(歴史)「韓国・北朝鮮」の歴史と日本(5-2)

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朝鮮の「鎖国攘夷」と日本の方向転換「倒幕・門戸開放」
ここでのポイントは、最初は日本も朝鮮も、列強に対して「攘夷」であったことだ。朝鮮は「鎖国攘夷」を徹底し、列強をも撃退することができた。日本はあまりの力の差と、清国の悲劇をまのあたりにして方向転換を行い、「尊皇攘夷」から「倒幕・門戸開放」へ向かった。ここが日本の変わり身の早さであり、旧支配層を打ち破る力と、現実的な思想を持った維新の志士達の力といえる。
●「韓国・北朝鮮の歴史と日本」のポイント。朝鮮王朝成立(14世紀末頃)~大韓帝国成立(1897年頃)
ここでは「朝鮮の歴史(旧版1974年・新版1995年)三省堂刊」、「朝日百科・日本の歴史近代1」・朝日新聞社1989年刊などを参考とし要約・引用した。明治維新の日本史は「日本の歴史・第10巻」読売新聞社1963年第14刷から要約・引用した。日本の昭和史は「昭和2万日の全記録・第6・7巻」講談社1989・90年刊などから要約・引用した。現代史は「激動!!北朝鮮・韓国そして日本」重村智計(しげむら・としみつ)著・実業之日本社2013年刊を抜粋要約した。
●1897年以降から日本敗戦までは次のページ、「韓国・北朝鮮」の歴史と日本(5-4)で述べる。
ポイント
年代 事項 朝鮮王朝
14世紀 「李成桂、朝鮮王朝建国」
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●朝鮮王朝は李成桂(イソンゲ)が建国し(1392年)、500年以上続いた。
●仏教(高麗王朝)を排斥し、儒教(朱子学)を採用して国家建設を行った。(現代において、儒教の《孝を中心とする》価値観と伝統を、社会に徹底して生かしている国は、世界で韓国・北朝鮮しかない。)


左絵「李成桂」(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)』)

15世紀 ● 「世宗(セジュン)王」は王朝最高の名君といわれる。最大の成果がこの「ハングル=大(ハン)+文字(クル)の意味」で(古くは諺文といった)、体系性と合理性をそなえた新しい文字であり、朝鮮独自の文字の完成である。
「世宗王」はハングル公布にあたり次のように述べた。

「国の語音が中国と異なり、文字がおたがいに通じないので、愚かな民には言いたいことがあっても、その情を十分に述べることができないものが多い。予はこれをあわれみ、新しく28文字を制定した。人々が習い易く、日用にに便ならしむるためである」

●しかし李朝時代はいぜんとして漢字が正字とされていたが、1894年の甲午改革によって公用文にも使われるようになり「国文」とよばれるようになった。

●世宗王による訓民正音(ハングル)の創製。「金属活字による印刷技術」「李朝実録(1706巻におよぶ膨大な歴史書)」「経国大典」


「訓民正音」
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(出典:『朝鮮の歴史(新版)』三省堂1995年刊)

16世紀 tyou010
絵「李退渓(李滉)(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)』)
●両班(ヤンバン・リャンバン=高麗王朝時代からの文臣《文班》・武臣《武班》から発展)は、初期は勲旧派とよばれる両班官僚で、のちに新進官僚(科挙制度により台頭=士林派)が新勢力となった。両派は対立抗争を繰り返したが、16世紀半ばには士林派が主導権を握った。士林派の内部抗争は、党争(東人・西人・南人・北人)といわれた。
●その頃、李滉(イ・ファン)・李 珥(イ・イ)らが朝鮮朱子学を大成した。特に李滉(イ・ファン)の学説は、日本の藤原惺窩・林 羅山・山崎闇斎らに決定的な影響を与えたといわれる。
●その頃の身分制度は、両班・中人・常民・賤民(奴婢と白丁)の4つに分けられていた。
「豊臣秀吉、朝鮮侵攻」
「亀甲船」
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(出典:『朝鮮の歴史(旧版)』三省堂1974年刊)
●日本の豊臣秀吉による朝鮮侵攻(壬辰倭乱1592=文禄の役・丁酉倭乱1597=慶長の役)。李舜臣(イスンシン)の活躍。亀甲船による日本水軍打破。現代でも、李舜臣は国を守った英雄として尊敬されている。この時秀吉軍は、朝鮮人陶工をはじめとして、数多くの捕虜を連行した。日本の萩焼・有田焼・薩摩焼・唐津焼などは、この時最先端の技術を有する朝鮮人陶工が、技術を伝えて創始したことで有名である。秀吉の死により戦争は終結した。
日本・徳川幕府と関係修復

●日本では、徳川家康が秀吉の死後ただちに朝鮮から兵を撤退させ、国内統一へ邁進した。1600年の「関ヶ原の戦い」で豊臣家との天下分け目の戦いに勝利し、1603年武家の棟梁として朝廷より「征夷大将軍」に任命され江戸幕府を開いた。特筆すべきは、「禁中並公家諸法度」で、天皇の主な職務を定め、第1条は『天子諸藝能之事、第一御學問也。・・』として、朝廷すら法的に管理したことである。また「武家諸法度」第1条で、武家は『文武弓馬ノ道、専ラ相嗜ムベキ事』とし、武家のあるべき形も示したことである。
●儒教(朱子学)の林羅山(道春)は、藤原惺窩の推挙を受け、23歳の若さで家康のブレーンの一人となった。朱子学は江戸幕府の正学とされた。

