(歴史)「韓国・北朝鮮」の歴史と日本(5-3)

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1919年の「3.1独立運動」は朝鮮における近代史上最大の民族運動であり、朝鮮人のナショナリズムの原点の一つとされる。
ここでのポイントは、日露戦争(1904年~1905年)以後日韓議定書締結から始まる日本による韓国併合・植民地支配である。 朝鮮における抗日義兵闘争は日本に対する独立運動であり、1906年韓国総監府設置後の後期義兵闘争は、ゲリラ戦を中心に全国に広がり「戦争」と呼ばれるほどであった。そして1910年韓国併合にともなう朝鮮総督府による支配は、「武断政治」といわれたが「武力による植民地統治のための軍事支配」であった。それゆえ日本に対する民族独立運動は激しさを増し、その民衆運動に対する日本の憲兵・警察・正規軍による弾圧はさらに激しさを増した。1919年の「3.1独立運動」は朝鮮における近代史上最大の民族運動であり、朝鮮人のナショナリズムの原点の一つとされる。誇り高き隣国の民族が、蔑んできた日本から受けた屈辱と、日本の支配に対抗し独立のため流された民族の血は、「反日による民族のアイデンティティ(同一性・帰属意識)として、子々孫々永久に続く」と考える原点はこの時代から始まるのだろう。
●中国・義和団事件~日露(ロシア)戦争~韓国併合~日中戦争~太平洋戦争~日本敗戦(1945年頃)
ここでは「朝鮮の歴史(旧版1974年・新版1995年)三省堂刊」、「朝日百科・日本の歴史近代1」・朝日新聞社1989年刊などを参考とし要約・引用した。明治維新の日本史は「日本の歴史・第10巻」読売新聞社1963年第14刷から要約・引用した。日本の昭和史は「昭和2万日の全記録・第6・7巻」講談社1989・90年刊などから要約・引用した。現代史は「激動!!北朝鮮・韓国そして日本」重村智計(しげむら・としみつ)著・実業之日本社2013年刊を抜粋要約した。


●1945年日本無条件降伏については次のページ、「韓国・北朝鮮」の歴史と日本(5-4)で述べる。

韓国併合される。
事項・年 (保護国・日韓併合・独立・分断)
1899年
中国「義和団蜂起」列国の中国侵略に反抗し蜂起したが、8カ国連合国に鎮圧される。
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中国「義和団蜂起」

●義和拳教徒らは、義和団という秘密結社を中心として、農民達を含めて、キリスト教および列国の中国侵略に反抗して山東省で蜂起した。翌1900年には北京に入城し、各国公使館地域を包囲した。義和団は「扶清滅洋=清をたすけて外国を滅ぼせ」をスローガンとし、おおきな暴動となった。清朝もこれを機に列国に対して宣戦布告したため、列国も清国軍と交戦となった。このとき日本は、アメリカ・イギリス・ロシア・ドイツ・フランス・イタリア・オーストリアとともに出兵し8カ国連合国で鎮圧にあたった。アメリカ映画「北京の55日」がこの事件を題材にした。また日本軍の公使館附武官の柴五郎の働きは各国の賞賛を受けた。柴五郎はのちに大将となるが、その生い立ちは『ある明治人の記録』に書かれているとおり、会津藩出身であるがために戊辰戦争では悲惨な過去を持っている。
●この時イギリスは、南アフリカでのボーア戦争2年目にあたり、一方アメリカも米西戦争で獲得したフィリピンでの反乱に悩まされていた。だから日本は各国に日本の軍事力を認めさせるため、連合軍1万8千のうち、1万人という最大派兵を行なったといえる。イギリスは、ロシアに対抗する軍事力を日本に求めていた。
●事件後ロシアは満州の単独支配を進めたが、日本も台湾の対岸である中国アモイの占領を企て、勢力拡大、軍隊駐屯、鉄道敷設、鉱山採掘を狙った。まさにこれこそ列強と同じ帝国主義であった。しかしこのアモイ占領計画は突然中止された。(米英の抗議によるか)
●清朝政府は「北京議定書」により4億5千万両(テール)の賠償金を支払わされた。まさに左の風刺漫画のようである。


