(歴史)簡易世界通史・20世紀後半(1945年~1999年)①ナチスドイツ、大日本帝国、イスラエル

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●上左写真は「朝鮮戦争」「国連軍に助けを求める難民 1950年9月16日 バート・ハーディ 韓国」
●上右写真は「ベトナム戦争」「米軍の爆撃を逃れて川を渡る親子 1965年9月6日 沢田教一(UPI 南ベトナム・クイニョン)」この写真は『安全への逃避』と題されたもので、ハーグ第9回世界報道写真コンテスト大賞、アメリカ海外記者クラブ賞、ピューリッツァー賞を受賞したものである。沢田は1970年プノンペン(クメール・ルージュ・カンボジア)で殺害された。(享年34歳)(出典:「目撃者」朝日新聞社 1999年刊)

*リンクします「カメラマン・サワダの戦争」NHKアーカイブス
第2次世界大戦後、多くの戦争・紛争・独立・分断が起きた。思想的にも社会主義・共産主義が大きな力をもち、そして世界は、民族主義の独立のうねりの中で、ソ連とアメリカを中心に対立を極めた。
●1945年~1999年頃までの大きめな出来事を列挙するだけでも以下のようになる。日本が世界史に積極的に関わることはなかった。しかし日本人が知らなくても、すべてが現代に繋がる同時代史の出来事である。下は1945年からわずか55年間の出来事の一部分を列挙したもの。
●国際連合憲章調印(連合国50ヵ国)●ベトナム民主共和国独立宣言(30年におよぶベトナム戦争の始まりである)●中国国共内戦●アメリカ「マーシャルプラン」「赤狩り」●インド・パキスタン分離独立●ガンディー暗殺される●パレスチナ分割・イスラエル建国・第一次中東戦争勃発●ソ連西ベルリン封鎖・東西ドイツ分離独立●韓国・北朝鮮分離独立●NATO北太平洋条約機構発足●ソ連原爆実験成功●中華人民共和国建国●朝鮮戦争勃発●日本サンフランシスコ平和条約に調印●エジプトクーデター(ナーセル))●アメリカ・アイゼンハワー大統領就任とダレス国務長官●ソ連スターリン死去●アルジェリア独立戦争勃発(アルジェの戦い)●ソ連「ワルシャワ条約調印」●ハンガリー動乱●アフリカ初ガーナ独立

下

●世界簡易通史20世紀後半(1945年頃~1999年頃)①
この①では、最初に、第2次世界大戦終結にあたり、ファシズムのこと、共産主義のことを記述した。そしてイスラエル建国までのアラブの歴史を記述してみた。特に中東の歴史は、オスマン帝国の崩壊、植民地支配(石油利権・スエズ運河、イギリスとフランスの委任統治)、民族独立問題、宗教問題、パレスティナ問題などが複雑にからみあい、一般論では理解できない歴史である。参考としてここでは、「世界の歴史8・9・10」J.M.ロバーツ著創元社2003年刊、「世界の歴史29(冷戦と経済繁栄)」中央公論新社1999年刊、「世界の歴史16(現代)」中央公論社1963年刊、「クロニック世界全史」講談社1994年刊、「丸善エンサイクロペディア大百科」丸善1995年刊、「エルサレムは誰のものか」平山健太郎著日本放送協会1992年刊、などを参考とし引用もおこなった。

目次
ピックアップした項目 内容
ドイツ・ヒトラーのナチズム ヒトラー「わが闘争」、映画「シンドラーのリスト」、ダ―ウインの「種の起源」、ニーチェ「ツァラツストラはかく語りき」
日本のファシズム。アジア・太平洋侵略 日本軍の戦争犯罪「極東国際軍事裁判」判決文 第4 B部 第8章 通例の戰爭犯罪(一部引用)
ドイツ、日本の平和への誓い R.ヴァイツゼッカードイツ連邦議会演説、日本国憲法前文
「鉄のカーテン」「東西冷戦」 チャーチルの対ソ警戒。スターリンの反論。
共産主義国の憲法と前文 「ソヴェト社会主義共和国同盟憲法」と「ロシア憲法前文等」「中華人民共和国の憲法前文」
日本と中国の国交回復 日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明
「トルーマン・ドクトリン」「マーシャル・プラン」 (西)経済協力機構(OEEC)対(東)経済相互援助会議COMECON(コメコン)
「パレスティナ分割とイスラエル建国」 イスラエル建国(1948/5/14)までの「エルサレム」の歴史と中東の歴史(概略)

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第2次世界大戦終結(1945年~)歴史年表(世界の動き)

1945/1/1~
年・月 国・地域 事項
1945年1/1 ポーランド ポーランド国民解放委員会がルブリンで臨時政府と改称する。1/3ソ連はルブリン政府を承認し、1/17ワルシャワを解放する。
1945年1/9 フィリピン アメリカ軍ルソン島に上陸し、3/3マニラを完全占領する。
1945年1/20 ハンガリー ハンガリーはソ連に無条件降伏し、新政権ドイツに宣戦布告する。
1945年1/27 ポーランド ソ連軍アウシュヴィッツ強制収容所を開放する。
1945年2/4 ソ連邦、ウクライナ
左からチャーチル、ルーズベルト、スターリン。
米英ソ首脳ヤルタ会談を開く。(大戦後の国際秩序を規定した重要な会談。戦後処理、ソ連対日参戦、国際連合設立など)sengo014(右写真出典:「昭和2万日の全記録・第7巻」講談社1989年刊)
1945年3/12 ドイツ
an1131a(写真出典右記と同じ)
ベルゲン・ベルゼン強制収容所で「アンネの日記」のアンネ・フランク(16歳)が死亡する。彼女の姉も数日前に死亡した。下に「悲劇の少女アンネ」シュナーベル著 久米穣訳 偕成社1968年初版1994年改訂2版10刷より、最後のところの「オットー・フランクの言葉」を引用する。

・・そのようなとき、オットーは、よく招待され、日記に出ていないアンネのエピソードなどを、話してくれとたのまれた。
 もちろん、オットーはこころよく応じた。だが、おわりにちかくなると、オットーは表情をひきしめて、こう話した。

下

1945年3/22 エジプト・カイロ アラブ連盟成立。エジプト王国、トランス・ヨルダン王国、シリア王国、レバノン共和国、サウジアラビア王国、イラク王国、イエメン王国はアラブの連携を目指した。
1945年3/30 西ヨーロッパ ソ連軍、ポーランドのダンツィヒを占領し、ハンガリーからオーストリアに進撃し、4/13ウイーンを占領する。
1945年4/1 日本 アメリカ軍沖縄本島に上陸を開始する。
1945年4/12 アメリカ ルーズベルト(ローズヴェルト)大統領が急死する。トルーマンが第33代大統領に就任する。ルーズベルトの死と、チャーチルの首相交代は、第2次世界大戦の戦後処理に大きな影響を与えたとされる。
1945年4/25 ドイツ
右写真(出典:「写真記録日中戦争」ほるぷ出版1995年刊
エルベ川のトルガウでアメリカ軍とソ連軍が出会う。(エルベの誓い)doitu001
1945年4/28 イタリア ムッソリーニ銃殺される。レジスタンスが勝利しパルチザン部隊がムッソリーニを銃殺し、4/29ミラノのロレッタ広場で愛人ペタッチらとともに死体が逆さづりにさらされる。
1945年4/30 ドイツ・ベルリン アドルフ・ヒトラーと愛人エヴァ・ブラウンが総統地下壕で自殺した。その後直ちにガソリンをかけて燃やされたが、数時間後にソ連軍の侵攻を受け、遺体はソ連軍に回収されたという。ネオナチの聖地になることを恐れたソ連は、完全に全てを秘匿して処置したとされる。
1945年5/2 ドイツ
右写真(出典:「昭和2万日の全記録・第7巻」講談社1989年刊
ソ連軍ベルリンを占領する。sengo011上写真「4/22ベルリン陥落の日、ドイツ国会議事堂の上に赤旗を立てるソ連兵」
●朝日新聞「目撃者」では1945年4/30撮影とある。
1945年5/7 フランス、ランス ドイツは西側連合国軍(アイゼンハワー将軍司令部)に対して降伏文書を調印する。5/9ドイツはベルリン・ソ連軍司令部において、ソ連軍に対して2度目の降伏調印をおこなう。6/5ベルリン協定(アメリカ、イギリス、フランス、ソ連)を結び、ドイツ4分割を決める。
パリ解放とドイツ降伏を祝うニューヨーク
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(上左写真)パリ解放後シャンゼリゼ通りを行進するアメリカ兵士たち。1944年08月29日 AP/WWP パリ
(上右写真)ニューヨークのタイムズスクエアでドイツの無条件降伏を祝う米市民たち。1945年05月07日AP/WWPニューヨーク(出典は共に:「目撃者」朝日新聞社1999年刊)

ドイツ・ヒトラーのナチズムの思想
●自由主義諸国(アメリカやイギリスなど)と社会主義国(ソ連邦)が共同して戦ったのはヒトラーのナチズム(ファシズム)であった。ナチス・ドイツは、当時ヨーロッパ各国にいたユダヤ人900万人のうち、500万人から600万人を、強制収容所でその多くを大量虐殺した。1942年ナチス・ドイツは、最重要政策であるユダヤ人の排斥・迫害に関する「最終解決」を「ヴァンゼー会議」で決定した。これは具体的な実務レベルの最終決定であり、これによりナチス・ドイツは、組織的ユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)を決定し実行に移した。
(親衛隊≪SS≫のアイヒマンは、この「最終解決」であるホロコーストに関与し、ユダヤ人数百万人の強制収容所移送の中枢を担ったが、敗戦時逃亡に成功しアルゼンチンに潜伏した。しかしイスラエルの執念の追跡により、ついに1960年イスラエル諜報特務庁≪モサド≫により逮捕連行され1962年イスラエルで処刑された。)
日本はこのようなナチス・ドイツと同盟を結んだ。日本はヒトラーのナチズムの思想を知っていたのだろうか?日本は極東で孤立し、西洋にコンプレックスをもっていたとはいえ、ファシズムとヒトラーの狂気を容認したドイツと同盟を結んだということは、日本もまたアジアに対しては差別的民族意識を持つファシズムの国であったということである。明治維新以来、積極的に西洋文明を取り入れ独立を保った日本は、アジアにおいて優越意識と選民意識をもった国となってしまったのであろう。

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(上左写真)ナチス・ドイツの国章の間を上る独裁者アドルフ・ヒトラー 1934年10月 撮影者不明 ドイツ・バッケンベルク
(上右写真)ワルシャワ(ワルシャワ・ゲットーでは、5万6000人のユダヤ人が殺された)1943年4月 撮影者不明 ポーランド・ワルシャワ。(●これらは映画の1シーンではない)(出典:「目撃者」朝日新聞社1999年刊)

●ここで、
①アドルフ・ヒトラーの「わが闘争」から、「民族と人種」の中から「文化の創始者としてのアーリア人」の一部を引用してみる。このなかでは「日本人」についても書かれている。日本では、日独伊3国同盟に影響を与えるとして、この部分の和訳をカットしたとある。

(訳注:アーリア人とは、ヨーロッパの大部分、小アジア、ペルシャ、インド、アフガニスタン地方に住むインド・アーリア語を話す人種のこと。ナチズムではとくにユダヤ人を区別して用いる。たとえばアーリア化といえば、官庁や実業界からユダヤ人を追放することであった。ついでに語源的にみれば、アーリアとはサンスクリット語で、「高貴な」だとか「貴族」という意味がある。)
「わが闘争」「文化の創始者としてのアーリア人」の一部
●ヒトラーは狂信的な反ユダヤ主義者でアーリア人至上主義者であった。だからこの文章の後に続くユダヤ人に対するゆがんだヒトラーの憎悪を読むと、ホロコーストが最初から計画されたものだとわかる。ヒトラーは狂信的確信犯であり虐殺者であった。(出典)「わが闘争」アドルフ・ヒトラー著 平野一郎・将積茂 訳 角川書店1973年発行 1995年29刷
 文化の創始者としてのアーリア人種
 どの人種あるいは諸人種が人間の文化の最初のにない手であったのか、したがってまた、われわれが人間性という言葉ですべて包括しているものの実際の創始者であったのか、という点について争うことはむだな企てである。現代において、この問いを立てるのはより簡単であり、この場合、答えもまた容易に出てくるし、また明白でもあるのだ。われわれが今日、人類文化について、つまり芸術、科学および技術の成果について目の前に見出すものは、ほとんど、もっぱらアーリア人種の創造的所産である。

