(歴史)「簡易世界通史・17世紀」

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オランダは東南アジア進出でイギリスに勝ち、中国・日本へ向かう。
簡易世界通史(17世紀)
徳川家康は豊臣氏を滅ぼし戦国時代を終わらせた。しかしキリスト教(カトリック)に恐怖を持った江戸幕府は鎖国(対外制限政策)を行っていく。しかし日本は、オランダや中国とは通商関係にあり、また朝鮮王朝や琉球王朝とも交流関係があった。日本は海外情報・知識をオランダから得ることができた。
目次
17世紀項目 内容
●(17世紀・要旨) オランダの世紀・ルイ14世・ピューリタン革命・清
17世紀はオランダの世紀と呼ばれる。 オランダの繁栄・オランダ第1回東インド航海と「リーフデ号」日本漂着・イギリス東インド会社設立とオランダ東インド会社設立
ヨーロッパ宗教戦争と絶対王政 ドイツ30年戦争・太陽王フランスルイ14世・ロシアロマノフ王朝ピョートル大帝
ピューリタン革命と名誉革命 ピューリタン革命・名誉革命・17世紀は科学の世紀(科学者、哲学者、思想家、文学者)
中国・明と清帝国 明の成立(太祖洪武帝)から明の滅亡(万歴帝、張居世)と清帝国(康煕帝)
●綿引弘「世界の歴史がわかる本」全三巻三笠書房2000年刊、綿引弘「一番大切ななことがわかる(世界史の)本」三笠書房2008年刊、「クロニック世界全史」講談社1994年刊、「丸善エンサイクロペディア大百科」丸善1995年刊から要約・引用した。
また「東インド会社とアジアの海」・興亡の世界史第15巻、羽田正著 講談社2007年刊、「世界の歴史第8回」中央公論社1961年刊より要約・抜粋した。
また吉川弘文館「世界史年表」も参考にした。関連する写真、著作からも引用した。また、13世紀~16世紀は、地域別簡易歴史年表を作成し、別枠で追加した。

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17世紀はオランダの世紀と呼ばれる・13-10
年代 事項 オランダの繁栄・オランダ第1回東インド航海と「リーフデ号」日本漂着・イギリス東インド会社設立とオランダ東インド会社設立
17世紀<要旨>(オランダの世紀)
●オランダが16世紀に繁栄を誇ったポルトガル・スペインに代わって、新大陸からインド・東アジア・日本に進出し、交易で巨富を得ていた。
●しかしヨーロッパはまた「17世紀の危機」と呼ばれ、寒冷による飢饉、争乱、革命、戦争の絶えない時代でもあった。
●イギリスは二度の革命を行って議会政治を確立した。
●フランスはルイ14世の絶対王政下に、領土拡大戦争を繰り返した。
●オスマン・トルコ帝国は、前世紀に続いて三大陸(アジア・アフリカ・ヨーロッパ)の要の地域を支配して強勢を保持していた。
●サファービー朝ペルシャも全盛期を迎えていた。
●インドではムガル帝国が領土を最大にして繁栄した。
●東アジアでは、漢民族の明が、北方の満州族に圧迫されて滅亡し、満州族が清を樹立して大帝国を築いた。
*綿引弘「一番大切ななことがわかる(世界史の)本
アムステルダム、世界の商業・金融・文化の中心となる。

オランダは16世紀末からスペインに対する独立戦争を戦いながら世界に進出していった。オランダは人口は250万程度、国土の広さは日本の九州よりも小さい共和国であった。そしてその主要都市アムステルダムは、世界の商業・金融・文化の中心となった。オランダは、特に東インドで、ポルトガルの勢力圏を奪いイギリスをも破り、東インドの王者となっていった。またオランダは、鎖国時代の江戸幕府とも交易をもち、世界の最新情報、科学知識等を伝え、「蘭学」として日本に多大な影響を与えた。

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(左絵)レンブラント「冑をかぶった男」1650年頃 ベルリン国立美術館(出典:「家庭美術館」平凡社1961年刊)
(中絵)フェルメール「牛乳を注ぐ女」1657年頃 アムステルダム王立美術館
(出典:「ファブリ世界名画集」平凡社1971年刊)
(右絵)フランス・ハルス「音楽の2少年」1627年頃 カッセル美術館(出典:「家庭美術館」平凡社1961年刊)

オランダの繁栄

(「世界の歴史」中央公論社1961年刊の「オランダの繁栄」から要約・引用。)
●オランダの国家組織は「ネーデルラント連邦共和国」で、ネーデルラント北部7州の連合国家であった。
連邦議会(全国会議)が全体の行政、外交、軍事をコントロールする最高機関であったが、各7州それぞれを統制する権限はなかった。あたかも独立する国家の集まりである国際連合のようなものであった。
実際に連邦議会を動かしていたのは、経済的に強力で政治的発言力が強いホラント州だった。

(日本で国名をオランダと呼ぶのは、ホラント(ネーデルラントの俗称)を、ポルトガル語訳で「オランダ」ということに由来する《江戸時代から》。世界では国名はネーデルラント。)

●この中心勢力は「商人貴族」(富裕な門閥大商業ブルジョアジー)で、強大な経済的実力をバックとしてホラント州議会を牛耳り、これにより連邦議会を支配した。しかしまた一方、代々「総督」の官職にあった名門オランニェ家(独立戦争の指導者《ウィレム》や、代々資質のすぐれた軍事的指導者、政治家を生み出した)は、事実上のオランダ王室のような評価を得ていた。このオランニェ家は封建貴族層のみでなく、国内の中小市民、農民からも強い支持を得ていた。特に中小産業市民層は、大商業資本家の経済的、政治的支配に反発し、政治的にはオランニェ家の統一支配を望んでいた。こうして二つの勢力は対立を続けていった。また同時にカトリック、カルビン主義、アルミニウス派(自由主義的)などの宗教的対立もあり、1621年のスペインとの休戦期間満了後、戦争継続の中で総督の権限は強化され、1631年総督職はオランニェ家(オレンジ家)が世襲することが法制化された。こうしてオランダ王家が生まれていった。

「海によって栄え、世界の続くかぎり海と戦い、海によって生きなければならなかったオランダ人」
①ネーデルラント(低い土地の意)の北部のホラント地域は、堤防に守られた低地帯が多く、高潮や洪水などといった海との戦いは、オランダ人に勤勉さと不撓不屈(ふとうふくつ)の精神を培った。
②北海の鰊(にしん)漁は「オランダの海の金鉱」とよばれ、またグリーンランド沖の捕鯨業は「海の銀鉱」といわれ、多大の利益をあげた。
③海上輸送業の発達は「世界の運搬人」と呼ばれた。
④これらの海の経済は、造船業の発達をうながし、オランダはヨーロッパ第一の造船国となった。同時に製材工業、帆布、ロープ製造業、金属工業なども盛んになり、あらゆる種類の工業が全世界の市場と結びついて栄え、「世界の工場」の観を呈した。
(重要語)
バルト海貿易  ユトレヒト同盟 独立戦争(80年戦争) スペインからの独立宣言(1581年) マウリッツ(1567~1625)《ウィレムの子》 フレデリック・ヘンドリック《マウリッツの腹違いの弟》 オランダ(カルビン主義) 南部諸州、ベルギー(カトリック) アルミニウス(神学者) ウェストファリア条約(1648独立承認)
1595年4月
オランダ第1回東インド航海

●オランダは最初、シベリアを回って東洋へ達する「北東航路」の開拓を試みていた。
しかし、1596年の3回目の航海では、船隊が北極の島で氷に閉ざされてしまい、悲劇的な最後を遂げてしまった。結局オランダは、ポルトガルが開拓したアフリカ南端の喜望峰経由で、東インド到達を目指すことになった。そしてついに、1595年4月、第1回目の喜望峰経由東インド行き船隊が出発した。

船名は、「マウリッツ号=総督名」「アムステルダム号=計画実行する商人団」「ホラント号=許可した州議会」そして通報艇として「鳩(はと)号=航海の平和を祈願して」の4隻だった。この船隊は100門以上の大砲を装備し、10万ギルダー以上の銀貨と商品を積んで出港した。
1597年8月
帰還乗組員わずか89名

●しかし、この航海はさんざんなものだった。総員249名で出港し、1年と2ヶ月後にインドネシア・ジャワ島バンダムに到着し、1597年8月に帰港したが、往復に2年4ヶ月もかかり、帰還した乗組員もわずか89名だけだった。これは疾病や災害のほかに、内部の人間同士の争いがあった結果だった。
だが3隻が帰還し、ポルトガル人の手を経なくても、直接貿易が可能となったことが大きかった。
●これ以降オランダは、1602年までに15船隊65隻を東インドへ送った。1599年に帰港したヤコブ・ファン・ネックの船隊は「建国以来、これほどの富を積んだ船はなかった」といわれたほどだった。こうして東インド貿易はブームとなった。次に述べるリーフデ号も、この東洋を目指した船隊のはぐれた1隻だった。

1600年4月29日
「リーフデ号」の日本漂着

●「クロニック世界全史」によれば、リーフデ号は1600年4月29日、九州臼杵(うすき)湾口の佐志生(さしう)に漂着したとある。このオランダ船は1598年6月に僚船4隻とともにロッテルダムを出港したが、逆風のためアフリカ喜望峰まわりの東進コースをとれず、やむなく南アメリカ・マゼラン海峡を西進して、僚船とはぐれ日本に漂着したとある。

(星野私見)こう聞くと、何故そのようなコースになるかと思ってしまうが、当初オランダ船は、ポルトガルの勢力圏である喜望峰から北上してアフリカ・インドを経由するコースはとれなかったとある。そこで、喜望峰からはオーストラリア方面へ直接東進して、のちに北上してインドネシアへ到達するコースを使っていた。だから喜望峰で東進しようが西進しようが同じだったのかもしれない。なんともスケールの大きな話ではありませんか。リーフデ号の日本漂着に2年近くかかったのも当然でしょうか。

●「世界の歴史第8回」中央公論社1961年刊には、この船の船尾に飾られてあった「エラスムス像」(星野注・宗教改革の端緒を切ったオランダの知識人)について書かれている。この船の名は、旧名「エラスムス号」で改名して「リーフデ(慈愛)号」といった。そして生存者の中で帰国しないで日本に残った2人が、オランダ人ヤン=ヨーステンとイギリス人ウイリアム=アダムスだった。彼らは江戸幕府通商顧問となり、日本初の洋式帆船の建造など行い、日本とオランダの通商を開き、外国の新知識を伝えたとあります。
ヨーステンは東京駅八重洲口の由来となり、ウイリアム=アダムスは三浦按針と呼ばれた。(三浦=三浦半島の領地、按針=パイロットの意)

ウイキペディアにもこの像について書かれている。「貨狄尊者(かてきそんじゃ)または貨狄さま(かてきさま)とは、栃木県の龍江院に安置されていた木像の名称。「木造エラスムス立像」として国の重要文化財に指定されている。」とあります。「佐野市観光協会」はリニューアルされたので、もう掲載をやめたようです。
●このあたりの内容を、山本七平「日本人とは何か」祥伝社2006年刊より引用してみる。

○「第5章オランダ人とイギリス人」

●漂着リーフデ号のヨーステンとアダムス
東京駅で降りて八重洲口へ出たとき、何気なく私は言った。
「ヤエスとは実はオランダ人の名前です」
相手が奇妙な顔をしているので私はつづけた。

下

イギリス東インド会社設立とオランダ東インド会社設立

eastindia(左絵)ロンドンのレドンホール街にあったイギリス東インド会社。この社屋は18世紀末に再建されたもの。同社はインド支配の機関に変質していく。
(右写真)アムステルダムのオランダ東インド会社の社屋。17世紀初頭のアムステルダムは、商品取引所やアムステルダム銀行が設立され、国際的中継貿易港および国際金融市場として繁栄した。(出典:両方とも『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)

1601年1月
イギリス東インド会社設立

●イギリスではこれまで、東インドの商品を、喜望峰回りではなく地中海やモスクワを経由して、陸づたいに入手しようとしていた。そのために「レヴァント会社」という地中海東岸地域との貿易を専門とする会社が設立され、イギリス国王はこれに特許独占を与えていた。
しかし、オランダが直接東インド貿易を成功させたことを知り、自分たちも直接インド貿易を行おうと試みた。そのやり方は「レヴァント会社」方式をとった。その内容は次のようであった。

  1. 資金は1回の航海ごとに集める。
  2. 航海が終わると出資率に従って、元本と利益を出資者に戻す決算方法を取る。
  3. 会社は形式的に継続して存続する。

次の航海では、また新たに資金が募集される。まだ、株式会社のように、株式の販売による広範囲の資金調達を行い、固定的な資本金とするような仕組みではなかった。

●初回の航海では、資金を提供した215人の1/3、また会社の取締役215人のうちの半分は、レヴァント会社の関係者だった。初代東インド会社総裁(トマス・スミス)は、このレヴァント会社の総裁だった。そして彼は同時にアメリカ・ヴァージニア植民協会の責任者でもあった。こうして事業者達は、母体の会社組織を作り東インド貿易の独占を求めて、イギリス国王(エリザベス1世)に特許を求めた。そして、1601年1月に、東インド会社(East India Company)が誕生した。
●1601年3月、はじめてイギリス東インド会社の4隻の船団が東インドへ向かった。500人以上が乗り組み、大砲を110門備えた武装船団だった。目的地は、ポルトガルの支配が及ばない東南アジアだった。スマトラ島のアチェ、ジャワ島西部バンテン(次回の貿易ためにスタッフが残った)、マラッカ海峡ではポルトガル船を掠奪して、1603年9月までに4隻が無事帰還した。これにより、1604年には第2回めの航海が実施され、それ以降会社は軌道にのり、最初の10年間の利益率は155%だったという。
注意しなければならないことは、この組織は、イギリス国王や政府の作った国営会社ではないということ。この組織は、ロンドンの商人達が設立した会社であり、アジア諸地域の征服と植民のために設立されたのではなかったことである。

1602年
「オランダ東インド会社(=連合東インド会社)VOC」設立

●オランダはイギリスとは違い、北海沿岸諸都市には複数の東方への貿易会社が存在していた。それらが同時期に大量に商品を持ち込むので、価格が低下し利益が安定しなかった。そのため共和国政府があいだに入り、各地の会社が合同して、1602年「オランダ東インド会社(=連合東インド会社)
・VOC(=Verenigde Oostindische Compagnie)」が設立された。
●これは6つの会社が合併した、巨大会社だった。それまでアムステルダム、デルフト、ホールン、ロッテルダム、エンクホイゼンの5つの都市と、ゼーラント州ミッデルブルクに個別に拠点を置いていた6つの会社が合併したものだった。そしてこの会社は、次のような特許状(46条)をオランダ共和国政府より与えられた。

(概略)
・オランダと喜望峰経由の東インド貿易は、21年間この会社が独占すること。
・東インドで要塞を建設する権利、総督を任命する権利、兵士を雇用する権利、そして現地の支配者と条約を結ぶ権利などが与えられた。

●当時は、国家とそれを統治する政府が、政治・軍事の権限を集中的に保有していたわけではない。オランダ東インド会社もオランダ政府が設立した国営企業ではなく、あくまでも民間の会社であった。一例をあげると、特許状の更新時(独占継続)には、見返りを要求されたり、1665年、第2次英蘭(イギリス・オランダ)戦争時には、20隻の船の提供を求められている。
またイギリスと違い、オランダ東インド会社では、集められた資金の返済はその航海ごとではなく、10年間据え置かれた。つまりこれは、現代の株式会社に一歩近づいた方法であった。(世界初の株式会社の設立ともいわれる。)
●最初の資金調達は、イギリス東インド会社の12倍に達し、オランダの商業資本は巨大なものであった。第1回目のオランダ東インド会社の航海は、1603年12月に行われたが、その船隊は12隻にのぼった。また当初から、貿易に従事するだけでなく、競争相手のポルトガルの拠点を攻撃するように命令を受けていた。