(左地図)中国の鉄道(出典:『クロニック世界全史』講談社1994年刊)
(風刺漫画)左からイギリス・ドイツ・ロシア・フランス・日本(出典:『丸善エンサイクロペディア大百科』丸善1995年刊)
日本・ロシアの対立
日英同盟締結へ
満州から撤兵しないロシアに対抗
●イギリスは義和団事件後も満州から撤兵しないロシアに対抗するため、清国の領土を侵略しないという協定(俗称揚子江協定)を各国と結ぼうとした。しかしこの協定には、ドイツが参加しなかったため不調に終わった(日本は参加)。
●一方ロシアは清国との間で、満州の駐兵権を認めさせる条約結ぼうした。対するイギリス・日本は強く抗議し、露清間交渉を決裂させた。こうしたなか、日本では「ロシアと直接協定」派の伊藤博文(井上馨支持)と「ロシアと反目しても日英同盟締結」派の山県有朋(桂首相、小村外相ら支持)が対立した。伊藤博文らは、満州をロシアの自由にさせて、代わりに朝鮮を政治的に自由にする「満韓交換論」が、武力衝突をさける方策であると考えていた。
1902年
日英同盟締結。
清韓両国の独立と領土保全を宣言。しかし紛争当事国以外の第3国の介入には、同盟国は参戦する、というもの。
日英同盟締結

●伊藤博文は、ロシアとの単独協定交渉のためロシアを訪れたが、この動きがイギリスを焦らせた。イギリスは、日本とロシアが同盟を結ぶことを恐れたためである。桂首相は山県有朋の支持を得て日英同盟に調印した。
この内容は、第一に清韓両国の独立と領土保全を宣言し、日本の朝鮮に対する政治的自由行動(朝鮮を支配)を認めなかった。
しかし次の内容は、ロシアに対して衝撃を与えた。これは第3国との紛争が起きたときは、同盟国は参戦するという内容であった。例えば日本と朝鮮が紛争となりロシアが介入すれば、イギリスが参戦するというものであったからである。ロシアと同盟を結んでいたフランスは、露仏同盟は極東にも適用される、とイギリスに対して牽制したが、フランスはイギリスと戦争する気はなかった。ロシアは清国と日英同盟締結の2ヶ月後、満州を清国に返すことと、3期にわたって満州から撤兵する条約を結んだ。こうして日本はロシアに対して、列強の干渉なしに対決できるようになった。

日露戦争前夜
日本、強固となるロシアの満州支配に対し危機感を抱き、戦争を決意する。
日本の世論、熱狂的な主戦論に変わる。
最後まで非戦論を強く唱えた「平民新聞」の一例

「戦争は支配階級の私利私欲によるものであり、その他の万民にとっては利益と幸福がそこなわれるだけではないか。だからこの戦争にもし勝ったとしても、あとにのこるのは、子孫にまで負わなければならない公債と過酷な増税、しかもそのうえ軍国主義がはびこって、軍備拡張・物価の騰貴・風俗の堕落などに苦しめられることは、日清戦争で経験ずみではないか」
日本の朝鮮支配のもくろみ

●日本は鉄道を中心として利権を拡大することにより、朝鮮を実質的に支配しようとした。前に述べた列強の「帝国主義」のやり方である。各国も朝鮮政府より鉱山開発権を手に入れるようになっていた。日本は日清戦争の時、「日韓暫定合同条款」で初めての鉄道である「京仁線(京城~仁川)」と「京釜線(京城~釜山)」の敷設権を獲得していた。
しかし日本には資本がなく、着工できずにいるうちに、利権が消滅する期限を迎えるようになってしまった。アメリカの資本家のモールスは「京仁線」の敷設権を取り、フランスも「京釜線」を狙っていた。
あせった日本政府は、渋沢栄一らを発起人として財閥を加え、補助金も出して「京仁線」をモールスから買い取り、大急ぎで完成させた。「京釜線」も日露戦争が切迫するにおよんで、軍事上の必要から1904年にやっと開通させた。