下

②次に映画「シンドラーのリスト」からゲットー(ユダヤ人強制隔離区域)での1シーンを紹介する。YouTubeには数多くの強制収容所の記録がアップされている。なぜそうかといえば、事実を公開しなければ、必ず誰かが隠蔽し、あるいはねつ造だと言い張るからである。真実を公開することは、生きている人間のためではなく、無残にも死んでいった死者のためにあるからである。

「シンドラーのリスト」スティーヴン・スピルバーグ監督1993年アメリカ映画

●この映画の1シーンを紹介する。( flash動画14.5MB)ポーランドのゲットーに隔離されていたユダヤ人達(ダビデの星の腕章)が強制収容所に強制移送させられていく1シーンである。この映画は、一度は見なければならない作品である。(これはアメリカ映画である)
(音量ボタンを小にしてから、再生して下さい。)星野。


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③次に19世紀半ばに発表されたダ―ウインの「種の起源」の一節を引用する。宗教・哲学・政治思想など全てにおいて多大なる影響を与え続けている。当然ながら進化論もヒトラーの思想に影響を与えたことであろう。
(出典:「種の起源(下)」ダ―ウイン著 渡辺政隆訳 光文社2009年 発刊 )

「種の起源」から「要約と結論」の「結論」の部分

結論
 種の起源に関して本書で述べた見解もしくはそれに類似した見解が一般に受け入れられれば、自然史学に相当規模の革命が起きるだろうとおぼろげながら予測できる。分類学者の仕事の進め方が現在と変わることはない。ただ、この種類やあの種類はほんとうは種なのかどうかという漠とした疑念に始終さいなまれずにすむようになる。私の経験から言って、これは間違いなく大きな救いとなる。

下

④次に哲学者ニーチェの「ツァラツストラはかく語りき」から「超人思想」の一部分を引用する。ヒトラーはニーチェの思想に大きく影響されたともいわれるが、ニーチェがドイツ民族を「超人」であるなどとはいってはいない。

「ツァラトゥストラかく語りき」から一部引用
●ニーチェの哲学がわかるはずもないが、若者にとっては魅力があることだろう。もしこの本を知っていればのことではあるが・・。(出典)「ツァラトゥストラかく語りき」ニーチェ著 竹山道雄訳 新潮社 1953年発行1984年45刷 

ツァラトゥストラは群集を見、訝り、つぎのように語った。―――――人間は、獣と超人との間に張りわたされた一條の綱である。―――――一つの深淵を越ゆる一條の綱である。
渡りゆくも危く、途上にあるも危く、後(しりえ)を見るも危く、戦慄するもはた佇立(ちょりつ=たたずむ)するも危い。
人間が偉大なる所以(ゆえん)は、彼が目的にあらずして、橋梁たるにある。人間にして愛されうべき所以は、彼が一つの過渡たり、没落たるにある。

下

⑤最後にリヒャルト・ シュトラウスの「ツァラツストラはかく語りき」の有名な曲の一部をYouTubeから紹介する。映画『2001年宇宙の旅』やTVCMでも使われている。「未知なる高みから出現する何者かを待ち望む高揚した感情」を表現しているのだろうか。

「ツァラトゥストラはかく語りき」
(出典:YouTube「ジュゼッペ・シノーポリ指揮 ドレスデン国立歌劇場管弦楽団」)


(ボリュームスライダーを調整してから再生して下さい)

1945/6/26~
年・月 国・地域 事項
1945年6/26 アメリカ、サンフランシスコ
(右写真)6/26開かれた式典で、イギリス駐米大使が調印している場面。(出典)「世界の歴史9」J.M.ロバーツ著創元社2003年刊
国際連合(国連)憲章に調印

連合国50ヶ国が国際連合(国連)憲章に調印した。ポーランドはその後調印し原加盟国(51ヶ国)となった。国際連合には、安全保障理事会(11ヶ国)などが設置され、常任理事国はアメリカ、ソ連、イギリス、フランス、中国(中華民国)の5ヶ国がなり、拒否権を持った。日本では「国際連合」と呼ぶが、この名称は、対枢軸国(日本・ドイツ・イタリアなど)に対する「連合国」を言い換えたもので、新しい組織が生まれたわけではない。だからいまだにドイツ・日本などに対する「敵国条項」が残っている。
日本人は感覚的に「国際連合」は中立公正の決議を行う場所と思っているが、現実は5大国が拒否権を持つがために「決議する場所」ではなく「審議の場を提供する場所」となった。しかしこれにより、全世界が情報を共有し「国際世論」が形成されるようになり、大国の横暴にも歯止めがかかるようになって行くと、期待されている。koku001

「敵国条項の例」第53条第1項後段(安保理の許可の例外規定)は、「第二次世界大戦中に連合国の敵国だった国」が、戦争により確定した事項に反したり、侵略政策(ファシズム、覇権主義)を再現する行動等を起こしたりした場合、国際連合加盟国や地域安全保障機構は安保理の許可がなくとも、当該国に対して軍事的制裁を課すこと(制裁戦争)が容認され、この行為は制止できないとしている(出典)ウイキペディア
1945年6/28 ポーランド ポーランドに国民統一臨時政府が成立する。
1945年7/16 アメリカ ニューメキシコ州アラモゴードで人類初の原爆実験に成功する。
1945年7/17 ドイツ トルーマン(アメリカ)、チャーチル(イギリス)、スターリン(ソ連)によるポツダム会談が始まる。会談の後半はチャ-チルから労働党アトリー首相に変わった。トルーマンはスターリンに、異常な破壊力を持つ新兵器(原爆)の保有をつげた。スターリンも、チャーチルも「戦争終結のため日本に対して使用すること」は賛成であると答えたという。
1945年8/6 日本 アメリカ、広島に原爆投下、8/9長崎に原爆を投下する。
広島と長崎の原爆「昭和ニッポン」1億2千万人の映像 講談社DVDBOOK

動画・出典:「昭和ニッポン」2005年発行(第1巻)一部紹介( flash動画6.9MB)
(アメリカ軍が上空から撮影した有名な動画。広島の最初の画像のブレは、原爆の衝撃波によるといわれる)
(音量ボタンを小にしてから、再生して下さい。)星野。


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1945年8/8 満州 ソ連、日本に宣戦布告し満州などに極東軍が侵攻を開始する。
1945年8/14 ソ連・中国 モスクワにて、ソ連と中国国民政府が、中ソ友好条約を締結する。
1945年8/15 日本 8/14日本は連合国にポツダム宣言受諾を通知し、8/15天皇が受諾したことを国民に放送。
1945年8/17 インドネシア ジャカルタでスカルノ(大統領)インドネシア独立を宣言。しかし旧宗主国オランダはこの宣言を認めず、以後4年間の独立戦争となる。
1945年8/24 朝鮮半島 ソ連軍8/8侵攻以来各地を転戦後、ついに平壌に進駐し市民の歓迎を受ける。
1945年9/2 日本 日本、東京湾アメリカ戦艦ミズリー号上で、降伏文書に調印する。日本政府代表は重光葵外相(58歳)と軍部代表梅津美治郎参謀総長(63歳)が署名し、連合国軍総司令部(GHQ)の最高司令官マッカーサー元帥(65歳)が連合国を代表して署名した。以下、アメリカ、中国、イギリス、ソ連、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランドの順に署名した。ここにアジア・太平洋戦争が正式に終結した。

日本のファシズム。アジア・太平洋侵略。
●ドイツのナチズムだけを述べているのは不公正だろう。日本のアジア各国への侵略と殺りくに、正義はあったのだろうか。日本は降伏前に全土を爆撃され、最後に人類初の原子爆弾まで落とされ、全土は焦土となった。だからといってそのことが免罪符になるわけではないし、まして過去を帳消しにできるわけではない。下の写真は中国の南京と平頂山の写真の一部である。

(上左写真)南京大虐殺「揚子江岸に打ち上げられた死体」(岩波書店)(出典:「昭和2万日の全記録第4巻」講談社1989年刊)
(クロニック世界全史(講談社1994年刊)では「揚子江の岸辺に打ち上げられた死体。敗残兵掃討を名目に無差別に殺害するという日本軍の蛮行は、日本史上、消しがたい汚点となる。」と書かれている)
(右写真)中国「平頂山受難同胞記念碑」(出典:写真記録 日中戦争ほるぷ出版1995年発行)

●日本軍の戦争犯罪は「極東国際軍事裁判」で明らかにされ、日本人は初めてこの事実を知った。この判決では、日本が中国との戦争を「戦争」ではなく「事変」とすることで、戦時捕虜や民間人に対する行為を「戦争法規」外として正当化したことが示されている。そして日本軍の戦時捕虜や一般の民間人に対してのおぞましい蛮行が明らかにされている。日本人として読むに堪えない部分ではあるが、アジア各国に立てられている数多くの「同胞受難碑」が、この日本軍の行為が厳然たる事実であることを証言している。(注:戦争法規=戦争状態においてもあらゆる軍事組織が遵守するべき義務を明文化した戦時国際法)
「東京裁判」が勝者による裁判であったことは事実であろう。しかし日本人が直視しなければならないのは、「戦争をしたことに対する平和の罪」の問題ではなく、「戦争法規」すら眼中になかった日本軍の実態が証言されているこの部分である。ここは読んでおかねばならない。日本人は初めて「東京裁判」で「皇軍」の真実を知った。下に「東京裁判・判決文」から一部を引用してみる。「平頂山事件」「秋田花岡事件」と「南京虐殺」が述べられている。(なるべく旧漢字は新漢字にし、振り仮名と意味も記入した)
極東国際軍事裁判所判決. 第4 B部 第8章 通例の戰爭犯罪(一部引用)

通 例 の 戦争 犯 罪
●(残虐行為)
 すべての証拠を慎重に検討し。考量した後、われわれは、提出された多量の口頭と書面による証拠をこのような判決の中で詳細に述べることは、実際的でないと認定する。残虐行為の規模と性質の完全な記述については、裁判記録を参照しなければならない。
 本裁判所に提出された残虐行為及びその他の通例の戦争犯罪に関する証拠は、中国における戦争開始から1945年8月の日本の降伏まで、拷問、殺人、強姦及びその他の最も非人道的な野蛮な性質の残忍行為が、日本の陸海軍によって思うままに行われたことを立証している。数ヵ月の期間にわたって、本裁判所は証人から口頭や宣誓口述書による証言を聴いた。これらの証人は、すべての戦争地域で行われた残虐行為について、詳細に証言した。それは非常に大きな規模で行われたが、すべての戦争地域でまったく共通の方法で行われたから、結論はただ一つしかあり得ない。すなわち、残虐行為は、日本政府またはその個々の官吏及び軍隊の指導者によって、秘密に命令されたか、故意に許されたかということである。

下

極東国際軍事裁判所判決. 第4 B部 第8章 通例の戰爭犯罪 極東国際軍事裁判所 編 1948年刊  
国立国会図書館デジタルコレクション
「東京裁判判決 : 極東国際軍事裁判所判決文」極東国際軍事裁判所 編 毎日新聞社1949年刊
国立国会図書館デジタルコレクション

第2次世界大戦の犠牲者推計(飢饉や病気の被害者含む)

●推計であっても、次のポイントは知っておかねばならないと思う。
①人口の比率から見ると「ポーランド」が最も多くの犠牲者を出した。560万人~580万人(全人口の15%以上)がドイツ軍に殺され、そのうちの1/3以上はユダヤ人だといわれる。
②ソ連邦が最大の犠牲者を出したといわれる。2660万人で全連邦人口の13%以上。
③ユダヤ人の犠牲者は、当時ヨーロッパ各国にいた900万人のユダヤ人のうち、500万人から600万人が犠牲となり、ナチスによる強制収容所でその多くが虐殺された。そして強制収容所ではロマ(ジプシー)、身体障害者・精神障害者、ソ連兵捕虜、スラブ人らも虐殺された。
④中国の日中戦争犠牲者(1937年-1945年)は、1985年の共産党政権発表(抗日勝利40周年)によれば軍民死亡者2100万人。1995年発表では、軍民死傷者数を3500万人とした。(飢餓・病気・餓死による死傷者も含まれるのであろう)


ドイツ、日本の平和への誓い
●日本人は国民性のためか、思っていてもその心情を吐露する演説を行う政治家は少ない。だがドイツ人は次のように心情を述べた。1985/5/8ドイツ連邦議会でのヴァイツゼッカー大統領の演説である。下にその一部分を引用してみる。良識ある大部分の日本人も、同じことを心に刻んでいると私は信じる。
R.ヴァイツゼッカー1985/5/8ドイツ連邦議会演説(一部引用)