*リンクします「三徳抄」林道春 国民思想叢書・ 儒教篇 1929-1931刊→国立国会図書館デジタルコレクション

●下の絵は、17世紀に描かれた「江戸図屏風」の一部を、切り取り合成した参考図。「朝鮮通信使」の一行が、江戸城正面・大手門に描かれている。
●この画像は、マウスホイールで拡大・縮小・移動ができる。この画像操作は「Wheelzoom」jsにより行っている。jacklmoore氏のサイトを参照してください。


江戸図屏風


この「江戸図屏風」は『江戸時代初期の江戸市街地および近郊の景観を画題として、そのなかに江戸幕府第三代将軍徳川家光の事蹟を描き込んだ、六曲一双の屏風。(=国立歴史民俗博物館)』とあります。このなかには明暦3年(1657年)の大火で焼け落ちた江戸城天守が描かれていて、その江戸城大手門には、登城する「朝鮮通信使」の一行が描かれている。この図では、正使・副使とおぼしき人物は輿に乗り、従者に天蓋様の長柄の傘をさしかけさせ、まだ大手門へ向かう城外にいる。先行する先頭集団は大手三之門前に達し、橋前には4人が並んで、竿頭に矛のついた旌旗を押し立てている。また濠端には虎皮その他獣皮類など献上品が並んでいる。豊臣秀吉の朝鮮侵攻の後、難航していた日朝の修好が、徳川家康によって関係が修復されていったことを象徴している。(出典:「江戸図屏風」平凡社1971年刊と「江戸図屏風」国立歴史民俗博物館)

*リンクします「江戸図屏風」→「国立歴史民俗博物館」

年代 事項 朝鮮王朝
17世紀 「朝鮮通信使」
(右絵)「朝鮮通信使」
「使節の人員は300~500人にのぼり、朝鮮側・日本側とも多大の経費と労力をかけて準備と接待にあたった。日本各地には通信使に縁のある書籍、芸能、絵画などが残されており、使節が両国文化交流の上で大きな役割を果たしたことを示している。」
(出典:『丸善エンサイクロペディア大百科』丸善1995年刊)
●徳川幕府との友好(朝鮮通信使)。朝鮮王朝と徳川幕府(家康)のあいだに立った対馬藩は、国書を偽造してまで国交回復を望んだ。1607年の第1回目は回答兼刷還使といい、日本からの要請に答え(=回答)、捕虜として連行された朝鮮人を連れ戻す(=刷還)というものであった。その後通信使と名称を変え、1811年まで計12回行われた。
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「清に降伏」
朝鮮は清の藩属国(属国・保護国)となる。
●朝鮮は清に降伏し臣従する(1637年)。後金は清(しん)と国号を改め、朝鮮に対して藩属国(属国・保護国)となることを要求、戦争となり朝鮮は、ソウルにまで進攻され降伏した。しかし朝鮮の知識人の間では、清が支配する中国はもはや文明国ではなく、朝鮮のみが中華文明の継承者であるとする小中華思想を持つようになった。政権内部では党争が激化し、南人・西人の間での政権交代は終わり、西人の分派である老論と少論が対立抗争を行うようになった。

(日本と朝鮮の封建支配の違い)日本は「武」を根拠とする分権的(藩)な支配。朝鮮は「文」を根拠とする「両班」官僚による中央集権的支配。そのため朝鮮では、朱子学の解釈をめぐる学説の違いが「党争」となり権力争いとなった。
18世紀 「蕩平策」
=各党派を公平に登用して対立を調停する政策
●老論と少論の対立抗争は続き、政局は安定しなかった。彼らは、南部三道での凶慌や流民の増加による地方の混乱を収拾できなかった。そこで王である「英祖」は、「蕩平策=各党派を公平に登用して対立を調停する政策」をとり蕩平政権を成立させたが、1728年には清州(チョンジュ)で反乱(戊申乱)も起こった。改革として「均役法」が実施されたが、王権内部では外戚による対立も始まった。1777年には「正祖」が即位し、商業における自由売買を「辛亥通共」で定めた。
「両班人口急増」
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(出典:『朝鮮の歴史(旧版)』三省堂1974年刊)
●地方社会では大きな身分制度の変動が起きた。両班人口が急増し、常民と奴婢人口が急減したことである。「一例・慶尚道大丘府の場合、17世紀後半に戸数の9%だった両班戸が、19世紀半ばには70%を占め、常民戸(54%→28%)と奴婢戸(37%→2%)は急激な減少を示した。」


実学派朴趾源の風刺小説『両班伝』のあらすじの一部

・・・巨富を蓄えた商人が、それでもサンノム(良人)の身分では、みちで両班に行き会うたびに土下座しなければならないことをくやしく思い、巨額の金を出して『族譜』(チョクポ)を買い、両班の仲間入りをするが、いざ両班になってみると、いつも両班らしくしかめつらして書物を読んだりしていなければならず、自由に笑ったり怒ったり人間的に生活することをもできないことがわかり、「こんな馬鹿げたことはない」と、せっかく買った両班の位を返上してサンノムにもどる・・

(出典:『朝鮮の歴史(旧版)』三省堂1974年刊)

両班(支配階級)

●この両班(ヤンバン・リャンバン)の住まいの写真と達城徐氏の『族譜』の写真を、「近世朝鮮の農村社会と人」『丸善エンサイクロペディア大百科』丸善1995年刊より載せる。またその中の「住民と血縁」には、以下のように書かれている。