●日本政府は、このような各国の利権争いが始まるにつれ、強固となるロシアの満州支配と、朝鮮王室と混乱した朝鮮政府がロシアへ傾斜することを恐れた。そしてこのままでは日本は朝鮮支配を実現できないと考え、ロシアとの戦争を覚悟した。ロシアは満州から撤兵をせず居座っていたからである。
●日本は日清戦争後より軍備拡張を行っていたが、ロシアとの戦争に対して、軍部の児玉源太郎参謀次長も山本権兵衛海相も自信は無かった。しかし時がたてばロシアの極東軍は増強されて、さらに形勢は悪くなるのだから、今戦争をすれば、とにかく一時の勝利は得られると軍指導部は考えた。
日本の世論も、ロシアが第2次撤兵を実行しないことで熱狂的な主戦論に変わっていった。最後まで非戦論を強く唱えたのは、「平民新聞」の幸徳秋水・堺利彦らであった。また同時に片山潜・阿部磯雄・木下尚江・西川光二郎らも社会主義の運動として非戦論を呼びかけた。内村鑑三はキリスト教的立場から非戦論をとなえた。与謝野晶子は『君死にたまふことなかれ』を1904年『明星』に発表した。

(重要語)
1903年12月ライト兄弟人類初の動力飛行に成功。1904年7月シベリア鉄道開通(全長8314km)。1905年1月血の日曜日事件発生(ロシア)。1905年アインシュタイン「特殊相対性理論発表」
1904年
日露戦争開戦。日本海軍の奇襲から始まる。
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(上写真)仁川に向かう最初の上陸部隊(下写真)28cm榴弾砲、野戦でも威力を発揮した。(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)』)
日露戦争(1904年~1905年)ポイント

●日本は開戦と同時に大韓帝国全土を制圧し、鴨緑江へ北上し遼陽でロシア軍をたたき、同時に渤海湾から上陸し、ロシアの旅順・海軍基地と満州を分断し、旅順を制圧することを意図した。
●一方ロシア軍は、最初は日本軍の優勢をみこして、日本軍を鴨緑江でくいとめながら、一方で日本軍の渤海湾上陸を阻止して旅順の艦隊を温存し、本国のバルチック艦隊を待つことを意図した。そしてシベリア鉄道を使って軍を増強し、南満州で一挙に反撃に転じるつもりであった。
●だから日本は援軍が来る前に、ロシア軍を陸海で撃破しなければならなかった。遼陽会戦(1904/08)では、ロシア軍22万(死傷者2万)日本軍13万(死傷者2万)の会戦で双方互角ではあったが、ロシアが撤退した形となった。しかし日本軍には砲弾もなくなり追撃もできなかった。
●旅順の攻防のなかで、203高地の突撃(旅順港みおろす)では、戦闘総員6万4千のうち1万7千人の死傷者を出した。そして1905年01/01旅順要塞司令官ステッセル将軍は降伏した。日本軍は攻防155日、13万の軍隊(後方部隊含む)を投入し5万9千の死傷者を出した。
●そして満州へ向かう日本軍(25万)とロシア軍(32万)は奉天で決戦に臨んだ。日本はすべてにおいて限界であった。日本の死傷者7万人、ロシアは9万人で、1905年3/10日本軍は奉天を占領したが、ロシア軍は撤退をしながらハルビンでの決戦に備えた。ロシアはさらに軍隊の増強に努めていた。
●日本はついに限界に達し、なんとか講和のチャンスを期待していた。そして日本海海戦(1905年5/27)でロシア・バルチック艦隊を撃破し大勝利をつかんだ。
●日本は戦費調達に、アメリカとイギリスで外債を募集し計8億円を得た(借金)。しかしこれは日清戦争の2億8千万と比べても巨額なものであった。日本は兵隊も物資も財源もすべて限界に達してしまった。
●日本は日本海海戦の4日後、アメリカ・ルーズベルト大統領に調停を依頼した。(日本が頼んだことがわからないように要請した)

●大韓帝国仁川上陸(1904/2月)、ロシア海軍基地旅順港攻撃開始。


●鴨緑江に集結するため北上。


●旅順港封鎖作戦(入口に船を沈める)