(前略)・・・暴力支配が始まるにあたって、ユダヤ系の同胞に対するヒトラーの底知れぬ憎悪がありました。ヒトラーは公けの場でもこれを隠しだてしたことはなく、全ドイツ民族をその憎悪の道具としたのです。ヒトラーは1945年4月30日の(自殺による)死の前日、いわゆる遺書の結びに「指導者と国民に対し、ことに人種法を厳密に遵守し、かつまた世界のあらゆる民族を毒する国際ユダヤ主義に対し仮借のない抵抗をするよう義務づける」と書いております。
 歴史の中で戦いと暴力とにまき込まれるという罪---これと無縁だった国が、ほとんどないことは事実であります。しかしながら、ユダヤ人を人種としてことごとく抹殺する、というのは歴史に前例を見ません。この犯罪に手を下したのは少数です。公けの目にはふれないようになっていたのであります。しかしながら、ユダヤ系の同国民たちは、冷淡に知らぬ顔をされたり、底意のある非寛容な態度をみせつけられたり、さらには公然と憎悪を投げつけられる、といった辛酸を嘗めねばならなかったのですが、これはどのドイツ人でも見聞きすることができました。シナゴーグの放火、掠奪、ユダヤの星のマークの強制着用、法の保護の剥奪、人間の尊厳に対するとどまることを知らない冒涜(ぼうとく)があったあとで、悪い事態を予想しないでいられた人はいたでありましょうか。

下

●一方の日本では、GHQ(連合軍総司令部)の強力な指導により、民主主義憲法である「日本国憲法」を公布(1946年11/3)することができた。今なお押しつけ憲法であるとの論議が起こるのは、当時の日本の政府、与野党、憲法学者のすべてが、「民主主義」の理念や本質を理解していなかったことが背景にはあった。しかし日本国民は恒久の平和を念願し、この平和憲法を選んだ。そして日本国民はこの憲法前文のなかで、決意を込めて誓っている。その前文を下記に引用する。(出典)「世界は『憲法前文』をどう作っているか」中山太郎編 ティビーエス・ブリタニカ2001年刊
「日本国憲法前文」

日本国憲法前文

 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。

下

GHQ作成・新憲法啓発ポスターsengo001a
(上写真)GHQが作成した新憲法啓発のためのポスター。わかりやすい図柄で新憲法の内容を説明している。(写真・毎日新聞社)(出典:「昭和2万日の全記録第7巻」講談社1989年刊)

1945/9/2~
年・月 国・地域 事項
1945年9/2 ベトナムbeto003(上写真)ホー・チミン(初代主席)(右)1945年8月19日ハノイで開かれた大集会。ベトナム全土にフランスと日本に対する蜂起がおこった(8月革命) ベトナム民主共和国独立式典が、ハノイのインドシナ総督官邸前のバディン広場で開催される。ホー・チミン(初代主席)が独立宣言を読み上げた。しかしフランスはこれを認めず、9/23ベトナム南部に侵攻を開始した。beto002(左と上写真、出典:「写真記録日中戦争」ほるぷ出版1995年刊
1945年11/20 ドイツ ニュルンベルクで、ナチス戦犯(戦争犯罪人)に対する国際軍事裁判が開廷した。翌1946年9月30日と10月1日に判決が出る。空相ゲーリング、外相リッベントロップら12名に絞首刑、総統代理ヘスら3名に終身刑の判決が出る。戦争犯罪裁判は史上初めてであった。
1945年11/29 ユーゴスラビア 王政を廃止し、連邦人民共和国となる。
1946年1/10 イギリス 第1回国連総会が51ヶ国参加によりロンドンで開幕する。
1946年1/10 中国・延安
(右写真)(出典:『クロニック世界全史』講談社1994年刊)(「世界の歴史」中央公論1963年刊によれば写真は重慶とあり、左から周恩来、マーシャル元帥、朱徳将軍、蒋介石、毛沢東とある。)しかし蒋介石ではなさそうである(私見)。
アメリカ・マーシャル特使の斡旋により国民党と共産党が内戦の停止に合意する。しかし3月には東北で再び戦闘を開始する。このマーシャル特使仲介(1月~2月)による、国民党と共産党の政協会議は成功して、中国民衆に抗日戦勝利につぐ希望を与えた。にもかかわらず、その後国民党は政協会議の決定を覆し武力衝突を起こした。tyuu002
1946年2/8 朝鮮半島 北部にて政府に準ずる北朝鮮臨時人民委員会が設立され、金日成(キム・イルソン)が委員長になる。
1946年2/15 アメリカ 世界最初のコンピュータ(ENIAC)が、ペンシルバニア大学で完成する。1951年にはENIAC研究グループのノイマンらによって、さらに進化したコンピュータが作られた。
1946年2/20 ソ連 ソ連、ヤルタ秘密協定のもとづき千島列島、南樺太の自国への編入と、この地域の施設の国有化を宣言する。
1946年2/24 アルゼンチン 反ペロン派の蜂起により幽閉されていたペロンが、大統領選挙で圧勝してアルゼンチン大統領となる。
1946年3/6 ベトナム フランスがベトナム(北部)とハノイ協定を結び、フランス連合内での「ベトナム民主共和国」の自治を承認する。しかしその後南部の帰属などを巡って交渉が決裂し、12月にハノイで軍事衝突が起きる。
1946年3/5 アメリカ イギリス前首相チャーチルがミズリー州で演説を行い、ソ連の東欧支配(共産党による勢力拡大・政権支配)を「鉄のカーテン」という言葉で非難し、「対ソ警戒」喚起した。
1946年5/3 日本 極東国際軍事裁判(東京裁判)が東京市ヶ谷の旧陸軍士官学校大講堂で開かれた。

(注)(連合国は、「東京裁判」が始まる前、日本が占領していた地域で、戦争犯罪人を逮捕し軍事裁判を行った。マニラ、シンガポール、ラバウル、モロタイ、バタビア、メナド、グァム、サイゴン、北京、上海、南京、香港、横浜など計50ヵ所に法廷が設置され、件数2244、被告は5700人にのぼった。「東京裁判」がA級戦犯≪=分類上のくくりで罪の重さを示すものではない≫を被告としていたのに対し、海外で行われた裁判の被告は、戦争法規違反の現地責任者や、非戦闘員に加えられた殺人、虐殺、奴隷化もしくは人道に対する犯罪者で、BC級の戦犯者であった。死刑984名、無期475名、有期2944名、無罪1018名など、東京裁判よりはるかに多くの軍人・軍属らが裁かれた。)
1946年5/25 ヨルダン トランス・ヨルダン王国がイギリスの承認を得て独立を宣言する。
1946年6/1 ベトナム フランスがベトナム南部にコーチシナ共和国臨時政府を樹立する。7/6ベトナム民主共和国は、パリ郊外フォンテンブローでの会議でフランスに抗議する。
1946年6/2 イタリア 国民投票の結果王政を廃止し共和政をしくことを決定。6/18共和国を宣言する。
1946年7/1、7/25 中部太平洋マーシャル群島
右写真(出典:「昭和2万日の全記録・第7巻」講談社1989年刊)
アメリカ、ビキニ環礁で原爆実験を行う。sengo004
1946年7/4 フィリピン フィリピン48年ぶりに共和国としてアメリカから独立する。
1946年7/12 中国 国民党軍と共産党軍が衝突し内戦となる。「一致抗日」を掲げてきた両軍は、日本の降伏後に衝突を起こした。1月にアメリカの斡旋による停戦協定が結ばれたが、7月国民党軍50万人が、共産党が支配する解放区に対して攻撃を開始した。
1946年7/29 パリ 日本とドイツを除く旧枢軸国(5ヶ国=イタリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、フィンランド)と連合国(21ヶ国)との間でパリ平和会議が開かれる。
1946年8/16 インド 7月からヒンドゥー勢力とムスリム連盟(イスラム教徒)との対立が激化する。カルカッタの衝突では5万人に達する死者がでる。9/2には国民会議派による「中間政府」が樹立されネルー(57)が首相に就任する。
1946年11/3 日本 日本国憲法が公布される。施行は1947/5/3
日本国民は恒久の平和を念願し、平和憲法を選んだ。
1946年11/4 パリ ユネスコ憲章が発効し、国連教育科学文化機関(ユネスコ)が発足する。
1946年12/14 アメリカ 国連本部をニューヨークに設置することを決定。ジョン・ロックフェラー2世が、現在の場所の購入費用を提供することを申し出たため現在の場所に決定したという。
1946年12/20 ベトナム ホー・チ・ミン国家主席が、フランスの再侵略に対して徹底抗戦を全国民に呼びかけた。フランスは「植民地」インドシナの権益を放棄するつもりは無く、ベトナム独立同盟(ベトミン)に対する攻撃を開始し、サイゴン(現ホー・チ・ミン市)を占領し、第1次インドシナ戦争(1946年~1954年)に突入した。
「ヨーロッパ鉄のカーテン」「東西冷戦」

●第2次世界大戦終結後すぐにヨーロッパでは共産党が躍進し、特に東ヨーロッパ諸国では王政の廃止と共和国宣言が続いた。1946年3月にイギリス前首相チャーチルが、このソ連の東ヨーロッパの支配を憂慮し「鉄のカーテン」と非難して対ソ警戒を喚起した。内容は下記のようである。

「ソ連の脅威は文明に対する挑戦であり、手遅れにならぬうちにできるだけ早く自由と民主主義をすべての国に確立しなければならない・・。」

と主張しアングロ・サクソンの団結を呼びかけた。
●これに対してソ連のスターリンは、次のように述べた。

「チャーチル演説は、連合国内に不和の種をまき、協力をいっそう困難にする危険な行動であり、世界の平和と安全を脅かすものだ」

と非難した。
●このような連合国内の対立が表面化した大きな理由は、アメリカ・ルーズベルト大統領が急死し、対ソ連協力路線が変更されたことが大きな要因とされる。ルーズベルト大統領は、アメリカ・イギリス・ソ連の密接な協力のみが、平和秩序の土台となると考えていたからである。チャーチルの後を継いだ労働党のアトリー内閣は、当初は労働党であるが故に、共産党のソ連との関係を楽観視していたが、まもなくソ連に対して猜疑心を抱くようになり、アメリカに同調するようになった。
●そして西側諸国のソ連に対する不安と脅威は、戦後1年をへずしてはっきりとソ連に対する対立となり、世界はアメリカ・イギリス対ソ連という構図で「東西冷戦」の時代を迎えていった。

「ソヴェト社会主義共和国同盟憲法」と「ロシア憲法前文等」「中華人民共和国の憲法前文」
●ここで、社会主義、共産主義国の政治理念に触れてみたい。まず下記にソ連邦と中華人民共和国憲法の前文を引用する。社会主義政治体制について少し理解を深めたい。ソ連邦が国家として消滅したということは、政治体制と経済体制が問題であったことはまちがいないだろう。しかし社会主義・共産主義の考えとはどうであったのであろうか。その理念の一端を知ることは重要なことである。現代風に簡単に言い変えれば、社会は労働者階級(雇用される者)と経営者階級(雇用する者)との対立(階級闘争)である。経営者は常に労働者を搾取し、生み出された付加価値は、常に経営者階級のものとなる。そのような不平等な格差を是正するために、全世界の労働者(プロレタリアート)は国家の枠を越えて団結して経営者階級(ブルジョワジー)に対峙していかねばならない、というもの。そしてそのための組織を、「インターナショナル」といった。第2次世界大戦後は「コミンフォルム」を結成し(大戦中は「コミンテルン」)、世界各国の共産党に対して指導的な役割を果たした。その最終目的は「共産主義革命」であり「世界革命」であった。

「ソヴェト社会主義共和国同盟憲法」1936年(出典)「人権宣言集」岩波書店1957年刊 
ここでは「ソヴェト社会主義共和国同盟憲法」の最初の条文だけ引用する。

下

「ロシア憲法前文」「ソビエト社会主義共和国連邦憲法前文」1936年
ソビエト連邦が消滅した後のロシア憲法前文(1993年)とソビエト社会主義共和国連邦憲法前文(1977年)をのせる。
(出典)「世界は『憲法前文』をどう作っているか」中山太郎編 ティビーエス・ブリタニカ2001年刊、「世界憲法集」岩波書店1983年刊 

下

「中華人民共和国の憲法前文」
「中華人民共和国の憲法」の前文にある、「孫中山先生」は「孫文」のことで辛亥革命をおこした中国革命の父であり、国父であり、近代革命の先人である。
(出典)「世界は『憲法前文』をどう作っているか」中山太郎編 ティビーエス・ブリタニカ2001年刊

