる。
1946年1/10 イギリス 第1回国連総会が51ヶ国参加によりロンドンで開幕する。
1946年1/10 中国・延安
(右写真)(出典:『クロニック世界全史』講談社1994年刊)(「世界の歴史」中央公論1963年刊によれば写真は重慶とあり、左から周恩来、マーシャル元帥、朱徳将軍、蒋介石、毛沢東とある。)しかし蒋介石ではなさそうである(私見)。
アメリカ・マーシャル特使の斡旋により国民党と共産党が内戦の停止に合意する。しかし3月には東北で再び戦闘を開始する。このマーシャル特使仲介(1月~2月)による、国民党と共産党の政協会議は成功して、中国民衆に抗日戦勝利につぐ希望を与えた。にもかかわらず、その後国民党は政協会議の決定を覆し武力衝突を起こした。tyuu002
1946年2/8 朝鮮半島 北部にて政府に準ずる北朝鮮臨時人民委員会が設立され、金日成(キム・イルソン)が委員長になる。
1946年2/15 アメリカ 世界最初のコンピュータ(ENIAC)が、ペンシルバニア大学で完成する。1951年にはENIAC研究グループのノイマンらによって、さらに進化したコンピュータが作られた。
1946年2/20 ソ連 ソ連、ヤルタ秘密協定のもとづき千島列島、南樺太の自国への編入と、この地域の施設の国有化を宣言する。
1946年2/24 アルゼンチン 反ペロン派の蜂起により幽閉されていたペロンが、大統領選挙で圧勝してアルゼンチン大統領となる。
1946年3/6 ベトナム フランスがベトナム(北部)とハノイ協定を結び、フランス連合内での「ベトナム民主共和国」の自治を承認する。しかしその後南部の帰属などを巡って交渉が決裂し、12月にハノイで軍事衝突が起きる。
1946年3/5 アメリカ イギリス前首相チャーチルがミズリー州で演説を行い、ソ連の東欧支配(共産党による勢力拡大・政権支配)を「鉄のカーテン」という言葉で非難し、「対ソ警戒」喚起した。
1946年5/3 日本 極東国際軍事裁判(東京裁判)が東京市ヶ谷の旧陸軍士官学校大講堂で開かれた。

(注)(連合国は、「東京裁判」が始まる前、日本が占領していた地域で、戦争犯罪人を逮捕し軍事裁判を行った。マニラ、シンガポール、ラバウル、モロタイ、バタビア、メナド、グァム、サイゴン、北京、上海、南京、香港、横浜など計50ヵ所に法廷が設置され、件数2244、被告は5700人にのぼった。「東京裁判」がA級戦犯≪=分類上のくくりで罪の重さを示すものではない≫を被告としていたのに対し、海外で行われた裁判の被告は、戦争法規違反の現地責任者や、非戦闘員に加えられた殺人、虐殺、奴隷化もしくは人道に対する犯罪者で、BC級の戦犯者であった。死刑984名、無期475名、有期2944名、無罪1018名など、東京裁判よりはるかに多くの軍人・軍属らが裁かれた。)
1946年5/25 ヨルダン トランス・ヨルダン王国がイギリスの承認を得て独立を宣言する。
1946年6/1 ベトナム フランスがベトナム南部にコーチシナ共和国臨時政府を樹立する。7/6ベトナム民主共和国は、パリ郊外フォンテンブローでの会議でフランスに抗議する。
1946年6/2 イタリア 国民投票の結果王政を廃止し共和政をしくことを決定。6/18共和国を宣言する。
1946年7/1、7/25 中部太平洋マーシャル群島
右写真(出典:「昭和2万日の全記録・第7巻」講談社1989年刊)
アメリカ、ビキニ環礁で原爆実験を行う。sengo004
1946年7/4 フィリピン フィリピン48年ぶりに共和国としてアメリカから独立する。
1946年7/12 中国 国民党軍と共産党軍が衝突し内戦となる。「一致抗日」を掲げてきた両軍は、日本の降伏後に衝突を起こした。1月にアメリカの斡旋による停戦協定が結ばれたが、7月国民党軍50万人が、共産党が支配する解放区に対して攻撃を開始した。
1946年7/29 パリ 日本とドイツを除く旧枢軸国(5ヶ国=イタリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、フィンランド)と連合国(21ヶ国)との間でパリ平和会議が開かれる。
1946年8/16 インド 7月からヒンドゥー勢力とムスリム連盟(イスラム教徒)との対立が激化する。カルカッタの衝突では5万人に達する死者がでる。9/2には国民会議派による「中間政府」が樹立されネルー(57)が首相に就任する。
1946年11/3 日本 日本国憲法が公布される。施行は1947/5/3
日本国民は恒久の平和を念願し、平和憲法を選んだ。
1946年11/4 パリ ユネスコ憲章が発効し、国連教育科学文化機関(ユネスコ)が発足する。
1946年12/14 アメリカ 国連本部をニューヨークに設置することを決定。ジョン・ロックフェラー2世が、現在の場所の購入費用を提供することを申し出たため現在の場所に決定したという。
1946年12/20 ベトナム ホー・チ・ミン国家主席が、フランスの再侵略に対して徹底抗戦を全国民に呼びかけた。フランスは「植民地」インドシナの権益を放棄するつもりは無く、ベトナム独立同盟(ベトミン)に対する攻撃を開始し、サイゴン(現ホー・チ・ミン市)を占領し、第1次インドシナ戦争(1946年~1954年)に突入した。
「ヨーロッパ鉄のカーテン」「東西冷戦」