東インド海域ポルトガル、オランダ、イギリスの戦い

●「貴重な戦利品」ここでの一番の貿易目的だった香辛料について、「丸善エンサイクロペディア大百科」1995年丸善刊より引用する。

はるか昔の探検は,熱帯地方の香辛料を獲得のための航路の開拓を中心に行われた。ヨーロッパ、アジア、極東の間で貿易が盛んになるまでは、コショウ(下図・K)、クローブ(チョウジ)(G)、シナモン(C)などの香辛料はヨーロッパでは大変な貴重品で、極端に高価なものであった。16世紀から17世紀には香辛料を求めて戦争が行われ、最大の戦利品はコショウであったと思われる。ナツメグ(A)、シナモン、ターメリック(H)などの香辛料は、ヨーロッパではかって贅沢品で、倹約しながら特別な場合にしか使用されなかった・・・・」

とあります。またこの「興亡の世界史第15巻」では単に食肉の味付けのための香辛料だけでなく、医薬品として重要だったというフランドランの説を紹介している。

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(左絵)(出典:『丸善エンサイクロペディア大百科』1995年丸善刊)
(右地図)ヨーロッパ諸国のアジア進出。1667年インドネシア・マッカサルのゴワ王国、前年からのオランダとの戦争に負け首都マッカサルが陥落する。(出典:『クロニック世界全史』講談社1994年刊より)

●いずれにしろ、このコショウをはじめとする香辛料の売上は、オランダ東インド会社アムステルダム支部の、1668年~1670年にかけて総額の、コショウが29%、高級香辛料(クローブ、ナツメグ、メイス、シナモン)は28.5%、合計で57.5%しめていたとあります。最重要商品であったことは間違いない。ウィキペディアには、

特に高級香辛料であるクローブ(漢名で丁子・ちょうじ)は、紀元前より殺菌・消毒剤にもつかわれ(インド・中国)、中国商人たちは長く原産地を秘匿したまま交易商品として取り扱っていたとあります。また日本の 正倉院の宝物のなかにも当時輸入された丁子がある、ともあります
1511年ポルトガル人クローブの原産地発見 ●そしてついに、ポルトガル人がこのクローブの原産地をバンダ諸島で発見した。その後17世紀になり、オランダ東インド会社は、マルク諸島(=モルッカ諸島=香料諸島)、バンダ諸島で高級香辛料の独占をはかり、ポルトガルやイギリス東インド会社と武力抗争をはじめた。 ora1(地図:「Google Mymap プラス」に地名をマーカー記入したもの)
オランダ東インド会社、高級香料貿易制覇へ

●ここでオランダの進出を年表にしてみる。

内容
16世紀後半 テルナテ島①のスルタンとポルトガルが争い、ポルトガルはティド-レ島②に移り要塞を建設した。
1605年 オランダはアンボン島⑤のポルトガルの砦を奪い、ティド-レ島②の、ポルトガル人とスペイン人に対抗した。
1619年 オランダは、イギリス東インド会社軍とバンテン王国から奪った町を、「バタヴィア」(=ジャカルタ)と命名した。1620年現在の人口は873名だが、71名は日本人だった。徳川幕府では1604年から朱印船貿易が行われ、東南アジア各地には日本人町が多く出来た。バタヴィアには、傭兵として日本から渡ってきたものもいた。日本人では、アユタヤ王朝で活躍し1630年殺害された山田長政が有名。多くの日本人が貿易や傭兵として活躍していた。
1620年 バンダ諸島③で香料のオランダ引き渡し拒否事件が起きた。オランダ東インド会社軍は、ルン島④に拠点を持つイギリス東インド会社の扇動とみなし、バンダ諸島を占領しルン島でも虐殺を行った。
1621年 オランダ・バタヴィア総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーンが2,000名(日本人87名)でバンダ島で虐殺を行い、あらたにヨーロッパ出身者による奴隷農園経営を、賃貸する形でナツメグ生産を始めさせた。
1623年 オランダ、マルク諸島アンボン島⑤で、イギリス東インド会社の商館長以下10人と、9人の日本人傭兵、1人のポルトガル人計20人を処刑した。(アンボン事件)
1641年 オランダ、ポルトガル拠点マラッカ⑧を征服。
1663年 オランダ、コーチンに商館を設置し、ポルトガルを駆逐しはじめる。
1667年 オランダ、インドネシア・スラウェシ島のゴア王国を制圧する。
1669年 オランダ、ポルトガル拠点マカッサル⑥を激戦の末、征服した。
1677年 オランダ、インドネシア・ジャワ島のマタラム王国の内乱に介入する。
1684年 オランダ、インドネシア・ジャワ島のバンテン王国を支配する。
1688年 オランダ、タイのアユタヤ朝の国王死去にともない、タイでの貿易権を回復する。

●こうしてオランダ東インド会社は、17世紀末頃までには、高級香辛料の直接取引を独占するようになった。また一方インド洋海域でも商館を次々と設置し、オランダ東インド会社は他のヨーロッパ諸国を圧倒した。
モカ(アラビア半島)、バンダレ・アッバース(ペルシャ湾)、スーラト(西北インド)に商館を置き、コーチン(インド西南海岸・ポルトガルの拠点)を占領し、セイロン(スリランカ)でポルトガルを追放し、インド東方海岸のマスリパトナム、プリカット、タイのアユタヤなどに商館を置いた。そして日本には平戸、ついで長崎、また台湾(安平)に商館を設置した。
●こうしたなかイギリス東インド会社は、香料貿易はかろうじて行っていたが、他方でインド大陸での綿織物貿易へと向かっていった。

インド綿織物貿易

●16世紀からポルトガル人は良質なインドの織物の貿易を行っていた。またオランダ東インド会社も1630年代から、貿易を行っていた。両者ともにプリカットに商館を置き、またオランダはマスリパタムにも商館をおいて綿織物の輸出を行っていた。(プリカットはマドラスの北40km程度北)
●綿織物の有名産地は、パンジャーブ地方(西北インド)、グジャラート地方(西北インド)、コロマンデル海岸(クリシュナ川の河口からカリメール岬《スリランカ北端と向き合う岬》までの海岸《南東インド》)そしてベンガル地方(北東部)とされる。右地図参照。
●そうしてイギリス東インド会社は、インド亜大陸へ進出し、綿織物貿易拡大へ向かった。


(右地図)ムガル時代の地図。(コロマンデル海岸を追加記入・星野)(出典:「インド宮廷文化の華(細密画とデザインの世界)」ヴィクトリア&アルバート美術展1993年~1994年NHK等)


●この画像操作は「Wheelzoom」jsにより行っている。jacklmoore氏のサイトを参照してください。
●下の画像は、マウスホイールで拡大・縮小・移動ができる。ムガル

イギリス東インド会社、インド亜大陸へ進出

● イギリスのインド進出を年表にしてみる。

内容
1611年 イギリス東インド会社、コロマンデル海岸の拠点としてマスリパタムに商館を置く。
1612年 イギリス東インド会社、インド西岸のスーラト、タイのアユタヤに商館を置いた。
1615年 英国初の駐インド大使が、ムガル皇帝ジャハンギールに謁見し、商館の設置や通商上の特権を獲得した。
1615年 イギリス艦隊がボンベイ沖でポルトガル艦隊を破る。
1627年 ムガル皇帝ジャハーンギールが没し、翌年シャー・ジャハーンが即位する。
1632年 ムガル皇帝シャー・ジャハーンが愛妃の廟、タージ・マハルの築造を開始する。(前章の16世紀に写真と肖像画記載。)
1633年 イギリスがベンガルに植民を開始する。
1633年 ムガル皇帝シャー・ジャハーンがデカンのアフマドナガル王国を併合する。
1638年 ムガル皇帝シャー・ジャハーンがアフガニスタン・カンダハールを奪回する。
1639年 イギリス東インド会社、マドラスを獲得、翌年商館と1644年には要塞(セント・ジョージ要塞)が完成した。イギリスは、マスリパタムがゴールコンダ王国によって脅かされていたため、新たな拠点を求めていた。こうしてマドラスがイギリス東インド会社南インド最大の基地となった。また東インド会社は、30年間の免税という特典を設け、インド人の綿布工や商人を招来し、この地を本格的な根拠地としてインド貿易に参入していった。
1648年 ムガル皇帝シャー・ジャハーンが、アーグラからデリーへ遷都する。
1649年 サファヴィー朝、ムガル帝国から奪われたカンダハールを奪回する。
1658年 ムガル皇帝シャー・ジャハーンが息子(アウラングゼーブ)に幽閉される。翌月ムガル皇帝アーラムギール(アウラングゼーブ)として即位する。
1669年 ムガル皇帝アウラングゼーブ、ヒンドゥー教を禁止し寺院を破壊する。ヒンドゥー教徒、皇帝に反発する。
1672年 フランス東インド会社、コロマンデル海岸に新拠点ポンディシェリを獲得する。
1674年 デカン地方で、ムガル帝国に抗して、ヒンドゥー独立国家マラーター王国できる。
1676年 ムガル皇帝アウラングゼーブ、北西辺境のアフガン族の反乱鎮圧に成功する。
1679年 ムガル皇帝アウラングゼーブ、非イスラム教徒へのジズヤ(人頭税)を復活、ヒンドゥー教徒反発する。
1682年 イギリス東インド会社、オランダに破れ、インドネシア・ジャワ島バンテンから撤退する。
1687年 ムガル皇帝アウラングゼーブ、前年のビージャプル王国に続き、ゴールコンダ王国を併合する。
1690年 イギリス東インド会社、ムガル皇帝よりベンガルに商館設置の許可を得た。1696年にはウイリアム要塞の建築許可も得て、ここにイギリスのインド支配の最重要拠点になった「カルカッタ」が誕生した。
ムガル時代のヨーロッパ人
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(左絵)「ヨーロッパ人の肖像」紙に不透明水彩と金泥。ムガル、1610年頃。
(右絵)「水パイプでタバコを吸う東インド会社の高官」紙に不透明水彩。ディープ・チャンド筆。ベンガル、ムルシダーバード、1760年~63年。
(出典:「インド宮廷文化の華(細密画とデザインの世界)」ヴィクトリア&アルバート美術展1993年~1994年)NHK等)

インド綿織物について

●まずここでは、「インド更紗(サラサ)」小笠原小枝。=東西の染織技術の源泉となった多彩な模様染めの世界=「クロニック世界全史」から一部引用してみる。

○テキスタイルと染色
人類の歴史とともに発達してきた衣の文化は,衣の素材となる織物(テキスタイル),さらに織物や染め物をつくりあげる繊維や染料と深くかかわっている。その繊維や染料には,風土や時代によってさまざまなものが用いられてきたが,共通していえることは,近代の産業革命以前には,世界のどの地域においても天然のものが利用されていたことである。そのなかには獣皮,フェルト,魚皮,さらに樹皮を柔らかくたたきのばしたタパなど,不織布といわれる織物以前の素材も含まれていた。

下

インド多彩な模様染め
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(左から1)「テントの飾り布」木綿にプリント、彩色、染め。ムガル、18世紀初期。184.0×111.0cm
「この飾り布は防染法、手描き、型押しという複雑な技法で作られていて、その過程は西洋ではチンツ(更紗)=さらさ、とよばれてきた。・・・・」
(左2)「カシュミール・ショール」パシュミーナー(山羊の毛織物)カシュミール、18世紀末期または19世紀初頭。310.0×137.0cm「カシュミール・ショールはアクバル帝の時代からムガルの宮廷で好まれたが、残念なことに当時のものはまったく現存しない。・・・・」
(左3)「パトカー(男物の帯)」木綿に絹糸で刺繍。ダッカ、1800年頃。203.0×59.0cm
「ベンガル地方、ことにバングラデーシュのダッカの上質の綿(めん)モスリンは帝政ローマの昔から有名だった。・・・この上品な帯は、上質なモスリンに典型的なムガル後期の草花文を刺繍していて、織物のようにみえる。」
(左4)「パトカー(男物の帯)」木綿にプリント。ムガル、18世紀。540.5×72.0cm 「装飾をほどこした帯は何世紀もの間インドの男性の衣類の中で重要な役割を演じ、それは彫刻や初期の絵画に示されている通りである。・・・普通は草花文が好まれたが、このように小さな葉だけを並べた繊細なデザインのものは珍しい。」
(全て、出典:「インド宮廷文化の華(細密画とデザインの世界)」ヴィクトリア&アルバート美術展1993年~1994年NHK等)

インド多彩な模様染め
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(左1)「ジャーマー(男物の上着)」木綿。北インド、1850年頃。丈134cm、裾幅105cm、袖丈127cm。「ジャーマーは17世紀から19世紀末まで男性の式服として、何度か型は変化したが、もっとも広く用いられた。イスラム教徒もヒンドゥー教徒もともに着用し、一般的にはイスラム教徒は右前にし、ヒンドゥー教徒はこのジャーマーのように左脇で紐を結んで左前にした。・・・・」
(左2)「少年の上着」ショール生地(パシュミーナー)。北インド、18世紀末~19世紀初期。丈87.0cm、裾幅100.0cm、袖から袖まで104.0cm。「カシュミールのショール地の衣服は、北インドの宮廷で冬に用いられた。同じ模様を繰り返し織り込んだ何メートルの生地を、このような衣服に仕立てて共布のズボン(パージャーマー《=パジャマの語源、星野》)と一緒に着用した。」
(左3)「カーペット」羊毛に絹の横糸、木綿の縦糸。ムガル、17世紀中期。52.0×56.0cm「このカーペットのように極度に目のつんだベルベットのように滑らかな毛織物は、絹や羊毛ではなくて、むしろパシュミーナー(カシュミールの山羊の下腹の良質の毛)を使って作られた。カシュミール・ショールと同じく、良質の光沢ある素材を用いているので、単位面積あたりの結び目を多くすることができるのである。そのためムガル・カーペットの最高級品には、他ならぬこの山羊の毛を用いたのである。・・・」
(左4)「掛け布」(ルーマール)木綿に手描きと型防染の併用染め。デカン、ゴールコンダ、1640~50年頃。62.0×89.0cm「この美しい掛け布は、中央に丸文を配する構成の点でも、ゆったりと寄りかかる王子やエキゾチックな草木のデザインの点でも、ペルシャのカーペットや写本の装丁を思い起こさせる。しかし、色調は17世紀のデカン更紗(チンツ)製品の典型で、淡いピンクの地を精密に描かれた衣服や草木で埋めつくしている。・・・・」
(全て、出典:「インド宮廷文化の華(細密画とデザインの世界)」ヴィクトリア&アルバート美術展1993年~1994年NHK等)

