(思想)「憲法立案の要旨」「大日本帝国憲法」「教育勅語」「軍人勅諭」「文部省國體の本義」

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大日本帝国の根本思想
●「伊藤公直話」伊藤博文 千倉書房 昭和11年刊(1936年)国立国会図書館デジタルコレクション
ここでは、「伊藤公直話」伊藤博文著の中から、第三編 「憲政談」の「憲法立案の要旨と憲法政治の事」を引用する。大久保利通亡き後の明治新政府の実力者が、岩倉具視の命を受け、プロシアの憲法を参考にし帝国憲法の骨格を決定した。その「憲法制定」の基本の考えを述べている。昭和に至るまでの、日本の「国体」を決定した基本思想である。

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●「大日本帝国憲法」 国立国会図書館 「憲法条文・重要文書」より引用
●ここでは、「大日本帝国憲法」を引用する。大日本帝国はここに「統帥権=軍隊に対する指揮命令の権利」は、「天皇」にのみ属するとし、政府(内閣)は「天皇」にのみ責任を負い、議会に対しては責任を持たないことを定めた。これはプロシア憲法を参考にしたもので、1871年に成立したドイツ帝国は、「統帥権」は皇帝だけに直接帰属すると定め、帝国宰相(ビスマルクなど)は、議会に対しては責任を持たず、皇帝にのみ責任を負った。
●逆に議会がこの統帥権を獲得した国家(例えばイギリス・アメリカなど)は、第2次世界大戦で勝者になり、日本・ドイツは敗者となった。明治新政府は自身が士族階級であったがために、のちに軍部が暴走するとは思わなかったのかも知れない。軍隊は天皇にのみ直属するのだから、歯止めがきかなくなるのは歴史の必然ともいえる。現代においても、国家内部でのこの統帥権の争いは周辺国にまで波及する重大な問題である。
(ふりがな=○○○は、星野による、広辞苑、漢字源等による語意引用。また「十大詔勅謹解」前島義教 [著] 科外教育叢書刊行会大正7や「九大詔勅謹解 」大阪府立豊中中学校 編大正15、の語釈を参考にしたが、なかなかわかりにくい。)

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●「教育勅語」九大詔勅謹解 : 神器訓御製御歌抄著者大阪府立豊中中学校 編大正15刊 より引用
ここでは、1890年(明治23年)10月30日に発布された、「教育に関する勅語」を引用する。天皇制による日本の骨格を決めた思想である。(ふりがな=○○○は、星野による、広辞苑、漢字源等による語意引用。また「十大詔勅謹解」前島義教 [著] 科外教育叢書刊行会大正7の語釈から引用した。)

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●「軍人勅諭」「明石叢話. 7」明石為次 著 大正13-15 より引用 
ここでは、「軍人勅諭」を引用する。1878年(明治11年)に起こった「竹橋事件」。近衛砲兵大隊の兵士が蜂起し、当時仮皇居だった赤坂離宮へ、天皇への直訴を試みた。天皇と政府に忠誠を誓うはずの近衛兵の反乱は政府に衝撃を与えた。山県有朋は陸軍全兵士に「軍人訓戒」を配布した。そしてそれが「軍人勅諭」という形になった。日本軍の根本思想である。
昭和19(1944年)敗戦前年の発刊、「軍人勅諭読本」には、勅諭の前文に下記のように書かれている。
(ふりがな=○○○は、星野による、広辞苑、漢字源等による語意引用と、「九大詔勅謹解」による)
『・・大東亜戦争がはじまって、我が国は、世界の強国といはれる米・英の二国と、戦ふことになりました。開戦三年余、戦争がだんだんはげしくなり、今や我が国は興亡のわかれ目に立つに至りました。どんなに大きな苦しみを嘗(な)めても、何十年かかっても、この戦争には必ず勝ち抜かなければなりません。これからの我が国民は、一人ものこらず男子も女子も軍人精神を養ひ、それぞれの職場で、勇ましく働くことが必要になって来ました。とりわけやがて陸海軍の軍人となるべき青年や少年は、今から軍人勅諭に仰せ出されてあるたふとい(=とうとい)訓へを心の底に強く刻みつけておかなければなりません。
軍人勅諭は、御文章が長く、そのうちに昔のよみ方の文字や、むつかしい語句も多いので、文字や語句のわけをよくおぼえ、たびたびくりかへして奉読(ほうどく=つつしんでよむこと)しなければ、大御心(おおみごころ=天皇の心を)拝することができません。・・・』

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●「国体の本義」教学局教学官 小川義章 著夏期講習録. 昭和13年度(1938年)滋賀県 編 昭14至15 刊 引用
ここでは、昭和14年~15年(太平洋戦争勃発の前年《1939-1940年》)に発刊された滋賀県「夏期講習録」から「国体の本義について」の講話を引用する。
ここには、明治から大正にかけての日本の思想史の流れも解説されている。概観すれば、「大正デモクラシー」と呼ばれる現代の民主主義にもつながる時代が、日本にもあったことがわかる。それがあまりにも急激であったために、その反動で国家主義、国粋主義、軍国主義の台頭となったのだろうか。すさまじきものだ。古代社会から蘇ったような「祭政教一致」と、古色蒼然な「神勅」を権威づけして、日本を追い込んだのは、一体誰の発案なのだろうか。(ふりがな=○○○は、星野による、広辞苑、漢字源等による語意引用。)

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●「國體の本義」 文部省編 昭和12年(1937年)刊 より 一部引用
ここでは、文部省「國體の本義」から、「緒言」を引用する。日本国家の、西洋思想等に対する考えが、的確に述べられている。これこそが、明治から昭和へかけての、日本思想にほかならない。(ふりがな=○○○は、星野による、広辞苑、漢字源等による語意引用)

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 ●「憲法講話」 より「第二講(下)天皇(其の一)」美濃部達吉著 有斐閣1912年刊 引用
ここで「憲法講話」美濃部達吉より「天皇」を引用する。まず広辞苑より「天皇機関説」について引用すると、「明治憲法の解釈として、国家の統治権は天皇にあるとする説に対して、統治権は法人である国家に属し、天皇はその最高機関であるとする学説。一木喜徳郎・美濃部達吉らが唱えたが、1935年国体明徴問題がおこり、国体に反する学説とされた。」とある。
また「図解昭和史PHP研究所2008年刊」によれば、『天皇機関説論争は、当時の知識人=(欧米の科学的学問大系を身につけていて「神ががりの論」になじまない=)が、日本の軍国主義化に対し警鐘を鳴らすことなく、口をつぐんでしまうきっかけとなった、陸軍・右翼国家主義者による思想弾圧事件』とある。(ふりがな=○○○は、星野による、広辞苑、漢字源等による語意引用。また旧漢字はなるべく新漢字に直した。)

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