(思想)西郷隆盛 「南州翁遺訓」

keitenn

西郷隆盛の「南州翁遺訓」は近代日本が失った哲学のひとつ 
●「西郷南州遺訓」(附 手抄言志録及遺文) 岩波書店(1939年発行)山田済斎編
●「南州翁遺訓」 角川文庫(平成19年発行) 猪飼隆明 訳・解説  参考と引用
●「西郷南州先生遺訓」 浜田正夫 編・出版 1926年
ここでは、西郷隆盛「南州翁遺訓」を引用する。会津藩ではないが、同じ東北の藩であり、最後まで戦った庄内藩の、旧藩主、旧藩士らが西郷隆盛の温情に感謝し、「遺訓」としてまとめたもの。庄内藩は、戊辰戦争の最初の「江戸薩摩藩邸焼き討ち」の実行藩。(ふりがな=○○○は、星野による、広辞苑、漢字源等による語意引用。)

下

●「大西郷遺訓」頭山満講釈 政教社 1942出版 より引用
ここでは、頭山満の「大西郷遺訓」から引用する。まず広辞苑から「頭山満」についてみてみる。

「とうやまみつる(1855-1944)・・右翼の巨頭。福岡藩士の子。萩の乱に連座して入獄。出獄後自由民権運動に従い、玄洋社を創設、井上・大隈の条約改正案に反対。国会開設後は国権の伸張、大陸進出を唱え、政界の黒幕。」
ウイキペディアでは「・・条約改正交渉に関しては、一貫して強硬姿勢の主張をおこない、また、早い時期から日本の海外進出を訴え、対露同志会に加わって日露戦争開戦論を主張した。同時に、韓国の金玉均、中国の孫文や蒋介石、インドのラス・ビハリ・ボース、ベトナムのファン・ボイ・チャウなど、日本に亡命したアジア各地の民族主義者・独立運動家への援助を積極的に行った。」とある。また逸話には「頭山は24歳の時、薩摩の西郷隆盛の旧宅を突然訪ね、「西郷先生に会いに来ました」と言った。「西郷はもう亡くなったよ」と家人が応じると、頭山は「いえ、西郷先生の身体は死んでもその精神は死にません。私は西郷先生の精神に会いに来たのです」と答えた。このときのことは西郷家で記録されている。」

と書かれている。敬愛した西郷隆盛の教えについて書いたのが「大西郷遺訓」。(ふりがな=○○○は、星野による、広辞苑、漢字源等による語意引用。)

下

●「手抄言志録(しゅしょうげんしろく)」西郷隆盛
●「言志四録:新註」佐藤一斎著 明治書院 1936年出版
西郷隆盛の座右の書となった「佐藤一斎の言志四録(げんししろく)」。ここでは、西郷隆盛が全1133条から101条を選んだ「南州手抄言志録」から引用してみる。
(注)『言志四録』(げんししろく)は、佐藤一斎が後半生の四十余年にわたって書いた語録。指導者のためのバイブルと呼ばれ、現代まで長く読み継がれている。2001年5月に総理大臣の小泉純一郎が衆議院での教育関連法案の審議中に触れ、知名度が上がった。(ウイキペディアより引用)(ふりがな=○○○は、星野による、広辞苑、漢字源等による語意引用。)

下

あわせて読みたい

上矢印