●第2次世界大戦終結後すぐにヨーロッパでは共産党が躍進し、特に東ヨーロッパ諸国では王政の廃止と共和国宣言が続いた。1946年3月にイギリス前首相チャーチルが、このソ連の東ヨーロッパの支配を憂慮し「鉄のカーテン」と非難して対ソ警戒を喚起した。内容は下記のようである。

「ソ連の脅威は文明に対する挑戦であり、手遅れにならぬうちにできるだけ早く自由と民主主義をすべての国に確立しなければならない・・。」

と主張しアングロ・サクソンの団結を呼びかけた。
●これに対してソ連のスターリンは、次のように述べた。

「チャーチル演説は、連合国内に不和の種をまき、協力をいっそう困難にする危険な行動であり、世界の平和と安全を脅かすものだ」

と非難した。
●このような連合国内の対立が表面化した大きな理由は、アメリカ・ルーズベルト大統領が急死し、対ソ連協力路線が変更されたことが大きな要因とされる。ルーズベルト大統領は、アメリカ・イギリス・ソ連の密接な協力のみが、平和秩序の土台となると考えていたからである。チャーチルの後を継いだ労働党のアトリー内閣は、当初は労働党であるが故に、共産党のソ連との関係を楽観視していたが、まもなくソ連に対して猜疑心を抱くようになり、アメリカに同調するようになった。
●そして西側諸国のソ連に対する不安と脅威は、戦後1年をへずしてはっきりとソ連に対する対立となり、世界はアメリカ・イギリス対ソ連という構図で「東西冷戦」の時代を迎えていった。

「ソヴェト社会主義共和国同盟憲法」と「ロシア憲法前文等」「中華人民共和国の憲法前文」
●ここで、社会主義、共産主義国の政治理念に触れてみたい。まず下記にソ連邦と中華人民共和国憲法の前文を引用する。社会主義政治体制について少し理解を深めたい。ソ連邦が国家として消滅したということは、政治体制と経済体制が問題であったことはまちがいないだろう。しかし社会主義・共産主義の考えとはどうであったのであろうか。その理念の一端を知ることは重要なことである。現代風に簡単に言い変えれば、社会は労働者階級(雇用される者)と経営者階級(雇用する者)との対立(階級闘争)である。経営者は常に労働者を搾取し、生み出された付加価値は、常に経営者階級のものとなる。そのような不平等な格差を是正するために、全世界の労働者(プロレタリアート)は国家の枠を越えて団結して経営者階級(ブルジョワジー)に対峙していかねばならない、というもの。そしてそのための組織を、「インターナショナル」といった。第2次世界大戦後は「コミンフォルム」を結成し(大戦中は「コミンテルン」)、世界各国の共産党に対して指導的な役割を果たした。その最終目的は「共産主義革命」であり「世界革命」であった。

「ソヴェト社会主義共和国同盟憲法」1936年(出典)「人権宣言集」岩波書店1957年刊 
ここでは「ソヴェト社会主義共和国同盟憲法」の最初の条文だけ引用する。

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「ロシア憲法前文」「ソビエト社会主義共和国連邦憲法前文」1936年
ソビエト連邦が消滅した後のロシア憲法前文(1993年)とソビエト社会主義共和国連邦憲法前文(1977年)をのせる。
(出典)「世界は『憲法前文』をどう作っているか」中山太郎編 ティビーエス・ブリタニカ2001年刊、「世界憲法集」岩波書店1983年刊 

