(思想)「幕末思想」「新論」 「正気の歌」文天祥「回天詩史」藤田東湖「靖献遺言の序文」

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古来より崇拝していた中国の学問から、日本独自の国学(愛国)へと時代の意識は変わっていく。
●「幕末思想」 広辞苑より引用作成
ここでは、江戸時代から幕末にかけて、武士を中心とした思想を「広辞苑」から引用し簡単に一覧にしてみた。その思想は、古来からの仏教や儒教の思想と融合し、日本だけの古道、国学、攘夷、尊皇思想、神道、国粋主義へと変化していった。さらにその思想は太平洋戦争中に「神国日本」「神州不滅」「国体護持」「皇国史観」「一億玉砕」などの標語に使われ、戦争へと突き進んでいった。明治維新の時、プロイセン王国(立憲君主制)を参考にしながら、天皇を絶対とする絶対君主制へと移行していったのは、もともと貴族階級と武士階級が明治新政府を作ったからにほかならない。

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●会沢正志斎『新論』 より引用  愛媛県師範学校先哲記念館 編
 愛媛県師範学校先哲記念館所蔵品目録. 昭和7年4月現在 愛媛県師範学校先哲記念館 昭和7年刊
●『新論』会沢正志斎 ー国体(上)ー(書下文、現代訳) 参考
●『新論・国体』国体明徴国民読本 曰本弘道会有志青年部 編 文英社 昭和11年刊 引用
ここでは、後期水戸学派の会沢正志斎(あいざわせいしさい)の「新論」から引用する。ウィキペディアの一部を引用すると、

「正志斎は『新論』において尊王攘夷論を唱えた人物として知られるが、後年『時務策』を著しており開国を全面的には否定しなかった。『新論』は幕府に遠慮して出版はされず、無名氏の執筆として写され、多くの人々に読まれた。長州藩の吉田松陰や久留米藩の真木保臣が水戸を訪れ、正志斎に面会している。特に吉田の『東北遊日記』には、『会沢を訪ふこと数次、率ね酒を設く。…会々談論の聴くべきものあれば、必ず筆を把りて之を記す。其の天下の事に通じ、天下の力を得る所以か』と記されている」

とある。尊王攘夷運動に大きな思想的影響を与えたといわれる。
大げさで、権威主義的で、美辞麗句をつらねた文章。(ふりがな=○○○は、星野による、広辞苑、漢字源等による語意引用。)

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●「正気の歌」文天祥 「靖献遺言(せいけんいげん)」浅見絅斎(あさみけいさい)
「修養大講座第7巻」加藤咄堂 著 より引用 平凡社1940-1942刊、国立国会図書館デジタルコレクション
●日本でも、中国の「文天祥(ぶんてんしょう)=(1236年-1283年)中国南宋末期の軍人・政治家」の『正気の歌』は忠臣の鑑として歌われた。日本では忠臣の相手は、徳川将軍ではなく、日本国天皇である。文天祥の「正気の歌(せいきのうた)」を引用する。元(げん=モンゴル王朝)に捕らえられたが、忠節を守り、クビライに「真の男子」と評された。ウィキペディアより引用すると、

文天祥は忠臣の鑑として後世に称えられ、『正気の歌』は多くの人に読み継がれた。日本でも江戸時代中期の浅見絅斎が靖献遺言に評伝を載せ幕末の志士たちに愛謡され、藤田東湖・吉田松陰、日露戦争時の広瀬武夫などはそれぞれ自作の『正気の歌』を作っている。

とある。この浅見絅斎の靖献遺言より引用する。浅見絅斎評伝と加藤咄堂の著作部分からも、一部引用した。(ふりがな=○○○は、星野による、広辞苑、漢字源等による語意引用。)

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●「回天詩史」(かいてんしし)藤田東湖 皇国精神講座. 第2輯 弘道館記述義・回天詩史 
小林一郎 著 平凡社1941年-1943年刊 より引用
ここでは、藤田東湖の「回天詩史」を引用する。解説をこの皇国精神講座著作者の小林一郎から引用してみる。時代背景がわかる。(ふりがな=○○○は、星野による、広辞苑、漢字源等による語意引用。)

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●「靖献遺言」(浅見絅斎)の序文 加藤咄堂 著
 「修養大講座第7巻」平凡社1940-1942刊、国立国会図書館デジタルコレクション
ここでは、前節で、「正気の歌」文天祥 を、「靖献遺言(せいけんいげん)」浅見絅斎(あさみけいさい)より引用したが、その「修養大講座第7巻」 平凡社1940-1942刊、の著者加藤咄堂による「靖献遺言の序文」から引用して、当時の学問の流れなどをみてみる。
(ふりがな=○○○は、星野による、広辞苑、漢字源等による語意引用。)

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