インド多彩な模様染め
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(左1)「更紗(チンツ)の断片」木綿に手描きと型防染の併用染め。デカン、17世紀中期。58.0×26.0cm。「この更紗は、敷物か、カーテンか、あるいは衣服の一部であろう。その幻想的な花や埋め草に使われた繊細な文様は、17世紀のデカンの更紗の特色をよく示しているが、個々の草花のモチーフを規則的に配置するのは、ムガルの宮廷で好まれたデザインである。・・・」
(左2)「ターバンの生地」木綿、絞り染め。ラージャスターン、ジャイプル、1860年頃。500.0×18.0cm。「この良質のモスリンのターバン地にみられる色とりどりのジグザグ柄は、ラハリヤー(「波のような」の意味)と呼ばれる絞り染めの複雑な手順をへて染められている。・・・」
(左3)「クリシュナを刺繍したチャンバー地方のルーマール」木綿に絹糸で刺繍。パンジャーブ、18世紀。82.5×89.0cm 「この種の刺繍のある布はパンジャーブ地方のあちこちで18世紀から19世紀にかけて作られたもので、同時期の細密画と密接な関係にあったことを示している。非常に上品な図柄で、それぞれの区画に笛を吹いたり、牛飼いの娘グーピーたちと語り合うクリシュナを刺繍している。・・・」
(左4)「ドレス」木綿、彩色と染め、金彩。東南インド、ヨーロッパ向け、1780年頃。丈155.5cm、裾幅126.0cm。「17世紀の末になると、インドのチンツ(更紗)製の衣服がヨーロッパで大流行し、18世紀を通じて人気は衰えなかった。それは下層階級から上層へ広まっていった数少ないファッションの1つと思われ、最初はオランダの召使いやメイドの間で人気を博し、後にオランダの中産階級にもてはやされるようになった。オランダのウイリアムとその妻メアリーが1690年に共同でイギリス王位につくと、それが刺激となってオランダのファッションが流行し、ただちにイギリスの貴婦人が華麗なチンツに身をつつむようになり、この種の金彩をほどこしたものも見られるようになった。たいていはこのドレスのように全面に花模様を繰り返した布でできていて、注文主の好みに合わせてインドかヨーロッパで仕立てられたのであろう。オランダ人はどちらかというと大柄の大胆なデザインを好む傾向にあったので、このチンツの繊細な花の曲線はイギリス向けであったことを思わせる。」
(全て、出典:「インド宮廷文化の華(細密画とデザインの世界)」ヴィクトリア&アルバート美術展1993年~1994年NHK等)

茶と紅茶(紅茶の輸入は、緑茶のそれを18世紀半ば以降逆転していく

●茶は輸入額は、17世紀では多くはないとみられるが、18世紀になると急増していく。オランダ東インド会社の輸入額に占める割合は、2%(1711年~13年)、18.8%(1730年~32年)、24.2%(1771年~73年)、54.4%(1789年~90年)と急増していく。そして同様にイギリス東インド会社も、中国広州と直接取引をはじめた1713年以降、茶の輸入額は増加していく。またフランス東インド会社でも取引が増加し、スウェーデンやデンマークの東インド会社も茶貿易に参入していった。こうして18世紀半ばを過ぎると、イギリスと植民地アメリカやオランダを中心に普及していった。
ここで「茶と紅茶」について、日東紅茶の公式サイトとトワイニング紅茶の公式サイトから少し引用してみる。茶と紅茶の違いと歴史がわかる。

(日東紅茶・紅茶のマメ知識)でみると

●普段、私たちが「~茶、~ティー」と呼んでいるものはたくさんあります。緑茶、烏龍茶、麦茶、ハーブティー・・・など。その中でも、緑茶、烏龍茶、紅茶は、実は、同じ茶樹から作られます。学名は「カメリア・シネンシス」(Camellia Sinensis (L) O. Kuntze) 、椿や山茶花と同じ科であり、ツバキ科ツバキ属の常緑樹です。本来「茶」とは、この「カメリア・シネンシス」から作られたものを指します。

下

コーヒー(ウィキペディア「コーヒーの歴史」によれば)

●コーヒーは、エチオピアからイエメンへ伝播し、16世紀オスマン帝国によりイスラム世界に広まった、といわれる。1530年代には北シリアのダマスカス、アレッポにコーヒー店が開かれ、1550年代にはイスタンブルにもコーヒーを供する店舗が開かれた。皇帝セリム2世の時代(1566年 – 1574年)にはイスタンブル内の「コーヒーの店」は600軒を超えていた。そしてヨーロッパ各地へは、17世紀前半ヴェネツィア商人を介して広まっていった。もともとイスラムの飲み物であったために、当時のローマ教皇クレメンス8世は、悪魔の飲み物(ワインを飲めないイスラム教徒が悪魔から与えられた)であるコーヒーに洗礼を施して、キリスト教徒がコーヒーを飲用することを公認したという。
●イギリスでは1650年にオックスフォードでコーヒー・ハウスが営業を始め、1652年には初めてロンドンにコーヒー・ハウスが開業した。
(クロニック世界全史によれば)1690年頃にロンドンでコーヒー・ハウスが大流行し、社交や情報交換の場となり、18世紀初頭には2000軒に達した。これらの店は、それぞれ集まる客層が決まっていた。例えば、ぶどう酒や船荷を扱う同業者が集まっていたロイドというコーヒー・ハウスの名は、ロイズ海上保険会社として名を残した。また「ジャーナリズム」といわれるものは、コーヒー・ハウスに情報を提供するために生まれたともいわれる。コーヒー・ハウスは、イギリスの政治・文化に大きな影響を与えたという。
しかし18世紀半ばから減少し、代わりに、クラブ、ティーハウスが台頭し、イギリスの家庭には紅茶が定着していった。

ヨーロッパ宗教戦争と絶対王政・13-11
年代 事項 ドイツ30年戦争・太陽王フランスルイ14世・ロシアロマノフ王朝ピョートル大帝
宗教戦争・ドイツ30年戦争

16世紀からの関連する事件を抜き出してみる。

内容
1555年 ドイツでは、フェルディナント(神聖ローマ帝国皇帝カール5世の弟)が全権委任を受け新旧両宗派と交渉し、アウスブルク宗教和議締結となる。ここに長年の宗教抗争が一応終結した。
1556年 神聖ローマ帝国皇帝カール5世は40年におよぶ支配を終え退位する。カール5世はカトリックによる帝国を目指した。神聖ローマ帝国は弟のフェルディナント、スペインは子のフェリペ2世が継承した。
1568年 オランダでは、フェリペ2世(スペイン王)がプロテスタントを厳しく弾圧した。カトリックに対抗したネーデルラントの大貴族エグモント伯が処刑されたことにより、40年に及ぶスペインに対する独立戦争が始まった。
1593年 フランスでは、アンリ4世(プロテスタント)がカトリックに改宗(3度の改宗)し、シャルトル大聖堂で正式にフランス国王として戴冠した。
1598年 フランスでは、アンリ4世が「ナントの王令」を発布する。ここに「信教の自由」が承認され、36年にわたったユグノー戦争が終結した。
1610年 しかし、フランス国王アンリ4世は、狂信的なカトリック修道士に暗殺される。プロテスタントに対する融和策に不満を抱いていた。
1618年 ハプスブルク家の支配するチェコ(ボヘミア)で、プロテスタント貴族が、プラハの王宮で抗議行動を起こした。ボヘミアでは「信教の自由」が国王により破棄されたことによりこの事件が起きた。この抗議行動は武装反乱となった。
1619年 フェルディナント2世が神聖ローマ皇帝として即位すると、武装反乱はさらに拡大していった。その後この戦争は「反ハプスブルク家」「反カトリック」闘争となり、ヨーロッパ諸国をまきこむ「30年戦争」となっていった。ドイツはこの戦いにより人口1600万人が、600万人に激減する被害を受け、国土は荒廃した。
「血なまぐさい宗教戦争」

●この「ドイツ30年戦争」を、「世界の歴史」第8巻「血なまぐさい宗教戦争」中央公論社 1961年刊、などより、以下に抜粋要約してみる。

1555年のアウグスブルクの宗教和議 ●当時のドイツは、神聖ローマ(ドイツ)皇帝をいただき、3百数十の国(諸侯・自由都市)からなっていた。また宗教もカトリック・ルター派・カルヴィン派にわかれモザイクのように入り交じっていた。この宗派は固定したものではなく、それぞれの君主の改宗によってときどきかわった。
●1555年のアウグスブルクの宗教和議では、各諸侯に新旧の選択の自由を認めたが、住民は領主の宗教に従うことが定められていた。この領主の改宗の動機は、宗教的な理由ではなく、現世の利益にひかれての方がはるかに多かった。
1618年プラハの王宮で抗議行動 ●そして、フェルディナント2世が神聖ローマ皇帝として即位し、ボヘミア(チェコスロバキアの一部の地域)の新教徒の迫害をはじめた。これに対してボヘミアの新教貴族達は、1618年プラハの王宮で抗議行動にでた。そして反乱はドイツ、西ヨーロッパ全域に広がり、30年戦争に拡大していった。ボヘミアは10分の9がチエック人で、反ドイツ的な民族主義的傾向が強く、同時に新教徒の多いところだった。
1620年ボヘミア新教連合、皇帝軍と戦闘 ●1620年、ボヘミア新教連合はカルヴァン教徒のファルツ伯フリードリヒを王にむかえて、ビーラー・ホラにおいて皇帝軍と戦闘となったが、2時間で粉砕されてしまった。破れたフリードリヒはじめ、新教徒3万人はボヘミアから逃れた。こうして1623年までに、ドイツでは皇帝を中心に、カトリックが完全な勝利をおさめたかのように見えた。
●しかし1625年、デンマーク王クリスティアン4世(新教側)が6万人を率いてドイツへ侵入した。その背後にはイギリス・オランダの援助と、フランス(カトリックだがハプスブルク家の弱体をねらう)の後押しがあった。1626年、デンマーク王は、ワレンシュタイン(皇帝軍)や、名将ティリー(カトリックの連盟の軍隊)と戦い、ルッテルの戦いで大敗し勝負はついてしまった。当時の軍隊は、まだ常備軍はなく傭兵隊が主力だった。彼らにとって大義名分は関係なく、掠奪と報酬が一番の関心事だった。このデンマーク王の負けた戦いも、兵士の給料の支払いができず、軍の規律が頽廃したことにあったという。
●皇帝軍のなかで総司令官フリートラント公ワレンシュタイン(1583~1634年)は、代表的な戦争企業家とある。皇帝軍総司令官に任命され、常勝将軍として名声を博したが、敵・味方両方を掠奪し、権勢と富を増大させていった。かれの傲慢な野心はふくれあがっていったが、そのため他の諸侯により皇帝軍を罷免された。
1630年スウェーデン王北ドイツに進撃 ●1630年、スウェーデン王グスタフ・アドルフ(新教徒)がドイツ新教徒を救うためと称し、北ドイツに進撃を開始した。スウェーデン軍は、軍事技術も当時の水準を上回り、また軍律も厳しく、新教の戒律がゆきわたっていた軍隊だった。そのため31年には不敗将軍ティリーを破り、32年南ドイツのミュンヘンを陥落させた。このため神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント2世は、プラハで隠棲していたワレンシュタインを皇帝軍総司令官に再起用し決戦にのぞんだ。
●1632年11月、リュッツェン(ライプツィヒ近郊)の戦いで、スウェーデン軍は皇帝軍を敗退させるが、国王グスタフ・アドルフ王は戦死した。それでも、王を失ったスウェーデン軍は以後も善戦を続けた。戦争はいぜんとして続き、1634年にはボヘミアに戻ったワレンシュタインは、新教徒側と和平をはかろうとし暗殺された。また同年スウェーデン軍は、ネルドリンゲンでスペイン軍と合体した皇帝軍に大敗した。そしてついに1635年、黒幕のフランスがドイツに直接介入することになった。
1648年 ●すでにこの戦争は宗教戦争の性格はなくなり、また皇帝と諸侯との間に妥協が成立して、国内戦争の意味合いもなくなっていた。あるのは、ハプスブルク家(オーストリアとスペイン)とブルボン家(フランス)、共にカトリック同士の国際戦争だけだった。また依然としてスウェーデンもドイツにとどまり、4つの国の軍隊がドイツを戦場として戦い続けた。このあと10年以上戦争状態は続き、ドイツは各国傭兵軍による掠奪暴行により、町も村も荒廃し、ドイツの人口は1600万人から600万人に減り、村落の5/6は破壊されたという。ドイツの歴史は200年逆行したといわれる。
●1644年、予定は何年も遅れながらも、ヨーロッパで初めての大規模な国際会議が開かれた。ドイツ皇帝、ドイツ諸侯(66ヵ国)、フランス、スウェーデン、スペイン、オランダなどとヨーロッパのキリスト教国の大部分の代表が集まった。本格的協議は1645年に始まり1648年まで3年間続いた。(その間も戦争は続けられていた。)
●1648年末、ついに会議は終わり、ウエストファリア条約が調印された。30年の歳月と1千万人を越える人命、そして甚大な物的被害をあたえた戦争の総決算だった。
ウエストファリア条約

●この条約の結果を簡単にまとめると以下のようになる。

内容
フランス アルザスの大部分と、ヴェルダン、メッツ、ツールの3司教領を獲得。
スウェーデン 北ドイツのポンメルン、ブレーメンを獲得。北海とバルト海へ出る水路をことごとくおさえた。
オランダ、スイス 独立が国際的に承認される。
ドイツ 神聖ローマ帝国皇帝は有名無実になった。ドイツの3百数十の諸侯は、それぞれ独立し外交上の自主権すら得た。ドイツの分裂はここにきわまった。ウエストファリア条約は「ドイツ帝国の死亡証明書」とよばれる。
宗教対立は、ルター派・カルヴィン派共にカトリックと同等の権利を認められた。
スペイン 16世紀太陽の沈まぬ国と称されたスペイン・ハプスブルク家(ローマカトリック)は、その非寛容な宗教政策により、本国のユダヤ人、ムーア人(イスラム教徒)を追放し、オランダの新教徒を迫害することにより独立戦争を起こさせ、本国経済の衰退をまねいた。またオーストリア・ハプスブルクを援護するため30年戦争に介入し、さらに本国経済を破産へと導いた。海外では、オランダ、イギリスとも戦い、貿易競争でも負けていった。
ローマ・カトリック ローマ法王の権力は、ついに政治的には力を失った。神聖ローマ帝国というキリスト教的普遍的国家が、有名無実になったことにあらわれている。
●この戦争では、国家間の戦争の規模が拡大するにつれ、降伏した敵の皆殺し、非戦闘員の大量虐殺、掠奪行為の日常化などがおこるようになり、戦争の惨禍を多少でも少なくするための取り決め「国際法」の必要性が求められるようになった。
●1625年、「国際法の父」とよばれるフーゴー・グロティウスは、「戦争と平和の法」を書き上げた。
この部分を「世界の歴史」第8巻「血なまぐさい宗教戦争」中央公論社 1961年刊より引用してみる。
グロティウス「戦争と平和の法」
「戦争と平和の法」
グロティウスはこの本のはじめに、
「私はどのキリスト教国でも、野蛮人も恥じるような無軌道な戦争が行なわれているのを見る。わずかの原因で、また全然原因がないのに武力に訴えるのが常である。そして一度戦争を始めると、神の法も人間の法もどちらも尊重せず、まるで人間は何の抑制もなく、どんな罪を犯してもよいとされているかのようである」と当時の戦争のありさまを嘆いた。
このような悲痛な体験の上に、彼は法学者として、人類の平和を実現し、戦争の惨禍を少なくするために国家がたがいに守らねばならぬ法を明らかにしようとしたのである。そのとき、彼は国家間の権利義務を、神の法ではなしに自然法(民族、宗教の差異を越えた全人類に普遍的な自然の法)の上に基礎づけた。
『戦争と平和の法』は、出版されるとたちまち大きな反響をよび、版を重ねた。グスタフ・アドルフもこの本を陣中にまで携帯し、リュッツェンで戦死したのち、この本が読みかけのまま机の下から発見されたほどであった。また後世にも大きな影響を与え、グロティウスは「国際法の父」「自然法の父」とよばれる栄誉をかちえた。
しかし、国際法を自然法に基礎づけたのは、彼がはじめてでなく、この点では彼の本はなにもそう独創的なものでなかった。また、この大著は論理の一貫性、体系の精密さでも欠けるところが多い。だが、この本が永遠の生命を得た理由はもっと別のところにあった。それは第一に、グロティウスが平和を人類の普遍的な願いとして求めたその熱情的な理想主義、第二に彼の宗教にとらわれぬ自由で合理的な物の考え方である。
彼は時代に何歩も、いや何百歩も先んじていた。彼の平和主義はこれから300年間、国際政治の冷たい現実のなかで顧みられることがなかった。しかし、第一次世界大戦のあと国際連盟がつくられ、さらに第二次大戦後、平和が人類の生きるぎりぎりの条件になった現代において、グロティウスの思想はいよいよその真価を発揮している。30年戦争は、彼を通して20世紀のわれわれの現実と深く結びついているといえよう。
太陽王フランスルイ14世
ここで、NHK世界遺産100 No6「ベルサイユ宮殿と庭園」小学館DVDマガジン2009年刊を紹介する。文章では理解しにくいが、このようなTV番組やDVDマガジンが刊行されているのでありがたい。17世紀フランスの「太陽王」ルイ14世の「ベルサイユ宮殿」、18世紀ハプスブルク家唯一の「女帝」マリア・テレジアのシェーンブルン宮殿、またマリー・アントワネットの愛した離宮などが収録されている。購入をお薦めする。

