日本の神社

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(7-1)神社の一例(三峯神社)と概説
●上の写真は埼玉県秩父市の「三峯神社」(2014/10月末撮影)の拝殿である。その奥には本殿がある。この三峯神社は「日本の自然」のページで紹介した紅葉写真の場所から少し上ったところにある。公式サイトには、創建(起源)は紀元2世紀頃、今から1900年以上昔のことと書かれている。
この三峯神社の祭神は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉册尊(いざなみのみこと)とあり、日本武尊(やまとたけるのみこと)が当地に立ち寄り山川が清く美しい様子に、この国生みの二神を祀(まつ)ったことが創(はじ)まりとあります。

*公式サイトを確認して下さい→「三峯神社」
そうはいっても、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉册尊(いざなみのみこと)とは何だろうか。日本神話にでてくる神様らしい。では日本神話とは何かと云えば、「日本書紀」「古事記」を中心に伝承された日本創世神話のことをいうらしい。これをわかりやすく解説している山本七平著「日本人とはなにか」(祥伝社2006年刊)から、その一部を引用してみると、つぎのようだ。
「・・・いわば進化的にまず天ができ、ついで地ができたのだが、その地がまだ沈みきらずに水の上に浮いているようなときに、葦の芽のようなものが出てきてそれが神となった。いわば盤古(ばんこ=中国神話の巨人)でなく神々が天地が分かれた後に出てくる。これが地から生じて来た「地神」でクニトコタチ(国常立)、クニノサツチ(国狭槌)、トヨクムヌ(豊斟淳)という三神、名前から見ていくと男神だが女神はいない。だが『日本書紀』は「一書に云」として、この三神がさまざまな名で呼ばれたことを記しており、それによると、それらは土地や自然現象、さらに草木等に由来するものと思われる。

下

●三峯神社の写真(拝殿・鳥居・随身門などがある)(2014/10月末撮影)

●上左写真の拝殿(はいでん)では、一般的には、鈴を鳴らして神慮(しんりょ=神のみこころ)を慰め、心願成就を祈り、賽銭(さいせん)を入れて、参拝する。その作法は、「二拝・二拍手・一拝」が一般的とあります。拝殿の前方には、青銅の鳥居があり、手前左右には石灯籠がある。
●中の写真は、三ツ鳥居(みつとりい)といい、明神鳥居の左右に小型の脇鳥居を組み合わせたもの(三輪鳥居ともいう)。この手前の左右には、魔除けと神前守護のために狛犬(こまいぬ)がおかれている。三峯神社の狛犬は、オオカミが「神の使い=眷属(けんぞく)」としておかれている。
狛犬は左右一対で、向かって右が口を開けた「阿形(あぎょう)」で宇宙の始まりをあらわし、左が口を閉じた「吽形(うんぎょう)」で宇宙の終わりをあらわすという。
この「鳥居(とりい)」という語源は定かではなく、一種の門と説明されるが、その語源には門の意味はないという。神社には、楼門、唐門、四脚門、随身門などがあり総称して神門(しんもん)といわれる。
●右写真は随身門(ずいじんもん)といい、寺院の仁王門にならったもので、随身姿の二神の像を安置しているのでそう呼ばれる。
ここで簡単に「神社」についてまとめておく。
●「神社(じんじゃ)」とは、日本に古代から存続してきた「神(かみ)」を祀(まつ)る「社(やしろ)」であり社殿(=建造物)が無いものもあった。その数は、1893年(明治26年)19万3千、1902年には19万6千社と史上最多を数えた。しかしそれ以後は、明治末年の神社合祀により減少を続けた。これは、神社は宗教ではなく「国家の宗祀」であるという明治政府の国家政策によるものであった。これにより神社は統合・淘汰され、1945年(敗戦時)には約11万社になったという。現在の神社数は、文化庁宗教年鑑(平成26年度版=2014年)よると、神社は約8万社と記載されている。ただし摂社末社(神社内で本社に付属する小社など)を含めれば、20~30万社にもなるともいわれている。

*詳しくは文化庁公式サイトを確認して下さい→「文化庁宗教年鑑」
●ここで大事なことは、日本の神社で祀(まつ)る「神(かみ)」はキリスト教の「God」ではないということである。日本の神社の祭祀対象は主に「神道(しんとう)」の神である。山や川などの自然や自然現象に畏怖をおぼえた人間が、それらを超越した存在・「神(かみ)=八百万(やおよろず)の神」と名づけ、崇めたものが始まりと思われる。
●この神社で祭(まつ)られている神を祭神(さいじん)という。一覧(簡略)にすると、下記のようになる。神社の祭神の多くが、日本神話の神々を祭祀対象していることがわかる。このことは、神社とは「日本書紀」にいう神代(かみのよ)の時代から現代までをつないでいる歴史的(or伝統的)な建築物(or宗教施設)であることにまちがいない。
(主な祭神)
NO 祭神 由来 備考 祭神とする神社(一例)
●印(公式サイトリンク)
伊邪那岐神(伊弉諾尊)
伊邪那美神(伊弉冉尊)
(いざなぎ神・いざなみ神)
「古事記」「日本書紀」 「神世七代」(かみよななよ)の最後の二神。
日本、国生み神話。
多賀大社(滋賀県多賀町)。
伊弉諾神宮(兵庫県淡路市)。
三峯神社(埼玉県秩父市)。
筑波山神社(茨城県つくば市)。等
「多賀大社(滋賀県多賀町)」
天照大御神(天照大神)
(あまてらすおおみかみ)
天照坐皇大御神
(あまてらしますすめおおみかみ
「古事記」「日本書紀」 ①の娘。三貴子の第一神。
高天原の主神。
太陽の神格化
天皇家の祖神(皇祖)
総本社は伊勢神宮の内宮(皇大神宮)(三重県伊勢市)。
全国各地に約5400余社。神明神社、神明社、○○皇大神宮、○○大神宮、天祖神社等
「伊勢神宮(三重県伊勢市)」
月読命(月弓尊・月夜見尊)
(つくよみのみこと)
「古事記」「日本書紀」 ①の子。三貴子の一人。
月(夜)の神格化
皇大神宮の別宮の月読宮、月読荒魂宮(三重県伊勢市)。
豊受大神宮別宮の月夜見宮(三重県伊勢市)。
須佐之男命(素戔嗚尊)
(すさのおのみこと)
建速須佐之男命
(たけはやすさのおのみこと)
「古事記」「日本書紀」「出雲風土記」 ①の子。三貴子の一人。
高天原追放、出雲で八俣大蛇退治。天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)
八坂神社(京都市東山区)。
氷川神社(さいたま市大宮区)。
熊野本宮大社(和歌山県本宮町)。

「八坂神社(京都市東山区)」
「氷川神社(さいたま市大宮区)」
八幡神
(はちまんじん)
(やはたのかみ)
八幡三神
●主神 応神天皇(おうじんてんのう)
●神功皇后(応神天皇の母)
●比売神(ひめのかみ)
「古事記」「日本書紀」
「八幡宇佐宮御託宣集」
天皇家第15代天皇。
比売神(宗像三女神)=多岐津姫命(たぎつひめのみこと)・市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)・多紀理姫命(たぎりひめのみこと)
総本宮は宇佐神宮(大分県宇佐市)
石清水八幡宮(京都府八幡市)。
鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)。