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「中華人民共和国の憲法前文」
「中華人民共和国の憲法」の前文にある、「孫中山先生」は「孫文」のことで辛亥革命をおこした中国革命の父であり、国父であり、近代革命の先人である。
(出典)「世界は『憲法前文』をどう作っているか」中山太郎編 ティビーエス・ブリタニカ2001年刊

下


日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明

●次に田中角栄首相の時代に初めて中国と国交を結んだ際の共同声明を紹介する。自由主義・社会主義・共産主義とかいう体制の違いを超越したものである。1972年9月29日に日本の田中角栄内閣総理大臣と中華人民共和国の周恩来国務院総理は共同声明を行い、日本は中華人民共和国建国(1949年)以来初めて国交を結んだ。この中で注目すべき一つは、第5条『中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。』である。一方的に侵略され大きな民族犠牲を払ったにもかかわらず、中国の日本に対する態度は、悠久の歴史を持ち「ファシズム」に勝ち抜いた中国の誇りと正義と品格を感じさせるものである。

日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明(出典:外務省)

 日本国内閣総理大臣田中角栄は、中華人民共和国国務院総理周恩来の招きにより、千九百七十二年九月二十五日から九月三十日まで、中華人民共和国を訪問した。田中総理大臣には大平正芳外務大臣、二階堂進内閣官房長官その他の政府職員が随行した。
 毛沢東主席は、九月二十七日に田中角栄総理大臣と会見した。双方は、真剣かつ友好的な話合いを行った。

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●第2次世界大戦が終わったからといって戦争がなくなったわけではなかった。超大国の自由主義対共産主義という論理よって、多くの国で無数の市民が死んでいった。アジアにおいても「朝鮮戦争」「インドシナ戦争・ベトナム戦争」で国土を壊滅、荒廃させ無数の市民を殺した。国家の主義主張より大事なものがある、それは市民の生命であり、その政府の存続ではない。


1947/1/1~
年・月 国・地域 事項
1947年1/1 イギリス アトリ―労働党内閣が、社会主義化5か年計画に基づき、炭鉱と通信の国有化が実施される。
1947年1/16 フランス 第4共和政、初の大統領に社会主義者のヴァンサン・オリオール(63)が就任した。1/28日には社会・共産・人民共和派連立ラマンディエ内閣が成立する。
1947年1/22 インド インド制憲議会が、独立宣言の決議案を可決する。しかしムスリム(イスラム教徒)連盟が承認せず、国民会議派と衝突が起きる。
1947年1/24 ギリシャ 立憲君主制のデメトリオス・マクシモス内閣が成立する。
1947年1/28 ロンドン イギリスとビルマ(現ミャンマー)がビルマ独立協定を結ぶ。アトリー・アウンサン協定。(アウンサン=独立運動家・ビルマ建国の父、アウンサンスーチー氏は長女)
1947年2/10 パリ 第2次世界大戦の講和条約が、戦勝国21カ国とイタリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、フィンランドの5カ国が調印した。(ドイツ、オーストリア、日本との講和条約は先送りされた。)この5カ国は、賠償金の支払い、軍備の制限を受け、イタリアはアフリカ植民地の放棄と領土の割譲を受けた。
1947年3/10 モスクワ アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の外相が、対ドイツ・オーストリア講和問題をめぐる会議を行う。
1947年3/12 アメリカ トルーマン大統領、ギリシャ・トルコの共産化防止のため両国への経済・軍事支援を提案する。
「トルーマン・ドクトリン」

●このきっかけとなったのは、イギリスがアメリカに対して、自国の財政危機を理由にギリシャとトルコに対する軍事援助の肩代わりを求めたことによる。イギリスは第2次世界大戦で大きな打撃を受けており、これ以上の援助は不可能になっていた。アメリカは、イギリス軍の撤退後、ギリシャとトルコがソ連の勢力下なることを恐れ、すぐに要請を受けた。ここにアメリカの外交政策は、ヨーロッパと距離を置く伝統的な「孤立主義」への回帰(1945年の時点)から大きく変換することになった。トルーマンは次のように宣言した。

「内外からの全体主義の圧迫に対抗して、その独立、民主的制度、人間の自由を保持しようとしている自由な諸国民は、だれよりも優先的にアメリカの援助を受けることになろう」

これが「トルーマン・ドクトリン」であり「自由主義世界」と「共産主義世界」との対立の始まりである。具体的には6/5、経済復興のための「マーシャル・プラン」が発表された。