●支配階層である両班たちにとって重要なものは血縁関係である。父方の祖先(始祖)を同じくする人々の集団を同本同姓と称して、広い意味での同族と考えているが、これが両班たちのアイデンティティーの中核をなしていた。朝鮮王室の一族である全州李氏といえば、全州を始祖の出身地(本貫)とし、李を姓とする同族ということになる。全州李氏の始祖李翰は新羅の地方官僚だったとされるように、同本同姓集団の始祖はおおむね新羅から高麗初期にまでさかのぼる長い歴史をもっている。同本同姓は『族譜』をつくって結束を固め、さらに一族のなかでの自分の位置を確認していた。両班は同族が集まって居住することが多く、同族集落の存在が朝鮮農村のひとつの特徴となっている。同族の力によって地域の支配権をとるためである。
これに対して常民の多くや奴婢たちはもともと本貫や姓をもっていなかった。しかし朝鮮時代後期の身分変動によって、奴婢が常民に、さらに常民が両班へと身分上昇していく過程で、いつのまにか彼らも本貫と姓をもって同本同姓集団の中に入り込み、『族譜』にも記載されるようになる。こうして社会全体の両班化がおきてくる。

●両班の邸宅の写真と『族譜』

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(上写真)左・両班の邸宅。中・一般農民の茅葺屋根の家屋。右・達城徐氏『族譜』の例。
出典:『丸善エンサイクロペディア大百科』丸善1995年刊)

年代 事項 朝鮮王朝
19世紀 「勢道政治」
王妃を出した一族が政権独占
●18世紀末から19世紀にかけては、王妃を出した一族が外戚となって有力両班家門となり、政権独占を行うようになった。これを「勢道政治」といった。19世紀中葉には安東金氏による勢道政治が大きな実権を握った。これに対して、政権から排除された両班層や王族の不満は高まって行った。また良民に対する収奪の強化は、民衆の反発を生み、逃亡や蜂起が起き始めていた。さらに国内の不安定化に拍車をかけたのが、西洋列強による圧力である。アヘン戦争後の南京条約(1842年=イギリス)による中国の開港(香港の割譲など含む)、日本の開港(1854年=アメリカ・ペリー)などにより、朝鮮だけが鎖国を続けていくことはできない状況となっていった。(日本は、朝鮮王朝、琉球、中国、オランダと通信・通商関係にあった。)
日本・戊辰戦争から明治維新(江戸幕府倒壊)

●日本では、1854年ペリーと日米和親条約を結んだ後、1857年アメリカ・ハリスと下田条約(領事裁判権などを認めた)を結び、さらに1858年日米修好通商条約(治外法権や関税など不平等条約)を結んだ。これを機に、攘夷運動と幕府に対する批判は激しくなった。そこで大老・井伊直弼は、反対派の水戸藩(徳川御三家)の藩主徳川斉昭らを、謹慎処分にし統制を強化した。しかし朝廷に許可を得ずに外国と条約を結んだことから、さらに尊皇攘夷運動は激しさを増した。そこで幕府は「安政の大獄」(1858年)で吉田松陰、橋本左内など指導的な人々を弾圧・処刑した。このことがさらに倒幕運動を激化させ、1860年「桜田門外の変」で大老・井伊直弼は暗殺された。こうして日本では、史上最大の内戦が起こり、薩摩藩と長州藩を中心として天皇を抱く新政府軍(イギリスが援助)が、旧幕府軍(徳川)を戊辰戦争(1868-1869年)で破り新政権を樹立した。これが明治維新の始まりである。

年代 事項 朝鮮王朝
19世紀 「大院君」
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「斥和碑」
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●大院君(テウォングン)政権の成立。朝鮮王朝26代の王高宗(コジョン=在位1863-1907)の生父・興宣(フンソン)大院君(テウォングン)李是応(イハウン)が10年間(1863年~1873年)実権を握った。そして次のような政策を行った。
①安東金氏の勢道政治を打破し王権を強化した。
②朱子学以外の学問宗教を弾圧した。1864年東学教祖崔済愚を処刑。1866年天主教(カトリック)フランス人神父9名を含む多数の教徒を処刑。
③鎖国攘夷の徹底。1866年のフランス艦隊(フランス人神父事件の報復)との交戦撃退、アメリカ・シャーマン号焼き討ち事件、1871年アメリカ艦隊江華島交戦事件(辛未洋擾)などがあげられる。

大院君は、鎖国攘夷を象徴する斥和碑を、全国の要所に建てた。

(斥和碑)「洋夷侵犯 非戦則和 主和売国=(洋夷が侵犯するのに、戦うにあらざれば、則《すなわち》和すことであり、和を主張するのは売国である)戒我万年子孫=(我が万年の子孫に戒める)・・」

●そんな中で朝鮮王朝は、日本の開港と急速な西洋文化摂取の動きに対して警戒心を抱くようになった。言いかえれば朝鮮王朝としては、武力で江戸幕府を倒し外交文書の慣例を無視し(正統性に欠ける)、西洋文明に門戸を開いた(洋夷に和した)日本の新政府とは、当然ながら交流するつもりはなかったのであろう。そんな鎖国排外政策のなかで排日行為がさかんになり、1873年5月釜山の日本公館に対する食料支給拒否や、日本人商人取締や日本人排斥の通告が行われた。これが征韓論復活の材料を日本に与えた。


左各写真(出典:『朝鮮の歴史(新版)』三省堂1995年刊)
日本・明治維新(国内統一と富国強兵)

●同時期の日本は明治維新の激動期にあたる。明治政府の「征韓論」については、1873年10月の政変で、留守政府主役であり「征韓論」を強く主張した西郷隆盛らが政権を去った。しかしこの「征韓論」は、外交政策の論争ではなく、統一国家と「富国強兵」の実現のために、不満を持つ士族階級と人心を外に向かわせるための手段であったとも言える。なぜなら、この後実権を握った「征韓論」反対派であった大久保利通らの新政府も、1874年に初の海外派兵・台湾出兵(=西郷従道の独断専行と評価されている)を行ったことに現れている。明治政府の事実上の中心となった大久保利通は、次のように言った。