下


日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明

●次に田中角栄首相の時代に初めて中国と国交を結んだ際の共同声明を紹介する。自由主義・社会主義・共産主義とかいう体制の違いを超越したものである。1972年9月29日に日本の田中角栄内閣総理大臣と中華人民共和国の周恩来国務院総理は共同声明を行い、日本は中華人民共和国建国(1949年)以来初めて国交を結んだ。この中で注目すべき一つは、第5条『中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。』である。一方的に侵略され大きな民族犠牲を払ったにもかかわらず、中国の日本に対する態度は、悠久の歴史を持ち「ファシズム」に勝ち抜いた中国の誇りと正義と品格を感じさせるものである。

日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明(出典:外務省)

 日本国内閣総理大臣田中角栄は、中華人民共和国国務院総理周恩来の招きにより、千九百七十二年九月二十五日から九月三十日まで、中華人民共和国を訪問した。田中総理大臣には大平正芳外務大臣、二階堂進内閣官房長官その他の政府職員が随行した。
 毛沢東主席は、九月二十七日に田中角栄総理大臣と会見した。双方は、真剣かつ友好的な話合いを行った。

下

●第2次世界大戦が終わったからといって戦争がなくなったわけではなかった。超大国の自由主義対共産主義という論理よって、多くの国で無数の市民が死んでいった。アジアにおいても「朝鮮戦争」「インドシナ戦争・ベトナム戦争」で国土を壊滅、荒廃させ無数の市民を殺した。国家の主義主張より大事なものがある、それは市民の生命であり、その政府の存続ではない。


1947/1/1~
年・月 国・地域 事項
1947年1/1 イギリス アトリ―労働党内閣が、社会主義化5か年計画に基づき、炭鉱と通信の国有化が実施される。
1947年1/16 フランス 第4共和政、初の大統領に社会主義者のヴァンサン・オリオール(63)が就任した。1/28日には社会・共産・人民共和派連立ラマンディエ内閣が成立する。
1947年1/22 インド インド制憲議会が、独立宣言の決議案を可決する。しかしムスリム(イスラム教徒)連盟が承認せず、国民会議派と衝突が起きる。
1947年1/24 ギリシャ 立憲君主制のデメトリオス・マクシモス内閣が成立する。
1947年1/28 ロンドン イギリスとビルマ(現ミャンマー)がビルマ独立協定を結ぶ。アトリー・アウンサン協定。(アウンサン=独立運動家・ビルマ建国の父、アウンサンスーチー氏は長女)
1947年2/10 パリ 第2次世界大戦の講和条約が、戦勝国21カ国とイタリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、フィンランドの5カ国が調印した。(ドイツ、オーストリア、日本との講和条約は先送りされた。)この5カ国は、賠償金の支払い、軍備の制限を受け、イタリアはアフリカ植民地の放棄と領土の割譲を受けた。
1947年3/10 モスクワ アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の外相が、対ドイツ・オーストリア講和問題をめぐる会議を行う。
1947年3/12 アメリカ トルーマン大統領、ギリシャ・トルコの共産化防止のため両国への経済・軍事支援を提案する。
「トルーマン・ドクトリン」

●このきっかけとなったのは、イギリスがアメリカに対して、自国の財政危機を理由にギリシャとトルコに対する軍事援助の肩代わりを求めたことによる。イギリスは第2次世界大戦で大きな打撃を受けており、これ以上の援助は不可能になっていた。アメリカは、イギリス軍の撤退後、ギリシャとトルコがソ連の勢力下なることを恐れ、すぐに要請を受けた。ここにアメリカの外交政策は、ヨーロッパと距離を置く伝統的な「孤立主義」への回帰(1945年の時点)から大きく変換することになった。トルーマンは次のように宣言した。

「内外からの全体主義の圧迫に対抗して、その独立、民主的制度、人間の自由を保持しようとしている自由な諸国民は、だれよりも優先的にアメリカの援助を受けることになろう」

これが「トルーマン・ドクトリン」であり「自由主義世界」と「共産主義世界」との対立の始まりである。具体的には6/5、経済復興のための「マーシャル・プラン」が発表された。

「マーシャル・プラン」

●アメリカはヨーロッパの復興計画を全面的に支援する用意があると表明した。ソ連と東欧諸国は参加を拒否したが次の諸国が賛成し、そのための経済協力機構(OEEC)が設立された。参加国は「オーストラリア、ベルギー、デンマーク、フランス、イギリス、ギリシャ、アイスランド、アイルランド、イタリア、ルクセンブルク、オランダ、ノルウエー、ポルトガル、スウエーデン、スイス、トルコ」であった。アメリカは、軍事力や侵略によらない方法で共産主義勢力の「封じ込め」を意図した。
●一方ソ連は、1947年9月にコミンフォルム(共産党および労働者党情報局)を設立し、アメリカのマーシャル・プランを「アメリカ帝国主義の世界制覇のための侵略・拡大路線」と非難し、対抗して東ヨーロッパに経済相互援助会議COMECON(コメコン)を設立した。当初加盟国はソ連、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアの6ヶ国と遅れてアルバニアだった。
●上は1950年前後のヨーロッパの簡易地図、共産圏と色分けし簡単に作成してみた。この境界を「鉄のカーテン」と呼んだのである。ポイントはユーゴスラヴィアで、1948年コミンフォルムはユーゴ共産党を除名した。ユーゴスラヴィアは自主独立の共産主義建設を指導者チトーのもとで行っていった。

1947/3/22~
年・月 国・地域 事項
1947年3/22 アメリカ トルーマン大統領「赤狩り」を始める。公務員200万人に大統領への忠誠心を試す。
1947年4/9 ビルマ 制憲議会選挙で、反ファシスト人民自由連盟が圧勝し、仮政府が成立する。しかし1947年7月、首相のアウンサン(32)ほか6閣僚が暗殺される。
1947年6/5 アメリカ 国務長官マーシャルがヨーロッパ復興計画(マーシャル・プラン)を発表する。マーシャルは視察の際、西ヨーロッパが経済復興の遅れから社会不安が生じ、共産主義が浸透しつつあることに衝撃を受けた。
1947年6/23 アメリカ 労働組合の活動を制限するタフト・ハートレー法が成立する。
1947年8/15 インド
(右写真)ガンディーとネルー。インド独立に大きな貢献をはたした2人が、1946年にボンベイで開かれたインド国民会議派の会議で話をしているところ。(出典)「世界の歴史9」J.M.ロバーツ著創元社2003年刊
インド・パキスタンが分離独立

インドがイギリスから独立する。パキスタンは前日独立した。2月イギリス・アトリ―首相は、責任あるインド人に権力を移譲すると発表し、新総督にマウントバッテンを任命した。6月新総督は、イギリス領インドをヒンドゥ-多数州とムスリム(イスラム教徒)多数州2つの自治領に分け、それぞれ制憲議会を設けるという案を発表し、国民会議派とムスリム連盟は即日これを承認した。しかし分離独立のため、パンシャーブ地方(西)とベンガル地方(東)では、それぞれで少数派となった1500万人が難民となり、パンシャーブでは暴動と衝突が起き20万人~50万人が犠牲になったといわれる。一方ベンガル地方のカルカッタでは、マハトマ・ガンディーの尽力により虐殺が抑えられた。しかしガンディーは、ムスリムに対して譲歩しすぎるとして、1948年ヒンドゥ-・ナショナリストに暗殺された。ガンディーは非暴力・不服従主義でインド民族運動を指導し、インド独立の父といわれる。ガンディーはヒンドゥ-とイスラムの融合を目指していた。ind005

1947年9/18 アメリカ 国家安全保障法(7/26成立)に基づき、国防総省とアメリカ中央情報局(CIA)が設立される。この国防総省(ペンタゴン)は軍事行政組織で、アメリカ陸・海・空軍3省と統合参謀本部を統括する。長である国防長官は、3軍の最高司令官であるアメリカ大統領を補佐し、3軍に対して指揮監督権を行使する。
1947年9/22 ワルシャワ ヨーロッパの共産党代表が秘密会議を開き、コミンフォルム(共産党・労働者党情報局)の結成を決める。
1947年10/14 アメリカ 史上初めて「ベルX1」が超音速飛行に成功する。
1947年10/27 インド カシミール藩王がインド帰属を決める。これに対してムスリムが反乱を起こし、カシミール紛争に発展する。(インド国内には約500の藩王国があり、それぞれが専制的な体制を維持していた。)
1947年10/30 ジュネーブ 国際貿易会議で関税・貿易に関する一般協定(ガット)に23カ国が調印する。IMF、世界銀行、ガットの3つの国際機構が戦後の世界経済をリードしていった。

(重要語)
「国際通貨基金(IMF)」「世界銀行」・・1944年アメリカ、ブレトン・ウッズにて連合国側の44カ国が協定を結び、1945年に設立された。
1947年11/25 フランス 鉄道ゼネストが行われた。28日には炭鉱、通信も加わり参加者は200万に達する。これに対して政府は12/5スト取締法を制定する。
1947年11/29 ニューヨーク 国連総会で、パレスティナ特別委員会が提出した「パレスティナ分割案(=アラブ・ユダヤ・エルサレムに分割)」を可決した。パレスティナを委任統治してきたイギリスは、問題を解決できず、1947年2月に国連に解決をゆだねていた。これに対してアラブ諸国は強く反発した。

エルサレムの歴史
歴史内容
1948/5/14、パレスティナ分割とイスラエル建国がなされた

●最初に1967年イスラエルの歌謡コンクールで優勝した「黄金のイスラエル(ナオミ・シュメル作詞・作曲)」(最初の部分)を紹介する。イスラエルのユダヤ人がエルサレム旧市街への熱い思いを歌った曲である。逆にアラブ人からすればどのように感じるのであろうか。

「黄金のエルサレム」

(Jerusalem of Gold – Yerushalayim shel Zahav -Ofra Haza- with English Lyrics)
動画・出典:(YouTube Yael Lavieより)( flash動画9.10MB)
(音量ボタンを小にしてから、再生して下さい。)星野。


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「黄金のエルサレム」(YouTube Yael Lavieより)
「中東の歴史とエルサレムの歴史」

●最初にイスラエル建国までの「エルサレム」の歴史と中東の歴史の概略を述べてみる。現代(21世紀)この地域で起きている紛争・戦争は、歴史をさかのぼっても簡単には理解できない。ここでは宗教の争いがあり、民族の争いがあり、列強の争いがあり、石油の争いがある。そしてなによりも世界で一番古い歴史を持つ地域である、簡単にわかるはずが無い。

●右の地図は2006年前後の中東におけるイスラム教の分布図である。シーア派(緑色)の国別の割合の地図とスンニ派(黄色)の地図を合成してみた。それ以外にも民族として「クルド人」が、トルコ・シリア・イラクに分かれていることがわかる。この地図はマウスホイールで拡大・縮小・移動ができる。 オスマン


(地図)「世界のシーア派」(出典:『地図で読む世界情勢第2部』河出書房新社2009年刊)
紀元前2000年代
エルサレム

●エルサレムには、カナーン人と総称されるセム系の人々の小さな都市国家ができていたらしい。その族長の1人「シャレム」の名から「シャレムの町」(イェルシャライム)の名が生まれたという説や、ユダヤ人の言語のヘブライ語で「シャロム」が「平和」を意味するところから、「平和の町」と命名されたという説もある。また同じセム系の言語であるアラビア語でも「エル・サレム」は「平和」という意味であるという。

紀元前1000年頃 ●ユダヤ人の武将であったダビデは、非セム系の海洋民族であるペリシテ人との戦いに勝ち、エルサレムを征服して都を移した(ダビデの都ともいわれる)。旧約聖書によれば、この時代よりはるかな昔、アブラハムはメソポタミア(イラク)のウルから、一族を従えてカナーン(パレスティナ)に移り来て、唯一神よりこの地を約束されたとされる。
●ダビデは、アブラハムがモリア山に設けた神への祭壇が、このエルサレムであるとし、仮の祭壇をこの地に設けた。そしてダビデの末子のソロモンは、王位を継ぐと本格的な神殿を建築した。イスラエルは「ソロモンの栄華」といわれるほど繁栄した。しかしソロモンの死後、イスラエル(北部)とユダ(南部)に分裂し、エルサレムはユダ王国の都となった。
紀元前6世紀 ●前586年ユダ王国は、新バビロニア王国(イラク)のネブカドネザルに征服され、エルサレムの神殿(ソロモン王の神殿=第1神殿)は破壊され多くのユダヤ人が捕虜としてバビロンに連れ去られ、ユダ王国は滅亡した(バビロン捕囚=前586年~前538年)。
●しかしその新バビロニア王国もペルシャ帝国(イラン)のクロス(キロス)に前538年に滅ばされた。ペルシャはオリエントを統一し、バビロンの捕囚の全て民を故国へ返した。ユダヤ人達も帰ることができたが、荒廃した故国再生とユダヤ民族再生のために、その中心である神殿(第2神殿)を22年の歳月をかけて再建した。
紀元前1世紀頃 ●ローマ帝国の時代、ヘロデ王はローマの支配を受けながら(属領地)、ローマとの協調関係を築き、ユダヤの王(紀元前40年)となった。ヘロデ王は残忍な独裁者であったという評価もあり複雑ではあるが、一方では10年の歳月をかけて荒廃した第2神殿の大規模改築なども行っている。そしてこの時代にイエス・キリストは生まれた。
紀元1世紀頃
イエス・キリスト