「マーシャル・プラン」

●アメリカはヨーロッパの復興計画を全面的に支援する用意があると表明した。ソ連と東欧諸国は参加を拒否したが次の諸国が賛成し、そのための経済協力機構(OEEC)が設立された。参加国は「オーストラリア、ベルギー、デンマーク、フランス、イギリス、ギリシャ、アイスランド、アイルランド、イタリア、ルクセンブルク、オランダ、ノルウエー、ポルトガル、スウエーデン、スイス、トルコ」であった。アメリカは、軍事力や侵略によらない方法で共産主義勢力の「封じ込め」を意図した。
●一方ソ連は、1947年9月にコミンフォルム(共産党および労働者党情報局)を設立し、アメリカのマーシャル・プランを「アメリカ帝国主義の世界制覇のための侵略・拡大路線」と非難し、対抗して東ヨーロッパに経済相互援助会議COMECON(コメコン)を設立した。当初加盟国はソ連、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアの6ヶ国と遅れてアルバニアだった。
●下に当時の地図を簡単に作成してのせる。ポイントはユーゴスラヴィアで、1948年コミンフォルムはユーゴ共産党を除名した。ユーゴスラヴィアは自主独立の共産主義建設を指導者チトーのもとで行っていった。

●1950年前後のヨーロッパの簡易地図。共産圏と色分けした。この境目を「鉄のカーテン」と呼んだ。
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1947/3/22~
年・月 国・地域 事項
1947年3/22 アメリカ トルーマン大統領「赤狩り」を始める。公務員200万人に大統領への忠誠心を試す。
1947年4/9 ビルマ 制憲議会選挙で、反ファシスト人民自由連盟が圧勝し、仮政府が成立する。しかし1947年7月、首相のアウンサン(32)ほか6閣僚が暗殺される。
1947年6/5 アメリカ 国務長官マーシャルがヨーロッパ復興計画(マーシャル・プラン)を発表する。マーシャルは視察の際、西ヨーロッパが経済復興の遅れから社会不安が生じ、共産主義が浸透しつつあることに衝撃を受けた。
1947年6/23 アメリカ 労働組合の活動を制限するタフト・ハートレー法が成立する。
1947年8/15 インド
(右写真)ガンディーとネルー。インド独立に大きな貢献をはたした2人が、1946年にボンベイで開かれたインド国民会議派の会議で話をしているところ。(出典)「世界の歴史9」J.M.ロバーツ著創元社2003年刊
インド・パキスタンが分離独立

インドがイギリスから独立する。パキスタンは前日独立した。2月イギリス・アトリ―首相は、責任あるインド人に権力を移譲すると発表し、新総督にマウントバッテンを任命した。6月新総督は、イギリス領インドをヒンドゥ-多数州とムスリム(イスラム教徒)多数州2つの自治領に分け、それぞれ制憲議会を設けるという案を発表し、国民会議派とムスリム連盟は即日これを承認した。しかし分離独立のため、パンシャーブ地方(西)とベンガル地方(東)では、それぞれで少数派となった1500万人が難民となり、パンシャーブでは暴動と衝突が起き20万人~50万人が犠牲になったといわれる。一方ベンガル地方のカルカッタでは、マハトマ・ガンディーの尽力により虐殺が抑えられた。しかしガンディーは、ムスリムに対して譲歩しすぎるとして、1948年ヒンドゥ-・ナショナリストに暗殺された。ガンディーは非暴力・不服従主義でインド民族運動を指導し、インド独立の父といわれる。ガンディーはヒンドゥ-とイスラムの融合を目指していた。ind005

1947年9/18 アメリカ 国家安全保障法(7/26成立)に基づき、国防総省とアメリカ中央情報局(CIA)が設立される。この国防総省(ペンタゴン)は軍事行政組織で、アメリカ陸・海・空軍3省と統合参謀本部を統括する。長である国防長官は、3軍の最高司令官であるアメリカ大統領を補佐し、3軍に対して指揮監督権を行使する。
1947年9/22 ワルシャワ ヨーロッパの共産党代表が秘密会議を開き、コミンフォルム(共産党・労働者党情報局)の結成を決める。
1947年10/14 アメリカ 史上初めて「ベルX1」が超音速飛行に成功する。
1947年10/27 インド カシミール藩王がインド帰属を決める。これに対してムスリムが反乱を起こし、カシミール紛争に発展する。(インド国内には約500の藩王国があり、それぞれが専制的な体制を維持していた。)
1947年10/30 ジュネーブ 国際貿易会議で関税・貿易に関する一般協定(ガット)に23カ国が調印する。IMF、世界銀行、ガットの3つの国際機構が戦後の世界経済をリードしていった。