「富国強兵をなしとげるためには、どうしても近代的な産業をおこさなくてはならない。また現在、日本の貿易は外国の商人によって支配されているが、もっと日本人による商業貿易をさかんにして、外国商人の支配をなくさなくてはいけない。しかしこれらのことを実現するためには、民間の自主的な努力にのみまかせておくわけにはいかない。どうしても政府が強力な指導と保護をあたえなくてはならない」

激動の10年間(1877年頃まで)の主な出来事は以下のようである。「御一新」と呼ばれた。

下

日本・明治新政府の経済・財政・金融政策

●新政府の行った各種政策は、経済・財政・金融上の課題・問題を理解しないと、本当の意味はわからない。戊辰戦争、西南戦争の費用をはじめ、旧藩の債務(家禄を含む)の肩代わりは、莫大な費用がかかり、また同時に諸外国から導入した技術移植・官営工場・運輸・通信など産業基盤の整備にも莫大な費用がかかった。新政府にとって、封建制度撤廃、資金の創出、安定した通貨・金融制度、殖産興業など課題は山積していた。また士族階級の反乱や民選議院設立運動・自由民権運動・武装蜂起勃発など、政治的な問題も社会を揺るがしたが、文明開化・富国強兵は政治論だけでは達成できるはずもなかった。大隈重信・伊藤博文・井上馨・渋沢栄一・松方正義らの経済政策は、現代にまで続く日本の経済構造の基盤を作ったといえる。
「明治財政史。第1巻」から緒言(明治23年頃までの部分)を引用し(ポイントを赤字にし、カタカナをひらがなに、読点・句読点を入れ、旧字体はなるべく新字体にした)、「日本銀行 百年史」などからその内容を簡単に書き出してみる。

下

事項・年 内容(朝鮮王朝)
1873年~
「大院君追放と閔氏政権」
●1873年朝鮮では、大院君に対して両班層の不満が高まり政変が起きた。大院君を追放し、国王高宗の親政がはじまり、閔升鎬(ミンスンホ)を中心に王妃の閔氏一族が政権の中枢を占めた。1874年に日本の台湾出兵の報が伝わると、開国の主張も起こり閔氏政権は妥協をはかり、日本との交渉が再開されていった。
1876年
「日朝修好条規(江華条約)締結」


*右にある『朝鮮国は⾃主の邦にして⽇本国と平等の権を保有せり』とあるのは、朝鮮は清国の属国・保護国ではなく独立国なのであるから、日本は清国に対して、朝鮮と条約を結べるのだと宣言して、朝鮮に足がかりを得ようとしたものであろう。
この条約により、釜山開港は1876年、元山(ウォンサン)開港は1880年、仁川(インチョン)開港は1883年だった。
●1875年9月、日本軍艦「雲揚号」は首都漢城(ソウル)の表玄関である「江華島」で示威行動を行い、朝鮮側・草芝鎮砲台と交戦し江華島事件を起こした。当然ながら日本は、欧米諸国の軍事的威嚇行動(アメリカのペリー)をまねし実行したものだった。そして翌1876年2月開国を強要するため、特命全権大使(黒田清隆)を6隻の軍艦と共に派遣し、江華島へ乗り込ませた。これに対し朝鮮政府は、交渉を有利に進めようとしたが日本側の威嚇行動に屈し、不平等条約である「日朝修好条規」締結を余儀なくされた。


この「日朝修好条規」第1款(かん)は次のようである。(カタカナをひらがなにし、濁点、句読点を追加し、ふりがなを追加した)

第1款
朝鮮国は⾃主の邦にして⽇本国と平等の権を保有せり。嗣後(しご=以後)両国和親の実を表せんと欲するには、彼此(ひし=あちらとこちら)互に同等の礼儀を以て相接待し、毫(いささか)も侵越(=おかす)猜嫌(=そねみきらう)する事あるべからず。先づ従前(じゅうぜん=今まで)交情(こうじょう=交際のよしみ)阻塞(=ふさぎとめる)の患(=わずらい・うれい)を為(な)せし諸例規を悉(ことごと)く⾰除(かくじょ=悪を断って改める)し、務めて寛裕(かんゆう=心がひろくゆとりのあること)弘通(ぐつう=仏法がひろく世の中に行われる)の法を開拡し以て双⽅とも安寧を永遠に期すべし。
*リンクします「修好条規」法令全書 内閣官報局1887-1912国立国会図書館デジタルコレクション
1880年~
「開国・開化政策」
●政府は日本との開港後も、欧米諸国とは鎖国政策を堅持していた。しかし清国・李鴻章は、日本とロシアを牽制するため、列国との間で条約締結をはかるべきと勧告してきた。また政府は、国内改革による自強をはかる必要から、対欧米諸国と開化政策採用の方針を決定した。こうして1881年には軍制を統合して、洋式の別技軍をもうけ日本人教官を招いて訓練させた。また紳士遊覧団(62名)を日本に派遣したり、金允植(キムユンシク)を武器製造や軍事技術習得のため清国に派遣(留学生38名)した。
「衛生斥邪派」(鎖国攘夷)の運動
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●衛生斥邪思想とは、正学としての朱子学をまもり、それ以外の学問を邪学としてしりぞけ、華夷の別を明確にして中華の伝統を護持しようとするもの。そしてその思想は、外圧のもとで西洋近代文明の侵略に対抗する民族運動の理念のひとつとなった。李恒老「洋夷禽獣論」。著名な崔益鉉(チェイクヒョン)は、「倭洋一体」論で「日朝修好条規」の締結に反対し、のちに1906年の反日義兵闘争で敗北して対馬に連行されたが、「敵の粟は拒む」として断食して餓死した。