全国2万5000余社。八幡社、八幡宮。(一説に4万余社といわれる)
「宇佐神宮(大分県宇佐市)」
「石清水八幡宮(京都府八幡市)」
「鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)」
稲荷神(いなりのかみ)
正一位稲荷大明神
「山城国風土記」に稲荷大社の縁起あり。 秦氏の祖先が「稲生り」の瑞祥(ずいしょう)により建立。
「お稲荷様」「お稲荷さん」「農耕神」「産業の守護神」「狐」
総本社は伏見稲荷大社
(京都市伏見区)
笠間稲荷神社(茨城県笠間市)。
豊川稲荷(愛知県豊川市)/曹洞宗寺院。等
稲荷神社は一番多く、4万社以上といわれ、屋敷神、企業神としての稲荷社を数えると無数に近いといわれる。
「伏見稲荷大社(京都市伏見区)」
「豊川稲荷(愛知県豊川市)」
天神(てんじん)
菅原道真
「学問・学術の神」
「北野天神縁起」 903年菅原道真は、藤原時平の謀略により、九州太宰府に左遷され憤死した。その直後より、都(京都)では疫病、日照り、ついには清涼殿に落雷があり多数の死傷者がでた。朝廷はこの道真の怨霊の祟りをおそれ、北野天満宮と太宰府天満宮を建立した。 発祥の地
北野天満宮(京都市上京区)と
太宰府天満宮(福岡県太宰府市)。
桐生天満宮(群馬県桐生市)
湯島天満宮(東京都文京区)
亀戸天神社(東京都江東区)等
全国1万4000余社。天満宮、天満神社、天神社、北野神社、菅原神社。
「北野天満宮(京都市上京区)」
「太宰府天満宮(福岡県太宰府市)」
「湯島天満宮(東京都文京区」
大国主神
(おおくにぬしのかみ)
大国主命
(おおくにぬしのみこと)
「古事記」「日本書紀」
「出雲国風土記」
須佐之男命④の6世の孫。須佐之男命から葦原の中つ国を引継ぎ、国造りを完成した。しかし邇邇芸命(ににぎのみこと=天照大神②の孫)の天孫降臨で国をゆずり、出雲の地に隠遁したという。 出雲大社(島根県出雲市)
(杵築大社=きづきのおおやしろ)
大神神社(奈良県桜井市)
気多大社(石川県羽咋市)
「出雲大社(島根県出雲市)」
浅間大神
(あさまのおおかみ)
木花之佐久夜毘売命
(このはなのさくやひめのみこと)
日本三霊山のひとつ。
富士山
古くは「富士大神」と尊称し、富士山そのものをご神体としている。 総本山は富士山本宮浅間大社
(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)
浅間神社・富士神社、全国1300余社。
「富士山本宮浅間大社」
天児屋根命
(あめのこやねのみこと)
「古事記」「日本書紀」 天岩屋(あめのいわや)の前で祝詞を唱えた。
中臣(藤原)氏の祖神。
邇邇芸命と共に随伴。
春日大社(奈良市)
枚岡神社(大阪府東大阪市)
「春日大社(奈良市)」
建御雷神
(たけみかづちのかみ)
「古事記」「日本書紀」 邇邇芸命の国譲りの際、
経津主神と共に大国主命と折衝を行う。建御名方神(たけみなかたのかみ)を屈服させる。
鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)
「鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)」
経津主神
(ふつぬしのかみ)
「古事記」「日本書紀」 邇邇芸命の国譲りの際、
建御雷神と共に大国主命と折衝を行う。
香取神宮(千葉県香取市)
「香取神宮(千葉県香取市)」
建御名方神
(たけみなかたのかみ)
「古事記」「日本書紀」 大国主神⑧の子。建御雷神⑩と力比べをして敗北。信濃国の諏訪湖で服従した。 諏訪大社上社前宮(長野県茅野市)
諏訪大社上社本宮(長野県諏訪市)
諏訪大社下社春宮(長野県諏訪郡下諏訪町)
諏訪大社下社秋宮(長野県諏訪郡下諏訪町)
「諏訪大社(長野県諏訪市)」
熱田大神
(あつたのおおかみ)
日本武尊
(やまとたけるのみこと)
日本武尊は全国平定の東征のとき、天叢雲剣で草を薙ぎ払った故事による。 三種の神器の1つ草薙剣(くさなぎのつるぎ)をご神体としている。熱田大神は天照大神をさすとしている。また創建の由来から、日本武尊をさす説もある。 熱田神宮(愛知県名古屋市熱田区)
大鳥神社(大阪府堺市)
焼津神社(静岡県焼津市)等
「熱田神宮(愛知県名古屋市熱田区)」

(参考:三橋健著 「神社の由来がわかる小辞典」PHP研究所2007年刊)

(7-2)日本語の「神(カミ)」とは何か? はっきり区別しなくてはいけない言葉(概念)
●ここで、日本語の「神」という語の意味することを調べてみよう。辞書の「漢字源」では、「日・月・風・雨・雷など、自然界の不思議な力をもつもの。」「理性ではわからぬ不思議な力。」「聖而不可知之、之謂神=聖ニシテ知ルベカラザル、コレヲ神ト謂フ(孟子)」などとある。また「広辞苑」では、「日本の神話に登場する人格神」「最高の支配者。天皇」「神社などに奉祀される霊」「キリスト教の全知全能の絶対者」などとある。
このように日本語で「神」と書かれた言葉の意味は、多種多様の概念を含み、宗教的な意味と、普通名詞の意味が混ざり合っている。そして、この「神」という概念を、キリスト教やイスラム教の一神教の「神」にも使っているので、さらにおかしなことになっている。
そこで日本語の「神(カミ)」についてわかりやすく書かれている、山本七平「 日本人とはなにか」の「4章 神話と伝説の世界」から一部分をを引用してみる。日本の「神」について意味がわかるだろう。


戦後の日本国天皇の人間宣言に関連して、次のように述べている。

●日本における「カミ」とは何か
「・・・そのことは天皇の『人間宣言』の9年前すなわち昭和12年(1937年)の文部省の次の通達に現われている。

「……現御神(あきつかみ)(明神・あきつかみ)或いは現人神(あらひとがみ)と申し奉るのは、所謂(いわゆる)絶対神とか、全知全能の神とかいう意味と異なり、皇祖皇宗がその神裔(しんえい)にあらせられる天皇に現われまし、天皇と皇祖皇宗とは御一体にあらせられ……」

下

●ではキリスト教の「神」とはどんな存在なのだろうか。「ヤハウェ」とは何だろう。入門的な事柄を抜き出してみる。

●我々が日常使っている、2016年とかの西暦は、紀元をキリスト教に由来している。西暦は、キリスト誕生年を紀元とし、A.D.=ラテン語「アンノドミニ(Anno Domini)」=「イエス・キリストが君臨する時代・主の時代」を意味し、B.C.=英語「ビフォア クライスト(Before Christ)」は、キリスト以前を意味している。
●ユダヤ人とは、ユダヤ教を信じる人を意味する。ユダヤ人という人種が存在するわけではない。ユダヤ人とは、ヘブライ人(過ぎゆく人の時代)からイスラエル人(カナンに定着する時代)となり、イスラエル王国とユダ王国に分裂し世界各地に離散して行った時代に、ユダヤ人という名前が生まれた。ユダヤとは「神を賛美する」という意味であり、イスラエルとは「神は強し」という意味である。
●カナンの地からエジプトに移り住んだころ(紀元前15世紀頃)、モーゼ(ヘブライ人)は声をかけられる。その存在は、モーゼにこれまで族長たちが呼んでいた「泉の神(エル・ロイ)」や「山の神(エル・シャッダイ)」ではなく、本当の名前を示した。「私は”在る者”である」と。この”在る者”とは、「私は在り、そして在らしめる者である」すなわち創造神であると示した。この「在る者」のヘブライ語をローマ字にすると「YHWH」となり、「ヤーッハヴェー」となる。旧約・新約聖書を通して、その存在は唯一神であり「主(しゅ)」とよばれる。(出典:白取春彦「この1冊で『聖書』がわかる」三笠書房2005年第11刷)