●ヘロデ王の死後(紀元前4年)、ユダヤ人たちのローマ帝国に対する反乱(独立運動)が起こってきた。イエス・キリストの教えと数々の奇跡は、ユダヤとローマの対立する構図の中で行われ、イエス・キリストはユダヤの法廷では反逆者とされ、ローマ総督ピラトの法廷では危険分子とされ、十字架にかけられ処刑された。紀元30年頃とされる。

紀元66年
嘆きの壁

●ついに第1次ユダヤ反乱(対ローマ)が起こった。抗戦は4年に及んだが、紀元70年についにエルサレムは陥落し、第2神殿は徹底して破壊された。今も残る「嘆きの壁」は、ヘロデ王が第2神殿大規模改築の際に作られた、西側の土台の石垣である。山本七平「日本人とユダヤ人」には次のようにある。

「・・そしてこの壁に来たときわれわれは、もっとひどい苦難の中にこの神殿を再建した祖先の不屈の精神を思い起こすのである。そして、民が心を一つにして再建にかかった時、それが立派にできあがったことに思いを致し、いつの日か、ここに再び祖国を築き上げることを、常に心に誓いつづけて来た壁なのである。・・」
2世紀 ●そして136年、第2次ユダヤ反乱が起こった。ユダヤはこれも圧倒的なローマ軍により、徹底的に制圧された。そしてこの結果パレスティナはアエリナ・カピトリナと改名され、海外居住のユダヤ人の帰国は禁止された。そしてローマ帝国によるユダヤ教徒とキリスト教徒への過酷な迫害が始まった。
4世紀
ビザンティウム・コンスタンティノープル

●ディオクレティアヌス皇帝(3世紀末)は、専制的な支配体制によって国家の安定を図るため、4人の皇帝を置く分割統治体制をしいた。つづくコンスタンティヌス1世は、キリスト教に改宗し、宗教的基盤強化のためキリスト教を公認した。そして首都をビザンティウム(=コンスタンティノープル=イスタンブ-ル)に移した。これが東ローマ帝国でありローマ帝国の繁栄は東に移っていった。
●このコンスタンティヌス1世は、ユダヤ人のエルサレム禁令を破棄したので、多くのユダヤ人が帰国したと思われる。しかし逆にキリスト教が公認されたので、エルサレムはユダヤ教ではなくキリスト教の聖地とされていった。こうしてエルサレムの人口の多くがキリスト教徒で占められるようになり、ユダヤ教徒はイエスを殺害した異端者として差別され、ここにキリスト教徒によるユダヤ人迫害の種がまかれていった。

7世紀
イスラム興る
ムハンマド、アッラーの啓示を受け、イスラム教を創始

●アラビアのメッカで生まれたムハンマドは、アッラーの啓示を受け予言者として、「唯一神の信仰」「偶像崇拝の排斥」「人間の平等」のイスラム教を創始した。630年にメッカを征服し、メッカをイスラム教の第1の聖地と定めた。第2の聖地はメディナで、迫害を逃れた場所である。そして第3の聖地がエルサレムである。

7世紀~8世紀 ●ユダヤ教徒たちは、キリスト教徒による迫害をうらみ、617年のササン朝ペルシャのエルサレム侵攻にも歓迎して協力した。そして正統カリフ時代のイスラムの侵攻(638年)にも協力して従軍した。こうしてエルサレムはイスラム帝国に支配されていった。ウマイヤ朝は都をダマスカスに置いたため、エルサレムは都市として発展しイスラム教徒の巡礼が盛んに訪れた。
750年
アッバス朝ウマイヤ朝を倒す。
(地図)アッバース朝時代のイスラム(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)
●イスラム帝国(アッバス朝)時代はバクダッドを都とし、巡礼たちも在来の聖地であるメッカやメディナに戻ってしまい、エルサレムの重要性はしだいに薄れていった。しかしアッバス朝は収入源としてヨーロッパのキリスト教徒のエルサレム巡礼誘致に力をいれた。エルサレムを含むイスラム帝国内では、キリスト教徒もユダヤ教徒も礼拝の自由は保障されていた。
11世紀
ファーティマ朝
●11世紀の初め、エジプトのカイロを都にしていたファーティマ朝(シーア派)が、エルサレムを支配下に納めると、異教徒への迫害を始めた。エルサレムの聖墳墓教会(キリスト教)をはじめユダヤ教の礼拝堂(シナゴーグ)が破壊された。このキリスト教徒の迫害が十字軍遠征につながり、またキリスト教徒迫害をユダヤ人がそそのかしたとの風評が広がり、ヨーロッパでのユダヤ人迫害を起こした。
11世紀
セルジューク朝
セルジューク朝建国

●1038年に建国したセルジューク朝は、1055年バクダードに入城しイスラム社会の支配者の象徴であるスルタンの称号を受けた。拡大を続けるセルジューク朝は、アナトリア半島でビザンティン帝国と衝突し、1071年ビザンティン皇帝のロマノス4世を捕虜として捕らえた。この結果ビザンティン帝国は衰退していく。エルサレムはセルジューク朝の支配へと代わった。seru006(地図)セルジューク朝の領域(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)

11世紀
十字軍
第1回十字軍

●1095年教皇ウルバヌス二世は、「イスラムの圧迫に苦しむビザンツ帝国を救う。聖地エルサレムをイスラムから奪回する。これは聖戦であり、戦いに参戦する者は、すべての罪が許される。」と明言して十字軍参加を呼びかけた。そして1096年第1回十字軍が出発した。
●1099年十字軍はエルサレムに侵攻し、城内のイスラム教徒とユダヤ教徒4万を虐殺した。その後十字軍は、征服したパレスティナにエルサレムを都とする「エルサレム王国」を作った。エルサレムには数多くのキリスト教の教会や修道院が建てられた。
jyuuji001(地図)「第1回十字軍遠征」(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)

12世紀
アイユーブ朝
アイユーブ朝を創始

●サラーフ・アッディーン(サラディン)は、1169年にエジプトを支配するファーティマ朝の宰相に就任し、アイユーブ朝を創始した。そして1175年、シリア統合をめざして軍事行動を開始した。目標はアレッポで、ダマスクスに次ぐ政治的・経済的重要性を持つ北部中心都市だった。そして1187年、十字軍が作ったエルサレム王国を打ち破り、イスラム教徒の手に奪回した。サラディンは、エルサレムでキリスト教徒への報復を行わなかった。サラディンは、キリスト教徒のエルサレム残留や、ユダヤ人のエルサレム移住も認めた。またヨーロッパからのキリスト教徒のエルサレム巡礼再開も容認した。siria007(地図)12世紀後半の西アジア(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)

13世紀
第4回十字軍
ラテン王国樹立

●第4回十字軍(1204年)は、調達金不足のため、ヴェネティア(ヴェニス)商人に、敵対的なザマを攻撃することを要求され実行。怒ったローマ教皇インノセントは十字軍を破門した。破門された十字軍はエジプトに向かわず、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを攻撃、陥落させ、ラテン王国を樹立した。
●1215年インノセント3世は、第4回ラテラノ公会議を開催し、過酷な反ユダヤ政策を決議した。これがキリスト教徒によるユダヤ人迫害の始まりとされる。

13世紀
モンゴル大遠征
モンゴル大遠征開始

●1206年テムジンがモンゴル統一国家の長に選ばれ、チンギス・ハーンと称する。ホラズム帝国「オトラル」でモンゴルの使節団が虐殺される。この事件が引き金になって、翌1219年、チンギス・ハーンは20万人の西アジア大遠征を開始した。
(地図)「モンゴル世界帝国」(出典:綿引弘「世界の歴史がわかる本」全三巻三笠書房2000年刊)

13世紀
第6回十字軍
●1229年無血十字軍がエルサレムを支配する。神聖ローマ皇帝とアイユーブ朝が協定を結んで和解する。
13世紀
ホラズム傭兵隊
●1244年アイユーブ朝の支援を受けたホラズム傭兵隊が、エルサレムを陥落させる。ここにキリスト教の支配が最終的に終わる。
13世紀
マムルーク朝
マムルーク朝成立

●1250年エジプト、マムルーク軍のクーデターによりアイユーブ朝のスルタンが殺害され、マムルーク朝が成立する。シリアに残ったアイユーブ朝とエジプト・マムルーク朝の政情不安は10年間続いた。しかしマムルーク朝は支配をシリアまで広げ、エルサレムはマムルーク朝に支配される。

13世紀
モンゴル・フラグ
フラグ、アッバス朝を滅ぼす

●チンギス・ハーンの孫のフラグは、イランに留まり、勢力を拡大していた。そして1258年バクダードに侵入してアッバス朝を滅ぼした。この時80万人~200万人が虐殺されたといわれる。この時カリフを失ったアッバス朝の血縁者たちは、エジプト・シリアを支配するマムルーク朝に亡命した。そしてフラグはこの後、アジェルバイジャンのタブリズを首都を定め、イル・ハン国を建てた。フラグは1265年に死んだが、1335年フラグの血統が絶えると後継者争いが起き国家としての実態を失っていく。そしてイル・ハン国とマムルーク朝は、シリアをめぐる覇権争いを14世紀後半まで続けた。

13世紀
アッカー陥落
十字軍拠点アッカー陥落

●マムルーク朝、十字軍の最後の拠点アッカー(アッコン)を奪還する。アッカーは1187年以来ラテン王国の首都だった。アッカーの陥落により十字軍側は総崩れになり、残る十字軍の拠点であるスール、サイダー、ベイルート、ハイファーも陥落した。こうして200年近く存在した十字軍国家は、シリア地域から消滅した。

13世紀
オスマン朝創設
オスマン朝創設

●西北アナトリアの君侯(ベイ)オスマンが、オスマン朝を創設した。オスマン家はオスマンの祖父の代に、ルーム・セルジューク朝の支配下のアナトリアに進出したといわれる。父のエルトゥグルルは、ガージー(イスラム聖戦戦士)として、ビザンティン帝国のキリスト教徒領主たちと戦い領地を広げていた。息子のオスマンは、モンゴルの侵入により衰退してきたルーム・セルジューク朝黙認のもとに、オスマン朝を創設した。

14世紀
モンゴル世界帝国の分裂と滅亡
モンゴル帝国4つに分裂

●4つに分裂したモンゴル帝国は、中国の元朝は1367年、中央アジアのチャガタイ・ハン国は1370年、ペルシャのイル・ハン国は1411年、ロシアのキプチャック・ハン国は1783年とそれぞれ滅亡していった。
●このなかのチャガタイ・ハン国は東西のトランスオクシアナとモゴリスタンとに分かれた。トランスオクシアナのチャガタイ国が内乱を繰り返していた頃、モゴリスタンにトグルック・ティムールという王が現れ、東西のチャガタイ国統一を目指した。これがティムール帝国の始まりで、1380年にはイラン遠征を開始し、中央アジア、南ロシア、北インドを支配下におさめていく。ティムールは、チンギス・ハーンの後継者を自認し、かつてのモンゴル帝国の半分に匹敵する帝国を建設していく。
(地図)12世紀後半の西アジア(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)

15世紀
アンカラの戦い
ティムール、オスマン朝軍を破る

●ティムールは、シリア、小アジアに侵攻し、オスマン朝軍と衝突した。そしてアンカラの戦い(1402年)で大勝し、オスマン朝スルタン・バヤズイット1世を捕虜(ティムール軍中央アジアに帰還途上に死亡)とした。これによりオスマン朝は帝国の分裂と危機に陥り、スルタン・メフメト1世が再統合を開始するまで、10年間の空位時代となる。しかし1405年ティムールが急死したため、オスマン朝を含め西アジアの各王朝は立ち直っていった。