左写真:崔益鉉(出典:『丸善エンサイクロペディア大百科』丸善1995年刊)
1882年
「壬午軍乱」
反乱は大院君の復帰により収拾したが、日清戦争の遠因となった。
●政府は、朝米修好通商条約(1882/5月)につづいてイギリス・ドイツとも不平等条約をむすんで、欧米諸国への開国が行われた。そんな中、開化政策による軍制改革で冷遇されていた旧式軍隊は、俸禄米(砂や石の混入)事件で憤激して反乱・決起した(7/19)。そして7/23日からは大院君の示唆を得て、日本公使館を襲撃し(日本公使は脱出)、7/24日には王宮に乱入して閔謙鎬(ミンキョムホ)らを殺害し、閔氏政権を打倒した「壬午軍乱」。大院君は、この兵士や民衆の蜂起を背景に全権を掌握し、軍制を元に戻し別技軍を廃止し、開化政策を否定した。
1882年
「日本・清国の対応」
hokuyou001丁汝昌「上野一郎氏蔵」


(出典:写真「古写真にみる幕末・明治」別冊歴史読本・新人物往来社1987刊
●日本は、脱出した花房公使を、軍艦4隻・輸送船3隻・歩兵1個大隊と共に朝鮮へ帰任させた。そして8/16には兵を率いてソウルに入り、被害者の賠償などで大院君の新政府と対立した。


●その後8月末、日本は済物浦(チェムルポ)条約を結び、公使館襲撃の謝罪と賠償を得た。


●清国は、天津(中国)に滞在中の金允植らの要請を受け、宗主国として軍隊の出動を決定し、8/10には丁汝昌率いる軍艦3隻が仁川につき、さらに8/20には3隻の軍艦と2隻の汽船で呉長慶の指揮する清国陸軍の精鋭が到着した。そして8/26には大院君を捕まえ天津へ連れ去り幽閉した。


●清国は、大院君を連行して壬午軍乱を鎮圧した後、約3000人の軍隊をソウルに駐屯させた。9月には朝中商民水陸貿易章程を結び、条約前文に「朝鮮は久しく藩封に列す」と日本に対し牽制を行い、清と朝鮮との宗属関係を明文化した。そして朝鮮政府には李鴻章が推薦した顧問(ロシア人含む)を置き、本格的な内政への干渉を図った。

1884年12月
「甲申政変」
hokuyou003金玉均「長崎市立博物館蔵」


(出典:写真「古写真にみる幕末・明治」別冊歴史読本・新人物往来社1987刊
●鎖国攘夷派は決定的な打撃を受け、閔氏政権が清国軍の後押しで復活した。そうして清国との連携を強めながら開化政策が進められた。そうしたなか金玉均(キムオクキュン)らの少壮官僚が、政府内部で勢力を広げていった。しかし清国の干渉が強まると開化派勢力は二つに分かれていった。ひとつは穏健派で、清国と宗属関係を維持しながら改革を進めようとするものであった。もう一方は、日本の近代化をモデルに清国からの「独立」を主張し、日本との関係を強めようとした金玉均らであった。金玉均らは日本政府要人や福沢諭吉らとの親交を深め、閔氏一族との対立を深めていった。


●1884年7月ベトナムで清仏戦争が勃発すると、ソウルに駐留していた清国の軍隊の半数1500が撤退した。日本の公使は、清仏戦争の状況をみながら、金玉均らの急進改革派に好意的な態度をとった。


●1884年12月4日、金玉均らはクーデターの実行にふみきり、国王にせまり日本軍の出動を要請し、朝鮮政府軍の一部とで王宮を固め、12/6新政府を組織した。
●しかし、閔氏政権から正式な出動要請をうけた清国軍は、政府軍とともに攻撃にうつり新政権を圧倒した。これをみて日本公使は日本軍のひきあげを命じ、新政権は3日で崩壊した。金玉均らは日本公使とともに仁川から脱出し、日本などへ亡命した。(金玉均はのちに上海で閔氏の刺客に暗殺され、遺体は朝鮮に送られたが惨刑にされたという)
1885年4月
「天津条約」tyou006
●甲申政変ののち清国の勢力は強まり、劣勢に立った日本は、伊藤博文を清国に派遣し李鴻章とのあいだに天津条約をむすんだ。これにより両軍は朝鮮より撤退し、今後もし出兵する場合には相互に事前通告をすることなどを取り決めた。しかし条約締結直前にはイギリス艦隊による巨文島占領事件(イギリスは日・清には通知済)が起こった。これはイギリスが当時対抗関係(アフガニスタンではロシアと紛争)にあったロシアの朝鮮進出をはばむため,巨文島を占領し海軍基地を作ろうとしたものだった。こうして朝鮮は列強の争いにまきこまれていった。