●旅順を封鎖するため南山での激戦。


●遼陽会戦(1904/8月)主力は満州に向かいロシア軍と会戦


●1904/8月旅順総攻撃(第1回)~1905/01/01旅順陥落


●奉天会戦(1905/3月)ロシア軍との最大の決戦。


●日本海海戦(1905/05/27)日本連合艦隊、ロシア・バルチック艦隊を破る。


●ポーツマス講和会議(1905/08月)アメリカに仲介を頼み、ロシアと講和する。
(注)この画像は「Wheelzoom」jsにより、マウスホールで拡大・縮小・移動ができます。jacklmoore氏サイトを参照してください。
朝鮮


●地図は地名がカタカナなので参考で使用した。現代の地名を表してはいない。日露戦争の会戦ポイント赤丸で記入した(星野)(出典:「世界地図帳」昭文社1983年刊)
1905年09/05
ポーツマス条約締結
●ロシアも戦争を続けられなくなっていた。「血の日曜日」事件(1905/1/22)や「戦艦ポチョムキンの反乱」(1905/06月)がおき、社会主義やマルクス主義の影響とロシア皇帝の専制政治に対する革命運動が激しさを増していた。またロシアの軍事費も、フランスの援助の下パリでの外債に頼っていたが、それも困難になっていた。しかしロシアは「一寸の領土も、一ルーブルの金も支払わない」つもりだった。なぜならロシアは戦争に負けたわけではないと思っていたからである。
●そこで日本は、絶対条件である「韓国の自由処分、ロシア軍隊の満州撤退、遼東半島租借権と旅順-ハルビン間鉄道の譲渡」を得たが、鉄道は「旅順-長春間」に譲歩し、第二条件であるカラフトの割譲は「カラフト南半分」に妥協した。そして「賠償金最高15億円」要求は撤回した。日本は講和を成立させることが必要だったのである。
●しかし日本では、前線で兵隊や弾薬が不足していたことなど知らない新聞雑誌や国民が、講和反対を叫んで暴動をおこした、「焼打ち事件」(1905/09/05)である。
大韓帝国と日露戦争
日本、大韓帝国(朝鮮)侵略を本格化する。


「日韓議定書1904年2/23」
「第1次日韓協約1904年8/22」
「第2次日韓協約1905年11/17」
「第3次日韓協約1907年7/24」

韓国条約類纂 : 附・各国関税対照表 統監府 1908年刊

国立国会図書館デジタルコレクション

●「デジタルコレクション」目次から各協約を選択できる。


●第2次日韓協約締結後、『皇城新聞』が論説で次のように述べた。

「是日也放声大哭」(この日こそ声を放って大いになくべきである)

日本に対する恨みは深く刻まれたことであろう。

「日韓議定書」・「日韓協約」による脅迫

●以前より大韓帝国政府は、韓国中立化を表明していた。そして開戦直前1904/1/23にも、戦時局外中立の声明を出した。しかし日本軍はそれを無視し2/8仁川に上陸して直ちにソウルを制圧し、1904年2/23には「日韓議定書」に調印させた。「日韓議定書」のポイントを抜き出すと以下のようになる。

●第一条・・大韓帝国政府は大日本を確信し施政の改善に関し其の忠告を容るゝ事
●第四条・・第三国の侵害に依り若(もし)くは内乱の為め大韓帝国の皇室の安寧或は領土の保全に危険ある場合は、大日本帝国政府は速に臨機必要の措置を取るべし。・・大韓帝国政府は・・(大日本帝国の行動を容易ならしむるため)・・十分便宜を与うる事
大日本帝国政府は前項の目的を達するため、軍略上必要の地点を臨機収用することを得ること・・、などである。

●1904年8/22には日本人顧問や外国人顧問の雇用と外交交渉における日本政府との事前交渉の義務化を定めた。「顧問政治」「第1次日韓協約」
●そして翌1905年日本は日露戦争の勝利と講和により、ロシアそしてアメリカ(桂・タフト協定)イギリス(第2回日英同盟)から朝鮮に対する保護権確立の承認を得た。そして日本はその実行のため、1905年11/17伊藤博文を派遣し日本軍司令官同行のもと、閣僚会議を開かせ恫喝と脅迫により「第2次日韓協約」を締結させた。賛意を示したのは学部大臣李完用(イワニョン)のみであったという。こうして大韓帝国は日本から外交権を剥奪され、そして1906年2月には統監府が京城に置かれ、初代統監に伊藤博文がなった。大韓帝国の対外関係はこれ以後東京の外務省が監理し、いかなる条約も独自に締結できなくなった。そして統監府は軍隊も使用することができ、韓国の警察・鉄道・通信の実権を手に入れていった。「第2次日韓協約」の第1条は下記のようである。