15世紀
コンスタンティノープル陥落
ビザンティン帝国滅亡

●1453年ビザンティン帝国1000年の歴史が終わる。オスマン朝スルタン・メフメト2世は、約2ヶ月間の包囲戦の末コンスタンティノープルを落とし、帝国皇帝コンスタンティノス11世は討ち死にした。そしてオスマン朝の首都をコンスタンティノープルに移し、イスタンブルと改名した。

16世紀
マムルーク朝に勝利
オスマン朝、地中海世界を支配する

●1517年オスマン朝・スルタン・セリム1世(第9代)が、エジプト・シリアを支配するマムルーク朝を滅ぼした。そして7月には、アラビア半島のシャリーフ家(2大聖地メッカとメディナを支配)がセリム1世に臣従した。そしてマムルーク朝に亡命していたアッバス朝のカリフからその地位を奪い、ここに、スルタン=カリフとして、オスマン朝はイスラム世界で傑出した存在となる。その後第10代スレイマン1世(セリム1世の子)の時代には、アルジェリア、リビアも併合して地中海世界の3/4を支配した。
●エルサレムは以後400年間にわたってオスマン朝の支配を受けた。スレイマン1世の時代にエルサレムは大きく発展し、旧市街を取り巻く城壁や、北の城門(ダマスカス・ゲート)など多くが建造された。しかしオスマン朝もしだいに腐敗していき、キリスト教徒やユダヤ教徒はさまざまな重税に苦しんだという。

(地図)12世紀後半の西アジア(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)

19世紀
セルビア人蜂起、ギリシャ独立、エジプトトルコ戦争、スエズ運河
●19世紀になるとオスマン帝国は、列強諸国からの侵略と帝国内での各民族による独立運動により衰退してきた。1804年セルビア人の第1次蜂起がおこり、エジプトでは、1805年ムハンマド・アリーが総督についたことで、エジプトはヨーロッパ文明の導入と近代化を進め始めた。
●また1821年にはギリシャ独立戦争が起こった。この戦争では、ロシアがギリシャを援助したことにより、これを危惧したイギリスとフランスが介入し、オスマン帝国はギリシャの自治国化を認めた。しかし1830年最終的にイギリスは、ギリシャを3国の保護下に置いての独立をオスマン帝国に認めさせた。
●1831年エジプトのムハンマド・アリーは、オスマン帝国に対して第1次エジプト・トルコ戦争を起こした。エジプト軍はシリアに侵攻しダマスクスも占領し、さらにアナトリア地方に進軍しオスマン・トルコ軍を撃破した。エルサレムは1831年から9年間エジプトに支配された。しかしオスマントルコは列強の支援を受け、第2次エジプト・トルコ戦争でエジプトがイギリスに大敗したため、ロンドン会議(1840年)でシリアなどの返還を受け、再度エルサレムを支配することとなった。ムハンマド・アリーはオスマン帝国の宗主権の下でのエジプトの世襲的藩王(副王)の地位を得た。
●その後エジプトでは1869年、フランス人レセップスがスエズ運河を7年の歳月をかけて開通させた。これによりヨーロッパとアジアの航路は50%近く短縮された。レセップスはエジプトの藩王(ムハンマド・アリーの孫)より特許状を受け「国際スエズ運河株式会社」を創設し、50%以上の株式をフランス人が持ち、44%を藩王が所有した。しかしイギリスはフランスに脅威をおぼえ、その藩王の持つ株式を買い取り、結果スエズ運河はフランスとイギリスの物となってしまう。さらにその後エジプトが財政破綻すると、イギリスはそれに乗じて「エジプト債務管理委員会」を主宰し、エジプトの財政と経済を支配した。そうしたなかエジプトに民族主義的排外運動が起きると、イギリスはフランスを出し抜いて武力鎮圧を行い、スエズ運河地帯を占領し、第1次大戦中にエジプトを保護国とした。
19世紀
露土戦争
オスマン帝国ロシアに敗れる

●1877年~1878年、露土戦争(ロシア・トルコ戦争)が起こった。これはロシアがバルカン半島進出を企図し、バルカンのキリスト教徒保護を名目として開戦しオスマン帝国を破った戦争である。この結果、モンテネグロ、セルビア、ルーマニア(モルドヴァ、ワラキア)の独立とブルガリアの自治公国化が認められた(サン・ステファノ条約)。しかしこの条約は列強の利害によって修正された(ベルリン条約1878年)。マケドニア地方(ブルガリアに含まれた)はオスマン帝国に戻され、ボスニア・ヘルツェゴヴィナはオーストリアが占領した。オスマン帝国は崩壊の寸前にあった。
●一方財政的にみると、内政改革・近代化のための列強からの借款は50億フランにのぼり、返済不能に陥ったオスマン帝国は、1881年「トルコ債務管理会」によって各国(イギリス、フランス、オーストリア、イタリア、ドイツ)の支配をうけるようになってしまった。特にドイツによるバクダ-ド鉄道敷設は、かわりに築港権や地下資源開発権を与えるもので、各列強のオスマン支配に重大な軋轢を与えるものだった。
(地図)ベルリン条約(1878年)後のバルカン(出典:『興亡の世界史10・オスマン帝国500年の平和』林佳世子著・講談社2008年刊)

19世紀
シオニズム
シオニズム

●19世紀の初め、エルサレムに居住していたユダヤ人は、人口の1/5で2000人内外であったといわれる。そして1880年代からロシア系ユダヤ人を中心に、実質的なパレスチナ移住も始まっていたともいわれる。そして重要な指導者であったテオドール・ヘルツル(ユダヤ人ジャーナリスト)は、ヨーロッパ諸国に根強いユダヤ人への差別主義に反発し、「ヨーロッパ諸国への同化ではなく、パレスティナに戻って、ユダヤ人の祖国を建設するべきである」という「シオニズム」運動を提唱した。そして1897年に第1回国際シオニスト会議が開かれ、ユダヤ人の歴史にとって大きな転機をむかえることとなった。そして20世紀の初めにはエルサレム周辺に住むユダヤ人の数は3万人を超え、さらに1905年の第1次ロシア革命失敗後、ロシア系ユダヤ人のパレスティナ移住は加速していった。
(写真)テオドール・ヘルツル(出典:「世界の歴史9」J.M.ロバーツ著創元社2003年刊)

20世紀
第1次世界大戦前後
青年トルコ

●1908年、オスマン帝国では「青年トルコ」という青年将校らによる大規模な反体制革命運動が起きた。これはヨーロッパ諸国による植民地化したオスマン帝国の改革と復権を実現し、近代化を推進するというものだった。この革命の発端をつくったのは、エンヴェル・パシャで、スルタン・アブデュルハミト2世は、彼らの要求をのみ立憲制(第2次立憲制)の復活を宣言した。そして翌年アブデュルハミト2世は退位させられ(メフメト5世がスルタンに選出)実権は青年トルコへ移った。しかし1911年イタリアがリビアを要求して戦争を起こすとオスマン帝国は敗北し、次いで1912年バルカン戦争が始まると、トルコ人の民族感情は高揚し、青年トルコ政権内部の対立が表面化した。この革命政権は従来の多民族国家体制(汎イスラム主義)から、トルコ・ナショナリズムへと変わっていった。そしてエンヴェルに率いられた急進派が政敵を倒し独裁制(3頭政治)をしいた。エンヴェルはドイツ大使館付武官の時代にドイツに心酔しており、第1次世界大戦でドイツ側についてトルコを参戦させたのは、このエンヴェル陸軍大臣の力であった。ドイツは軍事面においても経済面においてもトルコに勢力を伸ばしていった。一方首相のサイド・ハリムは親仏派であったが、フランスの協力を得ることができなかった。フランスはレヴァント(地中海東海岸地方、シリアやパレスチナなど)で長い歴史を通じて文化的にも大きな影響力を持っていた。
●1908年にオーストリア・ハンガリー帝国がボスニアを併合、ブルガリアは独立を宣言、クレタ島はギリシャとの合同を表明し、イタリアは1911年リビアを攻撃した。そして1912年にはバルカン戦争が勃発した(写真)エンヴェル・パシャ(出典:「世界の歴史14(第1次世界大戦後の世界)」中央公論社1963年刊)

第1次・第2次バルカン戦争
バルカン戦争

●1912年、ブルガニア・セルビア・ギリシャ・モンテネグロが、ロシアの支持のもとバルカン同盟を結び、オスマン帝国に対して戦争を起こした。そしてロンドン条約の結果、オスマン帝国はバルカン半島の大部分の領土を失った。
●1913年、このバルカン半島の分割争いがおき、ブルガリアと他の3国が争い、オスマン帝国も失地回復を企てた。ブルガリアは大敗を喫し、ブカレスト条約の結果、第1次バルカン戦争で獲得したマケドニアとトラキアの大半を失った。

第1次世界大戦
1914年7月~1918年11月。1919年ヴェルサイユ条約で講和成立。
第1次世界大戦

●1914年三国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア)と三国協商(イギリス・フランス・ロシア)との対立を背景に、サラエヴォ事件を導火線として、7月オーストリアがセルビアに宣戦して世界大戦が勃発し、トルコは8月ドイツと同盟を結んだ。当初イギリス、フランス、ロシアはトルコに中立を要求して、報償として独立・領土保全などを保証したが、エンヴェルは動かなかった。イギリスは、インド兵のヨーロッパ移送の際のスエズ運河通過の問題、ロシアはトルコ方面への兵力の分散などに問題があったためである。
●ドイツは2隻の軍艦の派遣や、ドイツの将軍をトルコ軍の総司令官に任命したり、トルコ艦隊をドイツ提督の指揮下に置くなどして、トルコの参戦を促した。そして10月トルコ海軍は黒海沿岸のロシアのオデッサなどに砲撃を加え参戦した。11月イギリスも正式にトルコに宣戦して、キプロス島併合を宣言した。

1915年ガリポリ(ゲリボル)上陸作戦失敗。 ●英仏連合軍が、ダーダネルス海峡突破作戦で、ガリポリ半島上陸作戦に失敗し、イギリス連邦に属する兵士の死傷者だけで21万4千人にのぼった。この責任をとりイギリスの海軍大臣ウィンストン・チャーチルは辞任した。このときのオスマン軍司令官ムスタファ・ケマルは、この勝利に決定的な役割を果たし、「首都の救い主」とたたえられた。しかしエンヴェルは彼をねたみ、1816年もっと困難なカフカス(コーカサス)戦線へ彼をまわした。
1915~16年フサイン・マクマホン協定
フサイン・マクマホン協定

●イギリスはオスマン帝国打倒のため、ヒジャーズ(サウジアラビア西部で、聖地メッカや聖地メディナを含む)の名家(予言者ムハンマドの血を引くとされる)ハーシム家のフサインを利用しようと考えた。オスマン帝国は「青年トルコ」革命以後、中央集権とトルコ民族主義に傾いていたため、帝国内の非トルコ人、特にアラブ人は、反オスマンとしてフサインを中心に結束していた。
●そしてイギリス・駐エジプト高等弁務官マクマホンは、フサインと秘密裏に交渉を重ね(往復書簡)、「アラブ独立国家建設」の基本合意となり、1916年6月、フサインと息子アリーとファイサルら反乱軍が決起した。

アラビアのロレンス
アラビアのロレンス

●1916年イギリスは、2人のアラブ専門家をフサインのもとに派遣した。そのうちの1人がイギリス陸軍大尉トマス・エドワード・ロレンスであった。彼はフサインの息子ファイサルの「アラブ国家の建設」という大義を熱烈に支持するようになった。そしてアラブ軍の鉄道破壊作戦を指導して戦果をあげ、戦局の打開に成功する。しかし英仏密約(サイクス・ピコ協定)やハーシム家の没落とサウード家の台頭などにより、パリ講和会議ではアラブ代表団の顧問として奔走するも、汎アラブ国家を実現することはできなかった。
(写真)T.E.ロレンス(1888~1935年)。この写真はアラビアで撮影されたもの。(出典:「世界の歴史9」J.M.ロバーツ著創元社2003年刊)

『アラビアのロレンス』(Lawrence of Arabia)

●1962年のイギリス映画。歴史映画。デヴィッド・リーン監督、ピーター・オトゥール主演。
最初の砂漠の印象的なシーンを紹介してみよう。( flash動画11.9MB)
(音量ボタンを小にしてから、再生して下さい。)星野。


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歴史内容
1916年サイクス・ピコ協定
「3つの分割秘密協定」による西アジア
サイクス・ピコ協定