左絵:ビゴーが1887年に「トバエ」に掲載した風刺画。「左の日本と右の清国が魚(朝鮮)を釣り上げようとしている。上のロシアは機会を狙っている」(出典:『丸善エンサイクロペディア大百科』丸善1995年刊)
1885年
「ロシア」への接近策
●高宗および閔妃は日・清の圧力を牽制するため、ロシアと陸軍教官を招聘する秘密協定を結ぼうとしたが、清国は圧力をかけてそれを撤回させた。そして清国は、高宗および閔妃牽制のため大院君を帰国させ、さらに宗主国として朝鮮の内政干渉を強めるため、袁世凱(えんせいがい)を送り込んだ。
1887年
「自立化」への動き。
●朝鮮政府は、外交の自立化をはかるため、諸外国に公使を派遣することを決定した。しかし清国は、派遣には清国の許可が必要であることと、現地では清国公使の指示に従うことを朝鮮政府に約束させた。清国は朝鮮との宗属関係強化に乗り出した。一方日本は、ロシアの介入を警戒しつつ清国と朝鮮の宗属関係を切り離し、朝鮮を日本の利益線と見なし、朝鮮を支配下に置くことを国家目標とした。
「東学」新興宗教と民衆運動 ●朝鮮は、日本をはじめ、アメリカ・イギリス・ドイツ・ロシア・フランスなど欧米諸国との間に不平等条約を結び開国したが、その影響は特に農村において深刻化した。飢餓・疫病の流行や盗賊の横行など、社会不安は激しくなっていった。そうしたなか、李朝両班支配体制を批判し、人間平等をうたう「東学=西学(キリスト教)に対する」が農民層のあいだに広く深く浸透していった。この宗教はやがて実践的に理解され、兵乱を意図し蜂起するようになっていった。「南接派」は政府に対して徹底抗戦的であった。「斥倭洋」「地方官の不当誅求(厳しい取り立て)反対」などを標榜した。
1894年
「甲午農民戦争」
●この1894年の農民戦争は、東学南接派によって計画的に引き起こされた。その発端は、私腹を肥やしていた郡守に対して、全羅道の農民1000余名が武器を奪取して蜂起したものだった。一旦は収束したものの、農民軍は1万人以上で再蜂起し、道都の全州に入城し政府軍の精鋭部隊と熾烈な攻防戦を繰り広げた。これにより政府は清国に出兵を要請し、また日本もこれに対抗して軍事介入を行った。これにより農民軍は、政府と全州和約(農民軍の安全保障を含む)を結び、この蜂起を収束させた。
1894年(6月~)
「日清戦争・開戦」
宣戦布告は1894/08/01nissinnsennsou001
●日本では、陸奥外相が清国の出兵の報告を受け、川上参謀次長と混成旅団(7~8千人)を派遣することを決めた。伊藤博文首相には、大軍を派遣すると反対されるので、1旅団(2千人)程度と報告した。川上を中心とする主戦派は、政府をひきずって開戦へと急いだ。6/5戦時大本営条例によって東京に大本営(9月に広島に移設)が開かれ動員令が下った。6/9には混成旅団の先頭部隊は広島県宇品(うじな)を出発し、6/12仁川に上陸した。清国の先頭部隊が牙山上陸完了したのは6/9だった。宇品(広島港)は朝鮮半島に最も近い軍事都市で、日本最大の陸軍都市であった。
(左写真)広島県宇品(うじな)より出兵する第2陣(出典:「写真記録日中戦争」ほるぷ出版1995年刊
1894年(7月)ロシアの圧力とイギリスによる調停 ●日本の出兵に驚いた清国や列強諸国は、日清の共同撤兵を申し入れてきた。日本は最初から、清国を軍事力で朝鮮より追い出すことが目的であったので、なんとしても出兵の口実を早急に作る必要があった。そこで日本は清国に対して、朝鮮の乱民の鎮圧を日清共同で行うことや、鎮圧後朝鮮の「内政改革」を共同で行うことを、申し入れた。
●当然ながら清国は、この申し入れを内政干渉だと拒否した。しかし一番の圧力をかけてきたのはロシアで「日清共同撤兵を拒絶すれば、日本の責任は重大である」と警告的な申し入れをしてきた。陸奥外相はこれに対して「日本の朝鮮改革が妨害されない保証さえつけば撤兵するし、朝鮮侵略の意図はない」と言葉を尽くして説明し、ロシアの一応の了解を得た。
●一方イギリスは戦争を防止するため日清間の調停に乗り出そうとしたが、清国は譲歩せず調停は失敗した。日本はイギリスとの条約改正をひかえていたので、調停には応じようとしていた。清国がイギリスの調停に応じなかったので、日本は逆に喜び、実力行使に出た。
1894年07/23
日本「王宮占領」と「大院君」招聘
●日本の大鳥公使は朝鮮王に対し「清国に撤兵を要求し、清国の宗主権を認めた条約を破棄する」ことを最後通告として要求した。
●そして日本は、7/23明け方前日に出た回答を不満として、いきなり王宮を占拠し、国王に大院君を招かせ(7/27)、金弘集(キムホンジプ)を首班とする親日開化派政権を樹立させた。
●その間、日本は7/25には牙山湾付近の豊島沖で清国艦隊に奇襲攻撃をしかけ戦争状態に突入し、7/29には成歓・牙山を占領した。宣戦布告は8/1。イギリスは、上海方面には戦争を及ぼさないことを日本に約束させ、局外中立を宣言した。
「日清戦争」
●「平壌の戦い」(9/15)
●「黄海海戦」(9/17)
●「講和条約調印」(1895/04/17)rikousyou013(写真)清国全権・李鴻章(73歳)(出典:「写真記録日中戦争・敗戦と解放」ほるぷ出版1995年刊)
●「平壌の戦い」(9/15)
清国側は陸兵を平壌に集結させ、対する日本軍は山県有朋を司令官とする第1軍を編成し、平壌へ進軍した。9/15日本軍は総攻撃をかけ、玄武門を占領した。清軍指導部はこれにより戦意を失って撤退し、平壌の戦いはあっけなく終わった。


●「黄海海戦」(9/17)
黄海海戦では、東洋一を誇る清国・北洋艦隊を日本の連合艦隊が破った。これは日本艦隊の速力と速射砲の威力によって勝利できたといわれる。そして日本軍はなおも進軍を続け、遼東半島旅順を占領(11/22)し、翌1895/02月に山東半島に上陸し、威海衛を海陸から攻め、北洋艦隊の主力、定遠・済遠・威遠を沈めた。司令官丁汝昌は自決し残った艦隊は降伏した。