●第一条・・日本国政府は在東京外務省に由り今後韓国の外国に対する関係及事務を監理指揮すべく日本国の外交代表者及領事は外国に於ける韓国の臣民及利益を保護すべし

●この協約により、アメリカを筆頭に大韓帝国駐在の各国公使は撤収した。大韓帝国は独立国としての地位を失った。

1907年6月
「統監政治」に対する反日運動の高まり。
「ハーグ密使事件」
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「ハーグ密使事件」

●大韓帝国皇帝高宗は日本の統監政治や保護条約の不当性を国際社会に訴えるため、1907年6月にオランダ・ハーグで開かれた第2回万国平和会議に3人の密使を派遣した。しかし大韓帝国には外交権がないという理由で出席を拒否された。
●韓国統監は日本国天皇に直属し、大韓帝国政府に雇用された日本人官吏を監督し、韓国駐箚(=駐留)軍司令官への命令権を持ち、統監府令を発することができた。さらに駐箚軍は治安維持も担当し、治安警察権も握っていった。


(左写真)「ハーグ密使事件」左から李儁(イチュン)・李(イサンソル)李瑋鐘(イウイジョン)(出典:『丸善エンサイクロペディア大百科』丸善1995年刊)

(重要語)
「貨幣整理事業」・韓国銀行創立。「土地調査事業」「東洋拓殖株式会社」設立。「繊維工業の原料地」
1907年7/24
「第3次日韓協約」
大韓帝国軍隊の解散
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「統監による指導監理」と「大韓帝国軍隊の解散」

●日本はこの「ハーグ密使事件」絶好の口実として圧力をかけ、皇帝高宗に退位を迫り、7/20皇太子が即位した。純宗(スンジョン)である。民衆はソウル市内で譲位反対運動を行い、李完用(内閣首班)邸の焼き打ちなどを行い日本人警官と衝突を起こした。日本は軍隊を動員してこの抵抗運動を鎮圧するとともに、7/24に「第3次日韓協約」を李完用内閣との間で結んだ。これにより、大韓帝国は内政上でも統監の指導監理うけることになり、さらに大韓帝国軍隊も宮廷護衛の1大隊を残してすべて解散させられた。この「李完用」の名は、現在においても親日派・売国奴の代名詞となっているという。


(左写真)高宗と最後の皇帝純宗(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊))
1907年~1909年
大韓帝国軍解散、兵隊たちの暴動
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安重根(出典:「朝日百科日本の歴史近代1」朝日新聞1989年刊)tyou017
旅順刑務所で神父に遺言する安重根(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊))
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義兵(出典:「朝鮮の歴史(新版)」三省堂1995年刊
「抗日義兵闘争」

●1907年大韓帝国政府軍解散によって、各地で反対する兵隊たちは暴動を起こした。暴動は全朝鮮に波及し、日本軍・警察の襲撃、鉄道の切断など韓国の内政はマヒ状態になった。これを抗日義兵闘争という。日本は徹底的な鎮圧・掃討を行い、1909年には義兵の勢力は後退を余儀なくされ、中国東北部や沿海地方に移っていった。しかし彼らはそこに独立闘争の根拠地を建設していった。
●1909年10月、朝鮮民族主義活動家の安重根(アンジュングン)は、伊藤博文(もと統監)をハルビンで暗殺した。韓国では、安重根は抗日闘争の国民的英雄とされる。

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(写真)韓国統監伊藤博文と韓国駐箚軍司令官長谷川好道(出典:「写真記録日中戦争・敗戦と解放」ほるぷ出版1995年刊)
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写真・左2人目ハルビン駅に到着した伊藤博文、その右はロシア蔵相ココフツォ-フ(出典:「写真記録日中戦争」ほるぷ出版1995年刊)
1910年
日本、韓国を併合する(韓国併合に関する条約1910年)