(7-3)神仏習合(しんぶつしゅうごう=神の信仰と仏教信仰が融合調和すること)
●上の左写真は、埼玉県飯能市にある天台宗の寺院「竹寺」の「茅の輪(ちのわ)」。これをくぐることにより、疫病や罪穢(つみけがれ)が祓(はら)われるという。これは神社の神事で、心身の穢(けがれ)を祓い清めるための「大祓(おおはらえ)」に使用されるとあります。つまり仏教寺院のなかで、神社の「神事」がおこなわれているわけです。
●右写真は本殿で、右手に斧、左手に索を持つ木造牛頭天王(ごずてんのう)坐像とその脇には八王子(牛頭天王の八人の童子)が祀られており、十二年に一度の丑年に開扉されます、とあります。
さらに説明には「竹寺」は神仏習合の遺構とあります。また「竹寺」は正しくは「医王山薬寿院八王子」といい、公式サイトの「歴史と本尊」では以下のように書かれています。
「・・・・・以来「東国霊場」として、山岳 信仰の道場として千年余の歴史を有しております。本尊「牛頭天王(ごずてんのう)」を祀り、本地仏に「薬師如来」を配し、神仏習合の姿を今に残す東日本唯 一の遺構であり、「天王さま」と呼ばれ親しまれています。また、境内の観音堂には、聖観世音が祀られており、武蔵野観音の三十三結願寺ともなっています。
※平成4年中国人民有志により「牛頭明王」ブロンズ像が寄贈されました。・・」とあります。

*詳しくは公式サイトを確認して下さい→「竹寺」
(注:広辞苑)
●神仏習合(しんぶつしゅうごう)・・日本固有の神の信仰と仏教信仰とを折衷して融合調和すること。奈良時代に始まり、神宮寺・本地垂迹(ほんじすいじゃく)説などはその現れ。神仏混淆(しんぶつこんこう)
●本地仏(ほんじぶつ)・・神の本地である仏。
●本地・・①(仏)仏・菩薩が衆生済度のために仮の姿をとってあらわれた垂迹身(すいじゃくしん)に対し、その本源たる仏・菩薩をいう。例えば、熊野権現の本地は阿弥陀如来(あみだにょらい)とする。
●だんだんと理解不能となってくる。一体神社へ参拝する目的は何なのだろう。次のようだといわれる。

「感謝の真心を捧げる」「厄災(やくさい)を祓(はら)う」(厄災とは、わざわい、災難、災厄のこと)
「開運成就を祈願する」「誓願する」等

●しかしこれだけではよくわからない。どうも神社それぞれによって、力・霊験・御利益(ごりやく)が違うと考えられているらしい。そこで神社への信仰を一覧表(簡易)にしてみる。牛頭天王のこともいくぶんか理解できる。

信仰と神の神徳(しんとく=神の功徳・神の人間に加える力)
信仰 神徳 中心神社 備考
秋葉信仰
(あきは)
防火鎮護の神 静岡県周智郡「秋葉山本宮秋葉神社」
「秋葉山本宮秋葉神社」
秋葉神「あきはしん」または「あきばしん」といい、「火伏(ひぶ)せの神=火災を防ぐこと」として、修験者(山伏)によって広められた。全国800社以上。
愛宕信仰
(あたご)
火防の神 京都市右京区愛宕山山頂「愛宕神社」
「愛宕神社」
秋葉さんと並んで、古くから「火伏(ひぶ)せの神」として信仰された。愛宕山は平安時代から、修験者の霊場として栄えた。
熱田信仰
(あつた)
草薙神剣、尾張地方の開墾・開拓の神 名古屋市熱田区「熱田神宮」 
「熱田神宮」
歴代の天皇が継承してきた草薙剣(三種の神器のひとつ)を、日本武尊の日本平定の偉業の象徴として賞賛し、その伝統を守る。
淡島信仰
(あわしま)
子授けの神、婦人病の神 和歌山県和歌山市加太「淡島神社」
「淡島神社」
祭神の少彦名命は、医薬の神様で、特に、女性の病気回復や安産・子授けなどに霊験あらたかとあります。
出雲信仰
(いずも)
大地開拓の神、農耕の神 島根県出雲市出雲大社
「出雲大社」
現在は結婚の縁組みの神と信仰され、「縁結びの神」の代名詞ともなっている。これは、出雲大神が子孫繁栄と生産力を守護する農業神であることによるとあります。
伊勢信仰
(いせ)
皇室の祖神、日本国民の親神 三重県伊勢市「伊勢神宮」
「伊勢神宮」
江戸時代の「おかげまいり」の盛行を機に、はじめは皇室の祖神であった神宮も、「一生に一度はお詣りしたい」という国民の厚い信仰になっていった。
厳島信仰
(いつくしま)
海上の守護神 広島県廿日市「厳島神社」
「宮島観光公式サイト」
福岡県の宗像神社と同じ三女神が祭られている。共に海と関係するところから結合したとあります。厳島信仰は弁才天信仰と混合して、音楽や弁説・財宝の神と信仰されている。
稲荷信仰
(いなり)
食物の神、農耕の神、諸産業の神 京都市伏見区「伏見稲荷大社」
「伏見稲荷大社」
「お稲荷(いなり)さん」と人々からもっとも親しまれている神様。全国に約3万750余社がある。そのほかにも、会社、工場、ビルの屋上などにも無数にあるとされる。この神様は、人間生活の基本である衣食住を守護していることが、その理由とされている。「続古今和歌集」(しょくこきんわかしゅう=13世紀成立)にも、『稲荷大明神に祈願する者は、貧富貴賤の差別無くその願いを必ずかなえる』という意味の歌がある、とあります。
香取・鹿島信仰
(かとり・かしま)
武神、水の神、塞の神、地震封じの神 千葉県香取市「香取神宮」
「香取神宮」
茨城県鹿嶋市「鹿島神宮」
「鹿島神宮」
両宮とも古より、軍神として尊宗されてきた。鎌倉時代には源頼朝をはじめ多くの武将たち、江戸時代には武芸者たちに尊宗された。
春日信仰
(かすが)
藤原氏の氏神、雷神、竜神 奈良市春日野町「春日大社」
「春日大社」
藤原氏の氏神信仰を中核としていたが、背後にある三笠山が、神霊の宿る山として多様な信仰が広まった。
祇園・津島信仰
(ぎおん・つしま)
御霊(ごりょう)神、疫病除けの神 京都市東山区「八坂神社」、愛知県津島市「津島神社」
「八坂神社」
「津島神社」
(注:広辞苑)
●御霊会(ごりょうえ)・・疫神または死者の怨霊を鎮めなだめるために行う祭り。平安以降に行われ、京都祇園御霊会は有名。(京都祇園祭)
●この祭りの始まりは、牛頭天王の祟り(疫病の流行)を鎮めることから、ともいわれる。
祇園社・天王社への信仰をいう。津島神社の旧称は、牛頭天王(ごずてんのう)社といった。牛頭天王はインド釈迦生誕の祇園精舎の守護神とされた。また「神仏習合」では薬師如来の垂迹としてかつ素戔嗚尊の本地とされた。また明治の神仏分離令で、「牛頭天王」「祇園」のような仏教語が使用禁止されたため、八坂神社は祇園社から改名した。両社とも素戔嗚尊を主神、相殿に奇稲田比売命、そして八王子神を配祀する。牛頭天王には8人の王子(八王子)がいて、「竹寺」では本殿に牛頭天王と8王子が祀られている。東京都八王子市の名前の由来も同様である。
また蘇民将来(そみんしょうらい)が素戔嗚尊から、疫病の流行を防ぐ方法として「茅の輪(ちのわ=茅草《かやくさ》)を腰につける」ことを教わった話が有名。
熊野信仰
(くまの)
縁結びの神、農林の神、水産の神、漁業の神、熊野牛王(ごおう)起請文の信仰 和歌山県田辺市「熊野本宮大社」、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町「熊野那智大社」、和歌山県新宮市「熊野速玉大社」、(熊野三山・熊野山所権現)
「熊野本宮大社」
「熊野那智大社」
「熊野速玉大社」
熊野は、死者がよみがえる聖地とされた。そして生きながら観音の浄土に至る実践の聖地でもあった。熊野の岬の彼方には、常世(とこよ=死者の国)があると信じられていた。那智(なち)の浜は有名であり、平家物語でも平維盛は那智で入水した。また熊野の山は修験の霊場として有名となり、「日本第一大霊験地」とたたえられ、天下の霊地となった。熊野信仰は、さまざまな信仰がみられ、神道・仏教・修験道・民間信仰などが統合された多様な信仰である。
金比羅信仰
(こんぴら)
海上安全の神、航海の神、漁業の神、農耕の神、雷の神、水の神。 香川県仲多度郡琴平町「金刀比羅宮(ことひらぐう)」
「金刀比羅宮」
とくに海運業者や漁民に厚い信仰を集めた。また現世における利益・幸福をもとめる一般庶民にも人気がある。江戸時代には庶民の間で金比羅(こんぴら)参りが大流行し、伊勢参りとともに人気があった。『金比羅(こんぴら)船々(ふねふね)追(お)い手(て)に帆かけてシュラシュシュシュ』という民謡は、金比羅参りの人々を歌ったもの。
山王信仰
(さんのう)
山の神、天台宗の守護神、平安京の鬼門除けの神 滋賀県大津市「日吉大社」
「日吉大社」
日吉神社・日枝神社に対する信仰をいう。神仏習合により、比叡山延暦寺と日吉神社が結び山王信仰が発展していった。
住吉信仰
(すみよし)
禊祓(みそぎはらえ)の神、航海の神、産業の神、文化の神、外交の神、貿易の神、農業の神、和歌の神。 大阪市住吉区「住吉大社」
「住吉大社」
祭神である住吉三神は古くから航海の守護神とされていたらしい。また平安時代から、和歌の神としても信仰された。また婚礼の席の「高砂」も住吉信仰のひろがりを示している。『高砂や、この浦舟に帆を上げて、この浦舟に帆を上げて、月もろともに出で潮の、波の淡路の島影や、遠く鳴尾の沖過ぎて、はや住吉(すみのえ)に着きにけり、はや住吉に着きにけり』
諏訪信仰
(すわ)
風の神、水の神、武神、鍛冶の神 長野県諏訪市「諏訪大社上社本宮」(
「諏訪大社上社本宮」
製鉄に携わる部族の神、あるいは諏訪湖の州を守護した神ともある。また武将からも厚い崇敬を受け、「日本第一大軍神」と称した。甲斐の武田氏が戦勝を祈願し、諏訪信仰は全国に広まっていった。
浅間(富士)信仰
(あさま・せんげん・ふじ)
火山の神、水の神、寿命の神、安産の神。 静岡県富士宮市「富士山本宮浅間大社」
「富士山本宮浅間大社」
古来より、富士山は神々しくて高く貴い山、また日本国鎮護の山として信仰の対象とされてきた。この「あさま」という語は、一説にアイヌ語で「噴火」を意味するという。九州の「阿蘇山」の「あそ」も同様の意味であり、群馬県・長野県の浅間(あさま)山は今も噴火を続けている。
天神信仰
(てんじん)
雷雨の神、御霊神、学問の神、文教の神、連歌の神、和歌の神、書道の神。 福岡県太宰府市「太宰府天満宮」
京都市上京区「北野天満宮」
「太宰府天満宮」
「北野天満宮」
この天神とは、菅原道真(845~903年)を神格化した呼称。平安時代中期以降、さまざまの内容で信仰され、江戸時代になると学問の神と信仰された。現代ではもっぱら学業成就の神として受験生の信仰を集めている。
八幡信仰
(やはた・はちまん)
国家鎮護の神、源氏の氏神、武家の守護神、武神 大分県宇佐市「宇佐神宮」、京都府八幡市「石清水八幡宮」、神奈川県鎌倉市「鶴岡八幡宮」
「宇佐神宮」
「石清水八幡宮」
「鶴岡八幡宮」
全国の八幡宮・八幡神社は、2万5千社を数える。宇佐神宮の「護国霊験威力神通大自在王菩薩(ごこくれいげんいりきじんつうだいじざいおうぼさつ)」との神号は、この神が鎮護国家のために威力を示すという意味である。また「菩薩」から神仏習合の濃厚な神である。皇室の崇敬は厚く、石清水八幡宮を伊勢神宮につぐ第二の宗廟と称した。また鎌倉時代源氏は、八幡宮を氏神として勧請し、鶴岡八幡宮を創祀した。
宗像信仰
(むなかた)
国家鎮護の神、皇室の守護神、航海安全の神、豊漁の神 福岡県宗像市「宗像大社」
「宗像大社」
辺津宮(へつみや)本土=第一宮、中津宮(なかつみや)海上11km大島=第二宮、沖津宮(おきつみや)大島からさらに49km海上の沖ノ島=第三宮、これら三宮(宗像三女神を祭る)を宗像大社という。
この九州の宗像地方は、海上で生活していた宗像海人族の根拠地であり、朝鮮半島の重要な航路にあたり、日本書紀、古事記にも記載され、特に「沖ノ島」は全体が神域とされ、「海の正倉院」といわれる。日本書紀神代(上)、天照大神が三女神に、天孫の降臨を助けよと告げる部分、