●しかしフサインの要求は、トルコとクルド人居住地域を除くアラブ全域の独立を望んでいた。イギリスはその要求を容認できるはずもなく、またフランスの意向も聞かねばならず、1916年5月フランスとロシアを加えた3カ国で中東地域の分割の秘密協定(サイクス・ピコ協定)を結んだ。この秘密協定が暴露されたのは、1917年に起こったロシア革命で政権を握ったソヴィエト政府が公表したからである。アラブはイギリスの裏切りに激怒する。(地図)「3つの分割秘密協定」による西アジア(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)
●イギリスは、イラク中部と南部、ヨルダン、パレスチナ南部を勢力圏とする。
●フランスは、イラク北部、シリア、レバノンを勢力圏とする。
●ロシアはダーダネルス海峡方面の領有が認められる。
●そしてエルサレムを含むパレスティナ北部は、国際管理地域とした。
●左地図が、サイクス・ピコ協定のイギリスとフランスの分断地図である。地図上の線が分割線であるが、1920年のサンレモ協定で修正され、フランスはオスマン帝国時代の「トルコ石油」の持ち株を25%取得し、イギリスはクルド人地域のモスル周辺で発見されたばかりの石油層を手にした。(地図)「帝国の分割」(出典:『地図で読む世界情勢第2部』河出書房新社2009年刊)

アラブの反乱
アラブの反乱

●反乱は、1916年6月にメディナのオスマン軍の守備隊への攻撃から始まり、10月までにジッダ、メッカ、ターイフなどの都市を制圧した。そして10月29日フサインはメッカで、「アラブ民族の王」として即位を宣言して、ヒジャーズ王国を建てた。イギリス、フランス、ロシアもこの国を承認した。そして翌1917年7月に、フサインの子ファイサル率いるアラブ軍は、要衝アカバを攻略した。そしてイギリス軍と協力してシリアへ進軍し、1918年10月ダマスクスを攻略して、オスマン帝国からアラブ民族を解放した。エルサレムは、イギリスのエジプト遠征軍司令官エドムンド・アレンビーがオスマン軍と戦い1917年占領した。アレンビーがエルサレムに入ったとき、ユダヤ人社会から熱烈に迎えられたという。

アメリカの参戦と「バルフォア宣言」
バルフォア宣言

●1917年4月、これまで中立を保持してきたアメリカは、ドイツ潜水艦(Uボート)による無差別攻撃を受け、ウイルソン大統領が「世界の民主主義を救え!」と下院で訴えて承認され、ついに参戦した。ウイルソン大統領の参戦の基本方針のひとつに、オスマン帝国内に住む非トルコ人の「発展の機会が決して阻害されないこと」を望むとの表明があった。
●1917年11月イギリス外相は「バルフォア宣言」をおこなった。これはイギリス・シオニスト連盟会長ロスチャイルド卿への書簡の形式で声明された。内容は「イギリス政府は、パレスティナにユダヤ人の民族的郷土(ナショナル・ホーム)を建設することを支持する」というものだった。そしてアメリカは、同時にパレスティナの非ユダヤ人を保護するための条件を加えることで公正を期そうとしたが、アラブ民族の反発は避けられようがなかった。
●イギリスの「バルフォア宣言」の背景には、アメリカ参戦に伴うアメリカユダヤ系資本の協力が必要であった、ということである。また有名なロスチャイルドも、ヨーロッパ(イギリス)最大のユダヤ系金融財閥であった。

1917年~1918年第1次世界大戦終結まで ●1917年3月、ロシア2月革命、ロマノフ王朝300年の歴史に幕。皇帝ニコライ2世退位。
●1917年11月、ロシア10月革命、ソヴィエト政権樹立を宣言。ソビエト会議は、平和に関する布告で「民主的平和の原則と交戦国と即時無併合無賠償の講和締結」を提唱した。
●1918年1月アメリカ・ウイルソン大統領、平和の回復のための戦後の講和条件「14か条」を議会で発表。「敗戦国に対する寛大な戦後処理、秘密外交の排除、公海の自由、通商障壁の撤廃、軍縮、民族自決、国際連盟結成」などを提唱した。
●1918年1月、全ロシア・ソヴィエト大会が、「ロシア社会主義連邦ソヴィエト共和国」成立を宣言。
●1918年3月、ソヴィエト政府が、ドイツ側4か国(ドイツ・オーストリア=ハンガリー・ブルガリア・オスマン帝国)と単独講和を行う。屈辱的な講和にもかかわらず、ソヴィエトは第1次世界大戦から離脱した。ソヴィエト社会主義共和国は、民族自決の原則により、帝国主義戦争そのものを否認した。だから帝国主義による秘密条約「サイクス・ピコ協定」も公表したわけである。民族自決は社会主義運動の重要なスローガンだった。
●1918年6月、ソヴィエト政権は、徴兵制をしき赤軍を強化する。国内の反革命勢力との内戦と、英仏を中心による武力干渉によるものであった。
●1918年8月、ロシア革命阻止のため、日本軍「シベリア出兵(軍事干渉)」を開始する。アメリカ・イギリス・フランス・イタリア・カナダ・中国の部隊が続いた。日本は協定の12000人をはるかに超す73000人を送った。
●1918年11月、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が、革命により退位した。オーストリア=ハンガリー皇帝カール1世も、すべての権力を放棄し、ここにハプスブルク家帝国が崩壊した。
●1918年11月、ドイツ、連合国と屈辱の休戦協定を結ぶ。ここに第1次世界大戦は終結した。そして1919年6月ヴェルサイユ講和条約が調印された。
1919年
ファイサル、パリ講和会議

●パリ講和会議でファイサルは、アラブ民族独立のための民族的要望をもって会議に臨んだ。当時のシリアでは、シリア各地から選出されたシリア国民会議が、アラブ国家建設を決議していた。ファイサルの要望は、①シリア王国(パレスティナを含む)の建設(ファイサルを王)②兄のアブドゥッラーのイラク王国建設③サイクス・ピコ協定とバルフォア宣言の拒否、委任統治の拒否などであった。しかしイギリス、フランスは、中東の民族運動には関心は持っていなかった。そして5月に、父フサインのヒジャーズ軍が、イブン・サウードに大敗したことにより、ファイサルはフランス・クレマンソーと妥協せざるを得なくなってしまった。(上写真)1919年パリ講和会議でのファイサル(出典:『クロニック世界全史』講談社1994年刊)

1918年7月 ●オスマン帝国の第35代スルタン・メフメト5世が病没し、メフメト6世がスルタンを継承し、青年トルコのエンヴェル・パシャを罷免した。そして10月、オスマン帝国は連合国と休戦協定(ムドロス休戦協定)を結んだ。オスマン帝国は武装解除され、連合国の進駐始まる。
●1919年5月には、ギリシャ軍がパリ講和会議決定事項履行を口実に、オスマン帝国のイズミル(スミルナ)に上陸し占領する。
●そして1920年8月のセーブル条約で、オスマン帝国は連合国(イギリス・フランス・イタリア)へ領土を割譲し、治外法権を認めた。これによりオスマン帝国は、植民地に等しい状態となった。
1920年4月トルコ ●トルコ大国民議会がムスタファ・ケマルを議長に選出し、革命政権の樹立を宣言する (アンカラ政府の樹立 )。
1920年7月シリア
フランス、シリアとレバノンを委任統治する

●フランス軍がダマスクスを占領する。3日後、シリア王国のファイサル国王を追放して委任統治を開始する。
シリアのアラブ人は、イギリス・フランスによる委任統治を嫌い、さる3月8日にハーシム家のファイサルを国王に戴くシリア王国の建国を宣言。これに対しイギリス・フランスは 3カ月前、サンレモ会議でシリアとレバノンをフランス、パレスティナとイラクをイギリスの委任統治下に置くと決定し、フランスとシリアの緊張は頂点に達した。この月14日、フランスは最後通牒を発して軍事行動を開始、この日、ダマスクスを占領したのである。この3日後、フランスは国王ファイサルを国外追放し、以後、1940年代半ばまでシリア、レバノンを委任統治することになる。

1921年 2月21日イラン
イラン、レザー・ハーン無血クーデター

●陸軍大佐レザー・ハーンがコサック隊をひきいてテヘランに進軍、無血クーデターに成功する。このクーデターは、革命ソビエトの封じ込めのため、イギリスが後押しをしたものだった。しかし革命政権は、イギリスの思惑を裏切り、ソビエト政権と友好条約を締結してしまった。そこで保守的な政治家たちは反撃を開始し、革命政権の宰相は地位を追われてしまう。その後レザー・ハーンはさらに権力を集め、改革を進めて独占的権力を握り、シャー(国王)となっていった。

1921年 3月30日エルサレム
アラブ地域の戦後処理確定

●第1次大戦に敗れたオスマン帝国の支配下にあったアラブ地域の戦後処理が確定する。
英植民地相ウィンストン・チャーチルとハーシム家の次男アブド・アッラーとの間に合意が成立しアラブ地域の戦後処理が確定した。
●この会談の結果、ハーシム家がイギリス委任統治下のアラブ地域の君主となることが決定。8月にアブド・アッラー弟ファイサルがイラク国王に、アブド・アッラー自身も2年後にはトランス・ヨルダン首長になる。だが、これはアラブ地域が実質的にイギリスの植民地となることを意味し、さらにトランス・ヨルダンと分離したイギリス委任統治下のパレスティナには、大量のユダヤ人移民が流入を開始。新たな問題を発生させる。

1922年2月エジプト
エジプト独立宣言

●イギリスが保護権を放棄し、エジプトが独立を宣言、エジプト王国が成立する。
イギリスは反英民族主義運動の高まりに対して、保護統治を一方的に廃止して、その運動の懐柔を図ったのである。だがイギリスは、外交・軍事権、スエズ運河・スーダンにおける権益など、いぜん保持する留保条件を付しており、この独立は名目的なものにとどまった。そして3月15日、ムハンマド・アリー朝の ファード1世が国王に即位し、エジプト王国が成立した。本当の意味でのエジプトの完全な独立は、 1952年のエジプト革命を待つことになる。

1922年9月トルコ
オスマン帝国滅亡

●ムスタファ・ケマル率いる国民戦線は、ギリシャ軍に占領されていた湾岸都市イズミルを奪還する。祖国解放戦争に勝利したムスタファ・ケマルは十月に連合国とムダニヤ休戦協定を締結した。11月にはスルタン制とカリフ制を分離し、まずスルタン制を廃止した(トルコ革命)。第36代メフメト6世はマルタ島へ亡命し、オスマン朝は名実ともに滅亡した。(地図)(出典:『興亡の世界史10・オスマン帝国500年の平和』林佳世子著・講談社2008年刊)

ムスタファ・ケマル
(出典:「世界の歴史9」第2次世界大戦と戦後の世界・J.M.ロバーツ著・創元社2003年刊)
ムスタファ・ケマル

(写真と文引用)
●彼は2度歴史を作り出している。1度目は第一次世界大戦直後のギリシャ軍の侵攻をふせいだ時、2度目は新生国家トルコの初代大統領となったときである。
ギリシャ軍の侵略を受けて、1919年にケマルがサムスン(トルコ北部の港湾都市)に上陸したときが、一般にトルコ革命の始まりと考えられている。1920年、ケマルはアンカラに「トルコ大国民議会」政府を樹立した。彼はまたトルコ国民軍の司令官をかね、1921年にサカリア川の戦いでギリシャ軍と戦闘を交えて、撃退することに成功した
1923年10月29日、ケマルは正式にトルコ共和国の建国を宣言し、共和国の初代大統領となった。彼は進歩と科学の信奉者だったが、社会における歴史、民族、文化の重要性にも気づいていた。彼は独裁的な権力を行使したが、共和国議会で多数の支持を集めることにも何とか成功していた。
(写真)ムスタファ・ケマル(1880年~1938年)1922年撮影。この写真では、トルコ国民軍の司令官としての軍服を着用している。

1923年5月ヨルダン
トランス・ヨルダン首長国成立

●イギリスの委任統治領トランス・ヨルダン首長国(ハーシム家アブド・アッラー首長)が成立する。この地は、もともとパレスティナの地で、歴史上、国家として成立したことがない地域だった。しかも住民の半分が遊牧民という、第1次大戦後に成立した中でも、最も「不自然な国家」の誕生となった。主要な産業がないこの国は、財政的にイギリスの援助を受け、軍事、外交もその管理下に置かれる。その後、憲法の制定、軍隊政府などが進み、1946年には独立をかちとるが、のちにパレスティナ問題で深刻な影響をこうむることになる。