(出典)「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03020879400、御署名原本・明治四十三年・条約第四号・韓国併合ニ関スル条約(国立公文書館)」「国立公文書館・アジア歴史資料センター」

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(写真)左・初代朝鮮総督寺内正毅、右・憲兵隊司令官兼警務総長明石元二郎。(出典:『丸善エンサイクロペディア大百科』丸善1995年刊)

韓国併合

●1910年8/22日本韓国を併合する。日本軍をソウルに集結させ厳戒態勢の中、統監寺内 正毅と総理大臣李完用が調印。以後35年にわたる植民地時代となる。
○第1条と第2条を下記に引用してみる。

第1条 韓国皇帝陛下は韓国全部に関する一切の統治権を完全且永久に日本国皇帝陛下に譲与す
第2条 日本国皇帝陛下は前条に掲げたる譲与を受諾し且全然韓国を日本帝国に併合することを承諾す

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1910年より
朝鮮総督府と「武断政治」soutoku003
(写真)「朝鮮総督府」韓国独立後、国立中央博物館として利用されたが、屈辱の歴史の象徴であるため1995年解体された。(出典:『丸善エンサイクロペディア大百科』丸善1995年刊)
「武断政治」

●日本は韓国併合前より、新聞紙法・保安法・出版法などにより言論・結社・集会活動を弾圧してきた。そして警察・憲兵隊を増員しさらに弾圧を強めていた。1910年の併合により、朝鮮総督府は絶大な権力を持ち、その権力は日本の首相さえ及ばないほどで、朝鮮総督府は天皇にのみ従う存在であった。そして一体化した憲兵警察機構が「武断政治」といわれ、軍事力による治安維持を第一として民衆を支配統制した。その当時の写真帳が複数出ているが、下のは日韓併合紀念とある。
●1911年日本は「同化政策」をとった。教育令を公布し教育勅語に則って国民教育を行い、実業教育も行った。
●土地調査事業が1910年から1918年にかけて行われた。これにより国有地と民有地が分けられたが、多くの国有地が東洋拓殖株式会社に払い下げられ、東拓は朝鮮経営のかなめとなっていった。一方土地を失って農村から流出した農民たちは、国外へ向かった。1920年以降朝鮮人の海外流出(日本と中国東北部)は増大していった。

「大日本帝国朝鮮写真帖 : 日韓併合紀念」統監府 編1910年刊国立国会図書館デジタルコレクション
大逆事件(日本)

●1910年日本の桂首相は内閣を取ると、社会主義者の弾圧を開始した。1910年5月、幸徳秋水の指導を受けていた4人の無政府主義者である青年たちが検挙された。6月には全国で数百名の社会主義者が検挙された。「爆弾による明治天皇暗殺を企てた」とされた「大逆事件」である。新聞は記事差し止めとなり、政府は極秘に取り調べを行い、26名を起訴した。非公開の裁判では弁護側の証人を一人も認めず、幸徳秋水ら24名に大逆罪による死刑判決を下した。
●そして1911年に国定終身教科書の改訂がなされた。そこには「皇大神宮」「建国」「国体の精華」「皇運扶翼」「忠孝一致」「皇祖皇宗の御遺訓」の課が作られた。「天皇」を尊敬することは家族の長を尊敬することと同じで、日本は家族国家であると強調された。皇室と国民は親子の関係だとされたわけである。

1919年3月1日
3.1朝鮮独立運動
徹底的な弾圧。
3.1独立運動、朝鮮人のナショナリズムの原点

●全土で日本に対する独立運動が展開された。最大の原因は、日本の「武断政治」による矛盾の激化だった。国際的にはアメリカのウイルソン大統領が民族自決主義を提唱したことや、ロシア革命が勃発したことなどの要因があった。デモは全土に波及し、労働者のストライキや商店の閉店抗議も行われた。やがて運動も非暴力のデモ行進から、暴力闘争へと変わっていった。そして国内の218の府郡のほとんどで蜂起が起こり、200万人以上が運動に参加した。
●これに対して日本は、警察・憲兵・軍隊を投入して徹底的な弾圧を加えた。その結果「韓国独立運動之血史」によれば、朝鮮人の死者7509人、負傷者1万5961人、逮捕者4万6948人にのぼった。この3.1独立運動は、朝鮮近代史上最大の民族運動であり、朝鮮人のナショナリズムの原点の一つとされている。