「故素戔鳴尊、既得勝驗。於是、日神、方知素戔鳴尊固無惡意、乃以日神所生三女神、令降於筑紫洲、因教之曰『汝三神(いましみはしらのかみ)、宜降居道中(よろしくみちのなかにくだりまして)、奉助天孫(あめみまをたすけまつりて)而爲天孫所祭也。(あめみまのためにいつきまつれよ)』」

(参考:三橋健著 「神社の由来がわかる小辞典」PHP研究所2007年刊)

(追記)
信仰 内容 神社 備考
御霊信仰
(ごりょう)
上述の祇園・津島信仰、天神信仰も含まれる。 京都「今宮神社」、「上御霊神社」、「下御霊神社」
「今宮神社」
「上御霊神社」
「下御霊神社」
御霊とは霊魂を尊敬した語だが、のちに悲惨な死、怨みを残した死など浮かばれない霊魂が、たたりや災いをおこすと信じられた。これを御霊信仰といった。そしてその御霊を慰撫・沈静することを、御霊会(ごりょうえ)という。平安時代は御霊信仰が流行した。牛頭天王を祭る祇園の感神院(祇園社)で行われた祇園御霊会は869年に始められ、現在の京都祇園祭の起源である、という。
産土神・氏神信仰
(うぶすなかみ・うじがみ)
産土神と氏神・産神の区別は現在も明白ではない。 各地の氏神社 ある人の生まれた土地を守護し、その人の生涯を守護する神。現在では「氏神様」とも呼んでいる。
山岳信仰
(さんがく)
上述した、秋葉信仰、愛宕信仰、熊野信仰、金比羅信仰、山王信仰、浅間(富士)信仰なども同じ山岳信仰に入る。 石鎚信仰・愛知県西条市
「石鎚神社」
大山信仰・神奈川県伊勢原市
「大山阿夫利神社」
木曽御岳信仰・長野県木曽郡
「御嶽神社」
大山信仰・鳥取県米子市
「大神山神社」
立山信仰・富山県中新川郡
「雄山神社」
白山信仰・石川県白山市
「白山比咩神社」
出羽三山信仰・山形県鶴岡市
「出羽三山神社」「月山神社」「湯殿山神社」
日光山信仰・栃木県日光市
「二荒山神社」
英彦山信仰・福岡県田川郡
「英彦山神社」
吉野山信仰・奈良県吉野郡
吉野山観光協会「金峰神社」「吉野水分神社」
山には神霊が宿ると信じられ、山岳を神とみなした。山頂や山麓には神社が営まれた。

(参考:三橋健著 「神社の由来がわかる小辞典」PHP研究所2007年刊)