NHK世界遺産100 No6「ベルサイユ宮殿と庭園」小学館DVDマガジン2009年刊より
「●語り 俳優 江守徹。俳優 鹿賀丈史。●アナウンサー松平定知 ●作曲家 久石譲」
●紹介動画・部分切り取り編集星野。「ベルサイユ宮殿」、「シェーンブルン宮殿・遠景」
「大広間」、「シェーンブルン宮殿・近景」
●flash動画(ファイル形式flv、4.75MB)
ルイ14世

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フランス王朝の系図

●ここでフランス王朝の系図を確認してみる。
16世紀からのユグノー戦争、3人アンリの戦い、カトリック改宗、ヴァロア王朝断絶とブルボン王朝成立など、王朝の系図から確認しないと関係がわからない。(出典:『クロニック世界全史より』講談社1994年刊)

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「3人アンリの戦い」
「3人のアンリ」
①国王アンリ3世(ヴァロア朝)。
②カトリック教徒の首領ギーズ公アンリ(サン・バルテルミの虐殺事件をおこす)。彼はギーズ公フランソワ《ユグノー戦争勃発事件をおこした》の長男である。
③そして新教徒の中心人物アンリ・ド・ナヴァル(アンリ4世)、の3人のことをいう。
サン・バルテルミの虐殺事件(1572年) ●サン・バルテルミの虐殺事件は、アンリ・ド・ナヴァルとマルグリット・ド・ヴァロワ(国王アンリ3世の妹)の結婚式(カトリックと新教との和解のため)がきっかけで起こった。アンリ・ド・ナヴァルは監禁され、カトリックへ改宗させられた。しかし、アンリ・ド・ナヴァルは逃亡しその後プロテスタントに改宗し直した。マルグリット・ド・ヴァロワとはその後離婚する事になったが、その後も2人の関係は良好だったという。
●アンリ4世はマリー・ド・メディシスと再婚し、ルイ13世が生まれたが、マルグリット・ド・ヴァロワはルイ13世をかわいがったといわれる。彼女は王妃マルゴといわれ、幼い頃から際立つ美貌と、ギリシャ語、ラテン語などの語学や哲学などにも造詣が深く、絶世の美女といわれたという。しかし、マルグリット・ド・ヴァロワの死によって、ヴァロア朝は断絶した。
宗教戦争(ユグノー戦争)の末の頃 ●②のギーズ公アンリはフランス全土を支配し、パリに入城した。パリから追われた①国王アンリ3世は、③のアンリ・ド・ナヴァルと共闘しパリを包囲し、②のギーズ公アンリを奸計をもって暗殺(1588年)した。この事件はカトリック側の反発を呼び、カトリック同盟はアンリ3世に宣戦を布告した。そんな中、今度はアンリ3世がカトリック側によって暗殺(1589年)された。
●死の床にあってアンリ3世は、アンリ・ド・ナヴァルを後継者(アンリ4世)に指名した。
しかしプロテスタントの国王は認められず内乱は続き、スペイン(カトリック)の援軍もあり戦闘はさらに続いた。そうして1590年、カトリック同盟の擁立したシャルル10世が死去し、スペイン王が新たに国王を画策する情勢の中、アンリ4世はカトリックに改宗した。
●カトリック教会はこれを認め、1594年シャルトル大聖堂においてアンリ4世として正式に戴冠した(ブルボン王朝)。そして1598年ナントの勅令を発布し、宗教戦争を終息に導いた。しかしアンリ4世も1610年カトリックの狂信徒に暗殺され、9歳のルイ13世が即位した。
ルイ13世 ●ルイ13世は幼少で即位したが、宮廷革命を経て、リシュリューを宰相とし国政を担当させた。
リシュリューは王権と王国の強化はかり、国内の新教徒や反抗する大貴族に対し峻厳な対応を行った。またハプスブルク家に対しては、30年戦争に介入することによって、その弱体化を図った。本来フランスはカトリックだが、30年戦争では新教側についてハプスブルク家に対抗した。
内政では、商工業、貿易、植民を保護し、フランス陸海軍を創設したが、たび重なる戦費の調達のため、ブルジョア層、特に都市貧民、農民大衆は重税に苦しんだ。そのため農村や都市では、反税闘争、大衆暴動が活発化していった。1642年末リシュリュー(57歳)が他界すると、1643年5月ルイ13世(41歳)も続いて死去した。
ルイ14世 ●ルイ14世は、5歳で後を継いで即位する。王母アンヌが摂政となり、宰相の後継者はマザランがなった。(ルイ13世が招聘していた。)
●1648年、パリ高等法院の司法官達が、パリ市民の不満の先頭に立って反政府の運動をおこした。続いて1650年には、貴族達が王権に対する反乱をおこした「フロンドの乱」。「フロンド」とはパチンコ(投石具)で、王権側が問題にならない小さな事だと揶揄して付けた名前。しかし反乱は1653年に平定され、王権はさらに強化されていった。
●マザランはウエストファリア条約によって30年戦争を有利に終わらせ、ライン川方面に領土を広げ、ドイツの領域を自国のものにしていった。また1660年に成立したピレネー条約によって、スペイン国境の領土も獲得した。16世紀に最大の帝国と誇ったスペインも、次第に勢いが衰え、かわりにフランスがヨーロッパ第一の強国になっていった。
●マザランは権勢を誇り、ルイ14世さえも自分の廷臣であるが如くに接したという。またマザランは蓄財にも余念が無く、官職売買、不正取引、国税の使い込みなどによって莫大な財をなした。彼はブルボン王家のためにつくしたが、自分自身にもつくしたわけであった。
●マザランは1661年に死去し、ルイ14世は宰相を置かず親政を始めた。絶対王政「朕は国家なり」「太陽王」の最盛期を迎える。
フーケの居城 ru1(左写真)「ルイ14世」「太陽がデザインされた衣装」(右写真)フーケの居城ヴォー・ル・ヴィコント。このあまりの壮麗・華美さは、ルイ14世に屈辱と怒りを与え、同時にベルサイユ宮殿の造営を決意させたといわれる。(出典:『クロニック世界全史』講談社1994年刊)
ルイ14世王権神授説 ●ルイ14世は王権神授説を信奉した。それは、「王位とは人身(じんしん)の位ではなく、神そのものの位である。それゆえ王者は、地上における神の代理人として行動するものである」という内容である。
●このルイ王朝の時代背景は、新教徒も貴族たちも政治的な力を失い、貴族たちは年金を得て、宮廷に寄生する無力な存在となっていた。パリ高等法院(フロンドの乱を起こした)も沈黙し、ハプスブルク家も勢力を失い、内外に王権に抗するものが無くなっていた。
●とはいえ、「王権神授の絶対君主」「太陽王」のルイ14世は、人民から隔絶された存在ではなかった。「王および王の家族は、国家のもの」という観念があり、王宮を公開したり、晩餐を公開して食事をしたり、王妃の出産までも公開したこともあったという。「王の子は万民の子であるから、皆が案じ喜ぶのは当たり前」ということらしい。しかし豪奢を愛したルイ14世は、建築、祭礼、旅行、賭博、宴遊、狩猟などに湯水のように金銭を費やしていった。
●だが一方でルイ14世は、このような宮廷生活にのみ耽っていたのではなかった。ルイ14世は、その強靱で頑健な身体を誇り、「富国強兵」のもと、戦争にその栄光を求め、領土拡大に力をそそいだ。
商工業ブルジョアたちが進出した時代 ●この時代は、大商人、銀行家、産業家、法律家、医師などが王国の経済や社会を動かした。また官職売買(不正ではない)が行われていたため、財力のあるものにとって有利であった。(この売官に対する譲与税は、国家の大きな財源となっていた)またブルジョアたちのなかには、没落貴族から土地を買って領主になるものもあった。さらに結婚によってブルジョアと貴族は混合していった。コルベールもブルジョア時代にふさわしく、一(いち)ラシャ商の息子が財務総監にまでなった、ということにも象徴されている。

(重要語)
●ブルジョア・・・②近代社会における資本家階級に属する人、あるいは生産手段を持つ人。
●ブルジョア革命・・・ブルジョアジーの指導する社会革命。封建的諸関係を打破して、資本主義的諸関係を確立する革命・・・略。(広辞苑より)
フーケ、コルベール ●マザランの死後、宰相の後継者を望んでいた財務長官フーケは、公金横領の罪に問われ逮捕され失脚した。(コルベールの影が見え隠れするといわれる)
●財務総監に就任したコルベールは、財政を改革し輸出入を調整して、商工業を保護育成した。また諸外国から技師や手工業者を招き、種々の王立工場や特権工場をおこし、諸工業・産業を発展させた。(重商主義・コルベール主義)
●またコルベールは、イギリス・オランダに対抗して海外進出につとめ、北アメリカ、インド、アフリカ方面に植民地を作っていった。北アメリカでは、ミシシッピ川(旧名コルベール川とよばれた)の流域に、ルイ14世の名を取ってルイジアナと名づけ植民した。
●中米では、アンティーユ諸島(中央アメリカに位置し、西インド諸島の主要部を構成する諸島のこと)を植民地として経営したが、苛酷な奴隷労働を行い、それによりナント、ボルドーの港の奴隷商、貿易商、大船主などが巨富を築いた。
●またコルベールは、東インド会社を再建し、海外発展に必要な海軍を育成した。
インドでは、1672年ビージャプル王国の領主から土地を譲り受け、ポンディシェリと名づけた。そしてここを拠点にインド貿易に積極的に参入していった。
アメリカ植民。イギリスとフランスの対立。 ru004(地図)1682年フランス人、ラ・サール、五大湖からミシシッピ川河口に達し、ルイジアナと名づけた。これにより、フランスは大西洋側のイギリス領を囲む形となり、対立が深まっていった。(出典:『クロニック世界全史』講談社1994年刊)
ルイ14世の戦争(ヨーロッパを敵として) ●「世界の歴史がわかる本」では、ルイ14世は欧州最大の55万人の常備軍を編成し、最新兵器で武装したとある。フランスは第2回目のイギリス・オランダ戦争に乗じて、スペイン領ネーデルラントに侵入、第3回目のイギリス・オランダ戦争では、オランダに侵入して、それぞれの領土の一部を獲得した。またオランダを支援したドイツから、アルザス・ロレーヌを奪い返還しなかった。フランスは、1648年のウエストファリア条約で獲得できなかった残り全部を獲得した。此の事はのちにまで続く、フランスとドイツの紛争の遠因となった。
●また1688年には、ドイツ・ファルツの継承を主張し戦争を起こした。(ファルツ継承戦争1688~1697)これに対してドイツ諸侯は、イギリス、オランダ、スペインと同盟しフランスと戦った。イギリスはこれを機に、植民地をめぐるフランスとの本格的な戦いに入った。
●1701年、スペインのハプスブルク家の血統が絶え、ルイ14世の孫がフィリップ5世として王位を継承した。これによりスペイン・ブルボン朝が始まることになった。これに対しイギリスは、フランス・スペインの連合はヨーロッパの均衡を破り平和を損なうとして、オーストリア・プロシア・オランダと同盟し、スペイン継承戦争(1701~1713)をおこした。
ルイ14世の侵略戦争 ru005(地図)ルイ14世の侵略戦争(出典:『クロニック世界全史』講談社1994年刊)
ルイ14世の晩年 ●コルベールが築き上げた国富、そして財政の均衡も、たびたびの戦争と宮廷生活のおびただしい浪費により、ついに破綻していった。また宗教上でもルイ14世はナントの勅令を廃止し、再びカトリック教国をめざし新教徒の迫害をはじめた。新教徒はあらゆる公職から追放され、20万人から30万人におよぶ新教徒たちが、イギリス、オランダ、プロシアなどに亡命した。産業家、手工業者、すぐれた科学者たちも亡命していった。
●コルベールの重商主義によって恩恵をうけたのは、一部の大ブルジョアたちにすぎず、一般の手工業者、職人、農民たちは劣悪な状態に置かれたままだった。そして国庫の欠乏につれ、彼らは重税をかけられ、またあいつぐ戦争に傭兵として狩り出され、飢餓、疾病(特にペスト)に間断なく襲われていた。特に零細農民の生活は悲惨なものであった。
●ルイ14世晩年の頃、国土は貧窮につつまれ、国庫は欠乏し、王は怨嗟の的になっていた。ルイ14世は1715年77歳で老衰死をむかえたが、そのパリの葬列へは、口汚いののしりが浴びせられたという。こうして、将来おきる「フランス革命」の原因が作り出されていった。
ロシア・ロマノフ王朝・ピョートル大帝

最初に「国別にみる世界全史」から、ロシアの歴史の一部を抜粋してみる。(出典:『クロニック世界全史』講談社1994年刊より)

9世紀半ば ●スウェーデン系ノルマン人のリューリクが、ルス族を率いてこのロシアの地に侵入し、スラブ族を支配してノヴゴロド公国を建設した。そして882年、ノヴゴロド公国の一族オレーグが、キエフ公国を建設した。
10世紀末 ●キエフ公国のウラジーミル1世は、ビザンティン帝国の皇女と結婚してギリシャ正教に改宗し、ビザンティン文化をとりいれた。このウラジミールの改宗について「世界の歴史第8回」中央公論社1961年刊には次のように書かれている。

「ロシアにはじめてキリスト教が入ったのはキエフ公ウラジーミル(955頃~1015年)のときである。大公ははじめ雷神ペルーンの崇拝者で、キエフに頭は銀、髭は金という豪勢なペルーンの大像をつくらせた。そのころのロシア人は、スラヴの習慣である掠奪結婚、多妻制を禁ずるキリスト教をきらっていた。しかしさすがの大公も、ロシア宗教の時代おくれでばかばかしいことをさとり、改宗を決意した。そこでイスラム教徒、ユダヤ教徒、カトリック教徒を宮廷に招いて彼らのPRに耳を傾けた。ところがイスラム教は、ロシア人の好物である豚肉と酒を禁じ、ユダヤ教は祖国のない連中の宗教であり、さらにカトリック教は威厳さが足りないということで、いずれも落第となった。結局、絢爛無比を誇る聖ソフィア教会、豪華な宮廷、いかめしい聖職者群、荘重な儀式というたくさんな付録のついたビザンツのギリシャ正教が、最も大公の気に入った。・・・・(その後コンスタンチノープル陥落15世紀以降)『・・偉大なるロシア帝国こそ第三のローマであり、世界においてロシアの皇帝だけがキリスト教の皇帝とよぶにふさわしい・・・』といわれ、モスクワに総主教がおかれ、その地位は皇帝につぐものとなった。」
11世紀末 ●キエフ公国は十字軍遠征による地中海貿易の発展や、遊牧民の攻撃によって次第に衰退し、13世紀にはモンゴルの侵入を受けて、大半を支配された。
14世紀後半 ●ティムールの圧迫や国内の分権化によってモンゴルの支配が弱まると、モスクワ大公国が実力を高めた。
16世紀初め ●イヴァン3世は、モンゴル軍などを破って、東北ロシア統一を実現した。国内的には農奴制を強化し、またツァーリ(皇帝)の呼称を初めて使用した。
1547年 ●イヴァン4世(雷帝)は正式に全ロシアのツァーリを称した。そして貴族等を弾圧して中央集権化に努め、農奴制を強化した。また東南辺境の騎馬団であるコサックのエルマークがシベリア遠征を行い、ロシアの東方遠征が開始された。