1919年8月
「文化政治」への転換

●この親日派に対する追求は今なお引き継がれており、2005年成立の「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」により、2007年「李完用」の子孫9名の土地(日本円で約4億8000万円)を没収し、韓国政府に帰属させた。これは、近代刑法における「法律不遡及の原則」を無視しても、過去の「親日派」の子孫すら罰するという、日本に対する韓国の深い恨みを垣間見た思いがする。
●この3.1独立運動に衝撃を受けた日本は、「文化政治」を標榜して政策の転換を図った。これにより朝鮮の民族主義へある程度の譲歩がみられた。しかし基本政策は「同化政策」であり、日本の原敬首相の「朝鮮を内地(=日本本土)に同化するの方針をもって諸般の制度を刷新する」ことであった。
●そして軍事色を表に出さないために、従来の憲兵警察制度を廃止し、普通警察制度を発足させた。しかしその警察官の人数は、3.1運動前の3倍以上に増員し、特高(=特別高等警察=思想・政治警察)や朝鮮人による私服警官・密偵を増やし、厳しい監視体制を作った。
●また地方制度を改革し、諮問機関として民選協議会を置いた。これは極端な制限選挙だったが、1920年第1回選挙では、当選者446人のうち4割の183人が朝鮮人だった。また3.1運動で辞職者が続出した地方官僚には、新たに朝鮮人を採用し、親日として育成していった。
●文化面の懐柔策としては、それまで禁止していた朝鮮語の新聞や雑誌の刊行を認めた。「朝鮮日報」や「東亜日報」はこの時1920年の創刊である。しかし日本と同じく、当局による検閲・押収・出版停止などにより厳しく監視、制限された。
●こうしたなか、植民地支配のなかでの制限された「言論」「近代化」「文化」「産業政策」のなかで、「親日派」と「民族主義者」の間に深刻な分裂を生み出した。
1920年代以降 ●本格化した日本資本の進出は労働者数を急増させ、その劣悪な労働条件から労働争議が多発するようになった。また日本による産米増殖計画は、土地を失って没落する農民をうみ、小作争議も多発していった。1930年代になると、社会主義思想が広まり、社会主義者の指導を受けて、戦闘的な労働・農民運動が盛んになっていった。一方朝鮮人の海外の流出は、日本と中国東北部へ増大していった。
1930年代 ●日本では昭和恐慌(1930年~1931年)が起き、満州事変(1931年)も勃発したが、逆に朝鮮では農業振興運動を展開して農家の救済に努めたり、工業化を推進して満州市場の需要に応えた。
●しかし1937年に日中戦争が始まると、朝鮮も戦時体制として経済統制がはじまり、軍需物資の生産を担う「兵站基地」となっていった。この政策によって朝鮮の産業は大きく変化し、工業生産額は1940年には全体の41%に達し、農産額と並ぶようになった。工業地帯の形成が進み、重化学工業を中心とする咸鏡道の北部工業地帯(現在北朝鮮)と、精米・紡績・機械器具を中心とする京畿道の京仁工業地帯(現在韓国)の発展は著しかった。
1936年のベルリンオリンピックorinnpikku013 ●孫 基禎(ソン・ギジョン)選手は、アジアの選手として初めてオリンピックのマラソンで金メダルを獲得した。しかし日本選手としてだったので、朝鮮の「東亜日報」は胸の日の丸を塗りつぶして写真を掲載した。朝鮮総督府は同紙記者の逮捕・発刊停止処分を行った。orinnpikku012
(左写真)「東亜日報に対する発行停止命令書」
(上写真)左側初版、検閲通過後、右修正写真を掲載した。(出典:「写真記録日中戦争6・敗戦と解放」ほるぷ出版1995年刊
「金日成」kinniti025 ●金日成(キムイルソン)は1932年中国吉林省で抗日遊撃隊を結成、1934年各地のパルチザンを結集して人民革命軍を編成した。1936年東北人民革命軍は朝鮮人の抗日民族統一戦線として在満韓人祖国光復会を結成し、改編された東北抗日連軍の師長(師団長)の金日成(キムイルソン)は名を轟かせた。後にソ連の朝鮮工作団の責任者に選ばれ、日本降伏後ソ連軍とともに元山(ウォンサン)に上陸する。抗日パルチザンとして活動してきた金日成は、朝鮮統一における指導者としての「正当性」を誇っている。