●上記のように一覧にしてみたが、これをみると、神社への「信仰」というものに不思議を感じる。この古くからの日本人の「信仰」は、対象(神々)を無数に持ち、簡単な儀礼(二拝二拍手一拝)で誓願することにより「神」とふれあうことができる。また神社の歴史はあまりにも古く、その起源は伝説と神話に彩られている。にもかかわらず、その伝統と信仰は、世界宗教にみられるような「神学」に発展することは無かったように思われる。代わりに、「仏教」伝来後「神仏習合」がおき、言いかえれば「仏教」がその理論的背景を形作ったとも考えられる。

(7-4)仏教伝来と神仏習合の歴史
houryuujikondou

●(写真左)法隆寺金堂壁画 阿弥陀浄土 外陣6号大壁(焼損) 7世紀末~8世紀初 斑鳩(奈良)法隆寺 (出典:『家庭美術館』平凡社1963年刊)
●(写真右)釈迦如来及び両脇侍像(しゃかにょらい及びりょうわきじぞう)法隆寺(金堂安置)飛鳥時代7世紀『この像は飛鳥彫刻のすぐれた典型であるとともに、彫刻史上記念碑的存在である。』(出典:『国宝50選 日本の彫刻』毎日新聞社1970年刊)
ここで、その仏教伝来と神仏習合について、埼玉県「飯能市史資料編Ⅴ(社寺教会)」1982年飯能市発行、を参考にしてポイントを書いてみる。
(ポイント)
①「神々」に対する畏敬は、だんだん親敬に変わり、常にそばにある存在として「神社」が建設されるようになった。しかしこの契機となったのは、仏教の伝来(6世紀)による。なぜなら、仏教は最初から、仏像と仏殿を伴ってきたからである、といわれる。
②この仏教の受け入れについては、蘇我氏(受入)対、(不可)とする物部氏、中臣氏の対立があったとされる。その部分を「日本書紀」より下記に引用してみる。日本古来の神々の記述がある。6世紀頃のことである。仏法を敬えば、日本古来の百八十神(ももあまりやそがみ)の國神(くにつかみ)の怒をかうと述べられている。
●日本書紀(欽明天皇)仏教伝来の部分 。
冬十月、百濟の聖明王、〔更(また)の名は聖王。〕
西都姫氏達率怒亜唎斯致契(せいほうきしたつそつぬりしちけい)等を遺し、釋迦佛(しゃかのほとけ)の金銅像(かねのみかた)一軀(ひとはしら)、幡蓋(はたきぬがさ)若干(そこら)、經論若干(そこら)巻(まき)を獻(けんず)る。

下

●次に日本書紀(推古天皇)17条憲法の仏教を敬うところ(二に曰くから)。
「 十二年春正月戊戌朔、始めて冠位を諸臣に賜ふ。各差有り。夏四月丙寅朔戊辰、皇太子親ら肇めて憲法十七條を作りたまふ。

下

「訓読日本書紀(下)」黒板勝美編 岩波書店1928-1939刊→ 国立国会図書館デジタルコレクション
③そして7世紀、大化の改新後には仏教は急速に殿上人、貴族達に浸透し国家体制に組み入れられていった。宮廷行事として、「最勝講」・「御霊会」・「御齋会」などが行われるようになったといわれる。
(注:広辞苑から抜粋)
●最勝講(さいしょうこう)・・平安時代以降、宮中で毎年5月に5日間、東大寺・興福寺・延暦寺・園城寺の四大寺の僧侶を召し、金光明最勝王経を朝夕2座1巻ずつ講説させて国家の安泰を祈った法会。
●御霊会(ごりょうえ)・・厄神または死者の怨霊を鎮めなだめるために行う祭り。平安以降行われ、特に京都の祇園御霊会は有名。
●御齋会(ごさいえ)・・宮中行事の一。毎年正月8日から14日までの7日間、大極殿(後には清涼殿、物忌みの時は紫宸殿)で、国家安寧・五穀成就の祈願のため、諸宗の学僧に金光明最勝王経を講説させる法会。

④日本古来の神祇信仰はどうだったかというと、この海外から伝来した仏教と、古来日本の神祇信仰との確執は、それほど続かなかったといわれる。その理由は仏教の「仏神(100神以上)」と日本古来の「神」が関係づけられ習合していったことによるという。つまり仏教が神祇信仰を取り込み、神祇信仰を新たな信仰として再構成していったということらしい。神社の祭神の由来に、「本地仏」は○○とあるのはその現れである。
(注:広辞苑から一部抜粋)
●日吉神道(ひえしんとう)・・「一実神道」「山王一実神道」。天台宗の一心三観の教理を基本として立てられた神道説。・・江戸時代初期「天海」が幕府と結び隆盛を極めた。
●両部神道(りょうぶしんとう)・・真言宗の金剛・胎蔵両部の教理で神々の世界を説明しようとする神道説。本地垂迹(ほんじすいじゃく)説の根底をなす神仏調和の神道で、行基および最澄・空海らの所説にその萌芽を見、神祇に菩薩・権現の名称を付するに至った・・・。
⑤こうして、当時まだ教義や論理的思想を欠いていた神祇信仰は、その神徳、鎮座の由来、儀礼、行事、名称までも仏教教理に依存することになってしまった。そしてそれ以来明治元年までの千百余年の間、神仏習合、神仏混淆の時代が続き、神社や寺院が建て続けられていったといわれる。
⑥江戸時代(17世紀~19世紀)の宗教政策は下記のポイントがあげられる。
(僧天海の影響が大きく、その死後寺社奉行が設置され、「寺の本末制」「寺格僧階制」「檀家(だんか)制度」などが確立され、幕府は仏教を統制支配した。またキリスト教徒追放政策が徹底された。)
●寺の本末制により、各宗派内における格式が定められ、全国のあらゆる寺院は秩序立てられ、無本寺、無檀家、無住職の寺は存在できなくなった。
●「寺請証文」でキリシタン(キリスト教徒)でないことを証明せねばならなかった。そしてその台帳「宗門人別帳(しゅうもんにんべつちょう)」が寺には備え付けられねばならなかった。これにより全国民(神祇信仰の者までも)すべてが、寺の檀家にならねばならなかった。
ここに寺は、「戸籍簿」を管理する行政の役割を担い、かつ国教となり支配体制に組み込まれた、といえる。
●氏子制度(官制ではない)が発達し、血縁を越えた氏神信仰がひろがりをみせ、現代に及んでいる。

●日光東照宮・徳川家康を祀る神社(神号は天海により、明神ではなく権現とされた。秀吉の「豊国大明神」をさけたことによる。山王一実神道に則って薬師如来を本地とする東照大権現とされた。)
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●(写真)日光東照宮(出典:『国宝50選 日本の神社・仏閣』毎日新聞社1970年刊)

●例「宗門人別帳」 (出典)飯能市史 資料編Ⅴ 社寺教会より

「宗門人別帳」
 宝暦 二年    武蔵 高麗郡
 宗 旨 人 別 改 之 帳   下赤工村
 申  四月

下

(7-5)明治新政府、神仏分離と修験道などの廃止措置、そして廃仏毀釈。
●そして明治維新となり新政府は江戸時代の宗教政策を大きく変更した。そのための最初の基本方針は「祭政一致」という、古色蒼然とした統治方針だった。
●明治3年1月3日(1870年2月3日)惟神(かむながら)の大道を天下に布教し、祭政一致の統治方針を示した。
 大教ヲ宣布スルノ詔 (明治三年正月三日)
朕恭惟。天神天祖立極垂統。列皇相承繼之述之。祭政一致。億兆同心。治教明于上。風俗美于下。而中世以降。時有汚隆。道有顯晦。治教之不洽也 矣、今也天運循環。百度維新。宜明治教以宣揚惟神之大道也 因新命宣教使。布教天下。汝群臣衆庶。其體斯旨。