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(左絵)イヴァン4世(雷帝)(出典:『丸善エンサイクロペディア大百科』丸善1995年刊)
(右写真)ワシリー=ブラジェンヌイ寺院(ポクロフスキー大聖堂・ヴァシリー大聖堂)1560年、イヴァン4世がカザン・ハーン国に対する勝利を記念して建てた。(出典:『世界の旅15』河出書房1968年刊)

このイヴァン雷帝について「世界の歴史第8回」中央公論社1961年刊には次のように書かれている。「雷帝(正式にはイワン4世)の”かみなり”というのは、古いロシアの宗教では、ペルーンとよぶ魔除けの神で、雷が鳴ると人々は、この神が二輪車にのって空をかけめぐり、火の矢を放って悪魔を退治すると考えていた。したがってイワン雷帝は、悪魔を退治した皇帝ということになる。ではこの悪魔とは何かというと、これは当時の『大貴族』(ボヤール)をさす。・・・『大貴族たちは、町といわず村といわずいたるところを歩きまわり、住民に容赦なく罰金を科し、人民を苦しめ、ありとあらゆる悪事を行った・・』とある。」
モスクワ大公国の拡大 ro011s(地図)モスクワ大公国の拡大。赤字地名は星野記入、18世紀ピョートル大帝の首都ペテルブルク。(出典:『クロニック世界全史』講談社1994年刊)
1584年 ●イヴァン4世が死ぬと、国内は、新旧貴族の抗争、農民の反乱やコサックの独立運動などによって混乱した。また国外からはポーランドやスウェーデンが干渉してきて、ロシアは動乱の時代へと突入した。
●この動乱のなかで、ポーランド軍はモスクワのクレムリンに侵入し、スウェーデン軍はノヴゴロドを占領した。1612年、ロシアの義勇軍(主力はコサック)はモスクワをポーランド軍から解放した。そして、動乱がおさまり、全国会議が召集されて、1613年、ミハイル・ロマノフ(16歳の少年)がツァーリ(皇帝)に選出された。そしてスウェーデンと講和してノブゴロドを取り戻し、ポーランドとは休戦した。
●そしてロシアは西洋化を進め、なかでも軍事技術の立ち後れの回復を目指し、軍隊を西洋式に再編成し、外人将校に訓練を行わせた。また軍隊の武器弾薬の国産化をはかり、それに伴い外国の資本家や工場主も招聘された。そして製鉄工場、ガラス工場、泥炭工場なども、外国の技師や職工の指導によって作られた。
●ミハイル・ロマノフの後を継いだアレクセイ(1645~1676年)は、大貴族マトヴェーエフが親代わりに引き取っていたナターリア・ナルイシキンをみそめ結婚した。その子がアレクセイ帝14番目の子で、ピョートル大帝(1世)となった。
ロマノフ王朝の系図 ro002(系図)ロマノフ王朝系図の一部(出典:『クロニック世界全史』講談社1994年刊)
1676年 ●アレクセイが死ぬと、先妻の子のフョードル(3世)が皇帝の位についた。(ピョートルはこの時3歳)これにより、フョードルの母方のミロスラウスキー家が権勢をふるい、ピョートルとその母方ナルイシキン家は宮廷で日陰者になってしまった。そして1682年、ピョートルが10歳の時フョードル3世が死ぬと、お家騒動が起きた。
●総主教と大貴族たちは協議して、次の皇帝にピョートルを推薦する事を決定したが、姉のソフィアはフョードル(3世)の兄イヴァンを推し反対した。そして1682年、全国会議において、ソフィアが摂政となり、イヴァン(5世)とピョートルが帝位を共有することになった。(系図でも、両者の皇帝即位の年は1682年となっている)
●ピョートル母子はクレムリンを追い出され、モスクワ郊外に住んだが、父アレクセイの残した遊戯部隊(鷹狩り)をそのまま与えられた。ピョートルは、この遊戯隊を西洋式常備軍にまで発展させていった。戦争ごっこが本物になっていった。(まるで日本の織田信長のようである。星野私見)
●ピョートルが17歳の時、摂政のソフィアはピョートル排除のため攻撃を仕掛けた。しかしピョートルは危機を脱し、逆にソフィアを修道院に幽閉し皇帝の地位を確保した。
●この頃、ピョートルは大貴族ロプーヒンの娘エウドーキア(エウドキア)と結婚し皇子を得たが、政略結婚のためうまくいかず、のちに離婚して、エカチェリーナと結婚した。これが系図で2人の王妃がいる理由であり、ピョートルの死後、エカチェリーナが王位を継いだ。
1697年 ●ピョートル大帝は西ヨーロッパ大(だい)使節団を編成し、オランダ、イギリスという最強海軍国の造船技術、軍事方式や技術を視察した。総勢250名といわれ、大帝自身も名を変えて随員に加わった。
●ピョートル大帝は「海の出口」を求め、最初はトルコの海であるアゾフ海、黒海を目指し「アゾフ遠征(1695~1696年)」を行ったが、その後バルト海の制海権をもとめ、スウェーデンと「大北方戦争(1700~1721年)」で戦った。しかし1700年、ピョートル大帝は、「ナルヴァの戦い」でスウェーデンに大敗してしまった。そこでピョートル大帝はロシアで初めての徴兵制をしき、7年の歳月をかけ壊滅した軍隊の再建をはたし、17万の常備軍を編成した。そして、1709年「ポルターヴァの戦い」でスウェーデン軍を破った。この戦いは、南下したスウェーデン軍が東ウクライナでロシア軍と戦った。この戦いの敗戦により、スウェーデンは没落し、ロシアが興隆にむかい、ヨーロッパの転機が訪れた。
ピョートル大帝 ●ピョートル大帝は、ペテルブルク=サンクトペテルブルク=レニングラード(ソビエト時代)を首都に定め、対岸には後の「バルチック艦隊」で有名なクロンシタット基地となる要塞を作った。また18世紀後半には王宮である「冬宮」(現在エルミタージュ美術館)が作られ、エカチェリナ2世(1762~1796年)が初めて使用し、その後数々の歴史の舞台となった。
●こうしてロシアは、ピョートル大帝の時代に変貌をとげていった。富国強兵こそが大目標だった。大貴族とよばれた特権層は変質をとげ、近衛連隊は士官学校の役割をはたし、常備軍の将校あるいは国家の高級官僚になることを義務付けられた。また「官等表」による官僚制度を作った。またロシア教会の総主教府を廃止し、国家に従属させた。また重商主義を推し進めていった。(まるで日本の明治維新のようである。星野私見)
●次に、ロシアの有名な歴史家クリュチェフスキー教授(1841~1912年)の、「ロシア的性格」についての部分を、「世界の歴史第8回」中央公論社1961年刊より引用してみる。

モスクワールスとよばれた古い時代から大ロシア人は、森林と沼沢のなかできびしい自然とたたかいながら成長した。そのころの彼らは予測されない危険にさらされて暮らしたが、そこからロシア人の「慎重さ」、「用心深さ」がうまれた。またロシアでは冬がながく、夏がみじかい。したがって、農民は夏の労働日を最も大切にする。耕作に適するときは夏以外にはなく、しかもそれが天候その他の不測のことでたえず短縮されがちである。そのためにロシア人は「性急さ」「気狂いのように熱中して働く」習慣を身につけた。夏のあいだにはメチャクチヤに働いて、秋と冬にはゆっくり休む。このことから、ロシア人は「ひじょうな短時間に、全精力をふりしぼって、目にもとまらぬ早さで仕事をかたづけるが、そのあとは、のんびりとあそんですごす」。こうしてロシア人の、およそドイツ人の几帳面とは対照的な性格がうまれた。別の言葉でいえば、ロシア人は「極端から極端へ」移りやすいということである。結論として「ロシア人は封鎖的で、慎重で、臆病でさえある。物事をやるにも、はじめは良いがおわりが悪い。成功の見とおしも、はっきりした自信のないうちは、かえってファイトを燃やして張り切るが、すこしでも成功の見とおしがつくと、かえって気ぬけがして力がおちる。彼らにとって苦難、危険、失敗を克服することは得意であるが、成功を維持することは、苦手である。大事業をなしとげるのは好きであるが、過去の偉業を回想することは嫌いである。」
ここで、NHK世界遺産100 No5「ベネチアとその潟」小学館DVDマガジン2009年刊を紹介する。このようなTV番組やDVDマガジンが刊行されているのでありがたい。このなかでは、ベネチア(イタリア)、サンクトペテルブルク(ロシア)など、多くの世界遺産が収録されている。

NHK世界遺産100 No5「ベネチアとその潟」小学館DVDマガジン2009年刊より
「●語り 俳優 江守徹。俳優 鹿賀丈史。●アナウンサー松平定知 ●作曲家 久石譲」
●4枚の画像、ペテルブルク「冬宮」現在の「エルミタージュ美術館」、
「美術館」、「王冠」、「玉座」(一部切り取り編集、無音声・星野)
●flash動画(ファイル形式flv、2.79MB)

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ピューリタン革命と名誉革命(イギリス)・13-12
年代 事項 ピューリタン革命・名誉革命・17世紀は科学の世紀(科学者、哲学者、思想家、文学者)
ピューリタン革命
1603年エリザベス1世の死 ●エリザベス1世の死後、スッコトランド王がジェームズ1世としてイギリス王として即位したが、王権神授説をとなえ議会と対立した。このイギリス王朝についても、系図を確認しないと理解が難しい。下を見てください。
イギリス王朝系図

ig3004b(系図)イギリス王朝系図の一部(出典:『クロニック世界全史』講談社1994年刊)(赤字は星野補足追加記入)

全体のポイント
●エリザベス1世は王位継承問題でメアリ・スチュアート(スコットランド女王)を処刑(1587年)したこと。しかしエリザベス1世の死後(1603年)、メアリ・スチュアートの子であるジェームズ6世(スコットランド王)が、ジェームズ1世としてイングランド王を継承したということである。
●また、なぜメアリ・スチュアート(スコットランド女王)がイングランド王の継承権を持っていたかといえば、祖母マーガレット・チューダーが、エリザベス1世の父(ヘンリ8世)の実姉であったことによる。またフランスとの関係も、メアリ・スチュアートはフランス宮廷(アンリ2世)で育ち、フランス王子と結婚しフランス王妃でもあった。エリザベス1世の出自に対して、メアリのほうが正当性が高いと主張していた。
ピューリタン革命に至るポイント
1603年 ジェームズ1世 ●イングランド王として即位。戴冠式のためロンドンに入場する際に、ハンティンドン州のクロムウェル家に滞在する。のちの「クロムウェル」の伯父にあたり本人は当時4歳だった。
●エリザベス1世の時代は、女王と議会との関係は協調的であった。晩年に対立はあったが、破綻することはなかった。
1609年 ジェームズ1世 ●議会で「王権神授説」を主張する。「王は神と呼ばれるのが正しい。王は地上において神の権力に似た力を持ち、神以外に責任を負わない。」と。
●それに対する当時の考えは、「コモン・ロー(一般的慣習法)」が、王や議会よりも優越し、共にこれを守らなければならない、というものだった。(エドワード・コークは、これを理論化し集大成した。)
これに対しても国王は、王の大権を犯すことは不敬であり、臣下として僭越であるとして、王の大権の絶対性を主張した。王はチューダー朝以来の伝統として議会は開いたが(22年間で4回)、常に大荒れとなった。結局外国人である国王は、当時力を増大させてきたジェントルマンや商人の勢力を理解することができなかったといえる。
1621年 第3議会 ●哲学者フランシス・ベーコンは王の側近で「大法官=最高裁判所長官・貴族院議長・大臣を兼ねたような重職」であったが、収賄罪で告発され、本人も認め有罪と決定された。しかし国王は、ベーコンの禁固を数日に減刑し、罰金も全額免除した。それから議会の王に対する批判は強まり、その結果王は議会を解散し、コークらを監禁した。
1625年 チャールズ1世
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●ジェームズ1世が59歳で死去した。その後を継いで、次男チャールズ1世(25歳)が国王となった。王妃はフランス国王アンリ4世の娘、アンリエット・マリー(カトリック教徒)(=ヘンリエッタ・マライア)。

●チャールズ1世は、王妃のカトリック信仰とフランスの絶対君主制に傾倒していたといわれる。そして父と同様に王権神授説を信奉し議会と対立していった。王は議会の承認なく、関税の取り立て、献金の強制、「船舶税」の課税、公債の強制などを行った。そして公債に反対する玉座裁判所首席裁判官クリューを解任し、公債の強制のため圧力を強めた。「船舶税」とは、ロンドンその他の港市に沿岸防備のためと称して、船舶や船員を提供させたもの。
(左絵)チャールズ1世(1635年頃ヴァン・ダイク)(出典:『家庭美術館』平凡社1962年刊)
1628年 コーク
(著名な思想家・法学者)
●コーク(下院議長)は「請願」の形をとって、「権利請願」を起草し議会の決議として王に提出した。王は公債の募集がうまくいかず、第三議会をやむなく開いていた。
●これは「請願」の形をとってはいるが、歴史上アメリカの「独立宣言」やフランスの「権利宣言」に匹敵するといわれる。ウィキペディアより一部引用してみる。

1.何人も議会の同意無しに贈与・公債・献上金・租税などの金銭的負担を強要されず、またこれを拒否した事を理由としていかなる刑罰や苦痛をうけることが無い事。
2.自由人は理由を示されずに逮捕・投獄をされない事。
3.住民はその意思に反して、軍人や兵士を彼らの住居に宿泊させる事を強制されない事。
4.平時における軍法による一般人の裁判は撤回され、判決は無効とされる事。