(重要語)
「国際通貨基金(IMF)」「世界銀行」・・1944年アメリカ、ブレトン・ウッズにて連合国側の44カ国が協定を結び、1945年に設立された。
1947年11/25 フランス 鉄道ゼネストが行われた。28日には炭鉱、通信も加わり参加者は200万に達する。これに対して政府は12/5スト取締法を制定する。
1947年11/29 ニューヨーク 国連総会で、パレスティナ特別委員会が提出した「パレスティナ分割案(=アラブ・ユダヤ・エルサレムに分割)」を可決した。パレスティナを委任統治してきたイギリスは、問題を解決できず、1947年2月に国連に解決をゆだねていた。これに対してアラブ諸国は強く反発した。

「パレスティナ分割とイスラエル建国(1948/5/14)」

●最初に1967年イスラエルの歌謡コンクールで優勝した「黄金のイスラエル(ナオミ・シュメル作詞・作曲)」(最初の部分)を紹介する。イスラエルのユダヤ人がエルサレム旧市街への熱い思いを歌った曲である。逆にアラブ人からすればどのように感じるのであろうか。

「黄金のエルサレム」

(Jerusalem of Gold – Yerushalayim shel Zahav -Ofra Haza- with English Lyrics)
動画・出典:(YouTube Yael Lavieより)( flash動画9.10MB)
(音量ボタンを小にしてから、再生して下さい。)星野。


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「黄金のエルサレム」(YouTube Yael Lavieより)
「中東の歴史とエルサレムの歴史」
●次にイスラエル建国までの「エルサレム」の歴史と中東の歴史の概略を述べてみる。現代(21世紀)この地域で起きている紛争・戦争は、歴史をさかのぼっても簡単には理解できない。ここでは宗教の争いがあり、民族の争いがあり、列強の争いがあり、石油の争いがある。そしてなによりも世界で一番古い歴史を持つ地域である、簡単にわかるはずが無い。
エルサレムの歴史
内容 地図
右の地図は2006年前後の中東におけるイスラム教の分布図である。それ以外にも民族として「クルド人」が、トルコ・シリア・イラクに分かれていることがわかる。 シーア派(緑色)の国別の割合の地図とスンニ派(黄色)の地図を合成してみた。マウスホイールで拡大・縮小・移動ができる。
(地図)「世界のシーア派」(出典:『地図で読む世界情勢第2部』河出書房新社2009年刊)


この画像操作は「Wheelzoom」jsにより行っている。jacklmoore氏のサイトを参照してください。
オスマン

下

●このころから、アラブ世界の最大の政治問題は、ユダヤ人による強引なイスラエル建国の決定によって、植民地問題からパレスチナ問題へと変わっていった。
1917年当時、パレスチナには60万人のアラブ人に対して、8万人のユダヤ人が住んでいたが、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害が始まると、パレスティナへのユダヤ人の入植者は急増した。イギリスはユダヤ人の入植者を制限しようとしたがだめで、パレスティナ分割の方もアラブ人からはっきり拒絶された。
戦争が終結すると、世界シオニスト会議は 100万人のユダヤ人のパレスチナへの即時入植を要求した。そしてイスラエル建国宣言となった。
●イスラエルは、建国と同時に起きた第一次中東戦争(1948年~1949年)に勝ち、入植地を建設し占領地を大きく拡大していった。翌年結ばれた休戦協定では、イスラエルは分割案より領土を25%も拡大し、94万人のアラブ人が難民となった。
1949年に戦争がおわると、戦前はアラブ系住民が人口の大半を占めていたパレスチナのイスラエル占領地域には、16万人程度のアラブ人しか残っていなかった。パレスチナの分割に伴い、国連によってパレスチナ人に認められていた土地も消滅した。いずれもイスラエルに併合されたり(ネゲヴ砂漠地帯がその代表的な例)、アラブ諸国に占領された。またガザ地区はエジプトに、ヨルダン川西岸地区(サマリアとユダヤ)はヨルダンに併合された。離散したパレスチナ人のうち、ユダヤやサマリア、ガザに家族がいる人々はそこへ移住し、それ以外の人々は急ごしらえの難民キャンプに身を寄せることになった。キャンプの生活条件はあまりにも厳しく、国連は難民キャンプで暮らすパレスチナ人のための組織(国連パレスチナ難民救済事業機関)を設立した。

(上左写真)1947年パレスティナ(出典:「目撃者」朝日新聞社1999年刊)
(上右地図)イスラエルの地図(出典:「世界の歴史9」J.M.ロバーツ著創元社2003年刊)

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