下

「大教宣布の詔」神社読本 全国神職会 編 日本電報通信社 昭和15年刊
国立国会図書館デジタルコレクション
「大教宣布の詔」110ページ「国民思想叢書. 聖徳篇」加藤咄堂 編 国民思想叢書刊行会昭和4-6刊
国立国会図書館デジタルコレクション
●「文部科学省」の「第五節 宗教」、「明治初期における宗教行政」によると以下のようにある。
 明治四年の廃藩置県まで、維新政府は祭政一致の方針をつらぬくため、明治元年閏四月神祇官を設置し、全国の神社、神主等はすべて神祇(ぎ)官の指揮を受けることにした。政府はまた同年三月、神仏分離の令を出し、これがきっかけとなって、全国に廃仏毀(き)釈の運動が起こり、仏教界に大きな打撃を与えた。
文部科学省(第5節)「明治初期のおける宗教行政」
(注:広辞苑)
●神仏分離・・維新直後の明治政府の宗教政策のひとつ。1868年(慶応4年)3月の神仏判然令など神道国教化めざしておこなわれた一連の政策により、神仏習合を否定し、神道を仏教から独立させたこと。
●廃仏毀釈・・明治初年の仏教排撃運動。1868年(慶応4年)に神仏分離令が出されたのをきっかけに、神道家などを中心に各地で寺院・仏像の破壊や僧侶の還俗強制などがおきた。
*(言葉の意味-ウイキペディア・・「廃仏」は仏を廃し(破壊)し、「毀釈」は、釈迦(釈尊)の教えを壊(毀)すという意味。)
●こうして「神仏分離」「廃仏毀釈」が行われていった。
「飯能市史 資料編Ⅴ 社寺教会」によれば、飯能市内の廃寺は、真言宗=14寺、臨済宗=5寺、曹洞宗=14寺とあります。また同時に、神仏混淆の宗教として修験道も廃宗させられ、修験寺も24寺が廃寺処分を受けたとあります。全国的にみても、社寺領の上知などにもより、廃寺された寺は非常に多かったといわれる。特に幕末からの排仏意識の高まりは、水戸藩や薩摩藩では過激な寺院整理が行われた。また石見国(島根県)津和野藩でも藩主亀井茲監による独自の神社・寺院改革は、維新政府の宗教政策に引き継がれた。(薩摩藩の例:寺院1616寺が廃され、還俗した僧侶は2966人とウイキには書かれている。また薩摩藩主・島津氏の菩提寺も、一族の葬儀が神式に行わることにより、破壊された、ともあります。)

●具体例をあげると、神仏習合の遺構と紹介した「竹寺」へ向かう途中に「子ノ権現(ねのごんげん)」というお寺がある。正式名称を「天台宗・大鱗山雲洞院・天龍寺」とあります。だが入口には神木があり、鳥居がある。ここは神社なのか寺院なのか?(下の写真2015/05/28撮影)
●「飯能市史資料編Ⅴ(社寺教会)」1982年飯能市発行によると、「沿革」に次のようにある。

・・天龍寺は、1705年輪王寺宮の末寺となり、1868年(明治元年)維新の改変により延暦寺末となった。そして「権現」号が停止され、以後3年間「大薩埵(さった)=(菩薩)」と変更された。しかし1871年「権現」号に戻した。

●続いて「神仏分離」について次のように具体的に書かれている。

神社において「・・中古以来「権現」あるいは「牛頭天王」など仏語をもって神号を唱えていたものは廃止し、また仏像をもって神体としている向はこれを改め、更に本地仏なりとして、仏像を社前に掛け、あるいは鰐口(わにぐち)、梵鐘(ぼんしょう)、仏具等を設置した神社では、すみやかにこれを撤去する・・」「飯能市史資料編Ⅴ(社寺教会)」一部抜粋。

現在の多くの「神社」は、江戸時代は「(大)明神」や「(大)権現」と呼ばれていたのが、この明治政府の「神仏分離」「廃仏毀釈」で名を変更させられたといわれる。
この「子ノ権現」も名を変更させられたということは、「神社」と「寺院」の区別のつかない神仏習合の寺であった、ということなのだろうか。飯能では「竹寺」と「天龍寺」の2寺のみが天台宗の寺院とあります。このことも関係するのだろう。いずれにしても、この明治政府の宗教政策は、大きな衝撃を与えたことは間違いない。

●この明治新政府の「祭政一致」の思想的な背景は、藤田幽谷・藤田東湖・会沢正志斎の後期水戸学や、平田篤胤の平田派であった。しかし、結局実務を担って行けたのは、津和野・大国隆正の国学派亀井茲監や福羽美静であった。平田派の神秘主義的な思想は、さすがに近代化を目指す新政府には、受け入れられなかったらしい。では大国派はどうであったのだろうか。ここで大国隆正の「本学挙要」から一部を抜粋してその思想にすこし触れてみたい。(出典:「日本思想体系50」岩波書店1973年刊)
●その思想の一部分を要約引用してみると。

①日本はもともと、「本教(もとつ・をしえ)」一(ひと)すぢにて、上下和合し、世の中はよくおさまっていた。
②この本教とは、次のような内容。
『本教とは、わが 天皇の御系譜(おんすぢ)にして、天地(あめつち)のいできはじめの真(まこと)をつたへたまへる、神代の古事(ふること)をいふ。・・・』
『「本教」は、儒・仏の教と同じからず、天地のなりたちをときて、そのうちに人の行なふべき道をも、をしへてあるものなり。さてその教の大むねは、天地のはじめに神霊(たま)ありて、天地をつくりたまへるとき、日球(=太陽)を緯星天(=太陽系)の本とし、日本国を地球の本とし、わが 天皇を国王どもの本とし、天・地・人の三本をここにたてて、天地をつくりなしたまへるにより、わが 天皇の御統(みすぢ)は万々世かはりたまはぬなり。・・・』

下

●大国派の思想の一部は上記のようであった。当初明治政府の国学派グループは、神祇官(じんぎかん)を再興して祭政一致の制度を実現しようと神道国教化を目指した。
●この思想は、「忠・孝・貞」の三つが、疑いも無く万国における一番の道であり、日本が一番まさっているということ。そしてその根本にあるのは、「天皇」を中心とした上下和合した世の中であるという。そして日本国の本である「忠・孝・貞」をないがしろにするのは、『本師をたふとぶあまりに、君・父・夫をさへすててかへりみざるものあり。本師とは、儒の孔子、仏の釈迦・法然・親鸞・日蓮のたぐひをいふ。』といって儒教・仏教を否定する。そしてキリスト教も、『友愛・結党のよき大道』とみえるが、実はあしき道であると否定していることである。
●しかし、明治新政府は近代国家の樹立の為、政教分離と信教の自由、そして西洋諸国からの圧力によるキリスト教解禁も余儀なくされた。また廃仏毀釈に対する浄土真宗の抵抗も大きく、新政府の宗教政策は修正を余儀なくされたといえる。(浄土真宗・本願寺は戊辰戦争時新政権に対して財政的援助を行っていた)
●前に引用した「文部科学省」の「第五節 宗教」、「明治初期における宗教行政」においても次のように書かれている。
『・・(明治)二十二年二月、大日本帝国憲法が発布され、その第二十八条により、信教自由の原則が保障されることになった。しかしその自由は国家の安寧秩序を妨げず、および国民たるの義務にそむかない限りにおいての自由であった。・・・
 また、安政年間以来諸外国と結ばれていた諸条約には不平等なものがあり、これを平等の条約に改めることが、政府、国民の要望するところであった。ところでこの条約改正に当たり大きな障害となっていたのが、キリスト教の取り扱いと神社の特別扱いとであった。そこで政府は(明治)三十二年五月、キリスト教の宣教を正式に認めるとともに、国・公立の学校における特定宗教の宣布、教授を禁止することにした。この学校教育における宗教の取り扱い方は、終戦の昭和二十年十月まで基本線となっていた。他方、昭和初年ごろから教育における宗教的情操涵養の必要性がいわれるようになり、昭和十年十一月、これについての通牒(ちょう)を出した。
 一方、神社はあくまでも国家の宗祀であり、他の宗教と同一視すべきでないとした。そこでそれらを同じ社寺局で取り扱うべきではないとし、明治三十三年四月、内務省の社寺局を廃して、神社局と宗教局の二つを置くことにした。このようにして神社は一般宗教とは別であるという姿勢がとられるようになった。そして大正二年六月、内務省の宗教局を文部省に移し、昭和十五年十一月、内務省の神社局は神祇院と改められた。』