上記の3は、経費の節減のため、兵士を世帯主の承認無く無料で宿泊させていたこと。4は、軍法を一般人にも適用させ、いたるところで人権侵害がおきていたこと。

1629年 チャールズ1世 ●エリオットらは権利請願の成功により、さらに3ヶ条の決議を行ったが、怒った王は議会を解散し、その後11年間議会を開かなかった。そして王は絶対君主制を目指した。
●王は、エリオットら9名の議員をロンドン塔に投獄し、エリオットは3年後に獄死した。その後王は、カンタベリーの大主教ロードとストラフォード伯を左右において、星室庁裁判所(政治犯)と高等宗務裁判所(宗教関係)を利用、乱用し専制政治を行った。そして国王は、イギリス国教会を主教としてピューリタンを弾圧し、各種関税や罰金などを強化したので、貴族をはじめジェントルマン、大商人達を敵に回し孤立していった。
1640年 チャールズ1世 ●王は、スコットランド教会(カルビン派)に対して、イギリス国教を強制しようとして紛争となった。そこで国王は、やむをえず議会を招集して経費の捻出をはかったが、反対派指導者ジョン・ピムを中心に不満が爆発した。国王は3週間で議会を解散させたが、同年新たな議会招集のため選挙が行われた。
1641年 議会
(12年間にわたる長期議会)
●議会は、カンタベリーの大主教ロードとストラフォード伯など王の大臣達を逮捕し処刑した。この時議会の票は、賛成204、反対59と賛成派が圧倒した。しかしこの時圧倒的多数が望んだことは、王の側近達を排除することだけで、絶対的君主制そのものを否定しようとしたものではなかった。
●その後ピム、ヘンリー・ヴェーン、オリバー・クロムウェルらの議会派と王党派は議会内で伯仲することになり、ついに王の武力による議会介入をきっかけに、武力衝突に至った。王党派の大多数がイギリス国教会に属し、議会派にはピューリタン(プロテスタント)が多かったので、「ピューリタン革命」と呼ばれた。
1642年 王党軍と議会軍
武力衝突(内乱)
●最初の衝突は1642年10月、中部エッジ・ヒルで起こった。議会派は商工業が発達した、富裕な東部、南部、中部を地盤とし、王党派は比較的おくれた地域であった北部、西部、西南部を地盤としていた。しかし両者の境界は入り乱れていた。当初、王党軍の率いる貴族の奇兵隊は、決定的な戦力であったので、議会軍(軍事訓練を受けていない民兵を集めただけの戦力)を圧倒した。
1644年 クロムウェル
「鉄騎隊」創設
●兵士はヨーマン(独立自営農民)を中核とし厳格な訓練を実施し、マーストン・ムーアの戦いで王党軍に威力を発揮した。そしてその後クロムウェルは、鉄騎隊にならって議会軍を改組し、筋金入りの「新模範軍」という新しい軍隊をつくった。
この「新模範軍」は能力本位で編成され、下記のような決意を持っていた。

「法律と自由のため」「議会を堅持するため」「真実の新教(プロテスタント)の信仰を守るために」
1645年 「新模範軍」
ネーズビーの戦い
●この戦いで議会軍は王党軍を徹底的に破った。(フェアファクス司令官、クロムウェル副司令官)その結果、国王は再起のためスコットランドへ走った。しかし国王チャールズ1世は、1647年議会軍へ引き渡された。
●そして議会派内では、王に妥協的な「長老派」、もっと革命的な「独立派」とに分かれた。独立派は少数派だったが、「新模範軍」の指導権を握っていた。そして独立派の左派である平等派(指導者リルバーン)があった。この平等派は、君主制を否定し共和制を主張した。そして軍は、この内部対立により分裂の危機をむかえた。
1648年 第2次内乱
チャールズ1世
●再び王党軍が蜂起したが、クロムウェルやフェアファクスは、王党軍やスコットランド軍を破った。しかし王は各派の対立を利用して策謀を続けた。そこで独立派(プライド大佐)は、議場にて長老派と目される議員達を武力によって一掃した。これにより独立派が、議会を支配した。そして王を処刑しようとする主張がなされるようになった。
1649年 特別高等裁判所
国王に死刑判決を下す

チャールズ・スチュアートは暴君、反逆者、殺人者、この国の善良な人々に対する公敵として斬首(ざんしゅ)により死刑に処する。」
●この裁判には153名の委員が任命されたが、拒否するものが多く、半数以下の委員のみで判決が決定された。クロムウェルもついには国王の処刑に賛成したといわれる。

c2002b (絵)チャールズ1世の処刑は、慣習にしたがって衆人環視のなかで執行された。(出典:『クロニック世界全史』講談社1994年刊)
●こうしてピューリタン革命は、王の処刑をもって一つのくぎりをつけた。
なかでも平等派のジョン・リルバーンの思想は以下の内容で、その思想は「人民協約」の名で議会に提出され、今日にまで生きる近代民主主義憲法の原型とされる。

●生まれながらの権利として、「信仰の自由」「強制従軍の拒否」「内乱中の行動の免責」「法律適用の平等」「人民の安全と福祉を目的とする善法」の5項目をあげた。

●そして議会は君主制を廃止し、それと結びついた貴族院を廃止し、共和政を宣言した。クロムウェルと独立派はついに共和国を実現した。

●共和政宣言(「世界の歴史8」1961年中央公論社刊より)

「イギリスの人民はここに共和国、自由国家となる。今後、共和国、自由国家は、この国の最高権威すなわち議会における人民の代表、ならびに人民の幸福のため議会の任命する官吏によって、王や貴族院なしに統治される。」

●実際は、共和政といっても水平派が目指した「人民協約」も修正され、それすら議会では承認されず流れてしまった。そして教会領、王領、王党派の領地の没収、売却は行われたが、それらを購入できたのはジェントルマンと商人が大部分だった。国民の大多数であった農民は土地を得ることができなかった。クロムウェルは、当初は平等派を優遇して利用したが、その後弾圧にむかった。リルバーンらを逮捕投獄し、起こった反乱を短期間に鎮圧し、平等派を完全に弾圧した。そしてクロムウェルらの独立派は、今度は長老派に接近していった。
●結局この革命は、ブルジョアと地主の利益を擁護する革命だった、といえる。

クロムウェルの独裁と護国卿
1649年 アイルランド制圧 ●クロムウエル、アイルランド(ダブリン)に上陸し制圧する。アイルランドとスコットランドは、処刑されたチャールズ1世の皇太子チャールズ2世(オランダに亡命)の即位を認めていた。
1651年 チャールズ2世軍破る ●クロムウェル、1650年にスコットランドに上陸したチャールズ2世軍を、イギリスで破った。チャールズ2世はフランスへ逃亡した。
1651年 航海法制定 ●イギリス議会、中継貿易で繁栄していたオランダの海上権に打撃を与える目的として航海法を制定した。これは、東インド会社や貿易商人の強い要望により、「イギリスおよびイギリス植民地に輸入されるヨーロッパ以外の地の産物は、イギリス船で輸送すること」というものであった。このような法律は14世紀以来何度か制定されたが、厳格な運用はされなかった。
1652年 イギリス・オランダ戦争 ●しかしイギリスは、今回は徴発をくりかえし、ついに戦争となった。しかしクロムウェルは、はじめ国内では増税や戦争で貿易が阻害されたために評判は悪かった。しかしクロムウエルが護国卿に就任すると、1654年オランダと講和を結んだ。このイギリス・オランダ戦争は第三次(1672年~1674年)まで行われた。オランダ艦隊がロンドンに迫ったこともあったが、オランダはアメリカのニューアムステルダム(のちにニューヨーク)をイギリスに奪われ、最後はオランダの敗北となった。これにより、イギリスは世界の海上権を奪い、大英帝国の基礎が築かれた。
1652年 アイルランド収奪 ●クロムウェル、アイルランド植民法を制定して、アイルランドの土地の収奪を行った。これにより耕地面積の2/3がイギリス人のものになった。このためアイルランド人は、小作人や労働者になったり、あるいはアメリカに移住したり大陸で傭兵となったりした。
●こうしてアイルランドの人口は、1641年の150万人が、1652年には85万人と激減した。それほどイギリスによるアイルランド収奪がひどかったといえる。イギリスは1801年には合同法によりアイルランドを併合した。イギリスにとってアイルランドは、食料供給基地(植民地)に過ぎなかった。
1653年 クロムウェル護国卿となる ●クロムウェルは、1653年4月にク-デターによって「長期議会」を解散し、総選挙を行わず人物を指名した「指名議会」を開いた。そして12月この「指名議会」を解散し「護国卿」の地位に就いた。その後1655年反乱が起こると独裁を強化し、軍事独裁となった。そしてクロムウェルは、清貧をモットーとするピューリタンの禁欲主義を国民に強制し、ピューリタン的道徳の保持に務め、競馬、闘鶏、泥酔などを取り締まり、劇場の閉鎖、賭博、売淫などを禁じていった。
1658年 クロムウェル死去 ●クロムウェルの死後、リチャード・クロムウェル(子)が護国卿を継いだが、軍は革命の成果を堅持するため、議会を解散させ、護国卿は退位した。軍部内部でも争いがあり、結局議会には長老派が戻り、王政復古となった。
名誉革命

●もう一度イギリス王朝の系図を確認しておく。ピューリタン革命から名誉革命にかけての系図はさらにややこしい。

ig002b
(系図)イギリス王朝系図の一部(出典:『クロニック世界全史』講談社1994年刊)
(●赤字星野追加)
1660年 王政復古 ●チャールズ2世(処刑されたチャールズ1世の子)が王として迎えられた。王は「大赦と信仰の自由、土地争いの議会決定を約束して」、絶対君主ではなく、議会と協力して政治を行う方針を示した。
●しかし大赦(王殺しに対する)では30名が除外されたが13名が処刑された。そして1661年には、クロムウェルの棺がウエストミンスターから掘り出され、遺体は吊され、首は切られウエストミンスターのホールにさらされた。
1661年 ピューリタン弾圧 ●1661年に開かれた議会では、王党派である「騎士党」が多数をしめ長老派は減少した。「騎士議会」のピューリタンに対する反感は強く、ピューリタン弾圧が始まり聖職者や公務員は、イギリス国教会以外は追放された。こうして国教会への転向が進んだ。
1667年 クラレンドン伯失脚 ●チャールズ2世の復古に貢献し、王の顧問であり政治の中心的な役割を担ったクラレンドン伯(ハイド)は失脚した。その後議会の内部には、トーリー党(貴族、ジェントルマン、国教会、農民など)とホイッグ党(大商人、新興の金融家、関連の貴族、ジェントルマン、ピューリタンの中産階級など)ができた。政治的にはトーリー党は、王の世襲権、王権に対する無抵抗を主張し、ホイッグ党は宗教上の寛容、王権の制限を主張した。
1680年頃 王に対する武装抵抗 ●チャールズ2世は、政党の発展にともない、トーリー党を利用してホイッグ党を弾圧する方針をとった。これに対してホイッグ党員は、武装抵抗を試みたが処刑され、ホイッグ党は壊滅状態におちいっていった。
1685年 チャールズ2世死去
ジェームズ2世即位
●チャールズ2世の死後、弟のジェームズ2世(カトリック教徒)が即位した。ところがモンマス公(チャールズ2世のフランス時代の子)が王位の正当性を主張し、イギリスに上陸して反乱となった。この反乱は鎮圧されモンマス公は処刑されたが、ジェームズ2世はこれを機に、常備軍(6千人規模)を復活増強(3万人規模)した。
1687年・1688年 「信仰寛容宣言」 ●王は、非国教徒やカトリックに対する刑罰法規を廃止し、公然たる礼拝の自由を許した。このことは、イギリス国教会に対するカトリックの復活を意図していたため、王とイギリス国教会の衝突をまねいた。王は、国教会のカンタベリー大主教をはじめ7名の主教らを逮捕投獄したため、ホイッグ党、トーリー党両党の支持を失っていった。
1688年 名誉革命 ●ジェームズ2世の廃位を決めた両党は、オランダのウイレム(オランダ総督オラニエ公)とメアリ(ジェームズ2世の娘でプロテスタント)を共同統治者として招聘した。ジェームズ2世の軍は戦意無く、王はフランス(ルイ14世)へ逃亡した。
1689年 「権利の宣言」
「権利の章典」
●議会は、王位の空席を宣言後、「権利宣言」を議決した。そしてウイレムとメアリはこれを認め、ウイリアム3世、メアリ2世として共同統治者として即位した。そしてこの「権利の宣言」を若干修正し「権利の章典」を発布した。
(権利の章典の要点)
●王は、議会の同意なしに、課税や法律の停止・執行はできないこと。
●議会内での言論の自由。
●国民の権利として王に対する請願は認められ、そのことに対する訴追などは違法であること。など

(1701年「王位継承確定法」)
この規定により、王権は世襲であることより、議会の定めた法律によることとなった。

●イギリスの王位は、ハノーヴァー選帝侯兼公爵の未亡人ソフィア王女殿下および新教徒である血縁の後嗣(あとつぎ、子孫のこと)に存する。

●ウイリアム3世は、初めはトーリー党とホイッグ党両党から、半数ずつの大臣を任命して国政に参加させた。しかし政争が絶えなかったので、議会の多数を制した政党に内閣を組織させた。これが政党政治の始まりである。
また、イングランド銀行の創設、フランスと敵対(スペイン継承戦争)、植民地獲得など、イギリスはこの「名誉革命」以後、18世紀の黄金時代を迎えていく。
17世紀は科学の世紀(科学者、哲学者、思想家、文学者)

●自然科学はルネッサンス以来、いちじるしい発達を示し、特に社会発展のすすんだイギリスにおいて盛んとなった。特に基礎を築いたニュートンが有名である。また近代哲学における出発点となる、「帰納法」「演繹法」が生まれた。17世紀の科学者、哲学者そして思想家、文学者も一覧表にしてみる。(出典:広辞苑など)