1923年10月 29日トルコ
トルコ共和国成立

●トルコ共和国が成立し、ムスタファ・ケマルが初代大統領に選出される。
前年から始められた講和会議の結果、1923年7月24日ローザンヌ条約が締結した。この条約は、1920年にイスタンブール政府が連合国と締結した、屈辱的なセーブル条約を見直したものだった。こうしてアンカラ政府は、領土の保全と民族の独立を獲得し、民族解放と反帝国主義の2大目標を達成。この成功を受けてケマルは、ついにこの日、共和政移行に踏み切ったのである。さらに翌年3月3日には、カリフ制も廃止し、オスマン王家全員の国外追放を決定。4月20日には105条からなる共和国憲法が発布される。

1924年10月サウジアラビア
サウジアラビア王国建国

●サウード家のアブド・アル・アジーズ率いる軍隊が、ヒジャーズ王国支配下の聖地メッカを占領した。第1次大戦後、アラビア半島では、その領有をめぐってきヒジャーズ王国のフサインとサウード家が、激しく対立してきた。だがハーシム家のフサインが預言者ムハンマドの子孫で、聖地メッカ、メディナを支配していることから、アブド・アル・アジーズは攻撃の機会を待っていた。
●この年、トルコ共和国がカリフ制を廃止した直後の3月5日、フサインは突如自らをカリフ(預言者の後継者)と宣言。これが大半のイスラム教徒の反発を呼び起こし、いっきに反フサイン感情が高まった。この好機を得てサウード軍は、8月1日にリヤドから進軍を開始、この日、聖地メッカを占領したのである。翌年12月、ヒジャーズ王国は建国わずか9年目で滅亡する。フサインは、イギリス船でキプロスに亡命した。1927年イギリスはアブド・アル・アジーズとの間でジェッダ条約を結び、ヒジャーズとナジュドの支配権を承認した。そして1932年アブド・アル・アジーズがヒジャーズとナジュド両国を統合しサウジアラビア王国(サウード家によるアラビアの王国」の意味)を建国した。

1929年4月エジプト
エジプト、ムスリム同胞団結成

●ハサン・アル・バンナーが秘密組織「ムスリム同胞団」を結成、イスラムの徹底化を主張する。彼は、丘の上の広壮な外国人邸宅と下に広がるエジプト人労働者の家を見て、この組織の結成を思い立ったという。エジプトは7年前、イギリスからの独立を宣言。国王ファード1世は、以来 3回にわたって憲法を停止するなど反動的な統治を続けており、国民の反発は高まっていた。当初「ムスリム同胞団」一種の主教団体だったが、間もなく大衆の支持を得て、コーランを憲法としてイスラム国家建設を目指す社会運動団体に発展する。特に1930年から40年代にかけて、都市の労働者、商人、学生に広まり、一大勢力となる。

1929年8月エルサレム ●正午過ぎ、エルサレムの旧市街で棒などで武装したアラブ人群衆とユダヤ人が衝突、流血の騒ぎが起こった。1920年にイギリスがパレスティナを委任統治下において以降、ユダヤ人移住が進められアラブ人は圧迫感を募らせていた。さらにイスラム教徒とユダヤ教徒が、共通の聖地エルサレムでの礼拝を巡り対立。8日前にはユダヤ人の大群衆が、嘆きの壁でシオニズム推進を叫び関係は緊迫化、この衝突となった。この事件はすぐにパレスティナ全土に拡大し、イギリス委任統治政府は官憲を動員して動乱を鎮める。だが10日間におよぶ衝突で、アラブ側は死者87人と負傷者181人、ユダヤ側は死者133人と負傷者339人を出し、対立はいっそう深まる。
1930年4月パレスティナ
アラブ人ユダヤ人移民問題でゼネスト

●パレスティナ・アラブがゼネストを宣言。ユダヤ人移民問題が火種となる。この日結成されたアラブ高等委員会は、イギリス委任統治政府に、ユダヤ人への土地売却禁止、アラブ民主政府の設立などを要求。パレスティナ全土(現在のイスラエルを中心とする地域)に、ゼネストをよびかけた。パレスティナにはここ数年ドイツや東欧からのユダヤ人移民が増え、地元のアラブ人農民は、土地をうばわれ生活を侵害されることに不満をいだいていた。こうしてパレスティナは 1939年までアラブ人の抵抗運動の嵐が吹き荒れた。

1930年10月ジュネーブ
イラク王国独立

●イラク王国が独立し国際連盟に加入する。1921年イギリスは、ハーシム家のフサインを国王として、委任統治のもとにイラク王国を成立させた。その後イラクは、軍事、財政、司法、外交をイギリスに管理されながらも、1925年には憲法を制定、統治の核となる軍隊を編成して近代国家としての下地を整備してきた。そして独立となった。しかしクルド人やスンニ派アラビア人、シーア派アラビア人など多様な国民を抱える国家であった。

1934年12月トルコ
トルコ、女性参政権を実現。

●大統領ケマル・アタチュルクの提案で、国民議会は、この日、国会議員の選挙権・被選挙権を女性にも認め、法的には男女平等が達成された。ケマルは、1923年のトルコ共和国の誕生以来、種々の改革を断行してきた。1920年にはイスラム法によるシャリーア法廷の閉鎖、1925年には義務化されていたトルコ帽の着用を廃止し、またイスラム神秘主義教団の活動を停止した。さらに1926年、一夫多妻制を廃止する新市民法を制定し、1928年には憲法からイスラムを国教とする条項を削除。今年6月には、姓氏制を採用するなど、イスラムにかわって西洋的な近代化政策を推し進めてきた。この日の女性参政権の確立もその一環である。前月、ケマルはこうした功により、議会からアタチュルク(トルコの父)の姓を贈られた。

1939年7月イギリス
パレスティナ、ユダヤ人移民を制限

●イギリスの植民地相マルコム・マクドナルドが、パレスティナへのユダヤ人の移民を 6か月間禁止すると発表した。イギリスの委任統治領であるパレスティナでは、ユダヤ人とアラブ人がそれぞれ居住権を主張して対立。特にここ数年は、ナチスドイツによるユダヤ人迫害の影響で移民が激増しアラブ側は3年前から移民の停止、民族的政府の樹立を求めて反乱を続けていた。イギリス政府は居住地分割案を提出するが拒否され、その後もユダヤ人に同情を示す一方で石油を押さえるアラブ人にも配慮を示し、2カ月前にもユダヤ人移民を制限する「白書」を発表していた。5月に続く今回の措置にユダヤ人が反発、対立は一層激化する。イギリス国内でも意見は分裂し、イギリス政府はついに1948年、パレスティナの委任統治権を放棄する。

1941年8月イラン
イラン占領。国王退位。

●イギリスソ連両軍がイランを占領。国王レザー・シャー退位に追い込まれる。イラン南部からイギリス軍が、北部からソ連軍が進駐を開始。両国は圧倒的な軍事力でイラン軍に有効な反撃の場を与えることなく、軍事占領を完了した。1930年代を通じてイランは、ナチスドイツとの接近を強めていた。これを危惧したイギリス・ソ連両軍は、さる6月のドイツ軍のソ連侵入後、国王レザー・シャーに圧力をかけてきた。だが心情的にドイツ側に肩入れするレザー・シャーは、中立を盾にイラン国内に多数いたドイツ人の追放と、完成まもないイラン縦貫鉄道のソ連軍による使用を拒否してきた。再三にわたるイラン政府への要請をけられたイギリス・ソ連両軍は、ついにこの日、占領に踏み切った。これにより3国間で協定を締結したイランは分割占領され、主権行使の制約を受けることになる。

1945年3月カイロ ●エジプト王国、トランス・ヨルダン王国、シリア王国、レバノン共和国、サウジアラビア王国、イラク王国、イエメン王国の7カ国が、カイロで会議を開き、アラブの連帯をめざすアラブ連盟の設立に最終的に合意した。5月の正式発足後、加盟国は 21か国 (PLOも含む)にまで増加する。だが、強い権限をもたない連盟は、アラブ諸国間の紛争調停に大きな役割を果たすことができず、しだいにその弱点をさらけ出すことになる。
パレスティナ問題

この問題について、J.M.ロバーツから引用してみる。イギリスは帝国主義の時代から、この地域を支配してきた。そして現代にまで及ぶ混乱を招いて撤退したのは、かっての大英帝国イギリスであった。(出典:「世界の歴史9」第2次世界大戦と戦後の世界・J.M.ロバーツ著・創元社2003年刊)

一方、パレスティナは、アラビア半島よりもさらに複雑な情勢にありました。1921年にアラブ人が反ユダヤ暴動を起こし、ユダヤ人入植者たちに対する戦いを開始して以来、この不幸な土地に長く平和が訪れることはなかったのです。問題は単に、宗教と民族感情だけではありませんでした。ユダヤ人の入植は、近代化した西洋式の軍隊が増殖することを意味していたからです。事実、この近代的な軍隊が、パレスティナにおける経済関係を変化させ、アラブ人の伝統的な社会に対してそれまでなかった要求に押しつけることになったのです。
その結果、委任統治国であるイギリスは、アラブ人とユダヤ人の板挟みになってしまいました。ユダヤ人の入植を制限しなければアラブ側からの激しい攻撃を受け、入植を制限すればユダヤ側から激しい抗議を受けることになったからです。しかし当時の政治状況においては、イギリスはアラブ側を重視せざるをえませんでした。経済的にも戦略的にも、イギリスの安全保障の上で非常に重要な地域をアラブ側が押さえていたからです。
しかしその一方で、国際世論も高まりつつありました。特に1933 年にドイツでナチ党政権が誕生し、ユダヤ人への迫害を開始した結果、パレスティナ問題がこれまでになく人々の感情を刺激するようになりました。そうした状況の中、1937年までにはパレスティナのユダヤ人とアラブ人の間で激しい戦いがおこるようになり、まもなくイギリス軍はアラブ人の暴動の鎮圧に乗り出すことになります。
1947年11月ニューヨーク
国連総会、パレスティナ分割案を可決

●パレスティナを委任統治してきたイギリスは、アラブ人とユダヤ人の対立抗争と欧米諸国の非難によって、問題の解決を国連(パレスティナ特別委員会)に一任していて、ついに国連の決定をみた。イギリスは、ユダヤ人のパレスティナ移住を拒否したことで、国際的な非難をあび、分割案うみだす素地を作った。

1948年5月14日イスラエル
イスラエル建国宣言

●5/14午後4時、指導者ベングリオン(初代首相)は、イスラエル国の独立を宣言した。翌5/15はイギリスの委任統治終了の日であった。パレスティナでは、前年の国連での分割案可決から、ユダヤ人とアラブ人の激しい戦闘が続いていた。そしてこの独立宣言の翌15日、アラブ連合軍(シリア、レバノン、トランス・ヨルダン、エジプト、イラク)とイスラエルとの第1次中東戦争が勃発した。

●このころから、アラブ世界の最大の政治問題は、ユダヤ人による強引なイスラエル建国の決定によって、植民地問題からパレスチナ問題へと変わっていった。
1917年当時、パレスチナには60万人のアラブ人に対して、8万人のユダヤ人が住んでいたが、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害が始まると、パレスティナへのユダヤ人の入植者は急増した。イギリスはユダヤ人の入植者を制限しようとしたがだめで、パレスティナ分割の方もアラブ人からはっきり拒絶された。
戦争が終結すると、世界シオニスト会議は 100万人のユダヤ人のパレスチナへの即時入植を要求した。そしてイスラエル建国宣言となった。
●イスラエルは、建国と同時に起きた第一次中東戦争(1948年~1949年)に勝ち、入植地を建設し占領地を大きく拡大していった。翌年結ばれた休戦協定では、イスラエルは分割案より領土を25%も拡大し、94万人のアラブ人が難民となった。
1949年に戦争がおわると、戦前はアラブ系住民が人口の大半を占めていたパレスチナのイスラエル占領地域には、16万人程度のアラブ人しか残っていなかった。パレスチナの分割に伴い、国連によってパレスチナ人に認められていた土地も消滅した。いずれもイスラエルに併合されたり(ネゲヴ砂漠地帯がその代表的な例)、アラブ諸国に占領された。またガザ地区はエジプトに、ヨルダン川西岸地区(サマリアとユダヤ)はヨルダンに併合された。離散したパレスチナ人のうち、ユダヤやサマリア、ガザに家族がいる人々はそこへ移住し、それ以外の人々は急ごしらえの難民キャンプに身を寄せることになった。キャンプの生活条件はあまりにも厳しく、国連は難民キャンプで暮らすパレスチナ人のための組織(国連パレスチナ難民救済事業機関)を設立した。

(上左写真)1947年パレスティナ(出典:「目撃者」朝日新聞社1999年刊)
(上右地図)イスラエルの地図(出典:「世界の歴史9」J.M.ロバーツ著創元社2003年刊)

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