(7-6)「教育勅語」「軍人勅諭」
●上記のように、国家神道(神社)は仏教やキリスト教等の宗教ではなく、天皇が最高祭司者として祖神を祀る非宗教の国家宗祀とされた。そしてこの国家神道は、国家の精神的支柱とされ、特に「教育勅語」をもって国民道徳の基本とされた。「教育勅語」「軍人勅諭」を引用する。当時の日本国民の考え方の根本がわかる。
「教育勅語」

朕(ちん)惟(おも)フニ我(わ)カ皇祖皇宗(こうそこうそう)國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠(こうえん=広く大きく遠く久しい)ニ徳(とく=恩恵のこと)ヲ樹(た=植えつくる意)ツルコト深厚(しんこう=深くてかつ厚きこと)ナリ我(わ)力臣民(しんみん)克(よ)ク忠(ちゅう)ニ克(よ)ク孝(こう)ニ億兆(おくちょう=万民)心(こころ)ヲ一(いつ)ニシテ世世(よよ)厥(そ)ノ美(び=美しい風習)ヲ濟(な)セルハ此レ我力國體ノ精華(せいか=内部のよい気力が、外にあらわれて美しい光彩を放つこと)ニシテ教育ノ淵源(えんげん=大本)亦(また)實(じつ)ニ此(ここ)ニ存(そん)ス爾(なんじ)臣民父母(ふぼ)ニ孝(こう)ニ兄弟(けいてい)ニ友(ゆう)ニ夫婦(ふうふ)相和(あいわ)シ朋友(ほうゆう)相(あい)信(しん)シ恭儉(きょうけん=うやうやしくつづまやかなること=つつしみぶかいこと)己レヲ持(おのれをじ=自分の身を持つ)シ博愛(はくあい)衆(しゅう)ニ及(およ)ホシ學(がく)ヲ修(おさ)メ業(ぎょう)ヲ習(なら)ヒ以(もっ)テ智能(ちのう=知識・技能)ヲ啓發シ徳器ヲ成就(とっきをじょうじゅ=有徳なる人柄を仕上げる)シ進(すすん)テ公益(こうえき=公共の利益)ヲ廣(ひろ)メ世務(せいむ=社会上の種々のしごと)ヲ開(ひら=開いて盛んにする)キ常二國憲(こっけん=国の憲法)ヲ重(おも)ンシ國法(こくほう=国の法律命令)ニ遵(したが)ヒ一旦(いったん=一朝、ひとたび)緩急(かんきゅう=事変)アレハ義勇公ニ奉(ぎゆうこうにほう=正しき道につくすべき勇気を持って君国の為につくす)シ以テ天壌無窮(てんじょうむきゅう=天地とともにきわまりないこと)ノ皇運(こううん=皇室のご運)ヲ扶翼(ふよく=たすける)スヘシ是(かく)ノ如(ごと)キハ獨(ひと)り朕(ちん)力忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾(なんじ)祖先ノ遺風(いふう)ヲ顕彰(けんしょう)スルニ足ラン
斯(こ)ノ道ハ實二我力皇祖皇宗ノ遺訓(いくん=おのこしなされた教訓)ニシテ子孫臣民ノ倶(とも)ニ遵守(じゅんしゅ=したがい守る)スヘキ所(ところ)之(これ)ヲ古今(ここん=昔と今、いつの世というに同じ)ニ通(つう)シテ謬(あやま=間違いのないこと)ラス之ヲ中外(ちゅうがい)ニ施(ほどこ)シテ悖(もと=不適中で差し支えを生ずることはない)ラス朕(ちん)爾(なんじ)臣民卜倶(とも)ニ拳拳(けんけん=捧げ持つかたち)服膺(ふくよう=胸につけるにて、つつしみて能く守ること)シテ咸(みな)其(その)徳ヲ一ニセンコト(とくをいつにせんこと=一徳ということにて、純粋なる真心より発したる至善の行い、又常に活動してやまざること)ヲ庶幾(こいねが=のぞむ)
 明治二十三年十月三十日
*リンクします「教育勅語」→国立国会図書館デジタルコレクション
●教育勅語の趣旨を権威づけながら解説した、『勅語衍義』は、その後長らく、文部省検定済みの教科書として、師範学校、中学校の修身教科書として使用されたという。
「勅語衍義. 巻上」 井上哲次郎 著 明24.9(1891年)国立国会図書館デジタルコレクション
●次に、「軍人勅諭」を引用する。1878年(明治11年)に起こった「竹橋事件」。近衛砲兵大隊の兵士が蜂起し、当時仮皇居だった赤坂離宮へ、天皇への直訴を試みた。天皇と政府に忠誠を誓うはずの、近衛兵の反乱は衝撃を与え、山県有朋は、陸軍全兵士に「軍人訓戒」を配布した。そして1882年「軍人勅諭」という形で天皇が陸海軍の軍人に下賜した。
昭和19(1944年)敗戦前年の発刊、「軍人勅諭読本」には、勅諭の前文に下記のように書かれている。
(ふりがな=○○○は、星野による、広辞苑、漢字源等による語意引用と、「九大詔勅謹解」による)
「軍人勅諭」

「軍人勅諭読本」
『・・大東亜戦争がはじまって、我が国は、世界の強国といはれる米・英の二国と、戦ふことになりました。開戦三年余、戦争がだんだんはげしくなり、今や我が国は興亡のわかれ目に立つに至りました。どんなに大きな苦しみを嘗(な)めても、何十年かかっても、この戦争には必ず勝ち抜かなければなりません。これからの我が国民は、一人ものこらず男子も女子も軍人精神を養ひ、それぞれの職場で、勇ましく働くことが必要になって来ました。とりわけやがて陸海軍の軍人となるべき青年や少年は、今から軍人勅諭に仰せ出されてあるたふとい(=とうとい)訓へを心の底に強く刻みつけておかなければなりません。
軍人勅諭は、御文章が長く、そのうちに昔のよみ方の文字や、むつかしい語句も多いので、文字や語句のわけをよくおぼえ、たびたびくりかへして奉読(ほうどく=つつしんでよむこと)しなければ、大御心(おおみごころ=天皇の心を)拝することができません。・・・』

下

(7-7)新しく創設された神社、「招魂社」「護国神社」「靖国神社」

(下写真、九段 靖国神社 大村益次郎の銅像1893年建立)(出典:「将軍が撮った明治」徳川慶喜撮影 朝日新聞社1986年刊)
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●ここでは、「靖国神社(やすくにじんじゃ)」について簡単に述べようと思う。今もなお「中国」から閣僚の参拝をめぐって非難を受ける「靖国神社」である。「軍国主義」「A級戦犯」「政教分離」など、いろいろと「靖国問題」としてあるらしい。 
●最初に、用語の意味を書いてみる。このような宗教用語は、用語自体が一つの世界を築いている。だから全体が抽象的で哲学的概念となっていて、自分では理解できないものも多い。悪く言えば、装飾的で非科学的な概念も多いといえよう。
(用語の意味)(広辞苑などから)