名前 生没年 内容
フランシス・ベーコン 1561-1626 イギリス (政治家・哲学者)科学的方法と経験論との先駆者。・・経験(観察と実験)を唯一の源泉、帰納法を唯一の方法とすることによって自然を正しく認識し、この認識を通じて自然を支配すること「知は力なり」であるとした。主著「新オルガノン」
ミゲル・デ・セルバンデス 1547-1616 スペイン (作家)生涯は波乱に富み、レパントの海戦や捕虜生活・入獄も体験。当時流行の小説形式を発展させ、革新的な文学を創造した。主著「ドン・キホーテ」など。
徐光啓 1562-1633 中国・明 (政治家・学者)マテオ・リッチに学び、ユークリッドの「ストイケイア」の前半「幾何原本」を漢訳。(これにより「幾何」「点・線・面・平行・鋭角」などの述語が定まった。)
ヨハネス・ケプラー 1571-1630 神聖ローマ帝国(ドイツ) (天文学者)ブラーエの火星観測に基づいた研究の結果、惑星の運動に関する経験的法則(ケプラーの法則)を発見。
フーゴー・グロティウス 1583-1645 オランダ (法学者)自然法の立場から国際法に体系を与え、自然法の父、国際法の祖と呼ばれる。著作「自由海論」「戦争と平和の法」など。
ガルシラソ・デ・ラ・ベガ 1539-1616 ペルー (歴史家)ポルトガルにて「インカ皇統記=インカの起源に関する真実の記録」を出版。のちに本書は、ラテン・アメリカ先住民の擁護と復権を求める運動の先駆的作品として位置づけられる。
ウイリアム・シェークスピア 1564-1616 イギリス (劇作家・詩人)約32編の戯曲を創作。4大悲劇「ハムレット」「オセロ」「リア王」「マクベス」、史劇「リチャード3世」「ヘンリー4世」、悲劇「ロミオとジュリエット」「ジュリアス・シーザー」、喜劇「真夏の夜の夢」「ヴェニスの商人」、ロマンス劇「テンペスト」、詩集「ソネット集」などがある。
トゥルシーダース 1523/1543-1623? インド (詩人)代表作の叙事詩「ラーム・チャリット・マーナス=ラーマの諸々の行い」。ラーマ神に帰依し、ラーマのように道徳的規範を守りながらみずからの義務を果たせば、解脱を得ることができると説いた。彼のこの作品はインド各地に広く浸透し、今日でも愛誦されている
トマソ・カンパネラ 1568-1639 イタリア (哲学者)感覚に基づく自然哲学を説き、政治においては理性の優位を主張して、教会の圧迫を蒙り、27年間下獄。主著「太陽の都」は共産主義的ユートピアを描く。
ウイリアム・ハーヴェー 1578-1657 イギリス (生理学者)血液循環の原理を発見。この学説が発表されると賛否両論がまきおこり、パリ大学の解剖学者リオランは激しい批判を浴びせた。しかし当時のヨーロッパの思想界に大きな影響力を持つデカルトが賛同したことにより、かれの学説は急速に広まり、近代生理学の基礎を築くことになった。
ガリレオ・ガリレイ 1564-1642 イタリア (天文学者・物理学者・哲学者)近代科学の父。力学上の諸法則の発見、太陽黒点の発見、望遠鏡による天体の研究など、研究が多い。また、アリストテレスの自然哲学を否定し、分析と統合との経験的・実証的方法を用いる近代科学の方法論の端緒を開く。コペルニクスの地動説を是認したため、宗教裁判に付された。有罪判決を受けたが「それでも地球は動いている」は有名。著「新科学対話」「天文対話」など
ルネ・デカルト 1596-1650 フランス (哲学者)近世哲学の祖、解析幾何学の創始者。「明晰判明」を真理の基準とする。あらゆる知識の絶対確実な基礎を求めて一切を方法的に疑ったのち、疑いえぬ確実な真理として「考える自己」を見出し、そこから神の存在を基礎づけ、外界の存在を証明し、「思惟する精神」と「延長ある物体」とを相互に独立な実体とする二元論の哲学大系を樹立。著「方法序説」「第一哲学についての省察」「哲学原理」「情念論」など。
宋応星 1590頃-1650頃 中国 「天工開物」刊行。中国の産業技術書。3巻。農業のほか、紡績・製紙・造船など技術全般を解説、多数の図を収める。1637年成る。日本に伝来し広く読まれ、のち中国でも再発見。
ブレーズ・パスカル 1623-1662 フランス (哲学者・数学者・物理学者)大気圧・液体圧に関する業績や円錐曲線論は有名。無限の宇宙に比すれば、人間は葦の如く弱いが、それを知っている人間は「考える葦」として「知らない宇宙」より偉大であり、さらにすべてを知っていることよりも、1つの小さな愛の業の方がなお偉大であると説いた。これを物体・精神・愛という秩序の3段階と呼んだ。今日では実存主義の先駆と見なされている。著「パンセ」などのほか、イエズス会士との論争書簡集がある。
エヴァンジェリスタ・トリチェリ 1608-1647 イタリア (物理学者・数学者)ガリレイに師事し、「トリチェリの真空」を発見。
トマス・ホッブス 1588-1679 イギリス (哲学者)自然主義・唯物論を国家・社会にも適用した。自然状態では人間は万人の万人に対する闘いの状態にあるが、相互の契約によって主権者としての国家を作り、万人がこれに従うことによって平和が確立されることを説く。主著「リヴァイアサン」
オットー・フォン・ゲーリケ 1602-1686 ドイツ (物理学者)地球上の物体が大気の圧力を受けている事実を実験で証明した。マクデブルクの半球。金属製半球2個を密着させ内部の空気を抜くと、大気圧のため半球が容易に引き離せないことを示した。
バルーフ・デ・スピノザ 1632-1677 オランダ (ユダヤ系哲学者)デカルトの方法をさらに徹底させ純幾何学形式によってその体系を組み上げた。永遠で絶対な自己原因としての神が唯一の実体であり、唯一の存在である(一元論)。すなわち、神即自然(汎神論)。・・・(略)著「エチカ」「知性改善論」「神学政治論」など。
ロバート・ボイル 1627-1691 イギリス (物理学者・化学者)実験的事実を重視し、錬金術から実証的科学への橋渡しをした。また、化学元素の概念を導入、ボイルの法則を発見し、王立科学協会(ロ-ヤル・ソサエティ)の創設にも参画。この王立協会は17世紀の科学革命に大きな役割を果たす。
アイザック・ニュートン 1642-1727 イギリス (物理学者・天文学者・数学者)力学体系を建設し、万有引力の原理を導入した。また微積分法を発明し、光のスペクトル分析などの業績がある。1687年「プリンピキア(自然哲学の数学的原理)」を著す。近代科学の建設者。ロ-ヤル・ソサエティには、1672年に選出された。
黄宗羲 1610-1695 中国 (学者・思想家)君主専制を批判する「明夷待訪録」を著した。「天下を主とし、君主を従とする」、民の利益を第一に考える民衆本位の政治を説いた。中国のルソーとよばれる。
ジョン・ミルトン 1608-1674 イギリス (詩人)ピューリタン革命に参加。自由と民主制のために戦い、クロムウェルの共和政府にも関与。失明し、王政復古後は詩作に没頭。叙事詩「失楽園」「福楽園」、悲劇「闘士サムソン」、言論の自由を論じた「アレオパジティカ」など。
ラ・フォンテーヌ 1621-1695 フランス (詩人)イソップなどに取材し、自然で優雅な韻文を駆使した「寓話集」12巻は、動物を借りて普遍的な人間典型を描き出した寓話文学の傑作。
関孝和 1640頃-1708 日本 (和算家)点竄(てんざん)術(筆算式の代数学)を考案し、方程式論・行列式論などを創始、また、幾何学を研究。関流を創始。著「大成算経」「括要算法」「発微算法」など。
ジャン・バティスト・ラシーヌ 1639-1699 フランス (悲劇詩人)コルネーユ・モリエールと並ぶフランス古典劇の代表者。完成した形式・言語で、内面的心理、特に女性の恋愛を写実的に描いた。作「アンドロマク」「ブリタニキュス」「ベレニス」「フェードル」など。
クリスティアン・ホイヘンス 1629-1695 オランダ (物理学者・天文学者)望遠鏡を改良して土星の環を発見、光の波動説を説き、振子の力学を論じ振子時計を製作。
エドモンド・ハリー 1656-1742 イギリス (天文学者)グリニジ天文台長。ハリー彗星の軌道決定、恒星固有運動の発見など、多くの功績がある。
ゴットフリート・ライプニッツ 1646-1716 ドイツ (数学者・哲学者・神学者)微積分学の形成者。モナド論ないし予定調和の説によって、哲学上・神話上の対立的見解の調停を試みた。今日の記号論理学の萌芽も示す。近代的アカデミー(学士院)の普及に尽力。主著「形而上学叙説」「単子論」「弁神論」「人間悟性新論」
井原西鶴 1642-1693 日本 (浮世草紙作者・俳人)作「好色一代男」「好色一代女」「好色五人女」「武道伝来記」「日本永代蔵」「世間胸算用」「西鶴諸国ばなし」「本朝二十不孝」「西鶴織留」、俳諧に「大句数」「西鶴大矢数」など。
松尾芭蕉 1644-1694 日本 (俳人)日本各地を旅して多くの名句と紀行文を残した。句は「俳諧七部集などに結集、主な紀行・日記に「野ざらし紀行」「笈の小文」「更級紀行」「奥の細道」「嵯峨日記」など。
ジョン・ロック 1632-1704 イギリス (哲学者・政治思想家)経験論の代表者。主著「人間知性論」は近世の経験主義的認識論の端緒を開く。政治論では家父長主義と専制政治に反対し、政府は各個人の自然権を守るために人々の合意により設立されたものであり、その改廃は国民の手中にあると説き、フランス革命やアメリカ独立に大きな影響を与えた。ほかに「政府二論」「寛容について」などを著す。
「方法序説」

●ここで「方法序説」から少し引用してみる。〔ワレ惟ウ、故ニワレ在リ〕
(出典:「方法序説・デカルト著」訳者谷川多佳子、1997年岩波書店刊より。)

第四部
 この地で行った最初の省察について語るべきかどうか、わたしにはわからない。というのも、それはきわめて形而上学的で、普通一般から離れているので、すべての人の好みには合わないかもしれないからだ。

下

中国・明と清帝国・13-13
年代 事項 明の成立(太祖洪武帝)から明の滅亡(万歴帝、張居世)と清帝国(康煕帝)
明の皇帝と業績

●ここでは、明の成立から滅亡に至る、皇帝の在位と業績を簡単に一覧にしてみる。明の朱元璋は、一世一元制を定め皇帝名を元号とした。(元号に○○年とつけたものを、年号という。現在中国では元号は廃止され、この制度は日本だけのものになった。)「世界の歴史No9最後の東洋的社会」1961年中央公論社を中心に要約してみる。

在位 皇帝・元号 業績等
1368-1398 第1代
太祖・洪武帝
●朱元璋は1328年貧農の子として生まれ、紅巾軍の一武将郭子興の軍のもとで頭角をあらわしていった。紅巾軍とは、白蓮教(地下にに潜った仏教系秘密宗教)を奉じる信徒たちによって組織された、元朝に対する反乱軍のことで、頭に紅巾をまいていたことによる。そして1368年朱元璋は、群雄たちをつぎつぎと倒し、南京にて明を建国した。
●大都(北京)でいまだ勢力を保っていた元朝(順帝)を北伐する。追われた元朝は「北元」とよばれカラコルムに都した。
●中華民族による「中華」の回復。弁髪廃止、モンゴル語使用禁止、モンゴル風姓氏の禁止など。「滅夷興漢」
●行政組織の変更による皇帝独裁化。行政、監察、軍事の三権分立と皇帝直属化。
●民衆の組織化。「里甲制」と「坊廂制」とよばれる人民組織を編成。
●法治主義。法典を整備し、大明律令を制定。中国法制史における、唐律(750年間にわたる)と明律(550年間にわたる)は日本にも重要な影響を与えた。唐律は大宝律令や養老律の手本となり、明律は徳川時代に影響を与え、また明律の後をついだ清律は、明治になって制定された新律綱領に影響を与えた。
1398-1402 第2代
恵帝・建文帝
●1398年太祖・洪武帝が死ぬと、長男の太子・標(すでに死去)の次男が2代目建文帝となった。しかしその叔父燕王(洪武帝の子、のちの永楽帝)との間で骨肉の争いが起きた。燕王は北京にあって隠然たる勢力を有していた。年少の建文帝を輔佐した者たちは学問はあっても、政治や軍事には疎かった。彼らは特に燕王の兵力を削減させるため、圧力を強めた。一方燕王はひそかに挙兵を計画し、ついに反乱となった「靖難の変」。内乱は3年におよんだが、宮廷内の宦官(かんがん)が、建文帝への不満から燕王に内通するものがでた。1403年これを契機に燕王は怒濤の進撃を開始し、ついに首都金陵(南京)を落とし、成祖永楽帝として即位した。建文帝は混乱の中行方知らずとなった。
1402-1424 第3代
成祖・永楽帝
●中国文化として儒教の振興に力を入れ、官立の教育機関を多く作った。同時に儒教経典の「四書大全」「五経大全」「性理大全」の統一的注釈解説を行うため編纂を行った。
●「永楽大典」の編纂を行った。これは中国最大の類書(辞書の一種)で、巻数22878巻、冊数11095冊を数え、1404年から8年がかりで完成した。正本は明末の動乱で焼失し、副本も清末のアロー号事件(1860年)の英仏連合軍北京侵入のさい、焼失あるいは散逸したといわれる。
●モンゴリア(タタール部とオイラート部)への5回にわたる大遠征(北征)。
●宦官(かんがん)の優遇。特に海路(インド洋・ペルシャなど)では鄭和、陸路(チベット・ネパール)では候顕。中央アジア方面では李達、東北の満州、黒竜江流域方面では亦失哈(イシカ)が有名である。彼らは宦官ではあったが、みな勇気と胆力をもった偉丈夫であった。
●鄭和の大遠征航海。1405年~1533年の間に、7回にわたり南海方面からインド洋、第4回から第7回までは別働隊は遠くアフリカ東岸まで達した。その目的は、明の国威を海外に宣揚することと外国貿易を行うことであった。東南アジアで活躍する華僑のルーツは、この遠征後に増加した移民に発するという。また密命として、行方不明となった建文帝の探索もあったという。
●1411年永楽帝、黒竜江下流域を亦失哈(イシカ)を派遣し経略させた。のちの宣徳帝のときにも満州に大遠征をおこなった。
●1421年正式に「北平」を「北京」と改称し首都とした。また金陵を南京と改称した。北京を首都としたのは、「北虜」とよばれるモンゴル族の侵入に対して、北辺の防衛のいみで南京よりも北京の方が地理的に有利だったためである。
●1424年、成祖・永楽帝はモンゴリアへの5度目の遠征(3回目のタタール部への親征)のさいに帰路病死した。
1424-1425 第4代
仁宗・洪煕帝
●永楽帝病没後、留守中の国政を代行していた皇太子が仁宗・洪煕帝として即位した。だが生来病弱だったため、在位8ヶ月で崩じた。
1425-1435 第5代
宣宗・宣徳帝
●即位した当初は、明の国威発揚のため国外派兵を行ったが、出費のみかかり効果が少ないことをしり、方向変換をおこない内政に力をそそいだ。老臣の楊士奇らの忠告によることが大きいという。
●対外防衛線の縮小を行った。インドシナでは交趾布政司をやめ安南国の独立を認め、北方のモンゴル族に対しては、防衛線を縮小し長城線以南に後退させた。これにより膨大な国防費を節約した。
●内政では、叔父にあたる「漢王高煦」の反乱を鎮圧後、有力諸王の権力を削ぐことに成功した。こうして「三楊」とよばれる楊士奇、楊栄、楊溥のような近臣に恵まれ、宣宗の治は、はなやかさはないが創業の功を受け継ぎ、ゆきすぎを是正し、よく守成の難事をおしすすめたといえる。
1435-1449 第6代
英宗・正統帝
●宣宗が38歳で死ぬと、9歳の英宗・正統帝が即位した。即位のはじめ頃は、まだ「三楊」が在命で、また太皇太后(仁宗の皇后)も後見していて問題は起きなかった。しかし正統7年に太皇太后が死に、楊栄も死んで、残る「三楊」の二人も年をとると、英宗の親政が始まった。すると宦官の王振が実権を握り、政府の要職を私党で固め、賄賂政治を行い、腐敗がはじまった。そして北方ではモンゴル族の侵攻があり、王振は無謀にも正統帝をたきつけ、明軍は1449年土木堡の戦闘で大敗をきし、王振は戦死し正統帝は捕虜となり連れ去られてしまった。
●(モンゴリアのエセン)宣徳帝の末頃モンゴル族は、タタール部と西北のオイラート部に分かれて対立抗争していたが、トゴンという人物が出て部内を統一して強大となった。そしてトゴンはカーンの位につこうとして、元朝の後裔を迎えて工作を続けた。そして1439年トゴンが死ぬと、その子のエセン(也先)はさらに大規模な功績をあげ、北アジア全域はもとより、東は朝鮮半島、西は新疆省までを領有した。エセンは1449年の土木堡の勝利後北京城を攻めたが、明軍の万全の防衛により撃退された。エセンは翌年モンゴルの内部の状況により明と和議を結び、英宗を送り返した。
1449-1457 第7代
代宗・景泰帝
●土木堡の敗戦による英宗の捕虜により、混乱のなか政府は、英宗の弟の景帝を位につけ、また英宗の子を皇太子に置き、人心の安定を図った。
1457-1464 第8代
英宗・天順帝
●1457年景帝が重病にかかり、英宗との権力争いとなり、英宗が復権し、年号を天順とした。英宗の治世は前後22年におよび、その間宦官の王振の寵愛や、天順時代においても宦官の曹吉祥らの問題をおこし、政治は乱れがちであった。
1464-1487 第9代
憲宗・成化帝
●英宗の長子の憲宗が後を継いだ。憲宗の成化1代は、正統、景秦、天順にかけてゆるんだ明朝の国力をひきしめた時代であった。
●湖北省の漢水上流域山岳地帯での劉千斤の反乱(無頼の徒数万人の独立国)の鎮圧と、1476年からの数十万人におよぶ流民の本格的安撫の開始。
●広西省のよう族の乱の平定。よう族はこの付近一帯に住む原住民で、この地域では清末になると太平天国の乱もおこった。
●満州女直族(女真族)の討伐。
●オルドス防衛のため、長城の修築。余子俊は1474年から7年間オルドスに駐屯し防衛に全力をかたむけ、東は山西省境から西は寧夏にいたる東西1200kmの長城を増営した。
(万里の長城)