●「講和条約調印」(1895/04/17)
講和の動きは旅順が陥落した頃より始まっていた。しかし日本の世論(福沢諭吉や徳富蘇峰ら)は「まだ講和の時期ではない、北京を占領してからだ」などと勇ましいことを言っていた。しかし伊藤博文は「もし北京を落としてしまうと清国政府は崩壊して列国が乗り出して、さらにやっかいな事になってしまう」と戦争を指導し、旅順占領後の作戦目標を威海衛に向けた。こうして戦意を失い講和条件を打診してきた清国と、下関(日本)で1895/3月から講和会議が開かれた。清国は全権として李鴻章・北洋大臣直隷総督と李経方・欽差大臣、日本側は伊藤博文・内閣総理大臣と陸奥宗光・外務大臣が全権となった。こうして以下の内容で1895/04/17、日清講和条約が結ばれた。

(概略)清国は、朝鮮の独立を承認し、遼東半島・台湾・澎湖島を割譲し、償金2億両(テール)を支払い、また通商上、諸列強と均等の権利を与え、また新しい開港場と開市場における日本人の工業企業権を認めた

●下のリンク先から馬関條約(下関條約)の日本文・漢文などの原本が公開されている。表紙をクリックした後「進入資料庫」へ進み日文(影像)をクリックして、1895年の項目から選択して下さい

*リンクします『中華民国外交部保存之前清條約協定』
中日講和条約(馬関条約)
1895年05月
「3国干渉」
mutu011(写真)日本の陸奥外相(出典:「写真記録日中戦争」ほるぷ出版1995年刊)
●3国(ロシア・ドイツ・フランス)により、日本は条約で得た遼東半島の領有を放棄させられた。日本は清国との開戦前夜にも、ロシアから朝鮮撤兵の勧告を受けた。陸奥外相と伊藤総理は勧告を拒否するに当たり、直ちにイギリスにロシアの牽制を依頼しながらも、ロシアとの戦争を悲壮な決意で固めたといわれる。当然条約締結についても干渉があることは予想していた。日本は、ロシア・ドイツ・フランスという強大な帝国との武力衝突も選択肢としたが、イギリス・アメリカは不介入の態度をとっており、やむなく「清国に恩を着せて遼東を返す」ことで3国干渉に屈した。この問題は極東の1地域の利害関係ではなく、ヨーロッパの国際関係に起因する事件だったといえよう。

それは①中国での利害の対立は、イギリスとロシアにあったこと。②両国ともヨーロッパ情勢から、単独で日清間に介入することを避けたこと。(ヨーロパでは単独行動は国際的孤立を招く恐れがあった)③ドイツは中国に利害関係を持っていなかったが、自国のヨーロッパでの露仏同盟(ロシア・フランス同盟)に対する不安から、ロシア・フランスの後押しをすることで、露仏同盟とイギリスを対抗させる狙いがあった。そしてこれにより中国への発言権も確保しようとした、ことなどである。
「清国分割の危機」
右地図(出典:「写真記録日中戦争1・15年戦争の道」ほるぷ出版1995年刊)
●日清戦争後各国は、清国に対して日本への賠償金のための借款を押しつけ、塩税・関税などを担保としたり、鉄道敷設権・鉱山開発権などを見返りに支配権を強化していった。(ロシア・フランス・イギリス・ドイツ4国の借款の合計は3億7千万両《テール》で、当時の清国の歳入の4倍に上った)下は各国の租借地。
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1895年10/8
「閔妃暗殺と日露の対立」
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●日本は日清戦争終結後、3国干渉により遼東半島を失い、さらに朝鮮の支配もロシアにさまたげられるようになった。朝鮮の保守穏健派の金宏集・魚允中らの内閣は、親日派と大院君との板挟みになり内政改革は行われなかった。そこで日本の内相井上馨は、状況打破のため大臣を辞め駐韓公使となり朝鮮へ渡った。そして大院君を引退させ、改革を行い政府の実権を開化派(親日派=内相朴泳孝ら)に握らせた。
●そんな中、日本によって退けられていた閔妃が、ロシア公使ウエーバーと近づき、クーデターを起こした。これにより親日派朴らは一掃され、ロシア勢力が政府内にくい込んできた。日本はロシアとの衝突をさけ、朝鮮に対しても自立させようと方針を転換した。そんな日本政府の方針に不満をもった右翼浪人らは、後任の三浦梧楼公使を中心に閔妃暗殺を行いクーデター事件を起こした。


(左写真)高宗の妃である閔妃(出典:『朝日百科 日本の歴史10』朝日新聞社1989年刊)
この事件は『クロニック世界全史』講談社1994年刊には以下のように書かれている。

●1895年10月8日早朝、日本の軍人と大陸浪人が漢城(ソウル)の王宮に乱入し、王妃閔妃(44)を殺害した。死体は王宮外の前庭に運び出され、積み上げた薪(まき)の上で焼き捨てられた。