●招魂(しょうこん)・・①{儀礼}死者の魂を招きかえすこと。昔、人が死ぬと生きかえらせようとして死者の衣を持って屋根にのぼり、北に向かい3度その名を呼んだ。たまよばい。転じて、死者の霊を招いて祭ること。
●英霊(えいれい)・・①すぐれた人の霊魂。②死者の霊の尊称。特に、戦死者の霊にいう。
(星野注:英霊の文字は、藤田東湖の『和文天祥正気歌(ぶんてんしょう・せいきのうたに・わす)』に由来するという。)

『・・・・ 乃(すなわち)知人(しるひと)雖亡(ほろぶといえども)。英霊(えいれい)未嘗(いまだかって)泯(ほろびず)。長(ながく)在天地間(てんちのかんにありて)。 凜然(りんぜんとして)敍彝倫(いりんをじょするを)・・・・』
●凜然(りんぜん)=②勇ましいさま。りりしいさま。 ●彝倫(いりん)=人として常に守るべき道。

●靖国神社の祭神・・英霊(「祖国を守るために死んだ方々の神霊」をいう。)
●神道における人間の死後・・人間は死後、霊魂は死後の世界へ行き、神となって子孫を見守り、守り神となって永遠にとどまる。そしてさらにお祀りをすることによって、災いを防ぎご加護を得ることができる、とあります。
●祀(まつ)る・・①供物・奏楽などをして神霊を慰め、祈願する。「死者の霊を祀る」②神としてあがめ、一定の場所に鎮め奉(まつ)る。奉祀する。「祖先を祀る」。等
●合祀(ごうし)・・二柱以上の神・霊を一社に合せまつること。また、ある神社の祭神を他の神社に合せまつること。
●分祀(ぶんし)・・分けて祀(まつ)ること。本社と同じ祭神を別の新しい神社に祀ること。
●柱(はしら)・・神・霊または高貴の人を数えるのに用いる語。
●顕彰(けんしょう)・・明らかにあらわれること。明らかにあらわすこと。功績などを世間に知らせ、表彰すること。
●追悼(ついとう)・・死者をしのんで、いたみ悲しむこと。
●慰霊(いれい)・・死者の霊魂をなぐさめること。
●社(やしろ)・・『屋代(やしろ)の意。すなわち神籬(ひもろぎ)を神霊の来臨する屋の代わりとする意。』①神の降下する所。・・等
●神籬(ひもろぎ)・・(前略)後には、室内・庭上に常磐木(ときわぎ=常緑樹、マツ・杉類)を立て、これを神の宿るところとして神籬(ひもろぎ)とよんだ。またツバキ科の常緑小高木を榊(さかき)として神木とした。
●依代・憑代(よりしろ)・・神霊が招き寄せられて乗り移るもの。樹木・岩石・人形などの有体物で、これを神霊の代わりとして祭る。かたしろ

リンクします藤田東湖『和文天祥正気歌』「愛国詩文二千六百年」高須芳次郎 著非凡閣1942年刊国立国会図書館デジタルコレクション
●次に「靖国神社」の基本的な理解のために、わかりやすく書かれたものから引用してみる。
『精神訓話 : 初年兵教育参考資料』佐々木保次郎 編述 兵事雑誌社大正1年刊より
(靖國神社の由来)

「靖國神社について初年兵教育精神訓話」
●靖國神社に就ての講話(一月二十三日)
一 靖國神社の由来 
靖國神社は東京市(とうきょうし)の中央麹町区九段坂上(さかうへ)に祀(まつ)ってある、國家の爲めに名誉の戦死を遂げ一身を抛(なげう)って吾等同胞の為に盡(つく)した陸海軍の勇士の心霊を祭る神社で、毎年(まいねん)五月と十一月の兩度(りょうど)に大祭典(だいさいてん)を行はれ、同時に戦死者の遺族の人々を厚く待遇されて死者の勳功(くんこう)に酬いられるのである。

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リンクします「靖國神社に就ての講話」『 初年兵教育参考資料』佐々木保次郎 編述 兵事雑誌社大正1年刊国立国会図書館デジタルコレクション
●次に、『靖国神社誌』賀茂百樹 編 靖国神社 明44.12(1911年)より「名称」のところを引用してみる。
(靖國神社の名称)

名稱
本神社は初め招魂社と稱せしが草創に際して招魂祠、或は招魂場などとも呼びしことあり。招魂場とは神靈を招ぐ齋場の名にして、招魂社又は招魂祠とは、其招ぎたる神靈を祭祀する祠社の謂なれば自ら区別あるなり。されば本神社には別に招魂場の設ありて神靈を合祀せんとする時は、必ず先づ其神靈を招魂場に招ぎ奉り、而して後、神殿に遷して鎭祭するを例とす。然れども元来招魂社の稱號は、國家多端の際に起りし名にして、在天の神靈を一時招齋するのみなるやに聞えて、萬世不易神靈嚴在の社號としては妥當を失するかの嫌なきにあらず。茲に於てか明治十二年六月四日別格官幣社に列せらるる共に、靖国神社と改稱せられにき。靖國の字は春秋左氏傳に見えたりと雖も其意義は、祭神の偉勳に據りて國家を平和に統治し給ふの義なること、御祭文に「汝命等(いましみことたち)の赤き直き眞心を以て家を忘れ身を擲(なげうつ)て各も各も身死りにし其大き高き勳功に依りて大皇國をば安國と知食すことぞと思ほし召すが故に靖國神社と改め稱へ別格官幣社ご定め奉りて御幣帛奉り齋ひ奉らせ給ひ今より後彌遠永に怠事なく祭給はむとす」と宜らせ給へるが如し。それ我が帝國は古来平和を以て國是とすれば皇祖列聖安國と平らけく天の下を知食さむ事を軫念(しんねん)し給ひ、下民も亦聖旨を奉戴して、平和の爲めに一身を犠牲に供し、死しても猶ほ護國の神となりて、平和を格護せむことを期しつるなり。靖國の稱實に宜なりけり。     

リンクします『靖国神社誌』 賀茂百樹 編 靖国神社 明44.12
国立国会図書館デジタルコレクション
●このようにみてくると、「靖国神社」の異質性がはっきりわかる。
靖国神社は日本古来の「神社」ではない。また個人の信仰と関わる「宗教施設」ではない。
靖国神社は、「国家のために戦死した本人と家族のために、国家として敬意を払い、名誉を与え鎮魂すること」、このことを第一の目的とする「国家施設」であった。また戊辰戦争時の設立当初より、「靖国神社」は官軍(天皇側の軍隊)の戦死者を祀るためのものであった。だから賊軍であった藩の戦死者は祀られてはいない。敵味方双方を慰霊する戦没者慰霊施設ではない。明治時代日本陸軍創始者である大村益次郎の銅像がたっているのもその理由である。上の写真の撮影者が、敗れた徳川幕府最後の将軍徳川慶喜であることは、なんという皮肉なことであろうか。
●日本の敗戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、靖国神社を閉鎖する計画をたてたが、賛否両論がおこり紛糾したと言われる。靖国神社は「国家のために戦死した本人と家族のために、国家として敬意を払い、名誉を与え鎮魂する」ためのものであり、どんな国家においても認められた権利であり義務である、とされ閉鎖を免れた。そして靖国神社は、一般宗教団体として存続を認められたという。
●靖国神社は軍国主義による天皇制を象徴・鼓舞するものであったが、GHQは代わりに国家神道を禁止することにより、信教の自由として、かつ国家の祭事の権利として、靖国神社を存続させることを認めたといえる。
●最後に、戦前の「国家に対する考え方」すなわち「国体」について引用する。現代(2016年)においてもこのような価値観をもつ政治家がいるかもしれないし、いないかもしれない。そこが大事なことである。

「國體の本義」文部省編 昭和12年(1937年)刊 より 一部引用

(ふりがな=○○○は、星野による、広辞苑、漢字源等による語意引用)

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*リンクします「文部省國體の本義」→国立国会図書館デジタルコレクション
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