●山海関から甘粛省の西境にいたる「万里の長城」は15世紀後半から16世紀後半にかけて、はかりしれない労働力と莫大な費用を投入して造営修築されたものである。そして9つの重要な鎮城(九辺鎮)などが下図のようにある。

tj1004b(出典)「世界の歴史No9最後の東洋的社会」1961年中央公論社

●現代の中国の「嘉峪关(関)」をGoogleで見ると、発展した都市の左の小さな部分でしかすぎない。下写真。
1487-1505 第10代
孝宗・弘治帝
●憲宗の死後、弘宗がついだが、弘宗の生母(紀氏)は身分が低く、出生は秘密にされ、6歳で皇太子として迎えられ、18歳で即位した。6歳の時(皇太子になる)と同時に生母は亡くなり、祖母の周太后の手で養育された。生母は身分の低さを理由に非命に倒されたといわれる。
●前朝の佞臣や妖僧をしりぞけ、憲宗のとき追放された忠臣や直言の士をよびかえした。正統の時代以後、明の中・晩期を通じて、この孝宗の弘治18年間が、内政が良く整って大平であったといわれる。●孝宗の一番力を入れたのは裁判の公平さで、1499年「問刑条例」を編纂して「大明律」を時代に適応するように改訂した。
1505-1521 第11代
武宗・正徳帝
●孝宗の皇太子武宗は聡明ではあったらしいが、遊楽に淫する性格で、それをさらに誘惑し堕落させたのは宦官の劉瑾であった。武宗は中国4千年歴史のなかでも、類例をみないほどの乱行だったといわれる。そしてこの天子の取り巻きは「八虎」とよばれて恐れられた8人の宦官だった。そして宦官の汚職政治は横行し、国は乱れ民衆の反乱は頻発し、流賊群盗は横行し、帝位を狙う野心家の反乱も頻発した。その武宗も1521年に死亡した。
宦官(かんがん)について

(広辞苑より引用)・・東洋諸国で後宮に仕えた去勢男子。特に中国で盛行、宮刑に処せられた者、異民族の捕虜などから採用したが、後には志望者をも任用した。常に君主に近接し、重用されて政権を左右することも多く、後漢・唐・明代にはその弊害が著しかった。

●また「世界の歴史No9最後の東洋的社会」1961年中央公論社(宦官論)本文より引用すると、以下のようである。

宦官は中国だけのものではなかった。ふるくギリシャやローマ帝国にもあった。また西アジア諸国にもあり、イスラムの宮廷での宦官の使用。インドのムガール王家も数千人の宦官を用いたといわれる。朝鮮や安南も、中国風にならって宦官を置いた。しかし中国の歴代の王朝ほど、宦官に毒された国はないという。宦官は一名「火者=ホジャ」といわれ、インド語のKhojah(割勢者=去勢された者)に由来する。日本では中国の文物や制度の多くを取り入れたが、宦官の制度だけは輸入しなかった。宦官はもと宮刑(割勢)に処せられた罪人をもって補充していたが、その刑罰が廃止されたので、志願者を募るようになった。去勢は大変危険な手術だったが、賦役を免れ冨貴にあこがれ、志願者はいつも殺到したという。1621年に宦官の補欠3千人を募集したところ、2万人あまりの募集が殺到したという。宦官は去勢したことにより、欲求を蓄財や賄賂に走り、悪徳のかぎりをつくす者が多かった、といわれる。
1521-1566 第12代
世宗・嘉靖帝
●武宗には子がなく、孝宗の弟の興献王の長子が聡明で孝心にあついということで15歳で後をついだ。世宗は早くに父と死別したため世情に通じ、また地方にて武宗の悪弊を知り尽くしていたので、ただちに前代の悪政を一掃し、社会や人心の一新をはかった。また宦官の牙城であった東廠、西廠、内廠を廃止し、かれらの巣窟を一挙に壊滅させた。また武宗の豹房のチベット・ラマ僧や妖僧たちや楽人たちを退けた。
●こうして武宗は革新政治を行っていったが、残念なことに挫折するはめになった。それは「大礼の議」の問題で、自身が誰の跡継ぎかという問題(家族制度)で3年半の大論議となった。これも原因となり世宗の暴走が始まった。世宗は道教に凝り出し、長生不老を願い、今度は道士たちの専横で政治は混乱し、武宗は政治にあき嘉靖18年には隠居してしまった。そして今度は政治の実権を大学士の厳嵩が握ることになった。厳嵩は高官たちを世宗から遠ざけ、前後20年間にわたり国政を壟断(ろうだん=ひとりじめ)した。彼の子、世蕃はさらに不法のかぎりを尽くした。
●(大学士)広辞苑より引用・・中国の官名。内閣大学士の略称。宋代まで宰相兼任であった殿閣大学士を明代に内閣大学士と改称。宰相の廃止に伴い6人の大学士が次第に宰相の実を帯びるに至った。清代にも踏襲。
1566-1572 第13代
穆宗・隆慶帝
●世宗の死後、その子の穆宗(ほくそう)が即位した。張居正は礼部尚書のまま大学士として内閣に起用された。この張居正は、すっかり乱れた明末の社会を、鋼鉄のような意志力と果断な実行力とで、国初の盛宗にかえそうと献身した鉄腕宰相であった。起用されると、ただちに次の6条を上疏(じょうそ=事情を記して上にたてまつること)した。

①議論をはぶくこと。
②紀綱(=政治上、根本となる重要な規則。法度。おきて。綱紀。)をふるうこと。③詔令(しょうれい=天子の命令。みことのり)を重んじること。
④名実(名称と実質)をあきらかにすること。
⑤国家の大本(たいほん=基本になる根本的なもの)をかたくすること。
⑥武備(ぶび=戦いのそなえ。軍備。戦備。兵備。)をととのえること。
●しかし隆慶帝は在位6年で病没した。後を継いだのは、10歳の皇太子・神宗万歴帝(まんれきてい)であった。
1572-1620 第14代
神宗・万暦帝
●張居正は、当初数人で幼帝を輔佐していたが、のちにひとりで政局を担当することになった。以後張居正は革新政治をつらぬき、①行政整理②「宗藩要例」の改訂③財政の整理、土地の実測等を行い、国家財政は立ち直り、10年間で大改革をなしとげた。嘉靖年間から地方ごとに行われていた一条鞭法(銀納による新しい税法)が、全国に広がり成果をあげた。しかし1582年張居正が死ぬと、これまで押さえられていた反対派が勢力を得ると、万暦帝は態度一変させ、張居正の諡号(おくりな=死後生前の徳や行いを讃えて贈る称号)や官位を剥奪し、財産も没収し家族を辺境に流した。また政界の派閥争いにもつながった東林党(東林書院)の党派争いも、政治を混乱にみちびいた。こうして明朝は、とめどもない神宗の奢侈による国庫の乱費、内乱外患による莫大な軍事費の支出などにより、ついに破局への道を歩み始めた。
●(万暦の三大征)
①1592年ボハイ(モンゴル人)寧夏の乱を討伐。オルドスや西北地区をまきこむ。
②1592年-1598年、秀吉の2回にわたる朝鮮出兵に対する援軍。
③貴州省の蕃族酋長の反乱。
1620 第15代
光宗・泰昌帝
●神宗の嫡子であるが、即位後事件で死亡する。病気になったとき、臣下のすすめる紅い丸薬を飲んだところ、たちまちに死んだという事件だった。
1620-1627 第16代
熹宗・天啓帝
●この時非東林派は宦官の魏忠賢と結んだが、このことが魏忠賢が、「生き神」とさえ崇められた程の権勢を生むことになった。天子のためにさけぶ「万歳」を、忠賢は「千歳」を引いて、「9千歳」とさけばせたという。一方熹宗(きそう)は、明朝歴代の皇帝の内でも随一の暗君とよばれ、宮中の奥に閉じこもるばかりだった。そして熹宗は在位7年で死に、弟が後を継いだ。
1627-1644 第17代
毅宗・崇禎帝
●毅宗(きそう)は宦官の勢力を一掃して、局面の転換を図った。クリスチャンとして学者としても有名な徐光啓を起用し、財政立て直しに努めたが、1632年に死亡したため不十分な結果に終わった。国内各地では流賊(わたりあるく賊)の蜂起、そして満州ではジュセン族(女真《じょしん》・女直《じょちょく》)の独立勃興となり、明軍との戦闘(明の敗戦)が続いた。
●万歴帝の末から、軍事費の増大は増税を生み、ついに陝西省の飢饉から農民暴動が起こり、各地で反乱となり流賊も蜂起した。流賊のなかでもっとも有力だったのが李自成だった。李自成はもと宿場役人だったが乱に乗じて頭目となり、10年にわたって各地をあらしまわり勢力を拡大した。そして1643年湖北省の襄陽を占領した翌年(1644年)、西安にうつり王を称し国号を大順とした。そして李自成軍は、破竹の勢いで北京城へせまり、無血入城をはたした。そして毅宗・崇禎帝は紫禁城の北の景山で首を吊って自殺した。明滅亡。
(万暦帝・定陵宝物例)

(左写真)金冠(翼善冠)と(右写真)鳳冠
(出典:『定陵地下宮殿宝物展』定陵展開催実行委員会1973年刊)
(重要語)
(明代の文化)「王陽明(陽明学)」 「李卓吾(陽明学)」「三国志演義」「水滸伝」「西遊記」「金瓶梅」「天工開物」「本草綱目」「農政全書」「徐霞客遊記=中国最大の旅行家」「そろばん」の流行 「歌訣=九九など」「絹織物の都市、震沢鎮、盛沢鎮」「綿織物の都市、朱涇鎮、楓涇鎮」「陶磁器、景徳鎮」「鉄器、仏山鎮」
満州族・後金・清
年代 主体 内容
元代~明初頃 ジュセン族 ●ジュセン族(女真《じょしん》・女直《じょちょく》)は三つ大部族集団に分かれていた。①野人女直部(東北満州の黒竜江下流域から沿海州一帯)②海西女直部(満州中部の松花江沿岸)③建州女直部(牡丹江上流域から長白山一帯)である。明はこれらに対して分割統治政策を行っていたが、中国文化は満州の辺地までおよぶことになり、自然と民族的自覚がうまれてきた。なかでも女真族統合の原動力となったのはヌルハチ(1539-1626)だった。ヌルハチはしだいに女真部を統合し、30年間で満州の大半を征服した。
1616年 ヌルハチ ●ヌルハチは、後金国と号して帝位に就いた。これは12・3世紀に女真族が建てた大金帝国を再興するという意志をあらわしたものである。
1619年 サルホ(サルフ)の戦い ●ヌルハチに対して明は10余万の大軍を動員して、本拠・興京(ホトアラ)にせまったが、サルホ山の会戦で大敗北を喫した。
1626年 ヌルハチ ●ヌルハチが戦闘で重傷をおい68歳で死亡した。後を継いだのは、子15人のうちの8男で第2代太宗であった。太宗は明との戦いに全力であたるために、後顧の憂いとなる朝鮮を、2回にわたって出兵し1637年には征服した。
1636年 太宗 ●満州と内モンゴルを領有し、国号を後金国から大清国にあらためた。清朝のはじまりである。清は明を攻めたが、明は山海関を死守し清軍もせめあぐんでいた。
1643年 太宗 ●太宗が急死し、6歳の幼帝世祖・順治帝が即位した。実権は叔父の摂政王ドルゴンが握った。
1644年 ドルゴン ●ドルゴンは山海関にあった明軍総司令官呉三桂から申し出を受け、難攻不落の山海関を開城させ、軍を清軍の支配下においた。そして呉三桂軍の先導により北京へ向かった。
1644年 北京・紫禁城 ●明朝最後の皇帝・崇禎帝は、李自成に攻められ紫禁城北の景山で自害した。李自成は、呉三桂の軍に先導された清軍をみて、形勢不利をさとり紫禁城に火を放ち西安に逃走した。李自成の天下は40日に終わった。そして順治帝が紫禁城に入城し、清朝政権の成立を宣言し、これ以後清の中国統治がはじまった。
清の初期のポイントを以下に項目ごとに書いてみる。
①清朝弁髪(辮髪)を強制

●1645年、清、薙髪令(ちはつれい)を発す。
満州人の頭髪の結い方である弁髪を、中国全土の全男子に強制した。敵か味方(帰順)の識別であり、清朝への忠誠のあかしのため、違反者には死刑の厳罰をもってのぞんだ。弁髪とは、頭髪の一部をのこして頭をそり、のこした毛をあんで「おさげ」にしたもの。この頃の東アジアでは、中国人と朝鮮人は束髪(総髪)であり、頭の一部をそった民族は、満州族、モンゴル人、日本人があった。弁髪のもともとの理由は、兜(狩猟民・武人)を被った時の頭髪の蒸れを防ぐためとある。13世紀にモンゴル族が中国を征服したときは、モンゴル風に頭をそらされ、14世紀明の太祖は、漢民族の奮起をうながすため、束髪の復活をスローガンとした。後年の太平天国の革命運動では、まっさきに弁髪を切ることを、清への抵抗運動とした。

②明の亡命政権と清に協力した明軍人

●明は中央政府(北京)が倒されても、制度として南京が「陪都」ととされ、準首都として指定されており、中央と同じ行政組織があった。そして明の太祖は血統の絶えることをおそれ、各地に諸王を封じていた。そのため各地で亡命政権が樹立されたが、本命は南京の仮政府で、皇帝の候補者に神宗・万暦帝の孫と甥がいたが、孫の福王が皇帝となった。清は南下し戦闘となり、南京を逃げ出した福王は戦死し南京は降伏した。浙江、福建にも有力な政権がたったが、洪承疇によって鎮圧された。この亡命政権のうち、広西省によった桂王政権がもっとも長く続いた(1646-1662)。清軍は華南の地では暑さと風土の違いにより苦戦をしいられたが、呉三桂と洪承疇の合同軍によって、桂王はついにミャンマーに逃亡し、1662年呉三桂によって殺害された。この呉三桂と洪承疇は、清を助けた明軍人で、清は満州時代に中国から習った「夷(野蛮人)をもって夷(野蛮人)を制す」の逆、「漢人をもって漢人を制す」を行ったわけである。

③三藩による統治と反乱

●清朝は各地の亡命政権の鎮圧に成功したが、福建の海上には鄭成功がいて、華南地区は騒然としていた。ことに雲南には苗族はじめ非漢民族がいて明代においても特殊地域だった。そこで清朝は、福建、広東、雲南省それぞれに、漢人将軍をおいて王の称号を与え治安維持にあたらせた。これを三藩といった。一番強力だったのは、平西王(李自成を平らげる意)の呉三桂で、莫大な財産を作り軍閥の巨頭となっていた。北京では順治帝の死後、若い康煕帝(在位1662-1722)が即位し、三藩の廃止と軍閥の解消を決定した。これに対して呉三桂は反旗を翻し、三藩の乱(1673年~1681年)をおこした。康煕帝に対するこの戦いは9年に及んだが、呉三桂の病没後(1678年)、孫が後を継いだが、清軍の雲南侵攻により孫の呉世璠は1681年自殺し、三藩の乱は平定され、ここに清朝の中国統一がなった。

④鄭成功の大陸反攻

●鄭成功(1624-1662)は台湾にいて大陸反攻を20余年つづけた。
当時東アジア海域には、ポルトガル人、オランダ人、スペイン人などが進出していた。当時台湾にははっきりした領土の主権者おらず、オランダ東インド会社は、台南市の外港安平を占領(1624年)し、ゼーランディア城を1632年に完成させた。鄭成功は本拠地として台湾に目をつけ、1661年台湾ゼーランディア城に侵攻し1662年支配下においた。そして以後3代にわたり22年間台湾を統治した。清は1683年に鄭成功の孫を降伏させ、1684年に台湾を直轄地とした。

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