下

1896年02/11
「親ロシア派クーデター」
「高宗」ロシア公使館へ
●朝鮮国王「高宗」と皇太子は、王宮を密かに脱出し、ロシア公使館へ移った。親ロシア派がクーデターを起こし、日本の圧力を避けて国王の身柄を移したものであった。そして高宗と親ロシア派内閣は、金宏集ら開化派の大臣の処刑を命じ、親日派を一掃した。金宏集や魚允中ら大臣たちは白昼惨殺されたという。
1897年10/12
「大韓帝国の成立」
(大韓帝国皇帝高宗)
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●(上写真)大韓帝国皇帝高宗(出典:『朝鮮の歴史(新版)』三省堂1995年刊)
●(右写真)「独立門」1897年11月、清国から独立し、「独立協会」がその独立精神の高揚を図るために建てた「独立門」。ここには17世紀以来、清の使節を「三跪九叩(さんきくこう)」してむかえた、屈辱の「迎恩門」があった。出典:『丸善エンサイクロペディア大百科』丸善1995年刊)
●1897年10月12日。高宗は圜丘壇(天地を祭る壇)に進み出て皇帝に即位し、国号を大韓帝国と改めた。日清戦争における清国の敗北によって、1637年以来の中国との宗属関係を最終的に破棄した。大韓帝国は「万世変わらざる専制政治」を行うことが定められ、皇帝は司法・立法・行政・軍事・外交などをすべて掌握し、皇帝権を制限するいっさいの事項をもうけなかった。一方独立協会(1896年7月設立)は、「独立門」を建て民族独立の象徴とし、政府の姿勢を批判し、ロシア勢力の駆逐をはかり、国政改革運動に乗り出した。しかし、1898年12月高宗は、政府による皇国協会による弾圧が、双方の暴力抗争となったため、詔勅をもって独立協会を解散させ協会員を逮捕し、運動を終息させた。
●こうして大韓帝国は、年号も「光武」とし近代国家へと改革を進めていった。しかし、東学残党による抗争(1899年英学の反乱)、農民蜂起(1898・1901年済州島)など多様な民衆抗争が続発し、その改革は挫折していった。
(私見だが、もしこの時に強力な大韓帝国≪軍事政権≫ができていれば、その後の歴史は大きく変わっていったであろう。)dokuritu033
日本・明治大正財政史から清国賠償金について

●「明治大正財政史 第1巻 大蔵省編」から「第3節 償金の収支及運用」と「第7節 貨幣制度の改革」の1部分を引用してみる。(漢字数字をアラビア数字に直し、旧字体はなるべく新字体にした)維新以来急務であった金本位制へ移行するために、清国賠償金が大いに役立ったと書かれている。この金本位制への移行は、日本の近代化にとって最重要なものだったと思われる。

下

「帝国主義(19世紀末~)」の時代

●ヨーロッパ列強の植民地支配のやり方は、過去の重商主義の時代(武力による権力奪取や圧政による原住民の搾取)から変貌をとげ、より資本主義的な関係から実質の支配と利益を得るようになっていった。その具体的な方法は、現地政府やその国の有力者に借款を与えたり、民間資本を貸し付けたりして、代わりに鉄道敷設権・鉱山開発権・築港権・油田開発権などを譲渡させ、実質的な支配をしていくやり方だった。また租税徴収権などの特権を譲渡させ、現地権力者の弱みに乗じてその地域全体を従属させることも行われた。

下

(日本)自由民権運動、帝国憲法の制定。(1880年頃~1912年頃)概略

●「自由民権運動」とは1874年の板垣退助らの「民選議院設立建白書」にはじまる広範な政治活動をいう。人民の権利や自由の拡大を目標に掲げ、時の藩閥政治に対して民間から選ばれた議会設立を目指した。そしてこの運動の中心であった愛国社(立志社から再興)は、1880年には「国会期成同盟」と名を変え国会開設を目標とした。
これに対して政府は「集会条例」を公布して、政治上の集会や演説などに厳しい制限を加えて、自由民権派の取り締まりをを強めた。しかし、開拓使官有物払下げ事件(官民癒着)で自由民権派の政府攻撃は激しさを増し、ついに1881年政府は大隈重信(立憲急進論)を免官し(明治14年の政変)、1890年に国会開設の詔勅をだして、政府はなんとか危機を乗り切った。そしてこの政変後に、後に政府が徹底して弾圧を加えた「自由党」が結成された。

下

(日本)政府との癒着事件と政商と財閥。

●政府との癒着事件は次のような事件があった。

●(1872年)御用商人山城屋和助、陸軍省割腹自殺事件。(山県有朋)
●(1881年)開拓使官有物払い下げ事件。(黒田清隆と薩摩藩士出身商人五代友厚)
●(1882年)板垣退助外遊費問題。(井上馨と三井)
●(1883年~)海坊主退治騒ぎ。(大隈重信と三菱)
政商と財閥
政商・財閥 発展の基礎
三菱
岩崎弥太郎
●1874年「征台の役」の軍事輸送で、三菱はしぶる郵便蒸気船会社に対して進んでこれを引き受け、政府の御用船13隻の委託を受け、のちに払い下げを受け政府から海運保護の補助金をもらう保護会社となった。その後1875年には上海航路に乗りだし、外国の汽船会社にダンピング競争で勝ち、支配権をにぎった。のちに官営の長崎造船局の無料払い下げを受け造船の三菱となり、重工業の三菱と発展していく。
三井 ●江戸時代からの豪商であった三井は、明治政府の官金を扱い政府と深い関係を持った。そして第一国立銀行を創立したのち、1876年日本最初の私立三井銀行を創設した。政府高官井上馨は1873年政府を辞職し商事会社(先收会社)を作ったが、のちに政府に復帰した際この会社を三井が引き継いだ。これが三井物産のおこりであり、井上と三井の関係は密接となっていった。その後三井は官営の三池(みいけ)鉱山を、三菱に入札で競り勝ち手に入れた。これが三井を近代産業に脱皮させ多くの産業を支配する大財閥に育て上げた。
その他財閥(一例) ●一介の燃料商にすぎなかった浅野総一郎は、渋沢栄一の引き立てで官営深川セメント工場の払い下げをうけ、浅野セメント創立し大資本家となり浅野財閥の基礎を築いた。
●古河市兵衛は、院内・阿仁の官営銅山の払い下げを受け、後に足尾銅山を手に入れ、銅山王とよばれ、古河財閥を築いた。

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