(左写真)「人民革命軍の同志と語り合う金日成」
(出典:「写真記録日中戦争6・敗戦と解放」ほるぷ出版1995年刊
1937年~
日中戦争
「強制連行」
(日本)国家総動員法(38年)国民徴用令(39年)

●日本での労働力不足を補うため、植民地を含む労働力動員計画が立てられた。朝鮮からは39年、8万5千人が割り当てられた。当初は強制動員は避けられたが、太平洋戦時下(1942年)からは「官斡旋」で直接労働者を募集し、1944年からは徴用令状(青紙)で強制連行となった。その数は1939年から1945年までで、約113万人にのぼり、炭鉱・鉱山・土木工事の現場に送り込まれた。日本の炭鉱では朝鮮労働者が全労働者の1/3を占めたと言われる。女子挺身隊は数10万人が各地の軍需工場などに動員された。
●1920年代から日本に渡った人々と、この時に強制連行された人々が、在日朝鮮人の源流になった。

1937年~
日中戦争
「従軍慰安婦」
●「従軍慰安婦」については次章「韓国・北朝鮮」の歴史と日本(5-5)で、「朝日新聞社の釈明」と「読売新聞社の朝日新聞社へ対する批判」を引用する。
1937年~
日中戦争
「内鮮一体」
「内鮮一体」の皇民化政策

●「内鮮一体」とは朝鮮人を「忠良なる皇国臣民」とするためのスローガンのこと。また「創氏改名」「第三次朝鮮教育令」「宮城遥拝」「神社参拝」「国旗掲揚」などを強制した。なかでも教育内容から実質的に「朝鮮語」を廃止したこと、そして「創氏改名」により民族固有の名を奪ったことは、同姓の男系血族集団(同本同姓)という民族のアイデンティティを否定するもので、このことも大きな屈辱と恨みを植え付けた一つである。

1941年
太平洋戦争(1941年ハワイ真珠湾攻撃~)
●1943年「兵役法」が改正され「徴兵制」が公布された。そして翌1944年徴兵検査実施され朝鮮人入営が開始された。次ページ(「韓国・北朝鮮の歴史と日本」5-4)の最後の「日本の敗戦」のなかで、BC級裁判の一覧を載せたが、148人の朝鮮人が被告とされている。1941年上海大韓民国臨時政府は、日本に宣戦布告した。
1945年8月
朝鮮解放
日本帝国無条件降伏(1945年)

●朝鮮の解放。政治犯の釈放。建国準備委員会は「朝鮮人民共和国」の樹立を提案。李承晩らは参加を拒否。アメリカは反対。アメリカとソ連による分割占領。1947年秋、内戦が続いていた中国で東北地方が中共軍の勢力下に入ると、その影響が朝鮮におよぶことを恐れた米軍政府は、左翼の活動を徹底して弾圧して、反共主義者の李承晩(イスンマン)を擁護した。

1948年 ●大韓民国(大統領李承晩)樹立(1948年)
●朝鮮民主主義人民共和国(首相金日成)樹立(1948年)
1950年~1953年 ●朝鮮戦争・南北分断(1950年~1953年・休戦協定締結)(※60年以上たった現在でも朝鮮戦争は終結せず、休戦のままである)

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●「韓国・北朝鮮の歴史と日本」の年表。朝鮮王朝成立(14世紀頃)~日本敗戦(1945年頃)
ここでは、14世紀朝鮮王朝成立から20世紀(1945年日本無条件降伏頃)までを年表にした。

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